聖書 Ⅱ コリント 5:6~10 ( 第 18 講 ) 題 古いからだを理解した信仰人生を生きる ( 序 ) 確かな根拠がある自信を持っているか * 信仰者が 自信のない向かい方をしているならば その歩みは不安定なものになってしまいます もちろん 自信と言っても 自分の能力や知能や才能に対しての自信のことではありません そのような自信は 傲慢で鼻持ちならないお化けでしかないと言えるでしょう それでは 何に対して自信を持っているべきでしょうか それは 自分の抱いている希望がどれほど確かなものであるか その希望の実現に至るまでの信仰人生がどれほど価値あるものであるかという点についての自信が 信仰者の抱くべき自信です * 言葉を補って言うならば 神が信仰者に対して約束して下さっている驚くべき希望と そこに至るまでの信仰人生において 聖霊を遣わし 責任を持って導いて下さるという 何の不安もない最高の信仰人生であることについて それに対して その場限りではなく なくなってしまうことのない自信を持つようになった人が信仰者だと言えます * もし このような自信を持つことができないなら その信仰人生は 前回もたとえましたが 海に浮かぶ木片のようなものでしかなく 見た目はこの世で安定しているように見えたとしても 一度荒れ狂う波が押し寄せてきたら この世の波に翻弄され どこに行くのか分からない先行き不安と どうなってしまうのかという怖れと 世の流れの強さに押し流される歩みでしかないと言えるでしょう * このようなサタンの誘惑に満ち 私たちの心を惑わし 不安をあおってくるこの地上において生きていかなければな 1 らないのが信仰人生ですから 余程確かな土台と 希望と 確かな目標と 前進していくための力がどうしても必要になってきます もしこれがなければ 人生の敗北は目に見えているからです * 現実に この地上人生を生きるようにされているのが私たちの人生ですから これらを持っているかどうかが重要になってくるでしょう それでは このような自信をどのようにして持つことができるのでしょうか それは 単に自分にそのような自信があると思い込ませるだけなのか それとも これだとはっきりと言える根拠があるのか これらのことを パウロの信仰から また そこで語られている内容から 私たちの信仰人生においても そのような確かな自信を持って向かうことができるようになっているかどうかを 考えて見る必要があるでしょう (1) パウロの確信に満ちた証言の意図 * パウロが コリントのクリスチャンたちに伝えたかったことは 永遠性を持った見えない事柄についてでありました 目に見える一時的なものは この地上に生きている限りは目の前に現れ続け 心を奪い 理性で生きるように仕向け 心を乱そうと迫ってきます しかし 信仰者はこの地上にいながら 見えないものに目を向け 見えないお方と結びついているという驚くべき霊的事実に心を留め 見えない世界を望みつつ そこに至る時までは 今置かれているこの地上における人生を 有意義な人生として生きるようにされていると言ってきました * そのために与えられている地上の幕屋は 罪の影響を残している古いからだではありますが 罪の呪縛から解放され 2
た私の霊が住んでいる大事な住居として用いるようにされており 私であるという強い自意識を持ちながら からだも心も性格もあらゆる特徴も 私らしさという特質を持った者として生かされているのです * それは 後に与えられると言われている霊のからだ 朽ちないからだと表現されている 天に属するよみがえりのからだが与えられ 新しい心が与えられるその時が来るまでは 地上の幕屋を大事にし 神から預けられたからだとして有効利用するように導かれていると言ってきました * このように この地上にあって生きる上で 信仰者が持っているべき自意識を明確に示し その地上の幕屋は 欠けたものではあっても 私に預けられたからだ 心 それに付随するすべてのものを 私らしさを現すものとして受けとめ よみがえりのからだに大変換されるにふさわしい状態に整えられるための歩みが大事だと伝えてきたのです * それが 確かなことである保証として 神は 手付金である聖霊を与えて下さった だから私たちは心強いと言っています この心強いという言葉は 自信を持って大胆に行動するとか 勇敢にふるまおうと確信して向かう姿を現す言葉ですから 私たちがここまで大胆に言い切ることができるのは この与えられた聖霊のお蔭だと言ったのです * パウロが 揺れることなく