日 本 國 論 5 章 天 武 紀 持 統 紀 の 真 実 太 宰 府 と 藤 原 京 持 統 の 二 つの 京 古 代 天 皇 家 の 京 太 宰 府 朱 鳥 元 年 (686)11 月 丁 酉 朔 壬 子 (16 日 )に 伊 勢 神 祠 に 奉 れる 皇 女 大 来 還 りて 京 師 に 到 る 朱 鳥 元 年 9 月 9 日 に 天 武 が 亡 くなった その 年 の11 月 大 来 皇 女 が 京 師 に 還 ってきた その 理 由 は10 月 に 弟 大 津 皇 子 が 謀 反 を 企 てたことが 発 覚 し 死 を 賜 ったからである 大 来 皇 女 は 天 武 3 年 10 月 伊 勢 神 宮 の 齋 宮 とし てに 入 侍 したがこの 謀 反 によってその 任 を 解 かれたのであろう だがこの 記 事 には 二 つの 問 題 がある (1) 京 師 とはどこか 大 来 皇 女 は 京 師 から 出 発 し 再 び 京 師 へ 戻 ってきた 故 に 還 りて と 書 いたのであるが この 京 師 は 天 武 が 居 た 京 師 である 天 武 は 京 の 大 極 殿 に 居 たと 日 本 書 紀 は 記 している 大 極 殿 とは 世 界 を 支 配 する 中 心 大 極 の 意 で 本 来 中 国 の 天 子 の 居 所 を 謂 う 天 武 の 時 代 に 我 が 国 で 大 極 殿 の 存 在 が 確 認 されている 宮 殿 は 幾 つかある 関 西 においては 前 期 難 波 宮 である 上 町 台 地 の 北 の 端 に 存 在 し 当 時 ここまで 入 り 込 んでいた 海 に 面 して いた この 難 波 宮 遺 跡 には 大 極 殿 が 存 在 している もう 一 つは 藤 原 京 である この 京 は 平 城 宮 平 安 京 を 凌 ぐ 古 代 最 大 の 条 坊 都 市 であった 藤 原 京 の 中 心 は 大 極 殿 朝 堂 院 内 裏 が 存 在 した 藤 原 京 は 持 統 によって 造 られたと 理 解 されているが 天 武 の 時 代 には 京 及 び 畿 内 が 存 在 したことが 明 白 である 天 武 はこの 京 及 び 畿 内 に 度 々 使 者 を 遣 わしている 天 武 紀 に 登 場 する 京 及 び 畿 内 とは 藤 原 京 と 畿 内 ( 近 畿 地 方 ) である 持 統 は 藤 原 京 を 造 ったのではなく 藤 原 宮 を 造 ったのである 天 武 の 時 代 に 存 在 した 三 つ 目 の 京 と 大 極 殿 は 太 宰 府 である この 京 は 古 代 九 州 の 王 朝 姫 氏 によって 造 営 された 五 世 紀 倭 の 五 王 として 中 国 に 知 られていた 姫 氏 王 朝 の 王 によって 造 られた 京 である 大 阪 難 波 宮 藤 原 京 大 極 殿 天 武 紀 に 於 ける 京 京 師 とはこの 三 つの 京 のいずれである 天 武 はいずれの 京 の 大 極 殿 に 居 たのか 其 れを 決 定 するのが 天 武 紀 の 京 大 極 殿 の 記 事 と 筑 紫 饗 応 の 記 事 の 併 記 である - 1 -
天 武 10 年 (681) 夏 4 月 の 己 亥 朔 庚 子 (2 日 )に 広 瀬 竜 田 の 神 を 祭 る 4 月 辛 丑 (3 日 )に 禁 式 九 十 二 条 を 立 つ 因 りて 詔 して 曰 はく 親 王 より 以 下 庶 民 に 至 るまでに 諸 の 服 用 いる 所 の 金 銀 珠 玉 紫 錦 繍 綾 及 び 氈 褥 冠 帯 并 せて 種 々 雑 色 の 類 服 用 いること 各 差 有 れ とのたまふ 辞 は 具 に 詔 書 に 有 り 4 月 庚 戌 (12 日 ) 錦 織 造 小 分 田 井 直 吉 麻 呂 次 田 倉 人 椹 足 石 勝 川 内 直 県 忍 海 造 鏡 荒 田 能 麻 呂 大 狛 造 百 枝 足 坏 倭 直 竜 麻 呂 門 部 直 大 嶋 完 人 造 老 山 背 狛 烏 賊 麻 呂 并 せて 十 四 人 に 姓 を 賜 ひ て 連 と 曰 ふ 4 月 乙 卯 (17 日 )に 高 麗 の 客 卯 問 等 に 筑 紫 に 饗 たまふ 賜 禄 こと 差 有 り 天 武 10 年 4 月 3 日 に 禁 式 九 十 二 条 を 作 って 詔 勅 を 発 した 天 武 10 年 4 月 12 日 には 絹 織 物 を 作 る 仕 事 を 担 っていた 錦 織 造 小 分 など14 人 に 連 という 姓 を 与 えた そして 天 武 10 年 4 月 17 日 には 高 麗 の 客 卯 問 等 に 筑 紫 に 饗 たまふの 記 事 が 併 記 されている 4 月 3 日 の 詔 勅 4 月 12 日 の 連 の 授 与 は 京 の 大 極 殿 に 居 た 天 武 の 公 務 である 4 月 17 日 に 筑 紫 館 で 高 麗 の 客 を 饗 応 したのも 天 武 である これらの 出 来 事 は 場 所 と 時 間 を 共 有 す る 天 武 は 関 西 の 難 波 宮 藤 原 京 に 居 たのではない 天 武 は 太 宰 府 に 居 て 詔 勅 を 出 し 臣 下 に 連 を 与 え 筑 紫 に 出 かけて 饗 応 したのである 天 武 紀 の 京 とは 太 宰 府 である 天 武 は 壬 申 の 乱 に 勝 利 して 田 川 の 飛 鳥 浄 御 原 宮 で 即 位 してのちまもなくして 太 宰 府 大 極 殿 に 入 ったと 思 われる この 京 で 新 羅 を 始 めとして 各 国 からの 祝 賀 の 大 使 を 迎 え 筑 紫 の 迎 賓 館 で 大 使 を 接 待 したのである 朱 鳥 元 年 11 月 大 来 皇 女 が 戻 ってきた 京 師 とは 条 坊 都 市 の 京 太 宰 府 である (2) 伊 勢 神 詞 とはどこか 天 武 は 壬 申 に 蜂 起 した 際 その 拠 点 を 伊 勢 と 決 めていた 高 市 皇 子 大 津 皇 子 に 伊 勢 で 逢 へ と 伝 えた のはそのためである 蜂 起 を 決 意 した 時 天 武 は 吉 野 の 耳 我 の 嶺 を 降 りて 彦 島 の 橘 の 嶋 宮 に 居 た 彦 島 では 戦 いにならない 兵 もいない 武 器 もない 故 に 天 武 は 伊 勢 へ 急 いだ そして 伊 勢 鈴 鹿 郡 伊 勢 三 重 郡 伊 勢 朝 明 郡 まで 来 て 天 照 大 神 を 望 拝 した 伊 勢 神 宮 は 朝 明 郡 にあったと 思 われる その 後 伊 勢 桑 名 郡 で 泊 まっ てそれ 以 上 は 先 に 進 まなかったと 云 う 先 に 進 まなかった 理 由 は 天 武 の 武 将 の 男 依 が 来 て 美 濃 の 兵 三 千 が 不 破 道 を 塞 いだ と 連 絡 したからである 不 破 道 は 伊 勢 へ 通 じる 街 道 であった その 道 を 天 武 方 の 兵 が 塞 ぐこと ができた 以 上 もはや 桑 名 から 先 へ 逃 げる 必 要 はない 故 に 天 武 は 桑 名 に 留 まって 翻 って 反 撃 にでたのである この 伊 勢 は 現 代 伊 勢 三 重 県 伊 勢 ではない 古 代 伊 勢 行 橋 市 である 大 来 皇 女 は 天 武 が 居 た 京 ( 太 宰 府 )から 古 代 伊 勢 神 宮 ( 行 橋 市 )の 斎 宮 として 入 侍 した そして 弟 大 津 皇 子 の 反 逆 の 罪 によって 再 び 太 宰 府 に 帰 ってきたのである その 時 の 歌 が 万 葉 集 にある 大 津 皇 子 薨 りましし 後 大 来 皇 女 伊 勢 の 齋 宮 より 京 に 上 る 時 の 御 作 歌 二 首 163 神 風 の 伊 勢 の 國 にも あらましを なにしか 来 けむ 君 もあらなくに 164 見 まく 欲 り わがする 君 も あらなくに なにしか 来 けむ 馬 疲 るるに 前 書 きは 京 に 上 る 時 と 正 確 に 書 いている 京 とは 持 統 が 居 た 京 太 宰 府 である 二 つの 歌 には なにしか 来 けむ と 詠 われている 大 津 皇 子 が 亡 くなってしまった 今 空 しいだけの 帰 京 だった 疲 れたのは 馬 と 詠 ってい るが 疲 れたのは 馬 ではない 彼 女 が 空 しく 疲 れていたのである 朱 鳥 元 年 (686)12 月 丁 卯 朔 乙 酉 (19 日 )に 天 渟 中 原 瀛 真 人 天 皇 の 奉 為 に 無 遮 大 会 を 五 つの 寺 大 官 飛 鳥 川 原 小 墾 田 豊 浦 坂 田 に 設 く 壬 辰 (26 日 )に 京 師 の 孤 独 高 年 に 布 帛 賜 ふこと 各 差 (しな) 有 り 閏 12 月 に 筑 紫 大 宰 三 つの 国 高 麗 百 済 新 羅 の 百 姓 男 女 并 て 僧 尼 六 十 二 人 を 献 れり 持 統 元 年 (687) 庚 辰 (15 日 )に 京 師 の 年 八 十 より 以 上 及 び 篤 隆 貧 くして 自 ら 存 ふこと 能 はぬ 者 に 絁 綿 賜 ふこと 各 差 有 り 夏 4 月 甲 午 の 朔 癸 卯 (10 日 )に 筑 紫 大 宰 献 投 化 ける 新 羅 の 僧 尼 及 び 百 姓 の 男 女 二 十 二 人 を 献 る 武 蔵 国 に 居 らしむ 田 賦 ひ 受 稟 ひて 生 業 安 らかしむ 京 師 とは 同 じく 大 宰 府 である この 都 市 の 孤 独 で 高 年 の 人 々に 布 帛 を 与 えた そして 筑 紫 太 宰 が 京 大 - 2 -
