研究紀要 第17号(横組:定源(王招國)).pdf
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- ちかこ かたいわ
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1 国 際 仏 教 学 大 学 院 大 学 研 究 紀 要 第 17 号 ( 平 成 25 年 ) Journal of the International College for Postgraduate Buddhist Studies Vol. XVII, 2013 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 定 源 ( 王 招 國 )
2 国 際 仏 教 学 大 学 院 大 学 研 究 紀 要 第 17 号 平 成 25 年 3 月 1 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 定 源 ( 王 招 國 ) はじめに 中 日 兩 國 は 一 衣 帶 水 の 隣 國 で 長 い 友 好 的 な 交 流 の 歴 史 があるそ の 長 い 歴 史 において 友 好 の 使 者 として 兩 國 の 間 を 往 來 した 佛 教 徒 の 姿 に 注 目 すべきである 日 本 には 奈 良 時 代 から 多 くの 僧 侶 が 波 濤 を 乘 り 越 えて 中 國 に 渡 り 逆 に 中 國 からも 多 くの 渡 來 僧 を 迎 えてきた 鎌 倉 時 代 になる と 入 宋 僧 渡 來 僧 を 通 じて 兩 國 の 佛 教 交 流 は 次 第 に 盛 んになった 入 宋 僧 は 宋 での 滯 在 期 間 も 長 く 各 地 の 名 刹 を 遊 歴 し 當 時 の 高 僧 のもとで 教 學 の 理 解 に 努 めたことによって 宋 代 の 佛 教 々 團 において 高 い 評 價 を 得 る ものも 現 れた 宋 における 日 本 僧 の 活 躍 は 中 國 佛 教 史 のみならず 日 本 佛 教 史 上 においても 重 視 すべきである 三 百 十 餘 年 の 歴 史 をもつ 宋 代 は 北 宋 ( )と 南 宋 ( ) に 分 かれている 北 宋 期 は 日 本 平 安 朝 の 藤 原 氏 全 盛 期 にあたり 南 宋 期 は 武 士 の 興 隆 期 となった 鎌 倉 前 期 に 相 當 する 周 知 のように 北 宋 期 におい て 日 本 側 は 海 外 に 出 ることを 禁 じ 一 種 の 鎖 國 時 代 ともいえるので 兩 國 の 交 通 はほぼ 宋 の 商 船 に 限 られていた 當 時 中 國 に 渡 った 入 宋 僧 は 僅 かに 奝 然 ( ) 寂 照 ( 生 卒 年 未 詳 ) 成 尋 ( )などに 過 ぎなか ったしかしながら 南 宋 期 になって 特 に 南 宋 中 期 から 兩 國 の 間 に 積 極 的 な 友 好 政 策 が 展 開 し 入 宋 僧 の 數 は 前 期 に 比 べて 何 倍 も 増 えてきたの である 1 本 稿 で 取 り 上 げる 俊 芿 ( )は 南 宋 中 期 に 入 宋 した 日 本 僧 で 1 木 宮 泰 彦 日 華 文 化 交 流 史 ( 冨 山 房 1955 年 5 月 ) 北 宋 時 代 における 入 宋 僧 一 覧 表 (20 人 )と 南 宋 時 代 における 入 宋 僧 一 覧 表 (109 人 ) 參 照 この 數 は 木 宮 氏 が 言 われたように 寓 目 したもののみ であるから この 他 にもなお 多 數 あったことは 言 うまでもない 216
3 2 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) あり 歸 國 後 京 都 泉 涌 寺 を 開 山 し 新 しい 宋 代 佛 教 を 取 り 入 れ 特 に 律 學 の 宣 揚 に 力 を 注 ぎ 鎌 倉 佛 教 において 北 京 律 の 開 祖 として 高 く 評 價 され ている 俊 芿 は 三 十 四 歳 で 入 宋 し その 滯 在 はおよそ 十 二 年 に 及 んだその 期 間 はほぼ 同 時 期 に 入 宋 した 榮 西 ( 二 回 約 五 年 ) 道 元 ( 約 五 年 ) 圓 爾 ( 約 五 年 )と 比 べ 最 も 長 かったのである 俊 芿 の 六 十 一 年 の 生 涯 は 概 ね 入 宋 前 宋 地 滯 在 歸 國 後 の 三 期 に 大 別 することができる 三 期 のうち 四 十 六 歳 で 歸 國 してからの 活 躍 は 鎌 倉 佛 教 の 研 究 において 特 筆 すべきであるが 宋 地 滯 在 の 行 歴 も 無 視 することができないだろうただし 俊 芿 に 關 する 先 行 研 究 については 多 くの 論 考 は 彼 の 歸 國 後 の 活 動 に 着 目 しており 宋 地 滯 在 の 動 向 については 十 分 に 注 目 されていなかったようである 2 しか し 俊 芿 の 最 も 早 い 傳 記 資 料 とされている 信 瑞 撰 の 泉 涌 寺 不 可 棄 法 師 傳 ( 寛 元 二 年 (1244) 成 立 以 下 不 可 棄 傳 と 略 稱 )は 宋 地 滯 在 の 記 事 が 全 體 の 半 分 近 くを 占 めており 俊 芿 の 入 宋 とその 成 果 は 後 世 において 極 めて 重 要 視 されているまた 俊 芿 渡 宋 の 行 歴 に 關 して 南 宋 から 明 代 までに 成 立 した 中 國 文 獻 においても 幾 つかの 貴 重 な 記 述 が 散 見 される 3 本 稿 では 俊 芿 の 傳 歴 を 全 面 的 に 理 解 するため 中 日 兩 國 の 文 獻 を 取 り 上 げ 俊 芿 渡 宋 の 行 歴 に 絞 って 檢 討 を 試 みたい 一 俊 芿 入 宋 の 目 的 とその 時 代 背 景 俊 芿 入 宋 の 目 的 については 從 來 不 可 棄 傳 にいう 至 三 十 有 三 謂 二 三 子 曰 爲 傳 律 欲 渡 宋 朝 4 によって 戒 律 のため 入 宋 したと 言 われ 2 俊 芿 に 關 する 先 行 研 究 について 高 雄 義 堅 不 可 棄 法 師 俊 芿 の 入 宋 に 就 いて ( 支 那 佛 教 史 學 第 5 號 1942 年 )をはじめ 少 なくとも 40 餘 篇 の 論 文 を 擧 げる ことができるそのうち 石 田 充 之 編 鎌 倉 佛 教 成 立 の 研 究 衾 俊 芿 律 師 ( 法 藏 館 1972 年 )の 一 書 には 17 篇 の 論 考 が 收 められており 俊 芿 研 究 の 大 集 成 とも 言 える 3 俊 芿 に 關 する 記 述 は 中 國 の 資 料 にも 幾 つか 殘 されているこれらを 列 舉 して みると 次 の 如 くである1 宋 宗 鑑 釋 門 正 統 2 宋 志 磬 佛 祖 統 紀 3 宋 北 礀 居 簡 北 礀 集 4 宋 妙 蓮 蓬 折 箴 5 宋 了 然 等 俊 芿 律 宗 問 答 6 宋 守 一 終 南 家 業 7 宋 樓 鑰 攻 媿 集 8 宋 楊 簡 慈 湖 遺 書 9 元 盛 如 梓 老 學 叢 談 10 明 克 勤 書 215
