アプロディシアスのアレクサンドロス『運命について』日本語訳・注(Ⅱ)

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アプロディシアスのアレクサンドロス『運命について』日本語訳・注(III・完)

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2 I 3 1 : 13-2 : 10Gesellschafttafel 2 : 11-25Haustafel3 : I 2 : 12 I 2 : 11-3: 7 1.I 2 : Ἀγαπητοί, παρακαλῶ 2 : 11 5 παροίκους καὶ παρεπι




2 可能であった. ローマ市民およびアレクサンドリア, ナウクラティス, プトレマイス, そして 130 年に設立されたアンティノポリスの 4 つのギリシア都市の市民以外の属州住民は, 実際の人種にかかわらず エジプト人 という劣格身分に属した. エジプト人 は 州都民 とそうではないもの, 便宜的

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ii p ϕ x, t = C ϕ xe i ħ E t +C ϕ xe i ħ E t ψ x,t ψ x,t p79 やは時間変化しないことに注意 振動 粒子はだいたい このあたりにいる 粒子はだいたい このあたりにいる p35 D.3 Aψ Cϕdx = aψ ψ C Aϕ dx


Transcription:

Title アプロディシアスのアレクサンドロス 運命について 日本語訳 注 (Ⅱ) Author(s) 近藤, 智彦 Citation 北海道大学文学研究科紀要 = The Annual Report on Cultural Science Issue Date 2015-03-20 DOI 10.14943/bgsl.145.l1 Doc URL http://hdl.handle.net/2115/58314 Type bulletin (article) File Information 145_02_kondo.pdf Instructions for use Hokkaido University Collection of Scholarly and Aca

アプロディシアスのアレクサンドロス 運命について 日本語訳 注 (Ⅱ) 北大文学研究科紀要 145 (2015) アプロディシアスのアレクサンドロス 運命について 日本語訳 注 (Ⅱ) 近藤智彦 ( 承前 ) 運命論に対する批判 Ⅱ: 思案と行為 XI [178.8] あらゆるものごとが何らかの先行し限定された先在する原因の結果として生じる 1 ということから, 人間が自分の行為すべきことについて思案すること (βουλεύεσθαι) もまた無駄だということが帰結する 2 だが, もし思案することが無駄ならば, 人間が思案能力を有する (βουλευτικός) こと 3 が無駄になるだろう 4 しかしながら, もし, 自然本性は主導的 (προηγούμενον) 5 方針 本篇は, 近藤智彦 杉山和希 アプロディシアスのアレクサンドロス 運命について 日本語訳 注 (I) 北海道大学文学研究科紀要 142(2014), 左 1- 左 32[ 以下 日本語訳 注 (I) ] の続篇である 方針の詳細については前篇 日本語訳 注 (I) を参照のこと 注 1 2 3 4 底本に従い ἔσεσθαι を ἕπεσθαι(bruns, fort.) と読む アリストテレス 命題論 18b26-36, 19a7-9 アリストテレス 動物誌 488b24-25 底本に従い μάτην <ἂν> ἄνθρωπος(a 12 ) と読む 5 主導的 (προηγούμενος, προηγουμένως) については, 日本語訳 注 (I) 注 45 を参照 主導的 と 付随的 付属的 との区別は, ストア派に由来するか ( オリゲネス ケルソス論駁 4.74=SVF II. 1157, ストバイオス 抜粋集 2.63.6-25 Wachsmuth=SVF 10.14943/bgsl.145.l1

北大文学研究科紀要にあるかぎりの何ものも無駄に作出することはなく 6, また, 人間が思案能力を有する動物であることは自然本性によって主導的に (προηγουμένως) そう生じているのであって, 主導的に生じるものごとに何か付随したり付属したりする仕方で (κατ ἐπακολούθημά τι καὶ σύμπτωμα) 生じているのではないならば, 人間が思案能力を有することは無駄ではないということ 7 が導出されるだろう [178.15] あらゆるものごとが必然的に生じるならば思案することが無駄になるということは, 思案の用途を知っている者には容易に分かることである 誰もが賛同しているように, 他の動物よりも優れた点として, 人間には次のことが自然本性から与えられている すなわち, 表象 (φαντασία) に他の動物と同じように従うのではなく, 選ばれるべき (αἱρετόν) ものとして [ 表象される ] 何らかのものごとについての入り込んでくる表象の判断者として, 理性 (λόγος) が自然本性から与えられているということである 8 人はその理性を用いることにより, 表象対象が吟味の結果, 当初現われたように実際にもある場合には, その表象に同意 (συγκατατίθεται) して表象対象を追い求めるが, 当初とは異なるものとして現われたり, 他のものの方がより選ばれるべきものとして現われたりする場合には, 当初選ばれるべきものとして現われたものを離れて, そちらを選ぶ (αἱρεῖσθαι) のである 事実, 多くのもの 6 7 8 III. 280, エピクテトス 談義 2.8.6, ゲッリウス アッティカの夜 7.1.7-13=SVF II. 1170 他 ) アリストテレス 天界について 271a33, 291b13-14, 魂について 434a31, 動物の諸部分について 658a8-9, 661b23-24, 動物の発生について 741b4-5, 744a36-37, 政治学 1253a9, 1256b20-21 底本に従い ἂν <τὸ> μὴ(add. a 12 ) と読む 外的状況によって与えられた表象に応じて 同意 (συγκατάθεσις) ( 承認 とも訳される ) をするか否かという局面に, 他の動物とは異なる理性的な人間の特質を見る考え方自体は, ストア派に由来する ( エピクテトス 談義 1.6.12-22, 2.8.7-8 他, マルクス アウレリウス 自省録 3.16, オリゲネス 原理論 3.1.2-3=SVF II. 988, 3.1.5=SVF II. 990 他 ) ただし, 思案能力を重視する考え方は, アリストテレス 魂について 434a5-8 などによるか

アプロディシアスのアレクサンドロス 運命について 日本語訳 注 (Ⅱ) ごとが, 理性による吟味の結果, 最初の表象とは 9 異なるようにわれわれに思われ, もはや当初の把握 10 のままにとどまらないものなのである 11 それゆえ, それらの表象に依るかぎりでは行為されたであろうことが 12, それらについて思案したがゆえに行為されないことになるわけだが, それは, 思案することと思案から帰結したことがらを選ぶこととを, われわれが左右しているためなのである [178.28] それゆえ, 永遠的なものごとや, 必然的に生じると同意されているものごとについては, それらについて思案してもわれわれに何の役にも立たないため, われわれは思案しないのである 13 また, 必然的に生じるのではないが他の人々次第であるものごとについては, やはりそれらについての思案はわれわれに何の益もないため, われわれは思案しない また, われわれに行為可能ではあっても過去となったものごとについては, やはりそれらについての思案はわれわれに何の得にもならないため, われわれは思案しない われわれが思案するのは, われわれによって行為される将来のものごとについてのみであるが, それは明らかに, そのこと [ 思案 ] がそれらを選んで行為することに対して何かしら役に立つだろうとみなしてのことである 14 [179.3] 実際, 思案することが単に思案したことそれ自体以上にはわれわれに何の役にも立たないような場合には, われわれは思案しないわけだが, 9 与格形の ταῖς πρώταις φαντασίαις( 最初の表象 ) を ἀλλοῖα( 異なる ) につなげて読む ( この点については Thillet がおそらく同じ解釈をとっている ) Sharples, Zierl, Natali は, 最初の表象においては異なるようにわれわれに思われたが のように解している 10 先取観念 (πρόληψις) ( 日本語訳 注 (I) 注 14 参照 ) と同じ語であるが, ここでは 11 12 13 14 一般的な意味で用いられていると考えられるため, このように訳しておく 格言的アオリストと解する (Thillet, Zierl, Natali) Sharples は過去時制で とどまらなかった のように訳している 底本に従い γενομένη は読まない (del. V, om. lat.) アリストテレス 命題論 18b26-36, ニコマコス倫理学 1112a21-34, 1139b7-11, 1140a31-b4, エウデモス倫理学 1226a20-b2 底本に従い ἐκ τοῦ βουλεύεσθαι <τοῦ βουλεύσασθαι> αὐτοῦ μόνου(hackforth) と読む

北大文学研究科紀要そうであれば, 実際にわれわれが思案する場合に 15, 思案することが思案したこと以上に何かしら役に立つだろうからそうするのだということは明らかである なぜなら, 前述のような他のものごと 16 について思案する者にも, 思案したことそれ自体はもたらされるからである 17 [179.8] では, 思案からもたらされることとはいったい何であろうか それはすなわち, 行為すべきことを選ぶ力能 (ἐξουσία) をわれわれは有するがゆえに, もし思案しなかったならば行為しなかったであろうことを [ 思案しなかった場合には ] 入り込んできた表象に屈することによって, 他の行為をしただろうから, そのことの方がより選ばれるべきものとして理性を通じて現われた場合には, 代わりに選んで行為する, ということである こうしたことが生じうるのは, われわれが必然的にあらゆる行為をするわけではないならばの話であろう もしわれわれが何らかの先行原因ゆえにあらゆる行為をするのであって, これこれの行為をすることもしないこともできる力能をまったく有することなく, 決定どおりに各々の行為をするのならば ちょうど, 熱する火や, 下方に移動する石や, 斜面を転がる円柱のように 18, 将来なされる行為について思案することが, われわれの実際の行為に対して何の役に立つだろうか というのは, 思案しなくても行為したであ 15 16 17 18 底本に従い ἐν οἷς βουλευόμεθα の前後にコンマを打つ (Hackforth) 上の [178.28] の段落で挙げられた永遠的なものごとや必然的に生じるものごとなどを指す 底本に従い ἐπ αὐτότε を ἐπεὶ αὐτόγε(apelt, Hackforth) と読む ストア派のクリュシッポスは, 人間の心の性向を円柱や円錐の形と類比させつつ, 人間の同意 意欲や行為は各人の性向次第であるという意味で われわれの力で左右される (in nostra potestate) ものである, と論じていた ( キケロ 運命について 41-43=SVF II. 974, ゲッリウス アッティカの夜 7.2.6-14=SVF II. 1000) ただし, ストア派の哲学者ピロパトルに由来すると推測される議論 ( 以下 13 章, 注 43 参照 ) と類似したマルクス アウレリウス 自省録 10.33.3( 偽アリストテレス 宇宙について 398b28 も参照 ) の中に 円柱 への言及があることを考えると, アレクサンドロスがここで直接念頭に置いているのはおそらくピロパトルの議論と考えられる (Bobzien, 1998.1, 394-396)

