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修 平 文 會 報 第 ㈦ 期 民 國 ㈨㈩㈤ 年 ㈨ HSIUPING JOURNAL OF HUMANITIES AND SOCIAL SCIENCES. VOL.7, pp.151-172 (September 2006) 151 朝 鮮 とベトナムの 年 号 についての㆒ 考 察 王 福 順 摘 要 中 国 西 漢 に 始 まった 年 号 の 制 度 は その 後 本 土 の 正 統 国 家 に 受 け 継 がれたのみな らず 周 辺 の 諸 国 ( 朝 鮮 ベトナム)にも 影 響 した 朝 鮮 の 年 号 には 朝 鮮 で 独 立 に 建 てられたものと 中 国 の 年 号 を 尊 重 して 使 った 場 合 とがある 朝 鮮 は 地 理 的 に 中 国 と 陸 続 きであり また 西 漢 の 武 帝 時 代 ( 元 封 3 年 ) 以 来 四 百 年 近 くも 中 国 王 朝 の 直 轄 支 配 を 受 けた それだけに 文 化 的 成 長 は 早 く 遂 げたが 政 治 的 自 立 はかえって 難 しくならざるをえなかったようである ベトナムでも 古 くは 干 支 紀 年 あるいは 王 位 紀 年 が 使 われたと 考 えられるが 漢 代 からの 中 国 支 配 下 では 中 国 の 年 号 を 使 用 した あ る 時 期 に 中 国 からの 自 立 をはかり 独 自 の 年 号 を 立 てたが 1945 年 から 韓 国 と 同 様 最 終 的 に 年 号 も 廃 止 され 西 暦 を 使 用 し 現 在 に 至 っている キーワード: 年 号 朝 鮮 ベトナム 王 福 順 : 修 平 技 術 学 院 応 用 日 語 系 副 教 授 投 稿 日 期 :950313 接 受 刊 登 日 期 :950413

152 修 平 文 會 報 第 ㈦ 期 民 國 ㈨㈩㈤ 年 ㈨ 朝 鮮 和 越 南 年 號 制 度 之 探 討 王 福 順 摘 要 起 源 於 中 國 西 漢 之 年 號 制 度, 爾 後, 不 僅 在 歷 代 正 統 國 家 所 沿 用, 也 影 響 鄰 近 的 國 家 ( 如 朝 鮮 和 越 南 ) 朝 鮮 的 年 號, 大 致 可 區 分 為 獨 自 建 立 的 和 因 尊 重 中 國 而 使 用 的 年 號 兩 種 朝 鮮 在 地 理 上 陸 地 鄰 近 中 國, 而 且 在 西 漢 武 帝 時 代 ( 元 封 3 年 ) 以 來, 將 近 有 四 百 年 受 中 國 王 朝 的 支 配 統 治 也 正 因 為 如 此, 雖 然, 文 化 的 成 長 極 為 快 速, 但 政 治 的 獨 立 反 而 更 顯 得 不 太 容 易 越 南 自 古 以 來 使 用 干 支 紀 年 或 王 位 紀 年, 但 自 漢 代 以 來 因 受 中 國 統 治 而 使 用 中 國 年 號 雖 然, 在 某 時 期, 因 想 要 獨 立 而 建 立 獨 自 的 年 號, 但 1945 年 以 後 到 現 在, 和 韓 國 一 樣, 最 後 也 廢 止 年 號 而 採 用 了 西 曆 關 鍵 詞 : 年 號 朝 鮮 越 南 王 福 順 : 修 平 技 術 學 院 應 用 日 語 系 副 教 授

朝 鮮 とベトナムの 年 号 についての㆒ 考 察 : 王 福 順 153 Ⅰ はじめに 年 号 は 元 号 ともいう 中 国 日 本 などで ある 時 点 から 起 算 して 年 数 を 計 算 するための 特 定 の 称 号 である 年 号 は 中 国 で 起 り 東 アジア 世 界 つまり 漢 字 文 化 圏 で 約 二 千 年 余 広 汎 に 行 なわれてきた 紀 年 法 であり 夥 しい 歴 史 事 象 が 年 号 を 伴 って 記 憶 されている 中 国 の 建 武 中 興 開 皇 之 治 貞 観 之 治 靖 康 之 変 や 日 本 の 大 化 改 新 永 享 の 乱 享 保 の 改 革 明 治 維 新 等 々 例 をあげればきり がない 法 制 史 の 分 野 でも 永 徽 令 開 元 礼 慶 元 条 法 事 類 万 暦 会 典 や 弘 仁 格 延 喜 式 建 新 新 制 明 治 憲 法 など 年 号 は 法 典 を 識 別 呼 称 として 独 特 な 指 標 となっている 時 をどのように 表 記 するかということになると 暦 が 基 準 となるが 周 知 の 如 く 日 本 と 中 国 ともに 近 代 化 の 過 程 で 伝 統 的 な 太 陰 太 陽 暦 ( 農 暦 )から 太 陽 暦 (グレゴリオ 暦 )への 切 替 えが 行 なわれ 日 本 では 明 治 六 年 (1873) 中 国 では 民 国 元 年 (1912)から 欧 米 と 同 一 の 太 陽 暦 を 使 用 している しかるに 中 国 では 辛 亥 革 命 により 二 千 余 年 続 いた 年 号 が 廃 止 されて 民 国 紀 年 となり 今 日 中 華 民 国 ( 台 湾 )ではそれが 使 われ 中 華 民 国 何 年 と 表 示 されている その 一 方 中 華 人 民 共 和 国 では 成 立 (1949) 以 来 紀 年 に 西 暦 を 採 用 して 現 在 に 至 っ ている 日 本 ではグレゴリオ 暦 を 使 用 しつつ 依 然 として1000 年 余 の 年 号 を 襲 用 し 現 代 に 及 んでいるのである 本 稿 の 課 題 は 年 号 を 使 用 する 意 味 をアジア 世 界 における 歴 史 の 中 に 探 り とくに 朝 鮮 とベトナムの 年 号 制 度 を 問 うことにある Ⅱ 朝 鮮 の 年 号 1 朝 鮮 独 自 の 年 号 朝 鮮 の 年 号 には 朝 鮮 独 自 の 年 号 と 中 国 王 朝 の 年 号 を 順 奉 して 使 用 した ものとがある 朝 鮮 は 地 理 的 に 中 国 と 陸 続 きであり また 前 漢 の 武 帝 時 代 ( 元 封 三 年 =B.C.108) 以 来 四 百 年 近 くも 中 国 王 朝 の 直 轄 支 配 を 受 けた それ だけに 文 化 的 成 長 は 早 く 遂 げたが 政 治 的 自 立 はかえって 難 しくならざるを 得 なかったようである

154 修 平 文 會 報 第 ㈦ 期 民 國 ㈨㈩㈤ 年 ㈨ 朝 鮮 でも 始 めは 干 支 紀 年 が 用 いられ 続 いて 王 位 紀 年 が 用 いられたと 考 え られている (1) ここに 独 自 の 年 号 が 現 れるのは 高 句 麗 百 済 新 羅 の 三 国 時 代 である この 三 国 は 四 世 紀 に 入 って 中 国 が 分 裂 状 態 に 陥 ると 相 次 いで 独 立 王 国 を 築 き 互 いに 勢 力 を 競 った そのうち 朝 鮮 北 半 に 拠 点 を 置 いた 高 句 麗 は 四 世 紀 末 か ら 五 世 紀 をかけて 最 も 強 大 であった しかし 六 世 紀 に 入 ると 南 東 部 に 拠 点 を 持 つ 新 羅 が 次 第 に 勢 力 を 伸 ばしてくる やがて 七 世 紀 中 頃 には 新 羅 が 唐 と 手 を 結 んで 西 の 百 済 と 北 の 高 句 麗 とを 攻 め 落 とし 朝 鮮 全 土 の 統 一 に 成 功 した 朝 鮮 では 独 自 の 年 号 が 数 少 なく 新 羅 の 年 号 以 外 は 連 続 建 号 が 少 なく 継 続 使 用 の 年 数 も 長 くない しかし 早 くも 高 句 麗 には 四 世 紀 から 新 羅 には 六 世 紀 から 独 自 の 年 号 の 使 用 が 認 められる 朝 鮮 での 現 存 最 古 の 年 号 は 四 世 紀 末 尾 の 高 句 麗 の 永 楽 であ る 高 句 麗 の 年 号 の 始 まりや 中 国 の 年 号 を 使 用 したかどうかなど ほとんどの 点 が 不 明 である ただ 広 開 土 王 陵 碑 文 に 見 える 永 楽 の 年 号 には 一 つのきわだった 特 色 が 見 られる この 碑 文 には 惟 昔 始 祖 鄒 牟 王 之 創 基 也 出 自 北 夫 余 ( 中 略 ) 四 口 至 十 七 世 孫 国 岡 上 広 開 土 境 平 安 好 太 王 二 九 登 祚 号 為 永 楽 太 王 ( 中 略 ) 以 甲 寅 年 九 月 二 十 九 日 乙 酉 遷 就 山 陵 於 是 立 碑 銘 記 勲 績 以 示 後 世 焉 其 詞 曰 永 楽 五 年 歳 在 乙 未 ( 中 略 ) 倭 以 辛 卯 年 來 渡 海 破 百 残 口 口 新 羅 以 為 臣 民 以 六 年 丙 申 王 躬 率 水 軍 ( 下 略 ) (2) と 記 述 されている この 好 太 王 が 十 八 歳 で 即 位 した 年 (391)に 永 楽 の 年 号 を 建 て 自 ら 永 楽 太 王 と 号 したことは 明 白 である 四 世 紀 末 の 高 句 麗 は 他 の 二 国 に 先 んじて 独 自 の 年 号 を 建 てうるほど 強 大 な 勢 力 を 持 っていたのであろう 百 済 の 年 号 については 忠 清 北 道 忠 州 郡 の 出 土 と 伝 える 金 銅 仏 光 背 に 建 興 五 年 歳 在 丙 辰 仏 弟 子 清 信 女 上 部 口 奄 造 釈 迦 文 像 願 生 生 世 世 見 仏 聞 法 一 切 衆 生 同 此 願 (3) という 五 行 形 式 で 一 行 八 字 の 彫 銘 が 見 られる これによると 建 興 五 年 歳 在 丙 辰 だけしか 見 られない これは 建 の 字 に 別 の 字 をあてる 説 もあって 確 定 し 難 い その 上 この 仏 像 が 六 世 紀 半 葉 から 七 世 紀 初 頭 まで 見 られ この 丙 辰 の 年 次 も536 年 説 と596 年 説 とに 分 かれている このように 百 済 の 年 号 には 独 自 のものがあったらし いと 推 測 できる 程 度 のものしか 見 当 たらない 特 に 中 国 王 朝 との 外 交 貿 易 に 尽 力 し た 百 済 では 高 句 麗 新 羅 にさきだって 中 国 王 朝 の 年 号 を 使 用 する 可 能 性 が 大 きいと (1) 矢 沢 康 祐 元 号 はどうなっているかー 中 国 朝 鮮 ベトナムー 歴 史 地 理 教 育 1976 年 8 月 号 62-65 頁 (2) 大 谷 光 男 古 代 の 暦 日 雄 山 閣 昭 和 51 年 5 月 10 日 229 頁 藤 田 亮 策 朝 鮮 の 年 号 と 紀 年 ( 上 ) 東 洋 学 報 第 41 卷 第 2 号 昭 和 33 年 9 月 17 頁 (3)

