第 4 回 二 戸 市 埋 蔵 文 化 財 センター 特 別 報 告 三 戸 南 部 氏 の 城 聖 寿 寺 館 南 部 町 教 育 委 員 会 布 施 和 洋 26 年 度 調 査 報 告 史 跡 九 戸 城 跡 在 府 小 路 遺 跡 第 23 次 調 査 二 戸 市 教 育 委 員 会 文 化 財 課 鈴 木 裕 一 郎 前 小 路 遺 跡 二 戸 市 教 育 委 員 会 文 化 財 課 蔦 川 貴 祥 平 成 26 年 12 月 23 日 ( 火 祝 ) 場 所 二 戸 市 埋 蔵 文 化 財 センター 後 援 / 南 部 町 教 育 委 員 会 岩 手 県 文 化 財 愛 護 協 会 岩 手 日 報 社 デーリー 東 北 新 聞 社 NHK 盛 岡 放 送 局 カシオペアエフエム 一 般 社 団 法 人 二 戸 医 師 会 一 般 社 団 法 人 二 戸 歯 科 医 師 会 九 戸 城 を 活 かす 会 九 戸 城 ボランティアガイドの 会
平 成 26 年 度 調 査 遺 跡 一 覧 遺 跡 名 時 代 所 在 地 調 査 期 間 面 積 担 当 1 柿 ノ 木 平 遺 跡 縄 文 後 期 近 世 石 切 所 字 柿 ノ 木 平 4 月 17 日 ~5 月 30 日 2,183 m2 蔦 川 2 前 小 路 遺 跡 第 30 次 ~37 次 調 査 奈 良 平 安 近 世 石 切 所 字 前 小 路 4 月 22 日 ~12 月 8 日 3,789 m2 蔦 川 23 次 4 月 30 日 ~7 月 2 日 790 m2 鈴 木 3 在 府 小 路 遺 跡 第 23 次 第 24 次 ~27 次 調 査 縄 文 中 世 近 世 福 岡 字 在 府 小 路 24 次 25 次 26 次 5 月 7 日 ~6 月 24 日 6 月 30 日 ~7 月 18 日 7 月 14 日 ~7 月 25 日 201 m2 140 m2 71 m2 鈴 木 柴 田 鈴 木 27 次 10 月 9 日 ~10 月 30 日 168 m2 鈴 木 4 三 ノ 丸 遺 跡 第 1 次 第 2 次 調 査 中 世 近 世 福 岡 字 城 ノ 外 1 次 2 次 5 月 8 日 ~5 月 27 日 10 月 20 日 ~11 月 11 日 50 m2 97 m2 柴 田 蔦 川 5 晴 山 遺 跡 第 34 次 調 査 縄 文 奈 良 石 切 所 字 晴 山 台 中 平 6 月 2 日 ~9 月 12 日 307 m2 蔦 川 6 史 跡 九 戸 城 跡 中 世 近 世 福 岡 字 城 ノ 内 7 月 3 日 ~12 月 3 日 416 m2 鈴 木 柴 田 7 天 台 寺 跡 近 世 浄 法 寺 町 御 山 11 月 4 日 ~11 月 7 日 1 m2 柴 田 1
第 34 次調査 2
特 別 報 告 特 別 報 告 三 戸 南 部 氏 の 城 聖 寿 寺 館 南 部 町 教 育 委 員 会 布 施 和 洋 1 南 部 氏 の 入 部 とその 後 の 変 遷 (1) 入 部 時 期 鎌 倉 時 代 の 糠 部 郡 は 北 条 氏 の 得 宗 領 であった 得 宗 被 官 であったと 考 えられる 南 部 氏 の 糠 部 入 部 の 時 期 は 不 明 な 点 が 多 いが 鎌 倉 時 代 末 頃 までには 入 部 していた 説 が 有 力 である 南 北 朝 時 代 になると 南 部 師 行 が 建 武 政 権 下 陸 奥 守 北 畠 顕 家 から 糠 部 郡 検 断 奉 行 に 任 命 され 糠 部 郡 を 統 治 する 師 行 寄 進 状 (1334 年 )からは 師 行 が 本 三 戸 付 近 を 根 拠 地 としていたとも 読 み 取 れる また 町 内 の 斗 賀 神 社 には 県 内 最 古 と なる 正 平 21 年 ( 南 朝 年 号 1366 年 )の 鰐 口 も 奉 納 されていることから 当 時 この 地 方 が 南 朝 勢 力 下 にあったことが 伺 われる 三 戸 南 部 氏 九 戸 氏 根 城 南 部 氏 七 戸 南 部 氏 はそれぞれ 大 規 模 な 城 館 を 営 み そ れぞれが 独 立 した 形 で 勢 力 を 保 った (2) 三 戸 南 部 氏 の 城 館 変 遷 本 三 戸 城 ( 聖 寿 寺 館 を 含 む) ( 新 ) 三 戸 城 福 岡 城 盛 岡 城 (3) 支 配 領 域 24 代 晴 政 の 代, 三 戸 南 部 氏 の 支 配 領 域 は 三 戸 郡 ( 青 森 県 ) 北 郡 (ただし 下 北 半 島 は 八 戸 根 城 を 本 拠 とする 同 族 根 城 南 部 氏 領 であり,これを 除 いた 現 上 北 郡 ) 津 軽 ( 田 舎 平 賀 鼻 和 の 三 郡 ( 青 森 県 ) 岩 手 郡 ( 岩 手 県 ) 鹿 角 ( 秋 田 県 )に 及 び,さ らに 志 和 郡 ( 岩 手 県 ) 閉 伊 郡 ( 同 ) にも 進 出 していた 津 軽 には 石 川 城 や 種 里 城 等 進 出 の 拠 点 と なる 城 館 も 築 かれ 三 戸 南 部 氏 当 主 の 身 内 や 有 力 な 家 臣 が 派 遣 された 津 軽 への 中 継 地 点 となる 鹿 角 地 方 にも 城 館 が 築 かれるに 至 る 不 来 方 にも 室 町 時 代 後 半 の 早 い 段 階 で 勢 力 を 拡 大 していたと 考 えられ 南 部 氏 の 支 配 領 域 は 多 岐 にわたった 図 1 青 森 県 の 中 世 城 館 3
