北 広 島 九 条 の 会 例 会 資 料 近 代 日 本 の 戦 争 と 平 和 を 考 える3 2015 年 6 月 7 日 / 後 藤 守 彦 1.2 26 事 件 (1)1936( 昭 和 11) 年 2 月 26 日 皇 道 派 の 陸 軍 青 年 将 校 が 約 1400 名 の 兵 を 率 いて 首 相 官 邸 警 視 庁 朝 日 新 聞 社 などを 襲 撃 し 永 田 町 一 帯 を 占 拠 (2) 斎 藤 実 内 大 臣 ( 元 首 相 ) 高 橋 是 清 蔵 相 ( 元 首 相 ) 渡 部 錠 太 郎 陸 軍 教 育 総 監 殺 害 (3) 天 皇 中 心 の 国 家 改 造 をめざすが 29 日 反 乱 軍 として 鎮 圧 される 軍 部 の 強 勢 2. 広 田 弘 毅 内 閣 の 位 置 (1936 年 3 月 ~1937 年 2 月 ) (1) 国 策 の 基 準 決 定 軍 作 成 の 国 策 要 綱 承 認 大 陸 南 方 侵 略 軍 備 大 増 強 (2) 華 北 分 離 工 作 を 国 策 として 決 定 (3) 軍 部 大 臣 現 役 武 官 制 の 復 活 1900 年 法 制 化 1913 年 現 役 規 定 削 除 ( 実 態 は 現 役 ) (4)1936 年 日 独 防 共 協 定 締 結 1937 年 日 独 伊 三 国 防 共 協 定 (5) 最 後 の 陸 軍 大 演 習 (1936 年 5 月 3 日 ~5 月 5 日 ) 恵 庭 市 の 聖 蹟 記 念 碑 上 部 の 聖 蹟 の 字 は 広 田 の 揮 毫 3. 日 中 戦 争 ( 宣 戦 布 告 のない 戦 争 ) (1)1937( 昭 和 12) 年 7 月 7 日 盧 溝 橋 事 件 発 生 7 月 11 日 現 地 で 停 戦 協 定 結 ばれ るも 近 衛 文 麿 内 閣 10 万 人 の 派 兵 決 定 11 月 大 本 営 設 置 大 本 営 政 府 連 絡 会 議 発 足 (2) 日 本 軍 1937 年 中 に 北 京 天 津 上 海 首 都 南 京 占 領 ( 大 虐 殺 発 生 東 京 裁 判 判 決 では 20 万 人 以 上 ) 首 都 の 重 慶 に 移 して 抗 戦 (1938~1943 年 日 本 軍 の 無 差 別 爆 撃 ) 資 料 1 シカゴ デイリイ ニュース (1937 年 12 月 15 日 号 ) (3) 中 国 の 抵 抗 ( 一 つになる 中 国 ) 11936 年 西 安 事 件 張 学 良 が 蒋 介 石 を 監 禁 し 一 致 抗 日 要 求 21937 年 9 月 国 民 党 と 共 産 党 が 第 2 次 国 共 合 作 抗 日 民 族 統 一 戦 線 結 成 1
(4)1938( 昭 和 13) 年 第 一 次 近 衛 声 明 ( 国 民 政 府 を 対 手 とせず とし 和 平 の 可 能 性 断 つ 11 月 第 2 次 近 衛 声 明 ( 東 亜 新 秩 序 建 設 声 明 ) 以 降 戦 い 膠 着 し 日 本 軍 は 100 万 の 大 軍 を 送 りながら 点 ( 都 市 )と 線 ( 鉄 道 道 路 )しか 支 配 できず (5) 日 本 の 戦 争 犯 罪 1 虐 殺 事 件 三 光 作 戦 ( 焼 き 尽 くし 殺 し 尽 くし 奪 い 尽 くす) 2 細 菌 戦 部 隊 731 部 隊 ( 関 東 軍 防 疫 給 水 部 )などで 中 国 人 朝 鮮 人 ロシア 人 を 生 体 実 験 生 体 解 剖 (3 千 人 ) 3 毒 ガス 戦 2 