1 長 徳 寺 跡 長 徳 寺 は 久 安 5 年 (1149) 吾 橋 庄 に 創 建 と 伝 えられる 吾 橋 庄 は を 中 心 に 汗 見 川 の 流 域 に 広 がる 領 主 頼 則 盛 政 らが 開 発 した 荘 園 で 長 徳 寺 はその 菩 提 寺 長 徳 寺 跡 は 河 岸 段 丘 状 の 緩 傾 斜 地 であり 北 に 山 を 背 負 い 日 当 たりも 良 く 南 西 方 は 崖 汗 見 川 がこの 辺 りより 南 へ 流 を 変 え 吉 野 川 に 合 流 する 台 地 には 谷 水 もあり 見 晴 らし 良 好 である 原 始 の 人 々が 住 み 着 く 全 ての 条 件 の 整 った 場 所 であった 長 徳 寺 跡 周 辺 から 石 錘 や 石 斧 などの 縄 文 式 土 器 片 や 弥 生 式 土 器 が 発 見 されている ( 史 跡 ) 2 若 一 王 子 宮 神 殿 と 社 叢 長 徳 寺 文 書 (1176)に 初 出 記 載 される 古 社 文 書 中 にみえる 長 徳 寺 三 社 の 一 つ の 大 宮 に 鎮 座 する 平 安 時 代 に 熊 野 から 勧 請 された 旧 郷 社 境 内 から 弥 生 ~ 平 安 時 代 の 遺 物 が 出 土 した 現 在 の 社 殿 は 明 治 8 年 の 建 設 で 着 工 から 落 成 まで 約 13 年 を 要 した 三 入 母 屋 造 の 社 殿 の 用 材 彫 刻 や 組 物 は 見 事 である 参 道 林 中 に 親 子 杉 夫 婦 杉 がある ( 有 形 文 化 財 天 然 記 念 物 ) 3 瀧 山 一 揆 跡 慶 長 6 年 (1601)に 土 佐 に 入 国 した 山 内 氏 は 要 地 に 重 臣 を 配 置 して 治 国 内 の 安 定 を 図 った 長 宗 我 部 氏 遺 臣 の 一 領 具 足 や 旧 名 主 層 への 圧 迫 は 著 しく では 領 主 となった 山 内 刑 部 の 厳 しい 年 貢 強 要 に 抵 抗 した 北 山 村 庄 屋 高 石 左 馬 之 助 が 慶 長 8 年 (1603) 北 山 五 ヶ 村 の 百 姓 に 呼 びかけて 一 揆 を 起 こし 瀧 山 の 岩 窟 に 立 て 籠 もった 瀧 山 は 高 山 で 鳥 も 通 いがたい とい われた 場 所 北 山 村 の 百 姓 たちは3ヶ 月 間 瀧 山 に 籠 もって 抵 抗 している 山 内 勢 は 高 知 城 下 からの 応 援 を 得 多 大 の 犠 牲 を 払 いこれを 鎮 定 した 左 馬 之 助 は 讃 岐 へ 敗 走 弟 吉 之 助 は 敗 走 の 途 中 で 死 亡 している 一 揆 鎮 定 後 も 百 姓 たちは 北 山 五 百 石 に 鍬 を 入 れることなく 土 地 は 荒 れ 放 題 の 状 況 が 続 き 山 内 側 が 譲 歩 する 形 で 年 貢 収 納 率 引 下 げ 免 除 処 罰 なしなど の 条 件 で 生 業 に 復 した ( 史 跡 ) 北 山 4 旧 山 下 家 門 旧 山 下 家 は 参 勤 交 代 時 に 藩 主 の 休 憩 所 にあてられた 家 である 吉 野 川 出 水 で 上 関 渡 しが 通 行 できない 時 の 宿 泊 所 にもあてられた 現 在 は 門 ( 薬 医 門 )と 石 垣 が 残 る 石 垣 は 吉 野 川 上 流 の 地 域 より 集 めた 石 を 使 用 し 積 み 上 げている 山 下 家 は 香 川 の 豪 農 の 分 家 と 伝 えられる ( 有 形 文 化 財 ) 下 関 5 秋 田 夫 人 の 墓 慶 安 4 年 (1651) 野 中 兼 山 は 母 秋 田 夫 人 の 逝 去 に 遭 い 儒 礼 により 土 葬 で 埋 葬 した 埋 葬 の 地 として 帰 全 山 を 選 び 1 千 人 の 夫 役 と2ヶ 月 の 日 数 を 投 じて 墓 地 を 造 成 埋 葬 後 は 墓 地 の 横 に 喪 屋 が 建 てられ 母 没 後 の3 年 間 をここで 喪 に 服 している 帰 全 山 の 名 は 儒 家 山 崎 闇 斎 が 選 んだといわれ その 地 形 から 雁 山 とも 呼 ばれている ( 史 跡 )
