第 7 回 備 後 探 訪 会 ~ 備 後 地 方 の 遺 跡 国 宝 寺 社 を 訪 ねる~ 平 成 25 年 10 月 27 日 ( 日 ) 主 催 : 岡 山 歴 史 研 究 会
旅 程 表 集 合 時 間 : 平 成 25 年 10 月 27 日 ( 日 曜 日 ) 7 時 45 分 集 合 集 合 場 所 : 岡 山 駅 西 口 バスセンター 参 加 費 :5,000 円 (バス 代 弁 当 代 保 険 代 資 料 代 等 含 む) 岡 山 駅 西 口 出 発 8:00 岡 山 IC 8:15 SA(トイレ 休 憩 10 分 ) 福 山 東 IC 8:55 神 辺 駅 近 くバス 停 ( 平 井 悦 夫 氏 乗 車 )9:10 備 後 国 分 寺 跡 9:20( 滞 在 30 分 ) 備 後 国 分 寺 跡 出 発 9:50 小 山 池 廃 寺 ( 車 窓 より) 最 明 寺 跡 ( 駅 家 跡 車 窓 より) 二 子 塚 古 墳 10:20( 滞 在 30 分 説 明 : 文 化 課 ) 出 発 10:50 しんいち 歴 史 民 俗 博 物 館 11:05( 滞 在 説 明 30 分 ) 出 発 11:35 備 後 吉 備 津 神 社 11:40 参 拝 10 分 説 明 30 分 ( 権 禰 宜 : 尾 多 賀 晴 悟 氏 ) 昼 食 12:20(30 分 ) 備 後 吉 備 津 神 社 出 発 12:50 広 島 県 立 歴 史 博 物 館 13:30 ( 滞 在 70 分 ) 説 明 20 分 観 覧 50 分 出 発 14:40 明 王 院 15:00( 滞 在 80 分 ) 出 発 16:20 福 山 東 IC 16:40 SA(トイ レ 休 憩 10 分 ) 岡 山 IC 17:30 岡 山 駅 西 口 到 着 17:45 案 内 人 アドバイザー: 野 崎 豊 ( 岡 山 歴 史 研 究 会 顧 問 ) 担 当 : 大 月 基 司 遠 山 義 雄 平 井 悦 夫 二 子 塚 古 墳 ガイド: 平 林 工 先 生 ( 福 山 市 教 委 文 化 課 学 芸 員 ) 備 後 一 宮 吉 備 津 神 社 : 尾 多 賀 (おたが) 晴 悟 様 ( 権 禰 宜 ) 広 島 県 立 歴 史 博 物 館 : 中 山 愉 希 江 先 生 ( 学 芸 員 ) 明 王 院 ガイド: 三 谷 干 城 (たてき) 様 明 王 院 住 職 : 片 山 弘 雄 (こうおう) 様 資 料 作 成 者 : 大 月 基 司 1
備 後 国 分 寺 福 山 市 神 辺 町 大 字 下 御 領 天 平 13(741) 年 聖 武 天 皇 は 次 のような 詔 を 発 し て 全 国 の 国 司 に 命 じた 高 さ1 丈 6 尺 の 釈 迦 の 仏 像 を 造 れ 七 重 塔 1 基 を 造 営 し 金 光 明 最 勝 王 経 と 妙 法 蓮 華 経 を 書 経 せよ そもそも 七 重 塔 を 建 立 する 寺 は 国 の 華 ともいうべきで 必 ず 好 い 場 所 を 選 べ 人 家 近 く 悪 臭 が 及 ぶ 所 人 家 遠 く 参 集 の 人 々を 疲 れさ せる 所 は 良 くない 国 司 等 は 国 分 寺 を 厳 かに 飾 り 清 浄 を 保 つ 様 にせよ また 国 毎 に 建 てる 僧 寺 には 封 戸 50 戸 水 田 10 町 を 尼 寺 には 水 田 10 町 を 施 入 する 僧 寺 には 僧 20 人 尼 寺 には 尼 10 人 を 住 まわせ 寺 の 名 は 金 光 明 四 天 王 護 国 之 寺 法 華 滅 罪 之 寺 とせよ こうして 各 国 毎 に 建 てられたのが 金 光 明 四 天 王 護 国 寺 ( 国 分 寺 )と 法 華 滅 罪 之 寺 ( 国 分 尼 寺 )であ る しかし 国 によっては 財 政 的 理 由 から 新 た な 造 営 は 行 わず 既 存 寺 院 を 充 当 したものもあ った そして 思 うように 国 分 寺 建 造 が 進 まない ので 天 平 19 年 国 分 寺 のうちにはまだ 寺 地 も 決 まっていない 所 がある だから 時 々 天 災 が 起 き る といって 僧 寺 には 水 田 90 町 尼 寺 には40 町 ずつ 追 加 し 造 営 を 督 励 した 建 立 されてからも 度 々 災 難 に 遭 っている 永 禄 4(1567) 年 兵 火 に 罹 る 時 の 神 辺 城 主 杉 原 盛 重 再 建 慶 長 五 (1600) 年 福 島 正 則 により 寺 領 没 収 延 宝 元 (1673) 年 寺 院 の 西 側 を 流 れる 堂 々 川 の 洪 水 により 草 堂 僅 か 一 宇 残 るばかりとなり 本 尊 及 び 十 二 神 像 は 皆 漂 散 してしまった 延 宝 7 (1679) 年 時 の 福 山 藩 主 水 野 勝 種 候 網 付 山 の 材 を 用 いて 再 建 元 禄 五 (1692 年 ) 薬 師 