いつも大胆に言い切って勧めることができるのは この手付金をいつも手にしていたからで 彼の思いの中で疑いの思いが出てくることはなかったのです ここまで聖霊に信頼できる人であったからこそ その信仰は揺れなかったのです * はっきりとした言葉にそれを言い換えるなら これを言っているのは私ではなく 私の口を用いて 聖霊が語ってお 3 られる言葉だと言っているのです 何という大胆な告白でしょうか 逆にそのように言えないとしたら これほど不確かな信仰はないし 見えるものに心を奪われる感覚や 5 感を重視する理性がしゃしゃり出てきて 見えないものに信頼を置くという 世的に見れば 不確定要素が満載の信仰を持ち続けることはできないでしょう * 見えないものに目を注いで歩むという信仰が なぜそれほど大事なのか その信仰に立つことが間違いではないと保証されている聖霊が与えられているという事実を確信することがなぜ大事なのか パウロは 自らの確信に満ちた証言として このことを語ってきたのです それはもちろん あなたがたもその信仰に立って 揺れることなく歩み続けてほしいという叫びにも似た思いが強くあったからです (2) 自分の状態を知って 信仰によって歩く * しかし その信仰に立っていたら この地上の幕屋に大きな変化が現れるようになると言って希望を持たせるようなことは言わないのです この地上の幕屋を住居としている私の霊は この住居が滅びに向かっているものであるがゆえに それが壁となって 主から離れているという事実があることを隠そうとはしません * もちろん これは主から見捨てられている状態という意味ではなく 救われても 古いからだを持っているという事実はなくならないので キリストの贖いを頂いた霊は 神と深く結びつけられても からだは汚れから離れることはできず その事実は解消されないと言っています もちろんこれは 神が与えて下さった救いの力に限界があるからと言っているのではありません 人間の側の信仰に完全性 4
がないからです そのことをもう少し考えてみましょう * もし人間の信仰に 見えないお方に対する信仰 見えない霊的事実に対する完璧な信仰を現すことができるなら 神は 私たちの霊を一気に解放して下さるだけではなく 古いからだに残っている罪の影響力をも吹き飛ばして下さったことでしょう しかし 信仰が完璧な人間は一人もいないので 霊だけが解放されるのが限度だったのです その信仰のレベルでは 古いからだから 罪の汚染力を弾き飛ばして完全に回復する事ができるほどの力はなかったのです ということは この古いからだを持っている間は 人間の信仰は完璧にはなれないとも言えるのです * これを簡単な図式で表すなら神のあわれみによる救いの力 + 信仰 = 救われた状態この図式は 神の救いの力が完全なものであっても 人間の信仰が完璧でないがゆえに 霊は完全に神のものとして 神に結びついたのですが 古いからだは不信 揺れ 疑い 怖れ 不満などを抱えたままの状態でしかないことを現しています だからパウロは 肉体を宿としている間は主から離れていることを よく知っていると言ったのです * だから そのような救われた状態にある者としての生き方はどうすればいいのか 次の 7 節で 一言で言っているのです だから私たちは 見えるものによらないで 信仰によって歩いているのであると もっと分かりやすく言えば 5 感や理性によって生きることをしないで 神に結びついた霊によって生きていると言ったのです * なぜなら 5 感や理性は古いからだに結びついていますが 霊は神に結びついていますから 罪の中から救い出された者は 罪の影響力が残っている古いからだによって生きる 5 ことをしないで 神に結びついた解放された霊によって 神から流れてくる救いの力そのものである御言葉を頂きながら生きること これが信仰によって歩くことなのです * 私たちの信仰が完全ではなくても 霊によって生きていこうとすれば 不十分な信仰を補おうとして そこに聖霊が働いて下さり 導いて下さり 5 感や 理性や 肉の思いや 人間の知恵で生きていこうとする思いを抑えて 御言葉を通して霊の思いを起こさせ 信仰によって歩くことができるようにして下さるのです そしてこれが 見えないものに目を注ぐ生き方なのです (3) 信仰を乱そうとするあらゆる思いと決別する * 8 節で再び 私たちは心強いと言いました 自信を持って大胆に行動し 勇敢にふるまおうと確信していると言ったのです この言葉を繰り返しているのは 私たちの立っている信仰の位置を理解してほしい