宰 府 に 居 た 持 統 に 高 麗 百 済 新 羅 の 百 姓 男 女 并 て 僧 尼 六 十 二 人 を 献 上 した この 二 つの 出 来 事 は 持 統 と 筑 紫 太 宰 が 時 間 と 場 所 を 共 有 していたことを 示 す 記 事 である 持 統 紀 も 持 統 と 京 と 筑 紫 セットの 記 事 で 溢 れる 持 統 元 年 (687)8 月 の 壬 辰 の 朔 丙 申 (5 日 )に 殯 宮 に 嘗 る 此 を 御 青 飯 と 曰 ふ 丁 酉 (6 日 )に 京 城 の 耆 老 男 女 皆 臨 みて 橋 に 西 に 慟 哭 る 持 統 元 年 9 月 壬 戌 朔 庚 午 (9 日 )に 国 忌 の 斎 を 京 師 の 諸 寺 に 設 く 辛 未 (10 日 )に 殯 宮 に 設 斎 す 甲 申 (23 日 )に 新 羅 王 子 金 霜 林 級 飡 金 薩 挙 及 び 級 飡 金 仁 述 大 舍 蘇 陽 信 等 を 遣 して 国 政 を 奏 請 し 且 調 賦 を 献 る 学 問 僧 智 隆 附 ひて 至 れり 筑 紫 大 宰 便 ち 天 皇 の 崩 りますことを 霜 林 等 に 告 ぐ 即 日 に 霜 林 等 皆 喪 服 を 著 て 東 に 向 きて 三 たび 拝 みて 三 たび 発 哭 る 持 統 2 年 (688) 二 月 庚 寅 朔 辛 卯 (2 日 )に 大 宰 新 羅 の 調 賦 金 銀 絹 布 皮 銅 鉄 の 類 十 余 物 并 て 別 に 献 る 所 の 仏 像 種 々 彩 絹 鳥 馬 の 類 十 余 種 及 び 霜 林 が 献 れる 金 銀 彩 色 種 々 珍 異 之 物 并 て 八 十 余 物 献 る 己 亥 (10 日 )に 霜 林 等 に 筑 紫 館 に 饗 たまふ 物 賜 ふこと 各 差 有 り 持 統 2 年 9 月 の 丙 辰 朔 戊 寅 (23) 日 )に 耽 羅 の 佐 平 加 羅 等 に 筑 紫 館 に 饗 たまふ 物 賜 ふこと 各 差 有 り 持 統 3 年 (689)6 月 壬 午 朔 に 衣 裳 を 筑 紫 大 宰 等 に 賜 ふ 持 統 3 年 6 月 辛 丑 (20 日 )に 筑 紫 大 宰 粟 田 真 人 朝 臣 等 に 詔 して 学 問 僧 明 聡 観 智 等 が 新 羅 の 師 友 に 送 ら むが 為 の 綿 各 一 百 四 十 斤 を 賜 ふ 乙 巳 (24 日 )に 筑 紫 の 小 郡 にして 新 羅 の 弔 使 金 道 那 等 に 設 たまふ 物 賜 ふこと 各 差 有 り 持 統 3 年 秋 7 月 の 壬 子 の 朔 に 陸 奥 の 蝦 夷 沙 門 自 得 が 請 せる 金 銅 の 薬 師 仏 像 観 世 音 菩 薩 像 各 一 躯 鍾 娑 羅 宝 帳 香 炉 幡 の 等 き 物 を 付 け 賜 ふ 是 の 日 に 新 羅 の 弔 使 金 道 那 等 罷 り 帰 りぬ 丙 寅 (15 日 )に 左 右 京 職 及 び 諸 国 司 に 詔 して 射 所 習 う 所 を 築 かしむ 持 統 3 年 閏 8 月 の 丁 丑 (27 日 )に 浄 広 肆 河 内 王 を 以 て 筑 紫 大 宰 師 とす 兵 仗 を 授 けたまひ 物 賜 ふ 持 統 元 年 から 持 統 3 年 までの 筑 紫 記 事 です この 間 持 統 は 筑 紫 館 で 新 羅 大 使 耽 羅 の 大 使 を 饗 応 してい る 持 統 3 年 15 日 に 登 場 する 左 右 京 職 とは 太 宰 府 の 左 京 区 右 京 区 の 今 で 謂 う 区 長 であろう 持 統 3 年 8 月 に 河 内 王 を 太 宰 師 に 任 命 している そして 是 が 持 統 が 太 宰 府 において 太 宰 府 師 河 内 王 と 面 会 した 最 後 である この 記 事 をもって 直 接 の 持 統 筑 紫 記 事 は 終 わる 万 葉 集 第 三 巻 雷 岳 の 歌 万 葉 集 第 三 巻 の 冒 頭 句 は 人 麿 の 雷 岳 の 歌 である 天 皇 雷 岳 に 御 遊 しし 時 柿 本 人 麿 の 作 る 歌 一 首 235 大 君 ( 皇 )は 神 にし 座 せば 天 雲 の 雷 の 上 に 廬 らせるかも 右 或 る 本 に 曰 はく 忍 壁 皇 子 に 献 るといへり その 歌 に 曰 はく 王 は 神 にし 座 せば 雲 隠 る 雷 山 に 宮 敷 きいます 前 書 きの 天 皇 とは 持 統 天 皇 と 考 えられる 持 統 が 雷 岳 に 登 った 時 の 歌 である さてこの 雷 岳 とはどの 山 か 通 常 奈 良 明 日 香 雷 にある 小 さな 低 い 丘 と 考 えられている 現 地 のこの 丘 をご 覧 になれば 人 麿 が 歌 った 雄 大 なイメ-ジの 山 がまさかこの 丘 かと 落 胆 されるでしょう 奈 良 明 日 香 雷 の 低 い 丘 に 立 って 天 雲 の 雷 の 上 と 歌 うことはない 多 くの 指 摘 がある 通 りである 人 麿 の 歌 はこの 丘 の 歌 ではない 人 麿 歌 の 原 文 では 皇 と 書 かれ ている 皇 者 神 二 四 座 者 天 雲 之 雷 之 上 尓 廬 為 流 鴨 この 皇 を 大 君 と 訓 んではならない 大 君 と 訓 めばそれは 持 統 ということになろう だが 人 麿 は 持 統 を 神 にし 座 せば と 讃 えて 歌 っているのではない 神 にし 座 せば の 主 語 は 原 文 のままに 皇 と 訓 むべきである 歌 は 皇 は 神 だから 天 雲 の 上 に 廬 しておいでになるという 意 である 皇 とは 持 統 ではない では 皇 が 持 統 - 3 -
でないとすれば 皇 とはいかなる 存 在 なのか 作 歌 情 景 を 考 えてみよう その 時 人 麿 は 雷 岳 の 山 頂 に 立 っていた 人 麿 歌 は 天 皇 がこの 山 に 登 った 時 に 作 られた 歌 である 当 然 天 皇 持 統 もそこにいた だが 山 頂 にいたのは 持 統 と 人 麿 の 二 人 だけではなかった そこ にはもう 一 人 主 役 がいたのである その 人 物 が 皇 である むろん 皇 はこの 世 の 人 ではない 神 である 神 として 雷 岳 に 祀 られていた 人 物 である 山 頂 に 祀 られていた 皇 を 皇 は 神 だから 天 雲 の 上 にそびえる 雷 岳 の 山 頂 に 祀 られておいでになる と 人 麿 は 詠 ったのである 皇 とは 神 となり 神 として 祀 られた 古 代 の 王 で ある 雷 岳 の 山 頂 には 古 代 国 家 の 王 が 祀 られていた その 王 は 偉 大 な 王 だった 持 統 も 人 麿 もその 王 が 天 雲 の 上 に 祀 られていることを 知 っていた そして 現 地 に 立 った 皇 は 天 雲 の 上 に 祀 られている 皇 は 神 にし 座 せば 天 雲 の 雷 の 上 に 廬 らせるかも ごくごく 自 然 な 歌 である ではこの 雷 岳 とはどの 山 か 山 頂 に 古 代 の 王 が 祀 られている 山 頂 は 天 雲 の 上 にあるかのようにそびえている このような 雷 岳 とはどこに 存 在 する 山 か むろん 奈 良 明 日 香 雷 の 