千 回 使 用 戦 後 遺 棄 化 学 兵 器 による 事 故 発 生 現 在 処 理 作 業 継 続 中 4 日 中 アヘン 戦 争 資 金 獲 得 抗 戦 力 麻 痺 を 目 的 に 禁 制 品 のアヘンを 栽 培 販 売 (6) 中 国 での 日 本 人 の 反 戦 運 動 1 日 本 兵 の 反 戦 運 動 1939( 昭 和 14) 年 在 華 日 本 人 民 反 戦 同 盟 と 日 本 兵 士 覚 醒 連 盟 結 成 資 料 2 鶴 彬 の 反 戦 川 柳 大 砲 をくわえ 肥 った 資 本 主 義 (1928 年 ) 手 と 足 を 大 陸 におき 凱 旋 し(1930 年 ) 高 粱 の 実 りへ 戦 車 と 靴 の 鋲 (1937 年 ) 銃 剣 で 奪 った 美 田 の 移 民 村 (1937 年 ) 手 と 足 をもいだ 丸 太 にしてかえし(1937 年 ) 2 長 谷 川 テル 1938 年 7 月 から 漢 口 重 慶 で 反 戦 ラジオ 放 送 資 料 3 長 谷 川 テル 日 本 のエスペランティストへの 手 紙 (1937 年 9 月 ) お 望 みならば 私 を 売 国 奴 と 呼 んでくださってもけっこうです 決 しておそれません 他 国 を 侵 略 するばかりか 罪 のない 難 民 の 上 にこの 世 の 地 獄 を 平 然 と 作 り 出 している 人 たちと 同 じ 国 民 でいることのほうを 私 は 大 きい 恥 としています ほんとうの 愛 国 心 とは 人 類 の 進 歩 と 対 立 する ものでは 決 してありません そうでなければ 排 外 主 義 です そして なんと 多 くの 排 外 主 義 者 が この 戦 争 によって 日 本 に 生 まれたことでしょうか ( 中 略 ) 日 中 両 国 民 の 間 には いかなる 基 本 的 な 敵 対 感 情 も 存 在 しません 歴 史 をひもといてごらんなさい 反 対 に あらゆる 面 での 親 密 な 関 係 が 見 出 されるではありませんか 4. 戦 時 体 制 の 確 立 (1) 国 民 の 組 織 的 動 員 11938 年 国 家 総 動 員 法 資 金 資 財 労 働 力 の 一 元 的 運 用 政 府 に 独 裁 権 を 与 える 帝 国 議 会 の 承 認 不 要 1939 年 国 民 徴 用 令 ( 一 般 国 民 を 軍 需 産 業 に 動 員 ) 21938 年 産 業 報 国 会 結 成 1940 年 大 日 本 産 業 報 国 会 ( 労 働 組 合 解 散 ) 31940( 昭 和 15) 年 大 政 翼 賛 会 結 成 ( 既 成 政 党 解 散 首 相 が 総 裁 ) 最 末 端 が 隣 組 ( 町 内 会 の 基 礎 組 織 10 戸 前 後 ) (2) 国 民 の 思 想 的 動 員 11937 年 国 民 精 神 総 動 員 運 動 挙 国 一 致 尽 忠 報 国 堅 忍 持 久 がスローガン 21940 年 内 閣 情 報 局 設 置 情 報 を 一 元 化 し 検 閲 報 道 統 制 を 強 化 31941( 昭 和 16) 年 小 学 校 を 国 民 学 校 と 改 称 少 国 民 の 育 成 をめざす 2
