「手に鍬、手に銃」、「手に網、手に銃」



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(4) ラスパイレス 指 数 の 状 況 ( 各 年 4 月 1 日 現 在 ) ( 例 ) ( 例 ) 15 (H2) (H2) (H24) (H24) (H25.4.1) (H25.4.1) (H24) (H24)

2 一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 (24 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 号 級 の 給 料 月 額 最 高 号 級 の 給 料 月 額 1 級 ( 単 位 : ) 2 級 3 級 4 級 5 級 6 級 7 級 8 級 9 級 1 級 135,6 185,8 222,9 261,

(2) 職 員 の 初 任 給 の 状 況 ( 平 成 17 年 4 月 1 日 現 在 ) 初 任 給 2 年 後 の 給 料 初 任 給 2 年 後 の 給 料 一 般 行 政 職 技 能 労 務 職 大 学 卒 171,1 151,5 19,2 164,7 17,7 184,4 中 学 卒 1

Microsoft Word - H24様式(那珂市版).doc

( 補 助 金 等 交 付 決 定 通 知 に 加 える 条 件 ) 第 7 条 市 長 は 交 付 規 則 第 11 条 に 規 定 するところにより 補 助 金 の 交 付 決 定 に 際 し 次 に 掲 げる 条 件 を 付 するものとする (1) 事 業 完 了 後 に 消 費 税 及 び

2 一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 (24 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 級 2 級 3 級 4 級 5 級 6 級 1 号 給 の 給 料 月 額 135,6 185,8 222,9 261,9 289,2 32,6 最 高 号 給 の 給 料 月 額 243,7 37,8 35

(4) ラスパイレス 指 数 の 状 況 ( 各 年 4 月 1 日 現 在 ) (H25.4.1) (H25.4.1) (H25.7.1) (H25.7.1) (H25.4.1) (H25.7.1)

2 一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 ( 平 成 22 年 4 月 1 日 現 在 ) ( 単 位 : ) 1 級 2 級 3 級 4 級 5 級 6 級 7 級 1 号 給 の 給 料 月 額 最 高 号 給 の 給 料 月 額 135,6 243,7 185,8 222,9 261,9

別紙3

2 職 員 の 平 均 給 与 月 額 初 任 給 等 の 状 況 (1) 職 員 の 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 及 び 平 均 給 与 月 額 の 状 況 ( 平 成 22 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 一 般 行 政 職 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 平 均 給 与

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2 一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 ( 平 成 24 年 4 月 1 日 現 在 ) ( 単 位 : ) 1 号 給 の 給 料 月 額 最 高 号 給 の 給 料 月 額 1 級 135,6 243,7 2 級 185,8 37,8 3 級 4 級 222,9 354,7 ( 注 )

2 役 員 の 報 酬 等 の 支 給 状 況 平 成 27 年 度 年 間 報 酬 等 の 総 額 就 任 退 任 の 状 況 役 名 報 酬 ( 給 与 ) 賞 与 その 他 ( 内 容 ) 就 任 退 任 2,142 ( 地 域 手 当 ) 17,205 11,580 3,311 4 月 1

3 職 員 の 平 均 給 与 月 額 初 任 給 等 の 状 況 (1) 職 員 の 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 及 び 平 均 給 与 月 額 の 状 況 ( 平 成 24 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 一 般 行 政 職 岐 阜 県 類 似 団 体 平 均 年 齢 平 均 給

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波佐見町の給与・定員管理等について

2 一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 ( 平 成 22 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 号 給 の 給 料 月 額 ( 単 位 : ) 1 級 2 級 3 級 4 級 5 級 6 級 7 級 135, , , , , ,600

2 一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 ( 平 成 2 年 月 1 日 現 在 ) 1 号 給 の 給 料 月 額 最 高 号 給 の 給 料 月 額 ( 注 ) 給 料 月 額 は 給 与 抑 制 措 置 を 行 う 前 のものです ( 単 位 : ) 3 職 員 の 平 均 給 与 月

(\202g22\214\366\225\\.xls)

Taro-契約条項(全部)

Taro-iryouhoken

技 能 労 務 職 公 務 員 民 間 参 考 区 分 平 均 年 齢 職 員 数 平 均 給 与 月 額 平 均 給 与 月 額 平 均 給 料 月 額 (A) ( 国 ベース) 平 均 年 齢 平 均 給 与 月 額 対 応 する 民 間 の 類 似 職 種 東 庄 町 51.3 歳 18 77

3 職 員 の 平 均 給 与 月 額 初 任 給 等 の 状 況 (1) 職 員 の 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 及 び 平 均 給 与 月 額 の 状 況 (24 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 一 般 行 政 職 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 平 均 給 与 月 額

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会津若松市人事行政の運営等の状況の公表について

退職手当とは

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(Microsoft Word - \213\213\227^\201E\222\350\210\365\212\307\227\235\214\366\225\\\201iH \)\201iHP\227p\201j.doc)

災害時の賃貸住宅居住者の居住の安定確保について

平成25年度 独立行政法人日本学生支援機構の役職員の報酬・給与等について

とする ( 減 免 額 の 納 付 ) 第 6 条 市 長 は 減 免 を 受 け た 者 が 偽 り そ の 他 不 正 な 方 法 に よ り 減 免 の 決 定 を 受 け た こ と を 知 っ た と き 前 の 申 告 が あ っ た と き 又 は 同 条 第 2 項 の 規 定 によ

2 一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 ( 平 成 23 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 号 給 の 給 料 月 額 最 高 号 給 の 給 料 月 額 1 級 2 級 3 級 4 級 5 級 ( 単 位 : ) 6 級 7 級 8 級 135, , ,900 2

別紙3

一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 (4 年 4 月 日 現 在 ) ( 単 位 : ) 級 級 級 4 級 5 級 号 給 の 給 料 月 額 5, 85,,9,9 89, 最 高 号 給 の 給 料 月 額 4,7 7,8 54,7 88, 4, ( 注 ) 給 料 月 額 は 給 与

2 前 項 に 定 める 日 に 支 給 する 給 与 は 総 額 給 与 を12 分 割 した 額 ( 以 下 給 与 月 額 という ) 扶 養 手 当 住 居 手 当 通 勤 手 当 単 身 赴 任 手 当 寒 冷 地 手 当 及 び 業 績 手 当 並 びに 前 月 分 の 超 過 勤 務

(5) 給 与 制 度 の 総 合 的 見 直 しの 実 施 状 況 概 要 国 の 給 与 制 度 の 総 合 的 見 直 しにおいては 俸 給 表 の 水 準 の 平 均 2の 引 下 げ 及 び 地 域 手 当 の 支 給 割 合 の 見 直 し 等 に 取 り 組 むとされている 総 合 的

3 職 員 の 平 均 給 与 月 額 初 任 給 等 の 状 況 (1) 職 員 の 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 及 び 平 均 給 与 月 額 の 状 況 (23 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 一 般 行 政 職 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 平 均 給 与 月 額

Taro-事務処理要綱250820

技 能 労 務 職 平 均 年 齢 歳,7 平 均 給 料 月 額 歳 7,,8, 歳,9,57, 7,7 7,9 9,5 - (8,85) (5,) 類 似 団 体 5. 歳 9,8 9, 85, ( 注 ) 平 均 給 料 月 額 とは 平 成 5 年 月 日 現 在 における

(5) 給 与 制 度 の 総 合 的 見 直 しの 実 施 状 況 について 概 要 の 給 与 制 度 の 総 合 的 見 直 しにおいては 俸 給 表 の 水 準 の 平 均 2の 引 き 下 げ 及 び 地 域 手 当 の 支 給 割 合 の 見 直 し 等 に 取 り 組 むとされている

Microsoft Word - 【溶け込み】【修正】第2章~第4章

(4) ラスパイレス 指 数 の 状 況 (H20.4.1) 96.7 (H25.4.1) (H25.7.1) (H25.4.1), (H25.4.1) 参 考 値 98.3 (H25.7.1) (H20.4.1) (H25.4

< EC8E F58B8B975E8CF6955C8CB48D652E786C73>

2 一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 ( 平 成 24 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 級 2 級 3 級 4 級 5 級 ( 単 位 : ) 6 級 7 級 8 級 1 号 給 の 給 料 月 額 135,6 185,8 222,9 261,9 289,2 32,6 366,2 41

(5) 給 与 改 定 の 状 況 事 委 員 会 の 設 置 なし 1 月 例 給 事 委 員 会 の 勧 告 民 間 給 与 公 務 員 給 与 較 差 勧 告 A B A-B ( 改 定 率 ) 給 与 改 定 率 ( 参 考 ) 国 の 改 定 率 24 年 度 円 円 円 円 ( ) 改

2 一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 ( 平 成 24 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 号 給 の 給 料 月 額 最 高 号 給 の 給 料 月 額 1 級 135,6 2 級 185,8 ( 注 ) 給 料 月 額 は 給 与 抑 制 措 置 を 行 う 前 のものである 3 級

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別 紙 第 号 高 知 県 立 学 校 授 業 料 等 徴 収 条 例 の 一 部 を 改 正 する 条 例 議 案 高 知 県 立 学 校 授 業 料 等 徴 収 条 例 の 一 部 を 改 正 する 条 例 を 次 のように 定 める 平 成 26 年 2 月 日 提 出 高 知 県 知 事 尾

一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 ( 平 成 年 月 1 日 ) ( 単 位 : ) 1 級 級 級 級 5 級 級 1 号 給 の 給 料 月 額 15, 185,8,9 1,9 89,, 最 高 号 給 の 給 料 月 額,7 9, 5, 9,1,5, ( 注 ) 給 料 月 額 は

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(4) 運 転 する 学 校 職 員 が 交 通 事 故 を 起 こし 若 しくは 交 通 法 規 に 違 反 したことにより 刑 法 ( 明 治 40 年 法 律 第 45 号 ) 若 しくは 道 路 交 通 法 に 基 づく 刑 罰 を 科 せられてから1 年 を 経 過 していない 場 合 同

岡山県警察用航空機の運用等に関する訓令

2 役 員 の 報 酬 等 の 支 給 状 況 役 名 法 人 の 長 理 事 理 事 ( 非 常 勤 ) 平 成 25 年 度 年 間 報 酬 等 の 総 額 就 任 退 任 の 状 況 報 酬 ( 給 与 ) 賞 与 その 他 ( 内 容 ) 就 任 退 任 16,936 10,654 4,36

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(4) 給 与 制 度 の 総 合 的 見 直 しの 実 施 状 況 について 1 給 料 表 の 見 直 し [ 実 施 ] 実 施 内 容 ( 給 料 表 の 改 定 実 施 時 期 ) 平 成 27 年 4 月 1 日 ( 内 容 ) 行 政 職 給 料 表 について 国 の 見 直 し 内