丘 ではな い まさに 人 麿 の 歌 にぴったりの 山 が 存 在 する すでに 古 田 武 彦 氏 が 詳 しく 論 述 されているところである その 山 とは 佐 賀 市 富 士 町 の 雷 山 (らいざん) である 雷 岳 は 標 高 954mで 山 頂 には 雷 神 宮 の 上 社 がある ここに は 古 来 神 が 祀 られてきた 山 頂 は 福 岡 県 側 に 位 置 する 頂 上 の 下 に 広 がる 草 原 を 層 々 岐 野 (そそぎの) と 呼 び 神 功 皇 后 の 伝 説 が 伝 えられている 場 所 という この 野 原 の 名 に 因 んで 雷 山 は 層 々 岐 岳 (そそぎだけ) の 別 名 を 持 つ 頂 上 には 雷 神 社 の 上 宮 ( 石 祠 三 つ)がある 古 来 山 全 体 が 雷 神 の 鎮 座 する 霊 山 と 考 えられ 故 に 雷 山 の 名 を 持 つという 地 元 では 雷 山 に 雲 がかかると 雨 になる という 雷 山 千 如 寺 大 悲 王 院 ( 雷 山 観 音 ) 神 籠 石 不 動 滝 ( 清 賀 の 滝 )が 観 光 名 所 山 頂 は 福 岡 県 側 に 位 置 す る 頂 上 の 下 に 広 がる 草 原 を 層 々 岐 野 (そそぎの) と 呼 び 神 功 皇 后 の 伝 説 が 伝 えられている 場 所 とい う この 野 原 の 名 に 因 んで 雷 山 は 層 々 岐 岳 (そそぎだけ) の 別 名 を 持 つ 頂 上 には 雷 神 社 の 上 宮 ( 石 祠 三 つ)がある 古 来 山 全 体 が 雷 神 の 鎮 座 する 霊 山 と 考 えられ 故 に 雷 山 の 名 を 持 つという 地 元 で は 雷 山 に 雲 がかかると 雨 になる という 雷 山 千 如 寺 大 悲 王 院 ( 雷 山 観 音 ) 神 籠 石 不 動 滝 ( 清 賀 の 滝 ) が 観 光 名 所 (http://ja.wikipedia.org/wiki/) 雷 神 宮 中 社 - 4 -
頂 上 には 雷 神 社 の 上 宮 ( 石 祠 三 つ)がある 古 来 山 全 体 が 雷 神 の 鎮 座 する 霊 山 と 考 えられ 故 に 雷 山 の 名 を 持 つという 地 元 では 雷 山 に 雲 がかかると 雨 になる という 人 麿 の 作 歌 場 所 は 雷 山 の 山 頂 である 山 頂 からの 景 色 はすばらしい むろん 持 統 は 観 光 のためにこの 山 に 登 ったのではない この 場 所 に 立 てば 眼 下 に 前 原 市 を 一 望 する また 玄 界 灘 を 遠 望 する 軍 事 的 に 見 ればこ の 山 は 玄 界 灘 を 渡 ってくる 船 団 を 真 っ 先 に 発 見 することができる 場 所 である 古 代 の 王 皇 は 自 分 を 雷 山 の 山 頂 に 祀 れ 自 分 は 其 処 にいて 敵 の 侵 入 から 國 を 護 っていようと 遺 言 したかのように 思 える 雷 山 の 山 頂 に 祀 ら れた 古 代 の 王 の 三 つの 祠 はまるで 山 頂 から 外 敵 の 侵 入 を 今 なお 見 張 っているかのように 玄 界 灘 を 見 下 ろして いる 人 麿 が 歌 った 雷 岳 は 北 九 州 の 雷 山 である 山 頂 に 祀 られた 神 雷 神 が 鎮 座 する 霊 山 雷 神 宮 上 社 中 社 下 社 等 々 いかなる 視 点 からもこの 山 こそ 人 麿 の 歌 にふさわしい 持 統 と 人 麿 が 登 った 雷 岳 は 九 州 雷 山 である 雷 山 中 腹 から 前 原 市 を 望 む 皇 を 歌 った 人 麿 歌 がもう 一 つある 或 る 本 の 反 歌 一 首 241 皇 者 神 尓 之 坐 者 真 木 乃 立 荒 山 中 尓 海 成 可 聞 訓 みは 通 常 皇 は 神 にし 坐 せば 眞 木 の 立 つ 荒 山 中 に 海 を 成 すかも である この 訓 みでは 皇 は 原 文 通 り 皇 と 訓 まれている 従 って 先 ほどの235 歌 の 皇 も 原 文 通 りに 皇 と 訓 まれるべきである この 歌 も 古 来 難 解 とされてきた 下 の 句 の 荒 山 中 に 海 を 成 すかも の 意 味 が 通 じないからである 荒 々しい 山 の 中 に 海 を 作 ったとはおよそ 想 像 することができない 故 に 海 鳴 りすかも と 古 田 武 彦 氏 は 訓 む 海 成 を 海 鳴 と 読 み 替 えるのである なるほど 海 を 作 る と 訓 むより 海 鳴 り と 訓 むほうがまだ 分 かりやすい しかし 成 と 鳴 とは 意 味 が 異 なる 万 葉 集 歌 の 原 文 で 鳴 を 使 った 歌 は294 首 ある その 用 法 は 鳥 が 鳴 く コオロギが 鳴 く 鶏 が 鳴 く セミが 鳴 く 蛙 が 鳴 く というもので ある 鳴 く という 意 味 で 鳴 という 漢 字 が 使 われており 鳴 く という 意 味 で 成 を 使 っている 用 法 はない ま た 成 を 原 文 で 使 った 歌 は184 首 でその 意 味 は 成 る 成 す 成 り で 鳴 く の 意 味 で 成 が 使 われた 例 は - 5 -
ない 万 葉 集 の 語 法 では 海 成 を 海 鳴 り と 訓 みかえることはできないのである 従 って 原 文 海 成 可 聞 は 海 を 成 すかも と 訓 まざるをえない 皇 は 海 を 作 ったのである 万 葉 編 者 はこの 歌 をおかしな 場 所 に 編 纂 して いる 長 皇 子 猟 路 の 池 に 遊 しし 時 柿 本 朝 臣 人 麻 呂 の 作 る 歌 一 首 239 やすみしし わが 王 君 高 照 らす わが 日 の 皇 子 の 馬 並 めて み 狩 り 立 たせる 弱 薦 を 猟 路 の 小 野 に 猪 鹿 こそば い 匍 ひ 拝 め 鶉 こそ い 匍 ひ 廻 れ 猪 鹿 じもの い 匍 ひ 拝 み 鶉 なす い 匍 ひ 廻 り 畏 みと 仕 へまつりて ひさかたの 天 見 るごとく 眞 澄 鏡 仰 ぎて 見 れど 春 草 の いやめづらしき わが 大 王 かも 240 ひさかたの 天 行 く 月 を 網 に 刺 し 我 が 大 君 は 蓋 にせり 或 る 本 の 反 歌 一 首 241 241 皇 は 神 にし 坐 せば 真 木 の 立 つ 荒 山 中 に 海 を 成 すかも 240 番 歌 は239 番 歌 への 反 歌 である だが 皇 の 歌 は239 番 歌 への 反 歌 ではない 注 作 者 は 皇 を 長 皇 子 と 解 釈 している 皇 を 皇 子 と 読 み 故 に 長 皇 子 と 解 釈 しているのである だが 皇 とは 持 統 でもなく また 長 皇 子 でもない 皇 は 雷 山 の 頂 に 祀 られている 古 代 の 王 である 239 番 歌 と240 番 歌 は 同 時 の 歌 であるが241 番 歌 はこの 二 つの 歌 と 関 係 ない 三 つの 歌 を 一 連 の 作 と 捉 え て 猟 路 の 池 を 海 にみたてている と 注 釈 しているがこの 注 釈 は 当 たらない 皇 の 海 と 猟 路 の 池 とは 無 関 係 である 長 皇 子 が 馬 に 乗 って 出 かけた 猟 路 は 小 野 である 小 野 とは 野 原 である 猟 路 の 池 があったとして もその 池 は 平 野 部 の 池 である 一 方 皇 の 海 は 平 野 ではない 荒 々しい 山 の 中 の 海 である 239の 長 皇 子 の 歌 と241の 皇 の 歌 は 全 く 異 なる 場 所 での 歌 である 241 皇 は 神 にし 坐 せば 真 木 の 立 つ 荒 山 中 に 海 を 成 すかも 大 意 皇 は 神 でいらっしゃるので 槙 の 木 が 立 っている 荒 々しい 山 の 中 に 海 を 作 られたことである この 歌 は 持 統 が 雷 山 に 登 った 時 に 歌 われたものである 皇 は 天 雲 の 上 に 庵 していると 詠 み また 皇 は 海 を 作 ったと 詠 んだのである この 万 葉 歌 は 他 の 万 葉 歌 と 同 じく 実 景 を 詠 んだものである 人 麿 は 人 間 の 手 が 入 らない 荒 々しい 山 中 に 海 が 作 られているのを 見 たのである 人 麿 は 何 を 見 てこの 歌 を 詠 んだのであろうか 雷 山 神 籠 石 山 城 水 門 - 6 -
