KAGAWA GALAXY 吉 田 源 治 郎郎 幸 の 世 界 (23) 岩 手 県 発 行行の 絵 葉葉 書 カバー 第 23 回 肉 眼 に 見見える 星 の 研 究 (3) 宮 沢 賢 治 と 賀 川 豊 彦 賀 川 豊 彦 とは 8 歳 年年 下 になる 宮 沢 賢 治 (1896 ~1933)のことは 折 々 話 題 なる 身 近 なところでは 雲 柱 社 の 現 理理 事 長 服 部 栄 氏が 1984( 昭 和 59) 年年 5 月の 賀 川 豊 彦 研 究 ( 本 所 賀 川 記 念念 館 ) 第 4 号 の 巻 頭 言に 宮 沢 賢 治 と 賀 川 豊 彦 と 題 する 小 文を 寄 せておられた 当 時 本 所 賀 川 記 念念 館 の 主 事 をされていた 貴 重 な 文 章 であるので ここに 取 り 込 んでおこう
宮 沢 賢 治 の 世 界 は 今 や 国 際 的 な 広 がりを 見見せている が 今 回 KAGAWA GALAXY 吉 田 源 治 郎郎 幸 の 世 界 をスタートさせることとなったのも 源 治 郎郎 がこの 肉 眼 に 見見える 星 の 研 究 を 書 き 上 げ それを 宮 沢 賢 治 が 読 んでいたのではないかということを そっと 耳 打 ちされ たことが 実 は 大きな 要 因 であった 源 治 郎郎 牧 師 が 星 の 研 究 をしていた 事 実 だけでも イ ンパクトの 強 いものであったが それに 宮 沢 賢 治 が 加 わると 吉 田 源 治 郎郎 の 世 界 は 俄 然 その 輝 きを 増 してくるというものである 大 沢 正 善 宮 沢 賢 治 と 吉 田 源 治 郎郎 肉 眼 に 見見える 星 の 研 究 ところでいま 私 に 出 来 ることは ここでひとつの 論論 文を 紹 介 することだけであるが 題 名 もそのものずば り 宮 沢 賢 治 と 吉 田 源 治 郎郎 肉 眼 に 見見える 星 の 研 究 という 大 沢 正 善 氏の 本 格 的 な 研 究 論論 稿 である 1989( 昭 和 64) 年年 の 奥 羽 大 学 歯 学 誌 (Vol.16(4) pp.184~ 201 )に 掲 載 されたもので 本 論論 稿 をまとめるのに 約 3 年年 を 費 やし た と 書 かれているが 大 沢 氏は 日 本 近 代 文 学 の 研 究 者 として 賢 治 研 究 でも 名 高いお 方ようである 執 筆 当 時 は 奥 羽 大 学 で 教 鞭 をとられ 現 在 は 岐 阜 聖 徳 学 園 大 学 教 育 学 部 の 教 授 としてご 活 躍 中 である 冒 頭 に 掲 げた 岩 手 県 発 行行の 絵 葉葉 書 カバー は この 論論 文 執 筆 中 の 大 沢 氏が 1987( 昭 和 62) 年年 3 月 吉 田 摂 氏 夫 人 洋 子 氏 宛 てに 届 けられた 封 書 に 入れられた 絵 葉葉 書 の カバーである その 折 の 書 簡 には 花 巻 の 賢 治 記 念念 館 そばの 西 洋 料料 理理 店 山 猫 軒 の 売 店 で 購 入した 絵 葉葉 書 を 同 封 しました として 次 の 言 葉葉 もあった 3 月に 入って 上 京 し 神 田の 古 書 店 街 に 行行ってみました 科 学 系 の 古 書 店 を 調 べて 探 し 回 っているうちに 思 いがけず 肉 眼 に 見見え る 星 の 研 究 の 関 東 大 震 災 以 前 の 初 版 本 を 発 見見し 購 入してきました 幸 運 というほかありません その 序 には 私 は 約 5 年年 ほどの 伏 見見 生 活 の 記 念念 として 本 書 を 刊 行行し 得 たことを 何 よりも 嬉 しく 思 ってゐる/ 私 は 8 月 末 なつかしい 此 地 を 暫 く 去 って アメリカへの 旅 に 上 らうとしてゐる--/ 大 正 11 年年 7 月21 日 とあり 初 版 本 の 刊 行行 時 日は 奥 付 にある 大 正 11 年年 8 月
