不定詞文について



Similar documents
(1990) (1990) (1991) 88

本組/野部(2段)

Общество любомудрия Поэт и друг

Ольшанская юдофил Синельников Синельников

Веселовский

& ~16 2


) ) ) ) Сильный ветер сильный и дождь. Если один день шел дождь и появился ветер то будет ещё 2-3 дня дождь. Куда ветер туда и дождь. Если стояло долг

229期短期講座(APR2019) 

.

[ ] Гаспаров М.Л., Очерк истории русского стиха.изд.-во«фортуна Лимитед».М., Квятковский А., Поэтический словарь.изд.-во «советская энциклопедия

Slaviana2017p

2 (коммуникативно нерасчлененное предложение) Книг было три. 3 книг (коммуникативно расчлененное предложение) Этих книг мы купили две. 2?Учебных предм

…“…V…A’l”m−¯‡Æ†c™ƒž−¥‰{“è

228

МАС Малый академический словарь БАС Большой академический словарь Г нормативные словари Императорская Российская Академия

М. Ю. Мцыри романтическая поэма В. Г. У. Р. А. С. Кавказский пленник Е. А. Эда Герой нашего времени

2019夏期集中講座 講座案内(PDF版)

立経 溝端p ( ).indd

Андреевна Федосова ) 5) 6) 1895 Ельпидифор Васильевич Барсов Андрей Ефимович Елена Петровна )


сложили свои полномочия. ハバロフスク地方の 2000 人程の農村集落の議員のうち 102 名が期限前に辞任 した Причина обязанность ежегодно предоставлять справку о своих доходах, доходах супр

Философия общего дела Н Ф

…“…V…A’l‡Ì‡Ý‡½†c™ƒž−¥‰{“è2/21

ДОБРО ПОЖАЛОВАТЬ Кабели, которые находятся в каталоге исключительно от нашего стандартного ассортимента, мы в состоянии удовлетворить все ваши конкрет

杉浦論文.indd

( ) ( ) ( ) ( ( ~ ) ( ) ( )) ( ) ( ) ( ) ( ) ( ) ⑴ 2

Slaviana2017p

_−~flö

1-2 カーの時間 АСЦУ «Тогда еще верили в пространство и мало думал о времени.» В. В. Хлебников, Соб

プロットとキャラクターの 類 型 3 5 Борисов С.Б. (сост.) Рукописный девичий рассказ. М.: ОГИ, Вацуро В

06[ ]宮川(責).indd

......

No ロースキーの直観主義とベルクソン哲学 北見 諭 はじめに Лосский Н.О. Обоснование интуитивизма // Лосский Н.О. Избранное. М., С. 13. Лосский. Обоснов

А и стала змея да поналетывать, А и стала змея да понасхватывать По головушке да по скотиной, Стало мало скота в граде ставиться. А и стала змея да по


Microsoft Word horiuchi.docx

untitled

体制移行期のカザフスタン農業

55

シュリクンとその現代的機能 : アルハンゲリスク州ヴェルフニャヤトイマ地区調査から

確定_中澤先生

,000 5, a) b) c) d) e) 9

09井上幸義.indd

А. Левкин. Двойники.. Москва, 2000: Содержание Ольга Хрусталева. Предисловие к Левкину/ Наступление осени в Коломне/ Достоевский как русская народная

Slaviana2017p

Sawada

untitled


‹É›ê‘ã’æ’¶Ÿ_Ł¶

.e..Note

Японский язык 9 класс I блок. Аудирование кол-во баллов номер задания правильный ответ 1 1 X 1 2 V 1 3 X 1 4 C 1 5 C 1 6 B 1 7 C 1 8 D 1 9 X 1 10 V 10

untitled

Kitami

佐藤論文.indd


.r.c._..

(1887 ) ) ([22, p.343]) ( ) (1926) (1929,1994)

V. K Мелодия Чешков М. Талант. НЛО, с Емильянова И. «Вадиму было 19 лет». НЛО, с Чешк

大森雅子60

(3) (4) (5) XX века. Slavica Helsingiensia С См. Иванов Вяч. Поэт и чернь //Собрание сочинений. Т. 1. Bruxelles, 1974

世界戦争とネオ・スラヴ主義 : 第一次大戦期におけるヴャチェスラフ・イワノフの思想

結婚儀礼に現れる帝政末期ロシア農民の親族関係 : 記述資料分析の試み

ミハイル・ブルガーコフの教権主義批判における二元論の超克 : 作家の創作活動とソヴィエト権力との関係を中心に

typeface (полуустав) (скоропись) (гражданский шрифт)

上野俊彦.indd

7 I.R Ⅱ

シクロフスキイ再考の試み : 散文における《複製技術的要素》について

™ƒ‚º’æ’¶Ÿ_Ł¶


09_後藤_p ( ).indd

Microsoft Word - ファイナルレポート_Jp_ doc

Microsoft Word - ロシア語

日本における白系ロシア人史の断章 : プーシキン没後100年祭(1937年、東京)

И нам нужно сделать все, чтобы в рамках этого решения сейчас отработать». そして我々はこの判断の中で今行うべき全てのことをする必要があります Решение МОК, без сомнения, расстроит к при

.R N...ren

この道を作り ここは道路を塞ぎます И вот это благоустройство это конечно можно сделать.» そしてこの設備ももちろんできます Деревянные тротуары, освещение, зоны для кемпинга и 3 совреме

Our Position in the Market Interfax-100 Russian Banks by Assets

untitled

Слово.ру: балтийский акцент Молодежь Эстонии Postimees на русском языке День за днем МК Эстония Вести Здоровье для всех Деловые ведомости Столица» «Юж

スライド 1

Как говорят программисты, система «не дружелюбна» к пользователю. プログラミストが言うには システムは利用者に対し 親切でない Карта загружается долго, переход от одного меню к дру

Microsoft Word - pre-print2005最終.doc

Vol. Данная работа посвящена Михаилу Александровичу Чехову, русскому актеру, режиссеру и педагогу, внесшему огромный вклад в мировое театральное искус

40

ロトマン『物と空虚とのあいだで』読解 : 構造という閉域をめぐる言説の諸類型

S2-OM.pdf

S2-OM.pdf

Japan.indd

естественный газ [36, p.530] каменный уголь (10.65 ) (7.32 ) 1927/28 [20, p.195] [29, pp ] бурый уголь К(8.00 ) О(7.70 ) РМ(5.55 ) [25, p.720]

О том, что рассказывают те, что уже дома, и что они советуют, в репортаже Михаила Федотова. 既に帰国した人たちのお話や勧めていることについてミハイル フェドートフが報告します Самолёт рейса Мо

- February significance


カズクロム社について

Японский язык 11 класс I блок. Аудирование кол-во баллов номер задания правильный ответ 1 1 X 1 2 X 1 3 V 1 4 B 1 5 A 1 6 C 1 7 D 1 8 C 1 9 X 1 10 V 1

Hanya

102 (Руль) (За свободу!) (Меч) (Поэты пражского «Скита») («Скит». Прага : Антология. Биографии. Документы) 9 10

Репортаж Павла Зарубина. パーベル ザルビンによるレポートです В астраханской школе имени Гейдара Алиева готовятся ко дню народного единства. アストラハンのヘイダル アリエフ記念学校では民族統一記

....Acta

03史料紹介_渡辺.indd

Transcription:

SLAVISTIKA XXVIII (2012) まるで 魔 法 使 いのように ホダセヴィチ 詩 篇 バッカス とプーシキン 三 好 俊 介 はじめに 本 稿 の 目 的 は,ヴラジスラフ ホダセヴィチの 詩 篇 バッカス Вакх ( 1921)を 読 みな がら, 盛 期 ホダセヴィチ 詩 学 の 特 徴 について 考 察 し, 詩 人 への 理 解 を 深 めることにある 上 記 作 品 に 関 する 先 行 研 究 としては,ボゴモロフによる 比 較 的 短 い 論 文 が 存 在 するが, 1 他 ならぬこの 論 文 の 冒 頭 にも 記 されているように, 詩 篇 バッカス は, 発 表 当 時 から 今 日 に 至 るまで 正 当 な 評 価 を 獲 得 することがなく, 研 究 者 間 でもいまだに 十 分 な 分 析 の 対 象 とされていない 本 稿 では, 詳 しいテクスト 分 析 を 通 し,この 詩 の 性 格 や, 看 取 される 詩 法 上 の 特 徴 を 考 察 することとしたい ロシア 革 命 ののち 数 年 を 経 た 荒 涼 たる 旧 都 ペテルブルクの 只 中, 生 存 の 危 機 と 創 作 力 の 絶 頂 を 同 時 に 味 わいながら 詩 人 の 執 筆 した バッカス は,ホダセヴィチ 自 らの 詩 作 観 の 根 幹 部 分 を 平 明 な 寓 意 によって 解 説 する 所 謂 詩 についての 詩 であり, 作 中 に 織 り 込 ま れた 寓 意 的 イメージの 美 しさもあいまって, 作 者 の 代 表 作 に 数 えるべき 作 品 といってよい また, 究 極 的 には 作 者 個 人 の 文 学 観 を 語 る 作 品 でありながら,その 筆 致 は 単 なる 独 白 の 範 疇 を 超 えて, 近 代 ロシア 文 学 史 との 対 話 を 構 成 するという 点 も,この 詩 の 魅 力 という べきである 特 に, 盛 期 ホダセヴィチを 理 解 する 上 で 重 要 な,プーシキンとの 詩 学 的 接 点 については, この バッカス の 精 読 により,かなりの 程 度 まで 明 らかにすることができるだろう ま ずは,テクスト 全 文 を 以 下 に 掲 げ, 作 品 の 成 立 背 景 や 内 容 の 概 略 について 検 討 しておこう 1. テクストと 解 釈 ВАКХ バッカス Как волшебник, прихожу я 魔 法 使 いのように 私 はやってくる, 本 稿 で 引 用 する 作 品 テクストの 底 本 は, 引 用 箇 所 ごとに 脚 注 に 示 す 和 訳 は 全 て 論 者 による( 聖 書 からの 引 用 を 除 く) 1 Богомолов Н.А. Никто этих стихов не понимает // Новое литературное обозрение. 73. 2005. С. 212-215. 109

