東 京 大 学 教 養 学 部 哲 学 科 学 史 部 会 哲 学 科 学 史 論 叢 第 十 六 号 平 成 26 年 1 月 (209 222) 行 為 の 理 由 に 関 する 心 理 主 義, 反 心 理 主 義, 選 言 説 知 覚 の 哲 学 を 参 照 して 鈴 木 雄 大 行 為 の 理 由 とは 何 かという 問 題 に 関 して,D. デイヴィドソン 以 降, 心 理 主 義 (psychologism) と 呼 ばれる 立 場 が 標 準 的 な 理 論 であり 続 けてきた. 心 理 0 0 0 0 0 0 0 0 主 義 は 行 為 の 理 由 を, 信 念 や 欲 求 といった 行 為 者 の 心 的 状 態 とする.これに 対 0 して 近 年, 行 為 の 理 由 を 行 為 者 の 心 的 状 態 ではなく,むしろそうした 状 態 の 対 0 象 とする 反 心 理 主 義 (anti-psychologism) の 立 場 が 盛 んになりつつある.そし てそれに 伴 い, 第 三 の 立 場 である 選 言 説 (disjunctivism) も 登 場 した. 0 0 最 後 のものに 関 して,もともと 選 言 説 という 名 称 は, 知 覚 の 哲 学 におけ 0 0 0 0 0 1 る 一 立 場 を 表 すために 造 られた 言 葉 であった.それが 行 為 の 理 由 に 関 する 一 立 場 を 表 すためにも 用 いられているのは, 行 為 の 理 由 に 関 する 選 言 説 が, 知 覚 に 関 する 選 言 説 と 同 型 の 議 論 を 含 んでいるからにほかならない. 本 論 文 の 主 要 な 狙 いは,この 同 型 性 に 着 目 し,より 先 行 的 に 論 じられている 知 覚 の 哲 学 を 参 照 することで, 行 為 の 理 由 に 関 する 諸 々の 立 場 の 関 係 を 整 理 することにある. これにより, 行 為 の 理 由 に 関 する 心 理 主 義, 反 心 理 主 義, 選 言 説 のそれぞれが, 知 覚 に 関 する 代 表 的 な 立 場 であるセンスデータ 論, 志 向 説, 選 言 説 のそれぞれ とある 種 の 対 応 関 係 にあることが 分 かるだろう. こうした 整 理 に 加 えて, 知 覚 に 関 する 議 論 は, 行 為 の 理 由 に 関 する 議 論 に 新 0 0 0 0 0 しい 洞 察 を 与 えてくれる. 私 は 本 論 文 で 行 為 の 理 由 に 関 して, 反 心 理 主 義 を 擁 護 する 議 論 を 素 描 的 な 形 で 展 開 したが,さらに 知 覚 に 関 しそれに 対 応 した 立 場 である 志 向 説 を 参 照 することで, 反 心 理 主 義 に 志 向 性 の 概 念 を 導 入 することを 試 みた. 以 下 ではまず, 知 覚 の 哲 学 におけるセンスデータ 論, 志 向 説, 選 言 説 を 順 に 概 観 し( 第 1 節 ),そしてそれぞれと 同 型 の 議 論 を 含 むものとして, 行 為 の 理 由 に 関 する 心 理 主 義, 反 心 理 主 義, 選 言 説 を 順 に 整 理 し,その 中 で 反 心 理 主 義
210 の 擁 護 論 を 展 開 する( 第 2 節 ). 1. 知 覚 に 関 する 三 つの 立 場 知 覚 に 関 する 志 向 説 と 選 言 説 はセンスデータ 論 への 批 判 のもとで 生 まれたた め,まずセンスデータ 論 の 議 論 を 押 さえ,それから 残 り 二 つの 立 場 を 見 ていく. 1.1 センスデータ 論 センスデータ 論 には 幻 覚 論 法 という 有 名 な 論 証 があり(ここでは 簡 単 の ため 錯 覚 のことは 脇 に 置 き, 幻 覚 だけに 焦 点 を 絞 る),それは 次 のようなもの である(Fish (2010, 12 14) を 参 考 に, 本 論 文 の 目 的 に 合 わせて 簡 略 化 して 示 し た ). 1. 主 体 にとってあるものが 存 在 するように 見 えるなら, 主 体 が 気 づいて いる 何 かが 存 在 する.( 現 実 性 原 理 P 2 ) 2. 幻 覚 では, 実 在 物 はないのに, 主 体 にとってあるものが 存 在 するよう に 見 える. 3.