朝 鮮 とベトナムの 年 号 についての㆒ 考 察 : 王 福 順 155 思 われる 新 羅 独 自 の 年 号 は 三 国 史 記 年 表 及 び 新 羅 本 紀 に 次 の 七 例 を 挙 げている 以 下 に 表 示 しておこう 新 羅 年 号 西 暦 新 羅 王 代 干 支 中 国 年 号 建 元 元 5 年 536 法 興 王 23 丙 辰 梁 大 同 2 540 真 興 王 元 庚 申 梁 大 同 6 開 国 元 17 年 551 真 興 王 12 辛 未 梁 太 宝 2 大 昌 元 4 年 568 真 興 王 29 戊 子 陳 光 大 2 鴻 済 元 12 年 572 真 興 王 33 壬 辰 陳 太 建 4 576 真 智 王 元 丙 申 陳 太 建 8 579 真 平 王 元 己 亥 陳 太 建 11 建 福 元 50 年 584 真 平 王 6 甲 辰 陳 至 徳 2 632 善 徳 王 元 壬 辰 唐 貞 観 6 仁 平 元 14 年 634 善 徳 王 3 甲 午 唐 貞 観 8 太 和 元 6 年 647 真 徳 王 元 丁 未 唐 貞 観 21 始 行 中 国 年 号 650 真 徳 王 4 庚 戌 唐 永 徽 元 これを 見 ると 建 元 開 国 大 昌 鴻 済 建 福 仁 平 太 和 の 建 号 と 改 元 の 年 次 を 明 記 し 法 興 王 から 真 徳 王 まで 連 続 して 独 自 の 年 号 を 使 用 したことが 判 る 法 興 王 の 建 元 は 三 国 史 記 法 興 王 二 十 三 年 条 に はじめて( 独 自 の) 年 号 を 用 い (こ の 年 号 を) 建 元 元 年 といった (4) とし 三 国 遺 事 王 暦 には 建 元 ( 丙 辰 )( 法 興 王 二 十 三 年 536 年 )この 年 はじめて(この 年 号 を)おき 年 号 はこれよりはじまっ た (5) とあって これ 以 前 の 年 号 が 伝 えられていなかったらしい この 建 元 に 始 ま り 真 興 王 十 二 年 改 元 の 開 国 同 二 十 九 年 の 大 昌 同 三 十 三 年 の 鴻 済 真 平 王 六 年 の 建 福 善 徳 王 三 年 の 仁 平 を 経 て 真 徳 王 元 年 の 太 和 に 至 るまで ほとんど 王 の 治 世 の 中 途 で 改 元 したものばかりであることは 注 目 に 値 する 太 和 は 新 羅 の 最 後 の 独 自 の 年 号 である 真 徳 王 紀 には 元 年 秋 七 月 使 者 を 発 遣 し ( 冊 命 に) 謝 意 を 表 した (この 月 ) 年 号 を 太 和 と 改 めた ( 中 略 ) 二 年 冬 邯 帙 許 を 使 者 とし 唐 に 朝 貢 させ た その 時 太 宗 は 御 史 を 通 じて ( 次 のような) 下 問 があった 新 羅 は 大 朝 ( 唐 )に (4) 井 上 秀 雄 訳 注 三 国 史 記 1 平 凡 社 1980 年 2 月 29 日 103 頁 朝 鮮 史 の 三 国 史 記 卷 四 新 羅 王 本 紀 四 法 興 王 には 二 十 三 年 始 称 年 号 云 建 元 元 年 と 見 える (5) 金 思 燁 訳 三 国 遺 事 六 興 出 版 昭 和 55 年 12 月 10 日 22 頁 朝 鮮 史 の 三 国 遺 事 王 暦 には 新 羅 第 二 十 三 法 興 王 建 元 丙 辰 ( 是 年 始 置 年 号 始 此 ) と 記 されている

156 修 平 文 會 報 第 ㈦ 期 民 國 ㈨㈩㈤ 年 ㈨ 臣 として 仕 えているのに どうして 別 な 年 号 を 称 しているのか これに 答 えて 邯 帙 許 は( 次 のように) 言 った いまだかつて 天 朝 ( 唐 )は 暦 を( 新 羅 に) 頒 ち 与 えた ことがありません そのため 先 祖 の 法 興 王 以 来 勝 手 に 年 号 を 使 っています もし 大 朝 から 命 令 があるならば わが 国 はどうしてあえてこれに 反 対 しましょうか 太 宗 は ( 邯 帙 許 の 話 を)もっともだと 認 めた ( 中 略 ) 三 年 春 正 月 はじめて 中 国 の 衣 冠 を 着 ることになった ( 中 略 ) 四 年 この 歳 はじめて 中 国 の 年 号 である 永 徽 の 年 号 を 用 いた (6) と 見 えるように 真 徳 王 四 年 (650)に 中 国 の 正 朔 を 受 け 唐 の 年 号 を 使 用 して 以 後 新 羅 王 に 独 自 の 年 号 はない この 推 移 を 見 れば 法 興 王 以 来 せっかく 独 自 の 年 号 を 建 て 続 けてきた 新 羅 も 太 宗 の 一 喝 に 恐 れをなして 中 国 の 年 号 に 切 り 替 えてしまったのである 今 日 の 感 覚 では これをいかにも 不 当 な 干 渉 のように 思 う 人 があるに 違 いない ところが 三 国 史 記 の 編 者 の 金 富 軾 は かりそめにも 時 流 に 乗 じて 次 と 国 を 起 こしたり 両 国 が 対 立 して 天 下 を 争 ったり 姦 智 にたけた 者 たちが 間 隙 に 乗 じて 国 を 作 り ( 天 子 の 印 としての) 神 器 を 望 み 願 ったりするものでなければ 辺 境 にある 小 国 で も 天 子 に 臣 下 として 仕 えるものは 勝 手 に 年 号 を 称 してはならない もし 新 羅 が 二 心 なく 中 国 に 仕 えるならば 貢 物 の 筺 (を 乗 せた 船 )が 途 中 で( 前 の 船 を) 望 み 見 られる(ほどあいついで) 航 海 させなければならない そうであるのに 法 興 王 が 勝 手 に 年 号 を 称 した (これは) 惑 ったためであろう その 後 も 誤 ちをひきつぎ 間 違 いを 続 け 多 くの 年 月 を 経 てきた 唐 の 太 宗 が 責 めとがめるのを 聞 いても なおぐず ぐずためらっていた このとき 以 後 唐 の 年 号 を 奉 ずるようになった ( 知 らないこ とで)やむをえないこととはいえ そもそも 誤 ちをよく 改 めたというべきであろう (7) とむしろ 法 興 王 らが 独 自 の 年 号 を 建 てたことは 惑 いであり 過 ちだと 非 難 してい る その 理 由 は 同 じく 金 富 軾 が 夏 商 周 三 代 が 暦 を 変 え 後 代 になって 年 号 を (6) (7) 前 掲 注 (4) 145-150 頁 朝 鮮 史 の 三 国 史 記 卷 五 新 羅 本 紀 五 真 徳 王 には 二 年 冬 使 邯 帙 許 朝 唐 太 宗 勅 御 史 問 新 羅 臣 事 大 朝 何 以 別 称 年 号 帙 許 言 曾 是 天 朝 未 頒 正 朔 是 故 先 祖 法 興 王 以 来 私 有 紀 年 若 太 朝 有 命 小 国 又 何 敢 焉 太 宗 然 之 ( 中 略 ) 三 年 春 正 月 始 服 中 朝 衣 冠 ( 中 略 ) 四 年 是 歳 始 行 中 国 永 徽 年 号 とある 同 上 150-151 頁 朝 鮮 史 の 三 国 史 記 卷 五 新 羅 本 紀 五 真 徳 王 には 論 曰 三 代 更 正 朔 後 代 称 年 号 皆 所 以 大 一 統 新 百 姓 之 視 聴 是 故 苟 非 乗 時 並 起 両 立 而 争 天 下 与 夫 姦 雄 乗 間 而 作 覬 覦 神 器 則 偏 方 小 国 臣 属 天 子 之 邦 者 固 不 可 以 私 名 年 若 新 羅 為 一 意 事 中 国 使 航 貢 筺 相 望 於 道 而 法 興 自 称 年 号 惑 矣 厥 後 承 愆 襲 繆 多 歴 年 所 聞 太 宗 之 誚 譲 猶 且 因 循 至 是 然 後 奉 行 唐 号 雖 出 於 不 得 已 而 抑 可 謂 過 而 能 改 者 矣 と 述 べている

