茨 城 県 指 定 有 形 文 化 財 取 手 市 指 定 史 跡 旧 取 手 宿 本 陣 染 野 家 住 宅 取 手 市 教 育 委 員 会
はじめに 旧 取 手 宿 本 陣 染 野 家 住 宅 は 寛 政 7 年 (1795)に 建 築 されました 江 戸 時 代 参 勤 交 代 の 制 度 により 大 名 は 江 戸 と 国 元 の 間 を 往 復 しましたが その 道 中 で 宿 泊 や 休 息 に 利 用 した 家 を 本 陣 と 呼 びました 染 野 家 の 当 主 は 代 々 取 手 宿 の 名 主 を 勤 め ていましたが 貞 享 4 年 (1687)に 水 戸 徳 川 家 から 本 陣 に 指 定 されたと 伝 えられています そして 水 戸 徳 川 家 の 歴 代 の 藩 主 だけでなく 江 戸 と 水 戸 の 間 を 行 き 来 する 水 戸 藩 士 や 他 の 大 名 も 染 野 家 を 本 陣 として 宿 泊 や 休 息 に 利 用 しました 文 化 財 の 指 定 と 修 理 工 事 取 手 市 では 昭 和 62 年 (1987)1 月 に 旧 取 手 宿 本 陣 を 史 跡 に 指 定 しました 次 いで 同 年 6 月 には 染 野 家 から 主 屋 土 蔵 表 門 徳 川 斉 昭 の 歌 碑 が 取 手 市 に 寄 贈 されました 同 年 12 月 からの 土 蔵 と 表 門 の 解 体 を 皮 切 りに 土 蔵 の 解 体 修 理 工 事 主 屋 の 半 解 体 修 理 工 事 表 門 の 解 体 復 旧 工 事 庭 園 の 整 備 工 事 などがはじまり 平 成 8 年 度 にすべての 工 事 が 終 了 しました また 平 成 8 年 1 月 には 主 屋 と 土 蔵 が 茨 城 県 指 定 有 形 文 化 財 に 指 定 されて います 平 成 9 年 9 月 から 一 般 公 開 が 始 まり こうして 皆 様 に 旧 取 手 宿 本 陣 の 建 物 などを ご 覧 いただけるようになりました 水 戸 街 道 水 戸 街 道 は 千 住 と 水 戸 を 結 んでいました 間 には 千 住 新 宿 松 戸 小 金 我 孫 子 取 手 藤 代 若 柴 牛 久 荒 川 沖 中 村 土 浦 中 貫 稲 吉 府 中 竹 原 堅 倉 小 幡 長 岡 水 戸 の 20 宿 がありました ただし 荒 川 沖 と 中 貫 は 片 継 の 宿 なので 数 に 入 れずに 水 戸 街 道 は 18 宿 とする 数 え 方 もあります これは 荒 川 沖 では 中 村 からの 上 りの 荷 物 は 牛 久 まで 継 ぎ 立 てしても 牛 久 からの 下 りの 荷 物 は 牛 久 の 人 馬 が 中 村 まで 継 ぎ 立 てしたか らです 同 じく 中 貫 では 土 浦 からの 下 りの 荷 物 は 稲 吉 まで 継 ぎ 立 てしても 稲 吉 からの 上 りの 荷 物 は 稲 吉 の 人 馬 が 土 浦 まで 継 ぎ 立 てしたからです 取 手 宿 江 戸 時 代 はじめの 取 手 宿 は 佐 倉 道 ( 守 谷 に 向 かっては 守 谷 道 )と 呼 ばれる 現 在 の 守 谷 市 と 千 葉 県 佐 倉 市 を 結 ぶ 道 沿 いにありました すなわち 八 坂 神 社 から 現 在 の 図 書 館 市 民 センターを 通 り 利 根 川 の 川 原 の 中 に 町 並 みが 作 られていました ところが 寛 文 6 年 (1666)の 利 根 川 の 大 洪 水 で この 町 並 みが 大 きな 被 害 を 受 けたため 利 根 川 に 平 行 する ような 町 並 みに 改 められました この 道 と 町 並 みが 現 在 の 県 道 取 手 東 線 にあたります 水 戸 街 道 が 取 手 を 通 るようになると 現 在 の 取 手 競 輪 場 や 弘 経 寺 のあたりにあった 大 鹿 村 の 人 たちが 街 道 沿 いに 移 住 してきました 大 鹿 村 の 移 住 は 元 禄 10 年 (1697)ころには 終 了 し 利 根 川 の 渡 船 場 も 同 じころに 現 在 の 大 利 根 橋 のあたりに 移 ったようです このと きが 後 の 水 戸 街 道 と 取 手 宿 の 町 並 みが 完 成 したときと 言 えそうです 水 戸 街 道 の 付 け 替 え 江 戸 時 代 はじめの 水 戸 街 道 は 取 手 を 通 らず 我 孫 子 からは 東 に 進 み 布 佐 で 利 根 川 を 渡