入 札 参 加 者 は 入 札 の 執 行 完 了 に 至 るまではいつでも 入 札 を 辞 退 することができ これを 理 由 として 以 降 の 指 名 等 において 不 利 益 な 取 扱 いを 受 けることはない 12 入 札 保 証 金 免 除 13 契 約 保 証 金 免 除 14 入

2 一 般 行 政 職 給 料 表 の 現 況 ( 平 成 22 1 号 給 の 給 料 月 額 137,9 188,9 226,7 266,4 294,3 最 高 号 給 の 給 料 月 額 247,9 314,9 362,8 399,9 415,1 ( 注 ) 給 料 月 額 は 給 与 抑 制

職 員 の 初 任 給 等 の 状 況 () 職 員 の 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 及 び の 状 況 ( 年 4 月 日 現 在 ) 一 般 行 政 職 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 ( ベース) 44. 歳 6,4, 歳,44 4,7 7,6 4. 歳 7,

有 料 老 ホーム ( ) ( 主 として 要 介 護 状 態 にある を 入 居 させるも のに 限 る ) 第 29 条 ( 届 出 等 ) 第 二 十 九 条 有 料 老 ホーム( 老 を 入 居 させ 入 浴 排 せつ 若 しくは 食 事 の 介 護 食 事 の 提 供 又 はその 他 の

定款  変更

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別 表 1 土 地 建 物 提 案 型 の 供 給 計 画 に 関 する 評 価 項 目 と 評 価 点 数 表 項 目 区 分 評 価 内 容 と 点 数 一 般 評 価 項 目 立 地 条 件 (1) 交 通 利 便 性 ( 徒 歩 =80m/1 分 ) 25 (2) 生 活 利 便

第1章 総則

送 信 局 を 電 気 通 信 事 業 者 に 貸 し 付 けるとともに 電 気 通 信 事 業 者 とあらかじめ 契 約 等 を 締 結 する 必 要 があること なお 既 に 電 気 通 信 事 業 者 において 送 信 局 を 整 備 している 地 域 においては 当 該 設 備 の 整 備

(4) ラスパイレス 指 数 の 状 況 H H H5.4.1 ( 参 考 値 ) 97.1 H H H H5.4.1 H H5.4.1 ( 参 考

兵庫県公立学校教職員等財産形成貯蓄事務取扱細則

第 3 章 会 員 ( 会 員 の 資 格 ) 第 5 条 協 会 の 会 員 は 協 会 の 目 的 に 賛 同 して 入 会 した 次 の 各 号 に 掲 げる 者 とする (1) 軽 種 馬 を 生 産 する 者 (2) 軽 種 馬 を 育 成 する 者 (3) 馬 主 (4) 調 教 師 (

2 職 員 の 平 均 給 与 月 額 初 任 給 等 の 状 況 (1) 職 員 の 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 及 び 平 均 給 与 月 額 の 状 況 (26 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 一 般 行 政 職 区 分 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 平 均 給 与

平成16年年金制度改正 ~年金の昔・今・未来を考える~

(5) 給 与 改 定 の 状 況 1 月 例 給 事 委 員 会 の 勧 告 ( 参 考 ) 区 分 民 間 給 与 公 務 員 給 与 較 差 勧 告 給 与 改 定 率 国 の 改 定 率 A B A-B ( 改 定 率 ) 19 年 度 ( ) 0.0 ( 注 ) 民 間 給 与 公 務 員

( 注 )1 ラスパイレス 指 数 とは 全 地 方 公 共 団 体 の 一 般 行 政 職 の 給 料 月 額 を 一 の 基 準 で 比 較 するため の 職 員 数 ( 構 成 )を 用 いて 学 歴 や 経 験 年 数 の 差 による 影 響 を 補 正 し の 行 政 職 俸 給 表 (

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私立大学等研究設備整備費等補助金(私立大学等

2 一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 ( 平 成 24 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 号 給 の 給 料 月 額 最 高 号 給 の 給 料 月 額 ( 注 ) 給 料 月 額 は 給 与 抑 制 措 置 を 行 う 前 のものである ( 単 位 : ) 5 級 6 級 職 員 の

参 考 改 正 災 害 対 策 基 本 法 1 ( 災 害 時 における 車 両 の 移 動 等 ) 第 七 十 六 条 の 六 道 路 管 理 者 は その 管 理 する 道 路 の 存 する 都 道 府 県 又 はこれに 隣 接 し 若 しくは 近 接 する 都 道 府 県 の 地 域 に 係

(2) 懲 戒 については 戒 告 は 3 ヵ 月 減 給 は 6 ヵ 月 停 職 は 9 ヵ 月 4 病 気 休 暇 休 職 欠 勤 により 勤 務 しなかった 職 員 が 再 び 勤 務 するに 至 った 場 合 において 他 の 職 員 との 均 衡 上 必 要 があると 認 められるときは

(5) 給 与 制 度 の 総 合 的 見 直 しの 実 施 状 況 について 概 要 国 の 給 与 制 度 の 総 合 的 見 直 しにおいては 俸 給 表 の 水 準 の 平 均 2%の 引 下 げ 及 び 地 域 手 当 の 支 給 割 合 の 見 直 し 等 に 取 り 組 むとされている

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2 一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 ( 平 成 24 年 4 月 1 日 現 在 ) ( 単 位 : 円 ) 1 級 2 級 3 級 4 級 5 級 6 級 1 号 給 の 給 料 月 額 135, , , , , ,600 最

2 技 能 労 務 職 公 務 員 民 間 参 考 区 分 平 均 年 齢 職 員 数 平 均 給 料 月 額 平 均 給 与 月 額 (A) 平 均 給 与 月 額 ( 国 ベース) 対 応 する 民 間 の 類 似 職 種 平 均 年 齢 平 均 給 与 月 額 (B) A/B 真 庭 市 49

3 職 員 の 平 均 給 与 月 額 初 任 給 等 の 状 況 (1) 職 員 の 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 及 び 平 均 給 与 月 額 の 状 況 ( 平 成 23 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 一 般 行 政 職 山 形 県 類 似 団 体 平 均 年 齢 41.4

2 前 項 前 段 の 規 定 にかかわらず 年 俸 制 教 職 員 から 申 し 出 があった 場 合 においては 労 使 協 定 に 基 づき その 者 に 対 する 給 与 の 全 額 又 は 一 部 を 年 俸 制 教 職 員 が 希 望 する 金 融 機 関 等 の 本 人 名 義 の 口

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平 成 34 年 4 月 1 日 から 平 成 37 年 3 月 31 日 まで 64 歳 第 2 章 労 働 契 約 ( 再 雇 用 希 望 の 申 出 ) 第 3 条 再 雇 用 職 員 として 継 続 して 雇 用 されることを 希 望 する 者 は 定 年 退 職 日 の3か 月 前 まで

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3 職 員 の 初 任 給 等 の 状 況 (1) 職 員 の 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 及 び の 状 況 (24 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 一 般 行 政 職 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 ( ベース) 43.7 歳 32, , ,321

スライド 1

(3) 職 員 の 初 任 給 の 状 況 ( 平 成 5 年 月 日 現 在 ) 決 定 初 任 給 採 用 年 経 過 後 給 料 月 額 大 学 卒 7, 8, 一 般 行 政 職 短 大 卒 9,8 6, 高 校 卒, 8,5 () 職 員 の 経 験 年 数 別 学 歴 別 平 均 給 料

職 員 の 平 均 給 与 月 額 初 任 給 等 の 状 況 (1) 職 員 の 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 及 び 平 均 給 与 月 額 の 状 況 (5 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 一 般 行 政 職 区 類 団 府 分 似 体 平 均 年 齢

(2) 勤 続 5 年 を 超 え 10 年 までの 期 間 については 勤 続 期 間 1 年 につき 本 俸 月 額 の100 分 の140 (3) 勤 続 10 年 を 超 え 20 年 までの 期 間 については 勤 続 期 間 1 年 につき 本 俸 月 額 の100 分 の180 (4)

【労働保険事務組合事務処理規約】

(5) 給 与 改 定 の 状 況 該 当 なし ( 事 委 員 会 を 設 置 していないため) 1 月 例 給 事 委 員 会 の 勧 告 ( 参 考 ) 民 間 給 与 公 務 員 給 与 較 差 勧 告 給 与 改 定 率 国 の 改 定 率 A B AB ( 改 定 率 ) 年 度 ( )

1 総括

2 条 ) ア 育 児 休 業 の 対 象 とならない 職 員 ( 法 第 2 条 及 び 条 例 第 2 条 関 係 ) (ア) 臨 時 的 に 任 用 される 職 員 (イ) 育 児 休 業 に 係 る 期 間 を 任 期 と 定 めて 採 用 された 職 員 (ウ) 勤 務 延 長 職 員 (

は 固 定 流 動 及 び 繰 延 に 区 分 することとし 減 価 償 却 を 行 うべき 固 定 の 取 得 又 は 改 良 に 充 てるための 補 助 金 等 の 交 付 を 受 けた 場 合 にお いては その 交 付 を 受 けた 金 額 に 相 当 する 額 を 長 期 前 受 金 とし

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高松市緊急輸送道路沿道建築物耐震改修等事業補助金交付要綱(案)

