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1 0 0 0 年 の 時 を 超 え て 藤 原 道 長 か ら の メ ッ セ ー ジ 66 代 天 皇 一 条 (32) 67 代 天 皇 三 条 (42)= 研 子 (34) 風 疹 ( 脳 卒 中 ) 68 代 天 皇 一 条 (29) 69 代 天 皇 禎 子 朱 雀 (37) 71 代 天 皇 後 三 条 (40) 藤 原 一 族 病 の 家 系 図 師 輔 登 子 村 上 帝 后 公 威 為 光 摂 政 兼 通 摂 政 大 政 大 臣 安 子 (38) 花 山 帝 后 兼 家 (62) 顕 光 伊 尹 (49) 産 後 死 氏 子 (?) もののけ 産 後 死 (ノイローゼ?) 小 一 条 帝 后 元 子 延 子 (?) 心 労 死 64 代 天 皇 63 代 天 皇 道 兼 道 綱 摂 政 円 融 (33)= 詮 子 冷 泉 (62)= 超 子 (?) 道 隆 (43) もののけ 心 臓 病 (ノイローゼ?) 白 内 障 腫 れもの 70 代 天 皇 冷 泉 (44) 彰 子 威 子 (38) 疱 瘡 ( 天 然 痘 ) 嬉 子 (19) 麻 疹 (はしか) 花 山 院 女 御 一 条 帝 后 原 子 (?) 定 子 (25) 隆 家 内 大 臣 伊 周 (37) 吐 血 産 後 死 教 道 頼 道 2
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訃 報 去 る9 月 9 日 に 本 年 3 月 で 定 年 退 官 され 前 院 長 でかつ 名 誉 院 長 であらせられた 上 野 博 嗣 先 生 がご 逝 去 されました 私 の 着 任 前 から 何 度 かお 手 紙 の 交 換 をし 退 官 後 も 当 院 の 経 営 につきご 相 談 を 申 し 上 げていた 矢 先 でした 大 切 な 人 を 失 って 私 としても 無 念 でなりません お 会 いするたびに 当 院 のいく 末 を 案 じておられました 私 としても 上 野 先 生 の 当 院 に 対 する 多 大 な 功 績 を 無 にしないよう 当 院 の 発 展 に 尽 力 することをご 霊 前 にお 約 束 してご 冥 福 をお 祈 りい たします 院 長 吉 武 克 宏 上 野 博 嗣 君 を 悼 む 名 誉 院 長 松 葉 健 生 老 病 死 とはいえ 余 りにも 早 い 別 れではないか 定 年 までを 余 すところ わずかの 頃 突 如 入 院 の 報 に 接 し なんと 驚 いたことであった その 後 選 択 的 動 注 法 による 化 学 療 法 の 治 療 を 受 け 腫 瘍 も 縮 小 し 元 気 な 姿 で 昔 話 を 語 ったのもつ い 先 日 ではなかったのではないか 経 過 が 良 いので あと 二 三 年 は 大 丈 夫 だといって 残 務 の 仕 事 をしていたのではないか 平 成 五 年 四 月 に 大 学 の 整 形 外 科 の 助 教 授 の 役 職 を 擲 って 宇 都 宮 病 院 との 再 編 成 の 調 整 に 岡 本 の 地 を 踏 んで はや 一 三 年 の 月 日 が 過 ぎた 色 々 とあったが 君 の 正 義 感 には 学 ぶところが 多 かった 平 成 五 年 の 七 月 東 宇 都 宮 病 院 への 再 編 成 も 君 のお 陰 であると 常 に 感 謝 を 忘 れることはなかった 多 分 覚 えてくれていたとおもうが 君 には 足 を 向 けて 寝 られないんだよ と 酒 を 酌 み 交 わし 昔 を 語 るとき 何 度 使 った 言 葉 であろうか 酒 といえば 君 はビールをこよなく 愛 した 若 い 頃 には 余 り 飲 めなかったというが 単 身 生 活 の 友 はビールではなかったか しばしば 宿 舎 に 医 局 員 を 呼 び 込 ん では 共 に 医 学 を 語 り 爆 弾 を 落 とし 歴 史 を 語 り ある 時 はトラとなり アイアム ザ ベストになるのが 常 だった 君 は 教 室 の 医 局 長 時 代 から 良 く 若 い 者 の 面 倒 みが 良 かった 上 司 には 噛 みつき 後 輩 には 上 野 節 で 可 愛 がった 上 野 博 