山内首藤氏 横山忠弘.indd

Similar documents
★リーダーの学習指導案(26道場・小社3班)(西山 智)

( 支 給 制 限 ) 第 4 条 市 長 は 前 条 の 規 定 にかかわらず 給 対 象 者 が 次 の 各 号 のいずれかに 該 当 するとき は 給 金 を 支 給 しないものとする (1) 年 額 405,696 円 以 上 の 公 的 年 金 等 を 受 給 しているとき (2) 生 活

中学受験対策社会一菜センセのサブノート日本の歴史 45 鎌倉時代 ( その 2) 平家の滅亡と鎌倉幕府の成立 2 2 源 ( 木曽 ) 義仲の最期と平家の滅亡 ( シ ) が西国で平氏との戦いに苦戦している間に ( オ ) は ( ク ) と交渉し 東海道 東山道 ( 北陸を除く 近畿より東の諸国の

平成 30 年度宮城県公立高等学校入学者選抜 前期選抜 学校独自検査小論文 ( 資料読み取り型 ) 出題のねらい宮城県泉館山高等学校 小論文 ( 資料読み取り型 ) 理科 と 社会 の分野を中心とする内容を題材として, 中学校段階で身につけておくべき基礎学力の定着, 図表等の資料を読み取って思考する

08-大嶋.indd


第 3 講 12 世紀から 16 世紀へ : 遠くの身内より近くの他人 - どう違うの? 守護 守護大名 戦国大名 -(1996 年度第 2 問 ) 次の (1)~(6) の文を読んで下記の設問に答えよ (1) 1346 年 室町幕府は山賊や海賊 所領争いにおける実力行使などの暴力行為を守 護に取り

イマジン_表1表4


5 指導計画(7時間扱い)

ごあいさつ

小学校社会科における地理的条件をふまえた歴史授業の展開 ISM 構造学習法を活用した協働学習の教材開発 * ** 坂間俊夫 波多野和彦 山路 ** 進 要旨 歴史学習を特に 世界史 の学習に不可欠である地理学習を小学生のうちから習慣付くように 歴史と地理の関連を学習する授業展開を開発した キーワード

zz_秋_a_和s01-16_原稿

PowerPoint プレゼンテーション

象への関態度(3) 指導観因果関係を問う発問を設定し, 仮説 - 検証の過程を通して 説明的知識や概念的知識を獲得していく学習として単元を構成した 様々な資料を目的に応じて活用し 効果的に読み解く子どもの育成を目指したい 資料から自分の考えをまとめる 班活動により深めていく 初めの段階で自分の考えを

統 計 表 1 措 置 入 院 患 者 数 医 療 保 護 入 院 届 出 数, 年 次 別 措 置 入 院 患 者 数 ( 人 ) ( 各 年 ( 度 ) 末 現 在 ) 統 計 表 2 措 置 入 院 患 者 数 ( 人 口 10 万 対 ) ( 各 年 ( 度 ) 末 現 在 ) 主 な 生

表紙サンプル

防府市知的障害者生活協力員紹介事業実施要綱


<4D F736F F D DB8CAF88E397C38B408AD6816A2E646F63>

県人会報1月号

Microsoft Word - 概況(確定版).doc

”÷Š¢‹À‡¾‡æ‡èVol,33_up7



Microsoft Word - 12 職員退職手当規程_H 改正_

untitled

kisso-VOL60

<4D F736F F D2095BD90AC E ED957D977B8ED28E918A6982C982C282A282C42E646F63>

ていった 応仁の乱で守護大名が京都を主戦場として戦っている間に, 地方では守護代や国人らが力を伸長させ, 乱の収束後も争いは地方に展開していった そのため, 上下の秩序も乱れ権力の交代も一般的となった 問 1.A~Eの文中の空欄に入る適切な語を下記の1~ 10から選び番号で答えなさい ただし, 同一