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東 京 外 国 語 大 学 論 集 第 84 号 (2012) 325 手 に 鍬 手 に 銃 手 に 網 手 に 銃 今 井 昭 夫 はじめに 1. 調 査 地 と 調 査 方 法 2. 破 壊 戦 争 が 熾 烈 だったクアンビン 省 3. 合 作 社 とベトナム 戦 争 4. 民 兵 の 組 織 と 活 動 5. 基 層 幹 部 と 文 化 補 習 おわりに はじめに 本 研 究 ノートは 2010 年 3 月 4 日 ~3 月 9 日 にかけてベトナム 北 中 部 クアンビン(Quảng Bình) 省 で 実 施 した 元 民 兵 等 のベトナム 戦 争 に 関 する 聞 き 取 り 調 査 の 結 果 をまとめたものである 現 在 ベトナムの 軍 隊 は 主 力 部 隊 地 方 部 隊 自 衛 民 軍 ( 以 下 民 兵 と 略 す)の 大 きくは 3 種 類 に 分 けられている ベトナム 戦 争 期 において いわゆる 解 放 勢 力 側 はこれらの 軍 隊 のほ かに 準 軍 事 組 織 の 青 年 突 撃 隊 軍 事 物 資 輸 送 などのための 緊 急 動 員 組 織 民 工 火 線 などを 編 成 し 多 様 な 戦 争 動 員 体 制 を 構 築 していた そのうち 民 兵 は 基 層 の 社 (xã)レベルで 組 織 さ れ 地 方 の 共 産 党 支 部 政 権 の 指 導 の 下 通 常 の 労 働 に 従 事 しつつ 地 方 の 治 安 維 持 と 防 衛 を 担 当 した 共 産 党 指 導 下 の 民 兵 の 歴 史 は 第 1 回 党 大 会 で 出 された 労 農 自 衛 隊 に 関 する 決 議 (1935 年 3 月 28 日 )にまで 遡 る ヴォー グエン ザップ 大 将 によって 民 兵 は 次 のように 位 置 づけられている 正 規 軍 は 敵 の 活 発 な 勢 力 を 殲 滅 するために 機 動 戦 を 広 域 な 作 戦 地 に 導 くことを 任 務 としていた 地 方 軍 は 彼 らの 地 域 において 作 戦 行 動 を 行 い 正 規 軍 と パリ チザン 兵 やゲリラ 兵 たち( 筆 者 注 : 本 稿 でいう 民 兵 のこと)と 連 携 を 図 っていくことを 任 務 と していた そしてパルチザン 兵 とゲリラ 兵 は 彼 らの 村 落 を 防 衛 し 生 産 に 参 加 し さらには 戦 闘 の 準 備 の 際 にも 戦 闘 開 始 の 際 にも 正 規 軍 と 地 方 軍 とに 加 わることを 任 務 としていた [ザッ プ 2002:127] このように 民 兵 は 人 民 戦 争 の 戦 略 的 勢 力 とされ ベトナム 戦 争 後 もその 組 織 は 維 持 されている 今 世 紀 に 入 ってからは 法 制 化 も 進 んでいる( 自 衛 民 軍 法 令 2004 年

326 手 に 鍬 手 に 銃 手 に 網 手 に 銃 : 今 井 昭 夫 その 後 の 自 衛 民 軍 法 2009 年 ) 今 回 の 聞 き 取 り 調 査 は 筆 者 がこれまでの 調 査 の 対 象 にしてこなかった 旧 北 ベトナムの 民 兵 を 取 り 上 げることが 目 的 であった 民 兵 はベトナム 戦 争 において 基 層 の 人 民 レベルで 戦 争 の 遂 行 を 担 ってきた 存 在 であり われわれのベトナム 戦 争 のイメージの 中 でも 強 烈 な 印 象 を 残 して いるにもかかわらず その 実 態 については 一 部 のルポルタージュで 言 及 されているものの[ 本 多 1973:199] あまり 明 らかにされてきてはいない 民 兵 の 実 態 を 明 らかにしなければ 下 からの 視 線 のベトナム 戦 争 を 描 くことはできない 本 研 究 ノートはその 欠 落 を 若 干 でも 補 い ベトナム 戦 争 の 人 民 戦 争 性 の 一 端 を 解 明 しようとするものである 1. 調 査 地 と 調 査 方 法 今 回 の 調 査 はベトナム 北 中 部 クアンビン 省 において 実 施 した 調 査 地 のクアンビン 省 は ベ トナム 戦 争 中 旧 北 ベトナムの 最 南 端 の 省 で 旧 南 ベトナムと 軍 事 境 界 線 を 接 しており 地 上 戦 こそなかったものの 米 軍 による 破 壊 戦 争 が 熾 烈 に 展 開 され 民 兵 の 活 動 が 盛 んであった ところである クアンビン 省 は 東 には 南 シナ 海 に 面 した 海 岸 線 が 走 り 西 はラオスと 国 境 線 を 接 し 東 西 の 幅 が 狭 く 最 も 狭 いところでラオス 国 境 から 海 岸 まで 約 60 キロしかない 南 北 に は 幹 線 道 路 の 国 道 1 号 線 が 貫 いている クアンビン 省 はホーチミン ルートの 起 点 の 一 つとも 考 えられ( 現 在 はゲアン 省 とする 考 えが 有 力 ) ベトナム 戦 争 中 にホーチミン ルートの 建 設 や そこでの 輸 送 任 務 等 に 従 事 した 人 が 多 く ベトナム 戦 争 期 の 青 年 突 撃 隊 の 隊 員 数 は 全 国 で 第 3 位 と 多 い 1) 現 在 クアンビン 省 には1 市 6 県 あり 人 口 は 84 万 9271 人 (2010 年 )である 筆 者 が 聞 き 取 り 調 査 したのは 省 のほぼ 中 央 に 位 置 するボーチャック 県 ( 人 口 17 万 8460 人 )の フンチャック 社 ( 人 口 1 万 959 人 ) フーチャック 社 ( 人 口 3988 人 ) ハイチャック 社 ( 人 口 8707 人 )の3つの 社 である 2) この3 社 は 隣 接 しており フンチャック 社 とフーチャック 社 は 農 業 ( 主 に 米 とキャッサバを 栽 培 )を 主 要 な 生 業 としており 海 辺 から1キロほど 離 れている ホーチミン ルート 建 設 で 有 名 な 第 559 団 はフーチャック 社 に 長 期 間 駐 屯 していた ハイチャ ック 社 は 砂 地 の 海 辺 にあり 漁 業 が 主 な 生 業 となっている 3) 本 聞 き 取 り 調 査 はベトナム 国 立 社 会 学 研 究 所 の 協 力 を 得 て ボーチャック 県 退 役 軍 人 会 経 由 でフーチャック 社 とハイチャック 社 の2 社 の 退 役 軍 人 会 と 連 絡 をとり 2 社 の 退 役 軍 人 会 にインタビュイーを 斡 旋 していただき 実 現 した 基 本 的 にインタビューは 各 インタビュイー の 自 宅 で 実 施 した インタビューはベトナム 語 により 自 由 質 問 形 式 で 行 ない インタビュイー の 承 諾 をえて 録 音 した 録 音 したインタビューはテープ 起 こしして 文 字 資 料 化 している イン タビュイーは 以 下 のリストに 記 載 されている 15 人 である( 順 番 はインタビュー 順 ) 1 番 はフ ンチャク 社 在 住 2 番 から 10 番 がフーチャック 社 在 住 12 番 から 15 番 がハイチャック 社 在 住

東 京 外 国 語 大 学 論 集 第 84 号 (2012) 327 である(11 番 は 番 外 でソンチャック 社 在 住 ) インタビュイーの 多 くは 元 民 兵 である 3 番 6 番 10 番 11 番 は 元 民 兵 ではないが いずれも 社 レベルの 活 動 経 験 が 長 い 人 物 である 名 前 性 別 生 年 住 所 主 な 経 歴 備 考 1 ズオン 男 1936 年 フンチャック 社 社 人 民 委 員 会 主 席 社 隊 長 2 タン 男 1935 年 フーチャック 社 社 人 民 委 員 会 主 席 社 隊 長 社 党 委 書 記 3 エム 男 1923 年 フーチャック 社 社 党 委 書 記 社 主 席 県 副 主 席 県 党 委 組 織 委 員 長 1947 ~ 58 年 は 軍 隊 ( 中 尉 ) 4 ホン 女 1945 年 フーチャック 社 女 性 民 兵 子 供 の 疎 開 引 率 者 1971 ~ 72 年 は 民 工 火 線 に 5 ブオン 男 1933 年 フーチャック 社 民 兵 米 機 F111 を 撃 墜 6 ビン 男 1926 年 フーチャック 社 社 の 文 芸 委 員 長 教 員 7 ティー 女 1944 年 フーチャック 社 副 社 隊 長 8 クイ 男 1935 年 フーチャック 社 民 兵 ( 中 隊 長 ) 9 ズン 男 1941 年 フーチャック 社 民 兵 ( 小 隊 長 ) 10 ホアック 男 1926 年 フーチャック 社 農 会 書 記 社 青 年 団 書 記 社 主 席 社 党 委 書 記 11 ニュオン 男 1950 年 ソンチャック 社 クアンチ 省 隊 (1969~ 75 年 ) 合 作 社 主 任 社 人 民 委 員 会 主 席 青 年 突 撃 隊 記 念 館 の 管 理 人 12 ディエット 男 1933 年 ハイチャック 社 副 社 隊 長 漁 業 合 作 社 主 任 社 祖 国 戦 線 主 席 1952 ~ 60 年 は 軍 隊 ( 中 士 )

328 手 に 鍬 手 に 銃 手 に 網 手 に 銃 : 今 井 昭 夫 13 トー 男 1940 年 ハイチャック 社 社 青 年 団 書 記 14 ドン 女 1947 年 ハイチャック 社 民 兵 ( 中 隊 長 ) 製 塩 合 作 社 主 任 15 ルム 男 1928 年 ハイチャック 社 民 兵 ( 小 隊 長 ) 合 作 社 主 任 社 党 委 書 記 2. 破 壊 戦 争 が 熾 烈 だったクアンビン 省 抗 仏 戦 争 期 (1946~54 年 ) フーチャック 社 はまだ 鬱 蒼 とした 森 におおわれていた 現 在 は それほどの 森 はもはやない フンチャック 社 とフーチャック 社 は 解 放 区 で 海 辺 のハイチャッ ク 社 は 1947 年 2 月 から 1954 年 までフランス 占 領 地 区 だった そのためハイチャック 社 のル ム(15)はフンチャック 社 において 1952 年 からゲリラに 参 加 した クアンビン 省 は 上 述 したように 旧 北 ベトナムの 最 南 端 であった ホーチミン ルートの 起 点 とも 目 され 北 から 南 の 戦 場 に 行 く 部 隊 は ここで 軍 装 を 補 充 し 北 の 軍 装 は 送 り 返 して 南 に 持 ち 込 まないようにし 人 民 軍 隊 から 南 部 解 放 軍 に 変 身 した 軍 事 物 資 の 輸 送 は 国 道 1 号 線 で 北 からここまで 運 び さらにここからホーチミン ルートへ 運 ぶものが 多 かった ま たベトナム 国 土 で 最 も 横 幅 が 狭 く 海 岸 からラオス 国 境 までたったの 60 キロしかない 国 土 の 臍 で ここを 攻 撃 すれば 南 部 へのルートを 遮 断 扼 殺 することができた このような 地 理 上 の 要 衝 であったためベトナム 戦 争 中 北 爆 の 重 要 攻 撃 目 標 の 一 つで 地 上 戦 はなかったものの 海 からは 米 艦 船 による 艦 砲 射 撃 空 からは 米 機 による 爆 撃 が 激 しかった フンチャック 社 のズオ ン(1)によれば 数 万 トンの 爆 弾 が 投 下 され 一 人 当 たり 平 均 400~500 発 にものぼった 一 度 に 多 数 の 死 者 がでて 棺 桶 用 の 板 が 足 りなくなったこともあった フンチャック 社 では 1964 ~73 年 で 約 900 人 の 人 が 亡 くなり 1000 人 以 上 が 負 傷 したという(それに 対 し 戦 死 者 は 122 人 以 上 戦 場 での 負 傷 者 80 人 以 上 ) 戦 闘 ( 破 壊 戦 争 )は 1964 年 から 始 まった 1964 年 8 月 5 日 午 後 米 爆 撃 機 が 初 めて 当 地 に 襲 撃 してきた 初 日 は 爆 撃 せず 威 嚇 だけだった 翌 日 タインケーを 爆 撃 し 最 初 の 住 民 犠 牲 者 が7 人 出 た 1966 年 に 戦 争 は 次 第 に 激 しくなり 1967 年 にピークをむかえた 1967 年 に 当 地 では 多 くの 幹 部 が 犠 牲 となり 甚 大 な 損 害 がでた 毎 晩 爆 撃 があり 海 上 からの 砲 撃 もあ り 非 常 にこわかったとクイ(8)は 語 っている 海 岸 沿 いに 国 道 1 号 線 が 走 り 大 きな 橋 があ った そこへの 敵 の 攻 撃 は 激 しく 多 くの 耕 地 は 国 道 1 号 線 に 面 していたため 野 良 仕 事 に 出 かける 農 民 は 戦 場 に 赴 く 兵 士 と 異 ならなかった 1967~68 年 にフーチャック 社 はホーチミン ルート 建 設 で 有 名 な 第 559 団 の 食 糧 備 蓄 地 区 になっており ホアック(10)の 家 には 司 令 官 ド ン シー グエンの 避 難 壕 があった タン(2)によれば ベトナム 戦 争 中 当 時 のフーチャ

