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Transcription:

中国戦地の風景を見つめる 喪家の狗 武田泰淳の日中戦争体験と 風景 の創出 王 俊 文 要旨 本稿は 戦地体験を描いた泰淳の文章を分析し 中国の 風景 に触発されて形成 される泰淳の世界観について考察するものである 泰淳は 文学 政治 の問題を 風景 自然 という独創的な形で捉えている 彼の世界観は 風景 から 家 へ 更に 世界 へと広がっていくものであったが その広大な世界に現れた 風景を見つめる喪家の狗 と いう孤独な存在は 泰淳そのものであった 泰淳は生涯を通して世界の 全体性 や 本質 性 を追求し続けたが それは彼が中国という巨大な存在に向かい 一度は失った中国の 風景 を創出し続けた過程でもあり 作家としての粘り強い闘争の軌跡でもあった はじめに 武田泰淳 1912 76 は 敗戦後に小説家になった戦後派作家であるが 戦前 中国文学者 を志していた時期がある 彼は同時代の中国文学作品に強い関心を示していたが その一方で 古典の世界にも憧れ 漢詩の世界に没頭した 特に夢中になったのは 憧れの内面的なきっ 1 かけのようなもの を感じた 唐詩 の世界である それは泰淳にとって 日本にない 無限に広い大地を遡ると桃花源のようなものがある 風景をもつ世界であった2 政治とは 無縁な桃源郷 これが泰淳の中国の原風景である だが 徴兵されて従軍した泰淳が日中戦争において中国で目にした風景は これとは似ても につかない凄惨な光景であった 泰淳の戦地体験は 1937 年 1 月 1939 年 1 月の 2 年間 私のはじめて見た支那の家屋は砲弾の痕すさまじき壁であり 私のはじめて見た支那人は 腐敗し物言わぬ屍でありました 学校には倒れた机の上に泥にまみれた教科書があり 図書 館には号の揃った 新青年 や 歴史語言研究所集刊 などが雨水に打たれていました 3 この光景は 泰淳の内なる 桃源郷 を打ち砕いたばかりか 彼自身の世界観を根底からく 非常勤講師 日中比較文学 155

文京学院大学外国語学部文京学院短期大学紀要 第 1 号 21 つがえし 中国そのものをとらえなおさせるに至った 戦乱に晒された中国の現実を前に 文 学の無力を痛感し 日本人が中国にいる意味を 泰淳は己の存在をかけて問わねばならなく なったのである ここに 筆者 注 王 は泰淳の作家としての原点があるものとして 戦地 体験と泰淳の関係を 風景 の創出という観点から考察したい 佐々木充や根岸隆尾らの先行研究は 中国での戦地体験が泰淳に 人間 や 民衆 の発 4 見をもたらした と指摘している だが筆者は 泰淳は 人間 や 民衆 を発見する前に 中国の 風景 を発見したと考える なぜなら 泰淳は戦地体験を語る時 何よりも先にその 場の 風景 を語り その後 そこにいる 人間 や 民衆 を語ったからである つまり 中国の 風景 を見るまなざしを確立したからこそ そこに生きる人々を発見したと言えるの ではないか 泰淳は戦後になってもそのまなざしを失うことなく 中国の風景を眺め そして風景と自分 の距離を問い続けた 例えば 1967 年の最後の訪中 1967.4.13 5.7 の後 次のような中国 の 風景 を語っている 注 泰淳自身が 絶えず中国のほとりにたたずんでいただけで 決してそのなかに溶け 込みも沈みこみもしなかった 息苦しい しかし なつかしい 中国 そして そのような 中国の 風景 から のがれることが出来なかった 自分という存在 だが それ故に泰淳は中国に 宿命的な磁力 を感じ続け 作品の中で中国の 風景 を描 き続けた 5 なぜなら どうせ 自然全体を愛することなどできるはずがない 文学者は せ めて一つだけでも 鮮明な小さな風景をいだきつづけて死んで行 く事が幸せだからだと述べ ている 6 彼が抱きつづけた 鮮明な小さな風景 とはどのようなものか 風景 の創出と戦地体 験 中国 そして文学は 泰淳の作家としての営みのなかで どのように結びつき 文学 政治 を捉える泰淳独自の世界観の成立に至るのであろうか 一 泰淳の 風景 観 泰淳は 風景 についてよく語った作家である 本論を展開する前に 泰淳の 風景 への 言及を見てみたい 初めて泰淳が 風景 について言及するのは 初期の随筆 淡島漁場 現実へ 1934.1 全集 未収 の中においてであった 淡島漁場とは静岡県田方郡内浦村重寺 現 沼津市内 浦重寺 にある漁場である 7 淡島漁場では 社会主義的な生産が営まれており それは 全く美しい光景 である しか し 美しい光景の中から汚いものが浮かび上がってくる それは人間の感情だ と泰淳は言う ただきたない物 悲しい物は人間の中にある 虚無的ないらだたしい感情がそんな時に自 156