三 好 俊 介 Сквозь весеннюю грозу. Благосклонно приношу я Вам азийскую лозу. 春 のあらしを 突 き 抜 けて みなさんへの 手 土 産 は アジア 産 の 潅 木 のつるだ Ветку чудную привейте, А когда настанет срок, В чаши чистые налейте Мой животворящий сок. この 不 思 議 な 枝 を 接 木 するのだ そして, 時 がきたら 命 をもたらすわが 果 汁 を 清 浄 な 杯 に 注 ぎ 分 けるがいい Лейте женам, пейте сами, Лейте девам молодым. Сам я буду между вами С золотым жезлом моим. 妻 に 注 いで, 自 分 も 飲 み うら 若 き 娘 らにも 注 いでやることだ 私 も 黄 金 の 杖 をたずさえて あなたがたの 間 にいるだろう Подскажу я песни хору, В светлом буйстве закружу, Отуманенному взору Дивно всё преображу. 歌 う 者 らに 私 は 歌 を 教 え 晴 れやかな 喧 騒 のうちに 眩 暈 へと 導 き かすんだ 目 に 映 るものすべてを 驚 くほどに 変 貌 させるだろう И дана вам будет сила Знать, что скрыто от очей, И ни старость, ни могила Не смутят моих детей. すると, 見 えない 物 事 について 知 る 力 が あなたがたに 与 えられる もう 老 いも, 墓 も わが 子 らを 悩 ますことはない Ни змея вас не ужалит, Ни печаль покуда хмель Всех счастливцев не повалит На зеленую постель. みなさんを 咬 みはしないのだ, 蛇 も そして 悲 しみも 酔 いがまわり 幸 福 なる 者 全 員 が 緑 の 寝 床 に 倒 れ 伏 すまで Я же прочь, походкой резвой, В розовеющий туман, Сколько бы ни выпил трезвый, 私 はといえば 快 活 な 足 取 りで 薔 薇 色 に 染 まる 霧 の 中 へと 去 ってゆく いくら 飲 んでも 酔 うことはなく 110

まるで 魔 法 使 いのように Лишь самим собою пьян. 2 ただ 自 分 自 身 にだけ 酔 いながら 作 品 が 書 かれたのは 作 者 がペテルブルクに 住 んだ 1921 年 11 月 8 日 だが, 3 発 表 は 詩 人 がロシアを 永 久 に 去 った 後 となり,ベルリンのロシア 語 雑 誌 極 光 Сполохи 1922 年 第 10 号 (この 雑 誌 に 詩 人 は, 一 年 余 のベルリン 在 住 期 を 通 じて 数 篇 の 詩 を 寄 稿 している) での 初 出 を 経 て, 作 者 の 代 表 的 詩 集 となる 第 四 詩 集 重 い 竪 琴 Тяжелая лира ( 初 版 1922 年 )に 収 録 された 4 ソビエト 本 国 では,その 後 ほどなくホダセヴィチの 詩 は 事 実 上 の 禁 書 となるのだが,さらに 後 年 の 作 者 自 身 の 述 懐 ( 誰 もこの 詩 を 理 解 しない ) 5 を 信 じる なら,この 詩 は 亡 命 ロシア 文 学 界 でも 目 立 った 反 響 を 呼 ぶことがなく, 詩 人 を 落 胆 させた ようである ホ レ イ 作 詩 法 を 分 析 すると, 韻 律 は 破 格 の 少 ない 4 脚 の 強 弱 格 であり, 民 衆 舞 踊 と 関 わりの 深 い 強 弱 格 の 選 択 は, 民 の 祝 祭 の 情 景 を 描 く 作 品 内 容 に 対 応 している 脚 韻 は 交 差 韻 であり, 女 性 韻 男 性 韻 の 順 に 全 ての 詩 行 で 正 確 に 交 替 が 行 われる( 第 一 連 の 一, 三 行 における, 私 я の 到 来 を 力 強 く 告 げる 変 則 強 勢 を 除 く) 語 彙 の 選 択 は, 高 雅 な 詩 語 の 使 用 が 抑 制 される 一 方, 6 俗 語 も 全 く 用 いられない ロシア 革 命 期 以 降 の 盛 期 ホダセヴィチは, 敬 愛 するブロークの 一 群 の 詩, 特 に 革 命 下 の 名 作 十 二 Двенадцать ( 1918)での 俗 語 の 多 用 などを 念 頭 に 置 くのか, 意 識 的 に 俗 語 を 用 いることが 時 にあるが, 本 作 で 詩 人 はそうした 手 法 を 避 け,テクストのほぼ 全 体 が 穏 当 な 日 常 的 語 彙 から 構 成 される よく 似 た 詩 句 の 繰 り 返 し( 例 えば, 第 一 連 の прихожу я // приношу я)が 目 立 つのも 文 体 上 の 特 徴 であり, とりわけ, 二 か 所 の 頭 語 反 復 ( 第 三 連 の 冒 頭 二 行 лейте [l ejt e], 第 六 連 の 冒 頭 二 行 ни [ni]) での 軟 化 した 舌 音 ([l ],[n ])のつらなりは, 滑 らか,かつ 軽 やかな 作 品 全 体 の 文 体 を 印 象 づける テクスト 原 文 を 満 たす 奇 を 衒 わない 平 明 さと, 音 楽 的 な 流 麗 さ,つまり, 穏 や 2 底 本 は, 最 新 の 8 巻 本 作 品 集 ( 刊 行 中 ) 第 1 巻 Ходасевич В.Ф. Собрание сочинений в 8-и томах. Т. 1. М., 2009.( 以 降,Ходасевич 2009 と 略 記 )С. 138-139. 3 詩 人 の 事 実 上 の 配 偶 者 だったニーナ ベルベロワの 蔵 書 に 含 まれる,1927 年 版 ヴラジスラフ ホダセヴィチ 詩 集 には, 各 作 品 の 執 筆 日 等 の 情 報 を 記 した 作 者 自 身 の 手 書 き 注 記 ( 亡 命 以 前 に 詩 人 が 作 成 していた 自 作 品 リストが 元 になっているらしい)が 残 されており,この 注 記 は 信 頼 性 の 高 いものとされる この 詩 バッカス については 自 作 品 リスト と 詩 集 書 き 込 み の 双 方 に 執 筆 日 の 記 載 がある Ходасевич 2009. С. 349 および С. 422 を 参 照 4 詩 集 重 い 竪 琴 は,1922 年 にモスクワとペテルブルクで 初 版 が 刊 行 されたが 誤 植 が 多 く, 翌 年 になって 刊 行 された 第 二 版 (ベルリン,ペテルブルク,モスクワ)が 信 頼 に 足 る 底 本 として 今 日 用 いられる 5 既 出,ニーナ ベルベロワ 所 蔵 ヴラジスラフ ホダセヴィチ 詩 集 上 の, 作 者 による 書 き 込 み Ходасевич 2009. С. 422 を 参 照 のこと 6 用 いられる 語 彙 のうち,чаша 杯,животворящий 命 をもたらす,жезл 杖 は, 一 応 は 雅 語 とはいえ, 極 端 に 難 解 高 雅 な 語 彙 ではない また,очи 目 は 民 話 詩 的 であり, 作 品 内 容 にごく 自 然 に 対 応 する 111

三 好 俊 介 かな 歌 謡 に 似 た 佇 まいは,これら 全 ての 作 詩 法 上 の 配 慮 から 生 まれている 内 容 を 追 ってゆこう 冒 頭, 魔 法 使 いのように 私 はやってくる,/ 春 のあらしを 突 き 抜 けて 雷 雨 のイメージは 直 接 にはロシア 革 命 と,それに 続 く 社 会 的 混 乱 を 念 頭 に 置 く だろう 帝 政 ロシアの 首 都 だったペテルブルクでは, 革 命 の 混 乱 は 他 の 都 市 と 比 べて 甚 大 であり, 革 命 と 内 戦 期 を 通 じ 人 口 は 三 分 の 一 (70 万 人 )に 激 減 して,この 詩 が 書 かれた 1921 年 時 点 で 都 市 機 能 の 多 くが 麻 痺 状 態 を 脱 していない 7 革 命 の 波 濤 に 翻 弄 される 人 間 のありかたは, 数 年 を 遡 る 第 三 詩 集 穀 粒 の 道 を Путем зерна ( 刊 行 1920 年,モスクワ) からホダセヴィチ 詩 の 重 要 な 主 題 となるが, 詩 人 はこの 傾 向 を バッカス はじめ,ペテ ルブルク 時 代 の 詩 篇 で 一 層 強 めることになる 詩 句 の 中, 春 のあらし весенняя гроза と いう 言 葉 に 注 意 を 払 いたい 詩 人 の 周 囲 の 光 景 は, 実 際 にはむしろ, 作 物 をなぎ 倒 す 真 夏 の 暴 風 雨 や, 厳 冬 期 の 地 吹 雪 を 思 わせたはずだ しかし,ホダセヴィチはこの 詩 で,そう した 類 の 喩 えを 用 いない 厳 しい 現 実 を 前 に 彼 があえて 連 想 するイメージとは, 激 しさの 中 にもどこか 明 るさを 含 み, 万 物 に 対 し 生 命 の 糧 をもたらす, 春 先 の 驟 雨 であった なお, ロシア 詩 史 への 詩 人 の 博 識 からみて,この 詩 句 はチュッチェフ 春 のあらし Весенняя гроза ( 1828)を 念 頭 に 置 くだろう 19 世 紀 ロシア 叙 景 詩 を 代 表 するこの 名 作 は, 厳 冬 の 終 わりを 告 げる 北 国 の 春 雷 を, 万 象 の 溌 剌 とした 甦 りの 祝 祭 として 描 いたのだった ВЕСЕННЯЯ ГРОЗА 春 のあらし Люблю грозу в начале мая, Когда весенний, первый гром, Как бы резвяся и играя, Грохочет в небе голубом. 五 月 初 頭 の 雷 雨 を 私 は 愛 している この 年 はじめての 春 の 雷 鳴 が はしゃいで 戯 れるかのように 青 空 にとどろくのだ Гремят раскаты молодые! 若 々しい 轟 音 が 鳴 り 渡 る! Вот дождик брызнул, пыль летит... Повисли перлы дождевые, И солнце нити золотит... ほら, 雨 粒 が 跳 ね, 埃 が 飛 ぶ 雨 の 真 珠 が 垂 れ 下 がり その 糸 を 陽 光 が 金 色 に 染 める С горы бежит поток проворный, В лесу не молкнет птичий гам, 山 からは 早 瀬 が 駆 け 降 り 森 では 鳥 たちの 喧 騒 がやまない 7 当 時 のペテルブルクの 人 口 については,たとえば 新 版 ロシアを 知 る 事 典 平 凡 社,2004 年, 312 頁 を 参 照 112