東 京 外 国 語 大 学 論 集 第 84 号 (2012) 329 ック 社 の 人 口 の 約 10%にあたる 200 人 以 上 の 住 民 が 死 亡 した 1964 年 からの 破 壊 戦 争 中 ハイチャック 社 には 誰 も 住 まず 民 兵 だけが 残 って 臨 戦 態 勢 をとっていた 民 兵 は 夜 は 臨 戦 態 勢 で 昼 は 山 に 避 難 した ソンチャック 社 は 観 光 地 の 世 界 遺 産 フォンニャケバンの 入 り 口 に 位 置 しているが 海 岸 から 奥 まっていて 艦 砲 射 撃 は 届 かなか った それでも 日 中 は 兵 士 と 青 年 突 撃 隊 隊 員 以 外 は 人 影 がなかった 1972 年 10 月 には 当 地 で の 戦 闘 はなくなった 破 壊 戦 争 には2 波 あった 第 1 波 は 1964~68 年 の 時 期 その 後 パ リ 和 平 交 渉 でアメリカは 北 緯 20 度 線 以 北 (タインホア 以 北 )の 爆 撃 を 停 止 し 北 緯 17~20 度 線 の 爆 撃 も 限 定 的 になった 1972 年 に 爆 撃 が 再 開 激 化 し 同 年 の4 月 から 10 月 まで 第 2 波 が 続 いた ボーチャック 県 は 敵 の 攻 撃 重 点 地 区 で 爆 撃 が 激 しかったので 子 ども 達 の 生 命 を 守 り 勉 学 ができる 環 境 を 確 保 するために 遠 く 離 れたニンビン 省 タインホア 省 への 疎 開 を 全 県 全 社 で 組 織 した ソンチャック 社 では 人 民 は 洞 窟 に 疎 開 し 外 に 住 んでいたのは 兵 士 と 民 兵 だけだ った 社 は 幹 部 党 員 の 子 弟 戦 死 者 の 子 弟 貧 しい 家 の 子 弟 や 孤 児 を 遠 く 離 れたタインホア 省 の K8 に 疎 開 させた 各 村 (thôn)で5~7 人 の 子 どもが 疎 開 した フーチャック 社 では 国 道 1 号 線 とリーホア 橋 に 近 い 地 区 の 人 は 山 向 こうに 疎 開 した しかし 社 での 耕 作 は 必 死 で 維 持 した フーチャック 社 のホン(4)は 子 ども 達 の K8 への 疎 開 を 引 率 した ホンが 子 ども 達 を K8 に 最 初 に 引 率 したのは 1968 年 だった 引 率 者 は1 社 1 人 だった 疎 開 する 子 どもは 片 親 以 下 の 子 どもか 兵 士 の 子 どもであった 子 どもの 年 齢 は 10~15 歳 で 人 数 は 30~40 人 持 って 行 けたのは 着 替 え1 着 だけだった フーチャック 社 では 子 ども 達 の 疎 開 を2 度 組 織 したが ホン が2 度 とも 引 率 し タインホア 省 のトスアン 県 とイエンディン 県 に 連 れて 行 った そこの 受 け 入 れ 家 族 はそれぞれ 一 人 の 子 どもを 預 かった 受 け 入 れ 家 族 には 疎 開 した 子 ども 分 の 米 が 国 家 から 配 給 された K8 の 子 ども 達 は 平 和 になるとフーチャック 社 に 戻 ってきた ハイチャック 社 では 破 壊 戦 争 の 時 期 女 子 供 老 人 は5~7キロ 離 れた 山 間 のソンロク 社 などに 疎 開 し 社 に 残 っていたのは 民 兵 だけだった 民 兵 のディエット(12)は1 週 間 に 一 度 家 族 のもとに 帰 った ハイチャック 社 では 17 歳 未 満 の 人 は K8 に 1967 年 から 疎 開 するようになった 聞 き 取 り 調 査 で 非 常 に 印 象 的 だったのは 戦 争 中 にほとんどの 人 が 家 を 何 度 も 焼 かれたと 語 っていたことである このことからも 当 地 への 爆 撃 がいかに 激 しかったかがよく 分 かる エ ム(3)によれば 当 地 では 夜 間 も 照 明 弾 が 連 続 的 に 撃 ち 込 まれ 人 民 の 家 が 火 事 になること が 多 かった しかし 数 日 すると 簡 便 な 家 屋 ではあるが どの 家 も 竹 や 萱 などを 使 って 直 ちに 再 建 された ズオン(1)は3 度 火 事 を 経 験 し 焼 け 出 されると 他 人 の 家 にいって 寄 寓 した どの 家 も 宿 代 を 要 求 しなかった その 頃 は 皆 すすんでそうした という ブオン(5)も 何 度 も 火 事 にあい 覚 えきれないくらいだという 火 事 になれば 民 兵 中 隊 が 来 て 助 けてくれ 合 計

330 手 に 鍬 手 に 銃 手 に 網 手 に 銃 : 今 井 昭 夫 で 家 を3 度 建 て 直 したという クイ(8)は 何 度 も 家 を 焼 かれ 7 度 建 て 直 した ホアック(10) の 家 も2 3 度 火 事 になった フーチャック 社 には 山 場 隊 という 組 織 があり 木 材 を 切 り 出 し 防 空 壕 家 屋 学 校 の 建 築 を 行 なった 人 々は 家 を 何 度 焼 かれても 家 を 再 建 した それ を 支 える 地 域 の 仕 組 みがあり 民 兵 もその 重 要 な 一 翼 を 担 っていた 3. 合 作 社 とベトナム 戦 争 旧 北 ベトナムでは 1958 年 から 農 業 集 団 化 が 始 まり 1960 年 年 代 初 には 基 本 的 に 合 作 化 が 完 了 し 1960 年 代 末 までには 合 作 社 の 大 半 が 高 級 合 作 社 化 していた 合 作 社 の 形 成 された 時 期 は ほぼベトナム 戦 争 が 開 始 され 激 化 した 時 期 と 重 なっており 合 作 社 は 人 員 物 資 の 供 出 におい て 戦 争 遂 行 に 大 きな 役 割 を 果 たしてきた ボーチャック 県 の3 社 における 合 作 社 と 戦 争 との 関 わりの 様 子 を 以 下 ではみていきたい (1)フンチャック 社 ズオン(1)によれば ベトナム 戦 争 中 フンチャク 社 は 米 の 収 穫 量 が 年 に 約 900 トンあり 毎 年 の 国 家 への 納 入 義 務 が 300 トン さらに 奨 励 分 が 100 トンで 合 計 400 トンを 納 め 残 りの 500 トンを 社 の 人 々で 分 配 した( 一 人 当 たり 平 均 で1か 月 に 米 5~7キロだった) つまりフン チャック 社 は 米 の 収 穫 量 の 半 分 近 くを 国 家 に 供 出 していたことになる この 供 出 を 実 際 に 担 当 したのが 農 業 合 作 社 である フンチャック 社 では 1968 年 に 社 全 体 が1つの 合 作 社 ( 高 級 合 作 社 ) になった 生 産 は4つの 区 域 に 分 けられ それぞれに 生 産 隊 があった 各 隊 は 防 空 壕 をもち 田 んぼを 放 置 せずに 生 産 し 着 弾 痕 を 放 置 せず 土 地 を 最 大 限 に 活 かす がスローガンに 掲 げ られ 激 しい 爆 撃 下 でも 耕 地 を 荒 らさなかった それは 住 民 の 生 活 を 支 えると 同 時 に 戦 場 に 食 糧 を 供 出 するためでもあった 民 兵 たちは 農 業 合 作 社 の 労 働 点 数 制 度 で 生 計 をたてていて 民 兵 としての 給 料 や 労 働 点 数 が 出 ていたわけではなかった ただフンチャック 社 では 臨 戦 態 勢 の 時 は1 日 につき 12~15 点 の 労 働 点 数 がついた もし 民 兵 の 家 族 が 一 人 当 たり 一 か 月 米 15 キ ロの 分 配 を 満 たすことができなければ 合 作 社 が 補 助 して 調 節 し 規 定 量 を 満 たすように した タン(2)によれば フンチャック 社 では 民 兵 が 道 路 補 修 するのも 労 働 点 数 に 勘 定 され た しかしフーチャック 社 ではそれは 労 働 点 数 に 加 算 されなかった このように 労 働 点 数 のつ け 方 は 合 作 社 により 若 干 の 違 いがあった (2)フーチャック 社 フーチャック 社 は 1960 年 に 合 作 社 を 組 織 し 始 めた ホン(4)の 家 が 合 作 社 に 加 入 したのは 1962 年 だった フーチャック 社 では 1968 年 に 高 級 合 作 社 化 した 籾 は1キロも 不 足 なく 軍 隊 は1 人 も 不 足 ない というスローガンにより 戦 争 中 の 物 資 と 人 員 の 供 出 が 促 された フー

