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平成 28 年 8 月 24 日赤平市市内在住の被保険者宅に市役所の保険係 サカイ を名乗る者から 医療費の還付金が 15,000 円発生している 5 月ごろに青い封筒を送っているが確認しているのか と電話があった 被保険者が 確認していない と言うと 昨日が申請期限だった と言われ

Taro-天正13年(1585)正月条

課題発掘のプロセス 何か 問題はありませんか? 何か お困りのことはないでしょうか? 何か お手伝いすることはありませんか? ありません! これ以上先へは 進まない 1 存在に気付いていない 説明できるほど整理できていない 2 存在には気付いているが 重要だとは考えていない 3 知ってはいるが 解決

2016表紙

生徒用プリント ( 裏 ) なぜ 2 人はケンカになってしまったのだろう? ( 詳細編 ) ユウコは アツコが学校を休んだので心配している 具合の確認と明日一緒に登校しようという誘いであった そのため ユウコはアツコからの いいよ を 明日は登校できるものと判断した 一方 アツコはユウコに対して 心

成 績 2011 年 度 競 泳 国 際 大 会 代 表 選 手 選 考 会 4 月 9 日 ~4 月 11 日 於 静 岡 県 浜 松 市 総 合 水 泳 場 ToBio 冨 田 一 穂 17 位 23 秒 34 大 庭 洋 平 19 位 23 秒 43 葛 原 俊 輔 10 位 50 秒 24

いろいろな治療の中で して欲しい事 して欲しくない事がありますか? どこで治療やケアを受けたいですか? Step2 あなたの健康について学びましょう 主治医 かかりつけ医や他の医療従事者にあなたの健康について相談する事も大切です 何らかの持病がある場合には あなたがその病気で将来どうなるか 今後どう

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年 9 月 24 日 / 浪宏友ビジネス縁起観塾 / 法華経の現代的実践シリーズ 部下を育てない 事例甲課乙係のF 係長が年次有給休暇を 三日間連続でとった F 係長が三日も連続で休暇をとるのは珍しいことであった この三日の間 乙係からN 課長のところへ 決裁文書はあがらなかった N

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研修の内容と進め方 項目 ( 時間 ) ツール内容と進め方 はじめに (5 分 ) 主題の板書 この会合では 仕事の指示 命令の受け方と報告の仕方に ついて学んでいきます 仕事の指示 命令でまず心得てお きたいことが 仕事の基本です 私たちの役割は組織目標を達成することですが チームで達成しなければ

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ごあいさつ

女 子 団 体 第 5 位 ( 予 選 リーグ) 本 校 3-1 宝 陵 ( 予 選 リーグ) 本 校 4-1 新 城 田 口 豊 橋 中 央 合 同 ( 予 選 リーグ) 本 校 1-4 桜 丘 (2 次 リーグ) 本 校 2-2 成 章 取 得 本 数 により 本 校 の 負 け (2 次 リー

最初に 女の子は皆子供のとき 恋愛に興味を持っている 私もいつも恋愛と関係あるアニメを見たり マンガや小説を読んだりしていた そしてその中の一つは日本のアニメやマンガだった 何年間もアニメやマンガを見て 日本人の恋愛について影響を与えられて 様々なイメージができた それに加え インターネットでも色々

生徒用プリント ( 裏 ) メールで意図は伝わるか??? 90% が伝わると考えているが 実際は 50% 月刊誌 人格 社会心理学会ジャーナル に発表された研究によると 電子メールのメッセージの意味合いを正しく捉えている可能性は 50% しかないという結果が出ている この研究では 人は受信する電子メ

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別添

会場グループチーム名所属市郡町 諏訪公園多目的広場 緑地運動公園 手鎌北町公園 第 26 回有明海沿岸ジュニアサッカー大会予選グループ A B C D E F G H I J K L FC.CRESCA 小岱ジュニアサッカークラブ 筑前町三輪サッカースポーツ少年団 FC ミズホジュニアサッカークラブ

青 森 県 尾 崎 酒 造 秋 田 県 飛 良 泉 本 舗 阪 神 木

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男 子 決 勝 トーナメント 1 回 戦 試 合 番 号 101 試 合 番 号 大 島 祐 哉 平 野 友 樹 後 藤 卓 也 丹 羽 孝 希 早 稲 田 大 学 11

千 葉 市 資 源 循 環 部 千 葉 県 千 葉 市 中 央 区 千 葉 港 2-1 千 葉 中 央 コミュニティセンター3F 船 橋 市 千 葉 県 船 橋 市 湊 町 柏 市 産 業 277

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学 校 対 抗 男 子 学 校 対 抗 6 月 3 日 ( 金 ) 9:00~ 開 始 式 ~ 学 校 対 抗 決 勝 リーグ2 回 戦 まで 6 月 4 日 ( 土 ) 9:00~ 学 校 対 抗 決 勝 リーグ3 回 戦, 個 人 戦 ( 複 ) 決 勝 まで, 個 人 戦 ( 単 )1 回 戦

女 子 の 部 予 選 Aリーグ ラブメイトなでしこ Net in 女 組 勝 敗 順 位 ラブメイトなでしこ - 1 Net in - 3 女 組 1-1 予 選 Bリーグ びっくりポン チームそこ そこ MID WEST A 勝 敗 順 位 びっくりポン - 3 チームそこ そこ - 1 MID

須 磨 区 ( 神 戸 水 上 警 察 の 管 轄 区 域 を 除 く 区 域 ) 兵 庫 県 垂 水 警 察 神 戸 市 垂 水 区 神 戸 市 のうち 垂 水 区 ( 神 戸 水 上 警 察 の 管 轄 区 域 を 除 く 区 域 ) 兵 庫 県 神 戸 水 上 警 神 戸 市 中 央 区 水

CL8 ええ それで母に相談したら そんな会社に行かずに地元に戻って就職しなさいと言われま した 就職活動はまた始めた方が良いような気がしますけど でも 本当にどうしてよいか わからなくて CO9 今は どうしたらよいかわからないのですね CL9 そうなんです でも 破綻した会社に行くのは不安だし