3 批判思想の抹殺 ①1937 年 東京帝国大学教授矢内原忠雄の著書発禁 辞職 ②1937 年 第1次人民戦線事件で鈴木茂三郎ら 446 名検挙 ③1938 年 東京帝国大学教授大内兵衛ら教授グループ 38 名検挙 ④1938 年 東京帝国大学教授河合栄次郎の著書発禁 休職処分 ⑤1941 年 予防拘禁制度 治安維持法を改悪し 刑期を終えた釈放された社会主義者 を再犯のおそれがあるとして予防拘禁所に収容 4 スパイ防止 の名目による言論弾圧と人権蹂躙 ①軍機保護法改正 1937 年8月 1899 年 軍事上の秘密 作戦 用兵など を探知 収集し外国にもらした者 死刑 無期 3年以上の懲役 1941 年 12 月8日 宮沢 レーン事件 宮沢弘幸 軍機保護法違反 で検挙 懲役 15 年 ②国防保安法制定 1941 年3月 国家機密 御前会議 閣議決定など を探知 収集し外国にもらした者 死刑 無 期 3年以上の懲役 5 北進論の挫折 1 ソ連軍に大敗 ①1938 年 張鼓峰事件 ソ連 満州国境 ②1939 年5月 ノモンハン事件 モンゴル 満州国境 日本軍総兵力5万6千名の 32 1 万8千名 が戦死 2 1939 年8月 独ソ不可侵条約による打撃 複雑怪奇なる新情勢 3 1939 年9月 第2次世界大戦開始 ドイツ軍がポーランドに侵攻 資料4 第2次世界大戦中のヨーロッパ 3
6. 南 進 政 策 への 転 換 (1)1940 年 9 月 日 本 軍 北 部 仏 印 (フランス 領 インドシナ)に 進 駐 援 蒋 ルートの 遮 断 企 図 (2)1940 年 9 月 日 独 伊 三 国 同 盟 締 結 1ヨーロッパ アジアにおけるそれぞれの 指 導 的 地 位 の 承 認 (9 月 16 日 大 本 営 政 府 連 絡 会 議 の 日 独 伊 枢 軸 強 化 に 関 する 件 で 日 本 の 生 存 圏 を 東 南 アジア 太 平 洋 諸 島 オーストラリア ニュージーランドの 範 囲 とする) 2アメリカ 参 戦 の 場 合 の 相 互 援 助 資 料 5 基 本 国 策 要 綱 (1940 年 7 月 26 日 第 2 次 近 衛 文 麿 内 閣 の 閣 議 決 定 ) 一 根 本 方 針 皇 国 の 国 是 は 八 紘 を 一 宇 とする 肇 国 の 大 精 神 に 基 き 世 界 平 和 の 確 立 を 招 来 することを 以 て 根 本 と し 先 ず 皇 国 を 核 心 とし 日 満 支 の 強 固 なる 結 合 を 根 幹 とする 大 東 亜 の 新 秩 序 を 建 設 するに 在 り( 後 略 ) 二 国 防 及 外 交 皇 国 内 外 の 新 情 勢 に 鑑 み 国 家 総 力 発 揮 の 国 防 国 家 体 制 を 基 底 とし 国 是 遂 行 に 遺 憾 なき 軍 備 を 充 実 す (3)1941 年 4 月 日 ソ 中 立 条 約 締 結 7. 対 ソ 戦 争 と 対 米 英 戦 争 の 二 つの 道 (1)1941 年 6 月 独 ソ 戦 争 の 開 始 ドイツ 軍 ソ 連 に 侵 攻 (2)1941 年 7 月 御 前 会 議 ( 天 皇 が 大 本 営 政 府 連 絡 会 議 に 出 席 )で 帝 国 国 策 要 綱 決 定 対 米 英 戦 覚 悟 の 南 方 進 出 と 情 勢 有 利 の 際 のソ 連 攻 撃 資 料 6 情 勢 の 推 移 に 伴 う 帝 国 国 策 要 綱 第 一 方 針 一 帝 国 は 情 勢 変 転 の 如 何 に 拘 らず 大 東 亜 共 栄 圏 を 建 設 し 以 て 世 界 平 和 の 確 立 に 寄 与 せんとする 方 針 を 堅 持 す 二 帝 国 は 依 然 支 那 事 変 処 理 に 邁 進 し 且 自 存 自 衛 の 基 礎 を 確 立 する 為 南 方 進 出 の 歩 を 進 め 又 情 勢 の 推 移 に 応 じ 北 方 問 題 