センター正誤判定文選 Senta_2018 P.1 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 1 毎年 京都国立博物館で 正倉院展 が開催される 2006 本 2 原爆ドームは 核兵器投下の事実を示す戦争の遺跡である 2007 本 3 世界遺産とは 遺跡 文化財や自然環境が人類共通の遺産として登録されたものである 2007 本 4 高齢者の体験談や古くからの伝承などは 歴史と無関係なので参考にしない 2006 追 5 金沢は近世に大名前田氏の城下町として栄え 明治初期には日本海側で最大の人口を擁する都市であった 1998 追 6 松江は石見大森銀山のあった県の都市である 1998 追 7 旧石器時代には 石を打ち欠いただけの石器が用いられた 2000 本 8 旧石器時代の時代の終わりには細石器とよばれる小型の石器も用いるようになった 2000 本 9 細石器は 豊富にとれる木の実をすりつぶすために使われた 2015 本 10 氷河時代が終わり縄文文化が育まれていく段階で 大型獣のマンモスが増加したのにともない 弓矢が使われた 2015 本 11 縄文時代になると 海進により水産資源の開発 利用がすすみ 釣針や漁網などの漁具が発達した 2000 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.2 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 1 正倉院展 が開催されているのは奈良国立博物館です 2 3 4 5 6 石見大森銀山があったのは 現在の島根県です 7 8 9 今でいう刃物として利用 木の実をすりつぶすために使われた石器は石皿 10 マンモスなど大型獣は減少し かわって増加した小型動物をとらえるために弓矢が使用されるようになりました 11
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.3 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 12 氷河時代が終わり縄文文化が育まれていく段階で 入江での漁労が活発化したのにともない 網が使われた 2015 本 13 縄文時代になると 弓矢が出現し 動きのはやい動物の捕獲が容易となった 1999 本 14 縄文時代の人々は あらゆる自然物 自然現象に精霊がやどると考えた 2006 本 15 縄文文化は 北海道でも展開した 2010 追 16 弥生時代には 男性の兵士をかたどった土偶を製作し アニミズムにもとづく呪術にとって 集落の先勝を祈願した 2009 本 17 弥生文化は 合金を用いた金属器 稲の穂首を刈る石包丁などの大陸系の技術をともなう新しい文化である 2000 本 18 弥生時代前期の水田は乾田中心であったが 後期には湿田の比重が高まった 2016 本 19 弥生文化や稲作は 北海道や沖縄にも定着した 2010 追 20 青銅器は 食物を煮炊き 貯蔵するために使われた 2015 本 21 荒神谷遺跡 ( 神庭荒神谷遺跡 ) では 350 本以上の銅剣を中心とする青銅器が 山の斜面から出土した 2012 追 22 弥生時代には 青銅製の刃先をもつ農具が 全国的に普及していた 2005 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.4 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 12 13 縄文文化を特徴づけるものが 土器 ( 縄文土器 ) 磨製石器 弓矢です 14 こうした考えを一般にアニミズムといいます 15 16 土偶は 縄文時代に多産 健康などを祈願してつくられたと考えられている 17 18 19 20 青銅器は武器や祭器として使用 21 22 農具の多くは鉄製 ( 鉄器 ) です
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.5 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 23 弥生時代には西日本を中心に稲作が広まったが それが本州北端まで伝わったのは古墳時代である 2001 本 24 弥生時代には有力な支配者が出現したことを反映して 大型の墳丘墓や多量の副葬品を伴う墓が各地に作られた 2001 本 25 弥生時代になると 農業生産の発達にともない 貧富の差は次第に解消されていった 1999 本 26 後漢書 東夷伝には 弥生時代に 倭の奴国が中国に使いを送り 印綬を授けられたと記している 1991 本 27 弥生時代の日本について触れた中国の歴史書には 生口 の献上など 奴隷的身分の存在を示す記述が見られる 1999 本 28 古墳時代前期の古墳には 銅鏡や石製品 玉製品などが副葬された 2013 本 29 前期には 古墳に銅鏡や碧玉制腕飾りなどが副葬されていることから 首長が司祭者的性格をもっていたことが知られる 2011 本 30 古墳時代前期の古墳には 銅鏡 銅鐸 銅剣がセットとして副葬された 2013 本 31 古墳時代前期の古墳には 長大な竪穴式石室に木棺が納められた 2013 本 32 古墳時代前期の古墳には 長大な横穴式石室に埴輪が副葬された 2013 本 33 古墳時代中期 (5 世紀 ) には 大和 河内の大規模古墳を上回る巨大な古墳が 武蔵や出雲に造られた 2013 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.6 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 23 稲作は弥生時代に本州北端にまで伝わっていますが 弥生文化は 北海道や沖縄を含む南西諸島には伝わっていません ( 北海道では続縄文文化 沖縄などでは貝塚文化が栄えます ) 24 25 貧富の差や階級の発生は 農業生産の発達により余剰生産物が生まれ それらをめぐる抗争を経て形成されたと考えられています ( 解消された が誤り ) 26 後漢書 東夷伝には 弥生時代 ( 西暦 57 年 ) に 倭の奴国が中国 ( 後漢の光武帝 ) に使いを送り 印綬 ( 漢委奴国王 の金印とされる ) を授けられたと記している 27 後漢書 東夷伝には 107 年 倭国王帥升らが 奴隷と思われる 生口 を後漢の安帝に献上したとする記述が見られます 28 29 30 31 32 埴輪は墳丘に置かれた 33 最大級の古墳は和泉地方の大仙陵古墳 河内地方の誉田御廟山古墳
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.7 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 34 弥生時代には乗馬の風習が大陸から伝わり 墓に馬具が副葬されるようになった 2003 追 35 好太王 ( 広開土王 ) 碑文によると 倭が新羅 百済の領有をめぐって高句麗と戦った 1995 追 36 5 世紀の倭王の名は出土した遺物の銘文によると 讃 珍 済 興 武である 1998 本 37 5 世紀の倭王は朝鮮諸国に対抗するため 中国南朝に朝貢して国際的地位の向上をめざした 1998 本 38 後期の古墳には横穴式石室が普及し 棺をおさめる玄室とそれに通じる羨道がつくられた 1995 追 39 6 世紀後半に造られた古墳の特徴の一つに 鏡や勾玉など呪術的なものが一般的だったことがある 2007 追 40 6 世紀後半に造られた古墳の特徴の一つに 追葬が可能な横穴式石室が営まれたことがある 2007 追 41 豪族の古墳にある埴輪には 武装した人物をかたどったものもある 2001 追 42 天皇 ( 大王 ) や首長は 秋の収穫に感謝して新嘗祭を執り行った 2011 本 43 古墳時代には 鹿の骨を焼いて吉凶を占う太占や 裁判に際して 熱湯に手を入れさせて真偽を判断する盟神探湯が行われていた 2011 本 44 渡来人の中には 秦氏などの始祖とみなされる人々もいた 1998 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.8 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 34 乗馬の風習は 古墳中期 (5 世紀 ) に大陸から伝わり 墓に馬具が副葬されるようになったと考えられています 35 高句麗の好太王 ( 広開土王 ) 碑文によると 倭は辛卯の年 (391 年 ) から朝鮮半島に侵入し 5 世紀初頭に高句麗と戦っています 36 倭王の名 ( 讃 珍 済 興 武 ) は中国の史書 ( 宋書倭国伝 ) に記載されています 37 38 横穴式石室は 朝鮮半島や大陸の影響を受け 6 世紀に普及します 39 鏡など呪術的な副葬品は前期の特徴 後期 (6 世紀 ) は土器 ( 土師器や須恵器 ) などの日用品が多くなる 40 41 42 春に行われたのが祈年祭 ( としごいのまつり ) 秋に行われたのが新嘗祭 ( にいなめのまつり ) です 43 44 秦氏などの始祖は弓月君 ( ゆづきのきみ ) といわれています
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.9 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 45 渡来人の中には文筆の知識 技術をもつ者が多くいたが 大和政権のもとでは 朝廷の記録を行う仕事にはつけなかった 2000 本 46 古墳時代には 中国から渡来した人々によって 土師器と呼ばれる灰色で硬質の土器の生産が行われた 1991 追 47 朝鮮半島から伝わった技法により 日本列島で須恵器が作られはじめた 2012 追 48 東国の豪族を埋葬した稲荷山古墳から ワカタケル大王 と読める文字が刻まれた鉄剣が出土した 2001 追 49 埼玉県稲荷山古墳から出土した鉄剣には 漢字の銘文が刻まれている 2011 追 50 5 世紀ころ 大王の名を記した刀剣が 埼玉県や熊本県から出土している 1998 追 51 江田船山古墳では ワカタケル大王 とみられる倭王の名と それに仕えた豪族の名前が刻まれた鉄刀が出土した 2012 追 52 ヤマト政権は 列島各地に田荘とよばれる直轄地を設けた 2015 本 53 ヤマト政権を構成する豪族らは 氏として組織化された 2015 本 54 大和政権に服属した地方豪族には 直や君などの姓を与えた 1998 追 55 臣や連の姓が与えられた人々のほとんどは 渡来人であった 1998 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.10 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 45 王仁 ( わに ) の子孫である西文 ( かわちのふみ ) 氏 阿知使主 ( あちのおみ ) の子孫である東漢 ( やまとのあや ) 氏は朝廷の記録を担当しました 46 土師器は弥生土器系統の国産土器で赤褐色 渡来人らが伝えた灰色で硬質の土器は須恵器です 47 48 稲荷山古墳は埼玉県で ワカタケル大王 は 宋書倭国伝 記載の倭王の武 日本書紀 の雄略天皇とするのが通説です 49 50 埼玉県稲荷山古墳の鉄剣 熊本県江田船山古墳の大刀 ( 鉄刀 ) には ワカタケル大王 の名が刻まれている 51 52 田荘は豪族の私有地です ヤマト政権の直轄地は屯倉です 53 54 中央 ( 大和周辺 ) 豪族などには臣 連 地方豪族には直や君などの姓 ( かばね ) を与えられた 55 ( 前問の解説参照 )
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.11 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 56 ヤマト政権はそれまでの地方豪族を没落させ 中央から国造を派遣して地方を支配した 2012 本 57 国造のなかには 大王家に直属する初期荘園の管理を行う者もいた 2012 本 58 大和政権は 大王やその一族へ奉仕をしたり貢物をおさめたりする者を 名代 子代とした 1998 追 59 継体天皇は 現在の滋賀県や福井県などに勢力をもち 王位継承が混乱するなか 近畿に入って即位したと伝えられている 2009 追 60 百済の聖明王から倭国に仏像などが送られ 仏教が公式に伝えられた 2012 追 61 倭国の朝鮮出兵の動きに対して 筑紫の磐井が反乱を起こした 2000 本 62 6 世紀前半 筑紫国造磐井 ( 筑紫君磐井 ) が 新羅と結んで反乱を起こしたが鎮圧された 2013 本 63 6 世紀末から 7 世紀前半 5 世紀以来とだえていた中国との交渉が 遣唐使の派遣により再開された 2003 本 64 6 世紀末から 7 世紀前半 官僚としての心構えなどを説いた憲法十七条が制定された 2003 本 65 飛鳥文化の時代 氏寺が豪族の権威の象徴となった 2003 本 66 法隆寺金堂の釈迦三尊像は 隋の文化の影響を強く受けている 2001 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.12 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 56 有力な地方豪族は 引き続き国造に任命されました 57 初期荘園は 奈良時代以降です 58 大王 ( 朝廷 ) の直轄地 ( 屯倉 ) 直轄民 ( 田部 ) 豪族の私有地 ( 田荘 ) 私有民 ( 部曲 ) 大王やその一族に奉仕をしたり貢物をおさめたりする名代 子代などは 改新の詔 (646 年 ) で否定される 59 60 61 反乱を起こしたのは 527 年のことで 当時の大王は 日本書紀 記載の継体天皇 磐井は新羅と結んで朝廷と対立した 尚 日本書紀 が伝える仏教公伝 =552 年が疑問視されていることと関連し 磐井の乱を 527 年とすることも疑問視されている 62 63 5 世紀 ( 倭の五王 ) 以来とだえていた中国との交渉は 600 年派遣の記録のある遣隋使の派遣により再開されました 64 憲法十七条は 604 年に制定されました 65 66 飛鳥時代の仏像は 北魏様式 南梁様式といわれるように 中国の南北朝時代の影響を強く受けています
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.13 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 67 聖徳太子は経典の注釈書である三経義疏を著したと伝えられている 2003 本 68 飛鳥時代には 法隆寺金堂釈迦三尊像の作者と伝えられる鞍作止利などの仏師が活躍した 1995 追 69 若草伽藍跡の発掘により 現存の法隆寺の伽藍は創建時のものであると判明した 2003 本 70 百済の観勒によって暦法が伝えられた 2012 追 71 7 世紀のなかごろ 皇極天皇にかわって孝徳天皇が即位し 難波に都を移した 2000 本 72 7 世紀のなかごろ 評が廃止され 屯倉が設置された 2000 本 73 7 世紀のなかごろ 唐から帰国した吉備真備と玄昉が国博士に登用された 2000 本 74 改新の詔は 中央集権的な交通 軍事の制度を定めている 2002 本 75 斉明天皇は 中国皇帝に朝貢して 親魏倭王 と認められた 2007 本 76 白村江の敗戦後 大宰府を守るため大野城が築かれた 2006 追 77 白村江の戦い以後の朝鮮半島情勢を意識した防衛策として 奈良盆地に水城が築かれた 2012 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.14 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 67 聖徳太子は経典 ( 法華経 維摩経 勝鬘経 ) の注釈書である三経義疏を著したと伝えられています 68 69 若草伽藍跡は 670 年に焼失する以前の法隆寺の遺構 つまり 今の法隆寺は 670 年焼失後の建物であることの根拠になっています ただし 670 年焼失という 日本書紀 の記述の信用性 ( 全焼 か 一部焼失 か ) や 今の法隆寺の木材の年輪が創建時の年代 (6 世紀末 ) を示しているため 詳しいことは謎 70 71 645 年に蘇我氏滅亡 ( 乙巳の変 ) の直後 皇極天皇にかわって孝徳天皇が即位して大化の改新政治がはじまります 72 646 年の改新の詔で のちの 郡 にあたる行政単位の 評 が設置され 朝廷の直轄領である屯倉は廃止されています 73 大化の改新で国博士に登用されたのは 高向玄理と僧旻 吉備真備と玄昉 ( 国博士ではない ) は 8 世紀の奈良時代に橘諸兄によって登用されました 74 75 親魏倭王 の称号は 3 世紀の卑弥呼に授けられた称号です 76 77 水城が築かれたのは 九州北部です
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.15 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 78 滅亡した百済からは 貴族たちが倭 ( 日本 ) に亡命した 2007 本 79 7 世紀後半 新羅が朝鮮半島を統一した 2006 追 80 天智天皇の在位中に庚午年籍が作られた 2005 本 81 天武天皇の在位中に八色の姓が定められた 2005 本 82 古代国家が中国の都城をまねて造営した都は 平城京が最初であった 1999 追 83 法隆寺金堂壁画は 中国初唐文化の影響がおよんだころの作品で 高松塚古墳壁画とともに白鳳文化を代表する作品の一つである 1991 本 84 大官大寺は 7 世紀後半に建立された代表的な官立の寺院である 2001 本 85 藤原京が完成して以後 平安京に遷都するまで 都の位置は動かされなかった 2011 追 86 法隆寺金堂壁画が焼損したことを契機に 文化財保護法が制定された 2012 本 87 令は 犯罪とそれに対する刑罰について定めた法典である 2003 本 88 刑部省は 刑罰に関する政務を担当した 2003 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.16 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 78 百済の滅亡は 660 年 類似の正文 滅亡した百済から日本に逃れた王族 貴族たちが 文化に影響を与えた (1997 本 ) 79 類似の正文 唐 新羅の連合軍が 高句麗を滅ぼした (2006 追 )7 世紀後半は 日本の律令国家形成をアジア史のなかで 645 年 - 乙巳の変 660 年 - 百済滅亡 663 年 - 白村江の戦い 668 年 - 高句麗滅亡 672 年 - 壬申の乱 676 年 - 新羅が半島統一 80 庚午年籍はわが国初の戸籍です 81 684 年のこと 82 古代国家が中国の都城をまねて造営した都は 藤原京が最初でした ただし 中国古典 ( 周礼 など ) から得られた知識で造営したと考えられている 83 84 大官大寺はのちの大安寺 85 694 年 藤原京 710 年 平城京 794 年 平安京 (8 世紀半ば前後の恭仁 難波 紫香楽への遷都をのぞいて ) 86 文化財保護法は 1949 年制定 87 律が刑法 令が一般行政 民法などにあたる 88
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.17 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 89 奈良時代 太政官のもとに内務省などの八省が置かれて 政務を分担した 2014 本 90 律令制の下では 法はすべて太政官の合議を経ずに 天皇だけで制定した 1994 本 91 全国は大きく畿内と五道の行政区画に分かれていた 1998 追 92 東海道や東山道などの幹線道路には 一定の間隔ごとに駅家が置かれた 2014 本 93 中央と地方を結ぶ幹線道路である七道は 行政区画の名称でもあった 2014 本 94 古代の畿内 七道の区分では 東国への入口である近江国は 東海道に編入された 2009 本 95 播磨から長門まで 8 つの国は 山陽道に編入された 2009 本 96 七道の諸国には 交易を管理するために東西の市司を設けた 2009 本 97 国司は無任期制であり 中央の貴族が派遣された 1998 追 98 国司は 中央から諸国に派遣され 国府を拠点として統治にあたった 2014 本 99 大宝令の施行をうけて 地方の豪族は郡司として行政にあたった 2015 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.18 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 89 内務省は近代 (1873 年 ) に初めて設置された省庁 90 国政は 太政大臣 左大臣 右大臣 大納言などからなる太政官の公卿合議の合議によって進められた 91 全国は大きく畿内 ( 五畿 ) と七道の行政区画に分けられた 七道は東海 東山 北陸 南海 山陰 山陽 西海道 92 93 94 近江国は東山道に所属 95 96 東西の市司は京内に置かれた 左京には東市 右京には西市が置かれ 東西それぞれの市司が管理した 東が左で西が右 は 天皇が北を背にして南を向いて政治をするという中国の 天子南面 に由来 97 国司の任期は 6 年 のち 4 年 中央の貴族が派遣されました 98 99
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.19 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 100 郡司は もとの国造など地方豪族のなかから選ばれた 2012 本 101 郡司のなかには 出羽の磐井のように反乱を起こす者もいた 2012 本 102 郡司には かつて国造であった地方豪族は任じられなかった 1994 本 103 里には里長が置かれており 里はのちに郷と改名された 1998 追 104 難波には特別行政機関として鎮守府が置かれた 1998 追 105 古代の日本では 官僚制を整えるため 中国の律令法を取り入れた 2007 本 106 貴族の子や孫には 蔭位の制によって一定の位階の授与が保証されていた 2002 本 107 口分田は 3 年ごとに回収され 再配分された 2001 追 108 律令国家は 原則として 6 年ごとに戸籍を作成した 2012 本 109 律令国家は民衆に対し 戸籍にもとづいて口分田を班給した 2012 本 110 各地で作成される戸籍は 漢字で表記されていた 2011 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.20 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 100 101 磐井は 6 世紀前半に反乱を起こした九州の豪族です ( 筑紫君磐井 または筑紫国造磐井 ) 102 郡司には かつて国造であった伝統的な地方豪族から任じられた 103 里 ( り ) は 717 年頃に郷 ( ごう ) と改名され 同時に里長も郷長と改名されました 104 難波には特別行政機関として摂津職が置かれました 105 106 107 口分田の班年は 6 年ごとで 6 歳以上の男女に口分田が与えられ 死者の口分田は収公 ( 回収 ) されました 108 109 110
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.21 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 111 奈良時代 地方からは 戸籍や計会帳などの公文書が中央政府に報告された 2014 本 112 奈良時代には桑の栽培と養蚕が行われ 絹が租として徴収された 2003 追 113 調は 麻布などの各地の特産物を 地方の役所に納めるものである 2001 本 114 庸は 都での歳役の代わりに 麻布などを中央政府に納めるものである 2001 本 115 国司は 任地における土木工事や雑用に奉仕させるために 庸を徴収した 2014 本 116 調 庸 雑徭は 良民の一員である官人にも賦課された 2001 本 117 雑徭は 京 畿内以外では麻布で代納する規定であった 2001 本 118 調は 21 歳以上の男女に賦課された 2008 追 119 調の都への運搬は 納付する側の負担とされた 2008 追 120 国司は 任国内から兵士を徴発し 軍団で訓練を受けさせる権限をもっていた 2003 追 121 国司は 任国内の農民を雑徭という労役に従わせる権限をもっていた 2003 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.22 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 111 112 絹など各地の特産物は 調として徴収 113 調は 各地の特産物を 中央 ( 都 ) に納めるものです 114 租庸調の訓読みは次のとおり 覚える必要はないですが 意味を知る上で便利です 租 ( 田租 = タチカラ ) 庸 ( チカラシロ = 労働力の代わり ) 調 ( ミツキ = みつぎ物 ) 115 116 官人 ( 役人 ) は 調 庸 雑徭が免除 117 庸は 京 畿内以外では麻布で代納する規定 118 調は 中男 (17-20 歳の男子 ) 正丁 (21-60 歳の男子 ) 次丁 (61-65 歳の男子 ) に賦課されました 119 こうした負担を運脚といいます 120 121
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.23 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 122 出挙の利率は年に 1 割に制限されていたが それを超えることが多かった 2001 追 123 奈良時代 中央政府の支配は 現在の青森県や沖縄県にまで広がった 2014 本 124 防人は 主に東国出身者で構成され 任期は 3 年とされた 2001 追 125 防人になった兵士は 故郷を離れ東北地方に向かわなければならなかった 2011 追 126 薩摩国には 防衛のために衛士を配置した 2009 本 127 奴婢には良民と同じ面積の口分田が与えられた 1994 本 128 7 世紀後半にわが国が中国に派遣した使節は 遣唐使である 2016 本 129 7 世紀の遣唐使は 朝鮮半島沿岸を通る北路経由で唐に向かった 2007 本 130 天智天皇の死の直後に起きた内乱の終了後 はじめて遣唐使が派遣された 1990 本 131 8 世紀の遣唐使は 新羅との関係が改善されたため 南路経由で唐に向かった 2007 本 132 北路と比べて南路には 航海上の危険性が大きかった 2007 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.24 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 122 令では 出挙の利率は 官庁が行う公出挙 ( くすいこ ) は 5 割 ( のち 3 割 ) 豪族 有力農民が行う私出挙 ( しすいこ ) は 10 割以下と定められていました 同問の正文 稲の出挙は 主に春に借り秋に利子とともに返済する制度であった (2001 追 ) 123 沖縄は領域外です 124 125 防人は 3 年間大宰府のもとで 九州北岸の警護についた 126 衛士は京を警備しました 127 奴婢は良民男女のそれぞれの 3 分の 1 の口分田が与えられました 奴は男 婢は女 128 129 130 天智死去直後の内乱は 672 年の壬申の乱のことです 第 1 回遣唐使 ( 犬上御田鍬 ) が派遣されたのは 630 年で 当時の天皇 ( 大王 ) は舒明天皇 ( 皇極 = 斉明天皇の夫 天智 天武天皇の父 持統天皇の祖父 ) です 131 新羅との関係が悪化したため 南路に変更 132
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.25 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 133 奈良時代に百済の商人によって南アジア産の品物がもたらされた 2006 本 134 奈良時代の民衆は 木綿の衣類を着るようになった 2012 本 135 奈良時代における結婚のかたちの一つとして 男性が女性の家に通う妻問婚があった 2012 本 136 奈良時代 渤海からの使者は越前など日本海側に来着した 2006 本 137 律令国家が整備した東山道などの官道には 一定の距離 (16 km ) ごとに馬を乗り継ぐ施設が設けられた 2007 追 138 律令制では 庶民に利用させるため 主要道路に置かれた駅家に馬が用意されていた 2003 追 139 奈良時代 公民は宅地や田畠などを財産とし 奴婢や牛馬などの私有は認められなかった 1996 本 140 奈良時代 多収穫米の外来品種である大唐米が 日本列島全域に普及した 2016 本 141 7 世紀半ば 蝦夷に対する前線基地として 太平洋側に渟足 { ぬたり } 磐舟 { いわふね } の 2 つの柵 { さくが設けられた 1997 追 142 斉明天皇の時 蝦夷を服属させるため 阿倍比羅夫を秋田 津軽方面に派遣した 1997 追 143 8 世紀初めに 律令国家は九州南部の隼人の居住地に大隅国を置いた 2000 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.26 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 133 百済はすでに 660 年に滅亡 134 木綿が民衆世界に広がるのは戦国時代以降 135 136 接遇機関として 能登に能登客院 越前に松原客院が置かれました 137 こうした施設を駅家 ( うまや ) といいます 138 駅家は役人が公用のために利用 139 有力な豪族 ( 公民に属す ) のなかには 数十人から数百人の奴婢を所有するものもいた 140 大唐米が輸入されたのは 鎌倉時代頃からで 室町時代に広まった 141 太平洋岸ではなく 日本海岸 142 143 713 年 今の鹿児島県の東半分に大隅国が設置されました
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.27 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 144 律令国家による支配領域がしだいに広がっていくにつれて 陸奥と出羽の 2 国には いくつもの城柵がつくられた 2009 本 145 蝦夷に対する支配を進めるため 陸奥国に鎮守府を置いた 2002 追 146 長屋王は親王 ( 天皇の子や兄弟 ) と記されているが 天武天皇の孫である 2005 本 147 藤原不比等の 4 人の男子が 長屋王を自殺させ政権を握った 2002 本 148 藤原広嗣は 吉備真備らの追放をめざして九州で挙兵した 2003 追 149 大宰府には 西海道諸国を統轄する機能があった 2009 本 150 称徳天皇は 社会不安を鎮めるため大仏造立の詔を出した 2003 追 151 国分寺建立の詔は 国ごとに盧舎那大仏を造立するよう定めた聖武天皇の命令である 2000 追 152 大仏造立の詔にもとづき 東大寺に廬舎那仏像が造られた 2011 本 153 東大寺は 平城京の東側の郊外に建立された 2012 追 154 東大寺の本尊である大仏は 聖武天皇の発願で建立された 2012 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.28 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 144 145 鎮守府は陸奥国の国府 ( 多賀城 ) に置かれ 平安初期に胆沢城へ移転されました 146 147 148 149 150 聖武天皇は 社会不安を鎮めるため 743 年に大仏造立の詔を出しました 大仏完成を意味する開眼供養会 ( かいげんくようえ ) は 752 年に孝謙天皇 (2 度目に即位した時の名が称徳天皇 ) の時に挙行されました 151 国分寺建立の詔は 国ごとに国分寺 国分尼寺の建立を命じた聖武天皇の命令 もしも国ごとに盧舎那大仏を造立したら大変なことに かわいい賞 をあげたくなるほど 152 最初は紫香楽でつくられますが 平城京への還都 ( げんと ) により奈良でつくられます 153 今では奈良市の中心に位置しているかのように思えるが 154
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.29 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 155 藤原仲麻呂の政治に不満をもつ貴族が 橘諸兄を中心に反乱を起こした 2002 本 156 奈良時代 元明天皇の信任を得ていた道鏡が権勢をふるい ついには天皇が道鏡を皇位につけようとした 2013 本 157 藤原百川らは 称徳天皇まで続いた天武天皇系の天皇にかわって 天智天皇の孫である光仁天皇を即位させた 1997 本 158 三世一身法では 新しく池や溝をつくって開墾した土地については 開発した本人一代に限って所有を認めた 2002 追 159 墾田を集積した初期荘園の多くは 田租を免除された 1996 本 160 三世一身法では 既存の灌漑施設を利用して開墾した場合 開墾者本人一代に限って所有が認められた 2015 本 161 三世一身を論ずること無く みなことごとく永年とるなかれ と示された法では 身分により開墾面積が制限された 2011 本 162 前掲の史料の法では 開墾された田地は租を納めるものとされた 2011 本 163 前掲の史料の法の施行ののち三世一身法が発布された 2011 本 164 前掲の史料の法により 有力な貴族や大寺院は 付近の一般農民や浮浪人を使って開墾を行った 2011 本 165 国の成り立ちや皇統を明らかにする目的で 神話 伝承等を筆録して 古事記 が編纂された 2000 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.30 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 155 藤原仲麻呂に不満をもつ貴族が 橘奈良麻呂を中心に反乱を起こした 156 157 158 三世一身法では 新しく池や溝をつくって開墾した土地は 3 代の所有を認めました 159 初期荘園の田租が課税された輸租田です 160 161 この史料は 743 年の墾田永年私財法である 162 開墾された田地も輸租田であった 163 三世一身法は 723 年に発令 164 165 古事記 は 712 年に完成しました