中国戦地の風景を見つめる 喪家の狗 王俊文 然と人世のきしみ合ひの中からフラ と浮かび上ってきた 傍点原文 この描写には 風景 を見る泰淳のまなざしのあり方がよく現れている 彼はまず光景を 見る その目で 目には見えぬ人々の感情を見出す こうして もとの光景とは異なる 泰 淳の心象風景とでもいうべき 風景 が現れてくる つまり 泰淳の目線は一つの光景の中に 人間の感情 を存在させることにより 独自の心象風景を形成するのである このまなざし は泰淳の心象風景の核となっており 感動すべき風景の変化は 人の世の息ぐるしさ なつ かしさなしには感得できないものだ 8 と述べるように 彼は心象風景の形成に際して 人世 に生きる 人間 の感情が果たす役割を重視していた このような泰淳の風景観は 彼の生涯の親友であった竹内好 191 77 の風景観と共通す るものであった 竹内も 風景は人間の感情によって生成されるという 次のような主観的な 風景論を述べている 風景は 受容する人間の側の責任である つまり人間の心象が風景だということである 受容する人間の側に決意が表明されなければ 風景は決定づけられないのではないか 自 然そのものは 風景ではないのである 自然を風景として限定するものは 人間である 僕の心象の放散が 風景に具象化するのである 9 つまり竹内は 人間の主体性を信じ 人間の意志こそが 風景 を生み出すのだと考えてい た 先述したように 泰淳も 人間の感情が 風景 を生み出すものと考えていた だが泰淳と 竹内とでは決定的に異なる点がある 一つは 風景 を見つめるまなざしを持つことに対し て 泰淳は強い執着心を持っている点である たとえ嫌な 風景 であったとしても そこに 真実が潜んでいるなら 文学者は 目をそらさないで見つめ なければならない と彼は主張 する 1 また 泰淳は 自然 への敬意 というより 自然に対する人間の無力を感じてい るが故に 人間が創出した 風景 を抱きしめる悲しみを自覚しているが これも竹内には見 られない態度であろう ここに 泰淳の文学者としてのあり方が現れている 彼は言う 自 然全体は ささやかな一風景を まるごと支配している それゆえ 風景はいつでも 自然の 本質にくらべ その場かぎりであり もろいものである だが 同時に泰淳は 自然の一部分に過ぎない 風景を 全自然をとりもどす手段 ゆ たかな自然の無限性 へ通ずる路として 自分をなぐさめる ある風景の中に没入 して 自然全体の本質をつきつめる努力をつづけ る事が文学者の使命だとも述べている 11 ここで泰淳が言う 自然 とは 世界 や 全体 と置き換えても差し支えないであろう つまり 人間 の対極にある全体性や永遠性を指すものと思われる 泰淳の世界観は 風 景 から 自然 へ 一断面から全体性へ向かっていると言えよう 12 この独特な世界観を形 成するに当たっては 一生涯旅を続けた中国の古代文人 杜甫 徐霞客 の 山水 観に触発 されるところが大であったと思われる すなわち 風景としての 山水 と人間事としての 157

文京学院大学外国語学部文京学院短期大学紀要 第 1 号 21 政治 の依存関係に対するある種の信念である 泰淳は明末の旅行家徐霞客 1587 1641 にこのように言わせる 政治があればこそ 山水が必要なんでしょう 政治がなければ 山 13 水は山水ではなくなってしまうでしょう 政治 を 動かすもの と定義し 世界 の歴史は政治の歴史である 政治的人間は 世界の中心となる と主張する泰淳は14 常に 世界全体 志向の 政治 を念頭に置いた上で 山水 風景 を観察しているわけであ る それ故 泰淳の 風景 観は人間の無力感を自覚しながら なおも執拗に世界全体に向 けるまなざしから生み出されたものであると言えよう 泰淳にとっては 風景 は一種の方 法である この方法を以て 泰淳は 自然 と対決しようと決意している 泰淳は 文学 政 治 の問題を 風景 自然 という独創的な形で捉えている と言い換えてもよい 彼の世界 観には 風景 文学 自然 政治 という世界全体を考える枠組みが存在してい るのである 15 泰淳にとっては この 世界全体 志向の 風景 観 世界観を究極のかたちで体現する人 物は司馬遷である 泰淳は 記録者は普通人以外の人間とならねばならない 真に記録 16 者となるためには 一旦世界の外に立たねばならない と敬意を示している 周知のように 司馬遷 前 145?? は 中国前漢武帝時代の史官であり 紀伝体の歴史書 史記 の著者で ある 彼は武帝によって宮刑に処せられた後 その悲憤を 理不尽な世界の 記録 を綴るこ とに託し 史記 を完成させた 泰淳は 中国で戦争を体験した時から この 生き恥さら した男 である司馬遷の世界に没頭し 中国と自分の存在を問い直す思索を行った その思索 の結晶が 文芸評論 司馬遷 1943.4 である 泰淳は 司馬遷を 世界の外に立 ち 人間全体の歴史を眺めわた す人物として その まなざしのあり方に憧れた しかし 自分が司馬遷たり得ないことを自覚していた泰淳は せ めて 風景 から 世界 を眺めようとしたのではないだろうか 17 その泰淳の前に現れた 風景 とは 中国 の 風景 であった 二 唐詩の世界から戦地の風景へ 一 安住できない 詩をめぐる風景 先述したように 泰淳はもともと中国文学を志し 無限に広い大地を遡ると桃花源のよう なものがある 唐詩の世界に強い憧憬を抱いていた 18 だが 中国への理解が深まるにつれ この初期の古典中国文学の風景は変化を遂げていった それは日中戦争の局面の変化に伴う 泰淳自身のあり方の変化でもあったように思われる その変化を 風景 との関係から見て みたい 泰淳が唐詩の中でも特に好んだ詩人は 唐代社会に於ける自分の位置 混沌世界の中に占 める自分の一点が明確に意識されている 場所感覚を持つ杜甫 712 77 である 19 中国盛 唐に生きた詩人である彼は 生涯各地を放浪したが うち続く戦乱や災難のため 晩年は成都 158

中国戦地の風景を見つめる 喪家の狗 王俊文 などで 草堂 を建て 死ぬ二年前まで十年間四川で暮らしていた この杜甫の 草堂 生活 を主題にして 泰淳は小説 詩をめぐる風景 1949.1 194 年初稿当時の旧名は 草堂 お よび随筆 草堂の杜甫 2 1941.12 を書いている この二つの作品は 草堂 に安住できない杜甫と 草堂 に住み続けた杜甫の奴僕との断 絶がテーマである 杜甫の奴僕たちにとっては草堂は宿命のようなものである 奴僕たちは他の世界を知 らない として 外の世界に開かれない宿命をもった奴僕に対し 杜甫は外界を求めてさま よう宿命にあった 草堂は永いこと杜甫の脳裏にえがかれた幸福の象徴であった 自然 にひたり 草木にうずもれて詩の世界をひろげるために 杜甫は草堂を求めていた 杜甫は 草堂 という 混沌世界の中に占める自分の一点 を維持してこそ 幸福の象徴を追い求め ながら旅をつづける文学者の生き方 ができたのだと泰淳は描く 21 そのような生き方を選ぶ理由を 泰淳は 詩をめぐる風景 という小説において次のように 説明する 安定できず安住できない自分というものが 自分の詩の不安ではあるが新鮮な泉 になっている 次から次へあらわれてくる諸現象 そしてそれをむかえての自分のもろもろ の精神状態のごく複雑な総合が自分の詩をささえている それ故 自分の外界が安定しな いばかりでなく 自分の内心そのものが広い広いとりとめもない混沌世界であるように思われ る 22 泰淳が描いた杜甫は 戦乱によって引き起こされる内心の葛藤こそが詩を作る原動力 であることを知り 安穏とした草堂生活に留まることができず 家 を捨て 漂泊の生涯 を送る詩人であった この杜甫は 桃源郷 に安息するような詩人像ではない かつて 桃源郷 に憧れた泰淳 が 今や 桃源郷 を去って各地を放浪して詩を作るという杜甫像を生み出したのは いかな る理由によるものなのか 筆者はここに 戦地体験を経た泰淳が古典中国文学の風景を否定し 志 を貫く 文学者 として出発をしようとする決意を見る 戦争によって荒廃した中国の 現実に対し そこに桃源郷を見出そうとするのは不可能であったろう では 兵隊として赴い た中国において 泰淳が見出したものはどのような光景であったのだろうか 二 息苦しい 戦地の風景 中国との断絶と 風景 の凝固 敗戦後のある時 泰淳は 日本の文学者にとって 中国 あるいは中国文学について 思 いめぐらすということが あまりにも生ま生ましい 息苦しいほど密着した事件 だと述べ ている 23 このような 息苦しい 感覚は 泰淳の戦地体験によってもたらされたものであっ た より正確に言えば 中国 中国人 中国文芸を愛する 泰淳が戦地で見た ただただ 見つめるしかなかった 息苦しい しかし なつかしい 中国の風景に起因するものであっ た 24 戦場という絶対的な 自然 によって 泰淳のまなざしは 生の根源の方へ と方向付 けられてしまう 25 そのまなざしによって 泰淳は自分の 戦地の風景 を創出したわけであ る 159

