聖書マタイによる福音書 5:1~12 ( 第 11 講 ) 題 イエス様の御思いから見た幸いな人生 その 1 ( 序 ) 間違ったイメージがもたらす誤解の怖さ * 最近つくづく感じさせられることですが 人間というのはイメージによって生きているものだとつくづく思わされています 過去に 自分の中に作り上げられてしまったイメージに囚われやすいのですが それから解放された時から 正しいイメージを描き直して 力強く前進していくことができると言っていいでしょう * 聖書信仰などは 特にそうだと言って間違いないでしょう 最初に持ってしまったイメージが 正しいイメージならいいのですが 間違っていた場合 最後までその人の信仰を妨げる結果になります まして人間の知恵で理解できない福音ですから 聖霊の助けを頂いて 神の知恵を理解していくという向かい方ができない限り 神の知恵が分からないままで終わってしまう可能性があります * 私の正直な思いですが これまでマタイによる福音書の学びをなるべく後回しにしようと 少し避けてきたところがありました それは特に この 5 章から 7 章にかけて語られている内容で 昔はこれを山上の垂訓という表題で呼んでいました 今では山上の説教と呼ばれる場合が多いですが 私なら 山上の使信と言いたい内容です 始めにこの内容を読んだ時 すごいレベルが高過ぎる教えだと感じながら 自分の中で いつの間にか 知らず知らずこの通りにできなければ 信仰者として失格なのではないかという思いに囚われ 自分の中で 新約の律法のように考えてしまっていたところがありました 1
* それは いろいろな註解書を読んでも そのイメージを振り払ってくれる書物に出会うこともなく 真の慰めを受け取らせてくれるものは一つもなく 私と同じ古いイメージから抜け出ていないのではないかと感じさせられる解説ばかりです 結局は 聖書を註解する人たちも 神の知恵を受けとめていないと感じさせられるものばかりでした * 私自身 霊的な受けとめ方ができるようにされてからも それでも古いイメージからなかなか解放されない思いが残っており ここに記されている使信を ところどころ取り上げることはあっても 全体を通して真剣に取り組もうとする思いが起こされなくて 今日まで来ました しかし そこにどのような神の御心が示されているのか 古いイメージから解放された者として 聖霊の助けを得て 人間の知恵による見方ではなく 神の驚くべき深い知恵から出た意味のある教えとして見ていきたいと思わされたのです (1) 見る角度を変えて読み取っていく御心 * イエス様がこの地上に遣わされて何をなそうとされたのか 父なる神から与えられた使命は何であったのか それをマタイは 要約の形でここに述べてきたと見てきました その結果 多くの人々は そのお姿を見聞きしてどのように受けとめたのか ここに記されている 従った という表現だけでは詳しくは分かりませんが いろいろな思いを持ってイエス様の下に集まってきたので イエス様は山に登って そこに座につかれたと言われています * イエス様には まだそんなつもりはなかったので 群衆を離れて山に登られ 弟子たちだけがついてきたのか それとも 群衆も一緒についてきて 弟子たちがそばで聞きな 2
がら 群衆もその話に聞き入っていたのか これだけではよく分かりません 7 章の終わりのところで イエス様の権威ある教えのすごさに群衆が驚いたとありますから おそらく 全員とは言えないまでも 群衆も一緒に山というか丘に登り その教えに聞き入ったのでしょう * ある学者たちは マタイがイエス様の教えを編集して一つに集めたのではないかと見ていますが 弟子たちや 聞こうとしていた群衆に対して これぐらいの話を一気になさるのは 不思議でも何でもないでしょう ルカにおいて 分散して語られているのは イエス様は一度限りしか語られなかったというのではなく それに近い内容を繰り返し語られたと考える方が普通でしょう それ故 ルカでは分散して記していると考えるべきです * 弟子たちだけにせよ 弟子たちを中心に多くの群衆がいたにせよ この時にイエス様が教えようとされたことは 道徳律のようなものではなく 昔モーセを通して律法を与えられたのは 神の前にどう生きなければならないかという内容でしたが ここにおいてイエス様が教えられたことは それと同様の新約版だと言うのではありません * 律法を守ることができない人間であることをイエス様はよくご存じでありますから 同様の要求をなさるはずがありません ご自身の贖いのみわざはまだ先ですが それを成就されることを前提として語られていると見るべきでしょう それを基にした罪赦された者が 神の前にどのように生きることができるようにされているのかを 気づかせるものであったと言うべきでしょう * このことを理解するためには 見る角度を変えなければ その意図するところが見えません 見る角度を変えるとは 3
言葉の表面上ばかり見ないで 言葉に込められた思いから見ていくことです それを具体的に見ていきましょう どういう人が幸いな人かを語られました 心を貧しくすることができた人だけが幸いだと言える そういう人だけが天国に入れて頂けると表面上から読もうとする思いが働きます この読み方をやめる必要があります * それでは 見る角度を変えて そのお言葉に込められた思いから見ていくとはどういう見方をすることでしょうか それは あなたは自分がいかに 心が貧しい人間でしかないか気づきなさい 気づくことによって あなたがたは神から幸いだと言われている そういう人はすでに天の支配の中に入れて頂いていると言えると言われたのです * 自分で頑張ったり 悟ったりして 心が貧しくなろうとすることではなく 主の前に 心がいかに貧しくて 何の取り柄もない人間に過ぎないと気づいて 初めて神が用意して下さっている幸いを受ける者となると言われたのです この角度から一つ一つの語られた内容を見ていくことにしましょう (2) 霊の貧弱さに気づいた人が幸いだとは? * ここには 8 つの幸いについて語られています 11 節の内容も加えて 9 つの幸いという人もありますが イエス様の思いの中では 8 つを一括りで語られたものだと考えられます 日本語では文の最後に訳されている言葉ですが ギリシャ語では最初に幸いなるかなと記され 幸いとはこのようなものだと強調されているのが分かります * ただ意味なく羅列されているわけではありませんから 今日はその中の 4 つの幸いについて見ていくことにしましょ 4
う 一つ一つにどのようなつながりを持って語られているのか 弟子たちを中心とした 群衆にも語りかけられたものとして見ていくことにしましょう * 第 1 の幸いは 幸いなのは 心の貧しい人だと言いました この心という言葉は 本来霊を現す言葉で 心と訳すと どうも別な内容に思えて仕方がありません 貧弱な心の人は幸いだと言われると どう理解すべきか分かりません この霊は 神のかたちとして与えられたもので 唯一 神と結びつくことができる部分であって 神を思い 神の愛を受けとめ 罪に気づく特殊能力とでも言えばいいでしょうか 幸いなのは この霊が貧しい人だと言われたのです * すなわち 自分の霊が十分に働いておらず 神との結びつきが貧弱で 神を知る能力が不足しており 罪が分からず 神の愛の深さも分かっておらず 神の深いお心が全く見えていない これで神のかたちである霊を頂いた人間と言えるのか そんな自分の霊の貧弱さに気づいた人は幸いだと言われているのです * なぜ霊の貧弱さに気づいた人が幸いだと言われているのでしょうか 気づくことが 霊が満たされていくための初期状態だと見られているからです 霊があることさえ気づいていない人がほとんどです どれほど霊が貧弱であるか気づくこともないのです 言うならば 霊が完全に栄養失調状態になってしまっているのです からだであれば 動かなくなりますから分かりますが 霊は感じることがないので 分からないまま滅びに向かうだけです * それ故 イエス様が弟子たちに また群衆に教えるために語られた最初のことは 霊がいかに栄養失調状態になっているか気づきなさいと言うことだったのです 頑張って律 5
