第3種郵便物認可 昭和54年5月1日 全 仏 東京ブディストクラブ山田 りのおとずれがありましたが この地方 っているばかりです 厘かに二十名ばか 大きな一本の木が その歴史を知って立 つつある場所ですが 街なみの中にある はまったく人の住む家はなく 発掘され 化の水準が計り知ることができます 今 ギリシャのロープてあり 顔は彫りが深 まったくの異質を感じる 衣のひだは イ スリーラン幾等南方仏教の仏像とは の影響下に入り 私たちの目になれたタ い 衣の様子 顔の形などはまったくそ て像が調整されるようになったことを思 最上の第一層は紀元前二世紀以後となっ り 第二層は紀元前三世紀マウリや期に 紀元前四世紀アレキサンダー東征期にな のパンチ イカが脇に座し 母神には子 になされた鬼子母神像がある それも夫 た おやと思われるものに ギリシャ風 いるなど実に写真的に造られている ま 私たちは 北側に開かれているゲート く髪も長髪を結い上げてまるめて乗せて より入ったが 入口の両側には石積の城 まるで東洋の顔ではない しかしいろい どもたちがすがりついている その姿は は 最下層が第四層で紀元十五 犬世紀 教潰跡ジュリアン サイトを見学した後 の交流を肌身に感じ その地に立つ感激 ており 歴史の深みとともに 東西文化 がペルシヤ アケメネス朝期 第三層 そこから ほど近い場所にある古代の街 ていたのであろう このことはヨーロッ 壁があって 当時はこの街 全体を囲っ た街なみがしのばれます シイルカプに 正午に 到 着 す る 方で作られたようです ろ見開するに鬼子母神の物語は この地 り 数十分の見学であったが 貴重な資 今日は ペシャワールまでの予定があ を味わいました こに立寄る さして大きくないったに覆 シイルカプからタキシラ駅に返す道の われた建物で 中はうす暗い感じである パの都市国家の形が残されていたことも 街なみは 南に向って 広い道が長く が この付近から出土された品々が展示 思われるし 歴史的にみても 外敵 侵 真直ぐに通っており 中央部には東西の され 私たちには珍らしさと ガンダー ャ人によって造られた街の遺跡で 東か 広い道が直角に交差し その外に碁盤の ラ美術にふれる感喜で一つ一つに見入る ら南にかけて丘陵があり 北 西にかけ 目のように路がついている そのメイン 先ほど訪ねたジュリアン僧院よりのしっ 近い距離に タキシラ博物館があり そ ストリートを ぶらぶらと歩いて行くと の鷲 拝火教 神殿があります その寺 は ストーパ跡のある仏教寺院や 双頭 街の奥の方には王宮もあり 中心街に です 釈尊滅後は お舎利をまつるスト は何としても仏像の姿に憶うかされるの す ガンダーラを初めておとずれた者に 朝時代の財宝物などが展示されていま くなった仏教寺院よりの出土品や 各王 六時までとなっています 毎月第一月曜 午前九時より正午まで と午後二時より 夏時間 四月一日より九月末日まで は 末日まで は午前九時より午後四時まで 博物館は 冬時間 十月一日より三月 三 四十分で着きます 駅がある 車でもラワルピンディーから ラホール間の線が走っており タキシラ 距離があります 鉄道はペシャワール ラワルピンディーから三五 五キロの きますと のために タキシラへのご案内をしてお 存されているようです ここで む参考 料は ほとんどペシャワール博物館に保 裕福な家や 過去の庶民が住んでいたで 院の礎担にはギリシャ風の門柱が形どら のストーパの頭部の外 この近隣に数多 くい塗の仏像や 土壇 モラモラド僧院 れ その間にこの神殿のシンボルと 鳥 ーパをその対象として信仰 崇敬を集め 日は閉館しているとのことです 入場料 居の原形といわれているトラーナが表わ るインドから このガンダーラ地方の平 ていたのでありますが アショカ王によ は五〇パイサ 約USドル五セント で のわくところです シャ文化の接触によって その対象とし 定と仏教流布によって その時代にギリ す つづく 建物よりの下水を流す溝口もあり生活文 街の道の両側には溝があり 各家庭 されているところなど文化の流れの興味 寄ることができます あろう建て混んでいるスラム街なども立 略者よりの守りでもあったでしょう シイルカプは 紀元前二世紀にギリシ 二月十三日 火 最初におとずれた仏 中 真 タマラ河が流れている やや小高い平地 に 当時代としては 良く区画がなされ 勲鞍臨 シイルカプの双頭の寺院の鳥居 一4一 一