アプロディシアスのアレクサンドロス 運命について 日本語訳 注 (Ⅱ) ろうことを, 思案した後にも行為することが必然であり, したがって, 思案したことから思案したことそれ自体以上のことは何ももたらされないからである 19 しかしながら, 思案することはわれわれ次第でないものごと 20 の場合も行うことはできるものの, そのような思案は無益とみなしてわれわれは拒否するのである よって [ 運命論者の説に従うと ], われわれに何らかの益をもたらすとみなしてわれわれが思案を用いている場合ですら 21, 思案することが無益となってしまうだろう [179.23] 以上のことから 22, 自然本性によってわれわれが思案能力を与えられたことは無駄であるということが帰結する だがこれに加えて, 彼ら自身を含めたほぼすべての哲学者たちの共通見解となっていること 23, すなわち, 自然本性によって生じることに無駄なものは何もないということを考え合わせるならば 24, われわれが思案能力を有していることは無駄だという帰結をもたらすような前提が否定されることになるだろう だがまさにこの帰結 [ われわれが思案能力を有していることは無駄だということ ] が, われわれは自分自身によって行為されるものごとについてそれと対立することもできるような力能を有していないという前提から, 導かれてしまうのである XII [180.3] すでに示されたように, 彼らに従うと思案が否定されるが, 19 20 21 22 23 24 運命論によると思案が無益なものになってしまうとする議論は, ストア派の運命論に対する批判としては不当であるように思われる クリュシッポスによる 怠惰な議論 (ἀργὸς λόγος) の論駁は ( キケロ 運命について 28-30=SVF II. 956, オリゲネス ケルソス論駁 2.20=SVF II. 957, エウセビオス 福音の準備 6.8.27-29=ディオゲニアノス断片 3 Gercke=SVF II. 998), まさにこうした運命論に対する誤解を解こうとする試みだったと考えられるからである (Meyer 1998, 225-227) ただし, この点に関して, アレクサンドロスの共有するアリストテレス的観点に好意的な解釈の試みとして, Broadie 2001 底本に従い τῶν <οὐκ> ἐφ ἡμῖν(add. Lond. O.) と読む 底本に従い τὸ βουλεύσασθαι の後にコンマは置かない Bruns は,[178.8] の段落と内容上重複することから, この段落が後世の付加ではないかと疑っている 例外として考えられているのはエピクロス派であろう =SVF II. 1140

北大文学研究科紀要われわれ次第のものごともまた否定されることは明らかである というのも, 特定の立場を固守しようとするのでもないかぎり万人が受け入れるところでは 25, われわれ次第のものごととは, われわれの外的状況をなす原因に導かれるまま従ったり屈したりすることなしに 26, それが行為されることも行為されないこともわれわれが左右しているものごとのことだからである 27 そして, 人間に特有の機能 (ἔργον) である選択 (προαίρεσις) も, 同じものごとを対象とする すなわち, 思案に基づいて予め判断されたことを欲求とともに意欲すること (ὁρμή) が, 選択なのである 28 それゆえ, 選択がなされるのは, 必然的に生じるものごとについてでも, 必然的ではないがわれわれを通して生じるのではないものごと 29 についてでもなく, また, われわれを通して生じるものごとのすべてにおいてでもなく, われわれを通して生じるものごとのうち, それを行為することも行為しないこともわれわれが左右しているものごとにおいてなのである [180.12] 何らかのものごとについて思案する者は, そのことを行為すべきかすべきでないかを思案するか, あるいは, 何らかの善をめざして励んで 25 26 27 28 29 165.17-19( 日本語訳 注 (I) 注 16) を参照 一般通念に反したパラドクスを説くストア派を暗に批判しているか アリストテレス ニコマコス倫理学 1096a1-2, エウデモス倫理学 1217a10-14 底本に従い ᾗ ἐκεῖνα ἄγει の後にピリオドを打つ アリストテレス ニコマコス倫理学 1113b6-14, エウデモス倫理学 1222b41-1223a9 ただし, アリストテレスは 行為するか行為しないか が われわれ次第 であると論じるにとどまっていたのに対して, アレクサンドロスは以下でこれを相対立する行為を選ぶことのできる力能として捉え直していく ( 例えば 181.5-6) ここに, アリストテレスには少なくとも明確には見られなかった ( 非決定論的な ) 自由意志と呼びうる考え方が姿を現わすことになる (Donini 1987.2(2011), 145-149,Bobzien 1998.1, 396-412, Bobzien 1998.2,Frede 2011, 95-101, 神崎 2014, 441-442) アリストテレス ニコマコス倫理学 1113a9-11, 1139b4-5 意欲 (ὁρμή) ( 通常 衝動 と訳される ) という語はアリストテレスにも見られるが ( ニコマコス倫理学 1102b21, 1116b30, 1180a23, エウデモス倫理学 1224a13-b15, 1247b18-1248a2, 1248b3-7), ここでの使用はストア派の影響下にあると考えられる 底本に従い μὴ δι ἡμῶν <δὲ>(add. B 2 ; exhibet lat.) と読む

アプロディシアスのアレクサンドロス 運命について 日本語訳 注 (Ⅱ) いて, いかなる手段でそれを得られるかを探求するかのいずれかである 30 探求の際に何か不可能なものごとに行き当たった 31 場合にはそこから離れ, また同様に, 可能ではあるがその人次第ではないものごとからも離れ, 何らかそうする力能を自分が有していると信じているものごとに行き当たるまで, 設定された目的 (προκείμενον) に関する探求を続ける その後, 行為の始源 (ἀρχή) となるもの 32 へと探求を帰着させたとみなしたときに思案するのをやめ, 設定された目的に向けての行為を始めるのである また, そもそも探求がなされるのも, 相対立することも行為できる力能を自分が有しているとみなしてのことである というのは, 思案の対象となる個々のものごとに関して探求が生じるのは, これこれのことと, それと対立することとの, どちらを私は行為すべきか と思案する場合だからであり, それはあらゆるものごとが運命に即して生じると主張しようとも変わりはないのである [180.23] というのは, 行為されうる事柄のうちに示された真理が, それらについての過った信念を反駁するからである あらゆる人間が自然本性によって共通にこのような錯誤に陥っていると論じることが, どうして奇妙でないことがあろうか われわれの抱いている先取観念によると, われわれは行為されうる事柄においては対立することを選ぶことのできる 33 力能を有しており, また, われわれが選ぶことのすべてがそれを選ばざるをえないようにわれわれを仕向ける先行原因を有しているわけではないとされるのだが, そのことは選んだことに対してしばしば後悔が生じるという事実によっても 30 31 32 33 第二の 何らかの善をめざして励んでいて, いかなる手段でそれを得られるかを探求する という説明の方は, アリストテレス ニコマコス倫理学 1112b11-1113a7, エウデモス倫理学 1227a5-21, 1227b22-36 による これに対して, そのことを行為すべきかすべきでないかを思案する という行為選択の局面を強調した説明が第一になされている点に, アレクサンドロスの特徴を見ることができるだろう (Donini 1987.1, 84 n.14, 近藤 2008, 11-13) ただし, 第一の説明に類似の表現も, アリストテレス 魂について 434a5-8 に見出される 底本に従い τύχῃ を ἐντύχῃ(bruns lat. Donini) と読む 底本に従い ἐφ [αὑτό,] ὅ ἐστὶν(donini) と読む 底本に従い διαιρεῖσθαι を αἱρεῖσθαι(bruns coni. in app., lat.) と読む

北大文学研究科紀要十分に示されている なぜなら, そのことをわれわれが選ばないことも行為しないこともできたとみなすからこそ, われわれはそのことを後悔し, 思案が足りなかったと自らを咎めるからである また, 他の人々が行為すべきことについて立派な判断を下さないのを見るときに, われわれが, 彼らは過ちを犯していると非難し, これらの人々は助言者に頼るべきだと考えるのは, 自分に対して助言してくれる人を求めることも求めないことも 34, また 35, そのような人が傍らにいれば実際にする行為とは異なることも 36 行為しうるだろうということも, われわれ次第だとみなしてのことなのである 37 [181.5] しかし, われわれ次第 [ という語 ] が, 相対立することも選ぶ力能がわれわれの内にあるかぎりのものごとについて述定されるということは, ことがら自体 38 からも明らかではあるが, 以上の論によっても十分に確認することができただろう XIII [181.7] これ [ われわれ次第のものごと ] は以上のようなものであるのだが, あらゆるものごとが運命に即して生じると論じている人々は, そのような主張にしたがってもこれ [ われわれ次第のものごと ] が確保されるということを, そもそも示そうと試みもしない ( 実際, それが不可能な試みになる 39 と知っているからだが ) その代わりに, ちょうど偶運の場合に彼ら 34 35 36 37 38 39 底本に従い ἀξιοῦμεν δὲ συμβούλοις τοιούσδε [τοιοῖσδε libri] χρῆσθαι ὡς ἐφ ἡμῖν ὂν τότε παραλαμβάνειν αὑτοῖς συμβουλεύσοντας [αὐτοὺς συμβούλους ὄντας libri] ἢμὴ παραλαμβάνειν(bruns fort., Apelt) と読む Thillet は ἀξιοῦμεν δὲ συμβούλοις τοιοῖσδε χρῆσθαι ὡς ἐφ ἡμῖν ὂν τότε παραλαμβάνειν αὐτοὺς συμβούλους ὄντας ἢ μὴ παραλαμβάνειν, <ὡς ἔχοντες ἐξουσίαν> τοῦ πρᾶξαι ἂν と読み, 助言者として彼らを求めることも求めないこともわれわれ次第であるような, そのような助言者に頼るべきだとわれわれが考えるのは, そのような人が傍らにいれば実際にする行為とは異なることも行為しうる という力能を有している とみなしてのことなのである と解している 底本に従い τοὺς を καὶ τὸ(bruns, fort.) と読む 底本に従い ἄλλα καὶ τινὰ(καὶ del. V 1 y, exh. a 12 ) を καὶ ἄλλα τινὰ(donini, ex lat.(go)) と読む アリストテレス ニコマコス倫理学 1112b10-11 底本に従い αὐτοῦ を αὑτοῦ(donini, ex lat.) と読む 底本に従い ἐγχειρήσαντας を εγχειρήσοντας(b 2 ) と読む