寛 文 6 年 取 手 宿 絵 図 ( 染 野 修 家 文 書 C40) 現 在 の 八 坂 神 社 から 利 根 川 の 川 原 の 中 に 取 手 宿 の 町 並 みが 形 成 され ていました 明 和 8 年 取 手 宿 大 鹿 村 絵 図 ( 染 野 修 家 C60) 現 在 の 県 道 取 手 東 線 が 町 並 みと なっています 文 化 5 年 6 月 取 手 渡 場 宿 並 麁 絵 図 ( 染 野 修 家 C65) 水 戸 藩 主 などの 大 名 行 列 が 利 根 川 を 渡 るときは 身 分 によって 渡 る 場 所 が 違 っていました
り 対 岸 の 利 根 町 布 川 から 北 に 向 かっていました この 道 沿 いには 一 里 塚 の 跡 や 伝 承 地 が 残 り 整 備 された 重 要 な 街 道 であったことがわかります 水 戸 街 道 が 取 手 を 通 るようになったのがいつごろかは はっきりとわかりません 史 料 から 確 認 できる 最 初 の 水 戸 藩 主 の 通 行 は 天 和 2 年 (1682)に 2 代 藩 主 徳 川 光 圀 が 江 戸 か ら 水 戸 に 向 かったときです しかしこれ 以 前 にも 水 戸 藩 主 が 取 手 を 通 っている 可 能 性 もあ り また 翌 天 和 3 年 (1683)に 光 圀 が 江 戸 に 戻 るときには 潮 来 から 船 に 乗 り 利 根 川 をさ かのぼり 布 佐 で 上 陸 しています ですから 天 和 2 年 以 降 も 必 ず 水 戸 藩 主 が 取 手 を 通 る ようになったのではないようです 建 物 の 概 要 1. 表 門 文 化 2 年 (1805)に 建 てられました 昭 和 53 年 の 大 風 による 倒 木 で 大 破 しました が 部 材 を 一 部 取 り 替 えて 再 建 しています 土 蔵 や 主 屋 の 修 理 に 際 して 材 料 の 搬 出 入 の 障 害 になるのと 修 理 の 時 期 が 来 ていたことから 解 体 して 復 旧 しました 2. 土 蔵 主 屋 や 表 門 と 同 じく 18 世 紀 末 から 19 世 紀 初 めに 建 てられたと 推 定 されています 明 治 30 年 (1897)に 修 理 されたことが 梁 の 墨 書 からわかりました 中 は2 室 に 仕 切 られ 南 側 ( 向 かって 左 )は2 階 北 側 は1 階 になっています 3. 主 屋 1 玄 関 主 屋 のほぼ 正 面 に 堂 々とした 入 母 屋 造 りの 玄 関 があります 玄 関 には 本 陣 を 利 用 する 大 名 など 身 分 の 高 い 武 士 が 駕 籠 を 横 付 けして 直 接 建 物 の 中 に 入 れる ように 式 台 が 付 いています 2 ど ま 染 野 家 の 人 びとが 通 常 出 入 りに 利 用 するのは 玄 関 の 右 側 にある 大 戸 です 大 戸 から 建 物 の 中 に 入 ると どまになっています どまの 奥 には 調 理 に 使 った 石 くどがあります どまには 天 井 が 張 られていないので 梁 丸 太 が3 段 に 組 み 上 げら れ 3 本 の 大 黒 柱 で 屋 根 の 重 みを 支 えているのを 見 ることができます 3 染 野 家 の 居 住 部 分 土 間 から 六 畳 間 に 上 がり なんど なかなんど ちゃのま ひ ろまとまわる 部 屋 が 染 野 家 が 日 常 生 活 で 使 用 する 部 分 です 六 畳 間 には 押 入 れ なんどには 押 入 れと 棚 なかなんどには 押 入 れ ちゃのまには 床 (とこ)が 付 いて いますが これらは 後 に 付 け 加 えられたものです またなんどとなかなんどは 元 は 板 敷 だったようです ちゃのまとひろまの 間 のガラス 戸 の 板 ガラスは 中 に 空 気 の 泡 があり 表 面 も 波 打 っている 大 変 にめずらしいものです 4 なかのま 式 台 から 玄 関 にあがると 正 面 がなかのまです なかのまから 西 側 の 部 屋 が 本 陣 として 武 士 が 利 用 する 部 分 です これらの 部 屋 にはすべて 鴨 居 に 長 押 が 付 けられ 染 野 家 の 居 住 部 分 の 部 屋 が 差 鴨 居 であるのと 対 照 的 です 正 面 には 大 床 が 付 き 右 側 は 染 野 家 が 仏 壇 として 使 っていました ここを 仏 壇 として 使 用 する 以 前 には なかなんどと 通 り 抜 けができたようです 5 上 段 の 間 二 の 間 三 の 間 なかのまから 左 に 折 れると 八 畳 間 が 南 北 に3 部 屋 並 んでいます 手 前 ( 南 側 )から 三 の 間 二 の 間 上 段 の 間 です 上 段 の 間 は 大 名 など 身 分 の 高 い 武 士 が 利 用 する 部 屋 で ゆかが 框 1 本 分 ( 約 20 センチメートル) 高
