平 成 23 年 12 月 10 日 ( 土 9:30-12:00 佐 賀 市 から 世 界 遺 産 を! 幕 末 期 で 唯 現 存 する 洋 式 船 修 理 用 ドック - 三 重 津 海 軍 所 跡 18 区 発 掘 調 査 現 地 説 明 会 資 料 - 世 界 遺 産 登 録 と 三 重 津 海 軍 所 跡 - 九 州 山 口 の 近 代 化 産 業 遺 産 群 - 平 成 21 年 1 月 5 日 に 九 州 山 口 の 近 代 化 産 業 遺 産 群 が 世 界 遺 産 暫 定 覧 表 に 記 載 されまし た 九 州 山 口 の 近 代 化 産 業 遺 産 群 は 九 州 各 県 や 山 口 県 に 残 る 幕 末 から 明 治 にかけての 産 業 遺 産 に 注 目 し 工 業 国 家 日 本 の 台 頭 をテーマとして 世 界 遺 産 への 登 録 を 目 指 しています りょうふう み え つ 洋 式 船 の 維 持 修 理 を 自 力 で 行 い 日 本 で 最 初 の 実 用 蒸 気 船 凌 風 丸 の 製 造 に 成 功 した 三 重 津 海 軍 所 跡 は 幕 末 段 階 における 近 代 工 業 化 の 先 駆 けとして 九 州 山 口 の 近 代 化 産 業 遺 産 群 の 構 成 資 産 候 補 の つに 挙 げられました 三 重 津 海 軍 所 跡 の 国 史 跡 指 定 へ 向 けて 三 重 津 海 軍 所 跡 が 世 界 遺 産 として 登 録 されるためには まず 国 の 史 跡 に 指 定 され 遺 跡 を 将 来 に 向 けて 保 護 していくことが 前 提 条 件 となっています そのため 佐 賀 市 教 育 委 員 会 では 三 重 津 海 軍 所 跡 の 国 史 跡 への 指 定 を 目 指 して 遺 跡 の 範 囲 確 認 や 歴 史 的 価 値 についての 調 査 研 究 を 進 めています せいかんしょ せんきょ 今 回 の 製 罐 所 船 渠 エリアの 調 査 によって 三 重 津 海 軍 所 での 洋 式 船 修 理 機 能 について 更 に 解 明 し 歴 史 的 価 値 の 証 明 へとつながっていくことが 望 まれます - 1 -
発 掘 調 査 の 成 果 (18 区 調 査 の 目 的 平 成 23 年 12 月 10 日 ( 土 9:30-12:00 せいかんしょ せんきょ 発 掘 調 査 を 実 施 した 18 区 は 三 重 津 海 軍 所 跡 の 南 西 端 製 罐 所 船 渠 エリア(p10に 含 まれます きぐみ このエリアでは 前 回 (H23 年 3 月 までの 発 掘 調 査 で 船 渠 エリアの 木 組 遺 構 が 開 口 部 ( 河 川 側 から 30mほど 内 陸 方 向 ( 堤 防 側 に 続 いていたことが 確 認 されていました 今 回 の 発 掘 調 査 では この 木 組 遺 構 の 更 なる 構 造 規 模 を 解 明 することを 目 的 としています 調 査 成 果 約 600 m2にわたる 調 査 区 から 木 組 遺 構 江 戸 時 代 末 期 の 三 重 津 海 軍 所 特 有 の 海 等 銘 入 磁 器 かこうさい 石 炭 鉄 の 加 工 滓 (スラッグなどが 検 出 されています 調 査 成 果 としては 以 下 のことがあげられ ます 木 組 階 段 状 遺 構 前 回 の 調 査 に 引 続 き 開 口 部 ( 河 川 側 から 内 陸 方 向 ( 堤 防 側 に 45m 以 上 木 組 階 段 状 遺 構 (p.3 図 3が 続 いていることが 確 認 されました また 開 口 部 付 近 は 簡 易 な 木 組 構 造 (p.3 図 4で 内 陸 側 は 複 雑 な 木 組 階 段 状 構 造 (4 段 以 上 であったことも 確 認 されました 文 献 記 録 との 整 合 たいせき はんそう これまでの 発 掘 調 査 で 木 組 遺 構 を 覆 った 堆 積 土 から 洋 式 帆 装 用 の 補 強 ロープ(p5 図 9や 燃 料 材 の 石 炭 が 出 土 していて この 遺 構 が 当 時 の 洋 式 帆 船 蒸 気 船 と 強 い 関 わりがあることが 解 っていまし た 今 回 木 組 遺 構 が 奥 行 ( 長 さ 方 向 に 45m 以 上 確 認 されたことから ドライドック(p.2 図 1 の 形 を 参 照 として 当 時 佐 賀 藩 が 保 有 した 洋 式 帆 船 の 飛 ひ うん 雲 しんぷう 丸 (31.4m 晨 風 丸 (19.7mが 確 実 に 入 るこ でんりゅう とができた 長 さであり 蒸 気 軍 艦 である 電 流 丸 (45.5mも 入 ることができた 可 能 性 が 高 まりました おんしゅうふくば その 結 果 この 木 組 遺 構 は 文 献 記 録 に 現 れた 御 修 覆 場 であり 洋 式 船 修 理 用 のドライドック であったことが 考 古 学 的 に 更 に 裏 付 けられたといえます 幕 末 期 で 現 存 する 唯 の 木 造 ドライドック 明 治 初 期 に 竣 工 した 日 本 で 現 存 する 洋 式 船 修 理 用 ドックとしては ドライドック よ こ す か 横 須 賀 製 鉄 所 1 号 船 渠 (p2 図 1 慶 応 3 年 (1867 起 工 明 治 4 年 (1871 竣 工 こすげ スリップドック 小 菅 修 船 場 跡 (p2 図 2 慶 応 3 年 (1867 起 工 明 治 元 年 (1868 竣 工 が 有 名 です これに 対 して 三 重 津 の 御 修 覆 場 は 遅 くとも 文 久 元 年 (1861 秋 には 竣 工 してい たことが 確 認 されています 三 重 津 の 御 修 覆 場 は 幕 末 期 に 使 用 された 洋 式 船 修 理 用 ドックとし ては 現 存 が 確 認 されている 唯 のものであると 同 時 に 在 来 技 法 も 用 いた 木 造 ドライドックであ ることは 過 渡 的 な 産 業 技 術 のあり 方 を 良 く 示 しているものです 図 1: 現 存 する 横 須 賀 製 鉄 所 ドライドック フランス 人 設 計 による 船 が 入 る 石 造 船 渠 - 2 - 図 2: 現 存 する 小 菅 修 船 場 跡 スリップドック イギリス 式 で 船 台 と 斜 面 と 巻 上 機 からなる
平 成 23 年 12 月 10 日 ( 土 9:30-12:00 発 掘 調 査 位 置 図 図 3: 階 段 状 の 複 雑 な 構 造 の 木 組 遺 構 図 4: 開 口 部 付 近 の 簡 易 な 構 造 の 木 組 遺 構 - 3 -
平 成 23 年 12 月 10 日 ( 土 9:30-12:00 電 流 丸 と 三 重 津 の 修 理 施 設 幕 末 佐 賀 藩 のドライドック 三 重 津 海 軍 所 跡 修 理 施 設 み え つ 産 業 遺 跡 としての 三 重 津 海 軍 所 跡 の 重 要 性 は 造 船 とともに 洋 式 艦 船 を 修 理 する 機 能 にあります 現 在 行 っている 古 文 書 解 読 と 遺 跡 発 掘 の 両 面 の 調 査 から 三 重 津 海 軍 所 跡 は 幕 末 から 明 治 初 期 ま での 過 渡 的 な 産 業 技 術 のあり 方 を 良 く 示 す 遺 跡 であ ることが 解 かるとともに 幕 末 期 の 洋 式 船 修 理 用 ド ックとしては 現 存 が 確 認 されている 唯 のもので あることが 明 