アプロディシアスのアレクサンドロス 運命について 日本語訳 注 (Ⅱ) が為していること すなわち彼らは, 偶運という語に何か他の意味をあてがうことで, 偶運的に生じるものごとがあるということを彼らもまた確保しているかのように, 彼らの議論を聞く人々を欺こうとしているのだが 40 それと同じことを, われわれ次第のものごとの場合にも為している すなわち 41, 人間が相対立することを選んで行為する力能を有していることを否定する一方で, われわれ次第のものごととは われわれを通して 42 生じるものごと であると論じるのである 43 [181.15] 彼らは次のように主張している 存在したり生じたりする様々なものごとの自然本性の間にはそれぞれ違いがある ( 魂のあるものと魂のないものとではその自然本性は同じではなく, 魂のあるものすべての自然本性が同じわけでもない 存在する諸々のものの形相の点での差異が, それぞれの自然本性の差異を示すからである ) そして, 各々のものによって (ὑπό) 生じるものごとは, 各々に固有の自然本性に即して生じる ( 石によって生じるものごとは石の自然本性に即して, 火によって生じるものごとは火の自然本性に即して, 動物によって生じるものごとは動物の 44 自然本性に即して, というように ) したがって, 各々のものによって各々に固有の自然本性に即して生じるものごとは何であれ, 他の仕方であることはありえず, それらによって生じる各々のものごとはすべて必然的な仕方で (κατηναγκασμένως) 40 41 42 43 44 VIII 章 [173.20] の段落を参照 以下,=SVF II. 979 底本に従い καὶ を削除 (B 2 Gercke Donini; om. lat.) B 2 の余白には もしかしたら われわれ次第のものごととは 運命によってもわれわれを通しても生じるものごと (τὸ ὑπότε τῆς εἱμαρμένης γινόμενον καὶ δι ἡμῶν) であると論じる と言うべきか ( すなわち下線部を挿入する提案 ) とある 以下 181.13-182.20 は, エメサのネメシオス ( 後 3-4 世紀 ) 人間の自然本性について 35 章 105.6-106.13 Morani=SVF II. 991 において, クリュシッポスとピロパトル ( 後 2 世紀初頭か ) などのストア派の哲学者に帰されている議論と酷似している 両資料は, ピロパトルがおそらくクリュシッポスの 円柱の類比 の議論 ( 注 18 参照 ) などに基づいて展開した議論を, かなり忠実に紹介したものと考えられる 詳しくは Bobzien 1998.1, 358-412 底本に従い ὑπὸ を削除 (om. lat. Cas.O y)

生じる 強制的 (ἐκ βίας) という意味での必然によってではなく, そのような自然本性をもつものにとっては 45 その時点でそのような仕方以外の別の仕方で動くことは不可能である ( 状況はそのものにとってそのような状況ではないことが不可能であるような 46 ものだから ) という意味での必然によって 47, と彼らは主張するのである なぜなら石も, 高所から放たれたならば, 妨げるものが何もないかぎり下方に移動しないことはありえないからである 48 実際, 石は自らの内に重さを持っており, 重さはそうした運動 [ 下方移動 ] の自然本性に即した原因 49 であるから, 石の自然本性に即した運動に協働する外的原因も臨在するときには, 石は必然的に自然本性的な仕方で移動するのである しかし, それゆえに石がそのとき動く原因が石に臨在することも, 絶対的であり必然的であって 50 それら [ 外的原因 ] が臨在する際には 51, 石が動かないことは不可能である 52 ばかりでなく, そのとき必然的に動くのであるが 53, そうした運動は運命によって (ὑπό) 石を通して (διά) 生じるのである 他のものについても同じように論じられる また, 魂のあるものの場合にも, 魂のないものの場合と同じことがあてはまる, と彼らは主張する すなわち, 動物にとっても自然本性的な運動があり, それは意欲 (ὁρμή) に即した運動である というのは, あらゆる動物が動物とし 54 ておこなう運動とは, 運命によって動物を通して生じる意欲に即した運動 だから, というのである 北大文学研究科紀要 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 底本に従い μὴ を δὴ(gercke) と読む 底本に従い ὡς を付加 (add. Lond.O) IX 章 175.5-7 を参照 底本に従い ἐμποδίζοντος τῷ <γὰρ>(arnim) と読む Zago 2012, 376 n.41 に従い ταύτην δ εἶναι τῆς τοιαύτης κινήσεως κατὰ φύσιν <αἰτίαν> [add. B 2 ] と読み,ταύτην δ εἶναι <τὴν> [add. Bruns] τῆς とする底本の挿入には従わない πάντως から τότε までを括弧に入れる底本の指示 (Arnim) には従わない 底本に従い μὴ を削除 (om. Α 1 Lond., secl. O Bruns) 底本は δυνάμενον(a 12 : δυναμένων V(supr. ν : ι V 1 )B 1 ES) と読んでいるが,δυναμένῳ(H ut vid., Gercke, potente lat.) と読む (Zago 2012, 376-377) Zago 2012, 376 に従い κινεῖσθαι を κινουμένῳ と改変 底本に従い τὴν を付加 (add. B 2 )

アプロディシアスのアレクサンドロス 運命について 日本語訳 注 (Ⅱ) [182.8] このようにして, 世界における様々な運動や活動は運命によって生じるが 例えば, 土を通して生じるものも, 空気を通して生じるものも, 火を通して生じるものも, 何か他のものを通して生じるものもあり, さらには動物を通して生じるものもあるが ( 意欲に即した運動がこれにあたる ), 運命によって動物を通して生じる運動が動物次第である, と彼らは論じる たしかにその運動は, 必然的であるという点では他のものごとすべてと同様の仕方で生じるとされる 55 なぜなら当然, それら [ 動物 ] にも 56 必然的に外的原因がそのとき臨在し, その結果それらは意欲に即した自発的な (ἐξ ἑαυτῶν) 運動を必然的に何らかそうした仕方で行うことになるから 57 しかし, その運動は意欲と同意 58 を通して生じるのに対して, 他のものの運動は, ある場合は重さのゆえに, ある場合は熱さのゆえに, また別の場合は何か他の原因 59 に即して生じるため, 前者の運動については動物次第であると彼らは論じるが 60, 後者の各々の運動については, 例えば石次第であると 55 56 57 58 59 60 底本に従い δὲ を μὲν(arnim) と読む 底本に従い τοῖς を τούτοις(donini) と読む 底本に従いピリオドではなくコンマとする ストア派において人間以外の動物にも 同意 が認められていたかをめぐっては, 解釈上の論争がある ( 認められていなかったとする Inwood 1985, 66-91 に対して, 認められていたとするのは Long 1974, 172-173( 日本語訳 262), Long 1982, 50, Labarrière 1993, 244-249 cf. Sorabji 1993, 41) 動物に 同意 を認めていると考えられる資料は, この箇所 ( およびネメシオスの並行箇所 ) 以外に, キケロ ルクッルス ( アカデミカ第 2 巻 ) 37-39=SVF II. 115 これに対して, 同意 を理性的な存在に限定していると思われる資料は, オリゲネス 原理論 3.1.3=SVF II. 988, セネカ 倫理書簡集 113.18-19 いずれにしても, ストア派は人間の意欲や同意が理性的である点で非理性的な他の動物の場合とは大きく異なると考えていたから ( 注 8 参照 ), ここでのアレクサンドロスの紹介や以下での批判がストア派の運命論に対するものとして妥当かどうかは疑わしい ( シンプリキオス アリストテレス 範疇論 註解 306.19-27=SVF II. 499, アレクサンドレイアのクレメンス ストロマテイス 2.20, 110-111 Stählin, 487 Potter=SVF II.714, ストバイオス 抜粋集 2.86.17-87.1 Wachsmuth=SVF III. 169, プルタルコス ストア派の自己矛盾について 1037F-1038A=SVF III. 175, ディオゲネス ラエルティオス 哲学者列伝 7.86=SVF III. 178 他 ) 底本に従い τινὰ <αἰτίαν>(rodier, Donini) と読む λέγοντες を λέγουσιν(rodier, Donini) と改変する底本の指示には従わない

北大文学研究科紀要か火次第であるとはもはや論じないのである 以上が, われわれ次第のものごとについての彼らの学説の要点である XIV [182.20] われわれ次第のものごとについて万人が共通にもっている先取観念を, 以上のように論じることで彼らが本当に確保しているかどうかは,[ 次の議論から ] 見ることができる あらゆるものごとが運命に即しているにもかかわらずわれわれ次第のものごとが確保されるのはどうしてか, と彼らに問いただす人は, 単に われわれ次第 という語だけではなく, その語が意味する当のものである 自主性 (τὸ αὐτεξούσιον) 61 を前提にして, そのことを問いただしている 実際, われわれ次第のものごととはこのようなものであるとみなされているからこそ, あらゆるものごとが必然的に生じると論じている人々は咎められているのである しかし彼らは 62, 本来は直ちにそれ [ われわれ次第のものごと ] は確保されないと論じた上で, その原因を探求し提示するべきであったのに, そのような立場 [ われわれ次第のものごとが確保されないとする立場 ] はまったくもって考えがたいこと 63, そして, 彼らの学説の多く 64 がわれわれ次第のものごとと同じ羽目に陥ってしまう [ 確保されなくなる ] ことを見て取ったため 65, それ [ われわれ次第のものごと ] が運命論と齟齬しないことを示したのである ただしそれは, われわれ次第のものごとは一切ないと論じる人々にもたらされる不合理を, 語の多義性によって聞き手を欺くことで 66 逃れようと考えてのことであった 67 61 62 63 64 65 66 この語はエピクテトスも 自由 と並べて数回用いているが ( 談義 4.1.56, 62, 68 他, ヒッポリュトス 全異端論駁 1.21=SVF II. 975 も参照 ), アレクサンドロスの頃には われわれ次第 ( のものごと )(τὸ ἐφ ἡμῖν) と同義の術語として用いられるようになっていた (Bobzien 1998.1, 335-336, 355 n.73)( ネメシオス 人間の自然本性について 112.7 われわれ次第のものごとについて, すなわち自主的なものごとについて (περὶ τοῦ ἐφ ἡμῖν, ὅ ἐστι περὶ τοῦ αὐτεξουσίου) ) 底本に従い οἱ δὲ, δέον と区切って読む 底本に従い ἄδοξόν τε を ἄδοξόν τι(hackforth) と読む 特に倫理学に関するストア派の学説を指すと考えられる (Hackforth 1946) 底本に従い πόλλὰ τῶν καὶ αὐτοῖς τοῦ (τῷ ES) ἐφ ἡμῖν πᾶσάν τε ταὐτὸ δεικνὺς を πόλλ ἂν τῶν κατ αὐτοὺς τῷ ἐφ ἡμῖν πάσχοντα ταὐτό, <τοῦτο> ἐδείκνυσαν(hackforth) と読む 底本に従い τῷ(schwartz) を付加