それが分かれば 私が語っていることを理解してもらえると考えていたからです * こう語った後 私が本当に願っていることは 早くこの古いからだから離れて 天に属するよみがえりのからだが与えられ それによって内なる人が完成し 主と共に住むことができるようになることが一番の願いだと言いました * もちろんこれは 古いからだはどちらでもいい 早くよみがえりのからだが欲しいと言っているのではありません 古いからだも 神から預けられた大事なからだであるから 大切にしなければならないのですが 終わりの時が来て その古いからだよりもはるかに優れた 完成されたよみがえりのからだが与えられると約束されているので そちらの方を待ち望んでいると言ったのです 6
* このことは ピリピ書でもこう言っています その真意を理解するために補足して引用しますと 私にとっては ( 古いからだを持って ) 生きることはキリスト ( と共に生きることであり キリストを証しすること ) であり 死ぬことは ( 天に属するよみがえりのからだが与えられるので ) 益である と ( ピリピ 1:21) * その後で 私の心からの願いを言えば この世を去ってキリスト共にいることであり 実はその方がはるかに望ましい しかし 肉体にとどまっていることは この地上にあって 神のみ栄えを現すためにさらに必要だと感じている と言って 自分の願いを優先しているのではなく 願いを持ちながらも 主の御心を優先していると言ったのです * Ⅱ コリント書の方では 別の表現で 肉体を宿としているにしても それから離れているにしても ただ主に喜ばれる者となるのが 心からの願いである と言いました 古いからだを持って生きていることも重要であり 天に属するからだが与えられることはもっと素晴らしい すなわち 生きることも 御国に入れて頂くことも どちらにしても主に喜ばれる者としての姿を現すことになると信じていたのです 生きることも 死ぬことも信仰によって意味のあることとして 神にあって受けとめることができるのです * 何という深い信仰理解でしょうか パウロの信仰は 生死を超えた 永遠に結びついた今を生きているという理解の下で歩んでいるのです どうしてこのような生き方ができたのでしょうか 彼にとって 自分の信仰が完璧なものでなくても 主に喜ばれることを第 1 に置いて生きていましたから 生死を超えた 永遠に結びついた今を生きていくことができたのです 7 * 古いからだを持って生きている今も大事な時であり よみがえりのからだを頂いて生きる 時間を超越した永遠の時もさらに大事な時であって どちらも神に喜ばれる私であると信じていたのです そこには 生死の境は全くないのです 仏教的に言う三途の川は 神の世界にはありません 古いからだからよみがえりのからだに変換する時はありますが その住居に住んでいる私の霊は 永遠なる神に結びついている今を生きているので 境目はないのです * パウロの信仰は 聖霊による正しい福音理解を基にした信仰ですから そこには 彼の人間的な思いは少しも入ってはおらず 見えないものをしっかりと見つめていた霊の目ですべてを判断していましたから 生死の境目を考えることはなく ただ 住居がいつか完全なものに変換される時があるという福音を心に留めつつも 今すでに天国人とされていて 永遠なる神に結びついた今の時を生きることの大切さを感じていたのです * そして最後のところで 終わりの時に行われる 神による裁きにも触れているのです 終わりの時は 単に住居が変換されるという単純なものではなく 古いからだを住居とした生き方をしてきた者を 裁きの座に引き出し 善であれ悪であれ 私たちが行ってきたことに応じて報いを受けると言いました * この話の流れから考えられることは ここでは 裁きの座に引き出される信仰者に対して言及されていることが分かります 永遠に結びついた今を生きている信仰者であっても 古いからだを持ち そこに残っている罪の影響力を排除することができず 時には不安 怖れ 不信 惑い 小さな疑い 不満など 信仰を揺さぶろうとするあらゆる思 8