(1と2より) 幻 覚 では, 主 体 が 気 づいている 何 かが 存 在 する.それは 実 在 物 ではなく,センスデータと 呼 ばれる. 4. 主 体 が 識 別 することのできない 知 覚 と 幻 覚 は, 同 じ 種 類 の 心 的 状 態 で ある.( 共 通 項 原 理 P) 5.(3と4より) 知 覚 でも, 主 体 が 気 づいている 何 かが 存 在 するが,それ は 実 在 物 ではなく,センスデータである. 0 0 0 0 0 0 1の 現 実 性 原 理 Pは, 主 体 にとってあるものが 存 在 するように 見 える という 0 0 ことから, 主 体 が 気 づいているものの 存 在 を 導 く 原 理 である.たとえば 白 い 何 かが 柳 の 下 に 立 っているように 私 に 見 えたなら,それが 実 在 物 であるかどうか
行 為 の 理 由 に 関 する 心 理 主 義, 反 心 理 主 義, 選 言 説 211 にかかわらず,とにかく 私 が 気 づいた 白 い 何 かが 存 在 していなければならない というわけである.2は 幻 覚 に 関 して 一 般 に 認 められる 事 柄 であり, 幻 覚 に 関 する 限 りで1の 前 件 を 満 たし,そうして1と2から3( 幻 覚 に 関 する 限 りでの 1の 後 件 )が 出 てくる.4の 共 通 項 原 理 Pは,3までで 幻 覚 に 関 して 言 われた 帰 結 を, 知 覚 にまで 拡 張 する 働 きをしている.そうして, 幻 覚 において 主 体 が 気 づいているものがセンスデータであるなら, 知 覚 においても 主 体 が 気 づいて いるものは 実 在 物 ではなく,センスデータであるということになる. 1.2 志 向 説 ところでセンスデータ 論 の 帰 結 は, 知 覚 において 主 体 が 気 づくのは 実 在 物 である というわれわれの 直 観 に 反 する.もちろんセンスデータ 論 はこの 直 観 を 拒 否 するわけだが,この 直 観 を 守 ろうとする 者 は 幻 覚 論 法 の 諸 前 提 のうちど れかを 拒 否 する. 志 向 説 (intentional theory) と 呼 ばれる 立 場 が 拒 否 するのは 現 実 性 原 理 Pであ る.つまり 志 向 説 は, 主 体 にとってあるものが 存 在 するように 見 えるというこ とから, 何 かが 存 在 することを 導 出 することに 反 対 する. 志 向 説 が 代 わりに 提 0 0 0 0 案 するのは, 知 覚 と 幻 覚 のそれぞれを 現 実 を 志 向 する ものとして 捉 えるアイデ アである.それによれば 知 覚 と 幻 覚 は, 前 者 の 志 向 内 容 は 現 実 に 一 致 している のに 対 し, 後 者 の 志 向 内 容 はそうではないという 点 で 区 別 される. 志 向 性 は 対 象 の 存 在 を 必 ずしも 含 まないことがその 一 特 徴 であるゆえ, 志 向 説 は,センス データ 論 のように 幻 覚 の 場 合 にも 何 らかの 存 在 者 を 要 請 するということをせず に 済 む.ちなみに 志 向 説 は, 知 覚 と 幻 覚 を 共 に 現 実 を 志 向 する 同 種 の 心 的 状 態 として 捉 えるため, 共 通 項 原 理 Pは 受 け 入 れている. 1.3 選 言 説 知 覚 に 関 する 選 言 説 は 志 向 説 とは 別 の 道 をとり, 共 通 項 原 理 Pの 方 を 拒 否 す
212 る.すなわち 選 言 説 によれば, 知 覚 と 幻 覚 は 全 く 異 なった 種 類 の 心 的 状 態 であ り, 知 覚 が 実 在 物 によって 部 分 的 に 構 成 されているような 心 的 状 態 であるのに 対 し, 幻 覚 は 実 在 物 をその 部 分 として 含 まない. 2. 行 為 の 理 由 に 関 する 三 つの 立 場 冒 頭 で 述 べたように, 心 理 主 義 は 行 為 の 理 由 を 行 為 者 の 心 的 状 態 とする 立 場 であるのに 対 し,この 心 的 状 態 を M(p) と 表 記 するならば( p は 心 的 状 態 の 対 象 を 表 す), 反 心 理 主 義 は 行 為 の 理 由 を p とする 立 場 である. 