東 京 外 国 語 大 学 論 集 第 84 号 (2012) 331 チャック 社 は 畜 産 が 盛 んではなく 豚 を 国 家 に 納 入 する 義 務 はなかったとタン(2)は 述 べて いる フーチャック 社 でも 民 兵 たちは 農 業 合 作 社 の 労 働 点 数 制 度 で 生 活 していた しかしその 労 働 に 応 じた 分 配 制 度 ばかりではなく 出 征 兵 士 の 家 族 等 を 支 援 する 制 度 もあった 兵 士 の 家 族 戦 死 者 の 家 族 にはその 分 の 労 働 力 がないため 労 働 点 数 に 応 じた 分 配 ではなく 国 家 から 若 干 の 現 金 の 支 給 があり(1か 月 数 ドン) 合 作 社 は 食 糧 等 を 定 量 で 当 該 家 族 に 配 給 した これは 食 糧 調 節 と 呼 ばれていた 食 糧 調 節 では 食 糧 等 の 配 給 量 は 確 保 されるものの 配 給 を 受 ける にはその 代 金 を 支 払 わなければならなかった 当 該 家 族 は 現 金 を 十 分 には 所 持 していない 場 合 が 多 く 通 常 は 合 作 社 がそれを 負 担 した エム(3)の 家 は 兵 士 の 家 庭 だったので 調 節 す なわち 定 量 の 配 給 を 受 け 各 人 が 米 雑 穀 毎 月 13 キロの 配 給 を 受 けた( 実 際 には 米 は 4 5 キ ロのみであとは 乾 燥 イモ キャッサバ) 布 は 毎 年 4メートルで1 年 に2 着 の 服 がつくれる 量 で あったが 実 際 は 品 薄 で 必 ずしも 買 えるとは 限 らなかった ティー(7)も 前 夫 が 南 部 への 出 征 兵 士 だったので その 手 当 を 受 け 取 っていた ベトナム 戦 争 中 は このように 合 作 社 には 労 働 点 数 制 度 と 定 量 制 度 による 分 配 が 併 存 し 後 者 によって 出 征 兵 士 や 戦 死 者 の 家 族 への 補 助 が 行 なわれていた 民 兵 にはそれ 自 体 としての 給 料 はなく 生 計 は 合 作 社 の 労 働 点 数 制 度 に 依 拠 し ふつうは 自 宅 で 食 事 をし 制 服 の 支 給 もなかった 当 時 米 は 十 分 にはなく 混 ぜご 飯 を 食 べた 衣 服 も 不 足 していた 布 の 配 給 はあったが 人 民 にはめったに 回 ってこず 幹 部 優 先 だった タン(2) は 社 隊 長 だったが 当 初 給 料 はなく 後 に7ドンほどが 出 るようになった 社 隊 長 は 県 より 手 提 げ 鞄 ピストル 弾 丸 (さらに 自 転 車 )を 支 給 されていた ホアック(10)によれば 当 初 社 の 幹 部 には 給 料 はなく 高 級 合 作 社 が 成 立 後 に 給 料 が 7.2 ドンでるようになった フーチャ ック 社 ではフンチャック 社 と 異 なり 民 兵 が 道 路 補 修 しても 労 働 点 数 に 勘 定 されず 県 が 動 員 した 常 勤 組 織 の 人 だけが 労 働 点 数 と 15 キロの 米 の 配 給 が 与 えられた また 爆 撃 等 により 破 壊 さ れた 耕 地 の 補 修 は 農 業 合 作 社 が 動 員 するので この 作 業 には 労 働 点 数 がつけられた ホン(4) によれば 民 兵 は 臨 戦 態 勢 の 時 も 何 の 支 給 制 度 もなく 家 で 食 事 し 衣 服 も 自 前 だった ホン が 民 工 火 線 で 動 員 された 時 には 食 事 は 支 給 されたが 衣 服 の 支 給 はなく 給 料 もなかっ た 帰 る 時 に 栄 養 剤 若 干 と 任 務 完 遂 証 明 書 をくれただけだった ブオン(5)は 国 家 は 軍 隊 を 優 先 し 民 兵 は 武 器 を 除 いて 自 給 自 足 だった と 語 る 日 々 臨 戦 態 勢 で 家 に 帰 れないこと が 多 く 農 業 や 家 のことは 妻 に 任 せきりで 労 働 点 数 もそれほど 稼 ぐことができなかった そ のためブオンの 家 では 米 が 不 足 し イモやキャッサバを 食 べた 合 作 社 による 調 節 の 補 助 がなければ 飢 えていたという ビン(6)は 編 制 外 の 代 用 教 員 で 給 料 米 の 支 給 はなかった 農 業 合 作 社 の 社 員 で 生 計 をまかなっていた 教 員 と 社 の 宣 伝 隊 員 としての 働 きは 無 給 だった

332 手 に 鍬 手 に 銃 手 に 網 手 に 銃 : 今 井 昭 夫 ティー(7)も 臨 戦 態 勢 の 時 の 食 事 等 は 自 弁 で 労 働 点 数 もつかず 民 兵 には 給 料 もなかっ た と 指 摘 する ティーが 県 の 党 学 校 で 研 修 している 時 は 手 当 や 衣 服 の 支 給 はないものの 食 事 がでた 1 日 に 0.5 キロでそのうち 米 は 0.2 キロのみで あとはイモ キャッサバの 混 ぜご 飯 で いつも 空 腹 だった という クイ(8)は 民 兵 中 隊 と 一 緒 に 集 団 生 活 をした 自 分 の 家 の 米 を 持 って 行 って 食 べた 不 発 弾 処 理 の 時 も 手 弁 当 でやった エム(3)は 次 のように 述 べる バオカップ 制 度 を 現 在 の 我 々は 批 判 するが 戦 争 中 はバオ カップ 制 度 がなければ 問 題 を 解 決 することはできなかった なぜなら 全 部 は 合 作 社 が 処 理 す るのに 依 拠 していたからで 棺 桶 から 家 屋 までみな 合 作 社 が 心 配 した 合 作 社 は 生 産 を 組 織 し 負 傷 兵 戦 死 者 の 家 族 や 南 部 出 征 兵 士 の 家 族 を 支 援 する 役 割 を 果 たしていた と (3)ハイチャック 社 ハイチャック 社 には 稲 田 がなく 主 に 漁 業 と 輸 送 業 で 生 活 していた 食 糧 は 国 家 から 配 給 さ れ 各 家 族 は 米 穀 通 帳 により 購 入 した ルム(15)によれば ハイチャック 社 では 1958 年 に 村 (thôn)レベルの3つの 漁 業 合 作 社 がつくられた 1961 年 に 社 (xã)レベルの 高 級 合 作 社 にな り ルムが 主 任 となった その 漁 業 合 作 社 は 船 を 30~40 隻 所 有 し 社 員 家 族 は 300 戸 以 上 あっ た ハイチャック 社 にはそのほかに 商 業 合 作 社 手 工 業 合 作 社 輸 送 合 作 社 信 用 合 作 社 があ ったが 人 数 は 少 なく 漁 業 合 作 社 が 一 番 大 きかった どの 合 作 社 にも 属 していない 個 体 戸 もごく 少 数 あった これらの 世 帯 は バオカップ を 受 けられず 子 弟 は 入 党 入 団 はできず 進 学 も 困 難 だった ハイチャック 社 の 漁 業 合 作 社 は 漁 獲 量 が 少 なく 目 標 を 達 成 することがな かなかできず 社 員 の 稼 ぎだけで 食 べていくのは 困 難 だった ルムにとって 一 番 困 難 な 時 期 は 1957 58 年 の 合 作 化 開 始 前 後 の 頃 と 破 壊 戦 争 の 時 だった 戦 争 当 時 党 員 は 約 150 名 いた が 男 性 党 員 は 妻 子 に 闇 商 売 しないように 教 育 しなければならなかった それができなかった 2 名 は 除 名 になった 食 糧 不 足 に 苦 しんだハイチャック 社 はフーチャック 社 から 土 地 を 借 り キャッサバ イモなどを 栽 培 し それで 漁 民 たちはようやく 飢 えないで 済 むようになった ハ イチャック 社 は 米 豚 鶏 を 国 家 に 納 入 しないかわりに 海 産 物 の 水 揚 げの 70%を 納 入 しなけ ればならなかった 残 りの 30%を 社 員 で 分 配 した ディエット(12)も 水 揚 げの 30%を 社 員 で 分 配 したと 指 摘 している 漁 業 合 作 社 での 女 性 は 2つの 仕 事 班 に 分 かれた 1つは 漁 網 づく りである もう1つは 製 塩 で 若 い 人 はたいてい 製 塩 に 従 事 した 毎 年 50~60 トンの 塩 を 生 産 して 南 の 戦 場 に 送 った 当 地 での 海 運 による 輸 送 業 は 抗 仏 戦 争 期 から 存 在 し その 頃 は 40~50 トンの 船 をもち 抗 仏 戦 争 に 服 務 するため 南 部 から 米 を 輸 送 した 抗 仏 戦 争 後 輸 送 合 作 社 ができ ハイフォン ク アンビン 間 で 石 炭 セメントなどの 輸 送 をおこなった ベトナム 戦 争 期 になると 合 作 社 の 輸

東 京 外 国 語 大 学 論 集 第 84 号 (2012) 333 送 船 は 40~50 トンと 大 きく 目 標 が 大 きいのですべて 攻 撃 されるようになり 合 作 社 員 は 乗 船 しなくなった 磁 気 機 雷 もこわかった 攻 撃 されないように 船 を 10 トン 以 下 に 小 型 化 し 南 の 戦 場 への 物 資 供 給 のためのハティンとクアンビン 間 の 輸 送 が 主 になった ハイチャック 社 の 青 年 団 は2つの 輸 送 隊 船 団 を 組 織 し 海 上 での 危 険 な 輸 送 を 担 当 した 30 人 で5 隻 の 船 団 だった ハイチャック 社 の 民 兵 は 漁 業 合 作 社 の 労 働 点 数 に 応 じた 分 配 によって 生 活 していた トー (13)によれば 民 兵 は 臨 戦 態 勢 や 道 路 補 修 の 時 も 食 事 道 具 は 自 弁 で 手 当 はなかった ド ン(14)も 民 兵 は 通 常 は 自 宅 で 食 事 をしたが 敵 の 攻 撃 が 激 しい 時 は 集 団 で 食 べることもあ ったという しかし 米 は 自 弁 だった 衣 服 も 自 弁 で 武 器 以 外 国 家 が 支 給 したものはなく 手 当 も 受 け 取 っていず まさに 至 公 無 私 だった 以 上 でみてきたように ベトナム 戦 争 中 合 作 社 は 人 員 と 物 資 を 戦 線 に 動 員 することに 関 し てすばらしい 能 力 を 発 揮 した 人 々の 生 計 は 合 作 社 社 員 としての 労 働 点 数 に 応 じた 分 配 に 依 拠 していた また 働 き 手 を 戦 場 にとられた 出 征 兵 士 等 の 家 族 に 対 しては 特 別 の 分 配 制 度 があり それは 合 作 社 が 負 担 した 民 兵 はほぼ 無 給 で 働 いたが 合 作 社 からの 調 節 等 の 補 助 もあり 最 低 限 の 生 活 は 保 証 されていた その 一 方 で 合 作 社 は 国 家 による 強 制 買 い 上 げ 制 度 の 過 重 負 担 深 刻 な 労 働 力 不 足 出 征 兵 士 等 の 家 族 や 民 兵 への 支 援 日 増 しに 肥 大 化 する 非 生 産 部 門 へ の 分 配 などによって 疲 弊 することにもなった 4. 民 兵 の 組 織 と 活 動 ベトナム 戦 争 中 各 社 (xã)には 民 兵 組 織 である 社 隊 が 置 かれて 社 の 防 衛 にあたったり 戦 争 に 服 務 したりした (1)フンチャック 社 フンチャク 社 では4つの 村 (thôn)にそれぞれ 大 隊 があり 2つの 射 撃 隊 があった 1つは 地 上 砲 の 射 撃 隊 で3 門 の 地 上 砲 を 擁 していた もう 一 つは 12.7mm 高 射 機 関 銃 の 射 撃 隊 で 3 つの 射 撃 班 があった 砲 手 は 当 初 男 性 だけだったが 後 に 女 性 も 砲 手 になった 社 には 幹 線 道 路 橋 の 近 くに3つの 陣 地 があった 敵 が 投 下 したパイナップル 爆 弾 やグアヴァ 爆 弾 はとても 危 険 だったという 4) 社 では 工 兵 隊 を 組 織 して 不 発 弾 処 理 をし 農 民 が 耕 作 できるようにし た (2)フーチャック 社 人 口 規 模 がフンチャック 社 の 半 分 足 らずのフーチャック 社 では 集 落 (xóm)ごとに 小 隊 村 (thôn)ごとに 中 隊 ( 約 30 人 )が 編 成 され 3 村 で3 中 隊 (11 小 隊 )の 約 100 人 の 民 兵 が

