No. 20 February 2012 A Nomonhan Travelogue: Traveling the Hurunbuir Plains Hideo Kobayashi 70 1939 1 5 1 1 2 1 70 2009 1. 243
23 2 1936 37 38 7 23 23 64, 71, 72 3 13 23 23 4 1 244
1939 5 11 23 5 5 14 3 1000 100 80 5 30 6 7 6 19 6 27 7 27 7 1 2 13 113 80 180 245
1 1 3 1 300 700 5 7 2 7 7 16 17 7 23 3 8 10 6 1 1 7 246
8 20 23 29 7 2 8 23 8 28 30 9 1 3 9 9 9 16 1939 11 12 247
17,364 29.5 70.3 39 5 19 8 30 13,243 17,364 23,926 2. 2.1 248
1301 2009 3 14 02 : 13 03 015 224.00 2 13 1 3 1 CZ692 4 2 1 1 2 13 25 2 40 6 3 10 15 3 249
小林英夫 あきれて眺めながら いつの間にか再び眠りに就く 狭いベッドで パスポートと現金とカードが内ポ ケットにしまわれた上着を抱きしめながらの就寝だ 色気はおろか飾り気もない 狭い吊り棚式の簡 易ベットに身を横たえながら かつて助手時代に所属していた山岳部での山行のビバークを思い出す 大興安嶺からホロンバイル平原へ 朝 6 時頃 静かに流れる音楽のメロディで目を覚ます 日本のカラオケで一昔前に流行したような 耳慣れた音調の歌が流され 朝の到来を乗客に伝える カーテンを開けると朝のまぶしい陽光を浴び て白銀の世界が目に飛び込んでくる 沿線に石油採取のドンキーが動く 大慶 朝の 7 時頃大慶を通過する ハルビンは夜中にすでに通過したようだ 沿線には石油採取用のドン キーと称する井戸汲みのやぐらがいたるところに立てられ 静かに動いている この大慶油田が 満 洲国 時代に発見されていたら 南方地域の石油を強奪する必要もなく 日本は対英米戦争に踏み切 ることはなかっただろうという論者もいるほどである 地下 1 千メートルから採油されていることを 大興安嶺を走る列車の車窓から 250
65 3 2 4 兰 251
图 1 1890 100 3 3 45 10 10 2 3 45 13 252
1930 30 J J 4 5 6 7 3 2 253
50 5 30 1943 2.2 2.2.1 15 5 15 20 254
14 8 3 1 1936 1931 1945 5 20 255
小林英夫 が作られており 爆破されたその橋は 当然のことながら現在は使われていない この橋は 日本軍 の爆破現場として記念品として残されている ハイラル神社跡 ハイラルにはハイラル神社の跡が残されている 現在は コンクリート製の手洗い場所が残されて いるだけだ 文化大革命のときは 破壊の対象となった 今でも毛沢東万歳 偉大なる中国 といった落書きが 支柱に残されている きれいに刈り込まれた庭園風の公園のなかにコンクリートの屋根だけが残され た神社跡は 空洞化した日本の植民地支配を象徴する姿を残してひっそりとたたずんでいる ハイラル神社 2.2.2 消えた戦跡 寺田公園 寺田公園は戦前の地図に載っている公園名で 今の地図にはない 現在は ソ連紅軍烈士記念碑 と名称を変更して ハイラルの目抜き通りの一角を占めている 中国東北地域を日本の支配から開放 した将兵たちを記念して高い塔が建てられているが ここは かつては寺田公園と称されていた こ の公園には 戦前はノモンハン事件の戦利品である装甲車輌や各種武器類が陳列されていた この寺田公園というのはハイラルの特務機関長をしていた寺田利光大佐の業績をたたえて命名され たもので ここには寺田大佐の像が建てられていた 寺田は 1927 年から身分を隠し 商人として ハイラルで生活し スパイ活動をしていたといわれる そして 32 年にハイラルが関東軍の支配に入 ると 彼は陸軍中佐としてハイラル特務機関の機関長として活動を開始する しかし 37 年にハイ ラルで病死している 彼は 満洲国軍のウルジン将軍と親交が厚く彼の顧問を務め ホロンバイルの 父 と別称されていた 進攻したソ連軍は 寺田像を破壊すると日本軍捕虜を使って ソ連紅軍烈士 記念碑 を設立したのである 256
23 J 3 1938 7 3 2.2.3 1936 4 1936 4 23 4 257
4 20 51 42 1 47 39 4 1929 35 6 3 1935 1936 4 3. 3.1 110 7 258
8 3 5 70 3.1 1930 1939 9 44 5 249 1939 9 15 1939 259