6 野 中 順 の 墓 順 は 野 中 兼 山 の 長 女 である 祖 母 秋 田 夫 人 と 同 じ 囲 いの 中 に 眠 る 秋 田 夫 人 の 墓 の 後 方 の 墓 碑 は 順 のもの 順 は4 歳 で 早 死 帰 全 山 に 埋 葬 されたことが 野 中 氏 系 譜 に 記 されて い る ( 史 跡 ) 7 帰 全 山 記 帰 全 山 公 園 内 西 方 の 小 高 い 丘 の 上 にある 鉄 塔 で 儒 家 山 崎 闇 斎 が 慶 安 4 年 (1651) 野 中 兼 山 の 母 の 埋 葬 にあたり 墓 所 のある 小 山 を 記 全 山 と 名 づけた 鉄 塔 には 秋 田 夫 人 の 墓 碑 銘 と 帰 全 山 の 記 が 刻 まれている ( 有 形 文 化 財 ) 8 松 ノ 木 遺 跡 と 縄 文 式 土 器 松 ノ 木 遺 跡 は 縄 文 時 代 後 期 前 葉 の 松 ノ 木 式 土 器 標 識 遺 跡 である 1990 年 農 道 の 拡 幅 工 事 中 に 発 見 された 松 ノ 木 遺 跡 出 土 の 縄 文 土 器 は 西 日 本 における 縄 文 時 代 後 期 土 器 編 年 の 空 白 の 一 形 式 を 埋 めるものであり 松 ノ 木 式 土 器 と 命 名 され 標 識 設 定 された 発 見 以 来 4 次 にわたって 実 施 された 調 査 で 縄 文 時 代 前 期 中 期 の 遺 物 遺 構 も 確 認 されてい る また 弥 生 時 代 後 期 から 古 墳 時 代 初 頭 の 竪 穴 式 住 居 が 十 数 棟 発 見 されたことから 住 居 は 調 査 区 域 外 にも 広 がっていることが 予 想 され 当 該 期 の 大 集 落 の 存 在 を 示 唆 している ( 史 跡 有 形 文 化 財 ) 9 銀 杏 ノ 木 遺 跡 保 育 所 の 南 側 で 弥 生 時 代 後 期 を 中 心 に 縄 文 時 代 早 期 の 遺 物 遺 構 が 発 見 され 地 番 改 正 前 の 地 名 呼 称 から 銀 杏 ノ 木 遺 跡 と 名 付 けられた 嶺 北 高 校 校 庭 遺 跡 とともに 吉 野 川 に 沿 う 河 岸 段 丘 上 の 集 落 跡 と 見 られる ( 史 跡 ) 10 氏 の 祖 といわれる 八 木 伊 典 の 墓 土 佐 物 語 巻 一 に 八 木 左 近 大 夫 源 茂 宗 といふ 人 伝 八 木 伊 典 の 墓 あり 茂 宗 祖 父 を 八 木 伊 典 といふ( 中 略 )いつの 頃 からか 彼 に 来 たりて 居 住 す 其 子 義 明 まで 三 代 本 姓 を 改 めて と 号 す とある ( 史 跡 )
11 土 居 屋 敷 跡 土 居 屋 敷 跡 は 戦 国 時 代 に 地 方 を 本 貫 とした 氏 の 土 居 ( 館 )であった 近 世 初 頭 に は に 封 ぜられた 山 内 刑 部 但 馬 父 子 続 いて 野 中 玄 番 兼 山 父 子 の4 代 にわたる 屋 敷 と なった 兼 山 時 代 の 土 居 は 上 段 中 段 下 段 からなり 入 り 口 下 段 に 文 武 館 中 段 に 長 屋 門 の 諸 建 物 があり 上 段 に 本 宅 があった ( 皆 山 集 ) 兼 山 失 脚 後 は 藩 士 の 在 番 が 置 かれ 享 保 3 年 (1718) 以 降 は 倉 番 土 居 門 番 が 配 置 された 参 勤 交 代 に 土 佐 街 