20 日 のことと 思 われます この 日 付 は 宮 沢 賢 治 の 注 文の 多 い 料料 理理 店 という 童 話 集 の 所 収 作 品 の 成 立立 時 期 を 知 る 上 で 重 要 な 鍵 を 握 っているためにこだわってしまっ たのです これからは この 初 版 本 を 頼 りに 天 文 学 も 自 分 なりに 勉 強 して 賢 治 研 究 に 役 立立てようと 思 います 前 頁の 山 猫 軒 は 絵 葉葉 書 の 裏裏 にあるもので 右 は 1 0 枚 入り 絵 葉葉 書 の 内 の1 枚 である 大 沢 正 善 氏の 論論 文は 源 治 郎郎 の 肉 眼 に 見見える 星 の 研 究 の 初 版 本 の 発 見見 購 入をばねにして 前 記 の 通 り 約 3 年年 を 費 やし 1989( 昭 和 64) 年年 12 月の 発 表 となったのである ところで 今 回 は 当 初 この 大 沢 氏の 労 作 を 要 約 して 紹 介 して 置 こうと 考 えていたが そんなことがいま の 私 に 出 来 る 筈 もないことである 恐 らくこの 本 格 的 な 論論 稿 に 対 しては 既 にいくつかの 論論 評 など 出 てい る 筈 であり この 主 題 に 関 連 する 今 日の 研 究 状 況 については 改 めて 学 んでいく 必 要 がある それでここでは 大 沢 氏の 論論 文の 最 初 に 触 れられている 草 下 英 明 宮 澤 賢 治 と 星 ( 宮 澤 賢 治 研 究 叢 書 1 学 芸 書 林林 1975 年年 )の 賢 治 の 読 んだ 天 文 書 の 項 を 全 文 取 り 出 して 置 き 最 後 に 大 沢 論論 文の 一 部 のみを 素 人のコメントを 加 えず 資 料料 として 紹 介 することにする 草 下 (くさか) 英 明 宮 澤 賢 治 と 星 の 賢 治 の 読 んだ 天 文 書 より 草 下 英 明 (1924 ~1991)は NHK の 科 学 番 組 で 星 のおじさん として 親 しまれ 星 の 百 科 星 の 文 学 美 術 などの 多 くの 著 作 や H A レイ 星 座 を 見見つけよう などの 翻 訳 書 を 残 している 草 下 は 宮 澤 賢 治 と 星 を 自 費 出 版 として1953( 昭 和 28) 年年 に 甲 文 社 で 出 版 した これを 一 部 推 敲 を 加 えたものを 今 回 収 める 宮 澤 賢 治 研 究 叢 書 1 として 学 芸 書 林林 より 1975( 昭 和 50) 年年 に 出 しているのである この 作 品 はさらに1989( 平 成 1) 年年 新 装 版 として 同 書 林林 より 刊 行行されたらし い なお 本 叢 書 の あとがき には 甲 文 社 版 は 自 費 出 版 で 刊 行行 元 も 有 名 無 実 である と 書 かれてい る 下 の 写 真 はその 甲 文 社 版 であるが 表 紙 の 題 字 は 宮 澤 清 六六 氏にお 願 いして 賢 治 の 書 体 をなぞ ってもらって 印 刷 したものだそうである ともあれ 草 下 の 労 作 は 一 定 の 話 題 を 生んだのであろう
大 沢 正 善 論論 文は 宮 澤 賢 治 の 作 品 展 開 と 重 ねて 源 治 郎郎 の 作 品 との 関 連 を 精 緻 に 論論 証 した 重 要 論論 文であ る この 場 での 部 分 的 紹 介 はやはり 困 難 である 従 って ここには 冒 頭 の 頁と 注 記 を 含 む 末 尾 のみを 収 め させて 戴 く
(2010 年年 6 月23 日 記 す 鳥 飼 慶 陽 )(2014 年年 7 月 1 日 補 正 )
KAGAWA GALAXY 吉 田 源 治 郎郎 幸 の 世 界 (24) 第 24 回 肉 眼 に 見見える 星 の 研 究 (4) 源 治 郎郎 の 肉 眼 に 見見える 星 の 研 究 の 大 正 11 年年 の 初 版 本 にある 序 は 既 に 紹 介 済 みであるが あの 中 に 賀 川 豊 彦 の 次 の 詩 が 引 用されていた 星 さえあれば/ 友 達 はある//さようなら 地 球 /さようなら!/ 黒 土の 自 由 は/もう 我 要 らぬ/ 北北 天 の 空 / 我 は 飛 ぶ// 星 さえあれば/ 地 球 は 要 らぬ/ 今 宵 一 夜 は/ 星 に 寝 ん そこには 詩 のタイトルも 引 用 元 も 記 されていなかったが この 作 品 は 大 正 8 年年 11 月に 福 永 書 店 より 出 版 された 賀 川 の 処 女女 詩 集 貧 民 窟 詩 集 涙 の 二 等 分 にあるもので 星 さえあれば と 題 された 作 品 (6 9 頁 ~74 頁)の 部 分 引 用である この 詩 集 には 賀 川 とは10 歳 年年 上 で 当 時 既 に 歌 人として 名 を 馳 せ ていた 与 謝 野 晶 子が 26 頁にわたって 論論 評 した 序 を 巻 頭 に 寄 せたことでも 注 目された 因 みに 涙 の 二 等 分 にある 星 さえあれば の 原 詩 は 次 のようになっている ( 部 分 引 用ということでは 詩 集 の 書 名 ともなっている 冒 頭 の 有 名 な 作 品 涙 の 二 等 分 (1 頁 ~12 頁)は 長 詩 とはいえ 引 用される 場 合 は 殆 ど 部 分 引 用であって 原 詩 を 眼 にすることは 殆 ど 無 い )
