日 本 遺 存 的 南 宋 墨 蹟 弓 野 隆 之 大 阪 市 立 美 術 館 研 究 員 近 代 まで 日 本 に 伝 わったことが 写 真 版 で 確 認 できる 南 宋 高 僧 の 遺 墨 は 真 贋 はさておくとして 少 なくとも 三 四 百 件 に 及 ぶと 思 われる 数 の 上 で 突 出 しているのが 来 日 していない 僧 では 無 準 師 範 が 66 件 虚 堂 智 愚 が 36 件 であり 日 本 に 渡 来 した 僧 では 蘭 溪 道 隆 が 63 件 無 学 祖 元 47 件 兀 庵 普 寧 45 件 となっている ( 注 1)それらは 今 日 まで 寺 院 に 伝 承 されてきたもの あるが とりわけ 桃 山 時 代 以 後 になると 茶 席 の 盛 行 とともに 掛 物 として 民 間 でも 珍 重 されるようになった また 現 在 では 多 くの 名 品 が 博 物 館 美 術 館 にも 收 藏 されている 本 発 表 では こうした 日 本 に 伝 わった 墨 蹟 の 概 要 と 主 要 な 作 品 につい て 紹 介 する それとともに 日 本 に 存 する 物 初 大 觀 に 関 する 資 料 を 検 討 して 若 干 の 問 題 を 提 起 してみたい 一 日 本 に 伝 わる 主 要 な 南 宋 墨 蹟 達 磨 を 祖 とする 禅 宗 のうち 臨 済 義 玄 の 臨 済 宗 は 黄 龍 慧 南 の 黄 龍 派 と 楊 岐 方 会 の 楊 岐 派 に 分 かれる そして 楊 岐 派 の 流 れから 圜 悟 克 勤 が 出 その 門 下 に 大 慧 宗 杲 と 虎 丘 紹 隆 を 生 んで 大 慧 派 虎 丘 派 に 分 かれる その 後 虎 丘 派 はさらに 密 庵 咸 傑 を 経 て 松 源 崇 嶽 の 松 源 派 破 庵 祖 先 の 破 庵 派 曹 源 道 生 の 曹 源 派 へと 分 岐 した (ただし これらの 系 譜 は 厳 密 なものではなく 相 互 の 交 流 は 行 われていた ) 我 々の 目 にする 墨 蹟 は 主 としてこれらの 法 系 の 高 僧 によって 書 丹 されたものである 圜 悟 克 勤 (1063-1135)は 俗 姓 駱 氏 字 は 無 著 彭 州 崇 寧 ( 四 川 省 成 都 )の 人 五 祖 法 演 に 参 じて 印 可 を 受 け 佛 鑑 慧 懃 佛 眼 清 遠 とともに 演 門 二 勤 一 遠 また 東 山 三 佛 と 称 された 碧 巌 録 十 巻 の 著 者 として 名 高 く 北 宋 の 徽 宗 から 佛 果 南 宋 の 高 宗 から 圜 悟 の 号 を 賜 った 諡 は 真 覺 禪 師 遺 墨 で 最 も 有 名 なのが 門 下 の 虎 丘 紹 隆 に 与 えた 印 可 状 ( 東 京 國 立 博 物 館 藏 國 寶 圖 1)である 宋 から 桐 の 箱 に 入 って 薩 摩 坊 之 津 に 流 れ 着 いたという 言 い 伝 えから 流 れ 圜 悟 の 別 称 で 知 られる 現 在 は 前 半 部 のみが 存 しているが 全 文 は 圜 悟 佛 果 禪 師 語 録 巻 一 四 示 隆 知 藏 所 収 で 宣 和 六 年 (1124)の 撰 であることが 知 られる 465
大 慧 派 の 開 祖 となった 大 慧 宗 杲 (1089-1163)は 俗 姓 奚 氏 字 は 曇 海 妙 喜 雲 門 と 号 した 宣 州 寧 國 ( 安 徽 省 )の 人 十 六 歳 のとき 東 山 慧 雲 院 の 慧 斎 に 従 って 得 度 その 後 汴 京 に 出 て 天 寧 万 壽 寺 の 圜 悟 克 勤 に 印 可 を 得 た 詔 をうけて 徑 山 に 移 ったものの 罪 を 受 けて 衡 州 ( 湖 南 省 ) 梅 州 ( 広 東 省 ) へと 流 され 赦 免 されてからは 阿 育 王 寺 や 徑 山 に 住 した 著 に 正 法 眼 藏 六 巻 がある 孝 宗 から 大 慧 禪 師 の 号 を 賜 り 寂 して 普 覺 禪 師 と 諡 された 與 無 相 居 士 尺 牘 ( 東 京 國 立 博 物 館 藏 國 寶 圖 2)は 梅 州 流 謫 時 代 63-68 歳 の 作 大 慧 の 書 法 は 当 時 より 評 価 が 高 く その 墨 蹟 に 対 する 跋 語 が 各 種 語 録 などに 散 見 する また 宋 韓 駒 (?