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.31 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 166 古事記 は 太安麻呂 ( 安万侶 ) が編さんしたもので 中国の歴史書にならって 正式の漢文で編年体に記述されている 1992 追 167 古事記 では 神話や物語を漢字で表記する工夫がなされている 2011 追 168 日本書紀 は 神話からはじまり 聖武天皇の時代までの出来事を記している 2016 本 169 律令国家は 諸国に対して地理 産物 伝承などを記録した 風土記 の提出を命じた 2000 本 170 万葉集 は 奈良時代後半に編集された最初の勅撰和歌集である 1995 追 171 万葉集 では 短歌 長歌など約 4500 首の歌が 万葉仮名で記されている 1995 追 172 薬師寺吉祥天像は 奈良時代を代表する仏教彫刻である 2004 本 173 奈良時代 中央に大学 地方に国学が 官人の養成機関としてそれぞれ置かれた 2014 本 174 正倉院に伝わる鳥毛立女屏風は 宋の文化の影響をうけている 2012 本 175 正倉院の正倉は 土を固めて造った壁をもつ校倉造の建物である 2012 追 176 正倉院の宝物群のなかに 唐や新羅 西アジア 東南アジアから伝わってきたものがある 2012 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.32 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 166 古事記 は 太安麻呂 ( 安万侶 ) が編さんしたもので 物語風のスタイル ( 紀伝体 ) で記述されています 167 168 日本書紀 は 持統天皇までの出来事を記しています 聖武天皇関連の史料 ( 国分寺建立の詔など ) が 続日本紀 であることを思い起こしてください 169 風土記 は 713 年 政府の命令で諸国が提出したものです 170 万葉集 は 奈良時代後半に編集された最初の和歌集です 最初の勅撰和歌集 は 古今和歌集 (905 年 ) です 171 同一問題の正文には 山上憶良の 貧窮問答歌 が収められている 東歌や防人歌など 地方農民の歌が数多く収録されている 172 仏像彫刻ではなく 仏画 173 174 当時の中国王朝は唐です 175 校倉造 ( あぜくらづくり ) は三角材を井桁に積み上げたものです 176
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.33 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 177 正倉院の宝物群の中心となる品々は 持統天皇が亡き父の遺産を寄進したものである 2012 追 178 大学に付属した図書館として 淡海三船によって芸亭 ( うんてい ) が開かれた 1996 追 179 編年体の歴史書である六国史の編纂は 平安時代になってからはじめられた 2000 追 180 平城京では南都 北嶺とよばれた学派が形成された 2003 追 181 律令国家は 庶民の教育を目的として 諸国に国学を置いた 2000 追 182 大学や国学では 仏教の経典を中心とする教育を行った 1996 追 183 藤原光明子は篤く仏教を信仰し 貧窮者の救済をめざして悲田院 施薬院を置いた 1997 本 ( 184 行基は 灌漑施設を整備するなど さまざまな社会事業を行いながら 仏教の教えを広めた 2015 本 185 行基は民衆への布教とともに 道や橋の整備を行った 2011 追 186 平城京に営まれた興福寺は 藤原氏の氏寺として藤原氏一族や天皇の信仰も篤く 都が平安京に遷ってからのちも大きな勢力を保った 1997 本 187 奈良時代ころから 神社に付属して神宮寺が建てられるようになった 2008 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.34 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 177 正倉院は 光明皇太后により献納された聖武天皇の遺品が中心である (2006 本 ) 178 石上宅嗣によって芸亭が開かれました 179 六国史は 720 年 ( 奈良時代 ) の 日本書紀 にはじまります 180 平城京では南都六宗とよばれた学派が形成されました 181 律令国家は 地方の郡司の子弟らの教育を目的として 国学を置いた 182 大学や国学では 儒教の経典を中心とする教育を行いました 183 184 185 186 187
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.35 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 188 神社の近辺や境内に神宮寺が建てられたのは 神仏習合のあらわれである 2011 追 189 僧侶の山林修行と古来の山岳信仰が結びついて修験道が生まれ 神仏習合の風がますます進んだ 2011 追 190 平安宮には 国家的な儀礼などを行う大極殿が建てられていた 2010 本 191 政治刷新をめざした桓武天皇は 最初平城京から長岡京に遷都したが その 10 年後に平安京に遷都した 1999 追 192 蝦夷の反乱が長期化し 桓武天皇は坂上田村麻呂を征夷大将軍に起用して鎮定に向かわせた 1999 追 193 桓武天皇は 諸国に検非違使を派遣して 国司や郡司の交替を監督させた 2013 本 194 桓武天皇の時 征夷大将軍となった坂上田村麻呂は胆沢城を築いた 1997 追 195 桓武天皇は 東北 九州などを除いて軍団 兵士を廃止し 郡司の子弟を健児とした 1998 追 196 平安時代には 神々の祭祀をつかさどる神祇官と 行政全般を管掌する太政官の二官があった 2010 本 197 勘解由使という令外官が置かれ 国司の交替を監督した 2003 追 198 807 年に行われた政策に関する議論で 天下の苦しむところは軍事と造作となり と指摘された 造作 とは 東大寺の大仏造立のことである 2007 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.36 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 188 189 教科書では平安初期の 弘仁 貞観 文化でとりあげられているが 8 世紀頃から と書いてある通り 奈良時代から始まっていることも要チェック 190 191 192 193 検非違使ではなく 勘解由使 ( かげゆし ) であれば正しい文章になります 194 それまで多賀城に置かれた鎮守府が胆沢城にうつされました 195 196 197 桓武天皇の時に設置されました 類似の正文 平安時代初期には令に規定された官司や役人が整理され 財政の再建がはかられた (1998 本 ) 198
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.37 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 199 807 年に行われた政策に関する議論で 天下の苦しむところは軍事と造作となり と指摘された 造作 とは 平安京の造営のことである 2007 追 200 嵯峨天皇は側近の藤原冬嗣を天皇の秘書官の長にあたる蔵人頭に任命した 2012 追 201 嵯峨天皇の時に置かれた蔵人頭の主要な職務は 朝廷の蔵の管理であった 1998 本 202 嵯峨天皇は 京内の治安維持を目的として 検非違使を設置した 2003 本 203 政府は 財源確保のため 大宰府管内などに公営田を設置した 2011 本 204 嵯峨天皇のころには 文芸によって国家の隆盛をまざす中国の思想が広まり 凌雲集 などの勅撰漢詩文集が編まれた 2012 本 205 嵯峨天皇のころには 律令制定後に出された法令を分類 編集して最初の格式が編まれた 2012 本 206 宮城の警備にあたった衛門府などの五衛府も 令外の官である 1998 本 207 平安時代の前半に編纂された弘仁格式 貞観格式 延喜格式の三つの格式を三代格式という 2000 追 208 令の条文についてさまざまな解釈がなされていたのを統一し 政府による公式解釈を示すために 令義解 が編纂された 2000 追 209 嵯峨天皇は 畿内に直営の公営田を設置して 租税を確保しようとした 2003 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.38 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 199 200 201 嵯峨天皇が設置した蔵人頭の主要な職務は 詔勅や機密文書の管理です 202 嵯峨天皇は 京内の治安維持を目的として 検非違使を設置しました 203 204 205 206 衛門府などの五衛府は 令で規定された官職です ( 令外官ではありません ) 207 208 令義解は 833 年完成 清原夏野らが編さん 209 畿内に設定された直営方式の田は官田 (879 年設置 嵯峨天皇の時ではありません ) 嵯峨天皇は 823 年に大宰府管内の九州に公営田を設定しました
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.39 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 210 平安時代のはじめに景戒が著した 日本霊異記 は 現存する日本最古の仏教説話集である 2001 追 211 性霊集 は 最澄の詩や書簡などを編集したものである 1995 本 212 一族子弟の教育のために 藤原氏は勧学院を設立した 2008 本 213 藤原北家出身で最初の蔵人頭となった藤原良房は 一族子弟の教育機関として平安京に綜芸種智院を設立した 1999 追 214 仏教界の政治介入をさけるため 平安末期に至るまで平安京内には寺院の造営は一切認められなかった 1999 追 215 空海は 嵯峨天皇や橘逸勢とともに三筆と称されている 1995 本 216 金剛峰寺は空海によって開かれた 2013 本 217 9 世紀 高野山に金剛峰寺が開かれた 2007 本 218 平安宮応天門の炎上は大納言伴善男の陰謀とされ 善男らが配流になった 1997 本 219 平安時代中期以降 天皇が幼少の時には関白が 成人後には摂政が置かれた 1998 本 220 10 世紀には 皇朝 ( 本朝 ) 十二銭の最後の貨幣である乾元大宝が鋳造された 1996 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.40 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 210 211 性霊集 は 空海の詩や書簡などを編集したものです 212 213 綜芸種智院は 空海が庶民教育のために建てた学校です ( 東寺に隣接 ) 214 東寺 ( 教王護国寺 = 嵯峨天皇が空海に与えた ) が建立されている 215 216 217 218 応天門の変 (866 年 ) のことです 219 天皇の幼少時に摂政 成人後に関白が置かれました ( 例外や別の説もあります ) 220 皇朝 ( 本朝 ) 十二銭の最後の貨幣 乾元大宝は 958 年に鋳造
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.41 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 221 醍醐天皇皇子の左大臣源高明が密告により大宰府に左遷された 1997 本 222 藤原道長は 3 代の天皇の外祖父となった 2006 本 223 藤原道長は 御堂関白記 の筆者であり 此の世をば我が世とぞ思ふ と詠んだことでも知られる 2016 本 224 孫の後一条天皇を即位させた藤原道長は 受領からさまざまな奉仕をうけ 彼らを人事面で優遇した 2012 追 225 遣唐使が停止され また新羅や渤海がほろびても 大宰府は外国との貿易の窓口となり 依然として重要な役割を果たした 1991 追 226 遣唐使が停止された後も 修行のために中国に渡る僧侶や 交易のために九州を訪れる中国商人など 人々の往来は続いていた 1996 追 227 日本の律令国家のモデルとなった唐は 10 世紀初めに滅亡した 2012 本 228 奈良時代以来 日本と親交のあった北東アジアの国である渤海は 10 世紀前半に遼 ( 契丹 ) によって滅ぼされた 2012 本 229 前代の唐につづいて宋とも国使の交換はあったが 国内では国風文化が盛んとなり 大陸の影響力は大きく減少していった 1993 追 230 平安時代に入って約 1 世紀を経たころから 勅撰和歌集が編纂されるようになった 2000 追 231 土佐日記 以後 宮廷女性らによって多くのかなの日記が作られた 2003 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.42 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 221 安和の変 (969 年 ) のことです 222 223 224 225 大宰府の外港 博多は 中国人 ( 宋などの出身 ) 日本人商人らが集り住み 中世の代表的な貿易都市として発展しました 類似の正文 遣唐使廃止後も 中国の商船はしばしば九州に来航し 多くの文物をもたらした (1997 本 ) 226 類似の正文 遣唐使廃止後も 10 世紀には 僧侶たちが中国に渡って寺院などを巡礼し 様々な文物を持ち帰った (1997 本 ) 227 228 229 国風文化の時期も 日本貴族の中国文化への関心は高かったとされています 230 905 年 古今和歌集 が編纂されました 初の勅撰和歌集です 231
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.43 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 232 土佐日記 には 紀貫之が土佐国から東海道を通って帰京する途中の出来事が書かれている 2003 追 233 紀貫之の 土佐日記 は漢文体で書かれている 2016 本 234 かな文字が発明されると 公的な行政文書にももっぱらかなが用いられ かな文学隆盛の土壌となった 1992 追 235 遣唐使の派遣がとだえたため 大陸との貿易や人々の往来も行われなくなった 2010 追 236 遣唐使の廃止後 貴族たちの中国文化への関心は減り 男性貴族も平仮名で日記を書くことが一般化した 1997 本 237 中国の商人がもたらす絹織物 陶磁器や香料などは 唐物とよばれて貴族らに珍重された 2011 追 238 平安時代には 漢字の一部をとった平仮名と 草書体をくずした片仮名が作られた 2007 追 239 より豊かな表現を求め 平仮名が大陸から取り入れられた 2011 追 240 平安時代には 神は仏の仮の姿であるとする本地垂迹説が広まった 2008 本 241 源信が極楽往生の方法を示した 往生要集 を著し 慶滋保胤が極楽往生の実例を集めた 日本往生極楽記 を編纂した 2000 追 242 藤原道長は 六勝寺の一つである法勝寺を建立した 2011 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.44 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 232 東海道は関東から現在の三重県 ( 伊勢 伊賀 ) まで 土佐国は南海道に所属 233 漢文体ではなく かなで書かれています 234 公文書や男性貴族の多くの日記は漢文体 235 センター試験では オーソドックスな問題例 236 漢文体です 代表的な男性貴族の日記に 平安時代は藤原実資 小右記 藤原道長 御堂関白記 鎌倉時代の藤原 ( 九条 ) 兼実 玉葉 などがあります 237 238 平安時代には 漢字の一部をとった片仮名と 草書体をくずした平仮名が作られた 239 240 類似の正文 平安時代には 在来の神々は仏の仮の姿であるとする本地垂迹説が唱えられた (2001 本 ) 241 242
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.45 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 243 藤原頼通は 平等院の阿弥陀堂を建立した 2011 追 244 法成寺は 宇治の別荘を寺院に改めたものである 2006 本 245 摂関政治の最盛期に作られた 源氏物語絵巻 には そのころの貴族の女性の優美な生活が描かれている 2001 追 246 摂関期の貴族は 陰陽道を重んじたため その日常生活には方違や物忌などの慣習がひろまった 1995 本 247 平安貴族の住宅では 金地に緑 青などを使う濃絵の屏風が使われた 2012 本 248 平安時代の貴族の子どもは母方の家で養育されることが多かった 2007 追 249 貴族の女子は 20 歳前後で元服の儀をあげた 2001 追 250 平安時代の貴族の男性の正装は直垂や水干であった 2007 追 251 平安時代の貴族の女性の正装として 女房装束が定着した 2001 追 252 上級貴族は ときには 忌むべき方角を避けて移動する方違を行った 2011 追 253 延喜の荘園整理令によって記録荘園券契所が設置され 成立年代などで基準に合わない荘園は停止された 1992 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.46 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 243 244 法成寺を建立したのは藤原道長 245 源氏物語絵巻 は平安時代末期 ( 院政期 ) の作品 246 247 濃絵は桃山文化の画法として知られます 平安貴族の邸宅内を飾った絵画は大和絵です 248 249 貴族の女子は 10 代前半で成人式に当たる裳着を行い 男子は 10 代半ば ( 早いときは 10 代前半 ) で元服を行ないました 250 251 252 253 記録荘園券契所を設置して荘園整理を断行したのは延久の荘園整理令 (1069 年 ) 延喜の荘園整理令は 902 年
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.47 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 254 10 世紀初めを最後に 全国的な班田収授は命じられなくなった 2009 本 255 醍醐天皇の時代 意見封事十二箇条が提出された 2006 本 256 醍醐天皇は 荘園の増加をおさえるため 延喜の荘園整理令を出した 2013 本 257 律令制支配が行き詰まり地方支配方式が転換していくなか 浮浪 逃亡 偽籍などのため 戸籍 計帳による人民の把握が困難になった 2000 本 258 律令制支配が行き詰まり地方支配方式が転換していくなか 国司に徴税や地方支配の権限を大幅にゆだねるようになった 2000 本 259 10 世紀以降 政府は国司に一定額の租税の納入を請け負わせ 地方支配を一任した 2009 本 260 11~12 世紀には 宮殿や寺社の造営費用を確保するために成功が盛んになされ 受領が成功によって任期を重ねる重任も行われた 1999 本 261 10 世紀頃から 任国におもむいた最上級の国司は受領と呼ばれ 巨額な私産を蓄える者も現れた 1998 追 262 10 世紀以降 耕地は名という単位に編成され 有力農民が耕作を請け負うようになった 2009 本 263 10 世紀以降 政府は財源を確保するため 初期荘園の開発を奨励した 2009 本 264 受領は任国におもむき 留守所で支配を行った 2012 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.48 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 254 255 914 年 三善清行は 醍醐天皇に地方政治の混乱ぶりを指摘しました 256 257 258 国司に徴税権や一国の政務全般にわたる強い権限が与えられるようになったのは 10 世紀前半以降 類似の正文 10 世紀後半頃の朝廷は 国司に徴税を任せ 地方支配を請け負わせていた (1998 追 ) 259 260 261 代表的な受領として 今昔物語集 の信濃守 藤原陳忠 ( のぶただ ) 尾張国郡司百姓等解 ( 解文 ) で太政官に訴えられた藤原元命 ( もとなが ) らがあげられます 262 263 初期荘園は 墾田永年私財法が発令された 743 年以降の 8 世紀とするのが一般的 264 留守所とは 受領が赴任していない時の国衙 ( こくが ) のこと
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.49 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 265 平安時代には 在京したまま任国に下向しない国司のことを在庁官人とよんだ 2014 本 266 平安時代には 在京の国司は目代を任国に派遣し 政務を担当させるようになった 2014 本 267 10~11 世紀 受領は任国内の課税対象となる土地を名という単位にわけ そこから租税を徴収するようになった 2003 追 268 地方の農民のなかには 受領の非法を中央の政府に訴え その罷免を要求する者がいた 2003 追 269 藤原元命は 尾張国の郡司 百姓によって暴政を訴えられた 2012 追 270 9~10 世紀 受領の圧政を訴えるため 尾張国郡司百姓等解文 が朝廷に提出された 2013 本 271 信濃守藤原陳忠は 受領は倒るるところに土をつかめ と言い放った貪欲な受領として知られる 2000 追 272 10 世紀頃から 赴任しないで京に住み かわりに目代を派遣して政治を行う者が多くなった 1998 追 273 国司が任期を延長し 在任し続けることを遙任とよんだ 2003 追 274 地方の豪族は 受領の徴税に対抗するため 所領を荘園とし 自ら荘園領主となった 2003 追 275 10~11 世紀 受領は押領使 追捕使などとともに 国内の治安維持に当たるようになった 2003 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.50 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 265 在庁官人は 地元の有力者 豪族出身で 国衙の仕事を担うようになった人々のことです 266 267 名を請け負った有力農民が田堵です 多くの名を請け負ったものは大名田堵とよばれました 268 代表的な事例として 988 年に尾張国郡司百姓等解 ( 解文 ) で太政官に訴えられた藤原元命 ( もとなが ) らがあげられます 類似の正文 尾張国郡司百姓等解文は 国司の圧政を訴えるために朝廷に提出された嘆願書である (2000 追 ) 269 270 271 272 一般にこうした勤務形態を遙任といいます 類似の正文 律令制支配が行き詰まり地方支配方式が転換していくなか 国司の地位は利権視され また任命されても赴任しない国司が増えた (2000 本 ) 273 重任といいます 274 寄進地系荘園は 中央の貴族 寺社を荘園領主とし 地元の豪族 開発領主は下司 公文などの荘官として現地で荘園を支配しました 275 清和源氏 桓武平氏ら武士団の棟梁は 国司 ( 受領 ) として財力や勢力を拡大させてことを理解しよう
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.51 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 276 太政官符 民部省符によって税の免除が認められた荘園を 国免荘という 2000 追 277 東寺百合文書の名称は 加賀藩主の前田綱紀が 文書を収納する櫃 ( ひつ ) を百合 ( 百箱 ) 寄贈したことに由来する 2014 本 278 官物が免除されることを不輸 検田使が入るのを禁じることを不入という 2002 追 279 国司は 国内の田地を調査し課税するため 押領使を派遣した 2000 追 280 平将門は 桓武平氏の一族で 陸奥の清原氏とともに東国で反乱を起こしたが 鎮圧され 以後源氏が東国に勢力を持つようになった 1991 本 281 東国で国司と対立し反乱を起こした人物が 新皇と称した 2011 本 282 東国と西国で 同時期に平将門と藤原純友による大規模な反乱が起こった 2013 本 283 藤原純友が乱を起こし 大宰府を焼き討ちにした 2007 本 284 11 世紀前半に 刀伊が九州北部を攻撃したが 撃退された 2000 本 285 陸奥国に赴任した源頼義は 東国の軍勢を率いて清原氏と戦い これを滅亡させた 1999 追 286 後三年合戦は 出羽の豪族清原氏一族の内紛に源義家が介入したものである 1997 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.52 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 276 太政官符 民部省符によって税の免除が認められた荘園を 官省符荘といいます 国免荘は 国司の文書 ( 免判状 ) によって税の免除が認められた荘園をいいます 277 278 279 派遣された役人は検田使です 検田使の立ち入りを拒否する権限を不入の権といいます 280 平将門 藤原純友が同時期に東西で起こした承平 天慶の乱は 10 世紀前半 陸奥の清原氏が東北で反乱を起こしたのは 11 世紀後半 源氏の東国進出の第一歩は 11 世紀前半の平忠常の乱を源頼信が鎮圧したことにはじまる 281 282 283 284 刀伊の入寇は 1019 年のこと 藤原隆家や九州の武士が撃退しています 隆家は藤原道長の甥で 兄の伊周とともに道長との政争に敗れ 大宰府に左遷されていました 285 源頼義は前九年合戦で清原氏と協力し合って安倍氏を滅ぼし その子 義家は後三年合戦で清原 ( のち藤原 ) 清衡と協力し合って清原氏を滅ぼします 286
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.53 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 287 後三条天皇は大江匡房らを登用し 国政の改革を行った 1998 本 288 後三条天皇は 荘園領主から書類を提出させ 国衙に設けられた記録荘園券契所で審査にあたった 1995 追 289 10~11 世紀 受領は任国内の公領を郡 郷 保などの所領の単位に再編成していった 2003 追 290 10~11 世紀 都から任国に在庁官人を派遣して 政務の処理に当たらせるようになった 2003 追 291 荘園制のもとでは 年貢は 名田を基準に賦課され 名主がその納入の責任を負った 1994 追 292 平安末 ~ 鎌倉時代 京都に住む貴族の多くは 荘園や公領の支配者であった 2006 追 293 平安末 ~ 鎌倉時代 荘園や公領の荘官 郷司ら現地の管理者は しばしば武士団を形成した 2006 追 294 院政期 上皇の命令を伝える院宣や院庁下文が強い権威をもつようになった 1995 追 295 白河天皇は 内裏に北面の武士を置いた 2006 本 296 白河天皇 ( 上皇 ) は のちに六勝寺と総称される寺院の一つである法勝寺を建立した 2013 本 297 院は大規模な寺院や離宮などをさかんに造営した 1998 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.54 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 287 288 記録荘園券契所は朝廷内に設置 289 類似の正文 11~12 世紀には 国衙は 開発領主の開発地を郷や保などの新たな行政単位とするとともに 彼らを郷司や保司などに任命して その地域の徴税をまかせた (1999 本 ) 290 在庁官人に登用されたのは 地元の豪族 開発領主層です 291 名主は有力農民 ( ふつうの田堵 ) から選ばれ 中世村落の中心的な存在になりました 292 293 294 295 296 297 院政期には 法勝寺をはじめとする六勝寺が相ついで建立されました 類似の正文 院政時代 上皇は造寺 造仏を行うとともに たびたび熊野へ参詣した (1995 追 )
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.55 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 298 10 世紀頃から 上級貴族や寺社は知行国主として一国の支配権を与えられ その国守には在地豪族を推挙した 1998 追 299 院政期 成功や重任を禁止し 摂関家の経済的基盤であった知行国制を廃止した 1995 追 300 院政期 荘園の寄進が院に集中するようになり 摂関家をしのぐ勢いを示した 1995 追 301 院政期 摂関家におさえられていた中下級貴族や受領らが院の近臣を形成した 1995 追 302 園城寺はいわゆる南都北嶺の北嶺にあたる 2000 本 303 南都 北嶺とは 高野山金剛峯寺と比叡山延暦寺のことである 2011 追 304 平安時代後期 鎌倉時代の延暦寺は 諸国に多くの荘園を持ち 有力貴族とならぶ社会的勢力となった 1995 追 305 平忠盛が海賊討伐に活躍し 鳥羽上皇の信任を得て平氏繁栄の基礎を築いた 2000 本 306 崇徳上皇と白河上皇の政権をめぐる抗争は 武士の政界進出の契機となった 2014 本 307 藤原信西 ( 通憲 ) は 後白河上皇に重用されたが 平治の乱で源義朝が指揮する軍勢に攻められて敗死した 2000 本 308 平清盛は太政大臣に任命され その一族も高位高官に昇った 1991 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.56 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 298 知行国制は院政期 (12 世紀 ) からみられ 国守には一族の子弟などが任命されました 299 知行国制は 院政期にひろがりました 300 代表的な荘園群に八条院領 長講堂領があり これらは皇室の主要な経済基盤になりました 301 302 南都は興福寺 北嶺は延暦寺 ( のそれぞれの僧兵 ) をさします 303 304 同問の正文 平安時代後期 鎌倉時代の延暦寺の寺僧はその要求を実現するため 朝廷や院に対してしばしば強訴を行った (1995 追 ) 305 忠盛 ( 清盛の父 ) は九州にも所領をもち ここで日宋貿易を行っています 306 白河上皇でなく 後白河天皇であれば正しい文章になります 307 308
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.57 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 309 平氏が多くの国で知行国主となった 2011 本 310 清盛は 自身の拠点である福原への遷都を計画した 2003 本 311 清盛は さかんに造寺 造仏を行い 法勝寺を造立した 2003 本 312 13 世紀には 日宋貿易の振興をはかって大輪田泊が修築され 短期間ながらこの近くに都が置かれた 1997 本 313 平氏が取り組んだ日宋貿易により 宋銭や陶磁器が輸入された 2014 本 314 奥州藤原氏の根拠地である平泉に造られた中尊寺金色堂や九州国東半島の富貴寺大堂は 浄土思想の広がりを示している 2011 本 315 福島県にのこる白水阿弥陀堂は 平安時代末期の唐様建築を代表するものであり 浄土教の地方へのひろがりを示している 1997 追 316 前九年合戦の経過は 院政期に著された軍記物 陸奥話記 に述べられている 1997 追 317 本来は宮中の芸能であった田楽が 都から地方に伝わり 村の祭礼に取り入れられた 2009 本 318 人びとの間に流行していた歌謡である今様が 後白河法皇により 梁塵秘抄 にまとめられた 2009 本 319 10~11 世紀頃に 貴族の間に流行していた今様などを集めた 梁塵秘抄 が編纂された 1996 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.58 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 309 310 311 法勝寺を建立したのは白河上皇です 312 13 世紀ではなく 12 世紀 ( 後半 ) 313 314 315 唐様建築ではなく 浄土教の阿弥陀堂建築です 平安末期の阿弥陀堂建築には 平泉の中尊寺金色堂や 大分県に残る富貴寺大堂があります 316 317 田楽は 豊作を祈る 田遊び から発達したなど諸説あり 318 319 院政期の 12 世紀に後白河法皇が編纂しました
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.59 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 320 中尊寺金色堂は 地方に伝わった浄土教の影響を強く受けた建築である 2008 本 321 平泉に中尊寺金色堂を建立した奥州藤原氏は 秀衡が源頼朝に討たれ 滅亡した 2013 本 322 平安時代中期以降 転換期の歴史意識を反映する 和文体の歴史物語が作られた 1998 本 323 藤原道長の栄華を中心として宮廷貴族の歴史を描き出す意識から 栄花物語 が編まれた 2000 追 324 大鏡 は 摂関家を中心とする歴史を和文体で描いている 2013 本 325 信貴山縁起絵巻 は 地域社会や民衆の姿が描かれている 2006 追 326 11~12 世紀には 絵巻物が描かれ 応天門の変を題材にした 伴大納言絵巻 や 庶民の生活 風俗を描いた 信貴山縁起絵巻 などが作成された 1999 本 327 以仁王の令旨によって 諸国の武士に源義仲打倒の兵をあげることが呼びかけられた 2000 追 328 源頼朝は 平氏が西国へ敗走したのち 後白河法皇と交渉し 東国支配の権限を認められた 2014 本 329 源平の争乱 ( 治承 寿永の内乱 ) の際に 平氏により延暦寺が焼き討ちされた 2013 本 330 源頼朝は後白河法皇の死後 征夷大将軍に任命された 1995 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.60 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 320 321 322 栄華 ( 花 ) 物語 や 大鏡 ( 四鏡のはじまり ) などがこれにあたります 323 324 325 326 327 1180 年 以仁王の令旨によって 諸国の武士 ( とくに源氏 ) に平清盛打倒の兵をあげることが呼びかけられました 328 329 平氏の攻撃を受けたのは 反平氏勢力 ( 僧兵など ) の拠点でもあった奈良 ( 南都 ) の東大寺です 330 1192 年のことです