家 簿 記 入 者 就 業 者 別 集 結 果 ( 別 紙 1 小 参 照 ) A 夫 婦 のみの 世 帯 ( 片 働 き) では 妻 が 家 簿 記 入 者 で 夫 が 就 業 している 世 帯 が 最 も 多 く 197 世 帯 (98.5%)であった B 夫 婦 のみの 世 帯 ( 共 働 き

    平成11年度余市町私立幼稚園就園奨励費補助金交付要綱

2018 年度 2 月 1 日午前入試 ( 第 1 回 ) 社 会 注意 1 開始の チャイム が鳴るまで中を見てはいけません 2 答えはすべて解答用紙の解答らんに, はっきり書きなさい 3 特別な指示のない限り, 漢字で書くべきところは漢字で答えなさい 4 終わりの チャイム が鳴ったら, とちゅ

こすもす6号表紙new



Taro13-中世001-中世社会の土地制

平成20年度 みどり市幼稚園就園奨励費補助金について

種 類 控 除 額 小 規 模 企 業 共 済 等 掛 金 控 除 生 命 保 険 料 控 除 地 震 保 険 料 控 除 支 払 った 小 規 模 共 済 心 身 障 害 者 扶 養 共 済 の 掛 金 の 金 額 生 命 保 険 料 控 除 額 = 一 般 生 命 保 険 料 控 除 額 + 個

2

ピタリ7号_表紙.eps

同窓会報22jpg.indd

PDF用CS同窓会報24.indd

解いてみましょう ( 第 3 講 )A について 1 問われている ( 求められている ) ことを確認する ア イ について書く の関係に与えた影響について書く ウ の関係に与えた影響について書く エ に触れながら書く オ 3 行 (90 字 ) 以内で書く 2 資料の内容と教科書 ( プリント )

Microsoft Word - 博論015序章 改C12~17◆.docx

役員退職金支給規程

国民年金

四 わ か っ た こ と ( 一 ) 志 筑 城 の 歴 史 志 筑 か ら 恋 瀬 川 と 筑 波 山 が 見 え る 景 色 は と て も 美 し く 昔 か ら た く さ ん の 歌 人 が そ の 景 色 や 様 子 を 歌 に し ま し た こ の 歌 を 鑑 賞 し た 多 く

< E9197BF A959A8CA98AEE91628E9197BF>

18中社指導書付15-28pdf用.indd

36 東 京 私 桜 美 林 大 学 大 学 院 心 理 学 研 究 科 37 東 京 私 大 妻 女 子 大 学 大 学 院 人 間 文 化 研 究 科 38 東 京 私 学 習 院 大 学 大 学 院 人 文 科 学 研 究 科 39 東 京 私 国 際 医 療 福 祉 大 学 大 学 院 医

Microsoft Word - 平成28年度 こどもの国学童保育室入室申請要領

中 央 公 民 館 ( 所 在 地 日 野 本 町 ) 実 習 室 ホール 談 話 室 講 座 室 A 講 座 室 B 視 聴 覚 室 調 理 実 習 室 小 会 議 室 保 育 室 24 人 50.2m2 20 人 66.0m2 16 人 45.6m2 36 人 51

西暦 世紀 年号 ( 元号 ) 時代区分 歴史の流れと主な人物, 文化財 6 チェックシート❶,❷ 8 聖徳太子の政治 6 飛鳥文化 8 大化の改新 8 律令国家への歩み 0 チェックシート❾, 基礎確認問題 実力アップ問題 人類の登場と生活 0 古代文明と宗教のおこり 古代中国の様子 チェックシー

四 勤 続 20 年 を 超 え30 年 までの 期 間 については 勤 続 1 年 につき100 分 の200 五 勤 続 30 年 を 超 える 期 間 については 勤 続 1 年 につき100 分 の100 2 基 礎 調 整 額 は 職 員 が 退 職 し 解 雇 され 又 は 死 亡 した

<4D F736F F D2091E F18CB48D C481698E7B90DD8F9590AC89DB816A2E646F63>



< F2D30362D955C8E C8E86816A2E6A7464>

1 口 速 報 集 計 について 県 において 国 に 提 出 した 調 査 書 をもとに 速 報 値 として 集 計 したものである したがって 国 における 審 査 の 結 果 次 第 では 国 がこの2 月 に 公 表 する 予 定 の 口 速 報 集 計 値 と 一 致 しないことがある ま

