聖 書 へブル12:11,12 (第41講)

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2013 年 3 月 10 日 ( 日 ) 11 日 ( 月 ) 51 回目 Ⅵ-054 山上の垂訓 山上の垂訓 054 マタ 5:1~2 ルカ 6:17~19 1. はじめに (1) 呼び名について 1マタ 5:1~8:1 は 通常 山上の垂訓 ( 説教 ) と呼ばれる 2しかし この名称は 説教

2013 年 3 月 24 日 ( 日 ) 25 日 ( 月 ) 52 回目 Ⅵ-054 八福の教え 八福の教え 054 マタ 5:3~12 ルカ 6:20~26 1. はじめに (1) 文脈の重要性 1 文脈を無視して 山上の垂訓のある言葉を取り出すことが余りにも多い 2イエスは 神の国の福音をも

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ます しかしこれでは義に飢え渇いているとはとても言えないのではないでしょうか また自分の生活を振り返って こう質問してみてください 自分は果たして毎日をどんな基準によって歩んでいるだろうか と 神から見て何が正しいことかを考え その義に従って義の道を歩もうとしているか それとも義のことはあまり考えず

た私の霊が住んでいる大事な住居として用いるようにされており 私であるという強い自意識を持ちながら からだも心も性格もあらゆる特徴も 私らしさという特質を持った者として生かされているのです * それは 後に与えられると言われている霊のからだ 朽ちないからだと表現されている 天に属するよみがえりのからだ

2011年度 牧羊者 第Ⅳ巻

2011 年 06 月 26 日 ( 日 ) 27 日 ( 月 )26 ローマ人への手紙 7:14~25 律法からの解放 (3) ロマ書 7 章クリスチャン 1. はじめに (1) 聖化 に関する 5 回目の学びである 1 最大の悲劇は 律法を行うことによって聖化を達成しようとすること 2この理解は

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1 説 教 聖日礼拝 北浜チャーチ 黒田 禎一郎 2017 年 6 月 4 日 ( 日 ) 主 題 : すべてを感謝しましょう! テキスト :1コロサイ人への手紙 3 章 17 節 はじめに たった一度しかない人生 私たちはどのように生きているでしょうか? 生き方を知っている人は幸いです しかし 多

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* ユダヤ人の歴史家ヨセフスもまた同じような書き方をしている 5 テオピロは ルカの執筆活動を支援するパトロンであった可能性が高い 6 もしそうなら テオピロはローマ人クリスチャンであったと思われる (2)1~2 節は ルカの福音書の要約である 1 前の書 というのは ルカの福音書 のことである 2

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2011 年 07 月 17 日 ( 日 ) 18 日 ( 月 )29 ローマ人への手紙 8:12~17 聖化の力 ( 聖霊 )(3) 養子の霊 1. はじめに (1) 聖化 に関する 8 回目の学びである 最終回 1 最大の悲劇は 律法を行うことによって聖化を達成しようとすること 2この理解は ク

2 イエスの戒めを守るなら イエスの愛に留まることになる (2) その教えを話した理由は 弟子たちが喜びに満たされるためである 1イエスは 自分が経験している喜びを弟子たちに与えようとしている 2イエスの喜びは 父なる神への従順 ( 喜ばせること ) によって生まれる 3ヘブ 12:2 Heb 12

創世記5 創世記2章4節b~25

(2) ロマ 7:1~6 の要約 1 律法の大原則 * 律法は 人に対して権限を持つ * 律法は 死んだ人には権限を持たない 2 結婚関係の例話 * 夫が生きている間は 結婚の律法によって制約されている * それを破れば 姦淫の女と呼ばれる * 夫が死ねば 結婚の律法から解放される * 再婚しても

牧会の祈り

2011 年 10 月 16 日 ( 日 ) 17 日 ( 月 )42 ローマ人への手紙 11:25~36 拒否の解決 (3) イスラエルの救い 1. はじめに (1)10 月 13 日 ( 木 ) の日没から仮庵の祭りが始まった 1 第 7 の月の 15 日 満月 2 満月を眺めながら イスラエル