-1135)は 妙 喜 書 如 古 锦 囊 師 子, 蓋 得 法 自 在, 心 手 相 忘, 渾 然 天 成 也 と 評 している 大 慧 の 法 嗣 である 拙 庵 徳 光 (1121-1203)には 金 渡 墨 蹟 と 呼 ばれる 著 名 な 墨 蹟 偈 頌 ( 私 人 藏 重 要 文 化 財 圖 3)がある 平 重 盛 が 國 の 長 久 と 平 氏 の 菩 提 のために 黄 金 三 千 両 を 徑 山 に 贈 ったところ 拙 庵 からこの 偈 頌 が 送 られてきたという このほか 大 慧 の 法 系 では 日 本 の 五 山 文 学 に 強 い 影 響 を 与 えた 敬 叟 居 簡 (1164-1246) 登 承 天 萬 佛 偈 ( 東 京 國 立 博 物 館 藏 重 要 文 化 財 圖 4)やその 弟 子 の 物 初 大 観 (1201-1268) 黄 山 谷 草 書 杜 詩 跋 (サンリツ 服 部 美 術 館 藏 重 要 文 化 財 圖 5) 画 賛 では 大 川 普 済 (1179-1253) 梁 楷 筆 布 袋 圖 贊 ( 香 雪 美 術 館 藏 重 要 文 化 財 圖 6) 偃 谿 廣 聞 (1189-1263) 直 翁 筆 六 祖 挾 擔 圖 贊 ( 大 東 急 記 念 文 庫 藏 國 寶 圖 7)などが 知 られる 虎 丘 派 のうち 破 庵 祖 先 を 祖 とする 一 派 でまず 特 筆 すべきは 無 準 師 範 (1178-1249)である 俗 姓 は 雍 氏 梓 潼 ( 四 川 省 )の 人 若 くして 江 南 へ 出 て 四 明 の 阿 育 王 寺 の 秀 巌 師 瑞 のもとで 拙 庵 徳 光 や 空 叟 宗 印 に 閲 し 杭 州 霊 隠 寺 の 松 源 崇 嶽 に 参 じ 蘇 州 西 華 秀 峯 寺 の 破 庵 祖 先 の 法 嗣 となった 師 の 示 寂 後 は 勅 を 奉 じて 徑 山 第 三 十 四 代 住 持 となり 理 宗 から 佛 鑑 禪 師 の 号 を 賜 った 無 準 のもとには 日 本 の 東 福 寺 開 山 となった 円 爾 が 入 宋 して 印 可 を 受 けるな ど 日 本 からも 数 多 くの 僧 が 参 じ その 影 響 は 計 り 知 れない 山 門 疏 ( 五 島 美 術 館 藏 國 寶 圖 8)は 徑 山 山 中 に 萬 年 正 續 院 が 落 成 したおりの 勧 進 の 偈 とその 序 文 である 東 福 寺 に 伝 来 した 作 品 で 円 爾 が 請 来 したといわれて いる 與 聖 一 國 師 尺 牘 ( 東 京 國 立 博 物 館 藏 國 寶 圖 9)の 聖 一 國 師 とは 円 爾 の 諡 号 円 爾 は 無 準 から 印 可 を 受 けて 淳 祐 元 年 (1241)に 帰 國 し 博 多 承 天 寺 に 住 していた だがその 翌 年 徑 山 萬 壽 寺 が 火 災 で 全 焼 したという 知 らせが 届 く そこで 円 爾 は 豪 商 らに 協 力 を 募 り 板 一 千 枚 を 調 達 して 無 準 に 送 り 届 けた この 尺 牘 はその 礼 状 として 送 られたもので 板 渡 墨 蹟 と 呼 ばれている これらの 他 無 準 の 作 とされる 額 字 大 圓 覺 ( 東 福 寺 藏 國 寶 圖 10) 他 が 東 福 寺 を 中 心 に 少 なからず 伝 えられており 当 時 の 中 日 禅 宗 466