堂 建 立 そ の 後 方 丈 仁 王 門 を 如 實 上 人 が 建 立 し 寺 刹 の 形 を 成 すといえど 昔 の 二 十 分 の 一 にもならず ( 福 山 志 料 ) 現 在 に 至 る 本 尊 は 薬 師 如 来 で 中 世 以 後 のものである 正 式 には 唐 尾 山 醫 王 院 国 分 寺 昭 和 47(1972) 年 から 同 51 年 にかけて 発 掘 調 査 が され 金 堂 跡 塔 跡 講 堂 跡 南 大 門 跡 築 地 跡 等 の 伽 藍 配 置 から 東 に 塔 西 に 金 堂 その 背 後 に 講 堂 が 並 ぶ 法 起 寺 式 の 配 置 である 事 がわ かった 塔 金 堂 を 囲 む 中 門 跡 回 廊 跡 は 未 検 出 寺 域 は 東 西 180m 南 北 はそれより 少 し 長 い かもわからない また 西 面 築 地 跡 は 堂 々 川 の 堤 防 下 となり 調 査 はできない 塔 金 堂 跡 とも に 基 壇 上 の 化 粧 や 礎 石 は 失 われていた わず かに 版 築 された 基 壇 土 を 確 認 塔 は 一 辺 が18m 金 堂 は 東 西 29.4m 南 北 20mと 推 定 される 講 堂 跡 は 版 築 土 と 礎 石 列 が 検 出 され 東 西 30mと 推 定 されたが 南 北 はわからなかった 大 量 の 瓦 須 恵 器 緑 釉 陶 器 が 出 土 した 瓦 は 奈 良 期 から 室 町 時 代 に 亘 るものが 出 土 している 更 に 寺 跡 の 下 層 には 弥 生 時 代 の 集 落 跡 も 埋 もれている 御 領 遺 跡 と 呼 ばれる 広 域 にわたる 弥 生 時 代 集 落 跡 が 眠 る 一 帯 に 含 まれている 所 でもある 南 から 北 に 伸 びる 長 い 参 道 には 南 大 門 跡 講 堂 跡 等 の 石 碑 が 建 てられている 参 道 の 両 側 に は 昔 の 建 物 の 礎 石 であったであろう 平 らな 石 が 多 く 見 られる 境 内 の 一 角 の 最 上 段 の 石 垣 の 下 に 三 体 の 石 地 蔵 と 並 び 明 和 一 揆 の 首 謀 者 で 処 刑 された 好 右 衛 門 義 挙 之 碑 が 建 っている ま た 裏 山 一 帯 は 国 分 寺 裏 山 古 墳 群 と 呼 ばれてい て 古 墳 が 多 い 八 十 八 ヶ 所 巡 りにもなっている ( 根 岸 尚 克 ) 小 山 池 廃 寺 跡 福 山 市 神 辺 町 大 字 湯 野 神 辺 町 の 国 分 寺 前 の 道 を 西 に 約 600m 行 くと 江 戸 時 代 初 期 に 築 かれたといわれる 小 山 池 がある 池 の 浚 渫 時 等 に 古 瓦 や 礎 石 が 採 集 されること 国 分 寺 から 近 いことから 国 分 尼 寺 跡 ではないか といわれてきた 昭 和 51 52 年 発 掘 調 査 が 行 わ れた その 結 果 塔 の 跡 を 始 めとして 三 棟 の 建 物 の 基 壇 が 見 つかり その 北 側 で 瓦 を 焼 いた 窯 跡 も 見 つかった 塔 の 基 壇 は 一 辺 13.2m 高 さ1.2~2.1m 側 面 に 割 石 が 積 まれていた 1.7mの 礎 石 もみつかり 深 さ10cmの 舎 利 孔 があ った 塔 の 跡 の 西 には 東 西 32.4m 南 北 14.4m の 基 壇 があり 講 堂 跡 と 思 われる さらに 塔 の 跡 の 東 の 八 幡 神 社 の 社 殿 の 下 にも 基 壇 があった これは 金 堂 の 跡 であろうか これら 三 棟 の 建 物 は 塔 を 中 心 に 東 西 一 列 に 配 置 されている 白 鳳 ~ 平 安 時 代 後 半 の 軒 丸 瓦 軒 平 瓦 も 見 つかった 最 も 古 いものは 持 統 天 皇 の 藤 原 宮 出 土 のものに 良 く 似 た 軒 瓦 で このことから 創 建 は 白 鳳 時 代 2
の 終 り 頃 で 国 分 尼 寺 建 立 の 詔 の 出 された 天 平 13 年 より 遡 ることとなる この 寺 はこの 地 方 の 豪 族 の 氏 寺 であったものを 国 分 尼 寺 として 転 用 されたものかもしれない 創 建 当 初 よりの 藤 原 宮 式 の 瓦 の 出 土 から 中 央 政 府 との 密 接 なつなが りがうかがわれる 一 族 の 氏 寺 であったのであろ う 国 分 寺 と 共 通 の 軒 瓦 も 出 土 している 全 国 的 にみても 国 分 寺 と 国 分 尼 寺 の 距 離 は5~600m であることからこの 遺 跡 は 国 分 尼 寺 跡 と 見 て 間 違 いない ( 根 岸 尚 克 ) 最 明 寺 跡 福 山 市 駅 家 町 大 字 中 島 福 山 市 駅 家 町 大 字 中 島 に 所 在 する JR 福 塩 線 の 近 田 駅 から 東 北 東 に 