2018 年 5 月 27 日 ( 日 ) 28 日 ( 月 ) 14 回 ペテロの第 2 のメッセージ (2) ペテロの第 2 のメッセージ (2) 使徒 3:17~26 1. はじめに (1) ペンテコステの日に教会が誕生した 1ペテロの第 1 回目のメッセージにより 3,000 人ほどの人たち

2012 年 1 月 22 日 ( 日 ) 23 日 ( 月 )54 ローマ人への手紙 15:4~13 希望から希望へ 1. はじめに (1) 文脈の確認 11~8 章が教理 29~11 章がイスラエルの救い 312~16 章が適用 (2)14:1~15:13 は 雑多な問題を扱っている 1 超道徳

このメッセージは メシアの義とパリサイ人の義について学ぼうとするものである Ⅰ. 真の信仰者の特徴 (5:13~16) 1. 地の塩 (13 節 ) あなたがたは 地の塩です もし塩が塩けをなくしたら 何によって塩けをつけるのでしょう もう何の役にも立たず 外に捨てられて 人々に踏みつけられるだけで

聖書マタイによる福音書 11:15~19 ( 第 53 講 ) 題 肉の思いから解放された信仰によって変えられる ( 序 ) 自己願望から物事を見る弊害を理解する * すべての人間は アダムが犯した罪人として 汚染された DNA を受け継ぎ 自己中心の生き方をするようになってしまいました それが当た

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2017 年 10 月 8 日 ( 日 ) 9 日 ( 月 ) 15 回さらにすぐれた契約 さらにすぐれた契約 ヘブル 8:1~13 1. はじめに (1) この手紙が書かれた理由を再確認する 1 信仰が後退しつつあった第 2 世代のメシアニック ジューたちへの励まし (2) ユダヤ教の 3 つの柱

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よと言っておられます あなたが思っているような安定した生活を送ることはできない 心地よい生活ではない 狐や空の鳥以下の生活であると なぜイエス様ともあろう大先生の生活がこういうものなのでしょう その答えは一言で言えば 私たちのため ということです マルコの福音書 10 章 45 節 : 人の子も 仕

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一 マリヤへの恵みある教会に 何かというと 恵まれた女よ おめでとう と言う人がいました 女性のための聖書のクラスで 誰かが正しい答えを言ったら 恵まれた女よ おめでとう 感謝なことの証しをしたら 恵まれた女よ おめでとう 誰かが牧師に祈ってもらっている姿を見たら 恵まれた女よ おめでとう 彼女はい

2017 年 8 月 13 日 ( 日 ) 14 日 ( 月 ) 7 回 第 2 の警告 (2) 第 2 の警告 (2) ヘブル 4:1~13 1. はじめに (1) この手紙が書かれた理由を再確認する 1 信仰が後退しつつあった第 2 世代のメシアニック ジューたちへの励まし 2 彼らは 迫害と誤

しイエス様は 5 章 20 節でこう言っておられました わたしはあなたがたに言います あなたがたの義が 律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ あなたがたは決して天の御国に入れません 律法学者やパリサイ人は 当時のユダヤの社会で最も道徳的な人たちと敬われていた人々です 彼らは当然 自分たちは正

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た 義認 の祝福を述べたものでしょうか しかしこの 1 節は 2 節の頭に なぜなら という言葉があるように 2 節と密接に関連しています ですから 2 節を見て行くことによって 1 節の意味を確かめることができます 2 節が述べていることは何でしょうか それは罪と死の原理からの解放です 私たちが

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2 奇跡 3 父 4 聖書 4. メッセージのゴール (1) イエスを誰だと言うか (2) イエスを信じる者の幸いとは何か このメッセージは イエスの業と主張について考えようとするものである Ⅰ. イエスと父は一体である (19~29 節 ) 1. 行動において まことに まことに あなたがたに告げ

聖書 : ピリピ 3:1~3 説教題 : 神の御霊による礼拝 日時 :2017 年 2 月 26 日 ( 朝拝 ) ピリピ人への手紙第 3 章に入ります この手紙は全部で 4 章からなっていますので 今日から後半部に入ることになります パウロは 最後に 私の兄弟たち と始めます この手紙はまだ半分ま