雷 山 には 雷 山 神 籠 石 が 存 在 する 神 籠 石 とは 山 城 であるがただの 山 城 ではなく 水 による 防 衛 システムを 備 えていた 丁 度 太 宰 府 が 水 城 で 護 られていたと 同 じ 防 衛 思 想 である 雷 山 神 籠 石 山 城 にも 巨 大 なダムがあ った 敵 が 登 ってきた 時 水 門 を 開 いて 激 流 を 流 すのである いわば 水 城 というものである その 水 門 が 現 在 も 山 の 中 に 残 っている 水 門 は 南 北 に 二 つあった この 二 つの 水 門 によって 水 は 貯 えられた この 雷 山 貯 水 池 はどのような 規 模 だったのか 貯 水 池 は 東 西 は3 00m 南 北 は700mだったといわれる かなりの 規 模 である この 雷 山 の 水 城 は 現 在 不 動 池 としてその 姿 を 留 めている 実 際 にこの 貯 水 池 をみればこの 山 の 中 にこれほどのダムがよく 造 られたと 感 動 する 現 代 におい てそうであるのだからいわんや 機 器 のない 時 代 に 人 力 によって 山 のほぼてっぺんに 石 を 積 み 上 げ 作 られた 巨 大 な 人 造 湖 を 見 れば 人 麿 が 海 を 成 すかも と 感 動 したのも 無 理 はなかろう これはまさに 山 中 に 現 れた 海 である 山 の 上 に 作 られた 巨 大 な 貯 水 池 は 海 というにふさわしい 人 麿 の 時 代 古 代 九 州 王 朝 によって 築 かれた 水 城 はまだ 雷 山 に 生 きて 満 々と 水 を 蓄 えていた 人 麿 は 皇 がこの 山 の 中 に 造 った 巨 大 なダムを 見 た 感 動 は 歌 となった 皇 は 神 にし 坐 せば 真 木 の 立 つ 荒 山 中 に 海 を 成 すかも 持 統 も 人 麿 も 太 宰 府 に 居 た 持 統 も 人 麿 もこの 北 九 州 の 雷 山 に 登 った だが 人 麿 の 歌 が 奈 良 明 日 香 の 雷 の 丘 だったと 解 釈 されてきたに のはそれなりの 理 由 がある 奈 良 にいたと 考 えられている 持 統 が 奈 良 明 日 香 の 雷 の 丘 に 行 くことはあっても 前 原 市 雷 山 に 登 ることは 想 定 できないからである だが 人 麿 の 歌 が 九 州 の 雷 山 である 人 麿 は 持 統 と 共 に 前 原 市 雷 山 に 登 ったのである だがそうすればまた 新 たな 疑 問 が 生 じる では 持 統 はどこからこの 山 までやって 来 たのか 前 原 市 の 雷 山 は 奈 良 から 見 れば 遠 い 遙 か 彼 方 である 持 統 は 奈 良 からはるばる 旅 をして 雷 山 までやって 来 たのか そうではない 持 統 と 人 麿 は 奈 良 からやってきて 雷 山 に 登 ったのではない 人 麿 がこの 歌 を 詠 んだ 時 持 統 も 人 麿 も 太 宰 府 にいた なぜ 雷 山 に 登 ったのか 持 統 も 人 麿 も 太 宰 府 を 造 った 古 代 王 朝 について 聞 いていた のであろう その 古 代 王 朝 の 王 が 雷 山 に 祀 られている その 王 は 古 代 天 皇 家 の 遙 かなる 祖 である 雷 山 は 玄 界 - 7 -
灘 から 攻 め 入 る 外 敵 を 見 下 ろす 場 所 に 祀 られている 我 が 祖 の 廟 に 参 拝 しようではないか 雷 山 神 籠 石 の 遠 景 ( 中 央 のため 池 の 上 流 と 下 流 に 水 門 が 残 る) http://www.ss.iij4u.or.jp/~hsumi/docs/ise ki/kougoisi.htm 持 統 四 年 奈 良 遷 都 持 統 4 年 (690) 春 正 月 戊 寅 朔 に 物 部 麻 呂 朝 臣 大 盾 を 樹 つ 神 祗 伯 中 臣 大 嶋 朝 臣 天 神 寿 詞 読 む 畢 り て 忌 部 宿 禰 色 夫 神 璽 の 剣 鏡 を 皇 后 に 奉 上 る 皇 后 即 天 皇 位 す 公 卿 百 寮 羅 列 りて 匝 (あまね)く 拝 み たてまつりて 手 拍 つ 己 卯 (2 日 )に 公 卿 百 寮 拝 朝 みすること 元 会 儀 の 如 し 丹 比 嶋 真 人 と 布 勢 御 主 人 朝 臣 賀 騰 極 奏 す 庚 辰 (3 日 )に 公 卿 に 内 裹 に 宴 したまふ 仍 衣 裳 賜 ふ 壬 辰 (15 日 )に 百 寮 薪 進 る 甲 午 (17 日 ))に 天 下 に 大 赦 す 正 月 庚 子 (23 日 )に 班 幣 ( 即 位 を 報 告 するための 班 幣 )を 畿 内 の 天 神 地 祗 に 班 したまふ 3 月 丁 丑 朔 丙 申 (20 日 )に 京 と 畿 内 との 人 の 年 八 十 より 以 上 なる 者 に 嶋 宮 の 稲 人 ごとに 二 十 束 賜 ふ 其 の 位 有 る 者 には 布 二 端 加 し 賜 ふ 持 統 は4 年 春 正 月 に 即 位 した 公 卿 百 寮 羅 列 りて 匝 (あまね)く 拝 みたてまつりて 手 拍 つ と 公 卿 百 寮 が 整 列 して 手 を 拍 った 場 所 はどこか 日 本 書 紀 編 者 は 明 確 に 書 いていない 天 武 紀 では 百 寮 の 諸 人 拝 朝 庭 す ( 天 武 10 年 元 旦 ) と 百 官 が 集 合 した 場 所 を 朝 庭 と 書 いている 持 統 の4 年 正 月 に 全 員 が 集 合 した 場 所 も 大 極 殿 の 前 庭 であろう だが 天 武 紀 と 同 じ 太 宰 府 の 朝 庭 なのか 持 統 元 旦 の 祝 賀 の 儀 式 は 天 武 の 太 宰 府 大 極 殿 での 儀 式 とあまり 変 わらない ただ 天 武 の 時 は 西 門 ( 南 門 ) で 弓 を 射 る 競 技 を 行 い 賞 品 を 与 えているが 持 統 の 新 年 の 行 事 にそれはない 23 日 には 即 位 を 天 神 地 祗 に 報 告 している しかしそれは 畿 内 の 天 神 地 祗 である さらに 畿 内 の 記 事 が 続 く 3 月 20 日 には 京 と 畿 内 の80-8 -
歳 以 上 の 老 人 に 稲 を 与 えている これは 持 統 元 年 (687) 庚 辰 (15 日 )に 京 師 の 年 八 十 より 以 上 及 び 篤 隆 貧 くして 自 ら 存 ふこと 能 はぬ 者 に 絁 綿 賜 ふこと 各 差 有 り と 同 じ 政 策 である しかし 持 統 元 年 の 京 師 とは 太 宰 府 である 持 統 元 年 の 時 は 太 宰 府 の80 歳 以 上 の 人 に 布 を 与 えた しかし 持 統 4 年 即 位 後 に 稲 を 与 えた 八 十 歳 以 上 の 人 が 居 た 京 と 畿 内 とは 太 宰 府 なのか 次 の 二 つの 記 事 から 検 討 してみましょう 持 統 4 年 (690)9 月 乙 亥 朔 に 詔 諸 国 等 に 詔 して 曰 はく 凡 そ 戸 籍 を 造 ることは 戸 令 に 依 れ とのたまふ 乙 酉 (11 日 )に 詔 して 曰 はく 朕 紀 伊 を 巡 行 さむとす 故 に 今 年 の 京 師 の 田 租 口 賦 収 むることまな とのたま ふ 丁 亥 (13 日 )に 天 皇 紀 伊 に 幸 す 丁 酉 (23 日 )に 大 唐 の 学 問 僧 智 宗 義 徳 浄 願 軍 丁 筑 紫 国 の 上 陽 咩 郡 の 大 伴 部 博 麻 新 羅 の 送 使 大 奈 末 金 高 訓 等 に 従 ひて 筑 紫 に 還 至 れり 戊 戌 (24 日 ) 天 皇 紀 伊 より 至 します 冬 十 月 の 癸 丑 (10 日 ) 大 唐 の 学 問 僧 智 宗 等 京 師 に 至 る 戊 午 (15 日 )に 使 者 を 遣 して 筑 紫 大 宰 河 内 王 等 に 詔 して 曰 はく 新 羅 の 送 使 大 奈 末 金 高 訓 等 に 饗 たまふこと 学 生 土 師 宿 禰 甥 等 を 上 送 りて 送 使 の 例 に 准 へよ 其 の 慰 労 へ 賜 物 ふこと 一 に 詔 書 の 依 に とのたまふ 持 統 4 年 9 月 23 日 唐 の 学 問 僧 智 宗 軍 丁 筑 紫 國 