朝 鮮 とベトナムの 年 号 についての㆒ 考 察 : 王 福 順 157 称 するようになった みな 統 一 をより 拡 大 し 人 の 視 聴 をあらたにするためのもの である このような 理 由 から ( 中 略 ) 天 子 に 臣 下 として 仕 えるものは 勝 手 に 年 号 を 称 してはならない (8) と 述 べている つまり 中 国 王 朝 を 中 国 と 称 し 天 子 に 臣 下 として 仕 えるもの と 仰 ぐ 新 羅 としては その 年 号 を 順 奉 するのが 当 然 であって 勝 手 に 独 自 の 年 号 を 建 てるべきではないというのである このような 考 え 方 は 高 麗 や 李 氏 朝 鮮 の 時 代 にも 為 政 者 の 常 識 であったらしい 三 国 時 代 の 高 句 麗 百 済 新 羅 は 中 国 に 勃 興 する 歴 代 の 大 勢 力 国 家 に 対 し 時 に 朝 貢 と 称 して 使 者 を 派 遣 させ あるいは 学 問 技 芸 を 学 んでいたが 自 国 の 独 立 を 妨 害 さ れたり 王 位 に 関 与 されることはなかった これは 日 本 も 新 羅 も 独 立 国 として 遣 隋 遣 唐 の 使 節 を 送 っていたためで 決 して 大 国 の 属 国 であり その 一 部 であると 考 えてい なかった 朝 貢 は 外 交 儀 礼 であり 一 種 の 公 貿 易 でもあった ただ 天 下 一 統 思 想 の 影 響 もあったであろうが 強 国 の 傘 下 に 自 国 の 安 全 と 繁 栄 を 図 ったもので 事 大 思 想 と 相 通 ずるものがある 事 大 とは 大 に 事 える 意 味 で 弱 小 を 順 撫 する 意 味 の 字 小 と 対 比 される 概 念 である 王 氏 高 麗 時 代 は 宋 遼 金 元 明 と 相 次 いで 大 勢 力 の 前 に 屈 服 する 運 命 にあり 事 大 の 思 想 が 浸 潤 し 文 献 にもしばしば 表 われている 例 えば 高 麗 史 仁 宗 丙 午 四 年 三 月 条 に 百 官 を 集 めて 金 国 に 臣 事 することの 可 否 を 議 論 した 際 李 資 謙 拓 俊 京 が 小 を 以 て 大 に 事 うるは 先 王 の 道 宜 しく 先 ず 使 を 遣 して 聘 問 すべ し (9) と 言 ったとあるが 当 時 の 人 の 事 大 思 想 を 言 い 尽 くしている 靖 宗 乙 亥 元 年 六 月 契 丹 に 使 した 陳 情 書 の 中 に 伏 して 想 うに 今 の 皇 上 字 小 の 情 深 くして 卑 を 聴 すの 道 広 し (10) と 言 ったことも 同 一 の 思 想 で これに 類 する 字 句 は 高 麗 史 に 極 めて 多 い 新 羅 後 期 は 王 位 を 争 う 叛 乱 が 絶 えなかったが 三 国 史 記 憲 徳 王 紀 十 四 年 三 月 条 には 熊 川 州 都 督 ( 金 ) 憲 昌 は 父 の 周 元 が 王 になれなかったことを 理 由 に 反 乱 をおこした ( 新 ) 国 を 長 安 といい ( 新 しい) 元 号 を 用 いて 慶 雲 元 年 とした (8) 同 上 150-151 頁 (9) 高 麗 史 仁 宗 元 年 六 月 庚 午 条 に 王 答 曰 ( 中 略 ) 況 我 先 考 以 礼 事 大 以 忠 述 職 雖 在 海 外 心 常 在 於 王 室 とあり また 仁 宗 四 年 三 月 辛 卯 条 に 独 李 資 謙 拓 俊 京 曰 金 昔 為 小 国 事 遼 及 我 今 既 暴 興 滅 遼 与 宋 政 修 兵 強 日 以 強 大 又 与 我 境 壌 相 接 勢 不 得 不 事 且 以 小 事 大 先 王 之 道 宜 先 遣 使 聘 問 従 之 と 記 されている (10) 高 麗 史 靖 宗 元 年 六 月 条 に 是 月 寧 徳 鎮 廻 牒 契 丹 來 遠 城 云 ( 中 略 ) 伏 想 今 皇 上 字 小 情 深 聴 卑 道 広 ( 下 略 ) と 見 える

158 修 平 文 會 報 第 ㈦ 期 民 國 ㈨㈩㈤ 年 ㈨ (11) とあるように 822 年 に 叛 いた 金 憲 昌 が 国 号 を 長 安 とし 年 号 を 慶 雲 (822)と 改 め た また901 年 に 自 立 して 後 高 句 麗 国 と 称 した 弓 裔 及 びその 後 を 受 けた 王 建 らは 以 下 のような 国 名 と 年 号 を 使 用 していた 国 名 年 号 西 暦 干 支 末 年 西 暦 ( 後 高 句 麗 国 ) 弓 裔 称 王 901 辛 酉 摩 震 国 武 泰 元 年 904 甲 子 聖 冊 元 年 905 乙 丑 聖 冊 六 年 910 泰 封 国 水 徳 万 歳 元 年 911 辛 未 水 徳 万 歳 三 年 913 政 開 元 年 914 甲 戌 政 開 四 年 917 高 麗 国 天 授 元 年 918 戊 寅 天 授 十 六 年 933 光 徳 元 年 949 己 酉 光 徳 四 年 952 弓 裔 から 王 建 にひきつがれる 時 期 は 後 三 国 時 代 とも 言 われ 戦 乱 にあけくれる 時 期 である 年 号 の 光 徳 を 除 くと 前 述 の 慶 雲 とともに 六 例 の 年 号 がいずれも 敵 対 国 を 朝 鮮 半 島 内 部 にもっていたことで 共 通 する この 時 期 の 朝 鮮 独 自 の 年 号 が 中 国 の 年 号 と 対 立 的 な 関 係 で 使 用 されたと 見 るよりは 中 国 王 朝 の 年 号 を 使 用 している 新 羅 王 朝 に 対 する 自 立 意 識 を 表 現 したものかもしれない また 弓 裔 が 王 を 自 称 した 年 や 摩 震 国 を 建 国 した 年 の 干 支 を 見 ると 辛 酉 甲 子 の 年 で 讖 緯 思 想 による 革 命 革 令 の 年 を 意 識 的 に 取 りあげている また 水 徳 万 歳 の 年 号 もこれに 関 連 するものと 言 えよう ま た 高 麗 国 の 年 号 天 授 はこれより 広 い 意 味 ではあるが 神 政 的 要 素 を 強 調 したものと 見 てさしつかえなかろう 李 氏 朝 鮮 の 五 百 年 はもっぱら 明 の 洪 武 以 下 の 年 号 を 順 奉 し 清 朝 の 始 めは 一 時 的 に 明 清 両 暦 の 使 用 に 混 乱 を 見 せたが 外 交 文 書 にだけ 清 の 崇 徳 順 治 を 用 い 康 熙 以 後 に 至 り 清 の 年 号 が 民 間 にも 行 われた その 外 交 文 書 の 関 係 記 事 の 例 として 崇 徳 の 順 奉 について 朝 鮮 史 朝 鮮 仁 祖 十 五 年 正 月 二 十 八 日 条 ( 明 ノ 年 号 ヲ 去 ル)に 竜 骨 大 清 帝 ノ 書 ヲ 持 シテ 来 ル 其 書 曰 ク 寛 温 仁 聖 皇 帝 朝 鮮 国 王 ニ 詔 諭 ス( 中 略 ) 爾 若 シ 過 ヲ 悔 イテ 自 新 シ 恩 徳 ヲ 忘 レズ 委 身 帰 命 以 テ 子 孫 長 久 ノ 計 ヲ 為 サバ 則 チ 明 朝 所 与 ノ 誥 命 冊 印 ヲ 献 納 シテ 其 交 好 ヲ 絶 チ 其 年 号 ヲ 去 リテ 我 ガ 正 朔 ヲ 奉 ジ ( 下 略 ) (12) とあり 順 治 の 順 奉 について 朝 鮮 史 朝 鮮 孝 宗 六 年 六 月 二 十 (11) 前 掲 注 (4) 337 頁 朝 鮮 史 の 三 国 史 記 憲 徳 王 紀 十 四 年 三 月 条 には 是 月 熊 川 州 都 督 憲 昌 父 周 元 ノタツヲ 得 ザリシヲ 恨 ミ 兵 ヲ 挙 ゲテ 叛 シ 国 ヲ 長 安 ト 号 シ 元 ヲ 慶 元 ト 建 ツ と 記 されてい る

朝 鮮 とベトナムの 年 号 についての㆒ 考 察 : 王 福 順 159 二 日 条 ( 順 治 年 号 ノ 行 用 )に 王 教 シテ 曰 ク 通 信 史 日 本 ニ 到 リ 凡 ソ 文 書 酬 酢 ノ 際 順 治 ノ 年 号 ヲ 用 フ 可 カラズ 廟 堂 ヲシテ 之 ヲ 議 セシメヨト 備 局 以 ヘラク 許 積 慶 尚 監 司 ト 為 リ 既 ニ 已 ニ 倭 差 平 成 幸 ニ 言 及 セリ 今 ニ 至 リテ 更 諱 ス 可 カラズ ト (13) と 見 える すなわち 朝 鮮 王 朝 の 末 期 に 清 朝 からの 自 立 と 日 本 をはじめとする 列 強 の 侵 略 に 対 応 して 朝 鮮 の 自 立 を 主 張 しようとする 動 きが 強 まった その 一 つと して 以 下 のような 朝 鮮 独 自 の 年 号 の 制 定 や 朝 鮮 王 朝 の 紀 年 を 使 用 を 使 用 することが 行 われた 朝 鮮 年 号 ( 紀 年 ) 朝 鮮 王 代 西 暦 干 支 日 本 年 号 開 国 503 年 高 宗 31 年 1894 甲 午 明 治 27 年 開 国 504 年 高 宗 32 年 1895 乙 未 明 治 28 年 建 陽 元 年 高 宗 33 年 1896 丙 申 明 治 29 年 光 武 元 年 高 宗 34 年 1897 丁 酉 明 治 29 年 隆 煕 元 年 純 宗 元 年 1907 丁 未 明 治 40 年 隆 煕 4 年 純 宗 4 年 1910 戊 戌 明 治 43 年 これを 見 ると 李 太 王 の 甲 午 (1894)に 開 国 紀 年 を 用 い 丙 申 (1896)に 太 陽 暦 を 用 いて 建 陽 の 年 号 を 建 てたのは 朝 鮮 が 清 朝 の 属 国 に 非 ざることを 内 外 に 公 示 し たものであった 丁 酉 (1897) 八 月 に 国 を 韓 国 と 号 し 光 武 と 改 元 した 光 武 十 一 年 (1907) 八 月 に 隆 煕 と 改 め 四 年 (1910)の 八 月 に 及 んでいる 以 上 が 朝 鮮 半 島 にお ける 建 号 の 最 後 である しかし1910 年 の 日 韓 併 合 によってそれも 廃 止 され 1945 年 ま で 日 本 の 年 号 使 用 を 強 制 された 明 治 大 正 昭 和 の 年 号 は 朝 鮮 民 族 にとって 日 本 の 植 民 地 支 配 を 意 味 したのである 1945 年 の 日 本 の 敗 戦 から 韓 国 は 西 暦 を 用 いること になり 朝 鮮 民 主 主 義 人 民 共 和 国 も 西 暦 を 使 用 しているようになる 以 上 のように 朝 鮮 独 自 の 年 号 が 最 初 に 使 用 されたのは 高 句 麗 百 済 新 羅 三 国 の 対 立 抗 争 時 代 ( 年 号 は 別 )であり ついで 822 年 金 憲 昌 が 新 羅 に 反 抗 して 長 安 国 を 建 てた 時 である さらに 十 世 紀 前 半 の 後 三 国 時 代 の 摩 震 国 泰 封 国 高 麗 国 時 代 に も 独 自 の 年 号 があり 最 後 はその 後 千 年 を 経 て 十 九 世 紀 末 期 から 二 十 世 紀 初 頭 にか けて 国 号 を 大 韓 民 国 と 改 めた 時 である これら 独 自 の 年 号 の 使 用 を 従 来 の 諸 説 で は 朝 鮮 の 中 国 王 朝 に 対 抗 する 自 主 意 識 の 現 われと 言 われてきたが 具 体 的 な 例 に 則 し (12) 朝 鮮 史 第 5 編 第 2 卷 東 京 大 学 出 版 会 昭 和 61 年 12 月 5 日 441 頁 (13) 朝 鮮 史 第 5 編 第 3 卷 東 京 大 学 出 版 会 昭 和 61 年 12 月 5 日 519 頁

