水 と 火 の 祭 水 は 生 命 の 源 火 は 命 をつなぐ 力 8 月 1 日 は 水 の 日 この 日 八 雲 町 に 治 水 の 偉 人 周 藤 彌 兵 衛 翁 の 銅 像 が 建 立 されて1 周 年 を 迎 え ます これを 記 念 し 水 の 神 様 火 の 神 様 そして 先 人 に 感 謝 し 平 和 を 創 る 水 と 火 の 祭 を 開 催 いたします 日 本 の 発 祥 地 ともいわれる 古 代 出 雲 国 の 中 心 地 意 宇 郡 (おうのこおり)を 流 れる 悠 久 の 河 意 宇 川 かつて 熊 野 大 社 の 本 宮 があったとされる 天 狗 山 ( 熊 野 山 ) の 湧 き 水 を 源 流 としています 古 来 意 宇 川 は 氾 濫 を 繰 り 返 し 田 畑 家 屋 を 押 し 流 し 人 々の 命 を 奪 いました 今 から 300 年 前 日 吉 村 ( 現 在 の 八 雲 町 )の 庄 屋 である 周 藤 彌 兵 衛 翁 は 私 財 を 投 じ 42 年 かけて 剣 山 の 硬 い 岩 山 を 鑿 と 槌 で 切 り 開 き 川 の 流 れを 変 え 新 田 を 開 発 し 洪 水 の 苦 しみから 人 々を 救 う ために 生 涯 を 尽 くしました 今 も 切 通 しの 岩 には 鑿 跡 が 残 っています 火 の 発 祥 の 神 社 である 熊 野 大 社 では 天 狗 山 ( 熊 野 山 ) の 檜 で 作 られた 火 きり 臼 と 卯 ツ 木 で 作 ら れた 火 きり 杵 で 神 火 をきり 出 すお 祭 りがあります 出 雲 国 造 の 代 替 わりのときに 行 われる 火 継 式 でも 熊 野 大 社 で 起 こされた 火 で 調 理 された 御 食 ( み け ) をいただくことではじめて 世 継 ぎがなされると 考 えられています 火 は 霊 (ひ) と 同 一 にみ なされ 命 の 根 源 的 な 力 とされています こうした 八 雲 の 歴 史 と 伝 統 を 受 け 下 記 の 要 領 にて 水 と 火 と 人 の 輪 をテーマに 水 と 火 の 祭 開 催 を 企 画 いたしました 八 雲 志 人 館 代 表 : 佐 藤 京 子 小 松 昭 夫 事 務 局 : 交 易 場 修 稲 田 幸 子 広 報 : 寺 戸 良 信 690-2102 松 江 市 八 雲 町 東 岩 坂 3442-9 電 話 FAX 0852-54-1023 周 藤 彌 兵 衛 翁 像 制 作 :2002 年 9 月 清 原 太 兵 衛 像 孔 子 像 孟 子 像 を 同 時 制 作 ( 棗 荘 台 児 荘 ) 周 藤 彌 兵 衛 翁 大 銅 像 制 作 :2014 年 7 月 ベルタ フォン ズットナー 像 制 作 :イングリッド ロレマ 1 号 像 2013 年 9 月 (オランダ ハーグ 美 術 館 展 示 ) 2 号 像 2014 年 6 月 (ウィーン 平 和 記 念 館 貸 し 出 し 後 日 本 へ 移 送 し 日 蘭 合 作 へ) 3 号 像 2014 年 10 月 ( 小 松 電 機 産 業 株 式 会 社 本 社 ロビー 展 示 ) 国 産 日 蘭 合 作 ベルタ フォン ズットナー 像 制 作 :2015 年 7 月 制 作 : 株 式 会 社 嶋 安 ( 富 山 県 高 岡 市 ) 後 援 : 株 式 会 社 ミヤシゲテクノ 宮 重 社 長 石 名 田 取 締 役 営 業 部 長 富 山 県 庁 商 工 労 働 部 本 誌 制 作 : 小 松 電 機 産 業 株 式 会 社 小 林 泰 久 指 導 : 小 松 昭 夫 社 長