良いこと となります ともするとクリスチャンは こう考えやすいかもしれません 私は人がどう考えるかは気にしない 神がどう思われるかだけを心に留める と 確かにそこに真理はあるのですが そのあまり 人々がどう考えるかを顧慮しない傍若無人な態度を取るのが良いのではありません パウロはここで 人々がどう見

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仕事が湧き出る不思議な法則 社労士 空 営業法 営業は空だった 平成 30 年 4 月 社労士事務所を楽しく経営する会 穂浪高士 1

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失敗がこわいから ルールに反するから 仕事をしてるから 恥ずかしいから 人脈がないから 女だから で ほんとはどうしたいの?名言集 01.indd p11 修正時間 2016 年 10 月 13 日 17:35:42 名言集 01.indd p10 修正時間 2016 年 10 月 13 日 17:

2012 年 2 月 26 日 ( 日 ) 27 日 ( 月 )59 ローマ人への手紙総まとめ 総まとめ 1. はじめに (1) 執筆の意図 1 使徒としての使命 * 所々 かなり大胆に書いた (15:15) 2 使徒としての奉仕の原則 * 他人の土台の上に建てない (15:20) * これまで ロ

イエスさまの公的な活動は 2 年から 3 年と言われます その短い時間の中で人々に与えた影響は 考えられないほど大きいものでした ここに今日 わたしたちが集まって礼拝しているのも そのせいです けれどもその 2 年ないし 3 年のイエスさまの活動はずっと順調であったわけではありません イエスを愛し慕


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第二に 聖さを得るために 私たちはすべての人との平和を追い求めなければなりません 私たちの思いの内にある敵対心や闘争心などを放っておかず 平和的に生きるように努めなければなりません へブル書の著者は このことについて 非常に厳しく警告しています 私たちが神の聖さにあずかる者とならない限り 主を見るこ

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2012 年 1 月 15 日 ( 日 ) 16 日 ( 月 )53 ローマ人への手紙 14:13~15:3 キリスト者の自由 1. はじめに (1) 文脈の確認 11~8 章が教理 29~11 章がイスラエルの救い 312~16 章が適用 (2)12 章は 基本的には教会内の行動についての勧めであ

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2 / 7 今回は 自分の幸せだけでいいのか 第二回のお話をします 前回は 人間が集まって生きていくその基本となるのは 共同体 であるという 古い時代の話を致しました この共同体的生活というのは 全世界どこの地域でも始まったものでした ところが 中国を含めたこの東北アジアでは この共同体を徹底的に深

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HからのつながりH J Hでは 欧米 という言葉が二回も出てきた Jではヨーロッパのことが書いてあったので Hにつながる 内開き 外開き 内開きのドアというのが 前の問題になっているから Hで欧米は内に開くと説明しているのに Jで内開きのドアのよさを説明 Hに続いて内開きのドアのよさを説明している

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レポートのご紹介と報酬について 1 Copyright(C) 2012 株式会社アリウープ, All Rights Reserved.

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2 イエスは大胆に わたしは道です と言われました イエスが歩まれた道です イエスが示された道です 正しく この人を見よ! です それが聖書の教えです 私たちはこの一年間 幸いなみ言葉を心に覚えて進みたいと願います 今日は この年間聖句から次の2 点を考えてみましょう 大切なポイント 1. 勝利者イ

2017 年 7 月 16 日 ( 日 ) 17 日 ( 月 ) 3 回 御使いに勝る御子 (2) 御使いに勝る御子 (2) ヘブル 2:1~9 1. はじめに (1) この手紙が書かれた理由を再確認する 1 信仰が後退しつつあった第 2 世代のメシアニック ジューたちへの励まし 2 彼らは 迫害と

2017 年 7 月 2 日 ( 日 ) 3 日 ( 月 ) 1 回 ヘブル人への手紙のテーマ ヘブル人への手紙のテーマ ヘブル 1:1~3 1. はじめに (1) 著者 1いくつかの名が上げられてきた * パウロ * ルカ ( パウロがヘブル語で書いたものを ルカがギリシア語に翻訳した ) * バ

