旧 大 阪 府 庁 舎 略 史 大 阪 府 の 始 まり 慶 応 4 年 (1868)1 月 3 日 幕 府 軍 は 鳥 羽 伏 見 の 戦 で 朝 廷 軍 に 敗 北 し 徳 川 慶 喜 将 軍 が 同 月 6 日 大 坂 城 を 脱 出 したことにより 大 阪 は 奉 行 所 等 の 権 力 組 織 が 解 体 し 無 政 府 状 態 となった 朝 廷 側 は 長 州 藩 や 薩 摩 藩 兵 を 進 駐 させて 治 安 回 復 に 当 たらせるとともに 同 月 22 日 大 阪 鎮 台 という 軍 政 機 関 を 置 き 大 阪 堺 周 辺 の 幕 府 領 を 収 用 した これが 今 の 大 阪 府 の 起 源 となる 大 阪 鎮 台 は 同 月 27 日 に 大 阪 裁 判 所 と 改 称 して2 月 2 日 に 旧 西 町 奉 行 所 に 庁 舎 を 置 き さらに5 月 2 日 に 大 阪 府 と 改 めた 従 ってこの 旧 西 町 奉 行 所 建 物 が 初 代 の 大 阪 府 庁 舎 ということになる 大 阪 府 の 機 構 管 轄 地 域 等 はその 後 目 まぐるしく 変 わるが 大 阪 府 の 名 称 はこのとき 以 来 変 わるこ となく 今 日 に 至 っている 大 阪 府 庁 舎 の 新 築 大 阪 府 は 明 治 5 年 になって 庁 舎 新 築 の 議 を 決 して 川 口 居 留 地 の 向 かい 側 に 位 置 する 江 之 子 島 の 地 に 庁 舎 新 築 工 事 を 着 手 し 明 治 7 年 (1874)7 月 に 竣 工 同 月 19 日 に 開 庁 式 を 挙 行 した ( 註 この 府 庁 舎 建 物 は 煉 瓦 造 り 二 階 建 で 建 坪 416.37 坪 延 坪 830 坪 1) の 規 模 である 外 装 は 石 灰 モ 1 図 歴 代 大 阪 府 庁 舎 等 位 置 図 1
ルタル 塗 り ( 註 2) 正 面 玄 関 には 三 角 の 破 風 を 支 えるよ うに 四 本 の 円 柱 を 立 ててポーチを 構 え 屋 上 中 央 には ドームを 置 くものである 正 面 の 破 風 とドームには 金 色 に 輝 く 菊 花 の 御 紋 章 が 据 え 付 けられた 建 物 の 平 面 形 は 正 面 幅 200 尺 (60.6m) 側 面 幅 80 尺 (24.2m) の 長 方 形 を 成 し 両 ウィング( 翼 )が 前 後 に 突 出 する 高 さについては 根 石 が9 尺 (2.7m) 煉 瓦 壁 48 尺 ( 14.5 m) ドーム 100 尺 (30.3m)とされる 内 部 は 中 央 に 円 形 ホールが 吹 き 抜 けとなり 奥 には 大 階 段 を 設 置 し 桁 行 き 方 向 に 中 廊 下 を 通 して 左 右 に 部 屋 を 置 く 総 工 費 は5 万 0369 円 うち 官 費 が 1 万 6789 円 民 費 が 3 万 3579 円 で 一 公 二 民 の 割 合 で 民 間 に 負 担 させている この 府 庁 舎 が 西 向 きに 建 てられたことについて 市 内 に 背 を 向 けるのかという 批 判 を 浴 びたが 当 時 の 大 阪 府 知 事 である 渡 辺 昇 は 大 阪 の 発 展 は 西 方 にあり 2 図 旧 大 阪 府 庁 の 位 置 図 大 阪 湾 から 広 く 海 外 に 雄 飛 せねばならない とかわし た という 逸 話 が 残 されている ( 註 3) 府 庁 舎 の 設 計 はキンドルともウォートルスとも 伝 えられる ( 註 4) キンドルについては 当 初 彼 に 設 計 を 依 頼 したが 報 酬 が 高 すぎるので 解 約 し 図 面 だけ 写 し 取 って 日 本 人 だけで 建 築 したというエピソード がある ( 註 5) これは 伝 聞 情 報 であるが 府 庁 舎 建 物 の 細 部 に 問 題 があることの 理 由 付 けにこの 話 を 持 っ てくる 見 解 がある ( 註 6) これについては 日 本 が 西 洋 建 築 を 受 容 するには 未 熟 な 時 代 であったことを 示 すものとして 受 け 取 っておきたい 府 庁 舎 は 煉 瓦 造 りにもかかわらず 外 壁 は 石 灰 モルタル 塗 りで 一 見 石 造 建 築 の 様 相 を 呈 する これは 明 治 時 代 半 ばまでは 石 造 建 築 が 格 式 の 高 いもので 煉 瓦 を 外 壁 に 見 せるのは 倉 庫 などの 付 属 建 物 だと する 考 えがあったからだと 思 われる ( 註 7) 正 面 図 二 階 平 面 図 正 面 図 3 図 旧 大 阪 府 庁 舎 計 画 図 一 階 平 面 図 2