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.61 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 331 鎌倉時代の地頭は 年貢徴収 納入や土地管理 治安維持にあたった 2009 本 332 荘園の管理を任された地頭は 一定額の年貢納入を請け負うようになった 2014 本 333 鎌倉幕府における御恩とは 土地支配にかかわる権限を認めることが主である 2010 本 334 合戦や大番役への動員では 国ごとに守護が御家人を統率した 2010 本 335 大犯三カ条は 地頭や守護の権限や特権について規定している 1994 本 336 鎌倉幕府の財政基盤には 将軍の知行国や荘園があった 2002 追 337 北条義時は 政所別当に加えて侍所別当を兼任した 2009 本 338 北海道と沖縄の両方に 鎌倉時代に守護や地頭がおかれた 2010 追 339 北条政子は 父の北条時政とはかって 将軍実朝を廃し有力御家人による合議制を進めた 1996 本 340 天皇家や貴族 大寺社と異なり 鎌倉幕府 ( 将軍家 ) は荘園を領有しなかった 2011 追 341 源平の争乱が終結したのち 院政を再開した後鳥羽上皇は鎌倉幕府との協力関係を重視した 2014 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.62 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 331 332 333 334 335 大犯三か条は 守護の権限や特権について規定しています ( 地頭の権限ではありません ) 336 将軍の知行国を関東知行国 ( 関東御分国 ) 荘園を関東御領という 337 338 339 北条政子は 父の北条時政とはかって 将軍頼家の独裁を防止するため 有力御家人による合議制を進めた ( のちに頼家は将軍を辞職させられ 殺される ) 340 341
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.63 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 342 後鳥羽上皇は 新たに北面の武士をおいて軍事力の強化をはかった 2001 本 343 後鳥羽上皇による討幕計画が進むなか 天皇家出身の慈円はそれを諫 ( いさ ) める書物を著した 2013 本 344 1221 年 後鳥羽上皇は北条義時の追討を諸国に命じた 2007 本 345 承久の乱後 幕府は後鳥羽上皇らを配流し 京都には京都守護に代えて六波羅探題を設置して 朝廷を監視させた 1991 本 346 六波羅探題は 朝廷の監視や西国御家人の統轄を担った 2015 本 347 承久の乱後 後鳥羽 土御門 順徳の 3 上皇が配流され 仲恭天皇が廃された 2001 本 348 白河上皇以来続いてきた院政という政治形態は 承久の乱によって終わりを告げた 2001 本 349 幕府は承久の乱で没収した所領に新たに地頭を任命し 西国への支配を拡大した 2011 追 350 承久の乱後 守護の収入を保証するため 幕府は新補率法を定めた 2001 本 351 幕府は承久の乱後 執権を補佐する 2 名の引付衆を置いた 1993 追 352 御成敗式目は 源頼朝以来の先例や武家社会の慣習を基準として作られた 2002 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.64 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 342 北面の武士は院政期に置かれたもので 後鳥羽上皇が置いたのは西面の武士 343 天皇家が誤りで 正しくは藤原氏 ( 摂関家 ) 慈円は藤原忠通の子 源頼朝と友好関係をきずいた藤原 ( 九条 ) 兼実の弟 344 345 346 347 348 院政という形態はその後しばしばみられ 江戸時代にもみられた 教科書での承久以後の 院政 については P.120 に記載あり 349 350 承久の乱後 地頭の収入を保証するため 幕府は新補率法を定めた 351 執権を補佐する役職は連署で 需要政務の合議にあたった評定衆ははじめ 11 人が任命されました 1249 年設置の引付衆は 裁判の公正化 迅速化をはかって評定衆のもとにおかれました 352
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.65 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 353 御成敗式目は 承久の乱後実力で朝廷側を圧倒した幕府が 律令にかわる全国法として制定したものであった 1991 追 354 御成敗式目は 御家人同士や御家人と荘園領主などとの紛争解決のために定められた 2009 本 355 鎌倉幕府は御家人どうしの争いだけでなく 御家人と荘園領主の争いにも 御成敗式目 を適用した 1998 本 356 御成敗式目は 室町幕府のもとでも基本法典としての生命をもっていたので 室町幕府の法令は 建武以来追加とよばれた オリジナ 357 鎌倉幕府は 御成敗式目 を基本法典とし その後は必要に応じて 御成敗式目 に対する追加法という形で新たな立法を行った 1998 本 358 執権北条時頼は 宝治合戦で三浦泰村を滅ぼした 2001 追 359 鎌倉時代の武士の惣領は 一族を引き連れて合戦にのぞんだ 1995 本 360 鎌倉時代の武士の家では 女性も所領を相続した 1995 本 361 名主や小百姓 ( 作人 ) は御恩に対して奉公をもってこたえ 戦時には戦場で闘い 平時には鎌倉番役などをつとめた 1995 本 362 名主は 下人などを使って耕作を行い 小百姓 ( 作人 ) は名田などの一部を請負耕作して生計を立てていた 1995 本 363 中世の荘園や公領では 水はけの悪い湿田は佃と呼ばれ その多くは弱小農民の自作地であった 2001 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.66 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 353 御成敗式目はあくまでも武家を対象とする法であって 律令や公家社会の法を否定するものではありませんでした 354 355 356 357 室町幕府も 御成敗式目 ( 貞永式目 ) を基本法とし その追加法 ( 建武以来追加 ) を発します 建武式目は基本法でなく 施政方針を示したものでした 358 1247 年のことである 359 360 女子が一代限りで相続した所領を一期分 ( いちごぶん ) といいます 361 名主よりも上位の階層である開発領主層が地頭 御家人として幕府の将軍と主従関係を結んで御恩をうけ 奉公をつとめました 362 363 佃は 地頭が直接経営した土地をいいます
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.67 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 364 中世の荘園や公領では 加徴米とは 公領に賦課された税の総称である 2001 本 365 鎌倉時代の地頭は 荘園のなかに給田 ( 免田 ) をもっていた 1995 本 366 地頭の所領は東国に限定されていたため 地頭と荘園領主の紛争が西国の荘園で起こることはなかった 1999 追 367 鎌倉時代には 荘園領主と地頭の間で土地を分割する地頭請が行われた 2011 追 368 荘園領主のなかには 地頭請によって一定額の収入を確保しようとするものもいた 1999 追 369 地頭と荘園領主の紛争を解決するために 荘園の土地を分割する下地中分が行われることもあった 1999 追 370 幕府は蒙古襲来をきっかけに それまで支配のおよばなかった荘園 公領の非御家人をも動員するようになった 2011 追 371 幕府は 蒙古襲来を契機に異国警護番役を続けることなどを通じて全国的支配権を強化するとともに 北条氏の家督を継ぐ得宗へ権力を集中していく 2011 本 372 元寇後 得宗専制の展開にともなって御内人の発言力が増大し 有力御家人の安達泰盛が滅ぼされる事件が起こった 2005 本 373 鎌倉時代には 港湾や河川交通の要所で問丸が発達し 荘園から徴収した年貢の輸送や保管などにあたった 2000 追 374 鎌倉時代の京都では 同業者の団体である座が結成されていた 2015 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.68 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 364 加徴米とは 新補地頭の収入となった米です 365 366 承久の乱後 西国に多くの新補地頭が置かれたため 東国よりも西国の方で多くの紛争がみられました 367 双方で土地支配を分割することを下地中分 ( したじちゅうぶん ) といいます 368 369 370 371 372 1285 年 有力御家人の安達泰盛が御内人を代表する内管領 平頼綱によって滅ぼされました 373 374
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.69 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 375 鎌倉時代には 灯油の原料となる荏胡麻が栽培された 2006 本 376 借上は 両替商人であり 荘園の年貢 公事を換金して荘園領主に送る業務をした 1991 追 377 替銭 ( 為替 ) は 遠隔地との取引で 銭貨の輸送に替えて 手形 ( 割符 ) で決済を行うことである 1991 追 378 中世には 年貢などの負担を銅銭で納める代銭納が行われた 2007 追 379 紀伊国阿テ河荘民の訴状は 地頭の悪政を荘園領主に訴えたものである 2003 本 380 永仁の徳政令が出されたのは 鎌倉幕府が得宗専制政治を行っていた時期である 2001 本 381 永仁の徳政令の目的は 売却された御家人領を有償で買い戻させることにあった 2001 本 382 永仁の徳政令を契機に 御家人の所領相続形態は しだいに単独相続から分割相続へと移行していった 2001 本 383 法然の弟子で 選択本願念仏集 を著した親鸞は 朝廷により配流された 2013 本 384 浄土宗の中心となった寺院に 知恩院がある 2007 本 385 親鸞は 法然とともに弾圧を受けて流罪となったが 許されて後に 選択本願念仏集 を著して浄土真宗を独立させた 1998 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.70 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 375 376 借上は鎌倉時代にみられた金融業者 ( 高利貸業者 ) で 1297 年の永仁の徳政令では御家人から売却した土地などの無償返還を命じられました 377 378 鎌倉時代の貨幣 ( 宋銭 ) の流通を示す例です 類似の正文 鎌倉時代には 荘園領主への年貢を 現物の代わりに貨幣で納める銭納も行われた (2001 本 ) 379 380 1297 年 執権北条貞時 ( 得宗専制政治の最盛期 ) のときに発布されました 381 永仁の徳政令の目的は 売却された御家人領を無償で御家人に取り戻させることにありました 382 武家社会では 鎌倉後期 南北朝時代に しだいに分割相続から嫡子の単独相続へ移行していったとするのが通説 383 選択本願念仏集 は法然の著書 384 知恩院の所在地は京都です 385 親鸞は 法然とともに弾圧を受けて流罪となりましたが 許されて後に 教行信証 を著して浄土真宗の開祖となります 選択本願念仏集 は法然の著書です
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.71 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 386 浄土宗 浄土真宗 時宗などの宗派は 念仏を唱えれば極楽往生できると説いた 1998 追 387 南無阿弥陀仏の題目を唱えれば救われると説いた日蓮は 鎌倉幕府により迫害された 2013 本 388 日蓮は 南無阿弥陀仏 をとなえると極楽浄土へ往生すると説いた 2016 本 389 日蓮は 蒙古襲来を前にした鎌倉で 他宗攻撃の熱烈な辻説法を行い 幕府に捕らえられて流罪となった 1998 追 390 日蓮は 興禅護国論 を書いて国難到来を予言したが 秩序を乱すとして弾圧をうけた 2002 本 391 北条時頼は 宋より渡来した蘭渓道隆を厚く遇し 建長寺の開山とした 2001 追 392 蒙古襲来ののち 日本と元との間に正式な外交関係はなかったが 商船の往来は行われていた 2010 追 393 建長寺の修造費を調達するため 貿易船が元に派遣した 2014 本 394 幕府の実力者の帰依を受けた無学祖元は 円覚寺を開いた 1995 本 395 道元は宋から曹洞宗を伝え 建仁寺を開いた 1995 本 396 律宗は 奈良西大寺に叡尊が出るにおよんで 文殊菩薩への信仰を説き 戒律を重んじ土木事業や非人救済事業に乗り出す教団に生まれ変わった 1998 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.72 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 386 387 日蓮が重視したのは 題目 ( 南無妙法蓮華経 ) です 388 389 390 日蓮は 立正安国論 を書いて国難到来を予言しましたが 秩序を乱すとして弾圧をうけました 興禅護国論 は臨済宗開祖の栄西の著書です 391 当時の中国は モンゴル ( のち元 ) の圧迫を受けていた宋 ( 南宋 ) です 392 393 394 北条時頼の帰依を受けた南宋出身の無学祖元は 円覚寺 ( 禅宗様の代表的寺院 ) を開いた 395 道元が開いた寺院は永平寺です 建仁寺は栄西が建立 類似の正文 曹洞宗の開祖道元は 越前に永平寺を開き 政治権力との結びつきを排してひたすら坐禅に徹することを説いた (1998 追 ) 396 律宗の叡尊の弟子 忍性は奈良にらい病患者を救済 施療するための施設として北山十八間戸を建てました
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.73 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 397 律宗の明恵と叡尊は 戒律を重んじるとともに 貧民や病人の救済 治療に尽力した 1995 本 398 忍性は 貧困や難病で苦しんでいる人々のために救済事業を行った 2005 追 399 鎌倉時代には 禅宗の高僧の肖像を描く濃絵もみられるようになった 2010 本 400 鴨長明は 方丈記 において 変転する世相を無常観にもとづいて描いた 2010 本 401 摂関家出身の僧慈円の 愚管抄 では 公家の没落と武家の興隆という歴史の移り変わりが 道理 により説明されている 2002 本 402 元亨釈書 を著した義堂周信は 幕府の政治 外交の顧問となった 1995 本 403 源実朝は 自身の和歌集 金槐和歌集 を残している 2003 本 404 藤原家隆は 自身の和歌集 山家集 を残している 2003 本 405 新古今和歌集 は 後鳥羽上皇の命で編集された 2003 本 406 新古今和歌集 の撰者の一人に 藤原定家がいた 2003 本 407 平氏の興亡を描いた 平家物語 が 琵琶法師により平曲として語られた 2016 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.74 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 397 明恵 ( 高弁 ) は華厳宗 類似の正文 高弁 ( 明恵 ) は 華厳宗を学んで旧仏教の復興に尽力した (2005 追 ) 398 399 400 401 類似の正文 慈円は 摂関家の出身で 天台座主となり 愚管抄 を著した (2000 本 ) 402 元亨釈書 の作者は虎関師錬です 403 404 山家集 は西行の和歌集です 405 406 407 類似の正文 琵琶法師は 平家物語 を平曲として語り継ぎ流布させた (2002 年 )
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.75 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 408 源平の争乱を描いた 太平記 は琵琶法師によって語られ 人々に親しまれた 2014 本 409 鎌倉時代には 平曲の伴奏に三味線が使われた 2012 本 410 重源が戦乱で荒廃した南都の寺院再建に採用した様式 2010 411 平氏によって焼き打ちにあった興福寺の再建は 重源が責任者に任命され 朝廷や鎌倉幕府の援助によってなされた 1991 本 412 愚管抄 は鎌倉幕府が編さんした歴史書である 2016 本 413 吾妻鏡 は 鎌倉幕府が幕府内部の記録などを参照に編さんされた歴史書である 2016 本 414 吾妻鏡 には 鎌倉幕府の歴史がつづられている 2002 本 415 蒙古襲来絵詞 ( 絵巻 ) には 元軍に立ち向かう騎馬武者の姿が描かれている 2002 本 416 鎌倉時代には 瀬戸焼などの陶器の生産がはじまった 2006 本 417 鳥羽法皇の死を契機として朝廷では持明院統と大覚寺統に分かれ 皇位を争ったが これは幕府にとっても大きな政治的問題となった 1991 本 418 後醍醐天皇は 幕府に捕らえられて隠岐に配流された 2002 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.76 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 408 太平記 は南北朝期を描いた軍記物語で 平家物語 であれば正しい文章 409 三味線でなく琵琶であれば正しい文章になります 410 写真 411 興福寺ではなく 東大寺です 412 鎌倉幕府が成り立ち頃からの歴史を編さんした歴史書は 吾妻鏡 です 愚管抄 は慈円が著した歴史書 ( 史論書 ) です 413 類似の正文 : 吾妻鏡 には 鎌倉幕府の歴史がつづられている (2002 本 ) 414 415 蒙古襲来絵詞 ( 絵巻 ) は 九州の御家人 竹崎季長が元軍に立ち向かう自らの姿 ( 騎馬武者の姿 ) を描かせたものです 動機は恩賞を得るためと考えられています 416 加藤景正がはじめたという伝承がある 417 13 世紀後半 ( 元寇のころ ) 後嵯峨上皇の死後 両統 ( 持明院統と大覚寺統 ) の分裂が深刻化しました 418 1331 年の元弘の変 ( 元弘の乱 ) のときです
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.77 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 419 御家人の足利高氏 ( 尊氏 ) は 鎌倉幕府が京都に置いた重要機関である六波羅探題を攻め落とした 2015 本 420 新田義貞は 鎌倉幕府を滅亡に追いやった武将の一人である 2007 追 421 河内国を基盤とした楠木正成は 後醍醐天皇と結びつき 鎌倉幕府の倒幕に際して中心的な役割を果たした 2007 追 422 後醍醐天皇は 有職故実の書である 職原抄 を著した 2002 本 423 後醍醐天皇は 綸旨によって土地所有権が確認されると定めた 2002 本 424 後醍醐天皇の政権が置いた雑訴決断所は 所領関係の裁判を扱った 2007 本 425 建武新政期には 鎌倉将軍府が置かれ 関東とともに東北地方の統治もその権限とされた 1997 追 426 後醍醐天皇が京都に樹立した政権も 守護制度を廃止することはなかった 2007 本 427 後醍醐天皇は 天皇親政を開始し 記録所を再興した 2002 本 428 足利尊氏は 持明院統の光厳天皇をたて 後醍醐天皇を吉野に退け ここに北朝と南朝に分裂し相争う時代が始まった 1991 追 429 室町幕府は 御成敗式目 にかわって 建武式目 を基本法典としたので その追加法は 建武以来追加 とよばれた 1998 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.78 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 419 420 1333 年 上野 ( 今の群馬県 ) で挙兵した新田義貞が鎌倉を攻め 幕府を滅ぼしました それより少し前に後醍醐天皇方の鎮圧を命じられた下野 ( 今の栃木県 ) 出身の足利尊氏が幕府を裏切って京を攻略して六波羅探題を滅ぼしました 421 422 職原抄 は 後醍醐天皇の重臣 北畠親房があらわした有職故実書です 423 424 425 東北地方の統治する機構として 鎌倉将軍府とは別に陸奥将軍府が置かれました 426 国単位で設置された国司と守護を併置している 427 428 足利尊氏は 持明院統の光明天皇をたて 後醍醐天皇を吉野に退け ここに北朝と南朝に分裂し相争う時代が始まりました 429 御成敗式目は その後も武家社会の基本法典として重んじられました 1336 年の建武式目は 足利尊氏が当面の政治方針を示したものです
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.79 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 430 室町幕府は 発足して間もなく 足利尊氏 直義兄弟の両派に分裂し 南朝勢力や全国の武士を巻き込んで争った 1991 追 431 足利直義は 足利家執事の高師直と連携して 将軍の足利尊氏から実権を奪い取った 2014 本 432 足利直義は 鎌倉府を拠点に将軍の尊氏からの自立をはかり 鎌倉公方とよばれた 2014 本 433 足利直義は 将軍の尊氏から裁判権などをゆだねられ 幕府の政務を分担した 2014 本 434 足利直義は 将軍の尊氏を補佐する管領に就任して 寺社への窓口となった 2014 本 435 幕府が置いた鎌倉府の長官である鎌倉公方の地位は 足利直義の子孫が世襲した 2011 追 436 守護の領国支配においては 御成敗式目に規定されている使節遵行権や刈田狼藉の取締り権などが大きな役割を果たした 1999 追 437 半済令によって守護は 年貢を荘園領主と折半し それを配下の武士に分け与えることを認められた 2014 本 438 半済令は はじめは 1 年限りで 特定の地域に限定されていたが やがて永続的になり 全国を対象とするようになった 1992 本 439 室町時代の守護は 半済令によって領国内の荘園 公領の年貢の半分を兵粮米として徴発することを認められた 2011 追 440 守護が吸収した権限のなかには それまで諸国の国衙がもっていた機能も含まれている 2003 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.80 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 430 1350 年にはじまるこの争乱を観応の擾乱 ( かんのうのじょうらん ) といいます 431 観応の擾乱は 尊氏 師直 vs 直義という構図で展開します 432 幕府の東国統治機関である鎌倉府の長官 鎌倉公方は 尊氏の子 基氏やその子孫が継承することになります 433 434 管領は 畠山 細川 斯波の 3 氏 ( 三管領 ) から任命されました 435 足利直義でなく足利基氏なら正しい文章になります なお 2 代将軍は義詮 ( よしあきら ) ですが 若くして亡くなったためか 父 ( 尊氏 ) 子 ( 義満 ) 弟 ( 基氏 ) よりも知名度の低い将軍です 436 使節遵行権や刈田狼藉の取締り権などが守護の職務とされたのは 南北朝時代からです 437 438 最初の発令は 1352 年で 尾張 美濃 近江を対象に 1 年限りとするものでした 439 440 守護による国衙 ( 国司 ) 機能の吸収は鎌倉時代にはじまる
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.81 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 441 守護は 守護請によって 荘園や公領における年貢の徴収も請け負うようになった 2003 本 442 国人は しだいに地縁より血縁で結合し 惣領を通して守護に組織されるようになった 2003 本 443 守護の権限拡大に対して 国内の武士は国人一揆を結び その支配に対抗する場合もあった 2011 追 444 足利義満は 南朝と北朝の合体を実現し この動乱を終息させた 2003 本 445 足利義満は 南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に譲位する形で 南北朝の合一を行った 2013 本 446 足利義満は 息子の基氏を鎌倉公方として 関東に派遣した 2013 本 447 足利義満は 有力守護である山名氏清と大内義弘を滅ぼし 権力の集中をはかった 2013 本 448 足利義満は 京都の室町に花の御所とよばれる邸宅を造営し そこで政治を行った 2013 本 449 各地の武士たちは国人一揆を結んで地縁的な結びつきを強め ときには守護と対立することもあった 1999 追 450 室町幕府の侍所は京都以西の御家人の統制機関で その長官には斯波氏らが任命された 2002 本 451 有力守護大名はやがて幕府の権威を脅かすようになったため 3 代将軍足利義満は明徳の乱で大内氏を 嘉吉の乱で赤松氏を討った 1999 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.82 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 441 442 惣領は武士の一門の首長 ( 家督 ) のこと 南北朝時代 血縁的なつながりからなる惣領制は解体に向かっていったとするのが通説 443 444 1392 年のことです 445 南北朝の合一は 南北朝の合体 ともいいます 446 足利義満を足利尊氏にすれば正しい文章 447 448 449 450 室町幕府の侍所は京都の警護 訴訟などを管掌した 長官に京極 山名 赤松 一色 ( 京の山は赤一色 ) の 4 氏 ( 四職 ) が任命 斯波氏は畠山氏 細川氏とともに管領をつとめた ( 三管領 ) 451 3 代将軍足利義満は 1391 年の明徳の乱で山名氏清を 1399 年の応永の乱で大内義弘を討ちました 1441 年の嘉吉の乱は 赤松満祐が 6 代将軍義教を殺害した事件です
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.83 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 452 山名氏は侍所の長官をつとめる大名の一つで 多くの領国を有して六分一殿といわれたが 将軍に討たれて勢力を削減された 2011 追 453 足利義満は 応永の乱で大内義弘を滅ぼした 2006 本 454 室町幕府の財政基盤の一つに 御料所とよばれる直轄領があった 2002 追 455 室町幕府は 国人や守護の一族の者を奉公衆に編成し 将軍直轄領の御料所を管理させた 2008 本 456 細川氏は三管領の一つとして将軍を補佐し 応仁の乱後の幕政を左右したが やがて家臣の三好氏に実権を奪われた 2011 追 457 幕府は侍所をおき 京都内外の警備や刑事裁判にあたらせた 2011 追 458 15~16 世紀の関東管領上杉氏は 四職とよばれた 4 家のうちの一つである 2003 追 459 幕府は必要に応じて段銭 棟別銭を課したが 守護が独自にこれを徴収することはなかった 1999 追 460 室町幕府は朝廷が保持していた京都市中の市政権を吸収し 土倉や酒屋に対して段銭や棟別銭を賦課した 1991 追 461 室町幕府が商人に賦課した営業税が棟別銭である 2002 追 462 将軍足利義教の時に 関東で上杉氏憲 ( 禅秀 ) が反乱を起こし 幕府によって鎮圧された 1997 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.84 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 452 453 454 御料所 ( 直轄領 ) を管理した幕府直属の家臣団が奉公衆です 455 456 457 458 四職は 侍所の長官を出した 4 氏で 京極 山名 赤松 一色 ( 京の山は赤一色 ) 459 守護も段銭 ( たんせん ) を課している ( 守護段銭 ) 460 土倉や酒屋に対して倉役や酒屋役を賦課しました 461 棟別銭は守護を通して民家に課した税です 462 上杉氏憲 ( 禅秀 ) の乱は 1416 年で 4 代将軍義持のときです
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.85 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 463 将軍足利義教は 幕府に対して独立性を強めていた鎌倉公方の足利持氏を 永享の乱で滅ぼした 2000 追 464 足利義教は 嘉吉の土一揆との戦いで敗死した 2005 本 465 応仁の乱は 将軍家や幕府の管領家の家督争いがからんでおこった 2001 本 466 応仁の乱は 天文法華の乱を契機に終息していった 2001 本 467 応仁の乱の最中に 畠山氏の軍を退去させた山城の国一揆が起きた 2001 本 468 中世の荘園や公領では 名主のほとんどは 南北朝の動乱にまきこまれて没落した 2001 本 469 惣村では寄合という会議が行われ それには守護が加わることもあった 2012 追 470 惣村が形成されると 村が荘園の年貢の納入を請け負うこともあった 2011 追 471 惣村に年貢などの徴収を請け負わせる百姓請 ( 地下請 ) が行われることがあった 1999 追 472 惣村の村民は惣掟 ( 村掟 ) を定めたり みずから警察権を行使することがあった 2012 追 473 惣村は 寄合を開いて独自の様々なきまりを定め これをもとに地下検断 ( 自検断 ) を行うこともあった 1999 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.86 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 463 永享の乱は 1438-39 年のことです 464 6 代将軍足利義教は 1441 年の嘉吉の変で守護大名 赤松満祐に殺害されました 465 将軍家では 9 代将軍の座をめぐる足利義視 (8 代義政の弟 ) と義尚 ( 義政の子 ) の争い 管領家では 斯波氏 畠山氏でそれぞれ家督をめぐる争いがあった 466 天文法華の乱は 16 世紀に京都の法華宗門徒の町人らが結成 応仁の乱は 1477 年に終わりました 467 山城の国一揆は 1485 年に起きました 応仁の乱は 1477 年に終わっています 468 名主 ( みょうしゅ ) は その後も惣村などの指導者として重要な役割を担うことになります 469 470 471 472 473 検断は 裁判権 警察権のことをいいます
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.87 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 474 惣村では預所 下司などの指導者が選出され 日常の村政にあたった 1999 追 475 惣村は荘園 公領の範囲を越えて広域的に結びつき 共同して行動することもあった 1999 追 476 領主に対する要求が認められない場合には 村民が逃散することもあった 2012 追 477 畿内では 惣村の結束を基盤として 徳政を求める一揆が起こることもあった 2012 追 478 正長の徳政一揆は 初めての大規模な土民蜂起であり 幕府も徳政令を出した 1991 追 479 近江の運送業者の蜂起をきっかけとして 正長の土一揆が起こった 2005 本 480 土倉のなかには 室町時代 土一揆の襲撃対象となるものがあった 2003 追 481 農民は分一銭の納入によって 室町幕府から年貢の一部を免除された 2002 追 482 徳政を要求する土一揆が頻発するようになると 幕府は分一銭を納入させる分一徳政令を発布することもあった 1999 追 483 中世には 二毛作が各地に広まり 畿内では三毛作も行われた 2005 追 484 中世 ( 鎌倉 室町 ) において 多収穫が見込める大唐米が普及した 2011 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.88 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 474 惣村の指導者は 乙名 ( おとな ) 沙汰人などとよばれました 475 476 477 478 室町幕府が初の徳政令を発令したのは 1441 年嘉吉の徳政一揆のときです 479 近江の運送業者とは 近江坂本の馬借です 480 土倉のほかに 酒屋 寺院も襲撃対象になりました 481 分一銭は 徳政令発布時に農民が幕府に納めた銭です 482 483 484
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.89 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 485 連雀商人などが各地で行商をした 2011 本 486 室町時代の高級和紙の産地として 越前 美濃などが知られる 2002 追 487 中国から輸入された銭が流通したが 宋銭の永楽通宝はその代表的なものの一つである 1999 追 488 明銭が流入するとともに 粗悪な私鋳銭が広くみられるようになった 2014 本 489 酒屋 土倉が高利貸を行った 2011 本 490 室町時代には粗悪な私鋳銭が造られた 2002 追 491 応仁の乱による荒廃から京都を復興させるため 幕府は町衆の負担する撰銭を免除した 1992 追 492 馬借 車借は 馬や車を利用した運送業者あるいは交通労働者のことである 1991 追 493 近江国坂本などの交通の要所では 馬借とよばれる運送業者が活躍し 室町時代にはたびたび一揆をおこした 2000 追 494 九州地方を通る幹線道路の南海道では 室町時代に交通が活発となり 街道筋には宿場町が発展した 2000 追 495 北九州の草戸千軒 { くさどせんげん } 町は 堺とならぶ国際貿易都市として栄えた 2007 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.90 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 485 486 487 永楽通宝は明銭です 488 489 490 491 撰銭は 貨幣の流通促進などを目的に幕府 大名が発した法令です 492 493 1428 年の正長の土一揆では 最初に近江坂本の馬借が蜂起したことで知られます 494 九州は西海道に所属 495 草戸千軒町遺跡は今の広島県の瀬戸内海に面し 近世前期 (1673 年 ) に大洪水で水没した港町の遺跡