らかとなりました 図 5: 三 重 津 海 軍 所 跡 の 発 掘 調 査 状 況 ( 調 査 地 点 をつないだ 合 成 写 真 なぜドックが 必 要 だったか 和 船 と 洋 式 船 の 違 い 伝 統 的 な 和 船 と 幕 末 の 洋 式 船 の 違 いは 構 造 と 大 きさにありました 陸 上 にそのまま 引 上 げて 修 理 を 行 える 和 船 に 対 して 三 重 津 にあった 従 来 の 船 屋 で は 電 流 丸 を 引 上 げて 修 理 することは 不 可 能 でした また 最 大 級 の 和 船 でも 全 長 20mほどでしたが 佐 賀 藩 が 発 注 し 安 政 5 年 (1858にオランダから でんりゅう かんりん 到 着 した 蒸 気 軍 艦 の 電 流 丸 ( 幕 府 咸 臨 丸 と 同 型 艦 は 45mほどもありました さらに 和 船 には 無 い 洋 式 船 の 蒸 気 機 関 や 道 具 類 を 補 修 したり 製 造 したりす 図 6: 電 流 丸 の 模 型 ( 参 考 るための 施 設 もありませんでした 佐 野 常 民 記 念 館 : 柿 原 弘 資 氏 寄 贈 そのため 電 流 丸 を 始 めとした 洋 式 艦 船 の 修 理 施 喫 水 線 から 船 底 には 銅 板 が 設 は 三 重 津 海 軍 所 の 南 側 にまとめて 設 置 されまし 張 られていることが 示 されている た 現 在 製 罐 所 船 渠 エリア(p10と 呼 んでいる 部 分 にあたります 古 文 書 による 新 しい 発 見 修 覆 場 と 製 作 場 三 重 津 海 軍 所 の 修 理 施 設 は 電 流 丸 の 修 理 を 行 うために 建 設 しゅうふくば され 修 覆 場 (ドライドック;p.2 図 1 の 形 を 参 照 と 製 作 場 から 成 り 立 ち 文 久 元 年 (1861 頃 に 完 成 したことが 判 明 しました 修 覆 場 では 電 流 丸 を 引 入 れて 船 底 の 銅 板 (p4 図 6 参 照 の 張 替 じょうきかん えを 製 作 場 では 蒸 気 機 関 の 交 換 用 ボイラー( 蒸 気 罐 の 組 立 を ぎ え も ん 行 いました ボイラーの 製 造 主 任 には からくり 儀 右 衛 とし たなかおうみ て 有 名 な 田 中 近 江 父 子 が 任 命 されています ぎょ いうけくだし 図 7: 鍋 島 文 庫 請 御 意 下 ( 鍋 島 報 效 会 蔵 : 佐 賀 県 立 図 書 館 寄 託 - 4 -
平 成 23 年 12 月 10 日 ( 土 9:30-12:00 遺 跡 が 語 る 三 重 津 の 姿 在 来 技 法 と 西 洋 技 術 の 接 点 しゅうふくば 発 掘 調 査 で 見 つかった 修 覆 場 (ドライドックは 石 やレンガで 建 設 されたものではなく 木 造 ドライド ック(p5 図 8でした また 船 を 出 入 させるための 開 閉 ゲーの 痕 跡 が 無 く 入 る 時 に 土 手 を 築 き 土 手 を 壊 して 船 を 出 したことが 想 定 されます 修 覆 場 の 建 設 ふなくぎ ふなだいく には 和 船 の 板 や 船 釘 などの 部 材 とともに 船 大 工 の 技 術 も 応 用 されています また このドックに 洋 式 船 が 出 入 りしていた 確 実 な 証 拠 として 布 テープで 補 強 さ はんそう れた 帆 装 用 のロープ(p5 図 9や 蒸 気 機 関 の 燃 料 用 石 炭 も 出 土 しています ろ あと 製 作 場 では 金 属 を 加 熱 するための 炉 跡 が 多 数 見 つ かりました また 金 属 を 溶 かすためのルツボ(p5 図 10や 炉 内 に 送 風 