文京学院大学外国語学部文京学院短期大学紀要 第 1 号 21 本節では 泰淳が戦時下の中国で見出した 風景 を見ていきたい 中国に兵士として上陸してから四ヶ月後 泰淳は北京留学中の竹内好宛の手紙 1938.2.16 に ただただ風景ばかり見てゐます と書いている 続いて 風景に支配されてゐる ので はなく 風景が そのまま固まつてしまつたのではつまらない 私の風景は最後までわからぬ 26 ものでありたい とも書いてある 日中の狭間で苦しんでいた竹内は この文章に共感を寄 せ この文章は泰淳の心象風景が表れていると述べている 27 ただただ風景ばかり見 ている姿勢から 泰淳が戦地の光景から受けた衝撃の強さを読み 取ることができる それは思考を停止させる強烈な風景 例えば 池や井戸に浮かび 海 藻のように髪の毛がひろがっていた 女の屍や28 日本兵の手でかき乱され 埃の舞い上が る道路に散乱していた 貴重な紙や筆 古い文献 29 などの風景であった だがその後 約半年の戦地生活で心にゆとりが出来たので 泰淳は読書を始めた 内陸 の村落に置き去りにされた泰淳は 大動揺と絶望のあとの静寂 という 心理のエアポケッ ト の中で 内山書店で購入した岩波文庫の 時間と自由 ベルグソン著 などを読み 無 自覚的に 文学や哲学の発生に立ち会 った 3 この時 歴史から取りのけられたような 大陸に取り残された泰淳は あまり広いので 何処に坐っていいかわからない と31 自分の立脚点を見失った状態にあった そのような中 泰淳は この広大な中国の中で ある風景を見出していった それは時間が凝固した風景であ る 彼は言う 中国において 時間は 鉛のやうな流れとなつて 動いて行く 32 河辺の塔を ほんのわずかな時間 しか見なかったが その塔の生活をすべて見てとったような気がし た 33 また 水のほとりを歩き 美しい山を眺める時 酔った 時 支那の夕暗が青 灰色に迫ってきて 前後左右の時間といふものを手にとつてはまた棄ててしまふ 泰淳は 書簡の中でこのように書いている 34 この 時間が凝固した風景において 泰淳は自我を喪失 し 全身を 無感覚 につつまれるという経験をしている 35 この 無感覚 について 泰淳はとくに説明していない しかし 自我の喪失 感覚の喪失 という状況は 風景 と自己存在との切断から来るものではないだろうか 36 ひとは 自分 が生きる場所において意味を見出そうとするが 自分の存在意義が見出せない風景を前にする と その風景は生彩を欠き たちまち遠のき リアリティの無いものとなるだろう そもそ も泰淳は中国文学に関わり そこに自分の願望を投影することによって 生きた 風景 を見 出してきた しかし 兵隊として 出征 した中国において 彼が見出したい 風景 はな く それどころか そこにある 風景 は自分と限りなく離れ つながることのできないもの であった 泰淳は言う 土民の顔 を 注意深く見守ってはいたものの実のところ 相手のことなど 少しも考えていなかった 相手と自分とは 限りなく離れている 偶然目についた以外は全 37 然無関係である と ここに 中国の風景から切り離され 孤独にたたずむ泰淳がいる 38 中国との断絶がもたらした自我喪失の 無感覚 こそ 兵隊としての泰淳の感覚であった 16