特 別 報 告 図 2 三 戸 南 部 氏 の 城 館 変 遷 図 と 南 部 氏 一 族 の 領 域 変 遷 模 式 図 2 南 部 氏 関 連 城 館 と 文 化 財 (1) 城 館 ( 町 内 に 29 カ 所 ) 1 三 戸 南 部 氏 の 城 館 ( 聖 寿 寺 館 跡 平 良 ヶ 崎 城 跡 ) 2 南 部 家 重 臣 クラスの 城 館 ( 東 氏 の 上 名 久 井 城 跡 北 氏 の 剣 吉 城 跡 ) 3その 他 家 臣 の 城 館 ( 苫 米 地 館 跡 森 越 館 跡 高 橋 館 跡 福 田 館 跡 八 木 田 館 跡 等 ) 4
特 別 報 告 (2) 当 主 の 霊 廟 墓 所 三 戸 南 部 氏 の 拠 点 が 三 戸 城 や 盛 岡 城 に 移 された 後 も 聖 寿 寺 館 跡 が 廃 城 してから 約 100 年 後 の 近 世 初 頭 まで 三 光 庵 ( 寺 ) 境 内 等 に 南 部 氏 やその 家 臣 の 墓 所 が 造 られた 1 伝 2 代 南 部 実 光 の 墓 所 実 光 は 奥 州 に 入 部 していない 他 の 歴 代 当 主 の 墓 所 か 223 代 南 部 安 信 の 宝 篋 印 塔 ( 県 重 宝 ) 本 三 戸 八 幡 宮 境 内 地 に 所 在 3 若 宮 八 幡 宮 25 代 晴 継 を 祀 ったとされるが 墓 所 は 残 っていない 426 代 南 部 信 直 夫 妻 の 墓 所 (H8 県 史 跡 指 定 国 史 跡 指 定 に 伴 い H17 指 定 解 除 ) 527 代 南 部 利 直 霊 屋 ( 県 重 宝 ) 三 光 寺 境 内 に 所 在 627 代 利 直 四 男 南 部 利 康 霊 屋 ( 国 重 文 ) 三 光 寺 境 内 の 所 在 7 塚 ノ 越 古 塚 ( 町 史 跡 ) 大 正 中 頃 までは5 基 存 在 人 骨 刀 大 量 の 炭 化 物 が 出 土 (3) 家 臣 上 人 等 の 墓 所 1 桜 庭 安 房 の 墓 石 2 岩 舘 右 京 の 墓 石 3 八 木 橋 藤 十 郎 の 墓 石 4 恵 海 上 人 五 輪 塔 3 聖 寿 寺 館 跡 の 発 掘 調 査 (1) 史 跡 指 定 平 成 16 年 9 月 30 日 ( 追 加 指 定 平 成 25 年 3 月 27 日 ) (2) 発 掘 調 査 1 期 間 国 指 定 のための 調 査 平 成 5 年 ~15 年 度 整 備 のための 調 査 平 成 19 年 ~26 年 度 2 面 積 約 1 万 m2 本 三 戸 城 推 定 域 と 関 連 文 化 財 図 3 本 三 戸 城 推 定 域 5
特別報告 図 4 聖寿寺館跡の縄張り 空間想定 3 主要な遺構 ①掘立柱建物跡 A区画 建替えも含めて数十棟の建物 主殿 会所を想定 場所によって 3 5 回の建替え 100 200 年程度の存続期間 図 5 A区画の建物想定図 平成 26 年度調査区を中心に 6
特 別 報 告 2 竪 穴 建 物 跡 B 区 画 に 集 中 一 部 A 区 画 にも 存 在 倉 庫 工 房 を 想 定 SI-27 は 南 北 14.2m 東 西 6.2mで 国 内 最 大 級 年 代 は 15 世 紀 後 葉 ~16 世 紀 前 葉 多 量 の 炭 化 物 と 被 熱 した 陶 磁 器 ただし A 地 区 の 堅 穴 建 物 は 切 り 合 い 関 係 が 最 も 新 しい 3 井 戸 跡 A 区 画 当 該 期 の 井 戸 跡 は 現 在 のところ 1 基 のみ 直 径 6~7mの 円 形 年 代 は 15 世 紀 後 半 ~16 世 紀 前 葉 1/4 を 調 査 大 量 の 炭 化 物 と 500 本 の 釘 被 熱 した 陶 磁 器 が 出 土 1539 年 の 廃 城 時 に 伴 う 火 事 場 整 理 の 跡 と 考 えられる 4 堀 跡 3 条 ( 北 側 堀 東 側 堀 虎 口 2~3 の 堀 ) 北 側 は 3 回 改 修 薬 研 堀 から 箱 堀 へ 平 場 から 堀 底 までの 比 高 差 6.5m 図 6 北 側 堀 跡 ( 左 断 面 実 測 図 右 断 面 写 真 ) 5 土 塁 跡 樹 園 の 整 地 の 際 ほとんど 削 平 されているが 東 側 部 分 に 一 部 残 存 基 底 部 3~5m 高 さ 1~1.2m 柵 列 のピットは 約 50cm 間 隔 で 並 ぶ 図 7 土 塁 跡 ( 左 断 面 実 測 図 右 断 面 写 真 ) (4) 主 要 な 遺 物 1 陶 磁 器 中 世 陶 磁 器 は 平 成 25 年 度 までで 2,535 点 全 体 の 種 類 別 傾 向 としては 青 磁 が 20% 白 磁 が 13% 染 付 が 24% 瑠 璃 釉 赤 絵 が 2% 葉 茶 壺 が 1% 瀬 戸 美 濃 が 26% 珠 洲 が 0.003% 越 前 が 2% 信 楽 が 3% 瓦 質 土 器 が 2% 産 地 不 明 国 産 陶 器 が 6% 7 図 8 青 磁 酒 会 壺
特 別 報 告 2 金 属 製 品 武 器 武 具 類 ( 小 札 鉄 鏃 刀 子 鞐 飾 金 具 八 双 金 具 八 双 鋲 透 彫 金 具 ) 刀 装 具 ( 切 羽 小 柄 笄 鞘 尻 目 貫 ) 鉛 製 品 ( 鉄 砲 玉 3 点 ) 建 築 用 具 ( 鉄 釘 鋸 鎹 鏨 手 斧 青 銅 製 取 手 押 縁 引 手 金 具 ) 生 活 用 具 ( 火 打 金 馬 具 火 箸 ) 宗 教 用 具 ( 青 銅 製 獅 子 頭 鈴 鉦 鼓 ) 坩 堝 53 点 3 石 製 品 硯 15 点 茶 臼 75 点 粉 挽 き 臼 244 点 砥 石 65 点 石 鉢 26 点 図 9 向 鶴 青 銅 製 目 貫 すり 鉢 が 欠 如 石 鉢 はすり 鉢 の 代 用 品? 