正 面 玄 関 の 四 本 柱 府 庁 舎 は 正 面 玄 関 に 四 本 の 円 柱 を 並 べているのが 目 立 つ 特 徴 となっている 円 柱 はエンタシスではな く 下 から 上 まで 同 円 径 という ( 註 8) 柱 頭 にはコリ ント 風 の 装 飾 が 付 加 される この 円 柱 は 元 来 池 田 市 神 田 に 所 在 する 神 社 にあった 神 木 で 樹 種 はケヤキ とされる 明 治 6 年 4 月 に 伐 木 し 府 庁 舎 建 築 に 供 された ( 註 9) この 神 社 は 現 在 の 八 坂 神 社 と 思 われる ここは 早 苗 の 森 とも 呼 ばれる 神 社 で かつては 広 大 なケヤキの 森 があった なお 註 8の 資 料 ではこの 円 柱 を 石 柱 とするが これは 木 柱 を 塗 布 して 石 柱 風 に 仕 上 げたからだと 思 われる 4 図 旧 大 阪 府 庁 府 庁 舎 建 築 に 使 用 された 煉 瓦 府 庁 舎 は 煉 瓦 造 りであるから 建 築 の 際 には 大 量 の 煉 瓦 が 使 用 された それではこの 時 の 煉 瓦 は い ったいどこから 供 給 されたのであろうか この 旧 府 庁 舎 が 所 在 した 場 所 で 平 成 18 年 (2006) 5 図 南 から 旧 大 阪 府 庁 と 川 口 居 留 地 を 望 む に 実 施 された 緊 急 調 査 において 旧 府 庁 舎 建 物 の 煉 瓦 基 礎 が 検 出 された その 際 に 煉 瓦 基 礎 のうち 下 から8 段 目 の 位 置 で 阪 府 授 産 所 と 小 口 に 刻 印 された 煉 瓦 が 発 見 されたのである ( 註 10) 授 産 所 とは 明 治 5 年 (1872)に 設 置 された 大 阪 府 の 官 営 授 ( 註 産 所 であり そのなかでも 難 波 新 地 6 番 町 に 置 かれた 出 張 授 産 所 11) は 明 治 5 年 8 月 から 翌 6 年 8 月 にかけての1 年 間 存 続 し そこで 煉 瓦 の 製 造 が 行 なわれた ( 註 12) 府 庁 舎 の 竣 工 は 明 治 7 年 であるので 府 庁 舎 建 設 の 煉 瓦 供 給 元 の 一 つがこの 出 張 授 産 所 であることが 確 実 となった ( 註 13) また 明 治 時 代 より 煉 瓦 製 造 会 社 として 有 名 な 岸 和 田 煉 瓦 ( 株 )は そ の 経 歴 の 記 録 が 公 開 されている ( 註 14) それによれば 創 業 者 の 山 岡 尹 方 が 士 族 授 産 のために 明 治 5 年 (1872)に 岸 和 田 藩 練 兵 場 跡 に 丸 窯 三 基 を 据 えて 煉 瓦 製 造 を 始 めたことが 事 業 の 端 緒 となっており そしてこ の 時 に 製 造 された 煉 瓦 の 供 給 先 として 造 幣 局 砲 兵 工 廠 とともに 大 阪 府 庁 が 挙 げられているのである どのような 煉 瓦 であったか 不 明 である が 府 庁 舎 の 煉 瓦 供 給 元 の 一 つであったことは 確 かであろう 以 上 のように 大 阪 府 庁 舎 建 築 に 使 用 された 煉 瓦 の 供 給 元 として 資 料 的 に 確 実 なものは 難 波 新 地 に 置 かれた 出 張 授 産 所 と 岸 和 田 で 山 岡 尹 方 が 築 いた 丸 窯 の 二 ヶ 所 を 挙 げることができる 他 に 後 世 の 伝 聞 資 料 として 建 築 の 煉 瓦 は 造 幣 局 の 残 品 や 堺 大 浜 で 焼 かせたといい と 記 すものがある ( 註 15) 6 図 授 産 所 刻 印 煉 瓦 3
