燃えるのを見て 人々はこれを灯りに使うようになっ たのである 海の幸に恵まれたわが国では この魚の 脂を灯りに使用することは案外早くから行われ こういった灯火の研究書においても 油脂類が灯火 として利用され始めた年代については書かれておら ず 大雑把な推定がなされているのみである 一方 油の歴史から



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須 磨 区 ( 神 戸 水 上 警 察 の 管 轄 区 域 を 除 く 区 域 ) 兵 庫 県 垂 水 警 察 神 戸 市 垂 水 区 神 戸 市 のうち 垂 水 区 ( 神 戸 水 上 警 察 の 管 轄 区 域 を 除 く 区 域 ) 兵 庫 県 神 戸 水 上 警 神 戸 市 中 央 区 水

平 成 27 年 1 月 8 日 ( 株 ) 大 林 組 大 阪 本 店 大 阪 市 北 区 中 之 島 3632 新 名 神 高 速 道 路 高 槻 ジャンクション 工 事 大 阪 府 高 槻 市 大 字 成 合 ~ 大 阪 府 高 槻 市 大 字 下 他 土 木 工 事 本 工 事 は 名 神

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ごあいさつ

表紙(第1巻)

統 計 表 1 措 置 入 院 患 者 数 医 療 保 護 入 院 届 出 数, 年 次 別 措 置 入 院 患 者 数 ( 人 ) ( 各 年 ( 度 ) 末 現 在 ) 統 計 表 2 措 置 入 院 患 者 数 ( 人 口 10 万 対 ) ( 各 年 ( 度 ) 末 現 在 ) 主 な 生

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平成28年3月ダイヤ改正について

3 避 難 状 況 避 難 指 示 避 難 勧 告 都 道 府 県 名 市 区 町 村 名 指 示 日 時 勧 告 日 時 青 森 県 岩 手 県 山 形 県 埼 玉 県 千 葉 県 東 京 都 鰺 ヶ 沢 町 月 16 日 12 時 55 分 10 月 22 日 10 時 00 分

12 大 都 市 の 人 口 と 従 業 者 数 12 大 都 市 は 全 国 の 人 口 の 約 2 割 従 業 者 数 の 約 3 割 を 占 める 12 大 都 市 の 事 業 所 数 従 業 者 数 及 び 人 口 は 表 1 のとおりです これらの 12 大 都 市 を 合 わせると 全

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実 施 概 要 実 施 日 : 平 成 20 年 9 月 1 日 ( 木 )~9 月 16 日 ( 火 ) 対 象 者 : 内 高 校 6 校 それぞれ 120 人 を 対 象 に 配 布 新 発 田 高 校 新 発 田 南 高 校 新 発 田 西 高 校 新 発 田 商 業 高 校 新 発 田 農

1 口 速 報 集 計 について 県 において 国 に 提 出 した 調 査 書 をもとに 速 報 値 として 集 計 したものである したがって 国 における 審 査 の 結 果 次 第 では 国 がこの2 月 に 公 表 する 予 定 の 口 速 報 集 計 値 と 一 致 しないことがある ま

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(2) 都 市 計 画 区 域 市 街 化 区 域 市 街 化 調 整 区 域 の 変 遷 1 都 市 計 画 区 域 の 変 遷 2 市 街 化 区 域 及 び 市 街 化 調 整 区 域 の 変 遷 旧 石 巻 市 ( 単 位 :ha) ( 単 位 :ha) 変 更 都 市 計 画 区 域 行

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( 株 ) 荒 井 建 設 興 業 市 内 南 房 総 市 和 田 町 布 野 205 番 地 水 道 施 設 工 事 特 定 B ( 株 ) 安 房 環 境 衛 生 市 内 南 房 総 市 千 倉 町 瀬 戸 2344 番 地 76 管 工 事 一 般 B 安 房 住 宅 設 備 機 器 ( 有