中国戦地の風景を見つめる 喪家の狗 王俊文 三 頼りない 廬州風景 切断と空白 無感覚 に包まれた時期の泰淳の 心象風景 は 中国の風物をテーマとした39 小説 廬 4 州風景 に描かれている 泰淳は徐州作戦をおえて 1938 年 7 月に廬州の野戦予備病院へ来 た頃から41 中国と自分の関わり方を考える余裕を回復したようだ 42 廬州は泰淳の戦地体験において重要な土地の一つである 例えば 廬州の体験 1938.7 9 を素材にして書いた 廬州風景 を 泰淳はこよなく愛し 三度も書き直している 才子 佳人 後記 小説 廬州風景 は 未亡人の水野雪江が遺した手記という形式をとっている 彼女はもと もと戦地看護婦で 亡くなってから既に五年がたつ この小説の特徴は 主人公 雪江が大の 風景 好きであり なんでもかまわず眺め喜ぶ旅の女 その女の風景は次から次へと いそ がしげに変って行くのだもの p27 28 かつ物語が雪江の目に映った風景に沿って展開し ていくという点にある 例えば コレラ菌を消毒する石灰粉末や 消毒水が充満した町や病院 コレラに罹った兵士 患者や屍 その生々しく凄惨な光景の一方に広がる秋晴れの空や 生活力が溢れる中国農民 の朝市 日本軍に占領され 荒れ果てた廬州の街と すがすがしい秋の景色が 寂しくも 美しい物語の基調をなしている 雪江は コレラ患者や死体すらも 秋の風景 として眺める 感動の薄い女として登場する これに対し 寂しい風景を破る存在として書かれているのが 中国人女性の楊である 彼女は 泰淳が小説に好んで描いた 声を上げる はげしいタイプの中国人女性で43 冷淡な雪江とは 対極的な存在であった 例えば ある時 カラスの大群が空を飛んでいくのを見て 楊は 何 やらひどい罵りの言葉を吐いた 畜生 全く本気で 烏の群に激怒する 考えてみ れば これほどの大群が通過するのは この城の衰滅であり 頽廃なのだから つまりは住民 の悲惨さの象徴なのだから それは楊さんにとっては堪えがたい怒りの種だったのだろう と 雪江は見る しかし雪江は やはりそれがほんの風景の一つにすぎない p11 と淡々と述 べている また 楊のスパイ嫌疑を耳にしても それは自然な ある一つの行為ではないか 私たちが楊さんを好きだとしても それが楊さんにとって何であろうか 私たちが友達だ としても それは偶然の すぐ忘れてもよい 責任のない知り合いにすぎないのだもの 私たちが私たちだということははじめからわかり切っていたことなのではないか p21 と 日本人と楊との間の信頼関係確立を諦めている この 寂しい雪江と激しい楊に 侵略側と被 侵略側との対比の構図が反映されている だが 雪江はやがて 自分の存在の 頼りなさ を自覚し始めると同時に 周囲の人々の存 在 特に中国人女性の楊の生命力溢れる存在を意識し始める そこには現実の生々しい身体が ある そして自分を含め 楊や森医官は もっと深いところで結ばれたのではあるまいか と 思うようになる p17 この思いは 中国 農民の漂わす充実した生活力の代表 の象徴とし ての楊を眺めた時 強まっていく 楊さんはやさしく私の肩を抱くようにして人混みを歩い 161

文京学院大学外国語学部文京学院短期大学紀要 第 1 号 21 た 私には抱かれた部分の暖かさが有難く その部分だけがわずかに農民たちの生きた身体に つながれる気がした p23 つまり 雪江は風景をただ眺めるだけのところから 楊を通じ て 中国人との連帯を求めていったのである それでも雪江は 楊との生身の触れあいの一歩手前に留まり 楊を 景色 として眺めるま なざしを崩さない 雪江は言う 言葉は通じないが そのために笑いや仕草 表情や態度だ けで互いのこころを読みとり そのひとの深さや重みをまちがいなく感じられていた 心を かきみだされることもある風景の一つとして 心やすく眺めてもいられた p25 そしてス パイ容疑をかけられた楊との別れ それは 風景 との別れとして描かれている 風景はこ のまま流れなくなり 人物はもはや動かなくなり 私はまたひとり新しい環境へ移り そこの 人物となること こうして雪江は 風景 を失った後に残った 空白 の中で 安定した自 分をジッと持ちつづけていた p27 雪江は 戦地 廬州において 一度は中国人とつながろうとしながら 結局は彼らと別れね ばならず その後に残った空白の風景の中でじっとたたずむ存在として描かれている 次々と 小説に現れる 風景 は 常に生きた人々の存在から一歩引いた雪江の距離 そして淋しさを 反映した彼女の心象風景に他ならない この 風景 こそが小説の主題であろう 最後に現れ た 空白 そこには 人々が去った後 そこにたたずむ選択肢しか与えられない雪江の悲し さ 悔しさがにじんでいる 戦乱の中 ただジっと 風景 を眺める存在として描かれた雪江は 侵略者としての淋しさ を抱え 被侵略者である中国人との連帯を望みながら なお距離を埋められず 空白しか見い だせなかった これこそ 日中戦争で荒廃した中国を凝視した 当時の泰淳自身の姿ではない だろうか ジっとうずくまる泰淳 ここに逆に 荒れ狂う心を抱きながら 自分の 位置 を 見定めようとする泰淳がいた 44 この 世界における自分の 位置 の模索は 1939 年 1 月に帰国してから後も続けられ 泰淳の 思索の出発点 45 である 司馬遷 に至って 喪家の狗 という 位置 を見出す のである 次節ではこの問題を検討したい 三 風景を見つめる 喪家の狗 泰淳によると 喪家の狗 とは 世界史における自分の位置を表現した孔子の自己認識で ある この自己認識は 本質を突いている と泰淳は言う 46 孔子は世界を転覆させる 志 を貫くために漂泊するが このような文化人を泰淳は 喪家の狗 と見なした その 喪家の 狗 の特徴は主に三点ある 文化の代表者としての自分を信じること 祖国を世界の中心と信 じないこと 世界 現代を否定すること つまり 喪家の狗 とは 固定した一つの集団 場 所にとどまらない 世界中 よるべき場所なき文化人の姿 p56 を指す この文化人の系 譜は 孔子をはじめ 伯夷 屈原 がおり また作者司馬遷を生み出して 史記 が完成 162

中国戦地の風景を見つめる 喪家の狗 王俊文 すると述べている 泰淳は最初 自らが 喪家の狗 になりきれないことを自覚していた なぜなら 自分は孔 子らと違って 自分を信じ切れないからである 47 この自己不信は 留置経験 戦地体験によ る人間不信に起因するものであった だがやがて泰淳は 戦時下の中国において 累積した 文化 が戦争によって無惨に消滅する様を目にした時 自分は 豪奢な王族のように立ってい ましたが心は痩犬のようにふらついていました 支那文化に関する手紙 194.1 と 犬 の自覚が芽生え始める その時 喪家の狗 としての自覚も芽生えたようである 孔子ら中 国の 喪家の狗 は 身を置く場所 定位置を喪った人々であるが 泰淳が失ったのは 戦乱 で荒れ果てた 風景 を眺めるための 位置 であり それは文化 精神的な家 杜甫の 草堂 にあたるもの の喪失であった つまり 戦争を通して泰淳は 喪家の狗 という 自覚を獲得したのである 泰淳は 司馬遷 で言う 喪家の狗とは 国亡き人のことである p58 泰淳は 漢文 化の危機を指摘し 自分達の敵である匈奴への理解を訴えた司馬遷に 日中両国の狭間で葛 藤する自分の宿命を重ね48 その自覚から文学作品を書き始めたのではないだろうか それは 喪家の狗 となって 風景 を創出し その 風景 から世界全体を見出そうとする行為で あったと思われる 泰淳文学の魅力は 秩序からの徹底的逸脱者であることの自覚 と その反転である 世 49 界全体への倫理的志向 の絶妙なバランスにある事が指摘されている この逸脱者としての 自覚と世界志向の関係は 風景 を見つめる 喪家の狗 という泰淳のあり方によって生み 出されたのではないだろうか 四 美しき湖のほとり 重ね合わせられた 風景 敗戦後の 1952 年 6 月 泰淳は再び 戦地の風景を題材とした作品を発表した 杭州の西湖 湖畔の駐屯生活を描いた 美しき湖のほとり 別冊文芸春秋 28 号 全集 第 1 巻 であ る この作品は物語の時空間の構成が特徴的であるが その中でも特に泰淳特有の 風景 を 生み出している物語構造について見てみたい 一 物語構造の重層性 小説は 戦地体験のある敗戦後の 私 の生活 西湖の追想 追想の謎の解明という三部か ら構成されている 敗戦後のある時 語り手の 私 は 島根大学で 戦争と文学に関する講演を行った 聴講 生の大学生は皆 戦地体験がない若い世代である 翌日 講演に招聘してくれたM氏や大学生 達と一緒に船に乗り 宍道湖の上で半日を過ごした その時 私 は 宍道湖が西湖に似て いるというM氏の言葉をきっかけに 戦時中の不思議な体験を思い出した 1937 年 12 月から 163