4 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 3 ている 問 題 は なぜ 戒 律 のために 入 宋 したのかであるこれに 關 して まず 俊 芿 入 宋 前 の 修 學 情 況 當 時 の 時 代 背 景 特 に 戒 律 の 状 況 をすこし 考 える 必 要 がある 俊 芿 は 仁 安 元 年 (1166) 八 月 十 日 肥 後 國 飽 田 郡 甘 木 莊 ( 現 在 の 熊 本 縣 上 益 城 益 城 町 甘 木 )に 生 まれ 父 の 名 は 不 明 母 は 藤 原 氏 の 出 であった 生 まれて 三 日 目 に 道 に 捨 てられたことから 不 可 棄 と 號 した 5 七 歳 か ら 佛 典 を 讀 み 始 め 十 歳 のとき 吾 平 山 の 學 頭 禪 坊 莊 嚴 から 法 華 經 を 授 けられた 十 四 歳 になって 飯 田 山 ( 現 在 の 益 城 町 ) 常 樂 寺 の 眞 俊 法 師 6 に 師 事 し 十 八 歳 で 正 式 に 得 度 した 翌 年 文 治 元 年 (1185) 四 月 八 日 十 九 歳 で 大 宰 府 觀 音 寺 において 具 足 戒 を 受 けた 十 四 歳 から 十 九 歳 にかけて 主 に 眞 俊 のもとで 天 台 密 教 の 教 理 を 刻 苦 勉 學 し 年 少 にもかかわらず 眞 俊 撰 の 秘 密 莊 嚴 記 百 卷 の 筆 録 を 任 せられたという 7 眞 俊 の 示 寂 後 その 法 弟 である 相 俊 に 師 事 して 引 き 續 き 天 台 密 教 を 學 び その 奥 義 を 傳 授 された 實 際 に 俊 芿 は 天 台 と 密 教 を 勉 學 しながら 律 の 教 學 にも 志 を 向 けたこ とになる 不 可 棄 傳 に 曁 二 十 七 歳 喟 然 歎 曰 生 死 難 斷 輪 轉 無 窮 若 不 戒 行 專 精 如 何 證 菩 提 8 4 大 日 佛 書 115 p 不 可 棄 傳 師 曽 語 曰 十 八 部 主 中 有 大 不 可 棄 彼 生 已 即 棄 大 池 中 魚 鼈 戴 之 三 日 不 死 人 奇 收 養 我 被 棄 事 似 彼 相 故 自 號 不 可 棄 參 照 ( 大 日 佛 書 115 p. 519) 6 常 樂 寺 の 眞 俊 について 叡 山 西 塔 院 の 東 陽 座 主 で 天 台 密 教 者 である 谷 の 阿 闍 梨 皇 慶 四 代 の 法 孫 であった 忠 尋 ( )から 天 台 教 學 を 受 け 不 可 棄 傳 には 顯 密 兼 學 大 小 並 達 と 記 述 されている 田 中 恵 春 氏 天 台 座 主 東 陽 房 忠 尋 師 傳 考 參 照 ( 大 崎 學 報 年 pp ) 7 不 可 棄 傳 撰 秘 密 莊 嚴 記 一 百 卷 法 師 雖 少 年 掌 執 筆 事 參 照 ( 大 日 佛 書 115 p. 519) 8 大 日 佛 書 115 p
5 4 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) と 述 べられている 即 ち 二 十 七 歳 になって 戒 行 に 專 念 しなければ い かに 菩 提 を 證 し 得 るかと 歎 き 禁 戒 の 修 行 を 志 したことになるその 後 二 十 九 歳 までの 二 年 間 南 北 二 京 いわゆる 奈 良 と 京 都 を 往 復 して 大 小 乘 の 戒 律 を 尋 ねていた 凝 然 ( ) 撰 の 東 大 寺 圓 照 上 人 行 状 の 卷 中 に 昔 俊 芿 法 師 來 至 南 都 値 勝 願 院 蓮 迎 上 人 聽 行 事 鈔 後 往 大 宋 値 如 庵 了 宏 律 師 大 傳 律 藏 9 とあるこれによって 入 宋 前 の 俊 芿 は 南 都 ( 奈 良 )において 勝 願 院 の 蓮 迎 上 人 から 唐 の 道 宣 ( ) 四 分 律 行 事 鈔 を 學 んだことが 分 かる 俊 芿 が 南 都 において 中 國 の 律 學 を 研 修 したことは 後 に 入 宋 の 意 志 を 固 め た 契 機 の 一 つとなった 可 能 性 がある なお 俊 芿 は 南 北 二 京 を 往 來 して 戒 律 を 研 鑽 したが なかなか 滿 足 でき ず ついに 二 十 九 歳 で 故 郷 の 肥 後 に 歸 り 筒 嶽 ( 現 在 の 熊 本 縣 荒 尾 市 附 本 町 ) に 正 法 寺 を 建 て 坐 禪 勤 行 を 重 ねたほか 僧 徒 や 在 家 者 に 菩 薩 戒 を 授 け たのである 三 十 歳 の 時 密 教 作 法 を 行 い 不 動 明 王 を 祈 願 して 大 檀 那 で あった 秦 小 大 夫 の 娘 の 病 氣 を 治 したこともあった 10 要 するに 入 宋 前 の 俊 芿 は 律 學 を 勉 強 しながら 天 台 や 密 教 を 併 修 したことが 窺 い 知 られる 俊 芿 の 入 宋 前 は いわゆる 鎌 倉 前 期 にあたり 當 時 は 奈 良 と 京 都 におけ る 律 學 の 傳 統 は 必 ずしも 一 致 していなかったようである 周 知 のように 鑑 眞 ( )が 唐 の 天 寳 十 二 年 (753)に 日 本 に 渡 來 し 翌 年 道 宣 の 戒 壇 圖 經 によって 東 大 寺 に 戒 壇 を 設 け 具 足 戒 を 授 けたのであるのち に 唐 招 提 寺 を 建 立 して 主 に 道 宣 の 南 山 律 宗 という 律 學 を 宣 揚 したつまり 南 都 における 律 學 は 唐 僧 鑑 眞 の 影 響 によって 奈 良 の 東 大 寺 と 唐 招 提 寺 を 據 9 凝 然 撰 東 大 寺 圓 照 上 人 行 状 東 大 寺 教 學 部 編 1977 年 p 二 十 九 歸 于 本 國 蟄 居 筒 嶽 伐 拂 松 杉 芟 夷 荊 棘 建 一 伽 藍 號 正 法 寺 二 時 坐 禪 三 時 勤 行 ( 中 略 ) 又 檀 那 當 國 在 廰 秦 小 大 夫 娘 生 年 十 九 腹 病 彌 留 ( 中 略 ) 法 師 獨 演 說 不 動 明 王 能 延 六 月 ( 中 略 ) 病 苦 遂 愈 身 心 爽 淑 父 母 愉 悅 將 歸 于 家 參 照 ( 大 日 佛 書 115 pp ) 213
6 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 5 點 とし 主 に 四 分 律 による 道 宣 の 南 山 律 を 重 視 する 傳 統 を 持 ったこと になる 一 方 北 京 の 場 合 は 入 唐 の 經 驗 を 持 つ 最 澄 ( )によっ て 菩 薩 戒 本 の 梵 網 經 に 基 づいて 大 乘 圓 頓 戒 壇 の 獨 立 を 宣 言 した 最 澄 の 立 場 は 梵 網 經 に 説 く 戒 律 だけで 僧 の 資 格 が 十 分 備 わることを 主 張 し 戒 律 條 規 の 形 式 に 拘 らず 大 乘 の 精 神 を 重 視 した 更 に 四 分 律 を 中 心 とした 南 都 の 自 利 的 な 小 乘 律 を 痛 烈 に 批 判 したこともある 實 は 平 安 末 期 まで いちおう 大 小 戒 律 の 條 規 に 從 っていたが 戒 律 の 詳 細 的 な 實 踐 方 法 を 知 らず 戒 制 行 儀 に 對 する 解 説 の 見 解 にも 分 岐 を 生 じたのである 例 え ば 無 住 ( ) 撰 の 沙 石 集 ( 弘 安 二 年 (1279) 成 立 ) 第 三 律 學 者 之 學 與 行 相 違 セリ 事 の 項 には 唐 龍 興 寺 ノ 鑑 眞 和 尚 聖 武 天 皇 御 宇 ( 