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小 早 川 富 夫 島 根 県 松 江 市 八 雲 町 東 岩 坂 昭 和 19 年 (1944 年 ) 春 私 は 海 軍 乙 種 飛 行 予 科 練 生 いわゆる 予 科 練 の 海 軍 少 年 航 空 兵 を 志 願 しました 16 歳 でした 最 後 の 予 科 練 生 であった 私 達 24 期 生 は 全 国 で 9110 名 が 採 用 され 最 年 少 は 13 歳 8 か 月 現 在 の 中 学 2 年 生 在 学 中 で した 11 月 30 日 日 吉 地 区 の 神 納 橋 たもとの 堤 防 の 上 ちょうどこの 会 場 になっているあたりで 多 数 の 人 に 見 送 られて 出 発 翌 12 月 1 日 鹿 児 島 海 軍 航 空 隊 に 入 隊 しました 予 科 練 を 巣 立 った 若 者 たちは 太 平 洋 戦 争 において 航 空 戦 力 の 中 核 となりましたが 敵 が 本 土 に 迫 るや 全 員 特 別 攻 撃 隊 員 となり 行 き 片 道 の 燃 料 のみを 積 んで 敵 の 艦 船 への 体 当 たりを 決 行 実 に 8 割 が 亡 くなりました 祖 国 の 将 来 を 少 しも 疑 うことなく ただ 救 国 の 一 念 で 無 限 の 未 来 を 秘 めた 生 涯 を 捧 げたのです これが 戦 争 というものです 出 発 前 夜 それまで 私 の 入 隊 について 何 も 語 らなかった 母 が 行 かないでくれ と 頼 みました 母 は 当 時 52 歳 前 年 に 父 が 亡 くなっていました 時 代 が 戦 争 一 色 で 男 子 は 戦 争 に 行 くものと 教 育 されていたとはいえ 母 にひとことも 相 談 しなかったこと また 家 族 のことや 家 の 生 活 などについて 深 く 考 えなかったことを 心 から 懺 悔 しています 私 達 24 期 生 は 昭 和 20 年 (1945 年 )3 月 までは 基 礎 訓 練 を 受 けていましたが 3 月 18 日 の 大 空 襲 で 基 地 は 壊 滅 的 打 撃 を 受 け 機 能 を 失 ってしまいました このため 4 月 上 旬 私 の 所 属 する 分 隊 は 同 じ 鹿 児 島 県 の 鹿 屋 基 地 に 転 属 になりました ここは 九 州 全 土 への 敵 爆 撃 機 の 通 過 空 域 となっていたため 連 日 ひっきりなしに 敵 機 が 飛 来 し 爆 音 が 途 絶 えるのは 早 朝 の 3 時 間 程 度 という 状 況 で した この 基 地 での 作 業 は すべて 九 州 最 南 端 での 本 土 決 戦 のための 準 備 でした 砲 弾 銃 弾 を 備 蓄 のために 横 穴 壕 に 運 び 込 むことから 始 まり やがて 高 射 砲 陣 地 などを 造 る 土 木 作 業 になりました 兵 舎 格 納 庫 滑 走 路 砲 台 施 設 を 狙 った 空 爆 は 数 え 切 れず その 都 度 作 業 を 中 断 し 退 避 しなくてはならず 戦 場 そのものでした なかでも 敵 機 が 機 銃 を 打 ちながら 突 っ 込 んでくるときほど 恐 怖 を 感 じたことはありません 爆 弾 を5mほどの 至 近 距 離 に 受 け 伏 せていた 背 中 に 爆 発 による 大 量 の 土 をかぶり しばらく 立 ち 上 がれなかったことを 記 憶 しています 8 月 15 日 はバラック 兵 舎 の 中 で 迎 えました 爆 撃 でラジオも 壊 れていたので 終 戦 の 放 送 は 聞 いていません 17 日 になって 上 官 から 日 本 は 負 けた 戦 争 が 終 わった と 知 らされました そして 間 もなく 敵 が 上 陸 してくる 君 たちは 自 宅 に 向 かっても 山 に 逃 げてもよい とにかく 直 ちにこの 場 を 離 れよ との 命 令 が 下 されました 私 は 仲 間 5 人 と 最 寄 りの 日 豊 本 線 志 布 志 駅 まで 40 キロの 道 のりを 7 時 間 かけて 歩 きました 持 ち 物 は 身 の 回 り 品 と 毛 布 だけ 食 料 は 全 くなく 皆 帰 りたい 一 心 で 空 腹 に 