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.91 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 496 元寇以後 日中間の交易は幕府滅亡に至るまで行われなかった 2002 本 497 天竜寺は 後醍醐天皇の冥福を祈って建立された 2001 追 498 天竜寺造営の費用を調達するために 明に貿易船が派遣された 2001 追 499 足利将軍は自らを 日本国王 と称し 中国皇帝とのあいだで対等な関係を維持した 1998 本 500 日本国王が明の皇帝に朝貢する形式をとる勘合貿易は 幕府財政の大きな負担となった 2010 追 501 勘合貿易は 足利義教により一時中断されたが 義政の時に復活された 1996 追 502 日明貿易は 細川氏と結んだ堺商人や 大内氏と結んだ博多商人によって担われた 2007 追 503 日朝貿易において 日本の輸入品のなかには大蔵経 ( 一切経 ) もみられた 2006 本 504 日朝貿易は 16 世紀初めの寧波の乱を契機に衰退していった 2000 本 505 尚巴志の三山統一により誕生した琉球王国は 東アジアの中継貿易基地として繁栄し 室町幕府とも交渉をもった 1993 追 506 13 世紀ころまで北海道では 狩猟 漁撈に依存し 縄文土器系の土器を用いる続縄文文化が展開していた 1993 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.92 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 496 鎌倉時代末期 鎌倉幕府は建長寺を修理する費用を調達する貿易船 ( 建長寺船 ) を元に派遣しています ちなみに 鎌倉幕府滅亡後では 後醍醐天皇の冥福を祈るため 足利尊氏は天竜寺造営のための貿易船 ( 天竜寺船 ) を元に派遣しています 497 498 明ではなく 元に派遣 センター試験ではオーソドックスな問題例 499 対等外交ではなく 明の皇帝に日本将軍 ( 義満 ) が服従するという朝貢形式でした 500 501 勘合貿易は 4 代将軍義持により一時中断されたが 6 代将軍義教の時に復活されました 502 503 大蔵経は 仏教の教えなどを集大成した経典 504 日朝貿易は 1510 年の三浦の乱を契機に衰退していった 1510 年はすでに戦国時代であることも意識しておこう 時代順対策として 505 琉球統一は 1429 年 首都は首里で 外港として那覇が中継貿易で栄えます 1609 年に薩摩の島津家久による侵略を受けるまでは 名実ともに独立王国です 類似の正文 15 世紀 ~16 世紀 琉球船は 東南アジア一帯にまで活動範囲をひろげ 諸国間の中継貿易をさかんに行った (1997 追 ) 506 続縄文時代のあと 9 世紀に擦文 ( さつもん ) 文化がはじまり 12-13 世紀にアイヌ文化が成立しました
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.93 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 507 津軽の十三湊は 安藤 ( 安東 ) 氏の支配の拠点として栄えた 2006 本 508 15 世紀半ば 北海道では 勢力を伸ばし始めた和人に抗して シャクシャインが蜂起した 1997 追 509 松前氏は アイヌとの交易の独占を室町幕府から公認された 2013 本 510 五山文学を代表する作者として 義堂周信や絶海中津が著名である 2014 本 511 室町幕府は 南都 北嶺を五山の制に組み込んだ 2011 追 512 五山の漢詩文の一部は出版されて流布した 2014 本 513 梅松論 は 南朝の立場から南北朝内乱をえがいた史書である 1991 追 514 太平記 には 15 世紀に起こった応仁の乱の経過が叙述されている 2002 本 515 足利義満が京都東山に建てた金閣は 代表的な唐様の建築物である 1998 追 516 足利義満の居所である北山第内に営まれた金閣は 禅宗様と伝統的な寝殿造などの建築様式を統合している 1999 本 517 足利義満の創建した相国寺は 五山の上に列せられた 1996 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.94 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 507 津軽十三湊を鎌倉時代から室町時代に支配した安藤 ( 安東 ) 氏は もともと鎌倉幕府の北条氏 ( 得宗 ) の家来です 類似の正文 中世においては 津軽十三湊が本州と北海道との交易の拠点となっていた (1997 追 ) 508 1457 年 アイヌの大首長コシャマインに率いられたアイヌ民族が蜂起しました この鎮圧後 蠣崎氏が渡島半島の実力者となり 江戸時代の松前氏の祖となります 509 510 511 512 513 梅松論 は 武家側 ( 北朝の立場 ) から南北朝内乱をえがいた史書です 514 太平記 は南北朝期を描いた軍記物語です 515 足利義満が京都北山に建てた金閣は 寝殿造と唐様が融合された建築物です 516 517 京都五山は 天竜 相国 東福 建仁 万寿の 5 寺で その上に南禅寺が置かれました 類似の正文 天竜寺は 京都五山の一つに数えられた (2001 追 )
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.95 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 518 京都五山に拠点をすえた道元は 漢詩文と坐禅の両立をめざした 2014 本 519 漢詩文の能力がある五山の禅僧は 政治や外交の場面で活躍した 2014 本 520 真言宗では 和歌の創作 研究を中心とする五山文学がさかんになった 2000 本 521 天竜寺の庭園は 南北朝 室町期の代表的庭園の一つである 2001 追 522 もともと近江を基盤に活動していた観阿弥 世阿弥は 京都で足利義満の庇護をうけ その優美な芸を完成させた 1994 追 523 世阿弥は猿楽能の脚本を集成して 謡曲集の 風姿花伝 をまとめた 1999 本 524 室町時代 禅の精神的境地を表現する水墨画も画かれ 如拙の 瓢鮎図 が知られている 1998 追 525 明から帰国した雪舟は 四季山水図 ( 山水長巻 ) や 天橋立図 などを描いた 2013 本 526 庭園では 竜安寺や大徳寺大仙院などの枯山水が造られた 1995 追 527 狩野正信 元信父子は 水墨画の技法を取り入れ 伝統的な大和絵を刷新した 2013 本 528 北山の山荘 ( 北山殿 ) の庭園は 山水河原者の善阿弥によって作庭された 1999 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.96 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 518 519 520 五山文学は 臨済宗五山派の僧侶らによるものです 521 522 観阿弥 世阿弥は大和を基盤に活躍 523 風姿花伝 は能楽 ( 芸道 ) の理論書です 524 525 526 527 528 山水河原者の善阿弥は 銀閣など東山山荘の庭園をつくった
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.97 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 529 室町時代には 仏教や儒教を取り込んだ唯一神道が唱えられた 2008 本 530 堺の村田珠光は 武野紹鴎がはじめた侘び茶の方式を受け継いだ 1995 本 531 応仁の乱後 困窮した公家のなかには 二条良基のように 地方の武士たちに古典などを教えることで生計を立てていた者も多かった 1998 本 532 閑吟集 は 室町時代に広く流行した小歌などを集めたもので 庶民生活を知る上でもよい材料である 1991 追 533 足利学校は 15 世紀の中ごろ 鎌倉公方足利持氏によって再興されたが 小田原北条氏 ( 後北条氏 ) が関東を支配するにおよんで再び荒廃した 1998 本 534 日明貿易で栄え 公家や文化人も多数訪れた大内氏の城下町山口では 学問への関心も高まり 活字印刷機を用いた出版事業も盛んに行われた 1998 本 535 桂庵玄樹は 肥後の菊池氏や薩摩の島津氏に招かれて儒学を講じ のちの谷時中らにつながる南学のもとを開いた 1998 本 536 室町時代の中期には 日常語句を類別した辞書である 庭訓往来 が作られ 後世の辞書に大きな影響を与えた 1996 追 537 往来物とよばれた読み書きの教科書は 中世だけでなく 近世に入っても多数つくられ 寺子屋での教育に用いられた 1998 本 538 戦国時代 御成敗式目 は法典としてだけでなく 読み書きの手本としても読まれた 1998 本 539 浄土真宗の蓮如は その教えを御文という平易な仮名書き文に書き 門徒組織の講などに送って信仰を固めさせた 1998 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.98 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 529 530 侘茶は 村田珠光から堺商人の武野紹鴎へ さらに千利休へと受け継がれました 531 二条良基は南北朝期の北朝の上級公家で 連歌の地位を高めたことで知られる 莵玖波集 を編さんし 応安新式 などをあらわした 532 533 足利学校は 15 世紀の中ごろ 関東管領 上杉憲実によって再興された 小田原北条氏 ( 後北条氏 ) のもとで繁栄し 門弟数千人が学び 坂東の大学 と称せられた 534 出版事業が行われましたが 活字印刷機ではありません 活字印刷機は 16 世紀末に外国人宣教師 ( ヴァリニャーニ ) や朝鮮 ( 朝鮮出兵時 ) から伝えられました 535 桂庵玄樹は 肥後の菊池氏や薩摩の島津氏に招かれて儒学を講じ 薩南学派を開く 土佐に招かれた南村梅軒は谷時中らにつながる南学 ( 海南学派 ) を開いた 但し梅軒は実在性が乏しいとされ 最近の教科書から消えている 536 庭訓往来 は手紙を書く形式の手習い書 この頃の日常語句の辞書に 節用集 がある 537 538 539
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.99 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 540 蓮如は吉崎御坊を建立して北陸の一向宗門徒の拠点とし やがて門徒勢の力は加賀国守護富樫氏を攻め滅ぼすまでにいたった 1998 追 541 越前では 一向一揆が守護富樫政親を倒し その後 約 1 世紀間にわたり国内を支配した 1997 追 542 一向宗門徒の一揆は 約 100 年間 加賀国を自治支配した 1999 本 543 室町幕府の保護を受けて京都で勢力を伸ばした臨済宗に対し 曹洞宗では一休宗純らが出て 地方の民衆を中心に宗教活動を行った 1998 本 544 禅宗諸派 ( 林下 ) が 地方の武士や庶民の支持を受けるようになった 2003 追 545 臨済宗の妙心寺は 林下の禅の中心となった寺院である 2007 本 546 日親は 他宗に対して激しい宗教論争を挑んだためしばしば迫害を受けた 1998 追 547 書院造と呼ばれる建築様式が現れたころ 日親が京都を中心に日蓮宗を布教した 2001 追 548 節用集 は イエズス会宣教師によってつくられ 天草で刊行された日本語辞書で 当時日本でつくられた辞書のなかで最も高い水準を示している 1998 本 549 戦国時代の京都では 日蓮宗の信者によって法華一揆が結ばれた 2003 追 550 15~16 世紀の関東管領上杉氏一族内で 山内上杉家と扇谷上杉家とが対抗するようになった 2003 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.100 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 540 1488 年 加賀の一向一揆で守護の富樫政親が一向宗門徒によって殺害されました 541 越前ではなく 加賀 ただし 越前の一向一揆は 16 世紀後半 ( 信長の時代 ) に起きている 542 百姓のもちたる国 とよばれた 一向宗門徒である国人 農民らが 100 年間 加賀を自治的に支配 543 一休も臨済宗の僧侶です ただし 幕府の保護を受けた五山派とは異なり 民衆や地方武士への布教につとめ 林下 ( りんか ) とよばれました 林下は 臨済宗五山派以外の禅宗諸派をいいます 544 545 546 547 548 節用集 は奈良の商人らがつくった日常語の辞書です 549 類似の正文 京都では 多くの町衆が日蓮宗徒となり一揆を結んだが 延暦寺の勢力と衝突し 一揆は解体した (1997 追 ) 550
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.101 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 551 伊豆国の国人から成長した北条早雲は 相模国の堀越公方を滅ぼして 小田原に進出した 2000 追 552 室町 戦国時代年貢の銭納がすすみ 所領の規模をその年貢に相当する銭の量であらわす貫高がもちいられた 1999 追 553 15~16 世紀の関東管領上杉氏は 家臣の武田信玄に関東管領の職を譲った 2003 追 554 越後国の守護代であった長尾景虎は 上杉氏の家督を継承して のち上杉謙信と名乗った 2000 追 555 戦国大名は 検地を実施して所領の大きさをはかり 年貢として取れる銭の量を確定した 1993 本 556 戦国大名の多くは 商工業や商品経済の発展によって生み出される利益を独占するために 関所などを設けたり 楽市令を廃止したりした 1993 本 557 喧嘩両成敗法は 紛争当事者が私闘によってその解決をはかることを禁じたものである 2002 追 558 信濃国善光寺参りが盛んとなり 室町 戦国時代にはその門前町がにぎわった 2000 追 559 堺では 会合衆を中心にした自治的な都市運営が行われるようになった 2000 本 560 16 世紀中ごろ 朝鮮から新しい精錬技術が伝わり 銀の生産がさかんになった 2010 追 561 応仁の乱後 京都では町衆によって祇園祭 ( 祇園会 ) が復興された 2016 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.102 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 551 北条早雲は牢人出身 552 553 関東管領の職は越後の長尾景虎 ( 上杉謙信 ) に譲られました 554 555 戦国大名による検地を指出検地 ( 自主申告制 ) といい 年貢高 軍役などを銭に換算することを貫高といいます 556 戦国大名は 関所を撤廃し 座の特権を否定して自由な商業を奨励する楽市 楽座令を発しました 557 558 善光寺の門前町は現在の長野市です 559 類似の正文 堺は 日明貿易 南蛮貿易で栄え 平和で自由な都市であると宣教師によってヨーロッパにも紹介された (1997 追 ) 560 561
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.103 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 562 町衆によって 祇園祭が復興された 2011 本 563 応仁の乱で途絶えていた京都の祇園祭 ( 祇園会 ) は 近郊農村の農民によって再興され 民衆の祭りとなった 1997 追 564 16 世紀に来日したイエズス会の宣教師らは セミナリオなどの神学校を建てて教育活動を行った 1995 追 565 宣教師が伝えた活字印刷術によって 天草版 ( キリシタン版 ) が作られた 2014 本 566 フランシスコ = ザビエルが豊後で会見した大友義鎮はキリスト教を保護し 自らもキリシタンとなった 2016 本 567 南蛮人との交流を通して その風俗が屏風に描かれるようになった 2012 本 568 今も使われている カステラ カルタ はオランダ語に由来している 2006 本 569 鉄砲は近江国の国友などで製作され 大名の戦術を変えた 2007 追 570 戦国時代には 石垣をもたず 堀や土塁などの防御施設に囲まれた城も存在した 2012 本 571 織田信長は 長期に及ぶ戦いの末に大坂石山本願寺を屈伏させた 1998 追 572 織田信長は 明智光秀が起こした本能寺の変で敗死した 2015 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.104 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 562 563 京都の祇園祭 ( 祇園会 ) は 1500 年に京都の町衆らによって再興され 民衆の祭りとなりました 564 565 566 567 568 オランダ語ではなくポルトガル語 569 570 571 類似の正文 伊勢の長島を中心とする地域では 一向一揆が織田信長軍に対して蜂起したが 激戦の末に鎮圧された (1997 追 ) 572
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.105 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 573 織田信長が行った指出検地によって 荘園制は最終的に解体された 2011 追 574 織田信長は 安土城下町を興隆させるため 御用商人に特権を認める楽座令を出した 2007 追 575 秀吉は 聚楽第を造営して天皇をむかえ 諸大名に天皇と自分に対する忠誠を誓わせた 1999 追 576 秀吉は摂政 次いで関白に任ぜられたが 征夷大将軍になることはなかった 1991 本 577 豊臣秀吉は四国 九州を平定したことによって 全国統一を完成した 1996 本 578 太閤検地では 土地測量の基準が統一され 360 歩 =1 反と定められた 1997 追 579 太閤検地は 1 村ごとに耕地の面積などを調査し 従来の貫高制などを石高制に改めた 1992 本 580 太閤検地により決められた石高は 年貢の基準となったが 知行や軍役の基準とはならなかった 1992 本 581 検地の結果 村の田畑 屋敷地は 検地帳に登録された者に所持が認められた 1998 本 582 秀吉は朝鮮と対馬に対して 入貢と明征服の先導役を果たすことを求めた 1995 本 583 秀吉は ルソンのポルトガル政庁や台湾などに対して入貢を要求した 1995 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.106 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 573 574 575 576 秀吉は摂政には就任していません 関白 太政大臣に就任しました 577 1590 年 秀吉は関東 ( 小田原の北条氏 ) 東北 ( 伊達政宗が臣従 ) を平定して天下統一をなしとげました 578 300 歩 =1 反と定められました 579 580 知行や軍役の基準にもなりました 581 太閤検地によって従来の複雑な土地所有関係による荘園は整理され ( 消滅し ) 一地一作人の原則がうちたてられました 582 秀吉は朝鮮に対して 明征服の先導役を果たすことを求めました 583 ルソンにはスペイン政庁が置かれた
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.107 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 584 豊臣秀吉による朝鮮侵略の際に 朝鮮で発達していた活字印刷の技術が日本に持ち込まれた 1995 本 585 安土桃山時代の城郭内部の襖や壁 屏風は 濃絵と呼ばれる華麗な色彩で描かれた障壁 ( 屏 ) 画で飾られることが多かった 1991 追 586 安土城の障壁画を描いた狩野派は 水墨画と大和絵の技法を融合させた 2007 追 587 大友義鎮らは 少年使節をローマ教皇のもとに派遣した 2009 本 588 フロイスのもたらした活字印刷機を用いて ローマ字によるキリスト教文学 宗教書の翻訳などが出版された 1996 追 589 宗教楽器としてわが国に伝わった琵琶は やがて三味線に変形し かぶき踊りなどに用いられた 1991 本 590 徳川家康は関ヶ原の戦いに勝った後 1603 年 征夷大将軍に任じられた 1996 本 591 家康は大坂夏の陣で 豊臣秀頼を自害に追いこみ豊臣氏を滅ぼした 1996 本 592 徳川秀忠は武家諸法度を改訂して 大名に参勤交代を義務づけた 2003 追 593 江戸時代の大名の妻子は江戸に居住することはなかった 2000 本 594 参勤交代の経費はすべて幕府が負担した 2000 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.108 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 584 585 586 587 588 フロイスではなく ヴァリニャーニ 589 三味線は 沖縄伝来の三線 ( さんしん ) が源流です 590 591 592 参勤交代は 3 代将軍家光の 1635 年 ( 寛永令 ) で義務づけられた 593 大名の妻子は 人質として江戸に居住を義務づけられた 594 参勤交代の費用は 大名が自ら負担
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.109 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 595 複雑な郭 ( くるわ ) や高層の天守閣をもつ城郭建築が見られるようになった 2012 本 596 幕府は改易 減封 転封を行って 大名を統制した 2003 追 597 幕府は貨幣の鋳造権をにぎり 金銀貨の改鋳を行った 2002 追 598 老中は 幕府政務総括の職で 御三家から選任された 1991 追 599 江戸幕府の大目付は 民衆の生活の監視の職で 外様大名から選任された 1991 追 600 江戸幕府の評定所は 将軍 三奉行などで構成された 2001 本 601 江戸時代 老中などの役職に 月番と呼ばれる 1 か月交代の制度が取り入れられた 2001 追 602 多くの藩では 地方知行制は廃止されていった 2001 本 603 江戸幕府は 大河川の治水工事などのために 国単位の国役を課すことがあった 2000 追 604 江戸幕府は 禁中並公家諸法度を定め 天皇の職務や行動に規制を加えた 2002 本 605 江戸幕府は 天皇家の経済基盤として禁裏御料を設定した 2002 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.110 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 595 596 597 598 大老 老中 若年寄 大目付など幕府の主要な役職は 譜代大名 旗本などから選ばれました 599 江戸幕府の重要な役職は 譜代大名 旗本 ( 将軍直臣 ) から任用された 600 幕府評定所は 老中 三奉行などで構成 601 602 しだいに俸禄制度がひろがっていきました 603 604 1615 年に発せられました このときの将軍は 2 代秀忠 当時 晩年の家康は大御所として実権を握っていました 605
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.111 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 606 僧侶 ( そうりょ ) の紫衣着用は 寺院法度で定められた 2004 本 607 寺請制度にもとづく宗門改めは 女性 子供も対象としていた 2002 追 608 江戸幕府は 宗派ごとに本山 末寺の制を整えさせ 寺院を統制した 2003 追 609 江戸時代の村には 結 もやいなどとよばれる 相互扶助の慣行があった 2006 本 610 本百姓が名主 ( 庄屋 肝煎 ) 組頭 百姓代などをつとめ 年貢の納入は村の責任とされた 2014 本 611 幕府や諸藩は 村人に五人組をつくらせ 年貢の納入や犯罪の防止に連帯責任を負わせた 2003 本 612 村の運営は 豪農 組頭 百姓代の村方三役によって行われた 2006 本 613 村に住む人々はすべて本百姓として把握された 2006 本 614 年貢や諸役は 領主から個々の百姓に対して直接賦課された 2006 本 615 小物成とは 山野河海の利用などに対して課されるものである 1999 本 616 農民は 田畑 屋敷地にかかる本年貢のほかに 山野の利用に対してかかる国役なども負担した 1998 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.112 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 606 僧侶 ( そうりょ ) の紫衣着用を定めた法令は 1615 年の禁中並公家諸法度です 607 608 609 610 611 612 613 農民には 田畑を持つ本百姓 田畑を持たず小作で生活する水呑百姓などがありました 村の運営に参加できるのは 本百姓だけでした 614 五人組 村請制などに見られるとおり 村でまとめて納入 615 616 山野の利用に対して賦課されたのは小物成でした
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.113 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 617 幕府は 百姓から年貢を安定的に徴収できるようにするため 耕地の細分化を防ぐことを目的として 分地制限令を出した 1999 本 618 城下町は 武家地 町人地などというように 身分ごとに居住空間が区別されるのが通例であった 1998 本 619 牛馬の死体の処理に携わり かたわら農業に従事するものを非人とよんだ 1999 本 620 町人には 屋敷地をもつ家持と 宅地のみを借りて住んでいる店借 宅地と家屋を借りて住む地借などがあった 1998 本 621 武士身分では 特に家制度が厳格であり 家長が妻をはじめとする家族に対して強い権限を持っていた 1999 追 622 江戸時代には女性が家の中では大きな力を持ち 女子に対する教育においては 自我の尊重が説かれた 1996 本 623 庶民の女性が家を相続するためには 三くだり半 が必要であった 1999 追 624 離縁状 ( 三下り半 三行半 ) は 再婚を許可する役割も果たした 2006 本 625 三下り半 ( 三行半 離縁状 ) は 離婚を求める女性に対して 幕府 藩が交付したものである 2002 追 626 離婚を実現するために 東慶寺などの駆込寺 ( 縁切寺 ) に入る女性もいた 1999 追 627 徳川家康は イギリス人のウィリアム = アダムズを外交 貿易の顧問とし 積極的な貿易を展開した 2016 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.114 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 617 1673 年に発令されました 618 619 牛馬の死体の処理に携わり かたわら農業に従事するものは穢多 ( えた ) とよばれました 620 町人には 屋敷地をもつ家持と 宅地のみを借りて住んでいる地借 宅地と家屋を借りて住む店借などがありました 621 622 女子には 女人三従の教え などが説かれました 類似の正文 武士身分では 家督はその家の長男 ( 嫡子 ) が相続するもので 女子が相続することは極めて困難であった (1999 追 ) 623 三くだり半 は 夫が書いて妻に渡したもので 離縁状ともよばれました 妻にとっては独身 ( 再婚可能 ) 証明書でもありました 624 625 626 東慶寺は鎌倉にあります 627
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.115 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 628 家康政権は ポルトガル貿易を統制するために 京都 堺 長崎の特定の商人に糸割符仲間を作らせた 1997 本 629 伊達政宗は通商を求めて支倉常長をロシアヘ派遣した 2001 追 630 堺商人の茶屋四郎次郎は 海外貿易で活躍した 2004 追 631 秀忠政権は 貿易の制限などを目的として すべての外国船の来航を平戸と長崎の 2 港に制限した 1997 本 632 家光政権は 日本人の海外渡航を禁止し 来航する外国船にたいしては奉書船制度を定めた 1997 本 633 江戸幕府の将軍就任時には 琉球は謝恩使 朝鮮は通信使をおくった 2013 本 634 己酉約条によって 対馬の宗氏が朝鮮貿易を独占することになった 2008 本 635 対馬藩は 釜山に置かれた倭館に貿易船を派遣した 2008 本 636 朝鮮は中国と外交関係を保っていたので 幕府から朝鮮に派遣された謝恩使によって 日本に中国文化がもたらされた 1998 本 637 島原 天草一揆 ( 島原の乱 ) で 一揆勢に原城跡にたてこもった 2012 本 638 家光政権は ポルトガル船の来航を禁止し 長崎の出島で中国船 オランダ船との貿易を許可した 1997 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.116 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 628 のちに江戸 大坂の商人が加えられました ( 五ヶ所商人 ) 類似の正文 幕府は特定商人に糸割符仲間をつくらせ 輸入生糸の一括購入をはからせた (2001 追 ) 629 伊達政宗は通商を求めて支倉常長をスペインヘ派遣しました 630 茶屋四郎次郎は京都の商人 ( 豪商 ) です 631 すべての外国船 ではなく 中国船以外の外国船 (1616 年 ) 632 家光政権は 海外へ渡航する日本船にたいして奉書船制度を定めました 633 634 己酉約条は 1609 年のことです 635 636 幕府から朝鮮に使節が派遣されることはありませんでした 謝恩使は 琉球国王が就任時に江戸の幕府将軍に派遣した使節をいいます 637 638 長崎の出島はオランダ船のみ 1689 年 中国人の居住地を限定するため 唐人屋敷が設けられた
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.117 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 639 オランダ商館長は 船が入港するたびに幕府に対して 赤蝦夷風説考 を提出したので 幕府は これによって国際状況を知ることができた 1993 本 640 17 世紀初め薩摩藩は琉球王国を占領し貢納させていたが 琉球国王は 中国王朝の皇帝に対し臣下の礼をとっていた 1995 追 641 17 世紀中ごろの国交樹立以来 清国と琉球王国とは対等な国交関係を結び それを認めない日本と対立した 1995 追 642 琉球国王は 江戸時代から 天皇の代替わりごとに慶賀使を送るなど 天皇に対しても臣従関係をもっていた 1995 追 643 日中間には国交がなく外交使節の往来もなかったが 長崎での中国貿易などを通じて文物の交流がなされた 1998 本 644 幕府はアイヌとの交易をさかんにするために 倭館を設けた 2014 本 645 松前氏の先祖は 15 世紀半ばに発生したコシャマインの戦いをしずめて勢力を伸ばした蠣崎氏である 1996 追 646 シャクシャインは アイヌの人々を率いて松前藩に反抗した 2004 本 647 シャクシャインの戦いに敗北した松前藩は アイヌ交易の主導権を失った 2013 本 648 近世のアイヌは漁場を松前氏から知行として与えられ アイヌと和人との交易は松前藩を介して行われた 1998 追 649 松前藩はアイヌに不利な交易を強いたため シャクシャインの戦いなどの抵抗がおこった 1998 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.118 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 639 赤蝦夷風説考 ではなく オランダ風説書 ( 赤蝦夷風説考 は工藤平助が 18 世紀に老中 田沼意次に提出したもので ロシア人との貿易を説いた ) 640 江戸時代の琉球は 表面上は日本 中国に属する国でした ( 日中両属 ) 641 ( 前解説参照 ) 642 慶賀使は 江戸幕府将軍の就任時に琉球国王が江戸に派遣した使節 643 中国人 ( 清国人 ) は長崎の唐人屋敷とよばれる居留地での居住を強制されました 644 倭館は 日本と朝鮮との貿易において釜山に設置 645 646 シャクシャインの戦いは 1669 年のこと 647 648 漁場を大名の松前氏から知行として与えられたのは 松前氏の家臣たちです 649
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.119 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 650 松前藩では アイヌとの交易を家臣に分与する商場知行制がとられた 2013 本 651 近世において 蝦夷地は 渡島半島南部のアイヌの居住地と それ以外の和人の居住地に分けられていた 1996 追 652 薩摩焼 平戸焼 瀬戸焼などの生産は 文禄 慶長の役の時 諸大名が連れ帰った朝鮮人陶工によって始められた 1995 本 653 有田で磁器の生産が行われ 酒井田柿右衛門が赤絵の技法を完成させた 2002 本 654 江戸時代の初期 教訓 啓蒙的な話に題材をとった 仮名文で書かれた仮名草子が成立した 2002 追 655 慶安の変は 由井正雪を首謀者とする幕府転覆の未遂事件である 2004 本 656 17 世紀後半 水戸藩は 大日本史 の編纂を開始している 2007 追 657 大名の前田綱紀は 木下順庵をまねいて 学問の振興をはかった 2007 追 658 大名の前田綱紀は 閑谷学校を設け 教育の振興をはかった 2007 追 659 岡山藩のつくった閑谷学校では 庶民の入学も許された 2014 本 660 岡山藩が朱子学者の熊沢蕃山を招いたように いくつかの藩では 儒学思想にもとづいて 家臣や領民を教化する政策がとられた 1996 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.120 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 650 651 ( 逆 ) 近世において 蝦夷地は 渡島半島南部の和人の居住地と それ以外のアイヌ民族の居住地に分けられていた 652 瀬戸焼は鎌倉時代に加藤景正が創始したとする伝承があります 653 654 655 1651 年 3 代将軍家光が死んで 4 代将軍家綱が就任したときに起きました 656 657 前田綱紀は加賀国金沢の藩主 ( 大名 ) です 658 藩士対象の藩学 ( 藩校 ) の花畠教場 民衆も対象とした郷学の閑谷学校を開設したのは岡山藩主の池田光政です 659 660 熊沢蕃山は陽明学者です 彼を登用した岡山藩主は池田光政です