9 建 久 三 年 (1192) 頼 朝 鎌 倉 に 幕 府 を 開 く その4 1 建 久 五 年 宇 都 宮 信 房 豊 前 に 下 る 2 建 久 七 年 仲 原 親 能 豊 後 の 守 護 となる 3 建 永 元 年 (1206) 大 友 能 直 ( 大 友 氏 初 代 ) 豊 後 守 護

Microsoft Word - T2-09-1_紙上Live_独自給付_①_12分_

の体 面 が あ り 贈答 品やそ の 他 に 出費 も多 い 屋敷 で は乗 馬 を飼育 し そ の飼料 もかか る のだ 千 二 百石 の早 乙女主水之介 の生活 は決 して 楽ではなか っただ ろ う 旗本屋敷 の 大き さは? 早 乙女 主 水之介 の屋敷 は 本所長割下水 にあった とい

P01-PDF.indd

大きくは ば た け 小山の新成人 1月10日 市内11中学校を会場に 約1,230人の新成人を祝う式典が開催されました 新たな門出を祝うとともに 大人としての 誇りと責任 を持って歩んで行くことを誓 い合いました 新成人が生まれたころの出来事 小山市では 人口が15万人となる 平成8年1月1日現在

らの 内 容 について 規 定 することとしております 今 回 お 示 しする 整 理 は 現 時 点 の 案 ですので あらかじめご 承 知 おき 下 さい 同 令 等 の 改 正 規 定 が 確 定 し 次 第 改 めてご 連 絡 をさせていただきます 記 1 軽 減 措 置 の 具 体 的 な

人生の暗号と運命

187 家 族 249 家 族 がすべて 315 自 分 の 健 康 家 族 の 健 康 188 平 和 安 定 した 生 活 250 自 分 にかかわる 人 達 316 仕 事 お 金 友 人 189 家 族 251 友 人 両 親 317 家 族 190 自 分 と 家 族 の 命 と 幸 福

<82A082AB82BD82A982BD E696E6464>


5 満 60 歳 以 上 の 祖 父 母 二 親 等 の 直 系 血 族 である 実 父 母 の 実 父 母 若 しくは 養 父 母 又 は 養 父 母 の 実 父 母 若 しくは 養 父 母 をいう 6 満 22 歳 に 達 する 日 以 後 の 最 初 の3 月 31 日 までの 間 にある 弟

児童扶養手当(大阪府)

Taro-入札公告官報掲載(あきた清

( 関 西 大 学 経 済 論 集 j 第 28 巻 1~4 合 併 号 所 収 ) 同 近 世

特集 2 アクティブ ラーニング授業実践例 室町時代の守護制度について 鎌倉時代との違い 開智高等学校 ( 中高一貫部 ) 教諭 伏木陽介 地域諸史料の活用と歴史資料集 学習指導要領 第 4 節日本史 B,2 (2) 中世の日本と東アジア においては, 歴史資料を含む諸資料を活用して, 歴史的事象の

年 間 収 入 が 130 万 円 未 満 (60 歳 以 上 75 歳 未 満 の 人 や 一 定 障 害 者 の 場 合 は 180 万 円 未 満 )であって かつ 被 保 険 者 の 年 間 収 入 の 2 分 の 1 未 満 である 場 合 は 被 扶 養 者 となります ( 同 居 の

<8CA48B F18D B967B97702E4D4449>

<4D F736F F D208D9196AF8C928D4E95DB8CAF81458D9196AF944E8BE031332D31372E646F63>

240709

indd

12 大 都 市 の 人 口 と 従 業 者 数 12 大 都 市 は 全 国 の 人 口 の 約 2 割 従 業 者 数 の 約 3 割 を 占 める 12 大 都 市 の 事 業 所 数 従 業 者 数 及 び 人 口 は 表 1 のとおりです これらの 12 大 都 市 を 合 わせると 全

