第 2 部 日 本 の 植 民 地 支 配 と 朝 鮮 社 会 第 4 章 植 民 支 配 の 構 造 と 朝 鮮 人 の 対 応 な 点 が 相 互 作 用 し 欧 米 諸 国 がインドやインドシナ フィリピン インドネシアなどに 対 して 駆 使 した 帝 国 主 義 政 策 と 日 帝 の 韓



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為 が 行 われるおそれがある 場 合 に 都 道 府 県 公 安 委 員 会 がその 指 定 暴 力 団 等 を 特 定 抗 争 指 定 暴 力 団 等 として 指 定 し その 所 属 する 指 定 暴 力 団 員 が 警 戒 区 域 内 において 暴 力 団 の 事 務 所 を 新 たに 設

2 役 員 の 報 酬 等 の 支 給 状 況 平 成 27 年 度 年 間 報 酬 等 の 総 額 就 任 退 任 の 状 況 役 名 報 酬 ( 給 与 ) 賞 与 その 他 ( 内 容 ) 就 任 退 任 2,142 ( 地 域 手 当 ) 17,205 11,580 3,311 4 月 1

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2 役 員 の 報 酬 等 の 支 給 状 況 役 名 法 人 の 長 理 事 理 事 ( 非 常 勤 ) 平 成 25 年 度 年 間 報 酬 等 の 総 額 就 任 退 任 の 状 況 報 酬 ( 給 与 ) 賞 与 その 他 ( 内 容 ) 就 任 退 任 16,936 10,654 4,36

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別紙3

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Taro-29職員退職手当支給規程

公 的 年 金 制 度 について 制 度 の 持 続 可 能 性 を 高 め 将 来 の 世 代 の 給 付 水 準 の 確 保 等 を 図 るため 持 続 可 能 な 社 会 保 障 制 度 の 確 立 を 図 るための 改 革 の 推 進 に 関 する 法 律 に 基 づく 社 会 経 済 情

4 松 山 市 暴 力 団 排 除 条 の 一 部 風 俗 営 業 等 の 規 制 及 び 業 務 の 適 正 化 等 に 関 する 法 律 等 の 改 正 に 伴 い, 公 共 工 事 から 排 除 する 対 象 者 の 拡 大 等 を 図 るものです 第 30 号 H H28.1

発 覚 理 由 違 反 態 様 在 日 期 間 違 反 期 間 婚 姻 期 間 夫 婦 間 の 子 刑 事 処 分 等 1 出 頭 申 告 不 法 残 留 約 13 年 9 月 約 9 年 11 月 約 1 年 10 月 2 出 頭 申 告 不 法 入 国 約 4 年 2 月 約 4 年 2 月 約

2. ど の 様 な 経 緯 で 発 覚 し た の か ま た 遡 っ た の を 昨 年 4 月 ま で と し た の は 何 故 か 明 ら か に す る こ と 回 答 3 月 17 日 に 実 施 し た ダ イ ヤ 改 正 で 静 岡 車 両 区 の 構 内 運 転 が 静 岡 運

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公表表紙

平成16年年金制度改正 ~年金の昔・今・未来を考える~

Taro-08国立大学法人宮崎大学授業

Microsoft Word - ★HP版平成27年度検査の結果

根 本 確 根 本 確 民 主 率 運 民 主 率 運 確 施 保 障 確 施 保 障 自 治 本 旨 現 資 自 治 本 旨 現 資 挙 管 挙 管 代 表 監 査 教 育 代 表 監 査 教 育 警 視 総 監 道 府 県 警 察 本 部 市 町 村 警 視 総 監 道 府 県 警 察 本 部

入 札 参 加 者 は 入 札 の 執 行 完 了 に 至 るまではいつでも 入 札 を 辞 退 することができ これを 理 由 として 以 降 の 指 名 等 において 不 利 益 な 取 扱 いを 受 けることはない 12 入 札 保 証 金 免 除 13 契 約 保 証 金 免 除 14 入

m07 北見工業大学 様式①

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弁護士報酬規定(抜粋)

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退職手当とは

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国 家 公 務 員 の 年 金 払 い 退 職 給 付 の 創 設 について 検 討 を 進 めるものとする 平 成 19 年 法 案 をベースに 一 元 化 の 具 体 的 内 容 について 検 討 する 関 係 省 庁 間 で 調 整 の 上 平 成 24 年 通 常 国 会 への 法 案 提

(5) 給 与 制 度 の 総 合 的 見 直 しの 実 施 状 況 概 要 国 の 給 与 制 度 の 総 合 的 見 直 しにおいては 俸 給 表 の 水 準 の 平 均 2の 引 下 げ 及 び 地 域 手 当 の 支 給 割 合 の 見 直 し 等 に 取 り 組 むとされている 総 合 的

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3 職 員 の 初 任 給 等 の 状 況 (1) 職 員 の 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 及 び の 状 況 (24 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 一 般 行 政 職 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 ( ベース) 43.7 歳 32, , ,321

定款  変更

スライド 1

- 1 - 総 控 負 傷 疾 病 療 養 産 産 女 性 責 帰 べ 由 試 ~ 8 契 約 契 約 完 了 ほ 契 約 超 締 結 専 門 的 知 識 技 術 験 専 門 的 知 識 高 大 臣 専 門 的 知 識 高 専 門 的 知 識 締 結 契 約 満 歳 締 結 契 約 契 約 係 始

岡山県警察用航空機の運用等に関する訓令

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●電力自由化推進法案

財団法人○○会における最初の評議員の選任方法(案)

2 一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 ( 平 成 23 年 4 月 1 日 現 在 ) ( 単 位 : ) 1 級 2 級 3 級 4 級 5 級 6 級 7 級 8 級 1 号 給 の 給 料 月 額 135,6 161,7 222,9 261,9 289,2 32,6 366,2 41

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2 一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 ( 平 成 22 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 号 給 の 給 料 月 額 ( 単 位 : ) 1 級 2 級 3 級 4 級 5 級 6 級 7 級 135, , , , , ,600

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47 高 校 講 座 モ オ モ 圏 比 較 危 述 覚 普 第 章 : 活

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技 能 労 務 職 公 務 員 民 間 参 考 区 分 平 均 年 齢 職 員 数 平 均 給 与 月 額 平 均 給 与 月 額 平 均 給 料 月 額 (A) ( 国 ベース) 平 均 年 齢 平 均 給 与 月 額 対 応 する 民 間 の 類 似 職 種 東 庄 町 51.3 歳 18 77

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2 一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 ( 平 成 2 年 月 1 日 現 在 ) 1 号 給 の 給 料 月 額 最 高 号 給 の 給 料 月 額 ( 注 ) 給 料 月 額 は 給 与 抑 制 措 置 を 行 う 前 のものです ( 単 位 : ) 3 職 員 の 平 均 給 与 月

競 争 参 加 資 格 審 査 等 事 務 取 扱 要 領 ( 抜 粋 ) ( 有 資 格 者 としない 者 ) 第 6 条 契 約 事 務 責 任 者 は 契 約 を 締 結 する 能 力 を 有 しない 者 破 産 者 で 復 権 を 得 ない 者 及 び 暴 力 団 等 の 反 社 会 的 勢


質 問 票 ( 様 式 3) 質 問 番 号 62-1 質 問 内 容 鑑 定 評 価 依 頼 先 は 千 葉 県 などは 入 札 制 度 にしているが 神 奈 川 県 は 入 札 なのか?または 随 契 なのか?その 理 由 は? 地 価 調 査 業 務 は 単 にそれぞれの 地 点 の 鑑 定

学校法人日本医科大学利益相反マネジメント規程

(4) 運 転 する 学 校 職 員 が 交 通 事 故 を 起 こし 若 しくは 交 通 法 規 に 違 反 したことにより 刑 法 ( 明 治 40 年 法 律 第 45 号 ) 若 しくは 道 路 交 通 法 に 基 づく 刑 罰 を 科 せられてから1 年 を 経 過 していない 場 合 同

った 場 合 など 監 事 の 任 務 懈 怠 の 場 合 は その 程 度 に 応 じて 業 績 勘 案 率 を 減 算 する (8) 役 員 の 法 人 に 対 する 特 段 の 貢 献 が 認 められる 場 合 は その 程 度 に 応 じて 業 績 勘 案 率 を 加 算 することができる

定款

2 一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 ( 平 成 22 年 4 月 1 日 現 在 ) ( 単 位 : ) 1 級 2 級 3 級 4 級 5 級 6 級 7 級 1 号 給 の 給 料 月 額 最 高 号 給 の 給 料 月 額 135,6 243,7 185,8 222,9 261,9

財団法人山梨社会保険協会寄付行為

Taro-事務処理要綱250820

目 次 市 民 税 の 減 免 に つ い て 1 減 免 の 一 般 的 な 留 意 事 項 2 減 免 の 範 囲 お よ び 減 免 割 合 3 1 生 活 保 護 法 の 規 定 に よ る 保 護 を 受 け る 者 3 2 当 該 年 に お い て 所 得 が 皆 無 と な っ た

2 一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 (24 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 号 級 の 給 料 月 額 最 高 号 級 の 給 料 月 額 1 級 ( 単 位 : ) 2 級 3 級 4 級 5 級 6 級 7 級 8 級 9 級 1 級 135,6 185,8 222,9 261,

別紙3

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(4) ラスパイレス 指 数 の 状 況 ( 各 年 4 月 1 日 現 在 ) (H25.4.1) (H25.4.1) (H25.7.1) (H25.7.1) (H25.4.1) (H25.7.1)

第 4 条 (1) 使 用 者 は 2 年 を 超 えない 範 囲 内 で( 期 間 制 勤 労 契 約 の 反 復 更 新 等 の 場 合 は その 継 続 勤 労 した 総 期 間 が2 年 を 超 えない 範 囲 内 で) 期 間 制 勤 労 者 を 使 用 することができる ただ し 次 の

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資料6 国の行政機関等における法曹有資格者の採用状況についての調査結果報告(平成27年10月実施分)(法務省提出資料)

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日 帝 の 朝 鮮 強 占 と 韓 国 の 独 立 運 動 徐 仲 錫 I. 日 帝 の 支 配 政 策 1. はじめに 日 帝 は1910 年 に 韓 国 を 強 占 した これにより 韓 国 は 歴 史 上 初 めて 外 族 の 直 接 的 な 支 配 下 に 入 った 一 時 朝 鮮 半 島 の 一 部 が 外 族 の 支 配 下 に 置 かれたことはあり 高 麗 は1 世 紀 近 く 元 の 内 政 干 渉 を 受 けた しかし 日 帝 の 強 占 期 のように 外 族 の 直 接 的 支 配 を 受 けたことはなかった 1945 年 ま で 続 いた 日 帝 支 配 下 の35 年 は 20 世 紀 前 半 期 の 大 部 分 を 占 める 時 期 であり 近 代 的 人 間 を 具 現 させ 近 代 的 社 会 近 代 的 国 民 国 家 を 発 展 させる 重 要 な 時 期 だった ところが 日 本 は 唯 一 の 非 白 人 帝 国 主 義 国 家 として 天 皇 制 国 家 天 皇 制 ファシズム 下 で 欧 米 諸 国 に 比 べ 日 本 人 さえ 人 間 の 基 本 権 利 が 顕 著 に 制 約 され 議 会 政 治 もまた 遅 れた 水 準 であった 日 本 の 資 本 主 義 も 欧 米 諸 国 に 比 べ 立 ち 遅 れていたが 慢 性 的 に 市 場 が 狭 小 で 原 料 が 不 足 した 状 態 で 過 度 に 富 国 強 兵 に 基 いた 大 日 本 帝 国 の 建 設 に 執 着 したため 絶 えず 海 外 侵 略 を 追 求 した このような 状 態 で 韓 国 は 日 本 が 大 陸 を 侵 略 するのど 元 であり 橋 梁 のような 位 置 にあったため 1 日 本 帝 国 主 義 者 らは 韓 国 が 日 本 帝 国 から 離 れて 独 立 するということは 絶 対 にあり 得 ないと 考 えて いた 2 しかしながら 韓 国 人 は 長 い 間 独 自 の 国 家 を 営 んできた そして 日 本 に 文 化 を 移 植 したと いう 点 に 自 負 心 を 持 っており 日 本 文 化 をさげすみ 倭 寇 の 略 奪 行 為 や1592 年 に 侵 略 した 壬 辰 倭 乱 ( 文 禄 慶 長 の 役 ) 開 港 以 後 の 経 験 と1910 年 の 強 占 以 後 の 激 しい 差 別 抑 圧 政 策 によって 反 日 感 情 が 高 まり 独 立 運 動 も 熾 烈 であった このように 日 帝 が 欧 米 諸 国 のような 白 人 帝 国 主 義 国 家 に 比 べ 民 主 主 義 や 市 民 意 識 において 大 きな 差 異 があり 韓 国 は 絶 対 的 に 大 日 本 帝 国 から 分 離 さ せられない 不 可 欠 な 地 域 であると 確 信 していたが 3 韓 国 人 は 反 日 感 情 が 高 く 独 立 しなければな らないという 考 えが 強 く 潜 在 的 に 不 安 定 で 騒 乱 が 発 生 しうる 地 域 であったために 4 まさにこのよう 1 長 谷 川 好 道 朝 鮮 総 督 は1919 年 6 月 に 辞 職 する 際 朝 鮮 は 我 々の 大 陸 発 展 の 根 拠 地 であるため 同 化 政 策 を 継 続 して 堅 持 しなければならないと 述 べた( 崔 錫 栄 日 帝 の 同 化 イデオロギーの 創 出 書 景 文 化 社 ( 일제의 동화 이데올로기의 장출 서경문화사) 1997 年 42 頁 ) 2 1942 年 に 朝 鮮 総 督 府 政 務 総 監 に 就 任 した 田 中 武 雄 は 独 立 を 承 諾 しないという 前 提 のも と 最 後 まで 韓 国 を 統 治 すると 述 べ それを 国 是 とも 表 現 した( 朝 鮮 総 督 府 高 位 官 吏 の 肉 声 証 言 ( 鄭 在 貞 訳 ) 植 民 統 治 の 虚 像 と 実 像 ヘ アン( 식민통치의 허상과 실상 혜안) 2002 年 176 252 頁 ) 3 欧 米 諸 国 はインドやフィリピンなどがいつか 独 立 するだろう と 考 えていた インド 国 民 会 議 は1929 年 英 国 に 完 全 独 立 を 提 起 して1930 年 1 月 26 日 を 独 立 記 念 日 と 宣 布 し 全 国 で 数 百 万 名 が 参 加 して 記 念 式 を 催 した 1935 年 に 公 布 されたインド 統 治 法 は インドを 独 立 国 へと 導 く 方 向 性 が 明 瞭 に 設 定 されていた( 趙 吉 泰 インド 史 民 音 社 ( 인도사 민음사) 2000 年 497-499 519 頁 ) フィリピンの 場 合 すでに1916 年 のジョ ーンズ 法 案 で 立 法 上 の 自 治 権 を 付 与 し 将 来 安 定 した 政 権 が 樹 立 されれば 独 立 を 付 与 すると 約 束 し 1934 年 米 国 議 会 を 通 過 したタイディン グス マクダフィー 法 によって 自 治 政 府 が 建 てられ ケソンが 初 代 大 統 領 に 就 任 した( 金 洪 喆 1919 年 前 後 愛 蘭 比 印 の 民 族 運 動 (1919년전후 愛 蘭 比 印 의 민족운동) 3.1 運 動 50 周 年 紀 念 論 集 東 亜 日 報 社 1969 年 999 頁 ) 4 マーク ピーティー(Mark R Peattie)( 浅 野 豊 美 訳 ) 植 民 地 読 売 新 聞 社 1996 年 162 頁 参 照 31