別 表 1 土 地 建 物 提 案 型 の 供 給 計 画 に 関 する 評 価 項 目 と 評 価 点 数 表 項 目 区 分 評 価 内 容 と 点 数 一 般 評 価 項 目 立 地 条 件 (1) 交 通 利 便 性 ( 徒 歩 =80m/1 分 ) 25 (2) 生 活 利 便

為 が 行 われるおそれがある 場 合 に 都 道 府 県 公 安 委 員 会 がその 指 定 暴 力 団 等 を 特 定 抗 争 指 定 暴 力 団 等 として 指 定 し その 所 属 する 指 定 暴 力 団 員 が 警 戒 区 域 内 において 暴 力 団 の 事 務 所 を 新 たに 設

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人事行政の運営状況の報告について

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手 形 1 玉 島 商 店 から 注 文 のあった 商 品 650,000 を 発 送 し 代 金 のうち 520,000 については 取 引 銀 行 で 荷 為 替 を 取 り 組 み 割 引 料 を 差 し 引 かれた 手 取 金 514,000 は とした なお 残 額 は 掛 けとした 手



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第1章 財務諸表

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関東中部地方の週間地震概況

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事業報告書等提出書

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千 葉 市 資 源 循 環 部 千 葉 県 千 葉 市 中 央 区 千 葉 港 2-1 千 葉 中 央 コミュニティセンター3F 船 橋 市 千 葉 県 船 橋 市 湊 町 柏 市 産 業 277

目 次 第 1. 土 区 画 整 理 事 業 の 名 称 等 1 (1) 土 区 画 整 理 事 業 の 名 称 1 (2) 施 行 者 の 名 称 1 第 2. 施 行 区 1 (1) 施 行 区 の 位 置 1 (2) 施 行 区 位 置 図 1 (3) 施 行 区 の 区 域 1 (4) 施

福井の交通

3 独 占 禁 止 法 違 反 事 件 の 概 要 (1) 価 格 カルテル 山 形 県 の 庄 内 地 区 に 所 在 する5 農 協 が, 特 定 主 食 用 米 の 販 売 手 数 料 について, 平 成 23 年 1 月 13 日 に 山 形 県 酒 田 市 所 在 の 全 国 農 業 協

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目 標 を 達 成 するための 指 標 第 4 章 計 画 における 環 境 施 策 世 界 遺 産 への 登 録 早 期 登 録 の 実 現 史 跡 の 公 有 地 化 平 成 27 年 度 (2015 年 度 )までに 235,022.30m 2 施 策 の 体 系 1 歴 史 的 遺 産 とこ

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黄 檗 宇 治 大 久 保 線 宇 治 大 久 保 淀 線 103 ー 21 ー 京 阪 淀 駅 ー 240 ー 240A 立 命 館 宇 治 経 由 250 ー 250A ー 立 命 館 宇 治 経 由 平 野 町 黄 檗 公 園 ニ

国 宝 重 要 文 化 財 美 術 工 芸 品 建 造 物 計 美 術 工 芸 品 建 造 物 計 東 京 , ,329 神 奈 川 千 葉 埼 玉 京 都 20

1 平 成 27 年 度 土 地 評 価 の 概 要 について 1 固 定 資 産 税 の 評 価 替 えとは 地 価 等 の 変 動 に 伴 う 固 定 資 産 の 資 産 価 値 の 変 動 に 応 じ その 価 格 を 適 正 で 均 衡 のとれたものに 見 直 す 制 度 である 3 年 ご

5 長 野 地 裁 H 強 盗 殺 人, 死 体 遺 棄 H H ( 東 京 高 裁 ) H 横 浜 地 裁 H 殺 人 H H 静 岡 地 裁 H 殺 人, 死 体 遺 棄, 強

その 他 事 業 推 進 体 制 平 成 20 年 3 月 26 日 に 石 垣 島 国 営 土 地 改 良 事 業 推 進 協 議 会 を 設 立 し 事 業 を 推 進 ( 構 成 : 石 垣 市 石 垣 市 議 会 石 垣 島 土 地 改 良 区 石 垣 市 農 業 委 員 会 沖 縄 県 農