文京学院大学外国語学部文京学院短期大学紀要 第 1 号 21 1938 年 3 月まで 私 が西湖湖畔で駐屯生活をしていた時に体験した出来事である ある時 私 が無人の民家に侵入し 寝床を探していると 別の部屋から ひどく気ぜわ しい 真剣な調子でとり交わされる 二人の女の声 が聞こえた p344 しかし部屋をのぞ いてみると誰もいない 私 はこの不気味な謎が気になっていたが 15 年間ずっと分からな かった しかしそれが今日分かった それは 西湖について小説を書きたいと言う 私 に M氏が貸してくれた 中国人画家の陳氏が書いた 愁債室鬼語 という本によってである こ の本の中に ミス陶が同性愛の関係にあったミス劉を殺すという話があり 彼女たちのやりと りが 15 年前にきいた女達の声そのものであった つまり 私 が入った家は彼女達が当時 滞在した場所 愁債室 であり 女の声は彼女たち亡霊の声であった この怪奇探偵小説風のストーリーは 山本幸正が指摘するように 佐藤春夫の 女誡扇綺 譚 に似ている 5 いわゆる支那趣味的な 密室から発せられる奇怪な 女の声 の話 実際 泰淳も 佐藤春夫の中で一番いいのは 女誡扇綺譚 と述べており51 この作品は 女誡扇 綺譚 を意識している可能性が高い だが この作品により大きなヒントを与えたのは 中国の小品文雑誌 宇宙風 1935.1 第 3 期 1936.3 第 13 期 に連載された許欽文の自伝エッセイ 無妻之累 無妻の冤罪 で あろう 許欽文とは 191 2 年代に活躍した郷土文学作家で 魯迅と同郷の紹興出身であ る 許欽文は 亡くなった親友の画家 陶元慶のため 西湖湖畔に 元慶記念堂 を建てた その後 陶元慶の妹の陶思瑾と 同性愛の恋人であった劉夢瑩が殺し合う惨劇 劉陶惨案 1932.2.11 が起こった時 彼が三十歳を過ぎても独身であったため 罪の疑いをかけられ 二度も杭州の監獄に投ぜられた 許欽文は無実の罪で職を失い 経済難に陥ったため 元慶 52 記念堂 の名を 愁債室 借金苦悩室 と改めたと言う 事実とは細かい違いがあるものの 小説 美しき湖のほとり の 愁債室鬼語 の作者のモデルは 許欽文であろう 実際 泰淳は雑誌 宇宙風 を熱心に読んでいた 彼も中心メンバーであった同人雑誌 中 53 国文学月報 は 宇宙風 創刊 1935.9 以来 同誌に注目し続けていた 泰淳は戦中も 宇宙風 を読んでおり その中の文章も今まで面白いと思わなかった点が面白くなりまし 54 た という記述や 神田の古本屋で揃いの小品文雑誌 宇宙風 を手に入れた 揃いなの で余計親身になって読みふけっている という記述があることから55 許欽文の 無妻之累 も恐らく 宇宙風 で読んだものであろう つまり 泰淳は許欽文のエッセイを参考にして 美しき湖のほとり を執筆したのであった 56 泰淳が西湖に関連した小説を書くため 許欽文の作品を参考にした事は興味深いが 女の 声 をめぐる不気味さ 神秘さを学んだのはむしろ佐藤春夫の 女誡扇綺譚 からであろう 劉陶惨案 の実際の犯行現場は庭の芝生であったが 泰淳の小説 美しき湖のほとり では 惨劇の現場を 女誡扇綺譚 のように無人の屋敷の密室に変えている ただし 泰淳が佐藤春 夫の 女誡扇綺譚 から学んだものは 女の声 の描き方だけではなく 女誡扇綺譚 に描 かれた滅亡と荒廃 強い行動者 そして恋する女性の生命力の氾濫57 であろう ここで両作 164