160 修 平 文 會 報 第 ㈦ 期 民 國 ㈨㈩㈤ 年 ㈨ て 考 えれば その 大 半 が 朝 鮮 内 部 の 抗 争 期 である 三 国 時 代 と 後 三 国 時 代 とに 集 中 して いる このことから 独 自 の 年 号 は 対 外 的 に 朝 鮮 の 自 主 意 識 を 現 わすと 見 るよりは 朝 鮮 内 部 の 対 立 国 に 対 する 自 主 意 識 と 見 るほうがよいのではなかろうか 高 麗 初 期 の 年 号 光 徳 の 場 合 も 形 式 的 には 高 麗 が 朝 鮮 を 統 一 した 後 のことではあるが 実 質 的 に は 新 政 権 の 基 が 定 まったとは 言 えない 時 期 である この 時 期 は 中 国 は 五 代 末 の 混 乱 期 であり 満 州 でも 遼 が 隆 盛 になったとは 言 え 高 麗 と 対 立 する 状 態 ではなかった こ のような 状 況 から 見 ても 光 徳 の 建 元 はより 基 本 的 には 高 麗 国 内 部 に 対 するものと 見 てよいのでなかろうか 1894 年 の 開 国 紀 年 の 使 用 は 甲 午 改 革 の 一 端 で 清 朝 からの 自 立 を 標 榜 したもので あるが この 時 は 日 清 戦 争 直 前 で 大 量 の 清 軍 が 朝 鮮 に 駐 留 していた このことに 反 発 したものと 見 れば その 後 日 本 軍 の 駐 留 が 続 いたのに 対 応 して 開 国 紀 年 や 朝 鮮 独 自 の 年 号 を 使 用 したのと 同 様 の 理 由 づけが 考 えられよう 高 麗 以 前 の 独 自 の 年 号 の 使 用 は 朝 鮮 内 部 の 政 治 抗 争 に 対 応 して 生 まれた 近 代 の 場 合 は 外 国 の 軍 隊 が 朝 鮮 内 部 に 駐 留 することに 反 発 して 独 自 の 年 号 を 建 てたと 見 れば 前 者 と 共 通 したものになるの ではなかろうか すなわち 朝 鮮 内 部 に 政 治 的 対 立 が 生 じた 時 その 対 立 者 に 対 する 自 主 意 識 を 表 明 する 一 つの 手 段 として 独 自 の 年 号 が 建 てられたと 見 てよいのでなか ろうか さらに 言 えば 朝 鮮 の 支 配 者 は 政 治 的 に 対 立 するものを 外 国 に 求 めるのでな く 朝 鮮 内 部 にあるものと 対 決 することが 多 い この 傾 向 が 朝 鮮 独 自 の 年 号 を 設 置 す る 時 にもよく 現 われていると 言 えよう 2 中 国 年 号 の 使 用 朝 鮮 で 使 用 した 年 号 は 多 く 中 国 王 朝 の 年 号 であった それは 新 羅 以 来 朝 鮮 の 統 一 王 朝 は 中 国 王 朝 や 満 州 蒙 古 の 諸 王 朝 に 臣 従 してきたからである 朝 鮮 の 王 朝 が 臣 従 したことについては 井 上 秀 雄 氏 の 研 究 (14) によれば いくつかの 理 由 が 考 えられ る 第 一 の 理 由 は 強 大 な 軍 事 力 を 擁 し 朝 鮮 半 島 に 出 兵 して 朝 鮮 の 政 治 状 況 を 武 力 で 変 更 させることがしばしばあったためである 古 くは 漢 から 晋 に 及 ぶ 朝 鮮 の 郡 県 設 置 があり 七 世 紀 後 半 の 新 羅 統 一 戦 争 には 新 羅 は 初 め 唐 と 連 合 し のちこれと 対 戦 することになった 高 麗 朝 では 再 度 の 契 丹 の 侵 入 三 十 五 年 に 及 ぶモンゴルの 軍 事 支 配 朝 鮮 王 朝 では 再 度 にわたる 清 の 侵 入 等 を 挙 げることができる このような 中 国 ないしは 北 方 の 強 国 が 長 期 にわたって 軍 事 勢 力 を 背 景 に 植 民 地 的 な 支 配 を 強 行 した (14) 鈴 木 武 樹 元 号 を 考 える 現 代 評 論 社 1979 年 3 月 1 日 43-68 頁

朝 鮮 とベトナムの 年 号 についての㆒ 考 察 : 王 福 順 161 朝 鮮 の 諸 王 朝 ではこのような 事 態 をできるだけ 避 けるため 強 大 国 に 臣 従 することに した 第 二 の 理 由 は 朝 鮮 内 部 の 事 情 である 例 えば 三 国 時 代 の 抗 争 で 苦 境 に 立 たさ れた 新 羅 が 唐 に 救 援 を 求 めている また 朝 鮮 王 朝 に 際 しては 親 元 派 と 親 明 派 とが 対 立 し 明 軍 討 伐 のために 遼 東 に 派 遣 された 高 麗 軍 が 朝 鮮 王 朝 の 太 祖 李 成 桂 の 指 導 のも と 鴨 緑 江 河 口 の 咸 化 島 で 反 旗 をひるがえし 明 国 に 臣 従 して 朝 鮮 王 朝 を 建 てた 朝 鮮 での 王 朝 政 治 は 武 力 を 排 し 文 事 を 重 んじたため 中 国 王 朝 の 動 向 には 極 めて 敏 感 であった 中 国 王 朝 に 臣 従 することによって 王 朝 内 部 に 安 定 した 勢 力 を 作 り 出 すこ とができた その 反 面 朝 鮮 の 王 朝 が 中 国 王 朝 に 臣 従 する 証 として 中 国 の 年 号 を 使 用 することになった このような 事 情 を 示 す 一 例 として 新 羅 がはじめて 中 国 の 年 号 を 使 用 するように なった 事 情 を 略 述 しておきたい 六 世 紀 後 半 新 羅 の 勢 力 は 大 いに 拡 大 したが 七 世 紀 に 入 ると 高 句 麗 百 済 の 反 撃 を 受 け 次 第 に 窮 地 に 追 い 込 まれた 642 年 百 済 が 加 羅 地 方 に 進 出 し 翌 年 には 高 句 麗 と 百 済 の 連 合 軍 が 大 挙 して 新 羅 を 侵 入 しようとし たので 新 羅 は 唐 に 救 援 を 求 めた 三 国 史 記 新 羅 本 紀 善 徳 王 十 二 年 (643) 秋 九 月 条 によると 唐 の 太 宗 は 一 策 として 次 のような 提 案 をした 百 済 国 は 海 の 要 害 をたのみとし 兵 器 を 充 分 に 備 えず 男 女 の 別 が 乱 れており 互 いに 集 まり 楽 しんでいます (このように 備 えのない 百 済 にたいし )わが 唐 軍 が 七 八 十 隻 の 船 に 武 装 した 兵 士 たちを 乗 せ 口 に 枚 を 含 んで ひそかに 海 にでて その 地 を 直 接 襲 撃 しましょう (しかしこの 場 合 でも )あなたの 国 では 婦 人 が 王 に なっているので 隣 国 から 軽 んじ 侮 られ (その 結 果 やがて) 王 を 失 い いつまで も 侵 略 がつづき 安 らかな 年 がなくなってしまいます (そこで) 私 は 一 族 の 者 を 派 遣 して あなたの 国 の 王 としましょう そうすれば 王 一 人 だけでゆくわけにはゆき ませんから 当 然 ( 唐 から) 軍 隊 を 派 遣 し 守 らせましょう (その 後 )あなたの 国 が 平 安 になるのを 待 って あなたたちが 自 分 で 防 衛 するのにまかせましょう ( 下 略 ) (15) この 提 案 は 新 羅 にとって 極 めて 重 大 な 政 治 問 題 で 安 易 に 実 行 できるものではな (15) 前 掲 注 (4) 141 頁 朝 鮮 史 の 三 国 史 記 新 羅 本 紀 善 徳 王 十 二 年 秋 九 月 条 には 百 済 国 恃 海 之 険 不 修 機 械 男 女 紛 雑 互 相 燕 聚 我 以 数 十 百 船 載 以 甲 卒 銜 枚 泛 海 直 襲 其 地 爾 国 以 婦 人 為 主 為 隣 国 軽 侮 失 主 延 冦 靡 歳 休 寧 我 遣 一 宗 枝 与 為 爾 国 主 而 自 不 可 独 王 当 遣 兵 営 護 待 爾 国 安 任 爾 自 守 ( 下 略 ) とある