まるで 魔 法 使 いのように И гам лесной, и шум нагорный Все вторит весело громам... 森 の 喧 騒 も, 山 のざわめきも すべてが 陽 気 に 雷 鳴 をまねている Ты скажешь: ветреная Геба, Кормя Зевесова орла, Громокипящий кубок с неба, Смеясь, на землю пролила! 8 君 は 言 うだろう, これは 軽 はずみなヘーベーが ゼウスの 鷲 を 養 おうと, 轟 き 沸 きたつ 杯 を 天 空 から, 哄 笑 して 大 地 に 注 いだのだ! と このチュッチェフ 詩 と 同 種 の 光 景 を,ホダセヴィチは 旧 都 ペテルブルクの 只 中 に,あえ て 見 ようとする 荒 廃 の 陰 には 復 活 と 救 済 の 予 兆 が 胎 動 するのだと, 何 としても 信 じなけ ればならない さもないと,この 現 実 を 生 き 抜 くことなど 不 可 能 なのだ バッカス 冒 頭 部 で, 詩 人 はそうした 思 いを 暗 に 綴 っている そして,これはまさに, 革 命 直 後 から 亡 命 初 期 までの 盛 期 ホダセヴィチに 一 貫 するロシア 革 命 受 容 のあり 方 であ り,たとえば, 第 三 詩 集 穀 粒 の 道 を の 冒 頭 を 飾 る 詩 篇 穀 粒 の 道 を Путем зерна ( 1917) で 詩 人 は, 自 身 や 人 々の 運 命 を 穀 草 の 種 子 の 蘇 生 に 擬 えながら, 次 のように 綴 っている [ 穀 粒 は 地 中 で] 死 んで,そして 発 芽 する // 同 様 に,わが 魂 も 穀 粒 の 道 をゆく, つまり/ 闇 の 中 に 降 り, 死 んで 甦 るのだ //わが 国 よ,そしてその 民 よ,/ 汝 らも 死 んで 甦 るだろう,/この 一 年 を 突 き 抜 けたのちに 9 革 命 勃 発 の 直 後 から, 混 迷 のモ スクワで 絶 望 を 退 け, 新 たな 生 への 希 望 を 模 索 する 意 思 を 穀 粒 の 道 を で 鮮 明 にするホ ダセヴィチだが,この 姿 勢 を 詩 人 はペテルブルク 移 住 後 も 含 め, 自 身 のロシア 時 代 の 最 後 まで 変 えることがなかった バッカス 本 文 に 立 ち 戻 る 一 連 後 半, みなさんへの 手 土 産 は/アジア 産 の 潅 木 の つるだ つる 性 植 物 である 葡 萄 の 栽 培 と, 葡 萄 酒 の 醸 造 は 共 にアジア,つまり 太 古 の 近 東 に 起 源 をもつ 語 り 手 である 異 国 からの 客 人, 酒 神 バッカスに 似 たこの 人 物 は 無 論, 詩 人 たるホダセヴィチ 自 身 を 指 し, 葡 萄 の 苗 木 は 彼 の 詩 作 品 を 示 す 暗 喩 である この 不 思 議 な 枝 を 接 木 するのだ /そして, 時 がきたら 葡 萄 栽 培 では 実 際, 病 害 予 防 と 生 長 促 進 のために 接 木 を 用 いるが,ここでホダセヴィチが 接 木 (привить)に 言 及 するのは, 別 の 理 由 からでもある バッカス から 数 年 のち, 既 にロシア 脱 出 後 に 書 かれた 別 の 作 品 で, 詩 人 はペテルブルク 時 代 を 振 り 返 りながら,こう 記 している 散 文 を 突 き 抜 けるべく,あらゆる 詩 行 を 駆 り 立 て,/すべての 行 を 脱 臼 させながらも,/ 私 は 古 典 の 薔 薇 を/ソビエトの 若 木 に 接 木 (привить)しおおせた ( 詩 篇 ペテルブルク Петербург 8 9 底 本 は Тютчев Ф.И. Полное собрание сочинений и письма в 6-и томах. Т. 1. М., 2002. С. 60. 底 本 は Ходасевич 2009. С. 85. なお, 注 記 は 論 者 113

三 好 俊 介 1925) 10 豊 穣 な 近 代 ロシア 詩 の 伝 統 を, 革 命 下 の 散 文 的 な 喧 騒 を 突 き 抜 け て 次 世 代 に 継 承 すること,これをホダセヴィチは 自 身 の 使 命 と 考 えたのであり,この 営 みを 彼 は 接 木 と 形 容 している 革 命 期 以 降 のホダセヴィチにとって, 自 身 の 生 への 意 欲 の 最 大 の 源 泉 となったのは,この 文 学 的 接 木 への 使 命 感 だったといってよい 彼 はこの 意 識 ゆえ に 奮 い 立 ち, 生 存 の 危 機 の 中 でかえって, 大 量 の 詩 篇 や 評 論 を 爆 発 的 に 執 筆 してゆくので ある 彼 にとって 継 承 すべき 詩 的 遺 産 の 一 つが, 自 身 のルーツである 象 徴 派 文 学 だったことは 疑 いのないところである 妖 しく 奔 放 な 幻 想 や, 南 方 の 異 国 への 憧 憬 をうたって 20 世 紀 初 頭 のロシア 詩 壇 を 席 捲 した 象 徴 派 の 記 憶 は,かつて 同 派 の 指 導 者 ブリューソフの 影 響 下 に 詩 壇 に 入 ったホダセヴィチの 脳 裏 に, 生 涯 にわたり 刻 印 をとどめることになる アジ ア 産 の 潅 木 のつる を 携 えた 魔 法 使 い に 自 身 を 擬 える 表 現 は,そうした 経 緯 を 踏 まえ て 語 る, 象 徴 派 へのオマージュでもある 現 実 が 牙 を 剥 く 今 こそ, 象 徴 派 のうたったよう な 艶 やかな 夢 が 再 び 求 められているのだ 11 ただし,ホダセヴィチはここで, 瓦 解 して 久 しい 象 徴 主 義 運 動 そのものの 再 興 を 願 うわ けではない 彼 が 望 むのは, 過 去 の 様 式 の 反 復 ではなく, 革 命 後 の 新 たな 情 況 を 考 慮 した その 応 用 であり, 接 木 という 形 容 の 真 意 もそこにある 接 木 された 新 芽 は, 根 株 から 養 分 を 受 けながらも, 既 に 別 個 の 生 命 である 実 際 のところ, 盛 期 ホダセヴィチの 実 作 を 概 観 すると, 象 徴 詩 に 似 た 華 やかな 詩 的 表 現 が 時 に 見 出 される 一 方 で,その 含 意 は 既 に 象 徴 派 のそれと 同 じではない 12 これに 関 して, バッカス 本 文, 葡 萄 の 聖 書 的 背 景 に も 留 意 しておこう 13 つまり,よく 手 入 れされ 実 を 結 んだ 葡 萄 の 木 は 貴 重 だが(ヨハネ 福 音 15 イエスはまことのぶどうの 木 ), 伸 びるに 任 せた 葡 萄 の 枝 は 木 々の 中 でも 最 も 無 用 な 存 在 である(エゼキエル 書 15 ぶどうの 木 から, 何 か 役 に 立 つものを 作 るための 木 材 がとれるだろうか ) 14 接 木 にくわえて 容 赦 のない 剪 定 が 求 められる 葡 萄 栽 培 に 似 て, 詩 作 でも 伝 統 の 継 承 にくわえ,その 大 胆 な 変 容 が 不 可 欠 だとホダセヴィチは 考 え,また, 彼 はこの 創 作 姿 勢 を 象 徴 派 にかぎらず, 全 ての 詩 的 伝 統 と 向 き 合 う 際 に 堅 持 している 詩 人 の 示 した 文 学 的 伝 統 への 愛 着 は, 単 なるノスタルジーや 保 守 的 性 向 を 意 味 するものでは なく,その 真 の 狙 いは 伝 統 的 枠 組 みの 再 構 築 にあった 10 底 本 は Там же. С. 157. 11 ボゴモロフの 上 掲 論 文 は, バッカス の 象 徴 主 義 的 文 脈 のうち, 特 にディオニュソス 主 義 やヴ ャチェスラフ イワーノフとの 関 係 について 問 題 提 起 するものだが, 本 稿 ではこの 問 題 に 深 く 立 ち 入 るのは 避 ける 12 詳 細 は, 三 好 俊 介 街 路 と 恋 の 結 合 ホダセヴィチ 重 い 竪 琴 とブリューソフ SLAVISTIKA XXV,2010 年,17-38 頁 を 参 照 13 本 作 では 聖 書 からの 引 用 が 後 段 で 再 び 現 れるが, 詳 細 は 後 述 する 14 聖 書 からの 引 用 は, 聖 書 ( 新 共 同 訳 ) 日 本 聖 書 協 会,2003 年 に 依 る 114