の 交 流 が 偲 ばれる 無 準 の 法 嗣 には 剣 門 妙 深 (?-1249-?) 退 耕 徳 寧 (?-1262-?) 斷 谿 妙 用 (?-1239-69-?) 希 叟 紹 曇 (?1249-69-?) 西 巖 了 惠 (1198-1262) 斷 橋 妙 倫 (1201-1261) 絶 岸 可 湘 (1206-1290) 別 山 祖 智 (1214-1280) といった 錚 錚 たる 高 層 たちの 名 が 並 び 彼 らの 墨 蹟 もまた 多 くはないが 遺 さ れている しかし 弟 子 のなかで 日 本 禅 宗 にとって 銘 記 すべきは 兀 庵 普 寧 と 無 学 祖 先 である 兀 庵 普 寧 (1197-1276)は 西 蜀 ( 四 川 省 )の 人 建 康 ( 南 京 ) 蔣 山 の 痴 絶 道 冲 のもとで 悟 るところがあり ついで 阿 育 王 寺 の 無 準 師 範 のもとで 法 を 嗣 いだ 西 巖 了 惠 斷 橋 妙 倫 別 山 祖 智 とともに 門 下 四 哲 と 称 された 象 山 霊 巖 寺 常 州 南 禅 寺 に 住 したが 蒙 古 の 侵 攻 におよび 招 聘 を 受 けて 文 應 元 年 (1260)に 来 日 した 京 都 東 福 寺 に 遷 っていた 円 爾 に 迎 えられ さらに 北 条 時 頼 の 招 きで 鎌 倉 建 長 寺 第 二 代 となった 咸 淳 元 年 (1265)に 帰 國 與 東 巖 慧 安 尺 牘 ( 奈 良 國 立 博 物 館 藏 重 要 文 化 財 圖 11)は 東 福 寺 時 代 の 兀 庵 に 参 禅 した 京 都 吉 田 庵 の 東 巖 慧 安 に 宛 て 帰 國 後 の 咸 淳 6 年 (1270)に 消 息 を 伝 えた もの 他 にも 日 本 からの 留 学 僧 である 本 覺 が 帰 國 した 後 の 咸 淳 8 年 に 徑 山 から 送 った 礼 状 である 與 本 覺 上 人 尺 牘 (MOA 美 術 館 藏 重 要 文 化 財 ) などがあり いずれも 当 時 の 僧 たちの 交 流 を 伝 える 貴 重 な 資 料 である 無 学 祖 元 (1226-1286) 俗 姓 は 許 氏 字 は 子 元 鄞 県 ( 浙 江 省 )の 人 臨 安 淨 慈 寺 の 敬 叟 居 簡 のもとで 出 家 し 徑 山 の 無 準 師 範 に 参 じて 法 嗣 となった 無 準 示 寂 後 は 霊 隱 寺 の 石 溪 心 月 阿 育 王 寺 の 偃 谿 広 聞 鷲 峰 庵 の 虚 堂 智 愚 大 慈 寺 の 物 初 大 観 に 歴 參 した 元 軍 の 南 下 とともに 郷 里 付 近 に 逃 れていたが 弘 安 二 年 (1279) 北 条 時 宗 の 招 聘 に 応 じて 来 日 鎌 倉 建 長 寺 の 住 持 となった 同 五 年 時 宗 が 円 覚 寺 を 建 立 すると 無 学 を 開 山 第 一 世 に 迎 え 建 長 寺 と 兼 住 せしめた 同 九 年 示 寂 佛 光 國 師 と 諡 し 圓 満 常 照 國 師 を 追 賜 された 與 長 樂 寺 一 翁 偈 頌 ( 相 國 寺 藏 國 寶 圖 12)の 一 翁 は 諱 を 院 豪 といい 入 宋 して 無 準 師 範 に 参 じ 帰 國 後 は 上 野 長 樂 寺 に 住 した 同 門 ではあるが 過 去 に 面 識 はなく 無 学 来 日 の 年 に 建 長 寺 を 訪 ねて 法 を 問 うたおりに 揮 毫 された 偈 頌 と 識 語 で 四 幀 からなる 大 幅 である 次 に 松 源 崇 嶽 を 始 祖 とする 松 源 派 であるが 滅 翁 文 禮 (1167-1250) 石 溪 心 月 (?-1254) 虛 舟 普 度 (1199-1280) 横 川 如 珙 (1222-1289)らに 墨 蹟 が 残 されて いる 467