第 2 部 日 本 の 植 民 地 支 配 と 朝 鮮 社 会 第 4 章 植 民 支 配 の 構 造 と 朝 鮮 人 の 対 応 な 点 が 相 互 作 用 し 欧 米 諸 国 がインドやインドシナ フィリピン インドネシアなどに 対 して 駆 使 した 帝 国 主 義 政 策 と 日 帝 の 韓 国 支 配 政 策 では 顕 著 な 差 異 が 表 れることとなった のみならず 日 帝 の 韓 国 支 配 政 策 は 満 州 国 の 場 合 とも 大 きな 違 いがあり 文 官 総 督 もおり 皇 国 臣 民 の 誓 詞 を 暗 記 させることもなかった 5 台 湾 支 配 政 策 とも 少 なからぬ 差 異 があった 日 帝 の 韓 国 支 配 政 策 は 1910 年 から 大 々 的 な3 1 独 立 示 威 運 動 が 起 こった1919 年 までの 武 断 統 治 と 1920 年 代 の 文 化 統 治 1930 年 代 中 盤 以 後 の 軍 国 主 義 的 ファッショ 的 統 治 に 区 分 して 見 る 必 要 がある 文 化 統 治 期 には 日 本 とは 顕 著 な 差 異 があったとしても それでも 集 会 結 社 出 版 言 論 の 自 由 がある 程 度 はあったが 武 断 統 治 期 と 軍 国 主 義 的 ファッショ 的 統 治 期 にはそのような 自 由 さえも 見 出 すことが 困 難 であった 特 に 中 日 戦 争 以 後 は 戦 時 体 制 において 皇 国 臣 民 化 運 動 が 狂 的 に 繰 り 広 げられた 民 族 意 識 抹 殺 の 時 期 だった この 点 は インドやインドシナ フィリピン イン ドネシアなどが 第 一 次 世 界 大 戦 終 戦 以 後 政 治 的 自 由 と 権 利 が 伸 張 し 1930 年 代 にさらに 大 きく 伸 張 し ベトナムの 場 合 労 働 者 農 民 運 動 など 社 会 運 動 と 反 帝 国 主 義 民 族 運 動 が 活 発 に 展 開 さ れ 社 会 主 義 者 らも 活 発 な 活 動 ができたのとは 対 比 を 成 す 6 1930 年 代 ベトナム 人 の 盛 んな 活 動 は ベトナム 人 の 民 族 解 放 運 動 の 原 動 力 となった 日 帝 の 専 制 的 統 治 により 韓 国 人 は 資 料 を 残 すことが 困 難 だったところ この 点 は 日 帝 支 配 政 策 を 研 究 する 上 で 基 本 的 な 制 約 となっている 日 帝 支 配 期 間 に 韓 国 人 が 資 料 を 残 すことがどれだ け 難 しかったのかは 統 監 期 と 武 断 統 治 期 を 比 較 すれば 容 易 に 理 解 できる 1910 年 韓 国 を 強 占 した 時 日 帝 は 日 帝 の 走 狗 の 団 体 である 一 進 会 さえ 解 散 させたほど 徹 底 して 韓 国 人 の 結 社 を 制 限 し 言 論 出 版 活 動 を 抑 圧 した 統 監 府 時 期 には 啓 蒙 運 動 が 盛 んに 展 開 されたが 武 断 統 治 期 に は 漆 黒 のような 闇 の 反 動 期 だった 統 監 府 時 期 には 申 采 浩 らが 韓 国 史 や 外 国 の 亡 国 史 建 国 史 関 係 の 著 書 と 論 文 そのほかに 啓 蒙 的 な 著 書 論 文 を 通 じて 近 代 的 民 族 精 神 と 愛 国 心 自 由 民 権 平 等 意 識 を 鼓 吹 した 統 監 府 時 期 と 日 帝 統 治 期 がどれほど 大 きな 差 異 があったのかは 教 科 書 だけ 比 較 してみてもすぐにわかる 統 監 府 統 制 下 の 学 部 が 検 閲 制 度 などを 通 じて 制 約 を 加 えたが この 時 期 の 教 科 書 と 日 帝 支 配 期 の 教 科 書 は 韓 国 の 文 化 と 歴 史 自 主 的 人 間 像 を 記 述 する 部 分 に 大 きく 隔 たった 差 異 がある 近 代 人 としての 成 長 において 自 国 の 文 化 と 歴 史 を 抹 殺 した 場 合 と そうではない 場 合 がどのような 差 異 があるのかについてはとやかく 言 うまでもないだろう 統 監 府 は 光 武 新 聞 紙 法 (1907 年 7 月 )などの 悪 法 で 言 論 を 弾 圧 したが 大 韓 毎 日 申 報 皇 城 新 聞 帝 国 新 聞 などはそれなりに 韓 国 人 の 意 思 を 代 弁 し 統 監 政 治 を 批 判 できた しかし 武 断 統 治 期 には 朝 鮮 総 督 府 御 用 紙 である 京 城 日 報 と 毎 日 申 報 だけだった 統 監 府 時 期 には 各 種 学 会 や 団 体 の 会 報 など 数 多 くの 雑 誌 があったが 武 断 統 治 期 には 数 えるに 足 る 雑 誌 は 青 春 しかなく その 雑 誌 は 5 マーク ピーティー 前 掲 書 248 頁 6 ベトナムの 場 合 1933 年 サイゴン 市 議 会 選 挙 でインドシナ 共 産 主 義 などの 連 合 勢 力 は 二 人 を 当 選 させ 翌 年 の 選 挙 ではベトナム 人 に 割 り 当 てられた6 議 席 中 4 席 を 占 めた ベトナムでは2 度 の 選 挙 で 新 聞 を 通 して 公 開 的 な 場 所 で 公 開 的 に 帝 国 主 義 を 攻 撃 する 新 たな 類 型 の 反 植 民 地 運 動 が 可 能 となった フランス 総 選 挙 で 人 民 戦 線 が1936 年 に 勝 利 した 以 降 は 共 産 主 義 者 が 主 導 権 を 握 っていたベトナム 民 族 主 義 運 動 に 新 しい 局 面 が 開 かれた 各 種 新 聞 とパンフレットが 刊 行 され インドシナ 会 議 と 行 動 委 員 会 が 組 織 された 特 に 北 部 地 方 は 共 産 主 義 者 の 一 人 舞 台 だ った しかしながら フランスで1939 年 8 月 に 人 民 戦 線 が 崩 壊 するや 共 産 主 義 者 は 直 ちに 弾 圧 を 受 け 1940 年 6 月 日 本 軍 が 入 ってく ることによって 暗 黒 期 を 迎 えた( 劉 仁 善 新 しく 書 いたベトナムの 歴 史 イサン( 새로 쓴 베트남의 역사 이산) 2002 年 350-353 頁 ) 32

日 帝 の 朝 鮮 強 占 と 韓 国 の 独 立 運 動 徐 仲 錫 同 じ 時 期 に 日 本 留 学 生 らが 出 した 学 之 光 と 比 較 してみても 大 きな 違 いがある くらい 非 政 治 的 な 雑 誌 だった 文 化 統 治 期 には 日 帝 の 融 和 政 策 のもと 新 文 化 新 思 想 を 伝 播 させ 社 会 運 動 民 族 運 動 と 関 連 した 積 極 的 な 活 動 が 新 聞 雑 誌 と 結 社 などを 中 心 に 日 帝 支 配 政 策 を 批 判 する 資 料 を 相 当 数 残 したが 1931 年 日 帝 の 満 州 侵 略 ( 満 州 事 変 ) 以 降 新 聞 雑 誌 と 結 社 は 次 第 に 無 力 となり 1937 年 以 降 は 言 論 雑 誌 はもちろん 宗 教 団 体 までもっぱらファシズム 的 軍 国 主 義 的 侵 略 戦 争 である 聖 戦 の 擁 護 と 皇 国 臣 民 化 運 動 をほめたたえるのに 動 員 された 日 帝 の 支 配 政 策 では まず 日 帝 支 配 政 策 の 政 治 的 性 格 について 記 述 し 同 化 政 策 同 化 教 育 皇 国 臣 民 化 運 動 皇 国 臣 民 化 教 育 を 記 述 しようと 思 う 日 帝 の 同 化 政 策 についてはいくつかの 論 議 があった それはフランスの 同 化 主 義 とは 異 なるた め 同 化 主 義 として 見 ることができないという 主 張 もあり 時 期 または 朝 鮮 総 督 によって 政 策 が 異 な ったため 一 律 に 同 化 主 義 として 把 握 するのは 問 題 があるという 主 張 もあった しかしながら 歴 代 朝 鮮 総 督 が 同 化 主 義 または 内 鮮 一 体 や 内 地 延 長 主 義 などを 表 明 し 同 化 政 策 を 強 行 したのには 理 由 があった 日 帝 が 韓 国 で 強 行 した 同 化 政 策 は フランスがアルジェリアなどの 植 民 地 で 施 行 した 同 化 政 策 とは 意 図 と 内 容 において 差 異 があるもので 強 占 直 後 から 日 帝 の 敗 戦 の 時 まで 教 育 政 策 として 表 明 した 近 代 的 市 民 教 育 とは 距 離 がある 忠 良 なる 国 民 を 育 成 するということや 皇 国 臣 民 化 という 用 語 そして 第 2 代 朝 鮮 総 督 長 谷 川 好 道 が 離 任 する 際 韓 国 は わが 国 の 大 陸 発 展 の 根 拠 地 であるため 同 化 政 策 を 継 続 して 堅 持 しなければならない と 言 明 したことに 7 よく 含 蓄 されてい る この 論 文 で 教 育 政 策 を 重 視 したのは それが 同 化 政 策 を 実 現 する 上 での 重 要 な 通 り 道 であっ たためである 2. 日 帝 支 配 政 策 の 政 治 的 性 格 日 帝 が 欧 米 帝 国 主 義 国 家 のインド 東 南 アジア 支 配 政 策 とは 異 なる 形 で 総 督 専 制 統 治 あるい は 憲 兵 警 察 統 治 をおこなったという 主 張 は 解 放 後 韓 国 で 広 く 通 用 してきた 朝 鮮 総 督 の 統 治 は 韓 国 人 の 基 本 的 自 由 権 利 の 享 受 の 程 度 総 督 の 権 限 と 位 置 付 け 朝 鮮 議 会 による 牽 制 の 存 在 の 可 否 日 本 の 議 会 による 牽 制 の 性 格 憲 兵 と 警 察 の 活 動 などに 分 けて 分 析 する 必 要 がある 1910 年 の 強 占 以 降 武 断 統 治 が 実 施 され 韓 国 人 は 結 社 言 論 出 版 集 会 の 自 由 を 持 てなかっ た 総 督 府 警 務 総 監 の 部 令 第 3 号 集 会 取 締 に 関 する 件 によって 集 会 の 自 由 はソウルのみなら ず 地 方 でも 許 容 されず 8 合 併 の 功 労 で 恩 赦 金 まで 受 けた 一 進 会 大 韓 協 会 を 含 む 全 ての 政 治 社 会 団 体 が 解 散 させられた 1919 年 の3.1 運 動 以 降 新 しい 総 督 が 赴 任 し 親 日 派 と 大 財 産 家 による 新 聞 の 発 刊 を 認 め 結 社 の 自 由 もある 程 度 存 在 したが この 時 期 にもインド フィリピンはもちろん のこと ベトナムなどと 対 比 しても 政 治 的 結 社 は 親 日 団 体 以 外 には 認 められなかった 全 ての 出 版 物 は 原 稿 をあらかじめ 検 閲 された 新 聞 雑 誌 書 籍 などに 書 かれた 文 章 は 押 収 されたり 警 告 譴 責 処 分 を 受 け 全 部 または 一 部 が 削 除 されたり 真 っ 黒 に 塗 られた 9 集 会 は 屋 内 に 限 って 認 め 7 前 掲 書 ( 注 1) 8 ソウルでは 路 地 で 三 人 が 集 まって 話 をしても 捕 まえられた( 李 熙 昇 髷 を 切 って 笠 にいれて ぶちまけて 言 う 言 葉 根 の 深 い 木 ( 상투를 짤라 초립에 담고 털어놓고 하는 말 뿌리깊은 나무) 1978 年 71 頁 ) 9 東 亜 日 報 の 場 合 創 刊 以 来 10 年 間 に3 回 の 発 行 停 止 処 分 を 受 け 280 日 余 り 新 聞 が 発 行 できず 299 回 押 収 発 売 33

第 2 部 日 本 の 植 民 地 支 配 と 朝 鮮 社 会 第 4 章 植 民 支 配 の 構 造 と 朝 鮮 人 の 対 応 られたが それも 厳 格 な 許 可 制 であり つねに 臨 席 警 官 が 集 会 を 見 守 り 集 会 の 途 中 で 中 止 命 令 を 受 けることも 少 なくなかった 集 会 を 制 限 禁 止 して 解 散 させる 裁 量 権 が 警 察 に 与 えられたのも ( 保 安 法 2 条 ) 問 題 であるが 重 要 団 体 の 集 会 の 許 可 や 不 許 集 会 の 中 止 などには 高 度 の 政 治 的 計 算 が 働 いていた 例 を 挙 げると 1927 年 には 新 幹 会 の 発 足 労 農 総 同 盟 の 労 働 総 同 盟 農 民 総 同 盟 への 分 離 などで 社 会 運 動 民 族 運 動 が 活 気 を 帯 びていたが これら 団 体 ( 青 年 総 同 盟 を 含 む)は 創 立 以 降 一 切 全 国 大 会 が 許 容 されず 指 導 部 の 改 編 や 活 動 に 多 くの 困 難 をなめ 結 局 1930 年 代 に 入 ると 無 気 力 なものとなった 新 幹 会 は 1931 年 に 解 消 大 会 を 開 こうとすると その 時 に 限 って 集 会 の 許 可 が 下 った 集 会 の 部 分 的 な 許 容 も 日 帝 の 満 州 侵 略 以 降 次 第 に 足 かせがは められ 中 日 戦 争 以 降 は 戦 時 統 制 を 受 けた 1920 年 代 ですらも 韓 国 人 はインド フィリピンなどとは 異 なり 独 立 運 動 や 反 帝 国 主 義 活 動 が 封 鎖 されていたため 抗 日 独 立 闘 争 は 国 内 では3.1 万 歳 運 動 6.10 万 歳 運 動 光 州 学 生 運 動 のよう な 不 法 デモを 除 けば 地 下 でのみ 可 能 であり 中 国 など 国 外 に 分 散 して 展 開 するほかなかった 民 族 主 義 者 と 社 会 主 義 者 の 協 同 団 体 である 新 幹 会 は 光 州 学 生 運 動 の 影 響 を 受 けて1929 年 12 月 初 めての 大 衆 集 会 である 民 衆 大 会 を 開 こうとしたものの 事 前 に 発 覚 して 幹 部 らが 大 挙 検 挙 され 裁 判 を 受 けた 官 憲 の 恣 意 的 な 法 の 執 行 も 社 会 的 な 活 動 を 萎 縮 させた 朝 鮮 総 督 府 検 事 は 朝 鮮 刑 事 令 第 12 条 を 根 拠 に 現 行 犯 でなくとも 押 収 捜 索 検 証 および 被 疑 者 拘 引 などの 処 分 を 行 うこ とができ のみならず 司 法 警 察 官 にまでこのような 権 限 が 付 与 されていた 10 文 化 統 治 期 にも 反 日 的 な 人 物 は 要 観 察 要 注 意 人 物 として 警 察 帳 簿 に 載 せられ 常 に 監 視 尾 行 家 宅 捜 索 検 挙 拘 留 投 獄 された そして 彼 らと 彼 らの 家 族 は 旅 行 就 職 学 校 入 学 などで 妨 害 を 受 け 生 活 の 全 ての 面 で 脅 威 を 与 えられた 11 同 じ 時 期 戸 口 調 査 規 定 によると 実 際 に 大 部 分 の 知 識 人 や 活 動 家 が 継 続 して 当 局 の 調 査 または 査 察 を 受 けていた 12 韓 国 は 官 憲 の 専 制 統 治 下 に 置 かれ ていた 朝 鮮 総 督 は 3.1 運 動 以 降 文 官 も 就 任 できるように 制 度 を 変 更 したが 台 湾 とは 異 なり 実 際 に は 全 ての 総 督 は 陸 海 軍 現 役 大 将 だけが 赴 任 した 朝 鮮 総 督 は 総 合 行 政 権 を 保 有 しており 一 般 行 政 のみならず 財 務 産 業 経 済 警 察 文 教 司 法 交 通 通 信 専 売 などの 各 種 行 政 権 を 総 括 していたところ 朝 鮮 総 督 府 各 部 局 は 日 本 の 各 省 のように 独 立 したものではなく 全 て 一 元 的 に 総 督 の 指 揮 監 督 を 受 けた 13 また 朝 鮮 総 督 は 陸 海 軍 司 令 官 に 出 兵 を 求 めることができ 14 法 律 に 頒 布 が 禁 止 され このほか 警 告 譴 責 記 事 削 除 など 有 形 無 形 の 圧 迫 を 数 え 切 れないほど 受 けた 朝 鮮 日 報 は 1920 年 から1929 年 5 月 まで318 回 の 押 収 処 分 を 受 け 4 回 の 発 行 停 止 処 分 を 受 けつつ1926 年 に53 回 1927 年 に55 回 の 押 収 発 売 処 分 を 受 けた( 金 圭 煥 日 帝 の 対 韓 言 論 宣 伝 政 策 (일제의 對 韓 언론 선전 정책) 二 友 出 版 社 1982 年 166 228 234 頁 ) 10 金 世 政 判 例 を 通 して 見 た 保 安 法 と 制 令 (판례를 통해본 보안법과 制 令 ) 第 7 号 批 判 1931 年 5 月 97 頁 11 司 空 杓 朝 鮮 の 情 勢 と 朝 鮮 共 産 主 義 者 の 任 務 (조선의 정세와 조선 공산주의자의 임무) (1928 年 ) 朴 慶 植 編 朝 鮮 問 題 資 料 叢 書 7 アジア 問 題 研 究 所 1883 年 50 頁 12 1922 年 の 戸 口 調 査 規 定 によると 外 勤 巡 査 は3ヶ 月 に1 回 以 上 戸 口 調 査 を 行 う よう になっていたが そのう ち 性 行 思 想 党 派 および 経 歴 など6 項 目 を 調 査 せねばならず 要 観 察 人 物 留 学 生 新 聞 雑 誌 記 者 および 通 信 員 政 治 および 時 事 論 評 者 過 激 粗 暴 な 言 動 をする 者 その 他 高 等 警 察 が 注 意 しなければならない 者 など6 種 類 の 者 を 戸 口 調 査 の 際 注 意 して 査 察 させた( 糟 谷 憲 一 朝 鮮 総 督 府 の 文 化 政 治 近 代 日 本 と 植 民 地 2- 帝 国 統 治 の 構 造 岩 波 書 店 1992 年 132 頁 ) 13 鈴 木 武 雄 朝 鮮 統 治 の 性 格 と 実 績 大 蔵 省 管 理 局 日 本 人 の 海 外 活 動 に 関 する 歴 史 的 調 査 3 1947 年 13 頁 34