年 9 月 24 日 / 浪宏友ビジネス縁起観塾 / 法華経の現代的実践シリーズ 部下を育てない 事例甲課乙係のF 係長が年次有給休暇を 三日間連続でとった F 係長が三日も連続で休暇をとるのは珍しいことであった この三日の間 乙係からN 課長のところへ 決裁文書はあがらなかった N

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현장 전도를 위한 1단계 전도훈련교재 4

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* ダニエル書 3 捕囚期後 (3) * ハガイ書 * ゼカリヤ書 * マラキ書 (5) 預言者たちが語ったメッセージの要約 1 神の主権と聖なるご性質 2 契約の民イスラエルの不従順の罪 3 悔い改めへの招き 4 迫り来る神の裁きと捕囚 5イスラエルの民を攻撃する周辺国への裁き 6 捕囚からのレム

CL8 ええ それで母に相談したら そんな会社に行かずに地元に戻って就職しなさいと言われま した 就職活動はまた始めた方が良いような気がしますけど でも 本当にどうしてよいか わからなくて CO9 今は どうしたらよいかわからないのですね CL9 そうなんです でも 破綻した会社に行くのは不安だし

意図の力 新年のための明確な道筋を設定するシッダ ヨーガ瞑想ティーチャースワーミ シャーンターナンダ 新しい始まり 新たな意図 新年を迎えるにあたり 私たちはそれが持つ私たちへの可能性を も歓迎することになります あなたはこれからの一年に何を望みますか あなたの精神の旅が どのように展開すると思い描

スライド 1

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Rev 7:1 この後 私は見た 四人の御使いが地の四隅に立って 地の四方の風を堅く押さえ 地にも海にもどんな木にも 吹きつけないようにしていた (1) この後 私は見た 1 物事の時間的流れではなく ヨハネが見た幻の順番を示している 2この幻は 神の裁きが迫っていることを示唆している 3 地の四方

ども これを用いて 患者さんが来たとき 例えば頭が痛いと言ったときに ではその頭痛の程度はどうかとか あるいは呼吸困難はどの程度かということから 5 段階で緊急度を判定するシステムになっています ポスター 3 ポスター -4 研究方法ですけれども 研究デザインは至ってシンプルです 導入した前後で比較

さまいイエス様は生きておられる! ふくいんしょしょうふくいんしょしょうふくいんしょマタイによる福音書 28 章とマルコによる福音書 16 章とルカによる福音書 24 章ふくいんしょしょうかはなしさいわヨハネによる福音書 20 章に書かれているお話の再話 しょうと せいしょものがたり ミニ聖書物語 フ

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大阪インターナショナルチャーチ アリステア・マッケナ師 2015/6/28

私自身 OIC に来てまだ 2 年弱です ですから この教会の歴史は少ししか知りません けれども 神は OIC の歴史のすべてをご存じです 創立当時から 神ご自身がこの教会を支えてこられました そして この教会に来た人 去っていった人すべての心をご存じです この 42 年の歴史をとおして 神は OI

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中学校第 3 学年国語科学習指導案 日時平成 28 年 月 日第 校時対象第 3 学年 組学校名 中学校授業者 1 教材名 故郷 2 単元の目標 情景や人物を描写する語句や表現を読み取り 内容への理解を深めることができる 作品を通して 社会の中での人間の生き方について考え 自分の意見をもつことができ

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で宣教していると非難されないように そういう恐れがあるところでは一切 献金を受 けませんでしたが ピリピ教会との間にその心配はなかったのです このことから見て も いかにパウロと良好な関係にあった教会だったかが分かります さてパウロはこの手紙の執筆時 どこにいたのでしょう この手紙から分かることは

課題研究の進め方 これは,10 年経験者研修講座の各教科の課題研究の研修で使っている資料をまとめたものです 課題研究の進め方 と 課題研究報告書の書き方 について, 教科を限定せずに一般的に紹介してありますので, 校内研修などにご活用ください

生徒用プリント ( 裏 ) なぜ 2 人はケンカになってしまったのだろう? ( 詳細編 ) ユウコは アツコが学校を休んだので心配している 具合の確認と明日一緒に登校しようという誘いであった そのため ユウコはアツコからの いいよ を 明日は登校できるものと判断した 一方 アツコはユウコに対して 心