しかし 最 も 影 響 の 大 きかったのは 来 日 した 蘭 溪 道 隆 (1213-1278)である 俗 姓 は 冉 氏 西 蜀 涪 江 ( 四 川 省 )の 人 成 都 大 慈 寺 で 出 家 後 浙 江 で 無 準 師 範 痴 絶 道 冲 敬 叟 居 簡 らに 参 じ 無 明 慧 性 の 法 を 嗣 いだ 淳 祐 六 年 (1246) 弟 子 らとともに 商 船 で 東 渡 筑 前 円 覚 寺 から 京 都 泉 涌 寺 来 迎 院 に 遷 った その 後 北 条 時 頼 に 迎 えられて 鎌 倉 常 樂 寺 に 住 し 建 長 五 年 (1253)には 新 た に 建 立 された 建 長 寺 の 開 山 第 一 世 に 迎 えられた 示 寂 して 大 覺 禪 師 と 諡 を 賜 った 看 經 榜 殘 厥 ( 常 盤 山 文 庫 藏 重 要 文 化 財 圖 13)は 北 条 時 頼 の 子 で 時 の 鎌 倉 政 権 の 執 権 にあった 時 宗 の 発 願 で 行 われた 法 要 で 用 いられたも ので 治 世 の 平 安 や 豊 穣 家 世 の 長 久 や 昌 隆 を 祈 るもの ほかに 来 日 した 僧 では 石 溪 心 月 に 嗣 法 した 大 休 正 念 (1215-1289)が 文 永 六 年 (1269)に 北 条 時 宗 の 招 きで 鎌 倉 に 入 り 禅 興 寺 建 長 寺 壽 福 寺 円 覚 寺 正 観 寺 の 住 持 を 歴 任 した 悼 聖 一 國 師 尺 牘 ( 永 青 文 庫 藏 重 要 文 化 財 圖 14)は 東 福 寺 開 山 の 円 爾 の 訃 報 に 接 した 大 休 が 同 寺 二 世 東 山 湛 照 に 宛 てて 追 悼 の 意 を 述 べたものである もう 一 人 松 源 派 で 看 過 できないのが 虚 堂 智 愚 (1185-1269)である 俗 姓 は 陳 氏 息 耕 叟 と 号 した 四 明 象 山 の 人 郷 里 の 普 明 寺 で 出 家 運 菴 普 巖 の 法 を 嗣 いだ 嘉 興 の 興 聖 寺 に 出 世 して 以 来 江 南 の 諸 寺 を 歴 住 景 定 五 年 (1264)には 理 宗 の 勅 により 淨 慈 寺 第 四 十 三 世 を 命 ぜられ 翌 咸 淳 元 年 (1265) には 度 宗 の 勅 によって 徑 山 第 四 十 世 を 拜 した 虚 堂 の 法 嗣 に 日 本 から 参 禅 し た 南 浦 紹 明 ( 諡 : 圓 通 大 應 國 師 )があり その 後 大 應 派 は 大 徳 寺 開 山 となっ た 宗 峰 妙 超 らに 引 き 継 がれて 日 本 臨 済 禅 の 一 大 主 流 を 形 成 することになる 與 照 禅 者 偈 頌 ( 東 京 國 立 博 物 館 藏 國 寶 圖 15)は 日 本 人 留 学 僧 で 石 溪 心 月 の 法 を 嗣 いだ 無 象 靜 照 に 与 えたもの 破 れ 虚 堂 の 別 称 で 有 名 であ る 江 戸 の 初 期 この 墨 蹟 は 武 野 紹 鷗 から 京 都 の 豪 商 十 文 字 屋 の 所 有 に 帰 し たが 寛 永 十 四 年 (1637) 丁 稚 が 蔵 に 立 て 籠 もり これを 破 り 裂 いて 自 殺 し た 事 件 に 因 む 最 後 に 曹 源 道 生 を 祖 とする 曹 源 派 では 痴 絶 道 冲 を 挙 げておきたい 俗 姓 は 荀 氏 武 信 長 江 ( 四 川 省 )の 人 梓 州 の 妙 音 院 で 落 髪 した 後 江 南 へ 出 て 饒 州 ( 江 西 省 ) 薦 福 寺 の 松 源 崇 嶽 に 参 じていたが 首 座 の 曹 源 道 生 の 出 世 に 随 侍 して 印 可 を 受 けた 嘉 興 天 寧 寺 に 出 世 したのを 皮 切 りに 天 童 寺 阿 育 王 寺 淨 慈 寺 に 勅 住 呉 興 法 華 寺 の 開 山 となり また 勅 を 受 けて 徑 山 に 遷 っ た 無 準 忌 上 堂 語 ( 慈 照 寺 藏 重 要 文 化 財 圖 16)は 無 準 師 範 の 一 周 忌 に 際 して 読 まれるべき 上 堂 語 を 録 して 源 藏 主 に 与 えたものである 淳 祐 十 468