約 300m 離 れた 丘 の 上 に 位 置 し かつて 北 方 にある 最 明 寺 の 所 有 地 があった ことや 古 瓦 が 出 土 することから 最 明 寺 の 故 地 と 伝 えられてきた 一 帯 は 比 較 的 平 坦 で 小 祠 の 境 内 地 や 畑 などもあるが 民 家 が 立 ち 並 び 出 土 する 瓦 が 葺 かれた 建 物 やそれに 付 属 する 施 設 な どの 痕 跡 は 不 明 である ただ 民 家 の 建 築 時 に 確 認 された 礎 石 と 思 われるものと 掘 り 出 された 瓦 などが 記 録 されている(*1) また 南 側 に 接 した 傾 斜 地 にある 最 明 寺 跡 南 遺 跡 の 発 掘 調 査 で は 古 代 の 遺 構 として 掘 立 柱 建 物 跡 3 棟 柵 1 条 溝 1 条 祭 祀 遺 構 と 考 えられる 埋 納 土 坑 1 基 などが 検 出 され 溝 は 最 明 寺 跡 の 西 端 を 区 切 っていた 可 能 性 が 記 述 されている さらに 奈 良 時 代 と 考 えられる 多 数 の 瓦 と 磚 (せん) 須 恵 器 などが 出 土 し 磚 を 用 いた 基 壇 の 建 物 の 存 在 も 推 定 されている(*2) なお 最 明 寺 跡 南 遺 跡 のすぐ 南 側 はかつて 切 通 しになっていたとこ ろで 古 代 の 山 陽 道 を 踏 襲 する 県 道 下 御 領 新 市 線 が 通 っている 駅 家 町 は 福 山 市 に 編 入 される 前 は 芦 品 郡 に 含 ま れ 芦 品 郡 は 品 治 (ほんじ) 郡 と 芦 田 郡 が 合 併 し たもので 駅 家 町 域 はかつて 品 治 郡 に 属 してい た 承 平 年 間 (931~938)に 成 立 した 和 名 類 聚 抄 の 備 後 国 品 治 郡 の 項 には 駅 家 郷 が 康 保 4 (967) 年 から 施 行 された 延 喜 式 には 備 後 国 に 品 治 駅 があったと 記 されている そして 最 明 寺 の 山 号 が 馬 宿 山 であることから 本 遺 跡 が 品 治 駅 跡 ではないかとも 考 えられるよ うになった さらに 日 本 後 記 の 大 同 元 (806) 年 の 項 の 山 陽 道 に 設 けられた 備 後 国 の 駅 館 が 瓦 葺 であることに 注 目 した 豊 元 國 氏 は 瓦 は 奈 良 時 代 のものである 心 礎 が 出 ていれば 別 だが それもなく 立 地 も 岡 の 上 では 寺 址 とも 思 えず 瓦 の 文 様 もしっかりしているので 或 いは 駅 家 趾 ではないかと 考 えている (*3)と 記 され ま た 高 橋 美 久 二 氏 は 本 遺 跡 の 南 東 方 向 に 馬 ノ 瀬 という 小 字 があること 出 土 瓦 が 国 府 から 出 土 するものと 同 じ 文 様 であることなどから 本 遺 跡 の 品 治 駅 跡 説 を 補 強 された(*4) なお 現 在 の 駅 家 町 の 地 名 は 大 正 2(1913) 年 に 中 島 村 倉 光 村 江 良 村 坊 寺 村 万 能 倉 村 が 合 併 する 際 品 治 駅 があった 駅 家 郷 にちなみ 駅 家 村 と 名 付 けられたことから 始 まっている 車 で 訪 ねた 場 合 周 辺 には 駐 車 場 がないので 民 家 にお 願 いしよう ( 篠 原 芳 秀 ) (*1) 小 川 高 男 古 最 明 寺 1978 年 (*2) 福 島 政 文 編 最 明 寺 跡 南 遺 跡 福 山 市 教 育 委 員 会 福 山 市 埋 蔵 文 化 財 発 掘 調 査 団 2002 年 (*3) 豊 元 國 解 説 社 会 科 標 本 室 繒 葉 書 第 四 輯 備 後 の 古 瓦 特 輯 広 島 県 立 府 中 高 等 学 校 生 徒 会 1959 年 (*4) 高 橋 美 久 二 古 代 交 通 の 考 古 地 理 大 明 堂 1995 年 駅 家 駅 家 (えきか/うまや)とは 古 代 日 本 の 五 畿 七 道 の 駅 路 沿 いに 整 備 された 施 設 単 に 駅 (えき) とも 称 する 厩 牧 令 によれば 原 則 として 30 里 ( 現 在 の 約 16 キロメートル)ごとに 駅 家 が 設 置 され 駅 路 に 面 して 駅 門 を 開 き 周 りを 築 地 で 囲 む 構 造 ( 院 ) になっていたことから 駅 家 院 と 記 される 場 合 もあった ( 当 時 の1 里 は 約 534m) 兵 部 省 の 管 轄 下 にあり 実 際 の 運 営 には 現 地 の 国 司 も 関 与 していた 駅 家 の 運 営 修 繕 のために 当 初 は 駅 稲 ( 駅 起 稲 )より 官 稲 混 合 後 は 現 地 国 の 正 税 より 出 挙 が 行 われ その 利 息 が 財 源 に 充 て られた ただし