するためのフイゴ 羽 口 大 量 の 金 かこうさい 属 の 加 工 滓 が 出 土 しました 製 作 場 では 主 に 銅 の ちゅうぞう か じ 鋳 造 と 鉄 の 鍛 冶 が 行 われていたことがわかりました どうばん どうくぎ これらは 船 底 に 張 るための 銅 板 や 銅 釘 を 作 ったり かまいた 釜 板 (ボイラー 用 の 鉄 板 を 組 立 てたりするためのリベ びょう ッ( 鋲 打 ちの 痕 跡 だと 考 えられます 発 掘 調 査 の 結 果 は 当 時 最 新 の 蒸 気 船 を 修 理 するため の 作 業 が 伝 統 的 な 江 戸 時 代 の 在 来 技 法 も 用 いて 達 成 されたことを 示 しています 図 8: 修 覆 場 の 木 組 階 段 状 遺 構 図 9: 修 覆 場 から 出 土 した 洋 式 船 の 補 強 ロープ 初 期 の 近 代 化 遺 産 三 重 津 海 軍 所 跡 の 重 要 性 三 重 津 海 軍 所 とは 佐 賀 藩 士 たちが 書 物 で 学 んだこ とや 長 崎 でオランダ 人 から 教 わったことを 自 らの 手 によって 実 現 させた 場 所 でした 明 治 以 後 の 近 代 化 事 業 とは 異 なり 情 報 も 技 術 も 材 料 も 大 きく 制 約 され たなか 佐 賀 藩 は 既 存 施 設 に 洋 式 船 の 運 用 という 機 能 図 10: 製 作 場 で 出 土 した 銅 を 溶 かすルツボ を 付 加 し 新 たに 施 設 を 整 備 して 輸 入 した 蒸 気 船 の 運 用 修 理 を 自 力 で 行 いました また それが 江 戸 時 代 以 来 の 在 来 技 法 によって 達 成 されたことは 日 本 人 の 自 力 による 初 期 の 近 代 化 の 面 を 非 常 に 良 く 示 しているといえます 三 重 津 海 軍 所 跡 は 幕 末 の 自 力 による 近 代 化 がどのようなものであっ たかを 今 に 伝 える 貴 重 な 遺 跡 です - 5 -
平 成 23 年 12 月 10 日 ( 土 9:30-12:00-6 - 電 流 でんりゅう 丸 の 要 目 海 軍 省 公 文 備 考 類 公 文 類 纂 明 治 2 年 完 本 省 公 文 のうち 諸 藩 船 艦 記 ( 防 衛 省 防 衛 研 究 所 所 蔵 画 像 データ:アジア 歴 史 資 料 センター ( 内 は 注 尺 は 1 尺 =30.3 cmにて 計 算 小 数 点 第 2 位 以 下 四 捨 五 入 斤 は 1 斤 =600g にて 計 算 買 入 并 雑 記 煙 出 ( 煙 突 檣 ( 帆 柱 水 入 深 ( 喫 水 甲 板 幅 全 身 長 我 安 政 五 年 (1 8 5 8 午 月 於 長 崎 蘭 国 政 府 ヨ リ 買 入 本 三 本 尺 (3. 6 m 六 尺 (7. 9 m 百 五 尺 (4 5. 5 m 人 員 炭 費 走 力 炭 庫 積 高 毎 昼 夜 万 斤 (1 2 ン 毎 時 五 里 五 万 斤 (9 0 ン 三 百 噸 (3 0 0 ン 所 備 砲 器 四 ア ル ム ス ロ ン ク 銃 同 長 加 農 四 ホ イ ー ス 銃 三 カ ル ロ ナ ー デ 銃 四 拇 忽 微 砲 自 在 砲 四 小 銃 八 箇 製 造 原 名 質 形 船 号 所 管 西 洋 紀 元 千 八 百 五 八 年 蘭 国 ロ ッ ル ダ ム 及 ア ム ス テ ル ダ ム ニ 於 テ 製 造 長 崎 蒸 気 軍 艦 木 製 電 流 鍋 島 従 四 位
