菅 江 真 澄 の 見 た 北 東 北 (2/3) 菅 江 真 澄 の 業 績 (HP 思 い 立 ったら 北 東 北 - 北 東 北 こだわり 百 科 より) - 歩 く 見 る 記 録 する 漂 泊 の 旅 人 菅 江 真 澄 (すがえ ますみ 1754~1829 三 河 ( 現 愛 知 県 ) 生 まれ)- 菅 江 真 澄 は 三 河 ( 豊 橋 市 岡 崎 市 両 説 ) 生 まれです 30 歳 の 時 北 国 を 目 指 して 旅 に 出 ます それ 以 前 は 三 河 の 近 辺 や 京 都 近 江 を 旅 していますが 主 に 薬 学 本 草 学 国 学 などを 勉 強 していました その 知 識 が 後 半 生 に 非 常 に 大 きく 役 立 っていることが 判 ります 30 歳 からの 旅 は 長 野 に 始 まり 新 潟 山 形 秋 田 宮 城 岩 手 青 森 北 海 道 に 及 んでいます 48 歳 の 時 秋 田 (2 度 目 )に 入 り 60 歳 頃 から 藩 の 助 力 で 地 誌 編 纂 に 取 り 組 み 完 成 の 陽 の 目 をみず 仕 事 先 の 角 館 近 辺 で 亡 くなります 78 歳 でした 菅 江 真 澄 の 人 生 は 歩 く 見 る 記 録 することに 終 始 しました その 生 涯 を 賭 けた 見 聞 の 記 録 ( 膨 大 な 文 章 と 挿 図 )を 大 事 にした 人 でした そのこと は 文 政 5 年 (1821)に 日 記 などの 著 作 51 冊 を 秋 田 藩 校 明 徳 館 に 献 納 した ことでわかります このすぐれた 記 録 者 は すべてに 偏 見 をもたず 批 判 的 な 言 葉 は 慎 重 に 避 けています 農 漁 民 や 遊 芸 の 人 にも 自 分 と 同 じ 目 線 で 接 しています 対 象 に 対 し 主 観 描 写 をしりぞけ 実 証 主 義 に 徹 しています 感 情 におぼれることな く 客 観 的 な 把 握 に 努 めているのです 彼 の 見 聞 したフィールドは 多 岐 にわたっています 薬 草 鉱 石 医 術 など の 博 物 誌 農 民 漁 民 商 人 遊 芸 人 などの 生 活 その 土 地 土 地 の 故 事 来 歴 その 土 地 の 景 観 の 記 録 その 土 地 の 祭 行 事 の 見 聞 庶 民 の 生 活 用 具 の 記 録 行 く 先 々で 出 くわした 社 会 的 事 件 や 天 災 人 災 各 地 の 民 謡 の 採 録 訪 問 先 での 膨 大 な 贈 答 歌 その 他 当 時 のアイヌ 人 の 生 活 住 まい 祭 りなど 貴 重 な 記 録 がいまなお 残 っています 彼 は 終 生 妻 子 をもたず 家 を 構 えたこともありません 真 澄 の 見 聞 の 目 的 は ただただ 日 本 人 の 真 の 姿 を 知 ることにありました そのための 自 己 犠 牲 であったのでしょう あまり 知 られていない みちのくの 常 民 のありのま まの 生 活 ぶりを 書 き 残 そうとするには 相 当 の 覚 悟 が 必 要 だったのです 柳 田 国 男 は 真 澄 の 全 人 生 についてこう 書 いています 天 明 八 年 といへば 江 戸 でも 京 都 でも 種 々の 学 問 と 高 尚 なる 風 流 とが 競 い 進 んで 居 た 新 文 化 の 世 であった 然 るにそれとは 歿 交 渉 に 遠 く 奥 州 北 上 川 の 片 岸 を 斯 んな 寂 しい 旅 人 が 一 人 あるいて 居 たのである 資 料 ; 菅 江 真 澄 研 究 会 HP 菅 江 真 澄 遊 覧 記 181
菅 江 真 澄 の 見 た 北 東 北 (3/3) 資 料 ; 菅 江 真 澄 遊 覧 記 182
吉 田 松 陰 の 見 た 北 東 北 東 北 遊 日 記 長 州 藩 士 にして 西 洋 兵 学 の 権 威 で あり 幕 末 の 思 想 家 として 歴 史 に 名 を 残 し 数 え 年 30 歳 で 刑 場 の 露 と 世 を 去 った 吉 田 松 陰 が 池 田 屋 事 件 で 客 死 する 宮 部 鼎 蔵 とともに ロシア 艦 船 が しばしば 現 れていた 北 方 の 海 防 状 況 を 確 かめるため 留 学 中 であった 江 戸 を 旅 立 ったのは 松 陰 22 歳 の 嘉 永 4 年 (1851 年 ) 旧 暦 12 月 14 日 であっ たと 伝 えられる 行 程 は 140 日 間 に 及 んだ その 道 中 を 記 したのが 東 北 遊 日 記 である そこには 松 陰 の 見 た 東 北 が 詳 述 されており 明 治 維 新 への 道 を 拓 いたとされる 貴 重 な 情 報 が 収 め られている 東 北 遊 日 記 には 各 地 の 藩 制 につい て 詳 しく 記 録 されているほか 松 陰 の 手 による 漢 詩 も 収 められている 東 北 遊 日 記 に 見 る 北 東 北 の 風 景 東 北 遊 日 記 の 中 で 松 陰 は 観 光 的 な 事 柄 は 多 くは 書 かれていないが 青 森 県 十 三 湖 岸 の 景 色 を 真 に 好 風 景 なり と 書 している 雪 解 けの 頃 の 岩 木 山 について 三 峯 魏 然 としてさながら 富 岳 ( 富 士 山 )の 如 し と 書 している 弘 前 でも 弘 前 の 杉 ( 茂 ) 森 に 劇 場 あり と 書 している 元 禄 4 年 から 昭 和 15 年 まで 続 いた 芝 居 小 屋 茂 森 座 のことである 松 陰 のたどった 道 の 現 在 松 陰 のたどった 道 は 昭 和 43 年 に 発 足 した 松 陰 先 生 足 跡 踏 破 の 会 による 活 動 を 経 て 現 在 は 青 森 県 内 で みちのく 松 陰 道 と 名 づけられ 約 12km のハイキングコースとして 利 用 さ れている 踏 破 の 会 は その 後 青 森 歴 史 の 道 整 備 促 進 協 議 会 に 発 展 し 活 動 を 展 開 している 大 舘 市 赤 湯 から 矢 立 峠 を 越 える 山 道 も 歴 史 の 道 矢 立 遊 歩 道 として 整 備 されている 資 料 ; 国 土 交 通 省 東 北 地 方 整 備 局 ホームページ 183
イザベラバードの 見 た 北 東 北 明 治 初 期 に 来 た 日 本 を 旅 したイギリス 人 女 性 の 見 た 北 東 北 イザベラバードとは: 明 治 初 期 に 来 た 日 本 を 旅 したイギリス 人 女 性 探 検 家 会 津, 新 潟, 小 国, 米 沢, 赤 湯, 山 形, 金 山, 横 手, 秋 田, 大 館, 碇 ヶ 関, 黒 石, 青 森 などを 経 由 既 往 の 歴 史 文 化 : 帰 国 後 に 著 した 日 本 奥 地 紀 行 で 明 治 以 降 の 劇 的 な 変 化 を 経 て 失 われた 古 き 良 き 東 北 の 姿 を 伝 える 記 録 として 貴 重 2 ヶ 月 余 りで 東 北 を 縦 断 しており この 間 各 地 域 の 豊 かな 地 域 性 をいきいきと 再 現 して いる 紀 行 の 特 徴 : 東 北 を 踏 破 した 旅 人 として 菅 江 真 澄 と 並 んで 貴 重 な 存 在 イザベラバードの 足 跡 イザベラバードの 略 歴 1831 英 国 ヨークシャーに 牧 師 の 長 女 として 生 まれる 病 弱 で 19 歳 のとき 手 術 を 受 ける 1854 医 者 に 勧 められてアメリカ カナダを 訪 れる 1856 最 初 の 旅 行 記 英 国 女 性 の 見 たアメリカ 出 版 1872 73 オーストラリア ニュージーランド ハワイ アメリカ ロッキー 山 脈 で 過 ごす 1874 ハワイ 諸 島 の6 ヶ 月 間 出 版 1878 79 日 本 訪 問 日 光 より 北 海 道 をめぐる 香 港 マレー エジプトを 経 て 帰 国 一 婦 人 のロッキー 山 中 生 活 出 版 1880 日 本 奥 地 紀 行 出 版 1 ヶ 月 で 3 版 を 重 ねる 1883 マレー 半 島 紀 行 出 版 1889-90 チベット ペルシャを 訪 れる 1891 ペルシャ クルジスタン 旅 行 記 出 版 1894-95 朝 鮮 半 島 日 本 ( 長 崎 関 西 )をめぐる 1896 中 国 西 部 日 本 で 静 養 後 朝 鮮 へ 1898 朝 鮮 とその 隣 国 出 版 1899 揚 子 江 とその 奥 地 出 版 1904 病 没 (72 歳 ) 資 料 ; 日 本 奥 地 紀 行 184