日 帝 の 朝 鮮 強 占 と 韓 国 の 独 立 運 動 徐 仲 錫 代 わって 制 令 を 発 布 する 制 令 制 定 権 を 保 有 し 職 権 または 委 任 によって 総 督 府 令 を 発 して これ に1 年 以 下 の 自 由 刑 200 円 以 下 の 犯 則 金 を 課 す 命 令 権 など 極 めて 広 範 で 強 大 な 権 力 を 集 中 さ せていた 細 川 嘉 六 は このような 総 督 に 権 力 が 広 範 に 集 中 することが 朝 鮮 政 治 の 根 本 であると 控 えめに 評 した 15 強 大 な 権 力 をもつ 総 督 を 牽 制 する 制 度 が 韓 国 内 には 存 在 していなかった インドの 場 合 1919 年 に 公 布 されたインド 統 治 法 に 依 拠 した 立 法 議 会 は 立 法 権 および 予 算 審 議 権 をもち 上 院 の 場 合 60 議 席 中 33 議 員 を 選 挙 で 下 院 の 場 合 145 議 席 中 104 名 を 選 挙 によって 選 出 し 市 邑 村 会 議 員 の 大 部 分 または 全 てがインド 人 だった 1930 年 に 合 意 された 英 印 平 和 協 定 は インド 人 の 自 治 を 大 幅 認 め 議 会 議 員 を 少 数 民 族 代 表 を 除 いては 全 て 民 選 にし 選 挙 権 も 大 きく 拡 張 された 1935 年 に 発 布 されたインド 統 治 法 によると 連 邦 議 会 は 財 産 資 格 を 持 ったインド 人 有 権 者 が 選 出 した 議 員 が 多 数 を 占 め 州 政 府 は 住 民 が 選 出 した 州 議 会 に 責 任 を 負 わせる 代 議 政 治 が 行 われ 州 知 事 は 勧 告 のみを 行 い 実 際 のトップは 首 席 長 官 であった 16 しかしながら 韓 国 の 場 合 朝 鮮 総 督 府 に 対 する 民 意 代 表 の 中 央 機 関 として 議 決 権 を 有 する 立 法 議 会 はもちろん 傀 儡 機 構 として 民 族 分 裂 政 策 に 活 用 された 中 枢 院 を 除 外 すれば 17 諮 問 機 関 も 設 置 されたことがなく 中 央 行 政 は 総 督 の 独 断 専 制 に 委 ねられていた 18 朝 鮮 総 督 は 日 本 政 府 や 議 会 からも 独 立 した 存 在 だった 朝 鮮 総 督 は 天 皇 に 直 隷 し 台 湾 とは 異 なり 内 閣 総 理 大 臣 や 各 省 の 大 臣 に 指 揮 監 督 を 受 けないようになっていた 19 朝 鮮 総 督 は 日 本 議 会 から 質 疑 応 答 を 受 けなくてもよかった 天 皇 直 隷 の 朝 鮮 総 督 のみが 朝 鮮 民 意 を 代 表 した あ る 研 究 者 は 天 皇 という 最 高 権 威 を 根 拠 とした 朝 鮮 総 督 の 地 位 支 配 の 正 当 性 保 持 は 日 帝 の 韓 国 支 配 の 特 質 であり またそれによって 朝 鮮 総 督 府 支 配 権 力 が 中 央 に 従 属 的 だというよりは むし ろ 対 等 以 上 の 関 係 を 持 つようになって 政 党 政 治 の 展 開 を 日 本 に 限 って 行 う 効 果 を 持 つようになっ たと 述 べた 20 14 1919 年 以 前 は 総 督 が 陸 海 軍 の 指 揮 権 を 持 っていた( 糟 谷 憲 一 前 掲 書 126-129 頁 ) 15 細 川 嘉 六 植 民 地 理 論 社 312-313 頁 16 矢 内 原 忠 雄 植 民 地 及 植 民 政 策 有 斐 閣 1941 年 331-332 頁 ; 趙 吉 泰 前 掲 書 494-499 頁 フィリピン インド ネシア インドシナの 立 法 議 会 または 諮 問 議 会 については 金 洪 喆 前 掲 書 999 頁 比 律 賓 は 独 立 するのか 批 判 1931 年 5 月 10-11 頁 ; 矢 内 原 忠 雄 前 掲 書 339 頁 ; ベル( 羽 俣 郁 訳 ) 蘭 仏 印 植 民 司 政 伊 藤 書 店 1942 年 ; 板 垣 与 一 ( 金 泳 国 訳 ) 아시아의 민족주의와 경제발전 汎 潮 社 1986 年 25-27 33-34 頁 ( 原 典 : アジア の 民 族 主 義 と 経 済 発 展 東 洋 経 済 新 報 社 1962 年 ) ; 車 錫 基 植 民 地 教 育 政 策 比 較 研 究 集 文 堂 1989 年 296 頁 ; 高 柄 翊 世 界 史 的 に 見 た 日 帝 の 植 民 統 治 韓 民 族 独 立 運 動 史 5- 日 帝 の 植 民 統 治 ( 세계사적으로 본 일제의 식민통치 한민족독립운동사 5-일제의 식민통치) 国 史 編 纂 委 員 会 1989 年 747-748 頁 参 照 フラ ンスは コーチシナ(ベトナム 南 部 )は 直 轄 地 として 直 接 統 治 したが 安 南 には 皇 帝 が カンボジアとラオスにはそれ ぞれ 王 がおり 各 期 宮 廷 と 在 来 式 の 官 吏 らがフランス 行 政 体 制 と 並 立 しており 一 旦 国 家 自 体 をなく すことはない 形 態 で 取 り 扱 われた( 高 柄 翊 前 掲 書 747-748 頁 ) 17 中 枢 院 は3.1 運 動 の 時 まで 会 議 が 一 度 も 招 集 されたことがなかった( 金 雲 泰 朝 鮮 総 督 府 の 構 造 と 特 質 韓 民 族 独 立 運 動 史 5- 日 帝 の 植 民 統 治 112 頁 ) 中 枢 院 は 主 に 慣 習 や 信 仰 に 関 する 問 題 について 諮 詢 を 受 け 重 要 な 事 項 はそこには 問 い 合 わせなかった(A.J.グラージュダンジェフ( 韓 国 語 版 : 李 基 白 訳 ) 韓 国 現 代 史 論 一 潮 閣 1973 年 42 248 頁 原 典 :Andrew J. Grajdanzev [i.e. A. J. Grad], Modern Korea, Octagon Books, 1978, c1944 New York) 18 矢 内 原 忠 雄 朝 鮮 統 治 の 方 針 李 種 植 編 朝 鮮 統 治 問 題 論 文 集 1929 年 118 頁 19 大 蔵 省 管 理 局 前 掲 書 2 101-102 頁 20 岡 本 真 希 子 総 督 政 治 と 政 党 政 治 二 大 政 党 期 の 総 督 人 事 と 総 督 府 官 制 予 算 朝 鮮 史 研 究 会 論 文 集 38 緑 蔭 書 房 2000 年 48-52 頁 35

第 2 部 日 本 の 植 民 地 支 配 と 朝 鮮 社 会 第 4 章 植 民 支 配 の 構 造 と 朝 鮮 人 の 対 応 憲 兵 警 察 統 治 は 憲 兵 警 察 の 役 割 についてもよく 考 える 必 要 があるが 監 視 と 拷 問 監 獄 と 強 制 転 向 と 関 連 しても 考 察 する 必 要 がある 武 断 統 治 期 の 憲 兵 警 察 より 文 化 統 治 期 の 警 察 が 数 的 に 増 加 しているが 21 武 断 統 治 期 の 憲 兵 のみならず 文 化 統 治 期 以 降 の 警 察 も 非 常 な 恐 怖 の 対 象 だった 過 度 な 警 察 統 治 が 実 施 されたのは 独 立 運 動 を 極 端 に 恐 れて 韓 国 人 の 民 族 主 義 的 感 情 まで 反 逆 思 想 と 見 なしたからであった 22 警 察 は 義 兵 攻 撃 などの 軍 事 活 動 言 論 出 版 集 会 結 社 などの 政 治 査 察 犯 罪 即 決 などの 司 法 権 行 使 納 税 督 促 などの 経 済 活 動 学 校 書 堂 視 察 日 本 語 普 及 などの 学 事 活 動 渡 日 労 働 者 の 取 り 締 まりなど 外 務 活 動 法 令 普 及 などの 助 長 行 政 衛 生 活 動 などを 行 っていたが 23 戦 時 中 は 労 務 徴 兵 食 糧 供 出 などに 強 力 な 役 割 を 果 たすなど 常 に 総 督 の 施 政 方 針 の 具 現 と 世 相 動 態 の 把 握 に 遺 憾 なく 威 力 を 発 揮 してきた 24 高 等 警 察 は ロ シア 領 アメリカ 大 陸 など 海 外 各 地 にまで 独 立 運 動 者 を 尾 行 潜 伏 追 跡 して 監 視 逮 捕 し 甚 だ しくは 密 偵 をさせて 暗 殺 することもあった 道 知 事 も 道 令 を 発 動 して 3ヶ 月 以 下 の 懲 役 や 禁 固 拘 留 100 円 以 下 の 罰 金 を 賦 課 できたが 25 警 察 もまた 笞 刑 や3ヶ 月 以 下 の 懲 役 100 円 以 下 の 罰 金 を 賦 課 する 犯 罪 に 対 して 即 決 審 判 権 を 持 っていた 笞 刑 は 羞 恥 感 を 懲 役 や 罰 金 刑 は 恐 怖 を 与 えた 即 決 処 罰 は 1911 年 18,100 余 件 1913 年 21,400 余 件 1918 年 82,121 件 1921 年 73,262 件 と 強 占 初 期 より3.1 運 動 を 前 後 した 時 期 に 多 かった 26 日 帝 の 支 配 政 策 の 中 で 民 族 分 裂 政 策 にも 注 目 する 必 要 がある 韓 国 はインドや 東 南 アジアと は 異 なり 人 種 的 に あるいは 宗 教 的 政 治 的 経 済 的 に 分 裂 していなかったため 白 人 帝 国 主 義 国 家 のように 分 割 統 治 (divide and rule) 政 策 27 を 使 う 代 わりに 階 級 分 断 政 策 を 使 った 28 地 主 ブ ルジョア 儒 林 教 育 家 宗 教 家 その 他 有 志 など 韓 国 人 上 層 を 懐 柔 して 引 き 込 む 一 方 小 作 人 労 働 者 らの 農 民 運 動 労 働 運 動 に 対 しては 苛 酷 な 抑 圧 政 策 を 行 ったのである このような 民 族 分 裂 政 策 は 興 味 深 いことには 3.1 運 動 以 降 斎 藤 実 が 朝 鮮 総 督 として 赴 任 し いわゆる 文 化 政 治 を くりひろげ 積 極 的 に 展 開 されたが 民 族 分 裂 政 策 は 文 化 政 治 と 表 裏 の 関 係 にあったといえる 齋 藤 総 督 の 親 日 勢 力 民 族 改 良 主 義 勢 力 の 育 成 と 後 援 自 治 運 動 参 政 権 運 動 の 後 援 実 力 養 成 運 動 として 展 開 された 韓 国 人 の 文 化 運 動 の 支 援 などは ほかならぬ 民 族 分 裂 政 策 であったとも いえる 29 齋 藤 は2 回 にわたる 総 督 在 任 期 間 に 自 治 参 政 権 問 題 で 民 族 運 動 を 分 裂 させ 中 枢 院 と 地 方 制 度 の 改 定 を 通 して 親 日 勢 力 を 養 成 した 彼 と 彼 の 参 謀 である 阿 部 充 家 は 3.1 運 動 計 画 で 重 要 な 役 割 を 果 たした 天 道 教 幹 部 崔 麟 3.1 独 立 宣 言 書 を 起 草 した 崔 南 善 を 仮 出 獄 で 釈 放 し 東 京 2.8 独 立 宣 言 書 を 起 草 した 李 光 洙 を 上 海 臨 時 政 府 から 引 きずり 出 し 実 力 養 成 運 動 民 族 性 21 1919 年 改 編 当 時 憲 兵 8,179 人 警 察 6,322 人 の14,501 人 だったが 普 通 警 察 に 改 編 された 同 年 末 には 警 察 が 20,648 人 だった( 金 大 商 日 帝 下 強 制 人 力 収 奪 史 正 音 社 1975 年 46 頁 ) 22 鈴 木 武 雄 前 掲 書 6 頁 23 金 雲 泰 前 掲 書 106-107 頁 24 大 蔵 省 管 理 局 前 掲 書 2 126-127 頁 25 糟 谷 憲 一 前 掲 書 128 頁 26 金 雲 泰 前 掲 書 107-108 頁 27 分 割 統 治 政 策 については 板 垣 与 一 前 掲 書 14-17 頁 参 照 28 姜 東 鎮 日 本 の 朝 鮮 支 配 政 策 史 研 究 東 京 大 学 出 版 会 1979 年 395 頁 29 姜 東 鎮 前 掲 書 朴 慶 植 日 本 帝 国 主 義 の 朝 鮮 支 配 上 青 木 書 店 1973 年 218-219 頁 参 照 36