嗣 を 囲 む 会 があるのを 自 慢 げに 語 っていたのを 思 い 出 す 反 骨 精 神 は 君 のキーワードの 一 つだ それが 君 の 魅 力 であり 多 くの 人 を 引 きつけたのだ 独 立 行 政 法 人 への 移 行 へのご 苦 労 人 事 問 題 の 心 労 に 耐 え 定 年 を 迎 えた それもつかの 間 病 魔 との 争 いと 君 は 弁 慶 のごとく 生 き 抜 いたのだ 君 の 功 績 を 忘 れるものはいない 上 野 整 形 外 科 の 軌 跡 を 追 い 続 けて 行 くから 安 らかに しばし 眠 ってほしい 重 ねて 君 の 冥 福 を 祈 る 上 野 博 嗣 先 生 あ り が と う ご ざ い ま し た 臨 床 研 究 部 長 田 中 孝 昭 先 生 は 広 島 県 出 身 名 門 修 道 高 校 を 卒 業 後 東 京 慈 恵 会 医 科 大 学 に 入 学 昭 和 41 年 同 校 卒 業 臨 床 研 修 終 了 後 に 大 学 院 ( 整 形 外 科 学 講 座 )に 入 学 された 昭 和 48 年 に 医 学 博 士 を 受 領 され その 後 整 形 外 科 学 講 座 講 師 昭 和 58 年 同 助 教 授 に 就 任 した 専 門 は 足 の 外 科 と 骨 関 節 感 染 症 で 特 にそれまで 困 難 とされていた 骨 髄 炎 動 物 モデルの 作 製 に 成 功 し 多 くの 研 究 業 績 を 残 した 私 が 入 局 した 昭 和 57 年 先 生 は 医 局 長 で 医 者 になって 始 めて 執 刀 した 手 術 の 前 立 ちをしてもらったのを 今 でもよく 覚 えている 当 時 の 整 形 外 科 は 封 建 制 が 強 く 教 授 はもちろん 講 師 以 上 と 研 修 医 が 気 安 く 口 をきくことはできなかったが 上 野 先 生 はいつも 声 をかけてくれた 昭 和 62 年 慈 恵 医 大 柏 病 院 の 開 設 に 伴 い 初 代 医 長 としてその 立 ち 上 げに 大 きく 寄 与 された そうした 実 績 が 認 められたせいか 平 成 5 年 4 月 2つの 療 養 所 の 合 併 準 備 のため 国 立 療 養 所 宇 都 宮 病 院 の 副 院 長 に 就 任 平 成 5 年 7 月 1 日 の 国 立 療 養 所 東 宇 都 宮 病 院 開 設 に 尽 力 された 平 成 9 年 に 院 長 に 就 任 されたが 平 穏 な 日 々は 続 かず 平 成 16 年 には 独 立 行 政 法 人 化 を 経 験 された 大 きな 変 革 の 時 代 に 活 躍 された 先 生 は 持 ち 前 の 行 動 力 と 人 間 関 係 で 見 事 に 仕 事 を 成 し 遂 げられた その 上 野 先 生 から 何 と か 臨 床 研 究 部 と 整 形 外 科 を 再 建 して 欲 しいと 頼 まれ 平 成 13 年 7 月 に 当 院 に 赴 任 した 久 しぶりにまたいっしょに 仕 事 をすることになったが 随 分 お 酒 を 飲 むようになったなというのが 一 番 印 象 に 残 っている 昨 年 12 月 腹 痛 で 緊 急 入 院 され 増 田 先 生 から 診 断 名 を 聞 いたときは 驚 いたが 副 院 長 不 在 の 当 時 2 月 まで 何 とか 院 長 代 行 を 務 めた そ の 後 化 学 療 法 が 功 を 奏 し 再 びお 酒 を 飲 めるまでに 回 復 したが 9 月 8 日 午 後 大 学 の 病 室 で 会 ったときは 酸 素 吸 入 を うけていた いくつかやり 残 したことがあるので 後 はよろしく 頼 むといわれたが まさかそれが 最 後 の 言 葉 になると は 思 ってもいなかった 最 後 まで 病 院 や 我 々 後 輩 のことを 気 にかけてくれた 上 野 博 嗣 先 生 に 感 謝 するとともに 先 生 のご 冥 福 を 祈 ります 追 記 :9 月 25 日 の 管 理 診 療 会 議 の 冒 頭 で 出 席 者 全 員 で1 分 間 の 黙 祷 をおこない 上 野 先 生 のご 冥 福 をお 祈 りいたしました 6
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