1 それは キリストにのみ適用される御名である (2) 旧約聖書では 御使いたちは 神の子たち と呼ばれた Job 38:7 そのとき 明けの星々が共に喜び歌い / 神の子たちはみな喜び叫んだ 1 新約聖書では 信者が 神の子たち と呼ばれる ( ヨハ 11:52) 2しかし 御子 ( ヒュイオス

ステップ2

としたこと それに対してイエスは 今は 止めないでほしい 正しい ことをすべて行うのは 我々にふさわしいことです ( マタイ 3 15) と 言って ヨハネから洗礼をお受けになったと伝えています しかしマルコ福音書は そういうことは何も伝えていません イエス は ユダヤの全地方から集まって来た大勢の

B2 神はどのようなお方か 1Chro.29:10-12 Dt.10:12-13 Ps.95:1-7 B3 イエス キリストはどのようなお方か John.14:8-10 Mk.6:31-56 John.10:30-33 Heb.2: John.4:2-3 2John.7-10 B4 三位

Transcription:

聖書マタイによる福音書 5:1~12 ( 第 11 講 ) 題 イエス様の御思いから見た幸いな人生 その 1 ( 序 ) 間違ったイメージがもたらす誤解の怖さ * 最近つくづく感じさせられることですが 人間というのはイメージによって生きているものだとつくづく思わされています 過去に 自分の中に作り上げられてしまったイメージに囚われやすいのですが それから解放された時から 正しいイメージを描き直して 力強く前進していくことができると言っていいでしょう * 聖書信仰などは 特にそうだと言って間違いないでしょう 最初に持ってしまったイメージが 正しいイメージならいいのですが 間違っていた場合 最後までその人の信仰を妨げる結果になります まして人間の知恵で理解できない福音ですから 聖霊の助けを頂いて 神の知恵を理解していくという向かい方ができない限り 神の知恵が分からないままで終わってしまう可能性があります * 私の正直な思いですが これまでマタイによる福音書の学びをなるべく後回しにしようと 少し避けてきたところがありました それは特に この 5 章から 7 章にかけて語られている内容で 昔はこれを山上の垂訓という表題で呼んでいました 今では山上の説教と呼ばれる場合が多いですが 私なら 山上の使信と言いたい内容です 始めにこの内容を読んだ時 すごいレベルが高過ぎる教えだと感じながら 自分の中で いつの間にか 知らず知らずこの通りにできなければ 信仰者として失格なのではないかという思いに囚われ 自分の中で 新約の律法のように考えてしまっていたところがありました 1

* それは いろいろな註解書を読んでも そのイメージを振り払ってくれる書物に出会うこともなく 真の慰めを受け取らせてくれるものは一つもなく 私と同じ古いイメージから抜け出ていないのではないかと感じさせられる解説ばかりです 結局は 聖書を註解する人たちも 神の知恵を受けとめていないと感じさせられるものばかりでした * 私自身 霊的な受けとめ方ができるようにされてからも それでも古いイメージからなかなか解放されない思いが残っており ここに記されている使信を ところどころ取り上げることはあっても 全体を通して真剣に取り組もうとする思いが起こされなくて 今日まで来ました しかし そこにどのような神の御心が示されているのか 古いイメージから解放された者として 聖霊の助けを得て 人間の知恵による見方ではなく 神の驚くべき深い知恵から出た意味のある教えとして見ていきたいと思わされたのです (1) 見る角度を変えて読み取っていく御心 * イエス様がこの地上に遣わされて何をなそうとされたのか 父なる神から与えられた使命は何であったのか それをマタイは 要約の形でここに述べてきたと見てきました その結果 多くの人々は そのお姿を見聞きしてどのように受けとめたのか ここに記されている 従った という表現だけでは詳しくは分かりませんが いろいろな思いを持ってイエス様の下に集まってきたので イエス様は山に登って そこに座につかれたと言われています * イエス様には まだそんなつもりはなかったので 群衆を離れて山に登られ 弟子たちだけがついてきたのか それとも 群衆も一緒についてきて 弟子たちがそばで聞きな 2