JBBF_Judge_Archives.xls

役員退職手当規程

全 日 制 普 通 科 2 減 期 越 谷 北 普 通 科 共 360 (3) 越 谷 西 普 通 科 共 320 (2) 越 谷 東 普 通 科 共 280 (2)




_本文2.indd

Pick up

(2) 勤 続 5 年 を 超 え 10 年 までの 期 間 については 勤 続 期 間 1 年 につき 本 俸 月 額 の100 分 の140 (3) 勤 続 10 年 を 超 え 20 年 までの 期 間 については 勤 続 期 間 1 年 につき 本 俸 月 額 の100 分 の180 (4)

2_02_kitei2.ppt

資料2 年金制度等について(山下委員提出資料)

須 磨 区 ( 神 戸 水 上 警 察 の 管 轄 区 域 を 除 く 区 域 ) 兵 庫 県 垂 水 警 察 神 戸 市 垂 水 区 神 戸 市 のうち 垂 水 区 ( 神 戸 水 上 警 察 の 管 轄 区 域 を 除 く 区 域 ) 兵 庫 県 神 戸 水 上 警 神 戸 市 中 央 区 水

Taro12-a 紹介 富山(更新).jtd

被扶養者あり+前納なし

目  次

<4D F736F F D CC E82CC8E9E89BF955D89BF82CC8AEE8F E20322E32202E646F63>

<4D F736F F D D B696BD955C82A982E782DD82E98AE28EE88CA782C68CA793E08E7392AC91BA82CC95BD8BCF8EF596BD>

表 1 は, 摂 津 池 田 の 6 月 下 旬 ~9 月 中 旬 の 天 ~9 月

図表 1. 調査対象と標本数 1 次調査回答者 調査対象全国 20 歳から 79 歳までの日本人 総務省 人口推計 を元に 地域別年代別に標本数を割り付けた レポート1 ~1 次調査結果より国内市場における歴史文化観光の需要構造 2 次調査回答者 (1,901 人 ) 2 次調査スクリーニング条件中

Transcription:

第 305 回平成 27 年 12 月月例会 1 山内首藤氏と宍戸氏の軌跡 頼朝没後八百年によせて 横山忠弘 一 母の生家と太平洋戦争私の母方の祖父は 明治元年に生まれ 米寿をおえて亡くなったが 墓石には 近衛師団兵であったことが刻まれている 江戸時代初期に帰農した東国武士十二代の末裔としての近衛師団兵であったことが誇りだったのである 武士は 古くは奈良時代の六衛府の武官に発祥するという それが平安時代に入ると朝廷や摂関貴人の邸の宿直警固の役割を担うようになる 時代が下がるに従い地方に土着した庶流貴族の末裔がその地方の治安維持と年貢の徴収の役割を果たす傍ら 交代で京都中央貴族の警固に当るようになる 明治になって当初 天皇の護衛は 近衛兵として薩長土三藩の精鋭で組織されたが 明治六年の徴兵令施行以降は 成績優秀で身元が保証されている通常の現役兵に代替されていった 祖父が近衛師団に入隊したのは明治二十年前後であろうから 現役兵として選抜されたことで 遠い先祖の東国武士の血が滾ったに違いない 母の生家 ( 現広島県庄原市 ) での私の最初の朧な記憶は 祖父母中心に一族郎党数十人が集い 幟旗を立てて 叔父の出征を祝ったことである 私が四歳の時というから 昭和十三年 冬の寒い日であった 叔父は その時は満州の部隊に入隊したが その後除隊になり 太平洋戦争が勃発して間もなくの頃再び召集された その時の出征には賑々しい見送りもなく 広島師団がある広島市の郊外の山村の母の嫁ぎ先 ( 現広島市安佐北区 ) に立寄り 深夜まで母と談笑していた 母と叔父は 八人兄弟の中で下から三番目と末っ子で年齢的にも近く 仲か良かったのであろう 叔父の戦死の公報が入ったのは戦争が終わってからである 戦局も相当悪化しての沖縄戦に参戦したのであった 私にとって二度目の母の生家への訪れは 原爆の閃光と原子雲を脳裏に刻み込んで迎えた終戦の翌年の昭和二十一年の夏休み 母に連れられてであった 当時のこと 芸備線庄原駅から一里半の道を歩いて 萱葺きの母の生家が見渡せる峠まで来た時 自ずと母の足は速まるのであった 戦時中子育てに忙しく 母にとっても八年振りの生家訪問であった そして 門先まで出迎えていた祖母が母を見るなり 息子が今日も帰って来ない と 母に取り縋って泣くのであった もう終戦から一年も経っているというのに この祖母も祖父と合前後して亡くなったが死ぬまで 岸壁の母 の心境であったに違いない しかし あの頃の我国では到る所であのような情景が繰り広げられていて決して珍しくはなかった 叔父は 末っ子とは云え 古武士然たる祖父とこれも旧家の出である祖母に育てられたので 私たち戦中の教育を受けた当時の少年の誰もが憧れた理想の軍人像として 私には映っている 叔父が二度日の出征の際に伯父に託したという貴重品の中に長年懸って貯めたであろう 封筒に入った一握の切り爪を その時私は見たが 叔父にとっては覚悟の出征だったのだと思われて 粛然たる気持ちに