162 修 平 文 會 報 第 ㈦ 期 民 國 ㈨㈩㈤ 年 ㈨ かった しかし その 後 の 高 句 麗 百 済 の 新 羅 侵 入 はすさまじく 王 都 慶 州 からわず か 十 数 キロの 地 点 まで 百 済 軍 が 押 し 寄 せてきたことさえあった そこでこの 唐 の 太 宗 の 提 案 が 新 羅 の 貴 族 会 議 でも 取 りあげられ 647 年 に 貴 族 会 議 で 女 王 の 廃 位 を 決 定 し た しかし この 貴 族 会 議 の 決 定 に 反 対 する 地 方 豪 族 や 下 級 貴 族 たちが 善 徳 女 王 を 擁 護 して 貴 族 会 議 と 対 決 し 貴 族 軍 を 討 ち 破 って 女 王 を 守 りとおした この 内 乱 を 契 機 に 新 羅 の 貴 族 政 治 は 急 速 に 衰 え 王 権 を 中 心 とする 律 令 政 体 が 次 第 に 確 立 していった 一 方 対 外 関 係 では 唐 の 王 族 を 新 羅 王 にはしなかったが 唐 の 政 治 体 制 を 導 入 して 唐 との 連 合 体 制 を 強 化 する 方 針 が 取 られた その 一 環 として 中 国 の 年 号 を 使 用 することになったのである 換 言 すれば 新 羅 は 高 句 麗 百 済 の 連 合 軍 の 猛 攻 を 受 け 王 都 慶 州 さえ 奪 われようとしていた この 状 況 を 打 開 するため 唐 の 救 援 を 求 めなければならなかったが 唐 はこれを 機 会 に 新 羅 支 配 をもくろんでい た 新 羅 にとって 危 険 な 唐 ではなかったが その 支 援 なしには 当 面 の 困 難 を 切 り 抜 けることができなかった 当 面 の 打 開 策 として 唐 の 王 族 を 新 羅 王 にすることは 拒 否 したものの 唐 朝 への 臣 従 を 一 層 明 確 に 打 ち 出 さなければならなかった また 前 述 の 内 乱 で 貴 族 勢 力 を 押 さえたとは 言 え 貴 族 の 権 威 は 依 然 として 強 く 唐 の 後 援 なし には 新 羅 王 が 貴 族 勢 力 を 押 さえることができなかった そのため 新 羅 王 は 積 極 的 に 唐 の 冊 封 を 受 け 唐 の 正 朔 を 奉 じ その 年 号 を 使 用 することになった その 後 も 新 羅 高 麗 朝 鮮 三 王 朝 ( 高 麗 の 中 国 年 号 の 順 奉 は 別 表 一 参 照 )では ほぼ 中 国 の 年 号 を 使 用 するのであるが これは 単 に 外 交 礼 儀 国 際 関 係 のみに 原 因 があるのでな く より 根 本 的 には 貴 族 層 に 根 強 く 広 がっている 事 大 思 想 に 支 えられたものと 言 え よう 新 羅 では650 年 以 降 唐 の 年 号 を 採 用 したとは 言 え これを 一 般 日 常 生 活 に 使 用 し たわけではない 中 国 年 号 の 使 用 は 主 として 外 交 文 書 であり 寺 院 関 係 の 儀 式 ばった 書 式 に 使 用 された 三 国 史 記 三 国 遺 事 などでは 某 王 の 何 年 と 記 し 民 間 の 金 石 文 では 干 支 のみを 使 用 しており 日 常 生 活 では 中 国 年 号 はあまり 使 用 されな かった この 点 では 高 麗 朝 鮮 両 王 朝 でも 同 様 で 中 国 年 号 が 朝 鮮 社 会 で 広 く 使 用 さ れていたと 見 るのは 誤 りである それは 外 交 上 の 記 載 法 であり 貴 族 の 慕 華 事 大 思 想 の 表 現 として 受 け 取 る 必 要 があると 考 えられる 次 に 高 麗 朝 の 避 諱 年 号 を 検 討 しておこう 避 諱 年 号 とは 高 麗 王 の 諱 と 年 号 名 とが 重 なる 時 年 号 名 を 他 の 文 字 に 変 えることである 新 羅 高 麗 では 中 国 の 皇

朝 鮮 とベトナムの 年 号 についての㆒ 考 察 : 王 福 順 163 帝 や 自 国 の 国 王 の 諱 を 避 ける 風 があり 地 名 人 名 だけでなく 日 常 の 文 字 も 他 の 文 字 に 変 えたり 欠 字 にすることが 多 い 中 国 の 年 号 は 中 国 の 皇 帝 の 諱 は 避 けている が 朝 鮮 の 王 の 諱 は 避 けていない そのため 高 麗 では 後 漢 の 年 号 建 安 (196)を 立 安 に 北 宋 の 年 号 建 隆 (960)を 峻 豊 に 遼 の 年 号 寿 隆 (1095)を 寿 昌 南 宋 の 年 号 建 炎 (1127)を 立 炎 に 金 の 年 号 正 隆 (1156)を 正 豊 に 元 の 年 号 至 治 (1321)を 至 理 に 改 めている これは 高 麗 太 祖 の 諱 が 建 で 太 祖 の 父 世 祖 の 諱 が 隆 で 第 五 代 成 宗 の 諱 が 治 であるためである その 内 峻 豊 の 年 号 は 古 くから 朝 鮮 独 自 の 年 号 と 見 られている が 今 西 龍 氏 の 研 究 (16) によって 建 隆 の 避 諱 年 号 であることが 確 かめられた Ⅲ ベトナムの 年 号 年 号 を 考 える 前 にベトナムの 王 朝 史 を 簡 略 にふりかえっておこう 前 漢 の 武 帝 が 元 鼎 六 年 (111)に 南 越 を 滅 して 設 置 した 九 郡 の 中 で 交 趾 九 真 日 南 の 三 郡 がベト ナムの 地 にあったことは 明 らかであり その 後 漢 では 交 趾 刺 史 を 設 けて 監 察 を 行 うよ うになり 唐 の 末 まで 約 十 世 紀 の 間 中 国 の 支 配 が 続 いたのである だが 唐 末 五 代 の 間 に 中 国 から 離 脱 し 独 立 国 を 建 設 した 939 年 土 人 の 呉 権 が 王 位 につき ついで966 年 には 丁 部 領 が 皇 帝 を 称 したが 当 時 はまだ 持 続 的 王 朝 を 建 設 するにいたらず そ の 死 後 には 黎 桓 が 帝 位 を 奪 い(980) またその 死 後 には 李 公 温 が 黎 氏 の 王 朝 を 倒 して 即 位 した(1009) 李 朝 はベトナム 最 初 の 持 続 的 王 朝 で ハノイ( 昇 竜 )を 都 とし 諸 制 度 を 定 め 後 国 号 を 大 越 と 号 した またこの 王 朝 の 全 盛 期 には 宋 の 侵 入 軍 を 撃 退 して 独 立 を 固 め また 南 隣 チャンパを 攻 めて その 北 部 領 土 を 奪 った 1225 年 李 朝 が 倒 れ 陳 朝 が 興 ったが 陳 朝 時 代 には 三 度 にわたる 蒙 古 軍 の 侵 入 を 撃 退 した 1400 年 陳 朝 の 衰 微 に 乗 じて 黎 季 釐 が 帝 位 奪 ったが 明 の 永 楽 帝 はこれを 機 会 に 陳 朝 復 興 を 名 として ベトナムを 犯 し 黎 季 釐 らを 捕 え 一 時 にこれを 中 国 に 併 合 した しかしや がて 反 乱 が 起 り 黎 利 は 明 軍 を 撃 退 して ベトナムの 独 立 を 回 復 させ 新 王 朝 を 建 てた (1428) 黎 朝 の 前 半 時 代 は ベトナムの 国 勢 が 大 いにふるい チャンパを 伐 ってこ れを 滅 ぼしたがその 後 は 衰 え 1527 年 には 莫 登 庸 が 帝 位 を 奪 い 以 後 1592 年 までハノ イは 莫 氏 の 治 下 にあった これよりさき 黎 朝 はまもなく 復 興 したが 政 治 は 権 臣 鄭 阮 両 氏 に 委 ねられ かつこの 両 氏 は17 18 世 紀 時 代 ベトナムを 南 北 に 分 って 互 いに 抗 争 した しかしこの 間 にベトナムの 領 域 は 南 に 伸 びてコーチシナ 地 方 に 及 んだ そ (16) 今 西 龍 寿 隆 の 年 号 に 就 て 故 平 子 尚 氏 の 所 説 を 紹 介 す 考 古 学 雑 誌 第 1 卷 第 10 号 明 治 44 年 6 月