日 帝 の 朝 鮮 強 占 と 韓 国 の 独 立 運 動 徐 仲 錫 改 造 運 動 など 改 良 主 義 運 動 を 積 極 的 に 繰 り 広 げることになったのは 30 天 道 教 を 分 裂 させるなど 民 族 運 動 に 少 なからぬ 影 響 を 及 ぼした 彼 らは 中 日 戦 争 以 後 皇 国 臣 民 化 運 動 に 積 極 的 に 立 ち 上 がった 宇 垣 一 成 総 督 の 中 堅 人 物 養 成 や 31 中 日 戦 争 以 後 の 皇 国 臣 民 化 運 動 も 民 族 分 裂 政 策 の 性 格 を 持 っていた 3. 同 化 政 策 歴 代 総 督 は 同 化 政 策 や 内 鮮 一 体 内 地 延 長 主 義 を 標 榜 していたが 日 帝 植 民 地 期 総 督 統 治 に 批 判 的 な 学 者 であろうと 官 辺 学 者 であろうと 時 期 と 性 格 の 差 異 こそあれ 同 化 政 策 を 韓 国 に 対 する 基 本 的 な 政 策 として 見 ている 点 では 同 じであるといえる 32 植 民 政 策 の 中 で 同 化 主 義 とは 植 民 地 に 対 して 本 国 と 同 一 の 権 利 同 一 の 自 由 を 保 障 するこ とで 植 民 地 は 本 国 の 延 長 であるという 意 味 を 持 っていた 33 元 来 植 民 地 は 母 国 の 領 土 の 単 純 な 延 長 に 過 ぎないという 観 念 の 産 物 として 植 民 地 は 本 国 の 不 可 分 の 一 部 分 でなければならず 従 って 植 民 地 は 本 国 と 同 一 の 制 度 下 で 服 従 しなければならないという 34 同 化 主 義 は 主 にフランスの アルジェリアと 西 インド 諸 島 イギリスのアメリカ アイルランドなどでの 政 策 を 指 した 35 フランスが 従 属 主 義 から 同 化 主 義 に 進 んだのは 1791 年 国 民 公 会 憲 法 においてだったが 植 民 地 居 住 者 は 人 種 の 如 何 を 問 わずフランス 市 民 として 憲 法 によって 保 障 された 一 切 の 権 利 をもつと 宣 言 した 36 フラ ンス 人 は 平 等 博 愛 の 大 革 命 理 念 を 崇 め フランス 文 化 は 普 遍 的 な 価 値 を 備 えているため いか なる 異 民 族 に 対 してであろうとこの 文 化 を 普 及 させることが 善 だと 信 じ 可 能 な 限 りフランス 人 にさせ るという 方 針 を 立 てた 37 日 帝 は 植 民 地 期 に 朝 鮮 に 対 して 一 視 同 仁 あるいは 内 鮮 一 体 の 同 化 政 策 すなわち 内 地 延 長 主 義 政 策 を 繰 り 広 げると 頻 繁 に 強 弁 していた 初 代 総 督 寺 内 正 毅 も1910 年 8 月 に 元 来 併 合 の 趣 旨 は 双 方 の 差 別 を 取 り 除 くものだと 述 べたが 38 第 2 代 総 督 長 谷 川 好 道 は 1919 年 7 月 1 日 いわゆる 諭 告 を 通 じて 朝 鮮 は 即 ち 帝 国 の 版 図 であり その 属 邦 ではない 朝 鮮 人 はすなわち 帝 国 の 臣 民 であり 内 地 人 と 何 等 の 差 別 はない 朝 鮮 の 統 治 もまた 早 くからの 同 化 の 方 針 に 基 づ き 一 視 同 仁 の 大 義 にのっとって 施 行 した と 述 べた 39 このような 主 張 は 敗 戦 後 にも 継 続 し 大 蔵 省 で 出 版 された 朝 鮮 統 治 の 最 高 方 針 の 項 目 にも 次 のように 書 かれている 結 果 はいずれにせよ 内 鮮 一 体 を 具 体 化 した 歴 代 総 督 の 諸 政 策 は 統 治 者 の 意 図 において 革 新 的 な 同 化 政 策 30 姜 東 鎮 前 掲 書 321-327 331-356 366-403 頁 31 富 田 晶 子 農 村 振 興 運 動 下 の 中 堅 人 物 の 養 成 (농촌진흥 운동하의 중견인물의 양성) 日 帝 末 期 ファシズム と 韓 国 社 会 チョ ンア 出 版 社 1988 年 を 参 照 32 矢 内 原 忠 雄 前 掲 書 鈴 木 武 雄 前 掲 書 など 参 照 33 矢 内 原 忠 雄 前 掲 書 304 頁 34 板 垣 与 一 前 掲 書 20 頁 35 村 上 勝 彦 矢 内 原 忠 雄 の 植 民 論 と 植 民 政 策 近 代 日 本 と 植 民 地 4- 統 合 と 支 配 の 論 理 岩 波 書 店 1993 年 220 頁 参 照 36 板 垣 与 一 前 掲 書 20 頁 37 高 柄 翊 前 掲 書 752-753 頁 38 朝 鮮 総 督 府 朝 鮮 総 督 府 施 政 年 報 1912 年 付 録 20 頁 訓 令 39 糟 谷 憲 一 前 掲 書 124 頁 から 再 引 用 37

第 2 部 日 本 の 植 民 地 支 配 と 朝 鮮 社 会 第 4 章 植 民 支 配 の 構 造 と 朝 鮮 人 の 対 応 であったといえる 民 度 が 低 い 後 進 朝 鮮 人 を 内 地 人 のレベルに 引 き 上 げ 内 鮮 人 を 全 く 平 等 に 扱 い 内 地 人 の 優 越 的 差 別 待 遇 や 感 情 を 絶 滅 させよう という 崇 高 な 目 的 によって 計 画 推 進 されたという 面 から 見 れば 進 歩 的 で 革 新 的 であり また 民 主 的 だという ことは 異 民 族 統 治 史 上 その 類 を 見 ないといっても 過 言 ではない 40 侵 略 戦 争 を 起 こし 虐 殺 などの 蛮 行 をほしいままにしながら 大 東 亜 共 栄 という 人 類 の 崇 高 な 目 的 を 遂 行 していると 主 張 した 論 理 と 同 じ 主 張 を 敗 戦 後 にも 行 っていたのである このような 非 現 実 的 な 美 化 は 日 帝 の 代 表 的 知 識 人 にも 見 られる 41 日 帝 は 内 鮮 一 体 内 地 延 長 主 義 一 視 同 仁 を 提 唱 しながら 韓 国 人 と 日 本 人 が 同 じ 先 祖 から 出 たという いわゆる 日 鮮 同 祖 論 または 同 祖 同 根 論 という 荒 唐 無 稽 な 主 張 を 流 布 させた ところで 日 帝 の 同 化 政 策 で 非 常 に 重 要 なことは 歴 代 総 督 は 同 化 政 策 を 標 榜 したとはいえ そ れが 差 別 を 撤 廃 することではないということをよく 理 解 していたという 点 である 寺 内 は 慣 習 調 査 の 意 義 について 述 べながら 韓 国 は 帝 国 内 地 とは 異 なる 特 殊 な 統 治 を 行 う 必 要 があるのはいうま でもないと 明 言 した 42 内 鮮 一 体 運 動 を 積 極 的 に 推 進 した 南 次 郎 総 督 は 自 分 が 力 説 した 内 鮮 一 体 が 直 ちに 無 差 別 平 等 を 実 現 させようというものではないことを 日 本 人 と 韓 国 人 に 誤 解 のないよ うに 周 知 させるため 努 力 すべきであるとさえ 述 べた 43 彼 らの 言 う 内 鮮 一 体 内 地 延 長 主 義 一 視 同 仁 は 実 際 は 空 言 に 過 ぎず 差 別 撤 廃 は 韓 国 人 の 文 化 と 民 力 が 向 上 し 天 皇 の 支 配 力 に 服 従 するようになった 後 日 に 回 された 44 朝 鮮 総 督 府 官 吏 山 名 酒 喜 男 が 内 閣 総 力 戦 研 究 所 で 同 化 とは 常 に 二 歩 三 歩 先 を 行 く 日 本 人 の 後 を 感 謝 の 念 を 抱 いて 順 従 する 心 として 従 ってくるこ とを 意 味 すると 語 ったのは 45 朝 鮮 総 督 府 の 同 化 政 策 を 簡 明 に 説 明 していると 見 ることができる 日 本 にいる 日 本 人 であれ 韓 国 にいる 日 本 人 であれ 一 般 の 日 本 人 も 差 別 が 撤 廃 されることには 反 対 だった 46 吉 野 作 造 や 矢 内 原 忠 雄 といった 日 本 人 は 極 めて 少 数 だった 日 本 人 と 韓 国 人 とを 差 別 しない 分 野 を 探 し 出 すことは 至 極 困 難 なことである 日 帝 は 自 国 の 憲 法 も 明 治 国 家 の 教 育 戦 略 も 韓 国 には 適 用 しなかった 47 敗 戦 直 後 に 日 本 の 大 蔵 省 から 出 され た 文 献 にも 差 別 政 策 がいくつか 列 挙 されていた すなわち 政 治 上 では 参 政 権 地 方 議 会 議 員 選 任 方 法 において 行 政 上 では 総 督 の 総 合 行 政 権 官 吏 任 用 において 立 法 上 では 制 令 にお いて 経 済 上 は 関 税 制 度 経 済 権 戦 時 経 済 独 自 政 策 において 教 育 上 で 警 察 取 り 締 まり 上 で は 渡 航 禁 止 などで 差 別 があったという 点 を 指 摘 した 法 律 の 場 合 制 令 の 存 在 のほかにも 別 の 差 別 があった 日 本 帝 国 議 会 は 日 本 と 韓 国 に 共 通 に 適 用 される 法 律 を 制 定 し また 朝 鮮 にのみ 施 行 40 大 蔵 省 管 理 局 前 掲 書 2 5 頁 41 文 筆 家 の 徳 富 蘇 峰 や 京 城 帝 国 大 学 総 長 山 田 三 良 の 文 を 参 照 ( 姜 東 鎮 日 帝 言 論 界 の 韓 国 観 (강동진 일제언론계의 한국관 ) 一 志 社 1982 年 161-163 頁 ; 李 進 熙 日 帝 の 植 民 地 統 治 と 日 本 学 界 韓 民 族 独 立 運 動 史 5- 日 帝 の 植 民 統 治 ( 일제의 식민지통치와 일본학계 한민족독립운동사 5-일제의 식민통치 ) 694-695 頁 ) 42 崔 錫 栄 前 掲 書 36 頁 43 宮 田 節 子 ( 李 榮 娘 訳 ) 조선민중과 황민화 정책 一 潮 閣 )1997 年 165 185 頁 参 照 ( 日 本 語 原 典 : 朝 鮮 民 衆 と 皇 民 化 政 策 未 来 社 1985 年 ) 44 糟 谷 憲 一 前 掲 書 125 頁 45 宮 田 節 子 前 掲 書 176 頁 46 高 柄 翊 前 掲 書 754 頁 宮 田 節 子 前 掲 書 184 頁 を 参 照 47 ピーティー 前 掲 書 222 頁 参 照 38

日 帝 の 朝 鮮 強 占 と 韓 国 の 独 立 運 動 徐 仲 錫 される 法 律 を 制 定 できたが その 他 の 法 律 は 韓 国 に 適 用 されなかった 韓 国 の 司 法 機 関 は 日 本 と 別 個 の 系 統 をもち 裁 判 官 の 任 用 資 格 身 分 保 障 は 日 本 は 法 律 で 定 めていたが 韓 国 は 朝 鮮 総 督 の 命 令 の 制 令 で 定 めていた 48 総 督 府 官 吏 の 場 合 韓 国 人 と 日 本 人 の 間 には 給 料 の 差 異 が 少 なくなく 高 位 職 には 韓 国 人 は 少 数 しか 昇 進 できなかった 1925 年 3 月 末 の 統 計 によると 韓 国 人 は 総 督 府 および 所 属 官 署 の 全 体 職 員 の35.6%だったが このうち 勅 任 官 は20% 高 等 官 と 高 等 官 待 遇 者 は29.7%だった 49 総 督 府 本 部 は 全 体 職 員 の15.4%が 韓 国 人 で そのうち 高 等 官 が 5.3% 勅 任 官 は 学 務 局 長 李 軫 鎬 一 人 だった 同 じ 時 期 警 察 官 の 場 合 韓 国 人 は 警 察 官 全 体 の39.7%だったが 警 察 部 長 13 名 の 全 て 警 視 警 部 警 部 補 の78.0%が 日 本 人 だった 50 法 曹 界 の 場 合 1912 年 に 判 事 が 日 本 人 161 名 韓 国 人 38 名 であり 検 事 はそれぞれ54 名 と3 名 だった 1940 年 9 月 現 在 では 高 等 法 院 には 韓 国 人 が 一 人 もおらず 覆 審 法 院 は35 名 中 4 名 が 地 方 法 院 は 約 10%が 韓 国 人 だった 仮 に 判 事 のうち2 名 が 韓 国 人 だったとしても 裁 判 長 は 絶 対 的 拒 否 権 を 持 った 日 本 人 であった また 似 たような 軽 犯 罪 の 場 合 日 本 より 韓 国 の 司 法 判 断 が 厳 しかった 日 本 は100 万 名 当 たりの 病 院 数 で 韓 国 の6~7 倍 医 者 の 数 で7 倍 で 1938 年 韓 国 官 立 病 院 の 民 族 別 患 者 数 は 日 本 人 が334,438 人 韓 国 人 が389,739 人 であった 1940 年 の 韓 国 内 の 日 本 人 は69 万 名 余 りであり 全 体 人 口 の 約 3%だった ところで 同 時 期 に 大 学 は1 校 で 刑 務 所 15 感 化 院 3 保 護 観 察 所 7 刑 務 所 支 所 11ヵ 所 だった 51 釜 山 埠 頭 では 搭 乗 口 が 日 本 人 用 と 韓 国 人 用 に 分 離 さ れていたが 韓 国 人 は 厳 格 な 検 問 を 受 けなければならなかった 52 ある 日 本 人 研 究 者 は 日 本 は 韓 国 に 対 して 経 済 面 でフランスより 徹 底 した 本 国 中 心 の 差 別 政 策 を 行 使 し 関 税 同 化 政 策 であっ たと 評 価 した 53 外 形 上 から 見 るとき 創 氏 改 名 はフランスの 同 化 政 策 と 類 似 した 点 があると 主 張 す ることもできた だが それにも 差 別 があった 日 本 人 と 韓 国 人 の 区 別 を 本 籍 によってすることが できたのである つまり 韓 国 と 日 本 との 転 籍 は 禁 止 されていたのである 54 韓 国 人 が 日 本 人 から 受 けた 最 も 耐 えがたい 差 別 は 日 本 人 が 韓 国 人 を 劣 等 視 し 侮 蔑 感 をもっ て 韓 国 人 に 対 したという 点 だった 日 帝 や 日 本 人 が 韓 国 人 に 対 する 差 別 待 遇 を 合 理 化 する 方 便 と して 主 張 した 韓 国 人 の 劣 等 性 は この 節 の 後 半 部 分 で 詳 しく 見 てみようと 思 う 当 然 のことであるが 日 本 人 は 韓 国 人 と 結 婚 することを 嫌 っていた 55 日 帝 が 近 隣 の 民 族 をどのように 考 えていたのかは 1930 年 代 に 総 督 だった 宇 垣 一 成 が1927 年 に 記 した 次 の 日 記 によく 現 れている 48 大 蔵 省 管 理 局 前 掲 書 2 5-6 104-105 頁 49 韓 国 人 の 高 等 官 及 び 高 等 官 待 遇 者 は 郡 守 が190 人 ( 日 本 人 26 人 ) 中 枢 院 70 人 で 彼 らが 全 体 の 韓 国 人 の 71.9%を 占 めていた( 糟 谷 憲 一 前 掲 書 129 頁 ) 韓 国 人 勅 任 官 は 道 知 事 および 道 参 与 官 であったが 韓 国 人 道 知 事 は 道 の 内 務 部 長 が 牽 制 監 視 し 道 参 与 官 は1920 年 代 までは 道 長 官 の 諮 問 に 応 じるという 名 のみの 地 位 だ った 郡 守 は 日 本 人 の 内 務 系 主 任 の 監 視 と 牽 制 を 受 け 指 定 面 がある 郡 は 日 本 人 が 郡 守 だった( 李 基 東 日 帝 下 の 韓 国 人 官 吏 たち(일제하의 한국인 관리들) 新 東 亜 1985 年 3 月 号 460 頁 ) 中 枢 院 参 議 は 名 誉 職 だっ た 50 糟 谷 憲 一 前 掲 書 129 頁 51 グラージュダンジェフ 前 掲 書 246 254-266 頁 52 朝 鮮 総 督 府 高 位 官 吏 の 肉 声 証 言 前 掲 書 345 頁 53 村 上 勝 彦 前 掲 書 226 頁 54 宮 田 節 子 前 掲 書 77 頁 55 フランス 人 は 英 国 人 とは 異 なり 有 色 人 種 との 混 血 を 拒 否 せず アフリカの 黒 人 が 自 然 に 同 化 されるよう になった インドネシア 地 方 でも 有 色 人 種 に 対 する 差 別 は 弱 く オランダ 人 とジャワ 人 が 結 婚 して 生 まれた 子 供 は 完 全 なオラ ンダ 公 民 権 を 持 ち ヨーロッパ 人 と 分 類 された( 車 錫 基 前 掲 書 296 303 頁 ) 39