がら 群衆もその話に聞き入っていたのか これだけではよく分かりません 7 章の終わりのところで イエス様の権威ある教えのすごさに群衆が驚いたとありますから おそらく 全員とは言えないまでも 群衆も一緒に山というか丘に登り その教えに聞き入ったのでしょう * ある学者たちは マタイがイエス様の教えを編集して一つに集めたのではないかと見ていますが 弟子たちや 聞こうとしていた群衆に対して これぐらいの話を一気になさるのは 不思議でも何でもないでしょう ルカにおいて 分散して語られているのは イエス様は一度限りしか語られなかったというのではなく それに近い内容を繰り返し語られたと考える方が普通でしょう それ故 ルカでは分散して記していると考えるべきです * 弟子たちだけにせよ 弟子たちを中心に多くの群衆がいたにせよ この時にイエス様が教えようとされたことは 道徳律のようなものではなく 昔モーセを通して律法を与えられたのは 神の前にどう生きなければならないかという内容でしたが ここにおいてイエス様が教えられたことは それと同様の新約版だと言うのではありません * 律法を守ることができない人間であることをイエス様はよくご存じでありますから 同様の要求をなさるはずがありません ご自身の贖いのみわざはまだ先ですが それを成就されることを前提として語られていると見るべきでしょう それを基にした罪赦された者が 神の前にどのように生きることができるようにされているのかを 気づかせるものであったと言うべきでしょう * このことを理解するためには 見る角度を変えなければ その意図するところが見えません 見る角度を変えるとは 3

言葉の表面上ばかり見ないで 言葉に込められた思いから見ていくことです それを具体的に見ていきましょう どういう人が幸いな人かを語られました 心を貧しくすることができた人だけが幸いだと言える そういう人だけが天国に入れて頂けると表面上から読もうとする思いが働きます この読み方をやめる必要があります * それでは 見る角度を変えて そのお言葉に込められた思いから見ていくとはどういう見方をすることでしょうか それは あなたは自分がいかに 心が貧しい人間でしかないか気づきなさい 気づくことによって あなたがたは神から幸いだと言われている そういう人はすでに天の支配の中に入れて頂いていると言えると言われたのです * 自分で頑張ったり 悟ったりして 心が貧しくなろうとすることではなく 主の前に 心がいかに貧しくて 何の取り柄もない人間に過ぎないと気づいて 初めて神が用意して下さっている幸いを受ける者となると言われたのです この角度から一つ一つの語られた内容を見ていくことにしましょう (2) 霊の貧弱さに気づいた人が幸いだとは? * ここには 8 つの幸いについて語られています 11 節の内容も加えて 9 つの幸いという人もありますが イエス様の思いの中では 8 つを一括りで語られたものだと考えられます 日本語では文の最後に訳されている言葉ですが ギリシャ語では最初に幸いなるかなと記され 幸いとはこのようなものだと強調されているのが分かります * ただ意味なく羅列されているわけではありませんから 今日はその中の 4 つの幸いについて見ていくことにしましょ 4

う 一つ一つにどのようなつながりを持って語られているのか 弟子たちを中心とした 群衆にも語りかけられたものとして見ていくことにしましょう * 第 1 の幸いは 幸いなのは 心の貧しい人だと言いました この心という言葉は 本来霊を現す言葉で 心と訳すと どうも別な内容に思えて仕方がありません 貧弱な心の人は幸いだと言われると どう理解すべきか分かりません この霊は 神のかたちとして与えられたもので 唯一 神と結びつくことができる部分であって 神を思い 神の愛を受けとめ 罪に気づく特殊能力とでも言えばいいでしょうか 幸いなのは この霊が貧しい人だと言われたのです * すなわち 自分の霊が十分に働いておらず 神との結びつきが貧弱で 神を知る能力が不足しており 罪が分からず 神の愛の深さも分かっておらず 神の深いお心が全く見えていない これで神のかたちである霊を頂いた人間と言えるのか そんな自分の霊の貧弱さに気づいた人は幸いだと言われているのです * なぜ霊の貧弱さに気づいた人が幸いだと言われているのでしょうか 気づくことが 霊が満たされていくための初期状態だと見られているからです 霊があることさえ気づいていない人がほとんどです どれほど霊が貧弱であるか気づくこともないのです 言うならば 霊が完全に栄養失調状態になってしまっているのです からだであれば 動かなくなりますから分かりますが 霊は感じることがないので 分からないまま滅びに向かうだけです * それ故 イエス様が弟子たちに また群衆に教えるために語られた最初のことは 霊がいかに栄養失調状態になっているか気づきなさいと言うことだったのです 頑張って律 5