年 二 月 二 十 五 日 八 十 二 歳 の 書 無 準 はこの 前 年 の 三 月 十 八 日 に 寂 しており 痴 絶 もまたこの 年 の 五 月 十 五 日 に 逝 去 している 南 宋 時 代 の 墨 蹟 は 法 系 という 観 点 からすれば 以 上 のような 三 系 列 に 分 類 できる そして 元 時 代 に 至 っても 基 本 的 にはこの 系 列 が 広 がりをみせる ことになる 二 物 初 大 觀 物 初 賸 語 とその 書 法 ところで こうした 墨 蹟 を 一 覧 すると その 書 法 の 多 くは 王 羲 之 以 来 の 伝 統 的 書 法 の 流 れにあっては やや 破 格 というか かなり 個 性 的 な 面 が 強 く 見 受 けられる 確 かに 王 羲 之 や 顔 真 卿 を 学 んだ 形 跡 が 窺 がえる 人 物 もいる また 蘇 軾 黄 庭 堅 米 芾 といった 北 宋 諸 家 に 通 ずる 風 格 を 備 えるものも 少 な くない というよりも 蘇 軾 や 黄 庭 堅 は 禅 僧 との 交 流 が 深 かった 人 物 であるか ら 彼 らの 書 法 が 禅 宗 の 精 神 性 の 影 響 を 受 けたともいえよう さらに 前 章 では 法 系 に 従 って 墨 蹟 を 概 観 したが 気 がつくのは 必 ずし も 師 の 法 を 嗣 いだからといって その 書 法 までもそれに 倣 っているというわ けでは 必 ずしもないことである 一 例 として 無 準 師 範 から 印 可 を 受 けた 弟 子 達 の 書 風 から 見 ると( 圖 17) むしろ 類 似 しない 自 ら 一 家 を 成 した 書 をもの する 僧 のほうが 多 いようにも 感 じられる このように 見 ると それぞれの 墨 蹟 書 法 が 因 ってたつところは 如 何 なる ものなのかを 判 断 することは 作 品 を 一 瞥 しただけではなかなか 理 会 し 難 い ように 思 えるのである 次 に 日 本 に 伝 わった 墨 蹟 の 遺 作 は 少 なくないのであるが 禅 僧 の 語 録 や 周 辺 の 人 物 の 文 集 などに 残 されている 墨 蹟 の 書 法 に 関 する 資 料 は 必 ずしも 豊 富 ではない 無 論 例 えば 跋 大 慧 墨 蹟 などと 題 される 題 跋 類 は 散 見 さ れるのであるが それらの 多 くは 大 慧 の 人 格 の 高 さからくる 精 神 性 に 言 及 す るのみで その 書 法 そのものに 触 れることはほとんどない また 禅 僧 によ る 書 論 や 先 人 の 書 法 に 対 する 評 論 なども 極 めて 稀 見 である こうした 文 献 資 料 の 薄 弱 さが 墨 蹟 書 法 の 研 究 を 一 層 困 難 にしている こうした 状 況 下 にあって 私 は 以 前 敬 叟 居 簡 がその 著 北 礀 文 集 巻 七 ( 注 2)において 彼 の 書 法 観 を 示 す 題 跋 を 少 なからず 残 していることを 指 摘 した ( 注 3) 本 発 表 ではこれをさらに 敬 叟 居 簡 の 法 嗣 である 物 初 大 觀 の 469
書 跋 と 比 較 することによって その 師 弟 の 書 法 に 対 する 見 解 を 検 討 してみた い まず 前 稿 と 重 複 するが 敬 叟 居 簡 の 書 跋 のなかでも 最 も 基 礎 となる 虞 世 南 孔 子 廟 堂 碑 と 歐 陽 詢 九 成 宮 醴 泉 銘 についての 两 跋 を 振 り 返 って おきたい 跋 平 江 寧 上 人 孔 子 廟 堂 碑 書 學 廢 識 書 者 益 尠 韓 愈 稱 羲 之 俗 書 吾 所 以 望 後 世 者 益 狹 虞 書 孔 子 廟 堂 碑 唐 人 駸 駸 晉 人 者 南 北 壤 斷 贋 跡 實 繁 此 本 蓋 亦 未 易 得 嘗 自 其 殘 缺 處 而 求 其 全 沈 潛 往 復 而 遺 其 全 然 後 殘 缺 之 大 全 了 了 在 目 雖 有 智 巧 不 