粉 挽 き 臼 が 突 出 して 多 い 当 該 期 の 粉 食 文 化 を 反 映? 4 骨 角 製 品 アイヌ 文 化 の 遺 物 としては 骨 角 製 品 が 20 点 出 土 鹿 角 製 刺 突 具 1 点 骨 鏃 1 点 鹿 角 製 骨 針 6 点 弓 矢 に 用 いる 中 柄 4 点 骨 角 製 鞐 耳 かき 各 1 点 未 成 品 や 加 工 痕 のある 鹿 角 アイヌが 城 館 内 で 道 具 製 作? 5 銭 貨 銭 貨 は 約 450 点 出 土 6その 他 金 箔 押 し 天 目 台 が 1 点 京 都 産 金 箔 土 器 2 点 ( 東 北 初 ) 図 10 京 都 産 金 箔 土 器 (5) 年 代 聖 寿 寺 館 が 存 在 していた 当 時 の 同 時 代 史 料 には 1536 年 ( 天 文 5)に 浪 岡 北 畠 氏 によ り 作 成 された 津 軽 郡 中 名 字 があり 南 部 の 知 行 は 一 百 八 十 年 ト 云 主 従 八 騎 ニテ 甲 斐 国 ヨリ 下 リテ とある 天 文 5 年 から 180 年 前 は 1356 年 ( 正 平 11)となり 南 部 11 代 信 長 か 12 代 政 行 の 頃 にあたる また 1514 年 ( 永 正 11) 成 立 とされる 余 目 氏 旧 記 からは 南 部 氏 ハ 甲 斐 国 下 て 六 代 なり とあり 南 部 氏 の 入 部 が 14 世 紀 代 と 想 定 される これらの 年 代 は 14 世 紀 中 頃 という 聖 寿 寺 館 跡 の 出 土 陶 磁 器 から 得 られる 考 古 学 的 な 成 果 と 一 致 する SI-59 の 埋 土 上 層 からは 14 世 紀 中 頃 に 位 置 づけられる 瀬 戸 美 濃 卸 皿 が 出 土 している 他 に 14 世 紀 代 の 遺 物 としては 14 世 紀 後 半 代 の 端 反 の 青 磁 碗 白 磁 碗 な ど 伝 世 の 可 能 性 の 低 い 碗 皿 がセットで 出 土 していることから 14 世 紀 中 頃 に 築 城 年 代 が 求 められる ただし 15 世 紀 中 葉 以 前 の 明 確 な 遺 構 が 存 在 していないこともあり 築 城 年 代 は 15 世 紀 中 葉 ~ 後 葉 とも 考 えられる 廃 城 年 代 は 文 献 では 1539 年 ( 天 文 8)と 云 われる 最 盛 期 の 出 土 陶 磁 器 は 1480 年 頃 から 1530 年 頃 まで 流 通 する 瀬 戸 大 窯 のⅠ 期 が 多 く 染 付 端 反 皿 など 16 世 紀 前 葉 までの 遺 物 は 大 量 に 出 土 するが 16 世 紀 中 葉 以 降 は 遺 物 が 劇 的 に 減 少 する 1560 年 以 降 に 出 現 する 瀬 戸 美 濃 大 窯 Ⅲ 期 やⅣ 期 の 折 縁 皿 はわずか 5 点 のみの 出 土 となっている 16 世 紀 中 葉 以 降 に 確 認 される 染 付 碗 の E 群 や 16 世 紀 末 以 降 の F 群 の 皿 も 数 点 しか 確 認 されてい ないため 考 古 学 的 にも 16 世 紀 中 葉 には 廃 絶 していたことが 確 認 された 8
史 跡 九 戸 城 跡 所 在 地 二 戸 市 福 岡 字 城 ノ 内 地 内 調 査 原 因 環 境 整 備 事 業 に 伴 う 内 容 確 認 調 査 調 査 期 間 平 成 26 年 7 月 3 日 ~12 月 3 日 調 査 面 積 416 m2 主 な 時 代 中 世 近 世 主 な 遺 物 陶 磁 器 ( 染 付 瀬 戸 美 濃 ) 金 属 器 銭 貨 1 遺 跡 の 説 明 史 跡 九 戸 城 跡 は 市 街 地 のほぼ 中 央 の 河 岸 段 丘 上 に 位 置 しています 西 は 馬 淵 川 北 は 白 鳥 川 東 は 猫 渕 川 と 三 方 に 川 が 面 しており それ ぞれ 九 戸 城 の 外 堀 となっています 城 は 本 丸 二 ノ 丸 若 狭 舘 石 澤 舘 松 ノ 丸 三 ノ 丸 の 曲 輪 と 武 家 屋 敷 跡 である 在 府 小 路 遺 跡 とで 構 成 されています 1591( 天 正 19) 年 の 豊 臣 軍 による 奥 州 再 仕 平 成 26 年 度 調 査 状 況 置 により 九 戸 城 は 落 城 しました その 後 豊 臣 秀 吉 の 命 を 受 けた 蒲 生 氏 郷 によって 本 丸 二 ノ 丸 松 ノ 丸 が 近 世 城 郭 に 改 修 されましたが 若 狭 舘 石 澤 舘 は 中 世 城 郭 のままと 考 えられています 1989( 平 成 元 ) 年 より 史 跡 整 備 のための 内 容 確 認 調 査 が 本 丸 と 二 ノ 丸 東 側 で 継 続 して 行 われています 本 丸 では 礎 石 建 物 跡 を 含 む 掘 立 柱 建 物 跡 が 確 認 されていますが 遺 構 数 は あまり 多 くありません 二 ノ 丸 東 側 では 掘 立 柱 建 物 跡 や 竪 穴 状 遺 構 堀 跡 門 跡 柵 跡 が 確 認 されています 2 調 査 の 内 容 瀬 戸 美 濃 産 灰 釉 陶 器 ( 折 縁 菊 皿 ) 今 回 の 調 査 では 九 戸 城 期 と 福 岡 城 期 の 土 塁 の 構 造 解 明 と 二 ノ 丸 東 端 段 差 上 部 にお ける 九 戸 城 期 の 様 相 の 解 明 を 目 的 としまし た あ 調 査 区 は 大 手 門 の 東 側 で 調 査 区 の 中 央 に 土 層 確 認 用 のベルトを 設 定 しました 表 土 は 人 力 で 剥 ぎ 取 りを 行 い その 後 検 出 作 業 を 行 いました ただ 調 査 区 付 近 には 十 数 年 前 ま 9