まるで 魔 法 使 いのように 二 連 後 半, 時 がきたら/ 命 をもたらすわが 果 汁 を/ 清 浄 な 杯 に 注 ぎ 分 けるがいい 誰 もが 生 き 抜 くのに 精 一 杯 のいま, 詩 など 読 まれないのは 当 然 である だが, 春 の 雨 が 草 木 を 育 むように,やがて 人 々の 意 識 が 熟 す 日 が 来 るかもしれない もしその 日 が 到 来 したら, 宴 を 囲 むようにわが 詩 集 を 開 いてほしいのだと 詩 人 は 言 う 第 三 連, 私 も 黄 金 の 杖 をた ずさえて/あなたがたの 間 にいるだろう 翌 年 には 事 実 上 の 亡 命 に 踏 み 切 ることになる ホダセヴィチは,この 詩 を 書 きながら 既 に, 読 者 との 別 離 を 予 感 していたのかもしれない だが,たとえ 詩 人 が 去 ろうとも, 詩 集 の 頁 上 に 彼 の 影 は 君 臨 して, 親 しく 読 者 を 導 くのだ 歌 う 者 らに 私 は 歌 を 教 え/ 晴 れやかな 喧 騒 のうちに 眩 暈 へと 導 き/かすんだ 目 に 映 るも のすべてを/ 驚 くほどに 変 貌 させるだろう //すると, 見 えない 物 事 について 知 る 力 が /あなたがたに 与 えられる 詩 を 読 む 人 は, 世 界 を 日 常 とは 異 なる 視 点 から 眺 めるだろ う だが, 日 常 の 意 味 的 連 関 から 解 放 されたその 美 しい 世 界 像 は, 必 ずしも 幻 とは 限 らな い むしろ,こちらのほうが 世 界 の 本 質 かもしれないのだ みなさんを 咬 みはしないのだ, 蛇 も/そして 悲 しみも ここでいう 蛇 とは, 旧 約 聖 書,ユダヤ 人 のエジプト 脱 出 の 故 事 を 踏 まえるだろう( 詩 人 の 母 親 は,キリスト 教 に 改 宗 したユダヤ 人 の 家 系 である) 預 言 者 モーセが 圧 政 を 逃 れた 群 衆 を 率 い, 飢 餓 の 荒 野 を 彷 徨 いながら, 人 々の 弱 音 に 対 する 神 罰 である 蛇 の 襲 来 ( 民 数 記 21 4-9)をかわして 約 束 の 地 に 到 達 したように,ホダセヴィチの 詩 も 革 命 の 死 地 を 生 き 抜 いたロシアの 読 者 を 励 ま しながら, 救 済 の 予 感 へと 導 こうとする 幸 福 なる 者 全 員 が/ 緑 の 寝 床 に 倒 れ 伏 すまで 古 代 のバッカス 祭 の 大 らかな 酩 酊 さながら 詩 に 陶 然 とする 人 々は, 野 天 で 眠 るのと 同 じ 屈 託 の 無 さで 床 に 就 く 酔 いは 必 ず 醒 めるものだが,それでも 翌 日, 普 通 の 生 活 に 戻 る 人 々 の 胸 中 から,この 多 幸 感 が 完 全 に 失 われることはない 再 び 苦 しみに 見 舞 われたら,また 何 度 でも 宴 に 集 えばよい 詩 が 傍 らにある 限 り, 最 終 的 に 緑 の 寝 床 に 倒 れ 伏 す とき, つまり 人 生 の 終 焉 まで, 苦 しみを 免 れることができるのだ 最 終 連, 詩 人 は 快 活 な 足 取 りで/ 薔 薇 色 に 染 まる 霧 の 中 へと 去 ってゆく /いくら 飲 んでも 酔 うことはなく/ただ 自 分 自 身 にだけ 酔 いながら ホダセヴィチは 革 命 下 の 辛 苦 を 読 者 と 分 かち 合 い, 彼 らのために 詩 を 書 きはするが,しかし, 読 者 と 共 に 酔 うこと はない 詩 作 に 関 する 限 り, 彼 はペン( 黄 金 の 杖 )を 手 に 君 臨 する 統 率 者 であり, 民 の 喧 騒 のなか 一 人 醒 めた 意 識 を 保 とうとする そして, 宴 が 終 わっても 彼 のみは 眠 ることな く, 待 ち 受 ける 漆 黒 の 夜 闇 をしっかりと 見 すえているのだ このような 自 己 描 写 で 詩 人 は バッカス を 閉 じるのだが, 最 終 連 に 至 りようやく 作 品 の 最 も 重 要 な 特 徴 が 露 わになってくる つまり,この 孤 独 な 詩 人 の 姿 は 主 題 や 筆 致 からみ て,プーシキンの 代 表 作 の 一 つであり, 彼 の 詩 論 的 作 品 の 最 高 峰 に 位 置 するソネット 詩 人 に Поэту ( 1830)を 踏 まえると 解 さねばならない ホダセヴィチにとって, 永 劫 に 継 承 すべき 詩 的 伝 統 の 中 心 を 占 めるのは,やはり 近 代 ロシア 詩 の 父 祖 というべきプーシキン 115

三 好 俊 介 であり,この バッカス は,チュッチェフや 象 徴 派 らロシア 詩 史 の 様 々な 記 憶 を 遡 りな がら, 最 終 的 にはプーシキンに 捧 げられた 作 品 なのである 2. ホダセヴィチとプーシキン ホダセヴィチは 幼 年 期 や 象 徴 派 時 代 15 からプーシキンに 親 しんではいるのだが, 彼 の 創 作 史 研 究 上,もはや 無 視 できないレベルの 本 格 的 傾 倒 へと 至 るのは,やや 遅 れて 1910 年 前 後 のことである この 時 期,ホダセヴィチが 従 来 全 面 的 に 信 頼 してきたロシア 象 徴 主 義 運 動 は 瓦 解 をとげ,また,これと 並 行 して 詩 人 は 最 初 の 結 婚 の 無 残 な 失 敗 を 経 験 する 16 度 重 なる 激 しい 失 望 から 詩 人 は 創 作 上 の 危 機 に 陥 ってしまうのだが,そのとき 彼 が 精 神 的 な 拠 り 所 としてすがったのが, 穏 やかな 調 和 と 古 典 の 光 輝 あふれるプーシキン 詩 の 世 界 だっ た 懐 かしいロシア 詩 の 原 点 の 渉 猟 を 通 じ(あるいはユダヤ 系 詩 人 サムイル キッシンと の 交 友 や, 再 婚 相 手 アンナ チュルコワとの 出 会 いにも 助 けられ), 安 定 と 充 実 を 回 復 し た 詩 人 は, 象 徴 主 義 の 神 秘 性 を 脱 し, 調 和 と 日 常 感 覚 重 視 の 新 境 地 へと 舵 を 切 って 盛 期 詩 風 を 確 立 する 以 来,プーシキンはホダセヴィチにとって 変 わらぬ 敬 愛 の 対 象 となり, 詩 人 は 長 期 に 亘 り 大 量 のプーシキン 論 を 執 筆 するに 加 え, 17 時 には 自 身 が 彼 と 同 化 するかの ような 夢 想 を 抱 くこともあったようである たとえば, 先 の バッカス と 同 じく 詩 集 重 い 竪 琴 に 収 録 されたホダセヴィチ 詩 篇 母 ではなく,トゥーラの 農 婦 に Не матерью, но тульскою крестьянкой... ( 1922)は, 農 婦 出 身 の 乳 母 からロシア 語 ロシア 文 化 の 良 き 感 化 を 受 けた 自 身 の 幼 少 期 を 描 写 する 作 品 だが,その 内 容 は 明 らかにプーシキンの 幼 時 期 における 同 様 の 逸 話 を 意 識 したものである 15 ロシア 象 徴 派, 特 にブリューソフは,20 世 紀 におけるプーシキン 再 評 価 の 立 役 者 である 16 モスクワ 大 学 法 学 部 に 入 学 して 詩 壇 にデビューした 詩 人 は 翌 1905 年,18 歳 でマリーナ ルィン ジナと 結 婚 している また, 同 じ 年 に 彼 は,モスクワ 大 学 文 学 部 に 転 部 するが, 学 費 などの 問 題 か ら 卒 業 していない 二 度 目 の 結 婚 相 手 チュルコワによる 回 想 記 (Ходасевич В.Ф. Собрание стихов. М., 1992. С. 413-433 に 所 収 )の 内 容 を 仮 に 信 じるなら,ルィンジナは 富 裕 家 庭 の 出 身 で 美 貌 だが, 一 風 変 わった 性 格 の 持 ち 主 であり, 動 物 を 溺 愛 して 多 数 飼 育 し, 生 きた 蛇 をネックレス 代 わりに 首 に 巻 いて 観 劇 に 行 く,あるいは, 詩 人 が 読 書 している 室 内 に 馬 で 乗 り 入 れる,といった 奇 行 で 詩 人 を 困 惑 させたという 詩 人 の 第 一 詩 集 青 春 は,ルィンジナへの 献 辞 を 巻 頭 に 記 して 1908 年 に 上 梓 さ れるのだが, 詩 集 の 印 刷 が 既 に 完 了 した 1907 年 12 月 30 日, 彼 女 は 詩 人 のもとを 去 り, 気 鋭 の 編 集 者 セルゲイ マコフスキー( 翌 々 年 に 雑 誌 アポロン を 創 刊 主 宰 )へと 走 ってしまう 最 後 の 件 については 上 掲 のチュルコワ 回 想 記 のほか,Ходасевич В.Ф. Колеблемый треножник. Избранное. М., 1991. С. 618 を 参 照 17 ホダセヴィチの 著 したプーシキン 論 の 全 容 を 概 観 する 優 れた 研 究 として,Сурат И. Пушкинист Владислав Ходасевич. М., 1994 がある なお, 詩 人 のプーシキン 論 のうち 生 前 に 単 行 本 に 纏 められ たものを 挙 げれば, ロシア 詩 論 集 Статьи о русской поэзии ( ペテルブルク,1922, 収 録 五 篇 のう ち 三 篇 がプーシキンを 扱 う), プーシキンの 詩 作 経 営 Поэтическое хозяйство Пушкина (レニング ラード,1924, 作 者 の 許 諾 なく 出 版 ), プーシキンについて О Пушкине (ベルリン,1937) 116