334 手 に 鍬 手 に 銃 手 に 網 手 に 銃 : 今 井 昭 夫 いた 民 兵 になるのは 18 歳 以 上 で 男 女 を 問 わなかった 民 兵 の 40%は 女 性 で 男 性 民 兵 の 多 くは 妻 子 持 ちだった 40 歳 以 上 の 人 もいた ティー(7)は 1962 年 から 民 兵 になった まだ 破 壊 戦 争 は 始 まっていなかったが 社 では 臨 戦 態 勢 をつくり 組 織 を 編 成 した ティーは 社 隊 副 隊 長 を 1966~69 年 に 務 めていたが 社 隊 の 司 令 部 は3 人 ( 隊 長 1 名 副 隊 長 2 名 )だけ で 副 隊 長 の 一 人 は 人 員 管 理 もう 一 人 は 政 策 工 作 を 担 当 した 副 隊 長 としてティーは 負 傷 兵 烈 士 の 家 族 と 子 弟 が 南 の 戦 場 に 行 っている 家 族 の 慰 問 をした 戦 闘 では 党 委 員 会 が 民 兵 を 指 導 し 民 兵 が 臨 戦 態 勢 をとる 場 所 も 党 委 員 会 が 指 導 した 党 委 員 会 が 最 も 重 要 であった その 頃 行 政 委 員 会 主 席 も 党 委 員 会 の 中 に 含 まれていた 1964 年 になると 社 は 民 兵 に1 丁 の 銃 と2 個 の 手 榴 弾 を 支 給 した 射 撃 は 社 隊 の 幹 部 が 県 隊 に 学 びに 行 き 帰 って 社 の 民 兵 に 撃 ち 方 を 教 えた 民 兵 は 毎 年 社 隊 から 訓 練 を 受 け 銃 と 弾 が 支 給 された ティー(7)によれば 武 器 は 社 隊 幹 部 には K53 一 般 民 兵 には K44 か CKC が 支 給 され 大 多 数 は K44 だった 中 隊 は 週 に 一 度 点 呼 があった 民 兵 には3つの 任 務 ( 戦 闘 戦 闘 服 務 生 産 )があり 民 兵 たちは 臨 戦 態 勢 の 隊 以 外 は 手 に 鍬 手 に 銃 でどこにいても 銃 を 携 行 し 戦 闘 機 が 襲 来 すれば 撃 ち 敵 がいなくなれば 生 産 に 戻 った ホン(4)は 通 常 は 自 宅 で 食 事 をするが 臨 戦 態 勢 になると 民 兵 の 集 団 で 食 事 した 昼 は 生 産 して 夜 は 海 岸 の 巡 回 をした 銃 は 家 に 持 ち 帰 って 手 入 れした 1962 年 から 頻 繁 に 臨 戦 態 勢 が 取 られていた 1964 年 8 月 5 日 から 米 機 が 襲 来 するようになり 防 空 壕 をつくる 運 動 が 始 まった エム(3)によ れば 時 にパイロットの 顔 が 見 えるほど 超 低 空 で 飛 んでくる 敵 の 爆 撃 機 を 狙 って 民 兵 が 手 持 ち の 銃 で 撃 ったのは 撃 墜 するためというよりは 士 気 を 鼓 舞 するためであった 戦 闘 任 務 は 海 岸 の 臨 戦 態 勢 と 爆 撃 機 の 臨 戦 態 勢 の2つだった 民 兵 は 1 海 岸 警 備 隊 2 戦 闘 機 動 隊 3 緊 急 救 助 輸 送 隊 の3つの 勢 力 から 成 っていた 中 隊 幹 部 から 成 る 海 岸 警 備 隊 の 民 兵 は 昼 に 生 産 し 夜 は 海 岸 の 警 備 巡 回 をした 毎 晩 3 小 隊 が 海 岸 警 備 にあたっていた 海 岸 警 備 隊 は 副 社 隊 長 が 指 揮 をとり ハイチャックからタインチャックまでの 海 岸 線 を 担 当 した 戦 闘 機 動 中 隊 は 36 人 おり 日 夜 12.7mm 高 射 機 関 銃 で 爆 撃 機 を 迎 撃 した 12.7mm 高 射 機 関 銃 などの 武 器 は 県 が 支 給 した ズン(9)によれば フーチャック 社 に 12.7mm 高 射 機 関 銃 が 齎 されたのは 1967 年 8 月 からで 2 門 配 置 された(ボーチャック 県 全 体 で 12 門 各 社 2 門 ) 後 にドン シー グエン 第 559 団 司 令 官 から2 門 供 与 され4 門 に 増 えた 12.7mm 高 射 機 関 銃 は4 人 1 班 で 社 では 社 隊 副 隊 長 が 指 揮 した ブオン(5)は 戦 闘 隊 で 陣 地 に 昼 夜 詰 めっきり で 家 に 帰 るのは 米 を 取 りに 行 く 時 だけだった 食 事 は 陣 地 で 自 炊 した ご 飯 はいつもキャッ サバ サツマイモが 入 った 混 ぜご 飯 だった 陣 地 を 移 動 する 時 は 高 射 機 関 銃 を 運 ぶため 民 兵 や 民 工 を 動 員 した ブオンのチームは 1967 年 か 68 年 の 10 月 15 日 に 敵 機 F111 を 撃 墜 した 褒 美 として 服 一 着 と 帽 子 靴 と 数 キロのもち 米 と 豚 肉 が 与 えられた また 12.7mm 高 射 機 関 銃 の

東 京 外 国 語 大 学 論 集 第 84 号 (2012) 335 戦 闘 隊 以 外 にも 重 機 関 銃 火 力 大 隊 1つもあった 戦 闘 機 動 中 隊 のもう 一 つの 重 要 な 仕 事 が 爆 弾 地 雷 処 理 だった 敵 は 磁 気 地 雷 を 多 数 投 下 した 磁 気 地 雷 は 金 属 が 近 づくと 爆 発 し 武 器 を 持 った 人 や 自 動 車 が 近 づくのは 危 険 だった 放 置 したままだと 農 業 に 支 障 がでるので 民 兵 は 不 発 弾 処 理 班 を 結 成 し 処 理 した クイ(8)とズン(9)は 不 発 弾 処 理 班 の 班 員 だった 処 理 班 は 監 視 小 屋 で 投 下 された 爆 弾 と 爆 発 した 爆 弾 の 数 を 数 えた 処 理 班 は 処 理 に 出 かける 前 ふだんよりはご 馳 走 を 食 べ 生 前 葬 をして 処 理 作 業 に 臨 んだ 磁 気 地 雷 処 理 で1 人 が 亡 くなっ た 緊 急 救 助 輸 送 隊 は 人 々を 疎 開 させ 防 空 壕 や 道 路 が 破 壊 されれば 救 助 や 補 修 に 赴 いた 爆 撃 による 負 傷 者 死 者 がでれば 手 当 をしたり 搬 送 して 埋 葬 したりした 緊 急 救 助 輸 送 隊 は 村 (thôn)ごと 青 年 団 ごとに 組 織 され 村 長 がその 村 の 中 隊 長 となった 敵 は 正 確 に 幹 線 道 路 を 爆 撃 してきたので 緊 急 救 助 輸 送 隊 は 突 貫 で 道 路 を 補 修 し 住 民 の 家 屋 から 剥 がして 資 材 を 調 達 することもあった 住 民 は 軍 隊 や 省 の 命 令 で 車 を 通 すのに 家 を 惜 しまない のスロ ーガンを 実 行 し 家 屋 を 取 り 壊 してその 資 材 で 道 路 や 橋 を 補 修 した エム(3)の 村 では3 軒 の 家 のレンガを 取 って 着 弾 痕 を 埋 め 道 路 を 通 した ティー(7)によれば 野 良 仕 事 の 時 民 兵 は 家 事 をするため1 時 間 早 く 帰 ることが 認 めら れていた 青 年 突 撃 隊 と 違 って 当 地 の 民 兵 は 夜 間 の 学 習 はなかった 夜 間 に 灯 りをつけること ができなかったからである (3)ハイチャック 社 破 壊 戦 争 が 始 まると それまでの 生 産 と 戦 闘 から 戦 闘 と 生 産 へと 重 点 が 戦 闘 に 移 った ハイチャック 社 では 手 に 網 手 に 銃 がスローガンに 掲 げられた ここでは 民 兵 だ けが 居 残 り ほかの 住 民 は 疎 開 した 住 民 が 疎 開 する 時 女 性 民 兵 が 無 償 で 運 搬 を 担 当 した ルム(15)によれば ハイチャック 社 では 民 兵 は3つの 主 要 部 隊 に 編 制 された 第 1 中 隊 は 臨 戦 態 勢 につく 任 務 をもった 第 2 中 隊 は 生 産 を 重 視 し 夜 に 海 岸 警 備 をした 第 3 中 隊 は 道 路 の 防 衛 補 修 で 女 性 が 中 心 だった 青 年 団 員 は 全 員 民 兵 になった 社 隊 委 員 会 の 中 に 青 年 団 も 組 み 込 まれていた 青 年 団 は2つの 船 団 を 組 織 し 海 上 輸 送 を 担 った 民 兵 の 約 40%は 女 性 で 最 年 少 は 16 歳 ほとんどの 人 は 17 歳 以 上 だった ドン(14)は 女 性 ばかりの 中 隊 の 中 隊 長 だった 人 数 は 42 人 いて 3つの 小 隊 から 成 っていた 抗 仏 戦 争 期 の 復 員 兵 で 40~45 歳 の 人 も 25 人 ほどいて 中 隊 の 隊 長 副 隊 長 になった 人 もいた ディエット(12)は 合 作 社 事 務 所 の 民 兵 の 小 隊 長 だったが 小 隊 には 県 から 支 給 された4 5 丁 の K44 があった 破 壊 戦 争 が 始 まった 直 後 はまだ 12.7mm 高 射 機 関 銃 はなかった 戦 争 が 激 化 すると 12.7mm 高 射 機 関 銃 が 配 備 され 戦 闘 機 動 中 隊 に 防 空 小 隊 が 付 け 加 えられ 中 隊 は 50~60 人 規 模 になったという