< 評価表案 > 1. 日本人 ( ロールプレイ当事者 ) 向け問 1. 学習者の言っていることは分かりましたか? 全然分からなかった もう一息 なんとか分かった 問 2 へ問 2. 学習者は, あなたの言っていることを理解し, 適切に反応していましたか? 適切とは言えない もう一息 おおむね適切

18 歳 以 下 男 子 シングルス 予 選 No. 登 録 番 号 氏 名 所 属 1R 2R F 1/2P 齋 藤 貴 紀 鹿 沼 東 高 齋 藤 貴 紀 2 Bye 松 本 大 輔 松 本 大 輔 石 橋 高 校 松 本 大 輔 伊

男 子 敗 者 復 活 戦 5 北 日 体 袋 4 北 掛 川 東 掛 川 工 新 居 5 北 立 7 城 4 6 北 市 工 立 南 開 誠 館 掛 川 北 城 北 工 市 立 市 袋 湖 南 北 商 代 北 商 湖 東 4 8 商

目次 1 ストーリーを構成する 5 つの要素... 3 要素 1 はじめに ( 挨拶 )... 3 要素 2 DVD の流れの紹介... 5 要素 3 なぜ できないのか( 問題の原因 )... 6 要素 4 ノウハウ... 7 要素 5 サポート Copyright c 2012 R

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大きくは ば た け 小山の新成人 1月10日 市内11中学校を会場に 約1,230人の新成人を祝う式典が開催されました 新たな門出を祝うとともに 大人としての 誇りと責任 を持って歩んで行くことを誓 い合いました 新成人が生まれたころの出来事 小山市では 人口が15万人となる 平成8年1月1日現在

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第 9 回料理体験を通じた地方の魅力発信事業 ( 石川県 ) アンケート結果 1 属性 (1) 性別 (2) 年齢 アンケート回答者数 29 名 ( 参加者 30 名 ) 7 人 24% 22 人 76% 女性 男性 0 人 0% 0 人 0% 0 人 0% 0 人 0% 8 人 28% 2 人 7

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一人暮らし高齢者に関する意識調査結果 <概要版>2

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基調講演

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3 時限目日本にあるブラジル生まれの食べ物を知る 4 時限目なぜピラルクがへっているのかを考えて, 自分たちに何ができるのか考える 一部が隠れた写真を使い, 日本にあるブラジルのものを考える活動を行う 感想を交流する ピラルクがへっているのかを考えて, 自分たちに何ができるのか考える活動を行う 感想

関東中部地方の週間地震概況

がんの診療の流れ この図は がんの 受診 から 経過観察 への流れです 大まかでも 流れがみえると心にゆとりが生まれます ゆとりは 医師とのコミュニケーションを後押ししてくれるでしょう あなたらしく過ごすためにお役立てください がんの疑い 体調がおかしいな と思ったまま 放っておかないでください な

男 子 2 Cクラス 男 子 団 体 総 合 ( 中 学 生 ) 第 1 位 下 小 路 中 学 校 村 上 山 口 篠 澤 城 内 第 2 位 北 陵 中 学 校 伊 藤 佐 藤 森 中 村 Cクラス 男 子 個 人 総 合 ( 中 学 生 ) 第 1 位 関 口 汰

6/ 小 高 孝 二 中 嶋 憲 一 小 町 谷 直 樹 m 愛 知 駒 ヶ 根 市 駒 ヶ 根 市 6/19 松 下 正 浩 m 静 岡 6/19 森 田 俊 一 5: m 愛 知 6/19 中 澤 俊 喜

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統 計 表 1 措 置 入 院 患 者 数 医 療 保 護 入 院 届 出 数, 年 次 別 措 置 入 院 患 者 数 ( 人 ) ( 各 年 ( 度 ) 末 現 在 ) 統 計 表 2 措 置 入 院 患 者 数 ( 人 口 10 万 対 ) ( 各 年 ( 度 ) 末 現 在 ) 主 な 生

横 浜 ガーデン 山 神 奈 川 県 横 浜 市 神 奈 川 区 三 ツ 沢 下 町 横 浜 菅 田 神 奈 川 県 横 浜 市 神 奈 川 区 菅 田 町 488 新 田 神 奈 川 県 横 浜 市 港 北 区 新 吉 田 町 3238 横 浜 日 吉 七 神 奈 川 県 横 浜 市

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3 野 球 柴 原 健 介 ( 法 4) 北 山 康 平 ( 法 4) 宮 守 淳 貴 ( 法 4) 村 田 穏 行 ( 法 4) 竹 垣 翔 吾 ( 法 4) 井 上 貴 滉 ( 経 4) 青 山 誠 ( 経 4) 高 橋 克 典 ( 経 4) 宮 崎 以 津 喜 ( 経 4) 福 山 哲 平 (

福岡 福岡市早良区 福岡市 土砂災害警戒区域告示年月日うち土砂災害特別警戒区域 早良区 西区へ跨る H 早良区 佐賀県へ跨る H 早良区 H 早良区 H 早良区

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5 月 平 日 夜 間 1 木 那 須 森 屋 2 金 小 宮 山 井 上 博 元 3 土 浜 野 伊 東 祐 順 山 本 省 吾 中 下 ( 県 ) 坪 井 植 草 西 村 4 日 町 村 梅 沢 石 橋 武 川 賢 一 郎 松 田 秀 一 鈴 木 盛 彦 5 月 松 本 東 條 武 川 慶 郎

男 子 学 校 対 抗 順 位 学 校 名 順 位 北 陽 台 高 等 学 校 海 星 高 等 学 校 東 高 等 学 校 青 雲 高 等 学 校 5 明 誠 高 等 学 校 5 6 工 業 高 等 学 校 6 7 南 高 等 学 校 7 8 南 山 高 等 学 校 8 9 西 彼 杵 高 等 学

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Transcription:

- 1 - 天正十四年(一五八六)七月朔日 看経等特におこなった 衆中が皆やってきた 筑紫方面への出陣は 今日が日取(日限)であるが どう思うか と 申すだけであった 二日 同前 三日 毘沙門に特に祈念した 四日 無為に過ごした 五日 満願寺が 先月 長日修法の担当で 鹿児島に逗留されており 帰宅した 島津義久のご出陣 去る六月二十六日に 御出立されたとのこと 六日 さしたる事はなかった 七日 武具やそのほか書物など 虫干しをいつものとおり この晩 柏原周防介が帰宅した 先日(六月二十四日宮崎を出立) 興禅寺と両使となって 武庫様(忠平)に申し上げた条々は (忠平は)ご納得され 上原尚近 比志島国貞の二人を使者として 太守様(義久)に上申された (義久は)始めはご納得されなかったが そのご納得されて 軍事行動の決定により筑紫方面に出陣した伊集院忠棟に対し 両使をもって命じられた すると 伊集院忠棟から注進があり 筑紫氏攻めの件は 合戦はまだなく 事前に敵方に察知されたのでしょうか 里村がことごとく繰り上がり (筑紫広門の)居城=勝尾城(佐賀県鳥栖市牛原町 山浦町 河内町)に籠城してしまったので 筑紫氏の館を攻める以外の作戦ができなくなってしまいました とのこと このため 太守様のご機嫌が悪くなり 覚兼ら日州衆の遅参は曲事である と仰られた 詳しいことを両使(上原 比志島)が説明されたのだが それはともかく 早々に日州衆は出陣すべきである と仰られて 柏原周防介は 去五日に八代を出立し 本日 三日間で到着したとのこと それから 諸方に対し 夜中に急ぎ出陣するよう陣ぶれを出した 八日 明日 出陣できるよう支度をした 柏原周防介が語ってくれた 御前(義久)の使者は 本田正親と伊地知重秀である とのこと この日 中書家久から黒田番左衛門尉を使者として仰るには 今朝の申し入れを聞きました 明日出立されるのでしょうか 大変なことになりましたね 柏原周防介の説明を詳しく聞かせてください とのこと 詳しく説明した あわせて 拙者のこの度の遅参につき (義久の)機嫌を損ねていることに驚いています しかし 佐土原での談合によるものであることは 中書様もご存じの件ですので 後日 無首尾=不都合とならないよう (義久に)直接お取り無しをお願いしたい と 申し上げた 九日 未刻(午後二時頃) 衆中と一緒に出陣した 綾に到着した 米良備前守の家臣のところに宿泊した 彼から酒 肴など送られてきた 十日 早朝に出立した 三之山(小林市 島津忠平領)に到着 岩瀬(岩瀬川?)にて 町田久倍 本田親貞(ともに老中)から拙者への飛脚に行き会い すぐに書状を読んだ 善哉坊(面高真連坊頼俊)に(義久の)御用があるので 早々に参上するように あわせて 去六日 筑紫麓(勝尾城下)の下栫(筑紫氏居館ヵ 佐賀県鳥栖市牛原町 国指定史跡)を残らず破却した 上城(勝尾城ヵ)も 一両日中(に攻め落とすのは)間違いないだろう と 伊集院忠棟から注進があった とのこと すぐに返書を記した 善哉坊に

*1 大隅栗野地頭川上忠智の子 一五五八~一五八六 天正十二年(一五八四)沖田畷の戦いで 龍造寺隆信を討ち取ったことでしられる 勝尾城攻めの際 筑紫広門の弟晴門と一騎討ちとなり 相打ちになって死去 - 2 - は 連絡した また 勝利おめでとうございますと申し伝えた 十一日 早朝出立 大口の小苗代薬師(鹿児島県伊佐市菱刈市山)に到着 寺家より酒 肴をいただいた その僧が語るにも 筑紫方面でのご勝利は間違いないとのことであった 川上左京亮忠堅*1 が戦死したとのこと 十二日 早朝出立 湯之浦(熊本県葦北郡芦北町湯浦)に到着 その途上 手負の(負傷した)者らに行き会った そのほか 濫妨人 などが 女 童(こども)ら数十人を連れて帰っているのに行き会い 道も去あへす候 (道が混雑していた?) 十三日 早朝出立 佐敷(同県葦北郡芦北町)に到着 いとう太五郎左衛門尉に出会い 船の準備を申しつけるよう申した あわせて 寄合中から 覚兼をはじめ日州衆は 筑後方面に直接出船しなくてよい まずは八代に参上するように とのこと 興禅寺は 先日使僧として参上してから 今に至るまで八代に逗留していたが お暇をくだされ 帰ってきたとのこと これ(興禅寺)にも寄合中から(伝言があり) 日向衆は 八代に皆参上するように とのこと やがて出船した この晩 徳渕(八代市本町)に到着 森隼人佑のところに宿をとった すぐに亭主が酒を振る舞ってくれた 老中衆に 加治木雅楽助を使者として申し上げた ただいま 当津に着船しました 直接筑後方面に出陣しようと考えていたのですが 佐敷にてこちら(八代)に日州衆は参上するようにとのことでしたので そうしました (八代古麓城に)参上して 筑紫氏領を平定したことへの祝言を みなさまに申し入れるべきですが 先日柏原周防介から 日州衆の遅参は曲事である と (義久が)大変お怒りであると聞いたので 当津に滞在しております 宜しく(取次を)お願いいたします と伝えた 町田久倍殿 本田親貞殿からの返事は 参着されのはよかったです 間違いなく 先日 義久様はお怒りでした 明朝談合の上 詳しく返事いたします とのこと この夜 町田久倍から書状が来て もしや 日州の人衆で 筑紫方面に行こうとするものがいるかもしれませんが 固く止めるように とのこと 心得ましたと返事した 十四日 早朝 町田久倍 本田親貞に 加治木雅楽助を使者として申し入れた 夜前に談合の上 ご返事があるとのことでした 詳しくお聞かせください あわせて 拙者の言い分を申し上げたいので どなたか御使衆を派遣していただきたい と やがて 二人から返事があった 先日 両使(柏原周防介 興禅寺)が日州からやってきた際 (義久が)ご判断されました いまも恐らく同じお考えでしょう まずは (古麓城の)麓まで参られるのがいいでしょう とのこと それから 麓の村山舎人助のところに宿をとった 町田久倍 本田親貞まで 伊地知重秀 吉田清存を奏者として申し入れた 以下 覚兼から町田 本田に対する弁明 先日 興禅寺 柏原周防介の二人を使者として申し上げた内容が