アプロディシアスのアレクサンドロス 運命について 日本語訳 注 (Ⅱ) [182.31] しかし, 彼らが以上のように論じているのに対しては, まず次のように問いただすのが理に適っているだろう すなわち, 様々なものごとが運命によって様々なものを通して生じ 68, 存在する各々のものの固有の自然本性を通して運命が活動しているにもかかわらず, 彼らが それら次第である と述定するのは動物の場合だけであって, 動物以外のものの場合には一切そうしないのはどうしてか, と というのも, 動物を通して生じるものごとが動物次第 69 である理由として彼らが論じていることは, 他の各々のものについても同じく論じることができるからである 実際 70, 動物を通して生じるものごとは, 動物が意欲すること以外の 71 仕方では生じえず 72, 動物が同意し意欲することのゆえに生じ, 同意なしには生じないものであるからこそ, 動物次第なのだと彼らは主張する それ [ 動物を通して生じるものごと ] は, その動物によって必然的に生じるであろうが ( 他の仕方では生じえないから ), その動物以外のものを通しては生じえず, また, その動物を通してはそれ以外の仕方では生じえないがゆえに, その動物次第なのだと彼らは考えるのである [183.10] しかしこれと同じことは, 他の各々のものについても論じることができる 実際, 火を通して生じるものごとも, それ以外のものを通しては生じえず, また, 火を通しては熱することを通して以外の仕方では生じえない したがって, 火を通して生じるものごとは, 火が熱する以外の仕方では生じえず, また, 火が熱すれば生じるが熱しなければ生じないのであるから, 火次第であることになるだろう 同じことは他の各々のものについても言えるだろう 論じていることがらがもはや明白になったのだから, どうしてこれ以上長話をする必要があるだろうか われわれは語についてとやかく 67 68 69 70 71 72 底本に従い ἡγοῦνται を ἡγούμενοι(hackforth) と読む 底本に従い ἄλλως(v.c.v), ἄλλου(cett.) を ἄλλων(lat. Donini) と読む 底本に従い ἐπὶ τῶν ζῴων を ἐπὶ τῷ ζῴῳ(coni. Bruns in app.) と読む 以下,=SVF II. 980. 底本に従い μὴ を ἢ(bruns coni. in app., Arnim) と読む 底本に従い ἄλλως <ἂν>(arnim) と読む

北大文学研究科紀要言っているのではない 動物に対して, それらのもの次第 という語以上の何も保持していないにもかかわらず, それらを通して生じるものごとにおいて, 動物以外のものに比べてより多くを与えていると信じていること 動物以外のものを通しても何らかのものごとは生じるのに, まさにこのことが責められるべきなのである それは, 語の共通性によって 73 彼ら自身が騙されているからか, あるいは, 他の人々を騙そうと意図しているからか 74 のいずれかであろう [183.21] これに加えて, 彼らについて次の点を訝しく思う人もいるだろう 75 すなわち, 彼らはいったいなぜ, われわれ次第のものごとは意欲と同意に存すると主張するのか それゆえ彼らによると, われわれ次第のものごとがすべての動物において同様に保持されることになるのだが という点である 実際, われわれ次第のものごととは, 表象が入り込んできたときに, 表象に対して自発的に (ἐξ ἑαυτῶν) 屈し, その現われたものに向かって意欲することに存するのではない これはおそらく, 本意からのものごと (τὸ ἑκούσιον) を確立し証示するものではあろう しかしながら, 本意からのものごととわれわれ次第のものごとは同じではない 76 なぜなら, 本意か 73 74 75 76 Hackforth 1946 は <οὐ> κοινωνίαν ないし ἀκοινωνίαν と読み, 非共通性 と解することを提案している ( すなわち, ストア派が 次第のものごと という語を動物だけに限定したことを指していると解釈 ) しかしそのような改変は不要であり, ストア派が われわれ次第のものごと という語の意味を他の人々と異なった仕方で捉えているにもかかわらず, その同じ語を言葉の上でだけ共通に用いていることを言っていると解釈すればよい (Sharples) 底本に従い τοῦ を τὸ(bruns coni. in app., Hackforth) と読む 以下,=SVF II. 981. 選択および思案によるものごとと本意からのものごとの区別は, アリストテレス ニコマコス倫理学 1111b6-10, エウデモス倫理学 1223b38-1224a4, 1226b30-36 ただし, われわれ次第のものごとを前者のみに限定する考え方は, アリストテレスには見られない ( ニコマコス倫理学 1113b19-21 他 ) 本意からのものごとを選択とは異なり人間以外の動物や子どもも与るものとしているのは, アリストテレス ニコマコス倫理学 1111a25-26, 1111b8-9, 動物の運動について 703b3-4( ただし, エウデモス倫理学 1224a4-7, 1225a36-b1)

アプロディシアスのアレクサンドロス 運命について 日本語訳 注 (Ⅱ) らのものごととは強制されない同意から生じるものごとである一方, われわれ次第のものごととは理性と判断に即した同意とともに生じるものごとだからである それゆえ, 何かがわれわれ次第であればそれは本意からのものごとでもあるが, 本意からのものごとがすべてわれわれ次第なのではない 非理性的な動物も, それ自身の内の意欲と同意に即して為す 77 限りのことを, 本意から為すのであるが, それ自身によって生じるものごとの一部がそのもの次第であることは, 人間に特有のことなのである というのも, 人間が理性的であることとは 78, 入り込んでくる表象の, そして一般に, 行為すべきことと行為すべきでないこととの判断者および発見者として, 理性を自分自身の内に有することだからである それゆえ, 表象のみに屈する他の動物の場合には, 同意と行為に関する意欲との原因は表象に即したものであるが, 人間は, 行為すべきことについての外から入り込んでくる表象の判断者として理性を有しており, その理性を用いて, 各々の表象が 現われているようなものとして現われているか だけではなく, 現われているようなものとして実際にあるか をも吟味するのである そして, もし理性に即して探求する中で, その表象の実際のあり方が現われ方とは異なることを見出したならば, これこれのように現われているからという理由でそれを受け入れることなく, 実際にはそのようなものではなかったからという理由でそれに対して抵抗するのである 実際このような仕方で, 何かが快いものとして現われていてそれへの欲求をもっている 79 にもかかわらず, 自らの有する理性がその現われに合致しないからという理由で, それを避けることがしばしばあるし, 同様に, 何かが有益なものとして現われても,[ 避けるのがよいと ] 理性に思われた場合には, それを避けるのである [184.11] われわれ次第のものごとは思案を通して生じる理性的な同意に存するにもかかわらず, 彼らはそれが同意と意欲に存すると言っているのだ 77 78 79 底本に従い τὴν ἐν αὐτοῖς <ποιεῖ>(schwartz) と読む 底本に従い τῷ(lond. O Bruns) ではなく τὸ(vha 12 Apelt) と読む 底本に従い ὄρεξιν <ἔχων>(b 2 HES lat.; ante ὄρεξιν a 12 ) と読む

北大文学研究科紀要が, その同意と意欲は非理性的にも生じるものなのだから, 彼らがわれわれ次第のものごとについて粗雑な捉え方しかしていないということは, 彼らの論からして明らかである というのは 80, それがいったい何であるのかも, いかなるものごとの内に生じるのかも, 彼らは論じていないからである 理性的であるとは, 行為の始源であることに他ならない 81 すなわち, 各々のものの本質 (τὸ εἶναι) はそれぞれ異なることに存するように 動物の本質は意欲するものであることに存し, 火の本質は熱いものであり熱するものであることに存し, また別のものの本質は別のことに存する, というように, 人間の本質は理性的であることに存するが, 理性的であることとは, 何らかのことを選ぶ 82 か否かの始源を自分自身の 83 内に有していることに等しい 84 そして, この両者は同一であり, このことを否定することは人間を否定することになるのである [184.20] 彼らは理性をなおざりにして, われわれ次第のものごとが意欲の内にあると考えているようにみえる というのは, もし彼らがわれわれ次第のものごとは思案することに存すると論じるならば, 彼らの詭弁はこれ以上進まないだろうからである 85 意欲の場合には, 動物を通して生じることは意欲なしには為されることができないという理由で, 意欲に即して生じるものごとは動物次第であると論じることができる しかし, もしわれわれ次第のものごとが思案することに存するのであれば, もはや彼らにとって, 人間を通して生じることは他の仕方では生じえないということが帰結しなくな 80 81 82 83 84 85 底本に従い ὅτι を付加 (add. Bruns) アリストテレス エウデモス倫理学 1222b15-1223a16 cf. ニコマコス倫理学 1111a22-24, 1112b31-32, 1113b17-19 底本に従い ἔχεσθαι を ἑλέσθαι(bruns) と読む 底本に従い αὐτῷ(lond.o), τῷ(v lat. a 12 ) を αὑτῷ(bruns) と読む 理性的能力が反対的なものの作出に関わることについては ( 医術の場合には健康と病気 ), アリストテレス 形而上学 1046b1-9, 1048a5-15 ただし, アリストテレスにおいては, 行為選択の局面との関連で論じられてはいない ただし, ストア派が人間を他の動物と区別するものとして挙げるのは, おそらく思案で はなく理性であろう (Bobzien, 1998.1, 385 n.61, 注 8 参照 )