他 方 で 選 言 説 は, 後 で 見 るように, 心 理 主 義 と 反 心 理 主 義 のそれぞれの 長 所 を 併 せ 持 ち, それぞれの 短 所 を 免 れているような 折 衷 的 な 立 場 である.ではそもそもどうし て, 行 為 の 理 由 を M(p) とするか p とするかという 見 解 の 相 違 が 生 まれるのか. ここではまずその 点 を 理 解 するため, 次 のような 四 つのケースについて 見 てお きたい. ケース1 夏 の 海 で, 私 は 虫 を 追 い 払 おうとして 友 人 の 背 中 を 叩 いた.す ると 友 人 は 怒 って 私 がそうした 訳 を 尋 ねるので, 私 は 虫 を 追 い 払 ったのだ と 答 えた. 実 際 に 虫 は 友 人 の 背 中 から 離 れていった. ケース2 夏 の 海 で, 私 は 虫 を 追 い 払 おうとして 友 人 の 背 中 を 叩 いた.だ がよく 見 ると 虫 だと 思 ったものは 友 人 のホクロだった. 友 人 は 怒 って 私 が そうした 訳 を 尋 ねるので, 私 は 虫 を 追 い 払 おうと 思 ったのだ と 答 えた. ケース3 私 が 虫 がいたのだ と 答 える 以 外,ケース1と 同 じ 設 定. ケース4 設 定. 私 が 虫 がいると 思 ったのだ と 答 える 以 外,ケース2と 同 じ
行 為 の 理 由 に 関 する 心 理 主 義, 反 心 理 主 義, 選 言 説 213 0 0 ケース1で 私 は 虫 を 追 い 払 う という 行 為 の 目 的 を 理 由 として 挙 げている のに 対 し, 虫 がいる という 私 の 信 念 が 誤 っていたケース2では,その 目 的 0 0 0 0 を 目 指 して いたという 自 らの 心 的 状 態 を 理 由 として 挙 げているように 見 える. 0 0 また,ケース3で 私 は 虫 がいた という 事 実 を 理 由 として 挙 げているのに 対 し, 0 0 0 虫 についての 信 念 が 誤 っていたケース4では, 虫 がいる と 信 じて いたとい う 自 らの 心 的 状 態 を 理 由 として 挙 げているように 見 える.つまり 虫 についての 私 の 信 念 が 真 のときに 挙 げられる 理 由 p(ケース1では 虫 を 追 い 払 う とい う 目 的,ケース3では 虫 がいる という 事 実 )に 対 して, 虫 についての 私 の 信 念 が 偽 のときには M(p) が 代 わりに 理 由 として 挙 げられているように 見 える. このことから,ケース1と3が 反 心 理 主 義 に 支 持 を 与 え,ケース2と4が 心 理 主 義 に 支 持 を 与 えるというように 考 えられるかもしれない.だが 次 のような 直 観 が 働 かないだろうか. 行 為 者 の 信 念 が 真 である 通 常 の 場 合 には, 行 為 は 目 的 や 事 実 によって 説 明 されるのであって, 行 為 者 の 心 的 状 態 は, 行 為 者 の 信 念 が 偽 である 例 外 的 な 場 合 において 初 めて 言 及 される と.しかしこの 直 観 はさ ほど 強 いものではないし, 心 理 主 義 はまさにこの 直 観 を 拒 否 するのである.( 以 下 ではしばらく,p に 相 応 しいのは 目 的 と 事 実 のどちらであるかということは オープンにしておく.) 2.1 心 理 主 義 なぜ 行 為 の 理 由 に 関 する 標 準 的 な 理 論 として, 心 理 主 義 がこれまで 多 くの 人 によって 支 持 されてきたのだろうか. 心 理 主 義 の 主 張 を 支 えるものして,セン スデータ 論 の 幻 覚 論 法 と 同 型 の 議 論 を 構 成 することができると 私 は 考 える. 1. 行 為 を 説 明 する 理 由 は, 成 立 している 何 かである.( 現 実 性 原 理 RA) 2. 行 為 者 の 信 念 が 偽 のときにも, 行 為 を 説 明 する 理 由 がある. 3.(1と2より) 行 為 者 の 信 念 が 偽 のとき, 行 為 を 説 明 する 理 由 は, 成 立 している 何 かである.それは 成 立 していない p ではありえず,M(p) である.