平 成 23 年 12 月 10 日 ( 土 9:30-12:00 三 重 津 海 軍 所 とは 三 重 津 海 軍 所 が 設 立 された 経 緯 でんしゅうしょ 安 政 2 年 (1855 幕 府 が 海 軍 伝 習 所 を 長 崎 に 設 立 し 佐 賀 藩 も 多 くの 藩 士 を 参 加 させました 安 政 5 年 (1858には 藩 内 の 船 手 にもオランダ 人 より 学 んだ 洋 式 船 の 運 用 技 術 等 を 教 育 するため 三 重 お ふ な て け い こ し ょ 津 に 御 船 手 稽 古 所 を 設 置 しました 翌 年 長 崎 海 軍 伝 習 所 の 撤 収 に 伴 い 佐 賀 藩 は 藩 内 での 海 軍 け い こ ば とりしらべかた 教 育 を 継 続 充 実 させるため 船 屋 の 西 角 を 海 軍 稽 古 場 として 拡 張 し 海 軍 取 調 方 の 出 張 けいこにん ちょうれんじょう 所 に 続 き 稽 古 人 の 宿 舎 や 調 練 場 を 設 置 し 整 備 しました それとともに 当 時 所 有 していた 蒸 気 船 や 帆 船 など 佐 賀 藩 艦 船 の 主 要 港 を 三 重 津 に 定 め 艦 隊 根 拠 地 としての 体 裁 も 整 えました 三 重 津 に 艦 船 が 常 時 出 入 りしていたわけではなく 多 くは 現 在 の 有 明 あみあらい 佐 賀 空 港 に 近 い 沖 合 ( 網 洗 に 停 泊 し そこから 藩 の 御 用 や 伝 習 生 たちの 稽 古 を 行 っていました そ のため 通 常 艦 船 と 海 軍 所 間 の 人 員 や 物 資 の 移 送 は 小 型 船 で 行 っていたようです こうして 三 重 津 に 海 軍 教 育 の 機 能 と 洋 式 船 の 運 用 機 能 が 附 加 されたのでした その 後 も 蒸 気 船 せいさくば を 運 用 する 上 で 必 要 なメンテナンスの 部 品 等 の 製 造 を 行 った 製 作 場 修 船 や 造 船 の 際 に 船 を 引 入 れる しゅうふくば ための 修 覆 場 の 整 備 が 行 われました その 結 果 三 重 津 海 軍 所 は 早 津 江 川 西 岸 の 河 川 敷 に 全 長 約 600mの 範 囲 にわたりました(p7 図 11 三 重 津 海 軍 所 は 明 治 初 期 に 閉 鎖 されたと 思 われますが その 時 期 等 詳 細 についてはわかっていませ ん 跡 地 は 明 治 35~ 昭 和 8 年 (1902~1933に 佐 賀 県 立 商 船 学 校 として 利 用 されました 現 在 では つねたみ 三 重 津 海 軍 所 跡 の 大 部 分 が 海 軍 所 とゆかりが 深 かった 佐 野 常 民 の 名 を 冠 した 佐 野 記 念 公 園 となって います さ の 図 11: 三 重 津 海 軍 所 跡 全 景 写 真 - 7 -
平 成 23 年 12 月 10 日 ( 土 9:30-12:00 三 重 津 の 修 船 機 能 でんりゅうまる りゅうこつ どうばん 文 久 2 年 (1862に 昨 年 の 秋 に 行 った 電 流 丸 のキール( 竜 骨 の 銅 板 を 張 替 える 作 業 の 残 りを 行 う 必 要 が 生 じました このことから 昨 年 の 秋 に 修 復 作 業 を 行 ったことがわかり 文 久 元 年 (1861 頃 には 三 重 津 に 修 覆 場 が 存 在 したと 考 えられます じょうきかん また 文 久 元 年 7 月 に 佐 賀 藩 は 電 流 丸 の 交 換 用 ボイラー( 蒸 気 罐 の 製 造 を 行 うため オランダ かまいた せいれんかた たなかお う み に 注 文 していた 釜 板 を 長 崎 から 取 寄 せ 製 造 担 当 主 任 に 精 煉 方 の 田 中 近 江 親 子 を 任 命 し 三 重 津 に 製 作 場 を 設 けました ボイラーの 製 