アプロディシアスのアレクサンドロス 運命について 日本語訳 注 (Ⅱ) るだろう なぜなら, 人間は思案能力を有するものではあるが, 人間を通して生じることのすべてが思案を通じて為されるわけではないからである すなわち, われわれは為すことのすべてを思案したうえで為すのではなく, 行為されるべき事柄にとっての適切なタイミングが思案するための時間を許さないときには, しばしば思案せずに為すことがあるし, また, 怠惰その他の原因によってもしばしば思案せずに為すのである 86 しかし, もしわれわれが思案したうえで生じるものごとと, 思案せずに生じるものごととの両方があるのであれば, 思案を通して生じるものごとは 人間を通してはそれ以外の仕方で生じうるものごとは何もないとの理由から 人間次第であると論じる余地はもはやなくなるのである [185.2] したがって, われわれが為すことには, 思案したうえで為すことと思案せずに為すことの両方があるのであれば, われわれを通して生じるものごとは, 動物や火や重い二物体 [ 水と土 ] を通して生じるものごとと同じように, 端的に生じるのではない もしわれわれが思案したうえで何かを為す力能をも自然本性から与えられているのであれば, われわれが思案を通して [ 実際にする行為とは ] 別の行為をすることもできる 思案せずとも 87 [ 行為しただろうこと ] を絶対的に行為するわけではなく という力能を有していることは明らかである さもなければ, われわれが思案することは無駄になってしまうだろうからである 88 XV [185.7] 人が同じ状況下にありながらその時々で異なる活動をするならば, 無原因の運動 (ἀναίτιος κίνησις) が導入されることになる 89 という議論に乗じ 90, それを理由として,[ 実際に ] 行為するだろうことと対立することは行為しえないと論じるのは, これもまた前述の議論と同様の錯誤なので 86 87 88 89 90 アリストテレス ニコマコス倫理学 1111b9-10, 1117a17-22, 1142b2-5 底本に従い <μὴ> βουλευσάμενοι(schwartz, Apelt) と読む 底本に従い <μάτ> ην <γὰρ> ἂν(schwartz) と読む プルタルコス ストア派の自己矛盾について 1045b-c=SVF II.973, キケロ 運命について 20=SVF II. 952 底本に従い ἐποχουμένων を ἐποχουμένους(bruns) と読む

北大文学研究科紀要 はなかろうか 91 というのも, 原因に即して生じるものごとは, それが生じる原因をいつも絶対的に外部にもっているわけではないからである 実際, われわれ次第のものごとがあるのは, 次のような力能のゆえ すなわち, このような仕方で生じるものごとを左右しているのはわれわれであって, 何らかの外的な原因ではないから なのである それゆえ, このような仕方で生じるものごとは, われわれに由来する原因を有しているのであって, 無原因に生じるのではない 92 というのも, 人間は, 自分自身を通して生じる行為の始源であり原因であって, このような仕方で行為することの始源を自分自身の内に有しているというまさにこのことが, ちょうど斜面を転がって移動することが球の [ 本質である ] 93 のと同じように, 人間の本質 (τὸ εἶναι) だからである 94 それゆえ, 他のものは各々その外的状況をなす原因に従うが, 人間はそうではない なぜなら, 人間の本質は, その人の外的状況に絶対的に従うわけではないような仕方で 95, 自らの内に始源と原因を有していることに存するからである [185.21] また, もし仮に 96 行為すべきことについてのわれわれの判断が一つの目標に向かって生じるものだとすれば, 同じものごとに関して常に似 91 92 93 94 95 96 =SVF II. 982. 底本に従い <οὐκ> ἀναιτίως(schulthess O) と読む Bruns は脱落を推測しているが, 底本に従って τὸ εἶναι を意味上補いうると解する (Rodier, Valgiglio) ただし Natali が指摘するように, 斜面を転がって移動すること を球の 本質 と呼ぶのは, いささか奇妙ではある Hackforth 1946 は,ὡς <οὒκ ἔχει ἐν αὐτῇ> ἡ σφαῖρα τοῦ κατὰ τοῦ πρανοῦς κυλιομένῃ φέρεσθαι 球は斜面を転がって移動すること の始源を自らの内に有していない ように とする改変を提案している Sharples が注釈で指摘しているように (Sharples 1991, 177 にも同様の指摘 ), ここでのアレクサンドロスの議論は, キケロ 運命について 23-25 で紹介されるカルネアデスの議論と酷似している ただし,Sharples が注意を促しているように, キケロの紹介に よるとカルネアデスは 心の意志的運動 の原因をその運動自体の自然本性だとしている点で, アレクサンドロスとは微妙に異なる ( ただし, キケロの紹介が正確ではない可能性については, 近藤 2006, 204) 底本に従い <ὡς> μὴ(bruns lat. Donini) と読む 底本に従い εἰ(add. Bruns) を付加

アプロディシアスのアレクサンドロス 運命について 日本語訳 注 (Ⅱ) た判断が生じるとしてもある程度理に適っているかもしれない 97 しかし, 実際はそうではないのである ( すなわち, われわれは選ぶ対象を, 立派さのゆえに選ぶときも, 快さのゆえに選ぶときも, 有益さのゆえに選ぶときもあり, これらのそれぞれを作出するものは同じではない ) 98 したがって, われわれにとっては, 今は立派さへと引き寄せられて状況の中からこれこれのものごとを選好するが 99, 他の場合には快さや有益さに判断を帰着させて他のものごとを選好する, といったこともありうるのである [185.28] 土がそれ自体の内にある重さに即して下方に移動することの原因や, 動物が意欲に即して行為することの原因については, われわれは他の原因を求めることはない なぜならその各々のものが, 自然本性的にそれぞれのようなものであることにより, 生じるものごとに対して自発的に (ἐξ αὐ τοῦ) その原因を提供するからである これに対して, われわれ [ 人間 ] によって生じるものごとの場合には, 同じ 100 状況下でもその時々で相異なる仕方で生じるが, そうしたものごとについてもやはり同じように人間自身以外の原因を追い求めるべきではない というのも, まさにそのこと, すなわち, 自分自身を通して生じる行為の始源であり原因であるということが, 人間の本質だからである [186.3] 思案した者も現われ (φαινόμενον) に同意するのであり, それゆえ他の動物と同様に表象に 101 従っているのだ, と論じるのはただしくない 102 97 98 99 100 101 底本に従い ἂν(add. Bruns) を付加 アリストテレス ニコマコス倫理学 1104b30-35 ただし Donini 1987.2(2011), 149-154 が指摘するように, アリストテレスの場合にはこれら三つの価値基準に基づく 判断の調和を達成しているのが有徳な人と考えられていたから (Burnyeat 1980, 86-88 参照 ), アレクサンドロスが説いている行為選択の可能性は有徳な人には開かれていな いものになるという奇妙な帰結を伴う 底本に従い προκείμενα を προκρίνειν(hackforth) と読む 底本に従い ἄλλοις を αὐτοῖς(fort. Bruns in app.) と読む ただし,ἄλλοις のまま読み 相 異なる状況下でその時々で相異なる仕方で生じる と解することも可能か 底本に従い τὴν φαντασίαν を τῇ φαντασίᾳ(schwartz) と読む 102 =SVF II. 983

北大文学研究科紀要というのは, 現われのすべてが表象であるわけではないからである すなわち表象は, 感覚の活動と似た仕方で, 外から入り込んでくるものによって理性ぬきの単純なものとして生じ, それゆえ非理性的な動物において最も力を発揮するが, 現われのなかには理性を通して推論からそのように現われる原因を得ているものもあって, それはもはや表象とは言われないのである というのも, 自分自身の思案のなかで生じる推論のゆえに何かに同意した者は, 自分自身がその同意の原因だからである 運命論に対する批判 Ⅲ: 運命論の倫理的帰結 XVI [186.13] あらゆるものごとが運命に即して生じる 103 と論じる者が, われわれ次第のものごとを確保していないことも ( われわれが探求しているものは, 彼らの主張では確保されているとしても, 実際には確保されていないのであり 104, むしろ彼らは, そのような事柄が存在することはそもそも可能ではないことの原因を説明しようと試みているようなものだから ), また, そのような力能が否定される原因についての彼らの説明が真ではないことも ( 何ら理に適ったところがないのだから ), 上述のことから明白である さらには, このようにわれわれ次第のものごとの存在を否定する者には, 彼ら次第である限りで, 人間の生を混乱させ転倒させるということが帰結するのである [186.20] もし, 事実はこのようであるにもかかわらず ( 実際, 他の人は言うまでもなく, 彼らの中の誰かであっても, そのことを行為することも行為しないこともできる力能を有しているとその人が [ 実際には ] 自らみなしつつ行為することを, 行為しないように説き伏せることはできない 105 真理は, それほどまでに大きな力と, 実際に生じるものごとに由来する明証的な証拠 103 104 105 底本に従い γίνεσθαι(add. O) を付加 続く οἵ γε 以下とのつながりを考えると,Zierl のように σώζεται を σώζουσιν と改変す る方がよいか 底本に従い μὴ πράττειν, ἃ πράττουσιν ὡς ἔχοντες(bruns: ἔχοντας libri) と読む