- 3 - もしや(拙者の考えと)違っている可能性もあるので 申し上げます このたび 日州表での軍事行動(豊後進攻)が変更になり 筑紫方面への出陣になったと 山田有信を使者として命じられました 詳しく状況を聞き 諸方へ陣ぶれ致しましたところ 高知尾(三田井氏)から入田氏の書状が到来しました 内容は 去月=六月十一日 入田氏は大友氏と手切れして 勝利しました そこで 早速支援をおねがいします 中書公(家久) 覚兼には 特に油断なきようお願いしたい とのことでした 入田氏の使者堀氏も 宮崎に居合わせて 入田氏への支援をお願いしたいとのことでした 鎌田政近(都於郡地頭)が申すには このような境目からの注進が突然やってきたからには 佐土原にて談合すべきであろう とのことで まさにもっともだと思い 佐土原に拙者も参上し 山田有信も先日筑紫表の件の使者を勤めたので 佐土原に参るように申して そのようにしました 鎌田政近らと談合しました 入田氏が手切れしたことは 鹿児島での談合で(筑紫派兵が)決定してから後のことである そこで 入田氏を支援しないと 高知尾まで難儀となるだろうという話になった 今まで見方を見捨てたことはなく その上 後日 それほどの状況であるならば 豊後で合戦をしたのに などとなってしまうであろう 特に 日州衆は とても筑紫での合戦予定日には間に合わないだろうから こうしたことを武庫様(忠平)に判断を仰ぎ その判断次第で日州衆は出陣するのがいいだろう ということになりました 中書公(家久)も尤もな判断だとのことだったので 遅参いたしました 拙者がほかの人に代わってもらいましたのは みずから参陣してこの件を申し上げるべきでしたが その頃から腫れ物で難儀しており やむなく(使者で)申し上げました 少しもよこしまな考えはありません と 申し上げた 以下 島津忠平とのやりとり本田源右衛門尉親商殿を使者として 武庫様(忠平)に内々に申し上げた このたび筑紫氏攻めで大勝利を収めましたこと おめでとうございます つきましては 我々が遅参したこと 先日両使を派遣して申し上げました (詳しくは右と同じ)その結果 (義久の)機嫌を損ねてしました 徳之渕に蟄居しておりましたところ 寄合中からこちら(古麓城)まで参るようにとのことでしたので そうしました 特に あなたの宿所近辺におります 憚り多いことではあります と 申し上げます すぐに返事があった 参着されたようですね 申し上げましたように 先日中書家久とご談合の上 両使を派遣されました 自分(忠平)は納得して 御前(義久)に申し上げましたが ご納得いただけませんでした 結局 義久様を怒らせてしまったのは 残念に思います こちらで出た意見など いちいちご説明いたします とのこと 以下 寄合中(老中)とのやりとり伊地知重秀 吉田清存を使者として 寄合中から承った 覚兼の言い分 詳しく聞いた 先日両使をもって上申してきた内容とだいたい同じであった 覚兼の腫れ物のついては 糾明したところ 使者をあしらうための方便のようである この点は少し事実と異なるのでは無いか また 柏原周防介にて伝えられた(義久からの)返事には 今までは特に頼りにしてきたが これからは 他国人 と思うことにする と 申し届けられていた とのこと このことも詳しく承った しかしながら 是ニ手をつけて 申し上げる(反論するという意味ヵ)ことはございません なぜなら 他国人

*2 一五七二~一六一七 この年 十五歳 高橋紹運の二男 初名が統増 のちに 宗一 重種 最後に直次に改名 室は 筑紫広門の娘加祢姫 秀吉の九州平定後 筑後国三池郡江之浦に一万八〇〇〇石を与えられる *3 一五四八~一五八六 この年 三十九歳 実名鎮種 大友氏重臣吉弘鑑理の子 立花宗茂の実父 永禄十二年(一五六九) 大友宗麟の命により 高橋氏の名跡と 宝満 岩屋両城を与えられ 以後両城の城督となり 大友氏の筑前支配にあたる *4 一五六七~一六四三 この年 二十歳 高橋鎮種(紹運)の長男 戸次道雪の養嗣子 のちに 宗虎 正成 親成 尚政 政高 俊正 経正 信正 宗茂と改名 天正九年(一五八一) 男子のなかった戸次鑑連(道雪)の養子となり 鑑連の長女誾千代の聟となる - 4 - と言われたからといって 野心や不忠を働こうとしている訳ではありません ありがたいことです また 今後 島津家の家景中(家中)から排除する と言われたわけでもございません なかなかのことではありますが 私からあれこれは申しません と 申し上げた 十五日 町田久倍 本田親貞が同心して 拙宿にやってきた そのほか 鹿児島衆や諸所の衆も来た この日 日州衆もみな到着した 伊地知重秀 吉田清存を使者として(義久の意向を)承った おまえ(覚兼)の言い分は 寄合中から武庫様(忠平)に伝えられ 今朝 上聞に達した 今少し思案して返事する とのこと 十六日 山田有信(高城地頭) 鎌田政近(都於郡地頭)を拙宿に呼び 子細を説明するようにとの本田親貞の指示があったので そうした 伊地知重秀 吉田清存がやってきて このたびの遅参について糾明があった 山田有信は 使者をつとめて状況を詳しく聞いた上で 皆との談合に同意したこと 不満に思う とのこと 二人の返事も 拙者と同じで もちろんありのままにおっしゃった 日州衆で 皆同じく遅参した衆は まったくよこしまな気持ちはありません 指示があり次第行動すると命じた以上 やむを得ません と申し上げた しかし 日州衆はみな拙宿に揃い 伝えることがあるとのこと それから 皆を呼び寄せた 樺山忠助殿 比志島義基殿 吉利久金殿 新納久時殿 鎌田政心殿 大寺安辰殿 福永宮内少輔殿(飯田地頭) おおかたこれらの衆であった また 伊地知重秀 吉田清存を使者として このたびの遅参の糾明があった 拙者から 糺されることはごもっともに存じます たびたび使者に申し上げましたように このたびのことは みなが油断していたわけではありません 拙者が申したような考えによるものです 少しも皆に科はありません と申し上げた 十七日 早朝 本田親貞から使者が来た 夜前に(筑紫方面出陣中の)伊集院忠棟から連絡があった 筑前の宝満(福岡県大宰府市北谷 城主は高橋統増*2 ) 岩屋(同県太宰府市観世音寺 城主は高橋紹運*3 ) 立花(同県福岡市東区下原 城主は立花統虎*4 )の三城に対し これまで城を明け渡すよう伝えていたが 今に至っても同意しない 軍勢をなお派遣して欲しい とのことなので 日州衆に出陣するよう命じる 敷祢越中守を(義久の)宿舎に派遣して