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.121 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 661 江戸幕府 5 代将軍は徳川綱吉である 2013 本 662 徳川綱吉は 湯島に聖堂を建てて 学問所として整備した 2003 追 663 徳川綱吉は 林鵞峰を大学頭に任命した 2004 本 664 江戸幕府は林家の家塾を湯島にうつし 学問所として整備し 林家に主宰させた この学問所は のちに昌平坂学問所となった 2004 本 665 明暦の大火後に 大坂は市街地の復興事業により大都市となった 1995 本 666 徳川綱吉は 貨幣の質を落とした改鋳を行い 物価の騰貴を招いた 2003 追 667 新井白石は 朝鮮からの国書において将軍の呼称を大君から国王に改めさせ 将軍の地位を明確にしようとした 1998 追 668 江戸時代 都市の有力商人たちの資本によって 町人請負新田が開かれた 2001 追 669 唐箕や千石どおしが普及したため 脱穀が容易になった 2000 追 670 刈敷や草木灰が 金肥として普及した 2014 本 671 油粕 干鰯などの金肥が普及すると 刈敷 下肥などの自給肥料は使われなくなった 2000 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.122 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 661 662 徳川綱吉は 生類憐みの令を出して 犬をはじめとする鳥獣の保護を命じたことでも有名です 663 5 代将軍綱吉は林信篤 ( 鳳岡 ) に湯島聖堂を管掌させ 大学頭に任命しました 林鵞峰は羅山の子で信篤の父にあたります 664 昌平坂学問所となるのは綱吉の時代から約 100 年後の 1797 年のことです 665 大坂ではなく江戸です 666 勘定吟味役荻原重秀の提案を取り入れ 幕府財政再建をめざし 慶長小判より質の劣る元禄小判を鋳造させました 667 668 669 唐箕や千石どおしは籾 ( モミ ) の選別に用いられました 670 金肥は 干鰯 〆粕 油粕 糠など 671 刈敷 下肥などの自給肥料も使用
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.123 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 672 九十九里浜では鰊 ( にしん ) 漁 土佐では鰯 ( いわし ) 漁などがさかんに行われた 2014 本 673 蝦夷地の主産品でもある昆布は 京料理や沖縄料理の食材になった 2013 本 674 九十九里浜で地引 ( 曳 ) 網により捕獲された鰯は 綿作などの肥料に加工された 2008 本 675 瀬戸内海沿岸を中心に 入浜式塩田 ( 入浜塩田 ) が発達した 2014 本 676 宮崎安貞の 農業全書 大蔵永常の 農具便利論 などの農書によって 栽培技術や農業知識が広まった 1991 本 677 木綿の普及と関連して発展した染料の特産物として 阿波の藍がある 2001 本 678 朱色の染料に用いる藍 ( あい ) が 出羽最上地方で作付けされた 2004 本 679 灘の醤油 ( しょうゆ ) 阿波の紅花などの特産品が全国各地に生まれた 2014 本 680 江戸時代に発達した綿織物業の特産物として久留米絣や小倉織がある 2001 本 681 江戸時代の会津の特産品に漆器がある 2007 追 682 麻織物の特産品として奈良晒 ( さらし ) や越後縮があった 2004 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.124 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 672 673 674 類似の正文 畿内にもたらされた鰊の〆粕は 九十九里浜からの干鰯とともに 綿 菜種などの商品作物生産を発展させた (1998 追 ) 675 676 大蔵永常の 広益国産考 も農業発達 普及に大きな役割を果たしました 677 678 紅花は出羽 藍 ( 藍玉 ) は阿波 ( 今の徳島県 ) が主産地 679 680 681 682
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.125 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 683 木曽檜や秋田杉が 領主の直轄林などで生産された 2002 本 684 17 世紀の半ばを過ぎるころには 銀の産出量は減少した 2008 本 685 17 世紀の半ばを過ぎるころには 長崎へ来航する貿易船が増加したことも加わって 幕府は銀の輸出をしだいに制限するようになった 2008 本 686 17 世紀後半になると 銅の産出量が減少し かわって金銀山の開発が進んだ 2002 本 687 高級絹織物の原料となる生糸は次第に国産糸に代わっていった 2001 本 688 高機で高級絹織物を生産する技術は近世を通して西陣が独占していた 2001 本 689 中山道には 品川から大津まで 53 の宿駅があり 五街道のうち最も宿駅が多かった 1993 追 690 東海道の碓氷などでは 関所が設けられて旅行者や荷物が厳しくあらためられた 1993 追 691 助郷に指定された村には 本陣 脇本陣が置かれた 1999 本 692 助郷役が村々に課されたのは 宿駅の人馬の不足を補うためである 1999 本 693 宿駅には 人馬による輸送業務をする問屋場や 庶民の宿泊施設である本陣があった 1993 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.126 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 683 684 685 686 ( 逆 )17 世紀後半になると 金銀の産出量が減少し かわって銅山の開発が進みました 687 688 江戸時代 ( 近世 ) 桐生 足利にひろがった 689 品川 大津は東海道 中山道には 板橋 守山間に 67 宿が設けられました 690 碓氷 ( うすい ) は中山道に置かれた関所です 691 助郷は 宿駅の人馬を補うために指定された村をいいます 本陣 脇本陣は大名の宿泊所です 692 693 庶民の宿泊施設は旅篭屋 ( はたごや ) です
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.127 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 694 17 世紀の中ごろ 江戸と京都 大坂との間に民間の文書 荷物を運ぶ継飛脚が公認され 次第に全国各地に普及した 1996 追 695 琵琶湖や淀川 利根川などで水上輸送が積極的に利用された 2002 本 696 河村瑞賢が東廻り航路 西廻り航路を整備した 2002 本 697 京都の豪商である末次平蔵は 富士川や賀茂川の整備を行った 2017 本 698 末次平蔵が新たな水路として高瀬川などを開削した 2002 本 699 南海路を廻船が定期的に運航して 物資輸送を行った 2002 本 700 北前船は おもに上方で造った酒を江戸へ輸送した 2014 本 701 江戸では 二十四組問屋が仲間として公認された 2004 追 702 江戸ではおもに銀貨が 上方ではおもに金貨が使われた 2007 本 703 江戸時代の金貨は 秤量貨幣であった 2003 追 704 庶民が日常的に使用した銭は 銅座で鋳造された 2003 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.128 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 694 継飛脚は 幕府などの荷物を継ぎ送りしました 大名の飛脚は大名飛脚 民間の飛脚は町飛脚です 695 696 697 京都の豪商の角倉了以が鴨川や富士川を整備し 高瀬川などを開削した 698 角倉了以が天竜川や高瀬川などの水運を開きました 699 700 北前船の航行ルートは西廻り海運に重なるが のちには北海道にまで活動場所を広げた 701 大坂に二十四組問屋がつくられ それに対応して江戸に十組問屋がつくられました 702 江戸など東日本では金遣い 上方 ( 京阪 ) など西日本では銀遣い 石見 生野銀山や佐渡 伊豆金山といった歴史的な環境も影響している 703 金貨は 価格が表示された計数貨幣であった 704 銭は 銭座で鋳造 銅座 も教科書に一か所ある 探してみよう おぬしも悪じゃ のあの人
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.129 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 705 藩札は主として大坂で流通した 2003 追 706 江戸時代 商品経済の発達とともに三貨の交換が増えたため 両替商が発達した 2001 追 707 両替商には 三貨間の両替を行うと同時に 預金 貸付け 為替の実務を行うものもあった 1996 本 708 伊勢国松坂出身の三井高利は 江戸に呉服店を開業し のちに三都に両替店を開いた 2007 本 709 江戸は商業都市として発展して 天下の台所 といわれ 京都では手工業生産が発達した 1998 本 710 蔵物は 在郷 ( 在方 ) 商人により三都で販売された 1992 本 711 農村では 商品生産の発達にともなって 在郷商人の活動が活発になった 2004 追 712 大名は 農民から徴収した年貢米や特産物などの納屋物を販売して 必要な物資を購入した 1996 追 713 諸藩は大坂などに蔵屋敷をおき 蔵物の保管と売却には掛屋が 売却代金の保管と送金には蔵元が当たった 1996 本 714 日本永代蔵 などの 浮世草子とよばれる小説が著された 2014 本 715 近松門左衛門は 武家義理物語 などの作品で 義理と人情の葛藤を描いた 1998 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.130 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 705 藩札は各地で流通しました 流通は各藩内に限定されました 706 707 708 709 江戸は 将軍のお膝元 大坂は 天下の台所 とよばれました 710 在郷 ( 在方 ) 商人は地方で商業活動を行うものである 蔵物は都市の蔵元などによって売却 換金されました 711 712 大名が農民から徴収した年貢米や特産物は蔵物とよばれました 納屋物 ( なやもの ) は 生産地から直接都市に流通した米 特産物をいいます 713 ( 逆 ) 蔵物の保管と売却には蔵元が 売却代金の保管と送金には掛屋があたりました 714 715 武家義理物語 の作者は井原西鶴です
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.131 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 716 国性 ( 姓 ) 爺合戦 は御伽草子の代表的な作品である 2004 追 717 歌舞伎の世界で活躍した女性は 女形とよばれた 2002 追 718 中江藤樹は陽明学を学び 堀川学派を開いた 2003 追 719 考証学派の山崎闇斎は のちに崎門学派を開いた 2003 追 720 江戸幕府は 林家に命じて 本朝通鑑 を完成させた 2007 追 721 幕府に仕えた木下順庵は のちに古文辞学派を開いた 2003 追 722 伊藤仁斎は 朱子の教えを擁護し 古義堂を開いて門人を育てた 1996 本 723 経済録 を著した太宰春台は 藩による商業活動の重要性を説いた 2006 本 724 関孝和は 高等数学の理論を組み立てて和算を大きく発展させ 塵劫記 を著した 1996 本 725 新井白石の学問の師は京学の系統をひく木下順庵で 同門には室鳩巣や柴野栗山らがいた 1998 追 726 北村季吟は 源氏物語 などを研究して 源氏物語湖月抄 を著した 1998 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.132 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 716 国性 ( 姓 ) 爺合戦 の作者は近松門左衛門で 時代物の脚本に属します 717 女形 ( おやま おんながた ) は 女性を演じた男性の歌舞伎役者をいいます 718 堀川学派 ( 古義学派 ) を開いたのは伊藤仁斎です 719 山崎闇斎は朱子学派の南学の系統です 720 721 古文辞学派を開いたのは荻生徂徠です 722 古学派の伊藤仁斎は 朱子の教えを批判した 類似の正文 京都の伊藤仁斎 東涯父子は 古義学派を形成した (2003 追 ) 723 724 塵劫記 の著者は吉田光由です 関孝和の著書は 発微算法 です 725 柴野栗山は大学頭の林家 ( りんけ ) の門下です 726
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.133 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 727 本阿弥光悦が 友禅染の技法を開発した 2004 本 728 紅白梅図屏風 などを描いた尾形光琳は 菱川師宣の画法を取り入れ 洗練された装飾的表現をとった 1996 本 729 尾形光琳は 絵画のみならず 蒔絵の分野でも 八橋蒔絵硯箱 などの名作を残した 1998 本 730 野々村仁清は 上絵付の技法を発展させ 色絵磁器を大成して九谷焼の祖となった 1995 本 731 朱子学者の室鳩巣は 幕府に登用され八代将軍吉宗の信任を得た 1992 本 732 近世の支配身分である武士の中にも様々な階層があり 階層をこえた人材の抜擢は江戸時代を通じて行われなかった 1999 本 733 将軍吉宗は 1 万石未満の禄高の者が役職についた場合 終生にわたって俸禄の加算を行う足高の制を設けた 1997 本 734 享保の改革では 上げ米の代償として 参勤交代の制度が緩められた 2000 本 735 享保の改革では 洒落本が取り締まられ 山東京伝らが処罰をうけた 2016 本 736 幕府は 町人請負新田などの新田開発を奨励したが 享保の改革の際には禁止した 1992 本 737 幕府は 初期からその年の作柄に関係なく過去数年間の収穫量を基準として 年貢を徴収する定免法を採用していた 1992 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.134 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 727 友禅染は宮崎友禅が創始しました 728 安房出身の菱川師宣は浮世絵の創始者であり 尾形光琳とは関係がありません 729 730 野々村仁清は 上絵付の技法を発展させ 色絵磁器を大成して京焼の祖となりました 731 732 8 代将軍吉宗は足高の制により大岡忠相を町奉行 ( のち寺社奉行 ) に登用 733 足高の制は在職中に限って俸禄の加算 ( 加増 ) が行われた 734 735 736 享保の改革期でも町人請負新田は奨励されました 737 初期は検見法を採用し のちに定免法を採用しました
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.135 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 738 金銀貸借についての争いが続発したため 幕府は相対済し令を出し 貸借に関する訴訟を受け付けず 当事者間で解決させることにした 2003 本 739 将軍吉宗は広く人材を集めることを目的に 庶民が有能な人材を推薦する目安箱の制度を設けた 1997 本 740 徳川吉宗により町奉行に登用された大岡忠相は 市政改革を行うとともに 裁判の基準となる法典の制定などにあたった 1997 本 741 農民が自前の原料 資金で生産する問屋制家内工業により 絹織物が盛んに織られた 2001 本 742 江戸時代の後半には 村役人の不正追及などを主な内容とする村方騒動が各地で頻発した 1997 追 743 都市には 円滑な流通のため 江戸日本橋の青物市場 大坂堂島の米市場などの市場が設けられた 1998 本 744 商品別の卸売市場がつくられ 大坂堂島の米市 江戸神田 大坂天満の魚市が活況を呈した 1996 本 745 幕藩体制の基盤にすえられた農民は 農村に緊縛され 離村や出稼ぎをすることはなかった 1999 本 746 佐倉惣五郎は 世直し一揆を指導した義民とされている 2004 追 747 18 世紀半ばになると それまでの惣百姓一揆にかわり代表越訴型一揆が増えた 2000 追 748 百姓一揆の発生件数がピークとなったのは 元禄期 天明期 幕末維新期の三つの時期である 2000 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.136 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 738 739 庶民の意見を取り入れるために目安箱の制度を設けました 740 741 自前の原料 資金で生産する形態は 農村家内工業 742 743 江戸日本橋は魚市場 青物市場は 江戸は神田に設けられた 744 江戸神田 大坂天満は青物市場 745 離村や出稼ぎがみられ 飢饉後には 旧里帰農奨励令 人返しの法などが発令されました 746 世直し一揆は幕末期のもので 佐倉惣五郎は 17 世紀半ばの代表越訴型一揆で義民とされる伝説的な人物 747 代表越訴型一揆については近年伝説であり事実ではないとされているが 惣百姓一揆よりも以前の形態とされている 748 ピークとなったのは 天明期 天保期 幕末維新期の三つの時期です
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.137 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 749 天明の飢饉は 全国のなかでも東北地方にとりわけ大きな被害をもたらした 2000 本 750 老中田沼意次は 商人に出資させた新田開発や下総印旙沼の干拓などをくわだてた 1992 追 751 老中田沼意次は 株仲間を積極的に公認して 運上 冥加などを徴収した 1992 追 752 札差は 旗本 御家人から委託を受けて 俸禄米を売却した 1994 追 753 寛政改革期 飢饉に備えて 社倉や義倉を作らせた 2000 本 754 寛政改革期 旧里帰農令を出して 江戸に流入した人々の帰農を奨励した 2000 本 755 江戸石川島に 無宿人らを収容する人足寄場が設置された 2002 追 756 海国兵談 を刊行したことが咎められ 林子平が幕府から処罰された 2002 追 757 寛政の改革とほぼ同時期 諸藩では 奢侈的な消費を奨励して 経済の活性化をはかった 2000 本 758 寛政の改革とほぼ同時期 諸藩では 領内の特産品を専売制にして藩財政の再建をはかった 2000 本 759 ロシアの脅威が高まるなか 近藤重蔵が千島の探検を行った 2002 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.138 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 749 750 751 752 753 754 755 756 林子平は 海国兵団 三国通覧図説 などの書物で幕府 ( 寛政の改革期 ) に処罰された 757 奢侈的な ( ぜいたくな ) 消費を禁じる倹約令などが出されました 758 759
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.139 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 760 間宮林蔵は樺太に派遣されて実地調査を行い また伊能忠敬は蝦夷地を含む日本列島の詳細な実測図を作成した 1998 追 761 最上徳内はシベリア方面を探検した 2004 本 762 ロシア船の来航を契機に 江戸幕府は松前藩を改易し 五稜郭に松前奉行を置いた 2013 本 763 ラクスマンは 高田屋嘉兵衛をともなって根室に来航した 2004 本 764 ロシア使節のラクスマン ( ラックスマン ) が根室に来航し 漂流民を送り届け 通商を求めた 2013 本 765 レザノフは 大黒屋光太夫 ( 幸太夫 ) をともなって根室に来航した 2004 本 766 ロシア軍艦の艦長ゴローニン ( ゴローウニン ) が 国後島で捕えられた 2013 本 767 高野長英は 幕府の経済政策を批判し 稽古談 を著した 1997 本 768 渡辺崋山は 戊戌夢物語 を著し 幕府による対外政策の無謀さを訴えた 2002 本 769 幕府は洋学者渡辺崋山を重用して 国防を強化した 2004 本 770 関東取締出役は 治安維持を目的に 幕府が設置したものである 2003 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.140 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 760 761 最上徳内は択捉 ( エトロフ ) 島を探検した 762 763 1792 年 ラクスマンは 大黒屋光太夫をともなって根室に来航 764 765 766 767 稽古談 の著者は海保青陵 高野長英の著書は 鎖国政策を批判した 戊戌夢物語 です 渡辺崋山の著書は 慎機論 です 768 渡辺崋山の著書は 慎機論 で 戊戌夢物語 の著者は高野長英 769 渡辺崋山は三河田原藩の武士 ( 家老 ) であり 幕府に直接登用されてはいません 770
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.141 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 771 天保の飢饉で困窮した人々によって 甲斐国などでは大規模な一揆が引き起こされた 2000 本 772 国学者の生田万は 越後柏崎の代官所を襲撃した 2004 本 773 天保の改革では 江戸への流入者を強制的に帰村させることで 農村の復興をはかろうとした 1999 追 774 天保の改革では 幕府の直轄地を江戸や大坂周辺に集中させることで 幕府の収入の増加や対外防備の強化などをはかろうとした 1999 追 775 幕府は 天保の改革の際に上知令を出し 江戸 大坂周辺の農民の土地を取り上げようとした 1992 本 776 幕府は 天保改革期に上知令を出したが 反対にあって撤回した 2001 本 777 江戸時代後期の農村では 田畑を手放し 小作人になる農民が増加した 2004 追 778 江戸時代後期 大坂周辺の農民は 特権商人による綿などの流通独占に反対して 大規模な訴願闘争を行った 2001 本 779 19 世紀に入ると 東海地方の 1000 か村を超す村々の農民たちが 綿や菜種の自由販売を求めて国訴を起こした 1997 追 780 二宮尊徳は 報徳仕法を行うなかで勤勉 倹約などの道徳を説いた 2002 追 781 薩摩藩の調所広郷など 下級武士から登用されて藩政改革にあたる者がいた 2011 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.142 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 771 772 773 774 775 農民の土地 ではなく 大名や旗本の領地 が正しい 天保の改革では 幕府の直轄地を江戸や大坂周辺に集中させることで 幕府の収入の増加や対外防備の強化などをはかろうとした 776 777 778 779 国訴は大坂周辺の地域で起きた合法的な訴願闘争です 780 781
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.143 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 782 薩摩藩では 調所広郷が砂糖の専売強化や琉球貿易の増大をはかり 藩財政の建て直しに貢献した 1991 本 783 江戸時代の薩摩藩は 奄美三島 ( 奄美諸島 ) を支配して 砂糖を生産させた 2008 本 784 江戸時代の薩摩藩は 琉球を通じて中国との密貿易を行い 利益を得た 2008 本 785 佐賀藩は反射炉を築造し 大砲を鋳造した 2004 本 786 春色梅児誉美 ( 春色梅暦 ) を著した人情本作家の為永春水は 天保改革期に 風俗を乱したという理由で処罰された 1996 追 787 恋川春町の代表的な黄表紙に 金々先生栄華 ( 花 ) 夢 がある 2004 追 788 柳亭種彦は 寛政改革の風俗統制をうけて処罰された 2004 追 789 庶民の生活を描いた滑稽本では 十返舎一九の 東海道中膝栗毛 式亭三馬の 金々先生栄華夢 などの作品がある 1996 追 790 工藤平助は 雪国の生活や風俗を 北越雪譜 に描写した 2004 追 791 鈴木牧之は 北越雪譜 のなかで 郷里の名産品である越後縮を紹介している 2007 追 792 清元節は 出雲阿国が考案した踊りである 2004 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.144 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 782 783 784 785 786 同類の正文 人情本作家の為永春水が 風俗を乱すとして処罰された (2002 追 ) 787 788 柳亭種彦は 天保改革の風俗統制をうけて処罰されました 789 式亭三馬の作品は 浮世風呂 など 金々先生栄華夢 は黄表紙の代表作で 作者は恋川春町です 790 北越雪譜 は 雪国の生活 自然を描いたもので 作者は越後の商人 鈴木牧之です 工藤平助の著書は 赤蝦夷風説考 です 791 792 清元節は 浄瑠璃から生まれました
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.145 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 793 江戸時代には 人形浄瑠璃の伴奏に三味線が使われた 2012 本 794 契沖は 万葉集 を綿密に研究して 古史通 を著した 1997 追 795 賀茂真淵の弟子荷田春満は 万葉集 などの研究を進めた 1997 追 796 平田篤胤は 賀茂真淵の説をうけて唯一神道を唱えたが この説は豪農層の間にも普及した 1997 追 797 塙保己一が 幕府の保護のもと和学講談所を設けて 暦象新書 の編纂を行った 2002 本 798 新井白石は 世界の地理 風俗などを記した 采覧異言 を著した 1998 追 799 西川如見は 中国 東南アジア ヨーロッパなど世界各地域の産物を記した 華夷通商考 を著した 1997 本 800 徳川吉宗が野呂元丈らに英語を学ばせたことを契機に 蘭学が芽生えた 2002 本 801 杉田玄白らは 西洋医学の解剖書 ターヘル = アナトミア を翻訳した 1999 追 802 芝蘭堂新元会図 は 大槻玄沢が 私塾に知人を招いて 太陽暦の新年の祝宴を開いた様子を描いた図である 1998 追 803 蘭学の成果を吸収するために設けられた蛮書和解御用 ( 掛 ) では 洋書の翻訳などにあたった 1997 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.146 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 793 794 古史通 は新井白石の著書 契沖は 古典の和歌を従来の伝統にとらわれずに綿密に考証し 万葉代匠記 を著した 795 賀茂真淵の師にあたるのが荷田春満です 796 平田篤胤は 本居宣長の説をうけて唯一神道を唱えた 797 塙保己一が 幕府の保護のもと和学講談所を設けて 群書類従 の編纂を行った 暦象新書 は志筑忠雄の書で ニュートンの万有引力やコペルニクスの地動説を紹介した 798 新井白石は 儒学者 ( 朱子学の京学 ) で政治を主導し 世界にも視野を広げた 類似の正文 新井白石は 潜入したイタリア人宣教師シドッチを尋問し 西洋紀聞 を著した (1997 本 ) 799 800 英語ではなく蘭語 ( オランダ語 ) です 類似の正文 徳川吉宗が登用した青木昆陽は 甘藷の栽培にあたったり オランダ語を学んだりした (1997 本 ) 801 802 類似の正文 大槻玄沢は 蘭学階梯 を著すなど 蘭学の普及につとめた (1999 追 ) 803
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.147 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 804 伊能忠敬は 全国の沿岸の測量を行い 大日本沿海與地全図 の作成にあたった 1997 本 805 シーボルトは 幕府の援助をえて 西洋の天文学の成果にもとづく 詳細な日本地図を完成させた 1997 本 806 江戸時代の中期以降に発達した藩校は 庶民の子女の教育機関であった 2002 追 807 山片蟠桃は 稽古談 で 利殖の道が商人の道であるとした 1995 追 808 心学は 山片蟠桃らによって全国に広められた 2004 本 809 心学は 儒教道徳に仏教 神道の教えを取り入れてつくられた 2004 本 810 手島堵庵は 道徳をわかりやすく説く心学の普及に努めた 2002 追 811 徳川斉昭は藩校明倫館を設立し 水戸学の普及につとめた 1995 本 812 安藤昌益は 士農工商の身分が自然の営みに沿うと主張した 1995 追 813 本多利明は 貿易による国富の増進を主張した 2004 追 814 海保青陵は 農具便利論 を著して農民に増産に励むことを勧めた 1995 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.148 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 804 805 シーボルトは伊能忠敬がつくった地図を持ち出そうとして国外追放処分となった (1829 年 シーボルト事件 ) 806 藩校は武士 ( 藩士 ) の子弟の教育を目的に創設されました 807 懐徳堂に学んだ山片蟠桃は 夢の代 を著して 無神論 ( 無鬼論 ) を説いた 808 山片蟠桃は大坂 懐徳堂が生んだ学者 心学を広めたのは 手島堵庵 中沢道二 809 石田梅岩は 士農工商の身分を前提にしつつ 商人に誇りや倹約 質素などの生活倫理を説いた 810 811 明倫館は長州 ( 萩 ) 藩の藩校で 水戸藩の藩校は弘道館 812 安藤昌益は 自然真営道 を著して士農工商の身分制社会を批判して すべての人が農業に従事する 万人直耕 を説いた 813 本多利明の著書には 西域物語 経世秘策 がある 814 農具便利論 の著者は大蔵永常 海保青陵の著書には 稽古談 がある
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.149 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 815 佐藤信淵は 産業の国営化と積極的な海外進出をとなえ 強力な統一国家の形成を主張した 1997 本 816 竹内式部は 江戸の民衆に尊王論を説いて幕府に処罰された 2002 本 817 水戸藩に仕えた会沢正志斎 ( 会沢安 ) は即時開港の必要を説き 新論 を著した 1997 本 818 山県大弐は 尊王論をとなえて幕府を批判した 2004 追 819 江戸幕府の御用絵師たちが 屏風に豪華な錦絵を描いた 2012 本 820 幕府が江戸につくった懐徳堂からは 町人出身の学者も生まれた 2014 本 821 司馬江漢は 西洋画の技法を取り入れた 西洋婦人図 を描くとともに エレキテルを製作した 1999 追 822 池大雅は与謝蕪村とともに 十便十宜図 ( 帖 ) を描いた 2001 本 823 葛飾北斎らによる風景版画が出版された 2001 本 824 喜多川歌麿が 多色刷の浮世絵版画 ( 錦絵 ) の絵師として活躍した 2014 本 825 円山応挙は 錦絵の創出に主導的役割を果たした 2001 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.150 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 815 816 京都の公家に尊王論を説いた竹内式部は 1758 年の宝暦事件で処罰され 江戸で尊王論を説いた山県大弐が 1767 年の明和事件で死刑に処せられました 817 会沢正志斎は開港に反対する尊王攘夷論を説いた 水戸学では他に藤田東湖らがおり 尊王攘夷運動に大きな影響を与えた 818 819 820 821 西洋婦人図 を描くとともに エレキテルを製作したのは平賀源内 822 823 824 825 円山応挙は 大和絵系統の従来の画風を発展させた 作品に 雪松図屏風 がある
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.151 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 826 亜欧堂田善は 西洋画を修得した 2001 本 827 聖地や霊場をめぐる巡礼の旅は 江戸時代には衰退した 2007 追 828 高野山への参詣は しばしば御蔭参りとよばれる爆発的な流行をみせた 1997 追 829 天保期には お札が降ったなどの口実で ええじゃないか とよばれる民衆の集団乱舞が起こった 1997 追 830 江戸時代 信仰の仲間の集まりとして庚申講などがつくられた 2006 本 831 ペリーを司令長官としたアメリカの艦隊が 琉球を経て浦賀に来航した 2013 本 832 幕末期 海防の充実を図るため 大砲を据え付ける砲台である台場が江戸湾に築かれた 2000 本 833 幕末には 海防を強化するため 江戸湾に台場が築かれた 2012 本 834 通商条約締結により横浜などが開港されると アメリカが最大の貿易相手国となった 2000 本 835 開港によって綿花の輸出が増大したため 綿織物産地は損害を被った 2001 本 836 開港直後の貿易は輸入超過で 日本国内では物価が高騰した 2006 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.152 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 826 作品に 浅間山図屏風 がある 827 828 御蔭 ( おかげ ) 参りは伊勢神宮への参詣をいう 829 ええじゃないか は幕末期に発生 830 831 832 833 834 アメリカは南北戦争の影響で対日貿易から遠ざかり かわってイギリスが先頭に立った 835 輸出が増大したのは生糸 イギリスの安価な綿織物が輸入されたため 綿織物生産地が打撃を受けました 836 開港直後は輸出超過 これが輸入超過に転じたのは 1866 年の改税約書で関税が一律 5% に下げさせられたからです