アプロディシアスのアレクサンドロス 運命について 日本語訳 注 (Ⅱ) を有しているのである 106 ) もし, こうした事実にもかかわらず, 彼らの学説が万人が信じるほどの力をもつに至ったならば すなわち, われわれは何ごとも左右することはなく, 常に状況に対して屈服し同意してそれに従い, われわれが行為するのはそのことを絶対的に行為するはずであるからであり ( このような状況下でそれ以外のことを為すことはわれわれには不可能だから ), また同様に, われわれが行為しないのもこのような状況を乗り越えることはできないためである, という学説であるが 107, その場合には次のような帰結がどうしても生じてしまうのではなかろうか すなわち, 万人がそのような信念のゆえに, 何らかの苦労や気づかいと共に (μετά) 生じるものごとについてはそれを捨て去り, 安逸に得られる快楽を選ぶことになる 生じるはずのものごとは, それについて自分自分が何ら立派なものごとを為さなくても, 絶対的に生じるだろうと考えて 108 という帰結である 109 人々がこのような状態となり, 行為されるものごとがその人々の選びに従うのであれば ( なぜなら事実そのものは, それに関する間違った信念によって実際と 110 異なるあり方になるわけではないから ), 万人が立派なものごとを軽視するようになり ( そのようなものごとの獲得と所有はすべて労苦と共にもたらされるから ), 悪しきものごとの方を ( 安逸な快楽と共に生じるがゆえに ) 選ぶことになる, という結果に陥るのではなかろうか [187.8] この人々 [ 運命論を信じて怠惰な生を選ぶ人々 ] に対して 111, 彼 106 アリストテレス 自然学 188b29-30, 動物部分論 642a19, 形而上学 984b9-10 107 クリュシッポスによる 円柱の類比 の議論 ( 注 18 参照 ) や,13 章で紹介されていたピロパトルによると推測される議論を考えると ( 注 43 参照 ), 運命論によると行為が外的状況だけによって決定されることになってしまうかのように論じているこのような批判は不当であろう 108 底本に従い ὡς の後にコンマは置かず,<κἂν>(B 2 )μηδὲν αὐτοὶ περὶ αὐτῶν <ποι> ῶσιν (Amand) καλόν と読む 109 このような議論も, クリュシッポスによる 怠惰な議論 の論駁からすると, ストア派の運命論に対する批判としては不当であろう ( 注 19 参照 ) 110 111 底本に従い ἢ(add. a 2 ) を読む 底本に従い προσουτισινὁ(v) を πρὸς οὓς τίς ἂν ὁ(bruns) と読む

北大文学研究科紀要ら [ 運命論を説く哲学者 ] はいかなる議論ができるだろうか 彼らの学説に説得されて, この人々はこのような帰結に至ったというのに もし彼らがこの人々を責めるのであれば, この人々は彼らに対して, このような状況下では他の行為をすることは自分たちにはできなかったのだと, 正当に言い返すことができるだろう このような学説を教えた当の者たちがこの人々を咎めることが, どうして理に適っていると言えようか むしろ彼らに従えば, 非難や懲罰や勧奨や褒賞その他のものは, いずれも固有の自然本性を確保することはなく, これらもそれぞれ, その対象となる事柄と同様に, 必然的な仕方で生じることになるだろう 112 [187.16] 実際, どうしてこれでもなお, プリアモスの息子アレクサンドロスに, ヘレネー誘拐の過ちを犯した責任があると言えようか 113 どうしてアガメムノンが, 自分でも否定しない 114 と言って自分自身を非難したことが正当だと言えようか もしアレクサンドロスがそのとき彼を誘拐へといざなった状況を無視できる力能を有していたならば, あるいは, もしメネラオスが怒りをかきたてた事情を [ 無視できる力能を有していたならば ] 115, あるいは, もしアガメムノンが自ら過ちを犯したと 116 みなして自分自身を責めた 112 アリストテレス ニコマコス倫理学 1109b30-1110a1, 1113b14-1114a3 非難など自体が必然的に生じると論じることの自己矛盾を指摘する同様の議論は, エピクロス ヴァティカン写本教説 40, 自然について 第 25 巻 Laursen 1997, 35-37=Long & Sedley 20C2-7 に見られる ディオゲネス ラエルティオス 哲学者列伝 7.23=SVF I. 298 は, キティオンのゼノンの逸話 ( おそらく後世の捏造であろうが ) として, 運命論の下でも懲罰自体が運命づけられているという論拠で懲罰を正当化する議論を紹介しているが, これをストア派本来の議論として受け取るべきではないだろう (Bobzien 1998.1, 193) 称賛や非難, 賞罰を正当化するより哲学的な議論は, クリュシッポスの 円柱の類比 に求めるべきである ( キケロ 運命について 40=SVF II. 974, ゲッリウス アッティカの夜 7.2.13=SVF II. 1000) 113 底本に従い ἂν(add. B) を読む 114 ホメロス イリアス 9.116 こうしたホメロスの使用はストア派に由来するか 115 116 底本は あるいは, もしメネラオスが怒りをかきたてた事情を [ 無視できる力能を有していたならば ] の部分を, 文脈に合わないとの理由で削除している (Bruns) 底本に従い ἀναμάρτητος(v 1 lat.) を ἂν ἁμαρτήσας(bruns) と読む

アプロディシアスのアレクサンドロス 運命について 日本語訳 注 (Ⅱ) 事柄について [ 力能を有していた ] ならば, 彼らに責任があると言っても理に適っていたことだろう しかし, 咎められる理由となったそれぞれの行いが各々の者について予言されたとして, それが以前から, そのずっと前から, そもそも彼らの中の誰もが生まれる前から真であったのならば 117, どうして彼らにその生じたものごとの責任があると言えようか また, 徳と悪徳もまたわれわれ次第であることを, もはやいかにして説明できようか もしわれわれがこのようなあり方をしているために [ そうなっている ] ならば 118, 称賛を受ける者と非難を受ける者とがいるということがどうして理に適っていると言えようか この学説がもたらすのは, 悪人に対する弁護のたねでしかない 少なくともわれわれが目にするところでは, 善い立派な行為を運命や必然に帰す者は誰もいないが, 悪人たちはそれ [ 運命や必然 ] のゆえにこのような悪人になっているのだと語るのである 悪人たちがそれと同じことを哲学者も言っていると信じるならば, そうした悪行に彼ら自身も自由に向かい, 他の人々にもそれを勧めるといったことを, おおっぴらにするようになるに違いないのではあるまいか XVII [188.1] また, このように論じながら, 死すべきものに対する神々による摂理を確保することがどうしてできようか 119 一部の人々に対して生じると言われる神々の顕現が, 何らかの先行する原因に即して生じるのであ 117 118 119 クリュシッポスは卜占による予言の存在から運命論を証明したとされる エウセビオ ス 福音の準備 4.3.1-2= ディオゲニアノス断片 4 Gercke=SVF II. 939, キケロ 運命 について 11=SVF II. 954 他に, 偽プルタルコス 運命について 574e=SVF II. 912, キケロ 卜占について 1.127=SVF II. 944 底本に従い εἰ γὰρ οὕτως ἔτι δι ἡμῶν(v a 1 Lond. Rodier) を εἰ γὰρ οὕτως ἐχόντων ἡμῶν (coni. Amand) と読む Zierl は εἰ γὰρ οὕτως ἔστι δι ἡμῶν もし [ 徳と悪徳が ] このような仕方でわれわれを通したものであるのならば とする読みを提案している ストア派では一般に運命と摂理は同一のものとされた ( ストバイオス 抜粋集 1.78.18-20 Wachsmuth=アエティオス1.27.5 Diels=SVF I. 176, プルタルコス ストア派の自己矛盾について 1035b=SVF II. 30, ただしカルキディオス ティマイオス註解 144) ストア派において摂理が特に人間に対する配慮を伴うとされていることについては, プルタルコス ストア派の自己矛盾について 1051d-e=SVF II. 1115, 共通 観念について 1075e=SVF II. 1126, キケロ 神々の本性について 2.133-167

北大文学研究科紀要れば ( その人々の誰もが生まれる前から, 神々からの配慮を受ける者もいれば受けない者もいる, ということが真であるような仕方で ), どうしてこれをなお摂理と言うことが正当だろうか その配慮は, 功績に応じて (κατ ἀξίαν) 生じるのではなく, 何らかの先行する必然に即して生じるというのに また, 敬虔であると思われている人々による神々に対する敬虔も, どうして確保されようか そのことを為さないことが彼ら次第ではないがゆえに, そうしているのだとしたら 神々から他の人々よりも多くを授かる者に対してそうしたことが生じるのも, そうしたことの始源が彼らが存在する以前から先行してあるためだということになるだろう [188.11] また, 卜占術も否定せずにどうしていられようか 卜占術の有益性が否定されてしまうからである 120 実際, いったい何を占師から学んだり 121, 学ぶことによって防いだりしうるというのか もし, われわれが学ぶことができ, 占師が示すことができる唯一のものごとが, われわれがそれを学ぶことも 122, その各々のことを為すか為さないかも, われわれが生まれる前から必然的となっていたようなものごとだけであり, また, われわれによって生じるだろうものごとの原因は先行してあるため, 神々によって予言されたことにとどまることがわれわれには左右できないのだとしたら XVIII [188.17] この学説が人間の生全体を転倒させる原因であることは誰にでも容易に分かることであり, その支持者自身ですら自分の議論を [ 実際には ] 信じることができていないということが, それが誤りでもあることを十分に証明している なぜなら彼らは, 実際に議論している際はいつも, こうしたたぐいの学説を他人から一度も聞いたことがないかのように, 自由 120 121 122 運命論に従うと卜占がむしろ無益なものとなるという同様の議論は, エウセビオス 福音の準備 4.3.6-13=ディオゲニアノス断片 4 Gercke=SVF II. 939( おそらくエピクロス派 ), キケロ 卜占について 2.20-25, 神々の本性について 3.14( アカデメイア派 ) など, 広く見られる なお, 本作品に卜占術に対する批判が欠けている点については, 日本語訳 注 (I) 注 2 を参照 底本に従い μαθεῖν を μάθοι(schwartz) と読む 底本に従い τοῦ を τὸ(bruns in app., Donini) と読む