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H 坂 ノ 下 急 傾 斜 地 崩 壊 工 事 高 知 県 幡 多 土 木 事 務 所 H 山 のみち 第 13 号 幹 線 林 道 開 設 事 業 中 村 大 正 線 2 工 区 工 事 高 知 県 幡 多 林 業 事 務 所 H 海 陸 常 第 09-

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(1) 率 等 一 覧 ( 平 成 26 年 度 ) 目 課 客 体 及 び 納 義 務 者 課 標 準 及 び 率 法 内 に 住 所 を 有 する ( 均 等 割 所 得 割 ) 内 に 事 務 所 事 業 所 又 は 家 屋 敷 を 有 する で 内 に 住 所 を 有 し ないもの( 均 等

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かった 船 の 規 模 は 200~300 石 積 みのものが 多 かった 弁 才 船 は 瀬 戸 内 海 で 発 綿 池 綿 酒 酢

昭 和 3 年 (1928) 5 月 東 横 線 神 奈 川 ~ 高 島 5 月 目 黒 蒲 田 電 鉄 が 土 地 分 譲 ( 後 の 高 島 町 ) 間 開 通 会 社 の 田 園 都 市 ( 株 )を 合 併 5 月 目 黒 蒲 田 電 鉄 の 代 表 取 締 役 に 五 島 慶 太 氏 6

市 の 人 口 密 度 は 5,000 人 を 超 え 図 4 人 口 密 度 ( 単 位 : 人 /k m2) に 次 いで 高 くなっている 0 5,000 10,000 15,000 首 都 圏 に 立 地 する 政 令 指 定 都 市 では 都 内 に 通 勤 通 学 する 人 口 が 多

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同 上 5,000 山 奥 町 山 奥 自 治 会 同 上 行 政 管 理 室 同 上 40,000 三 万 谷 町 自 治 会 同 上 行 政 管 理 室 同 上 5,000 田 尻 町 自 治 会 同 上 行 政 管 理 室 同 上 95,000 間 戸 自 治 会 同 上 行 政 管 理 室

(15) 兵 庫 県 道 高 速 湾 岸 線 (16) 神 戸 市 道 高 速 道 路 2 号 線 (17) 兵 庫 県 道 高 速 北 神 戸 線 (18) 神 戸 市 道 高 速 道 路 北 神 戸 線 (19) 神 戸 市 道 高 速 道 路 湾 岸 線 のうち 上 り 線 については 神 戸

公 示 価 格 一 覧 の 見 方 1 < 番 号 > 一 連 番 号 2 < 標 準 地 番 号 > 冠 記 番 号 例 示 標 準 地 の 用 途 なし -1-2 住 宅 地 商 業 地 工 業 地 3 < 市 町 名 > 標 準 地 が 属 する 市 町

新 幹 線 朝 の 通 勤 通 学 に 便 利 な つばめ の 両 数 や 時 刻 を 見 直 します 熊 本 7:11 発 博 多 行 き つばめ 306 号 を N700 系 車 両 8 両 編 成 で 運 転 します 定 員 は 546 名 (+162 名 )となり 着 席 チャンスを 拡 大

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福 岡 札 幌 ( 千 歳 ) 東 京 ( 羽 田 ) ,900 ~ 35,400 37,900 22,800 26,900 40,500 ~ 40,500 40,500 40,500 40,500 51,800 ~ 51,800 51,800 51,800 51,800 福 岡