の 上 陽 咩 郡 の 大 伴 部 博 麻 等 が 筑 紫 に 来 た 持 統 4 年 10 月 10 日 唐 の 学 問 僧 智 宗 軍 丁 筑 紫 國 の 上 陽 咩 郡 の 大 伴 部 博 麻 等 等 が 京 師 に 来 た 持 統 4 年 10 月 15 日 使 者 を 太 宰 府 河 内 王 に 遣 わして 送 使 を 饗 えることを 命 令 した (1) 一 行 が 筑 紫 に 着 いたのは9 月 23 日 で 京 師 に 来 たのが10 月 10 日 である この 間 17 日 かかっている 天 武 紀 では 筑 紫 到 着 と 入 京 はほぼ 同 時 である 持 統 4 年 の 筑 紫 到 着 と 入 京 には 時 間 差 がある (2) 筑 紫 太 宰 河 内 王 に 使 者 を 遣 わしている 天 武 紀 においては 太 宰 府 長 官 に 使 者 を 送 ったことはない 天 武 は 大 極 殿 に 居 り 太 宰 府 長 官 もすぐ 近 くに 居 たから 使 者 を 遣 するほどのことはなかった (3) 太 宰 府 長 官 河 内 王 に 新 羅 の 送 使 を 筑 紫 で 饗 応 させている 天 武 紀 においては 太 宰 府 長 官 が 新 羅 大 使 を 饗 応 したことはない 朱 鳥 元 年 正 月 重 臣 を 筑 紫 に 使 わして 饗 応 したことを 除 いては 天 武 自 らが 筑 紫 館 に 出 向 いている 持 統 四 年 の 京 師 は 奈 良 藤 原 京 である 天 武 紀 の 筑 紫 到 着 と 入 京 の 記 事 には 時 間 差 がない それは 天 武 が 自 ら 筑 紫 と 京 を 往 復 しているか らである しかし 持 統 4 年 の 筑 紫 到 着 と 入 京 の 記 事 には 時 間 差 がある その 理 由 は 筑 紫 と 京 が 離 れて いたからである 持 統 自 らが 筑 紫 に 出 向 くことが 出 来 なかったから 使 者 を 送 ったのである 持 統 4 年 の 筑 紫 記 事 と 京 師 記 事 とは 同 時 同 場 所 ではない 持 統 4 年 の 京 師 は 太 宰 府 ではない では 持 統 4 年 に 京 師 と 書 かれた 京 とはどの 京 か 持 統 が 即 位 し 百 官 が 整 列 した 朝 庭 とはどの 京 の 朝 庭 なのか 持 統 はこの 時 もはや 太 宰 府 を 離 れていた そして 当 時 もう 一 つ 存 在 した 京 奈 良 藤 原 京 にいたの である 藤 原 京 は 条 坊 を 持 つ 京 でした 西 の 太 宰 府 東 の 藤 原 京 とでもいうべき 超 近 代 都 市 でした 藤 原 京 は 大 極 殿 朝 堂 院 が 存 在 する 900m 四 方 の 宮 域 を 中 心 に 東 西 2120m 南 北 3186mと 想 定 される 京 でした 大 極 殿 は 間 口 45m 奥 行 21m 高 さ25m 当 時 日 本 最 大 の 建 物 でした ( 藤 原 宮 と 京 奈 良 文 化 財 研 究 所 著 ) 持 統 4 年 10 月 10 日 唐 の 学 問 僧 智 宗 軍 丁 筑 紫 國 の 上 陽 咩 郡 の 大 伴 部 博 麻 等 が 来 た 京 師 は 藤 原 京 だっ た 持 統 はこの 時 天 武 の 京 太 宰 府 を 離 れて 奈 良 藤 原 京 に 来 ていた 持 統 4 年 10 月 10 日 唐 の 学 問 僧 智 宗 等 が 京 師 に 来 た 目 的 は 軍 丁 筑 紫 國 の 上 陽 咩 郡 の 大 伴 部 博 麻 を 連 れて 来 ることにあった 博 麻 は662 年 白 村 の 戦 いで 捕 虜 となり 唐 に 幽 閉 されていた 持 統 4 年 にやっと 釈 放 されて 帰 国 を 許 されたのである そして 時 の 国 王 持 統 に 帰 国 の 報 告 をするために 京 師 藤 原 京 に 上 ってきた 持 統 は 博 麻 を 喚 び 28 年 間 の 辛 苦 を 労 い 官 位 大 肆 を 与 え 併 せて 絁 (ふとぎぬ) 五 匹 綿 一 十 屯 布 三 十 端 稲 一 千 束 水 田 四 町 を 与 えている そして 其 の 水 田 は 曾 孫 及 至 (いた)せ 也 三 族 の 課 役 を 免 (ゆる)して 其 の 功 を 顕 さむ とその 功 績 に 報 いました - 9 -
持 統 4 年 正 月 に 持 統 が 即 位 したのは 藤 原 京 大 極 殿 であった 公 卿 百 寮 羅 列 りて 匝 (あまね)く 拝 みたてまつりて 手 拍 つ 己 卯 (2 日 )に 公 卿 百 寮 拝 朝 みすること 元 会 儀 の 如 し 太 宰 府 の 朝 庭 と 同 じように 藤 原 京 の 大 極 殿 の 朝 庭 に 全 員 が 集 結 したのである 持 統 が 即 位 を 祝 って 稲 を 与 えた 京 と 畿 内 の80 歳 以 上 の 人 は 藤 原 京 と 畿 内 の 老 人 であった 稲 を 蓄 えていた 嶋 宮 とは 天 武 持 統 草 壁 皇 子 が 住 んでいた 嶋 宮 である 671 年 天 武 は 耳 我 の 嶺 に 登 って 修 行 するがその 前 に 帰 って 一 泊 した 宮 が 嶋 宮 であった 嶋 宮 には 天 武 の 家 族 が 待 っていたのである この 嶋 宮 で 草 壁 皇 子 が 亡 くなった もは やこの 宮 に 稲 を 蓄 えておく 必 要 はない 持 統 は 奈 良 藤 原 京 で 即 位 のお 祝 いとして 藤 原 京 及 び 畿 内 の80 歳 以 上 の 人 々にその 稲 を 与 えたのである 持 統 は 太 宰 府 から 奈 良 藤 原 京 に 遷 ってきた 当 然 新 しい 住 居 ( 宮 )を 必 要 とする その 宮 が 藤 原 の 宮 である 持 統 4 年 10 月 からその 宮 の 建 設 に 取 りかかっている 持 統 藤 原 の 宮 の 造 営 持 統 4 年 10 月 29 日 高 市 皇 子 藤 原 の 宮 地 を 観 す 公 卿 百 寮 従 なり 持 統 4 年 12 月 癸 卯 朔 乙 巳 (3 日 ))に 送 使 金 高 訓 等 罷 り 帰 りぬ 甲 寅 (12 日 ))に 天 皇 吉 野 宮 に 幸 す 丙 辰 (14 日 )に 天 皇 吉 野 宮 より 至 します 辛 酉 (19 日 )に 天 皇 藤 原 に 幸 して 宮 地 を 観 す 公 卿 百 寮 皆 皆 従 なり 乙 丑 (23 日 )に 公 卿 より 以 下 に 賞 賜 ふこと 各 差 有 り 持 統 4 年 の10 月 の 記 事 に 始 めて 藤 原 の 宮 が 登 場 する 10 月 29 日 に 藤 原 の 宮 の 建 設 予 定 地 を 視 察 したの は 太 政 大 臣 高 市 皇 子 と 官 僚 である 12 月 19 日 には 持 統 自 らが 宮 地 を 視 察 している この 持 統 藤 原 の 宮 はどこ に 存 在 したのか 万 葉 集 にその 存 在 場 所 を 確 かめることができる 歌 がある 藤 原 宮 の 御 井 の 歌 52 番 歌 やすみしし わご 大 王 嵩 照 らす 日 の 皇 子 荒 栲 の 藤 井 が 原 に 大 御 門 始 め 給 へて 埴 安 の 堤 の 上 に あり 立 たし 見 し 給 へば 日 本 の 青 香 具 山 は 日 の 経 の 大 御 門 に 春 山 と 茂 さ び 立 てり 畝 火 の この 瑞 山 は 日 の 緯 の 大 御 門 に 瑞 山 と 山 さびいます 耳 成 の 青 管 山 は 背 面 の 大 御 門 に 宣 しなべ 神 さび 立 てり 名 くはし 吉 野 の 山 は 影 面 の 大 御 門 ゆ 雲 居 にそ 遠 くありける 嵩 知 るや 天 の 御 蔭 天 知 るや 日 の 御 蔭 の 水 こそは 常 にあらめ 御 井 の 清 水 < 原 文 > 八 隅 知 之 和 期 大 王 高 照 日 之 皇 子 麁 妙 乃 藤 井 我 原 に 大 御 門 始 賜 而 埴 安 乃 堤 上 に 在 立 之 見 之 賜 者 日 本 乃 青 香 具 山 者 日 経 乃 大 御 門 に 春 山 跡 之 美 佐 備 立 有 畝 火 乃 此 美 豆 山 者 日 緯 能 大 御 門 に 弥 豆 山 跡 山 佐 備 伊 座 耳 高 之 青 菅 山 者 背 友 乃 大 御 門 に 宣 名 倍 神 佐 