214 4. 行 為 者 の 信 念 が 真 であれ 偽 であれ, 行 為 を 説 明 する 理 由 は 同 じ 種 類 の ものでなければならない.( 共 通 項 原 理 RA) 5.(3と4より) 行 為 者 の 信 念 が 真 のときも, 行 為 を 説 明 する 理 由 は p で はなく,M(p) である. 0 0 0 0 0 1の 現 実 性 原 理 RAは, 行 為 の 理 由 説 明 文 を 事 実 含 意 的 (factive) だとする 原 理 だと 言 うこともできる. 事 実 含 意 的 な 文 とは,その 内 に 含 む 文 を 含 意 するよ うな 文 のことであり, 事 実 非 含 意 的 (non-factive) な 文 とは,その 内 に 含 む 文 を 含 意 しないような 文 のことである.たとえば 彼 は 神 がいると 知 っている と いう 文 は 神 がいる という 文 を 含 意 するゆえに 事 実 含 意 的 であり, 彼 は 神 がいると 信 じている という 文 は 神 がいる という 文 を 含 意 しないゆえに 事 実 非 含 意 的 である.そして 行 為 の 理 由 説 明 文 が 事 実 含 意 的 であるとは,たとえ ば 私 がそれをしたのは x ゆえだ という 文 が, 文 x を 含 意 するというこ とである. 理 由 について 述 べている x が 真 なら 理 由 x は 成 立 したものであ るゆえ, 現 実 性 原 理 RAは, 行 為 の 理 由 説 明 文 が 事 実 含 意 的 であることを 言 っ たものに 等 しい. 2は 一 般 に 認 められる 事 柄 である. 先 のケース2ケース4では, 虫 について の 私 の 信 念 は 偽 だったが, 虫 を 追 い 払 おうと 思 った や 虫 がいると 思 った と 言 うことで 私 は 友 人 の 背 中 を 叩 いたことにたしかに 理 由 説 明 を 与 えていた. こうして1と2から3が 出 てくる. 行 為 者 の 信 念 が 偽 のときの 行 為 を 説 明 す る 理 由 が p でありえないのは, 行 為 者 の 信 念 が 偽 のときには,p(ここでの 例 では, 私 が 虫 を 追 い 払 うことや, 虫 がいること)が 成 立 しておらず, 成 立 して いないものは(1より) 行 為 を 説 明 する 理 由 とはなりえないからである. 対 し て M(p) がそこでの 行 為 を 説 明 する 理 由 であるとされるのは, 虫 を 追 い 払 おう と 思 ったことや 虫 がいる と 思 ったことは,たとえ 虫 がいなかったとしても, 行 為 者 の 心 的 状 態 として 現 に 成 立 していることだからである. 最 後 に,4の 共 通 項 原 理 RAは, 信 念 が 偽 の 場 合 に 関 して 言 われた3までの 帰 結 を, 信 念 が 真 の 場 合 にまで 拡 張 する 働 きをしている.たしかに 行 為 者 の 信
行 為 の 理 由 に 関 する 心 理 主 義, 反 心 理 主 義, 選 言 説 215 念 が 真 であるか 偽 であるかに 応 じて, 行 為 を 説 明 する 理 由 がころころ 変 わるの は 奇 妙 であろう.こうして, 信 念 が 偽 のときに 行 為 を 説 明 する 理 由 が M(p) で あるなら, 信 念 が 真 のときもそれは p ではなく M(p) であることになる. 2.2 反 心 理 主 義 先 述 の 通 常, 行 為 を 説 明 するのは, 目 的 や 事 実 であって, 行 為 者 の 心 的 状 態 ではない という 直 観 を 守 ろうとする 者 は, 心 理 主 義 の 議 論 における 諸 前 提 のうちどれかを 拒 否 することになる.ところで 反 心 理 主 義 の 代 表 的 な 論 客 であ 0 0 0 0 0 0 る J. ダンシーは, 行 為 の 理 由 説 明 文 は 事 実 非 含 意 的 であるという 主 張 を 彼 の 議 論 の 中 核 の 一 つとしている (cf. Dancy 2000, 131 134). 彼 のその 主 張 が 議 論 全 体 の 中 でもつ 役 割 を 明 瞭 に 理 解 するには, 知 覚 に 関 する 幻 覚 論 法 をもとに 構 成 された 心 理 主 義 の 議 論 の 諸 前 提 のうち, 彼 の 主 張 がどれに 対 する 否 定 になって いるかを 考 えるのが 有 益 である.そして 前 提 1の 現 実 性 原 理 RAは, 行 為 の 理 由 説 明 文 が 事 実 含 意 的 であることを 言 ったものに 等 しかったのだから, 行 為 の 0 理 由 説 明 文 が 事 実 非 含 意 的 であるという 彼 の 主 張 は, 現 実 性 原 理 RAに 対 する 否 定 になっていることが 分 かる.