中国戦地の風景を見つめる 喪家の狗 王俊文 品の詳細な分析を行う余裕はないが 次節では 泰淳の小説において 二人の女 が如何に描 かれ それが本稿のテーマである 風景 そして 喪家の狗 とどう関係があるのかを考察し たい 二 物語の時空間の重層性 泰淳が小説の中で執拗に提示したのは 私 と 二人の女性 との時空を越える連帯感で ある これが許欽文の作品を彼に選ばせた最も大きな理由だと思われる 小説の語り手である 私 は 日中戦争の時に兵隊として中国に行き 敗戦後に日本に帰国 した 喪家の狗 である 兵隊であったとき 私 は 侵略者の一員として p339 住民 が逃げた後の家を占拠し 兵隊達のために寝床を探す仕事を担当していた 彼自身その仕事を 軽蔑し ある時など中国人から 野良犬でも叱るような 軽蔑の罵りを浴びせられればよかっ た p343 と自己懲罰を求めるほど 自分を嫌悪していた こんな 喪家の狗 である 私 はある時 ふみこんだ室の中の風景 に遭遇する 58 その異様に静かな部屋から聞こえてき た 言い争う 女の声 は生々しく 彼女たちは日本軍占領下の愁債室にふみとどまって 生きていたのだ 傍点原文 p349 という 実際は死んでいるはずの 二人の女性 が 生 きて いると断定し 女たちと 私 との不思議な巡り会いを述べる 例えば 斬りつけら れたナイフの傷痕 がある二人の写真に記された時間 1936 年 1 月 は 我々が杭州湾に上 陸した前年 と同じ年月日であること p345 346 陳氏が 愁債室鬼語 を発表した 1939 年は 私が一兵士として杭州に駐屯していた翌年のこと p347 陶嬢は劉嬢のあとを追っ て 愁債室にころげこん だ 一九三七年 民国二十六年 は つまりは昭和十二年の九月 私が東京の区役所から赤紙をうけとる 約一ヶ月まえである p348 こと 愁債室の惨劇 は発生した のは 杭州湾上陸をもくろむ柳川軍団が 部隊輸送の船舶を瀬戸内海に集結しつ つある頃 p348 だったこと このように小説では劉陶殺人事件の経緯が 私 の従軍 歴と重ねて語られていく この手法を分析した山本幸正は 私 は 筆者注 この惨劇 59 を 日本の中国侵略のささやかな象徴として語りたかったのではないだろうか と述べる だが 泰淳が日本の対華侵略を殺人事件で喩えるアナロジーを用いたとは考えにくい なぜな ら 泰淳は二人を 彼女たち という表現を使っているように 一心同体の存在として見なし ており 殺す殺される関係 侵略 被侵略の関係と見ていないからである むしろ泰淳は 中 国人女性の物語の時空に 自分の時空を重ね合わせることで ふみこんだ室の中の風景 を 見つめる 喪家の狗 である自分を位置づけ 更に中国人との連帯を見出そうとしたのではな いか 6 ここにこそ 佐藤春夫をはじめとする 支那趣味 を持つ作家とは異なり 同時代の中国や 中国人とふれあおうとする泰淳の特徴がある これは 戦争という破壊行為の最中で自らの 存在を見失い それを再び回復しようとする経緯を経た作家のみが持ちうる特徴なのではない か それは木村幸雄が指摘するように 転向と戦争の二重体験を持つ戦後文学者の傾向である 165

文京学院大学外国語学部文京学院短期大学紀要 第 1 号 21 視点の複合性と時間の重層性 でもあろう 61 だが泰淳の場合 この複合性 重層性に 中 国という空間が更に加わるという構成を 泰淳文学の独自性として指摘したい 泰淳は 小説的時間 が 小説技術の点ばかりでなく 作者の生活感覚 作家の実人生に 62 於ける時間の流れ方に結びついて 問題になってくる と述べている この戦地風景を題材 とする作品は 中国から離れられない宿命をもった泰淳の 生活感覚 と 実人生に於ける 時間の流れ方 が投影された作品であった この作品には 既に戦争を知らない大学生や 中 国戦地体験を持たない日本人に戦争を語り伝えるだけではなく 1952 年という戦後において なお 日本人が中国に侵攻した意味を問い 日本人と中国人の連帯を求める泰淳の思いが込め 63 られていたと言えよう おわりに 以上 中国戦地体験をめぐる泰淳の言説を 風景 の創出という観点から考察してきた 泰淳にとっては 風景 は一種の方法である 彼は 文学 政治 の問題を 風景 自然 という独創的な枠組みに於いて考えている この思考の枠組みは戦地体験によって発見され 戦争 中国に対する自分の姿勢 まなざしを作り出したものである 文学者としての泰淳の出 発は 全て戦地体験にあり 凄惨な戦地体験は日中の間で文化を構築しようとしてきた泰淳の 全てを否定し消し去ったのだが 日中の狭間で居場所を失った自分を自覚する地点から 喪家 の犬 という自己認識が芽生え その自己認識に立った上で再び文化の構築を目指し始めたと いえよう 64 それは中国人との連帯を夢見て中国の 風景 を創出し 作品に描き出す過程でもあった 廬州風景 はその最初の試みである しかし 廬州にいた泰淳は 戦地中国にあって 頼り ない風景 しか見いだせず 中国人とつながり得ない 空白 しか書き得なかった その 空 白 を取り戻し戦地にいた自己の意味を問うため 泰淳は戦後も時空を越えた中国の 風景 を創出し続けた その試みの一つが 美しき湖のほとり であったと言えよう 泰淳は戦時下 中国の不思議な時空に 戦争参加者である自分の時空を重ね合わせ 時空を越えた 風景 に おいて巡りあった日本人と中国人を描き出すことにより 中国人との連帯を描き出そうとした のであった この 風景 追求の営為こそ 泰淳文学形成の過程に他ならない 中国の 風景 は泰淳に とって 息苦しい しかし なつかしい 存在として 彼を創作へと駆り立て続けたのである 泰淳は言う 文学者は ある風景の中に没入 して いくらつらくても 自然全体の本質 をつきつめる努力をつづけなければならない 65 これこそ泰淳の 風景 観であり 作家と して生きる決意表明でもあった 喪家の狗 であることを自覚した泰淳は 生涯 風景 を 創出しつづけ 中国という巨大な存在に向き合い続けたのであった 166

