(P-1) 平成 29 年 8 月吉日植田善朝 南北朝の動乱その Ⅰ はじめに鎌倉時代と室町時代の間に 56 年ほど南北朝時代という時代区分がある 南北朝時代とは 南朝と 北朝 という2つの朝廷が同時に存在した時代のことです どちらの朝廷にも天皇があり 関白や大臣などの廷臣がいて 年号も別々のものを使っていました 両朝の対立には 武士の存在も大きかった 武士 というと戦国武将のイメージが強いかもしれないが 鎌倉幕府も室町幕府もはじめからおわりまで武家政権である 執権の北条氏も 北条家を支えた御家人も みな武士であった こうした武士たちが南北に分かれて それぞれの天皇を支持して戦ったのです また 護良親王や懐良親王のように後醍醐天皇の皇子でありながら自ら戦場に赴いた皇族がいたことは興味深いです 南北朝時代と言う争乱の時代がはじまったのは 鎌倉幕府の滅亡に端を発します 両統迭立 ( テツリツ ) 動乱の導火線南北朝の戦いの芽はすでに鎌倉時代に芽生えていました 1272 年 ( 文永 9) に後嵯峨法皇が崩御しましたが この法皇がすべての原因でした 法皇には後深草天皇と亀山天皇 ( ご醍醐天皇の祖父 ) という2 人の子供がいました 兄が先で弟がそのあとというのは一見順調な皇位継承に見えますが 後深草天皇が亀山天皇に譲位したのが自身の意志でなく 後嵯峨法皇の意志であったことが事態をややこしくなりました さらに法皇はその後は亀山天皇の系統が皇位を継承することを望み 亀山天皇の皇子世仁 ( ヨヒト ) 親王 ( 後の後宇多天皇 ) を皇太子に指名しました 収まらないのが後深草天皇である 後深草天皇にも皇子がおり 我が子の皇位を望んだ ここに兄弟間の対立が起こり皇室は2 派に分裂しました 後深草天皇が譲位後に持明院にはいったため後深草天皇の系統を 持明院統 といい 後宇多天皇が出家後に大覚寺に住んだため 亀山天皇の系統を 大覚寺統 という 朝廷では皇位継承 院政を行う権利をめぐって争い それぞれが有利な立場を得るため幕府に働きかけました そこで鎌倉幕府は両統から交互に即位する両統迭立の妥協を実現させました 後醍醐天皇の登場南北朝の動乱の主役は足利尊氏や新田義貞と言った武士である そして 一方の主役が第 96 代天皇の後醍醐天皇です この天皇がいなければ 南北朝時代という動乱の時代の幕は開かなかった 後醍醐天皇が践祚 ( センソ即位 ) したのは1318 年 ( 文保 2) 天皇が30 歳の時だった 当時としては異例の年齢でした 数代の天皇の践祚は10 代 20 代の時ですその理由は後醍醐天皇はもともと即位するはずのない天皇でした 尊治 ( タカハル ) 親王 ( 後の後醍醐天皇 ) は母親の力もあり父 後宇多天皇の親王に認められた (1308 年 ) そして兄の後二条天皇が23 歳の若さで早世したため 次の天皇は持明院統の花園天皇が即位し その皇太子を誰にするかの問題があり 花園天皇の子邦良親王はまだ8 歳であったそこで後宇多上皇は邦良親王が成長するまでの中継ぎとして尊治親王を皇太子にしました後宇多上皇は自分の皇子を天皇にしたい為に 尊治親王の皇位は一代 ( 約十年 ) 限りその後は邦良親王の系統が皇位を継ぐ という条件をつけました こうして1318 年 ( 文保 2) に花園天皇の譲位をうけて後醍醐天皇が践祚しました さまざまな要因に助けられて後醍醐天皇は皇位についたのです ( 鎌倉幕府では第 14 代執権北条高時の時代 ) 1321 年 ( 元応 3) に後宇多上皇が院政をやめると 後醍醐天皇は親政を開始しました