つまり 反 心 理 主 義 は, 行 為 を 説 明 する 理 由 が 必 ずしも 何 か 成 立 しているものでなくともよいと 考 えるゆえに, 行 為 者 の 信 念 が 偽 の 場 合 にも, 行 為 を 説 明 する 理 由 として 何 か 成 立 しているものを 求 め, 成 立 していない p の 代 わりに 成 立 している M(p) を 選 ぶ,ということをしなくて よいようになる. 反 心 理 主 義 は, 現 実 性 原 理 RAの 否 定 によって, 行 為 者 の 信 念 が 偽 のときも, 行 為 を 説 明 する 理 由 として p を 選 ぶことができるのである. 現 実 性 原 理 RAの 否 定 の 正 当 性 については,ここでこれ 以 上 踏 み 込 むことは しない. 現 実 性 原 理 RAの 否 定 は, 心 理 主 義 の 議 論 の 前 提 を 攻 撃 することで, そこからの 帰 結 を 防 ぐものであったという 点 で,いわば 消 極 的 な 主 張 にすぎな かった.では 反 心 理 主 義 の 積 極 的 な 主 張 は 何 なのか.つまり 反 心 理 主 義 は 何 ゆ えに 行 為 の 理 由 が M(p) でなく p であると 考 えるのか. 出 発 点 は 通 常, 行 為 を 説 明 するのは, 目 的 や 事 実 であって, 行 為 者 の 心 的 状 態 ではない という 直
216 観 にあった.なるほど, 虫 についての 私 の 信 念 が 真 である 通 常 のケース1とケ ース3でも, 友 人 の 背 中 を 叩 くという 私 の 行 為 は, 虫 を 追 い 払 おうと 思 った のだ や 虫 がいると 思 ったのだ という 自 らの 心 的 状 態 に 言 及 した 形 で 説 明 できるように 思 われる.だがたとえそれが 可 能 であったとしても, 虫 を 追 い 払 ったのだ や 虫 がいたのだ といった 目 的 や 事 実 に 言 及 した 説 明 の 方 がな お 適 切 であるという 直 観 が 働 かないだろうか.もし 働 くとしたら,それは 一 体 なぜなのか. 0 0 0 0 これまで 行 為 の 理 由 を, 行 為 を 説 明 する ものとして 語 ってきたが, 行 為 の 理 0 0 0 0 0 由 には 行 為 を 説 明 する 役 割 だけでなく, 行 為 を 正 当 化 する役 割 もあり,このこ とが 近 年 注 目 を 集 めている 3.ケース1やケース3で 虫 を 追 い 払 ったのだ や 虫 がいたのだ と 言 うことによって 私 は, 友 人 の 背 中 を 叩 く という 一 見 良 いところのないように 見 える 行 為 を,その 良 い 点 を 示 すことで 正 当 化 して いるのである 4.そして 説 明 と 正 当 化 という 理 由 の 二 つの 役 割 は, 互 いに 独 立 0 0 0 0 0 0 したものではなく,たとえばケース1やケース3において 行 為 は 正 当 化 される 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ことによって 説 明 され, 虫 がいなかったために 行 為 が 正 当 化 されないケース2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 やケース4では,もし 虫 がいたなら 行 為 を 正 当 化 していただろうものによって 0 0 0 0 0 説 明 される.このことから, 次 の 反 心 理 主 義 の 核 心 的 なテーゼが 出 てくる. 5 規 範 制 約 行 為 を 説 明 する 理 由 は,その 行 為 を 正 当 化 しうるものでなけれ ばならない. ではどのようなものが 行 為 を 正 当 化 しうるのだろうか. 友 人 の 背 中 を 叩 くと いう 私 の 行 為 を 正 当 化 しうるのは, 虫 を 追 い 払 う という 目 的 や 虫 がいる という 事 態 などである. 前 者 の 目 的 は, 行 為 がそれを 実 現 する( 実 際 に 虫 を 追 い 払 う)ことによって 現 に 行 為 を 正 当 化 し, 後 者 の 事 態 は,それが 事 実 として 成 立 する( 実 際 に 虫 がいる)ことによって 現 に 行 為 を 正 当 化 する.これに 対 し て, 虫 を 追 い 払 おうと 思 った や 虫 がいると 思 った によって 指 示 される 私 の 心 的 状 態 は, 私 の 行 為 を 正 当 化 しうるものではないように 思 われる. 次 の