まるで 魔 法 使 いのように 自 らの 文 学 的 再 生 と 深 く 関 わるプーシキンへの 抑 えきれぬ 愛 情 は,さらに, 革 命 下 モス クワでの 高 名 な 文 学 史 家 ゲルシェンゾンとの 交 際 の 端 緒 を 開 き, 次 いでペテルブルク 時 代 1921 年 2 月 の 第 一 回 プーシキン 記 念 祭 参 加 (その 席 上 で 詩 人 は, 自 身 の 文 芸 評 論 分 野 における 代 表 作 の 一 つ 揺 らぐ 三 脚 台 Колеблемый треножник を 初 めて 公 表 する)の 契 機 となるなど, 文 壇 活 動 や 交 友 の 面 でも,ホダセヴィチの 人 生 に 大 きな 影 響 を 及 ぼして いる ただし,その 一 方 で, 彼 の 内 に 横 溢 するプーシキンへの 崇 敬 が 時 として 否 定 的 な 効 果 を 生 んだのもまた 事 実 であり,すなわち,ホダセヴィチのプーシキン 論 の 一 部 では, 対 象 その 人 への 愛 情 がそうさせるのか, 本 来 は 一 定 の 自 律 性 を 有 すべき 作 品 テクストを 作 者 プーシキンの 実 人 生 や 人 格 にひきつけて 解 釈 する 姿 勢 が, 余 りにも 顕 著 となる 場 合 がある これは 後 に,プーシキン 研 究 家 としてのホダセヴィチの 業 績 の 一 部 が,アカデミックな 文 学 研 究 者 から 厳 しい 批 判 を 浴 びる 結 果 を 招 くのだが,それでも, 盛 期 ホダセヴィチの 詩 作 と 評 論 活 動 にプーシキンが 及 ぼした 好 ましい 影 響 は,その 否 定 的 側 面 を 遥 かに 凌 駕 してい る 18 バッカス と 親 しく 交 響 するプーシキン 詩 篇 詩 人 に は 1830 年 の 執 筆 であり, 詩 人 と 読 者 大 衆 との 関 係 性 を 考 究 する 詩 論 的 作 品 である 当 時 の 有 力 文 芸 誌 モスクワ テ レグラフ, 北 方 の 蜜 蜂 ( 両 誌 はそれまでプーシキンへの 好 意 的 論 評 を 掲 載 していた) が 一 転 して 彼 を 攻 撃 する 論 評 を 掲 載 したことを 受 け,これに 反 駁 する 形 で 書 かれた 作 品 だ が, 19 より 巨 視 的 にみれば,この 詩 は 所 謂 ロシア 詩 の 黄 金 時 代 の 終 焉 を 反 映 する 作 品 である プーシキン,あるいはバラティンスキーら 彼 の 周 辺 詩 人 によって 19 世 紀 前 半 に 繁 栄 を 謳 歌 したロシア 詩 は,1830 年 代 から 緩 慢 な 衰 退 の 局 面 を 迎 える 衰 退 の 主 因 は, 識 字 率 の 向 上 や 経 済 構 造 の 変 化 から, 文 芸 の 中 心 が 貴 族 から 雑 階 級 人 に 移 ったことにあり, この 構 造 的 不 可 避 的 な 原 因 により, 高 次 の 教 養 を 要 求 する 詩 歌 ジャンルは 詩 人 たちの 努 力 も 空 しく, 新 たな 主 要 読 者 層 からは 敬 遠 された この 結 果,1840 年 代 の 半 ば 以 降,ロ シア 詩 壇 は 約 半 世 紀 の 冬 の 時 代 に 入 り, 代 わって 小 説 全 盛 の 時 代 が 到 来 する 1830 年 の 両 文 芸 誌 の 離 反 は,この 転 換 点 を 体 現 する 出 来 事 の 一 つであり, 世 紀 後 半 の 本 格 小 説 の 開 花 まではまだ 遠 いこの 時 代, 低 水 準 の 大 衆 小 説 の 氾 濫 や, 詩 を 排 斥 する 粗 暴 な 言 論 を 目 の 当 たりにするプーシキンは, 危 機 の 克 服 への 覚 悟 を 詩 人 に に 綴 るのであった そ して,20 世 紀,そうした 事 情 をよく 知 るがゆえ,ホダセヴィチには,この 詩 人 に が 18 梶 重 樹 ホダセーヴィチのプーシキン 論 日 本 プーシキン 学 会 会 報 第 25 号,1996 年,1-27 頁 では,プーシキンの 複 数 作 品 にまたがる 類 似 詩 句 の 反 復 ( 無 意 識 の 再 利 用,ないし 意 識 的 な 自 己 引 用 )にホダセヴィチが 特 に 着 目 し,この 創 作 技 法 の 分 析 を 通 しプーシキンの 心 理 構 造 ないし 作 品 構 造 を 解 明 しようとした 事 実 が 紹 介 されている 梶 氏 によれば,プーシキン 研 究 におけるホダセヴ ィチのこの 着 眼 点 は, 同 時 期 の 大 詩 人 アフマートワにもある 程 度 共 有 されていたという 19 Пушкин А.С. Полное собрание сочинений в 10-и томах. Т. 3. Л., 1977. C. 454. 117

三 好 俊 介 あたかも, 革 命 の 怒 号 に 詩 人 が 追 われる 現 代 の 状 況 をも, 正 確 に 予 告 していたかのように 思 われた プーシキン 詩 人 に のテクスト 全 文 を, 以 下 に 掲 げる ПОЭТУ сонет Поэт! не дорожи любовию народной. Восторженных похвал пройдет минутный шум; Услышишь суд глупца и смех толпы холодной: Но ты останься тверд, спокоен и угрюм. Ты царь: живи один. Дорогою свободной Иди, куда влечет тебя свободный ум, Усовершенствуя плоды любимых дум, Не требуя наград за подвиг благородный. Они в самом тебе. Ты сам свой высший суд; Всех строже оценить умеешь ты свой труд. Ты им доволен ли, взыскательный художник? Доволен? Так пускай толпа его бранит И плюет на алтарь, где твой огонь горит, И в детской резвости колеблет твой треножник. 20 詩 人 に ソネット 詩 人 よ, 人 々の 愛 を 求 めてはいけない 熱 狂 的 賞 讃 の 喧 騒 は 一 瞬 後 には 静 まり 愚 者 の 非 難 や, 冷 たい 群 衆 の 嘲 笑 を 君 は 耳 にするだろう だが, 君 はぐらつかず, 静 かに, 不 機 嫌 な 顔 をしていればいい 20 底 本 は Там же. C. 165. 118