336 手 に 鍬 手 に 銃 手 に 網 手 に 銃 : 今 井 昭 夫 民 兵 の 主 な 任 務 の 一 つは 交 通 ルートの 確 保 と 輸 送 だった ドン(14)が 中 隊 長 をつとめる 民 兵 中 隊 の 任 務 は 交 通 運 輸 と 道 路 補 修 着 弾 痕 の 埋 め 立 てで 戦 闘 中 は 弾 薬 の 運 搬 負 傷 兵 の 搬 送 なども 行 なった 道 路 補 修 などはシャベルと 鶴 嘴 だけの 手 作 業 で 機 械 はなかった 道 具 も 自 弁 だった 夜 は 銃 をもって 海 岸 を 巡 回 した 昼 間 は 爆 撃 が 少 なく 製 塩 作 業 に 従 事 することが できた 車 が 通 るまで 家 は 惜 しまない 道 が 通 るまで 血 や 労 力 を 惜 しまない のスロー ガンの 下 道 路 の 補 修 や 防 空 壕 をつくるために 人 民 の 家 屋 等 を 壊 して 資 材 を 調 達 することがし ばしば 行 われた ドンの 民 兵 中 隊 は 120 軒 の 家 を 壊 して 木 材 と 石 を 調 達 したことがあった 爆 撃 を 受 けた 寺 院 やディンもそのために 利 用 された 上 からの 命 令 があれば 朝 の1 時 でも2 時 でもシャベルを 担 いででかけた ルム(15)も 同 じく 120 軒 の 家 屋 を 壊 して 資 材 を 調 達 し 橋 道 路 を 補 修 し 防 空 壕 をつくったことがあったという トー(13)も 道 路 補 修 のため 47 軒 の 家 屋 を 取 り 壊 し 防 空 壕 をつくるために 77 軒 から 資 材 を 借 用 したことがあるという ディ エット(12)の 家 も 資 材 の 調 達 対 象 となり 家 の 建 材 を 社 に 貸 与 し 社 の 幹 部 から 借 用 書 (1967 年 11 月 24 日 付 け)を 書 いてもらったが いまだに 返 済 してもらってないという 青 年 団 の 民 兵 は 約 20 キロ 沖 のホンラ 島 まで 支 援 米 を 積 んで 来 ていた 中 国 船 3 隻 から 米 を 荷 揚 げする 任 務 を 引 き 受 けた 荷 の 積 み 替 えを 妨 害 する 米 機 や 米 艦 の 砲 撃 は 激 しく( 米 軍 は 中 国 船 そのものには 攻 撃 せず 接 近 するベトナム 船 を 攻 撃 ) しかも 磁 気 機 雷 が 敷 設 されていたので 任 務 遂 行 は 非 常 に 困 難 であったが なんとか 支 援 米 の 回 収 率 を 上 げることができた クリスマ ス 停 戦 の 直 前 に 武 器 や 物 資 を 沢 山 輸 送 するのを 敵 は 知 っていて 停 戦 前 にルートを 遮 断 しよう と 爆 弾 や 機 雷 を 激 しく 投 下 してきた 兵 士 と 戦 車 を 運 ぶ 船 を 救 助 したこともあった 以 上 みてきたように 党 委 員 会 の 指 導 の 下 民 兵 は 各 社 で 集 落 村 ごとにきちんと 組 織 化 さ れ 女 性 が 半 数 近 くをしめた 任 務 は 防 空 海 岸 警 備 輸 送 交 通 ルートの 確 保 が 主 で 武 器 は 国 家 から 支 給 されたものの 民 兵 はほとんど 手 弁 当 で 任 務 を 遂 行 した また 住 民 は 道 路 橋 等 の 補 修 で 自 らの 家 屋 を 壊 してまで 建 材 を 提 供 した こういった 住 民 の 驚 くべき 献 身 によって 人 民 戦 争 は 支 えられていた 5. 基 層 幹 部 と 文 化 補 習 ベトナム 戦 争 の 遂 行 にあたって 軍 事 面 での 人 民 武 装 勢 力 の 整 備 経 済 面 での 合 作 社 化 とな らんで 行 政 面 での 改 善 も 図 られていた それを 端 的 に 示 しているのが 基 層 幹 部 の 教 育 水 準 の 向 上 である 華 々しい 戦 闘 に 比 べると 目 につきにくいが ベトナム 戦 争 中 社 幹 部 や 民 兵 幹 部 の 基 層 幹 部 たちの 教 育 水 準 の 底 上 げが 徐 々に 進 んでいた タン(2)によれば フーチャック 社 5) の 幹 部 の 大 多 数 は 最 初 抗 仏 戦 争 期 の 成 人 向 け 識 字 学 級 である 平 民 学 務 学 級 で 学 んでいた エム(3)は 家 が 貧 しくて 学 校 に 行 けず 1945 年 八 月 革 命 からゲリラとして 参 加 した その 後

東 京 外 国 語 大 学 論 集 第 84 号 (2012) 337 ビンチティエンの 第 18 中 団 に 所 属 し 多 くの 戦 闘 を 経 験 した ラオス カンボジアにも 出 征 し ジュネーブ 協 定 により 帰 国 し 紅 河 デルタのハイズオン 省 で 土 地 改 革 に 参 加 中 尉 であった 1958 年 に 帰 郷 し 社 党 委 書 記 に 就 任 した 1960 年 には 県 党 委 員 になり 県 の 要 職 を 歴 任 した 平 民 学 務 学 級 の 教 員 だったビン(6)によれば ボーチャック 県 では 平 民 学 務 運 動 が 盛 んで 3つの 社 で 非 識 字 者 一 掃 を 競 い フーチャック 社 が 一 番 よい 成 績 を 収 めた 平 民 学 務 運 動 が 一 段 落 つくと 文 化 補 習 工 作 ( 教 育 水 準 が 低 い 成 人 に 一 定 程 度 の 教 育 水 準 をつけさせる 速 成 補 習 学 級 )に 注 力 されるようになった 抗 仏 戦 争 後 軍 隊 帰 りの 人 は 威 信 があり エムのように 社 党 委 書 記 になる 場 合 もあった 当 初 エムは 名 前 をやっと 署 名 できる 程 度 の 識 字 能 力 しかなかっ たが ビンの 指 導 の 下 熱 心 に 勉 強 した エムが 社 党 委 書 記 の 時 毎 週 木 曜 日 と 日 曜 日 に 社 幹 部 は 執 務 をせず 文 化 補 習 にあてた それほど 当 時 の 社 幹 部 の 教 育 水 準 は 低 かった フーチャ ック 社 では 平 民 学 務 から 文 化 補 習 まで 熱 心 に 取 り 組 んだので 合 作 化 運 動 が 始 まった 時 党 委 員 以 上 の 社 の 幹 部 はすべて 小 学 校 卒 業 程 度 以 上 になった 中 学 校 卒 業 程 度 が 出 始 めたら 戦 争 が 激 しくなったので 小 さなグループごとに 文 化 補 習 が 継 続 された このようにフーチャック 社 は 文 化 補 習 が 盛 んだった ホン(4)は 文 化 補 習 学 級 で7 年 生 ま で 履 修 した ブオン(5)は 社 の 学 校 で4 年 生 まで 学 んで 中 退 し 抗 仏 戦 争 期 から 民 兵 になっ た ティー(7)は5 年 生 まで 通 学 した 後 に 社 の 幹 部 としてクアンビン 省 の 党 学 校 で 学 んだ (1969~72 年 ) 通 学 中 手 当 は 出 なかったが 食 事 は 支 給 された クイ(8)は 子 どもの 頃 学 校 にはほとんど 行 かなかった クイは 1960 年 に 社 の 幹 部 となったが 字 を 読 み 書 きできなか ったので 1961 年 から 文 化 補 習 学 級 に 派 遣 された 県 で3 年 間 省 で2 年 間 仕 事 をしながら 勉 学 した 文 化 補 習 学 級 で 8 年 生 レベルまで 履 修 した その 期 間 は 国 家 が 養 ってくれた 勉 学 期 間 中 も 社 に 帰 ってくると 民 兵 に 参 加 した ハイチャック 社 のトー(13)は 兄 4 人 が 出 征 しているので 兵 役 を 免 除 されていた 地 元 で 5 年 生 まで 通 学 し ハイフォンで 10 年 生 までを 修 了 した その 後 1962 年 から 64 年 まで 水 産 専 門 学 校 で 学 んだが その 時 は 食 事 住 居 は 国 家 から 支 給 され 学 費 は 免 除 だった 1か 月 の 配 給 は 12.5 キロ 朝 食 は 茶 碗 一 杯 のトウモロコシでいつも 空 腹 だった 帰 郷 して 社 の 青 年 団 書 記 となった ドン(14)は 家 が 貧 しかったので2 年 生 までしか 学 校 に 行 っていない ルム(15) は 父 親 が 早 世 し 弟 たち5 人 を 養 うため 学 校 には 行 けなかった 社 の 幹 部 になる 時 文 化 補 習 学 級 で1~3 年 生 レベルを 学 んだ ルムは 自 分 の 学 歴 について 懸 念 していたが 正 しいことを すれば 党 支 部 と 人 民 は 支 持 してくれると 信 じて 自 らを 励 ました 以 上 みてきたように ベトナム 戦 争 中 に 社 幹 部 の 教 育 水 準 は 文 化 補 習 によっていまだに 低 水 準 ではあるが 底 上 げが 進 んだ 軍 隊 では 士 官 に 昇 格 させるために 教 育 水 準 の 低 い 人 に 対 して 文 化 補 習 を 行 なったが 6) 社 幹 部 民 兵 幹 部 に 対 しても 公 費 によって 文 化 補 習 を 実 施 し 幹 部 の