か く ら ん で 建 物 があり 調 査 区 はその 敷 地 内 にあることから 現 代 のゴミ 類 を 伴 う 攪 乱 が 深 く 元 の 土 ( 地 山 )がなかなか 検 出 できませんでした 調 査 は 遺 構 への 影 響 を 配 慮 して 柱 穴 は 検 出 にとどめ 溝 跡 と 土 塁 の 堆 積 状 況 を 確 認 す るために 断 割 を 行 いました 調 査 終 了 後 は 農 作 業 用 の 寒 冷 紗 を 全 面 に 敷 き 廃 土 で 埋 戻 し を 行 いました 3 調 査 の 結 果 調 査 の 結 果 堀 状 遺 構 1 基 溝 跡 1 条 土 坑 1 基 柱 穴 100 個 以 上 とともに 土 塁 の 基 底 部 が 確 認 されました 堀 跡 と 当 初 考 えられていた 堀 状 遺 構 (SD9)は 土 塁 とほぼ 並 行 して 延 びていますが 途 中 で 途 切 れていました 2 か 所 深 掘 りを 行 ったところ 幅 は 3m 以 上 深 さは 1.2m 底 部 は 平 らな 箱 形 でした 埋 土 底 部 からは 瀬 戸 美 濃 産 の 折 縁 菊 皿 や 永 楽 通 宝 が 出 土 しており 16 世 紀 中 葉 から 17 世 紀 初 頭 と 推 定 されます この 堀 状 遺 構 の 性 格 は 不 明 です あ 土 塁 は 基 底 部 と 思 われる 硬 くしまった 白 色 火 山 灰 が 東 西 方 向 へ 帯 状 に 確 認 されました 土 塁 の 頂 上 から 基 底 部 の 先 まで 約 6.35mでありましたが 厚 さが 0.8mで 傾 斜 は 緩 く 土 塁 下 の 地 山 近 くまで 攪 乱 があったため 上 段 は 大 きく 削 平 され 北 側 にかけて 整 地 されて はんちく いると 思 われます また 調 査 区 西 側 を 断 ち 割 ったところ 版 築 の 可 能 性 がある 細 かな 土 の 単 位 が 見 つかっています 柱 穴 は 全 部 で 100 個 以 上 確 認 され その 中 に 柱 痕 があるものがあり 数 棟 の 掘 立 柱 建 物 跡 が 想 定 されます 出 土 遺 物 としては 瀬 戸 美 濃 産 の 灰 釉 陶 器 や 染 付 などの 陶 磁 器 が 検 出 時 にまとまって 出 土 しており それ 以 外 では 銭 貨 の 出 土 がありました 以 上 のことから 土 塁 については 削 平 が 多 く 全 容 解 明 には 至 りませんでしたが 版 築 によって 作 られていると 考 えられます SD9 については 性 格 土 塁 との 関 係 は 不 明 です 柱 穴 検 出 状 況 土 塁 断 割 状 況 10
前 小 路 遺 跡 第 30~37 次 調 査 所 在 地 二 戸 市 石 切 所 字 前 小 路 地 内 調 査 原 因 新 幹 線 二 戸 駅 周 辺 地 区 土 地 区 画 整 理 事 業 調 査 期 間 平 成 26 年 4 月 22 日 ~12 月 8 日 調 査 面 積 計 3,789 m2( 内 訳 は 表 を 参 照 ) 主 な 時 代 奈 良 時 代 平 安 時 代 近 世 主 な 遺 物 す り い し たたきい し 土 師 器 須 恵 器 土 製 品 石 器 ( 磨 石 敲 石 等 ) 鉄 製 品 平 成 26 年 度 前 小 路 遺 跡 調 査 別 遺 構 数 内 訳 表 調 査 名 面 積 竪 穴 竪 穴 掘 立 柱 土 井 近 世 不 明 溝 (m2) 住 居 遺 構 建 物 坑 戸 墓 遺 構 第 30 次 調 査 336 第 31 次 調 査 550 3 2 16 4 第 32 次 調 査 598 7 3 6 第 33 次 調 査 151 1 第 34 次 調 査 553 5 10 3 8 1 第 35 次 調 査 966 14 1 24 4 3 4 3 第 36 次 調 査 186 3 第 37 次 調 査 449 7 1 6 合 計 3,789 36 1 1 37 4 18 34 8 1 遺 跡 の 説 明 前 小 路 遺 跡 は 平 成 12 年 2 月 20 日 に 新 規 に 発 見 された 遺 跡 です 中 曽 根 遺 跡 の 南 側 馬 淵 川 との 比 高 差 約 15mの 河 岸 段 丘 上 に 位 置 しています 遺 跡 の 中 央 を 南 北 に 市 道 大 村 線 が 走 り それと 並 行 して 旧 道 が 川 沿 いを 走 っています 旧 道 はかつての 街 道 で 馬 車 が 走 れ るほどの 道 幅 であったそうですが 今 は 崖 の 崩 落 が 進 み 人 ひとり 程 度 しか 通 れない 幅 に 狭 まっています 前 小 路 遺 跡 は 昔 の 人 々にとっても 住 みやすい 場 所 であり これまでの 調 査 成 果 から 平 安 時 代 の 竪 穴 住 居 跡 が 100 棟 以 上 検 出 されており 大 規 模 な 古 代 集 落 跡 であったと 考 えら れています 2 調 査 の 内 容 前 小 路 遺 跡 の 調 査 は 新 幹 線 二 戸 駅 周 辺 地 区 土 地 区 画 整 理 事 業 に 伴 う 事 前 調 査 です 宅 地 造 成 道 路 工 事 等 に 先 立 って 発 掘 調 査 を 行 ない 記 録 保 存 します 11