道 ( 北 街 道 )が 用 いら れるようになると 参 勤 交 代 時 の 藩 主 の 宿 泊 所 にあてられ 以 後 御 殿 と 称 されるようにな る この 土 居 屋 敷 を 中 心 に 周 辺 に 土 居 下 と 呼 ばれる 小 規 模 な 場 が 形 成 されていた 明 治 になって 建 物 は 取 り 壊 され 跡 地 は 桜 の 公 園 として 整 備 されている ( 史 跡 ) 12 上 の 坊 南 学 寮 跡 野 中 兼 山 が 儒 学 者 山 崎 闇 斎 を 招 いて この 場 所 にあった 古 寺 で 土 佐 南 学 を 講 究 したといわれる 兼 山 は 禅 学 より 儒 学 に 転 向 し 勉 学 に 励 み 南 学 ( 海 南 朱 子 学 )といわれ るまでにその 学 問 を 発 展 させた ( 史 跡 ) 13 山 内 刑 部 夫 妻 の 墓 山 内 刑 部 は 山 内 家 の 家 老 であった 山 内 一 豊 の 土 佐 入 国 に 際 して その 軍 功 から 千 三 百 石 知 行 城 に 配 され 土 居 初 代 領 主 として 慶 長 6 年 (1601)に に 入 っている 慶 長 8 年 の 瀧 山 一 揆 の 鎮 定 に 努 め 元 和 元 年 (1615)の 大 阪 城 の 役 には 高 知 城 の 留 守 居 役 を 務 めた 元 和 6 年 63 歳 で 病 没 ( 史 跡 ) 14 城 跡 の 東 西 にそびえる 田 井 山 北 東 尾 根 の 先 端 部 にある 戦 国 時 代 以 降 郷 を 中 心 に 勢 力 を 伸 ばした 氏 の 居 城 跡 氏 は 弘 治 2 年 (1556)の 長 宗 我 部 国 親 との 秦 泉 寺 攻 撃 に 始 まる 攻 防 で 高 知 平 野 の 支 城 潮 江 城 長 浜 城 朝 倉 城 を 失 い に 退 いた 後 での 戦 いに 敗 れ 親 茂 の 時 長 宗 我 部 氏 の 軍 門 に 下 った 土 佐 における 戦 国 群 雄 中 の 雄 であった 本 山 氏 の 居 城 は 今 もその 遺 構 をとどめ 堀 切 や 詰 の 段 二 の 段 三 の 段 郭 の 遺 構 などが 残 っ ている ( 史 跡 ) 15 十 二 所 神 社 社 殿 と 社 叢 十 二 所 神 社 の 創 建 日 時 は 不 詳 当 初 長 徳 寺 鎮 守 三 社 の 一 つで 白 髪 神 社 若 一 王 子 宮 と 並 ぶ 神 社 であった 社 名 は 承 元 3 年 (1209)の 長 徳 寺 文 書 にみえる 永 禄 年 中 (1558~70)の 長 宗 我 部 氏 と 氏 の 合 戦 で 社 殿 を 焼 失 慶 長 15 年 (1610) の 今 宮 に 移 し 再 建 された 後 の 寛 永 15 年 (1638) 野 中 兼 山 によって 現 在 の 場 所 に 移 転 再 建 され 郷 の 総 鎮 守 とされ た ( 有 形 文 化 財 天 然 記 念 物 )
16 片 岡 館 片 岡 館 は 自 由 民 権 家 で 時 の 衆 議 院 議 長 片 岡 健 吉 の 尽 力 により 雁 山 を 眺 望 できる 現 在 の 場 所 に 建 築 された 上 棟 式 は 明 治 34 年 (1901)8 月 健 吉 は 熱 心 なキリスト 教 徒 でもあり 度 々 を 訪 れ の 青 年 たちと 交 流 している 片 岡 館 は の 公 共 的 会 合 などに 使 用 され 管 理 は に 委 託 された 明 治 36 年 片 岡 健 吉 は 病 没 後 の 大 正 5 年 (1916)に 遺 族 から 片 岡 館 を 譲 り 受 け 館 は 公 会 堂 として 使 用 されるようになった 現 在 は 跡 地 に 碑 が 残 ってい る ( 有 形 文 化 財 ) 17 井 ノ 窪 