中国戦地の風景を見つめる 喪家の狗 王俊文 注 1 泰淳 開高健 佐々木基一対談 1975 年 7 月 混沌から創造へ 雑誌 海 武田泰淳全集 別 巻二 p287 なお 泰淳作品の引用は 武田泰淳全集 1978 1982 年 増補版 筑摩書房 に拠り 以後 武田泰淳全集 を 全集 と略記し 巻号 頁を付した 2 泰淳 竹内実対談 1974 年 3 月 戦争と中国と文学と 雑誌 波 全集 別巻二 p222 3 泰淳 194 年 1 月 支那文化に関する手紙 中国文学月報 第 58 号 全集 第 11 巻 p241 4 佐々木充 1969 年 3 月 武田泰淳における 文化 司馬遷 の成立まで 帯広大谷短期 大学紀要 第 6 号 根岸隆尾 1975 年 7 月 武田泰淳論 民衆 発見を基軸に 評言と構想 第 2 輯 5 泰淳 1967 年 6 月 揚子江のほとり あとがき 揚子江のほとり 芳賀書店 全集 第 16 巻 p178 6 泰淳 1964 年 6 月 17 日 めいめいの風景 読売新聞 全集 第 15 巻 p325 7 長田真紀 1994 年 3 月 武田泰淳と 現実へ 二松 第 8 集 p246 8 泰淳 1971 年 1 月 3 日 風景 と 自然 新潟日報 全集 第 16 巻 p441 9 竹内好 1942 年 8 月 旅日記抄 風景について 中国文学 第 86 号 竹内好全集 第 14 巻 p411 筑摩書房 1 泰淳 1972 年 1 月 身心快楽 如入禅定 小説 快楽 について 雑誌 波 なお 本編は 全集 未収録 11 泰淳 1971 年 1 月 3 日 風景 と 自然 新潟日報 全集 第 16 巻 p442 12 重岡徹 1998 年 武田泰淳の全体性について または知の倫理性 山口国語教育研究 第 8 号 13 泰淳 194 年推定 霞客 全集 第 18 巻 p553 14 泰淳 1943 年 4 月 司馬遷 日本評論社 全集 第 11 巻 p26 27 15 江藤淳は トリミングされている 日本の伝統的な自然観と異なる泰淳の 自然 に対するま なざしを論じる 江藤は泰淳が竹内好と対抗するために 自然 を持ってきていると述べ 自分と 自然 の 相互作用 自然に自分が入っている 自然がここに近づいてきて動き出す に注目 することによって 自然 に 解放感 を見出して 生きていける 自信がつくという泰淳の 自 然 描写に表われた認識の方法を指摘している ここの 自然 は厳密に言えば 即ち本稿で論じ る 風景 だと思われる 竹内好 堀田善衛 小野忍 埴谷雄高 本多秋五 佐々木基一など 談会 武田泰淳 その仕事と人間 近代文学 196.8 埴谷雄高編 全集 別巻三 増補 座 武田泰 淳研究 p299 3 16 泰淳 1946 年 6 月 司馬遷の精神 記録について 新時代 全集 第 18 巻 p534 17 竹内好 1952 年 7 月 武田泰淳著 司馬遷 解説 一 創元社文庫 司馬遷 において泰 淳は 私は無力だ という告白をくり返し強調していると 好は指摘する 竹内好全集 第 12 巻 p119 18 泰淳 竹内実対談 1974 年 3 月 戦争と中国と文学と 雑誌 波 全集 別巻二 p222 19 泰淳 1947 年 1 月 杜甫の酒 現代俳句 全集 第 12 巻 p28 2 泰淳 1941 年 12 月 草堂の杜甫 揚子江文学風土記 小田嶽夫と共著 竜吟社 全集 第 11 巻 21 泰淳 1941 年 12 月 草堂の杜甫 全集 第 11 巻 p313 315 325 326 22 泰淳 1949 年 1 月 詩をめぐる風景 初稿 草堂 に加筆した後 近代文学 に掲載 全集 第 1 巻 p27 167

文京学院大学外国語学部文京学院短期大学紀要 第 1 号 21 23 泰淳 1966 年 6 月 新編 人間 文学 歴史 あとがき 新編 人間 文学 歴史 筑摩書房 全集 第 16 巻 p14 24 泰淳 1967 年 6 月 揚子江のほとり あとがき 揚子江のほとり 芳賀書店 全集 第 16 巻 p178 25 泰淳 1951 年 3 月 未来の淫女 自作ノート 未来の淫女 目黒書店 1951.5 所収 全 集 第 12 巻 p175 176 26 泰淳 1938 年 2 月 16 日 武田泰淳 筆選 川西政明編 講談社文芸文庫 戦地からの手紙 全集 未収 身心快楽 武田泰淳随 23.7 p4 27 竹内好 1938 年 9 月 周作人随筆集 北京通信の三 中国文学月報 第 42 号 竹内好全集 第 14 巻 竹内好 1942 年 8 月 旅日記抄 風景について 前出 28 泰淳 1963 年 8 月 ソンをしなかった輜重兵 群像 全集 第 15 巻 p26 泰淳 1967 年 8 月 15 日 戦争と私 朝日新聞 全集 第 18 巻 p283 29 泰淳 1975 年 3 月 船の散歩 海 全集 第 18 巻 p83 3 泰淳 1962 年 9 月 文学を志す人々へ 群像 全集 第 15 巻 p29 21 31 泰淳 1938 年 12 月 31 日 武田泰淳 32 泰淳 1938 年 9 月 武田泰淳 戦地からの手紙 前出 p5 戦地からの手紙 前出 p43 33 泰淳 194 年 5 月 支那で考えたこと 中国文学 第 64 号 全集 第 11 巻 p249 34 泰淳 1939 年 5 月 武田泰淳 戦地からの手紙 前出 p52 35 泰淳 1939 年 11 月 戦線の読書 文芸春秋 全集 第 11 巻 p235 36 風景との切断または時間意識の喪失が 自我喪失や感覚の喪失をもたらす状況についての考察は 精神病理学者の木村敏 時間と自己 1982.11 p53 55 中公新書 から大きな示唆を得た 木村 敏は いま がその背後にひろがる過去と未来から切り離された時 時間の動きが消滅すると同時 に 自己の非存在感 喪失感をもたらす事を述べている 37 泰淳 194 年 5 月 支那で考えたこと 中国文学 第 64 号 全集 第 11 巻 p251 38 せいぜいは手伝わせてくれる 一人の貧乏な少年 である 支那文化に関する手紙 前出 p242 39 泰淳 1947 年 8 月 才子佳人 後記 才子佳人 東方書店 1947.11 全集 第 12 巻 p72 4 泰淳 1947 年 11 月 廬州風景 才子佳人 東方書店 全集 第 1 巻 竹内栄美子 晨朝に広 がる風景 廬州風景 批評精神のかたち 中野重治 武田泰淳 EDI 25.3 に多くの 示唆を受けた 41 木田隆文 1997 年 2 月 武田泰淳従軍期年譜考 国文学論叢 第 42 輯 川西政明 2 年 9 月 戦後派の軍歴 武田泰淳と野間宏 群像 p143 42 泰淳 1938 年 9 月 武田泰淳 戦地からの手紙 廬州から竹内好宛ての手紙 前出 p43 長田真紀 1998 年 3 月 武田泰淳研究 戦地から兄宛て書簡を通して 学海 14 号 43 拙論 21 年 2 月 孤独なる人間 武田泰淳と魯迅 文京学院大学外国語学部文京学院 短期大学紀要 第 9 号 44 それは堀辰雄の 世界 を 廬州風景 に持ちこもうとする泰淳の努力に見ることができる 泰 淳 1962 年 9 月 文学を志す人々へ 全集 第 15 巻 p21 45 泰淳 1959 年 1 月 文芸春秋新社版序文 全集 第 16 巻 p552 46 泰淳 1943 年 4 月 司馬遷 日本評論社 全集 第 11 巻 p56 168