本 ) 朝 來 テ 南 都 ノ 東 大 寺 鎮 西 ノ 觀 音 世 寺 下 野 ノ 藥 師 寺 三 ノ 戒 壇 ヲ 立 給 シ 毘 尼 ノ 正 法 ヲヒ ロメ 如 法 ノ 受 戒 ヲ 始 メ 行 セシカトモ 時 キウツリ 儀 スタレテ 中 古 ヨリ 只 受 戒 トイヒテ 諸 國 ヨリ 上 アツマリ 戒 壇 ハシリメクリタル 計 テ 大 小 ノ 戒 相 モシラス 化 制 ノ 行 儀 モ 辯 ス 11 と 指 摘 されているこのように 當 時 の 僧 團 において 僧 侶 らが 興 に 乘 じて 戒 律 を 守 らないという 事 態 が 生 じ 戒 律 の 條 規 は 次 第 に 形 式 化 して 衰 微 し ていった 同 集 第 三 は 次 のように 傳 えている 戒 行 ヲ 守 ルト 雖 モ 涅 槃 ヲ 期 セスシテ 渡 世 ヲ 意 トスル 故 也 此 ノ 人 供 養 ヲ 受 クヘカラスト 云 ヘリマシテ 破 戒 無 慚 ニシテ 出 家 ノ 形 トシ テ 解 脱 ヲ 期 セサリカ 空 ク 供 養 ヲウルヲハ 賊 分 齋 トテ 賊 分 ト 云 ヘ リ 或 禿 居 士 トモナツク 袈 裟 ヲキタル 獵 師 トモ 云 ヘリ 悲 シカルヘキ 末 代 也 土 屋 由 里 子 内 閣 文 庫 藏 沙 石 集 翻 刻 と 研 究 笠 間 書 院 2003 年 3 月 p. 127また 凝 然 撰 東 大 寺 圓 照 上 人 行 狀 に 然 震 旦 古 來 解 四 分 律 將 二 十 家 傳 日 域 者 智 首 法 礪 懷 素 三 家 現 行 于 世 定 賓 律 師 唯 釋 礪 疏 講 師 聽 衆 於 三 家 疏 各 隨 所 樂 料 簡 律 文 參 照 ( 東 大 寺 教 學 部 編 1977 年 p. 2) 212
7 6 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) こうした 状 況 を 受 けて 當 時 の 佛 教 界 では 實 に 戒 律 復 興 の 動 きが 見 られ たこともあった 例 えば 實 範 (? 1144)は 多 くの 戒 律 著 作 をなし 南 都 の 中 川 寺 と 興 福 寺 を 中 心 に 戒 法 を 復 興 した 13 實 範 の 戒 法 復 興 への 志 は 興 福 寺 の 藏 俊 そして 藏 俊 からその 弟 子 覺 憲 および 貞 慶 まで 受 け 繼 がれ ていった 14 このように 鎌 倉 時 代 における 戒 律 状 況 はようやく 復 興 の 兆 しが 見 えてきたようである 先 にも 触 れたように 俊 芿 は 二 十 七 歳 から 二 十 九 歳 までの 二 年 間 南 北 兩 京 を 往 復 し 特 に 南 京 における 勝 願 院 の 蓮 迎 上 人 のもとで 四 分 律 行 事 鈔 を 聽 講 したが 當 時 の 佛 教 々 團 における 僧 侶 生 活 は 物 質 的 享 樂 を 求 め 墮 落 の 一 途 をたどったのが 事 實 であるこれは 戒 行 に 專 念 した 俊 芿 にとっ て 戒 律 のための 入 宋 志 願 を 一 層 固 くさせる 要 因 となったこのように 俊 芿 入 宋 の 目 的 は ほぼ 同 時 期 に 入 宋 した 榮 西 道 元 など 禪 僧 らと 比 べて 見 ると 極 めて 異 なっており ある 意 味 で 當 時 の 實 情 の 一 面 を 反 映 したと いえよう また 俊 芿 入 宋 の 念 願 を 實 現 した 背 景 には 當 時 の 宋 日 兩 國 間 の 交 通 を 無 視 することができない 北 宋 の 初 め 太 宗 の 時 期 ( )から 杭 州 に 兩 浙 市 舶 司 を 設 置 して 海 外 貿 易 を 統 制 した 眞 宗 の 咸 平 二 年 (999) 九 月 杭 州 と 明 州 にそれぞ れ 市 舶 司 を 増 置 したが 神 宗 の 元 豊 三 年 (1080)になって 日 本 への 商 船 を 明 州 舶 司 の 管 轄 に 限 定 した 當 時 日 本 では 海 外 に 出 ることは 禁 じられ ていたが 二 年 ごとの 貿 易 通 航 が 許 可 されたようであるそのため 北 宋 期 の 入 宋 僧 は 大 體 商 船 を 通 じて 中 國 に 渡 り 五 臺 山 天 台 山 などの 聖 地 を 巡 禮 したのが 殆 どである 12 土 屋 由 里 子 内 閣 文 庫 藏 沙 石 集 翻 刻 と 研 究 ( 笠 間 書 院 2003 年 3 月 pp ) 13 凝 然 撰 東 大 寺 圓 照 上 人 行 狀 に 保 安 三 年 壬 寅 鑑 眞 和 尚 來 朝 已 後 惣 經 三 百 七 十 一 年 其 時 中 川 本 願 實 範 上 人 酬 興 福 寺 西 金 堂 衆 欣 西 大 德 之 請 廣 撿 律 藏 專 依 律 抄 造 戒 壇 式 一 卷 製 別 解 脫 一 軸 中 興 戒 法 參 照 ( 東 大 寺 教 學 部 編 1977 年 p. 2) 14 アジア 佛 教 史 日 本 編 V 鎌 倉 佛 教 3 第 三 章 南 都 佛 教 の 復 興 戒 律 の 廢 頽 參 照 ( 佼 成 出 版 社 1972 年 pp ) 211
8 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 7 ところが 南 宋 期 になって 兩 國 の 間 に 積 極 的 な 友 好 政 策 を 展 開 してお り 宋 日 の 交 通 が 再 び 活 潑 になってきたしかし 日 本 との 直 接 貿 易 地 と しては 北 宋 と 同 じく 兩 浙 の 地 方 に 限 られていた 南 宋 の 高 宗 期 ( )には 兩 浙 の 市 舶 司 が 秀 州 華 亭 縣 に 置 かれ 杭 州 明 州 温 州 江 陰 軍 ( 現 在 の 江 蘇 常 州 市 江 陰 縣 )の 四 つの 市 舶 司 が 統 轄 されたことになる 光 宗 の 紹 熙 元 年 (1190)には 杭 州 の 市 舶 司 が さらに 寧 宗 の 慶 元 元 年 (1195)に 温 州 秀 州 江 陰 軍 の 市 舶 司 が 廢 され 殘 るのは 明 州 の 市 舶 司 だけとなった 宋 史 卷 四 百 九 十 一 の 記 事 によれば 淳 熙 三 年 (1176) に 日 本 船 が 明 州 に 漂 着 し 淳 熙 十 年 (1183)には 日 本 人 七 十 三 名 が 秀 州 に 着 き 紹 熙 四 年 (1193)には 同 じ 秀 州 また 泰 州 に 到 着 した 日 本 人 があっ たという 15 一 方 南 宋 期 にあたる 日 本 側 では ちょうど 平 氏 の 政 權 から 鎌 倉 時 代 に 移 り 民 間 の 自 由 貿 易 が 認 められ 貿 易 港 として 前 期 と 同 様 筑 前 の 博 多 津 が 主 要 な 役 割 を 担 ったのである 俊 芿 は 入 宋 の 際 弟 子 の 安 秀 長 賀 とと もに 商 人 莊 次 郎 の 商 船 に 乘 って 博 多 津 を 出 港 し およそ 半 月 かかって 常 州 の 江 陰 軍 に 着 いたのである 先 にも 触 れたように 慶 元 元 年 (1195) 以 降 兩 浙 の 市 舶 司 は 明 州 の 貿 易 港 のみとされたが 俊 芿 入 宋 の 場 合 をみ ると 實 際 に 例 外 もあったことが 認 められ この 事 實 は 注 意 すべきである 俊 芿 入 宋 の 時 期 は 宋 室 南 