第 回 なぜ今 黒四 なのか 財 建設業振興基金 構造改善センター部長 本誌ではここ数年 建設業や建設事業に 係る歴史的な歩みの中での時宜に合った事 ① 7年度では 戦後60年目にあたり わ ① 今年度の取り組み企画に当たっては 最近の建設業をめぐる社会的な事業環境 として 業や建造物をめぐる物語を取り上げてきて おります 三輪栄一 本誌編集委員 社会資本の整備状況が相当進んできてい る今日 また大型の公共投資 ビッグプ が国の住宅 社会資本整備を担ってきた ロジェクトが減少する中で 今後の社会 建設業の過去に目を向け 業界の歩みを 資本整備 公共事業の重要性 必要性等 な出来事や事件を取り上げながら 今日 ではないか 振り返り その転機となったような大き に対する一般的な認識が弱まっていくの に至る流れを解説 紹介しました 新 また 少子高齢化社会の到来等の中で高 聞で振り返る建設業の60年 執筆 坂木 度な技術 技能を伝承していくべき若年 久 者が減少傾向にある一方 社会資本整備 8年度は 昭和の初期 新潟県旧山古 に関わり 携わっていく若年者のモチ 志村の人々が6年間かけて手掘りで貫通 ベーションが醸成される社会環境や機会 させた 中山 が従来に比べ少なくなってきているので 道 を題材に その偉業 を再現したドキュメンタリー映画の紹介 はないか や村民の人々の生き方を綴った物語 掘 といった懸念により わが国の国土づく るまいかから震災復興へ しなやかに生き り 地域づくりを担う将来的な人的 技 る人々 執筆 今岡亮司 術的な基盤のあり方について各方面で論 議されていく必要性が出てきている現状 9年度ではわが国の歴史的 代表的な にあると考えられます 橋である東京 日本橋を題材に その過 去から現在までの経緯等について幅広い このような観点から わが国の大型建 観点から 名橋日本橋 誌上博物館 執 造物のうち 戦後の関西方面での電力不 筆 江戸東京博物館 として取り上げて 足に対処するべく建設された 黒四ダム きました と 黒部川第四発電所 をめぐる今日的 6
な状況をみますと 一昨年 黒四ダム着工50周年 956年 昭 和年 7月 を迎えたこと 昨年同ダムに向かう交通手段である関電 トロリーバスの乗客数が5,000万人を超 えたことから これまで当地を訪れた観 光客等の数も大きな節目の年に当たった 雪の黒四ダム 007年月日 こと 5月 本年が関電トンネル破砕帯突破50周年 958年 昭和年 2月 に当たること などに加えて 宇奈月 関西電力の 黒部川電気記念館 くろよん記念室 ダムサイト など各種の手段があります この黒四ダム建設の苦闘をテーマにし て 全国約70万人の観客を集めた映画 黒部の太陽 が968年 昭和年 に また 当時の建設工事の状況を描いた ビジュアルな動画として 上記の映画 黒部の太陽 今日 全国の 放映開始されて 0周年を迎えたこと 人々 特に観賞してほしい若い方々が容易 また 昨年 その主演者の俳優石原裕次 に観る機会が得られない事情にある 郎氏が亡くなってから0年 987年 昭 近年話題を呼んだNHKの番組 プロ 和6年 7月 を迎えたことで テレビ ジェクトX の中で 黒四ダム建設の苦 や雑誌で様々な回想番組や関係記事が企 難を取り上げられ 3回にわたり放映さ 画されていること れた企画 DVD化により市販されている などの現状にあり 同ダムやその発電所 の建設について振り返るうえで一つの大 きな時代的な節目の時期にあると考えら れます 現地 くろよん記念室 での短編記録映 画などがあります ところで 上記資料からは 同ダムと その発電所の建設現場で携わった各建設 同ダム建設をめぐる当時の情報を得る 一般的な手段としては 例えば 株 間組 佐藤工業 株 会社 株 熊谷組 大成建設 株 鹿島建設 株 の実情や インターネットによる 黒部ダムオフィ 実際の現場作業者の様子を全体的に分か シャルサイト パンフレット 黒部ダ りやすくまとめた資料が少ない一方 当 ムオフィシャルガイドブック などから 時現場で活躍された方々がご高齢にな の情報 り 当時の様子や状況を把握する機会が その建設工事の苦闘を題材にした小説 黒部の太陽 木本正次著 クロヨン 少なくなってきております 以上みてきた現状を踏まえて 今年度に 梅棹忠夫 冠松次郎 安川茂雄 足立巻 おいては この戦後の高度経済成長を支え 一著 児童書 黒部ダム物語 前川康 てきた黒四ダムとその発電所の建設工事の 男著 黒部の太陽 当時の実情に焦点をあて 現存する各社史 ミフネと裕次郎 熊井啓著 などの書物 各種資料等を活用し また建設工事をめ 7