中国戦地の風景を見つめる 喪家の狗 王俊文 47 石丸晶子 1985 年 2 月 武田泰淳 史記 の解説者から現代作家の道程 昭和文学研究 第 1 集 p18 19 48 磯田光一 197 年 3 月 非革命者のキリスト 文芸 全集 別巻三 増補 武田泰淳研究 所収 p173 49 重岡徹 1998 年 武田泰淳の全体性について または知の倫理性 山口国語教育研究 第 8 号 p36 5 山本幸正 1998 年 3 月 われ また 西湖にありき 支那趣味から武田泰淳 繍 第 1 集 p59 51 泰淳 開高健 佐々木基一 1975 年 7 月 対談 混沌から創造へ 雑誌 海 全集 別巻二 p341 52 呉 美 28 年 7 月 很黄很暴力 許欽文的 無妻之累 万象 第 1 巻第 7 期 遼寧教育 出版社 53 1935 年 1 月 雑誌三種創刊 中国文学月報 第 8 号 汲古書院復刻版 1971.3 第 1 巻 p9 1936 年 11 月 宇宙風の日本号 中国文学月報 第 21 号 第 2 巻 p169 54 泰淳 1938 年 8 月 戦線より 増田渉る宛 中国文学月報 第 41 号 全集 第 11 巻 p22 泰淳 1938 年 7 月 11 日 武田泰淳 戦地からの手紙 宇宙風 を寿県で読んだが という 記述がある 前出 p41 55 泰淳 1944 年 2 月 雑誌の精神 揚子江 65 号 全集 第 11 巻 p374 56 美しき湖のほとり には 許欽文 無妻之累 と共通する描写が多々出てくる 例えば 部屋 の中央には黒く漆を塗った おそろしく立派な寝棺が ズッシリと置かれてあった 美しき湖の ほとり p345 という寝棺の描写は 元慶記念室に不気味に横たわっていた劉夢瑩の寝棺 这黑漆 漆的东西 無妻之累之四 之十 と似た表現である そのほかにも家の庭の様子なども両作品 に似た場面が出てくる 57 河野龍也 26 年 11 月 佐藤春夫 女誡扇綺譚 ある 下婢 の死まで 日本近代文学 第 75 集 p11 58 泰淳 1938 年 2 月 16 日 武田泰淳 戦地からの手紙 前出 p41 59 山本幸正 1998 年 3 月 われ また 西湖にありき 支那趣味から武田泰淳 繍 第 1 集 p6 6 随筆 杭州の春のこと 194.2 では 人のいない部屋の静けさのために 眼に入る部屋の姿 の多様さのために私は自分自身を忘れるほどであった と書いている 全集 第 11 巻 p244 61 木村幸雄 1979 年 12 月 戦後文学の視点と時間 昭和文学研究 第 1 集 62 泰淳 1954 年 8 月 時間 の魔術 文芸 全集 第 12 巻 p376 63 その後創作したアイヌ民族を題材とする長篇 森と湖のまつり 1955.8 1958.5 雑誌 世界 において この 風景 観は更に展開されていく この作品は別稿で論じたい 64 岡山麻子 29 年 武田泰淳の文化論 日本近代文化への視座と 司馬遷 近代日本研 究 第 26 巻 p121 122 小笠原克 1974 年 1 月 武田泰淳論への試 序 閃 鑠 する世界 北方文芸 7 1 65 泰淳 1971 年 1 月 3 日 風景 と 自然 新潟日報 全集 第 16 巻 p442 169

文京学院大学外国語学部文京学院短期大学紀要 第 1 号 21 主要な参考文献 宇宙風 1935 36 年 上海 宇宙風社 中国文学月報 1971 年 3 月 武田泰淳全集 1978 1982 年 復刻版 全 8 巻 汲古書院 増補版 筑摩書房 竹内好全集 198 1982 年 筑摩書房 武田泰淳 23 年 7 月 身心快楽 武田泰淳随筆選 川西政明編 講談社文芸文庫 石丸晶子 1985 年 2 月 武田泰淳 史記 の解説者から現代作家の道程 昭和文学研究 第 1 集 岡山麻子 29 年 武田泰淳の文化論 日本近代文化への視座と 司馬遷 近代日本研究 第 26 巻 川西政明 2 年 9 月 戦後派の軍歴 武田泰淳と野間宏 群像 木村敏 1982 年 11 月 時間と自己 中公新書 呉 美 28 年 7 月 很黄很暴力 許欽文的 無妻之累 万象 第 1 巻第 7 期 遼寧教育出版 社 河野龍也 26 年 11 月 佐藤春夫 女誡扇綺譚 ある 下婢 の死まで 日本近代文学 第 75 集 佐々木充 1969 年 3 月 武田泰淳における 文化 司馬遷 の成立まで 帯広大谷短期大学 紀要 第 6 号 重岡徹 1998 年 武田泰淳の全体性について または知の倫理性 山口国語教育研究 第 8 号 竹内栄美子 25 年 3 月 批評精神のかたち 中野重治 武田泰淳 EDI 竹内実 198 年 6 月 武田泰淳の中国体験 国文学 解釈と教材の研究 25 7 長田真紀 1994 年 3 月 武田泰淳と 現実へ 二松 第 8 集 長田真紀 1998 年 3 月 武田泰淳研究 戦地から兄宛て書簡を通して 学海 14 号 根岸隆尾 1975 年 7 月 武田泰淳論 民衆 発見を基軸に 評言と構想 第 2 輯 藤井省三 1998 年 5 月 台湾文学この百年 東方書店 松本和也 28 年 記録と思索 武田泰淳 司馬遷 精読 二松 大学院紀要 22 山本幸正 1998 年 3 月 われ また 西湖にありき 支那趣味から武田泰淳 繍 第 1 集 21.1.6 受稿 21.11.24 受理 17