いから完全に解放されたわけではありません それらが裁きの座において明らかにされると言われているのです 何と恐ろしい事柄について触れているのでしょうか * 善であれ悪であれとは 神に喜ばれることであれ 神を悲しませることであれと言うことでしょう そのような 信仰で生きようとしながらも 目に見えないものに目を注ぐ生き方ができず 5 感にも 理性にも頼ることができないがゆえに 時には心を正しくコントロールできず 信仰を揺さぶろうとするあらゆる思いに乱されることが出てくるのです 各々の思いに応じて報いられると言われています * なぜこのようなことが語られているのでしょうか パウロは 信仰者が すぐ信仰を揺さぶろうとするあらゆる思いに乱されやすいところを残していることをよく知っていました それを放置したり 甘く考えたり ごまかしたりせず 自分の弱さとしっかり向き合って 古いからだを持ちながらも 見えないお方を霊の目で見 信仰を乱そうとする思いときっぱりと決別する強い決意を持つように勧めるためであったと考えられます * 信仰とは 見えない主に信頼していくだけではなく 信仰を乱そうとするあらゆる思いと決別する意志を現していくことも含まれているのです これを放置したり 甘く考えたり ごまかしたりしている間は その信仰は安定せず 潰されやすい要素を残すことになるのです ( 結び ) 信仰的自信を強く持って向かう * パウロの信仰姿勢から学んできましたが その信仰姿勢の根幹にあったのが 彼の内に満ち溢れている自信であったと見てきました それは 自分の能力に対する自信ではな 9 く 神の約束と その約束が実現する時に至るまでの すなわち この地上における歩みにおいて 育てて下さる聖霊のみわざへの厚い信頼が私の支えとなっているという自信であり 確信であり 力であったのです * 信仰者は どうして不安げなのでしょう それは 見えないものに対する信頼が 信仰の中心だから 時にはこれで大丈夫だろうかと 古いからだから出てくる乱す思いに負けるところを持ち続けているからでしょう * 私たちは これまでの歩みの中で 御国についての希望が最高の拠り所であったし その時に至る時までの歩みにおいて 聖霊が責任を持って導き続けて下さってきたのを味わい続けてきたのだから いまさら惑わなくてもいいはずなのに それでも心を乱されるのが人間なのです 古いからだを持っている間は 主から離れているという事実はなくならないからです 罪の影響力を保持し続けている古いからだから 信仰を乱し 不信へと引き連れていこうとするあらゆる思いが出てきます * これは 信仰が不足しているから 古いからだまできよくなることができず 霊だけが日ごとに新しくされていくのですが からだはよみがえりのからだが与えられるまで待たなければならないのです それでは 古いからだから出てくる神から離れている思いを 誰もとどめることはできないのでしょうか 聖霊の助けを得て 霊が成長していくことによって汚れを制御し きよい思いを現すことができるようになっていきますが 主から離れている状態を改善するところまで行かないのが現状です * それでは 全く望みはないのでしょうか 肉体を宿としている間は 望みはないのです パウロは決してきれいごと 10
は言いません 霊は永遠なる神と結びついているのですが 古いからだと心は主から離れているのです そのような私たちを 聖霊はどのように助けて下さっているのでしょうか 希望と聖霊による信仰人生についての自信を持って向かうことを大事にするように助けて下さっています * この自信は 自分の現状を悲観的には見ません 神にある希望は消えることなく 聖霊による信仰人生に何の不安もありません この自信を持ち続けているなら 古いからだから出てこようとする主から離れたあらゆる思いを それは見えるもので判断しようとする思いであったり 見えないものに対する惑い 不安 怖れ 不満 裁きなどであったりしますが 信仰によってそれを制御し この自信から出てくる感謝と喜びと平安とが 内から溢れてくるようになるのです これはごまかしではありません * 古いからだから出てくる乱す思いが勝つか 信仰的自信から出てくる思いが勝つか 主から離れている思いが強いか 聖霊によって整えられている霊の思いの方が強いか これが信仰者の状態として表に出てきて ある人は平安を失い 喜びが見えなくなり 心を乱します 5 感 理性 肉の思いなどに引っ張られている間は 古いからだの方が強いのですが それらを抑え込み 信仰的自信を強く持って向かうならば 聖霊が助けて下さり 見えないお方としっかりと結びついている喜びに溢れるのです * パウロが示した内容から見える大事なことは 肉体を宿としている間は主から離れていることを事実として受けとめ 主から離れることのない霊を すなわち 見えないものに目を注ぐ向かい方を前面に出していくならば 思いが乱されることはないという点でした 11