耐 えました 夕 方 に 乗 り 込 んだ 列 車 は 超 満 員 で 客 車 の 屋 根 の 上 までいっぱいでした 私 たちは 唯 一 空 いていた 機 関 車 の 屋 根 に 毛 布 を 敷 いて 座 り 我 慢 することにしましたが 耳 元 の 汽 笛 の 音 には 閉 口 しました 爆 撃 で 線 路 が 寸 断 されていたため 途 中 何 度 も 下 車 して 次 の 駅 まで 歩 くことを 繰 り 返 しました 空 腹 と 不 安 の 中 でた どり 着 いた 門 司 駅 で 出 会 った 一 人 の 陸 軍 兵 士 が 仲 間 と 別 れた 私 に 腹 が 減 っているだろう 残 りご 飯 でよかったら 食 べろ と 自 分 の 飯 盒 を 差 し 出 してくれました 地 獄 で 仏 に 会 う とはこのことです 涙 が 出 るほどありがたかった そ の 方 の 名 前 を 聞 かなかったことを 後 悔 しています 松 江 に 帰 り 着 いたのは 翌 日 の 午 後 3 時 頃 でした 家 に 帰 っても 爆 撃 や 機 銃 掃 射 の 夢 にうなされて 目 が 覚 めることを 繰 り 返 しました また どうしても 忘 れることができないことがあります 松 江 から 一 緒 に 入 隊 した 同 期 の 一 人 が 転 属 先 の 特 攻 兵 器 人 間 魚 雷 回 天 の 訓 練 基 地 で 終 戦 後 間 もなく その 兵 器 の 整 理 作 業 中 に 暴 発 で 命 を 落 としてしまっ たことです 戦 争 が 終 わったのに なぜ 一 緒 に 帰 ることができなかったのか 悔 やんでも 悔 やみきれません 戦 争 当 時 の 世 間 知 らずで 分 別 もなかった 私 を 励 まし 応 援 下 さり また 母 をいろいろとお 世 話 いただいた 近 所 の 方 々 地 区 の 方 々に 深 く 感 謝 しています 自 分 にはこの 恩 返 しをする 義 務 がある 戦 争 が 終 わってからずっと この 気 持 ちを 忘 れたことはありません そして これからも 一 生 忘 れません
須 山 和 子 島 根 県 松 江 市 八 雲 町 熊 野 私 の 八 月 十 五 日 太 平 洋 戦 争 が 始 まった 昭 和 16 年 (1941 年 )12 月 8 日 の 朝 は 冷 たい 霙 (みぞれ)が 降 っていました 当 時 私 は 9 歳 国 民 学 校 の4 年 生 でした 朝 礼 の 時 校 長 先 生 から 日 本 が 米 英 と 開 戦 したお 話 があり その 後 全 校 児 童 が 裸 足 で 熊 野 大 社 へ 行 き 必 勝 祈 願 の 参 拝 をしました 年 が 明 けると 軍 隊 へ 召 集 されて 出 征 する 人 が 多 くなり 武 運 長 久 の 祈 願 祭 や 道 端 (みちばた)で 万 歳 を 叫 んで 兵 隊 さんをお 見 送 りする 回 数 が 増 えていきました 私 達 の 学 校 生 活 も 大 きく 変 わり 勤 労 奉 仕 の 作 業 が 多 くなりました まず 校 庭 を 開 墾 してサツマイモを 作 りました それから 各 地 区 の 出 征 兵 士 のお 宅 の 農 作 業 の 手 伝 いに 行 くようになり 自 分 の 背 たけくらいの 鍬 を 背 負 子 (しょいこ) に 入 れて 学 校 に 通 いました 次 第 に 授 業 時 間 が 減 り 朝 1 時 間 だけ 授 業 だったり 授 業 がまったく 無 い 日 も 増 え 来 る 日 も 来 る 日 も 開 墾 などの 作 業 に 出 ました 学 校 から 列 を 作 って 目 的 地 に 向 かう 時 は 天 に 代 わりて 不 義 を 討 つ 忠 勇 無 双 の 我 が 兵 は などと 軍 歌 を 歌 いながら 歩 いたものです 奉 仕 作 業 は 行 き 先 によって 田 圃 (たんぼ) 打 ちや 草 刈 りなどいろいろでした まだ 小 さかったため 