開 庁 時 の 部 屋 割 府 庁 舎 内 は 一 二 階 とも 桁 行 き 方 向 に 中 廊 下 を 通 して その 左 右 に 部 屋 を 配 する 構 造 である 開 庁 時 の 部 屋 の 配 置 について 部 屋 割 図 が 残 されて いる ( 註 16) これは 府 庁 を 参 観 した 府 民 の 記 録 である これ によれば 一 階 には 受 付 所 申 達 所 郡 区 長 等 の 応 接 機 能 を 持 つ 部 屋 が 配 され 二 階 には 出 7 図 旧 大 阪 府 庁 一 階 の 部 屋 割 り 概 要 図 納 学 務 租 税 警 察 戸 籍 諸 務 課 外 国 人 扣 課 土 木 課 といった 執 務 機 能 を 持 つ 部 屋 が 配 されている 当 時 の 大 阪 府 の 職 制 については 明 治 6 年 12 月 の 事 務 章 程 改 正 により 次 の 九 課 が 定 められた ( 註 17) 庶 務 外 務 市 務 郡 務 学 務 戸 籍 土 木 取 締 出 納 各 課 には 支 課 ( 掛 ) が 設 けられる これらの 各 課 あるいはそれに 伴 う 支 課 ( 掛 )は 上 記 の 部 屋 割 図 に 対 応 するものと 思 われる ところで 図 では 建 物 内 にトイレが 見 当 たらない 恐 らくは 屋 外 に 設 置 されたものであろう また 一 階 の 受 付 所 が 西 側 の 表 玄 関 側 でなく 東 の 出 入 り 口 側 にある これについては 一 般 町 民 は 正 ( 註 面 玄 関 は 恐 れ 多 いといって 東 の 裏 口 から 出 入 りした という 話 18) を 参 考 にしておきたい 大 阪 府 の 管 轄 地 域 江 之 子 島 の 大 阪 府 庁 舎 は 明 治 7 年 7 月 に 開 庁 したが その 時 点 での 大 阪 府 の 管 轄 範 囲 は 大 阪 市 街 地 と 摂 津 七 郡 ( 住 吉 東 成 西 成 島 上 島 下 豊 島 能 勢 )であり 旧 河 内 和 泉 国 の 地 域 は 大 阪 府 では なく 堺 県 の 管 轄 であった 堺 県 は 明 治 9 年 に 奈 良 県 を 編 入 し そして 明 治 14 年 になって 大 阪 府 がこの 堺 県 を 編 入 した さらに 明 治 20 年 に 大 阪 府 から 奈 良 県 が 分 離 した この 時 に 大 阪 府 は 現 在 の 大 阪 府 とほぼ 同 一 の 管 轄 範 囲 となったのである このように 大 阪 府 はその 初 期 には 管 轄 区 域 を 目 まぐるしく 変 えていった 地 方 行 政 組 織 だったのである 江 之 子 島 の 府 庁 舎 が 完 成 して 以 来 大 阪 市 民 はこれを 政 府 と 呼 んだ 世 間 の 俗 称 とはいえ 地 方 行 政 庁 舎 を 政 府 と 呼 ぶ 例 は 他 にはない ( 註 19) 日 本 赤 十 字 社 大 阪 支 部 の 社 屋 日 本 赤 十 字 社 大 阪 支 部 は 明 治 20 年 に 設 立 され 事 務 所 を 大 阪 府 庁 舎 内 に 置 いた そして 以 降 支 部 長 に 大 阪 府 知 事 が 代 々 就 任 し 医 療 救 援 救 護 活 動 を 行 なった 大 阪 支 部 の 事 業 報 告 書 によれば 明 治 31 年 (1898)8 月 に 大 阪 府 庁 構 内 西 北 隅 に 支 部 社 屋 ( 洋 風 木 造 二 階 建 )を 新 築 し 移 転 し た ( 註 20) という 8 図 旧 大 阪 府 庁 ( 絵 葉 書 ) 手 前 の 建 物 が 赤 十 字 社 4
明 治 あるいは 大 正 時 代 の 旧 大 阪 府 庁 舎 の 写 真 を 見 ると その 北 側 に 寄 棟 木 造 二 階 建 の 建 物 が 建 ってい る この 場 所 は 大 阪 府 庁 構 内 の 西 北 隅 に 当 たる 部 分 で 位 置 が 上 述 の 赤 十 字 社 大 阪 支 部 の 建 物 に 関 する 記 録 と 一 致 するだけでなく 建 物 の 形 状 の 記 録 も 写 真 資 料 と 矛 盾 しない 従 ってこれが 同 支 部 の 建 物 で あることは 確 実 である そして 大 正 5 年 (1916)3 月 府 庁 舎 増 築 工 事 に 伴 い 同 支 部 社 屋 は 府 庁 構 内 東 北 隅 に 煉 瓦 造 り 二 階 建 を 新 築 して 移 転 した しかし 大 正 15 年 (1926)に 大 阪 府 庁 が 大 手 前 に 移 転 したのに 伴 い 同 支 部 も 移 転 して 新 府 庁 舎 内 に 事 務 所 を 置 き そして 昭 和 4 年 (1929)に 新 府 庁 近 くの 現 在 地 に 社 屋 を 新 築 した ( 註 21) 府 庁 舎 の 増 築 明 治 の 初 めに 建 てられた 府 庁 舎 はその 後 手 狭 