- 5 - 子細を承るように とのこと それから (敷祢越中守を)派遣して やがて戻ってきた 日州衆それぞれに 筑前にむけて出陣するように また 吉利久金殿(日向蔵岡地頭)に御用があるので 拙宿に呼び寄せるように とのこと 島津義久から上井覚兼への返答伊地知重秀を使者として (義久からの)ご返答があった このたびの遅参 よこしまな考えでは無いと言っているが まったく納得できない しかし 考え違いをしていたと(おまえが)認めているので それを受け入れたまでのことである おまえ(覚兼)は 二年前(天正十二年(一五八四)三月)有馬(島原半島)に渡海した際も遅陣した また 去年(天正十三年(一五八五)八月) 島津忠平が八代に出陣した際も 遅陣する旨申したが 自分(義久)が法華岳の僧を派遣し 早々に出陣するように と催促した そのおかげで 隈庄(熊本市南区城南町宮地)への攻撃に参加し その後の甲佐 堅志田 御船そのほか肥後での戦闘も 思うままに達成でき 諸所の始末もうまくいった これも 自分が指示をだしたお蔭であるにもかかわらず 結局この件について お礼のひとつもおまえは言ってこなかった 残念に思う このたびの遅参(糾明も)も おまえの為を思ってのことである 少しもよこしまな気持ちは無いと言うが まったく納得できない おまえがなにかにつけ判断違いをしたとしても 寄合中や 隣所 近所の衆も また宮崎衆中も (おまえに対して)意見し難いのではないのか?だから 上意で糾明しないわけにはいかないだろう と おっしゃられた 覚兼の返答謹んで承って 返答した たびたびの(遅参した)件 もちろんごもっともに思います しかし その時その時で 私の考えは今回のように理由があるのですが 言ってもしかたがありません まことに拙者のことは 親類中にもしっかりした衆がおらず 親(薫兼 恭安斎)も年老いており こども(観千代 五歳)はおりますが まったく諫言してくれません そのため 気任せ(自分勝手)になってしまいましたところ このように仰せを蒙りましたこと かたじけなく申す言葉もありません 寄合中をお頼みするだけです と申し上げた 吉利久金殿(蔵岡地頭)を使者として (筑前在陣中の)島津忠長 伊集院忠棟に対し(義久の)御伝言を命じられた 拙者も談合に参加し 詳しく状況を聞くようにとのことなので 承知した (伝言の内容は) このたびの筑紫広門の件 思いもかけず制圧することが出来た 岩屋 宝満 立花の三城は 今も籠城しているのであろうか 日州衆を派遣するので なんとしてでも今回 筑前方面をよくよく調略し 別方(豊後方面?)への進攻に際して 禍根とならないように みな宜しく頼む とのこと 今日 出陣するつもりであったが 佐敷にまだ軍勢を残していたので 彼らを呼び寄せ 明日出陣する旨 奏者の伊地知重秀に伝えた この日 本田親貞 町田久倍のところに参上し 閑談した 武庫様(忠平)のもとに伺候した 昨日 本田源右衛門尉親商を使者として ご無沙汰していると仰られたこと まことにかたじけなく存じます (義久の)ご機嫌も今朝はよろしいようで よかったです と 申し上げた 鎌田政心 鎌田政近 山田有信も同心した

*5 乾燥して貯えておく飯 これを水に浸せば すぐに食べられる かれいい - 6 - (忠平の)御前にて 干飯(ほしいい)*5 で寄り合って 酒を賜った この衆で筑前方面に出陣するので いろいろと命じられた また 我々の考えも申すように仰ったので いろんな話が出た みな遠くまで出陣するので いろいろと心遣いや用心が大事である 島津の分国内では予想できないことなので 境目の衆でしっかり談合するように との上意であった 十八日 いつものように 観音に祈りをささげた 町田久倍から 伊地知重増殿を使者として連絡があった 島津忠長 伊集院忠棟に伝えて欲しい 龍造寺政家 秋月種実 そのほか諸侍の質人(人質)を 受け取り 確保しているのか 報告して欲しい このうち 龍造寺政家の質人は 高瀬(熊本県玉名市)にいるとのことだが これは早々に八代に連行するべきであろう とのこと また 寄合中から 佐多忠増殿を使者として連絡があった いま 銀之介という商売人が 肥前に逗留して帰ってきた 彼は 武庫様(忠平)のお目にかかり 下大隅に住んでいるものである 彼が言うには 龍造寺家中の衆は 伊佐早(長崎県諫早市) 大村(長崎県大村市)あたりの衆まで ことごとく肥前に出陣して在陣している 薩摩衆は はるばる遠征してきているので この機会に一戦交えるつもりである と 心の底では考えている 実際にはありえないであろうが 島津忠長 伊集院忠棟には知らせておくべきと思い 伝える とのこと 武庫様(忠平)から 本田源右衛門尉親商殿を使者として ご命令があった 筑前方面におまえ(覚兼)が向かう途中 通路の状況 またそこかしこに番衆を召し置くべきところがあるかどうか 入念に調査するように とのこと この日 未刻(午後二時頃) 徳之渕を出船 蓑之浦(熊本県宇城市三角)にしばらく係留し 調査して夜乗船した 十九日 朝潮にのって高瀬(熊本県玉名市)に着船 日州の諸地頭など この港に着船した衆が 拙宿に挨拶にきた 当所に攻め入った際 清源寺(熊本県玉名市高瀬新町 明治七年(一八七四)廃寺)に宿をとった その寺主が ここに私が着船したと聞いて やってきた 扇子をいただいた すぐに見参し 酒で寄り合った この日は 衆中などの到着を待ち むだに過ごした 二十日 看経などいつものとおり 今夜の夢想で ある山伏が聞いた話に 佐土原の日照仏に 三度 三十三文の参銭を持参すれば このたびの陣中はうまい具合にいくと 教わったというのを見た やがて目が覚めた そこで 奇特に感じて 心易にて占ってみた 初めの 三十三 を 四八三十二 と考えると 一金を得て 中の 三十三 はまた同じ すると 乾 の卦であった 終わりの 三十三 を 五六三十 と考えると 変卦天沢履卦 であった 如履虎尾之課 安中防危之象 このようなときは 一方に思いを定めるのがいいだろうと 占った 心の中で祈念をした この日 未刻(午後二時)ごろ 出立 大津山(熊本県玉名郡南関町関東)に到着して 泊まった 高瀬から大津山まで 五里(約十九 五km)であった 二十一日 早朝 関(南関)を出立 上蒲池の山下(福岡県八女市立花町北山)を通過している時 鳥居が見えたので 地下人に尋ねた