家 で 農 作 業 を 手 伝 っ たことがなかったので いきなり 田 圃 に 連 れて 行 かれた 時 は ヒルに 咬 まれるなどつらい 思 いをしました また 田 圃 への 客 土 のために 背 負 子 に 土 を 入 れて 河 原 から 運 ぶ 作 業 も とても 重 くつらいものでした その 頃 学 校 でも 竹 槍 訓 練 が 行 われており 私 達 も 竹 槍 をかついで 登 校 しました また 下 校 の 際 には 敵 機 に 見 つか らないように 県 道 を 避 け 脇 道 や 山 道 を 選 んで 歩 きました 防 火 訓 練 や 避 難 訓 練 も 盛 んで 集 団 で 下 校 する 時 班 長 さ んの 敵 機 来 襲 伏 せ の 号 令 で 目 と 耳 を 指 で 押 さえて 道 端 に 伏 せ 空 襲 警 報 解 除 の 号 令 で 立 ち 上 がり 家 に 帰 った ものです とくにつらい 思 い 出 は 村 葬 のことです 戦 死 された 兵 隊 さんの 葬 儀 は 小 学 校 の 講 堂 で 村 全 体 の 葬 儀 として 行 われ 私 も 何 回 も 参 列 しました 村 葬 は 厳 粛 で 印 象 深 く 席 順 まで 覚 えています 海 行 かば の 葬 送 曲 の 中 どこからともなく すすり 泣 きが 洩 れ 私 も 涙 がこぼれました その 後 英 霊 のご 自 宅 での 葬 送 にも 参 列 しましたが 本 当 につらく 悲 し い 想 いをしました 昭 和 20 年 (1945 年 )8 月 15 日 終 戦 の 日 は 家 に 居 ました 国 民 学 校 高 等 科 2 年 生 になっていました 7 月 いっぱい は 田 の 草 取 りの 奉 仕 作 業 に 出 ていましたが 8 月 に 入 ると 新 型 爆 弾 が 広 島 に 落 ちたので 登 校 しないように とのことで 夏 休 みになっていました ラジオの 前 に 集 まって 重 大 放 送 を 待 っていました ちょうどラジオが 壊 れていた 隣 の 家 のお じさんも 来 ておられ そのおじさんが 戦 争 終 わったと と ぽつりとつぶやいて 帰 られたのを 覚 えています 戦 争 に 勝 つために 勝 つまではと 子 供 心 で 信 じていました 何 事 も 戦 争 のためだからと 組 み 込 まれていき なぜ と 疑 問 をはさむことは 許 されず ただ 黙 って 言 うことを 聞 くしかありませんでした 教 育 のおそろしさを 今 にして 痛 感 します また 戦 争 のこわさは 人 間 のおろかさ 心 の 貧 しさがむき 出 しになることです おかしな 時 代 に 巻 き 込 まれたものだと 思 い 出 すと 腹 の 立 つことが 多 々あります でも いつまでも 腹 を 立 てていても 仕 方 がないので 私 は 何 が 本 当 のことだったのかを 知 りたくていろいろと 本 を 読 むようになりました 戦 地 で 戦 われた 方 や 原 爆 や 空 襲 にあわれた 方 に 比 べれば 私 の 体 験 など 些 細 なものかもしれません しかし 戦 争 のみ じめさ 哀 しさを 身 をもって 味 わった 者 として 子 孫 に 戦 争 の 悲 惨 さを 語 り 継 ぐことが 大 切 だと 思 っています
石 原 茂 島 根 県 松 江 市 八 雲 町 熊 野 私 の 八 月 十 五 日 昭 和 18 年 (1943 年 )3 月 国 民 学 校 高 等 科 2 年 の 卒 業 を 待 たずに 私 は 満 蒙 開 拓 青 少 年 義 勇 隊 に 入 隊 しました 15 歳 でした 満 蒙 とは 当 時 日 本 の 支 配 下 にあった 中 国 東 北 部 の 満 州 国 と 現 在 の 内 モンゴル 地 区 を 指 します 昭 和 6 年 (1931 年 ) から 昭 和 20 年 (1945 年 )までの 14 年 間 に 国 策 として 満 蒙 開 拓 団 27 