ブルーノタウトの 見 た 北 東 北 (1/2) ナチスを 逃 れて 日 本 に 亡 命 し 桂 離 宮 を 世 界 に 紹 介 したドイツ 人 建 築 家 の 見 た 北 東 北 ブルーノタウトとは 世 界 的 な 建 築 家 であり 桂 離 宮 をはじめ として 伊 勢 神 宮 飛 騨 白 川 の 合 掌 造 り の 民 家 などを 世 界 に 誇 れる 日 本 の 建 築 文 化 として 世 界 に 発 信 した 日 本 国 内 では 建 築 作 品 はないが 伝 統 的 な 素 材 を 生 かした 工 芸 品 づくりを 指 導 し た ブルーノタウトと 北 東 北 足 跡 や 記 録 は 断 片 的 にしか 残 されていな いが 秋 田 の 赤 レンガ 館 などにおいて 紹 介 されており こけし 工 芸 や 伝 統 工 芸 に 強 い 興 味 を 示 したようである ブルーノタウトの 東 北 における 足 跡 年 譜 1880 北 東 ドイツの 束 プロジャ ケーニヒスベルクに 生 まれる 1909 べルリンで 建 築 恭 務 所 を 開 く 1913 鉄 の 記 念 塔 で 一 躍 注 目 を 浴 びる, 1914 ガラスの 家 で 国 際 的 評 価 を 得 る 1930 ベルリン シャルロッテンブルク 工 科 大 学 の 教 授 となる 1933 日 本 インターナショナル 建 築 会 の 招 待 を 受 け 来 日 柱 離 宮 と 出 会 う 絵 画 や 陶 器 等 の 数 々の 名 品 と 接 し 多 くの 文 化 人 や 芸 術 家 と 出 会 う 日 本 文 化 に 関 する 著 者 を 発 表 し 始 める 1934 群 馬 県 高 崎 市 で 工 芸 運 動 の 指 導 に 携 わる 竹 などの 日 本 の 伝 統 的 な 素 材 と 技 法 を 活 かし 独 創 性 に 富 んだ 工 芸 作 品 を 発 表 1935 銀 座 ミラテス でタウトの 工 芸 品 が 売 り 出 される 熱 海 日 向 別 邸 の 設 計 に 取 りかかる トルコ 招 聘 に 応 じる イスタンブール 芸 術 アカデミー 建 築 科 教 授 に 就 任 1938 トルコボスボラス 海 峡 を 臨 む 自 宅 で 死 去 185
ブルーノタウトの 見 た 北 東 北 (2/2) ブルーノ タウトの 紹 介 20 世 紀 を 代 表 するドイツの 建 築 家 ドイツ 近 代 を 代 表 する 偉 大 なる 建 築 家 ベルリンを 中 心 に 新 しい 素 材 を 駆 使 した 前 衛 的 な 作 品 を 数 多 く 発 表 その 先 駆 的 な 発 想 の 高 い 芸 術 性 により20 世 紀 の 最 も 興 味 深 い 先 覚 者 の 一 人 である まさに 建 築 界 における" 知 の 巨 人 "ともいえるタウトは 建 築 の 完 全 なる 美 を 追 い 求 め ナ チス 政 権 から 亡 命 し 日 本 文 化 に 巡 り 会 うこととなる われ 日 本 文 化 を 愛 す それは 実 に 涙 ぐましいまで 美 しい 20 世 紀 初 頭 の 日 本 の 建 築 界 のトップが 集 まる 日 本 インターナショナル 建 築 会 の 招 待 により タウトが 桂 離 宮 を 訪 れた 時 の 言 葉 である 賓 客 として 桂 離 宮 を 始 め 伊 勢 神 宮 飛 騨 白 川 など 日 本 建 築 の 美 に 触 れる 機 会 を 得 たタウト 建 築 物 だけでなく 広 く 日 本 の 伝 統 芸 術 や 当 代 一 流 の 文 化 人 達 を 歴 訪 し 独 創 的 な 著 述 講 演 などを 通 してその 評 価 紹 介 につとめた 約 3 年 半 の 日 本 滞 在 の 後 タウトは 更 にトルコに 旅 立 つ この 美 の 航 海 者 ''タウトは われ 日 本 文 化 愛 す という 言 葉 を 群 馬 県 高 崎 市 少 林 山 の 石 碑 に 残 した 高 崎 だるま 寺 に 居 住 していたタウト " 知 の 巨 人 " " 美 の 航 海 者 " ブルーノ タウトが 日 本 で 最 も 長 く 滞 在 した 場 所 が 群 馬 県 高 崎 市 の 少 林 山 達 磨 寺 境 内 の 洗 心 亭 である 彼 が 青 春 時 代 を 過 ごしたベルリン 郊 外 のコリー ンに 似 た 高 崎 の 田 園 風 景 を 眺 めながら およそ 2 年 間 この 地 を 拠 点 として 建 築 物 に 限 ら ず 様 々な 芸 術 的 工 芸 作 品 を 数 多 く 制 作 していった 日 本 文 化 を 愛 し 日 本 で 独 自 の 芸 術 活 動 を 展 開 していったタウト 高 崎 市 群 馬 県 が 次 世 代 へと 語 り 継 ぐべき 時 代 を 超 えた 文 化 人 なのである 資 料 ;ブルーノタウトの 映 像 をつくる 会 HP 186