164 修 平 文 會 報 第 ㈦ 期 民 國 ㈨㈩㈤ 年 ㈨ の 後 1771 年 には タイソン 党 の 乱 が 起 り 鄭 阮 両 氏 はもとより 最 後 に 黎 朝 も 滅 んだ が(1789) 1802 年 には 阮 福 映 がベトナムを 統 一 して 阮 朝 を 興 し ユエを 都 とし 国 号 を 越 南 と 改 めた しかしこの 世 紀 の 後 半 にはフランスの 侵 略 を 受 け 1883 年 には その 保 護 国 にされた かくてベトナムはフランス 領 インドシナの 一 部 となったが 第 一 次 大 戦 後 にはベトナム 人 の 反 仏 独 立 運 動 が 盛 んになり 第 二 次 大 戦 後 にいたって 阮 朝 最 後 の 皇 帝 バオダイも 退 位 し ホー チ ミンを 主 体 とするベトナム 民 主 共 和 国 が ハノイを 首 府 として 成 立 し フランスからの 独 立 が 実 現 した(1945) ついで1950 年 ベトナム 国 ( 後 のベトナム 共 和 国 )がサイゴンを 首 府 として 建 てられたが この 両 者 は 国 土 を 二 分 して 争 い 1976 年 7 月 にいたりようやく 統 一 を 見 た ベトナムでも 古 くは 干 支 紀 年 あるいは 王 位 紀 年 が 使 われたと 考 えられるが 漢 代 からの 中 国 支 配 下 では 中 国 の 年 号 を 使 用 した ベトナムにおける 独 自 の 年 号 は 記 録 でわかる 限 りでは 李 賁 が 中 国 からの 自 立 をはかり 自 ら 南 越 帝 と 称 して 春 国 をつ くり 天 徳 (544)という 年 号 を 立 てたのが 最 初 である(ベトナムの 年 号 は 別 表 二 参 照 ) ついで10 世 紀 呉 権 が 王 を 称 して 中 国 からの 独 立 を 表 明 したが この 時 は 年 号 を 立 てず 王 位 紀 年 を 用 いた(939) しかし ベトナムの 独 立 を 確 立 した 丁 部 領 は 大 勝 明 皇 帝 を 称 し 966 年 に 大 瞿 越 国 をつくり 太 平 (970)と 言 う 年 号 を 立 てた ま た 前 黎 朝 を 創 建 した 黎 桓 も 大 行 皇 帝 を 称 し 元 福 (980)という 年 号 を 立 てている その 後 の 李 朝 陳 朝 でも 君 主 は 皇 帝 を 称 し 独 自 の 年 号 を 使 用 した この 間 ベト ナムは 中 国 の 王 朝 から 交 趾 郡 王 あるいは 安 南 国 王 に 封 ぜられ 冊 封 関 係 を 結 んでいた が ベトナム 国 内 では 皇 帝 を 称 し 独 自 の 年 号 を 用 いていたのである 1414 年 明 の 進 攻 を 受 けて 陳 氏 が 滅 亡 すると ベトナムはしばらくの 間 明 の 完 全 な 支 配 下 に 置 かれ ベトナムの 王 朝 も 独 自 の 年 号 を 失 う しかしやがて 黎 利 を 中 心 とする 反 明 活 動 が 展 開 され ついに 明 軍 をベトナムから 完 全 に 撤 退 させてベトナムの 独 立 を 回 復 した 黎 利 はこの 時 皇 帝 を 称 し 順 天 (1428)という 年 号 を 立 てた ここ に 黎 朝 が 始 まるが 黎 朝 でも 明 清 によって 安 南 国 王 に 封 ぜられながら ベトナムで は 皇 帝 を 称 し 独 自 の 年 号 を 用 いた こうした 関 係 は 阮 朝 でも 同 様 である 特 に 阮 朝 では 清 朝 を 夷 狄 視 し 清 朝 への 文 書 では 清 を 上 国 天 朝 とし ベトナムを 下 国 と 称 しながら 国 内 では 清 を 北 朝 ベトナムを 南 朝 と 称 し 時 にはベトナムを 中 国 ベト ナム 人 を 華 民 とさえ 呼 んでいた ベトナムはこのように 中 国 との 交 渉 では 国 内 では 皇 帝 と 称 し 中 国 への 朝 貢

朝 鮮 とベトナムの 年 号 についての㆒ 考 察 : 王 福 順 165 方 式 をとりながらも 他 方 国 内 ではあくまで 対 等 の 形 式 を 崩 さなかったのである 1884 年 以 降 ベトナムはフランスの 保 護 国 となり 形 式 上 は 阮 朝 も 存 続 し 独 自 の 年 号 も 使 用 したが それはもはや 名 目 だけのものであった 1945 年 三 月 阮 朝 のバオダ イ 帝 は 日 本 軍 に 擁 立 されて 独 立 を 宣 言 したが それも 日 本 の 傀 儡 政 権 にすぎず 1945 年 八 月 ホー チ ミンの 指 導 する 八 月 革 命 で 阮 朝 は 滅 亡 し これによってベトナム の 年 号 も 最 終 的 に 廃 止 された 以 後 ベトナムでは 西 暦 を 使 用 し 現 在 に 至 っている Ⅳ むすび 漢 代 に 始 まった 年 号 の 制 度 はその 後 中 国 本 土 の 正 統 国 家 に 受 け 継 がれたのみな らず 周 辺 の 諸 国 ( 日 本 朝 鮮 ベトナムなど)にも 影 響 した しかし 東 アジア 諸 国 の 中 で 今 も 年 号 を 使 用 しているのは 日 本 だけであり 朝 鮮 ベトナムなどはいずれ も 年 号 を 廃 止 し 西 暦 を 使 っている 年 号 も 紀 年 法 の 一 つであり 年 号 は 年 につけた 称 号 であるので 元 号 ともいわれている 年 号 は 東 アジア 北 アジアの 諸 国 で 皇 帝 あるいは 国 王 の 権 威 支 配 を 示 すために 古 代 から 用 いられてきた しかし その 時 で も 民 間 では 干 支 で 年 を 表 示 する 干 支 紀 年 や 王 の 即 位 を 基 準 とする 王 位 紀 年 を 使 う ことの 方 が 多 かったことも 忘 れてはならない 世 界 が 縮 まり 世 界 の 政 治 や 経 済 が 次 第 に 密 接 にかかわりを 持 ち 一 国 一 民 族 の 文 化 や 歴 史 が 世 界 全 体 のそれに 優 先 できない 事 情 にある そのような 立 場 から 言 え ば 各 国 別 の 年 号 や 年 号 法 は 解 消 すべき 方 向 にあるのかもしれない また 今 日 国 際 的 に 用 いられているものに 西 暦 紀 元 がもっとも 有 力 である それゆえ 将 来 への 見 通 しとして 西 暦 紀 元 に 統 一 しようとする 考 えはきわめて 合 理 的 であるかもしれない しかし この 西 暦 紀 元 とは 所 詮 キリスト 教 紀 元 にすぎず はたして 合 理 的 な 世 界 紀 元 であると 言 えるであろうか また いかに 標 準 語 が 国 家 権 力 によっておしつけられて も ひそかに 方 言 が 生 き 延 び その 地 方 人 の 心 情 を 伝 えてくれるように いずれは 世 界 共 通 の 紀 元 法 ができるであろうが そのように 一 国 一 地 方 の 年 号 や 紀 年 法 には 他 民 族 から 容 喙 を 許 さない 住 民 の 心 情 のあることも 忘 れてはならない 本 稿 は 主 に 朝 鮮 とベトナムの 年 号 制 度 をめぐって 検 討 した これから 朝 鮮 とベ トナムの 年 号 諸 相 を 引 き 続 き 探 求 すると 同 時 に 中 国 と 日 本 の 年 号 の 実 態 を 比 較 し 解 明 するのは 今 後 の 課 題 である

166 修 平 文 會 報 第 ㈦ 期 民 國 ㈨㈩㈤ 年 ㈨ 別 表 一 高 麗 の 中 国 年 号 の 順 奉 一 覧 表 ( 高 麗 史 より 作 成 ) 中 国 年 号 高 麗 年 号 日 本 年 号 西 暦 干 支 年 号 関 係 記 事 後 梁 末 帝 貞 明 4 契 丹 太 祖 神 冊 3 太 祖 天 授 元 延 喜 18 918 戊 寅 太 祖 元 年 戊 寅 夏 六 月 丙 辰 即 位 于 布 政 殿 国 号 高 麗 改 元 天 授 ( 世 家 一 ) 後 唐 明 宗 長 興 4 契 丹 太 宗 天 顕 8 後 晋 天 福 3 契 丹 会 同 元 後 漢 隠 帝 乾 祐 元 遼 天 禄 2 後 漢 隠 帝 乾 祐 4 後 周 太 祖 広 順 元 遼 穆 祖 応 暦 元 宋 乾 徳 元 遼 応 暦 13 宋 淳 化 5 契 丹 統 和 12 宋 大 中 祥 符 9 契 丹 開 泰 5 宋 乾 興 元 契 丹 大 平 2 宋 天 聖 9 契 丹 興 宗 景 福 元 宋 宝 元 元 契 丹 重 煕 6 宋 煕 寧 8 遼 大 康 元 宋 元 豊 8 遼 大 安 元 太 祖 天 授 16 承 平 3 933 癸 巳 太 祖 天 授 21 天 慶 元 938 戊 戌 定 宗 3 天 暦 2 948 戊 申 光 宗 2 天 暦 5 951 辛 亥 光 宗 14 応 和 3 963 癸 亥 成 宗 13 正 暦 5 994 甲 午 顕 宗 7 長 和 5 1016 丙 辰 顕 宗 13 治 安 2 1022 壬 戌 顕 宗 22 長 元 4 1031 辛 未 靖 宗 4 長 暦 2 1038 戊 寅 文 宗 29 承 保 2 1075 乙 卯 宣 宗 2 応 徳 2 1085 乙 丑 太 祖 十 六 年 癸 巳 春 三 月 辛 巳 唐 遣 王 瓊 楊 昭 業 來 冊 王 又 賜 暦 日 自 是 除 天 授 年 号 行 後 唐 年 号 ( 世 家 二 ) 太 祖 二 十 一 年 戊 戌 秋 七 月 是 月 始 行 後 晋 年 号 ( 世 家 二 ) 定 宗 三 年 戊 申 秋 九 月 始 行 後 漢 年 号 ( 世 家 二 ) 光 宗 元 年 庚 戌 春 正 月 建 元 光 徳 ( 世 家 二 ) 光 宗 二 年 辛 亥 冬 十 二 月 始 行 後 周 年 号 ( 世 家 二 ) 光 宗 十 四 年 癸 亥 冬 冬 十 二 月 行 宋 年 号 ( 世 家 二 ) 成 宗 十 三 年 甲 午 春 二 月 始 行 契 丹 統 和 年 号 ( 世 家 三 ) 六 月 自 是 与 宋 絶 顕 宗 七 年 丙 辰 是 歳 復 行 宋 大 中 祥 符 年 号 ( 世 家 四 ) 顕 宗 十 三 年 壬 戌 夏 四 月 契 丹 遣 御 史 大 夫 上 将 軍 蕭 懐 福 等 來 冊 王 自 是 復 行 契 丹 年 号 ( 世 家 四 ) 顕 宗 二 十 二 年 辛 未 五 月 顕 宗 薨 太 子 欽 即 位 十 一 月 辛 丑 金 行 恭 回 報 契 丹 不 従 所 奏 遂 停 賀 正 使 仍 用 聖 宗 大 平 年 号 ( 世 家 五 ) 靖 宗 四 年 戊 寅 夏 四 月 是 月 遣 尚 書 左 丞 金 元 沖 如 契 丹 起 居 謝 恩 仍 請 年 号 八 月 乙 丑 朔 始 行 契 丹 重 煕 年 号 ( 世 家 六 ) 文 宗 二 十 九 年 乙 卯 秋 七 月 乙 丑 遼 東 京 兵 馬 都 部 署 牒 告 改 咸 雍 十 一 年 為 大 康 元 年 ( 世 家 九 ) 宣 宗 二 年 乙 丑 春 二 月 癸 酉 遼 報 改 元 大 安 ( 世 家 十 )