(P-2) 建武の新政配流先の隠岐島から京へ帰還してから後醍醐天皇は親政を実施 後醍醐天皇は延喜 天暦の治の再現を掲げて幕府 摂関を廃止し諸改革を断行しました 全ての土地所有権を天皇が発行した綸旨によって再確認することとし 天皇直属の機関として中央に記録所 恩賞方 雑訴決断所などを設置しました 1324 年 ( 元亨 4) 大覚寺統の後宇多法皇が崩御すると後醍醐天皇は両統迭立を解消して自らの子孫に皇統を伝える事 上記の天皇親政を実行するために幕府政治の 乱れのスキを見て密かに倒幕を計画していましたが ( 朝廷軍が六波羅探題を攻め 興福寺の宗徒が宇治と勢多を固める )1324 年密告で幕府に発覚し計画は失敗 毎年 9 月に北野祭があり六波羅探題は警備を行う為に六波羅探題が手薄になる9 月 23 日を決行日とした 六波羅探題は決行日の4 日前の19 日未明に召喚に応じない多治見国長と土岐頼兼らを夜襲し六波羅探題の勝利で終わり二人は自害した 首謀者である日野資朝 日野俊基が六波羅探題に出頭した 幕府は二人を尋門したが二人とも後醍醐天皇の名を出すことはなかった 証拠がない限り天皇を罪に問えなかった 幕府は事件を大きくしたくなく日野資朝を佐渡へ流罪にするだけで矛を収めた 正中の変 と言う 出展 : 南北朝動乱 著者水野大樹実業之日本社 なぜ後醍醐天皇は倒幕に動いたのでしょう 倒幕を決意した要因のひとつとして後宇多法皇との約束があった 後醍醐天皇は一代限り ( 約 10 年間 ) であとは邦良親王に譲位しなければならず 天皇の皇子も天皇になれなかった 幕府もそれを認めていて天皇としては 一代限り という制約を空文化させるためには皇位継承に発言権を持つ幕府を倒さなければならなっかのです 鎌倉幕府の滅亡の要因鎌倉幕府は源頼朝の直系が滅んだあとは執権 北条家が権力者となった 北条家は有力な御家人を追い落とし着実に地盤を固めました 北条家の当主を中心に 一門や御内人 ( ミウチビト ) 外戚などの一部の者によって運営された政治体制のことを 得宗専制政治 という 得宗とは北条家嫡流の当主のことです 得宗専制政治は時頼や時宗といった強力なりーダーシップを持っている人物がいればうまく機能した しかし 貞時の晩年に政治を放棄した為 御内人 ( 北条家に仕える家人 ) や外戚が力をもつようになった 得宗に権力が集中した政治体制では 御家人の出番はほぼなかった 得宗専制政治の強化は一般御家人の不満は鬱積していった 1311 年 ( 延慶 4) の貞時の死後 確かな主導者を欠いた幕府では権力抗争や内部腐敗が横行し 倒幕のスキをつくることになりました 滅亡の遠因に元寇がありました 元軍が攻めてきたのは1274 年 ( 文永 11) と1281 年 ( 弘安 4) 鎌倉幕府滅亡の50 年ほど前 元は日本を襲う前に何度か国書を届けていたが 幕府も朝廷もすべての国書を黙殺していました 当時の幕府の権力者は第 8 代執権 北条時宗 朝廷は後嵯峨上皇が院政をしており 天皇は亀山天皇です 最初の襲来は何とかしのいだ幕府は再度の襲来のために博多湾沿岸を中心とする地域に石築地を築き さらに警戒を強化した 実際に作業を行うのは御家人たちであった 二度目も 折からの気象悪化と元軍の士気低下といった好条件が重なって撃退しましたが不安は尽きず そのため 九州地方北部の警戒態勢は持続され 軍役を課された九州の御家人を中心とした武士たちの疲弊は大きく御家人たちの不興を買った さらに元寇は外敵襲来という特異な戦いだったため 元寇に従軍した御家人たちに十分な恩賞を与えられず御家人たちは不満をつのらせました
