最 線 カメラル ポ 前 最前線カメラルポ 技術のカワサキ を支える 匠 たち ハイテク時代といえど も物づくり の最後のキメ手は 人の技 匠 たちの卓越した技 能 73 イラストぎじゅつ入門 最速に進化した カワサキロボット Rシリーズ のしくみ 現場を訪ねて 山陽 九州新幹線直通用車両の走行試験 西日本旅客鉄道株式会社 JR西日本 20 歩いて 見た 歴史の家並み 加賀市加賀橋立 石川県 北前船が運んだ 富が築いた 船主たちの 豪壮な邸宅 新製品 新技術 1878年 明治11年 に創業した川崎重工グルー プの物づくりの歴史は130年 この間 常に先 端技術で時代を切り拓きながら 陸 海 空にわ たる広範な事業領域を構築した そして 総合 エンジニアリングメーカーとして社会や時代の 要請に 物づくりの 心と技 で的確に応えてき た 物づくりこそ経済 社会発展の原動力 が 川崎重工グループの一貫した経営哲学である 近年 物づくり関連の技術の発達は日進月歩 の感がある しかし いつの時代にも 物づくり の最後のキメ手となり品質を左右するのは 人 の技 である 川崎重工グループ130年の物づ くりの歴史は 多くの 手の技 が紡いできたも のにほかならない 技 は手から手へと受け 継がれ 磨かれ 熟達し 次の手へと渡されて きた 川崎重工グループの製造現場では今日も 卓越した技能を持つ多くの 匠 たちが高品質 の製品を生み出し また その技能の伝承に力 を注いでいる その中から6人をピックアップし 仕事の現場を訪ねた カワサキプラントシステムズ 株 が事業を開始した 小さな自然エネルギーを活かす 最新型の 小水力発電装置 表紙説明 何やら掴みどころのない 淡い青緑色の物体 側面に 景色が映り込み 前面には細長い切込みと二つの目 ますます面妖だが 実はこれ 山陽 九州新幹線直通 用車両の先頭部です JR西日本とJR九州が 東海道 山陽新幹線の N700系 をベースに共同開発し JR西日本が8両1編成で走行試 験中のものです 川崎重工は 先頭車両を含む4両を兵庫工場で製造し て納入しました 2011年春の九州新幹線 博多 鹿児島中央間の全線 開通を機に 山陽 九州新幹線が相互直通運転を行なう 予定になっており 新大阪 鹿児島中央間が約4時間で 結ばれます 詳しくは 現場を訪ねて P 10 13 をご覧ください 発 行 2009年1月 編 集 川崎重工業株式会社 広報室 発行人 広報室長 伴 俊作 東京都港区浜松町2ー4ー1 世界貿易センタービル TEL 03-3435-2133 http://www.khi.co.jp 本誌は再生紙を使用しています 1
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20 歩いて 見た 歴史の家並み 富山県 金沢 石川県 加賀橋立 加賀市 岐阜県 加賀市 福井県 かつて 日本一の富豪の村 と紹介された加賀橋立地区を高台から見下ろす 連なる屋根は往 時 富の象徴といわれた南加賀産の赤瓦葺きである 連なる赤瓦の屋根をうっすらと雪が覆って 家並みは冬の風情を醸し出した 屋根を吹き来る風 が身を切るようで 左手奥の日本海も波が高く荒れ模様である 14 石川県 雪が激しく降り募り かと思えば一瞬後には止 んで 雲が割れて陽が差す その激変ぶりに驚い ている間もなく またも暗雲が空を覆い 風が激し い吹雪を呼んでくる 加賀橋立 加賀市橋 立町 の家並みを歩く かつての北前船の船主や 船頭などが建てた 豪壮な邸宅が今も残る地域で ある 日本海に面した橋立は 江戸時代中期までは 茅葺き農家が建ち並ぶ半農半漁の集落だった それが江戸中期を過ぎると 橋立の漁師 あるいは 仕事を求めて能登地方からやって来た人の中から 近江商人に引き立てられて蝦夷への商船の船乗 りになる者が生まれた その中から資力を蓄え 北 