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1. 灯火のはじまりと油脂原料 人類にとって あかり の歴史は すなわち 火 の歴史でもあった それはまた 油脂 の歴史でもある 火を作り出すことを覚えた人類は 長時間にわたって火を絶や さない方法を考え 囲炉裏を生み出し 木を燃やした 竪穴式住居の縄文人は部屋の真ん 中に囲炉裏を作り この囲炉裏は炊事と暖房と そして灯火の役割を果たした その後 徐々に火をそれぞれの用途に応じて使い分けるようになって行くが 未分化状況は意外に 長く残り 江戸時代でも地方の農家や漁村では 囲炉裏の火が唯一の灯火であった 灯火が何時ごろから囲炉裏の火から独立したかは明らかではないが 囲炉裏で燃やした 時に樹脂を多く含んだ木がひときわ明るく輝いたことから 照明専用の火として使い始め たという説が有力となっている 最初は松脂 まつやに を多く含んだ 松の根や幹をそのまま燃やして灯かりとして 使ったという 灯かりを絶やさないために 松の根や幹を細かく割り 石や鉄で作った灯 台に次々と差し加える形が一般的となった 日本書紀 には イザナギノ尊とイザナミノ尊が黄泉 よみ の国に行ったとき 湯 津爪櫛 ゆつつまぐし の端の太い歯を折って松明 たいまつ にしたという記述があ り その後長い間こうした松明が灯火として重要な役割を果たしていたと見られる 石油の発見も意外に早く 日本書紀 には 天智天皇即位の年 668 年 に越後地方 から燃える水と燃える土が献上されたという記述がある 松の根や幹に代わり 油脂類が灯火として何時ごろから使われ始めたかについて明らか にした文献はない 竪穴式住居跡から発掘された釣手形土器に 灯火器として使われたと 推定される痕跡が残っていることから 古墳文化期にすでに灯火として油脂類が使われて いたとも思われるが 実証は全くされていない 中世になると灯火の種類も増え 家の中の照明用 携行用 屋内と屋外 庭のかがり 火などにそれぞれ異なる灯火具が使われるようになった 中世の灯火具としては 灯台 短檠 たんけい 灯籠 とうろう などが使われた 灯火も松や杉をそのまま利用する 形から さまざまな油脂類が使われ始めた 宮本馨太郎氏の 燈火その種類と変遷 では 次のように語られている 松の木など木を焚く灯りについで 動物や植物の油脂を燃し て灯りとすることが行われたのであろう 海からとった魚を火で焼いた時 その脂がよく 1

燃えるのを見て 人々はこれを灯りに使うようになっ たのである 海の幸に恵まれたわが国では この魚の 脂を灯りに使用することは案外早くから行われ こういった灯火の研究書においても 油脂類が灯火 として利用され始めた年代については書かれておら ず 大雑把な推定がなされているのみである 一方 油の歴史から見ると わが国で初めて榛 はしばみ の実が灯火用に搾油されたのは 神功皇后の時代とい うのが定説になっており その種本は 清油録 大 蔵永常著 である しかし 清油録 は搾油の起源に 国立国会図書館 蔵 ついての記述のほとんどを文化 7 1810 年に刊行さ れた 搾油濫觴 さくゆらんしょう 衢重兵衛編 に因っている その 搾油濫觴 によると わが国で初めて木の実が搾油されたのは神功皇后 11 211 年のことで 摂津の国の住 吉大明神 現在の住吉大社 において行われた神事で灯火がつかわれ その灯明油として 2 献燈するため同じ摂津の国の遠里小野村 おりおのむら において 榛の実が搾油された といわれている 遠里小野村はこれにより 社務家から御神領のうち免除の地を与えられ たという これがわが国の搾油のはじまりとされている こうした木の実油から 草種子油へと変わって行くまでには少し時間がかかり 貞観 元年 859 年 城州山崎の社司が初めて長木 ちょうぎ ながき という道具で荏胡麻 油 えごまゆ を絞り 禁裏をはじめ石清水八幡宮 離宮八幡宮の灯明油として献上した のが草種子油の始まりである 搾油濫觴 と述べられている また 搾油濫觴 では 実際に灯火がどのように使われたか さまざまな文献を収集 して紹介しているので その一部を以下に掲げる 孝徳天皇の大化年中 651 年 味経宮 あじふのみや で 2,100 人の僧尼を招請し 一 切経を読ませ夕刻 宮殿前の広場で 2,700 余の灯火を燃やし 安宅経 土側経等を読ませ た 難宮安鎮の仏事と推定 日本書紀 天武天皇の白鳳年中 673 686 年 河原寺で燃灯供養 多くの火を燃やし仏を供養す る行事 が行われた 日本書紀 以上の行事には木実の油が使われたと推定され 8 世紀以降はもっぱら草種子油 油火 が用いられるようになったという 仏事 神事とともに灯火が発展し より明るく より 手軽に より長時間 灯を維持できる油が求められ やがて荏胡麻油がその中心的な地位 を占めるようになってゆく