(P-3) 蒙古襲来絵詞 の絵は竹崎季長という武士が褒美をもらう為に描かせたものです 彼はその甲斐あって恩賞をもらいましたが大半の御家人はもらえませんでした 彼らは戦費は自腹だったのです そこで幕府は考えました 恩賞を与えることが出来なかった御家人の救済策として徳政令 ( 永仁の徳政令 ) 発布ししました 確かに御家人は一旦喜びましたが結果として生活をさらに苦しめることになります 商人はこれから先御家人に絶対お金をかさなくなった もはや御家人は借金すら出来なくなり不満が爆発するようになりました 二度目の倒幕計画が発覚一回目の倒幕計画に失敗した後醍醐天皇はその後も倒幕をあきらめませんでした そして1331 年 ( 元徳 3) 再び天皇の倒幕が暴露されました 正中の変後 天皇を取巻く環境に変化があった 1326 年 ( 正中 3) 皇太子の邦良親王が死んだのです 新たな皇太子を立てなければならず候補者が数名いました 両統迭立 ( りょうとうてつりつ ) の原則から後伏見天皇の第一皇子の量仁 ( かずひと ) 親王が新たな皇太子になりました 後醍醐天皇には不満がありましたが 幕府の決定を受け入れるよりほかならなっかた 後醍醐天皇にはもはや時間がありません 今回の計画の特徴は 強力に寺社に働きかけた点です 天皇自ら延暦寺 興福寺に行幸し 延暦寺には皇子である護良親王を天台座主として送り込んだ 二度目の倒幕計画が発覚バレたのは 天皇の側近中の側近だった吉田定房が六波羅探題へ密告したからです 1331 年 ( 元徳 3)4 月 29 日 密告の理由は時期尚早 鎌倉からの追討使と六波羅探題は関係者を逮捕し鎌倉へ送り 尋問し後醍醐天皇の命令で幕府転覆 護良親王が比叡山で武芸に励んでいる 日野俊基が武士を集めていることを白状した 一味が次々捕縛される中 後醍醐天皇がついに動いた 8 月 24 日数名の公卿とともに御所を脱出して笠置山 ( 笠置寺 京都府相楽群 ) に移りました 六波羅探題は今回はすばやく対応して軍を宇治へ終結させて笠置山への攻撃を決定 鎌倉では北条一門を大将にしたした討伐軍の出兵が命じられた この討伐軍には足利尊氏も加わっていました 天皇は各地に檄を飛ばし来援を待ったがそれほど兵が集まらない中 河内国の土豪楠木正成が赤坂城で蜂起した 天皇は赤坂城へ護良皇子 尊良皇子を先行させていました 笠置山では天皇軍は幕府軍に圧倒されて天皇は山を脱出しましたが山城国でつかまり京都へ護送されました 笠置山を攻略した幕府軍は10 月 21 日赤坂城を落城させましたが楠木正成は逃走しました 護良親王は落城前に大和国吉野へ向かいました 尊良親王は京都へ向かう途中に幕府軍につかまりました そんななか京都では幕府の要請で持明院統の量仁 ( カズヒト ) 親王が践祚しして光厳天皇になりました ( 元弘の変 ) 元弘の変の戦後処理鎌倉幕府は元弘の変の事後処理に対して 非常に慎重でした 関係者の処分が発表されたのは1332 年 ( 元弘 2)4 月 10 日 密告からなんと約 1 年が経っていた 後醍醐天皇以下の皇族の処分が京都へもたされるのはその翌月でした 処分されたのは皇族以外では公卿 12 人 僧侶 5 人でした 日野資朝 日野俊基 平成輔 北畠具行が処刑されました 朝廷では 後醍醐天皇寄りの公卿が廃除された 幕府は後醍醐天皇が持ち出した神器を光厳天皇に渡しました 幕府は朝廷に伺いをたてて後醍醐天皇を隠岐島への配流を決めました このとき 天皇の皇子たちも処分されました 尊良親王は土佐国 護良親王の後に天台座主となっていた宗良親王は讃岐国に わずか7 歳の恒良親王は越中国に配流と決められまし
(P-4) た しかし 元弘の変の中心人物の護良親王はどうしても見つけることが出来ませんでした こうして1332 年 ( 元弘 2)5 月後醍醐天皇は隠岐島へ旅立った 付き従うは一条行房 千種忠顕それに女房は三位の局阿野兼子 ( 側室 ) ら数名でした 武士数百名が囲みました 後醍醐天皇の巻き返し後醍醐天皇が隠岐島に配流されたが幕府と天皇軍との戦いは終わらなかった 赤坂城落城後大和国を転々としていた護良親王は幕府打倒の令旨を出し続けていた 1332 年 ( 元弘 2)11 月 護良親王は大和国吉野でついに兵を挙げました それに呼応して楠木正成も12 月に赤坂城奪還のために兵を挙げた 城を奪還後約半年を掛けて南の金剛山に千早城を築いた しかしその間幕府は何も手を打たなかった 