渡 (1127) 後 の 七 十 二 年 にあたり 南 宋 中 期 と 言 ってもよいこの 期 間 宋 日 の 通 商 が 更 に 盛 んとなり それに 伴 って 當 時 入 宋 した 日 本 僧 の 數 は 以 前 より 格 段 に 増 加 していったそれと 同 時 に 南 宋 から 日 本 に 渡 航 する いわゆる 中 國 の 渡 來 僧 も 現 れてきた 16 要 する に 宋 日 間 の 頻 繁 な 交 通 は 俊 芿 入 宋 の 悲 願 を 果 たす 有 利 な 條 件 となった わけである 15 ( 淳 熙 ) 三 年 風 泊 日 本 舟 至 明 州 ( 中 略 ) 十 年 日 本 七 十 三 人 復 飄 至 秀 州 華 亭 縣 給 常 平 義 倉 錢 米 以 振 之 紹 熙 四 年 泰 州 及 秀 州 華 亭 縣 復 有 倭 人 爲 風 所 泊 而 至 と 見 える( 二 十 五 史 36 宋 史 臺 灣 藝 文 印 書 館 1967 年 p. 5866) 16 木 宮 泰 彦 日 華 文 化 交 流 史 の 來 朝 宋 僧 一 覧 表 (14 人 ) 參 照 ( 冨 山 房 1955 年 5 月 pp ) 210
9 8 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 二 南 宋 において 遊 學 した 寺 院 周 知 のように 京 都 泉 涌 寺 は 俊 芿 によって 創 建 された 伽 藍 であるその 創 建 にあたり 承 久 元 年 (1219) 十 月 俊 芿 の 手 による 造 泉 涌 寺 勸 進 疏 には 次 のように 記 されている 俊 芿 去 建 久 末 年 志 道 度 大 洋 在 唐 一 紀 遊 學 積 歳 歸 朝 九 春 守 (ママ) 拙 從 容 事 不 獲 已 將 遂 宿 懷 所 以 親 臨 中 華 之 寺 模 兼 尋 西 幹 之 古 風 建 立 伽 藍 之 依 規 17 建 久 末 年 ( 正 治 元 年 ) 南 宋 慶 元 五 年 (1199)に 俊 芿 は 佛 法 を 志 して 入 宋 し 一 紀 ( 十 二 年 )にわたって 遊 學 した 歸 國 の 九 年 後 渡 宋 の 宿 志 をは たすため 中 華 ( 宋 ) 寺 院 の 様 式 に 基 づき さらに 西 乾 18 の 古 風 を 探 り 泉 涌 寺 を 建 立 した 不 可 棄 傳 で 親 模 大 宋 儀 則 者 唯 此 一 寺 而 已 19 と 指 摘 されたように 泉 涌 寺 の 儀 則 はかなり 宋 代 寺 院 に 倣 ったものであった 20 それでは 俊 芿 は 宋 地 滯 在 の 間 にどのような 寺 院 を 遊 學 したのか 北 宋 期 の 入 宋 僧 と 違 い 南 宋 期 の 入 宋 僧 はほとんど 五 臺 山 などの 北 方 へ 赴 こうとしても 結 局 志 が 果 たされず 南 方 の 天 台 山 を 中 心 にして 兩 浙 17 泉 涌 寺 史 資 料 篇 ( 法 藏 館 1981 年 p. 6) 18 明 の 元 賢 撰 禪 林 疏 語 考 證 巻 一 に 事 苑 を 引 いて 西 乾 即 天 竺 國 五 印 土 或 云 西 天 と 見 える( 續 藏 經 112 p. 797) 19 大 日 佛 書 115 p その 中 宋 代 寺 院 の 十 六 觀 堂 が 泉 涌 寺 に 建 立 されたことについては 既 に 高 雄 義 堅 氏 と 小 川 貫 弌 氏 の 論 考 がある 高 雄 氏 不 可 棄 法 師 俊 芿 の 入 宋 に 就 いて ( 支 那 佛 教 史 學 年 ) 參 照 小 川 氏 十 六 觀 堂 とその 實 踐 ( 小 笠 原 宮 崎 兩 博 士 華 甲 記 念 史 學 論 集 龍 谷 大 學 史 學 會 1966 年 ) 參 照 それ 以 外 に 宋 儀 則 の 泉 涌 寺 への 影 響 として 注 目 すべきなのは 泉 涌 寺 における 宋 代 寺 院 の 三 世 佛 制 轉 輪 寶 藏 建 立 である 三 世 佛 制 の 場 合 は 泉 涌 寺 殿 堂 房 寮 色 目 において 右 佛 殿 者 安 置 釋 迦 過 去 佛 丈 六 彌 陀 現 在 佛 丈 六 彌 勒 未 來 佛 丈 六 三 世 之 教 主 以 爲 一 寺 崇 仰 之 本 尊 也 大 唐 諸 寺 並 皆 如 此 寶 輪 法 藏 の 場 合 は 右 輪 藏 者 安 置 唐 本 一 切 經 於 八 角 輪 層 之 中 若 有 人 一 轉 此 藏 則 擬 轉 讀 一 切 經 一 藏 也 起 自 梁 傅 大 士 彌 勒 化 身 也 利 生 之 門 至 今 宋 朝 以 爲 盛 矣 とある 209
10 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 9 路 の 境 内 で 參 學 した 理 由 は 宋 室 南 渡 の 後 北 方 が 戰 乱 の 地 となったこと によるだろう 南 宋 における 俊 芿 の 足 蹟 については 不 可 棄 傳 では 遊 兩 浙 名 境 と 述 べられているこの 兩 浙 名 境 は 元 亨 釋 書 では 兩 浙 名 藍 21 となっており 即 ち 兩 浙 22 の 名 刹 を 遍 遊 したことを 意 味 して いる 以 下 では 俊 芿 が 遊 學 した 寺 院 所 謂 兩 浙 の 名 藍 を 檢 討 してみたい ( 一 ) 天 台 山 の 寺 院 天 台 山 といえば 國 清 寺 を 始 め 多 くの 寺 院 があり 天 台 宗 の 本 據 地 とし て 知 られている 從 來 北 方 の 五 臺 山 とともに 唐 宋 時 代 において 空 海 最 澄 圓 仁 圓 珍 成 尋 重 源 など 日 本 僧 が 訪 れた 聖 なる 巡 禮 地 の 一 つで ある 天 台 山 の 寺 院 と 日 本 僧 の 關 係 は すでに 齋 藤 忠 氏 23 によって 詳 しく 論 考 されているここでは 齋 藤 氏 の 研 究 を 踏 まえ 不 可 棄 傳 の 記 録 に より 俊 芿 の 歴 訪 した 天 台 山 の 寺 院 を 紹 介 したい 南 宋 における 俊 芿 の 足 蹟 を 考 察 すると 少 なくとも 三 回 にわたって 天 台 山 を 訪 れたことがあり 計 一 年 ほど 天 台 山 に 滯 在 したことが 知 られる 慶 元 五 年 (1199) 五 月 俊 芿 が 商 船 で 常 州 の 江 陰 軍 に 着 いた 直 後 都 の 杭 州 を 經 由 して まず 天 台 山 に 參 詣 し 石 橋 の 五 百 羅 漢 に 茶 を 以 って 供 養 した 天 台 山 の 石 橋 は 石 が 橋 のように 斷 崖 にまたがっており 山 中 の 景 勝 地 の 一 つであるそこには 瀑 布 寺 ( 石 梁 寺 ) 24 という 寺 院 があり 從 來 五 百 21 大 日 佛 書 115 p 兩 浙 とは 宋 史 卷 八 十 八 地 理 志 第 四 十 一 ( 二 十 五 史 31 宋 史 二 臺 灣 藝 文 印 書 館 1967 年 p. 1072)によれば 北 宋 の 神 宗 熙 寧 七 年 (1074)に 浙 東 路 と 浙 西 路 に 分 けられ その 後 合 わせて 一 路 とされた 南 宋 期 になって 浙 西 路 には 帝 都 臨 安 ( 杭 州 )をはじめ 平 江 鎮 江 嘉 興 の 四 府 安 吉 常 嚴 の 三 州 江 陰 の 一 軍 が 含 まれ 浙 東 路 には 紹 興 慶 元 瑞 安 の 三 府 婺 台 衢 處 の 四 州 が 含 まれたその 地 域 の 範 圍 は 現 在 浙 江 省 の 全 域 上 海 及 び 江 蘇 省 の 一 部 に 相 當 する 23 齋 藤 忠 中 國 天 台 山 諸 寺 院 の 研 究 ( 第 一 書 房 1999 年 pp )の 第 四 章 には 天 台 山 と 俊 芿 の 一 節 がある 24 道 宣 撰 續 高 僧 傳 卷 二 十 九 に 隋 天 台 山 瀑 布 寺 慧 達 傳 と 見 える( 大 正 藏 208