調 査 は 重 機 により 表 土 を 剥 がし 遺 構 のあ る 面 からは 人 力 で 掘 り 下 げます 場 所 によって 異 なりますが これまでの 調 査 から 現 況 より 概 ね 深 いところで 80cm~1m 浅 いところで 30cm~40cm 下 げると 遺 構 面 が 確 認 できます 遺 構 の 時 期 を 知 る 指 標 として 出 土 した 遺 物 から 判 断 する 方 法 もありますが 十 和 田 a 火 山 灰 ( 1) という 白 色 の 火 山 灰 からも 大 まか に 判 断 できます 第 34 次 調 査 作 業 風 景 十 和 田 a 火 山 灰 は 西 暦 915 年 に 降 下 したことが 知 られており その 火 山 灰 がどのように 堆 積 しているかを 見 ることで 遺 構 の 時 期 決 定 のヒントになります 今 年 度 の 調 査 では 昨 年 に 引 き 続 き 市 道 大 村 線 の 西 側 6m 道 路 部 分 と 宅 地 部 分 ( 第 32 35 37 次 調 査 )と 東 側 の 宅 地 部 分 ( 第 30 31 33 34 次 調 査 )を 調 査 しました その 結 果 多 数 の 竪 穴 住 居 跡 を 中 心 に 平 安 時 代 の 溝 土 坑 など 前 小 路 集 落 の 特 徴 をあらわ す 貴 重 な 成 果 が 得 られました 1 十 和 田 火 山 から 噴 出 された 火 山 灰 層 文 献 資 料 から 類 推 して 915 年 に 噴 火 したとされている 白 色 を 呈 している 3 調 査 の 結 果 第 34 次 調 査 第 2 号 溝 跡 今 回 の 調 査 の 結 果 として 36 棟 の 竪 穴 住 居 跡 溝 18 条 土 坑 37 基 が 検 出 されました 中 でも 第 34 次 調 査 で 検 出 された 平 安 時 代 の 溝 は 幅 3.2m 深 さ 70cm と 大 きく 南 から 北 東 の 馬 淵 川 に 向 かって 回 るように 伸 びており 昨 年 度 の 調 査 で 出 た 溝 と 繋 がります 堆 積 土 からは 土 師 器 や 須 恵 器 石 製 品 動 物 骨 (ウシかウマ の 骨?)などが 出 土 しました 出 土 遺 物 や 堆 積 土 の 類 似 性 から 竪 穴 住 居 跡 群 に 近 い 時 期 と 推 定 され 朝 日 山 の 山 裾 から 馬 淵 川 までの 緩 斜 面 からの 雨 水 や 生 活 用 水 などの 排 水 や 集 落 を 区 画 する 機 能 があったと 考 えられます 今 後 は 溝 と 住 居 跡 の 存 続 時 期 の 関 係 溝 よりも 内 側 にある 住 居 と 外 側 にある 住 居 の 違 いなどを 明 らかにし 溝 がどのような 意 味 を 持 っているかを 明 らかにしていきます 近 年 の 成 果 をまとめると 前 小 路 集 落 は 1 馬 淵 川 の 河 岸 段 丘 上 に 位 置 し 南 西 に 行 くほど 住 居 密 度 が 高 くなる 2 時 期 は 9 世 紀 末 から 10 世 紀 初 頭 の 竪 穴 住 居 跡 が 中 心 であるが それよりも 古 い 奈 良 時 代 の 竪 穴 住 居 跡 もある 3 馬 淵 川 へと 伸 びる 排 水 を 兼 ねた 区 画 溝 が 多 数 ある こ か じ 4 小 鍛 冶 を 行 っている 5ロクロ 土 師 器 須 恵 器 を 使 用 している 6 琥 珀 製 塩 土 器 など 岩 手 県 沿 岸 北 部 の 集 落 からの 流 通 品 が 出 土 している 12
在 府 小 路 遺 跡 第 23 次 調 査 所 在 地 二 戸 市 福 岡 字 在 府 小 路 地 内 調 査 原 因 集 合 住 宅 建 設 に 伴 う 緊 急 発 掘 調 査 調 査 期 間 平 成 26 年 4 月 30 日 ~7 月 2 日 調 査 面 積 790 m2 主 な 時 代 縄 文 時 代 ( 後 期 初 頭 ) 中 世 主 な 遺 物 縄 文 土 器 石 器 土 偶 陶 磁 器 鉄 製 品 銭 貨 1 遺 跡 の 説 明 在 府 小 路 遺 跡 は 九 戸 城 跡 の 南 側 に 位 置 してお り 九 戸 城 二 ノ 丸 跡 松 ノ 丸 跡 と 堀 跡 で 接 して います 九 戸 城 が 落 城 し 蒲 生 氏 郷 が 改 修 して 南 部 氏 に 交 付 されて 福 岡 城 となった 後 の 武 家 屋 敷 跡 と 考 えられています これまでに 遺 跡 の 西 側 で 掘 立 柱 建 物 跡 や 石 積 みの 道 路 側 溝 跡 井 戸 跡 などが 確 認 されていますが 東 側 へ 行 くにつ れ 中 近 世 の 遺 構 は 少 なくなり 縄 文 時 代 後 期 第 23 次 の 遺 物 遺 構 の 出 土 が 多 くなっていき 様 相 が 大 きく 違 います 調 査 区 全 景 2 調 査 の 内 容 調 査 区 は 現 状 は 畑 地 で 縄 文 土 器 が 表 面 採 集 できる 状 態 だったことと 過 年 度 に 行 われ た 隣 接 地 の 下 水 道 工 事 に 伴 う 発 掘 調 査 時 に 縄 文 時 代 後 期 の 縄 文 土 器 や 竪 穴 住 居 跡 が 見 つ かっていたことから 多 くの 遺 構 遺 物 が 出 土 することが 想 定 されました 重 機 で 表 土 を 掘 削 した 表 土 直 下 から 多 くの 縄 文 土 器 が 出 土 したため 遺 物 を 取 り 上 げな がら 検 出 作 業 を 行 い 建 物 跡 の 有 無 を 確 認 していきました ただ 土 が 大 変 見 づらかった ため 周 囲 より 遺 物 の 出 土 が 多 く 土 が 黒 いところを 中 心 にベルトを 残 した 上 で 掘 削 作 業 を 行 いました ちゅうせり ふ せ き また 住 居 上 層 の 埋 土 に 中 掫 浮 石 (いわゆるアワズナ)が 多 く 含 まれ 周 囲 の 検 出 面 と 類 似 しているため 分 かりづらく 住 居 の 壁 出 作 業 の 際 は 住 居 の 壁 を 断 ち 割 ったのち 壁 の 立 ち 上 がりを 確 認 しました 13