になっていったため 大 正 時 代 に 入 って 増 築 することに なった 工 事 は 大 正 3 年 (1914)に 始 まり 同 5 年 (1916)に 竣 工 した 増 築 工 事 は 既 存 の 左 右 両 ウィング( 南 北 翼 ) 部 分 を 取 り 壊 して 新 たに 大 きな 左 右 ウィングを 木 造 で 建 築 するもので 併 せて 中 央 部 分 は 間 仕 切 りを 変 更 するなどの 内 部 改 造 を 行 なっている しかし 正 面 玄 関 やドーム 中 央 ホール 等 は 手 を 加 えることなく 以 前 のままを 残 した 当 時 はこの 増 築 工 事 を 継 ぎ 普 請 と 言 った ( 註 22) 2006 年 に 発 見 されて 緊 急 調 査 された 煉 瓦 構 造 物 は この 時 に 増 築 された 右 ウィング( 南 翼 )の 建 物 基 礎 である ( 註 23) これはG.L.-1.2mにおいて 幅 0.5~0.7m 高 さ 1.0~1.3m 検 出 長 7.0mの 規 模 で 検 出 した 煉 瓦 壁 体 で モルタルを 目 地 にして 煉 瓦 をイギリス 積 で 構 築 している 床 面 および 壁 体 外 面 に 防 水 のためのアスファルトが 塗 布 されていることから このウィング 部 分 の 建 物 には 地 下 室 があったも のと 判 明 した 増 築 された 両 ウィングは 木 造 であるので その 基 礎 が 煉 瓦 壁 体 であり 地 階 を 設 けたこ とが 確 認 されたのである 両 ウィングの 建 物 基 礎 に 使 用 された 煉 瓦 を 観 察 すると 最 下 段 か 三 段 目 までは 明 治 中 期 以 降 に 出 現 す るとされる 赤 褐 色 煉 瓦 が 使 用 され そして 四 段 目 以 上 では 明 治 初 期 に 製 作 されたとされる 黄 色 味 を 帯 び た 煉 瓦 が 使 用 されたことが 明 らかとなった 府 庁 舎 新 築 の 竣 工 が 明 治 7 年 (1874) 増 築 工 事 の 竣 工 が 大 正 5 年 (1916)であることを 勘 案 すれば 黄 色 味 の 煉 瓦 は 明 治 の 新 築 当 時 のものであり 赤 褐 色 煉 瓦 は 大 正 の 増 築 の 際 に 新 たに 購 入 されたものと 9 図 旧 大 阪 府 庁 ( 増 築 後 ) 10 図 旧 大 阪 府 庁 ( 増 築 後 ) 絵 葉 書 5
考 えられる これはさらに 増 築 工 事 において 左 右 両 ウィング 部 分 を 撤 去 する 際 に それまで 使 用 され ていた 煉 瓦 を 取 り 出 して 新 たに 増 築 する 両 ウィング 建 物 の 基 礎 として 再 利 用 しようしたが その 時 に 不 足 する 煉 瓦 を 購 入 したため 古 い 煉 瓦 と 新 しい 煉 瓦 が 混 用 されたものと 推 定 できるものである 大 正 時 代 の 増 築 建 物 の 基 礎 は 煉 瓦 壁 体 で 煉 瓦 の 目 地 はモルタルセメントで 施 工 した この 増 築 工 事 を 担 当 した 葛 野 壮 一 郎 技 師 は 既 設 の 旧 府 庁 舎 建 物 の 基 礎 と 煉 瓦 積 みを 調 べたところ 明 治 時 代 初 めの 旧 庁 舎 の 基 礎 は 厚 さ 3 尺 ( 約 90cm)の 石 灰 コンクリートの 上 に 切 石 および 煉 瓦 を 積 み 上 げており 煉 瓦 の 目 地 は 石 灰 モルタルを 使 用 して 入 念 に 積 んでいたと 記 している ( 註 24) ( 註 25) 以 上 により 大 正 5 年 の 増 築 後 の 府 庁 舎 は 中 央 部 分 が 石 灰 コンクリートの 布 基 礎 上 に 石 灰 モル タルを 目 地 として 積 み 上 げた 当 初 のままの 煉 瓦 造 り 二 階 建 で 両 ウィングはモルタルセメントを 目 地 と する 煉 瓦 壁 体 の 基 礎 の 上 に 木 造 で 新 たに 建 設 された 地 階 付 き 二 階 建 であることが 明 らかとなった 新 府 庁 舎 の 建 設 と 移 転 府 庁 舎 は 増 築 したものの それでも 狭 隘 不 便 なため 大 正 10 年 (1921) 大 手 前 の 地 に 新 庁 舎 建 設 が 議 決 され 大 正 12 年 (1923) 新 築 工 事 着 手 同 15 年 (1926)に 