アプロディシアスのアレクサンドロス 運命について 日本語訳 注 (Ⅱ) (ἐλεύθερον) や自主性を守り通しているからである すなわち, 彼らが人々に何かを勧めようと試みるのは, 彼ら自身がそのことを為すことも為さないこともできる力能を有しているとみなしてのことであり, また, 勧める相手が彼らの言葉によって, 彼らが黙っていたならば行為していただろうことと 123 反対のことを選ぶことができるとみなしてのことである 他方, 彼らが人々を非難したり咎めたりするのは, その人々が相応しいことを行為していないとみなしてのことである さらに, 彼らは多くの 124 書き物を, 若者たちを教育する手段になると考えて書き残しているが, 彼らがそうしたのは, 彼らの状況がそのようであったがゆえに書かないこと 125 が妨げられたからではなく, 書くか書かないかは彼ら次第であるが人間愛のために書くことを選んだからなのである XIX [189.9] もし彼らが万人に賛同されていることに注意を向けたならば 126, 議論で他を凌ごうとする虚栄心を捨て去り, われわれ次第のものごととは自由で自主的なものであって, 同じ 状況下でも相対立するものごとのどちらを選んで行為するかを左右できることだと認めたことであろう 127 というのも, 素人であっても立法者であっても同様に正当であると認めている 法が, 人間たちにとって 存在するからである すなわち, 不本意にそのような行為をした者は赦されるのが相応しい, とするものである 128 なぜなら罰は, 生じた事柄に応じてではなく, 行為がなされた仕方に応じて規定されるからである この点に関しては, 他の人々だけでなく彼ら自身も, これをただしくないとみなして責めるなどということはしていないのであ 123 124 125 126 127 底本に従い,ὧν(add. Cas.Lond.O) を付加し,τῶν を αὐτῶν(o) と読む 底本に従い写本通り πλείω( 直訳すれば より多くの ) と読んだが, あるいは πλεῖστα (Bruns in app.) 非常に多くの と改変すべきか 底本に従い <μὴ> συγγράφειν(bruns, coni. in app.) と読む 底本とともに Hackforth による補いに従い,πράξεως ἐπὶ περιεστῶσιν <τοῖς αὐτοῖς, εἰ τοῖς παρὰ πάντων ὡμολογημένοις προσέσχον. ἔστι γὰρ νόμος> ἀνθρώποις と読む ( 訳文中の 内 ) 底本に従い συγχωρησάντων を συνεχώρησαν τῷ(bruns coni. in app.) と読む 128 アリストテレス ニコマコス倫理学 1109b32 他

北大文学研究科紀要る しかし, 行為されていることについての 129 無知のゆえに過ちを犯したり, 強制によって過ちを犯したりする者たちに劣らず 130, 自分が何を行為しているかを知ってはいるが, 絶対的かつ必然的に生じるべき状況の下で実際にする行為以外の行為をする 131 力能を自分自分の内に有していないような者たちも 132, 赦しを受けるに相応しいということになるのではなかろうか なぜなら [ 彼らの説によると ], 彼らの自然本性はこのようなものであり, 彼らの固有の自然本性に即したものごとは, 運命に即して個々の行為をおこなうことだからである 例えば, 重いものにとっては, 高所から手放されたならば下方に移動することが, 滑らかなものにとっては, 手放されたならばそれ自体で斜面に沿って動くことが, そうであるように 実際こうしたこと [ 運命に即して行為した人々を罰すること ] は 133, 馬を人間ではないという理由で罰するのが相応しいとみなしたり, 他の動物の各々をこうした [ 人間以外の動物として生まれたという ] 劣った偶運に遭ったという理由で罰するのが相応しいとみなしたりするのと同じようなことなのである しかし, パラリス 134 のような人物であっても, このような仕方で生じるものごとに基づいて, 為した者を罰するほどに残虐で無思慮ではないだろう では, 罰が理に適っているのは, どのようなものごとに基づいてなされる場合だろうか それは, その人自身の悪しき選びから生じたものごとに基づいて以外ではないだろう 実際, 自ら選ぶ力能を有しながら, 立派さと法とを自らの行為の目 129 底本に従い δι ἄγνοιαν <τῶν> πραττομένων(coni. Casp.O) と読む Bruns, Zierl は πραττομένων を削除している 130 アリストテレス ニコマコス倫理学 では 不本意なものごと (ἀκούσιον) が強制と無知の二点から規定されている (1109b35-1110a1, 1111a2) 131 132 133 134 底本に従い πράττειν(add. y Bruns) を付加 底本に従い οἱ(add. Bruns) を付加 底本に従い τὸ τοῦ を τούτῳ(lat. Donini) と読む シケリア島の都市アクラガスの伝説的な僭主 ( 前 570 年頃 549 年頃 ) 真鍮製の牡牛 に敵を入れて焼き殺したと伝えられるなど, 古代において残虐さの代名詞として知られていた ( ピンダロス ピュティア祝勝歌集 1.185-7, アリストテレス ニコマコス倫理学 1148b24, キケロ トゥスクルム荘対談集 2.17-18, 5.75, 87 他 )

アプロディシアスのアレクサンドロス 運命について 日本語訳 注 (Ⅱ) 標とすることを放棄し, 利得や快楽のためにそれらを無視して愚かなことを為す場合には, その人は罰を受けるに相応しいと万人が考えるのであり, 逆に, このような仕方で過ちを犯したわけではない場合には, 赦しを与えるのである [190.5] 今やすべての悪人たちが, この驚くべき学説を哲学者から学んだ上で, その教師たちに次のことを教える時がきた 135 すなわち, 不本意に過ちを犯す者たちに劣らず, 自分たちもまた赦しを受けるに相応しいのだと 136 なぜなら彼らは, もしかしたら自分で防ぐこともできたかもしれないような 137 何らかの外的強制 (καταναγκάζοντος) によってではなく, 彼ら自身の内の自然本性によって行いを為すのであり, その自然本性から解放されては何ごとも為しえないのだから 138 もしそうであれば, その犯された過ち自体に対して, いったい誰が責任を負いうるだろうか しかし, この学説の唱道者であれ他の誰であれ, 自らの過ちの原因をこのように説明する者は嘘を 139 言っているとみなし, そうした者たちに赦しを与えることはないのであれば, 彼らも他のすべての者も同様に次のことを信じているのは明らかである すなわち, われわれ次第のものごととは, 彼らがこの問題に取り組んで論じる際に捏造しているようなものではなく, 彼ら自身を含めたあらゆる人が実際の活動を通して証言しているような 140 ものごとである, と というのは, 仮 135 136 137 底本に従い ὅρα を ὥρα(lat. E Cas. Casp.O Donini) と読む 底本に従い ἄξιοι(lat. a 2 ; add. post ἀμαρτανόντων B 2 ) を読む 底本に従い ὧν を οἷον(hackforth) と読む 138 Zago 2012, 378-382 に従い,ἀλλ ὑπὸ τῆς φύσεως τῆς ἐν αὐτοῖς, <ἧς> οὐδὲν οἷόν τ ἐστὶν λυθέντας [Hackforth: λαθόντας codd.] ποιῆσαι καὶ τίς οὖν [οὐκ V] ἂν αὐτοῖς τοῖς ἁμαρτανομένοις αἴτιος [a 2 Lond.O.: αἴτιος Va 1 ] <εἴη> [Thillet] と読む 底本は Hackforth の提案に従い,ἀλλ ἀπὸ τῆς φύσεως τῆς ἐν αὐτοῖς οὐδὲν οἷόν τ ἐστὶν λυθέντας ποιῆσαι, καὶ αἰτίας οὐδὲν οὐδ ἐν αὐτοῖς τοῖς ἁμαρτανομένοις ἄξιον と読み, 彼ら自身の内の自然本性から解放されては何ごとも為しえないのであって, まさにその犯された過ち自体においてすら責任を帰されるに相応しい要素は何もないのである と解している 139 140 底本に従い καὶ ψευδεῖ(del. Bruns) を削除 底本に従い δεῖ(del. Bruns) を削除

北大文学研究科紀要に彼らが本当にそのように信じているのであれば, 過ちを犯したすべての者たちを, そのすべての行為をしないでいる力能は有していない者とみなし, 赦すだろうからである XX [190.19] しかし, われわれ次第と呼びうるものごとがあること, そして, その力能のゆえに生じるものごとは無原因に生じるわけではないこと ( なぜなら人間が, 自分自身によって生じるものごとの始源であるかぎりで, このような仕方で生じるものごと [ 自らの行為 ] の原因であるから ), このことは上述のことが十分に示している そして, これに対する反対論を試みている人々 [ 運命論者 ] ですら, もしたとえわずかでも自ら論じている事柄について自分が真実を言っているとみなして すなわち, その時点でその行為をしないこともできる力能を有しているような仕方で, 誰かによって生じるものごとは何一つないと信じて 自分のすべての行為を行うことに踏みとどまるならば, そのことを十分に納得するだろう なぜなら, 本当にこのことを信じているならば 141, 誰かを非難することも, 誰かを称賛することも, 誰かに助言することも, 誰かに勧めることも, 神々に祈ることも 142, 何らかのことについて神々に感謝することも, あるいはそれ以外の, 実際に為す各々のことを為さない 143 こともできる力能を自分は有していると 144 信じている者たちによっては理に適って生じるはずのことを, 為すことができなくなるだろうからである しかしながら, こうしたことなしには, 人間の生 145 はもはや生きられないものとなり, そもそももはや人間の生ではないことになるだろう XXI [191.2] また, 次の点も吟味せずに放ってはおかないでおこう い 141 底本に従い πεπιστευμένῳ を πεπιστευκότι(schwartz) と読む 142 ただし, ストア派における 祈願 は, 神々に何かを為すように通常の意味で求めることではなかったと考えられる ( セネカ 自然探求 2.35, クレアンテスの讃歌 SVF I. 537, I. 527,Algra 2003, 174-177 参照 ) 143 144 145 底本に従い τοῦ <μὴ> ποιεῖν(long) と読む 底本に従い ἐξουσίαν <ἔχειν>(long) と読む 底本に従い βίος(a 2 ) を付加