行 為 の 理 由 に 関 する 心 理 主 義, 反 心 理 主 義, 選 言 説 217 例 を 考 えてみよう. 私 は 常 に 誰 かに 尾 行 されていると 思 っている.そこで 常 に 誰 かに 尾 行 されている という 事 態 は,もしそれが 事 実 なら, 私 が 警 察 に 行 くことを 正 当 化 するだろう. 他 方, 常 に 誰 かに 尾 行 されていると 思 っている ということは,たとえそれが 事 実 だとしても, 私 が 警 察 に 行 くことを 正 当 化 し ない.それが 正 当 化 するのはせいぜい 私 が 病 院 に 行 くことだろう.それゆえ, p がある 行 為 を 正 当 化 するとき,M(p) は 無 害 な 例 外 6 を 除 いて その 行 為 を 正 当 化 しないと 言 えよう 7. 以 上 によって, 通 常, 行 為 を 説 明 するのは, 目 的 や 事 実 であって, 行 為 者 の 心 的 状 態 ではない という 直 観 の 根 拠 が 示 されたと 考 えられる.つまり 行 為 を 説 明 する 理 由 が 目 的 や 事 実 であるのは, 行 為 を 説 明 する 理 由 は 行 為 を 正 当 化 しうるものでなければならないからであり( 規 範 制 約 ),そして 目 的 や 事 実 は 行 為 を 正 当 化 しうるからである. 他 方, 行 為 を 説 明 する 理 由 が 行 為 者 の 心 的 状 態 ではありえないのは, 心 的 状 態 は 行 為 を 正 当 化 しえないゆえに 規 範 制 約 を 満 たさないからである.こうして 反 心 理 主 義 は 規 範 制 約 に 訴 えることで 心 理 主 義 を 退 け, 自 らの 主 張 を 擁 護 するのである. 本 節 の 最 後 に, 目 的 と 事 態 ないし 事 実 の 間 で,どちらがより 行 為 の 理 由 とし て 相 応 しいかについて 述 べておきたい.まずダンシーは 行 為 の 理 由 を 事 態 ない し 事 実 と 考 えるが, 事 実 は 行 為 者 の 信 念 が 偽 のときには 理 由 になりえないゆ え, 事 態 の 方 が 相 応 しいであろう.つまり 行 為 者 の 信 念 が 真 のときは 成 立 した 事 態 (すなわち 事 実 )が 行 為 の 理 由 であり, 偽 のときには 成 立 していない 事 態 が 行 為 の 理 由 となる.だがこの 考 えに 対 し, 私 は 目 的 こそ 行 為 の 理 由 としてよ り 相 応 しいものであると 考 える.ここでは 私 の 考 えへの 決 定 的 な 支 持 となるも のではないが, 少 なくとも 動 機 づけるものとして, 再 び 知 覚 の 哲 学 との 同 型 性 に 訴 えかけたい. 反 心 理 主 義 は 心 理 主 義 の 議 論 の 前 提 のうち 現 実 性 原 理 RAを 否 定 していたが, 知 覚 に 関 してそれに 対 応 する 現 実 性 原 理 Pを 否 定 していたの は 志 向 説 であったゆえ, 反 心 理 主 義 は 志 向 説 と 対 応 関 係 にある 立 場 であると 言 える.ところで 志 向 説 は 単 に 現 実 性 原 理 Pを 否 定 しただけでなく, 知 覚 と 幻 覚 をそれぞれ 現 実 を 志 向 する 状 態 として 捉 えていた. 対 象 の 存 在 を 含 意 しないこ
218 とが 志 向 性 の 一 特 徴 であるゆえ, 幻 覚 が 志 向 的 状 態 であることは, 幻 覚 におい て 主 体 が 気 づいているものが 存 在 しないことをよく 説 明 する.こうした 志 向 説 に 倣 い, 反 心 理 主 義 も 志 向 性 の 概 念 を 導 入 することでその 理 論 をより 完 成 した ものに 近 づけられると 私 は 考 える.それによれば, 行 為 の 理 由 は 行 為 者 によっ 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 て 志 向 されたこと 行 為 者 が 志 向 する という 心 的 事 実 ではない,すな わち 行 為 の 目 的 である. 志 向 されたことは 必 ずしも 成 立 しているとは 限 らない ので,そのことは 行 為 者 の 信 念 が 偽 のとき, 理 由 が 成 立 しているものではない ことをよく 説 明 する. 友 人 の 背 中 を 叩 く 行 為 において,そこでは 虫 を 追 い 払 う ことが 志 向 されているが, 虫 がいる という 事 態 はその 行 為 によって 志 向 さ れ 実 現 が 目 指 され ていることではない.