竣 工 し 移 転 した これが 現 在 の 大 阪 府 庁 舎 である 旧 西 町 奉 行 所 建 物 から 数 えると 三 代 目 の 府 庁 舎 となる 江 之 子 島 の 旧 庁 舎 建 物 および 敷 地 については 民 間 に 払 い 下 げて 新 庁 舎 建 築 費 に 充 当 することに 決 し ていたが 西 区 会 等 の 地 元 行 政 組 織 や 大 阪 商 工 会 議 所 大 阪 実 業 協 会 等 の 団 体 が 民 間 払 い 下 げ 反 対 運 動 を 起 こし 産 業 博 物 館 や 公 園 の 設 置 を 陳 情 した ( 註 26) その 結 果 陳 情 通 りにはならなかったが 旧 大 阪 府 庁 舎 は 改 装 して 昭 和 4 年 (1929)に 大 阪 府 工 業 奨 励 館 として 再 出 発 することとなった ( 註 27) 奨 励 館 は 工 業 技 術 に 関 する 指 導 試 験 検 定 調 査 研 究 講 演 講 習 技 術 者 養 成 等 々を 行 ない 大 阪 の 工 業 発 展 に 寄 与 した しかしこのように 保 存 された 旧 府 庁 舎 建 物 であったが 昭 和 20 年 (1945)の 大 阪 空 襲 により 焼 失 し てしまった 大 阪 でも 最 古 の 洋 風 建 築 の 一 つとされた 旧 大 阪 府 庁 舎 の 歴 史 は この 時 に 70 年 の 歳 月 を 経 て 閉 じたのである 11 図 旧 大 阪 府 庁 構 内 建 物 配 置 図 ( 大 正 5 年 以 降 ) 6
( 註 ) 1) 石 田 潤 一 郎 都 道 府 県 庁 舎 その 建 築 史 的 考 察 ( 思 文 閣 出 版 1993 年 2 月 )71 頁 による 数 字 であるが 西 区 史 ( 昭 和 18 年 9 月 )430 頁 では 建 坪 624 坪 1 合 1 勺 とある 大 阪 府 警 察 史 第 1 巻 ( 昭 和 45 年 11 月 )184 頁 では 後 者 の 数 字 を 採 用 している 2) 加 藤 政 一 江 の 子 島 府 庁 について ( 大 阪 府 史 編 集 資 料 室 大 阪 百 年 史 紀 要 1 昭 和 40 年 10 月 所 収 )で は 外 装 はすべて 石 灰 モルタル 塗 り (48 頁 )という 記 述 によるが 都 道 府 県 庁 舎 その 建 築 史 的 考 察 ( 註 1)では 壁 面 の 仕 上 げは 石 張 り (71 頁 )とする なお 参 考 までに3 年 前 の 明 治 4 年 に 建 築 された 造 幣 局 泉 布 観 は 同 じく 煉 瓦 造 りであるが 仕 上 げは 漆 喰 塗 りである 3) 江 の 子 島 府 庁 について ( 註 2)に 次 のように 記 されている 市 内 に 尻 をむけてケシカラン といったが 知 事 は 大 阪 の 発 展 は 西 方 にあり 大 阪 湾 から 広 く 海 外 に 雄 飛 せねばならん といって 川 向 こうの 外 人 居 留 地 をニランだ その 意 気 まことに 壮 大 で す (48 頁 ) 4) 都 道 府 県 庁 舎 その 建 築 史 的 考 察 ( 註 1)では 次 のように 論 じられている この キンデル あるいは キンデルソン なる 人 物 から 直 ちに 想 起 されるのは 造 幣 寮 首 長 キン ドルと 造 幣 寮 の 主 要 建 築 を 設 計 したウォートルスである 葛 野 の 文 章 からすぐに 念 頭 に 浮 かぶのは ウォートルスであり 彼 の 手 になる 紙 幣 寮 ( 明 治 7 年 )との 類 似 も 興 味 を 引 くところである しかし ながら ウォートルスは 明 治 2 年 11 月 には 大 阪 を 離 れており 5 年 ごろは 銀 座 煉 瓦 街 建 設 等 で 忙 殺 されていたことを 考 えると キンドルが 設 計 者 であった 可 能 性 も 捨 てがたい ここでは 木 村 寿 夫 氏 の 推 測 に 従 い キンドルが 府 より 依 頼 され キンドルはさらにウォートルスに 依 頼 した としておきた い (76 頁 ) 5) 葛 野 壮 一 郎 旧 府 庁 舎 の 建 築 ( 建 築 と 社 会 ⅩⅣ 昭 和 5 年 所 収 )に 次 のように 記 されている 自 分 の 府 在 職 当 時 大 阪 の 事 情 に 通 じた 議 員 などの 話 にきくと キンデルソンに 設 計 は 