前船の船主になる者が現れたのが18世紀の中頃 船主たちは身内や村人を船頭や船乗りにしたので 村は廻船業で急速に発展した 最盛期には100 隻以上の北前船を擁し 寛政8年 1796年 の記 録 船道定法之記 では船主34名とされている 北前 は 瀬戸内地方では古くから日本海側 を意味したので 北前地方の船主の船を 北前船 と呼んだとされる 北前船は長さ約40mの帆船で 船頭を含む乗 かいづみせん 組員は15人ほどの買積船である 買積船というの は 依頼された荷物を運んで運送費を得る運賃積 と異なり 船主が自分で仕入れた商品を各地の廻 船問屋に売り捌く商売だ 例えば 大坂で酒や綿 き ろう など 瀬戸内の諸港で塩や紙 砂糖 畳表 生蝋 などを買って積み込む そして 日本海側の浜田な どで塩を売り 鉄を買う 小浜 敦賀では生蝋を売り 縄やムシロを買うといった具合だ その航海の途中 故郷の橋立沖で半日停泊し 船頭 乗組員はそれぞれみやげ物を持って伝馬船 で上陸した 何しろ 春先から秋の終わりまで続く 大航海である 家族はご馳走をつくってその労を ねぎらったという 北前船はこうして港々で商売を繰り返しながら 蝦夷の箱館 函館 や松前などを目指した 北前船が蝦夷に着く頃 4 5月 はニシンの漁 期だ ニシンは背中の肉を取って食用 身欠き に し 残りは油を搾る その絞り粕を乾かしたのが しめかす 〆粕で 農業の貴重な肥料だ 北前船は 〆粕が できるのを待って船一杯に積み込み また 昆布や 数の子 塩鮭 塩鱒などを積んで大坂に向かう この商売は 無事に航海できれば船一艘で途 方もない利益があったという 船主の多くは複数 の船を所有しており それこそ巨万の富を築いた 大正期の雑誌には 日本一の富豪の村 と紹介 されたほどだ その彼らが築いた邸宅が 豪邸でな いはずがない 北前船の里資料館 として公開されている 酒谷長平邸は 酒谷家の7代目長兵衛が明治 9年 1876年 に建てたという 敷地面積が実に約1 000坪で 母屋と8棟の土 蔵がある 建築物の外壁には北前船の船底板を 再利用し 屋敷造成の石垣や基礎石には越前 福 しゃくだにいし 井県 の淡緑青色の笏谷石を用いている 母屋は オエ 大広間 の奥に左右2列に各3 室 畳敷の居室 ある これは 加賀地方の典型 的な茅葺農家から変化した 橋立北前船主型 といわれる独自の間取りと建築様式である オエ の柱に八寸角の欅 梁には巨大な松 大戸には 秋田杉の一枚板など最高級の建材が使われてい る 笏谷石も建材も北前船の寄港地から取り寄 せたものが多い 足裏にひんやりとする長い廊下を歩くと 当時 の億万長者の豪勢な暮らしぶりに圧倒される思 いだ 酒谷家は江戸から明治にかけて6隻の北前船 を有していた これでも船主としては中堅で もっと 豪奢な邸宅もあったようだ ただし 酒谷家は橋立 に現存する最大規模の北前船主の家だという 豪華な仏間のある奥座敷を 中座敷から見る 左手に北 前船の模型 約20分の1 が展示してある 30畳のオエ 大広間 柱は 欅の8寸角 梁は巨大な松 座敷に通じる正面大戸 右 手 は秋田杉の1枚板である 北前船の里資料館 酒 谷長平邸 130年余り前 の建築という 同資料館の外壁は船板で 覆われ 石垣の石は笏谷石 である 橋立北前船主型の一般的な間取り 模式図 オエ 6室型 出典 パンフレット 重要伝統的建造 物群保存地区 加賀橋立 船 主集落 加賀市建設部整 備課 景観文化室 廊下 書院 ト 廊 コ 下 違 棚 廊 下 カギノマ 書院 ブツマ ト コ ナカナンド ザシキ 違 棚 クチナンド 物 置 切 土 縁 間 クチノマ 板 縁 オエ 風呂 ダイドコロ チャノマ ニワ 玄関 Kawasaki News 便 所 153 2009/1 15
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