法を守り 立派な信仰者らしくきよい歩みをしなさいと言われたのではなく 自分の霊の栄養失調状態に気づけ そうすれば神の支配はそのような人たちのものだと言われたのです 言葉に込められた思いから すなわち 見る角度を変えて見ると イエス様の語られた思いが見えてきます * 神の支配の中に置かれて生きていくことができるという最も幸いな人生は まず自分の霊の栄養失調状態に気づいた人だけだ 神はそのような人に 霊の栄養を与えて 神の愛の深さを知るように整え 罪の恐ろしさ 神に逆らうことの無謀さ 神から受ける恵みの大きさ 導きのすごさ すべて必要な祝福を与えつつ 育てて行って下さるという神の支配の中で喜び驚くことができるのです * もちろん 霊の栄養失調状態であることを知ったならば それを回復して下さるようにと霊が必要としている栄養に飢え渇き 神がその栄養を満たして下さると信じる思いを起こして導いて下さるのです すなわち 気づくことは満たしにつながっているということです 気づいても何の思いも起こらないというのは 本当の意味で気づいていないだけです (3) 第 2,3,4 の幸いについての真意 * 第 1 の幸いが全体の中に流れている中心テーマーだと言えます それを基に第 2,3,4 の幸いについて見ていくことにしましょう 第 2 は 幸いである 悲しんでいる人はと言われました 何を悲しんでいるかと言いますと 神の前に立つ自分の位置を失った悲しさだと言えます * これを勘違いして 世的境遇を悲しんでいる人は幸いだと言われたと受けとめてしまうと その意味するところが全 6

く見えず 一体何のことを言われたのか分からないのです 世的境遇を悲しめとは決して言われません 人は 貧富 容貌 学力 能力 世における境遇などによる様々な境遇に置かれ ある人はそれを喜べるし ある人はそれを悲しみます それらは 人の前に生きる上で考えさせられることです しかしこの観点からイエス様が言われたはずはありません これが最初に言った見る角度を変えることです * 表面上から読もうとする思いをやめ イエス様が そのお言葉にどのような思いを込められたかという角度から見ていくと分かります イエス様は 神の前にどのように生きることができるようにされているのかを 気づかせるために語られているのですから 神の前に立つ自分に気づいて いかに立ち位置を見失ってしまっている自分がそこにいるか それを悲しんでいる人は幸いだと言われたのです * それは第 1 の霊の貧しさに通じるものだと言えます そこでは 自分の霊の栄養失調状態に気づくことが幸いな人になる原点だと言われたのですが 悲しんでいる人はと言うことによって 神の前における立ち位置を見失ってしまったことによって 霊が死んでいることに気づけ 早く霊を回復して頂きたいと願いなさい それが幸いな人としてのあるべき姿だと言われたのです * そのような人は慰めを受けると言われています 大丈夫だ気づきさえすれば 見失っていた立ち位置を回復させるために 神が慰めの御手を伸べて下さるからだと言われているのです * 第 3 は 幸いなるかな 柔和な人たちはと言われました この言葉は 徳目の一つのように受けとめられやすい言葉で 優しく穏やかで 粗暴さのない姿を現している性質と 7