得 而 形 容 於 語 言 之 閒 也 跋 歐 陽 率 更 九 成 宮 醴 泉 銘 貞 觀 初 歐 虞 褚 薛 以 王 佐 之 才 弄 翰 追 配 二 王 謹 嚴 痩 勁 歐 陽 絕 出 流 落 天 壤 閒 者 何 限 獨 化 度 寺 記 醴 泉 銘 最 爲 珍 玩 習 之 者 往 往 失 其 韻 致 但 貴 端 莊 如 木 偶 死 於 活 處 鮮 不 爲 吏 牘 之 歸 贋 刻 誤 人 人 亦 罕 識 眞 忽 見 此 本 殆 未 易 得 反 復 數 日 書 以 歸 之 敬 叟 は 書 學 廢 識 書 者 益 尠 と 当 時 の 書 学 が 凋 落 していくと 情 勢 を 認 識 する そのうえで その 原 因 として 韓 愈 が 石 鼓 歌 で 王 羲 之 を 俗 書 と 貶 めた 例 を 挙 げて 後 世 の 学 書 者 に 望 む 道 が 更 に 狹 隘 になったと 批 判 す る 後 世 に 望 む 書 法 とは 如 何 なるものか? 彼 は 学 書 の 方 法 として 当 然 のこ とながら 古 典 臨 書 の 実 践 をいう その 対 象 となったのが 虞 世 南 の 孔 子 廟 堂 碑 や 歐 陽 詢 の 九 成 宮 醴 泉 銘 また 化 度 寺 塔 銘 であり 沈 潛 往 復 あるいは 反 復 して 熱 心 に 學 んだという では 何 故 この 兩 碑 を 學 ぶのであろうか? 初 唐 の 四 家 歐 虞 褚 薛 こそ は 追 配 二 王 する 存 在 であり その 書 法 は 駸 駸 晉 人 たるものだからで ある すなわち 学 書 の 指 針 として 初 唐 を 通 じて 晉 人 とりわけ 二 王 に 遡 るべ きことを 主 張 するのである また 南 北 壤 斷 贋 跡 實 繁 贋 刻 誤 人 人 亦 罕 識 眞 流 落 天 壤 閒 者, 何 限 獨 化 度 寺 記, 醴 泉 銘 最 爲 珍 玩 と 碑 拓 本 流 布 の 現 状 を 客 観 的 に 認 識 して いることも 注 目 すべきである そのうえで 此 本 蓋 亦 未 易 忽 見 此 本 殆 未 易 得 ざるもの と 今 閱 している 兩 拓 本 は 優 れていると 判 断 してをおり 470
拓 帖 鑑 別 を 行 う 一 定 程 度 の 眼 力 を 具 備 していたことを 示 している さらに 歐 書 に 対 して 謹 嚴 痩 勁 とその 書 法 の 特 質 を 的 確 に 把 握 した うえで 習 之 者 往 往 失 其 韻 致 但 貴 端 莊 如 木 偶 死 於 活 處 鮮 不 爲 吏 牘 之 歸 と 学 書 のための 示 唆 さえ 与 えているのである 物 初 大 觀 は 前 章 でも 紹 介 したように 大 慧 派 の 流 れに 属 する 高 僧 で そ の 法 系 を 図 示 すれば 大 慧 宗 杲 拙 庵 徳 光 敬 叟 居 簡 物 初 大 觀 となる 俗 姓 は 陸 氏 鄞 県 横 溪 ( 浙 江 省 )の 人 敬 叟 居 簡 のもとで 印 可 を 受 けた 後 淳 祐 元 年 (1241)の 臨 安 法 相 禅 院 を 皮 切 りに 浙 江 の 諸 寺 を 歴 住 景 定 四 年 (1263) 阿 育 王 山 廣 利 禪 寺 第 四 十 四 世 となった 詩 文 をよくして 著 に 物 初 賸 語 がある 物 初 賸 語 は 日 本 では 内 閣 文 庫 に 二 十 五 巻 本 が 伝 わる 宝 永 五 年 (1708) 常 信 木 活 字 印 本 5 冊 28cm 綫 裝 題 跋 は 卷 十 五 から 卷 十 七 にわ たって 収 められる 書 跋 も 少 なくはないが 書 法 そのものに 及 ぶものは そ れほど 多 くはない 本 発 表 ではそのなかから 五 条 のみを 摘 抄 して 紹 介 したい 率 更 字 ( 卷 一 五 ) 飄 逸 藏 於 遒 勁 秀 麗 發 於 精 神 此 率 更 所 以 臻 其 妙 也 邕 碑 辤 缺 畫 漫 矣 而 所 謂 飄 逸 秀 麗 