朝 鮮 とベトナムの 年 号 についての㆒ 考 察 : 王 福 順 167 宋 紹 聖 2 遼 寿 昌 元 宋 政 和 6 遼 天 慶 6 金 収 国 2 宋 欽 宗 靖 康 元 金 天 会 4 宗 紹 興 11 金 皇 統 元 年 宋 紹 興 23 金 貞 元 元 宋 紹 興 26 金 正 隆 元 宋 光 宗 紹 煕 元 金 章 宗 明 昌 元 宋 嘉 定 5 金 崇 慶 元 蒙 古 太 祖 7 宋 嘉 定 7 金 貞 祐 元 蒙 古 太 祖 9 宋 嘉 定 16 金 哀 宗 正 大 元 蒙 古 太 祖 19 宋 景 定 元 蒙 古 世 祖 中 統 元 宋 景 定 5 蒙 古 至 元 元 献 宗 元 嘉 保 2 1095 乙 亥 睿 宗 11 永 久 4 1116 丙 申 仁 宗 4 大 治 元 1126 丙 午 仁 宗 19 永 治 元 1141 辛 酉 毅 宗 7 仁 平 3 1153 癸 酉 毅 宗 10 保 元 元 1156 丙 子 明 宗 20 建 久 元 1190 庚 戌 康 宗 元 建 暦 2 1212 壬 申 高 宗 元 建 保 2 1214 甲 戌 高 宗 11 貞 応 2 1223 甲 申 元 宗 元 文 応 元 1260 庚 申 元 宗 5 文 永 元 1264 甲 子 献 宗 元 年 乙 亥 秋 七 月 戊 戌 行 遼 寿 昌 年 号 ( 世 家 十 ) 睿 宗 十 一 年 丙 申 夏 四 月 辛 未 中 書 門 下 奏 遼 為 女 真 所 侵 有 危 亡 之 勢 所 稟 正 朔 不 可 行 自 今 公 私 文 字 宜 除 天 慶 年 号 但 用 甲 子 従 之 ( 世 家 十 一 ) 仁 宗 四 年 丙 午 夏 四 月 丁 未 遣 鄭 応 文 李 侯 如 金 称 臣 上 表 ( 世 家 十 五 ) 仁 宗 十 九 年 辛 酉 春 正 月 己 巳 金 報 皇 帝 受 尊 号 改 元 皇 統 ( 世 家 十 七 ) 毅 宗 七 年 癸 酉 六 月 癸 酉 金 告 改 天 徳 五 年 為 貞 元 元 年 ( 世 家 十 八 ) 毅 宗 十 年 丙 子 閏 月 是 月 金 改 貞 元 五 年 為 正 隆 元 年 避 世 祖 諱 以 豊 字 代 隆 字 行 之 ( 世 家 十 八 ) 明 宗 二 十 年 庚 戌 二 月 乙 丑 金 報 改 元 明 昌 ( 世 家 二 十 ) 康 宗 元 年 壬 申 冬 十 月 癸 酉 朔 行 金 崇 慶 元 年 ( 世 家 二 十 一 ) 高 宗 元 年 甲 戌 九 月 丙 午 是 月 金 昇 王 旬 即 皇 帝 位 改 元 貞 祐 ( 世 家 二 十 一 ) 高 宗 十 一 年 甲 申 以 金 国 衰 微 不 用 年 号 ( 年 表 二 ) 元 宗 元 年 庚 申 八 月 壬 子 永 安 公 僖 賚 詔 三 道 還 自 蒙 古 翌 日 王 邀 東 里 大 康 和 尚 等 迎 詔 一 曰 ( 中 略 ) 於 今 年 五 月 十 九 日 立 号 為 中 統 元 年 使 還 宜 播 告 之 俾 知 朕 意 ( 世 家 二 十 五 ) 元 宗 五 年 甲 子 二 月 丙 寅 韓 就 還 自 蒙 古 帝 賜 西 錦 一 段 暦 日 一 本 ( 中 略 ) 今 賜 卿 中 統 五 年 暦 日 一 道 冬 十 月 戊 申 上 将 軍 申 思 全 賚 詔 書 還 自 蒙 古 帝 改 元 為 至 元 大 赦 天 下 ( 世 家 二 十 六 )

168 修 平 文 會 報 第 ㈦ 期 民 國 ㈨㈩㈤ 年 ㈨ 元 大 徳 元 忠 烈 王 23 永 仁 5 1297 丁 酉 元 武 宗 至 大 元 忠 烈 王 34 延 慶 元 1308 戊 申 元 英 宗 至 治 元 忠 粛 王 8 元 亨 元 1321 辛 酉 元 至 治 3 忠 粛 王 10 元 亨 3 1323 癸 亥 元 泰 定 5 年 二 月 改 致 和 文 宗 天 暦 元 忠 粛 王 15 嘉 暦 3 1328 戊 辰 元 至 順 元 忠 粛 王 17 元 徳 2 1330 庚 午 元 至 元 元 忠 粛 王 後 4 建 武 2 1335 乙 亥 大 明 洪 武 2 恭 愍 18 正 平 24 1369 己 酉 大 明 洪 武 3 恭 愍 王 19 建 徳 元 1370 庚 戌 大 明 洪 武 10 辛 偶 3 天 授 3 1377 丁 巳 大 明 洪 武 11 辛 偶 4 天 授 4 1378 戊 午 大 明 洪 武 21 辛 偶 14 元 中 5 1388 戊 辰 忠 烈 王 二 十 三 年 丁 酉 秋 八 月 丙 戌 行 省 遣 左 使 都 事 張 瑜 如 元 賀 聖 節 及 改 元 ( 世 家 三 十 一 ) 忠 烈 王 三 十 四 年 戊 申 二 月 辛 丑 元 改 元 至 大 遣 許 宣 來 頒 詔 ( 世 家 三 十 二 ) 忠 粛 王 八 年 辛 酉 春 正 月 甲 辰 元 以 改 元 至 治 遣 使 頒 詔 ( 世 家 三 十 五 ) 忠 粛 王 十 年 癸 亥 十 二 月 辛 酉 以 改 元 泰 定 遣 直 省 舎 人 交 化 的 來 頒 詔 ( 世 家 三 十 五 ) 忠 粛 王 十 五 年 戊 辰 四 月 乙 未 元 以 改 元 致 和 遣 闍 里 帖 木 児 來 頒 詔 九 月 壬 申 武 宗 皇 帝 次 子 懐 王 即 帝 位 于 上 都 是 為 文 宗 遣 使 來 告 改 元 天 暦 大 赦 天 下 ( 世 家 三 十 五 ) 忠 恵 王 即 位 年 五 月 乙 丑 帝 御 大 明 殿 受 尊 号 改 元 至 順 ( 世 家 三 十 六 ) 忠 粛 王 後 四 年 乙 亥 十 二 月 己 巳 元 以 改 元 至 元 遣 使 來 頒 詔 ( 世 家 三 十 六 ) 恭 愍 王 十 八 年 己 酉 四 月 壬 辰 大 明 皇 帝 遣 符 宝 郎 契 斯 ( 中 略 ) 其 書 曰 有 天 下 之 号 曰 大 明 建 元 洪 武 五 月 辛 丑 停 至 元 年 号 ( 世 家 四 十 一 ) 恭 愍 王 十 九 年 庚 戌 五 月 帝 遣 使 賚 印 來 封 王 七 月 始 行 洪 武 年 号 ( 年 表 二 ) 辛 偶 三 年 丁 巳 二 月 北 元 遣 使 來 行 宣 光 年 号 ( 年 表 二 ) 辛 偶 四 年 戊 午 九 月 復 行 洪 武 年 号 ( 年 表 二 ) 辛 偶 十 四 年 戊 辰 四 月 偶 以 曹 敏 修 為 左 軍 都 統 我 太 祖 為 右 軍 都 統 往 攻 遼 東 停 洪 武 年 号 六 月 廃 偶 放 于 江 華 子 昌 立 復 行 洪 武 年 号 ( 年 表 二 )

朝 鮮 とベトナムの 年 号 についての㆒ 考 察 : 王 福 順 169 別 表 二 ベトナム 年 号 一 覧 表 ( 角 川 世 界 史 辞 典 より 作 成 ) 帝 王 年 号 西 暦 中 国 年 号 日 本 年 号 交 趾 南 越 帝 天 徳 544 梁 大 同 10 大 瞿 越 丁 朝 万 勝 王 太 平 970 宋 開 宝 3 天 禄 元 前 黎 朝 黎 桓 天 福 980 宋 太 平 興 国 5 天 元 3 前 黎 朝 黎 桓 興 統 989 宋 端 拱 2 永 祚 元 前 黎 朝 黎 桓 応 天 994 宋 淳 化 5 正 暦 5 前 黎 朝 黎 龍 廷 景 瑞 1008 宋 景 徳 元 寛 弘 元 李 朝 太 祖 順 天 1010 宋 大 中 祥 符 3 寛 弘 7 李 朝 太 宗 天 成 1028 宋 天 聖 6 長 元 元 李 朝 太 宗 通 瑞 1034 宋 景 祐 元 長 元 7 李 朝 太 宗 乾 符 有 道 1039 宋 宝 元 2 長 暦 3 李 朝 太 宗 明 道 1042 宋 慶 暦 2 長 久 3 李 朝 太 宗 天 感 聖 武 1044 宋 慶 暦 4 寛 徳 元 李 朝 太 宗 崇 興 大 宝 1049 宋 皇 祐 元 永 承 4 大 越 李 朝 聖 宗 龍 瑞 太 平 1054 宋 至 和 元 天 喜 2 李 朝 聖 宗 彰 聖 嘉 慶 1059 宋 嘉 祐 4 康 平 2 李 朝 聖 宗 龍 彰 天 嗣 1066 宋 治 平 3 治 暦 2 李 朝 聖 宗 天 賜 宝 象 1068 宋 煕 寧 元 治 暦 4 李 朝 聖 宗 神 武 1069 宋 煕 寧 2 延 久 元 李 朝 仁 宗 太 寧 1072 宋 煕 寧 5 延 久 4 李 朝 仁 宗 英 武 昭 勝 1076 宋 煕 寧 9 承 保 3 李 朝 仁 宗 広 祐 1085 宋 元 豊 8 応 徳 2 李 朝 仁 宗 会 豊 1092 宋 元 祐 7 寛 治 6 李 朝 仁 宗 龍 符 1101 宋 建 中 靖 国 元 康 和 3 李 朝 仁 宗 会 祥 大 慶 1110 宋 大 観 4 天 永 元 李 朝 仁 宗 天 符 睿 武 1120 宋 宣 和 2 保 安 元 李 朝 仁 宗 天 符 慶 寿 1127 宋 靖 康 2 大 治 2 李 朝 神 宗 天 順 1128 宋 建 炎 2 大 治 3 李 朝 神 宗 天 彰 宝 嗣 1133 宋 紹 興 3 長 承 2 李 朝 英 宗 紹 明 1138 宋 紹 興 8 保 延 4 李 朝 英 宗 大 定 1140 宋 紹 興 10 保 延 6 李 朝 英 宗 政 隆 宝 応 1163 宋 隆 興 元 長 寛 元 李 朝 英 宗 天 感 至 符 1174 宋 淳 煕 元 承 安 4 李 朝 高 宗 貞 符 1176 宋 淳 煕 3 安 元 2 李 朝 高 宗 天 資 嘉 瑞 1186 宋 淳 煕 13 文 治 2 李 朝 高 宗 天 嘉 宝 祐 1202 宋 嘉 泰 2 建 仁 2 李 朝 高 宗 治 平 龍 応 1205 宋 開 禧 元 元 久 2

