2015 vol.75 1 2 0 1 4.10.1 2 0 1 4.12.31
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患者さんからの 葉 言 栗 林 さん 常に先 進 医 療への取 組み 最 ります 療 と看 護の賜 物 と感 謝 してお ど 多くのスタッフの献身的な治 の時 間ができたのでパートの仕 た 子 供も中 学 生になり 自 分 はなく 何 年 も 過ごしていまし が 特に具 合が悪いと感じる事 く 入 院した事 も あったのです た 中 学 生の頃 から 腎 臓 が 悪 私は透 析 8 年 目になり まし おめでとうございます た 楽しい事ばかりではなく つ り いろいろな事を思い出しまし 今 回 この原稿を書くにあた なりました 受け入れることができるように んだ時 やっと目が覚め 現 実を 生 香 新医療機器の導入など 患者さ 事 を 始めたところ 体 が 重 く 一文 を 見つけ ました それを 読 んの良 き 理 解 者 として 身 体へ 息も苦しくて 咳が止まらなく 周年 の負 担の軽 減 社 会 復 帰 自 立 なり 病院に行きました 高 知 高 須 病 院 開 設 支 援など その努 力には頭の下 腎 不 全です 間 違いあ りま さん がる思いです せん と先 生から聞いた時は 進 また2 0 0 2 年に新 設され 頭がまっ白に 目の前がまっ暗に 南 部 ました建物は 近い将来予想さ なりました 透析の準備という 年を 限 体 重 管 理 また透 析 中の血 振り返りますと 日々の食事制 迎 え ま した 透 析 導 入 当 時 を 私 も 当 院にて透 析 歴 を見出してまいりました して 数 多 くの患 者さんの希 望 おいては地域での最初の施設と として また 人 工 透 析 治 療に ます 心よりお喜び申し上げま 周年おめでとうござい す れている南海地震にも耐えうる ことで 本 院に入 院 しました 開設 高 須クリニックとして開 設以 免震構造で 安全で安心して治 腎 臓が悪い事はわかっちょった 診 療 所 から 病 院へと大 き く 成長してきた過程で 就職して 年の私にはたくさんの事が思 い出されます その中で診 療 所 時 代に当 直 で困った時に 早 朝 深 夜にも 関 わらず 寺 尾 理 事 長がす ぐ 駆け つけてくれたこと 祝日 勤 務の 時ラーメンを買ってくれて一緒に 食べたこと 透 析 患 者さんが増 え 病室2部屋で透析したこと などなど そして 最も心に残る事は水 害です 厨 房 浸 水のため 看 護 師 と保 母が3 階の透 析 室で調 理し 入院患者さんに食事が提 供でき 喜んでもらえた時のこ とは忘れられません 病 院の損 害は大きかったですが 病院 患 者さんへの職 員の思いと絆 を 強 く感じることができました 吉川 美弥子 高 知 高 須 病 院 に 就 職 して 年 就 職 したばかりの時は保 育 園 児だった3人の子供達も今は立派 な社会人となり 1人は結婚 し2人の子持ち なので私も2人 の孫 をもつおばあ ちゃんになりま した 私は透 析 室 手 術 室 を 経て 現 在 外来 勤務ですが 患者さんとの 何気ないやり取りに一喜一憂する毎 日 今 後も患 者さんのためにより よい看 護 を 提 供できるよう 頑 張 りたいと思います 最後に 私が就職した時2歳だ った娘が 部署は違いますが 同じ 職場で働いているという事が今一番 嬉しく 幸せであると思っているこ とです 娘共々これからもよろしくお願 い致します す 本 当にあ り が と うございま 院であり続けて下さい からも私達にとって唯一無二の病 できるようになりました これ いたそ うですが 今では室 戸で 以前は安芸まで透析に通って 確認作業です 分の病 気 を 受 け 入 れるための 後悔でも現実逃避でもなく 自 思う事があります でもそれは 何でこんな 事になったろう と 今でもたまに透 析 中に 私 たと思います て 支 えられてき た 8 年 間 だっ 時々でいろんな方々に励 まされ 記念誌の一文に目覚め 支えられた8年間 透析室 看護師 圧 低 下 体 調の急 変など 当 時 日泣いていました らい事も多かったのですが その 来 泌 尿 器 腎 疾 患の専 門 病 院 療の受 けられる医 療 機 関 とし に 何でもっと大 事にせんかった 合 医 療 機 関 として ま た 腎 疾 そんな時 ふと目にした病 院 この 患 人工透析患者の治療施設の 生が終わったような気がして毎 てその役 割が大 き く 期 待 され の透 析は大 変だったことが思い 浮かびます 趣 味だったゴルフはできなく なりましたが 今は年に数 回の 旅 行 と家 庭 菜 園 を 楽しんでお の 記 念 誌 に 患 者 に 向 け ての 竹内 文乃 要として高知高須病院の益々の 薬剤部 薬剤師 くじけてはいけません という 40 開 設 周 年 を 迎 えた 今 年 私は高須病院の薬剤師となって 年が経ちました その間に大 津への移転 電子カルテや調剤シ ステムの導入 機能評価 薬剤部 念 願の院 外 処 方 箋 発 行 病 棟 薬 剤 業 務の開 始 等 多 くの新し い業務を経験してきました 薬 剤 部は常に薬 剤 師 不 足と メンバー交 代 を 繰 り 返していた ため 業 務 面では大 変なことが 多かったですが 院 内 旅 行や忘 年 会などの楽しい時 間もあり 薬 剤 部スタッフはもとより 様々 な部 署の方のおかげで 様々な 病 院の変 化についていくことが できたのだと思っています いつも後ろからついていくばか りでしたが 今後は医薬品適正 使 用に向けて先 頭に立っていけ るよ う な 薬 剤 部 を 目 指 してい きたいと思っています 成長した娘と共に 働ける喜び 透析歴30年 希望を見出した最初の施設 躍進をご期待申し上げます 安井 美恵 り ま す これ も 寺 尾 尚 民 理 事 苦労のバケツ洗い 40 看護管理室 教育師長 30 10 周 年 を 機に地 域の総 ろう と激 しい後 悔 自 分の人 40 ております 40 Message 長はじめ医 師 看 護 師 技 士な 開設40年 スタッフのあゆみ 私 は 平 成 元 年 3 月に入 職 し 年ほどで病棟から透析室 勤務に変わりました 当 時の透 析 室では プライミ ングの排 水 を 各ベッドサイドに 置いたバケツに受けていました 旧病院の透析室のベランダで 夜 間 透 析 終 了 後 たくさんのプラ イミング用バケツを 洗って ピラ ミッド干しをしていました 冬の寒い夜に 吹きさらしのベ ランダで いくつもバケツを 洗い ながら 寒いな あ でも 今 日 も 無 事 終わったなあ と 実 感で きるひとときでもありました 2 3年して臨床工学技士さ んによってオリジナルの排水シス テムが設置され バケツを洗うこ ともなくなりました その後も 透析機器の発展はめざましく 様々なことが効率的に行われる ようになりましたが 患 者さん に関わる職員の心だけは変わら ないものだと感 じながら 今の 仕事をしています 依光 真由美 外来 看護師 22 親子でツーショット 水害に負けなかった患者さんとの絆 35 先頭に立っていける 薬剤部を目指す 16 6 高知高須病院 開設40周年記念特集 ふれあい vol.75 1月号 ふれあい vol.75 1月号 高知高須病院 開設40周年記念特集 7
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