を 解 決 す 第 二 要 領 二 ( 前 略 ) 仏 印 泰 に 対 する 諸 方 策 を 完 遂 し 以 て 南 方 進 出 の 態 勢 を 強 化 す 帝 国 は 本 号 目 的 達 成 の 為 め 対 英 米 戦 を 辞 せず 三 ( 前 略 ) 独 ソ 戦 争 の 推 移 帝 国 の 為 め 有 利 に 進 展 せば 武 力 を 行 使 して 北 方 問 題 を 解 決 し 北 辺 の 安 定 を 確 保 す (3) 二 つの 道 の 実 行 11941 年 7 月 関 東 軍 特 種 演 習 関 東 軍 を 35 万 から 70 万 に 倍 増 国 境 に 集 結 21941 年 7 月 南 部 仏 印 進 駐 アメリカが 日 本 への 石 油 輸 出 を 禁 止 アメリカ イギ リス オランダが 日 本 人 の 資 産 凍 結 (4) 日 米 交 渉 11941 年 4 月 駐 米 大 使 野 村 吉 三 郎 と 米 国 務 長 官 ハルとの 交 渉 開 始 11 月 26 日 アメ リカがハル ノートを 提 示 ( 同 日 海 軍 の 機 動 部 隊 がエトロフ 島 単 冠 湾 出 港 ) 4
②争点 中国からの撤兵問題 5 対米英戦争の決定 ①1941 年9月6日 御前会議で 帝国国策遂行要領 決定 実質的に開戦を予定 対米戦争の準備を 10 月下旬まで終える 日米交渉を継続する 日米交渉の打ち切り 開戦の判断は 10 月上旬に行う ②1941 年 10 月 16 日 日米交渉継続派と開戦派 東条英機陸相 の対立から 第3次 近衛文麿内閣総辞職 東条内閣の成立 避けられた皇族内閣 候補東久邇宮稔彦 ③1941 年 11 月5日 御前会議で 帝国国策遂行要領 決定 事実上の開戦決定 武 力発動の時期を十二月初頭と定め ④1941 年 12 月1日 御前会議で対米英開戦 12 月8日 決定 8 アジア 太平洋戦争 1 開戦 ①1941 年 12 月8日 陸軍が英領マレー半島コタバルに上陸 2時 15 分 海軍がハワ イの真珠湾を空爆 3時 19 分 アメリカ イギリスに宣戦布告 11 時 45 分 資料7 宣戦布告文 朝日新聞 1941 年 12 月 9 日号 5
②1941 年 12 月 10 日 大本営政府連絡会議で 支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す と決定 戦後 太平洋戦争からアジア 太平洋戦争へ 資料8 アジア 太平洋戦争関係図 2 緒戦の勝利 ①1942 昭和 17 年5月まで南方作戦成功 香港 シンガポール 5万人の華僑虐殺 フィリピン インドネシア ビルマなどの東南アジア 南太平洋一帯を制圧 ②日本が太平洋の戦線で使用した地上兵力は 21 (1942 年 対米戦争開始以来 海と 空の主力はアメリカとなったが 依然として日中戦争が中心 ③1942 年2月 オーストラリア攻撃開始 オーストラリアを攻撃した唯一の国が日本 1943 年 11 月まで 97 回空爆 1942 年 2 月 19 日のダーウィン空襲では市民 251 人死亡 3 転機 ①1942 年6月 ミッドウェー海戦で日本海軍大敗北 空母4隻 航空機 285 機喪失 ②1942 年8月 スターリングラードの戦い開始 1943 年1月 6