170 修 平 文 會 報 第 ㈦ 期 民 國 ㈨㈩㈤ 年 ㈨ 李 朝 恵 宗 建 嘉 1211 宋 嘉 定 4 建 暦 元 李 朝 昭 皇 天 彰 有 道 1224 宋 嘉 定 17 元 仁 元 大 越 陳 朝 太 宗 建 中 1225 宋 宝 慶 元 嘉 禄 元 陳 朝 太 宗 天 応 政 平 1232 宋 紹 定 5 貞 永 元 陳 朝 太 宗 元 豊 1254 宋 宝 祐 2 建 長 6 陳 朝 聖 宗 紹 隆 1258 宋 宝 祐 6 正 嘉 2 陳 朝 聖 宗 宝 符 1273 宋 咸 淳 9 文 永 10 陳 朝 仁 宗 紹 宝 1279 宋 祥 興 2 弘 安 2 陳 朝 仁 宗 重 興 1285 元 至 元 22 弘 安 8 陳 朝 英 宗 興 隆 1293 元 至 元 30 永 仁 元 陳 朝 明 宗 大 慶 1314 元 延 祐 元 正 和 3 陳 朝 明 宗 開 泰 1324 元 泰 定 元 正 中 元 陳 朝 憲 宗 開 祐 1329 元 天 暦 2 元 徳 元 陳 朝 裕 宗 紹 豊 1341 元 至 正 元 暦 応 4 興 国 元 陳 朝 裕 宗 大 治 1358 元 至 正 18 延 文 3 正 平 13 陳 朝 裕 宗 大 定 1369 明 洪 武 2 応 安 2 正 平 24 陳 朝 藝 宗 紹 慶 1370 明 洪 武 3 応 安 3 建 徳 元 陳 朝 睿 宗 隆 慶 1373 明 洪 武 6 応 安 6 文 中 2 陳 朝 廃 帝 昌 符 1377 明 洪 武 10 永 和 3 天 授 3 陳 朝 順 宗 光 泰 1388 明 洪 武 21 嘉 慶 2 元 中 5 陳 朝 少 帝 建 新 1398 明 洪 武 31 応 永 5 大 越 莫 朝 少 帝 聖 元 1400 明 建 文 2 応 永 7 莫 朝 少 帝 紹 成 1401 明 建 文 3 応 永 8 莫 朝 少 帝 開 大 1403 明 永 楽 元 応 永 10 大 越 陳 朝 簡 定 帝 興 慶 1408 明 永 楽 6 応 永 15 陳 朝 重 光 帝 重 光 1409 明 永 楽 7 応 永 16 大 越 黎 朝 太 祖 順 天 1428 明 宣 徳 3 正 長 元 黎 朝 太 宗 紹 平 1434 明 宣 徳 9 永 享 6 黎 朝 太 宗 大 宝 1440 明 正 統 5 永 享 12 黎 朝 仁 宗 大 和 1443 明 正 統 8 文 安 元 黎 朝 仁 宗 延 寧 1454 明 景 泰 5 享 徳 3 黎 朝 仁 宗 天 興 1459 明 天 順 3 長 禄 3 黎 朝 聖 宗 光 順 1460 明 天 順 4 寛 正 元 黎 朝 聖 宗 洪 徳 1470 明 成 化 6 文 明 2 黎 朝 憲 宗 景 統 1498 明 弘 治 11 明 応 7 黎 朝 粛 宗 泰 貞 1504 明 弘 治 17 永 正 元 黎 朝 咸 穆 帝 端 慶 1505 明 弘 治 18 永 正 2 黎 朝 襄 翼 帝 洪 順 1509 明 正 徳 4 永 正 6

朝 鮮 とベトナムの 年 号 についての㆒ 考 察 : 王 福 順 171 黎 朝 昭 宗 光 紹 1516 明 正 徳 11 永 正 13 黎 朝 恭 皇 統 元 1522 明 嘉 靖 元 大 永 2 黎 朝 莊 宗 元 和 1533 明 嘉 靖 12 天 文 2 黎 朝 中 宗 順 平 1549 明 嘉 靖 28 天 文 18 黎 朝 英 宗 天 祐 1557 明 嘉 靖 36 永 禄 元 黎 朝 英 宗 正 治 1558 明 嘉 靖 37 永 禄 2 黎 朝 英 宗 洪 福 1572 明 隆 慶 6 元 亀 3 黎 朝 世 宗 嘉 泰 1573 明 万 暦 元 天 正 元 黎 朝 世 宗 光 興 1578 明 万 暦 6 天 正 6 黎 朝 敬 宗 愼 徳 1600 明 万 暦 28 慶 長 5 黎 朝 敬 宗 弘 定 1600 明 万 暦 28 慶 長 5 黎 朝 神 宗 永 祚 1619 明 万 暦 47 元 和 5 黎 朝 神 宗 徳 隆 1629 明 崇 禎 2 寛 永 6 黎 朝 神 宗 陽 和 1635 明 崇 禎 8 寛 永 12 黎 朝 真 宗 福 泰 1643 明 崇 禎 16 寛 永 20 黎 朝 神 宗 慶 徳 1649 清 順 治 6 慶 安 2 黎 朝 神 宗 盛 徳 1653 清 順 治 10 承 応 2 黎 朝 神 宗 永 寿 1658 清 順 治 15 万 治 元 黎 朝 神 宗 万 慶 1662 清 康 熙 元 寛 文 2 黎 朝 玄 宗 景 治 1663 清 康 熙 2 寛 文 3 黎 朝 嘉 宗 陽 徳 1672 清 康 熙 11 寛 文 12 黎 朝 嘉 宗 徳 元 1674 清 康 熙 13 延 宝 2 黎 朝 煕 宗 永 治 1675 清 康 熙 14 延 宝 3 黎 朝 煕 宗 正 和 1680 清 康 熙 19 延 宝 8 黎 朝 裕 宗 永 隆 1705 清 康 熙 44 宝 永 2 黎 朝 裕 宗 保 泰 1720 清 康 熙 59 享 保 5 黎 朝 永 慶 帝 永 慶 1729 清 雍 正 7 享 保 14 黎 朝 純 宗 龍 徳 1732 清 雍 正 10 享 保 17 黎 朝 懿 宗 永 佑 1735 清 雍 正 13 享 保 20 黎 朝 顕 宗 景 興 1740 清 乾 隆 5 元 文 5 黎 朝 愍 帝 昭 統 1787 清 乾 隆 52 天 明 7 大 越 西 山 朝 光 中 帝 光 中 1788 清 乾 隆 53 天 明 8 西 山 朝 阮 文 賛 景 盛 1793 清 乾 隆 58 寛 政 5 西 山 朝 阮 文 賛 宝 興 1801 清 嘉 慶 6 享 和 元 越 南 阮 朝 嘉 隆 帝 嘉 隆 1802 清 嘉 慶 7 享 和 2 阮 朝 明 命 帝 明 命 1820 清 嘉 慶 25 文 政 3 大 南 阮 朝 紹 治 帝 紹 治 1841 清 道 光 21 天 保 12 阮 朝 嗣 徳 帝 嗣 徳 1848 清 道 光 28 嘉 永 元

172 修 平 文 會 報 第 ㈦ 期 民 國 ㈨㈩㈤ 年 ㈨ 阮 朝 育 徳 帝 育 徳 1883 清 光 緒 9 明 治 16 阮 朝 協 和 帝 協 和 1883 清 光 緒 9 明 治 16 阮 朝 建 福 帝 建 福 1884 清 光 緒 10 明 治 17 阮 朝 咸 宜 帝 咸 宜 1885 清 光 緒 11 明 治 18 阮 朝 同 慶 帝 同 慶 1886 清 光 緒 12 明 治 19 阮 朝 成 泰 帝 成 泰 1889 清 光 緒 15 明 治 22 阮 朝 維 新 帝 維 新 1907 清 光 緒 33 明 治 40 阮 朝 啓 定 帝 啓 定 1916 民 国 5 大 正 5 阮 朝 保 大 帝 保 大 1926 民 国 15 昭 和 元 註 1: 大 瞿 越 は1054 年 国 号 を 大 越 と 改 称 した 註 2:1838 年 より 国 号 を 大 南 と 制 定 した Ⅴ 考 文 (1) 松 橋 達 良 元 号 はやわかり 東 亜 歴 代 建 元 考 砂 書 房 1994 年 7 月 10 日 (2) 山 本 達 郎 ベトナム 中 国 関 係 史 曲 氏 の 抬 頭 から 清 仏 戦 争 まで 山 川 出 版 社 1975 年 12 月 28 日 (3) 角 川 世 界 史 辞 典 角 川 書 店 2001 年 10 月 10 日 (4) 新 編 東 洋 史 辞 典 東 京 創 元 社 昭 和 58 年 12 月 10 日 (5) 王 福 順 中 国 の 年 号 の 一 考 察 その 思 想 理 論 をめぐって 名 城 法 学 論 集 大 学 院 研 究 年 報 第 31 集 (2003 年 度 )2004 年 3 月 12 日 25-46 頁 (6) 王 福 順 日 本 の 年 号 の 一 考 察 改 元 を 中 心 に 修 平 人 文 社 会 学 報 第 3 期 2004 年 3 月 93-129 頁