賀 川 豊 彦 星 より 星 への 通 路路 ( 大 正 11 年年 ) 大 正 11 年年 8 月 肉 眼 に 見見える 星 の 研 究 が 警 醒 社 書 店 より 出 る3ヶ 月 前 賀 川 の 散 文 詩 感 想 対 話 短 編 喜 劇 を 集 めた 星 より 星 への 通 路路 という 作 品 が 改 造 社 から 出 版 されている 今 回 最 初 に 掲 げた 写 真 は この 本 の 初 めに 入れられたもので 賀 川 はそこに 私 の13 年年 間 の 住 居 と 説 明 を 加 えている この 時 はまだ 長 男 純 基 の 誕 生する 前 である 何 が 干されているのかよく 判 らないが 長 屋 の 軒 下 が 物 干 し 場 である 賀 川 や 近 所 の 子 供 たちが この 家 の 前 で 写 された 写 真 はよく 知 られているが 賀 川 の 住 居 だけを 撮 ったも のは 余 り 見見 当 たらない 三 浦 清 一 編 賀 川 豊 彦 随 筆 集 の 草 稿 発 見見 この 春 オープンした 賀 川 ミュージアム では 神 戸の 賀 川 記 念念 館 で 所 蔵 されている 関 係 資 料料 の 整 理理 が 少 しずつ 進 められているが 先 日 下 にあるような 題 名 の 書 かれた400 字 原 稿 用 紙 400 枚 余 りの 古 い 草 稿 が 出 てきて 我 が 家 に 持 参 いただいた
この 作 品 は 敗 戦 間 もない1946 年年 2 月に 神 戸 愛 隣隣 館 の 館 長をし ていた 三 浦 清 一 牧 師 の 手によって 編 まれた 貴 重 なものである 草 稿 の 巻 末 には 賀 川 豊 彦 氏と 隋 筆 と 付 けられた 三 浦 氏の19 枚 の 解 説 がある 大 正 初 年年 ごろからこ 敗 戦 の 時 までの 数 多 くの 賀 川 の 小 品 を 集 め 独 自に6 章 構 成 にして 完 成 されている なぜこの 草 稿 が 眠 ったままになったのか その 理理 由 は 判 らないが 神 戸の 賀 川 ミュージアムでこれの 取 り 扱 い 方について 検 討 が 始 まること であろう 三 浦 氏が 戦 後 間 もなくこの 編 纂 を 手がけ 1946( 昭 和 21) 年年 早 々に 完 成 させたこの 作 業 は 一 部 は 印 刷 物 から 切切 り 取 り 原 稿 用 紙 に 貼 り 付 けてあるが 多 くは 三 浦 自 身の 手で 丁 寧 に 根 気 よく 原 稿 用 紙 に 書 き 写 されたものである これには 賀 川 の 著 書 の 序 文も 多 く 集 められている 常 々 賀 川 の 作 品 の 序 文だけを 編 集 し 適 切切 なコメン トを 入れて 作 品 に 仕 上 げることも 面 白いかな 等 と 考 えていたこともあり 三 浦 のこの 労 作 には 個 人 的 には 心 惹 かれるものがある かつて 賀 川 の 随 筆 類 は 作 家 の 鑓 田 研 一 氏によって 編 集 され 第 一 書 房 より 人 生 読 本 ( 昭 和 11 年年 )や 宗 教 読 本 ( 昭 和 12 年年 )として 刊 行行され 好 評 を 博 したことがあるが 詩 人でもあった 三 浦 清 一 氏による この 草 稿 は 敗 戦 までのものとはいえ 重 要 な 編 纂 作 業 であることには 間 違 いない 21 世 紀 の 今 三 浦 氏の 労 作 を 活 かして 新 しく 賀 川 の 膨 大な 作 品 の 中 から 精 選 した 賀 川 豊 彦 随 筆 集 を 編 算 するのも 大いに 意 義 深 いものと 思 われるがどうであろう ( 補 記 上 記 の 随 筆 集 はいま 神 戸の 賀 川 記 念念 館 の HP において 全 文テキスト 化 されて 公 開 されていま す 記 念念 館 の 語 り 部 の 方によって 丁 寧 な 労 作 によるものです ありがたいことです ) 散 文 詩 星 より 星 への 通 路路 ( 改 造 大 正 10 年年 9 月 号 ) ところでこの 三 浦 清 一の 草 稿 には 全 頁に 正 確 なノンブルが 入れられているが 何 故 か54 頁から65 頁 までが 欠けている 目 次 を 見見ると その 欠けている 所 は 星 より 星 への 通 路路 の 序 を 収 める 積 りで あったことが 判 る