アプロディシアスのアレクサンドロス 運命について 日本語訳 注 (Ⅱ) ま試みに, われわれ次第のものごとがあるということが 実際そのようにわれわれもみなしており, 事物の自然本性もそう証言しているのだが, あらゆるものごとが必然的に運命に即して生じるということに比べて, よりいっそう真であるということはなく (μηδὲν μᾶλλον ἀληθῆ), その 146 双方が信憑性ないし不明瞭性のうえで同等 (ἐπ ἴσης) だと仮定するとしよう 147 この場合, どちらの学説に従う方が人間にとってより安全で危険が少ないだろうか, そして, どのような誤りの方がより選ばれるべきだろうか 148 すなわち, あらゆるものごとが運命に即して生じるのに 149, そうは考えずに, われわれもまた何がしかを行為するか行為しないかを左右できると考えてしまうことの方であろうか それとも, 先に述べたようにわれわれ次第のものごとがあるにもかかわらず, それは誤りであると信じて,[ 実際には ] われわれの力能に即してわれわれによって為される行為ですら 150, そのすべてが必然的な仕方で生じると信じてしまうことの方であろうか [191.12] いやむしろ, 次のことは明白ではなかろうか もし仮にあらゆるものごとが運命に即して生じるにもかかわらず, 何らかの行為をすることもしないこともできる力能を有していると自ら信じてしまうとしても, そのような人々が行為するにあたってこの信念のせいで過ちを犯すことはないだろう なぜなら, そもそも彼らは自分によって生じるものごとを何ら左右できないのであり, したがってその点での誤りによってもたらされる危険は言葉の上にしか及ばないだろうからである これに対して, もし実際にわれわれ次第のものごとがあり, あらゆるものごとが必然的に生じるわけではない 146 底本に従い αὐτό を αὐτῶν(bruns coni. in app.) と読む 147 よりいっそう ない (οὐ / μὴ μᾶλλον) 同等 (ἐπ ἴσης) は, 懐疑論において, 対立する言論の間に信憑性や明瞭性の点で差がないことを表す際にしばしば用いられる術語 ( セクストス エンペイリコス ピュロン主義哲学の概要 1.188-191 他 ) 懐疑論との関係については 日本語訳 注 (I) 注 24 参照 148 この議論については, パスカル パンセ L418/B233 で論じられる有名な パスカルの賭け との類似が指摘されている (Weidemann 1999, Bonelli 2005) 149 150 底本に従い ἢ(del. B 2 ) を削除 底本の Notes on the Text の解釈に従う

北大文学研究科紀要にもかかわらず, われわれが左右できるものごとは何もないと信じてしまう 151 ならば, 本来われわれによって然るべく行為されたであろうこと そのことについて思案したことによって, または, その行為に関わる苦労を熱心に引き受けることによって 152 の多くを放棄してしまうことになるだろう というのは, 行為されるべきことについてわれわれが何ら尽力しなくても, 生じるはずのことは生じるだろう 153 と信じてしまうため, 自分自身を通して何かを為すということに対してより怠惰になるだろうからである 154 こういうわけであるから, 哲学者の選ぶべきが, より危険の少ない道を自らも選び, 他の人々をもその道に導くことの方であるのは明らかであろう 文献 底本 [Sharples] Sharples, R. W., Alexander of Aphrodisias: On Fate (London, Duckworth, 1983). 他の校訂版 翻訳 注釈 [Bruns] Bruns, I., Supplementum Aristotelicum II.2 (Berlin, Reimer, 1892). [lat.] Thillet, P., Alexandre d Aphrodise: De fato ad imperatores: Version de Guillaume de Moerbeke (Paris, Vrin, 1963). [Magris] Magris, A., Alessandro di Afrodisia: Sul destino (Firenze, Ponte alle Grazie, 1995). [Natali] Natali, C. & Tetamo, E., Alessandro d Afrodisia: Il destino, Seconda edizione riveduta (Sankt Augustin, Academia Verlag, 2009). [Thillet] Thillet, P., Alexandre d Aphrodise: Traité du destin (Paris, Les Belles Lettres, 1984). [Zierl] Zierl, A., Alexander von Aphrodisias: Über das Schicksal (Berlin, Akademie Verlag, 1995). 151 152 153 底本に従い πείθεσθαι <μέλλο> μεν(hackforth) と読む 底本に従い διὰ τοῦ を διὰ τὸ(lat. (?) Cas.Lond.O) と読む 底本に従い ἂν(add. Schwartz) を読む 154 クリュシッポスによる 怠惰な議論 の論駁を念頭に置いた上で, 敢えて批判しているか ( 注 19 参照 )

アプロディシアスのアレクサンドロス 運命について 日本語訳 注 (Ⅱ) 略号 [SVF] Arnim, H. von, Stoicorum Veterum Fragmenta, 3 vols. (Leipzig, Teubner, 1903-1905). [Long & Sedley] Long, A. A. & Sedley, D. N., The Hellenistic Philosophers, 2 vols. (Cambridge, Cambridge University Press, 1987). 研究文献 ( 注で参照したもののみ ) [Algra 2003] ʻStoic theologyʼ, in B. Inwood (ed.), The Cambridge Companion to the Stoics (Cambridge, Cambridge University Press, 2003), 153-178. [Bobzien 1998. 1] Bobzien, S., Determinism and Freedom in Stoic Philosophy (Oxford, Oxford University Press, 1998). [Bobzien 1998.2] Bobzien, S., ʻThe inadvertent conception and late birth of the free-will problemʼ, Phronesis 43 (1998), 133-175. [Bonelli 2005] Bonelli, M., ʻLe pari dʼalexandre dʼaphrodiseʼ, Kairos 25 (2005), 183-197. [Broadie 2001] Broadie, S., ʻFrom necessity to fate: a fallacy?ʼ, Journal of Ethics 5 (2001), 21-37; rpt. ʻFrom necessity to fate: An inevitable step?ʼ in S. Broadie, Aristotle and Beyond: Essays on Metaphysics and Ethics (Cambridge, Cambridge University Press, 2007), 33-49. [Burnyeat 1980] Burnyeat, M. F., ʻAristotle on learning to be goodʼ, in A. Oskenberg Rorty (ed.), Essays on Aristotle s Ethics (Berkeley/Los Angeles, University of California Press, 1980), 69-92.(M F バーニェト / 神崎繁訳 アリストテレスと善き人への学び 井上忠 山本巍編訳 ギリシア哲学の最前線 II 東京大学出版会,1986,86-132) [Donini 1987.1] Donini, P. L., ʻAristotelismo e indeterminismo in Alessandro di Afrodisiaʼ, in J. Wiesner (hrsg.), Aristoteles: Werk und Wirkung, Paul Moraux gewidmet (Berlin/New York, De Gruyter, 1987), II, 72-89. [Donini 1987. 2 (2011)] Donini, P. L., ʻIl ʻDe fatoʼ di Alessandro: questioni di coerenzaʼ, Aufstieg und Niedergang der römischen Welt II 36. 2 (1987), 1244-1259; English translation ʻAlexanderʼs On Fate: questions on coherenceʼ, in P. L. Donini, Aristotle and Determinism (Leuven, Éditions Peeters, 2010), 159-176; rpt. ʻAlexanderʼ s De fato. Problems of coherenceʼ in P. L. Donini, Commentary and Tradition: Aristotelianism, Platonism, and Post-Hellenistic Philosophy, M. Bonazzi (ed.) (Berlin/New York, De Gruyter, 2011), 139-154.( ページ数は 2011 年出版の論文集による ) [Frede 2011] Frede, M., A Free Will: Origin of the Notion in Ancient Thought, edited by A. A. Long (Berkeley/Los Angeles, University of California Press, 2011). [Hackforth 1946] Hackforth, R., ʻNotes on some passages of Alexander Aphrodisiensis De fato, Classical Quarterly 40 (1946), 37-44.

北大文学研究科紀要 [Inwood 1985] Inwood, B., Ethics and Human Action in Early Stoicism (Oxford, Oxford University Press, 1985). [Labarrière 1993] Labarrière, J. -L. ʻDe la ʻnature phantastiqueʼ des animaux chez les Stoïciensʼ, in J. Brunschwig & M. Nussbaum (eds.), Passions & Perceptions (Cambridge, Cambridge University Press, 1993), 225-249. [Laursen 1997] Laursen, S., ʻThe later parts of Epicurus, On nature, 25th bookʼ, Cronache Ercolanesi 27 (1997), 5-82. [Long 1974] Long, A. A., Hellenistic Philosophy (London, Duckworth, 1974). A A ロング / 金山弥平 ( 訳 ) ヘレニズム哲学 京都大学学術出版会,2003 [Long 1982] Long, A. A., ʻSoul and body in Stoicismʼ, Phronesis 27 (1982), 34-57; rpt. in A. A. Long, Stoic Studies (Berkeley/Los Angeles, University of California Press, 1996), 224-249. [Meyer 1998] Meyer, S. S., ʻMoral responsibility: Aristotle and afterʼ, in S. Everson (ed.), Companions of Ancient Thought, vol. 4, Ethics (Cambridge, 1998), 221-240. [Sharples 1991] Sharples, R. W., Cicero: On Fate & Boethius: The Consolation of Philosophy IV.5-7, V (Warminster, Aris & Phillips, 1991). [Sharples 2001] Sharples, R. W., ʻDeterminism, responsibility and chanceʼ, in P. Moraux, J. Wiesner (eds.), Alexander von Aphrodisias (Berlin/New York, De Gruyter, 2001), 513-592. [Sorabji 1993] Sorabji, R., Animal Minds and Human Morals: The Origins of the Western Debate (Ithaca, Cornell University Press, 1993). [Weidemann 1999] Weidemann, H., ʻWetten, daß...? Ein antikes Gegenstück zum Wettargument Pascalsʼ, Archiv für Geschichte der Philosophie 81 (1999), 290-315. [Zago 2012] Zago, G. ʻContributi critici al testo del De fato di Alessandro di Afrodisiaʼ, Rheinisches Museum für Philologie 155 (2012), 364-388. [ 神崎 2014] 神崎繁訳 ニコマコス倫理学 内山勝利 神崎繁 中畑正志編 アリストテレス全集 15 岩波書店,2014 [ 近藤 2006] 近藤智彦 カルネアデスによる運命論批判 キケロ 運命について から 哲学雑誌 121(793) (2006), 198-214 [ 近藤 2008] 近藤智彦 アフロディシアスのアレクサンドロスによる運命論批判はアリストテレス的か? 東北哲学会年報 24 (2008), 1-14 本訳注の作成にあたって杉山和希氏 ( 北海道大学大学院文学研究科 ), 川本愛氏 ( 京都大学大学院文学研究科 ) の協力を得た