3 調 査 の 結 果 今 回 の 調 査 では 縄 文 時 代 後 期 初 頭 ( 約 4,000 年 前 )と 考 えられる 竪 穴 住 居 跡 12 棟 と 中 世 以 降 の 井 戸 跡 2 基 縄 文 時 代 よりは 新 しい 時 期 不 明 の 土 坑 2 基 が 確 認 されました 竪 穴 住 居 跡 は 調 査 区 の 全 体 に 確 認 されまし た 直 径 4m~11mで 特 に 8m を 超 える 大 型 の 竪 穴 式 住 居 跡 が 多 く 確 認 されました 住 居 の 中 には 炉 があり 中 央 よりもやや 壁 際 に 寄 り 炉 の 入 り 口 には 1 対 の 平 らな 石 が 立 った 状 態 で あるものが 多 く 見 つかりました また 床 面 の 上 層 に 炉 が 重 複 する 場 合 があり 時 期 差 がある ことが 分 かりました 発 掘 した 炉 跡 遺 物 のうち 縄 文 土 器 は 縄 文 時 代 後 期 初 頭 が 主 体 ですが 縄 文 時 代 前 期 中 期 の 土 器 も 確 認 されています それ 以 外 には 土 偶 やミニチュ ア 土 器 石 鏃 をはじめとした 石 器 が 出 土 しています 土 偶 は 頭 部 や 胴 部 などが 出 土 しまし たが どれも 破 片 で 出 土 しました ミニチュア 土 器 や 石 鏃 は 今 回 の 調 査 で 多 く 確 認 されて おり ミニチュア 土 器 は 35 点 石 鏃 は 51 点 出 土 しています また 井 戸 からは 瀬 戸 や 白 磁 といった 陶 磁 器 や 鉄 製 品 銭 貨 が 出 土 しています 以 上 のことから 遺 跡 の 東 端 部 は 井 戸 以 外 の 近 世 遺 構 は 希 薄 であり 福 岡 城 期 にはあま り 利 用 されなかったために 縄 文 時 代 の 遺 構 遺 物 がそのまま 残 され 多 く 確 認 できたとい えます 土 偶 ( 頭 部 ) ミニチュア 土 器 14
在 府 小 路 遺 跡 第 24~27 次 調 査 所 在 地 二 戸 市 福 岡 字 在 府 小 路 地 内 第 24 次 第 25 次 第 26 次 第 27 次 調 査 原 因 個 人 住 宅 建 設 に 伴 う 緊 急 発 掘 調 査 調 査 期 間 平 成 26 年 5 月 7 日 ~6 月 24 日 調 査 面 積 201 m2 調 査 原 因 個 人 住 宅 建 設 に 伴 う 緊 急 発 掘 調 査 調 査 期 間 平 成 26 年 6 月 30 日 ~7 月 18 日 調 査 面 積 140 m2 調 査 原 因 公 共 下 水 道 工 事 に 伴 う 緊 急 発 掘 調 査 調 査 期 間 平 成 26 年 7 月 14 日 ~7 月 25 日 調 査 面 積 71 m2 調 査 原 因 個 人 住 宅 建 設 に 伴 う 緊 急 発 掘 調 査 調 査 期 間 平 成 26 年 10 月 9 日 ~10 月 30 日 調 査 面 積 168 m2 主 な 時 代 縄 文 時 代 中 世 近 世 主 な 遺 物 縄 文 土 器 石 器 銭 貨 1 遺 跡 の 説 明 在 府 小 路 遺 跡 は 史 跡 九 戸 城 跡 の 南 側 に 位 置 し 九 戸 城 二 ノ 丸 跡 松 ノ 丸 跡 と 堀 跡 で 接 しています 九 戸 城 が 落 城 し 蒲 生 氏 郷 が 改 修 して 南 部 氏 に 交 付 し 福 岡 城 となった 後 の 武 家 屋 敷 跡 と 考 えられており 現 在 ま でに 遺 跡 の 西 側 で 掘 立 柱 建 物 跡 や 石 積 みの 道 路 側 溝 跡 井 戸 跡 などが 確 認 されています ただ 東 側 へ 行 くにつれ 中 近 世 の 遺 構 は 少 なくなり 縄 文 時 代 後 期 の 遺 物 遺 構 の 出 土 が 多 くなっていき 東 西 で 遺 跡 の 様 相 が 大 きく 違 い ます 今 回 の 調 査 では 第 24 次 調 査 は 遺 跡 の 西 側 第 25~27 次 調 査 は 遺 跡 の 中 央 から 東 側 に 位 置 しています 2 調 査 の 内 容 結 果 第 24 次 調 査 以 前 住 宅 が 建 っていたため 大 きく 後 世 の 削 平 を 受 けていましたが 表 土 を 重 機 で 掘 削 したところ 竪 穴 遺 構 が 2 棟 確 認 されました そのう ち 1 棟 は 中 近 世 の 竪 穴 遺 構 で 南 側 に 張 出 を 持 ち 壁 際 には 柱 穴 が 確 認 で きました 遺 物 は 銭 貨 鉄 釘 縄 文 土 器 などが 数 点 出 土 しましたが ど れも 遺 構 に 伴 いません 15
第 25 次 調 査 表 土 下 の 黒 色 土 内 から 主 に 縄 文 時 代 後 期 の 土 器 がまとまって 出 土 し さ らに 検 出 作 業 を 進 めた 結 果 土 坑 が 3 基 柱 穴 が 多 数 確 認 されました 柱 穴 は 規 則 的 に 並 ぶものの 一 部 の 柱 穴 の 埋 土 にはビニールが 入 ってお り 後 世 の 攪 乱 の 可 能 性 があります 第 26 次 調 査 対 象 地 は 砂 利 敷 の 道 路 で 下 水 道 工 事 に 伴 う 調 査 のため 1 日 に 約 8m ごと 重 機 で 掘 削 し 調 査 終 了 後 工 事 を 行 う 方 法 で 調 査 を 行 いました そ の 結 果 溝 跡 が 3 条 柱 穴 が 8 個 確 認 されましたが 重 機 のバケット 幅 の 調 査 しかできなかったため これら 遺 構 の 関 係 性 は 不 明 です 第 27 次 調 査 25 次 調 査 と 同 様 表 土 下 の 黒 色 土 内 から 主 に 縄 文 時 代 後 期 の 土 器 がま とまって 出 土 し さらに 検 出 作 業 を 進 めたところ 土 坑 2 基 不 明 遺 構 2 基 柱 穴 20 個 が 確 認 されました 土 坑 のうち 1 基 は 埋 土 が 浅 く 石 が 組 まれている 状 態 でした 柱 穴 は 建 物 として 認 識 されるものはありませんで した 24 次 調 査 竪 穴 遺 構 26 次 調 査 溝 跡 柱 穴 25 次 調 査 全 景 27 次 調 査 土 坑 16