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.153 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 837 長州では 吉田松陰が松下村塾で人材を育成した 2012 追 838 松下村塾を主宰した吉田松陰は 安政の大獄で刑死した 2002 本 839 井伊直弼は 一橋派を抑え徳川慶福を将軍継嗣と定めた 2001 本 840 井伊直弼が 勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印したことは 尊王攘夷運動を高まらせた 2001 本 841 安政の大獄に憤激した水戸浪士たちは禁門の変をおこし 大老井伊直弼が暗殺された 2000 本 842 桜田門外の変のあと 老中阿部正弘は 尊王攘夷論を抑えるため 公武合体運動を推進した 2001 本 843 公武合体論の具体化として 孝明天皇の妹が一橋慶喜に嫁いだ 2003 本 844 幕末期に薩摩藩主の父である島津久光が 幕政改革を求めて江戸に向かった 2012 追 845 一橋家は 徳川吉宗の息子が興した家である 2003 本 846 会津藩は 薩摩藩などの勢力を京都から追放した八月十八日の政変を起こした 2001 本 847 1864 年に京都で起きた市街戦の直後 朝廷は倒幕の密勅を出した 2003 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.154 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 837 838 類似の正文 安政の大獄により 橋本左内らが処刑された (2006 追 ) 839 徳川慶福は 14 代将軍に就任し 家茂 ( いえもち ) と名を改めた 840 841 大老井伊直弼が殺害されたのは 1860 年桜田門外の変 禁門の変 ( 蛤御門の変 ) は 1864 年 長州藩が京へ攻め上って薩摩 会津 幕府に敗北した事件 842 阿部正弘はペリー来航 日米和親条約に対処した老中で 安政の大獄後に公武合体を推進した老中は安藤信正です 843 嫁ぎ先は 14 代将軍家茂です 844 845 三卿 ( 一橋 清水 田安 ) のひとつ一橋家は 8 代将軍吉宗の子 宗尹 ( むねただ ) にはじまります 846 追放されたのは長州藩勢力 847 禁門の変 (1864 年 ) の後 朝廷は幕府に長州征討を命じた
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.155 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 848 1864 年に京都で起きた市街戦の直後 三条実美ら急進派の公家が京都から追放された 2003 本 849 1864 年に京都で起きた市街戦の直後 幕府は第 1 次長州征討 ( 戦争 ) を行った 2003 本 850 生野の変は 開国派の武士たちが生野代官所を襲撃した事件である 2004 本 851 薩英戦争や四国艦隊下関砲撃事件を経験した薩摩藩や長州藩では 攘夷論を唱える勢力が強まった 2000 本 852 民間宗教として生まれた天理教 金光教 黒住教は 明治政府によって復古神道として公認された 1997 追 853 幕末維新の社会不安の中で新しい民衆宗教が生み出され 中山みきは天理教を創始し 貧しい人々の救済を説いた 1996 本 854 幕末期に幕府がまずオランダヘ留学生を派遣した背景には 江戸時代を通じてオランダとの交流が維持されたことがあった 1998 本 855 江戸城は 江戸を占領した新政府軍の総攻撃をうけて落城した 2009 本 856 戊辰戦争に際して 東北地方などの諸藩は奥羽越列藩同盟を結んで新政府軍と戦ったが 敗れた 2001 本 857 戊辰戦争の時期 政府は徴兵令を出し 集めた兵によって旧幕府軍と戦った 2016 本 858 榎本武揚は 箱館の五稜郭にたてこもって新政府軍と戦って敗れたが許され のちに郵便制度を創始した 2001 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.156 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 848 三条実美らが追放されたのは 八月十八日の政変 (1863 年 ) のときです 849 850 開国派ではなく尊王攘夷派 ( 尊攘派 ) による 851 薩英戦争 (1863) 四国艦隊下関砲撃事件 (1864) を経験した薩摩 長州では 尊王攘夷の考えが後退し しだいにイギリスに接近するようになった 852 天理教 金光教 黒住教は 教派神道として公認されました 853 854 855 江戸城は 幕臣代表の勝海舟 ( 安芳 ) と新政府軍代表の西郷隆盛との会談により 無血開城が実現されました 856 会津藩を支援するための同盟で 中心勢力は 仙台藩 越後長岡藩であった 857 858 郵便制度は前島密 ( ひそか ) によって創設されました 榎本武揚は 内閣制度初期に逓信大臣 文部大臣 外務大臣などを歴任
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.157 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 859 戊辰戦争の時期 政府は五箇条の誓文を公布し 四民平等を定めた 2016 本 860 由利公正らが起草した五箇条の誓文草案は 木戸孝允の手で修正された 2001 追 861 五箇条の誓文がいう公論尊重の趣旨は 五榜の掲示が出されたことで徹底された 2001 追 862 五箇条の誓文の内容は 天皇が公卿と諸侯を率い 神々に誓う儀式で確認された 2001 追 863 五箇条の誓文は 国家を発展させるために 知識を海外に求める必要を説いた 2001 追 864 戊辰戦争の時期 政府は政体書を制定し 中央政府の組織を整えた 2016 本 865 政府はキリスト教を積極的に保護し 欧米諸国と協調する姿勢を示した 2001 追 866 戊辰戦争の時期 政府は五榜の掲示を出し キリスト教を許可した 2016 本 867 五榜の掲示は 大日本帝国憲法で信教の自由が認められるまで掲げられた 1994 本 868 1871 年 薩摩 長州 越前の 3 藩が中心になって廃藩置県が断行された 2016 本 869 廃藩置県により それまでの諸藩の連合政権的な中央政府のあり方は変えられて 太政官制が初めて採用された 1991 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.158 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 859 860 861 五榜の掲示は旧時代 ( 江戸時代 ) の民衆統制を引き継いだもので 一揆の禁止 キリスト教禁止が明示されています 862 863 864 865 五榜の掲示は 江戸幕府の民主政策を継承して立てられたもので キリスト教禁止が明示されています 同時期 明治新政府による浦上信徒弾圧事件も起きています 866 867 欧米諸国の批判を受けたため 1873 年から黙認 868 越前ではなく 正しく土佐です 869 近代の太政官 ( だじょうかん ) 制度は 1868 年 ( 明治元 ) 閏 4 月の政体書によって設置 廃藩置県は 1871 年 ( 明治 4) のことです
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.159 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 870 1871 年 ( 明治 4 年 ) 廃藩置県が断行され 沖縄でもこの年 琉球藩が廃止されて沖縄県が置かれた 1997 追 871 山県有朋は 大村益次郎の構想を引き継いで近代的な軍制を整えた 2012 追 872 徴兵令が公布され 満 20 歳以上の平民男子も兵役の義務を負うことになった 2001 追 873 徴兵令の公布により 満 20 歳に達した男子は例外なく兵役の義務が課されたため 各地で反対の一揆が起こった 1997 追 874 政府は士族に与えていた家禄を廃藩置県と同時に全廃した 2001 追 875 明治政府は全国統一の戸籍法を制定し 壬申戸籍を作った 1994 本 876 地租改正条例の公布にもかかわらず 農民の負担は従来の年貢とあまり変わらなかったため 各地で血税一揆が起こった 1997 追 877 地租改正において 課税の基準は 地価から収穫量に変更された 2014 878 地租改正反対一揆がおこり 税率は 3% から 2.5% に引き下げられた 2014 879 地租改正により 所有権を証明できない入会地は 官有地に編入された 2014 880 地租改正により 金納から物納 ( 米納 ) に変更された 2014
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.160 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 870 琉球王国は 1872 年に琉球藩 1879 年に沖縄県という過程で日本の領土に編入された ( 琉球処分 ) 871 872 徴兵告諭 (1872) 徴兵令 (1873) により近代日本の徴兵制度が築かれました 873 戸主 嗣子 養子や代人料 270 円を納入したものは兵役が免除されました 874 秩禄処分は 1876 年 ( 退職金にあたる金禄公債証書の発行 ) 廃藩置県は 1871 年 ( 明治 4) のこと 875 戸籍法 (1871 年 ) にもとづいて近代日本初の壬申戸籍 (1872 年 ) が作成されました 876 血税一揆は 徴兵制度に対する反対一揆をいう ( 徴兵告諭の中に 血税 という語句があった ) 877 878 879 880
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.161 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 881 地租改正により 納税者は土地所有者 課税基準は収穫高と定められた 2002 本 882 地租改正にともなって 地主に納める小作料は金納に改められた 2002 本 883 地租改正に際して 入会地のうちで所有権を立証できないものは官有地に編入された 2002 本 884 日本銀行が設立されるまで 政府は三井銀行にのみ銀行券の発行を許可していた 1999 追 885 明治期 大隈重信の建議によって 日本銀行を設立した 2013 本 886 政府は 北海道開拓を管轄する機関として 開拓使をおいた 1994 追 887 北海道庁は駒場農学校を開設し 欧米農法の移植をはかった 2002 本 888 開拓政策によりアイヌの人々は生活の場を追われ 窮乏化した 1994 追 889 政府は 札幌農学校を設けたほか ロシア式の大農法を移入した 1994 追 890 北海道庁設置後 アイヌ保護を名目に北海道旧土人保護法が制定された 2002 本 891 アメリカの技術を導入して 横浜に富岡製糸場が設けられた 2013 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.162 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 881 課税基準は 地価とされた ( 地租は地価の 3 パーセント ) 882 土地所有者 ( 自作農 地主 ) は地租をお金で納め ( 金納 ) 小作農は地主に現物をおさめた ( 現物納 ) 883 入会地は村人らの共同利用地です 884 1872 年国立銀行条例により 民間銀行も銀行券を発行することができた 885 886 北海道には 1869 年 -1882 年に開拓使が置かれ 1882 年 -1886 年に札幌 函館 根室の 3 県となり 1886 年に北海道庁が置かれた 887 駒場農学校は東京に設立されました 888 政府はアイヌ民族を保護するために 1899 年 ( 明治 32) に 北海道旧土人保護法 を制定した 法律の名称はひどいが 保護 を目的とするものであった 889 アメリカ式の農業 やってきたのがアメリカ人クラーク 890 891
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.163 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 892 明治期に 太陽暦を採用し 1 日を 24 時間 1 週を 7 日と定めた 2013 本 893 学制の公布により 子供を小学校へ就学させることが親の義務となったが これを要因とする農民一揆や民衆の抵抗はみられなかった 1997 追 894 渋沢栄一は 国立銀行条例の制定に携わるなど 金融制度の整備に貢献した 2001 本 895 明治新政府が成立する以前は 幕府も藩も欧米に留学生を派遣しなかった 2011 本 896 すでに幕末には 福沢諭吉は 西洋事情 を著して 欧米の社会や文化を解説した 2013 本 897 中村正直は国民の啓蒙を意図して 西国立志編 を訳述した 2000 本 898 中江兆民は帰国後 翻訳書 自由之理 を刊行して功利主義を紹介した 2011 本 899 岩倉使節団に同行した留学生の一人である中江兆民は ルソーの著作を 民権自由論 として翻訳した 1998 本 900 中江兆民は自由民権運動の理論的指導者で 東洋のルソー と言われた 1994 本 901 中江兆民は 民約訳解 でヘボンの思想を紹介した 2004 本 902 岩崎弥太郎は 政府の助成を受け 自らが経営する海運業を発展させた 1999 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.164 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 892 893 徴兵制度への一揆 ( 血税一揆 ) 学制 地租改正への反対一揆が相ついだ 894 1872 年 - 国立銀行条例 制定 895 896 897 898 899 中江兆民の訳術書は 民約訳解 です 民権自由論 は植木枝盛の著書 中江も植木も土佐 ( 高知県 ) 出身で ともに自由党系の国会議員にもなりました 900 ルソーはフランスの 18 世紀の社会思想家で 著書 社会契約論 はフランス革命に大きな影響を与えました 901 ルソーの思想を紹介 902
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.165 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 903 明治初期 政府は神道の国教化をめざして神仏分離令を発し さらに大教宣布の詔書を発布した 1997 追 904 政府が神仏分離を命じた結果 仏教を排撃する動きが強まった 2001 追 905 明治初年に 長崎の浦上キリスト教信徒の流罪事件が起こった 1995 追 906 福沢諭吉は 慶応義塾を創立した 2004 本 907 明治維新後 政府は神祇官を設置して 祭政一致を否定した 2008 本 908 大教宣布の詔によって 政府は神道を弾圧した 2008 本 909 福沢諭吉 西周 森有礼らの結成した明六社は 講演活動を行うとともに 明六雑誌 を発行し 民衆の啓蒙を試みた 1995 追 910 岩倉使節団が派遣されているあいだに 廃藩置県 徴兵制 地租改正などの重要な政策が次々と実施された 1998 本 911 岩倉使節団の不平等条約改正の試みは 最初の訪問国アメリカで挫折した 1998 本 912 琉球国王は 王政復古により幕府 薩摩藩を離れ朝廷の直接支配を受けるようになった 1995 追 913 日清修好条規によって琉球が日本に帰属することになり 明治政府は琉球藩を設置した 2013 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.166 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 903 1868 年 - 神仏分離令 1870 年 - 大教宣布の詔によって明治新政府は神道の国教化を指針として示しました 904 こうした全国的な運動を廃仏毀釈 ( はいぶつきしゃく ) といいます 905 906 類似の正文 新島襄は 同志社 ( 同志社英学校 ) を創立した (2004 本 ) 907 908 909 1873 年 - 明六社 結成 910 岩倉使節団派遣は 廃藩置県後に行われました ともに 1871 年 ( 明治 4) です 岩倉使節団には 岩倉具視をはじめ 木戸孝允 大久保利通 伊藤博文など多くの政府首脳が参加しました 911 912 王政復古の大号令は 1867 年 琉球国王 ( 最後の琉球国王は尚泰 ) は琉球藩設置 (1872 年 ) とともに藩王となり 1879 年に沖縄県が設置されたときに東京移住を命じられました 913
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.167 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 914 明治政府は軍隊を派遣して 琉球藩の廃止と沖縄県を設置した 2013 本 915 1879( 明治 12) 年 日本政府は 琉球側の抵抗や清国政府の反対を押し切って沖縄県設置を強行した 1995 追 916 岩倉使節団が帰国したころ 留守政府内部では征韓論が強まっていた 1998 本 917 台湾出兵は 琉球の住民が台湾で殺害されたことが原因となった 1992 追 918 琉球処分の直後 日本政府は台湾出兵を行った 2000 追 919 政府は 征韓派 を退けたあと 外交問題の重要性を認め 外務省をつくり 大久保利通を外務卿に任じた 1992 本 920 開拓使設置後 ロシアとの間に樺太 千島交換条約が締結され 樺太が日本領となった 2002 本 921 政府は地租軽減を求める農民一揆を弾圧し 地租を増徴した 2002 本 922 廃刀令の公布により 士族の帯刀が否定されたため これが士族反乱の一因となった 1997 追 923 民撰議院設立建白書の提出直後 地方結社の代表が大阪に集まり 立志社を組織した 2001 追 924 国会期成同盟の建白を受け入れて 漸進的に立憲政体を樹立するという詔書が出された 2001 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.168 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 914 915 916 征韓論は 1873 年に激しく展開され 征韓論をとなえた西郷隆盛 板垣退助 江藤新平らが下野し 反対論 ( 内治優先 ) をとなえた大久保利通が政府指導者の地位を確立しました 917 1871 年 - 台湾出兵 ( 征台の役 ) 918 1879 年 - 沖縄県設置 ( 琉球処分 ) 1874 年 - 台湾出兵 919 大久保は 1873 年創設の内務省の初代長官 ( 内務卿 ) に就任 920 樺太 千島交換条約 (1875 年 ) では 千島列島が日本領となり 樺太がロシア領となった その後 日露戦争後のポーツマス条約 (1905 年 ) で樺太南部が日本領となった 921 1876 年の地租改正反対一揆ののち 政府は 地租が地価の 3 パーセントから 2.5 パーセントに下げた 922 1876 年 - 廃刀令 公布 923 1875 年 立志社などの政社 ( 政治団体 ) は全国的組織として愛国社を結成しました 924 1875 年 - 立憲政体樹立の詔 1878 年 - 国会期成同盟 結成
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.169 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 925 1878 年 都市部を区 その他を郡とし その下に町村を置いた郡区町村編制法が制定された 2012 本 926 自由民権運動は はじめ 農民層によって担われていたが のちには士族や商人の間にも広がっていった 1999 本 927 慶応義塾出身者らが中心となって交詢社を組織し 独自の憲法私案を作った 2001 追 928 日本憲法見込案 は 高知の立志社が作成した私擬憲法である 2003 本 929 黒田清隆の私擬憲法は ルソーの社会契約論をもとに作られている 2003 本 930 植木枝盛の私擬憲法は 人民が政府に対して抵抗する権利や革命を起こす権利を保障している 2003 本 931 日本帝国憲法 ( 五日市憲法草案 ) は 地域の青年たちの学習活動から生まれた 2008 本 932 新聞紙上で 開拓使官有物が政商に破格の値段で払い下げられることが報じられたことから 藩閥政府への批判が高まった 2000 本 933 開拓使による岩崎弥太郎への官有物の払い下げは 民権派の批判をよび 明治十四年の政変の一因となった 1999 追 934 開拓使の官有物払い下げ事件に対する批判が高まるなかで 政府は大隈重信を中心に国会開設に向けた準備を開始した 2002 本 935 自由民権運動には女性の参加がみられた 2005 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.170 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 925 926 自由民権運動は初めは士族らが中心となって進めていたが ( 士族の民権 ) 豪農 実業家 一般の民衆へとしだいに広がっていった 927 928 929 黒田清隆は第 2 代首相で 憲法発布 (1889 年 ) と同時期にいわゆる 超然主義演説 をおこなったことでしられる 930 植木枝盛が起草した私擬憲法として 東洋大日本国国憲按 がある 類似の正文 植木枝盛は 革命権や抵抗権を規定した憲法草案を起草した (2008 本 ) 931 五日市は今の東京都で この私擬憲法を起草した中心人物が千葉卓三郎です 類似の正文 五日市憲法草案とよばれる私擬憲法は 地域住民の共同討議の内容をまとめたものである (2003 本 ) 932 933 開拓使官有物払下げ事件は 開拓使長官 ( 黒田清隆 ) と政商 ( 五代友厚 ) との間で起きた不正 汚職事件です 934 政府の高官 ( 参議 ) も内部で対立していた 国会即時開設派の大隈に対して 伊藤博文が時期尚早として反対していた 明治十四年の政変 (1881 年 ) で大隈は罷免され 伊藤が政府内部で主導権を握り 憲法制定に着手した 935
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.171 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 936 道路問題をきっかけに 県令の河野広中が 対立していた三島通庸らの自由党員を弾圧した福島事件が起こった 2001 本 937 秩父事件では 困民党が蜂起の中心となった 2002 追 938 明治期の自由民権運動において 津田梅子は大阪事件で投獄されたが その後も女流民権家として活躍した 1996 本 939 国会開設が近づくと 民権派内部には大同団結運動がおこり 地租軽減 言論集会の自由 軍事費の削減を求める三大事件建白運動が展開された 1999 本 940 黒田清隆は 国会開設を前に超然主義の立場を表明した 2012 追 941 ロエスレルは 大日本帝国憲法の起草にあたり助言した 2016 本 942 大日本帝国憲法発布後に 元老院が置かれ 藩閥のリーダーたちは政治的影響力を確保した 2001 追 943 1884 年 華族令を公布し 旧公家 大名以外でも 国家に勲功のあった者に華族になる道を開いた 1997 本 944 府県制が定められ 府県の知事が制限選挙のもとで公選された 1999 追 945 第 1 回衆議院議員選挙では 沖縄県からも議員が選出された 2000 追 946 最初の総選挙では 日本の総人口に対して有権者の占める比率は 約 10% であった 1994 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.172 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 936 河野広中と三島通庸が逆 福島自由党のリーダーが河野で 県令が三島です 937 1884 年 - 秩父事件 類似の正文 秩父事件に参加した民衆は 負債の減免を要求していた (2002 追 ) 938 1885 年の大阪事件に関与した女性民権家は景山 ( 福田 ) 英子です 939 軍事費の削減ではなく 外交失策の挽回 です 三大事件建白運動は 1887 年に高まりました 940 941 942 元老院は 1875 年に立法機関として設置され 憲法発布後の 1890 年に廃止 以後 元首相らの 元老 ( げんろう ) は存在したが 元老院 は存在しません 943 類似の正文 1885 年 太政官制を廃止し内閣制を施行して 公家出身でない者を最高責任者 ( 内閣総理大臣 ) の地位につけた (1997 本 ) 944 945 沖縄での衆議院議員選挙法の施行 ( 最初の衆議院議員選挙 ) は 1912 年 ( 明治 45)5 月のことです なお 同年 7 月 30 日から 大正元年 です 946 約 1 パーセントであった 最初の総選挙では 選挙人は 直接国税 15 円以上を納入する 25 歳以上の男子であった
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.173 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 947 1890 年 最初に公布されたこの民法は とりわけイギリスの法典の影響を強く受けたものであった 2000 本 948 ボアソナードが起草した民法は 忠孝道徳を賛美する内容をもっていた 1994 本 949 1890 年に公布された民法に対し 高山樗牛は 民法出デテ忠孝亡ブ として批判を行った 2000 本 950 1890 年に公布された民法を大幅に修正した上で公布 施行された新民法は 家父長制的な家制度を重視する内容のものであった 2000 本 951 最初の衆議院議員総選挙では 藩閥政府に反対する民党勢力は過半数の議席を獲得することに失敗した 2001 追 952 衆議院議員選挙法が公布されると 翌年 沖縄県や北海道でも第 1 回衆議院議員選挙は行われた 2013 本 953 民党系の代議士は 地域社会の租税軽減要求を背景に 帝国議会で 民力休養 を主張した 1999 追 954 日清戦争前に 山県首相は 国家の主権線と利益線を守ることを理由に軍備拡張を主張した 2002 追 955 第 1 次松方内閣は 議会と対立したために衆議院を解散して激しい選挙干渉を行った 2012 追 956 第 1 次松方内閣の内務大臣品川弥二郎は 選挙干渉の指揮をとった 2003 本 957 大隈重信外相は 大審院に限り外国人判事の任用を認める方針で条約改正交渉にのぞんだが 国内の反対の声が強く 交渉の挫折を余儀なくされた 1998 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.174 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 947 イギリスではなくフランス ボアソナードらが編さんしました 948 ボアソナードが編さんした民法は 家よりも個人の権利を重視するものでした 949 穂積八束 ( ほづみやつか ) らが 民法出デテ忠孝亡ブ として批判を行った 950 修正された民法は 1896 年 1898 年に完成しました 類似の正文 1947 年の民法改正までは 戸主権の強い家制度が続いていた (1994 本 ) 951 民党勢力が過半数を獲得した 総議席 300 のうち 民衆の立場に立つ民党 ( 自由党 125 進歩党 46) が政府側の立場に立つ吏党 ( 大成会 79) や無所属 50 よりも多かった 952 953 民党勢力は 民力休養 と 政費 ( 経費 ) 節減 を掲げて藩閥政府に対抗した 954 1890 年 最初の帝国議会で 山県有朋首相 ( 第 1 次内閣 ) は 主権線 利益線 演説を行い 朝鮮半島 ( 利益線 ) の防衛を強調し 軍事費予算の増額をめざました 955 956 1892 年 - 第 2 回衆議院議員総選挙 ( 第 1 次松方正義内閣による選挙干渉 ) 957 1889 年 大隈は右翼団体の玄洋社の青年に爆弾を投げつけられて負傷 黒田清隆内閣は総辞職しました
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.175 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 958 青木周蔵外相は ロシアとの条約改正交渉が大津事件によって挫折したため 交渉相手をアメリカに変更し領事裁判権の撤廃を実現させた 1998 追 959 伊藤博文は 維新の元勲を中心に閣僚を選んで第 2 次内閣を組織した 2012 追 960 1884 年 朝鮮の独立党は日本公使館の援助をえてクーデタを起こしたが 清国軍の攻撃で失敗した 1996 追 961 日清戦争中も 政府と衆議院の対立が続き 戦費の追加支出が困難となった 2002 追 962 日清戦争の結果 日本は遼東半島の領有を足かかりとして 満州 ( 中国東北部 ) にも商業的な進出を果たした 1998 追 963 藩閥に対する政党の力を結集するために改進党が結成され この党を基盤にした第一次大隈重信内閣が成立した 2001 追 964 西園寺公望は 政党員の官僚への登用を禁じるため文官任用令を改めた 2012 追 965 内務省の権限を縮小するために 第 2 次山県内閣は文官任用令を改正した 2003 本 966 日清戦争後になると 政府と政党のあいだには妥協が進み 政党結成をめざした大隈重信と憲政党の提携によって立憲政友会が結成された 1991 本 967 日本公使らによる閔妃殺害事件以降 朝鮮における反日気運がいっそう高まった 1997 本 968 ヨーロッパにおいて三国協商が成立したのを機に 日英同盟が締結された 1997 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.176 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 958 1891 年 大津事件により青木周蔵外務大臣は辞任した 領事裁判権撤廃は 陸奥宗光外務大臣のとき (1894 年 ) 日英通商航海条約による 959 960 1884 年 - 甲申事変 ( 金玉均らがクーデタを起こす ) 961 衆議院は満場一致で日清戦争を支持 962 遼東半島は三国干渉 (1895 年 ) により領有放棄を余儀なくされました 963 1898 年 憲政党が結成され 第 1 次大隈重信が成立した しかし わずか 4 か月で分裂した 964 965 文官任用令改正は政党の進出をおさえることを目的としていた 966 立憲政友会 (1900 年結成 ) の初代総裁 ( 党首 ) は伊藤博文です 967 1895 年 下関条約の後 ロシアへの接近をはかった閔妃 ( 後に明成皇后のおくり名が与えられる ) を朝鮮公使の三浦梧楼 ( ごろう ) らが殺害した 968 三国協商の成立は 1907 年で 日英同盟協約の成立は 1902 年です
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.177 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 969 日露戦争に際して 平民新聞 紙上などで非戦論 反戦論が唱えられたが 世論はしだいに開戦論に傾いていった 2000 本 970 堺利彦 大杉栄 内村鑑三らは キリスト教徒の立場から日露戦争反対を唱えた 1991 追 971 みだれ髪 で知られるロマン主義の歌人与謝野晶子は 日露戦争の勝利を情熱的に歌いあげた 1991 追 972 日露戦争の戦費は 外国債以外に内債や増税によってまかなわれ それにより国民の負担は重くなった 2002 本 973 20 世紀最初におこった戦争の講和条約はワシントンで締結された 2004 追 974 ポーツマス条約で 旅順 大連の租借権 樺太南半分の領有などが日本に認められた 2000 追 975 日露講和会議での講和条件に賠償金が含まれていないことが判明すると 日本では講和反対の声がもりあがった 2000 追 976 日本は 韓国での民族的抵抗を受けながらも 第一次日韓協約により韓国の内政権を掌握した 2002 本 977 日英同盟 ( 日英同盟協約 ) が改定され イギリスは日本の韓国保護国化を承認した 2004 追 978 統監府は 義和団事件を鎮圧した 2004 追 979 統監府は 韓国での土地調査事業を完了した 2004 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.178 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 969 970 大杉栄ではなく 幸徳秋水 971 与謝野晶子は 君死にたまふことなかれ を発表し 日露戦争を批判しました 972 973 ポーツマスの所在地はアメリカ ポーツマス条約 (1905 年 ) は日露講和条約で アメリカ大統領ローズヴェルトが開催 974 975 1905 年 ポーツマス条約の調印後 国内では日比谷焼打ち事件がおき 政府は戒厳令を発して鎮圧しました 976 1907 年第 3 次日韓協約により日本は韓国の内政権を掌握した 977 第 2 次日英同盟 (1905) による 978 統監府は 1905 年に韓国に置かれた日本の出先機関 義和団事件 (1900 年 ) は中国でおきた欧米列強への反乱 979 統監府は韓国併合 (1910 年 ) とともに廃止され 朝鮮総督府が設置されました