*6 菅原道真が詠んだ 筑紫にも紫おふる野べはあれどなき名悲しぶ人ぞ聞えぬ という 新古今和歌集 収録の和歌 - 7 - ところ きやうも大明神 といって 当所の大伽藍であるという そこで 狂歌を一首詠んで 同道する衆に披露し 一笑いとった 梓弓八幡を世にハあふけとやいなかもきようも大菩薩のみ(田舎)(京)このようにいいながら急いでいたので 高良山の町(福岡県久留米市御井町)を通り過ぎ 隈代の渡し(福岡県久留米市山川神代 筑後川の渡し 現在神代橋が架かるに至った いつもは船以外では渡れないとのことであるが 今年はどうだろうか みな 脇道の水(水路?)を渡っている( 脇通ニ水候て 渡候 ) 我々は船で渡った それから 川向かいの道を進み あばら屋に宿泊した 二十二日 早朝出立 岩屋(岩屋城=福岡県太宰府市大字観世音寺)の御陣から一里(三 九km)ほど手前 長尾という村(現在地不詳 福岡県筑紫野市付近ヵ)で休憩し 島津忠長 伊集院忠棟に使者を送った その返事は 到着されましたか よかったです 明朝 岩屋城の下栫を破却しようと談合している最中です 早々に陣所に来て下さい とのこと やがて参陣した 島津忠長 伊集院忠棟の陣所に行った 明日 かならず下栫を破却する そこで 秋月種実殿(筑前古処山城主) 城一要殿(肥後隈本城主) 宇土殿(名和顕孝=肥後宇土城主)の衆にて 破却させることとした 諸軍衆は 上矢を行う(下栫破却部隊の援護射撃ヵ) 日州衆は 取添(現在地不詳)から上矢を射るようにと 命じられた この夜は 陣所で野宿した 伊集院久治(日向福島地頭)から参陣おめでとうございますと 酒を頂戴した 二十三日 夜中から雨がしきりに降ってきた そこで 明日の攻撃は延期となった 秋月種実殿から使者が来た 着陣の祝言として 太刀 銭百疋をいただいた この日 陣所を見分し 陣屋を構えさせた 取添の下の 平良 (平らなところ?)に 日州衆が同陣することにした この夜 月待ちをした みな長旅や普請の疲れをいやすなか 只一人読経して 月を待ち取った 二十四日 特に地蔵菩薩に看経 特に 大宰府(天満宮)がある場所なので 名号など数千返となえた この日 豊前衆の紀伊(城井)弥三郎殿が 拙宿にやってきた 太刀 銭三百疋を持ってこられた すぐに見参し 酒で寄り合った 諸方の軍勢着陣はめでたいことで 当主自ら出陣した衆もいる また 陣屋がまだ完成していないということで 使者を派遣してきた衆もいる 書き載せるには及ばない 二十五日 早朝から看経いつものとおり 当所でやむを得ない状況になったので (大宰府)天満宮に特に誓願した 本当に祈念のために 萩こえてむらさき生る野かせ哉(風)本当に いかながものかという出来であるが 筑紫にむらさき生る野へあれと *6 との 御神詠の 面かけ だけで このように祈念のために詠んで 手向けとした この日の朝 肝付兼寛殿の陣屋に島津忠長 伊集院忠棟が来た 拙者も招かれたので 行った いろいろともてなされた 夜前に 山くぐり(密偵)が城内に入ろうとしているのを 飫肥衆が出くわし