柿 ノ 木 平 遺 跡 発 掘 調 査 所 在 地 二 戸 市 石 切 所 字 柿 木 平 地 内 調 査 原 因 民 間 保 育 施 設 移 転 新 築 工 事 に 伴 う 緊 急 発 掘 調 査 調 査 期 間 平 成 26 年 4 月 17 日 ~5 月 30 日 調 査 面 積 2,183 m2 主 な 時 代 縄 文 時 代 近 世 主 な 遺 物 縄 文 土 器 石 器 土 製 品 1 遺 跡 の 説 明 柿 ノ 木 平 遺 跡 は 九 戸 城 の 南 西 猫 渕 川 西 岸 の 河 岸 段 丘 上 に 位 置 してい ます 周 辺 の 丘 陵 上 には 縄 文 時 代 奈 良 時 代 平 安 時 代 の 散 布 地 として 知 ら れる 天 神 下 Ⅰ Ⅱ Ⅲ 穴 牛 上 穴 牛 遺 跡 弥 生 時 代 前 期 の 遠 賀 川 系 土 器 の 壺 の 中 に 人 骨 が 埋 葬 されていた 中 穴 牛 遺 跡 があります 2 調 査 の 内 容 結 果 今 回 は 民 間 保 育 施 設 移 転 新 築 工 事 に 先 立 って 試 掘 調 査 を 実 施 したとこ ろ 縄 文 時 代 の 遺 物 包 含 層 等 を 確 認 したため 全 面 発 掘 調 査 となりました まず 重 機 による 表 土 剥 ぎをおこない 遺 構 検 出 面 までの 深 さ 50~60cm まで 掘 り 下 げ 遺 構 は 人 力 による 掘 削 作 業 を 実 施 しました 溝 跡 2 条 近 世 墓 2 基 遺 物 包 含 層 ( 縄 文 時 代 後 期 )を 検 出 しました 北 西 方 向 ( 九 戸 城 方 向 )に 延 びる 幅 1m 深 さ 40cm の 溝 跡 は 調 査 区 中 央 で 北 東 方 向 に 延 びる 類 似 した 溝 跡 とT 字 に 交 わっています 溝 跡 からは 遺 物 等 は 出 土 せず 所 属 時 期 は 不 明 ですが 土 師 器 など 古 代 の 遺 物 が 遺 跡 全 体 からあまり 出 土 していないことから 中 世 以 降 のものと 考 えられます 調 査 区 全 景 17
三 ノ 丸 遺 跡 第 1 次 第 2 次 調 査 所 在 地 二 戸 市 福 岡 字 城 ノ 外 地 内 調 査 原 因 個 人 住 宅 の 新 築 工 事 に 伴 う 緊 急 発 掘 調 査 調 査 期 間 平 成 26 年 5 月 8 日 ~5 月 27 日 ( 第 1 次 調 査 ) 平 成 26 年 10 月 20 日 ~11 月 11 日 ( 第 2 次 調 査 ) 調 査 面 積 第 1 次 調 査 50 m2 第 2 次 調 査 97 m2 主 な 時 代 中 世 近 世 主 な 遺 物 陶 磁 器 縄 文 土 器 銭 貨 石 製 品 1 遺 跡 の 説 明 三 ノ 丸 遺 跡 は 二 戸 市 の 中 心 街 城 ノ 外 五 日 町 地 内 に 所 在 しており 史 跡 九 戸 城 跡 の 曲 輪 の 一 つです 今 回 の 調 査 区 は 馬 助 坂 を 下 る 途 中 の 県 道 より 一 段 低 い 平 場 に 位 置 しています 北 側 には 土 塁 が 残 存 していま す 旧 地 形 は 馬 淵 川 に 向 かって 緩 やかに 傾 斜 していますが 調 査 区 東 側 を 削 って 平 場 を 造 成 しています 2 調 査 の 内 容 結 果 今 回 の 調 査 は 第 1 次 調 査 第 2 次 調 査 ともに 個 人 住 宅 の 新 築 工 事 に 先 立 って 行 いました 重 機 による 表 土 剥 ぎを 行 い 遺 構 検 出 面 までの 深 さ 40~60cm まで 掘 り 下 げ 遺 構 は 人 力 による 精 査 作 業 を 実 施 しました 結 果 は 第 1 次 第 2 次 調 査 とも 竪 穴 状 の 掘 り 込 みや 根 石 を 伴 う 柱 穴 が 確 認 されています 第 2 次 調 査 では その 柱 穴 が 5 個 並 んで 検 出 されましたが 今 回 の 調 査 範 囲 では 明 確 な 建 物 は 検 出 できませんでした 遺 物 は 近 世 から 近 代 の 陶 器 類 や 銭 貨 などが 出 土 しています 第 1 次 調 査 区 全 景 第 2 次 調 査 区 全 景 18
晴 山 遺 跡 ( 上 里 遺 跡 群 ) 第 34 次 調 査 所 在 地 二 戸 市 石 切 所 字 晴 山 台 中 平 地 内 調 査 原 因 新 幹 線 二 戸 駅 周 辺 地 区 土 地 区 画 整 理 事 業 調 査 期 間 平 成 26 年 6 月 2 日 ~9 月 12 日 調 査 面 積 307 m2 主 な 時 代 縄 文 時 代 奈 良 時 代 主 な 遺 物 縄 文 土 器 土 師 器 陶 磁 器 鉄 製 品 ほか 1 遺 跡 の 説 明 晴 山 遺 跡 は 蛇 行 する 馬 淵 川 の 左 岸 北 側 の 河 岸 段 丘 上 に 立 地 し 上 里 遺 跡 群 の 中 では 南 西 に 位 置 しています 付 近 は 馬 仙 峡 と 呼 ばれる 独 特 の 河 川 景 観 をなしており 大 崩 崖 や 国 名 勝 に 指 定 されている 男 神 岩 女 神 岩 があ ります ほ う け い き ょ か ん あ と 周 辺 の 遺 跡 としては 北 側 に 鎌 倉 時 代 の 方 形 居 館 跡 である 諏 訪 前 遺 跡 や 弥 生 時 代 の 集 落 跡 である 