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.179 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 980 日露戦争で戦った相手であるロシアとの間で 日露協約が結ばれた 2001 本 981 関東都督府が設置され 満州 ( 中国東北部 ) 全体の行政 軍事を担当した 2001 本 982 日露戦争の戦勝によって日本は南満州の権益を独占しようとしたために 日英関係は悪化した 2002 本 983 南満州鉄道株式会社 ( 満鉄 ) は 中国から鉄道経営を引き継いだ国有企業であった 2000 本 984 日露戦争後 南米への日本人移民が急増したのに対し アメリカは警戒を強め 移民排斥運動が発生した 1995 追 985 日露戦争後 戊申詔書が発布され 勤勉と節約を旨とする道徳が強調された 2000 本 986 日露戦争後に 政府は産業育成のため 日本勧業銀行を設立した 2002 追 987 大阪紡績会社は 当初は紡績機の原動力として水力を使用した 1993 追 988 大阪紡績会社は 蒸気機関と輸入の紡績機械を導入した 2013 本 989 大阪紡績会社は 国産の紡績機を使用した 1993 追 990 大阪紡績会社はガラ紡を利用して大量生産を実現した 2004 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.180 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 980 981 関東都督府は 関東州や南満州鉄道付属地を管轄とする日本の出先機関 1906 年設置 1919 年廃止 ( 関東庁が設置された ) 982 第 2 次 (1905) 第 3 次 (1911) の日英同盟が結ばれるなど 両国の関係は悪化していません 日英同盟は ワシントン会議四カ国条約が発効された 1923 年に廃棄されました 983 日本の半官半民会社として設立されました 南満州鉄道株式会社 ( 満鉄 ) は 鉄道だけでなく 炭鉱や製鉄所など多角的に事業を展開しました 984 南米ではなく アメリカ合衆国 カリフォルニアなどで排斥運動がおきた 985 戊申詔書は 1908 年 ( 明治 41) 発布 986 日本勧業銀行は 1897 年設立 日露戦争は 1904 年 987 水力でなく 蒸気機関が動力であった 988 989 イギリス製の紡績機械が使用されました 990 臥雲辰致が考案したガラ紡は 内国勧業博覧会 (1877 年 ) で注目をあび 1890 年代まで綿紡績機として普及していましたが 輸入紡績機との競争にやぶれました
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.181 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 991 大阪紡績会社は 関税自主権の回復を契機に設立された 1993 追 992 日清戦争のころに 器械製糸の生産高が 座繰製糸の生産高を上回った 2013 本 993 日清戦争をさかいに 国内の綿糸生産高が綿糸輸入高を上回った 2013 本 994 日清戦争から日露戦争までの間に 綿糸の輸出高が輸入高を上回るようになった 2003 本 995 明治中期以降 生糸需要の増大とともに 座繰製糸が器械製糸の生産量を上回るようになった 1997 追 996 豊田佐吉は 紡績機械のガラ紡を発明した 2013 本 997 江戸時代以来 三井家が所有 経営してきた三池炭鉱は 政府の助成をうけることで採掘技術の近代化が進んだ 1999 追 998 華族を中心にして設立された日本鉄道会社により 上野 青森間に鉄道が敷設された 2001 本 999 日本鉄道会社をはじめとする民間鉄道会社は 官営八幡製鉄所からの鉄鋼の供給を前提に設立された 1998 本 1000 日本鉄道会社の成功をうけて 民営による幹線鉄道敷設が進み 1890 年代には民鉄が官鉄を大きく上回るようになった 2000 本 1001 鉄道国有法が公布され 神戸 大阪 京都間に鉄道が開通したが 不況のため民間に払い下げられた 2002 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.182 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 991 関税自主権の回復は 1911 年 大阪紡績会社は 1883 年開業 992 993 994 1897 年 - 綿糸の輸出高が輸入高を上回るようになった 995 座繰製糸と器械製糸が逆 996 997 三池炭鉱 ( 福岡県 熊本県 ) は江戸時代は柳河 三池の両藩が経営し 明治以後は政府にうつされ 1889 年 三井に払い下げられました 998 1881 年設立 上野 青森間全通は 1891 年 999 日本鉄道会社の設立は 1881 年で 官営八幡製鉄所の鉄鋼生産の開始は 1901 年 1000 1898 年のことです 1001 鉄道国有法 (1906 年 ) により主要な民営鉄道が国有化されました
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.183 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 1002 出稼ぎ者が働いた紡績工場では 昼夜 3 交代制の 8 時間労働が普通であった 1998 追 1003 繊維産業で働いた出稼ぎ者の中には 工場や寄宿舎の劣悪な環境の中で病気にかかる人も少なくなかった 1998 追 1004 明治後期には 工場労働者の大半が繊維産業で働く男子労働者であり その多くは出稼ぎ者であった 1998 追 1005 労働者が 賃金の引き上げや待遇改善を求めるストライキをおこすようになったのは 第一次世界大戦後からである 1999 本 1006 横山源之助は 製糸工場の過酷な労働状況を 日本之下層社会 に記した 2001 本 1007 政府は劣悪な労働条件の実態を 日本之下層社会 にまとめ 公表した 1996 本 1008 各地の工場労働者の実態を調査した報告書である 職工事情 が刊行された 1999 本 1009 労働者の争議権を制限した治安維持法が制定された 2003 本 1010 日露戦争後 労働者の保護を目的とする工場法が制定され 即時に施行された 1999 本 1011 工場法は規模の大小にかかわらずすべての工場に適用され 全国一律の最低賃金制についても規定されていたので 労働条件は大幅に改善された 1993 本 1012 工場法の制定に対しては紡績業 製糸業の資本家などが反対したため 法案は成立したものの その施行は 5 年後とされた 1993 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.184 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 1002 18 時間など長時間労働が多かった 1003 1004 多くは女性労働者 ( 女工 ) であった 1005 日本最初のストライキは 1886 年 ( 明治 19) に山梨県の雨宮製糸で女工らが起こしています 1006 日本之下層社会 の刊行は 1899 年 ( 明治 32) 1007 日本之下層社会 の著者は横山源之助 政府 ( 農商務省 ) が刊行したものは 職工事情 (1903 年 ) です 1008 1009 1900 年 労働者の争議権を制限した治安警察法が制定されました 1010 工場法の公布は 1911 年だったが 資本家の反対により施行は 5 年後の 1916 年 ( 大正 5) だった 1011 対象は 15 人以上が働く工場であり 現行の労働基準法 (1947 年 ) とくらべると 非常に不十分な法律であり 労働者の労働条件が著しく改善されることはなかった 1012
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.185 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 1013 明治中期から後期 社会民主党や日本社会党が結成されるなど 社会主義運動がはじまった 2001 本 1014 明治中期から後期 西洋諸国にならい旧暦に代わって新たに太陽暦が採用された 2001 本 1015 明治初期 活字印刷による新聞 印刷物が発行されるようになり 活動写真も現れた 1997 追 1016 日清戦争期には 映画が代表的な民衆娯楽となった 2005 追 1017 明治時代の言論人 徳富蘇峰は 雑誌 国民之友 を創刊した 2007 追 1018 フェノロサが 日本の伝統美術の保存と復興を説いた 2012 本 1019 フェノロサは 日本の伝統美術の復興につとめた 2016 本 1020 明治時代には 西洋音楽をもとにした唱歌が学校教育に用いられた 2012 本 1021 高山樗牛は 日清戦争をきっかけとする国家主義的風潮にのって 日本主義を唱えた 1991 追 1022 岩倉使節団に同行した留学生の一人である津田梅子は 女子教育の振興につとめ 女子英学塾を創設した 1998 本 1023 1877 年に 政府は東京大学を設立して多数の外国人教師を招き アメリカ人クラークを学長に任命した 1999 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.186 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 1013 1901 年 - 社会民主党 結成 ( 直ちに解散 ) 1906 年 - 日本社会党 結成 1014 太陽暦の採用は明治初期のことで 1872 年 12 月を 1873 年 ( 明治 6)1 月とした 1015 日本における活動写真 ( 映画 ) の初の撮影は 1897 年 ( 明治 30) です 映画はアメリカのエジソンが 1890 年代初頭に発明しました 1016 1017 類似の正文 徳富蘇峰は 民友社をつくり 雑誌 国民之友 の発行などの出版活動を行い 平民主義を説いた (1995 追 ) 1018 1019 1020 1021 1022 1023 クラークは札幌農学校に赴任
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.187 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 1024 国家主義的な教育を重視する目的で教育令が公布され 同時に教育勅語が出された 1999 追 1025 1886 年に 政府は文部大臣森有礼のもとで一連の学校令を公布し 東京大学を帝国大学に改組した 1999 追 1026 日清戦争後 政府は大学令を公布して帝国大学以外に公立 私立などの大学設立を認可し 首都における大学の拡充をはかった 1999 追 1027 明治十四年の政変後に 政府は職業教育の充実をはかり 東京専門学校を設立した 1999 追 1028 森有礼文部大臣は 国定教科書制度を採用し 教育に対する国家の統制を強めた 2001 追 1029 森有礼文部大臣は 小学校令を公布し 原則として義務教育を 4 年と定めた 2001 追 1030 日露戦争後に義務教育は年限が 6 年にまで延長された 1999 追 1031 田口卯吉は 文明史論を叙述する立場から 日本開化小史 を著した 2002 本 1032 郵便報知新聞 など明治初期に発刊された新聞は 最初は報道 娯楽中心の内容であったが しだいに政治評論中心にかわっていった 1995 追 1033 日露戦争後 女子の就学率の高まりを背景として 女性にも政治結社への加入の権利が認められた 2000 本 1034 日露戦争後 従来の小学校は国民学校と改称された 2000 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.188 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 1024 教育令は 1879 年 教育勅語は 1890 年 1025 学校令は 帝国大学令 師範学校令 小学校令などの一連の法令の総称です 1026 大学令の公布は 1918 年 ( 大正 7) 原敬内閣のときです 1027 東京専門学校は 大隈重信が開設した私立学校 ( 現在の早稲田大学 ) 1028 森有礼文部大臣は 1889 年憲法発布の日に自宅で殺害される 国定教科書制度は 1903 年に採用されました 1029 1030 1907 年 ( 明治 40) のことです また 義務教育の就学率が 90 パーセントをこえたのは 1902 年のことです 1031 1032 郵便報知新聞 などの大新聞は政治評論などを扱う新聞として刊行されました これに対して 小新聞は娯楽 事件を扱いました 1033 第二次世界大戦終了 (1945 年 ) まで 治安警察法 (1900 年 ) によって女性の政治結社加入の権利は認められなかった 1034 1941 年 ( 昭和 16) 年のことです ドイツのナチスをまねたものです
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.189 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 1035 久米邦武は 古代史研究上の主張のために大学を追われた 1992 追 1036 久米邦武は 神道は祭天の古俗 と論じて 神道家たちの支持を集めた 2008 本 1037 加藤弘之は 論文 神道は祭天の古俗 を書いて神道家から攻撃を受けた 2002 本 1038 明治時代には ラジオ放送やレコードの普及によって流行歌が生まれた 2012 本 1039 大森房吉は独自の地震計を発明した 2000 追 1040 田中館愛橘は赤痢菌を発見した 2004 追 1041 志賀潔は地磁気の測定で成果をあげた 2004 追 1042 高峰譲吉はアドレナリンを発見した 2004 追 1043 北里柴三郎はオリザニンの抽出に成功し ビタミン学説の基礎を確立した 1998 本 1044 長岡半太郎は黄熱病を研究した 2000 追 1045 野口英世は原子構造を研究した 2000 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.190 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 1035 1891 年に発表した 神道は祭天の古俗 が問題視されました 1036 1037 前問解説を参照 1038 1039 1040 田中館愛橘 ( たなかだて あいきつ ) は物理学者 1041 志賀潔は細菌学者で 1897 年に 27 歳で赤痢菌を発見した 1042 1043 北里柴三郎は細菌学者 伝染病研究所を設立した 1044 長岡半太郎は物理学者 原子模型の先駆者 1045 野口英世は細菌学者 黄熱病の研究で知られる
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.191 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 1046 鈴木梅太郎は伝染病研究所を創設した 2000 追 1047 1920 年代 キング などの雑誌を舞台に大衆文学が生まれ 人気を集めた 2001 本 ( 1048 明治期には伝統的な歌舞伎も依然人気があったが 西洋演劇も始まって 大正期には女優松井須磨子らが活躍した 1997 追 1049 幕末から明治初期にかけて 河竹黙阿弥が歌舞伎作者として活躍した 2005 追 1050 彫刻家の荻原守衛や西洋画家の黒田清輝らは 渡欧して西洋美術の作風を学んだ 1997 追 1051 犬養毅らは 藩閥政治の打倒をスローガンに多数の民衆が参加した第一次憲政擁護運動の先頭に立った 2001 追 1052 シーメンス事件がきっかけとなり 第一次山本権兵衛内閣が総辞職した 2001 本 1053 第一次世界大戦中 袁世凱政権に対し 最後通牒を発して 中国における各種権益の拡大 強化をめざした要求を認めさせた 1998 本 1054 第一次世界大戦中 アメリカと石井 ランシング協定を結び 日本の中国における特殊権益を確認しあった 1998 本 1055 日本は 段祺瑞政権への巨額の借款供与を通じて 中国への影響力拡大をはかった 2001 本 1056 綿糸 綿布は 大戦によって欧州諸国からの輸入が急減した東アジア諸国に 主として輸出された 1993 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.192 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 1046 鈴木梅太郎は化学者 オリザニンの抽出で知られる 1047 キング は講談社が 1924 年 ( 大正 13) に刊行した大衆雑誌 1957 年 ( 昭和 32) 終刊 1048 1049 1050 1051 1913 年 - 第一次護憲運動 ( 第 3 次桂太郎内閣が倒れる ) 1052 1914 年のこと 1053 1915 年 -21 か条の要求 ( 第 2 次大隈重信内閣が袁世凱政府に提出 ) 日本政府の最後通牒によって中国政府がこの要求の大部分を受諾した日を 中国国民は国恥記念日とした 1054 1917 年 - 石井 ランシング協定 1055 当時の日本の内閣は寺内正毅内閣 類似の正文 第一次世界大戦中 中国における権益の拡大をめざし 段祺瑞政権に対し 西原亀三を介して巨額の借款を与えた (1998 本 ) 1056 類似の正文 ヨーロッパ諸国がアジア市場から撤退したり軍需注文を増大させたりしたので 貿易は大幅な輸出超過となった (1991 追 )
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.193 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 1057 世界的な船舶不足から 造船 海運業は空前の好況となり いわゆる船成金が生まれた 1991 追 1058 1910 年代 猪苗代 - 東京間の長距離送電に成功した 2005 本 1059 1910 年代 工業生産額が大幅に増大し 農業生産額を上回った 2005 本 1060 1910 年代 重化学工業生産額が大幅に増大し 軽工業生産額を上回った 2005 本 1061 原敬内閣は 陸海軍大臣 外務大臣を除き 閣僚に政友会の党員をあてて発足した 2000 追 1062 シベリア出兵を見越した米の買い占めで米価が暴落し 米騒動が起こった 2016 本 1063 米騒動後に成立した本格的な政党内閣は 与党の支持基盤を固めるために小選挙区制を導入したが 民衆や野党が要求していた普通選挙には反対した 1995 本 1064 原敬内閣は普通選挙制の導入に消極的で 選挙権の納税資格を引き上げた 2012 追 1065 米騒動後に成立した本格的な政党内閣は 膨大な予算を計上し 交通機関の整備 産業の振興 軍備の充実などの積極政策を推進した 1995 本 1066 原内閣は パリ講和会議に西園寺公望らを送り ヴェルサイユ条約に調印した 2000 追 1067 原内閣の時期 山東半島の委任統治権を得て 植民地とした 2000 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.194 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 1057 また ヨーロッパ諸国からの輸入がとだえたために 染料 薬品などの化学工業が勃興した 1058 1059 1060 工業生産のなかで重化学工業の比重が高まったのは 1930 年代のことです 1061 1062 1063 文章の政党内閣は原敬内閣 ( 立憲政友会 ) のことで この内閣は野党の普通選挙要求を否決した 1064 1065 原内閣の時期 与党の立憲政友会が関係する汚職事件があいつぎ 世論の反発をかった 1066 第一世界大戦の戦後処理としてヴェルサイユ条約が 1919 年に開催 1067 山東半島を日本が植民地することはなく 21 か条の要求で獲得した山東半島の利権 ( ドイツ利権 ) も ワシントン会議の九カ国条約 山東懸案解決条約により放棄した
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.195 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 1068 国際連盟はアメリカ大統領の提唱で設立された 2008 本 1069 日本は国際連盟の常任理事国であった 2008 本 1070 アメリカの呼びかけに応じ 加藤友三郎内閣はワシントン会議への参加を決めた 2016 本 1071 米騒動後に成立した本格的な政党内閣は 朝鮮全土にひろがった三 一独立運動に対し 武力を行使して徹底的に弾圧した 1995 本 1072 三 一独立運動は 朝鮮全土に広がり 日本政府 ( 朝鮮総督府 ) はこれに徹底的な弾圧を加えた 1997 追 1073 三 一独立運動により 朝鮮総督府は それまでの強権的な武断政治を基本とする植民地政策の部分的な修正を余儀なくされた 1997 追 1074 三 一独立運動の発生からまもなく 中国でも北京の学生らを先頭とする大規模な反日運動が起こった 1997 追 1075 労資協調を掲げた日本労働総同盟が 友愛会と改称された 2003 追 1076 1920 年代 日本労働総同盟が 労働争議を指導した 2006 追 1077 1920 年代 婦人団体が合同し 大日本婦人会が結成された 2006 追 1078 1920 年代 農民運動の全国組織として日本無産党が結成された 2002 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.196 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 1068 1069 1070 1071 原敬内閣は 1919 年に起きた 3 1 独立運動を 武力で徹底的に弾圧した 1072 1073 1074 五 四事件のことです 1075 労資協調を掲げた友愛会 (1912 年 ) が 階級闘争主義に方向を転換し 日本労働総同盟 (1921 年 ) と名を改めた 1076 1077 1078 1922 年 日本農民組合が結成されました 日本無産党は 1937 年結成 弾圧により同年に解散
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.197 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 1079 被差別部落民によって 部落差別の撤廃をめざす全国水平社が結成された 2003 追 1080 社会主義思想の研究には国家によるきびしい制約があった 森戸辰男は研究論文が危険思想とされ処罰された 1998 本 1081 1920 年代 日本社会主義同盟が結成されたが 翌年禁止された 2006 追 1082 社会主義を宣伝する赤瀾会が 高野房太郎らによって結成された 2003 追 1083 1920 年代 新婦人協会が結成され 女性の地位を高める運動を展開した 2002 追 1084 伊藤野枝は 第二次世界大戦中 憲兵隊によって殺害された 2007 追 1085 市川房枝は 第一次世界大戦後の女性参政権運動の指導者であった 2007 追 1086 平塚らいてうは 仲間とともに雑誌 青鞜 を創刊した 2007 追 1087 山川菊栄らは 社会主義の立場に立つ女性団体を結成した 2007 追 1088 関東大震災の混乱下 憲兵が無政府主義者を殺害する事件が起こった 2002 追 1089 関東大震災の直後 根拠の無い流言をもとに 多くの朝鮮人が自警団や官憲によって虐殺された 1995 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.198 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 1079 1922 年 全国水平社が結成されました 1080 森戸事件は 1920 年 ( 大正 9) におきた 1081 1920 年結成 翌 21 年に禁止 1082 赤瀾会は 1921 年に女性の社会主義者が結成した政治団体 代表者は山川菊枝 伊藤野枝ら 1083 代表者は 平塚雷鳥 ( 明子 ) 市川房枝 1084 伊藤が夫 大杉栄とともに憲兵 ( 甘粕正彦 ) に殺害されたのは 1923 年の関東大震災の時です 1085 1086 1087 類似の正文 婦人参政権獲得運動が展開したころ 山川菊栄らが社会主義の立場からの女性解放運動を展開した (1999 本 ) 1088 1923 年 ( 大正 12)- 関東大震災 殺された人 - 大杉栄 伊藤野枝夫妻 ( 甘粕事件 ) 1089
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.199 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 1090 1925 年の改正により普通選挙が実現したが 普通選挙論を唱えた政治学者には 吉野作造がいた 1999 本 1091 普通選挙制による最初の総選挙では 20 歳以上の男子に選挙権が付与されていた 2014 本 1092 石橋湛山は 大正デモクラシー期に 東洋経済新報 の経済評論家 記者として活躍したことでもしられる 2004 本 1093 憲政の常道 とは 憲法の規定により 衆議院で多数の議席を占める政党が内閣を組閣することをいう 2005 本 1094 第一次世界大戦後 電話交換手など新しい分野に進出する女性も増加した 2006 追 1095 国家や財閥の出資によって設立された理化学研究所は 独自に開発した新技術の実用化を次々と進め のちに新興財閥とよばれた 2004 本 1096 第一次世界大戦から 1920 年代の人々に洋食として広がったものの一つに カレーライスがある 2007 本 1097 1918 年の大学令の制定以後 大学出 といわれる人々が急増し 高等教育を受けた人々の中には様々な社会運動のリーダーをめざす人々も現れ マルクス主義の影響も広がった 1997 本 1098 マルクス主義経済学は日本の社会経済構造の分析に力を注いだ 日本資本主義発達史講座 にはその成果がおさめられている 1998 本 1099 第一世界大戦後から 1930 年代までの間に ラジオ放送がはじまり 日本放送協会が設立された 2004 本 1100 第一世界大戦後から 1930 年代までの間に 東京 大阪などの大都市では 鉄筋コンクリートのビルディングが建ち並ぶようになった 2004 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.200 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 1090 1091 1092 1093 憲法 の規定が誤り 同問正文 憲政の常道 とは 憲法の規定により 衆議院で多数の議席を占める政党が内閣を組閣することをいう (2005 本 ) 1094 1095 1917 年設立 3 代所長の大河内正敏は ここで発明されたものを工業化する理研コンツェルンを設立した 1096 他の洋食にはトンカツがある 1097 1098 野呂栄太郎が指導し 岩波書店から刊行された (1932 年 -1933 年 ) 1099 ラジオ放送は 1925 年 ( 大正 14) 開始 1100
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.201 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 1101 関東大震災後 都心の官庁街では 焼失した木造建築にかわって赤煉瓦 ( れんが ) 造りの洋風建築が建設され その景観が一新された 1999 追 1102 第一次世界大戦中から大戦後にかけて 都市化の進展を背景に大都市圏に郊外電車が発達し 都市近郊に住む人々の通勤の足となった 2000 本 1103 第一次世界大戦から 1920 年代にかけて 特に都市部にはスーパー ( スーパー ) マーケットが発展して 都市住民の消費生活に重要な役割を果たした 2007 本 1104 関東大震災後 郊外の新興住宅街には 文化住宅 がさかんに建てられた 1999 追 1105 1930 年代 電話交換手やバス車掌などとして働く女性が増加し 彼女らは職業婦人とよばれた 2014 本 1106 本多光太郎は KS 磁石鋼を発明し 鉄鋼技術の発展につとめた 2004 本 1107 細菌学の野口英世が国際的水準の研究成果をあげた 1998 追 1108 有島武郎は 或る女 カインの末裔 などの著作で知られ 自らの主張にもとづいて 父から相続した農場を小作人に解放した 2002 追 1109 暗夜行路 の作者である武者小路実篤は のちに宮崎県に 新しき村 を作り 自らの主張を実践しようとした 2002 追 1110 中里介山の 大菩薩峠 が大衆的人気を得た 2015 本 1111 大正から昭和にかけて 文学全集などを 1 冊 1 円で売る円本が登場した 2015 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.202 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 1101 赤煉瓦 ( れんが ) 造りの洋風建築 は明治初期の文明開化期 1102 1103 スーパー ではなく デパート 1104 1105 1106 1107 1108 類似の正文 雑誌 白樺 に集まった作家たちは 人道主義的作品を多く発表した (2002 追 ) 1109 暗夜行路 作者は志賀直哉 1110 1111
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.203 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 1112 大正から昭和にかけて 雑誌 太陽 が創刊され 大衆娯楽誌として人気を博した 2015 本 1113 第一世界大戦後から 1920 年代にかけて 中里介山の 大菩薩峠 に代表される大衆文学 ( 大衆小説 ) が登場した 2007 本 1114 大正期 西田幾多郎が 善の研究 を著した 2005 追 1115 河上肇は 物価上昇が労働者の生活を圧迫する問題をとらえ 人道主義の立場から 貧乏物語 を著した 2004 本 1116 改造 は 1910 年代末に創刊された 大正 昭和期を代表する総合雑誌である 2012 追 1117 民衆の生活を描こうとする文学界の気運の中で創刊された雑誌 種蒔く人 は プロレタリア文学運動の出発点となった 1997 追 1118 労働運動の高揚とともに 社会主義思想や労働者の立場に立ったプロレタリア文学が盛んとなった 文芸戦線 はその代表的な雑誌である 1998 本 1119 小林多喜二は社会主義思想の影響をうけて 蟹工船 を著した 2015 本 1120 柳田国男は 民間伝承を研究し 日本民俗学の基礎をすえた 2007 本 1121 梅原竜三郎らの洋画家が 文部省美術展覧会 ( 文展 ) に対抗して二科会を結成した 1998 追 1122 安井曽太郎は 悲母観音 などの優れた日本画を制作した 2015 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.204 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 1112 1113 類似の選択問題 大衆文学の先駆的な作者 作品 の組合せ (1998 追 ) 1114 1115 類似の選択問題 1920 年代のマルクス主義経済学者 1 河上肇 2 新渡戸稲造 3 大杉栄 4 有島武郎 (1998 追 ) 1116 1117 1118 文芸戦線 の創刊は 1119 1120 1121 1914 年 - 二科会 結成 1122
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.205 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 1123 安井曽太郎は 美術団体の二科会に参加した 2015 本 1124 第一次世界大戦による好況が続いたあと 貿易は輸入超過に転じ 戦後恐慌が起きた 2002 本 1125 大正デモクラシー期 プロレタリア文学として 小林多喜二の 太陽のない街 が発表された 2003 本 1126 小山内薫が創立した築地小劇場は 翻訳劇を中心とする新劇運動の拠点となった 1998 追 1127 第一次世界大戦期に急成長した貿易商として 鈴木商店がある 1998 追 1128 関東大震災後には 震災手形の処理が懸案となった 2002 本 1129 一部の銀行の不健全な経営が判明したため 取付け騒ぎが続出し 金融恐慌が起きた 2002 本 1130 鈴木商店が経営破綻し これに巨額の融資を行っていた台湾銀行が経営危機におちいった 2014 本 1131 首相の失言をきっかけに 銀行への取付け騒ぎがおこり 昭和恐慌がはじまった 2014 本 1132 若槻内閣は 緊急勅令により 台湾銀行の救済に成功した 2002 本 1133 金融恐慌に際して モラトリアム ( 支払猶予令 ) が発せられたが 恐慌は鎮静化しなかった 2014 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.206 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 1123 1124 1125 太陽のない街 作者は徳永直 ( とくなが すなお ) 1126 1924 年 ( 大正 13) 結成 類似の正文 演劇の世界では築地小劇場が創設され 知識人に愛好された翻訳劇中心の新劇が発展した (1997 本 ) 1127 1128 1129 1927 年 ( 昭和 2)- 金融恐慌 1130 1131 1132 枢密院で否決され 第 1 次若槻礼次郎内閣 ( 与党は憲政会 ) は総辞職した 1133
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.207 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 1134 台湾に進出した紡績会社を在華紡という 2004 追 1135 1925 年の改正に基づく最初の衆議院議員選挙で 無産政党は議席を獲得できなかった 1999 本 1136 普通選挙制による最初の総選挙では 無産政党が議席を獲得した 2014 本 1137 普通選挙制による最初の総選挙を実施した内閣は 社会運動を取り締まるため 全国に警察予備隊を設置した 2014 本 1138 田中義一内閣は 三 一五事件とよばれる共産党員らの一斉検挙を行った 2012 追 1139 普通選挙制による最初の総選挙を実施した内閣は 治安維持法を改正して 最高刑を死刑とした 2014 本 1140 張作霖が爆殺された事件の真相を隠したことが原因となって 田中義一内閣は総辞職した 2003 本 1141 浜口雄幸内閣は片岡直温を蔵相にして 金輸出解禁 ( 金解禁 ) を断行した 2012 追 1142 浜口雄幸内閣が断行した金解禁の結果 輸出が増大して景気が回復した 2014 本 1143 昭和恐慌が起こり企業の操業短縮や倒産が相次ぐなか 政府は重要産業統制法を制定した 2001 本 1144 昭和恐慌の影響で アメリカ市場向けの生糸輸出額が急増した 2004 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.208 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 1134 中国に進出した日本の紡績会社をいいます 上海 青島 ( チンタオ ) 天津などに多く見られました 1135 1928 年の最初の普通選挙実施で 8 名の無産政党代議士が当選 1136 1137 1138 1139 1140 1928 年 - 張作霖爆殺 ( 翌年 田中義一内閣総辞職 ) 1141 浜口内閣の蔵相 ( 大蔵大臣 ) は井上準之助です 1142 1143 1931 年 - 重要産業統制法 1144 激減した