依 頼 したが 報 酬 が 高 すぎるので そっと 図 面 だけを 写 しとって 外 人 の 方 はお 流 れとし 日 本 人 の 手 で 全 部 やって 了 ったのだと 言 ふ 事 であった 其 頃 政 府 人 のやりさうな 随 分 とずるいやり 方 で 有 る 棟 梁 は 堂 島 辺 の 人 であったさうであるが 成 る 程 左 様 聞 けば 左 様 かと 思 われる 節 がないではない (290 頁 ) 6) 大 正 5 年 6 月 1 日 付 け 大 阪 毎 日 新 聞 新 旧 調 和 に 苦 心 大 阪 府 庁 増 築 ( 大 正 ニュース 事 典 第 二 巻 164 頁 所 収 )に 次 のような 葛 野 壮 一 郎 の 談 話 を 載 せている キンデルという 人 に 作 って 貰 った 設 計 図 によって 洋 風 建 築 の 事 など 何 も 知 らぬ 役 人 が 何 も 知 ら ぬ 大 工 を 使 って 無 理 ヤリに 建 て 上 げた 結 果 妙 な 変 態 型 が 出 来 上 がって 居 る 石 田 潤 一 郎 は 葛 野 を 引 用 しながら 次 のように 論 じる 平 面 計 画 における 完 成 度 と 細 部 装 飾 の 奇 妙 さとのギャップを 見 ると 葛 野 が 述 べるような 事 情 はよ く 納 得 できる ( 都 道 府 県 庁 舎 その 建 築 史 的 考 察 ( 註 1)の 76 頁 ) 立 面 の 骨 格 平 面 構 成 ともに 時 代 の 水 準 をはるかに 超 えるまとまりを 有 するが オーダーの 柱 頭 な ど 細 部 装 飾 では 破 綻 が 目 立 つ こうした 事 態 が 起 こったのは 設 計 経 緯 に 国 辱 的 な 問 題 があったから である ( 中 央 公 論 美 術 出 版 関 西 の 近 代 建 築 ウォートルスから 村 野 藤 吾 まで 平 成 8 年 11 月 6 頁 ) 7) 酒 井 一 光 まちの 色 彩 を 変 えた 建 築 材 料 ( 大 阪 歴 史 博 物 館 煉 瓦 のまち タイルのまち 平 成 18 年 10 月 )に 次 のように 論 じられている 7
明 治 初 期 から 中 期 にかけて 公 共 建 築 や 都 市 の 顔 となる 建 築 が 目 指 したものは 煉 瓦 造 りではなく 石 造 建 築 であった それは 当 時 石 造 建 築 がもっとも 格 式 が 高 いとされ 煉 瓦 を 外 壁 に 使 うのは 倉 庫 や 工 場 など 付 属 的 な 建 物 であると 考 えられていたからである 泉 布 観 は 煉 瓦 造 りでありながら 壁 を 白 漆 喰 で 塗 ったのは 建 物 を 石 造 風 に 見 せるためであろう (8 頁 ) 8) 新 旧 調 和 に 苦 心 大 阪 府 庁 増 築 ( 註 6)に 次 のように 記 されている 旧 館 の 玄 関 にある 石 柱 は 上 から 下 まで 真 直 ぐな 棒 になっている( 高 いため 上 の 方 は 細 く 見 えるが 実 は 同 円 径 ) 9) 大 阪 府 警 察 史 第 1 巻 ( 註 1)185 頁 に 次 のような 資 料 が 引 用 されている 府 庁 中 正 面 四 つの 木 柱 立 つ 此 良 材 は 管 下 神 田 村 社 地 境 内 に 生 立 する 槻 にて 枝 葉 盛 ること 歳 久 し 其 高 さ 第 一 枝 まで 四 拾 七 尺 末 口 直 径 五 尺 三 寸 元 同 六 尺 三 寸 該 地 の 村 民 神 木 と 呼 然 るに 府 庁 建 築 用 材 の ため 官 の 威 儀 を 以 明 治 六 年 四 月 伐 木 之 す 10) 大 阪 府 教 育 委 員 会 文 化 財 調 査 事 務 所 年 報 11 ( 2007 年 11 月 )30 頁 および 酒 井 一 光 大 阪 における 煉 瓦 製 造 と 研 究 の 課 題 ( 考 古 学 ジャーナル 569 2008 年 3 月 号 )13 頁 11) 大 阪 府 は 清 水 谷 にあった 大 貧 院 を 明 治 5 年 1 月 に 授 産 所 と 改 称 し さらに 同 年 8 月 出 張 授 産 所 を 難 波 新 地 6 番 町 に 設 けた 明 治 初 めに 大 阪 府 が 開 設 した 授 産 所 は 以 上 の2ヶ 所 である なお 難 波 新 地 6 番 町 は 現 在 の 高 島 屋 百 貨 店 やスイス 南 海 ホテルのある 一 角 に 該 当 する 