小林英夫 れている あれが 旧日本軍のトーチカだよ と街の人に言われたが そう指摘されないと気がつかな いほど 今でも見事にカモフラージュされた山腹の陣地 駅から眺めると点にしか見えないが よく見 ると僅かながらぺトンで固めた砲台と思しきものが確認できる 山のふもとに位置する今日のアルシャン駅は新装なって山小屋別荘風のモダンな建物だが 原型の 建物はノモンハン事件 2 年前の 1937 年に建設されたという 花崗岩で基礎と 1 階部分の壁を固め 2 階以上を木枠とコンクリートで作り上げた堅牢な建物である その対面に満洲国時代の建物が使用されないままに残されている 茶色の倉庫風の建物がそれだ 一昔前の日本の貨物駅にはこの手のタイプの駅舎が普通に見られた この駅舎の前に 3 本ほどの貨物 用の引込み線が引かれて それが今でも使用されている ここがソ連軍機の爆撃の対象となったわけ である このアルシャン駅は ノモンハン時にはソ連軍の空爆の被害を受けた 当時の新聞や雑誌に依れば その状況は以下の通りである 爆撃のとき 私は丁度機関区から駅舎の方へやって来ていました その日の構内の引込線には爆弾 を積んだ貨車がそのまま置いてあったのですが 敵の焼夷弾の一つが偶然その貨車の上におっこちて シュウシュウやりだしたのです さ あ大変だ あれが爆発したらえらい ことになる と思ったトタンもう無 我夢中に貨車にとびついていました 憲兵の人と 2 人で 安全な貨車を切 り離す 機関車に飛び込む 走り出 す 背中の貨車では 火がシュウシュ ウ燃えて 段々ひろがって行くのが 全身でみえるように感じられるんで す 未だ安全だ 未だ大丈夫だ つ てんで 1 キロ半ばかりとばして そ れから機関車を切り離して逃げ出し アルシャン駅 上 とアルシャン駅前の倉庫 下 260 た の で す 協 和 248 号 1939 年
9 1 3.2 248 1939 9 1 261
2 7 10 15 262
ノモンハン紀行 4. 阿爾山からカンジャル廟へ 4.1 カンジャル廟行 須見部隊の苦悩 阿爾山駅からカンジャル廟に向かう道は 同時に 70 年前にノモンハン事件のとき第 7 師団の将兵 が行進した道筋でもある むろん当時は道路も今ほど舗装されていなかっただろうし 交通手段も今 ほど発達はしていなかっただろうから 当時とそのまま比較することには無理があるだろうが 大ま かな道筋をたどることは可能だろう ただ当時の写真を見るとトラックが泥濘にはまり キャタピラ 付きの装甲車輌にロープで曳いてもらっている状況から判断すると未舗装道路が雨でぬかり 或は湿 地にはまり込んで 輸送は難渋を極めたと想定される したがって 当初は 阿爾山を出発した部隊 は ハルハ河上流を東岸に渡り 北上してハルハ河東岸のソ蒙軍陣地を攻略する予定だったのを変更 ノモンハンの草木 地平線にみえる 塚はオーボー 263
7 1 23 7 8 20 360 264
3 10 2 4 265
240 1771 1939 10 1930 1 8 1 4 1939 266
ノモンハン紀行 カンジャル廟に設置されたという 今でもカンジャル廟を取り囲むように日本軍のトーチカの跡が残されている ここには第 6 軍及び 第 23 師団の情報部が活動していたという ここが 兵站 情報基地であったがゆえに このカンジャ ル廟は ソ連軍の空爆の目標となった ノモンハン事件では 6 月 18, 19 日と 7 月 16 日にソ連軍機の 空爆を受けている 当時の 満洲日日新聞 1939 年 6 月 24 日 によれば 甘珠爾 カンジュアル 廟上空壮烈の空中戦 と題して 18 日にソ連軍機の襲撃で 甘珠爾 カンジュアル 廟では 満人家 屋焼失 1 を出し 19 日にもソ連軍機 9 機の空襲があたったが 損害はなかったと報じている 現在は ラマ教の廟の再建が進んでいるが かつての面影はない この廟は 1939 年のノモンハ ン事件で破壊され さらに戦後は文化大革命の被害を受けて徹底的に破壊された したがって 一時 は姿かたちを喪失して歴史上から姿を消したほどである そういわれてみれば ハイラルを訪問する際 車中で当地出身の若夫婦にカンジャル廟の名前を聞 いたが 頼りない返事しか得られなかった理由もなんとなくわかるような気がする 人口僅かの村に 過ぎず 廟といってもラマ僧の住居と小さな祠が残っていただけだからである ところが 2002 年 に再建され 03 年には開光され 09 年 8 月には廟の再建もなって 新しい出発をする手はずを整え ている状況である 私がカンジャル廟を訪問したのは開光 1ヶ月前のことであったが 廟の再建は 着々と進行しており 12 歳から 19 歳までのラマ僧 10 人ほどが修行している現場に居合わせた 少 しづつだが ラマ教の復活も進んでいるような印象を持った 阿木古郎 アームコロ ノモンハン事件の戦場となった場所は 現在の新巴爾虎左旗 旗は日本の県に該当する の南西の 位置に当たる その旗の政府が置かれている場所が阿木古郎である モンゴル語の 太平 に語源を 阿木古都 アームコロ の中心街通り 韓国 中国 ドイツ製の車が大半で 日本車にはお目にか かれなかった 267
2009 2012 268