なった あの時から三十五年が過ぎた昭和五十六年 私の長男が大学に入学した年に両親を東京見物させたが 靖国神社の広い境内を歩いている時 母と中々歩調が合わないので 後を振返ると母が手放しで泣いているではないか 一瞬 戦後の祖母の姿と母が二重写しになった その少し前 母が郷里の旅行団に加わり沖縄を旅行した時 叔父の戦跡を回って哀れでならなかったことが ここ靖国神社に来て再び噴出したのだという その時から十年くらい経った平成四年の秋 今度は私が沖縄に一泊二日の社内慰安旅行をした 平成七年には 終戦五十周年を記念して 平和の礎 が建立され 大理石の墓石に二十三万四千余柱が刻銘されているという 何時の日か沖縄を再訪して 墓石に叔父の名前を確認したいと思っている 二 毋の生家のルーツを探る 私は 私自身のルーツを無性に知りたくなり 帰郷の度に本家 や分家の墓碑やお寺の過去帳を調べた一時期があった 丁度その頃 母方の従兄から彼の編著になる小冊子 堀江家のルーツ と 毛利元就座備図 その他の資料が送られてきた 小冊子の末尾には 終戦の翌年母に連れられ訪れた時 従兄弟が私を土蔵に連れて行き 鎧櫃から鎧兜を取り出して 先祖伝来のものだといって見せて貰ったあの鎧兜を傍らに置き その時には見えなかった刀を持った従兄が玄関前で納まっている写真が載っているではないか そして 祖父方の堀江家は山内首藤氏 祖母方の中村家は宍戸氏へと夫々東国武士に繋がるという そして その数年後の平成九年にNHK 大河ドラマ 毛利元就 が始まる その年私は 東国武士の西遷と毛利家臣団の形成 と題して拙い研究発表をさせて頂いたが 今年五月九日には 頼朝没後八百年に因んで 続編 関東武士 山内首藤氏 八田 ( 宍戸 ) 氏 熊谷氏の軌跡 を発表させて頂いた 奇しくも 山内首藤氏 宍戸氏共 頼朝の乳母 乳母夫 乳母子等に関係が深く しかも彼等は東国武士の原点と云っていい この辺りに先ずスポットを当てて東国における彼等の動向を追って見ることにする 三 源頼朝の乳母達とそれを取巻く人達 中世における乳母の存在は重くて大きい 乳母は 若君の養育に専念するのは勿論であるか 乳母の夫 ( 乳母夫 ) や子供 ( 乳母子 ) も 一家挙げて若君に奉仕し 成人の暁には側近として影響力を持とうとする 頼朝には 少なくとも四人の乳母がいた その乳母達のグループが果たした歴史的役割とその後の歴史展開を見てみたい (1) 比企尼 ( 比企遠宗の妻 ) 比企遠宗は武蔵国比企郡の郡司であったが 妻が頼朝の乳母であったため京都にいた 頼朝が伊豆に配流されると自領に戻り 毎月一度頼朝に食料を送る等の援助をする 三人の娘は 安達盛長 河越重頼 平賀義信に嫁し 鎌倉幕府の消長に多大の影響があった (2) 山内尼 ( 山内首藤俊通の妻 経俊の母 ) 山内首藤俊通祖父藤原資通が十三才にして 後三年の役に源義家に従って以来の源氏家臣の家筋で 俊通は子の俊綱と共に保元の乱 平治の乱に出陣 平治の乱では平清盛の作戦の前に源義朝は敗走 俊通父子は四条河原で戦死 山内首藤経俊俊通三男 平治の乱には病気のため参戦せず 父 兄の戦死のため家督を継ぐ 平家の隆盛中は山内荘に穏遁していた 頼朝挙兵の際 頼朝使者の安達盛長に嘲笑を浴びせ 大庭景親に従って石橋山の合戦で頼朝の鎧袖に一箭を射る その罪で山内荘は