その 体 制 は 天 平 宝 字 年 間 には 早 くも 揺 らぎ 始 め 駅 子 駅 馬 の 疲 弊 や 官 人 の 規 定 に 反 する 違 法 乗 用 などが 確 認 されている 延 喜 式 には 402 の 駅 ( 駅 家 )が 設 置 されて いたことが 記 されている(ただし 延 喜 式 は 10 世 紀 初 期 の 規 定 であり 延 暦 年 間 以 後 進 め られた 駅 家 の 統 廃 合 や 新 設 などの 影 響 で 時 期 に よって 駅 家 の 総 数 は 異 なっていたと 考 えられて いる) 駅 家 には 駅 使 が 往 来 に 必 要 とする 駅 馬 とその 乗 具 及 び 駅 子 が 準 備 され 駅 馬 を 飼 育 するための 厩 舎 や 水 飲 み 場 駅 長 や 駅 子 が 業 務 を 行 ったり 詰 めたりするための 部 屋 駅 使 が 宿 泊 休 憩 を 3
取 るための 施 設 および 彼 らに 食 事 を 提 供 するた めの 給 湯 室 や 調 理 場 それらの 施 設 を 運 営 する ために 必 要 な 物 資 ( 秣 馬 具 駅 稲 酒 塩 な ど)を 収 納 した 倉 庫 などが 設 置 され 中 には 楼 ( 駅 楼 )を 備 えた 施 設 もあった また 蕃 客 ( 外 国 からの 使 節 )が 大 宰 府 から 都 に 移 動 する 際 に 用 いられていた 山 陽 道 の 駅 家 の 建 物 は 瓦 葺 で 壁 は 塗 壁 とされていた 原 則 として 駅 使 とその 従 者 のみが 駅 家 の 利 用 を 許 されていたが 公 私 の 目 的 を 問 わず 位 階 勲 位 を 持 つ 者 が 旅 行 中 に 駅 家 で 宿 泊 することは 例 外 的 に 許 されていた 駅 馬 は 大 路 の 駅 には 20 疋 中 路 の 駅 には 10 疋 小 路 の 駅 には 5 疋 配 置 されるのが 原 則 であった が 駅 そのものが 持 つ 地 理 的 条 件 などによって も 増 減 があった また 川 沿 いの 駅 には 駅 船 が 配 置 されていた また 駅 長 や 駅 子 は 駅 家 周 辺 に 置 かれていた 駅 戸 から 出 され その 中 でも 経 験 豊 富 で 資 力 もある 有 力 者 が 駅 長 を 務 めていた 大 きな 規 模 の 駅 の 場 合 付 近 にある 郷 全 体 が 駅 戸 である 場 合 もあった( 駅 家 郷 ) また 周 辺 には 駅 田 ( 駅 起 田 駅 料 田 )が 置 かれていた 兵 庫 県 龍 野 市 の 小 犬 丸 遺 跡 は 発 掘 調 査 の 結 果 山 陽 道 の 播 磨 国 布 勢 駅 家 であることが 確 認 され たが こうした 事 例 は 少 ない その 背 景 には 郡 家 が 駅 家 の 業 務 を 兼 ねているものや 駅 長 の 私 宅 が 駅 家 に 充 てられたものも 少 なくなかったため に 駅 家 の 施 設 部 分 とそれ 以 外 の 部 分 ( 郡 家 施 設 や 駅 長 およびその 家 族 の 私 的 空 間 )との 判 別 が 困 難 なことによる 古 代 の 駅 は 兵 部 省 の 管 轄 下 にあり 監 督 業 務 は 現 地 の 国 司 が 担 当 し 実 際 の 業 務 は 駅 戸 と 呼 ば れる 駅 周 辺 の 農 家 が 行 い そのうち 富 裕 で 経 験 豊 富 な 1 名 が 駅 長 に 任 ぜられた 駅 長 の 職 務 は 駅 使 の 送 迎 接 待 駅 馬 駅 子 駅 船 の 用 意 駅 家 駅 田 の 管 理 駅 稲 の 収 納 支 出 など 駅 家 に 関 する 運 営 業 務 全 般 を 扱 った 駅 長 は 終 身 制 であったが 駅 長 の 死 去 もしくは 老 病 になど よる 駅 長 の 交 替 時 に 駅 馬 やその 他 駅 家 の 備 品 を 欠 失 させていた 場 合 には 前 任 の 駅 長 (あるい はその 家 族 )がその 欠 失 分 を 弁 償 しなければな らなかった( 天 災 などの 不 可 抗 力 によるものは 除 く) その 代 わり 在 任 中 の 課 役 ( 庸 調 雑 徭 )は 免 除 されることになっていた 菅 原 道 真 が 駅 長 莫 驚 時 変 改 一 栄 一 落 是 春 秋 ( 駅 長 驚 くことなかれ 時 の 変 わり 改 まるを 一 栄 一 落 これ 春 秋 ) という 漢 詩 を 詠 んでいる が これは 藤 原 時 平 の 陰 謀 によって 失 脚 し 大 宰 府 へ 流 された 道 真 が 流 されていく 途 中 で 立 ち 寄 った 駅 家 の 駅 長 の 同 情 に 対 して 答 えたもの である 山 陽 道 の 駅 家 播 磨 国 駅 家 明 石 賀 古 草 上 大 市 布 勢 高 田 野 磨 越 部 中 川 備 前 国 駅 家 坂 長 珂 磨 