火 行 塚 遺 跡 や 大 渕 遺 跡 があります これまで 中 世 の 遺 跡 とされていましたが 近 年 の 調 査 で 縄 文 時 代 や 奈 良 時 代 の 遺 構 も 確 認 され 様 々な 時 代 の 複 合 遺 跡 であることが 明 らかにな ってきました 2 調 査 の 内 容 結 果 晴 山 遺 跡 の 調 査 は 新 幹 線 二 戸 駅 周 辺 地 区 土 地 区 画 整 理 事 業 に 伴 う 事 前 調 査 で 道 路 工 事 に 先 立 って 調 査 を 実 施 しました 竪 穴 住 居 跡 2 棟 ( 縄 文 時 代 奈 良 時 代 ) 土 坑 4 基 不 明 遺 構 1 基 が 検 出 されました 中 でも 奈 良 時 代 の 竪 穴 住 居 跡 は 焼 け 落 ちた 住 居 である 焼 失 家 屋 で 炭 化 した 垂 木 や 柱 などの 建 築 部 材 がきれいに 床 面 に 残 ってい ました また 同 じ 竪 穴 住 居 跡 から 甕 一 個 体 が 潰 れた 状 態 で 確 認 されま した 第 2 号 住 居 跡 炭 化 材 検 出 状 況 第 2 号 住 居 跡 甕 出 土 状 況 19
天 台 寺 跡 所 在 地 二 戸 市 浄 法 寺 町 御 山 久 保 地 内 調 査 原 因 保 存 修 理 事 業 に 係 る 内 容 確 認 調 査 調 査 期 間 平 成 26 年 11 月 4 日 ~11 月 7 日 調 査 面 積 1 m2 主 な 時 代 近 世 主 な 遺 物 銭 貨 桟 瓦 1 遺 跡 の 説 明 天 台 寺 跡 は 古 代 寺 院 跡 とされますが 現 在 目 にすることができる 本 堂 仁 王 門 堂 宇 などは 万 治 元 年 (1658)に 南 部 重 直 公 によって 再 建 された 以 降 のものです 仏 像 などから 遅 くとも 平 安 時 代 末 頃 には 成 立 し 寺 に 伝 わる 寺 宝 などから 鎌 倉 時 代 ~ 室 町 時 代 においても 存 続 していたよ うです 昭 和 53 年 から 平 成 元 年 まで 浄 法 寺 教 育 委 員 会 が 中 心 となって 継 続 し て 発 掘 調 査 を 実 施 しましたが 残 念 ながら 古 代 から 中 世 にかけての 考 古 学 的 な 証 拠 は 発 見 されていません 2 調 査 の 内 容 結 果 平 成 25 年 度 より 始 まった 重 要 文 化 財 天 台 寺 本 堂 及 び 仁 王 門 保 存 修 理 事 業 に 伴 い 本 堂 基 壇 の 雨 落 ち 部 分 の 確 認 が 必 要 となりました このため 工 事 への 影 響 の 少 ない 本 堂 東 側 基 壇 の 一 箇 所 を 選 び 石 の 抜 き 取 り 痕 跡 を 確 認 するためトレンチ 調 査 を 実 施 しました 雨 落 ち 部 分 は 硬 いコンクリートで 固 め られていましたが 人 力 で 取 り 除 きました コンクリート 叩 きの 下 層 から 厚 さ 約 40cm 以 上 に 積 み 上 げられていた 玉 石 が 確 認 さ れました この 玉 石 の 中 には 桟 瓦 の 破 片 が 混 じっていたことから 本 堂 の 屋 根 が 桟 瓦 から 銅 板 に 葺 き 替 えられた 時 に 構 築 され たものと 推 定 されます また 玉 石 の 下 からは 人 頭 大 の 角 礫 が 確 認 されました 角 礫 は 2 段 に 積 み 上 げられ ており 近 代 の 遺 物 が 混 じらないことか ら 江 戸 時 代 に 南 部 重 直 公 によって 再 建 さ れた 時 のものと 推 定 されます 基 壇 調 査 状 況 20
プログラム 13:00 開 会 13:00 あいさつ 13:10-13:50 13:50-14:05 特 別 報 告 三 戸 南 部 氏 の 城 聖 寿 寺 館 質 疑 応 答 南 部 町 教 育 委 員 会 社 会 教 育 課 史 跡 対 策 室 布 施 和 洋 14:20-15:15 15:15-15:30 平 成 26 年 度 調 査 報 告 史 跡 九 戸 城 跡 二 戸 市 教 育 委 員 会 文 化 財 課 鈴 木 裕 一 郎 前 小 路 遺 跡 二 戸 市 教 育 委 員 会 文 化 財 課 蔦 川 貴 祥 在 府 小 路 遺 跡 二 戸 市 教 育 委 員 会 文 化 財 課 鈴 木 裕 一 郎 質 疑 応 答 15:30 閉 会 語 句 説 明 い こ う 遺 構 い ぶ つ 遺 物 たてあなじゅうきょ 竪 穴 住 居 た て あ な い こ う 竪 穴 遺 構 ほ っ たてばしらた て も の 掘 立 柱 建 物 ど こ う 土 坑 は じ き 土 師 器 す え き 須 恵 器 か く ら ん 攪 乱 じ や ま 地 山 けんしゅつ 検 出 竪 穴 住 居 など 地 上 に 残 された 生 活 の 痕 跡 のこと( 不 動 産 ) 土 器 石 器 などの 生 活 道 具 のこと( 動 産 ) 縄 文 時 代 から 古 代 に 見 られる 地 面 をほり 窪 めて 床 とした 住 居 のこと 主 に 中 世 以 降 の 竪 穴 式 の 建 物 をさし 工 房 などに 使 用 された 地 面 に 穴 を 掘 り 礎 石 を 用 いずに 柱 を 建 てた 建 物 のこと 貯 蔵 などに 用 いられた 様 々な 形 の 穴 のこと 古 代 に 使 用 された 素 焼 きの 土 器 窯 を 用 いて 高 温 で 焼 かれた 硬 質 の 土 器 遺 構 などが 新 しい 時 代 の 耕 作 などによってかき 回 されてしまっている 状 態 自 然 のままの 土 地 盤 のこと 土 をきれいにして 遺 構 の 土 を 見 やすくする 作 業 のこと