没収 斬罪に処せられるところ 頼朝の乳母だった母 ( 俊通妻 ) が先祖たちの功を挙げ哀訴し許され る その後は伊勢 伊賀国の守護となり平家残党一掃に当たる その子重俊の後裔が備後国地毘荘の 地頭となる (3) 寒河尼 ( 網戸尼 ) 宇都宮宗綱の女 八田知家は弟 ( 一説に義朝の十男 後述 ) 小山政光の妻 政光はその子朝政 ( 長沼 ) 宗政 ( 結城 ) 朝光と共に頼朝の招請に応じた その主役は寒河尼と思われる 八年後 武家の妻としては珍しく下野国寒河郡並びに網戸郷の地頭職に補任さる 安貞二年 (1228) 没 九十一歳 頼朝誕生の時は二十一歳 その後も宇都宮 田氏 小山 長沼 結城氏共々鎌倉幕府で重きをなす 八田知家下野国の雄族宇都宮氏の一族で父は宗綱 兄に朝綱 姉に寒河尼 頼朝挙兵以来戦功あり 下野国地頭職を安堵さる 志田先生源義廣を攻略 平家追討戦では 源範頼 義経に従って転戦したが頼朝の推挙を経ないで任官したので不興を被る 奥州遠征には東海道軍の大将を務め 北陸道管領の命も受ける 頼朝没後は宿老として 幕府合議に参画し 承久の乱では執権義時と共に鎌倉にとどまり 後方指揮にあたる (4) 某女 ( 三善康信の伯母 ) 三善康信は 頼朝の配所に月に三度京都の情勢を報告 元暦元年 (1184) 頼朝の求めで鎌倉に下向し 初代門注所執事となる 代々子孫がその職を世襲 四 宍戸氏の先祖 源義朝の末子 ( 十男 ) 知家の母は宇都宮朝綱の娘で 義朝の妾人となり 八田局と号した 義朝没落の時 局は懐に抱いて外祖父八田宗綱のもとに走った 宗綱密かにこれを育て 本姓を偽って八田四郎知家と名乗らせた 治承四年 (1180) 兄頼朝伊豆に起ると 頼朝の補佐になって大いに軍功を立て右馬頭に任ぜられ 従五位下に叙せられた 頼朝奥州を征伐する時その先鋒となり 大功を立てた 正治元年 (1199) 頼朝死すや北条時政 大江広元等と共に将軍頼家を輔け 政務を執ったが 後剃髪して専念と称した 知家に八男ありその四男家政 常陸国宍戸の庄を領してここに住い その名を以って姓とし 州浜の紋を用いた この紋は 源氏の始祖六孫王経基の六の文字を模り 略して州浜としたものである 家政の長子家周 その子家宗 その子家時 その子知時代々宍戸荘に住み繁栄した 源義朝 ( 八田 ) 知家 ( 宍戸 ) 家政 家周 家宗 家時 知時 1 朝家 2 基家 3 家秀 4 持朝 5 興家 ( 以上先の宍戸氏と称す ) 6 元家 ( これ以降後の宍戸氏と称す ) 7 元源 元家 8 隆家 元秀 9 元続 広嗣 就尚ー就附 就延 広隆 広周 就年 親朝 元礼 親基 徳裕 肇 ( 以上広島県高田郡甲田町史から要約 ) 五 堀江家のルーツ 資 ( 助 ) 通次男助基 三河国堀江谷に誕生し 堀江の祖となる 七代堀江 俊範は 嫡流 山内首藤重俊の従士となる 十一代堀江通幸は 6 山内首藤通綱 7 山内首藤通払具に従い 相州から備後国蔀山城 ( 現広島県比婆郡高野町 ) に移る 十五代堀江行元は 7 山内首藤通資に従い甲山城 ( 現庄原市本郷町 ) に移り 9 山内首藤通継まで仕える 二十代堀江通範は 15 山内首藤直通に仕え 雲州三沢城の尼子攻めに軍功あり 二十一代堀江通衷 その弟通方は17 山内首藤隆通 19 山内首藤広通に仕え 雲州三沢城援軍山内三十九人の義烈に加わり 功多し 毛利氏が郡山城