高 月 津 高 備 中 国 駅 家 川 邊 小 田 後 月 備 後 国 駅 家 安 那 品 治 葦 田 太 字 の 箇 所 は 確 認 されているところ 駅 鈴 駅 鈴 (えきれい)は 日 本 の 古 代 律 令 時 代 に 官 吏 の 公 務 出 張 の 際 に 朝 廷 より 支 給 された 鈴 である 646 年 ( 大 化 2 年 )1 月 1 日 孝 徳 天 皇 によって 発 せられた 改 新 の 詔 による 駅 馬 伝 馬 の 制 度 の 設 置 に 伴 って 造 られたと 考 えられており 官 吏 は 駅 において この 鈴 を 鳴 らして 駅 子 ( 人 足 ) と 駅 馬 または 駅 舟 を 徴 発 させた 駅 では 官 吏 1 人 に 対 して 駅 馬 1 疋 を 給 し 駅 子 2 人 を 従 わせ うち 1 人 が 駅 鈴 を 持 って 馬 を 引 き もう 1 人 は 官 吏 と 駅 馬 の 警 護 をした 現 在 残 っている 実 物 は 国 の 重 要 文 化 財 に 指 定 されている 隠 岐 国 駅 鈴 2 口 ( 幅 約 5.5 cm 奥 行 約 5.0 cm 高 さ 約 6.5 cm)のみである この 駅 鈴 は 島 根 県 隠 岐 の 島 町 の 玉 若 酢 命 神 社 に 隣 接 す る 億 岐 家 宝 物 館 に 保 管 展 示 され 同 神 社 宮 司 で 隠 岐 国 造 の 末 裔 である 億 岐 家 によって 管 理 さ れている ただし 隠 岐 国 駅 鈴 の 真 贋 はいまだ 諸 説 あって はっきりしていない 4
二 子 塚 古 墳 福 山 市 駅 家 町 大 字 中 島 大 字 新 山 金 銅 製 の 双 龍 環 頭 柄 頭 は 瀬 戸 内 沿 岸 で 初 の 出 土 全 国 的 にも 例 のない 意 匠 巻 末 に 資 料 がありますのでご 覧 ください 概 要 6 世 紀 末 から7 世 紀 初 頭 ( 古 墳 時 代 の 終 わり 頃 ) 頃 造 られた 全 長 73m( 周 溝 を 含 む) 墳 丘 全 長 68m 後 期 古 墳 では 広 島 県 内 最 大 墳 丘 は 性 質 の 異 なる 土 を 何 種 類 か 積 み 重 ねた 版 築 状 の 盛 り 土 前 方 部 と 後 円 部 に 大 型 の 横 穴 式 石 室 がある 広 島 県 唯 一 後 円 部 の 横 穴 式 石 室 は 両 袖 式 全 長 14.9mで 県 内 最 長 羨 道 の 前 側 には 石 積 側 壁 をもつ 長 さ 約 10mの 墓 道 を 付 設 玄 室 が 後 円 部 の 中 心 より 奥 にあり 石 室 全 体 として 長 細 い 奥 壁 は 一 枚 岩 を 使 用 している 羨 道 入 り 口 の 天 井 石 は 他 の 羨 道 天 井 石 より 一 段 高 く 構 築 石 室 内 には 凝 灰 岩 ( 竜 山 石 ) 製 の 組 み 合 わせ 式 石 棺 が 納 置 副 葬 品 として 多 数 の 須 恵 器 金 属 製 の 馬 具 類 武 器 類 が 出 土 二 子 塚 古 墳 は 横 穴 式 石 室 を 有 する 古 墳 時 代 後 期 の 前 方 後 円 墳 です 広 島 県 東 部 を 代 表 する 古 墳 として 1948 年 ( 昭 和 23 年 )に 広 島 県 史 跡 に 指 定 されました 近 年 墳 丘 中 央 を 縦 断 する 市 道 を 自 動 車 が 通 る など 墳 丘 が 削 れ 石 室 への 影 響 が 懸 念 されは じめました そこで 福 山 市 教 育 委 員 会 は 古 墳 の 保 存 対 策 を 講 ずるため 発 掘 調 査 を 実 施 しました 調 査 に 当 たっては 国 庫 補 助 金 を 受 け 2002 年 ( 平 成 14 年 )8 月 から2006 年 ( 平 成 18 年 )3 月 にかけて 1 次 から4 次 にわたる 測 量 調 査 及 び 発 掘 調 査 を 実 施 しました 二 子 塚 古 墳 周 辺 の 地 域 は 大 型 の 横 穴 式 石 室 を 備 えた 古 墳 や 終 末 期 古 墳 が 集 中 的 に 多 数 存 在 し ます また 丘 陵 の 南 には 古 代 山 陽 道 が 通 り 九 州 と 畿 内 の 中 間 に 位 置 し 山 陰 方 面 への 交 通 路 も 開 け 陸 上 交 通 の 要 衝 で 古 代 吉 備 地 域 の 西 部 にあって 政 治 経 済 の 重 要 な 地 域 でした 二 子 塚 古 墳 をはじめとして ここ 備 後 南 部 地 域 に 古 墳 時 代 後 期 の 大 型 の 巨 石 墳 や 終 末 期 の 横 口 式 石 槨 が 集 中 していることは 全 国 的 にも 珍 しく 学 会 でも 注 目 されています ヤマト 政 権 が 確 立 していくこの 時 期 に 二 子 塚 古 墳 は 吉 備 勢 力 の 弱 体 化 をすすめるヤマト 政 権 にとって その 解 体 をめざす 拠 点 となった 地 域 の 重 要 な 古 墳 といえます なお 前 方 部 の 石 室 の 天 井 石 は 抜 き 取 られてい るものの 墳 丘 や 後 円 部 の 石 室 はともに 保 存 状 態 は 比 較 的 良 好 で 当 時 の 設 計 土 木 運 搬 や 副 葬 品 製 造 等 の 技 術 水 準 の 高 さを 知 ることがで きる 古 墳 としても 貴 重 です 二 子 塚 古 墳 は こうした 歴 史 的 価 値 が 高 く 評 価 され 2009 年 ( 平 成 21 年 )7 月 23 日 国 の 史 跡 に 5