まるで 魔 法 使 いのように 君 は 帝 王 だから, 一 人 で 生 きるのだ 自 由 な 行 路 を 自 由 な 知 性 の 導 くままに 進 むがいい, 愛 しき 思 考 の 果 実 を 全 きものに 育 てながらも この 気 高 き 偉 業 への 報 酬 などは 求 めずに 報 酬 は 君 自 身 の 中 にある 君 自 身 が 自 らの 最 高 の 裁 き 手 なのだ 誰 よりも 厳 しく 自 身 の 労 作 を 評 価 できるのは, 君 ではないか 気 難 しい 芸 術 家 よ, 君 はその 労 作 に 満 足 できるのか 満 足 か それなら 気 にするな, 群 衆 が 作 品 を 罵 り, 君 の 火 の 燃 える 供 物 壇 に 唾 を 吐 き, 子 供 の 快 活 さで 君 の 三 脚 台 を 揺 さぶろうとも 詩 人 よ, 人 々の 愛 を 求 めてはいけない, 君 は 帝 王 だから, 一 人 で 生 きるのだ 作 品 冒 頭, 詩 人 の 孤 独 を 語 るこのプーシキンの 言 葉 は, バッカス を 書 くホダセヴィチ の 脳 裏 に 繰 り 返 し 木 霊 していたはずだ 先 人 のこの 詩 句 をなぞるように, 彼 は バッカス で 黄 金 の 杖 をもつ 帝 王 に 自 身 を 擬 え, 人 々と 宴 を 共 にしながら 自 身 は 決 して 酔 うこと がない,とうたっている バッカス 末 尾 の 詩 句 ( ただ 自 分 自 身 にだけ 酔 いながら ) に 至 っては,プーシキン 詩 篇 の 核 心 部 ( 報 酬 は 君 自 身 の 中 にある 君 自 身 が 自 らの 最 高 の 裁 き 手 なのだ / 誰 よりも 厳 しく 自 身 の 労 作 を 評 価 できるのは, 君 ではないか )を, ほぼそのまま 要 約 した 表 現 に 他 ならない バッカス と 詩 人 に の 交 響 は,こうしたテクスト 上 の 特 徴 から 既 に 明 らかだが, これに 加 えて 両 作 品 の 関 係 は, 執 筆 の 背 景 事 情 からも 確 認 することができる 先 に 触 れた ように, バッカス 執 筆 に 半 年 ほど 先 立 ち, 詩 人 は 第 一 回 プーシキン 記 念 祭 に 出 席 して 評 論 揺 らぐ 三 脚 台 を 口 頭 で 発 表 したのだが, 実 はこの 評 論 の 内 容 がまさに,プーシキ ン 詩 人 に を 引 用 しながら,ロシア 詩 の 危 機 を 訴 えるものなのである(なお, 評 論 の 標 題 揺 らぐ 三 脚 台 自 体, 詩 人 に 中 の 詩 句 から 採 られている) ホダセヴィチ 詩 篇 バ ッカス の 成 立 は,プーシキン( 特 に 詩 篇 詩 人 に )を 念 頭 に 執 筆 されたこのホダセヴ ィチ 評 論 揺 らぐ 三 脚 台 と 親 しく 呼 応 するのであり,つまり 別 の 表 現 で 説 明 するなら, 満 座 の 聴 衆 に 訴 えかけるべく 熱 く 饒 舌 な 文 体 で 書 かれたこの 評 論 の 骨 子 を, 韻 文 の 厳 しい 簡 明 さに 凝 縮 し, 文 芸 作 品 として 再 構 成 した 作 品 が 詩 篇 バッカス なのだともいえる ただし,プーシキンへの 強 い 共 感 をテクスト 上 に 横 溢 させる 一 方 で,この バッカス の 最 も 重 要 な 特 質 は, 単 なる 先 人 への 共 感 とは 別 の 点 にあるだろう(それゆえ バッカス の 内 容 は, 評 論 揺 らぐ 三 脚 台 の 論 調 と 比 べても, 既 に 微 妙 な 差 異 を 呈 している) テ 119

三 好 俊 介 クストを 注 意 深 く 読 めば 気 づかされるのだが, 詩 人 はこの 作 品 で,プーシキンという 根 株 の 上 に, 確 実 に 自 身 の 思 索 を 接 木 している 本 作 の 中 で 文 学 的 接 木 の 意 義 を 説 く ホダセヴィチは,この 宣 言 にあくまでも 忠 実 に, 実 際 の 作 品 構 築 においても 接 木 的 手 法 を 実 践 しているのだ 具 体 的 には,ホダセヴィチはプーシキンも 用 いた 単 語 резвый (резвость)に 関 わる,ある 精 密 な 詩 法 上 の 操 作 を バッカス のテクストに 施 すのであり, これにより, 先 人 への 配 慮 に 満 ちた 控 えめな 筆 致 ではあるが, 明 らかにプーシキンの 言 説 には 還 元 できない, 自 らの 詩 論 を 作 中 に 織 り 込 んでいる 次 節 において, バッカス で の 上 記 接 木 の 様 相 を 分 析 し,ホダセヴィチ 独 自 の 思 索 を 明 らかにしよう 3. 狂 乱 の 彼 方 に 活 発 快 活 を 意 味 する 名 詞 резвость,あるいは 同 根 の 形 容 詞 резвый は,ホダセヴ ィチ バッカス とプーシキン 詩 人 に の 両 篇 に 共 通 して 用 いられる 単 語 である 後 述 する 事 情 もあり,この 語 が 両 篇 に 共 通 するのは 単 なる 偶 然 ではなく,ホダセヴィチの 意 図 が 働 いた 結 果 だと 解 されるのだが, 興 味 をひくのは, 両 篇 におけるこの 語 の 含 意 がほぼ 正 反 対 となっていることである テクストの 該 当 する 箇 所 を 抜 粋 して, 再 び 掲 げてみる Доволен? Так пускай толпа его бранит И плюет на алтарь, где твой огонь горит, И в детской резвости колеблет твой треножник. 満 足 か それなら 気 にするな, 群 衆 が 作 品 を 罵 り, 君 の 火 の 燃 える 供 物 壇 に 唾 を 吐 き, 子 供 の 快 活 さで 君 の 三 脚 台 を 揺 さぶろうとも (プーシキン 詩 人 に 最 終 連, 下 線 は 論 者 ) プーシキンのテクストでは, 詩 から 離 れてゆく 読 者 大 衆 を 批 判 する 文 脈 で,この 語 が 使 われている テクストの 細 部 に 解 説 を 加 えると, 供 物 壇, 三 脚 台 とは 18~19 世 紀 ロ シア 詩 に 頻 出 する, 古 典 古 代 の 故 事 に 基 づく 隠 喩 表 現 であり, 古 代 ギリシアのデルフォイ における, 神 託 を 得 るための 秘 儀 での 施 設 用 具 のことである プーシキンは 神 託 の 秘 儀 に 詩 作 の 営 みを 擬 え, 大 衆 による 聖 所 の 冒 涜 (すなわち 詩 歌 の 軽 視 )に 敢 然 と 耐 えるよう, 自 らに 言 い 聞 かせ,また 他 の 詩 人 らに 説 いている 燃 えあがる 火 中 に 神 聖 な 捧 げ 物 が 投 じ られる 供 物 壇 は, 霊 感 に 身 を 焦 がす 詩 人 その 人,あるいは 彼 の 胸 中 に 沸 騰 する 創 意 を 表 現 し, 一 方, 聖 所 に 奉 仕 する 巫 女 が 神 意 を 告 知 する 際 に 用 いる 道 具 三 脚 台 は, 公 衆 120

まるで 魔 法 使 いのように に 知 れわたる 詩 人 の 思 想 や, 語 り 継 がれる 詩 人 の 名 声 を 指 すだろう 21 覆 されてはならな いこの 三 脚 台 を 大 衆 は, 子 供 が 玩 具 を 弄 ぶかのような 快 活 さ резвость で 揺 るがし ているのだと,プーシキンは 言 っている そして,ペテルブルク 時 代 のホダセヴィチが 詩 人 に におけるこの 単 語 резвость を 強 く 意 識 したことは, 既 に 何 度 も 名 を 挙 げた 彼 の 評 論 揺 らぐ 三 脚 台 の 記 述 のなかに 確 認 することができる この 評 論 の 末 尾 近 く, 主 張 が 核 心 に 差 し 掛 かる 箇 所 を,やや 長 くなるが 以 下 に 引 用 する 革 命 のもたらした 善 なるものは 少 なくない しかし, 我 々は 皆, 知 っているのだ 戦 争 と ともに 革 命 が,ロシア 国 民 の 全 階 層 に 例 外 なく,かつてない 冷 酷 と 粗 暴 をもたらしたことを 様 々な 事 情 から 今 や, 文 化 を 守 るべく 我 々がいかに 力 を 尽 くそうとも, 一 時 的 な 凋 落 と 暗 闇 が 文 化 を 覆 おうとする 情 勢 に 陥 っている そして, 文 化 とともにプーシキンのイメージも 今 後, 暗 闇 に 覆 われるだろう [ ] プーシキンは 人 々の 愛 を 求 めなかった そんな 愛 など 信 じなかったからだ [ ] 彼 は, 人 々からの 冷 遇 は 不 可 避 であり,その 様 態 は 次 の 二 つの 形 をとるのだろうと 考 えた 群 衆 が 詩 人 の 供 物 壇 に 唾 を 吐 く,つまり 詩 人 本 人 を 侮 辱 して 憎 悪 するか,あるいは, 子 供 の 快 活 さ (резвость) で 彼 の 三 脚 台 を 揺 さぶるか [ 故 人 である]プーシキンその 人 について, 第 一 の 状 況 は 最 早 ありえない 彼 の 火 の 燃 える 供 物 壇 に 群 衆 が 唾 を 吐 くことは,もう 二 度 とない だが, 次 の 詩 行, 子 供 の 快 活 さ(резвость)で 君 の 三 脚 台 を 揺 さぶ る 事 態 は,これから 完 全 に 現 実 のものとなるだろう 私 たちは, 二 度 目 の 日 蝕 [19 世 紀 後 半 に 続 く,プーシキン 文 学 の 不 人 気 ] の 到 来 を, 既 に 目 にしている だが,これから 状 況 はもっと 悪 くなる 三 脚 台 は 完 全 に 倒 れはしなくても, 群 衆 の 攻 勢 のもとで, 周 期 的 に 揺 るがされることになるだろう 群 衆 は 快 活 (резвый)であり, 歴 史 や 時 間 さながら, 何 ものも 惜 しみはしない 彼 らは, 悪 戯 をやめよ と 叱 ることが 誰 にもできない 戯 れる 幼 子 なのである (ホダセヴィチ 揺 らぐ 三 脚 台, 下 線 と 注 記 は 論 者 ) 22 揺 らぐ 三 脚 台 は,プーシキンの 名 声 と 詩 的 遺 産 ( 三 脚 台 )を 軽 視 する 革 命 下 の 世 論 動 向 に, 文 化 全 般 への 敵 意 と 破 壊 の 予 兆 をみて, 詩 人 に など 数 篇 のプーシキン 詩 篇 を 引 用 しながら,これを 厳 しく 批 判 する 評 論 である なお,そうした 世 論 の 筆 頭 としてホ ダセヴィチが 考 えているのは, 自 派 の 綱 領 に 伝 統 文 化 の 破 壊 的 革 新 をあからさまに 掲 げた 詩 人 マヤコフスキーらロシア 未 来 派 だが, 評 論 中, 上 掲 部 分 とは 別 の 箇 所 に 明 記 されてい 21 すぐ 後 でみるように,ホダセヴィチも 評 論 揺 らぐ 三 脚 台 で 同 様 の 解 釈 を 示 している 22 底 本 は 8 巻 本 作 品 集 第 2 巻 Ходасевич В.Ф. Собрание сочинений в 8-и томах. Т. 2. М., 2010. С. 271. 121