た深刻な電力不足は 関西地方に電力使用 制限をもたらすなど大きな社会問題を生ん でいました しかし エネルギー需要はと どまることを知らず 膨大な電力開発が急 務となり 関西電力は黒部ダム建設に挑ん だのです 日本一大きく深い黒部峡谷 そ こを流れる黒部川は その水量と大きな落 差が水力発電の適地とされながら 人を拒 絶する厳しい自然条件がダム建設を阻んで きました しかし 昭和年 世紀の大事 業 と言われた通称くろよん 黒部ダム 黒部川第四発電所 の建設に社運をかけた のです 当時の金額にして5億円の工費 延べ,000万人の人手 そして実に7年の 歳月をかけた難工事は 昭和8年6月つい に完成したのです 黒部ダム建設で最も急 破砕帯突破50周年記念展チラシ がれた大町トンネル 現在の関電トンネル ぐって様々な困難を乗り越えてきて現在ご 盤の中で岩が細かく割れ 地下水を溜めた 健在な方々へのインタビューなどを交えな 軟弱地層 破砕帯 にぶつかり 一時はト がらこの大事業を再認識し 今後のわが国 ンネル掘削が不可能になりました しかし 能の継承等について考えていく一助となる ことを期待して連載企画をすることとしま した 黒四 くろよん とは 黒部川第四発 貯設施設の正式名称 電所 と 黒部ダム の通称ですが 黒部ダムは 黒四ダム と も呼ばれております ここでについて 黒部 ダムオフィシャルガイドブック007 の中 の情報を引用して紹介しておきます 戦後 経済復興の本格化に伴い発生し 8 あらゆる知識と技術を結集 実に7ヶ月の 苦闘の末突破したのです その模様は小説 や石原裕次郎主演映画 黒部の太陽 に描 かれ 現在に伝えられています 水路縦断面図 関西電力パンフレット く ろよん より の大型建造物のあり方やその建設技術 技 工事では 杭口から約,600mの地点で岩 ダム下流面図 56.000 67.000 右岸 ウイングダム 69.000 左岸 ウイングダム 0 50 00 50m 導水路 黒部トンネルにほぼ平行 型 式 円形圧力トンネル 鉄筋コンクリート造り 内 径.80m コンクリート巻厚 0.5 0.9m 延 長 0,08.06m 1条 取水口トンネル 90.99m 水路トンネル 0,7.07m
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建設当時の削岩機を展示 黒部ダム駅構内で当時の資料等を視察 ダム駅構内において 熊谷組特別出展 大さと建設当時の苦難に思いを致しなが 破砕帯突破50周年記念展 が開催されて ら 殉職者7人の慰霊碑を拝礼 そし いたことを終了間際に知り その出展内 てくろよん記念室の視察後 堰堤向こう 容には通常見ることのできない資料等が 側の黒部湖駅からケーブルカーでトンネ 含まれていたことや 現地にはすでに降 ルを上がり黒部平に到達したが生憎の吹 雪があって天候次第では視察も困難な状 雪模様となり そこから先の立山ロープ 況にあるなどの諸情報から 急遽実施す ウェイは閉鎖となり 上空からの黒四ダ ることにしたものです ムの視察は叶わなかった 月日午後に東京 新宿から中央本 ところで 帰り際に立ち寄ったダムレ 線で松本に向かい そこで大糸線に乗り ストハウスの関係者の話では 黒部の 換えて信濃大町に到着 当地では里には 太陽 の主人公のモデルになった笹島建 雪など微塵もなく翌日の現地調査にも不 設の笹島会長が0月下旬に当時の方々と 安なく思われたが 一夜明けて日 戸 ともにこの現地を訪れていたこと 月 外を見渡すと一面真っ白の雪景色となっ 末には関電トンネルの一般通行も停止 た し 今年4月中旬の再開までシーズンオ フを迎えることなど 様々な情報を得る しかし 現地までは通行は可能で 予 ことができた 定どおり扇沢から関電トロリーバスに乗 車し 関電トンネル内の途中では破砕帯 今後 今回の企画の趣旨が達せられる あとの蛍光表示サイン 県境表示サイン よう 現地での事前調査や収集資料をも 等を見ながら 無事黒部ダム駅に到着し とに 次回以降の連載企画の内容につい た て関西電力をはじめ 建設工事関係会社 早速 駅構内に展示された 黒四建設 5社のご理解とご協力を頂きながら ま 当時の貴重な記録写真や削岩機などの道 た掲載記事の執筆 取りまとめ等につい 具 また映画 黒部の太陽 の撮影風景 ては 日刊建設工業新聞社のご協力を得 写真等々の資料 また建設当時の記録映 て進めていくこととしております 写会を視察した ダムサイトではその雄 50