12) 明 治 大 正 大 阪 市 史 第 4 巻 ( 大 阪 市 役 所 昭 和 8 年 5 月 )654~655 頁 および 同 第 5 巻 ( 同 所 同 年 )723 頁 に 下 記 の 記 述 がある 出 張 授 産 所 なるものが 設 けられ 専 ら 煉 化 石 及 粗 製 陶 器 等 の 製 造 につき 教 授 し 入 場 者 には 相 当 の 賃 銭 を 与 えてその 仕 事 に 従 事 せしめておった 13)なお 出 張 授 産 所 は 明 治 6 年 8 月 に 第 二 勧 業 場 と 改 称 されたが 煉 瓦 製 造 は 継 続 した この 勧 業 場 の 煉 瓦 も 府 庁 舎 に 供 給 された 可 能 性 を 考 えることができる 14) 水 野 信 太 郎 日 本 煉 瓦 史 の 研 究 ( 法 政 大 学 出 版 局 1999)79 頁 に 岸 和 田 煉 瓦 株 式 会 社 経 歴 資 料 が 掲 載 されている そのなかで 次 のように 記 されている 旧 岸 和 田 藩 士 山 岡 尹 方 ( 現 今 岸 和 田 煉 瓦 会 社 社 長 )ナルモノ 同 藩 練 兵 場 跡 ( 現 岸 和 田 煉 瓦 会 社 工 場 ) ニ 於 テ 丸 窯 三 基 ヲ 築 キ 専 ラ 無 職 業 ノ 士 卒 ヲ 募 リ 煉 瓦 製 造 ス 是 泉 南 郡 内 煉 瓦 製 造 ノ 嚆 矢 ニシテ 実 ニ 明 治 五 年 九 月 ナリ 今 其 製 出 高 ヲ 算 ヘ 難 シト 雖 モ 大 阪 府 庁 舎 又 ハ 造 幣 局 及 砲 兵 工 廠 等 新 築 ノ 用 ニ 供 ヘタリ 15) 加 藤 政 一 江 之 子 島 府 庁 について ( 大 阪 百 年 史 紀 要 1 昭 和 40 年 10 月 所 収 ) 16) 大 阪 府 警 察 史 第 1 巻 ( 註 1)185 頁 および 都 道 府 県 庁 舎 その 建 築 史 的 考 察 ( 註 1)74 頁 17) 大 阪 百 年 史 紀 要 1 ( 註 2)33 頁 18) 加 藤 政 一 江 之 子 島 政 府 と 大 阪 市 役 所 ( 大 阪 春 秋 20 号 昭 和 54 年 5 月 )に 次 のように 記 されてい る 一 般 町 民 は 正 面 玄 関 は 恐 れ 多 いといって 東 の 裏 口 から 入 りました 地 下 に 人 民 控 所 があっ て 下 駄 や 傘 を 預 け ぞうりに 履 きかえた ヒゲをはやした 官 員 さんが 袴 姿 で いすに 腰 かけ 机 の 上 の 帳 面 に チビた 筆 で 書 いていました (99 頁 ) なおこの 資 料 では 地 下 があることになっているが 府 庁 舎 の 計 画 図 (3 図 ) 一 階 平 面 図 には 地 下 に 降 りる 階 段 が 見 当 たらないので この 点 に 関 しては 疑 問 である 8
19) 旧 府 庁 舎 の 建 築 ( 註 5)289 頁 に 次 のように 記 されている 大 阪 の 人 はつい 先 頃 まで 府 庁 舎 と 呼 ばずに 政 府 と 呼 んで 居 った 是 れは 頗 る 面 白 い 事 実 で 府 県 庁 舎 を 政 府 と 呼 びならされた 例 は 恐 らくは 他 にないと 信 じる 20) 日 本 赤 十 字 社 大 阪 支 部 平 成 18 年 度 事 業 報 告 書 の 付 録 支 部 年 表 (88 頁 ) なお 事 業 報 告 書 は 毎 年 度 発 行 されており 支 部 年 表 はほとんど 同 じ 内 容 で 付 録 として 掲 載 されている 21) 平 成 18 年 度 事 業 報 告 書 ( 註 20)の 支 部 年 表 による 22) 新 旧 調 和 に 苦 心 大 阪 府 庁 増 築 ( 註 6)による 23) 大 阪 府 教 育 委 員 会 文 化 財 調 査 事 務 所 年 報 11 ( 註 10)21 頁 24) 旧 府 庁 舎 の 建 築 ( 註 5)290 291 頁 に 次 のように 記 されている 旧 府 庁 舎 は 全 部 煉 瓦 造 で 有 る 堺 辺 で 焼 いたものであらう 取 りこはしの 際 にしらべて 見 たが 焼 きも 相 当 な 煉 瓦 がつかって 有 った セメントの 我 国 で 初 めて 造 られたのは 明 治 四 年 であるが 未 だ 府 庁 舎 新 築 頃 には 間 に 合 わなかったか 全 部 石 灰 モルタルで 入 念 に 積 まれて 居 る 増 築 の 際 しらべて 