三 好 俊 介 るように, 23 揺 らぐ 三 脚 台 は 狭 義 の 文 芸 批 評,つまり 未 来 派 への 反 駁 に 留 まるもので はなく, 著 者 の 目 的 はあくまでも, 当 時 のロシア 全 体 に 漂 う 社 会 的 雰 囲 気 を 指 摘 すること にある 革 命 後 の 祝 祭 と 狂 乱 の 中 で, 群 衆 は 何 ものも 惜 し むことのない 激 しさで 文 化 的 蓄 積 に 対 して 攻 撃 を 加 え,しかも, 本 来 は 陰 鬱 極 まりないはずのこの 行 為 に 際 して, 無 邪 気 な 子 供 にも 似 た 快 活 な 笑 顔 を 浮 かべている 要 するに, 彼 らには 罪 の 意 識 などな く, 正 しいと 信 じながら 狂 乱 に 耽 っているのだ 群 衆 は 子 供 のように 無 知 であり,それだ けにこの 蛮 行 の 阻 止 は 限 りなく 困 難 に 違 いなく, 詩 人 文 化 人 は 当 面 はこれに 耐 える 苦 難 を 味 わわねばならない ホダセヴィチは,およそこのような 論 調 で 揺 らぐ 三 脚 台 を 書 き 上 げる 半 年 余 りを 経 て,この 下 地 のもとにホダセヴィチは バッカス を 執 筆 する 揺 らぐ 三 脚 台 結 末 部 でプーシキンから 引 用 した 用 語 резвый は, 相 変 わらず 彼 の 意 識 下 に 刻 ま れていたのだろう,この 語 を 詩 人 は バッカス 末 尾 で 再 び 用 いるのだが,ここで 奇 妙 な ことが 起 きる 群 衆 の 狂 乱 を 形 容 するはずのこの 語 は, バッカス では 含 意 が 逆 転 し, つまり 快 活 резвый なのは 大 衆 ではなく, 詩 人 ということになっているのだ Я же прочь, походкой резвой, В розовеющий туман, Сколько бы ни выпил трезвый, Лишь самим собою пьян. 私 はといえば 快 活 な 足 取 りで 薔 薇 色 に 染 まる 霧 の 中 へと 去 ってゆく いくら 飲 んでも 酔 うことはなく ただ 自 分 自 身 にだけ 酔 いながら (ホダセヴィチ バッカス 最 終 連, 下 線 は 論 者 ) 快 活 さは 別 に, 悪 というわけではない そもそも, 詩 は 人 を 快 活 にするものだから, 詩 人 である 自 分 もまた, 快 活 な 足 取 り で 創 作 行 路 を 歩 み 続 けるのだ ホダセヴィチは そう 語 るようであり,これは 先 行 する 評 論 での 論 調 と 一 見 矛 盾 するのだが,ここで,この 連 で 踏 まれている 脚 韻 に 注 意 を 払 うべきである 評 論 いらい 半 年 余 にわたる 濃 密 な 詩 人 の 思 索 の 核 心 が, 第 一, 第 三 行 をまたぐこの 交 差 韻 に 含 まれているのだ резвой 快 活 な/ трезвый 酔 うことがない, 醒 めている つまり, 詩 人 の 快 活 とは 醒 めた 快 活 さであ り, 革 命 の 熱 に 浮 かされた 大 衆 の 快 活 とは 全 く 異 質 なのだ ホダセヴィチはそう 考 え, 脚 韻 による 二 語 の 結 合 によって,この 見 解 を 読 み 手 の 前 に 提 出 する 誰 でも 酔 えば 陽 気 になる 酒 であれ, 革 命 の 熱 狂, 暴 力 と 破 壊 が 生 む 悦 楽 であれ, 何 かに 陶 酔 して 快 活 で 23 Там же. С. 270. これら 全 てを 言 及 するにあたり, 私 が 念 頭 に 置 くのは 未 来 派 では 全 くなくて, はるかに 穏 健 な 文 学 グループの 代 表 者 たちである プーシキンへの 直 接 的, 基 本 的 な 無 理 解 と 無 知 が, 文 学 界 の 若 年 層 に 加 え, 読 者 層 にも 蔓 延 していることを 証 明 する, 大 量 の 悲 しむべき 珍 事 を 挙 げることも 可 能 である 122

まるで 魔 法 使 いのように あることは, 実 はたやすいのだ ただし,そのような 無 理 な 酩 酊 から 得 られる 快 感 は, 覚 醒 すれば 消 えてしまう これに 対 して, 詩 のもたらす 快 活 は 一 時 のものではない それは, 人 間 本 来 の 生 彩 ある 感 情 が 意 識 の 底 から 噴 出 したものだから, 簡 単 に 霧 消 したりはしない のだ ホダセヴィチは,このように 考 える 確 かに, バッカス では, 詩 の 悦 楽 が 宴 に 擬 えられ, 常 に 醒 めている 詩 人 を 除 いて, 人 々はみな 酩 酊 して 眠 りに 就 く だが, 翌 朝 には 多 幸 感 の 失 われる 実 際 の 酒 宴 とは 違 い,テクスト 分 析 でみたように, 詩 の 宴 に 連 なった 人 は 目 覚 めて 平 静 を 回 復 した 後 にも, 生 涯 の 終 わりまで,なお 幸 福 なのである こうしてホダセヴィチは, 快 活 の 含 意 を 精 密 に 区 分 し, 革 命 下 における 詩 と 読 者 大 衆 の 関 係 を 考 えている 大 衆 はいま, 粗 暴 にも 伝 統 的 詩 歌 を 排 斥 するのだが,それは 彼 ら が 革 命 に 酔 い, 熱 狂 しているからにすぎないのだ ならば,やがて 熱 狂 が 去 り, 人 々の 胸 中 が 再 び 清 浄 な 杯 のように 澄 み 渡 る 時, 彼 らは 病 的 快 活 さから 本 来 の 快 活 さに 立 ち 戻 るだろう 現 在 の 状 況 がいかに 絶 望 的 に 思 われようと, 人 々が 再 び 詩 集 を 紐 解 く 日 は, 必 ずやってくるはずなのだ そして, 時 がきたら/ 命 をもたらすわが 果 汁 を/ 清 浄 な 杯 に 注 ぎ 分 けるがいい ( バッカス 第 二 連 ) バッカス でこの 詩 句 を 綴 るとき,ホダセヴィチは 恐 らく, 詩 人 に の 原 稿 に 向 か うプーシキンの 境 地 を, 追 体 験 するかのような 感 覚 に 捉 われたはずだ プーシキンはなぜ, 詩 人 の 三 脚 台 を 揺 さぶろうとする 群 衆 の, 本 来 は 非 難 に 値 する 振 舞 いをあえて, 子 供 の 快 活 さ などという 単 語 で 表 現 したのか それは, 大 衆 の 無 知 と 幼 さへの 憤 懣 からだ けだったとは, 必 ずしも 言 い 切 れない プーシキンもやはり, 大 衆 の 善 なる 本 性 と,いつ の 日 か 訪 れる 詩 的 文 化 の 復 活 を 信 じていたから,そんな 表 現 をあえて 用 いたのではあるま いか 幼 い 子 供 は 往 々にして 笑 顔 を 浮 かべながら 玩 具 を 弄 び, 壊 してしまうのだが,その 一 見 残 酷 な 快 活 さは 実 は 罪 のないものであり, 遊 戯 に 飽 きれば 彼 は 善 良 な 幼 子 に 戻 り, 澄 んだ 眼 差 しを 再 び 世 界 に 向 けるのだ プーシキンの 詩 句 は,そうした 意 味 での 子 供 の 快 活 さ に, 社 会 の 転 換 期 の 只 中 で 戸 惑 い 彷 徨 する 大 衆 を, 擬 えたものではなかったか バッカス はこの 視 点 から,プーシキン 詩 を 再 解 釈 し, 先 人 の 言 葉 を 現 代 への 激 励 と して 受 容 する 作 品 である もちろん,これがいかに 魅 力 ある 解 釈 であれ,プーシキンは 詩 人 に のテクストに, 疑 いの 余 地 のない 明 瞭 さでそう 記 しているわけではない これは, 既 にプーシキン 本 人 の 残 した 筆 跡 からは 一 歩 踏 み 出 した,ホダセヴィチその 人 による 解 釈 なのであり, 彼 はそれをプーシキンの 言 葉 に 接 木 する 形 で, バッカス を 完 成 させ たのである なお, バッカス 以 後 について 少 し 触 れておくと,この 作 品 で 示 した 立 場 をホダセヴ 123