から広島城に移った時 山内首藤氏はそれに従ったが 堀江氏は 山内首藤氏領有地内に残り 関ケ原合戦後の毛利氏長州国替により 帰農する ( 下記の山内首藤氏系図参照 )( 以上 堀江家のルーツ 編著者堀江芳邦から要約する ) 山内首藤氏系図 ( 群書系図部集第四 )( 北家 ) 房前 ( 五代略 ) 忠平 師尹 済時 為任 師通 通家 資清 資通 通清 通義 ( 山内首藤 ) 俊通 2 経俊 3 重俊 4 宗俊 5 時通 6 通綱 7 通資 8 通時 9 通継 10 通忠 11 煕通 12 時通 13 泰通 14 豊成 15 直通 16 豊通 17 隆通 18 元通 19 広通 20 元資 21就通 22広直 23広通 24広義 25就資 26房通 六 東国武士の西遷先に 頼朝の乳母たちのグループの中で 主として山内首藤氏と八田 ( 宍戸 ) 氏について 鎌倉を中心とした活躍振りと一部西遷について触れたが ここで東国武士の西遷 ( 安芸国と備後国 = 広島県 ) の全体的な動きを見ることにする 平氏を滅ぼした源頼朝は 文治元年 (1185) 平氏の残党や弟義経追補を口実に諸国に守護 荘園に地頭を置く勅許を得て 国内の統一に乗り出した 守護は国内の治安の維持や御家人の統率に当たり 地頭は荘園の管理や年貢の徴収に当たった その時の安芸国の守護は明らかではないが 備後国は土肥実平が任命されている また その時配置された地頭は本補地頭といわれ 鎌倉初期に安芸国と備後国に任じられた主な地頭は次の通りである は本貫地沼田小早川 ( 土肥 ) 氏 相模国土肥郷 沼田郡沼田荘 ( 現豊田郡本郷町 ) 広沢和智氏 上野国広沢郷 三谿郡内の十二郷 ( 現三次市 ) 山内首藤氏 相模国山内荘 恵蘇郡地毘荘 ( 現庄原市 ) 以上の諸氏が実際に現地に入るのは かなり後のことであって鎌倉初期においては 安芸国 備後国の地頭の多くは平安末期からの在地の豪族が任じられており 東国武士の地頭は多くは無かった 承久三年 (1221) 後鳥羽上皇中心の倒幕の挙兵は瞬く間に幕府に制圧された ところが安芸国 備後国内の地頭を始とする武士の殆どは京都方に味方していたので その所領は没官領として取上げられ そこへ幕府は関東御家人を新たに地頭として送り込んだのである その時入部するのが 新補地頭といわれるもので その主なものは次の通りである 阿曽沼氏 下野国阿曽沼 安南郡世能荒山荘 ( 現広島市安芸区 ) 熊谷氏 武蔵国熊谷郷 安北郡三入荘 ( 現広島市安佐北区 ) 武田氏 甲斐国武田村 安南郡及び佐東郡各地 ( 現広島市安佐北区及び安佐南区など ) 安芸国守護を兼ねる 香川氏 相模国香川村 佐東郡八木村 ( 現広島市安佐南区佐東町 ) 吉川氏 駿河国吉川村 山県郡大朝荘 ( 現山県郡大朝町 ) 毛利氏 相模国毛利荘 吉田郡吉田荘 ( 現高田郡吉田町 ) 宍戸氏 常陸国宍戸村 高田郡甲立荘 ( 現高田郡甲田町 ) 平賀氏 出羽国平賀郡 賀茂郡高屋保 ( 現東広島市高屋町 ) 天野氏 伊豆国天野郷 賀茂郡志芳荘 ( 東広島市志和町 ) 竹原小早川氏 沼田小早川氏の分家 都宇竹原荘 ( 現竹原市 ) 長井 ( 田総 ) 氏 幕府官僚 甲奴郡総領町 ( 現甲奴郡総領町 ) 沼隈郡長和荘 ( 福山市瀬戸町 ) などこれらの東国武士達はこのように地頭職を得ても 自らは赴任せずに東国に居住していたが 鎌倉後期から南北朝にかけて東国から西遷して本拠を任地に移すようになっていった