第 2 部 日 本 の 植 民 地 支 配 と 朝 鮮 社 会 第 4 章 植 民 支 配 の 構 造 と 朝 鮮 人 の 対 応 真 の 不 羈 独 立 として 存 在 しあるは 日 本 人 八 千 万 余 丈 けである 此 日 章 旗 の 庇 護 の 下 に 有 色 人 種 唯 一 の 純 独 立 国 民 として 生 存 することは 御 互 の 光 栄 名 誉 とし 誇 りとする 所 にして 何 等 の 不 足 も なき 所 にして 鮮 人 輩 の 彼 是 不 足 がましき 事 を 云 ふものあるは 実 に 不 可 解 の 極 みである 56 日 本 は 同 化 主 義 を 云 々するほどの 歴 史 を 持 ってはいなかった ある 歴 史 家 は 日 本 は 民 族 間 の 平 等 な 関 係 という 概 念 を 持 ったことがなかったと 指 摘 した 日 本 人 は 民 族 間 の 関 係 を 優 越 と 劣 等 の 関 係 で 理 解 したということである 彼 らは 脱 亜 入 欧 論 に 見 られるように ヨーロッパとアジア 人 に 対 する 二 元 的 思 考 の 中 で 植 民 地 民 族 を 日 本 民 族 と 分 離 して 別 々に 統 治 することが 当 然 であ るという 分 治 思 考 を 備 えていた フランスとは 異 なり 差 別 統 治 あるいは 分 治 が 彼 らには 自 然 な 植 民 地 統 治 形 態 だった 57 矢 部 貞 治 は1942 年 に 書 いた 大 東 亜 の 政 治 構 想 と 原 理 で 大 東 亜 の 諸 民 族 は 各 々の 価 値 能 力 民 度 功 績 に 適 合 した 地 位 が 認 められ ひいては 全 体 として 有 機 的 調 和 が 維 持 されねばならないと 述 べ それは 差 別 待 遇 ではなく 差 等 が 取 りも 直 さず 公 正 であると 指 摘 した 指 導 国 独 立 国 保 護 国 直 轄 領 などに 分 かれているのは 自 然 な 形 状 であるという 主 張 で あった 58 韓 国 人 は 劣 等 人 種 で 日 帝 によって 従 属 的 役 割 だけを 委 ねられ 政 治 的 権 利 もなく 統 治 の 責 任 も 分 け 与 えられなかった 韓 国 人 に 対 する 進 歩 や 啓 蒙 は 日 本 帝 国 内 部 で 定 められた 二 等 臣 民 と しての 地 位 を 逸 脱 しない 水 準 に 留 めおかれるもの 以 上 になってはならなかった 59 矢 内 原 忠 雄 は 植 民 政 策 を 従 属 主 義 同 化 主 義 自 主 主 義 に 区 別 し 従 属 主 義 は 植 民 地 の 利 益 を 考 慮 せずに もっぱら 自 国 自 身 の 利 益 のためにのみ 植 民 活 動 を 規 律 しようとする 主 義 であると 定 義 した そして 歴 史 的 には 従 属 主 義 から 同 化 主 義 へ また 同 化 主 義 から 自 主 主 義 へ 移 ってい くものと 理 解 しながら 韓 国 は 同 化 主 義 に 該 当 すると 指 摘 した 60 日 帝 の 同 化 政 策 は フランスさえ すでに19 世 紀 末 には 協 同 主 義 に 植 民 政 策 を 変 えたのに 比 べてみても 時 代 の 潮 流 に 逆 行 するも のだったと 考 えられる 61 しかし 矢 内 原 忠 雄 も 韓 国 はもっとも 専 制 的 な 同 化 主 義 であると 指 摘 した こと 62 が 示 唆 するように 韓 国 の 場 合 従 属 主 義 と 同 化 主 義 のある 一 方 に 属 すると 考 えにくい 点 があ る そして 吉 野 作 造 は 1910 年 代 の 韓 国 が 日 本 の 封 建 時 代 の 官 民 関 係 を 彷 彿 とするものであると 述 べ 63 1920 年 代 に 矢 内 原 忠 雄 は 文 治 主 義 の 総 督 政 治 下 で 不 安 絶 望 無 光 明 が 漂 っていると 指 摘 した 64 フランスの 同 化 政 策 はおおよそ 有 色 人 種 を 対 象 としており 長 い 間 発 展 させてきた 近 代 文 化 を 持 つ 自 国 よりも 異 質 で 低 い 水 準 の 文 化 を 持 った 原 住 民 のために 同 化 政 策 を 施 行 し それも 統 56 57 58 宮 田 節 子 前 掲 書 206 頁 から 再 引 用 高 柄 翊 前 掲 書 752-755 頁 宮 田 節 子 前 掲 書 177 頁 59 ピーティー 前 掲 書 142 162 169 170 177 222 頁 参 照 60 矢 内 原 忠 雄 前 掲 書 302-304 頁 61 ピーティー 前 掲 書 134 頁 62 63 64 村 上 勝 彦 前 掲 書 219-220 頁 姜 東 鎮 前 掲 書 144 頁 矢 内 原 忠 雄 前 掲 書 109-110 頁 40

日 帝 の 朝 鮮 強 占 と 韓 国 の 独 立 運 動 徐 仲 錫 治 がカンボジア(1863 年 ) トンキン(1874 年 ) ベトナム(1884 年 )のように 文 化 程 度 が 高 い 保 護 領 へ 拡 大 されるにともない 民 族 はそれぞれの 特 性 によって 発 展 しなければならないという 思 考 を 持 つようになり それによって 同 化 主 義 から 漸 次 協 同 主 義 へと 政 策 を 転 換 したが 65 日 帝 は 彼 らが 愛 用 した 同 祖 同 根 同 族 同 種 同 種 同 文 という 言 葉 を 想 起 するまでもなく 同 じ 黄 色 人 種 であり 似 たような 文 化 を 持 った 韓 国 を 対 象 に20 世 紀 前 半 期 に 同 化 政 策 を 施 行 し 植 民 地 期 末 期 には 皇 国 臣 民 化 運 動 という 極 端 な 同 化 政 策 を 総 力 戦 の 形 態 で 展 開 した 実 際 白 人 は 自 身 の 文 明 と 制 度 を 未 開 の 民 族 に 植 えつけることを 使 命 と 捉 えており 迷 信 や 異 端 的 な 宗 教 を 信 ずる 人 々にキリス ト 教 の 福 音 を 伝 播 することを 聖 なることであると 考 えていたが 日 帝 はこれに 比 肩 するものではなか った 66 何 よりも 日 帝 は フランス 革 命 の 理 念 のような 人 類 普 遍 的 な 政 治 理 念 を 持 っていなかった また 日 帝 や 日 本 人 は 韓 国 人 を 差 別 し 白 人 に 対 するのとは 対 照 的 に 民 族 的 優 越 感 を 持 って 韓 国 人 を 嫌 悪 し 蔑 視 したにもかかわらず 同 化 政 策 を 行 ったのは 何 のためであろうか それには フ ランスが 同 化 政 策 を 施 行 したのと 類 似 した 点 もあり 韓 国 人 支 配 を 正 当 化 するためのイデオロギー として 提 示 したものだったり 植 民 地 支 配 を 美 化 するための 点 もあったはずだが 大 日 本 帝 国 を 発 展 させるのに 緊 要 な 地 域 である 韓 国 を 安 定 した 地 域 とし 大 日 本 帝 国 隆 盛 に 寄 与 させる ためというのが 基 本 目 的 だった 寺 内 総 督 にとっては 完 全 な 同 化 とは 絶 対 服 従 を 意 味 したが 67 日 帝 にとって 同 化 政 策 とは 韓 国 人 が 日 帝 に 順 応 し 服 従 させるための 政 策 だった フランスとは 異 なり 68 また 台 湾 とも 異 なるように 日 帝 強 占 期 の 最 後 まで 武 官 総 督 のみだったのも その 武 官 総 督 を 天 皇 に 直 隷 する 特 別 な 存 在 いわゆる 威 厳 ある 存 在 としての 位 置 を 占 めていたのもそのためであ る 前 述 のように 日 帝 は 韓 国 が 日 本 帝 国 において 決 して 離 れていってはならない 地 域 であるが 強 靭 な 民 族 意 識 を 持 っていたために 潜 在 的 に 非 常 に 不 安 定 で 騒 擾 や 戦 乱 が 発 生 する 可 能 性 が ある 地 域 として 捉 えていた それゆえに 中 日 戦 争 が 起 こる 前 まで 韓 国 人 はいつどのように 出 てくる かわからないので 同 化 政 策 とは 矛 盾 して 韓 国 人 を 入 営 させず 1944 年 に 徴 兵 制 が 実 施 された 際 も 独 自 の 韓 国 人 部 隊 はなかった また 英 国 は 東 アフリカに1 個 歩 兵 大 隊 のみ 駐 屯 させ 台 湾 には 戦 間 期 に 歩 兵 2 個 連 隊 と 砲 兵 部 隊 1つ そして 数 個 の 要 塞 部 隊 があったが 69 韓 国 各 地 には 憲 兵 (1919 年 以 前 )と 警 察 を 配 置 し ソウルに 朝 鮮 軍 司 令 部 を 設 置 し 羅 南 とソウルに 第 19 20 師 団 を 駐 屯 させた しかしながら このような 軍 隊 の 配 置 よりも 韓 国 の 安 定 のためにはるかに 重 要 なことは 日 帝 または 天 皇 に 順 応 し 服 従 する 人 間 を 作 るための 同 化 政 策 だった 韓 国 人 が 独 自 性 を 持 ち 得 ない 民 族 であり 従 属 的 役 割 しか 任 せられないのは 仕 方 のないことで あるということを 受 け 入 れ 日 帝 や 天 皇 に 順 応 し 服 従 する 人 間 にさせるために 民 族 意 識 を 持 てな いようにし その 民 族 意 識 を 弱 化 させて 変 質 させなければならないというのが 日 本 帝 国 主 義 者 の 信 念 であった よって 日 帝 は 韓 国 の 文 化 や 歴 史 民 族 性 が 独 立 国 家 をもてない 理 由 であるという ことを 立 証 するために 多 くの 労 力 を 傾 けた まず 日 本 人 官 吏 や 教 育 者 は 韓 国 の 歴 史 風 俗 社 65 板 垣 与 一 前 掲 書 20-21 頁 66 高 柄 翊 前 掲 書 757-758 頁 67 ピーティー 前 掲 書 142 頁 68 フランス 領 植 民 地 には 文 官 政 治 が 成 り 立 った( 車 錫 基 前 掲 書 193 頁 ) 69 ピーティー 前 掲 書 169 頁 41

第 2 部 日 本 の 植 民 地 支 配 と 朝 鮮 社 会 第 4 章 植 民 支 配 の 構 造 と 朝 鮮 人 の 対 応 会 を 研 究 して 理 解 しようとはせず 韓 国 語 を 習 得 しなければならないという 考 えも 持 っておらず 彼 らは 韓 国 語 による 新 聞 雑 誌 ラジオ 歌 謡 を 身 近 なものにしようとしなかった 点 70 に 注 目 する 必 要 がある かと 思 えば 古 跡 の 発 掘 に 関 連 した 朝 鮮 古 跡 調 査 委 員 会 などの 機 構 には 韓 国 人 を 少 数 し か 入 れず 中 枢 的 な 役 割 は 任 されていなかった 遺 跡 の 調 査 発 掘 にも 韓 国 人 は 排 除 された 71 東 京 帝 国 大 学 など 日 本 のさまざまな 大 学 や 研 究 機 関 京 城 帝 国 大 学 と 総 督 府 の 機 構 で 活 動 した 日 本 人 学 者 らは 韓 国 の 歴 史 が 常 に 従 属 的 であったということを19 世 紀 後 半 から 日 帝 強 占 期 に 至 る まで 主 張 した そのような 主 張 は 解 放 後 も 続 いた 韓 国 の 歴 史 学 者 らが 植 民 史 観 と 通 称 する 日 帝 の 韓 国 史 観 は 解 放 直 後 日 本 の 大 蔵 省 から 出 さ れた 日 本 人 の 海 外 活 動 に 関 する 歴 史 的 調 査 にも 強 調 されている この 本 は 第 2 冊 朝 鮮 編 第 1 分 冊 第 1 章 第 1 節 と 第 2 節 で 韓 国 史 において 常 に 主 導 権 を 握 っていたのは 周 辺 国 家 であり 韓 国 側 としてはこれにとにかく 順 応 し 自 己 保 全 をすることに 努 力 が 集 中 していたという 宿 命 的 な 半 島 的 性 格 を 提 示 した このような 他 律 性 論 は 第 3 節 国 是 としての 事 大 主 義 の 成 長 で 反 復 して 強 調 さ れている 72 第 4 節 では 朝 鮮 社 会 において 大 韓 帝 国 期 まで 韓 国 は 誰 が 何 を 言 おうと 停 滞 した 歴 史 を 有 していたと 説 明 するなかで 韓 国 が 藤 原 時 代 末 期 に 相 当 するという 福 田 徳 三 の 主 張 を 紹 介 した 第 5 節 では 党 派 性 が 朝 鮮 民 族 の 特 性 であると 力 説 した 日 帝 は 早 くから 日 本 人 に 歴 史 教 科 書 などを 通 じて 神 功 皇 后 の 三 韓 征 伐 に 重 点 を 置 いて 教 えていたかと 思 えば ある 日 本 人 研 究 者 は 日 本 で 三 韓 征 伐 伝 承 は 幕 末 以 来 いかなる 意 味 でも 忠 臣 蔵 以 上 に 親 しく 接 し 日 常 生 活 の 中 に 溶 け 込 んでいたと 記 述 した 73 歴 史 学 者 の 旗 田 巍 は 日 本 は 韓 国 の 国 を 奪 ったのみならず その 歴 史 までも 奪 ったが それがどれほど 韓 国 人 を 傷 つけたかは 我 々 日 本 人 には 想 像 すらできな いと 述 べたことがあったが 74 解 放 後 韓 国 人 歴 史 学 者 がもっとも 力 を 入 れてしたことのひとつが 他 律 性 論 停 滞 性 論 党 派 性 論 に 代 表 される 日 帝 の 植 民 史 観 を 研 究 し 批 判 する 作 業 だった 75 日 帝 は 韓 国 人 の 民 族 性 が 独 立 には 不 適 当 だとし 韓 国 人 は 劣 等 民 族 だということを 様 々な 形 態 で 主 張 し これを 普 及 させるために 努 力 した 1920 年 代 文 化 統 治 期 の 政 治 宣 伝 で 主 張 された 独 立 不 能 論 は 民 族 性 が 独 立 自 治 能 力 を 欠 き それは 歴 史 的 に 証 明 されており 独 立 しようとして も 実 力 がなく 国 際 的 条 件 が 不 可 能 になっているという4 点 で 構 成 されていた 朝 鮮 総 督 府 調 査 資 70 大 蔵 省 管 理 局 前 掲 書 2 30-31 頁 フランスはベトナム 人 の 宗 教 慣 習 伝 統 を 早 く から 尊 重 し 彼 らの 気 質 に 合 致 する 伝 統 的 地 方 行 政 組 織 を 活 用 することによって 現 地 人 の 慣 習 と 自 主 性 を 破 壊 する 同 化 政 策 の 弊 害 をなく そ う と 努 力 した( 板 垣 与 一 前 掲 書 21 頁 ) 1924 年 及 び1936 年 にインドシナで 現 地 語 が 公 用 語 として 定 められてから は 現 地 語 の 試 験 に 合 格 できないフランス 人 は 官 吏 任 命 や 昇 進 することができなかった( 車 錫 基 前 掲 書 184 頁 ) 71 崔 錫 栄 前 掲 書 187 272 283 頁 72 京 城 帝 国 大 学 総 長 山 田 三 良 は 1930 年 代 中 盤 京 城 帝 大 に 国 史 上 朝 鮮 に 関 する 事 項 を 調 査 する 委 員 会 を 設 置 し 韓 国 の 中 等 学 校 教 員 の 中 に 韓 日 併 合 を 説 明 するのが 最 も 難 しいと 訴 えているが それを 説 明 するにはま ず 韓 国 が 一 度 も 独 立 国 家 であった 事 実 がないという ことを 教 えねばならないと 主 張 した( 李 進 熙 前 掲 書 694-695 頁 ) 73 磯 田 一 雄 皇 国 の 姿 を 追 って 教 科 書 に 見 る 植 民 地 教 育 文 化 史 晧 星 社 1999 年 169-175 頁 74 旗 田 巍 日 本 人 の 韓 国 観 (일본인의 한국관) 李 基 東 訳 一 潮 閣 171 頁 75 金 容 燮 日 本 韓 国 における 韓 国 史 叙 述 (일본 한국에 있어서의 한국사서술) 歴 史 学 報 31; 李 基 白 民 族 と 歴 史 (민족과 역사) 一 潮 閣 1974 年 ; 李 基 白 韓 国 史 学 の 方 向 (한국사학의 방향) 一 潮 閣 1978 年 ; 李 萬 烈 韓 国 近 代 歴 史 学 の 理 解 文 学 と 知 性 社 ( 한국 근대역사학의 이해 문학과지성사) 1981 年 ; 趙 東 杰 韓 国 民 族 主 義 の 発 展 と 独 立 運 動 史 研 究 (한국민족주의의 발전과 독립운동사연구) 知 識 産 業 社 1993 年 などを 参 照 42