2. 大山崎の荏胡麻と遠里小野の菜種 しかし 木実油や草実油の油も長く残り たとえば正暦の頃 990 995 年 には 椿 油が売り歩かれ 長谷寺の灯明に用いられたという記述が 小右記 に見られる 伊勢神 宮の灯明油には椿油が使われており 岡崎の太田油脂が椿油を献納している 灯火油の歴史は松脂を多量に含んだ松の根を燃やすことから始まり 魚油 榛油 椿 油 胡麻油 荏胡麻油と変化してくるが これらの油は時代とともに変遷するといったこ とではなく それぞれ同時期に重なって使われている たとえば漁村では魚油を灯火用に 使うことが明治時代でも行われていたし 木実油や草実油も使われ続けた しかし 9 世 紀以降 時代を経るごとに荏胡麻油が圧倒的な地位を占めるに到ったことが推測される この荏胡麻油の発展は 大山崎で考案された長木による搾油法と無縁ではない 優れた搾 油法の確立とともに 荏胡麻油は全国の社寺や宮廷 貴族階級 武士階級へと着実に浸透 し 灯油の市場を席巻するに至る 2. 大山崎の荏胡麻と遠里小野の菜種 わが国の油の歴史に重要な役割を果たしたのが 山城の国山崎の地にある大山崎離宮八 幡宮である 大山崎離宮八幡宮は 清和天皇の代 貞観元 859 年に大和の国大安寺の 行教和尚が 八幡様を分霊遷座したのがはじまりとされている 遷座と同時に 大山崎の 社司が 長木による搾油を開始した 搾油原料として使用された荏胡麻の栽培も行った この油は 大山崎の灯明として利用されると同時に宮廷にも献上され 朝廷は その功績 を賞して 社司に 油司 の宣旨を賜った それ以来 神社仏閣の灯明の油は 全て大山 崎が納めることとなった その後 諸国でもこれに倣い 長木による荏胡麻の搾油が全国に拡大した そこで朝廷 では 論旨 院宣を発し 大山崎の社司を 特に 荏胡麻製油の長 と認定し 独占権を 認めた また 大山崎を 荏胡麻製油家の元祖 として 諸国の関所や渡し場を自由に通 行できるようにし 課益を免除した 離宮八幡宮に残る最古の文献である貞応元 1222 年 12 月の美濃国司の下文によると 油や雑物の交易のため 不破関 ふわのせき の関料免除の特権を保持し 不破関を越え て 遠く美濃尾張まで行商の旅に出ていた また 旧社家 疋田種信氏所蔵写本中にある 寛喜元 1229 年 12 月 28 日付の六波羅探題御教書によれば 既にこの頃 大山崎は播磨 国で専売の特権を有し 翌寛喜 2 年の御教書では 肥後国まで範囲を拡げていることがわ かる 応長元 1311 年には 神人 じにん の訴えによって 後嵯峨院の院宣が下り 荏胡 麻と油の販売独占を保証された 正和 3 1314 年には 六波羅の下知状によって 荏胡 麻の運送に関して 淀河尻 神崎 渡辺 兵庫等の関料を免除された その後 南北朝か 3