むしろ 虫 がいる という 事 態 は,それが 成 立 していることにより, 友 人 の 背 中 を 叩 く という 行 為 を 虫 を 追 い 払 う と 記 述 可 能 にする 条 件 であり,それはそのような 条 件 であること によって, 二 次 的 な 仕 方 で 行 為 の 理 由 となっているにすぎず, 一 次 的 な 理 由 は 虫 を 追 い 払 う という 記 述 によって 定 められた 行 為 の 目 的 であるように 考 え られる. 2.3 選 言 説 行 為 の 理 由 に 関 する 選 言 説 は, 知 覚 に 関 する 選 言 説 が 共 通 項 原 理 Pを 否 定 し たのに 対 応 して, 共 通 項 原 理 RAを 否 定 する.つまり 行 為 の 理 由 に 関 する 選 言 説 は, 行 為 者 の 信 念 が 真 であるか 偽 であるかに 応 じて, 行 為 の 理 由 の 種 類 が 異 なったものになると 考 えるのである.すなわちそれによれば, 行 為 者 の 信 念 が 真 のときの 行 為 の 理 由 は p であるが, 偽 のときには M(p) になる 8. 選 言 説 は 行 為 者 の 信 念 が 真 のときの 行 為 の 理 由 を p とするゆえ, 通 常, 行 為 を 説 明 す るのは, 目 的 や 事 実 であって, 行 為 者 の 心 的 状 態 ではない という 直 観 を 守 る ことができるという 長 所 をもっている.また, 行 為 者 の 信 念 が 真 のときも 偽 の ときも, 成 立 しているものを 行 為 の 理 由 とするゆえ, 現 実 性 原 理 RAを 保 持 で きるという 長 所 ももっている.そのように 選 言 説 は, 心 理 主 義 と 反 心 理 主 義 の
行 為 の 理 由 に 関 する 心 理 主 義, 反 心 理 主 義, 選 言 説 219 良 いとこ 取 りをしたような 立 場 なのであるが, 別 のところで 大 きな 問 題 を 抱 え ているように 思 われる. 以 下 では 二 つの 批 判 点 を 挙 げる. まず 選 言 説 は, 行 為 者 の 信 念 が 偽 の 場 合 に 関 して, 規 範 制 約 に 違 反 する. 規 範 制 約 によれば, 行 為 を 説 明 する 理 由 は 行 為 を 正 当 化 しうるものでなければな らなかったが, 選 言 説 は 行 為 者 の 信 念 が 偽 のときの 理 由 を 行 為 者 の 心 的 状 態 と するゆえ, 信 念 が 偽 の 場 合 に 関 してこの 規 範 制 約 に 反 してしまうのである. 実 際 ダンシーは, 選 言 説 に 対 してこの 点 を 批 判 している (Dancy 2000, 144).つま り 反 心 理 主 義 は, 心 理 主 義 に 対 するのと 同 じ 論 拠 によって 選 言 説 に 反 対 するの である. しかし 選 言 説 はさらなる 大 きな 問 題 を 内 部 に 抱 えているように 思 われる.そ れは 共 通 項 原 理 RAの 否 定 に 関 する. 私 は, 行 為 の 理 由 は 行 為 者 の 信 念 の 真 偽 にかかわらず 同 じものであるとする 共 通 項 原 理 RAは, 正 しいと 考 える.これ を 否 定 する 選 言 説 では, 行 為 者 の 信 念 の 真 偽 に 応 じて 行 為 の 理 由 がころころ 変 わることになってしまう. 次 のような 例 について 考 えてみよう. 私 は 山 頂 に 生 えていると 言 われる 薬 草 を 取 りに 山 を 登 り 始 めた. 登 り 始 めの 頃 には, 山 頂 に 薬 草 があるという 私 の 信 念 は 真 だった(つまり 実 際 に 山 頂 に 薬 草 が 生 えてい た).しかし 私 が 山 を 登 っている 途 中, 薬 草 は 他 の 動 物 によって 食 べられてし まい, 私 の 信 念 は 偽 になってしまった. 選 言 説 によれば, 薬 草 が 動 物 に 食 べら れた 瞬 間 に, 私 の 行 為 の 理 由 は,たとえば 山 頂 に 薬 草 があるという 事 実 から, 山 頂 に 薬 草 があるという 信 念 へと 変 化 したことになる.そして 私 は, 自 分 が 山 に 登 る 理 由 がどちらであるか, 山 頂 に 達 して 薬 草 があるかどうかを 確 認 してみ るまで 分 からない.このことは,アンスコムによって 示 唆 された 行 為 の 理 由 は 行 為 者 によって 観 察 によらずに 知 られる という 基 本 テーゼに 反 する. 選 言 説 はいくら 他 のところで 長 所 をもっているとしても,この 問 題 を 抱 えるかぎり, 支 持 しえない 立 場 であると 思 われる.