造 は 藩 内 初 めての 事 業 であり 火 を 専 らに 取 り 扱 う 仕 事 のため 担 当 はってん 者 職 人 等 の 安 全 が 八 天 神 社 ( 塩 田 町 に 祈 願 されました いたくら その 後 さらに 老 中 板 倉 かつ 勝 きよ 静 ち よ より 幕 府 建 造 の 蒸 気 船 千 代 だ が た 田 形 の 蒸 気 罐 を 製 造 するよう 命 じられ こ う ぎ ご よ う じ ょ う き か ん せいぞうかた ます 長 崎 製 鉄 所 に 用 意 していた 鉄 板 等 の 材 料 を 佐 賀 に 運 び 三 重 津 に 公 儀 御 用 蒸 気 罐 製 造 方 を 設 け ボイラーの 製 造 を 行 うことになりました そして 文 久 3 年 (186310 月 にボイラーの 完 成 具 合 の 検 分 が 行 われました 佐 賀 藩 は 幕 府 製 造 の 千 代 田 形 の 蒸 気 罐 製 造 を 成 し 遂 げ 元 治 元 年 (1864 6 月 に 製 造 担 当 者 らが 幕 府 から 褒 賞 を 受 けました 凌 風 丸 の 建 造 せいれんかた たなかおうみ おめしあさゆきしょうじょうきせん 方 文 久 3 年 (1863 春 精 煉 方 の 田 中 近 江 を 中 心 に 御 召 浅 行 小 蒸 気 船 ( 浅 海 用 小 型 連 絡 船 の 製 造 に 取 りかかります 製 造 の 詳 細 な 内 容 についてはまだわかっていませんが 慶 応 元 年 (1865 りょうふう しょうじょうき 年 春 にこの 小 蒸 気 船 を 凌 風 丸 と 命 名 し 6 月 にこの 製 造 部 局 に 小 蒸 気 せん 船 せいぞうかた 製 造 方 と 役 名 をつ けました 翌 月 にはこの 小 蒸 気 船 製 造 方 が 帆 柱 の 調 達 を 行 うなど 完 成 間 際 の 様 子 がわかります 明 治 せん ふ 新 政 府 が 各 藩 の 洋 式 船 等 を 記 録 した 船 譜 によると 凌 風 丸 は 慶 応 元 年 10 月 製 造 と 記 載 されています 凌 風 丸 の 運 用 は 同 2 年 (18662 月 に 幕 府 大 目 付 が 佐 賀 を 訪 れた 際 の 送 迎 を 行 ったことが 初 見 で かんそう いさはや す その 翌 年 凌 風 丸 は 閑 叟 (10 代 藩 主 直 正 文 久 元 年 に 隠 居 を 乗 せて 三 重 津 ~ 諫 早 間 を 往 復 したり でんりゅう こうし 電 流 丸 や 甲 子 丸 ( 元 治 元 年 に 購 入 などの 洋 式 艦 船 と 三 重 津 との 間 の 連 絡 船 として 活 躍 しました さ らに 明 治 元 年 (1868には 閑 叟 が 伊 万 里 から 乗 り 込 んでおり 凌 風 丸 は 有 明 海 だけではなく 伊 万 里 方 面 まで 運 用 されていたことがわかります たけさき なお これまで 凌 風 丸 は 明 治 3 年 (18705 月 に 有 明 海 竹 崎 付 近 で 座 礁 した 後 外 国 人 に 売 却 され たといわれていました しかし 同 4 年 (1871 時 点 の 佐 賀 県 ( 当 時 伊 万 里 県 所 有 の 蒸 気 船 を 調 査 し た 書 上 げの 中 に 凌 風 丸 の 名 前 があり この 時 期 までは 存 在 していることが 確 認 できます 以 上 に 見 られる 凌 風 丸 の 記 録 は 慶 応 元 年 に 製 造 されて 以 後 およそ 6 年 間 佐 賀 藩 近 海 の 実 用 的 な 連 絡 船 として 使 用 されたことを 証 明 しています 凌 風 丸 はペリー 来 航 以 来 の 技 術 的 蓄 積 の 上 に 日 本 人 が 独 力 で 完 成 させた 実 用 蒸 気 船 としては 最 も 早 いものの つでした - 8 -