11 10 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 羅 漢 の 應 身 地 としてよく 知 られている 天 台 山 における 五 百 羅 漢 は 唐 代 か ら 寒 山 拾 得 の 物 語 によって 中 國 社 會 において 根 強 く 信 仰 されている 俊 芿 以 前 に 入 宋 した 日 本 僧 の 成 尋 は 天 台 山 を 訪 れた 時 俊 芿 と 同 じく 茶 を 以 って 五 百 羅 漢 に 供 養 したと 傳 えられる 25 俊 芿 は 天 台 山 の 五 百 羅 漢 に 供 養 し 暫 くして 四 明 の 雪 竇 中 巖 に 移 ったこれは 初 回 目 の 登 山 である 二 回 目 の 天 台 山 の 歴 訪 について 不 可 棄 傳 では 次 のように 記 述 して いる 又 嘉 泰 二 年 十 月 初 五 日 離 四 明 去 到 天 台 山 道 猷 開 山 赤 城 寺 過 一 冬 同 三 年 春 到 佛 隴 智 者 塔 院 旦 歇 四 月 初 五 日 到 天 台 隱 居 銀 地 道 場 佛 隴 大 慈 寺 結 夏 安 居 26 俊 芿 が 再 び 天 台 山 に 登 った 時 は 初 回 から 二 年 五 ヵ 月 後 嘉 泰 二 年 (1202) 十 月 五 日 であった 今 回 俊 芿 が 遊 歴 したところは 赤 城 寺 智 者 塔 院 佛 隴 大 慈 寺 の 三 つの 寺 院 であることが 確 認 できた 赤 城 寺 は 道 猷 27 によって 開 山 され 山 名 に 因 んで 寺 名 とした 道 猷 以 降 章 安 灌 頂 ( ) 荊 溪 湛 然 ( )が 歴 住 し 天 台 教 學 の 傳 統 をもつ 寺 院 として 有 名 である 嘉 泰 二 年 (1202) 十 月 俊 芿 は 四 明 を 離 れて 天 台 山 に 登 り 最 初 に 赤 城 寺 に 一 冬 ( 三 ヵ 月 )ほど 住 居 した 翌 年 嘉 泰 三 年 (1203)の 春 赤 城 寺 より 近 くの 智 者 塔 院 に 赴 き 暫 く 滯 在 して 同 年 四 月 五 日 に 銀 地 道 場 と 呼 ばれている 佛 隴 の 大 慈 寺 に 移 り 結 夏 安 居 に 參 加 した 智 者 塔 院 は 天 台 宗 の 開 祖 であった 智 顗 ( )の 眞 身 舎 利 を 安 置 したところであり 眞 覺 寺 とも 稱 する 智 顗 が 開 創 した 天 台 宗 は 50 pp. 694ab) 25 辰 時 參 石 橋 以 茶 供 羅 漢 とある 平 林 文 雄 參 天 台 五 臺 山 記 衾 校 本 並 に 研 究 衾 ( 風 間 書 房 1978 年 p. 32) 26 大 日 佛 書 115 p 道 猷 の 傳 記 については 高 僧 傳 卷 十 一 法 苑 珠 林 卷 三 十 九 などの 資 料 が 見 出 せる 道 猷 の 生 卒 年 は 未 詳 であるが 西 晉 期 敦 煌 の 人 曇 猷 あるいは 法 猷 と もいい 幼 年 から 苦 行 して 禪 定 を 學 び 南 方 に 移 って 剡 州 ( 現 在 の 浙 江 嵊 州 市 )の 石 城 山 に 止 住 し のち 天 台 赤 城 山 に 赴 き 石 室 を 築 いて 坐 禪 したと 傳 えられている 207
12 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 11 日 本 佛 教 へ 重 大 な 影 響 を 與 えたので 天 台 山 に 登 った 日 本 僧 の 殆 どが 智 者 塔 院 まで 訪 れている また 大 慈 寺 について 嘉 定 赤 城 志 卷 二 十 八 教 院 の 項 に 天 台 教 學 の 寺 院 として 著 録 されている 南 北 朝 の 齊 の 中 興 二 年 (502)に 建 て られ 隋 代 になって 修 禪 寺 と 謂 い 國 清 寺 の 創 建 後 寺 を 改 めて 道 場 28 と なった 唐 代 になって 禪 林 寺 を 改 め 白 色 の 土 地 に 因 んで 銀 地 道 場 と 稱 される 唐 末 の 會 昌 廢 佛 で 破 壊 され 咸 通 八 年 (867)に 再 建 された 29 宋 大 中 祥 符 元 年 (1008) 七 月 今 の 寺 額 を 下 賜 されたという 30 今 回 天 台 山 に 登 った 俊 芿 の 主 な 活 動 は やはり 大 慈 寺 で 行 われた 結 夏 安 居 に 參 加 したことである 結 夏 安 居 とは そもそもインドの 佛 教 徒 が 四 月 十 五 日 から 七 月 十 五 日 までの 三 ヵ 月 の 雨 季 の 間 洞 窟 や 寺 院 に 籠 もり 修 行 に 專 心 した 行 事 の 一 つである 中 國 佛 教 の 寺 院 ではそれを 繼 承 して 年 中 の 行 事 としてほぼ 毎 年 行 われている 明 の 田 汝 成 西 湖 遊 覧 志 餘 卷 十 四 に 宋 時 僧 家 以 四 月 十 五 日 結 制 安 居 刹 院 不 敢 起 單 雲 遊 ( 中 略 ) 至 七 月 十 五 日 設 齋 解 制 謂 之 法 歳 周 圓 31 といったように 宋 代 寺 院 の 結 夏 安 居 は 傳 統 と 同 じ 四 月 十 五 日 から 禁 足 し 28 寺 を 道 場 と 爲 したのは 恐 らく 唐 の 梁 肅 撰 台 州 隋 故 智 者 大 師 修 禪 道 場 碑 銘 の 陳 朝 崇 之 置 寺 曰 修 禪 及 隋 建 國 清 廢 修 禪 號 爲 道 場 によるものである 台 州 金 石 録 卷 一 石 刻 資 料 新 編 15 新 文 豊 出 版 p 大 慈 寺 の 歴 史 については 嘉 定 赤 城 志 卷 二 十 八 に 舊 經 云 齊 中 興 二 年 建 蓋 顗 思 修 初 地 及 定 光 授 記 銀 地 之 所 定 光 所 居 號 金 地 此 號 銀 地 皆 以 土 色 名 之 ( 中 略 ) 隋 剏 國 淸 乃 更 寺 爲 道 場 唐 會 昌 中 廢 咸 通 八 年 重 建 國 朝 大 祥 符 元 年 改 今 額 其 法 堂 曰 淨 名 以 顗 嘗 講 是 經 故 也 參 照 ( 宋 元 方 志 叢 刊 7 中 華 書 局 1990 年 p. 7498) 30 成 尋 參 天 台 五 臺 山 記 卷 一 に 大 宋 三 朝 大 中 祥 符 元 年 戊 申 七 月 初 三 日 辛 酉 敕 改 禪 林 寺 名 大 慈 寺 參 照 平 林 文 雄 參 天 台 五 臺 山 記 衾 校 本 並 に 研 究 衾 ( 風 間 書 房 1978 年 p. 28) 31 明 の 田 汝 成 西 湖 遊 覧 志 餘 上 海 古 籍 出 版 社 1980 年 10 月 p