(4) 戦 線 の 後 退 11943( 昭 和 18) 年 2 月 ガダルカナル 島 から 日 本 軍 撤 退 3 万 人 中 2 万 人 死 亡 ( 餓 死 1 万 5 千 人 餓 島 ) 21943 年 11 月 カイロ 宣 言 ( 米 英 中 の 首 脳 会 談 対 日 戦 遂 行 朝 鮮 の 独 立 を 確 認 ) 31944 年 3 月 インパール 作 戦 (~7 月 ) 8 万 6 千 人 中 帰 還 1 万 2 千 人 白 骨 街 道 41944 年 4 月 大 陸 打 通 作 戦 (~1945 年 2 月 ) 中 国 大 陸 縦 断 作 戦 50 万 人 の 兵 力 を 投 入 51944( 昭 和 19) 年 7 月 サイパン 島 の 日 本 軍 全 滅 (B29 による 本 土 空 襲 可 能 となる) 東 条 内 閣 総 辞 職 61944 年 10 月 アメリカ 軍 フィリピンに 上 陸 レイテ 沖 海 戦 で 神 風 特 別 攻 撃 隊 が 初 めて 出 撃 ( 特 攻 死 は 航 空 特 攻 だけで 4 千 人 無 謀 な 戦 争 の 帰 結 としての 無 謀 な 戦 術 ) (5) 敗 戦 の 年 1945( 昭 和 20) 年 12 月 4 日 ヤルタ 会 談 開 始 ( 米 英 ソの 首 脳 会 談 ) ヤルタ 協 定 (ドイツ 降 伏 後 2 3カ 月 以 内 にソ 連 が 対 日 参 戦 千 島 列 島 をソ 連 に 譲 渡 ) 14 日 近 衛 上 奏 資 料 9 近 衛 文 麿 の 上 奏 文 敗 戦 は 遺 憾 ながら 最 早 必 至 なりと 存 候 ( 中 略 ) 国 体 護 持 の 建 前 より 最 も 憂 うべきは 敗 戦 よりも 敗 戦 に 伴 うて 起 ることあるべき 共 産 革 命 に 御 座 候 23 月 10 日 東 京 大 空 襲 (2 時 間 半 で 10 万 人 死 亡 ) 44 月 1 日 アメリカ 軍 沖 縄 本 島 に 上 陸 (6 月 まで 激 戦 続 く 沖 縄 県 民 の1/4にあ たる 15 万 人 死 亡 日 本 軍 による 住 民 殺 害 集 団 自 決 強 要 ) 55 月 8 日 ドイツ 無 条 件 降 伏 67 月 26 日 ポツダム 宣 言 ( 米 英 中 3 国 の 名 で 日 本 に 無 条 件 降 伏 を 勧 告 ) 黙 殺 78 月 6 日 広 島 に 原 爆 投 下 8 日 ソ 連 対 日 宣 戦 布 告 9 日 長 崎 に 原 爆 投 下 15 日 ポツダム 宣 言 を 受 諾 し 降 伏 政 府 軍 が 公 文 書 焼 却 ( 証 拠 隠 滅 ) (6) 戦 争 の 犠 牲 者 ( 戦 死 者 ) 1 日 本 310 万 人 = 戦 闘 員 230 万 人 (60%が 餓 死 36 万 人 が 海 没 死 朝 鮮 人 台 湾 人 5 万 人 ) 非 戦 闘 員 80 万 人 資 料 10 旧 広 島 村 出 身 兵 士 の 地 域 別 戦 死 者 数 (2014 年 北 海 道 保 健 福 祉 部 保 護 課 調 べ) ソ 連 3 樺 太 (サハリン)5 アリューシャン 列 島 3 満 州 2 朝 鮮 2 中 国 11 蒙 古 (モン ゴル)1 沖 縄 17 比 島 (フィリピン)4 メレヨン 島 4 ガダルカナル5 ニューギニア3 マリアナ 諸 島 1 海 上 4 内 地 12 < 合 計 78> 資 料 11 藤 原 彰 餓 死 した 英 霊 たち ( 青 木 書 店 2001 年 ) そもそも 無 茶 苦 茶 な 戦 争 を 始 めたこと 自 体 が 非 合 理 な 精 神 主 義 独 善 的 な 攻 勢 主 義 にかたまっ た 陸 海 エリート 軍 人 たちの 仕 業 であった そして 補 給 輸 送 を 無 視 した 作 戦 第 一 主 義 で 戦 闘 を 指 導 し 大 量 の 餓 死 者 を 発 生 させたことも 彼 らの 責 任 である 無 限 の 可 能 性 を 秘 めた 有 為 の 青 年 たち を 野 垂 れ 死 にとしかいいようのない 無 惨 な 飢 え 死 に 追 いやった 責 任 は 明 らかである 2アジア 2 千 万 人 以 上 (7) 戦 時 下 の 抵 抗 1 尾 崎 秀 美 1941 年 10 月 ゾルゲ 事 件 で 検 挙 1944 年 11 月 刑 死 7