指 定 されました 東 西 に 伸 びる 丘 陵 の 最 高 所 に 位 置 する 前 方 後 円 墳 で 東 に 後 円 部 西 に 前 方 部 を 造 っています 墳 形 に 沿 って 全 周 する 周 溝 を 検 出 し 断 面 は 後 円 部 東 側 だけが 薬 研 堀 状 で 深 さ1.8mと 深 い が その 他 は 椀 状 の 緩 やかで 浅 い 溝 となってい ます くびれ 部 を 断 ち 割 った 際 地 山 直 上 の 明 灰 色 シ ルト 層 から 3 点 の 弥 生 土 器 がまとまって 検 出 されました 墳 丘 の 盛 土 は 何 種 類 かの 質 の 異 なる 土 を10cm 前 後 の 厚 みで 交 互 につき 固 めながら 積 み 上 げて 版 築 状 に 築 き 堅 固 な 墳 丘 を 形 成 しています 後 円 部 の 埋 葬 施 設 は 両 袖 式 横 穴 式 石 室 です 石 室 は 巨 大 な 花 崗 岩 で 構 築 され 玄 室 とそこに 至 る 羨 道 で 構 成 されています さらに 羨 道 入 口 から 墳 裾 まで 墓 道 が 続 き この 墓 道 の 両 側 壁 に も 石 が 積 まれているという 全 国 でも 検 出 例 が 少 ない 構 造 です 墓 道 の 側 壁 は 小 型 の 花 崗 岩 をほぼ 垂 直 に 積 み 上 げたもので 幅 も 広 く 天 井 石 は 架 からない 開 放 の 部 分 です 墳 裾 から 羨 道 入 口 までの 距 離 が 9.8mと 長 いのが 特 徴 で 石 室 長 14.9mは 県 内 最 大 級 です 墓 道 部 分 と 合 わせて 墳 裾 まで24.7mと 非 常 に 細 長 いのが 特 徴 です 玄 室 内 に 組 み 合 わせ 式 の 石 棺 を 検 出 しまし た 2 枚 の 床 石 のみが 玄 室 内 に 残 り 蓋 石 等 は 散 逸 していました 組 み 合 わせると 蓋 石 2 枚 と 小 口 石 2 枚 が 確 認 できましたが 側 石 が 両 側 とも 石 室 外 に 持 ち 出 されていることがわかり ました 石 材 はすべて 兵 庫 県 ( 高 砂 市 ) 産 の 竜 山 石 であ ることが 特 色 です 石 室 内 では 刀 の 飾 り 金 具 馬 具 などの 出 土 品 も 確 認 され 二 子 塚 古 墳 は6 世 紀 末 から7 世 紀 初 頭 ごろに 築 造 されたと 推 定 されます 吉 備 津 神 社 福 山 市 新 市 町 大 字 宮 内 福 山 市 北 西 部 府 中 市 との 境 に 鎮 座 する 近 く の 府 中 市 は 備 後 国 の 国 府 のあった 地 とされるよ うに 周 辺 は 備 後 国 の 中 心 地 であった 備 後 国 分 立 以 前 の 吉 備 国 を 治 めたとされる 大 吉 備 津 彦 命 を 主 祭 神 に 祀 り 命 の 関 係 一 族 を 配 祀 する 江 戸 時 代 に 造 営 された 本 殿 は 国 の 重 要 文 化 財 に 指 定 されており 他 数 棟 が 広 島 県 福 山 市 の 文 化 財 に 指 定 されている また 重 要 文 化 財 に 指 定 されている 狛 犬 太 刀 数 点 が 伝 えられている 古 来 は 吉 備 津 彦 神 社 とも 称 していたが 現 在 は 備 中 一 宮 と 同 じく 吉 備 津 神 社 を 正 式 名 としている( 備 前 一 宮 のみ 吉 備 津 彦 神 社 を 名 乗 る) 大 吉 備 津 彦 命 (おおきびつひこのみこと) 第 7 代 孝 霊 天 皇 の 第 三 皇 子 崇 神 天 皇 10 年 四 道 将 軍 の 一 人 として 山 陽 道 に 派 遣 され 吉 備 を 平 定 した 吉 備 国 が 三 国 に 分 離 された 後 の806 年 ( 大 同 元 年 ) 吉 備 国 一 宮 であった 吉 備 津 神 社 より 勧 請 して 創 建 されたと 伝 えられる しかし その 約 百 年 後 の905 年 から967 年 にかけて 編 纂 された 延 喜 式 神 名 帳 に 記 載 がないことから 実 際 の 創 建 はもっと 後 であるとする 説 がある 