ら室町時代にかけて 大山崎商人の活躍はますます目覚ましいものとなっていった 文安 3 1446 年に室町幕府が下した兵庫開制札の中では 山崎神人の買い入れた荏胡麻の運 送は 山崎胡麻船 として 大神宮船等とともに 関料の免除が保証されている 室町 幕府においては 歴代の将軍が御教書を下して 大山崎の権益を保証している 大山崎神人の活躍は 鎌倉時代初期から室町時代まで約 200 年にわたって全盛を究め た しかしながら 応仁の乱 1467 1477 年 が起こると 京は戦火に包まれ 山崎の 地も荒廃して 往年の勢力は失われた そして 信長が進めた楽市楽座政策により大山崎 の油座の特権は廃止された 信長の死後 豊臣秀吉は 一時大山崎の油座の復権を認めた が 時代の流れは変わらず 天正 12 1584 年 11 月 10 日付けの安堵状を最後に 大山 崎油座は 文献上から完全に姿を消した 山崎の荏胡麻油に代わって より効率的な菜種の搾油に取り組み 山崎を凌駕するにい たったのが摂津の国遠里小野である 遠里小野では 住吉神社を中心として早くから油商 人が台頭し しばしば山崎神人と対立していた 嘉慶 2 1388 年には 和泉 摂津の商 人が 住吉神社御油神人 と称して油木を立て 荏胡麻油を販売しているのを大山崎神人 が訴え 営業を停止させられている その後 17 世紀に入り 遠里小野の若野某という 人が開発した新しい道具のしめ木 搾木 擣押木 により 油分の多い菜種の搾油を効率 4 的に行うことが可能になり 遠里小野の菜種油が全国を席巻するに至った 菜種は室町時 代頃に中国から伝わり 九州や畿内において作付けされ 主に食用に供されていた 遠里小野では 土地の人々が総出で菜種油の製造に当たり 油田仲間 あぶらだなか ま と称して掛け札を出し 毎日油の価格を書き記すようにした 油茶屋 あぶらちゃ や なるものを建て 油売りたちが集まって休んだり 油の値段を決めたりした 3. 商人のはじまりと発展 商売は行商から始まった 古代では店舗での販売はまだ登場せず 商売の中心は行商で あった 行商には 居住地の近くを売り歩く小商人と 全国を放浪する旅商人との区別が 見られた 中世になって 都市では店舗営業が一般的になった後も 小商人は日帰りか一 泊程度で都市を訪れ 棒を担いで振売を行った 都市の発達に伴い 種々の振売の姿は 都市の住民の需要を満たすためには 欠かせない存在となっていったのである その中に は 大山崎の油商人の姿もあった 室町時代に入ると 農閑期を利用した農民の出稼ぎの 姿も数多く見られ 江戸時代に禁止されるまで続いた 近郊の農村から来た商人は 寺社の祭礼に合わせて出店するのが常であった 奈良の輿 福寺の大乗院には塩の本座と新座があったが 新座は 原則として町中で振売を行い 屋 内では一切売らないことを定めていた