耿 然 不 沒 歐 書 の 妙 を 飄 逸 秀 麗 遒 勁 精 神 の 四 つの 關 鍵 詞 で 把 え る これは 師 敬 叟 の 謹 嚴 痩 勁 を 敷 衍 したものと 考 えてよい そして 化 度 寺 塔 銘 について 字 画 の 缺 損 泐 漫 を 認 めながらも その 特 長 をはっきりと 存 していることを 述 べている 跋 定 武 斷 刻 幷 率 更 書 ( 卷 一 七 ) 唐 諸 家 書 孰 不 祖 右 軍 然 皆 有 所 變 率 更 變 而 爲 遒 勁 亦 各 其 韻 爾 或 病 蘭 亭 之 畸 予 則 曰 畸 而 愈 奇 これも 敬 叟 の 歐 虞 褚 薛 追 配 二 王 の 見 解 をより 断 定 的 に 述 べた もので 定 武 蘭 亭 と 歐 書 を 比 較 して 唐 の 書 が 王 羲 之 の 書 に 由 来 すると いう 流 れを 強 調 する ただし 然 皆 有 所 變 亦 各 其 韻 爾 と 唐 の 書 人 がそ れぞれ 變 化 を 加 え それぞれ 獨 自 の 風 韻 を 備 えていることを 明 確 にした 點 は 471
一 歩 を 進 めとたといえよう 畸 と 奇 の 差 別 は 定 かでないが 王 羲 之 書 法 の 特 質 の 一 つを 積 極 的 に 掌 握 し それを 融 解 して 自 己 の 書 法 を 形 成 した 意 義 を 称 揚 していると 思 われる 跋 率 更 書 ( 卷 一 七 ) 予 嘗 觀 率 更 於 囑 其 整 裝 愛 護 後 十 年 復 觀 則 先 北 礀 之 跋 在 焉 論 學 率 更 盡 之 矣 篆 翁 耽 此 者 間 雲 代 老 礀 書 贄 語 小 楷 又 學 帖 三 變 而 自 成 一 家 云 歐 書 法 帖 の 愛 護 と それらが 師 らと 供 覧 されていたこと 判 る 敬 叟 は 上 述 のように 歐 書 を 学 書 の 中 心 に 据 えるべきだという 重 要 な 跋 を 残 している が 物 初 は 目 にした 跋 について 論 學 率 更 盡 之 矣 と 述 べており さらに 詳 細 な 言 説 があったことが 想 定 される 篆 翁 間 雲 は 人 名 であろうか 學 帖 三 變 而 自 成 一 家 は 敬 叟 の 言 葉 だと 思 われ その 学 書 過 程 の 一 端 を 窺 わせる いずれにせよ 師 弟 の 歐 書 尊 重 の 様 が 知 られる 一 条 である 蘭 亭 ( 卷 一 五 ) 余 觀 禊 飲 序 刻 如 見 似 人 而 喜 矣 因 古 人 而 得 活 意 形 諸 心 畫 所 謂 顧 吾 方 略 何 如 耳 不 至 用 孫 吳 兵 法 欧 陽 詢 書 法 の 源 流 となった 王 羲 之 の 蘭 亭 叙 に 対 して 霍 去 病 の 故 事 ( 注 4)を 引 きつつ 因 古 人 而 得 活 意 形 諸 心 畫 と 古 典 重 視 の 姿 勢 を 示 す 柳 公 權 眞 跡 ( 卷 一 五 ) 誠 懸 心 畫 抗 衡 歐 虞 褚 薛 行 草 皆 稱 是 月 壺 寶 此 帖 或 不 能 無 眞 贋 之 疑 後 觀 續 蘭 亭 刻 此 帖 在 焉 若 質 劑 之 合 則 其 爲 眞 也 審 矣 余 客 皐 亭 崇 先 上 方 月 壺 亦 在 出 此 作 供 人 之 好 古 古 物 華 焉 柳 公 権 の 書 法 について 抗 衡 歐 虞 褚 薛 と 初 唐 四 家 に 比 肩 する 評 価 を 与 えている 同 時 に 柳 書 の 評 価 もさることながら あくまで 基 準 は 歐 虞 褚 薛 に 置 いていることを 示 していよう そして 方 月 壺 の 所 藏 する 帖 の 眞 贋 につい て 蘭 亭 續 帖 ( 注 5)と 比 較 したうえで 眞 蹟 だと 判 断 を 下 している 物 初 が 各 種 の 碑 帖 を 過 眼 する 機 會 を 持 ち 得 ていたこと さらに 一 定 の 真 贋 判 別 能 力 を 具 備 していたことが 知 られる 以 上 のように 物 初 大 觀 の 書 法 觀 は 基 本 的 には 師 である 敬 叟 居 簡 のそ れを 踏 襲 する 極 めて 近 似 したものである 部 分 的 には 深 化 が 見 られるもの の 歐 陽 詢 を 中 心 とした 唐 碑 を 学 書 の 中 心 に 挙 げ その 由 来 するところとし 472