備 立 有 名 細 吉 野 乃 山 者 影 友 乃 大 御 門 従 雲 居 に 曾 遠 久 有 家 留 高 知 也 天 之 御 陰 天 知 也 日 之 御 影 乃 水 許 曾 婆 常 に 有 米 御 井 之 清 水 日 本 の 青 香 具 山 通 常 この 青 香 具 山 は 持 統 によって 歌 われた 天 の 香 具 山 と 同 じであると 考 えられている だがそうではな い 天 皇 の 御 製 歌 28 持 統 が 詠 った 天 の 香 具 山 とは 古 代 倭 (やまと)の 天 の 香 具 山 である 古 代 倭 (やまと)とは 香 春 町 及 び 田 川 市 で 天 の 香 具 山 とは 香 春 町 の 香 春 岳 をいう 舒 明 が とりよろふ 天 の 香 具 山 と 詠 った 三 連 山 山 頂 から 海 が 見 えた 天 の 香 具 山 も 同 じ 香 春 岳 である 持 統 が 詠 った 古 代 天 の 香 具 山 には 兄 弟 の 山 があった その 山 は 天 (あま) にあった 故 にその 名 は 天 の 香 具 山 と 云 われた 天 (あま) とは 彦 島 に 存 在 した 弥 生 国 家 である この 天 の 香 具 山 とは 彦 島 の 井 戸 山 である 彦 島 の 天 の 香 具 山 の 分 れが 倭 (やまと) の 天 の 香 具 山 である 倭 (やまと)にあるのだから 倭 の 香 具 山 と 云 うべきであるがそう 云 わないのは 彦 島 の 天 の 香 具 山 の 分 かれだからである この 名 前 の 由 来 が - 10 -
伊 豫 風 土 記 逸 文 に 記 録 されている 持 統 が 歌 った 天 の 香 具 山 は 香 春 町 の 香 春 岳 である ところが52 番 歌 の 香 具 山 は 持 統 が 詠 った 天 の 香 具 山 ではない 作 歌 者 はこの 山 を 青 の 香 具 山 と 歌 っている 原 文 では 日 本 乃 青 香 具 山 である その 国 名 は 天 (あま) ではなく 日 本 である 日 本 とは 倭 (やまと) ではない 日 本 とは 古 代 関 西 に 存 在 した 国 家 で その 有 名 な 王 は 上 宮 法 皇 である 遣 隋 使 遣 唐 使 を 派 遣 し 日 本 列 島 を 支 配 していた 国 家 が 日 本 國 である 52 番 歌 の 青 香 具 山 は 日 本 國 の 香 具 山 だと 歌 っている 持 統 の 香 具 山 は 古 代 倭 (やまと) 香 春 町 の 香 春 岳 52 番 歌 の 日 本 の 青 香 具 山 は 奈 良 明 日 香 に 存 在 する 低 い 山 である 持 統 の 藤 原 宮 はこの 日 本 國 の 青 香 具 山 の 西 側 に 存 在 した 畝 火 もう 一 つの 山 は 畝 火 である 畝 傍 ではなく 畝 火 と 表 記 されている 畝 傍 は 神 武 の 言 葉 から 付 けられた 呼 称 である 香 春 岳 はまさに 畝 の 形 をしている 香 春 町 の 畝 傍 の 山 は 三 つのほぼ 同 じ 高 さの 山 が 並 んで 畝 の 姿 をしている ところが 奈 良 の 畝 火 の 山 は 畑 の 畝 の 姿 ではない おにぎりのような 姿 であるす 従 って 本 来 この 地 の 人 々は 畝 火 と 云 わず 別 の 名 前 で 呼 んでいたのではないでしょうか 畝 火 青 香 具 山 という 名 前 は 元 々の 名 前 ではなく 後 付 の 名 前 であろう 奈 良 畝 傍 耳 高 の 青 管 山 (ja.wikipedia.org/wiki/ 畝 傍 山 ) 奈 良 耳 高 之 青 の 菅 山 九 州 香 春 耳 梨 耳 高 とは 地 名 であろう 山 の 名 は 青 管 山 である 管 は 笠 のことで 山 の 形 からの 名 である 確 かに 耳 成 と 呼 ばれる 山 は 笠 のように 見 える ところが 九 州 香 春 町 の 耳 梨 は 耳 の 形 をした 梨 に 似 ている 故 に 耳 梨 なのである 耳 は 同 じであるが 名 前 の 構 成 は 全 く 異 なる 奈 良 の 山 の 呼 び 名 の 本 質 は 菅 ( 笠 )である ところ - 11 -
が 九 州 の 耳 梨 という 名 前 の 本 質 は 梨 である 一 方 は 笠 他 方 は 果 物 である イメ-ジは 全 く 異 なりる 菅 山 という 名 前 はその 姿 を 映 している この 山 は 奈 良 飛 鳥 の 山 である 52 番 歌 に 吉 野 の 山 が 詠 われている その 場 所 は 影 面 とありますが 影 面 とは 南 である 奈 良 吉 野 は 地 理 的 に 明 日 香 の 南 である 大 御 門 の 場 所 藤 井 が 原 の 大 御 門 はどこにあったのか 東 に 青 香 具 山 西 に 畝 火 北 に 耳 高 之 青 管 山 となってい る これら 三 つの 山 は 奈 良 飛 鳥 の 大 和 三 山 である この 位 置 関 係 から 考 えると 大 御 門 は1934 年 から 日 本 古 文 化 研 究 所 によって 発 掘 調 査 されてきた 藤 原 京 の 中 にあったと 考 えていいでしょう 持 統 4 年 (690)12 月 辛 酉 (19 日 )に 天 皇 藤 原 に 幸 して 宮 地 を 観 す 公 卿 百 寮 皆 皆 従 なり 持 統 が4 年 12 月 に 視 察 した 藤 原 宮 の 建 設 地 は 奈 良 明 日 香 の 大 和 三 山 に 囲 まれた 藤 原 京 の 中 である 持 統 が 藤 原 京 を 造 ったと 普 通 理 解 されているがそれは 史 実 ではない 持 統 4 年 の 記 事 は 藤 原 の 宮 の 建 設 予 定 地 の 視 察 であって 藤 原 京 の 造 営 地 の 視 察 ではない 藤 原 京 は 持 統 4 年 藤 原 宮 の 建 設 計 画 時 には 既 に 存 在 して いた 持 統 はこの 藤 原 京 のどこかに 自 分 の 宮 を 建 設 しようとしたのである 藤 原 宮 の 完 成 と 遷 居 持 統 6 年 (692)6 月 癸 巳 (30 日 )に 天 皇 藤 原 の 宮 地 を 観 す 持 統 8 年 (694)12 月 庚 戌 朔 乙 卯 (6 日 )に 藤 原 宮 に 遷 り 居 します 戊 午 (9 日 )に 百 官 拝 朝 す 己 未 (10 日 ) に 親 王 より 以 下 至 郡 司 等 に 至 るまでに 絁 綿 布 賜 ふこと 各 差 あり 辛 酉 (12 日 )に 公 卿 大 夫 に 宴 し たまふ 藤 原 宮 は 完 成 まで4 年 かかっている 持 統 6 年 はその 進 行 状 況 を 視 察 したのでしょう 実 際 に 宮 が 完 成 して 遷 居 したのは 視 察 から4 年 後 の 持 統 8 年 12 月 6 日 でした そのあと 一 連 の 祝 賀 の 行 事 が 続 いています 万 葉 集 は 藤 原 宮 建 造 に 従 事 した 役 人 と 志 貴 皇 子 の 歌 を 載 せている 藤 原 宮 の 役 民 の 作 る 歌 50 やすみしし わご 大 王 高 照 らす 日 の 皇 子 荒 栲 の 藤 原 がうえに 食 す 國 を 見 し 給 はむと 都 宮 は 高 知 らさむと 神 ながら 思 ほすなべに 天 地 も 寄 りてあれこそ 石 走 る 淡 海 の 國 の 衣 手 の 田 上 山 の 真 木 さ く 桧 の 嬬 手 を もののふの 八 十 氏 河 に 玉 藻 なす 浮 かべ 流 せれ 其 を 取 ると さわく 御 民 も 家 忘 れ 身 もたな 知 らず 鴨 じもの 水 に 浮 きいて わが 作 る 日 の 御 門 に 知 らぬ 國 寄 し 巨 勢 道 より わが 国 は 常 世 にならむ 図 負 へる 神 しき 亀 も 新 代 と 泉 の 河 に 持 ち 越 せる 真 木 の 嬬 手 を 百 足 らず 筏 に 作 り 泝 す らむ 勤 はく 見 れば 神 ながらにならし 明 日 香 宮 より 藤 原 宮 に 遷 居 りし 後 志 貴 皇 子 の 御 作 歌 51 采 女 の 袖 吹 きかへす 明 日 香 風 都 を 遠 み いたづらに 吹 く 持 統 は 藤 原 宮 が 完 成 するまで 明 日 香 宮 に 居 た 持 統 は 太 宰 府 から 奈 良 に 遷 ってきて 明 日 香 宮 に 住 ま いしていた そして 藤 原 宮 の 完 成 後 に 遷 居 した 持 統 が 明 日 香 宮 から 藤 原 宮 に 遷 ってしまった 采 女 の 衣 の 袖 を 吹 き 返 していた 風 は 今 は 誰 もいなくなった ただいたずらに 吹 いているだけだと 志 貴 皇 子 は 詠 いました 北 九 州 に 於 ける 持 統 の 宮 は 草 壁 を 産 んだ 近 江 大 津 の 宮 激 つ 水 で 有 名 な 吉 野 宮 などがあった いず れも 小 倉 南 区 である 奈 良 に 遷 ってきた 持 統 にはそのような 自 分 の 宮 はなかった 当 然 新 しく 宮 を 造 らなけれ ばならない その 宮 が 藤 原 の 宮 であった この 宮 は 近 江 大 津 の 宮 や 吉 野 の 宮 のように 海 辺 に 造 ったの ではない 藤 原 京 の 中 に 作 ったのである - 12 -