日 帝 の 朝 鮮 強 占 と 韓 国 の 独 立 運 動 徐 仲 錫 料 20 集 朝 鮮 人 の 思 想 と 性 格 には 1)わがまま おごり 浪 費 射 幸 心 2) 表 面 的 形 式 的 3) 付 和 雷 同 など 韓 国 人 の 民 族 的 欠 陥 が 詳 細 に 記 述 されている この 調 査 資 料 には 自 殺 が 少 ないこと も 自 殺 が 多 いことも 韓 国 人 の 劣 悪 な 民 族 性 となっている 高 橋 亨 は 朝 鮮 人 ( 朝 鮮 総 督 府 発 行 )で 思 想 の 固 着 や 従 属 など 韓 国 人 の 宿 命 的 特 性 を 記 述 した 76 京 城 医 学 専 門 学 校 の 久 保 教 授 は 講 義 時 間 に 韓 国 人 は 解 剖 学 上 野 蛮 に 近 いと 言 い 1ヶ 月 間 同 盟 休 校 などの 紛 糾 を 引 き 起 こした 77 槐 山 公 立 普 通 学 校 木 浦 商 業 専 修 学 校 では 校 長 が 朝 鮮 人 は 米 虫 だ 鮮 人 は 腐 っ た 食 べ 物 を 食 う などと 発 言 し やはり 紛 糾 を 引 き 起 こしたところ 新 聞 では 第 2の 久 保 事 件 として 記 事 になった 78 朝 鮮 はまったく 日 本 の 平 安 朝 から 現 在 までがごちゃごちゃに 混 ざっている 巨 大 な 縮 図 と 指 摘 した 喜 田 貞 吉 は ソウルの 南 山 公 園 で 三 々 五 々そぞろ 歩 きしている 韓 国 人 を 見 て 韓 国 人 は 怠 業 的 民 族 だと 決 めつけた 79 白 人 がするなら 立 派 に 見 えるものも 韓 国 人 がするなら 劣 等 のあかしとして 地 下 の 冷 水 も 韓 国 人 が 飲 めば 未 開 人 だと 嘲 笑 され 西 洋 人 が 唱 えれば 文 明 の 新 法 のように 日 本 人 に 尊 重 された 80 旗 田 巍 は 日 帝 が 力 説 した 同 化 や 一 視 同 仁 は 韓 国 という 独 自 のものを 否 定 し 韓 国 を 根 こそ ぎ 日 本 に 吸 収 させることにより 両 者 の 対 立 差 別 をなくしてしまおうという 意 識 として 相 手 の 存 在 を 一 切 剥 奪 することによって 一 体 となるという 考 えであると 指 摘 した 旗 田 はこの 方 針 が 具 体 的 に 表 れるとすれば 韓 国 人 の 伝 統 的 な 風 俗 習 慣 言 語 の 無 視 韓 国 人 の 民 族 意 識 民 族 運 動 の 否 定 日 本 式 風 習 や 日 本 語 の 強 要 神 社 参 拝 などの 日 本 人 儀 式 の 強 制 などを 招 来 すると 説 明 した 81 前 に 筆 者 は 同 化 政 策 とは 韓 国 人 を 日 帝 に 順 応 し 服 従 する 人 間 にする 作 業 であると 述 べたが こ のような 同 化 政 策 は 韓 国 人 の 歴 史 や 文 化 民 族 意 識 をゆがめ 除 去 して 独 立 しようとする 考 えを 持 たせず 服 従 するようにするための 政 策 であった 同 化 政 策 が 形 態 や 政 策 を 違 えながらも 日 帝 強 占 期 に 持 続 的 に 追 求 されたのは まさにこのような 理 由 のためであった このような 同 化 政 策 は 韓 国 人 をして 自 我 を 喪 失 した 不 具 的 存 在 にさせる 非 人 間 化 の 政 策 であった 4. 同 化 教 育 同 化 教 育 の 真 価 は 朝 鮮 総 督 府 最 初 の 朝 鮮 教 育 令 (1911.8)における 忠 良 なる 国 民 を 育 成 す るのを 本 意 とする ということと 初 等 学 校 から 警 察 や 憲 兵 を 連 想 させる 官 服 を 着 用 し 佩 刀 した 教 師 が 朝 鮮 語 及 漢 文 の 時 間 を 除 いて 全 て 日 本 語 で 教 授 したという 点 82 によく 表 れている 台 湾 の 場 合 忠 良 なる 臣 民 の 代 わりに 徳 教 で 教 育 したこと 83 とは 対 比 を 成 すが 寺 内 総 督 の 意 図 する 考 え がよく 現 れている これは 植 民 地 とはいえ 大 概 初 等 教 育 は 現 地 語 で 教 えられるところを 日 本 語 で 76 姜 東 鎮 日 本 の 朝 鮮 支 配 政 策 史 研 究 42 頁 77 獨 立 運 動 史 編 纂 委 員 会 編 獨 立 運 動 史 資 料 集 13 1977 年 359-393 頁 78 前 掲 書 610 922-923 頁 79 喜 田 貞 吉 庚 申 (1920) 鮮 満 旅 行 日 誌 民 族 と 歴 史 第 6 巻 第 1 号 259-260 頁 80 朝 鮮 日 報 1931 年 6 月 5 日 81 旗 田 巍 前 掲 書 6 頁 82 孫 仁 銖 韓 国 教 育 史 2 文 音 社 1995 年 629 頁 83 磯 田 一 雄 皇 民 化 教 育 と 植 民 地 の 国 史 教 科 書 近 代 日 本 と 植 民 地 4- 統 合 と 支 配 の 論 理 岩 波 書 店 1993 年 122 頁 43

第 2 部 日 本 の 植 民 地 支 配 と 朝 鮮 社 会 第 4 章 植 民 支 配 の 構 造 と 朝 鮮 人 の 対 応 教 え 84 それも 官 服 を 着 て 佩 刀 して 教 えるようにしたのである 1920 年 にある 韓 国 語 新 聞 は 日 本 語 で 教 えることを 同 化 政 策 の 骨 髄 だと 表 現 したが 85 まったく 日 本 語 を 知 らない 学 生 は 相 当 期 間 学 業 が 進 まなかった 86 朝 鮮 総 督 府 の 学 務 当 局 者 は 全 く 日 本 語 を 知 らない 児 童 に 通 訳 教 授 する ことを 排 除 して 日 本 語 で 教 授 するため 国 語 教 授 の 法 則 を 案 出 したところ 普 通 学 校 の 教 室 用 語 は3ヶ 月 で 学 習 できるようになったと 主 張 した 87 学 校 で 一 律 に 日 本 語 で 教 授 するようにしたのみならず 日 本 語 教 育 に 格 別 に 比 重 をおいて 教 え た 教 育 令 第 5 条 は 普 通 教 育 は 特 に 国 民 の 性 格 を 涵 養 し 国 語 の 普 及 を 目 的 とする となってい るが 88 国 語 普 及 が 国 民 性 格 涵 養 に 重 要 だったためであった 6 年 制 普 通 学 校 の 場 合 1 年 生 か ら6 年 生 にかけての 総 時 間 数 が 1 週 間 に 国 語 すなわち 日 本 語 が64 時 間 だったが 朝 鮮 語 及 漢 文 は20 時 間 にしかならなかった 高 等 普 通 学 校 は1922 年 の 場 合 5 年 間 の 総 時 間 数 が 日 本 語 及 漢 文 32 時 間 朝 鮮 語 及 漢 文 12 時 間 だった このように 全 体 の 教 育 時 間 中 初 等 学 校 で 日 本 語 が 占 める 比 重 は1906 年 に20.7% 1911 年 37.7% 1922 年 39.3% 1938 年 35.0%となっているが 朝 鮮 語 はそれぞれ 20.7% 20.8% 12.5% 6.5%で 1941 年 は0%だった 中 等 学 校 の 場 合 は 日 本 語 がそれぞれ20.6% 25.0% 20.0% 17.3%で 朝 鮮 語 はそれぞれ21.7% 11.7% 7.5% 4.0%で 1941 年 にはやはり0%となった 89 このように 日 本 語 教 育 が 朝 鮮 語 教 育 より 桁 外 れに 比 重 が 大 きいのみならず 朝 鮮 語 または 朝 鮮 語 及 漢 文 の 教 育 内 容 は 日 帝 の 施 策 や 日 本 文 化 と 関 連 したものなどを 選 び 教 授 方 法 も 日 本 語 教 授 方 法 に 準 拠 し 日 本 語 との 連 絡 を 維 持 させ 場 合 によ っては 日 本 語 で 教 授 した 90 中 等 学 校 で 朝 鮮 語 教 育 が 外 国 語 教 育 よりも 遥 かに 少 なかったことも 目 に 付 く 1922 年 の 場 合 高 等 普 通 学 校 で 朝 鮮 語 及 漢 文 は1~5 年 生 まで 週 12 時 間 配 定 されていた が 外 国 語 は30 時 間 であり 1931 年 にはそれぞれ12 時 間 28 時 間 だった 91 日 帝 は 日 本 語 を 家 庭 及 び 社 会 に 普 及 させるため 努 力 し それでも 足 らず 1912 年 から 公 私 立 学 校 を 中 心 に 警 察 官 地 方 官 吏 篤 志 家 の 間 で 国 語 講 習 会 が 開 かれた 書 堂 でも1919 年 に 千 数 百 箇 所 で 日 本 語 を 教 える ようにした 92 日 本 式 同 化 教 育 のいま 一 つの 特 性 は 韓 国 人 と 日 本 人 を 分 離 して 教 えたということによく 現 れて いる 初 等 学 校 入 学 生 は 幼 いため 韓 国 人 と 日 本 人 学 生 の 場 合 も 民 族 的 な 偏 見 も 少 なく いった 84 インドの 場 合 1854 年 教 育 法 で 高 等 教 育 機 関 では 英 語 を 講 義 用 語 として 使 用 することにしたが 国 民 大 衆 には 現 地 語 で 教 えることとした( 趙 吉 泰 前 掲 書 373 頁 ) インドシナでフランス 総 督 は 1917 年 に 教 授 用 語 としてフラン ス 語 を 使 用 することを 地 方 公 共 団 体 では 強 要 しないとし 現 地 語 による 教 育 が 自 由 に 行 われた 1924 年 に 総 督 は 実 際 的 理 由 から 初 等 学 校 3 年 の 教 授 には 現 地 語 で 行 わなければならないと 訓 令 を 下 した( 車 錫 基 前 掲 書 183-184 頁 ) インドネシア 地 方 の 場 合 現 地 語 を 使 用 する 普 通 学 校 が オランダ 語 を 使 用 する 公 立 普 通 学 校 よりは るかに 多 かった( 同 上 296 頁 ) 85 東 亜 日 報 1920 年 4 月 13 日 付 社 説 朝 鮮 人 の 教 育 用 語 を 日 本 語 に 強 制 することを 廃 止 せよ(조선인의 교육 용어를 일본어로 강제함을 폐지해라) 86 漢 城 高 等 学 校 に 通 っていたハングル 学 者 の 李 熙 昇 は 合 併 されてから 急 に 日 本 語 で 学 ぶよう になって 成 績 が 悪 く なり そのため 先 生 から 憎 まれ しばらく して 退 学 したと 回 顧 した( 李 熙 昇 前 掲 書 69-70 頁 ) 87 大 蔵 省 管 理 局 前 掲 書 2 42-43 頁 88 大 蔵 省 管 理 局 前 掲 書 2 42-43 頁 89 劉 奉 鎬 韓 国 教 育 課 程 史 研 究 教 学 研 究 社 1992 年 134-195 274 頁 90 鄭 在 哲 日 帝 の 対 韓 国 植 民 地 教 育 政 策 史 (일제의 對 한국식민지 교육정책사) 一 志 社 1985 年 362 頁 91 劉 奉 鎬 前 掲 書 174-175 195 頁 92 大 蔵 省 管 理 局 前 掲 書 2 42-43 頁 44

日 帝 の 朝 鮮 強 占 と 韓 国 の 独 立 運 動 徐 仲 錫 ん 友 情 が 結 ばれれば 一 生 涯 変 わることのない 関 係 が 築 かれる もっとも 人 格 形 成 的 な 時 期 に 分 離 して 教 育 を 受 けさせたのである 93 日 本 人 と 韓 国 人 は 通 う 学 校 の 名 称 も 異 なり 教 育 年 限 も 異 なっ た 日 本 人 が 通 う 学 校 は 初 等 学 校 は 小 学 校 中 等 学 校 は 中 学 校 と 呼 ばれたが 韓 国 人 は 初 等 学 校 は 普 通 学 校 中 等 学 校 は 高 等 普 通 学 校 として 格 を 一 段 階 引 き 下 げた そして 教 育 年 限 が 小 学 校 は6 年 中 学 校 は5 年 高 等 女 学 校 も5 年 だったが 韓 国 人 学 校 の 場 合 統 監 府 時 期 よりも 縮 められ 普 通 学 校 は3~4 年 高 等 普 通 学 校 は4 年 女 子 高 等 普 通 学 校 は3 年 だった こ のように 分 離 して 教 え 名 称 も 異 なり 教 育 年 限 も 異 なるのは 教 育 目 的 が 異 なっていたためである 大 邱 公 立 普 通 学 校 長 の 花 田 金 之 助 は 小 学 校 は 朝 鮮 人 を 指 導 するに 足 りる 資 質 や 品 性 を 児 童 期 から 養 わせ 普 通 学 校 は 皇 恩 の 至 極 さを 強 調 しつつ 国 語 の 普 及 と 徳 性 の 涵 養 に 努 力 し 帝 国 臣 民 としての 資 質 と 品 性 を 持 たせることにあると 述 べたが 94 率 直 に 小 学 校 と 普 通 学 校 の 違 いを 打 ち 明 けたものである 教 育 年 限 は1922 年 第 2 次 教 育 令 で 差 別 を 撤 廃 するようにしたが 女 子 高 等 普 通 学 校 の 場 合 4 年 または5 年 であり 95 地 方 の 普 通 学 校 は 相 当 数 が4 年 だけ 教 えた 96 現 地 住 民 と 移 住 日 本 人 を 共 学 にしたのは 台 湾 では1922 年 だったが 韓 国 は 皇 国 臣 民 化 運 動 が 繰 り 広 げら れた1938 年 に 入 ってからであり 97 それも 主 に 新 設 学 校 に 適 用 された 朝 鮮 総 督 府 では 日 本 人 児 童 一 名 に 対 して49 円 を 支 出 したが 韓 国 人 には18 円 だった 98 日 帝 は 同 化 政 策 を 強 調 しつつも 韓 国 人 はできるだけ 教 育 を 少 なめに 受 けさせなければならな いと 考 えた 寺 内 総 督 は 韓 国 人 教 育 は 忠 良 なる 国 民 を 養 成 するという 目 的 達 成 以 外 には 不 必 要 なものとして 考 えたため 当 初 から 学 校 の 普 及 に 熱 意 がなかったのも 99 一 つの 理 由 ではあろうが 初 等 学 校 も 非 常 に 少 なかった しかし 中 等 学 校 以 上 の 学 校 は 更 に 少 なく 1918 年 5 月 現 在 官 公 立 高 等 普 通 学 校 が4 校 女 子 高 等 普 通 学 校 が2 校 に 過 ぎなかった 100 日 帝 は すでに 統 監 府 が 設 置 された 年 である1906 年 に 官 立 外 国 語 学 校 である 育 英 公 院 などを 廃 止 し 1911 年 には1895 年 に 創 立 された 漢 城 師 範 学 校 を 廃 止 した また 崇 実 学 校 の 大 学 科 梨 花 学 堂 の 大 学 科 も 認 可 を 取 り 消 した 私 立 学 校 の 場 合 植 民 地 初 期 には 専 門 学 校 の 認 可 も 少 数 に 制 限 した 101 ある 教 育 学 者 は 日 帝 の 植 民 地 教 育 政 策 は 文 盲 政 策 であると 批 判 したが 102 韓 国 人 を 劣 等 の 水 準 に 縛 り 付 けるため に 初 等 教 育 も 十 分 に 受 けさせず 高 等 教 育 機 関 は 無 きに 等 しいものだった このようにして 日 本 とは 比 べなくとも 中 国 にしても 北 京 上 海 南 京 天 津 青 島 済 南 奉 天 などに 一 つまたは 複 数 の 大 学 が 設 立 されていたが 韓 国 は1924 年 に 京 城 帝 国 大 学 予 科 が 設 置 され 26 年 に 本 科 が 設 置 されたのみで 日 帝 の 敗 戦 までこれ 以 上 の 大 学 は 存 在 しなかった 唯 一 の 大 学 である 京 城 帝 大 も 93 グラージュダンジェフ 前 掲 書 270 頁 94 権 泰 檍 1910 年 代 日 帝 の 朝 鮮 同 化 政 策 (1910년대 일제의 '조선'동화정책) ソウル 大 学 校 韓 国 文 化 研 究 所 2002 年 11 月 1 日 発 表 12 頁 95 孫 仁 銖 前 掲 書 636 頁 96 呉 天 錫 韓 国 新 教 育 史 現 代 教 育 叢 書 出 版 社 1964 年 282 頁 97 鄭 在 哲 前 掲 書 126 頁 98 グラージュダンジェフ 前 掲 書 270 頁 99 森 山 茂 徳 日 本 の 朝 鮮 統 治 政 策 (1910-1945)の 政 治 史 的 研 究 法 政 理 論 23(3 4) 1991 年 72-73 頁 100 権 泰 檍 前 掲 書 9 頁 101 鄭 在 哲 前 掲 書 326 335-337 頁 102 孫 仁 銖 前 掲 書 622 頁 45