見 たが 亀 裂 らしい 箇 所 も 見 当 たらなかった 基 礎 も 入 念 に 出 来 て 居 る 厚 三 尺 ばかりの 石 灰 コンク リートの 上 に 御 影 の 尺 角 程 の 切 石 並 べて 其 上 に 煉 瓦 の 根 積 が 有 ったように 記 憶 する 25) 大 阪 府 教 育 委 員 会 文 化 財 調 査 事 務 所 年 報 11 ( 註 10)21 頁 このなかのC 区 で 往 時 の 石 灰 コンクリー ト 布 基 礎 が 検 出 された 26) 西 区 史 ( 註 1)430 431 頁 27) 西 区 史 ( 註 1)433 頁 に 次 のように 記 されている 本 館 は 昭 和 4 年 4 月 約 50 万 円 の 予 算 を 以 て 旧 大 阪 府 庁 舎 を 改 装 して 開 館 したものにて 大 阪 最 古 の 西 洋 建 築 物 にして 殊 に 昭 和 4 年 6 月 6 日 には 侍 従 御 差 遣 の 栄 誉 を 忝 ふし 参 考 文 献 一 覧 大 阪 府 警 察 史 第 1 巻 ( 昭 和 45 年 11 月 ) 明 治 大 正 大 阪 市 史 第 4 巻 同 第 5 巻 ( 昭 和 8 年 5 月 ) 大 阪 市 史 付 図 ( 明 治 45 年 5 月 ) 大 阪 百 年 史 ( 昭 和 43 年 6 月 ) 大 阪 百 年 史 紀 要 1 ( 大 阪 府 史 編 集 資 料 室 昭 和 40 年 10 月 ) 大 阪 府 全 志 巻 之 二 同 付 図 ( 井 上 正 雄 大 正 11 年 11 月 ) 大 阪 府 教 育 委 員 会 文 化 財 調 査 事 務 所 年 報 11 ( 2007 年 11 月 ) 西 区 史 ( 昭 和 18 年 9 月 ) 南 区 志 ( 昭 和 3 年 12 月 ) 大 阪 の 歴 史 第 20 巻 ( 大 阪 市 史 編 纂 所 1987 年 1 月 ) 石 田 潤 一 郎 都 道 府 県 庁 舎 その 建 築 史 的 考 察 ( 思 文 閣 出 版 1993 年 2 月 ) 石 田 潤 一 郎 関 西 の 近 代 建 築 ウォートルスから 村 野 藤 吾 まで ( 中 央 公 論 美 術 出 版 平 成 8 年 11 月 ) 加 藤 政 一 江 之 子 島 政 府 と 大 阪 市 役 所 ( 大 阪 春 秋 20 号 昭 和 54 年 5 月 ) 加 藤 政 一 江 之 子 島 府 庁 について ( 大 阪 百 年 史 紀 要 1 昭 和 40 年 10 月 所 収 ) 葛 野 壮 一 郎 旧 府 庁 舎 の 建 築 ( 建 築 と 社 会 ⅩⅣ 昭 和 5 年 ) 酒 井 一 光 まちの 色 彩 を 変 えた 建 築 材 料 ( 大 阪 歴 史 博 物 館 煉 瓦 のまち タイルのまち 平 成 18 年 10 月 ) 9
酒 井 一 光 大 阪 における 煉 瓦 製 造 と 研 究 の 課 題 ( 考 古 学 ジャーナル 569 2008 年 3 月 号 ) 水 野 信 太 郎 日 本 煉 瓦 史 の 研 究 ( 法 政 大 学 出 版 局 1999) 田 村 利 久 新 大 阪 府 庁 完 成 五 十 年 前 の 近 代 建 築 美 を 誇 る ( 大 阪 春 秋 7 号 ( 昭 和 51 年 1 月 ) 堀 田 暁 生 西 口 忠 共 編 大 阪 川 口 居 留 地 の 研 究 ( 思 文 閣 出 版 1955 年 2 月 ) 大 阪 毎 日 新 聞 新 旧 調 和 に 苦 心 大 阪 府 庁 増 築 ( 大 正 5 年 6 月 1 日 付 け 大 正 ニュース 事 典 第 二 巻 ) 毎 日 新 聞 わが 町 にも 歴 史 あり 知 られざる 大 阪 江 之 子 島 政 府 (2009 年 2 月 13 日 付 け) 日 本 赤 十 字 社 大 阪 支 部 平 成 18 年 度 事 業 報 告 書 大 阪 の 歴 史 第 20 巻 (1987 年 1 月 ) 大 阪 府 立 工 業 会 館 ( 新 建 築 第 14 巻 1983) 旧 大 阪 府 庁 写 真 資 料 ( 本 文 挿 図 以 外 のもの) 12 図 旧 府 庁 ( 手 前 に 架 かる 橋 は 木 津 川 橋 ) 13 図 旧 府 庁 ( 右 の 塔 は 火 の 見 櫓 ) 14 図 木 津 川 橋 から 見 た 旧 府 庁 15 図 旧 府 庁 の 絵 画 16 図 旧 大 阪 工 業 奨 励 館 ( 増 築 後 の 旧 府 庁 建 物 ) 10