て 王 羲 之 の 書 を 位 置 づける そして 碑 帖 おりよい 碑 帖 を 求 めて それを 学 び 続 けることによって 自 らの 書 法 を 築 こうとする 態 度 は 共 通 したものである そして この 師 弟 の 場 合 には 生 み 出 された 墨 蹟 もまた 相 い 似 ているの である 現 在 確 認 し 得 る 物 初 大 觀 の 作 品 は 前 掲 図 5を 含 め 以 下 の8 件 で ある 黄 山 谷 草 書 杜 詩 跋 サンリツ 服 部 美 術 館 藏 重 要 文 化 財 圖 5 山 隱 語 藤 田 美 術 館 藏 重 要 文 化 財 圖 18 偈 頌 常 盤 山 文 庫 藏 圖 19 偈 頌 圖 20 法 語 圖 21 偈 頌 圖 22 法 語 圖 23 布 袋 圖 贊 圖 24 これに 対 し 敬 叟 居 簡 の 作 品 はA-H(Aは 図 4 と 同 一 )で 書 法 の 継 承 が 明 確 に 見 て 取 れる このように 墨 蹟 の 作 者 の 書 法 觀 が 師 弟 揃 って 題 跋 という 形 を 通 じて 伝 わり しかも 書 法 觀 作 品 そのものともに 継 続 性 が 認 められるのは 非 常 に 特 異 な 例 である しかしこのことは 墨 蹟 の 作 者 もまた 一 定 の 書 法 論 を 持 ち 相 当 の 碑 帖 を 見 それを 学 んで 自 身 の 書 法 を 作 り 上 げていることを 示 しているだろう 本 発 表 では 日 本 に 遺 存 する 南 宋 の 墨 蹟 をとりあえず 法 系 によって 紹 介 し 代 表 的 とされている 作 品 を 図 像 で 示 した 墨 蹟 の 書 法 が 如 何 に 多 彩 であ り そして これまで 我 々 が 構 築 してきた 書 法 史 の 枠 組 みのみでは 捉 えきれな いものであることを 感 じざるをえない 墨 蹟 書 法 に 関 する 本 格 的 な 研 究 は ようやく 端 緒 についたところである 一 件 一 件 の 作 品 の 丹 念 な 調 査 も 未 だ 充 分 な 進 展 が 見 られず 史 料 の 少 なさや 禅 的 表 現 の 難 しさなど 困 難 な 点 は 非 常 に 多 い しかしこれまでの 書 法 史 に 一 石 を 投 じるためにも 多 くの 学 者 の 方 々 に 研 究 対 象 に 加 えていただくことを 願 ってやまない 473
注 ( 注 1) 大 阪 市 立 美 術 館 五 島 美 術 館 編 書 の 國 寶 墨 蹟 附 墨 蹟 資 料 集 ( 読 売 新 聞 大 阪 本 社 2006) ( 注 2) 中 華 再 造 善 本 唐 宋 編 集 部 據 中 國 國 家 圖 書 館 藏 宋 崔 尚 書 宅 刻 本 影 印 ( 北 京 圖 書 館 出 版 社 2003) 日 本 内 閣 文 庫 藏 應 安 七 年 (1374) 刊 本 ( 注 3) 關 于 日 本 遺 存 的 宋 元 禪 僧 墨 蹟 以 敬 叟 居 簡 及 其 < 醻 梅 坡 吟 友 宿 山 見 貽 偈 > 卷 爲 例 ( 故 宮 文 物 月 刊 331 2010.10) ( 注 4) 史 記 巻 一 一 一 衞 將 軍 驃 騎 列 傳 云 驃 騎 將 軍 爲 人 少 言 不 泄, 有 氣 敢 任. 天 子 嘗 欲 教 之 孫 吳 兵 法 對 曰 : 顧 方 略 何 如 耳, 不 至 學 古 兵 法 ( 注 5) 北 宋 の 刻 帖 上 海 博 物 館 蔵 北 京 孟 憲 章 蔵 本 巻 四 五 六 の 零 本 が 伝 わる 中 國 法 帖 全 集 第 五 所 収 474