法を守り 立派な信仰者らしくきよい歩みをしなさいと言われたのではなく 自分の霊の栄養失調状態に気づけ そうすれば神の支配はそのような人たちのものだと言われたのです 言葉に込められた思いから すなわち 見る角度を変えて見ると イエス様の語られた思いが見えてきます * 神の支配の中に置かれて生きていくことができるという最も幸いな人生は まず自分の霊の栄養失調状態に気づいた人だけだ 神はそのような人に 霊の栄養を与えて 神の愛の深さを知るように整え 罪の恐ろしさ 神に逆らうことの無謀さ 神から受ける恵みの大きさ 導きのすごさ すべて必要な祝福を与えつつ 育てて行って下さるという神の支配の中で喜び驚くことができるのです * もちろん 霊の栄養失調状態であることを知ったならば それを回復して下さるようにと霊が必要としている栄養に飢え渇き 神がその栄養を満たして下さると信じる思いを起こして導いて下さるのです すなわち 気づくことは満たしにつながっているということです 気づいても何の思いも起こらないというのは 本当の意味で気づいていないだけです (3) 第 2,3,4 の幸いについての真意 * 第 1 の幸いが全体の中に流れている中心テーマーだと言えます それを基に第 2,3,4 の幸いについて見ていくことにしましょう 第 2 は 幸いである 悲しんでいる人はと言われました 何を悲しんでいるかと言いますと 神の前に立つ自分の位置を失った悲しさだと言えます * これを勘違いして 世的境遇を悲しんでいる人は幸いだと言われたと受けとめてしまうと その意味するところが全 6
く見えず 一体何のことを言われたのか分からないのです 世的境遇を悲しめとは決して言われません 人は 貧富 容貌 学力 能力 世における境遇などによる様々な境遇に置かれ ある人はそれを喜べるし ある人はそれを悲しみます それらは 人の前に生きる上で考えさせられることです しかしこの観点からイエス様が言われたはずはありません これが最初に言った見る角度を変えることです * 表面上から読もうとする思いをやめ イエス様が そのお言葉にどのような思いを込められたかという角度から見ていくと分かります イエス様は 神の前にどのように生きることができるようにされているのかを 気づかせるために語られているのですから 神の前に立つ自分に気づいて いかに立ち位置を見失ってしまっている自分がそこにいるか それを悲しんでいる人は幸いだと言われたのです * それは第 1 の霊の貧しさに通じるものだと言えます そこでは 自分の霊の栄養失調状態に気づくことが幸いな人になる原点だと言われたのですが 悲しんでいる人はと言うことによって 神の前における立ち位置を見失ってしまったことによって 霊が死んでいることに気づけ 早く霊を回復して頂きたいと願いなさい それが幸いな人としてのあるべき姿だと言われたのです * そのような人は慰めを受けると言われています 大丈夫だ気づきさえすれば 見失っていた立ち位置を回復させるために 神が慰めの御手を伸べて下さるからだと言われているのです * 第 3 は 幸いなるかな 柔和な人たちはと言われました この言葉は 徳目の一つのように受けとめられやすい言葉で 優しく穏やかで 粗暴さのない姿を現している性質と 7
考えられやすいのですが ある学者たちは この原語は 抑圧され 厳しい状況の中で自分の無力さ 取るに足りない様を認め それを耐えている そんな自分の低さを知っている人のことを表す言葉だと言います * 確かにこのところで イエス様が そのお言葉にどのような思いを込められたかという角度から見ていくと この話の流れからも 神の前にどのように生きるようにされているかという思いで語られたのであれば このような柔和さという美徳を持つ人は幸いだと言われるはずがなく 世の境遇において たとえ抑圧される境遇にあろうと 大事な事は 神の前における立ち位置ですから 神の前にいかに自分が低い人間であるかを認め 神の前に砕かれる者は幸いだと言われたと考えられます * 人間は 大抵 神の前における自分の姿が見えていませんから 