年 表 安 政 元 年 (1854 11 月 28 日 佐 賀 藩 蒸 気 船 製 造 の 意 思 決 定 を 行 う ( 直 正 公 譜 平 成 23 年 12 月 10 日 ( 土 9:30-12:00 ( 内 は 根 拠 史 料 安 政 2 年 (1855 幕 府 長 崎 海 軍 伝 習 所 を 開 設 する 安 政 3 年 (1856 3 月 佐 野 常 民 蒸 気 船 建 造 用 として 三 重 津 に 集 積 した 用 材 の 余 分 を 長 崎 でのバ ッテイラ 造 船 用 に 廻 送 するよう 申 請 する ( 佐 野 栄 寿 左 衛 海 防 に 関 する 意 見 書 安 政 4 年 (1857 9 月 海 軍 取 調 方 を 設 け 担 当 者 等 決 める ( 松 乃 落 葉 安 政 5 年 (1858 2 月 29 日 三 重 津 に 船 手 稽 古 所 の 設 置 を 命 じる ( 松 乃 落 葉 9 月 18 日 精 煉 方 に 蒸 気 船 製 造 費 用 の 見 積 りを 命 じる ( 松 乃 落 葉 安 政 6 年 (1859 8 月 15 日 長 崎 海 軍 伝 習 所 撤 収 に 伴 い 三 重 津 の 海 軍 稽 古 場 を 拡 充 電 流 丸 等 の 佐 賀 藩 船 の 主 要 繋 留 地 を 三 重 津 に 定 める ( 松 乃 落 葉 文 久 元 年 (1861 4 月 番 方 などが 用 いていた 大 早 船 について 不 便 利 となったので 解 船 する ( 請 御 意 下 7 月 25 日 電 流 丸 の 蒸 気 罐 製 造 のため 三 重 津 に 製 作 場 を 設 立 し 田 中 近 江 を 担 当 者 と する ( 請 御 意 下 文 久 2 年 (1862 5 月 26 日 老 中 より 幕 府 製 造 の 蒸 気 船 千 代 田 形 の 蒸 気 罐 を 製 造 するよう 命 じられる ( 長 崎 製 鉄 所 件 7 月 29 日 三 重 津 の 蒸 気 罐 製 造 所 を 公 儀 御 用 蒸 気 鑵 製 造 所 と 呼 ぶ ( 請 御 意 下 文 久 3 年 (1863 春 三 重 津 で 精 煉 方 田 中 近 江 を 中 心 として 御 召 浅 行 小 蒸 気 船 ( 後 の 凌 風 丸 の 建 造 に 取 り 掛 る ( 佐 賀 藩 海 軍 史 11 月 公 儀 蒸 気 鑵 製 造 方 役 所 を 畳 む ( 雑 録 慶 応 元 年 (1865 6 月 凌 風 丸 の 製 造 部 局 に 小 蒸 気 船 製 造 方 と 役 名 が 付 く ( 雑 録 7 月 小 蒸 気 船 製 造 方 が 凌 風 丸 の 帆 柱 を 調 達 する ( 請 御 意 下 慶 応 2 年 (1866 2-3 月 幕 府 大 目 付 が 来 航 の 折 に 凌 風 丸 で 送 迎 を 行 う ( 白 帆 注 進 外 国 船 出 入 注 進 慶 応 3 年 (1867 3 月 閑 叟 ( 直 正 凌 風 丸 で 三 重 津 - 諫 早 間 を 往 復 ( 佐 賀 藩 海 軍 史 明 治 元 年 (1868 12 月 閑 叟 伊 万 里 で 凌 風 丸 に 乗 り 込 む ( 伊 万 里 市 史 明 治 3 年 (1870 5 月 有 明 海 竹 崎 付 近 で 凌 風 丸 が 座 礁 し 外 国 人 に 売 却 ( 佐 賀 藩 海 軍 史 明 治 4 年 (1871 12 月 伊 万 里 県 所 有 の 蒸 気 船 覧 に 凌 風 丸 の 名 あり ( 佐 賀 県 明 治 行 政 資 料 - 9 -
- 10 - 平 成 23 年 12 月 10 日 ( 土 9:30-12:00