現 在 神 社 の 名 前 が 最 初 に 確 認 できる 史 料 は1148 年 ( 久 安 4 年 )の 八 坂 神 社 の 記 録 社 家 条 々 記 録 であり 境 内 の 発 掘 調 査 でも12 世 紀 以 降 のもの しか 出 土 していない 中 世 より 備 後 国 一 宮 として 崇 敬 を 集 めた 広 大 な 社 領 と 多 くの 神 人 を 有 し たびたび 近 隣 の 豪 族 と 衝 突 していたため 1346 年 ( 貞 和 2 年 )には 高 師 泰 が 備 後 国 守 護 に 神 人 の 横 暴 を 止 めるよう 命 じている 戦 国 時 代 には 毛 利 輝 元 より 江 戸 時 代 にはこの 地 を 治 めた 福 島 氏 水 野 氏 より 社 領 の 寄 進 があった 6
草 戸 千 軒 町 遺 跡 草 戸 千 軒 町 (くさどせんげんちょう)は 現 在 の 広 島 県 福 山 市 にあった 鎌 倉 時 代 から 室 町 時 代 にかけておよそ300 年 間 存 在 した 都 市 ( 大 規 模 集 落 )である 瀬 戸 内 海 の 芦 田 川 河 口 の 港 町 として 栄 えた 遺 跡 の 発 掘 調 査 から 時 期 によって 町 の 規 模 は 変 遷 しているが 草 戸 千 軒 町 は 近 隣 にあった 長 和 荘 などの 荘 園 と 他 の 地 方 との 物 流 の 交 流 拠 点 とし て 繁 栄 しており 数 多 くの 商 工 業 者 がいたと 見 られ 遠 くは 朝 鮮 半 島 や 中 国 大 陸 とも 交 易 して いたとみられている また 近 くには 現 在 も 存 在 する 草 戸 稲 荷 神 社 と 明 王 院 があり その 門 前 町 としても 繁 栄 していたものとみられている 昭 和 時 代 後 期 (20 世 紀 末 )まで 草 戸 千 軒 町 の 遺 跡 は 芦 田 川 の 中 州 にあったが 遺 跡 の 大 部 分 が 芦 田 川 の 洪 水 対 策 のために 浚 渫 により 破 壊 され た そのため 現 在 では 遺 跡 の 跡 でしかない また 推 定 であるが 芦 田 川 東 岸 の 河 川 敷 にも 遺 跡 が 存 在 する 可 能 性 が 指 摘 されている 遺 跡 から の 出 土 遺 物 は 広 島 県 立 歴 史 博 物 館 で 保 存 展 示 されていて 国 の 重 要 文 化 財 に 指 定 されている また 同 博 物 館 には 往 時 の 草 戸 千 軒 町 の 町 並 が 実 物 大 のジオラマで 一 部 再 現 されている なお 往 時 には 瀬 戸 川 河 口 に 広 がる 沖 積 地 に 町 があり 東 方 には 福 山 湾 が 広 がっており 交 通 の 要 所 にあ ったことから 発 展 したと 見 られている また 遺 跡 からは 多 くの 栽 培 植 物 も 出 土 してい る 長 年 埋 もれた 後 に 昭 和 時 代 になって 発 掘 された ことから 東 洋 のポンペイ ないし 日 本 のポ ンペイ といった 呼 ばれ 方 をされているが 最 盛 期 に 埋 没 したポンペイとは 違 い 完 全 に 洪 水 で 川 の 底 に 埋 まった 時 期 には 既 に 町 としては 廃 絶 に 近 い 状 態 であったとみられている これは 福 山 城 が 築 かれた 江 戸 時 代 初 期 までには 芦 田 川 の 堆 積 作 用 により 港 町 としての 機 能 が 失 われ 寂 れていたとみられ 当 時 は 数 件 の 民 家 と 田 畑 があるだけであった 草 戸 千 軒 の 名 は 江 戸 時 代 の 中 頃 ( 元 文 か ら 安 永 年 間 )に 備 後 福 山 藩 士 宮 原 直 倁 によっ て 書 かれた 地 誌 備 陽 六 郡 志 の 中 に 草 戸 千 軒 という 町 があったが 寛 文 13 年 (1673 年 ) の 洪 水 で 滅 びた という 伝 承 が 記 載 されていた ことから 名 付 けられたもので 町 についての 様 子 は 書 かれていなかったため 想 像 上 の 幻 の 町 といわれていた 昭 和 時 代 に 入 った1930 年 前 後 の 河 川 工 事 によっ て 遺 物 が 出 土 しようやく 存 在 が 確 認 され 戦 後 になって1961 年 から 約 30 年 間 にわたり 断 続 的 に 行 われた 大 規 模 な 発 掘 調 査 が 行 われたことで 全 容 が 判 明 した ただし 遺 跡 自 体 は 治 水 のため 浚 渫 工 事 が 行 われたため 破 壊 された 遺 跡 のあ った 中 州 が 一 部 残 されている 明 王 院 福 山 市 草 戸 町 明 王 院 (みょうおういん)は 広 島 県 福 山 市 草 戸 町 にある 真 言 宗 大 覚 寺 派 の 仏 教 寺 院 である 芦 田 川 に 面 した 