*7 一五五五~一五九六 のちに三浦元忠となのる 毛利輝元の側近 - 8 - 一人を討ち取った その者が手紙を多く所持していたのを 披見した 中国衆(毛利勢)の神田宗四郎元忠*7 が 今 文字之関 (門司)に在陣しているらしく 彼からの書状などがあった どの書状も 京都 中国から近々 援軍がある 岩屋城をしっかり守ることが大事である との内容であった 明朝 夜中から手火矢(鉄砲)を撃ち 城をなぶらせる(責めさいなむ いじめる)のがいいだろうとの意見が出た 取添の方は 拙者の判断で命じるようにとのこと この日 豊前衆の原田衆と有馬久賢殿の衆とで 喧嘩が起きて騒ぎとなっているとの報告があったが 何事も無かった 二十六日 夜中から手火矢(鉄砲)を撃ちかけ 辰刻(午前八時)ごろ 秋月種実殿の衆 城一要殿の衆 宇土殿の衆が 先日から下栫を破却する担当となっていた 彼らや諸所の足軽衆などが 厳しく下栫を破却して 敵三十人を討ち取った そして 諸陣からみな支度して 城を取り囲んだ 若衆中は このまま城を攻めたいと申すので 島津忠長 伊集院忠棟に使者を派遣して訪ねたが 今日は談合していないので 攻撃は良くない とのことだったので 止めた 我々は しばらく取添に滞在して 様子を眺めたところ 下栫を破却しても 敵の城はまったく騒ぐ様子は無く 巧者たちも よく調練された敵である と 評価していた 拙者は 昨日終日取添から鉄砲を射て 城の状況を見物していた 伊集院忠棟から拙者に用があるとのことなので 伊集院の宿舎に参った 彦山の般若坊が挨拶に来ており もてなしの最中であったが 我々も参加し 酒などで閑談した この日 岩屋城内の高橋紹運から 笠の陣(島津方の陣)まで伝えてきたことには 下城はしない いまのまま(城に)居付くことを許して欲しい そうすれば 出頭する と こちらからは (この申し出を)突っぱねたとのこと 伊集院忠棟から 明日城攻めしたいのだが いかがであろうか と尋ねられたので いいだろうと答えた また 日向衆は 取添の攻め口を担当して欲しいがいかがであろう と尋ねられたので どちらからせめるかは 談合次第である 皆さんご覧のとおり (取添は)一段と岸が高くなっており 大変な詰め口ではるが 陣屋の位置を考えるとお考え次第でしょう しかし 私一人では決めかねますので それとなく日州衆に談合し 決着したい と答えた 衆盛(陣立て)のことを尋ねたところ 日州衆は もちろんあなた(覚兼)と同心してください それに 比志島国貞殿(奏者 薩摩市来地頭)の陣所より上の衆(北側に布陣する衆?)を (覚兼に)加えます これでも小勢なので 和泉衆(島津薩州家忠辰の軍勢)を加えます とのこと とにかく 日州衆に相談するので のちほど使者にて詳しく申し入れます と伝えて 拙者は(自分の陣に)戻った 鎌田政近 山田有信などを拙宿に呼び寄せ 談合した 攻め口については 大変な所ではあるが 陣所が近いので 取添口の担当でかまわない 人数については 右の諸所からもう少し増やして欲しい と答えるべきと決した そこで 敷祢越中守を使者として 伊集院忠棟に伝えた 明日の城攻め 結構です 日向衆の詰め口については 取

- 9 - 添の方とのことですが 岸が高くて大変なところではありますが 陣所が近い上に (あなたの)ご判断でもあるので お考えに従います 人数については 前に私が聞いた諸所は当然のことながら もう少し加勢していただきたい と (伊集院からの)返事は 日向衆の攻め口について 御了承いただきありがとうございます 衆盛については 談合衆と打ち合わせた上で また詳しくお伝えします とのこと 山田有信と稲富長辰(日向紙屋地頭)が 亥刻(午後十時頃)ごろに拙宿にやってきた 伊集院忠棟からの命令であった 日向衆の詰め口は 取添の方となった 衆盛は 宮崎 曽井 清武 田野 高城 飯田 嶽米良 蔵岡 綾 本庄である 都於郡 財部 穂北の衆は 笠の陣衆の加勢とする 明朝の夜中に岸にとりつくように 取添にある城戸より下(南?)は 島津忠長殿の軍勢が 笠の陣衆との間を拙者の軍勢が担当するように とのこと これを伝えて 稲富長辰は 笠の陣に帰って行った 山田有信に対し 我々の配下は あまりの無勢ではないか 談合衆には説明したのか? と尋ねた 稲富長辰殿もご存じのように 精一杯状況を説明したのですが みなご納得されませんでした 結局 無人数だとは思うが 日州衆より多く軍勢を連れて参陣している者がいるのなら 聞いてやると言われた と 語ってくれた それから 敷祢越中守を使者として 樺山忠助殿(穆佐地頭) 比志島国貞殿に対し 右のように我々の指揮下は あまりに無人数なので とても(備えを)調え難い状況です そこで 後日のためにも 御両所(樺山 比志島)の使者を加えた上で もう一度島津忠長 伊集院忠棟に 無人数であることを訴えたい と要請した 御両所が答えるには まことに無人数であること あなた(覚兼)の申すのはもっともに思います しかしながら 使者を(こちらから)添えることはできません あなたから申し上げるのがいいでしょう とのこと それから また敷祢越中守を使者として 山田有信に伝えた 樺山忠助殿 比志島国貞殿に申し入れしたところ 右のような回答であった 拙者の使者一人ではどうかと思うので ご足労ではありますが 後日のためでもありますので あなた(山田有信)も伊集院忠棟のところに参って もう一度無人数であることを訴えていただけないでしょうか と 山田からの返事は どうあってもあなたが使者を遣わすべきです しかし 伊集院忠棟のお考えや談合衆の言い分を聞く限りでは さらなる加勢はとても期待できない状況です 成功しなくても とにかく訴えよというのならば あなたの指示に従います とのこと 我らの考えでは どう考えても 狐疑 (うたがわしい)の衆盛(日向衆に対する不当 不公平な陣立て)であろう 無人数だと考えるなら 日州から(もっと軍勢を)連れてくるべきだろうなどと言われるのは やむを得ない 我々だけで戦うまでである これ以上なにも言わない と 山田有信に伝えた もっともですとのこと 山田有信も せめて我々の衆が 二盛 (二段構えの備え?)あればよかったのに とのこと 拙者は そのように思うが 二盛 となった場合 きっと樺山忠助殿 拙者などは 二番衆となるだろう 我々が二番にいたとしても 小勢なので(備えを)調えられないであろう 合戦後の 閉目 (処置 対応)がどうなろうとも ただ皆いっしょに 命が続く限りは精一杯攻め続けようではないか と伝えた 山田有信そのほかの衆中に対しても このような覚悟を伝えた 日州諸軍に対し 明朝の城攻めを伝達した