城 跡 吉 野 川 支 流 の 樫 ノ 川 下 流 東 岸 の 井 窪 にある 城 跡 土 佐 州 郡 志 では 城 主 不 詳 と 記 してい る 尾 根 上 に 二 つの 郭 跡 がある 二 つの 郭 は 尾 根 の 鞍 部 を 挟 んで 東 西 に 相 対 する 位 置 にあ り 同 じ 形 の 郭 である 現 在 東 の 郭 は 雑 木 林 で 西 の 郭 跡 はは 植 林 がされている ( 史 跡 ) 井 窪 18 吉 延 の 大 杉 と 乳 銀 杏 吉 延 は 吉 野 川 の 南 岸 樫 ノ 川 が 北 流 する 東 岸 にある 参 勤 交 代 道 沿 いの 阿 弥 陀 堂 の 境 内 に 齢 1200 年 の 大 杉 と 巨 木 の 乳 銀 杏 がある 大 杉 は 樹 高 43m 周 囲 ( 眼 高 )8m 乳 銀 杏 もかな りの 樹 齢 での 巨 木 である その 古 枝 から 無 数 の 大 小 の 突 起 を 下 げている ( 天 然 記 念 物 ) 吉 延 19 縄 文 式 土 器 長 徳 寺 跡 出 土 昭 和 52 年 (1977) 長 徳 寺 跡 発 掘 の 際 に 出 土 楕 円 押 型 文 土 器 の 破 片 は 約 8000 年 前 のもので ある ( 有 形 文 化 財 ) 20 弥 生 式 土 器 嶺 北 高 校 校 庭 出 土 昭 和 30 年 (1955)の 嶺 北 高 校 校 庭 造 成 中 に 出 土 した 弥 生 時 代 後 期 のもの 周 辺 に 永 田 遺 跡 がある 嶺 北 高 校 に 展 示 ( 有 形 文 化 財 )
21 石 斧 上 奈 路 営 林 署 杉 檜 苗 床 出 土 大 正 9 年 (1920) 年 頃 上 奈 路 の 営 林 署 苗 床 の 地 表 で 発 見 された 磨 製 石 斧 嶺 北 高 校 に 展 示 されている ( 有 形 文 化 財 ) 北 山 22 県 帰 全 山 帰 全 山 は 吉 野 川 北 岸 に 位 置 する 標 高 430mの 山 である 野 中 家 累 代 の 墓 地 や 山 崎 闇 斎 の 帰 全 山 記 や 延 享 2 年 (1745) 創 建 の 野 中 陣 神 社 昭 和 44 年 (1969)に 建 設 の 野 中 兼 山 の 銅 像 などがある また ここには 日 露 戦 争 に 従 軍 した 村 出 身 の 戦 病 者 を 埋 葬 している 明 治 38 年 に 個 人 の 所 有 であった 帰 全 山 を 村 が 買 い 取 り 公 園 として 整 備 した 着 工 明 治 38 年 (1905) 7 月 完 工 明 治 39 年 (1906)3 月 ( 史 跡 ) 23 県 汗 見 川 枕 状 溶 岩 汗 見 川 七 戸 冬 ノ 瀬 地 域 の 手 前 白 髪 の 滝 より 下 流 の 川 原 で 藍 閃 緑 簾 石 を 含 む 珍 しい 枕 状 溶 岩 (ピロープレッチャー)の 露 頭 が 観 察 できる 枕 状 溶 岩 の 存 在 はかつて 海 底 火 山 によって 噴 出 した(1000m 以 浅 ) 玄 武 岩 であったことを 示 すものである 地 下 20kmまで 沈 み 高 圧 条 件 下 で 変 成 (7 千 年 前 )され その 後 地 上 まで 浮 上 したもの 変 成 温 度 は150 度 ~300 度 の 範 囲 で ある 三 波 川 変 成 帯 の 地 層 の 走 向 は ほぼ 東 西 に 走 っているのに 対 し 汗 見 川 は 南 北 方 向 に 流 れているため 30 種 類 以 上 の 変 成 岩 が 観 察 できる 貴 重 な 流 域 である 三 波 川 変 成 帯 はこ の 汗 見 川 を 中 心 として 世 界 でも 最 も 研 究 が 進 んでいる 地 質 といわれる ( 天 然 記 念 物 ) 瓜 生 野