13 12 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 七 月 十 五 日 の 解 制 日 まで 外 出 することができないこれは 法 歳 周 圓 と 呼 ばれる 俊 芿 は 大 慈 寺 で 結 夏 安 居 に 參 加 したので 二 回 目 の 天 台 山 滯 在 時 期 は 少 なくとも 嘉 泰 二 年 の 冬 から 同 三 年 (1203)の 七 月 十 五 日 までに 限 定 することが 可 能 である 不 可 棄 傳 によれば 32 俊 芿 が 大 慈 寺 を 去 る 契 機 となったのは 安 居 の 期 間 中 天 台 學 の 最 高 權 威 とも 言 うべき 華 亭 超 果 寺 の 北 峰 宗 印 の 名 を 聞 き その 學 風 を 慕 って 超 果 寺 に 行 くことを 決 意 したことがあるという 大 慈 寺 を 辭 去 した 時 期 について 嘉 泰 三 年 (1203) 七 月 十 五 日 以 降 と 推 測 したが これは 華 亭 の 超 果 寺 に 到 着 した 日 から 逆 算 しても 分 かる 北 峰 宗 印 の 手 による 法 語 の 中 に 日 本 俊 芿 法 師 慶 元 之 末 來 遊 大 宋 ( 中 略 ) 嘉 泰 四 年 抵 華 亭 超 果 33 とあり 華 亭 の 超 果 寺 に 至 る 年 次 は 嘉 泰 四 年 (1204)と 明 記 している 天 台 山 から 浙 西 の 華 亭 まで 約 三 百 五 十 キロの 距 離 があり 嘉 泰 三 年 (1203) 七 月 十 五 日 以 降 に 天 台 山 から 退 去 しても 時 間 的 餘 裕 が 十 分 にあるので 經 由 地 であった 都 の 杭 州 寺 院 を 訪 問 しても 不 思 議 ではなかろう 三 回 目 の 天 台 山 の 訪 問 については 不 可 棄 傳 にある 次 の 記 録 から 推 測 できる 於 今 度 者 縱 雖 師 命 其 不 可 赴 逮 至 三 月 出 超 果 遊 台 州 34 不 可 棄 傳 は 開 禧 三 年 (1207) 三 月 華 亭 の 超 果 寺 に 住 居 した 俊 芿 は 北 峰 宗 印 の 師 命 により 三 年 間 臥 床 した 華 亭 章 氏 のため 密 教 の 不 動 法 を 32 結 夏 安 居 其 閒 毎 聞 浙 西 有 印 講 師 實 爲 法 門 之 棟 梁 世 閒 之 明 眼 於 是 法 師 深 慕 其 道 荷 笈 千 里 到 秀 州 超 果 教 院 北 峰 輪 下 禮 師 請 業 參 照 ( 大 日 佛 書 115 p. 521) 33 淸 衆 規 式 並 十 六 觀 堂 記 法 語 ( 俊 芿 研 究 p. 399) 34 大 日 佛 書 115 p
14 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 13 修 じたが 再 び 發 病 して 師 命 による 不 動 法 を 再 修 しても 治 らないので 超 果 寺 を 離 れ 台 州 に 赴 いたと 傳 えている 台 州 は 現 在 の 天 台 臨 海 黄 巖 を 含 む 廣 い 地 域 を 指 すが 當 時 天 台 山 を 中 心 とした 佛 教 の 状 況 を 考 慮 する ならば 台 州 とはやはり 俊 芿 がかつて 二 度 遊 學 した 天 台 山 を 指 すと 考 えて よかろう ( 二 ) 奉 化 の 雪 竇 中 巖 と 餘 杭 の 徑 山 寺 まず 雪 竇 中 巖 は 四 明 奉 化 縣 の 雪 竇 山 を 指 し その 山 は 四 明 山 の 支 脈 で 應 夢 山 乳 峰 山 ともいう 山 中 の 千 丈 巖 の 近 くに 彌 勒 道 場 と 言 われる 雪 竇 寺 がある 五 代 の 永 明 延 壽 ( )が 雪 竇 寺 に 住 した 時 孤 猿 叫 落 中 巖 月 夜 客 吟 殘 半 夜 燈 此 境 此 時 誰 會 意 白 雲 深 處 坐 禪 僧 35 という 有 名 な 偈 を 殘 したまたこの 寺 は 雪 竇 重 顯 ( )の 住 居 地 としても よく 知 られている 前 にも 触 れたが 俊 芿 入 宋 の 慶 元 五 年 (1199) 五 月 天 台 山 に 參 詣 して 五 百 羅 漢 に 供 養 した 後 直 ちに 奉 化 雪 竇 中 巖 に 行 き 同 年 十 月 頃 までそこ に 滯 在 したその 時 思 岳 禪 師 ( 後 述 )に 師 事 して 禪 に 參 じたが 暫 くし て 餘 杭 の 徑 山 寺 に 移 り 雪 竇 中 巖 における 俊 芿 の 詳 細 な 行 動 は 不 明 である 次 に 餘 杭 の 徑 山 寺 について 杭 州 の 西 北 五 十 里 にあり 唐 玄 宗 の 天 寶 の 初 め(742 頃 )に 國 一 法 欽 ( ) 禪 師 が 庵 を 結 んで 幽 居 し 大 暦 四 年 (769) 代 宗 の 勅 命 によって 建 立 された 宋 代 になって 臨 濟 僧 の 無 畏 維 琳 (? 1119) 圜 悟 克 勤 ( )が 歴 住 しており 特 に 大 慧 宗 杲 ( )がそこで 看 話 禪 を 提 唱 した 俊 芿 以 後 東 福 寺 の 開 山 である 圓 爾 辨 圓 が 徑 山 寺 で 無 準 師 範 ( )に 師 事 して 臨 濟 系 の 楊 岐 禪 を 日 本 に 傳 えてきたことは 最 も 注 目 するところである 俊 芿 は 慶 元 五 年 (1199) 十 月 十 四 日 徑 山 寺 に 到 着 し 翌 年 の 春 まで 約 三 ヵ 月 ほど 滯 在 した 當 時 徑 山 寺 の 住 持 は 蒙 庵 元 聰 であった 蒙 庵 元 聰 に 關 する 行 實 は 後 述 するが ここでは 俊 芿 が 徑 山 寺 に 在 住 していた 間 に 火 災 に 遭 遇 した 可 能 性 に 言 及 したい 即 ち 樓 鑰 ( )が 書 いた 35 大 正 藏 49 p. 857a 204
15 14 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 重 建 徑 山 興 聖 萬 壽 禪 寺 之 記 の 中 に 次 の 記 事 が 見 られる 蒙 庵 禪 師 元 聰 以 慶 元 三 年 自 福 州 之 雪 峰 被 旨 而 來 道 譽 隆 洽 不 媿 前 人 五 年 仲 冬 行 化 浙 西 而 回 祿 挺 災 烈 風 佐 之 延 燔 棟 宇 一 息 而 盡 36 上 記 の 引 文 によれば 慶 元 三 年 (1197)に 蒙 庵 元 聰 は 勅 命 により 福 州 の 雪 峰 から 徑 山 寺 に 移 住 した 同 五 年 (1199) 十 一 月 に 教 化 のため 浙 西 に 行 った 間 に 徑 山 寺 は 回 祿 ( 火 災 )にかかり 殿 宇 が 烏 有 に 歸 したこれと 同 様 の 記 述 は 呉 詠 撰 の 徑 山 禪 寺 重 建 記 にも 見 える 即 ち 先 是 慶 元 己 未 冬 龍 王 殿 災 精 盧 佛 宇 一 夕 而 盡 住 持 僧 元 聰 治 故 而 復 新 之 37 慶 元 己 未 は 慶 元 五 年 (1199)であるこの 内 容 は 樓 鑰 の 記 事 とほぼ 合 致 しているが 龍 王 殿 をも 燒 失 してしまったと 傳 えられている 火 災 が 起 きたのは 慶 元 五 年 の 冬 で これはちょうど 俊 芿 の 徑 山 寺 到 着 後 一 ヵ 月 未 滿 の 出 來 事 であった 前 掲 した 樓 鑰 の 重 建 徑 山 興 聖 萬 壽 禪 寺 之 記 によ れば 火 