れ 隅田川公園 川辺の散歩を楽しんだり スポーツに親しみ 花見を楽しめる空間 として作られている また地震時等の避難場所としても重要な役割を果たしている 白髭橋 テラス護岸の 既成地区 旧防潮堤 写真37 昔の防潮堤の名残り 写真38 白鬚橋上流のサンクチュアリー空間 桜橋 桜橋 言問橋 写真39 桜橋のテラス護岸 緩傾斜型堤防 写真40 言問橋 桜橋と隅田川公園 2 ハザードマップ 隅田川沿岸は堤防の整備などのハード対策が進められているが さらに洪水被害の教 育 周知やハザードマップ作成等のソフト対策を積極的に取り入れている 23区 北区 足立区 港区 板橋区など が作成しているハザードマップ 東京都が作成している浸 水予想区域図 3 図35 を参考に自宅や職場近くの浸水予想を確認しておき 避難場所 経路を確認しておくことが必要である 図34のように 北区の浸水予想域では電信柱に 予想される浸水深さを表示し 携帯電話にて避難 場所の表示を行うサービスも始まり 常日頃から 防災への意識を高める試みがされている 図34 電柱への浸水深さの表示 23 3 隅田川及び新河岸川 神田川 石神井川及び白子川 江東内部河川などが公開されている http://www. kensetsu.metro.tokyo.jp/suigai_taisaku/index/menu02.htm 38
図35 隅田川及び新河岸川の浸水予想区域図 東京都河川局のホームページより かつての防潮堤は隅田川への関心を大きく失わせてしまい 高度経済成長期の工場排 水による隅田川の汚濁は人々を川から遠ざけた原因となった 国 都などの官庁主体の 河川整備 学校や地区のボランティア活動などの民間の活動により 隅田川はきれいな 水辺空間を取り戻し 2章で述べたようにすでに多様な生物の生息が確認されている また テラス護岸やスーパー堤防の整備により緑と水が融合して 散歩 花見 花火 スポーツなどの楽しみが あたかも江戸時代の庶民が楽しんだように復活してきてい る しかし 隅田川は時たま荒々しい姿を見せ 洪水となって河川流域に住む人々へ牙を むく 昔の人々は家の土台を高くして 軒下に小舟を吊るして自衛していた 現代に 住む私たちは江戸庶民と違って あらゆる情報を駆使して水害の範囲をあらかじめ予測 し 落ち着いて安全な場所へ避難することができるのである 常日頃からの準備を怠ら ないことで 心のふるさと隅田川ともっともっと密着して生活できるだろう 39
6 まとめ 6 1 隅田川に関わるイベント 1 隅田川花火 隅田川の花火大会は 享保17年 1732 に発生した大飢饉とコレラの死者を弔うた め 翌年旧暦5月28日 両国の川開きに花火を催したのが始まりとされる この当時 は20発前後の花火で かなりのんびりとしたものであった 図36 当初の打ち上げは 鍵屋 が担当したが 文化7年 1810 に 鍵屋 の分家の 玉屋 創業者は玉屋清吉 の創業によ り 2業者体制となり 双方が腕を競いあった 鍵 屋 と 玉屋 の打ち揚げ場所は両国橋をはさんで 上流と下流に分かれて交互に花火を揚げたため 観 客は双方の花火が揚がったところで できのよい業 者の名を呼んだ これが 花火見物でおなじみの た ま や ー か ぎ や ー の 掛 け 声 の 由 来 と い わ れ る 当時評判がよかったのは 玉屋 のほうで 玉や だと又またぬかすわと鍵や云ひ と川柳にあるよう に 玉屋 の掛け声ばかりで 鍵屋 の名を呼ぶ ものがいない といわれた時代もある ただし 玉 屋 は 天 保14年 1843 に 火 災 を 起 こ し 江 戸 処 図36 江戸時代の両国花火 歌川広重 名所江戸百景 両国花火 払いを命じられ 一代限りで断絶した その後 昭 和36年 1961 か ら 交 通 事 情 の 悪 化 等 に よ り 中 断 す る が 昭 和53年 1978 に 現 在 の 名 称 と し て 復 活し 以後毎年続けられている 平成19年 2007 は復活後30回を記念し 約22,000発が打ち揚げられ 隅 田 川 周 辺 に 集 ま る 約95万 人 も の 歓 声 が 夏 の 風 物 詩として盛り上がった 写真41 図37 明治時代の両国花火大会の様子 25 40 写真41 現在の隅田川花火大会