- 10 - 二十七日 諸勢は 寅刻(午前四時)頃 城に近づき 時を待った 拙者の配下が一番にならなくてはいけないと思い 宮崎衆が鬨を挙げ 未明に取添の岸にとりついた 拙者の旗差しも 夜がほのぼのと明けようとする時に 屏際に攻め上った 同じく 屏際に最初にとりついた衆は 鎌田源左衛門尉兼政(覚兼弟) 敷祢民部少輔 長山兵部少輔 野村主水佑 唐仁原藤七兵衛尉秀元 秀元は やがて負傷し亡くなった 右の衆は 皆石打にあって 散々な状況となった 清武 高城 田野衆も同じく攻めかかり 拙者も屏際にて 石打に合い また顔面に鉄砲を一発受けて それから撤退した その前に 拙者近くにも多く兵がいて 上矢(援護射撃)を射てくれた 谷山仲左衛門尉は 上矢を射たところを 手火矢(鉄砲)を受けて 拙者に届き(?) 撤退した そのほか 上矢を射ていた衆も だんだん撤退していき 拙者が負傷した際は 安楽阿波介 加治木治部左衛門尉 加治木雅楽助(三人は 覚兼の忰者ヵ) 宮崎衆中では 丸田左近将曹のみとなった 加治木雅楽助は 我らが負傷するはるか前に はへの尾(蝿の尾 矢の一種ヵ)が当たっていたが 勤め上げた 拙者は 河野筑後守通泰に語りかけたところで 負傷した それから 我らに替わって 山田有信が屏際にとりついた これも 甲を打ち砕かれ 石打に合い やがって撤退した 高城 清武 宮崎 海江田の衆で 手負いの数は書き載せられないほどであった 宮崎衆中では 関治部少輔 野村右近将曹 唐仁原藤七兵衛秀元 黒江萬介 拙者忰者では 丸田山之允 楯持一人が戦死した 清武衆では 佐多紀伊介忠辰 河野筑後守 藤見長介 地頭伊集院久宣の内衆二人 高城衆では 遠矢軍兵衛尉 地頭山田有信の内衆二人(が戦死した) これらの衆は 同じ場所で戦ったので 詳しく知っているので書き付けた 日州衆は 皆粉骨砕身(奮戦)した 田野地頭大寺安辰も石打にあった 平田孫六(宗衡 穂北地頭平田宗張の息子)も負傷 (飯田地頭の)福永宮内少輔も負傷 このように 日州衆は 上の者も下の者も奮戦した 諸攻め口も奮戦したことは言うまでも無い 直接見たわけではないので 詳しく書き載せることはしない 喜入小四郎久親殿 伊集院左近将監殿が戦死した このほか諸方で戦死者が多く出たが 聞いたことの無い衆であった 高山衆の川崎大膳亮 福島衆の加藤大学助などという者が戦死した これは 以前の合戦で功績のあったものである こうして 午未刻(午後一時)頃 ことごとく城内の敵を討ち取った 島津忠長殿から八代に右の報告ため使僧を派遣した 御用があるのではと思い 拙宿に(使僧が)下ってきたので 寄合中への伝言を依頼した 拙者から直接申し上げるべきですが 我らの配下の衆は皆々負傷し 陣僧までも負傷しているので 伝言にて申します と伝えた また 拙者の旗差(旗持 軍陣で主人の旗を持つ従者)は 七郎兵衛尉であった これも石打にあい 旗の竿だけが残り 絹の部分は中より下を城内から長刀にて切り落とされたという この晩 島津忠長 伊集院忠棟から たやすく城を攻め取ったことの祝言 そして傷の状況はどうかとの使者が派遣された 税所篤和(奏者 薩摩山野地頭)殿が 傷見舞いにやってきたので 島津忠長 伊集院忠棟への祝言を依頼した 諸地頭 一所衆(領主)が 傷見舞いにやってきたが 書き載せるには及ばない 秋月種実殿の使者が来て 今日の奮戦は言葉では言い表せられない 傷を蒙ったとのこと いかがでしょうか みずから参るべきですが きっと気兼ねなく養生されているでしょう 医者を連れてきているので

- 11 - 必要でしたら派遣いたします とのこと 城一要殿 このほか参陣していた衆から傷見舞いがあった 紙面では書き尽くせない 二十八日 日州衆(在国衆)へ 右の注進のため 梶原治部左衛門尉を派遣した この日 伊集院忠棟が我らの陣所に傷見舞いに来た 樽酒を持ってきた 新納久饒 稲富長辰もやってきて 閑談 道正庵宗与(京都の商人)が 伊集院忠棟とともにやってきた 昨日のような奮戦は 京都でも見聞きしたことはない と話してくれた 城内には書状が多数あり これらを見せてくれた 先日 討ち取った山くぐりが持っていた書状と同内容であった この晩 鎌田政近を使者として 島津忠長 伊集院忠棟に内々に言上した 拙者の傷はさして痛くないので こちらにしばらく滞在すべきでしょうが 宮崎衆中 拙者忰者は ことごとく負傷してるので 諸国の衆が傷見舞いに来ています そうした受け答えも出来ない状況なので 明日にでも出立し 高良山 大津山あたりまで撤退するつもりです 遅参しておきながらこうしたことを申し上げるのは まことに本意ではありませんが 他国衆が参陣しており 手の者がいないとあまりに見苦しいので このようにお願いいたします と 返事は もっともに思います まずは 八代まで参るのがいいでしょう とのこと この日 中書家久から使僧がやってきた 拙者が召し連れた衆がみな負傷して難儀しているので 彼(家久の使僧)を雇って 諸国衆へ傷見舞いのお礼をお願いした 二十九日 早朝 立花城(福岡市東区大字下原)を攻撃するといって 諸軍衆は出立した この日の朝 島津忠長 伊集院忠棟に対し 昨日 鎌田政近を使者として内々に申しました件 ご納得いただき 八代まで撤退して養生するようにとのことでしたので 出立します もし御用などありましたら承ります と伝えた 丸田左近将曹を使者として伝えた (返事は) 帰陣されるのですね そうするのがいいでしょう とくに御用はありません 岩屋城にて捕らえた者のうち 侍の妻子は こちらに抑留しております 八代のような遠方に引き取るようなことはないよう 抑留するのがいいでしょう なぜなら 宝満城(福岡県太宰府市大字北谷) 橘(立花)城に籠城している者も 妻子は岩屋城においている者が多く居るとのこと 彼らへの計策(調略)のためにも 役に立つでしょうから こちらに抑留すべきです とのこと この日 出立し 高良山領宮之路(宮の陣 福岡県久留米市宮ノ陣)というところに泊まった その途上 木脇若狭守祐充殿と行き会った 八代からの御使者とのこと 各々在陣ご苦労であるとのこと 拙者に対して特にお言葉があったむね承った 路頭にて酒で寄り合った