耳 高 之 青 菅 山 青 の 香 具 山 畝 火 山 藤 井 が 原 大 御 門 52 番 歌 藤 原 宮 の 位 置 持 統 の 奈 良 朝 廷 持 統 4 年 即 位 から 持 統 は 奈 良 藤 原 京 に 居 た 藤 原 京 に 藤 原 宮 が 完 成 するまでは 明 日 香 宮 に 居 た 持 統 が 近 畿 天 皇 家 の 始 まりである 日 本 書 紀 持 統 紀 の 持 統 4 年 以 降 の 京 京 師 は 全 て 奈 良 藤 原 京 をさす 藤 原 京 はかっての 日 本 國 の 京 だった 隋 唐 新 羅 高 句 麗 百 済 等 各 國 の 大 使 はこの 京 で 日 本 國 の 天 皇 に 拝 謁 していた 藤 原 京 が 日 本 の 首 都 だった 太 宰 府 も 日 本 國 の 支 配 下 にあった しかし 唐 との 白 村 江 の 敗 戦 が 全 てを 変 えてしまった 日 本 國 の 天 皇 は 重 病 となり 亡 くなってしまう 後 を 継 いだ 大 友 皇 子 はまだ 若 く 太 宰 府 に 駐 屯 していた 唐 軍 と 連 携 した 古 代 天 皇 家 天 武 の 蜂 起 の 前 に 敗 れ 去 ってしまう 日 本 國 は 滅 び 天 武 が 天 皇 位 に 昇 る しかし 天 武 はそのまま 太 宰 府 で 日 本 を 統 治 した 天 武 の 時 代 太 宰 府 が 日 本 の 首 都 であった 天 武 が 亡 くなり 皇 太 子 草 壁 皇 子 は 天 皇 位 を 継 承 する 間 もなく 持 統 3 年 4 月 13 日 に 亡 くなってしまう その 翌 年 持 統 は 太 宰 府 を 去 り 奈 良 に 遷 ってきた 持 統 が 遷 ってきた 奈 良 には 藤 原 京 が 存 在 していた 持 統 は 奈 良 に 藤 原 京 が 存 在 するから 太 宰 府 を 去 ろうと 考 えたのかもしれない 日 本 を 統 治 するには 太 宰 府 は 西 に 偏 りすぎている 日 本 統 治 には 中 央 である 奈 良 の 方 がよい 奈 良 には 日 本 國 の 京 藤 原 京 が 存 在 する この 京 で 日 本 を 統 治 しよう 持 統 の 新 政 策 夫 天 武 が 日 本 を 治 めた 京 太 宰 府 この 京 を 去 って 持 統 は 奈 良 藤 原 京 に 遷 った 藤 原 京 は 日 本 國 が 造 営 した 日 本 國 の 京 であった 京 と 畿 内 は 日 本 國 の 法 令 に 基 づいて 統 治 され 日 本 國 の 法 令 に 基 づいた 行 政 官 が 居 たのは 当 然 であろう 持 統 は 天 武 が 施 行 した 法 令 を 変 えなければならなかった 天 武 法 令 を 改 正 して 藤 原 京 での 新 しい 法 令 を 定 めている - 13 -
(1) 官 位 の 年 限 基 準 持 統 4 年 4 月 庚 申 (14 日 )に 詔 して 曰 はく 百 官 の 人 及 び 畿 内 の 人 の 位 有 る 者 は6 年 を 限 れ 位 無 き 者 は7 年 を 限 れ 其 の 上 れる 日 を 以 て 九 等 に 選 び 定 めよ 四 等 より 以 上 は 考 仕 令 の 依 (まま))に 其 の 善 最 功 能 氏 姓 の 大 小 を 以 て 量 りて 冠 位 を 授 けむ この 法 令 は 天 武 7 年 10 月 26 日 の 補 正 であるという ( 持 統 紀 四 年 頭 注 ) 天 武 法 令 と 異 なる 点 は 年 限 を 定 めた ことと 評 価 の 基 準 を 定 めたことである 出 勤 した 日 数 に 従 って 九 等 に 分 けている 天 武 の 場 合 は 対 象 は 百 官 であったが 持 統 の 場 合 は 百 官 と 畿 内 の 有 位 者 を 付 け 加 えている (2) 朝 服 其 の 朝 服 は 浄 大 壱 より 已 下 広 弐 より 已 上 には 黒 紫 浄 大 参 より 已 下 広 肆 より 已 上 には 赤 紫 正 の 八 級 に は 赤 紫 直 の 八 級 には 緋 勤 の 八 級 には 深 緑 務 の 八 級 には 浅 緑 追 の 八 級 には 深 縹 進 の 八 級 には 浅 縹 別 の 浄 広 弐 已 上 には 一 富 一 部 之 綾 羅 等 種 々に 用 いることを 聴 す 浄 大 参 より 已 下 直 広 肆 より 已 上 に は 一 富 二 部 の 綾 羅 等 種 々に 用 いることを 聴 す 上 下 通 用 綺 の 帯 白 き 袴 は 上 下 通 ひ 用 いよ 其 の 余 は 常 の 如 くせよ よのたまふ 持 統 4 年 秋 7 月 丙 子 朔 に 公 卿 百 寮 人 等 始 めて 新 しき 朝 服 著 る この 詔 勅 も 天 武 7 年 10 月 26 日 勅 の 補 正 であるという ( 持 統 紀 四 年 頭 注 ) (3) 中 央 行 政 の 確 立 地 方 行 政 の 確 立 庚 辰 (5 日 )に 皇 子 高 市 を 以 て 太 政 大 臣 とす 正 広 参 を 以 て 丹 比 嶋 真 人 に 授 けて 右 大 臣 とす 并 せて 八 省 百 寮 皆 遷 任 けたまふ 辛 巳 (6 日 ))に 大 宰 国 司 皆 遷 任 けたまふ 壬 午 (7 日 )に 詔 すらく 公 卿 百 寮 をして 凡 そ 位 有 る 者 今 より 以 後 家 の 内 にして 朝 服 を 着 て 未 だ 門 開 けざらむ 以 前 に 参 上 しめよ とのたまふ 高 市 皇 子 が 太 政 大 臣 となり 持 統 政 権 のトップに 立 った 右 大 臣 は 丹 比 嶋 真 人 である 八 省 百 寮 とは 中 央 の 全 官 司 全 官 人 の 意 この 日 浄 御 原 令 官 制 の 実 施 に 伴 って 大 移 動 が 行 われ 新 たに 中 官 と 宮 内 官 が 組 織 されて 令 制 の 八 省 に 当 たる 八 官 がそろったとの 説 がある 6 日 は 地 方 官 の 大 移 動 太 宰 は 筑 紫 周 防 吉 備 伊 予 などに 各 数 カ 国 を 統 治 すべく 置 かれた 総 領 の ことか ( 持 統 四 年 頭 注 ) 天 武 王 朝 は 天 武 中 心 の 政 権 であったと 云 われる 天 皇 に 全 権 を 集 中 していた しかし 持 統 はそうはしなかっ た 草 壁 が 亡 くなったという 理 由 もあろうがそれだけではない 持 統 は 藤 原 京 に 遷 って 九 州 だけではなく 日 本 全 土 を 統 治 しなければならなかった 持 統 に 全 ての 権 力 を 集 中 してもそれは 不 可 能 だったと 思 われる 故 に 持 統 は 国 家 運 営 の 行 政 府 を 整 備 確 立 した その 長 が 高 市 皇 子 で 臣 下 のトップが 丹 比 嶋 真 人 であった 八 省 ( 中 務 省 式 部 省 治 部 省 民 部 省 兵 部 省 刑 部 省 大 蔵 省 宮 内 省 か)を 設 立 してその 長 官 を 任 命 したのであろう 7 月 5 日 は 八 省 百 寮 の 遷 任 7 月 6 日 は 太 宰 と 國 司 を 遷 任 している 遷 任 と 記 しているから 頭 注 作 成 者 が 解 説 しているように 中 央 官 僚 地 方 官 僚 の 大 移 動 が 行 われたのであろう このような 中 央 地 方 の 人 事 大 移 動 の 背 景 には 国 替 え があったのでないだろうか 古 代 天 皇 家 では 吉 備 と 云 えば 古 代 吉 備 彦 島 の 吉 備 であった 伊 豫 と 云 えば 同 じく 彦 島 の 古 代 伊 豫 であった ところが 持 統 4 年 の 太 宰 筑 紫 太 宰 は 九 州 の 太 宰 で 変 わらないが 吉 備 太 宰 は 新 しい 吉 備 ( 岡 山 )の 太 宰 伊 豫 太 宰 は 新 しい 伊 豫 ( 愛 媛 )の 太 宰 ではなかろうか 同 じように 國 司 遷 任 もただ 新 しい 國 司 を 任 命 したということではなく 國 自 体 を 新 しく 制 定 し 直 してその 新 し い 地 方 国 家 の 國 司 を 任 命 したというこではなかろうか 例 えば 天 武 紀 に 於 ける 美 濃 といえば 苅 田 町 に 存 在 し た 郡 であった 持 統 4 年 に 美 濃 國 司 が 任 命 されていればその 美 濃 國 司 はもはや 古 代 美 濃 ( 苅 田 町 )の 國 司 - 14 -