3. 商 人 のはじまりと 発 展 小 商 人 の 場 合, 個 々の 売 り 上 げは 少 なかったが, 旅 商 人 は,まとまった 売 り 上 げを 上 げ る 存 在 であった 古 代 では, 日 本 書 紀 欽 明 天 皇 ( 在 位 539 ~571 年 )の 条 に, 秦 大 津 父 が, 山 城 から 伊 勢 にかけて 行 商 をしたことが 記 されている この 秦 氏 は, 勢 力 のある 帰 化 人 であり, 古 くから 商 業 に 従 事 していたものと 見 られている 荘 園 の 発 達 した 平 安 時 代 には, 行 商 人 の 数 も 増 え, 伊 勢 物 語 には, 田 舎 わたらひす る 人,すなわち 田 舎 へ 行 商 に 向 かう 人 の 記 述 が 見 られる 新 猿 楽 記 には, 利 を 重 ん じて, 妻 を 知 らず, 身 を 念 ひて 他 人 を 顧 みず,その 交 易 地 は, 北 は 陸 奥 から 南 は 貴 賀 島 ( 鬼 界 ケ 島 )に 及 び,その 交 易 品 は 唐 物 四 十 五 種, 本 朝 物 三 十 六 種 に 上 る との 記 述 があ る 遠 路 運 ばれる 国 産 品 の 中 には, 化 粧 品 の 原 料 となる 水 銀, 砂 金, 硫 黄 など, 産 出 地 が 限 られる 上 に 産 出 量 が 少 なく, 生 産 精 製 に 技 術 を 要 するもの,すなわち 高 値 で 取 り 引 き される 特 殊 産 品 が 数 多 く 見 られた 行 商 が 本 当 の 意 味 で 日 本 列 島 を 席 巻 するのは, 荘 園 制 が 崩 壊 し, 全 国 に 大 名 の 領 地 が 形 成 された 以 降 のことである 鎌 倉 時 代 に 入 って, 貨 幣 が 全 国 規 模 で 流 通 したことも, 商 業 の 本 格 化 を 促 した 京 の 商 人 が, 次 いで 堺 の 商 人 が, 全 国 の 市 場 に 姿 を 現 した 堺 の 商 人 は, 最 初, 地 元 の 魚 や 塩 を 奈 良 近 辺 で 売 っていたが, 後 には 東 国 に 至 るまで, 諸 物 品 を 売 り 歩 いた 近 江 商 人 も 平 安 時 代 より 活 動 し, 伊 勢 商 人 も 鎌 倉 時 代 末 から, 東 海 地 方 に 進 出 していた 伊 勢 商 人 の 起 こりは, 東 海 の 地 に 数 多 く 存 在 する 皇 大 神 宮 の 御 厨 御 薗 の 年 貢 を 運 搬 する 廻 船 業 者 だったと 推 定 されているが, 後 に 伊 勢 神 宮 の 参 拝 客 や, 営 利 目 的 の 物 資 の 輸 送 に 手 を 広 げ, 勢 力 を 伸 ばした 他 にも, 博 多 商 人, 日 本 海 の 敦 賀 商 人, 小 浜 商 人 などが 次 々に 商 売 で 名 を 馳 せた 陸 奥 の 十 三 湊 の 船 も, 蝦 夷 地 の 物 産 を 本 州 に 運 んで 販 売 していた かくして, 都 市 と 地 方 との 間 の 取 引 きは, 日 常 的, 組 織 的 なものとなった 都 市 には, 国 名 を 冠 した 屋 号 の 商 人 が 多 く 住 んでいた 京 なら 越 後 屋 若 狭 屋 奈 良 屋 淀 屋 丹 波 屋 筑 紫 屋 豊 後 屋 備 中 屋 坂 東 屋, 堺 なら 備 中 屋 奈 良 屋 日 向 屋 といった 面 々であ る これは, 単 に 主 の 出 身 を 示 すものではなく, 多 くの 場 合,その 地 方 の 商 人 と 密 接 な 関 係 を 保 っていることを 示 していた 商 業 が 大 規 模 化 常 態 化 した 15 世 紀 には, 行 商 人 も 自 由 に 放 浪 することを 止 めて, 店 舗 に 定 着 し,そこを 拠 点 に 活 動 するのが 普 通 になった また, 旅 の 時 も, 集 団 で 移 動 して 安 全 を 図 る 光 景 が 当 たり 前 になった 一 人 気 ままに 諸 国 を 遍 歴 する 物 売 りの 姿 は,もはや 過 去 のものとなったのである 大 山 崎 の 油 商 人 が 地 方 に 原 料 の 荏 胡 麻 を 買 い 付 けに 行 く 時 も, 隊 を 組 んで 行 動 した 中 世 の 商 人 が 同 業 者 組 合 である 座 を 結 成 する 背 景 には, 行 商 時 の 集 団 行 動 の 経 験 があったことが 挙 げられる 個 人 の 常 設 の 小 売 店 舗 は, 平 安 末 期 から 一 部 には 存 在 していた 宇 津 保 物 語 には, 京 は 七 条 大 路 の 真 申 (まさる)に 魚 と 塩 の 店 を 構 える 女 の 話 が 出 てくる 店 舗 売 りが 一 般 5