220 結 論 本 論 文 は, 知 覚 の 哲 学 における 代 表 的 な 三 つの 立 場 を 参 照 しながら,それぞ れがどの 前 提 を 肯 定 し,また 否 定 するかによって, 行 為 の 理 由 に 関 する 心 理 主 義, 反 心 理 主 義, 選 言 説 の 間 の 関 係 を 整 理 した. 結 果 として 以 下 のような 表 が 得 られる. 本 論 文 ではまた, 反 心 理 主 義 を 擁 護 する 議 論 を 素 描 的 な 形 で 展 開 し, 志 向 説 によって 動 機 づけられつつ, 行 為 の 理 由 が 行 為 において 志 向 されていること, すなわち 行 為 の 目 的 であると 主 張 した. 知 覚 に 関 する 理 論 行 為 の 理 由 に 関 する 理 論 現 実 性 原 理 共 通 項 原 理 現 実 性 原 理 共 通 項 原 理 現 実 性 原 理 共 通 項 原 理 センスデータ 論 志 向 説 選 言 説 心 理 主 義 反 心 理 主 義 選 言 説 註 0 0 0 0 0 0 0 1 本 稿 が 扱 うのは 行 為 の 理 由 に 関 する 選 言 説 だが, 行 為 に 関 する 選 言 説 というもの もある. 選 言 説 とは 一 般 的 に, 成 功 例 と 失 敗 例 の 間 の 共 通 項 を 否 定 する 考 えのこと であるが, 行 為 に 関 する 選 言 説 では, 行 為 の 成 功 と 失 敗 の 間 の 試 み (trying) とい う 共 通 項 や,また 行 為 と 単 なる 身 体 運 動 との 間 の 身 体 運 動 という 共 通 項 が, 否 定 される.これら 行 為 に 関 する 選 言 説 については 本 稿 では 扱 わない. 2 Fish (2010) では H. Robinson に 倣 って 現 象 原 理 と 呼 ばれているが,ここでは 行 為 の 理 由 についても 当 てはまるように 中 立 的 な 名 称 に 改 めた.またそれに 付 けら れた P は Perception の 頭 文 字 であり, 後 に 出 てくる RA は Reason for Action の 頭 文 字 である.
行 為 の 理 由 に 関 する 心 理 主 義, 反 心 理 主 義, 選 言 説 221 3 行 為 の 理 由 の 二 つの 役 割 と,それを 巡 る 諸 論 争 に 関 する 見 取 り 図 を 得 るには, Lenman (2009) を 参 照 するとよい. 4 ここである 行 為 を 正 当 化 するとは,その 行 為 の 良 い 点 を 示 すこと 以 上 でも 以 下 で もない. 後 述 のように, 私 は 目 的 こそ 一 次 的 に 行 為 を 正 当 化 するものだと 考 えるが, 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 目 的 は 多 くの 場 合,そのための 手 段 となっている 点 で ある 行 為 が 良 いということを 示 す. 5 規 範 制 約 という 名 称 はダンシーから 借 りてきているが (Dancy 2000, 103), 定 式 化 は 私 によるものである. 6 p と M(p) が 同 じ 行 為 を 正 当 化 するケースはたしかに 存 在 する.たとえば, 病 院 に 行 くことでなぜか 尾 行 がやむとき, 病 院 に 行 くことは 尾 行 されている と 尾 行 されていると 思 う の 双 方 によって 正 当 化 される. 0 0 7 本 段 落 後 半 は, 虫 がいると 思 った という 信 念 が 背 中 を 叩 く 行 為 を 正 当 化 しな 0 0 0 いことへの 説 明 にはなっているが, 虫 を 追 い 払 おうと 思 った という 意 図 ないし 欲 0 求 が 背 中 を 叩 く 行 為 を 正 当 化 しないことへの 説 明 にはなっていない. 後 者 に 関 する 議 論 のためには 別 稿 を 要 する. 8 ここでは 最 も 基 本 的 なアイデアにもとづいた, 素 朴 なタイプの 選 言 説 を 想 定 し,それに 対 する 批 判 を 行 っている.より 洗 練 された 行 為 の 理 由 に 関 する 選 言 説 は, Hornsby (2008) や Alvarez (2010) に 現 れている. 文 献 Alvarez, M., 2010, Kinds of Reasons: An Essay in the Philosophy of Action, Oxford UP. Dancy, J., 2000, Practical Reality, Oxford University Press. Fish, W., 2010, Philosophy of Perception: A Contemporary Introduction, Routledge. Haddock, A., & Macpherson, F. (ed.), 2008, Disjunctivism: Perception, Action, Knowledge, Harvard UP. Hornsby, J., 2008, A Disjunctive Conception of Acting for Reasons, in A. Haddock & F. Macpherson (ed.) Disjunctivism: Perception, Action, Knowledge, p. 244 261,
222 Harvard UP. Lenman, J., 2009, Reasons for Action: Justification vs. Explanation, in Edward N. Zalta (ed.) Stanford Encyclopedia of Philosophy <http://plato.stanford.edu/entries/ reasons-just-vs-expl/>.