考えられやすいのですが ある学者たちは この原語は 抑圧され 厳しい状況の中で自分の無力さ 取るに足りない様を認め それを耐えている そんな自分の低さを知っている人のことを表す言葉だと言います * 確かにこのところで イエス様が そのお言葉にどのような思いを込められたかという角度から見ていくと この話の流れからも 神の前にどのように生きるようにされているかという思いで語られたのであれば このような柔和さという美徳を持つ人は幸いだと言われるはずがなく 世の境遇において たとえ抑圧される境遇にあろうと 大事な事は 神の前における立ち位置ですから 神の前にいかに自分が低い人間であるかを認め 神の前に砕かれる者は幸いだと言われたと考えられます * 人間は 大抵 神の前における自分の姿が見えていませんから 自分が立派であるかのように虚勢を張り 自分の低さを見せないように生きている者です しかしイエス様は 神の前に自分の低さを認め 砕かれ 降参しなさい そうすれは 本当の意味で 地を受け継ぐ者 すなわち 世において真の勝利者 支配者にされると言われたのです * 第 4 の幸いは 幸いなのは 義に飢え渇いている人だと言われました これも正義感を貫き通すことができる意志の強い人 義を求め続ける正しくてきよい人という意味で言われたとは考えられません イエス様がどのような思いで語られたかという角度から見るならば 神の前に立って 自分の中に 神が義と見て下さる部分がどこにもなく 神のかたちである霊を持っているとは決して言えない貧弱な人間でしかなく 神の一方的な恵みによって 神の前に立つことができる義が与えられるように願う者は幸いだと言 8

われたのです * そうすれば 神は 私たちの内に義を見ることができないみじめな存在でしかないことが分かっておられても 私が来たことによって 贖いのみわざを成し遂げることによって神は義がある者 喜んで神の前に立つことができる者として義を満たして下さると言われたのです ( 結び ) 気づくことと認めることが幸いな人生の条件 * 私たちがいつの間にか持ってしまっている世の感覚や世的理解や判断から 脳の内に映像化されているイメージが この山上の使信について 正しく理解するのに困難になっていました しかし 見る角度を変え イエス様の御思いがどこにあるのかという観点から見るようになれば そこに込められたメッセージが見えてきます * 今日は 幸いなるかなと語られた幸福のメッセージの前半部分を見てきました 何を幸いに感じるかは 人様々ですから 一般的に 断定してこうだと言うことができませんが しかしここでイエス様が語られたことは 神の前に生きることなくして人間に幸いなどはない それ故 どうあることが神の前に生きることか 前半の 4 つの幸いについて語られたのを見てきました * 第 1 は 霊の貧しい人はと言われ 自分の霊の栄養失調状態に気づけ そうすれば神の支配はそのような人たちのものだと言われ 第 2 は神の前に立ち位置を見失ってしまっている自分がいることに早く気づいて それを悲しんでいる人は幸いだ 気づきさえすれば その立ち位置を戻させるために 神が慰めの御手を伸べて下さると言われました * 更に第 3 において 柔和な人という言葉で 神の前に自分 9

の低さを認め 砕かれ 降参する人が 世において真の勝利者 支配者にされると言われ 第 4 において 自分の中に 神のかたちである霊を持っているとは決して言えない 義のない貧弱な人間でしかなく 神の一方的な恵みによって神の前に立つことができる義が与えられるように願う人が幸いだと言われました * この 4 つの幸いな状態は 一つのことを示しています どうあれば神の前に立ち 幸いな人生を送ることができるかという一点です 神が霊なる存在として造られた人間からほど遠く 遠く離れた存在になってしまっていることに早く気づいて 虚勢を張らず 格好をつけず 自分の弱さ 低さ 栄養失調状態であることを悲しみ それを認め 神の前に立つには 最もふさわしくない者であることに気づきなさい そうすれば 神はあわれみ 慰め 恵みを与え 祝福の中に置いて下さる それが幸いな人生だと教えられたことが分かります * イエス様は 弟子たちや群衆に対して 神の前に立つ者でありたいと願う者は 自分がそれにいかにふさわしくない存在であるか 早くそれに気づき 認めなさいと言われました 気づくことと認めること この 2 つが幸いな人になる条件だと言われました * しかし 人間は気づいているようで気づいておらず 認めているようで認めてはいないのです それは 罪がもたらした霊的無知と頑固さが内側に染み込んでいるからです ですから それが解決するための唯一の方法は 御言葉を食べ続けるしかありません そうすることによって 無知と頑固さが砕かれていき 主が用意して下さっている幸い人生に入ることができることをイエス様が示されたのです 10