災 の 翌 年 (1200)の 春 38 住 持 僧 であった 蒙 庵 元 聰 が 再 建 を 始 め 36 清 の 阮 元 編 兩 浙 金 石 志 卷 十 石 刻 資 料 新 編 14 地 方 類 浙 江 臺 灣 新 文 豊 出 版 1977 年 p 徑 山 志 所 收 ( 中 國 佛 寺 史 志 彙 刊 第 一 輯 32 冊 臺 灣 明 文 書 局 1980 年 p. 634) 實 は 後 掲 する 後 樂 集 十 八 卷 收 載 の 徑 山 蒙 菴 佛 智 禪 師 塔 銘 の 冒 頭 にも 慶 元 丁 巳 夏 徑 山 寺 闕 住 持 有 旨 以 命 僧 元 聰 後 數 年 寺 燼 於 火 不 二 年 元 聰 新 之 と 見 える 慶 元 丁 巳 は 慶 元 三 年 (1197)で 數 年 後 の 火 災 は 慶 元 五 年 (1199)のことであろう 文 淵 閣 四 庫 全 書 1169 集 部 上 海 古 籍 出 版 社 1989 年 pp 樓 鑰 の 重 建 徑 山 興 聖 萬 壽 禪 寺 之 記 に 蓋 其 百 工 兢 起 衆 志 孚 應 始 於 六 年 之 春 成 於 嘉 泰 改 元 之 夏 閲 月 才 十 餘 而 變 瓦 礫 之 區 爲 大 寳 坊 とみえる 阮 元 編 兩 浙 金 石 志 卷 十 石 刻 資 料 新 編 14 地 方 類 浙 江 臺 灣 新 文 豊 出 版 1977 年 p
16 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 15 ていた 不 可 棄 傳 の 記 録 を 照 らしてみれば その 時 俊 芿 は 徑 山 寺 を 離 れ 復 び 四 明 に 往 き 景 福 寺 の 如 庵 律 師 に 依 止 39 したという 徑 山 寺 は 當 時 南 宋 の 五 山 第 一 となっていなかったが 有 名 な 禪 刹 に 間 違 いない にもかかわらず 俊 芿 はなぜ 徑 山 寺 に 三 ヵ 月 しか 滯 在 しなかったのかこ れはやはり 慶 元 五 年 十 一 月 の 火 災 の 影 響 が 大 きかったのではないかと 考 え られる 徑 山 寺 と 雪 竇 中 巖 とはいずれも 當 時 の 有 名 な 禪 刹 である 俊 芿 が 宋 地 滯 在 の 初 期 にこの 二 つの 禪 寺 に 訪 問 したことは 宋 禪 への 關 心 を 持 っていた ことを 示 唆 しているちなみに 俊 芿 は 恐 らく 徑 山 寺 を 訪 れた 最 初 の 日 本 僧 である ( 三 ) 四 明 の 景 福 寺 四 明 ( 現 在 の 浙 江 省 寧 波 市 )は 明 州 ともいい 宋 代 において 對 外 の 貿 易 港 として 日 本 との 交 流 が 盛 んであった 俊 芿 入 宋 の 直 前 日 本 僧 の 榮 西 が 四 明 天 童 寺 の 住 持 である 虚 庵 懷 敞 のもとで 禪 を 學 び 同 寺 の 千 佛 閣 を 修 建 したこともあったと 傳 えられている 40 慶 元 六 年 (1200)の 春 俊 芿 は 徑 山 寺 を 去 り 四 明 に 赴 き 景 福 寺 の 如 庵 了 宏 律 師 に 師 事 し 律 學 の 研 鑽 に 努 めていた 寶 慶 四 明 志 卷 十 一 によれば 41 景 福 寺 は 子 城 ( 現 在 の 寧 波 市 内 )から 南 二 里 半 に 位 置 し もと 水 陸 蓮 花 院 といい 宋 の 太 祖 建 隆 二 年 (961)に 再 建 され 大 中 祥 符 三 年 (1010)に 宋 眞 宗 の 勅 により 景 福 寺 の 名 が 下 賜 さ れたという 俊 芿 の 景 福 寺 での 動 向 について 日 山 守 一 述 の 終 南 家 業 39 大 日 佛 書 115 p 樓 鑰 の 天 童 山 千 佛 閣 記 に 日 本 國 僧 千 光 法 師 榮 西 者 奮 發 願 心 欲 往 西 域 求 教 外 別 傳 之 宗 若 有 告 以 天 台 萬 年 爲 可 依 者 航 海 而 來 以 師 爲 及 遷 天 童 ( 中 略 ) 它 日 歸 國 當 致 良 材 以 爲 助 師 曰 未 幾 遂 歸 越 二 年 果 致 百 圍 之 木 とみえる 攻 媿 集 卷 五 十 七 四 部 叢 刊 初 編 集 部 臺 灣 商 務 印 書 館 1975 年 pp 寶 慶 四 明 志 卷 十 一 に 景 福 寺 子 城 南 二 里 半 舊 號 水 陸 蓮 花 院 皇 朝 建 隆 二 年 建 大 中 祥 符 三 年 改 賜 今 額 とある( 宋 元 方 志 叢 刊 5 中 華 書 局 1990 年 p. 5132) 202
17 16 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) の 卷 二 に 日 本 芿 師 爲 法 之 切 於 慶 元 間 泛 舶 東 來 彼 時 先 師 如 庵 開 法 景 福 芿 即 依 學 十 有 餘 年 42 と 記 されている 修 學 の 期 間 は 上 文 末 に 十 有 餘 年 と 言 われているが 不 可 棄 傳 では 僅 跨 三 年 と 記 しており 實 際 には 慶 元 六 年 (1200) の 春 から 嘉 泰 二 年 (1202) 十 月 五 日 にかけて ただ 三 年 のみだと 考 えら れる また 不 可 棄 傳 によれば 嘉 定 四 年 (1211)の 春 歸 國 直 前 の 俊 芿 は 約 八 年 半 ぶりに 景 福 寺 を 再 訪 したという 43 當 時 如 庵 了 宏 がすでに 示 寂 しており 俊 芿 を 迎 えてくれた 人 は 景 福 寺 の 道 常 であった 俊 芿 以 降 理 宗 端 平 二 年 (1235)に 入 宋 した 圓 爾 は 宋 地 に 到 着 した 直 後 景 福 寺 にも 行 ったようであるこれは 東 福 開 山 聖 一 國 師 年 譜 の 嘉 禎 元 年 (1235) の 項 に 次 のように 記 されている 四 月 船 出 平 戸 津 經 十 寅 夕 到 宋 明 州 即 理 宗 端 平 二 年 寓 城 景 福 律 院 聽 月 公 開 遮 之 説 44 圓 爾 は 景 福 寺 に 寓 居 した 時 月 公 ( 未 詳 )から 律 學 の 開 遮 の 説 ( 開 は 行 爲 の 許 可 遮 は 禁 止 をいう)を 聽 いたこれは 俊 芿 が 遊 學 した 三 十 四 年 後 のことであるこれによって 景 福 寺 が 依 然 として 律 の 教 學 を 維 持 し し かも 入 宋 僧 との 關 係 を 持 ち 續 けていたことがわかるただし 殘 念 なこと に 宋 代 以 降 景 福 寺 に 關 する 記 録 が 乏 しく 日 本 僧 との 關 係 は 不 明 であ る 現 在 寧 波 の 城 隍 廟 となり 昔 日 の 寺 院 の 面 影 はまったく 失 われてし まった 42 續 藏 經 105 p 大 日 佛 書 115 p 大 日 佛 書 95 p