資 料 12 尾 崎 秀 実 の 1944 年 3 月 23 日 付 書 簡 ( 愛 情 はふる 星 のごとく ) 人 生 はどんなに 苦 しいことがあっても しかも 生 きるに 値 する この 一 事 こそ 私 が 今 日 まで 掴 み 得 た 確 信 であって いわば 今 日 まで 英 子 たちに 書 き 送 り 云 い 伝 えたことはこの 一 事 に 集 中 されているのであります このことは 是 非 楊 子 に 分 からしたい ( 中 略 )しかも 今 は 大 きな 時 代 で あり 人 類 が 高 い 段 階 に 飛 躍 向 上 するための 意 義 ある 時 代 を 経 過 しつつあることは 確 かでありま す 私 などはこうした 形 で 死 ぬことすら 十 分 意 義 のあり 生 甲 斐 あることだと 考 えています 2 獄 中 での 抵 抗 非 転 向 を 貫 いた 志 賀 義 雄 宮 本 顕 治 金 天 海 らの 社 会 主 義 者 など 1945 年 10 月 2400 人 の 政 治 犯 釈 放 3 兵 役 拒 否 をつらぬいた 灯 台 社 1939 年 主 宰 者 明 石 順 三 ら 130 人 検 挙 4 個 人 誌 の 発 行 弁 護 士 の 正 木 ひろし 近 きより 矢 内 原 忠 雄 嘉 信 (8) 戦 争 犯 罪 の 裁 き 1 極 東 国 際 軍 事 裁 判 ( 東 京 裁 判 ) ア)A 級 戦 犯 ( 重 大 戦 争 犯 罪 人 )が 対 象 国 家 指 導 層 訴 因 平 和 に 対 する 罪 通 例 の 戦 争 犯 罪 人 道 に 対 する 罪 イ)1946( 昭 和 21) 年 5 月 から 1948( 昭 和 23) 年 4 月 まで 審 理 同 年 11 月 判 決 ウ) 被 告 25 名 全 員 有 罪 東 条 英 機 広 田 弘 毅 松 井 石 根 など7 名 死 刑 木 戸 幸 一 な ど 16 名 終 身 禁 固 刑 エ) 問 題 点 天 皇 の 免 責 ( 東 条 英 機 など 陸 軍 指 導 部 への 責 任 集 中 ) アジアへの 加 害 責 任 ( 残 虐 行 為 )の 追 及 が 不 十 分 ( 強 制 連 行 日 本 軍 慰 安 婦 細 菌 戦 部 隊 など) 2BC 級 戦 犯 ア) 特 定 地 域 での 通 例 の 戦 争 犯 罪 ( 俘 虜 虐 待 など) 裁 判 8 カ 国 が 実 施 イ)5700 名 ( 朝 鮮 人 台 湾 人 321 名 ) 937 名 死 刑 ( 朝 鮮 人 23 名 台 湾 人 21 名 ) おわりに 三 課 題 戦 争 状 態 の 終 結 ( 朝 鮮 民 主 主 義 人 民 共 和 国 との 国 交 ロシアとの 平 和 条 約 ) 戦 争 責 任 戦 後 責 任 植 民 地 支 配 責 任 の 未 済 ( 戦 後 補 償 ) 戦 争 の 記 憶 の 歴 史 化 継 承 資 料 13 あの 日 の 授 業 新 しい 憲 法 のはなし ( 作 詞 笠 木 透 作 曲 安 川 誠 ) 8