正成はついに本格的に軍事行動をはじめて河内国北部 和泉国北部まで制圧し摂津国天王寺まで進出した 幕府はここにいたって楠木正成追討を決め1333 年 ( 元弘 3) 一月大群の動員を命じた 幕府は三軍編成し第一軍は赤坂城へ第二軍は吉野山へ第三軍は紀ノ川流域の謀反人討伐に向かいました 2 月吉野山陥落したが護良親王は高野山へ落ち延びた 楠木正成が守備していた赤坂城も同じ2 月に落城 正成は千早城へ逃げた 第二軍が赤坂へ駆けつけ第一軍に合流し千早城を攻撃したが抵抗が激しく陥落させることが出来なかった この追討軍に下総の豪族新田義貞がいましたが途中で国へ帰ってしまいました そのころ隠岐島で隠忍自重していた後醍醐天皇にも大きな動きがあった 1333 年 ( 元弘 3) 閏 2 月 24 日天皇が隠岐島を脱出したのです 天皇は側近の千種忠顕ひとりだけともない千波湊から海上へ出た 翌日伯耆国の名和湊に上陸し同国の豪族 名和長年を頼った 彼は決意して天皇を迎えるととりあえず船上山山頂に行在所を作って奉じました それと知った隠岐の守護佐々木清高と合戦なったが勝利しました それを機に近国から天皇方に参集する者が増えていった 3 月に入ると後醍醐天皇方となっていた播磨の赤松一族は摂津の尼崎あたりまで進出し 六波羅軍を激戦の末破り 京都まで進軍した 幕府は機内のこのような状況に大きな危機感を持ち 3 月末には名越高家と足利尊氏を討伐軍の大将として京都への進軍を命じた 鎌倉を出発した足利尊氏は途中で二人の被管を後醍醐天皇のところへ行かせて倒幕の諭旨をもらう話をさせました その頃 九州でも大きな動きがあった 肥後の豪族 菊池武時が護良親王の令旨に呼応して挙兵しました 3 月 13 日幕府の鎮西探題のあった博多に乗り込むと周辺に火を放ち鎮西探題を攻撃 武時は周辺の守護に挙兵を促したが動かすことが出来ず やむおえず単独で鎮西探題と戦ったが敗死しました 六波羅探題陥落後醍醐天皇は六波羅探題に対し 赤松軍だけでは太刀打ち出来ないと考え千種忠顕を山陰道 山陽道の総司令官として京都へ送りこむことにした 忠顕軍は京都へ入り六波羅を目指すが六波羅探題軍に敗れて敗走した また赤松軍も南から京都を攻めるが敗れて山崎 八幡方面へ敗走した 4 月 16 日 六波羅探題と鎌倉から派遣された名越高家と足利尊氏の増援部隊が軍議を開き 高家が山陽道 尊氏が山陰道を船上山へ向かうことなった両軍はまず赤松軍がいる山崎方面へ向かった しかし 名越軍は赤松軍の伏兵に襲われ高家が討ち死にした それを知った尊氏はすぐに引き返し丹波国 ( 尊氏の母のふるさと ) を目指した 丹波国藤村に着くや4 月 29 日篠村八幡宮に願文を奉納し反幕府の旗色を明らかにした 尊氏は後醍醐天皇や千種忠顕 赤松則村と連絡を取りながら篠村付近の豪族たち
(P-5) に呼びかけ京都をめざした 尊氏謀反の知らせは六波羅探題の戦意を削ぐのに十分でした 六波羅探題軍も善戦するもしだいに押され始めて敗走した 5 月 7 日夜半 探題北方の北条仲時 探題南方の北条時益は光厳天皇をつれて近江国へ六波羅を逃げ出した こうして京都は天皇軍が制圧した 北条時益は山城国山科あたりで野武士に襲われて落命 一行は5 月 8 日には近江国に入り一晩過ごし美濃国との国境まで来たが伊吹山の峠は天皇軍に封鎖されていることを知り 北条仲時はついに観念し身をよせていた蓮華寺で自害した そして随行していた432 人の兵も残らず自害した 光厳天皇以下の皇族たちは伊吹山の太平寺へ移され神器等が接収された この間に河内国千早城では楠木正成と幕府軍が今までにない戦いを続けていた しかし六波羅探題が陥落した翌日 5 月 9 日幕府軍は包囲を解いて撤退していった 約 100 日に及んだ千早城の戦いが終り 機内は後醍醐天皇の制圧下に入ったのである 続編は別途配信します 鎌倉幕府の滅亡 建武の新政 朝廷が南北に分裂