的になった応仁の乱以降は 奈良では 元亀 3 1572 年の調べで 世帯数の約 3 分の 1 が商人 工人の店や住居で その種目は約 50 種に及んだとある 商品を売る場所は 平安の昔から 棚と呼ばれていた これは 文字通り 商品を置 く棚を据え付けていたためである 鎌倉末期から 見世棚という言葉が使われたようで 庭訓往来 には 市町は通辻小路に見世棚を構えしむ と書かれている 見世とは や はり 人に 見せる の意であろうと言われている 室町時代になると この見世棚か ら 店 という言葉ができる だが たなという言葉も生き延び 江戸時代には 店と 書いて たな と読ませるのが普通であった 4. 市 と 座 座のルーツは 市にある ここで言う市とは 定期市のことだ その背景には 平安末 期の荘園領主の銭稼ぎの動きがあった この時代は 物々交換経済から貨幣経済への変わ り目の時代で 宋銭が本格的に流通し始めたことで 中央への年貢銭獲得のため 余剰生 産物を市に出して 銭に変えた 鎌倉時代に 最も早く市が発達したのは 寺社の門前であった 中でも特に有名だった 6 のが 伊勢神宮の門前の八日市である 室町時代に入ると 交通の要地に市が形成されていく 奈良では 南市 北市 高天市 が毎日交替で開かれた この頃から 虹の立つところに市を開く風習も始まった 交易の 盛んな所では 一 六 二 七 三 八 四 九 五 十 と 月に 6 回 5 日毎 に開かれる 六斎市 ろくさいいち が栄えていた その中から 市座 が出現する 市座とは 一定商品の専売権を有する特定の販売座 席のことだ 祭良の南市には 魚座 塩座など 30 余の市があった 彼らは次第に集団 を形成し 何かにつけて利益を吸い上げようと図る封建時代の諸勢力に対抗していく こ うして次々と発生していったのが座である 5. 油 座 さて その中で油座である 前節で述べたように 中世までは 油の販売は 寺社の神 人 寄人がほとんどを占めており これらの特権商人達が集まることで 油座 が形成 された したがって その起源は非常に古い 主な油座を見ると 九州宮崎八幡宮の油座 は 遅くとも平安末期には成立していたと推定され 醍醐寺の油座は 鳥羽天皇の久安年 間 1145 に 既に記録に登場する 中世の前半には 油は贅沢品であり 寺社や公家が夜間の灯明に用いるだけだったが

5. 油 座 貨 幣 経 済 が 発 達 し, 生 活 レベルが 向 上 すると, 地 方 豪 族 なども, 夜 間 照 明 のために 油 を 求 めるようになった その 結 果, 油 座 の 中 でも, 商 才 に 長 けた 特 定 の 座 が, 突 出 した 勢 力 を 獲 得 するに 至 る 大 和 の 国 に, 符 坂 座 (ふさかざ)という 油 座 があった 当 初 は, 輿 福 寺 春 日 社 に 灯 明 を 奉 仕 するだけの 集 団 だったが, 東 大 寺 の 油 倉 ( 大 仏 殿 の 灯 油 を 貯 蔵 する 機 関 )への 販 売 を 請 け 負 ったのを 皮 切 りに, 次 々に 勢 力 を 拡 大 し,ついには 奈 良 一 帯 に, 油 の 独 占 販 売 網 を 張 り 巡 らすに 至 った こうなると, 各 地 で 利 権 を 巡 る 騒 動 が 巻 き 起 こる 大 和 の 南 方 に 起 こった 矢 木 座 は, 胡 麻 の 購 入 を 巡 って 符 坂 座 と 衝 突 し, 長 年 に 渡 って 闘 争 を 繰 り 返 した しかし, 信 長, 秀 吉 は 商 売 の 独 占 を 図 る 座 を 認 めず, 徳 川 家 康 も 江 戸, 大 阪 は 元 より 幕 府 の 主 な 直 轄 地 すべてで, 座 の 結 成 を 禁 止 したのである 7