ではなく 近 代 美 濃 ( 岐 阜 県 美 濃 市 )の 國 司 であろう 持 統 4 年 の 太 宰 國 司 の 遷 任 は 持 統 が 日 本 全 土 に 新 しい 地 方 行 政 組 織 を 確 立 したことの 現 れであろう (4) 儀 礼 甲 申 (9 日 )に 詔 して 曰 はく 凡 そ 朝 堂 の 座 の 上 にして 親 王 を 見 るときには 常 の 如 くせよ 大 臣 と 王 とには 起 ちて 堂 の 前 に 立 て 二 の 王 より 以 上 には 座 より 下 りて 跪 け とのたまふ 己 丑 (14 日 )に 詔 して 曰 はく 朝 堂 の 座 の 上 にして 大 臣 を 見 むときには 坐 を 動 きて 跪 け とのたまふ 藤 原 京 に 於 ける 持 統 王 朝 の 新 しい 儀 礼 を 制 定 したのである (5) 寺 是 の 日 に 絁 糸 綿 布 を 以 て 七 寺 の 安 居 の 沙 門 三 千 三 百 六 十 三 に 奉 施 したまふ 別 に 皇 太 子 の 為 に 三 寺 の 安 居 の 沙 門 三 百 二 十 九 に 奉 施 したまふ 持 統 11 年 (697)6 月 辛 未 (6 日 )に 詔 して 経 を 京 畿 の 諸 寺 に 読 ましむ 辛 巳 (16 日 )に 五 位 より 以 上 を 遣 わ して 京 の 寺 を 掃 ひ 灑 めしむ これらの 七 寺 は 天 武 紀 に 登 場 する 寺 ではない 天 武 紀 9 年 5 月 に 天 武 は 詔 勅 をだし 絁 綿 糸 布 を 以 て 京 の 内 の 二 十 四 寺 に 施 り 是 の 日 に 始 めて 金 光 明 経 を 宮 中 及 び 諸 寺 に 説 かしめた これらの 寺 は 太 宰 府 の 寺 で ある しかし 持 統 が 絁 糸 綿 布 を 与 えた 七 つの 寺 と3363 人 の 僧 侶 は 藤 原 京 の 寺 と 僧 侶 である (6) 戸 籍 9 月 乙 亥 朔 に 諸 国 等 に 詔 して 曰 はく 凡 そ 戸 籍 を 造 ることは 戸 令 に 依 れ とのたまふ 戸 籍 作 成 の 記 事 ではある 持 統 はその3 年 8 月 に 諸 國 の 國 司 に 詔 して 戸 籍 を 作 らせている この 諸 國 は 古 代 天 皇 家 の 諸 國 である だが4 年 の 造 籍 は 同 じではない 藤 原 京 でのこの 詔 勅 は 持 統 が 新 しく 統 治 する 諸 國 の 戸 籍 である (7) 新 しい 京 持 統 5 年 (691)10 月 甲 子 (27 日 )に 使 者 を 遣 して 新 益 京 を 鎮 め 祭 らしむ 持 統 6 年 (692) 春 正 月 戊 寅 (12 日 )に 天 皇 新 益 京 の 路 を 観 す 壬 午 (16 日 )に 公 卿 より 以 下 初 位 より 以 上 に 至 るまでに 饗 たまふ 新 益 京 に 関 する 二 つの 記 事 です 通 説 では 新 益 京 とは 藤 原 京 と 理 解 されていますが 新 益 とは 漢 字 が 表 している 通 り 新 しく 益 す( 増 す) という 意 味 です 現 在 既 に 京 はある だが 新 しい 京 を 造 ろうというのです から 新 益 京 とは 藤 原 京 ではありません 今 存 在 している 京 藤 原 京 に 替 わって 新 しく 造 る 京 です 藤 原 京 は 持 統 が 造 営 したのではありません 藤 原 京 を 造 った 国 家 は 日 本 國 でした 持 統 が 奈 良 に 遷 ってき た 持 統 4 年 には 藤 原 京 は 存 在 していたのです 持 統 が4 年 に 奈 良 に 遷 ってきた 理 由 は 藤 原 京 がここに 存 在 したからでしょう この 京 を 見 て 持 統 は 新 しく 近 畿 天 皇 家 の 京 を 作 ろうと 考 えました 天 武 が 居 た 太 宰 府 は 九 州 の 王 者 姫 氏 ( 倭 の 五 王 )が 造 った 京 でした 持 統 が 今 居 る 藤 原 京 は 日 本 國 が 造 った 京 でした 持 統 は 日 本 の 天 皇 となった 今 持 統 王 朝 の 京 を 新 しく 造 ろうと 考 え たのです 新 益 京 とは 後 の 正 式 の 名 前 で 云 えば 平 城 京 です 持 統 5 年 に 地 鎮 祭 を 行 い 持 統 6 年 に 朱 雀 大 路 を 視 察 した 新 益 京 ( 平 城 京 )は 持 統 が 存 命 中 には 完 成 しませ んでした 持 統 紀 には 新 益 京 ( 平 城 京 ) 完 成 の 記 事 はありません 元 明 の 平 城 京 遷 都 は710 年 ( 和 銅 3 年 )3 月 10 日 ですから 約 20 年 かけて 新 益 京 を 造 営 したことになります (8) 四 畿 内 持 統 6 年 夏 4 月 庚 子 (5 日 )に 四 畿 内 の 百 姓 の 荷 丁 と 為 れる 者 の 今 年 の 調 役 除 めたまふ 持 統 6 年 (692)) 閏 5 月 乙 未 朔 丁 酉 (3 日 )に 大 水 あり 使 を 遣 して 郡 国 を 循 り 行 きて 災 害 ありて 自 ら 存 ふこと 能 - 15 -
はざる 者 に 禀 貸 せしめ 山 林 池 沢 に 漁 し 採 ること 得 しむ 詔 して 京 師 及 び 四 畿 内 をして 金 光 明 経 を 講 説 しむ 持 統 9 年 (695)6 月 丁 丑 朔 己 卯 (3 日 )に 大 夫 謁 者 詣 を 遣 わして 京 師 及 び 四 畿 内 の 諸 社 に 詣 でて 請 雨 す 畿 内 という 直 轄 統 治 区 域 が4つの 國 として 定 められたのが 持 統 6 年 の 記 事 です 四 畿 内 とは 大 和 山 城 摂 津 河 内 です 天 武 4 年 2 月 の 記 事 には 大 倭 河 内 摂 津 山 背 播 磨 淡 路 丹 波 但 馬 近 江 若 狭 伊 勢 美 濃 尾 張 の 國 に 詔 して 所 部 の 百 姓 の 能 く 歌 う 男 女 及 び 侏 儒 伎 人 を 選 びて 貢 上 れ と 命 令 している 天 武 が 命 令 したこれらの 諸 国 は 古 代 天 皇 家 の 地 方 国 家 で 北 九 州 に 存 在 しました 持 統 はその 中 の 大 倭 河 内 摂 津 山 背 を 畿 内 四 カ 国 の 国 名 としました これらの 国 名 は 北 九 州 から 畿 内 ( 関 西 )に 移 りま した 天 武 朝 における 国 名 と 持 統 朝 における 国 名 は 同 じ 国 名 であっても 実 際 の 場 所 はもはや 異 なっていたので す (9) 迎 賓 館 持 統 6 年 11 月 辛 卯 朔 戊 戌 (8 日 )に 新 羅 級 飡 朴 億 徳 金 深 薩 等 を 遣 わして 調 進 る 新 羅 に 遣 わさむとする 使 直 広 肆 息 長 真 人 老 務 大 弐 川 内 忌 寸 連 等 に 禄 賜 ふこと 各 差 有 り 辛 丑 (11 日 )に 新 羅 の 朴 憶 徳 に 難 波 館 に 饗 禄 たまふ 持 統 が 新 羅 大 使 を 饗 応 したのは 難 波 館 である 太 宰 府 は 筑 紫 館 で 饗 応 し 藤 原 京 は 大 阪 難 波 の 難 波 館 で 饗 応 しました - 16 -