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.209 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 1145 1930 年代 一部の農村では 娘の身売りや欠食児童が続出した 2014 本 1146 浜口内閣は 軍縮をめざしたが 議会で統帥権干犯問題の追及を受けた 2002 追 1147 1930 年代の前半には 昭和恐慌や凶作の影響により 東北の農家などで娘の身売りが増加した 2006 追 1148 立憲民政党の内閣が政権を担当していた時期 海軍内部の反対意見をおさえて ロンドン海軍軍縮条約に調印した 2012 本 1149 関東軍は柳条湖で鉄道を爆破し それを中国軍のしわざとして軍事行動を起こした 2003 本 1150 十月事件などによって 自由主義的な思想 学問の弾圧が強化された 2003 本 1151 立憲民政党の内閣が政権を担当していた時 ワシントン海軍軍縮条約に調印して 協調外交の基礎をつくった 2012 本 1152 犬養毅内閣は 満州国 を早期承認するため 日満議定書を取り交わした 2012 追 1153 アメリカを中心とする国際連盟は リットン報告書に基づき日本の 満州国 承認を非難したので 日本は国際連盟を脱退した 1995 追 1154 満州事変を契機とする国家主義の高揚は 社会主義者の国家社会主義への転向をうながした 日本無産党結成は その代表的な動向である 1998 本 1155 満州事変以後 軍部と結びついた新興財閥は 朝鮮 満州への活発な投資を行った 2014 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.210 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 1145 1146 1930 年 - ロンドン海軍軍縮条約 国内で統帥権干犯問題を引き起こした ( 条約の批准に成功 ) 1147 1148 1149 1931 年 9 月 18 日 - 柳条湖事件 勃発 ( 満州事変のはじまり ) 1150 十月事件 (1931 年 ) は 軍部 右翼らによる軍部政権樹立の計画 ( 未遂 ) 1151 1152 1153 アメリカは 国際連盟に加盟していません 国際連盟創設の提唱者はアメリカ大統領ウィルソンですが アメリカ議会は自国の加盟に反対しました 1154 日本無産党 (1936 年結成 37 年解散 ) は 社会主義者を守り通した人々の政党です 1155
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.211 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 1156 岩倉使節団に同行した留学生の一人である団琢磨は 財界の中心人物となったが 五 一五事件で暗殺された 1998 本 1157 1920 年代から 30 年代前半にかけて 日本窒素 ( 日窒 ) は朝鮮進出に失敗して破綻した 2004 追 1158 1930 年代に新興財閥とよばれたものに 日本窒素 ( 日窒 ) 日本産業 ( 日産 ) などがあげられる 2007 追 1159 自由主義的な刑法学説が問題にされ 滝川幸辰 ( ゆきとき ) が大学を休職させられた 2004 追 1160 二 二六事件をおこした将校は 北一輝の思想の影響を受けていた 2000 追 1161 二 二六事件後 統制派が陸軍の主導権を握った 2000 追 1162 広田弘毅内閣は 軍部大臣現役武官制を復活させた 2000 追 1163 物資動員計画を立案する機関として企画院が設立された 2014 本 1164 日中戦争では 第 1 次近衛文麿内閣は 中国に宣戦布告し 全面戦争への決意を示した 2015 本 1165 北京郊外で起こった日中両軍の衝突は その後上海などへも波及した 2015 本 1166 日中戦争時は 報道への検閲は厳しかったが 小説は検閲の対象外だった 2015 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.212 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 1156 1932 年 - 血盟団事件 ( 三井財閥の団琢磨 前大蔵大臣の井上準之助が殺害される ) 1932 年 -5 15 事件 ( 犬養毅首相が海軍の青年将校によって殺害される ) 1157 1930 年代以降 朝鮮進出に成功して発展 戦後 チッソと改称 ( 水俣病を発生させた ) 1158 1159 1933 年のこと 1160 1161 二 二六事件以後 陸軍部内では 皇道派が没落し 統制派が台頭した 1162 1936 年のことです 同年 広田弘毅内閣は日独防共協定を締結しています 1163 1164 1165 1166
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.213 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 1167 日中戦争時に 政府の弾圧により プロレタリア文学者が転向を迫られた 2015 本 1168 1920 年代から 30 年代の出来事として 日本軍が中国の都市南京を占領するに際して 捕虜や非戦闘員を殺害する事件が起きた 2009 本 1169 戦争期の中国では 日本側がとなえる 日 満 支 三国共栄 の宣伝にもかかわらず 日本軍の残虐行為 物資略奪などがあとを絶たず 中国側の頑強な抵抗が続いた 1996 本 1170 一般国民は 軍需産業 ( 軍需工場 ) への就労を国民徴用令によって強制された 2005 本 1171 政府は労働組合を解散させるとともに 多くの労働者を大日本産業報国会に組織した 1995 本 1172 日中戦争が泥沼の長期戦となるなかで 国民の戦争協力をうながすため 国民精神総動員運動が展開された 2012 追 1173 日中戦争が泥沼の長期戦となるなかで 産業報国会が設立され 労働者の戦争協力が進められた 2012 追 1174 政府の大陸政策を批判したために 矢内原忠雄が大学を追われた 2004 追 1175 河合栄治郎は その著作が発禁処分となり 大学も休職となった 1992 追 1176 反ファッショ人民戦線の結成をはかったとして 学者らが検挙された 2004 追 1177 津田左右吉の古代史研究の著書が発禁処分となった 1992 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.214 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 1167 1168 1169 1170 1171 1940 年のこと 1172 1173 1174 1937 年 - 矢内原忠雄が政府の大陸政策を批判して大学を追われました 1175 1938 年 - 河合栄次郎が休職を命じられました 1176 1938 年 - 人民戦線事件 ( 大内兵衛ら東大学者が検挙 ) 1177 1940 年 - 津田左右吉の日本史研究の著書が発禁とされました
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.215 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 1178 国民精神総動員運動は 官僚や警察が指導する官製国民運動であり 学徒出陣や学童疎開を促進した 1995 本 1179 大東亜共栄圏 建設を国策の基本にすえていた日本は アジア諸民族に日本への協力を押しつけた 1995 本 1180 大政翼賛会発足以前に 東条英機を中心に 一国一党 を目指す新体制運動が行われた 1999 本 1181 新体制運動が始まると すべての合法政党がつぎつぎに解散し 大政翼賛会に参加した 1995 本 1182 鈴木貫太郎内閣のもと 諸政党が解散し 大政翼賛会が結成した 2014 本 1183 大政翼賛会発足に際して 立憲政友会と立憲民政党は解散したが 社会大衆党は存続した 1999 本 1184 満州事変以後 労働組合は解散させられ 日本労働組合総評議会が結成された 2014 本 1185 大政翼賛会は末端組織に町内会 部落会 隣組を組み込むようになり 戦争遂行の上意下達の機関として機能した 1999 本 1186 第 2 次近衛文麿内閣の松岡洋右外相は 大東亜共栄圏 を建設する方針を打ち出すとともに ドイツやイタリアとの軍事同盟締結を進めた 2012 追 1187 日本軍が南部仏印に進駐すると アメリカは対日石油輸出を禁止した 2014 本 1188 日本は大東亜会議を開き 当時日本の勢力圏内にあったすべての地域の国家的独立の承認を約束した 1995 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.216 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 1178 国民精神総動員運動は日中戦争 (1937 年 ) 直後の運動です 学徒出陣 学童疎開は太平洋戦争期の施策です 1179 1180 1940 年 近衛文麿の政権づくりをめざす新体制運動がおこった 1181 1182 1183 社会大衆党も解党し 大政翼賛会に合流した 1184 1185 1186 1187 1188 すべての地域 が誤り もしもそうであるなら 日本植民地統治下の朝鮮 台湾も独立を約束されたはずです
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.217 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 1189 タイ ビルマ間の軍用鉄道建設で連合軍捕虜 アジア人労務者を酷使した 1997 追 1190 日本軍に占領された東南アジアの地域の中には 日本語の使用を強制されたところもあった 1998 本 1191 日本は 朝鮮で日本語使用や神社参拝の強制 創氏改名などの皇民化政策を推進した 1995 本 1192 太平洋戦争末期には 物資不足を補うために 南方占領地域からの輸入が増大した 2001 追 1193 1945 年の敗戦にいたるまでの戦時下の日本では 朝鮮人や中国人の強制連行が行われた 2003 追 1194 戦時体制下 深刻な食糧不足への対処のため 農家には米穀の供出が義務づけられた 2000 本 1195 朝鮮人女性のなかには 従軍慰安婦として戦地に送られた人も少なくなかった 1997 追 1196 植民地では台湾人に対して徴兵制を実施し 朝鮮人には実施しなかった 1997 追 1197 太平洋戦争期における国民生活は 配給だけでは不足するようになったため 食糧の闇取引が行われた 2001 追 1198 太平洋戦争期における国民生活は 民需工場の軍需工場への転用が進み 生活物資の欠乏が深刻化した 2001 追 1199 未婚の女性による女子挺身隊が編成され 軍需工場に動員された 2000 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.218 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 1189 1190 1191 1192 南方地域はアメリカ軍に支配され 物資の輸送は途絶えた 1193 1194 1195 1196 朝鮮では 1943 年 台湾では 1945 年に徴兵制が施行されました 1197 1198 1199
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.219 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 1200 未婚女性からなる女子挺身隊が 軍需工場に動員された 2014 本 1201 アメリカ軍は 東京大空襲を完了すると サイパン島上陸作戦を開始した 1999 追 1202 サイパン島の陥落以後 そこを基地とした本土空襲が本格化した 2014 本 1203 学童疎開によって 児童は各地の軍需工場に勤労動員された 2000 本 1204 東京大空襲による被害にもかかわらず 小磯国昭内閣は戦争継続の方針を維持し 本土決戦の準備をしていった 1999 追 1205 沖縄戦では 日本軍が持久作戦をとるなかで 多数の県民が地上戦に巻きこまれて命を落とした 2013 本 1206 沖縄戦では アメリカ軍と日本軍との地上戦によるほか 集団自決などで沖縄県民の犠牲者が数多く出た 1993 本 1207 沖縄戦の犠牲者の中には ひめゆり部隊などの女子学徒隊も含まれている 1997 本 1208 沖縄戦では ひめゆり隊など女子生徒の看護要員から多くの死者が出た 2014 本 1209 一般住民が集団自決に追い込まれた沖縄では 多くの戦跡が平和を考える場となっている 2012 本 1210 アメリカ軍は 沖縄本島上陸作戦を実施して地上戦に勝利した後 広島 長崎に原爆を投下した 1993 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.220 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 1200 1201 東京大空襲は 1945 年 3 月 サイパン島陥落は 1944 年 7 月 ( 直後に東条英機内閣は総辞職した ) 1202 1203 学童疎開は児童を地方へ疎開させ 空襲などの被害を免れさせることが目的であった 1204 1205 1206 スパイの嫌疑で日本軍兵士に殺された一般住民もいた 1207 沖縄戦では 女学生や男子中学生なども看護や戦闘に動員され 大きな犠牲を出した 1208 1209 1210
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.221 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 1211 ソ連の対日参戦に直面したアメリカは 戦争の早期終結をねらって沖縄上陸作戦を実施し はげしい地上戦を展開した 1993 本 1212 原爆の惨禍を伝える原爆ドームが 全人類の文化遺産として 世界遺産に登録された 2012 本 1213 日本の降伏が 昭和天皇によって ラジオ放送で国民に伝えられた 2003 追 1214 東南アジアの国々では 太平洋戦争中から独立の準備を進めていたところも多く インドネシアは日本の降伏直後に独立を宣言した 1998 本 1215 日本の敗戦後 国際連合の設立準備がはじまった 2008 本 1216 アメリカは マッカーサーを最高司令官として直接統治を行った 2003 本 1217 連合国は 占領政策の最高決定機関として対日理事会を設置した 2003 本 1218 戦後 日本の主権は 北海道 本州 四国 九州と 連合国の定める諸小島に限定された 2003 本 1219 敗戦による混乱で中国大陸から帰国できず 残留孤児となる人もいた 2015 本 1220 アメリカは 沖縄を日本本土から切り離し 軍政下に置いた 2003 本 1221 1945 年の敗戦にいたるまでの戦時下の日本では 共産主義者や自由主義者の思想 学問に対する弾圧が強まった 2003 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.222 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 1211 ソ連の対日参戦は 1945 年 8 月 8 日 沖縄戦は 1945 年 4 月 -6 月 1212 1213 1214 1215 1216 直接統治ではなく間接統治 1217 最高決定機関は極東委員会 1218 1219 1220 1221 鉱山や工場などに 多くの朝鮮人や中国人が強制連行されました
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.223 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 1222 吉田茂首相に対し 婦人参政権などの五大改革が指示された 1995 本 1223 第二次世界大戦後の改革の過程で 内務省は廃止された 2003 本 1224 戦後占領期には プレス = コードによって占領軍への批判が禁止され 新聞などへの事前検閲が行われた 2000 本 1225 神道指令により 政府による神社神道への援助 監督を禁止した 2008 本 1226 連合国は A 級および B C 級の戦犯容疑者を東京裁判で処罰した 2003 本 1227 労働者の団結権 団体交渉権 争議権を保障した労働組合法が制定された 2012 追 1228 労働基準法によって労働者の団結権 団体交渉権が保障された 2003 本 1229 1947 年に制定された労働基準法では 女子であることを理由として 賃金について差別をしてはならないとする男女同一賃金制が規定された 2007 追 1230 第二次世界大戦後 労働組合法 労働基準法とともに制定された労働関係調整法は 男女同一労働同一賃金を定めた 1999 本 1231 政府は第 2 次農地改革において 連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の指導を受け入れ 北海道を除く地域における在村地主の小作地保有限度を平均 1 町歩にしたため 寄生地主制は基本的に解体された 2001 本 1232 農地改革により寄生地主制は解体され 多くの小作人が自作農となった 2012 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.224 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 1222 1945 年 10 月 幣原喜重郎首相に対して 5 大改革指令が示されました 1223 1224 1225 1226 B C 級の戦犯容疑者の裁判はアジア各地で行われました 1227 1228 労働基準法ではなく労働組合法です 1229 1230 男女同一労働同一賃金の原則は労働基準法で定められました 1231 1232
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.225 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 1233 軍国主義の基盤を破壊するため 農業基本法が制定された 1995 本 1234 占領期 教科書中の不適当な部分への墨ぬりが行われた 2000 本 1235 占領期 学校教育法が公布され 6 3 3 4 制の教育制度が発足した 2000 本 1236 教育の民主化を進めるため 都道府県 市町村に公選の教育委員会が設置された 2003 本 1237 占領期 都道府県 市町村には任命制による教育委員会が設けられた 2000 本 1238 GHQ により教育制度の自由主義的改革が指示され 修身教育が導入された 2009 本 1239 第二次世界大戦後 教育基本法が制定され 教育の機会均等とともに男女共学の原則が規定された 1999 本 1240 教育の機会均等や男女別学の原則をうたった学校教育法が制定された 2012 追 1241 第二次世界大戦後 戦後初の総選挙で はじめての女性代議士が誕生した 1999 本 1242 GHQ は 戦時中の言論統制を否定し 占領政策を批判する自由を認めた 2016 本 1243 占領期 GHQ は 軍国主義者の教職からの追放を指示した 2000 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.226 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 1233 農業基本法は 1961 年 ( 昭和 36) 制定 軍国主義の解体とは直接関係はありません 戦後の農地改革を本格的に実行させた法は 自作農創設特別措置法 1234 1235 1236 1237 任命制ではなく 公選制 1238 1239 1240 1241 1242 1243 各界指導者の戦争協力責任が問われ 公職追放が実施されました
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.227 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 1244 日本自由党が結成され 戦後初の総選挙で第 1 党となった 2002 追 1245 日本国憲法は GHQ 案をもとに日本政府によって起草され 帝国議会の審議を経て制定された 2003 本 1246 戦後初の総選挙後の衆議院と参議院で 日本国憲法案が審議された 2015 本 1247 戦後初の総選挙の前に選挙権が 満 20 歳以上の男女へと拡大された 2015 本 1248 戦後初の総選挙には 戦争中に議員だった者の多くが公職追放となり 立候補できなかった 2015 本 1249 戦後初の総選挙で日本自由党が第一党となり 石橋湛山内閣が成立した 2015 本 1250 日本国憲法では 衆議院と貴族院からなる国会が国権の最高機関とされた 2012 追 1251 第二次世界大戦後 民法の改正により 戸主権が廃止され 婚姻や相続などにおける男女の平等がはかられた 1999 本 1252 戦後 政府は激しいデフレーションに対応するために金融緊急措置令を発した 2004 追 1253 占領期 政府は 金融緊急措置令を出したが 猛烈なインフレを食い止めることはできなかった 2001 追 1254 1949 年に入って物価騰貴がおさまったのは この年から傾斜生産方式が採用され 生産が回復に向かったためであった 2001 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.228 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 1244 1245 1246 1247 1248 1249 日本自由党の党首 鳩山一郎が公職追放になったためかわって吉田茂が第一次内閣を組織します 1250 衆議院と参議院です 1251 1252 デフレーションでなく インフレーション 1253 1254 傾斜生産方式は 1947 年に採用されました
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.229 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 1255 飯米の獲得をスローガンに 食糧メーデーが開催された 2004 追 1256 GHQ の発する命令によって 二 一ゼネスト (1947 年 ) が中止された 2002 追 1257 戦後 野口英世がオリザニンの抽出に成功し 栄養状態の改善に貢献した 2004 追 1258 中国の内戦における共産党の優位は アメリカの対日占領政策に転換を迫った 2000 追 1259 日本からの解放後 朝鮮半島の南部に大韓民国が建国された 2004 追 1260 占領期 1948 年後半までの激しい物価上昇を招いた要因の一つは 朝鮮戦争の勃発に伴う特需の発生であった 2001 追 1261 連合国による日本占領が終了した後 朝鮮戦争がはじまった 2004 追 1262 朝鮮戦争の開始後 三鷹事件や松川事件などの怪事件が起こった 1992 追 1263 朝鮮戦争の開始直後に 日本では保安隊が作られた 1992 追 1264 朝鮮戦争では 中国が義勇軍を送って朝鮮民主主義人民共和国を支援した 2004 追 1265 朝鮮戦争による特需で 日本経済が好転した 2006 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.230 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 1255 1256 1257 野口英世 (1876-1928) は明治 大正 昭和戦前期に活躍した細菌学者 1258 1259 1260 朝鮮戦争は 1950 年 ( 昭和 25) 勃発 1261 朝鮮戦争は 1950 年 サンフランシスコ平和条約は 1951 年調印 52 年発効 1262 1950 年 - 朝鮮戦争 ( 三鷹 松川 下山の 3 事件は 1949 年 ) 1263 1950 年 - 朝鮮戦争 勃発 警察予備隊 設置 1952 年 - 警察予備隊を保安隊へ改組 1264 1265
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.231 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 1266 朝鮮戦争の開始後 日本は米軍を中心とする国際連合軍の基地になった 1992 追 1267 サンフランシスコ平和条約の締結交渉を有利に進めるため 日本は フィリピンやインドネシアなどと賠償協定を結び 賠償を実施した 1998 本 1268 サンフランシスコ平和条約によって 日本は独立を回復したが 講和会議に招請されなかったソ連との国交回復は将来にゆだねられた 2012 追 1269 日米安全保障条約にもとづき日米行政協定が結ばれた 2000 追 1270 敗戦から 1960 年代にかけて 野間宏や大岡昇平などが 自らの苛酷な軍隊体験に基づいた文学作品を発表した 1998 追 1271 第二次世界大戦後 リンゴの歌 が流行した 2007 追 1272 第二次世界大戦後 総合雑誌 中央公論 が創刊された 2007 追 1273 1950 年代の後半から 女性週刊誌 芸能週刊誌 少年マンガなどの多様な大衆週刊誌が次々と発刊された 1998 追 1274 第二次世界大戦後の ソ連を中心とする社会主義諸国と アメリカを中心とする資本主義諸国との対立を東西冷戦という 2006 追 1275 アメリカの水爆実験で第五福竜丸が被爆したのをきっかけに 原水爆禁止運動が全国で高まりをみせた 2014 本 1276 1955 年 米ソどちらの陣営にも属さずに非同盟中立をめざす諸国のアジア アフリカ ( バンドン ) 会議が開催された 2006 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.232 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 1266 1267 フィリピン インドネシア ビルマ 南ベトナムがそれぞれ日本との間に結んだ賠償協定は サンフランシスコ平和条約の取り決めによるものです 1268 1269 1270 1271 1272 1273 1274 1275 1276
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.233 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 1277 1950 年代 左右に分裂していた社会党が統一して 憲法改正を主張した 2006 追 1278 自由民主党が結成されると 吉田茂が初代の総裁となった 2002 追 1279 日本の国際連合加盟は 日ソ国交回復後に実現した 2008 本 1280 1960 年 日米相互協力及び安全保障条約 ( 新日米安保条約 ) の批准が 衆議院で強行採決された 1999 追 1281 1282 日米相互協力及び安全保障条約に対して 革新勢力や市民による全国的な反対運動がおこり 岸信介内閣は退陣した 1995 追 1283 日米相互協力及び安全保障条約成立後 ベトナム戦争の影響もあって日本経済は高度成長を続け 貿易収支も黒字となった 1995 追 1284 池田勇人内閣は 寛容と忍耐 をとなえた 2004 本 1285 佐藤栄作内閣の下で 日本は大韓民国との国交を正常化した 2004 追 1286 ベトナム戦争のとき ベトナム特需でうるおった日本では 在日米軍基地問題などとも関連して反戦運動が高まった 1998 本 1287 ヴェトナム戦争に反対する科学者たちによって 日本学術会議が結成された 2014 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.234 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 1277 1278 1955 年 - 保守合同により自由民主党が結成されると 鳩山一郎が初代総裁に選出されました 1279 1280 1281 1282 1283 1284 1285 1286 1287
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.235 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 1288 アメリカがベトナムへの軍事介入を本格化させたために 沖縄の米軍基地が重要な出撃拠点となった 2013 本 1289 アメリカの施政権下におかれた沖縄では 住民による祖国復帰運動が大きくもりあがり 日本への復帰につながった 1997 本 1290 沖縄返還は佐藤栄作内閣の時に実現した 2002 本 1291 沖縄返還時にも冷戦は終結しておらず アメリカ軍基地は返還後も存続した 2002 本 1292 日米行政協定により 沖縄は GHQ の施政権下におかれることが確定した 2013 本 1293 沖縄返還後 石川県内灘でアメリカ軍基地反対運動がはじまった 2002 本 1294 沖縄返還前に 小笠原諸島は返還された 2002 本 1295 米軍統治下の沖縄では 米軍による土地の強制接収や米兵の犯罪増加に抵抗して祖国復帰運動が高揚した 2013 本 1296 高度経済成長期以降 農家は所得水準を上昇させたが それは農業以外の収入の増加によるところが大きい 2000 本 1297 高度経済成長期以降 アメリカなどの要求にもかかわらず農産物輸入の自由化が実施されなかったため 食糧自給率が高まった 2000 本 1298 高度経済成長期以降 青年層の離村が激しくなり 農業従事者の老齢化が深刻な問題となった 2000 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.236 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 1288 1289 1290 1972 年のことです 1291 1292 1293 内灘事件は 1952 年 ( 昭和 28) にはじまり翌 53 年におさまるが 米軍基地反対運動の先駆けになった 1294 小笠原諸島返還は 沖縄返還よりも 4 年早い 1968 年 1295 1296 1297 1991 年には牛肉 オレンジの輸入自由化 93 年には米市場も部分開放が決定されました 1298
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.237 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 1299 高度経済成長期以降 家電製品や乗用車の普及にみられる消費革命は 農村でも急速に進行した 2000 本 1300 高度経済成長期 重化学工業化の進展とともに 石炭から石油へとエネルギー源の転換が進んだ 2014 本 1301 高度経済成長期には 太平洋側の臨海部に石油化学コンビナートなどがつくられ 新しい工業都市が形成された 2005 本 1302 1968 年 日本の国民総生産は資本主義国で世界第 2 位になった 2005 本 1303 1960 年代末に日本の国民総生産は 資本主義国で第 2 位となった 2014 本 1304 高度経済成長期 日本は 国際通貨基金 (IMF)8 条国に移行し 国際収支の悪化を理由とした為替管理を行えなくなった 2014 本 1305 1950 年代の後半から 女性週刊誌 芸能週刊誌 少年マンガなどの多様な大衆週刊誌が次々と発刊された 1998 追 1306 1950 年代から 60 年代 名神高速道路が開通し 輸送の高速化が進んだ 2004 本 1307 1950 年代から 60 年代 テレビ放送がはじまり 大量の情報が一般家庭に伝えられるようになった 2004 本 1308 白黒テレビ 自動車 クーラーが 三種の神器 とよばれた 2014 本 1309 1950 年代の半ばには 日本の国際連合への加盟と同時に オリンピック東京大会が開催された 1998 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.238 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 1299 1300 1301 1302 1303 1304 1305 1306 1307 1308 1309 国際連合加盟は 1956 年だが 東京オリンピック開催は 1964 年
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.239 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 1310 1950 年代から 60 年代 原子力の平和をうたい 原子力研究所が発足した 2004 本 1311 1960 年代に 自衛隊が発足し 防衛庁が設置された 2008 本 1312 全国各地で誕生した革新自治体 ( 革新首長 ) は 公害対策や福祉にかかわる予算を削減し 開発優先の政策をとった 2014 本 1313 1960 年代に 公明党が結成された 2008 本 1314 1960 年代に 為替相場が変動相場制に移行した 2008 本 1315 1960 年代に 東海道新幹線が開通した 2008 本 1316 敗戦から 1960 年代にかけて 湯川秀樹につづいて 朝永振一郎がノーベル物理学賞を受賞した 1998 追 1317 高度経済成長期 公害問題として足尾鉱毒事件が起こった 2007 追 1318 高度経済成長期 公害問題に対処するため 政府に環境庁が設置された 2007 追 1319 高度経済成長期 公害対策基本法が制定された 2007 追 1320 高度経済成長期 新潟県でも水俣病 ( 熊本県 ) と同様の病気が発生した 2007 追
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.240 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 1310 1311 1954 年のことです 1312 1313 1964 年のことです 1314 1973 年のことです 1315 1964 年 1316 1317 1318 1319 1320
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.241 編集 : 松井秀行 NO 判定文出題年試 1321 四大公害訴訟は 熊本県の水俣病のみ原告が勝訴した 2014 本 1322 アメリカによる金とドルの交換停止は円安を招いたため 日本企業の輸出は増大した 1999 追 1323 湾岸戦争で 日本政府はアメリカを中心とする多国籍軍に 130 億ドルの戦費を拠出した 2012 追 1324 湾岸戦争後 PKO( 国連平和維持活動 ) 協力法を成立させ 自衛隊の海外派遣を可能にした 2012 追 1325 田中角栄は のちにロッキード事件により逮捕された 2002 本
センター正誤判定文選 Senta_2018 P.242 編集 : 松井秀行 NO 解説解答 1321 1322 1323 1324 1325 ロッキード事件は 1976 年発覚 1983 年第一審判決で田中元首相は懲役 4 年の実刑判決になりました