338 手 に 鍬 手 に 銃 手 に 網 手 に 銃 : 今 井 昭 夫 能 力 の 改 善 をはかった おわりに 軍 隊 史 や 党 史 外 交 史 の 観 点 からのベトナム 戦 争 史 は 数 多 くあるが 人 民 からの 目 線 の 戦 争 史 はまだ 少 ない 本 研 究 ノートもその 試 みの 一 つであるが 今 回 の 調 査 を 通 してあらためて 人 民 が 負 担 したものの 大 きさを 痛 感 させられた ベトナム 戦 争 中 武 器 こそ 国 家 から 支 給 されて いたが 3 社 の 住 民 は 民 兵 としての 労 力 や 家 財 をほぼ 無 償 で 提 供 し 合 作 社 の 生 産 物 のかなり の 割 合 も 国 家 に 供 出 した ではどうしてそのような 動 員 が 可 能 になったのだろうか あまりに 激 しい 爆 撃 を 受 けたために 住 民 は 単 独 では 生 きていけず 地 域 の 人 々と 一 緒 に 生 活 していく しか 他 に 道 がなく 体 制 への 同 調 性 が 高 まったことがその 一 因 であろう そのような 状 況 の 中 で 共 産 党 ( 当 時 の 労 働 党 )は 巧 みに 抗 米 救 国 の 宣 伝 工 作 を 展 開 し バオカップ 制 度 を 通 して 国 家 権 力 を 基 層 社 会 まで 浸 透 させようとした 国 家 と 基 層 社 会 はもたれ 合 って 存 在 して いた 人 々は 国 家 のために 献 身 し 国 民 化 した 戦 争 という 環 境 の 下 で この バオカップ 制 度 や 民 兵 の 生 活 を 支 える 中 核 となっていたのは 合 作 社 であった 今 回 のクアンビン 省 でのベトナム 戦 争 に 関 する 聞 き 取 り 調 査 における 戦 争 の 記 憶 の 特 徴 は 旧 北 ベトナムの 民 兵 の 聞 き 取 りということで 戦 闘 は 米 軍 に 対 するものに 限 られ サイゴ ン 政 府 軍 との 戦 いがほとんどなかったことである これは 北 の 正 規 軍 兵 士 や 南 の 解 放 戦 士 の 戦 争 の 記 憶 とおおいに 異 なるところである ベトナム 戦 争 の 記 憶 に 関 して 南 北 の 兄 弟 殺 し の 記 憶 は 抑 制 され 矮 小 化 される 傾 向 にあるが 北 の 民 兵 の 記 憶 はより 抗 米 救 国 性 をくっき りと 浮 かび 上 がらせるものとなっている そのかわりに 兄 弟 殺 し 的 な 記 憶 となっているのが 土 地 改 革 (1953~57 年 )の 記 憶 である ホアック(10)は 1947 年 から 民 兵 になり 48 年 から 党 員 だったのにもかかわらず 土 地 改 革 の 時 に 国 民 党 だと 疑 われ 一 晩 監 禁 され 三 日 間 闘 訴 された ディエット(12)は 土 地 改 革 の 時 に 土 地 改 革 隊 と 地 主 の 認 定 をめぐって 激 しく 対 立 した ルム(15)は 当 時 軍 隊 帰 り で 社 の 幹 部 となっていたが 上 司 の 社 党 委 書 記 と 人 民 委 員 会 主 席 は 国 民 党 だと 嫌 疑 をかけ られ 監 禁 された 彼 の 兄 も 同 じく7 日 間 監 禁 されたという 彼 の 社 では 土 地 改 革 隊 と 人 民 委 員 会 は 相 互 不 信 に 陥 り 激 しく 対 立 していた このような 土 地 改 革 時 の 対 立 闘 争 の 記 憶 は 消 え 去 ることはないが その 後 の 抗 米 救 国 戦 争 の 記 憶 により 相 対 化 され 矮 小 化 されてきたとも いえよう 抗 米 救 国 戦 争 の 記 憶 は 戦 火 の 中 のつらい 記 憶 ではあるが 人 々が 至 公 無 私 で 共 に 支 え 合 って 生 きてきた 美 しい 記 憶 でもあった

東 京 外 国 語 大 学 論 集 第 84 号 (2012) 339 注 1) クアンビン 省 フォンニャケバン 地 区 青 年 突 撃 隊 記 念 館 の 展 示 資 料 によれば ベトナム 戦 争 期 の 青 年 突 撃 隊 隊 員 は 総 数 14 万 7031 人 人 数 の 多 い 出 身 省 の 上 位 10 位 は 以 下 の 通 りである 1タインホア(3 万 3000 人 ) 2ゲアン(1 万 6800 人 ) 3クアンビン(1 万 6200 人 ) 4ハティン(1 万 4970 人 ) 5ナムハー(1 万 4650 人 ) 6ハイフン(8750 人 ) 7ターイビン(8350 人 ) 8ハイフォン(4450 人 ) 9ハノイ(4349 人 ) 10ランソン(4100 人 ) 2) 以 上 のクアンビン 省 ボーチャック 県 各 社 の 人 口 は http://www.quangbinh.gov.vn と http://www.vi.wikipedia.org による(2012 年 4 月 9 日 アクセス) 3) ボーチャック 県 の 退 役 軍 人 会 は 2009 年 までに 会 員 数 は1 万 720 人 で 共 産 党 員 は 会 員 の 32.3% またボー チャック 県 の 党 員 の 40%を 会 員 が 占 める 4) これらの 爆 弾 については[ 本 多 1973:34]に 図 入 りで 紹 介 されているので 参 照 されたい 5) 旧 北 ベトナムの 全 国 的 な 平 民 学 務 運 動 については[ 今 井 1997:221-225]を 参 照 されたい 6) 旧 南 ベトナムのクアンガイ 省 における 解 放 勢 力 戦 士 の 文 化 補 習 については[ 今 井 2011:67-68]を 参 照 さ れたい 参 考 文 献 北 原 知 男 1978 インドシナ 戦 争 と 兵 器 軍 事 研 究 1978 年 4 月 号 pp.52-75 今 井 昭 夫 1997 ベトナムの 言 語 と 文 化 クオックグーの 発 展 とナショナリズム 小 野 沢 純 編 著 ASEAN の 言 語 と 文 化 高 文 堂 出 版 社 pp.197-235 今 井 昭 夫 2011 ベトナム 中 部 クアンガイ 省 におけるベトナム 戦 争 の 記 憶 東 京 外 大 東 南 アジア 学 第 16 巻 pp.57-73. ヴォー グエン ザップ 著 眞 保 潤 一 郎 三 宅 蕗 子 訳 2002 人 民 の 戦 争 人 民 の 軍 隊 中 公 文 庫 本 多 勝 一 1973 北 ベトナム 朝 日 新 聞 社 Bộ Quốc Phòng 2004 Từ Điển Bách Khoa Quân Sự Việt Nam, Nhà Xuất Bản Quân Đội Nhân Dân, Hà Nội.

340 手 に 鍬 手 に 銃 手 に 網 手 に 銃 : 今 井 昭 夫 Ký ức kháng chiến chống Mỹ của dân quân tự vệ ở Quảng Bình, miền Bắc Việt Nam IMAI Akio Tác giả đã thực hiện cuộc phỏng vấn về ký ức kháng chiến chống Mỹ của 15 người ở huyện Bố Trạch tỉnh Quảng Bình, miền Bắc Việt Nam từ ngày 4 tháng 3 đến ngày 9 tháng 3 năm 2010. Đại đa số trong 15 người này là chiến sỹ của Dân quân tự vệ ơ đó. Nội dung chủ yếu trong cuộc phỏng vấn lần này là như sau. (1) Ở địa phương này, chiến tranh rất ác liệt. Chiến tranh Phá hoại bắt đầu từ tháng 8 năm 1964. Có hai đợt đánh phá của Mỹ ở đây. Đến năm 1966 thì chiến tranh bùng nổ dữ dội, đến năm 1967 thì ác liệt nhất. Cho đến sau năm 1968, khi bắt đầu đàm phán bốn bên ở Pari thì Mỹ tuyên bố ngừng ném bom từ tuyến 20 trở ra và hạn chế ném bom khu vực bắc vĩ tuyến 17. Nhưng mà đánh ác liệt trở lại là từ khoảng tháng 4 đến tháng 10 năm 1972. Nhà của dân ở đây cháy hết. Nhưng chỉ độ ba ngày sau, những nhà bị cháy đều được dựng lại hết. Có nhiều người phải đi sơ tán nơi khác. Ở đây lúc đó có chủ trương là cho con em của mình đi sơ tán K8. (2) Hợp tác xã trực tiếp tổ chức sản xuất, rồi trực tiếp có chính sách giúp đỡ các gia đình thương binh liệt sỹ hoặc gia đình có con đi B. Khi đó ngoài chế độ công điểm thì còn có chế độ chia theo định xuất, tức là nhằm đảm bảo cho gia đình có người đi B có cuộc sống như những gia đình bình thường khác. Tất nhiên là cũng đói, hồi đó thì ai cũng phải ăn độn. Các chiến sỹ của Dân quân ăn theo chế độ công điểm chứ không có chế độ lương. (3) Dân quân có 3 nhiệm vụ : chiến đấu, phục vụ chiến đấu và sản xuất. Dân quân ở đây chia làm 3 lực lượng : một là lực lượng dân quân phục vụ chiến đấu ; đơn vị thứ hai là đơn vị chiến đấu, tức là cơ động sẵn sàng chiến đấu cả ngày lẫn đêm ; một đơn vị nữa là bảo vệ làng, chống sập hầm, tải thương và vận tải, vận chuyển dân đi sơ tán. Có khi dân quân huy động nhiều nhà, tức là dỡ đi nhiều nhà để lấy gỗ, đá làm đường, làm cầu. Đơn vị thứ ba thường xuyên tuần tra bờ biển. Đơn vị chiến đấu là trực chiến ngày đêm, sẵn sàng súng 12.7 mm rồi súng bộ binh để bắn máy bay. Lực lượng dân quân nữ chiếm khoảng 40 %. (4) Khi mà bắt đầu có phong trào hợp tác hoá thì tất cả cán bộ xã từ đảng ủy trở lên đều đã có trình độ phổ cập cấp 1. Có người chuyển qua cấp 2 luôn. Khi đã bắt đầu có người đi học cấp 2 rồi thì chiến tranh xảy ra quá ác liệt. Tuy nhiên người ta tiếp tục làm công tác bổ túc văn hoá.