第 2 部 日 本 の 植 民 地 支 配 と 朝 鮮 社 会 第 4 章 植 民 支 配 の 構 造 と 朝 鮮 人 の 対 応 日 本 人 学 生 がはるかに 多 く 予 科 は1924~38 年 に 韓 国 人 が33.5%にしかならず 法 文 学 部 は 1926~38 年 に39.7% 医 学 部 は 同 期 間 に26.5%だった 官 立 専 門 学 校 も 同 様 で 1937 年 には 韓 国 人 635 人 日 本 人 1222 人 で 1943 年 には 韓 国 人 が802 人 日 本 人 2231 人 であった 103 韓 国 人 の 教 育 機 会 が 相 対 的 に 拡 大 した1930 年 代 後 半 を 基 準 とした 人 口 1000 人 あたりの 韓 国 人 学 生 数 (1939 年 基 準 ) 韓 国 居 住 日 本 人 学 生 数 (1939 年 基 準 ) 日 本 居 住 日 本 人 学 生 数 (1936 年 基 準 )を 見 ると 各 々 初 等 学 校 は55.2 142.8 164.5 で 中 等 学 校 は 1.31 32.7 17.9であり 大 学 は 0.0093 1.06 1.03であった 104 朝 鮮 総 督 府 はまた 韓 国 人 が 空 理 空 論 を 離 れて 身 の 程 をわきまえ させるために 実 用 主 義 教 育 すなわち 実 業 教 育 に 重 点 を 置 くと 明 らかにした 105 従 順 で 規 律 に 従 う 順 応 的 人 間 を 作 るためであった 韓 国 人 の 教 育 機 会 は 非 常 に 低 かった 吉 野 作 造 は 1919 年 6 月 に 韓 国 全 体 の 初 等 学 校 数 が 日 本 の 最 小 県 よりも 少 なく 中 等 課 程 である 高 等 普 通 学 校 が 男 女 学 校 合 わせて4-5 校 にしかならず 高 等 普 通 学 校 と 初 等 学 校 の 教 育 が 合 わせて8 年 で 日 本 の 高 等 小 学 校 卒 業 年 限 と 同 じだというこ とに 注 目 した 106 韓 国 人 児 童 の 初 等 学 校 就 学 率 は1911 年 1.7% 1919 年 3.9% 1929 年 18.6% 1937 年 30.8% 1942 年 54.5 %であった 日 本 は1874 年 に32.3% 1894 年 に61.7 % 1911 年 に 98.1%であった 107 台 湾 も1926 年 に28.4% 1935 年 42% 1940 年 57.6%で 108 韓 国 より 高 い 中 等 課 程 の 場 合 韓 国 人 が 通 う 高 等 普 通 学 校 の 学 生 数 が 韓 国 人 の30 分 の1から40 分 の1にしかなら ない 在 韓 日 本 人 の 中 学 生 数 と 同 じだった 109 韓 国 人 は 朝 鮮 総 督 府 高 位 官 吏 も 認 めたように 教 育 機 会 の 拡 大 を 熱 望 していた 110 しかし 日 帝 は 私 立 学 校 までも 制 限 を 加 え 私 立 学 校 で 教 育 を 受 ける 機 会 も 縮 小 させた 朝 鮮 総 督 府 は 1911 年 に 私 立 学 校 令 を 改 定 したのに 続 いて 1915 年 私 立 学 校 規 則 を 大 幅 に 改 定 し 日 本 語 で 教 授 を 行 うようにするなど 多 くの 制 限 を 設 け 111 私 立 学 校 が1910 年 に1973 校 だったのが 1919 年 に 742 校 1925 年 604 校 1935 年 406 校 に 減 少 した 112 日 帝 は 書 堂 さえ1918 年 に 書 堂 規 則 を 発 布 し 監 督 を 厳 しくするなど 制 限 を 加 えた こうして1919 年 23,556 人 だった 学 生 が 1935 年 には6,807 人 に 103 鄭 在 哲 前 掲 書 396-397 459 頁 104 グラージュダンジェフ 前 掲 書 268 頁 105 韓 基 彦 日 帝 の 同 化 政 策 と 韓 民 族 の 教 育 的 抵 抗 日 帝 の 文 化 侵 奪 史 ( 일제의 동화정책과 한민족의 교육적 저항 일제의 문화침탈사 ) 民 音 社 1982 年 9-10 18 頁 ; 孫 仁 銖 前 掲 書 632 頁 106 大 蔵 省 管 理 局 前 掲 書 2 13 頁 107 徐 仲 錫 韓 国 現 代 民 族 運 動 研 究 歴 史 批 評 社 1991 年 78-79 頁 108 鄭 在 哲 前 掲 書 133 頁 109 中 等 課 程 ( 中 学 校 高 等 中 学 校 女 子 高 等 普 通 学 校 )の 学 生 数 は 韓 国 人 と 日 本 人 が1911 年 にそれぞれ830 人 864 人 1922 年 に7,691 人 6,446 人 1938 年 に24,473 人 20,010 人 1943 年 に44,448 人 28,643 人 だった( 大 蔵 省 管 理 局 前 掲 書 2 39 頁 ) 在 日 日 本 人 は 1910 年 に 韓 国 人 の1.3% 1940 年 に3.0%だった( 徐 仲 錫 前 掲 書 79 頁 ) 110 朝 鮮 総 督 府 政 務 総 監 だった 田 中 武 雄 は 朝 鮮 人 が 朝 鮮 統 治 で 最 も 要 望 したも のの 一 つが 教 育 をも っと 普 及 さ せよ 教 育 の 普 及 という ことは 朝 鮮 人 の 根 本 的 要 望 である それができなければなにも できないことをすでに 朝 鮮 のインテリ 民 族 主 義 者 らの 徹 底 した 考 え 方 ( 一 部 日 本 人 は) 独 立 思 想 を 養 成 させるのではないかといって 京 城 帝 国 大 学 を 創 設 する 時 も 激 しい 反 対 がありました と 回 顧 した( 朝 鮮 総 督 府 高 位 官 吏 の 肉 声 証 言 前 掲 書 152 頁 ) 111 呉 天 錫 前 掲 書 261-262 頁 112 同 上 261-262 頁 ; 鄭 在 哲 前 掲 書 350-351 頁 46

日 帝 の 朝 鮮 強 占 と 韓 国 の 独 立 運 動 徐 仲 錫 大 幅 に 減 少 した 113 教 員 も 中 等 学 校 以 上 は 大 部 分 が 日 本 人 だった 1935 年 5 月 末 現 在 日 本 人 教 員 は 官 公 立 普 通 学 校 32.4% 公 立 高 等 普 通 学 校 85% 公 立 女 子 高 等 普 通 学 校 74% 師 範 学 校 85% 官 公 立 専 門 学 校 88% 大 学 100%であった 114 私 立 学 校 にも 日 本 人 教 員 が 多 かったが 淑 明 女 子 高 等 普 通 学 校 の 場 合 1927 年 には22 名 の 教 員 中 韓 国 人 は5 名 のみで 朝 鮮 衣 服 裁 縫 教 員 寄 宿 舎 舎 監 までも 日 本 人 を 任 命 し 学 生 らは 裁 縫 教 員 は 必 ず 朝 鮮 人 教 員 にする 事 朝 鮮 人 教 員 を 多 数 増 加 する 事 などの 要 求 条 件 を 提 示 し 一 月 以 上 の 同 盟 休 校 に 入 った 115 忠 良 なる 国 民 を 育 成 するため 日 帝 は 歴 史 教 育 を 重 視 した 116 植 民 地 初 期 には 歴 史 教 育 を 通 した 同 化 教 育 ではなく 韓 国 人 を 歴 史 教 育 から 疎 外 させようという 統 監 府 時 期 の 政 策 を 発 展 させ 普 通 学 校 教 科 目 から 地 理 歴 史 が 削 除 された それでも 国 語 ( 日 本 語 ) 読 本 教 材 には 日 本 の 歴 史 地 理 が 取 り 扱 われた 韓 国 の 歴 史 は 朝 鮮 語 及 漢 文 にもなかった 117 1921 22 年 に 採 択 された 普 通 学 校 国 史 上 下 ( 国 定 第 3 期 歴 史 教 科 書 )は 尋 常 小 学 日 本 歴 史 本 文 に 朝 鮮 の 事 歴 を 補 充 教 材 別 項 目 として 挿 入 したもので 日 本 史 の 部 分 は 内 容 も 文 体 も 日 本 の 国 定 日 本 歴 史 と 全 く 同 一 で 韓 国 歴 史 の 自 律 性 を 否 定 し 日 帝 の 強 占 を 合 理 化 する 内 容 だった 歴 史 と 文 化 言 語 を 異 にする 韓 国 の 児 童 に 日 本 での 教 育 とまったく 同 じ 内 容 の 歴 史 を 教 えたということで 文 体 も 日 本 の 児 童 にも 難 解 な 文 語 体 だった 118 韓 国 人 は 韓 国 となんら 関 係 のない 日 本 の 歴 史 伝 説 風 俗 人 情 文 化 を 児 童 の 脳 髄 に 吹 き 込 むことに 反 対 し 韓 国 の 歴 史 地 理 科 目 を 設 置 して 普 通 学 校 の 教 員 は 韓 国 人 にさせることを 要 求 した 119 5. 皇 国 臣 民 化 運 動 皇 国 臣 民 化 教 育 1937 年 7 月 中 日 戦 争 を 挑 発 する 中 で 本 格 的 に 着 手 した 皇 国 臣 民 化 運 動 は 全 体 主 義 的 動 員 の 方 式 で 韓 国 人 に 皇 国 臣 民 となることを 強 制 した 点 で 以 前 の 同 化 政 策 とは 違 いがある 内 鮮 一 体 を 主 張 した 南 次 郎 総 督 は 内 鮮 一 体 とは 半 島 人 を 忠 良 なる 皇 国 臣 民 に 作 り 上 げること と 述 べ たが 120 社 会 であれ 学 校 であれ 総 力 戦 で 名 実 共 に 完 全 な 皇 国 臣 民 化 を 目 論 み 韓 国 人 のアイ 113 鄭 在 哲 前 掲 書 350-351 頁 ; 東 亜 日 報 1920 年 4 月 21 日 社 説 朝 鮮 教 育 について(조선교육에 대해서) 獨 立 運 動 史 編 纂 委 員 会 編 前 掲 書 12 622 頁 114 鄭 在 哲 前 掲 書 350-351 頁 115 獨 立 運 動 史 編 纂 委 員 会 編 前 掲 書 13 422-423 頁 116 朝 鮮 総 督 府 中 枢 院 で1915 年 に 主 導 した 半 島 史 の 編 纂 目 的 も 民 心 薫 育 を 通 じて 朝 鮮 人 を 忠 良 なる 帝 国 臣 民 に 作 り 上 げ 朝 鮮 人 の 同 化 の 目 的 を 達 成 するため であった( 趙 東 杰 植 民 史 学 の 成 立 と 深 化 (식민사학의 성립과 심화) 韓 民 族 独 立 運 動 史 5- 日 帝 の 植 民 統 治 347 頁 ) 117 磯 田 一 雄 皇 民 化 教 育 と 植 民 地 の 国 史 教 科 書 116 頁 この 時 期 には 高 等 普 通 学 校 女 子 高 等 普 通 学 校 でも 韓 国 の 歴 史 地 理 を 教 えていなかった( 劉 奉 鎬 前 掲 書 136-142 頁 ) 118 国 史 という 名 称 も 日 本 より 韓 国 が 若 干 早 かった( 磯 田 一 雄 皇 国 の 姿 を 追 って 197-198 頁 ) 1922 年 台 湾 の 初 等 学 校 教 育 に 日 本 の 歴 史 地 理 が 導 入 された 時 に その 教 科 書 は 朝 鮮 総 督 府 の 国 史 ( 即 ち 日 本 史 )とは 大 き な 差 異 があった 文 体 も 平 易 な 敬 語 体 だった( 磯 田 一 雄 皇 民 化 教 育 と 植 民 地 の 国 史 教 科 書 123 頁 ) 119 東 亜 日 報 1920 年 4 月 22 日 社 説 朝 鮮 教 育 について(조선교육에 대해서) 3 1920 年 7 月 14 日 社 説 普 通 学 校 は 何 をするのか(보통 학교는 무엇을 하는 것이나) 1921 年 3 月 3 日 社 説 歴 史 教 育 について(역사교육에 대해서) ( 続 )などを 参 照 ( 獨 立 運 動 史 編 纂 委 員 会 編 前 掲 書 12 627 653 674-675 頁 ) 韓 国 人 児 童 は 情 緒 に 影 響 力 が 大 きい 韓 国 唱 歌 も 教 えられなかった 1922 年 全 羅 南 道 の 霊 岩 普 通 学 校 の 学 生 たちは 韓 国 の 唱 歌 と 歴 史 を 教 えないのに 抗 議 して 同 盟 休 校 に 入 った( 東 亜 日 報 1922 年 9 月 20 日 獨 立 運 動 史 編 纂 委 員 会 編 前 掲 書 12 966 頁 ) 120 宮 田 節 子 前 掲 書 161 頁 47

第 2 部 日 本 の 植 民 地 支 配 と 朝 鮮 社 会 第 4 章 植 民 支 配 の 構 造 と 朝 鮮 人 の 対 応 デンティティーを 解 体 させ 日 本 人 のように 天 皇 に 絶 対 服 従 する 人 間 型 を 鋳 造 するためであった 皇 国 臣 民 化 運 動 は 天 皇 制 ファシズムまたは 軍 国 主 義 ファシズムに 順 応 する 人 間 製 造 運 動 で ヒト ラーのナチズムやムッソリーニのファシズムにも 似 た 非 人 間 的 非 文 明 的 運 動 であった このような 運 動 が 全 体 主 義 的 動 員 方 式 で 展 開 されたのは 韓 国 人 の 民 族 意 識 独 立 意 識 を 抹 殺 させ 中 国 などのアジア 諸 国 を 侵 略 して 第 2 次 世 界 大 戦 を 遂 行 する 上 で 人 的 物 質 的 兵 站 基 地 としての 使 命 を 果 たすためのものであった 121 こうして 韓 国 人 の 人 権 は 無 残 に 踏 みにじられ 韓 国 人 の 人 間 意 識 は 非 常 な 危 機 を 迎 えた 中 日 戦 争 の 挑 発 直 後 である1937 年 7 月 22 日 に 朝 鮮 総 督 府 は 朝 鮮 中 央 情 報 委 員 会 を 設 置 し 毎 月 1 日 を 愛 国 日 と 制 定 し 全 ての 職 場 学 校 村 で 神 社 神 祠 参 拝 を 強 要 し 122 国 旗 掲 揚 など の 行 事 を 展 開 し 皇 国 臣 民 の 誓 詞 を 制 定 し 国 防 献 金 を 受 け 戦 勝 祝 賀 行 事 などを 展 開 した 123 この 愛 国 日 は 1941 年 に 太 平 洋 戦 争 が 勃 発 した 後 大 詔 奉 戴 日 ( 毎 月 8 日 )に 変 更 されたが 毎 日 天 皇 がいる 皇 居 に 向 かってお 辞 儀 をする 宮 城 遥 拝 と 正 午 黙 祷 を 強 要 した 1937 年 10 月 から 韓 国 人 は 台 湾 人 には 要 求 しなかった 1. 我 々は 大 日 本 帝 国 の 臣 民 である 2. 我 々は 心 を 合 わせて 天 皇 陛 下 に 忠 意 を 尽 くす 3. 我 々は 忍 苦 鍛 錬 して 立 派 で 強 い 国 民 となる という 皇 国 臣 民 の 誓 詞 を 朗 唱 しなければならなかった 毎 年 11 月 10 日 を 中 心 として 国 民 精 神 作 興 週 間 が 設 定 された 中 国 侵 略 戦 争 1 周 年 を 迎 え 朝 鮮 総 督 府 は 国 民 精 神 総 動 員 朝 鮮 連 盟 を 組 織 した この 団 体 は 1940 年 に 農 山 漁 村 振 興 運 動 を 包 摂 して 国 民 総 力 朝 鮮 連 盟 に 改 称 された また 町 洞 里 部 落 連 盟 と 各 種 連 盟 のもと 約 10 戸 を 単 位 として 愛 国 班 を 編 成 し 韓 国 人 全 てを 対 象 として 皇 国 臣 民 化 運 動 と 侵 略 戦 争 賛 揚 運 動 を 展 開 した 124 皇 国 臣 民 化 運 動 は この 他 にも 様 々な 形 態 で 展 開 された 1937 年 8 月 には 古 代 日 本 の 武 道 精 神 を 体 現 させたという 皇 国 臣 民 体 操 が 作 り 出 され 翌 年 12 月 には 韓 国 人 高 等 普 通 学 校 女 子 高 等 普 通 学 校 に 天 皇 の 真 影 を 奉 安 させた 同 年 には 中 等 学 校 以 上 の 学 生 で 学 徒 勤 労 報 国 隊 を 組 織 した こうした 形 態 でも 不 足 だと 考 えた 朝 鮮 総 督 府 は 1940 年 2 月 から 韓 国 人 が 数 千 年 の 間 持 ち 続 け 重 視 してきた 姓 まで 性 格 や 意 味 の 異 なる 日 本 人 の 氏 へと 変 える 天 皇 主 義 的 家 族 国 家 観 を 強 要 する 創 氏 改 名 が 行 われた 創 氏 改 名 は 軍 人 の 固 い 意 志 によって 強 力 に 推 進 され 極 めて 単 純 で 頑 固 に 急 いで 行 われた 125 121 鄭 在 哲 前 掲 書 400 頁 参 照 日 本 の 科 学 者 鈴 木 武 雄 は 大 陸 兵 站 基 地 論 は 内 鮮 一 体 と 等 しいものであり 内 鮮 一 体 論 が 特 に 精 神 的 側 面 を 強 調 したものだとすれば 大 陸 兵 站 基 地 論 は 時 に 物 的 経 済 的 側 面 を 強 調 したも の と 解 釈 できると 説 明 した( 宮 田 節 子 前 掲 書 161 頁 ) 122 1936 年 8 月 神 社 増 設 方 針 を 立 てて 以 降 1944 年 5 月 現 在 主 要 都 市 に 約 60ヵ 所 の 正 規 の 神 社 が 建 立 され 939 ヵ 所 の 一 般 敬 拝 の 神 祠 が 建 てられ 学 校 や 官 公 署 などには 天 照 大 神 を 祀 る 大 麻 殿 を 設 立 させ 各 家 庭 には 神 棚 を 祀 って 朝 夕 に 敬 拝 させるよう にした( 金 大 商 日 帝 下 強 制 人 力 収 奪 史 正 音 社 1975 年 30 頁 ) 123 君 島 和 彦 朝 鮮 における 戦 争 動 員 体 制 の 展 開 過 程 (조선에 있어서 전쟁동원체제의 전개과정) 日 帝 末 期 ファシズムと 韓 国 社 会 チョ ンア 出 版 社 1988 年 173-175 頁 124 国 民 総 力 朝 鮮 連 盟 の 地 方 組 織 は 地 方 行 政 と 表 裏 一 体 をなした 会 社 銀 行 工 場 鉱 山 大 商 店 その 他 官 公 署 学 校 などにも れなく 国 民 総 力 職 域 連 盟 を 作 り 道 義 の 昂 揚 皇 民 錬 成 決 戦 生 活 確 立 必 勝 生 産 力 の 拡 充 ( 供 出 食 糧 増 産 商 工 鉱 業 奉 仕 隊 の 結 成 農 村 中 堅 青 年 としての 農 報 青 年 隊 組 織 ) 徴 兵 制 度 実 施 準 備 銃 後 奉 公 の 誓 いなどの 活 動 を 行 った( 大 蔵 省 管 理 局 前 掲 書 2 118-122 頁 ) 1945 年 6 月 朝 鮮 総 督 府 と 第 17 方 面 軍 司 令 部 は 義 勇 兵 役 法 に 依 拠 して 国 民 総 力 朝 鮮 連 盟 を 廃 止 し 15-60 歳 の 男 子 17-40 歳 の 女 子 による 国 民 義 勇 隊 を 組 織 し 国 民 抗 戦 を 企 てた( 鄭 夏 明 日 帝 の 軍 事 政 策 (일제의 군사정책) 韓 民 族 独 立 運 動 史 5- 日 帝 の 植 民 統 治 170-172 頁 ) 125 朝 鮮 総 督 府 高 位 官 吏 の 肉 声 証 言 前 掲 書 276 頁 ( 朝 鮮 総 督 府 総 務 局 文 書 課 長 山 名 酒 喜 夫 証 言 ) 48