万 人 が 移 住 しました このうちの 3 割 に 当 たる 8 万 6 千 人 が 青 少 年 義 勇 隊 でした 開 拓 増 産 による 日 本 本 土 への 食 料 供 給 と 当 時 のソ 連 と 満 州 国 の 国 境 警 備 が2 大 任 務 でした 3 月 12 日 熊 野 大 社 で 安 全 祈 願 祭 と 壮 行 式 があり 島 根 中 隊 263 名 の 結 成 式 が 行 われる 松 江 城 二 の 丸 広 場 に 向 けて 出 発 しようとした 時 熊 野 大 社 前 のお 店 のおばさんが 駆 け 寄 ってきて 私 の 手 を 握 り こんなにこまい 子 を 満 州 なんかに 行 かせるなんて まあなんとしたかわいそうなことだ と 言 って 涙 を 流 されたことは 今 でも 忘 れません 当 時 の 出 征 軍 人 と 同 様 歓 呼 の 声 や 旗 の 波 に 送 られ 松 江 駅 を 出 発 し 茨 城 県 の 内 原 訓 練 所 に 向 かい そこで 2 か 月 の 基 礎 訓 練 を 受 けました その 後 下 関 から 関 釜 (かんぷ) 連 絡 船 で 釜 山 (プサン)に 渡 り 中 国 を 北 上 し 目 的 地 の 満 州 国 勃 利 (ボツリ) 訓 練 所 に 到 着 したのは 昭 和 18 年 (1943 年 )5 月 15 日 のことでした それから 1 年 後 の 昭 和 19 年 (1944 年 )2 月 には 東 安 ( ト ウアン) 適 正 訓 練 所 に 移 りました ここは 3 分 の1が 満 州 国 領 3 分 の2がソ 連 領 という 興 凱 (コウガイ) 湖 のほとりで まさに 国 境 の 最 前 線 でした 広 大 な 荒 野 の 中 で 故 郷 を 遠 く 離 れて 暮 らす 14 歳 15 歳 の 私 達 が 苦 しんだのは 屯 墾 (とんこん) 病 いわゆるホームシッ クでした 家 族 からの 手 紙 や 慰 問 の 小 包 が 届 いた 夜 など 宿 舎 の 闇 の 中 あちこちからすすり 泣 きが 聞 こえてきました 昭 和 20 年 (1945 年 )8 月 9 日 未 明 私 達 を 悲 劇 が 襲 いました 突 如 ソ 連 軍 が 侵 攻 を 始 めたのです 湖 からのソ 連 艦 船 の 砲 撃 により 訓 練 所 の 舎 屋 は 破 壊 されました それから 山 に 分 け 入 り 鉄 道 をいくつか 突 破 する 決 死 の 逃 避 行 となり ました 避 難 する 日 本 人 の 群 れは 大 地 を 這 うアリの 行 列 のようでした それを 目 がけてソ 連 空 軍 機 が 機 銃 掃 射 や 爆 撃 を 繰 り 返 しました 弾 丸 が 体 をかすって 私 の 服 はボロボロになりました 昭 和 19 年 (1944 年 )7 月 サイパン 8 月 にはグアムの 日 本 軍 が 玉 砕 し 満 州 に 居 た 日 本 の 関 東 軍 は 南 方 に 送 られる 者 が 増 えていきました 避 難 民 の 中 には 夫 に 残 された 軍 人 の 奥 さんも 含 まれていました 3 人 の 子 供 を 連 れた 奥 さんもお られ 疲 労 困 憊 して 背 負 った 子 供 を 草 むらの 中 に 置 き 去 りにせざるを 得 なくなる 夜 になると 狼 が 出 て 子 供 は 食 べられ るかもしれないという 状 況 です 運 のいい 子 は 中 国 人 に 拾 われて 養 育 される それが 今 日 中 国 残 留 孤 児 といわれる 人 々 です そんな 地 獄 絵 図 のただ 中 で 8 月 15 日 の 終 戦 を 知 りようもありませんでした 横 道 河 子 (オウドウカシ)という 所 で ソ 連 軍 に 収 容 されました その 時 初 めて ソ 連 軍 兵 士 から 日 本 人 通 訳 を 通 して 戦 争 は 終 わった 日 本 は 負 けた と 聞 かされました 8 月 