自分が立派であるかのように虚勢を張り 自分の低さを見せないように生きている者です しかしイエス様は 神の前に自分の低さを認め 砕かれ 降参しなさい そうすれは 本当の意味で 地を受け継ぐ者 すなわち 世において真の勝利者 支配者にされると言われたのです * 第 4 の幸いは 幸いなのは 義に飢え渇いている人だと言われました これも正義感を貫き通すことができる意志の強い人 義を求め続ける正しくてきよい人という意味で言われたとは考えられません イエス様がどのような思いで語られたかという角度から見るならば 神の前に立って 自分の中に 神が義と見て下さる部分がどこにもなく 神のかたちである霊を持っているとは決して言えない貧弱な人間でしかなく 神の一方的な恵みによって 神の前に立つことができる義が与えられるように願う者は幸いだと言 8
われたのです * そうすれば 神は 私たちの内に義を見ることができないみじめな存在でしかないことが分かっておられても 私が来たことによって 贖いのみわざを成し遂げることによって神は義がある者 喜んで神の前に立つことができる者として義を満たして下さると言われたのです ( 結び ) 気づくことと認めることが幸いな人生の条件 * 私たちがいつの間にか持ってしまっている世の感覚や世的理解や判断から 脳の内に映像化されているイメージが この山上の使信について 正しく理解するのに困難になっていました しかし 見る角度を変え イエス様の御思いがどこにあるのかという観点から見るようになれば そこに込められたメッセージが見えてきます * 今日は 幸いなるかなと語られた幸福のメッセージの前半部分を見てきました 何を幸いに感じるかは 人様々ですから 一般的に 断定してこうだと言うことができませんが しかしここでイエス様が語られたことは 神の前に生きることなくして人間に幸いなどはない それ故 どうあることが神の前に生きることか 前半の 4 つの幸いについて語られたのを見てきました * 第 1 は 霊の貧しい人はと言われ 自分の霊の栄養失調状態に気づけ そうすれば神の支配はそのような人たちのものだと言われ 第 2 は神の前に立ち位置を見失ってしまっている自分がいることに早く気づいて それを悲しんでいる人は幸いだ 気づきさえすれば その立ち位置を戻させるために 神が慰めの御手を伸べて下さると言われました * 更に第 3 において 柔和な人という言葉で 神の前に自分 9
の低さを認め 砕かれ 降参する人が 世において真の勝利者 支配者にされると言われ 第 4 において 自分の中に 神のかたちである霊を持っているとは決して言えない 義のない貧弱な人間でしかなく 神の一方的な恵みによって神の前に立つことができる義が与えられるように願う人が幸いだと言われました * この 4 つの幸いな状態は 一つのことを示しています どうあれば神の前に立ち 幸いな人生を送ることができるかという一点です 神が霊なる存在として造られた人間からほど遠く 遠く離れた存在になってしまっていることに早く気づいて 虚勢を張らず 格好をつけず 自分の弱さ 低さ 栄養失調状態であることを悲しみ それを認め 神の前に立つには 最もふさわしくない者であることに気づきなさい そうすれば 神はあわれみ 慰め 恵みを与え 祝福の中に置いて下さる それが幸いな人生だと教えられたことが分かります * イエス様は 弟子たちや群衆に対して 神の前に立つ者でありたいと願う者は 自分がそれにいかにふさわしくない存在であるか 早くそれに気づき 認めなさいと言われました 気づくことと認めること この 2 つが幸いな人になる条件だと言われました * しかし 人間は気づいているようで気づいておらず 認めているようで認めてはいないのです それは 罪がもたらした霊的無知と頑固さが内側に染み込んでいるからです ですから それが解決するための唯一の方法は 御言葉を食べ続けるしかありません そうすることによって 無知と頑固さが砕かれていき 主が用意して下さっている幸い人生に入ることができることをイエス様が示されたのです 10