日 帝 の 朝 鮮 強 占 と 韓 国 の 独 立 運 動 徐 仲 錫 皇 国 臣 民 化 運 動 で 特 に 重 視 したのが 国 語 普 及 であった 一 般 人 を 対 象 にした 日 本 語 普 及 は 植 民 地 初 期 の1912 年 から 国 語 講 習 会 などを 通 して 存 在 していたが 1930 年 代 に 宇 垣 総 督 は 農 村 振 興 運 動 で 特 に 力 を 注 いだ 1937 年 に 国 語 常 用 運 動 は 一 層 強 化 された 1938 年 の 第 2 次 朝 鮮 教 育 令 改 定 で 朝 鮮 語 科 目 は 随 意 科 目 となって 事 実 上 廃 止 され 高 等 普 通 学 校 でも 朝 鮮 式 漢 文 が 廃 止 された 1939 年 朝 鮮 文 人 協 会 (1942 年 に 他 団 体 と 合 併 して 朝 鮮 文 人 報 国 会 となる)は 国 語 で 作 品 を 書 く 運 動 を 展 開 し 演 劇 にも1943 年 から1 幕 は 必 ず 国 語 劇 で 上 演 するようにした 126 この 年 には 国 民 皆 唱 運 動 が 繰 り 広 げられた 映 画 は1942 年 から 国 語 を 使 用 するようにした 韓 国 人 の 日 本 語 解 得 率 は 公 教 育 を 受 けたものが 少 ないのが 要 因 だったが 1930 年 代 までは 非 常 に 低 かった 低 い 水 準 の 日 本 語 解 得 者 が1913 年 0.6% 1922 年 1.2% 1937 年 にも11.1%であっ た しかし 1942 年 には19.9%に 増 加 した 127 台 湾 の 場 合 日 本 語 習 得 者 は1933 年 に24.5%( 韓 国 7.8%) 1940 年 に53.9%であった 128 植 民 地 期 末 に 韓 国 人 児 童 は 教 育 を 受 ける 時 だけではなく 日 常 の 学 校 生 活 でも 日 本 語 を 使 うことが 強 要 され 守 らなければ 罰 を 受 けた 129 皇 民 化 運 動 とは 軍 国 主 義 的 ファシズム 的 人 間 を 作 り 出 すための 運 動 にほかならなかったが 韓 国 人 と 日 本 人 の 場 合 は 大 きく 異 なる 点 があった 日 本 人 は 伝 統 と 文 化 政 治 的 性 格 によって その ような 運 動 の 受 け 入 れに 順 応 できたが 韓 国 人 に 天 皇 イデオロギーは 到 底 理 解 できないものだっ たが その 強 要 は 韓 国 人 の 文 化 と 歴 史 韓 国 人 であるという 民 族 意 識 を 抹 殺 する 行 為 と 表 裏 の 関 係 であった この 点 で 韓 国 人 が 負 った 傷 は 甚 大 であるというほかなかった 韓 国 人 の 民 族 意 識 を 抹 殺 し 天 皇 の 忠 良 なる 臣 民 にさせるための 皇 国 臣 民 化 運 動 と 東 アジア 侵 略 戦 争 を 賛 揚 美 化 するのに 韓 国 の 有 志 名 士 キリスト 教 天 道 教 仏 教 儒 林 などの 宗 教 界 指 導 者 文 人 知 識 人 が 大 々 的 に 動 員 された これにより 民 族 分 裂 現 象 は 一 層 深 刻 になった 名 士 有 志 らが 大 挙 して 皇 民 化 運 動 と 侵 略 戦 争 に 動 員 されたとすれば 社 会 主 義 者 が 大 部 分 の 主 義 者 らは 過 酷 な 思 想 の 屈 折 あるいは 転 向 を 強 要 された 1930 年 代 に 入 り 大 々 的 に 転 向 が 強 要 され 1936 年 には 朝 鮮 思 想 犯 保 護 監 察 令 が 公 布 され 7ヶ 所 の 保 護 監 察 所 ができた 翌 年 には 大 和 塾 などを 作 り 思 想 犯 を 無 条 件 加 入 させて 監 視 した 同 年 には 思 想 転 向 者 で 時 局 対 応 全 鮮 思 想 報 国 連 盟 を 結 成 した 1937 年 9 月 からは 日 本 と 朝 鮮 の 警 察 官 を 動 員 した 時 局 座 談 会 が 開 かれたが 1940 年 1 月 まで30 万 9000 回 に1606 万 名 が 参 与 したと 発 表 された 130 1938 年 には 共 産 主 義 思 想 を 撲 滅 して 日 本 精 神 を 昂 揚 させるために 朝 鮮 防 共 協 会 を 作 り( 総 裁 政 務 総 監 ) その 下 に250ヶ 所 に 支 部 を 地 域 または 工 場 職 場 などに1789ヶ 所 の 防 共 団 を 置 いた 日 帝 は 今 日 の 世 界 を 防 共 国 家 群 と 容 共 国 家 群 とに 二 分 し 東 京 -ベルリン-ローマを 主 軸 に 共 産 主 義 撃 滅 の 126 演 劇 俳 優 白 星 姫 は 舞 台 の 最 前 列 には 日 本 刀 を 下 げた 巡 査 たちが 座 って 検 閲 をし 削 れと 命 令 した 部 分 に 入 ると 上 演 を 中 止 させたが 後 にはまったく 韓 国 語 では 演 劇 ができなく なったと 回 顧 した( 白 星 姫 国 立 劇 場 の 鬼 神 に なろう と ぶちまけて 言 う 言 葉 ( 국립극장의 귀신이 되려나 털어놓고 하는 말 )138-139 頁 ) 梨 花 女 専 の 学 生 も 府 民 館 で 卒 業 班 演 劇 を 日 本 語 でしなければならなかった( 李 熙 昇 不 遇 な 時 期 の 友 情 私 の 交 遊 録 ( 불우한 시절의 우정 나의 交 遊 錄 ) 中 央 日 報 東 洋 放 送 1977 年 250 頁 ) 127 大 蔵 省 管 理 局 前 掲 書 2 42-48 頁 128 鄭 在 哲 前 掲 書 132 頁 129 植 民 地 期 末 には 韓 国 人 家 庭 にも 日 本 語 の 常 用 を 強 要 したが 順 調 にはいかなかった 子 供 は 学 校 と 家 庭 で 異 なる 言 語 を 使 用 するという 世 界 に 暮 らしていた 130 細 川 嘉 六 前 掲 書 330 頁 49

第 2 部 日 本 の 植 民 地 支 配 と 朝 鮮 社 会 第 4 章 植 民 支 配 の 構 造 と 朝 鮮 人 の 対 応 巨 火 をあげ 人 類 救 済 の 大 道 に 邁 進 しようと 叫 んだ 131 なぜ 日 帝 は 韓 国 で 極 端 な 皇 国 臣 民 化 運 動 を 繰 り 広 げたのか 中 日 戦 争 以 降 不 足 した 労 務 者 を 韓 国 から 徴 発 するためというのが 一 つの 重 要 な 理 由 だった 日 本 はこの 時 期 に 韓 国 人 の 日 本 渡 航 制 限 を 変 更 して 積 極 的 に 日 本 入 国 を 受 け 入 れ 1939 年 9 月 以 降 は 募 集 の 形 態 で 1942 年 2 月 以 降 は 官 斡 旋 の 形 態 で 日 本 に 連 れて 来 たり 引 っ 張 って 行 った 一 方 1939 年 7 月 に 発 布 された 国 民 徴 用 令 によって1941 年 9 月 以 降 陸 海 軍 要 員 が 徴 発 され 1944 年 2 月 からは 工 場 と 鉱 山 などに も 徴 用 で 引 っ 張 られた 募 集 官 斡 旋 徴 用 のいずれにしろ 逃 亡 者 が 続 出 し 日 本 の 内 務 省 警 保 局 の 資 料 によると 1941 年 の 場 合 43,031 人 と 集 計 された 132 九 州 の 山 田 鉱 山 の 場 合 逃 亡 率 が1942 年 67% 1943 年 42% 1944 年 44%だった 133 このため 韓 国 人 労 働 者 は 軍 隊 式 に 組 織 され 統 制 された 日 本 に 強 制 連 行 された 労 働 者 を 最 大 限 酷 使 するためにも 頻 発 する 逃 亡 を 防 ぐため にも 韓 国 人 を 徹 底 的 に 皇 国 臣 民 として 訓 練 させる 必 要 があった 労 働 者 を 酷 使 するためには 日 本 語 習 得 が 重 要 だったという 点 も 考 慮 しなければならないだろう ある 研 究 者 は 1939 年 以 降 強 制 徴 発 者 は 朝 鮮 半 島 内 での 労 役 従 事 者 480 万 名 日 本 本 土 での 強 制 連 行 152 万 名 軍 属 ( 軍 勤 務 者 )20-30 万 名 軍 人 23 万 名 日 本 軍 性 奴 隷 14 万 名 など 約 699 万 名 と 推 算 した このことは 解 放 直 前 の 韓 国 人 人 口 25,763,341 人 の29%になる 数 字 である 134 皇 国 臣 民 化 運 動 は 日 帝 の 全 般 的 な 天 皇 制 ファシズム 化 過 程 から 生 まれたものであるが 15 年 戦 争 中 日 戦 争 以 後 の 戦 争 との 関 係 が 大 きい 日 帝 はフランスとは 異 なり 135 韓 国 人 が 後 にどのよ うな 態 度 に 出 てくるか 分 からず 徴 兵 の 対 象 から 除 外 した しかしながら 戦 争 の 拡 大 は 2 千 万 を 越 す 人 力 に 関 心 を 持 たざるを 得 なくさせた 136 鮮 満 一 如 を 提 唱 し 皇 国 臣 民 化 運 動 を 本 格 的 に 展 開 した 南 次 郎 総 督 は 内 鮮 一 体 の 最 終 目 標 は 完 全 な 皇 民 化 にあり それは 何 等 の 私 心 なく 天 皇 のために 死 ぬことができる 朝 鮮 人 兵 士 の 出 現 に 連 関 する 問 題 であることを 披 瀝 したが 137 すでに 韓 国 は 内 外 政 策 上 日 帝 と 一 体 とならなければ 国 家 の 運 命 を 切 り 開 いていくことができない 状 況 に 進 んでいた 138 ところが 日 帝 の 内 務 省 が 第 2 次 世 界 大 戦 を 始 めた1941 年 12 月 8 日 から22 日 の 間 に 日 本 居 住 韓 国 人 が 韓 国 に 居 住 する 知 人 らとの 通 信 文 を 調 査 した 結 果 殆 ど 自 己 の 現 況 が 危 険 131 朝 鮮 総 督 府 警 務 局 保 安 課 高 等 外 事 月 報 第 2 号 (1939 年 8 月 分 ) 86 頁 132 海 野 福 寿 朝 鮮 の 労 務 動 員 近 代 日 本 と 植 民 地 5- 膨 張 する 帝 国 の 人 流 岩 波 書 店 1993 年 104-109 頁 133 韓 国 人 は 危 険 な 坑 内 作 業 への 割 り 当 てが 多 く なり ある 統 計 には 負 傷 者 が 日 本 人 より3.6 倍 も 多 いと 表 れていた ( 李 均 永 日 帝 終 末 期 (1937-1945)の 兵 站 基 地 政 策 (일제종말기(1937-1945)의 병참기지정책) 韓 民 族 独 立 運 動 史 5- 日 帝 の 植 民 統 治 148-149 頁 ) 134 姜 敬 求 戦 時 下 日 帝 の 農 村 労 働 力 収 奪 政 策 (전시하 일제의 농촌노동력 수탈정책) 日 帝 末 期 ファシズムと 韓 国 社 会 チョ ンア 出 版 社 1988 年 88 頁 日 本 に 連 れて 行 かれた 労 働 者 の 数 に 関 する 資 料 の 差 異 については 朴 慶 植 日 本 帝 国 主 義 の 朝 鮮 支 配 下 青 木 書 店 1973 年 33 頁 ; 海 野 福 寿 前 掲 書 108-122 頁 参 照 植 民 地 期 末 韓 国 人 は ユダヤ 人 などを 除 けば 世 界 で 最 も 国 外 流 出 比 率 が 高 い 民 族 に 属 した 135 第 1 次 世 界 大 戦 中 845,000 人 のフランス 植 民 地 出 身 の 兵 士 が 連 合 軍 の 一 員 として 参 戦 した 1934 年 フランス 軍 隊 の3 分 の2は 植 民 地 出 身 兵 士 だった これらの 兵 士 はフランスに 忠 誠 を 尽 く し 連 合 軍 参 戦 の 大 義 に 同 調 した ( 車 錫 基 前 掲 書 193 頁 ) 136 1945 年 3 月 日 本 内 務 省 のある 極 秘 文 書 には 大 東 亜 共 栄 圏 内 で 大 陸 に 向 かった 橋 頭 堡 である 朝 鮮 の 地 理 的 位 置 そして 原 料 供 給 地 としての 経 済 的 役 割 も 重 要 だが 根 幹 は 豊 富 でも あり 増 殖 力 が 大 きい 人 口 であると 書 かれて いる( 宮 田 節 子 前 掲 書 183 頁 ) 1945 年 になって 一 層 人 力 の 重 要 性 を 考 えたのであろう 137 宮 田 節 子 前 掲 書 164 頁 138 朝 鮮 総 督 府 高 位 官 吏 の 肉 声 証 言 前 掲 書 284 頁 ( 山 名 酒 喜 夫 証 言 ) 50