七 毛利家臣団の形成と関ケ原合戦後明治に到る軌跡 このようにして 彼等東国武士は任地安芸国 備後国に定着して 国人領主に成長し やがて毛利 家臣団に編入されるのは 更に時代は下り 承久の乱から数えること三百二 三十年後のことであっ た 例えば 頼朝の乳母グループの後胤である宍戸元源の孫隆家が毛利元就娘五龍局と婚姻して 以 後一門の扱いを受けるようになったのは 天文三年 (1534) である 又 同じく 山内経俊の後 胤山内隆通 多賀山通続等が毛利方に降伏して家臣の扱いを受けるようになったのは 天文二二年 (1553) のことである そして歴史の舞台は回り 関ケ原の合戦において西軍の総大将に祭り上げられた毛利輝元は 東軍 の総大将徳川家康に敗れて 広島百二十万石から萩二十九万八千石に減封される 毛利家臣団嫡流の 多くは毛利宗家に従い萩に移ったが 知行は一律五分の一に削られた 毛利藩は 棚田等新田開発や 副産物栽培を奨励する等血の滲む再建計画を推進めた結果 百年も経たない貞亨四年 (1687) には 総石高八十一万四千石とした 更に下って嘉永の頃には 例えば その後数家に分かれた宍戸家の石 高を併せると 広島での最盛期二万五千石の半分以上の一万三千三百石余にまで回復している この ような生産力の増強が起動力となって 百姓 町人をも動員した高杉晋作の奇兵隊の出現となり 討 幕への道を一気に突進むのである 長州藩は 明治の元勲を多く輩出したが 一門の宍戸家では宍戸たまき璣文部大輔後の子爵がいる 一方 安芸国 備後国に居残り 帰農して名主等となった多くの東国 武士庶家後裔は 毛利氏の跡を襲った福島正則 彼が改易された後の浅野氏が 長州の毛利氏が行っ たと同様な新田開発等を行い その先頭に立ったのである 江戸時代 このような新田開発は全国的 に展開した 私の郷里の山村に残る幾重もの石積の折重なった田圃など 殆どが江戸時代の所産とい う ところが 昭和三十年代後半から進行した高度成長の波は 減反政策や過疎化を招き 江戸時代 に造られたこれら田圃は 元の山林に還っていっている ( 了 ) 今年は頼朝没後八百年 東国武士団が演じた歴史的ドラマは 今も続いているのである 主な参考文献 全訳吾妻鏡新人物往来社鎌倉室町人名辞典新人物往来社 毛利一族のすべて新人物往来社源頼朝の世界永井路子 源頼朝のすべて奥富敬之 堂々日本史 (22)NHK 編