29 日 のことでした その 後 海 林 (カイリン)に 連 れていかれ 仕 事 のできる 者 とそうでない 婦 女 子 の 選 別 があり 仕 事 ができる 者 は 皆 ソ 連 へ 送 られました 我 々は 少 年 でしたので 残 されました そこで 3 か 月 ほど 関 東 軍 が 隠 していた 物 資 の 捜 索 や 積 み 出 しをやらされました それから 私 は 哈 爾 浜 (ハルビン)の 収 容 所 に 入 れられました 零 下 40 度 になる 極 寒 の 地 でした ソ 連 軍 兵 士 は 時 計 を はじめ 貴 金 属 を 取 り 上 げ 日 本 女 性 を 要 求 するなど 横 暴 の 限 りを 尽 くしました 20 日 間 ほどそこに 居 て 石 炭 を 運 ぶ 屋 根 の 無 い 無 蓋 車 で 南 下 しました 体 を 寄 せて 温 め 合 い 夜 に 赤 ん 坊 が 泣 くと 馬 賊 に 襲 われるというので みんなであやしました 連 帯 責 任 とはどういうことかを その 時 痛 感 しました 1 週 間 かけて 満 州 国 の 首 都 であった 新 京 (シンキョウ)に 降 り 立 った 私 の 全 財 産 は 饅 頭 1 個 まさに 裸 一 貫 でした 偶 然 私 が 今 も 命 の 恩 人 と 仰 ぐ 一 人 の 日 本 人 に 出 会 い 仕 事 を 紹 介 してもらい 生 き 延 びました 山 口 県 の 仙 崎 港 に 帰 り 着 いたのは 昭 和 21 年 (1946 年 )7 月 30 日 でした 伝 染 病 の 検 疫 などのため 上 陸 できたのは 1 週 間 後 でした それから 列 車 で 島 根 に 入 り 宍 道 湖 を 見 た 時 やっと 無 事 に 帰 った という 実 感 がこみ 上 げてきました 私 達 は 数 多 くの 同 胞 を 失 いました 平 和 こそ 真 の 幸 福 の 礎 (いしずえ)です 2 度 と 戦 争 のない 社 会 を 実 現 するために 努 力 することが 生 き 残 った 私 の 使 命 であると 固 く 信 じています
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2015.8.1 参考資料 八雲志人館発行 ゆう科学通信 vol1 6 月号
2015.8.1 参考資料 八雲志人館発行 ゆう科学通信 vol2 8 月号
2015.8.1 参考資料 八雲志人館発行 ゆう科学通信 vol3 8 月号
2015.8.1 参考資料 八雲志人館発行 ゆう科学通信 vol3 8 月号
2015.8.1 参考資料 今人舎より 2015 年秋に発売予定 戦後 70 年出版企画新刊 2015 今人舎の近刊 誠実に事を成し遂げる日本人の素晴らしさを世界に たった1人で 42 年 川の流れを変えた八雲立つ出雲の偉人 周藤彌兵衛の物語 2015年 文 秋 発売予定 村尾靖子 絵 クミタ リュウ 英訳 ノビー キーリー 42 年間1人で山をけずり 97 歳で切り通しを完成 暴れ川の流れを変えた 偉人 周藤彌兵衛の物語 地元の作家 村尾靖子の文章に 漫画家クミタ リュウが渾身の書き下ろし 日 英対訳 信念をもち 誠実に事を成し遂げる日 本人の素晴らしさを 世界に英語で語ってほしい そんな思いを込めた1冊 村尾靖子 作家 1944 年 山口県生まれ 結婚後 4人の子育て中に執筆活動を開始 1994 年島根県文化奨励賞受賞 作品に 命を見つめて 草原の風になりたい 岩崎書店 絵本 琴姫の涙 おじちゃんせんせい だいだい だー いすき 今人舎 クラウディアのいのり ポプラ社 日本絵本賞読者賞受賞 などがある クミタ リュウ 漫画家 1940年 岐阜県生まれ 1975年日本漫画家協会賞 優秀賞 同賞大賞 1977年モントリオール国際漫画 家展1位 1981年読売国際漫画大賞 1988年イギリス ワディントン国際漫画家展1位など各賞受賞 東京新聞 中日 新聞 共同通信に政治漫画を執筆中 