三 好 俊 介 ィチは 亡 命 下 でも 維 持 しながら, 冷 静 な 熟 考 が 詩 作 にとっていかに 重 要 であるか 文 芸 評 論 で 力 説 し,また 自 らの 詩 篇 の 一 部 でこの 主 張 を 実 践 することになる 24 こうした 彼 の 行 動 はやがて, 直 感 や 感 覚 を 重 視 する 亡 命 ロシア 詩 壇 の 若 年 世 代,つまりアダモヴィチら 所 謂 パリ 調 詩 派 との 摩 擦 を 生 み, 亡 命 ロシア 文 壇 における 最 も 有 名 な 論 争 の 一 つ ホダセ ヴィチ アダモヴィチ 論 争 に 繋 がってゆくのだが,この 過 程 において,いわば 理 詰 め の 詩 風 を 追 求 する 冷 徹 な 理 性 崇 拝 者, 詩 的 感 興 の 排 斥 者 としてのホダセヴィチのイメ ージが, 些 か 誇 張 を 伴 って 形 成 された 観 は 否 めない しかし, 彼 の 真 意 は 決 して 理 性 や 技 巧 の 偏 愛 にあったわけではなく, 基 本 的 には 彼 はただ, 本 来 穏 やかであるべき 詩 の 祝 宴 か ら 危 険 な 熱 狂 を 遠 ざけるよう 主 張 したにすぎない まるで 魔 法 使 いのよう ( バッカス 冒 頭 )な 巧 みさで 理 知 と 感 情 の 均 衡 を 保 ち, 醒 めた 快 活 を 実 現 する 努 力 を,ホダセヴィチは 詩 作 の 上 で 極 めて 重 視 し, 自 他 共 に 対 して これを 厳 しく 要 求 したわけである これに 関 連 して 最 後 に, 亡 命 期 のホダセヴィチが 遺 し た 散 文 分 野 の 大 作 である 評 伝 デルジャーヴィン Державин ( 1931)に 触 れておきたい というのも,この 評 伝 もまたプーシキンに 仮 託 して バッカス 同 様 の 主 張 を 展 開 する 一 節 を 含 むため,ホダセヴィチが 先 述 の 境 地 を 亡 命 時 代 も 長 く 維 持 した 証 左 として, 概 要 を 紹 介 しておきたいのである リ ツ ェ イ その 一 節 は, 貴 族 幼 年 学 院 の 進 級 試 験 で 在 学 生 プーシキンが 自 作 詩 篇 皇 帝 村 の 思 い 出 を 朗 読 し, 列 席 する 詩 壇 の 老 大 家 デルジャーヴィンを 驚 愕 させた, 文 学 史 上 有 名 な 事 件 の 描 写 なのだが, 25 ホダセヴィチは 試 験 そのものより,その 前 日 までの 経 緯 に 多 くの 注 意 を 払 い,こう 物 語 っている プーシキンは, 学 院 上 層 部 から 来 賓 デルジャーヴィンに 捧 げる 作 品 を 朗 読 するよう 予 め 指 示 される しかし, 既 に 試 験 の 開 催 日 は 間 近 に 迫 り, 新 作 を 書 き 下 ろす 余 裕 はない やむなく 彼 は, 書 き 溜 めていた 皇 帝 村 の 思 い 出 草 稿 を 急 遽 改 作 することにしたのだが, 元 々 完 璧 で 改 良 の 余 地 のない 作 品 ゆえ,デルジャーヴィンを 讃 える 詩 句 を 新 たに 挿 入 すると,どうしても 脚 韻 が 大 きく 崩 れてしまう 彼 は 試 験 前 日 の 深 夜 まで 必 死 に 改 良 に 取 り 組 むのだが, 結 局, 天 才 の 技 巧 をもってしても 十 分 な 改 作 は 不 可 能 であった プーシキンは 諦 めて 試 験 に 臨 み, 大 家 の 不 興 を 覚 悟 で 明 らかに 不 備 のある 24 たとえば 亡 命 後 の 詩 篇 神 はあられる! 知 を 尊 び 不 可 解 を 嫌 う 私 は Жив Бог! Умен, а не заумен,.. (1923)では,いずれ 自 らの 臨 終 の 苦 悶 を 頌 詩 の 文 体,つまり 18 世 紀 ロシア 啓 蒙 主 義 文 学 の 明 確 な 論 理 性 でうたいあげたいという, 一 見 奇 妙 な 夢 想 が 語 られる: ああ, 私 のいまわの 際 の 呻 きは/ 明 快 な 頌 詩 であったらよいのだが! あるいは, 鏡 の 前 で Перед зеркалом (1924)で は, 亡 命 下 の 詩 人 自 身 の 姿 が, 虚 飾 と 高 揚 を 徹 底 的 に 排 した 冷 静 な 客 観 性 をもって 描 かれる: そこ に 映 るのはまさか 私 なのか / 母 上 は 本 当 に 愛 したのか,/くすんだ 黄 色 い 顔 をして 半 ば 白 髪 の/ 蛇 さながらに 全 知 の 人 間 を /[ ]/ 真 実 を 語 るガラスの 枠 内 には/ただ 孤 独 しかない ( 底 本 は Ходасевич 2009. С. 158, 179) 25 Ходасевич В.Ф. Державин. М., 1988. С. 219-221. 124

まるで 魔 法 使 いのように 作 品 を 朗 読 するのだが,ところが,これに 耳 を 傾 けるデルジャーヴィンは,そうした 細 か い 不 備 など 全 く 気 に 留 めない 老 大 家 は, 完 璧 さを 求 める 作 者 の 知 的 努 力 に 由 来 する, 迫 力 ある 筆 致 と 朗 誦 にただ 圧 倒 され, 感 涙 のうちに 年 少 詩 人 の 船 出 を 祝 福 するのだった 以 上 が, 評 伝 デルジャーヴィン 当 該 部 分 での,ホダセヴィチの 筆 致 の 概 要 である 詩 人 プーシキンの 誕 生 に 先 立 つこと 一 日 前 のこの 出 来 事 が 示 すように, 醒 めた 知 性 の 営 みが 限 界 まで 尽 くされたとき, 詩 はかえって 暖 かな 血 を 通 わせ, 作 者 も 予 想 しえない 生 命 力 で 飛 翔 しはじめる それゆえ, 醒 めて 快 活 であることは, 決 して 無 理 な 要 求 では なく,むしろ 詩 人 にとって 極 めて 自 然 な 創 作 プロセスなのだ ホダセヴィチは バッ カス 同 様, 後 年 のこの プーシキン 挿 話 でも,そのようなメッセージを, 倦 むことな く 発 し 続 けるのだが,この 呼 びかけは, 同 時 代 人 の 大 半 からはついに 理 解 されることがな かったのである 結 び 本 稿 では 盛 期 ホダセヴィチの 詩 篇 バッカス を 解 釈 し, 幾 つかの 文 学 的 コンテクスト を 分 析 した 上 で,そのうち 最 も 重 要 というべきプーシキン 詩 篇 詩 人 に との 関 係 につい て, 詳 細 な 考 察 を 施 した 過 去 のロシア 詩 の 伝 統 の 上 に 新 たな 知 見 を 接 木 することが, 盛 期 ホダセヴィチの 詩 法 の 基 本 であり,それはこの バッカス の 中 でも 宣 言 されている のだが, 同 時 に バッカス ではこの 詩 法 の 実 践 が 行 なわれており,ロシア 詩 の 未 来 をめ ぐるプーシキンの 思 索 の 上 に,ホダセヴィチの 見 解 が 接 木 されている 様 子 を, 本 稿 で はテクスト 比 較 によって 具 体 的 に 明 らかにした 革 命 期 の 熱 狂 の 渦 中 で 詩 が 危 機 に 瀕 する 中, 将 来 における 詩 の 復 活 の 可 能 性 をあくまで 信 じようとするホダセヴィチは, バッカ ス 等 における プーシキンとの 対 話 によってその 意 思 を 確 かなものにしてゆくのであ った ホダセヴィチの 詩 的 世 界 を 理 解 する 上 で,プーシキンとの 関 係 は 中 心 的 問 題 の 一 つであ り, 今 回 扱 った 内 容 以 外 にも 研 究 されるべき 点 は 数 多 い 本 稿 ではこれらについては, 簡 単 な 概 略 を 紹 介 するにとどまったが,いずれ 別 の 機 会 に 論 点 の 掘 り 下 げを 試 みることとし たい 26 26 本 稿 は, 平 成 23 年 度 北 海 道 大 学 スラブ 研 究 センター スラブ ユーラシア 地 域 ( 旧 ソ 連 東 欧 ) を 中 心 とした 総 合 的 研 究 ( 共 同 利 用 型 ) による 研 究 成 果 の 一 部 である 125

三 好 俊 介 Как волшебник, прихожу я: «Вакх» В.Ф. Ходасевича и А.С.Пушкин МИЁСИ Сюнсукэ Данная работа имеет целью проанализировать малоизученное стихотворение В.Ф.Ходасевича «Вакх» (1921) и по результатам анализа выяснить основную творческую тенденцию поэта в начале 1920-х годов, в самый плодотворный период его жизни. В весьма трудных обстоятельствах вокруг классической литературы сразу после Октябрьской революции Ходасевич серьезно опасался за дальнейшую судьбу русской поэзии, и стал считать своим священным долгом сохранение ее богатых традиций. С этой целью во многих своих стихотворениях и критических статьях этого периода Ходасевич активно размышляет и рассуждает о достижениях великих русских поэтов. Стихотворение «Вакх» является одним из ярких примеров этих размышлений поэта. Изображая идеальное, беспрерывное продолжение поэтических традиций в образе прививки винограда, Ходасевич употребляет фразы, которые напоминают читателям красоту и ободряющую силу стихотворений таких поэтов, как А.С.Пушкин, Ф.И.Тютчев и русские символисты. Можно сказать, что «Вакх» представляет собой чудесную панораму истории русской поэзии. В данной работе уделяется особое внимание конкретной связи между «Вакхом» и знаменитым сонетом Пушкина «Поэту» (1830). Развивая мысль Пушкина о судьбе русской поэзии, Ходасевич призывает к тому, чтобы преодолеть буйные годы революции, сохранять поэтическое наследство и не терять доверия к широкой читающей публике. Для тщательного освещения отношения Ходасевича к Пушкину мы рассмотрел наряду с «Вакхом» упоминания о Пушкине в критической статье Ходасевича «Колеблемый треножник» (1921), а также в его биографической прозе «Державин» (1931). 126