くなっています 奥 には 床 ( 左 側 )と 違 棚 天 袋 が 付 き 左 側 に 平 書 院 が 付 いてい ます 違 棚 は 中 央 が 一 段 高 くなった 井 楼 棚 (せいろうだな) と 呼 ばれるもので 天 袋 と 井 楼 棚 の 組 み 合 わせは 床 の 間 の 格 式 では 最 も 高 いものです 平 書 院 の 障 子 の 上 にある 板 欄 間 のひょうたんのくり 抜 きや 二 の 間 と 三 の 間 の 境 の 菱 格 子 欄 間 も 趣 があります 庭 に 面 した 廊 下 側 の 柱 は 角 に 木 の 丸 みが 残 っている 面 皮 柱 が 使 われ 数 奇 屋 風 に 仕 上 げられています 6 郵 便 窓 口 跡 ひろまの 前 玄 関 の 右 側 ( 東 側 )の 板 敷 の 部 屋 は 明 治 の 初 期 に 郵 便 局 として 使 用 していました 建 物 の 外 側 に 面 して 馬 蹄 型 の 窓 口 がありますが これ が 郵 便 の 窓 口 跡 です 明 治 11 年 (1878)3 月 染 野 晋 は 五 等 郵 便 取 扱 役 となってい ます この 時 に 自 宅 を 改 造 して 窓 口 を 付 けたのでしょう 同 じように 建 物 の 外 に 面 した 明 治 期 の 郵 便 窓 口 跡 としては 東 京 都 府 中 市 の 矢 島 家 住 宅 奈 良 県 奈 良 市 の 松 本 家 住 宅 大 阪 府 堺 市 の 川 口 家 住 宅 の3つしか 残 っていません ここ 取 手 の 郵 便 窓 口 跡 は 郵 便 創 業 期 の 姿 を 現 在 に 伝 える 大 変 に 貴 重 な 文 化 財 です 徳 川 斉 昭 と 本 陣 染 野 家 水 戸 藩 は 定 府 といい 他 の 大 名 のように 参 勤 交 代 をせずに 藩 主 は 常 に 江 戸 の 藩 邸 に いるのを 原 則 としていました しかし 初 代 頼 房 と 2 代 光 圀 までは 頻 繁 に 江 戸 と 水 戸 を 往 復 していました 水 戸 の 滞 在 期 間 がもっとも 長 かったのは 光 圀 でしたが 次 いで 長 いのは 第 9 代 藩 主 の 斉 昭 です 天 保 5 年 (1834)4 月 水 戸 から 江 戸 に 戻 る 道 中 取 手 宿 本 陣 で 休 息 した 斉 昭 は 壁 紙 に 使 っていた 文 谷 筆 の 瀧 の 絵 に 山 姫 の 衣 やさらす 春 過 て 夏 きてそ 見 る しろ 妙 の ( 瀧 ) の 和 歌 を 書 いています この 絵 は 後 に 壁 からはがされて 軸 装 さ れ 染 野 家 に 家 宝 として 伝 えられています また 天 保 11 年 (1840)1 月 水 戸 へ 向 か う 斉 昭 は 利 根 川 を 渡 る 船 中 で 和 歌 2 首 を 詠 みました その 日 は 取 手 宿 本 陣 に 宿 泊 した 斉 昭 は 翌 朝 和 歌 2 首 を 上 段 の 間 の 袋 戸 に 貼 り 付 けて 出 立 しました これも 現 在 は 軸 装 されて 家 宝 として 染 野 家 に 伝 わっています このうちの 1 首 は 天 保 14 年 (1843)5 月 に 石 に 刻 まれ 染 野 家 に 贈 られました 歌 碑 には 指 して 行 さほのとりての 渡 し 舟 おもふかたへは とくつきにけり の 和 歌 が 刻 まれています 斉 昭 は 取 手 宿 本 陣 と 染 野 家 にとって 一 番 ゆかりの 深 い 水 戸 藩 主 といえます 斉 昭 の 7 番 目 の 男 の 子 だった 松 平 七 郎 麿 が 最 後 の 将 軍 となった 徳 川 慶 喜 です 真 偽 のほどは 確 かめようもありませんが 慶 応 4 年 (1868)4 月 12 日 謹 慎 先 と 定 められ た 水 戸 に 向 かう 慶 喜 は 表 門 で 駕 籠 をおりて 玄 関 まで 歩 いたそうです 利 用 案 内 公 開 日 毎 週 金 曜 日 土 曜 日 日 曜 日 ( 年 末 年 始 を 除 く) 公 開 時 間 午 前 10 時 から 午 後 4 時 まで( 入 場 は 午 後 3 時 30 分 まで) 問 い 合 わせ 取 手 市 教 育 委 員 会 教 育 総 務 課 埋 蔵 文 化 財 センター 302-0007 取 手 市 吉 田 383 0297-73-2010 FAX 0297-73-5003 maibun@city.toride.ibaraki.jp