愛 宕 山 の 麓 にあり 草 戸 稲 荷 神 社 が 隣 接 している かつては 常 福 寺 と 言 われており 中 世 には 草 戸 千 軒 町 が 門 前 町 として 栄 えてい たところとして 有 名 である 本 堂 と 五 重 塔 は 国 宝 に 指 定 されている 中 国 三 十 三 観 音 霊 場 第 八 番 札 所 山 陽 花 の 寺 二 十 四 か 寺 第 十 八 番 札 所 寺 伝 によると 明 王 院 の 前 身 である 常 福 寺 は807 年 ( 大 同 2 年 )に 空 海 ( 弘 法 大 師 )によっ て 創 建 されたという この 由 来 の 根 拠 は 江 戸 時 代 に 作 成 された 棟 札 によるものであるが ほぼ 同 時 期 に 作 成 された 棟 札 がもう1 枚 あり こちら には 大 同 年 中 に 初 住 持 沙 門 と 呼 ばれる 僧 侶 によって 創 建 されと 記 されている 当 寺 の 本 尊 十 一 面 観 音 像 は 平 安 時 代 前 期 にさかのぼる 作 品 7
であり 寺 の 草 創 もその 頃 にさかのぼるものと 推 定 される 中 世 には 門 前 に 草 戸 千 軒 町 ( 川 底 に 埋 もれた 中 世 遺 跡 として 著 名 )が 栄 えた 江 戸 時 代 には 福 山 藩 主 となった 水 野 家 阿 部 家 の 庇 護 の 下 で 繁 栄 した 国 宝 明 王 院 本 堂 を 背 景 に ささやかな 民 衆 の 浄 財 を 募 って 建 立 されたことが 明 記 されている 重 要 文 化 財 ( 国 指 定 ) 木 造 十 一 面 観 世 音 菩 薩 立 像 ( 本 尊 ) 平 安 時 代 前 期 の 作 で 像 高 148.5cm 頭 上 面 は 髻 (もとどり)の 頂 に 阿 弥 陀 仏 一 面 地 髪 上 前 面 に 菩 薩 面 三 左 側 面 に 忿 怒 面 三 右 側 面 に 牙 を むく 忿 怒 面 三 背 面 に 大 笑 面 一 の 計 十 一 面 を 頂 く 作 られた 当 時 は 彩 色 されていたようである が 現 在 では 褪 色 している 引 用 および 参 考 文 献 - 備 陽 史 探 訪 の 会 創 立 三 〇 周 年 記 念 - 福 山 の 遺 跡 100 選 備 陽 史 探 訪 の 会 平 成 22 年 9 月 初 版 第 1 刷 発 行 鎌 倉 時 代 1321 年 ( 元 応 3 年 )に 建 立 された 仏 堂 和 様 建 築 に 鎌 倉 時 代 以 降 の 新 様 式 である 大 仏 様 (だいぶつよう) 禅 宗 様 を 加 味 した 折 衷 様 建 築 の 代 表 例 とされている 内 部 の 外 陣 に 見 られ る 輪 垂 木 (わだるき)を 用 いたアーチ 型 の 天 井 は 近 世 の 黄 檗 宗 寺 院 の 建 築 にしばしば 見 られ るものだが 中 世 には 珍 しい 国 宝 明 王 院 五 重 塔 南 北 朝 時 代 の1348 年 ( 貞 和 4 年 )に 建 立 された 純 和 様 の 五 重 塔 初 層 内 部 の 四 天 柱 ( 仏 塔 の 初 層 内 部 に 立 つ4 本 の 柱 をさす) 板 壁 などには 極 彩 色 の 仏 画 や 文 様 が 描 かれている 相 輪 の 刻 銘 に は この 塔 が 当 時 の 繁 栄 した 草 戸 千 軒 の 経 済 力 備 陽 史 探 訪 の 会 事 務 所 720-0824 福 山 市 多 治 米 町 5 丁 目 19 番 8 号 田 口 義 之 方 電 話 (084)953-6157 E-mail:b-tan-kai@009191.com ホームページ http://www3.plala.or.jp/big-eye/ 会 長 初 代 神 谷 和 孝 (1980~1990) 二 代 ( 現 ) 田 口 義 之 (1990~) 構 成 員 267 名 (2010 年 7 月 現 在 ) 主 な 活 動 例 会 ( 史 跡 めぐり) 年 10 回 程 度 歴 史 講 演 会 年 3 回 程 度 親 と 子 の 古 墳 めぐり 毎 年 5 月 5 日 実 施 古 墳 講 座 中 世 を 読 む 会 古 事 記 を 読 む 重 伝 建 を 歩 く 毎 月 実 施 定 期 刊 行 物 会 報 備 陽 史 探 訪 ( 偶 数 月 発 刊 A4 版 16ページ 約 350 部 ) 行 事 案 内 ( 奇 数 月 発 行 B5 版 8ページ 300 部 ) 論 文 集 山 城 志 ( 年 一 回 発 行 A4 版 50ペー ジ 500 部 ) 国 指 定 史 跡 - 図 版 編 - 二 子 塚 古 墳 福 山 市 文 化 財 協 会 2009 年 ( 平 成 21 年 )7 月 31 日 初 版 発 行 8
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