確 かにその 序 も 面 白いのであるが いま 源 治 郎郎 の 肉 眼 に 見見える 星 の 研 究 をめぐって 思 い 巡 らして いる 私 には 賀 川 の 星 より 星 への 通 路路 という 書 名 と 共 に その 第 一 篇 のタイトルも 星 より 星 への 通 路路 ( 散 文 詩 ) と 名 付 けられ しかもその 最 初 が 1921 8 15 の 日 付 のある 星 より 星 への 通 路路 であることに 注 目させられるのである 先 の 第 19 回 で 取 上 げたように 1921 8 15 ということは 神 戸 大 争 議 で 賀 川 ら 幹 部 が 検 束 され( 大 正 10 年年 7 月29 日) 神 戸 監 獄 橘 分 監 に 収 監 (7 月31 日) 釈 放 されたのは8 月10 日で そ の 翌 日あの 写 真 は 撮 影 されていたところまでが 明 らかになっていた そうすると 賀 川 がこの 星 より 星 への 通 路路 を 執 筆 した 8 15 は 釈 放 後 5 日 目のものであるこ とが 判 る こうした 経 過 を 念念 頭 にして 賀 川 のこの 作 品 を 読 めば 彼 はこのとき 既 に 源 治 郎郎 の 肉 眼 に 見見える 星 の 研 究 を 手にしていたか 校 正 段 階 のものを 読 んでいたであろうことは 充 分 想 像 のつくことである それで 今 回 は 少 しまた 横 道 にそれるけ れど 三 浦 草 稿 を 機 縁 にして 賀 川 の 散 文 詩 である 星 より 星 への 通 路路 を 原 著 よりここに 取 り 出 して ご 一 緒 に 読 んで 見見たいと 思 う
山 田 典 吾 監 督 の 映 画 死 線 を 越 えて におけるこの 場 面にも この 星 より 星 への 通 路路 に 書 かれた 奴 隷隸 の 国 より 自 由 の 国 へ 圧 制 の 国 より 解 放 の 国 へ 暗 黒の 国 より 光 明 の 国 へ-- 駆 け 出 す 日であった の 箇 所 が 採 られていたことは ご 記 憶 の 方もあるであろ う そして ここにある 雲 の 柱 は このあと 直 ぐ 創 刊 となる 機 関 誌 の 題 名 となり 火の 柱 も 大 正 15 年年 1 月 創 刊 の 誌 名 となった なお 星 より 星 への 通 路路 の 初 出 は 大 正 10 年年 9 月 1 日の 雑 誌 改 造 第 3 巻 9 号 のようである
雲 の 柱 ( 大 正 13 年年 2 月 号 )の 長 屋 の 南 京 虫 その 後 賀 川 は 大 正 13 年年 1 月の 雲 の 柱 の 長 屋 の 南 京 虫 の 欄 において 大 正 12 年年 12 月の 出 来 事 として 次 のように 書 き 残 しているので それもここに 取 り 出 して 置 く 昨 夜 も 一 昨 日の 晩 も 吉 田 源 治 郎郎 君 の 書 いた 肉 眼 で 見見る 星 の 研 究 を 手に 持 って 冬 の 星 座 を 青 年年 達 と 一 緒 に 研 究 しました 星 が 花 のやうに 天 に 咲 いて 居 ると 私 は 一 人で 昨 夜 も 云 うたことでした 青 白い 色を 投 げるシリウス その 右 に 見見えるオリオンの 帯 や 刀が 昔 も 今 も 同 じところに 光 っています 真 上 に 見見える カペラや 牡 牛も 幾 億 万 年年 同 じ 所 に 座 って 人 間 の 地 上 生 活 を 嘲 っているようです 吉 田 君 の 本 は 面 白くて 上 手に 書 けているのが 有 難 く 思 われます 古 今 の 大 天 文 学 者 ハアシルは 天 を 覗 いて 神 を 否 定 するものは 大 馬 鹿鹿 者 だと 申 しましたが みなさんも 神 を 否 定 しない 為 に 天 を 覗 いて 下 さい (2010 年年 6 月28 日 記 す 鳥 飼 慶 陽 )(2014 年年 7 月 2 日 補 正 )