日本漫画家協会理事 一文ごとに ノビー キーリー Nobby kealey 記号をつけて イギリス マンチェスター出身 シェフィールド大学にて日本語を専攻 来日後はカメラマンとして活躍する一方 対訳 英語教師のほか その味のある容姿を生かし数々のテレビCMに出演 現在松蔭学園イングリッシュ スクール校長 私の八月十五日 マンガ外交 漫画家や著名人らが文と絵で語り 南京大虐殺記念館からはじ 継ぐ昭和二十年八月十五日 終戦 まった 漫画家たちのマン の日の記憶集 ガ外交 赤塚不二夫 ちば ご寄稿者 高倉健 黒柳徹子 松本零士 ちばてつや 林家木久扇 他 70 名以上 ① 昭和二十年の絵手紙 著 / 私の八月十五日の会 ② 戦後七十年の肉声 編 /8 15 朗読 収録プロジェクト実行委員会 ③ 戦後七十年を過ぎても 編 /8 15 朗読 収録プロジェクト実行委員会 てつやら 幼年期を中国で 過ごした引揚げ者である漫 画家たちを中心に結成され た 私の八月十五日の会 同会の漫画家たちによって 開催された南京市での 私 の八月十五日展 を エピ ソードを交えて紹介 著 / 石川好 編集 / こどもくらぶ
2015.8.1 参 考 資 料 三 和 書 籍 より 2015 年 8 月 に 発 売 予 定 2013 年 オランダ ハーグにある 平 和 宮 建 立 100 周 年 を 記 念 して 世 界 のフィランソロピスト( 指 導 的 慈 善 事 業 家 )20 人 の 選 定 が 行 われた 選 ばれたのは 平 和 宮 の 寄 贈 者 でも ある 実 業 家 アンドリューカーネギー をはじめ アルフレッド ノーベル ヘンリーフォード J D ロックフェ ラーに 加 え テッド ターナー ビル ゲイツといった 古 今 東 西 知 らぬ 者 の ない 顔 ぶれ そのなかに 二 人 の 日 本 人 がいた ひ とりは 立 命 館 大 学 平 和 ミュージアム の 建 設 に 寄 与 した 平 和 運 動 の 指 導 者 で 眼 科 医 の 中 野 信 夫 氏 ( 故 人 ) そし てもうひとりが 本 書 で 焦 点 を 当 てる 小 松 昭 夫 氏 だ 小 松 氏 は 島 根 県 松 江 市 に 本 拠 を 置 く 小 松 電 機 産 業 株 式 会 社 の 創 業 者 20 代 の 起 業 以 来 40 年 自 治 体 の 水 情 報 ビジネスや 応 用 範 囲 の 広 いシートシャッター などを 手 がけ その 前 年 2012 年 には 新 産 業 創 造 により 藍 綬 褒 章 を 受 賞 一 方 で 歴 史 問 題 を 正 面 から 捉 え 地 元 出 雲 から 隣 国 の 韓 国 中 国 そして 世 界 に 交 流 の 輪 を 広 げ 平 和 の 事 業 家 として の 活 動 を 積 み 重 ねてきた 奇 才 本 書 では 小 松 氏 がみずから 会 得 し その 行 動 の 根 幹 をなす 究 極 の 思 考 天 略 を 軸 に この 類 い 稀 なる 事 業 家 の 姿 とあゆみを 浮 き 彫 りにする 早 川 和 宏 (はやかわ かずひろ) 1948 年 生 まれ 立 教 大 学 経 済 学 部 にてマルクスの 哲 学 および 弁 護 法 マックスウェーバーの 社 会 学 を 学 ぶ 卒 業 後 社 会 派 ジャーナリストとして 活 躍 心 の 変 革 社 会 の 変 革 を 目 標 に 掲 げ 幅 広 いテーマに 取 り 組 んでいる ひとりシンク タンク 2010 代 表 主 要 著 書 として 魔 法 の 経 営 日 の 丸 ベンチャー ( 三 和 書 籍 ) 会 社 の 品 格 は 渋 沢 栄 一 から 学 んだ ( 出 版 文 化 社 )など 訳 書 として ミナ ドビック 著 ミラクル ( 洋 泉 社 )
2015.8.1 参考資料 雑誌 財界 9 月号掲載
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