18 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 17 ( 四 ) 華 亭 の 超 果 寺 華 亭 は 現 在 の 上 海 市 松 江 縣 に 位 置 する 唐 の 天 寶 元 年 (742)に 華 亭 縣 が 置 かれた 慶 元 元 年 (1195) 兩 浙 の 浙 西 路 の 秀 州 に 屬 し 雲 間 ともい う 南 宋 期 における 華 亭 の 佛 教 状 況 について 宋 の 楊 潛 撰 紹 熙 雲 間 志 卷 中 寺 觀 の 項 には 次 のように 記 述 されている 浙 右 喜 奉 佛 而 華 亭 爲 甚 一 邑 之 間 爲 佛 祠 凡 四 十 六 緇 徒 又 能 張 大 事 亦 可 謂 盛 矣 45 この 記 録 は 紹 熙 年 間 ( ) 頃 の 浙 右 ( 浙 西 ) 華 亭 佛 教 の 盛 況 を 述 べているものである 俊 芿 が 華 亭 超 果 寺 に 至 った 年 は 嘉 泰 四 年 (1204)で あったので ちょうど 紹 熙 年 間 の 直 後 にあたる 超 果 寺 は 紹 熙 雲 間 志 卷 中 寺 觀 の 項 にも 收 められているこれによ れば 46 唐 の 咸 通 十 五 年 47 に 心 鏡 ( 鑑 ) 禪 師 48 によって 開 山 され 初 めに 長 壽 寺 といい 宋 の 治 平 元 年 (1064)に 超 果 寺 と 改 稱 された 有 名 な 天 台 僧 であった 惟 湛 ( ) 49 が 居 住 し 積 極 的 な 教 化 活 動 を 行 い 熙 寧 五 年 (1072)に 天 台 教 院 50 が 設 置 され まさに 天 台 教 學 の 傳 承 を 有 した 寺 院 である 45 宋 元 方 志 叢 刊 1 中 華 書 局 1990 年 p 超 果 寺 在 縣 西 三 里 本 名 長 壽 寺 唐 咸 通 十 五 年 心 鏡 禪 師 造 ( 中 略 ) 治 平 元 年 改 今 額 有 觀 音 大 士 像 參 照 宋 元 方 志 叢 刊 1 中 華 書 局 1990 年 p 咸 通 の 年 號 は 十 四 年 のみで 紹 熙 雲 閒 志 の 記 録 は 誤 りである 48 心 鑑 禪 師 ( 釋 藏 奐 )は 贊 寧 宋 高 僧 傳 卷 十 二 の 立 傳 ( 大 藏 經 50 pp )があり これによれば 釋 藏 奐 は 華 亭 の 人 早 年 に 道 曠 禪 師 につき 出 家 し 長 壽 寺 を 建 て 住 居 した 七 十 七 歳 で 示 寂 奉 勅 して 心 鑑 と 名 づけられた 從 來 鏡 と 鑑 の 二 字 ( 廣 雅 釋 器 鑑 謂 之 鏡 )は 通 用 なので 心 鏡 禪 師 は 心 鑑 禪 師 では ないかと 考 えられる 49 秀 州 超 果 惟 湛 法 師 行 業 記 參 照 元 照 芝 園 集 卷 上 に 所 收 ( 續 藏 經 105 pp ) 50 天 台 教 院 について 宋 の 陳 舜 兪 撰 超 果 寺 天 台 教 院 に 院 既 大 成 嚴 像 且 畢 ( 中 略 ) 熙 寧 五 年 正 月 辛 巳 記 と 見 える 至 元 嘉 禾 志 卷 十 九 所 收 ( 宋 元 方 志 叢 刊 5 中 華 書 局 1990 年 pp ) 200
19 18 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 俊 芿 の 超 果 寺 の 滯 在 期 間 について 從 來 の 研 究 では 言 及 しておらず た だ 不 可 棄 傳 に 八 年 ほど 北 峰 宗 印 に 師 事 したとの 記 録 があるのみである 北 峰 宗 印 の 傳 歴 については 後 述 するが 釋 門 正 統 卷 七 の 記 録 によれば 北 峰 宗 印 は 杭 州 の 上 天 竺 寺 華 亭 の 超 果 寺 平 江 の 北 禪 寺 を 歴 住 したが 超 果 寺 の 住 持 年 次 は 不 明 である 51 不 可 棄 傳 の 記 録 からみると 俊 芿 が 北 峰 宗 印 に 出 會 った 時 と 別 れを 告 げた 時 いずれも 超 果 寺 に 止 住 してい た 時 期 の 出 來 事 なので 北 峰 宗 印 に 師 事 した 八 年 とは 超 果 寺 の 滯 在 期 間 と 見 なすことができるかもしれない ただし 北 峰 宗 印 に 八 年 ほど 師 事 したことに 些 か 疑 問 があるというの は 北 峰 宗 印 の 手 になる 資 料 の 内 容 と 八 年 師 事 したこととは 齟 齬 をきた すからである 前 掲 した 北 峰 宗 印 の 法 語 で 示 したように 俊 芿 が 始 め に 超 果 寺 に 至 った 年 は 嘉 泰 四 年 52 (1204)であって 少 なくともこの 年 か ら 北 峰 宗 印 に 師 事 したと 見 なければならない 問 題 は 俊 芿 がいつ 北 峰 宗 印 のもとを 離 れたのかこれについては 北 峰 宗 印 の 唯 心 淨 土 説 に 次 の ように 記 載 されている 今 告 別 歸 本 國 水 陸 千 萬 里 吾 年 逾 耳 順 忍 土 難 期 再 會 ( 中 略 ) 旹 大 宋 嘉 定 三 年 大 歳 庚 午 解 制 日 住 嘉 興 府 嘉 亭 縣 超 果 天 台 教 院 北 峰 沙 門 宗 印 書 53 上 文 は 嘉 定 三 年 (1210)の 解 制 日 ( 七 月 十 五 日 )に 北 峰 宗 印 によって 華 亭 の 超 果 寺 で 書 かれたものであるここで 六 十 歳 を 過 ぎた 北 峰 宗 印 は 俊 芿 の 歸 國 にあたって もはや 再 會 の 時 はあるまいと 述 懷 しているこの 記 事 によって 分 かるように 俊 芿 の 北 峰 宗 印 に 師 事 した 期 間 は 嘉 泰 四 年 51 續 藏 經 130 pp 俊 芿 が 嘉 泰 四 年 超 華 寺 に 到 着 したという 別 の 傍 證 として 不 可 棄 傳 に 俊 芿 が 初 めて 華 亭 超 果 寺 に 到 着 したとき 北 峰 宗 印 が 語 った 法 師 自 二 十 七 歳 斷 蚕 衣 十 有 餘 年 内 外 著 布 の 語 がある 嘉 泰 四 年 (1204) 俊 芿 は 三 十 八 歳 で 二 十 七 歳 の 頃 から 蚕 衣 をつけないことから 數 えて 十 有 餘 年 と 一 致 する 53 唯 心 淨 土 說 ( 俊 芿 研 究 p. 400) 199
20 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 19 (1204)から 嘉 定 三 年 (1210)までおよそ 七 年 のみである 實 は 俊 芿 が 華 亭 超 果 寺 に 滯 在 した 期 間 に 少 なくとも 三 回 周 邊 の 地 域 へ 足 を 延 ばしたことが 知 られている 初 回 目 は 既 述 したように 開 禧 三 年 (1207)の 春 台 州 に 行 ったこと 二 回 目 は 北 峰 宗 印 南 翔 寺 の 遠 法 師 とともに 湖 州 の 寶 雲 寺 に 行 ったこと( 後 述 )そして 三 回 目 は 嘉 定 元 年 (1208) 超 果 寺 を 去 り 杭 州 に 赴 き 律 學 に 關 する 五 十 問 などの 活 動 を 行 っ たことであるこれによって 嘉 定 三 年 (1210)に 書 かれた 唯 心 淨 土 説 は 俊 芿 が 杭 州 から 再 び 超 果 寺 に 戻 った 時 北 峰 宗 印 から 授 けられたも のではないかと 考 えられる 華 亭 の 超 果 寺 における 俊 芿 の 活 躍 について 北 峰 宗 印 に 師 事 して 天 台 學 に 努 めていた 一 方 更 に 注 目 すべきなのは 超 果 寺 において 密 教 の 不 動 法 七 佛 藥 師 法 を 修 じたことである 密 教 の 作 法 を 修 じた 契 機 となったのは 何 かの 病 氣 にかかった 華 亭 在 家 者 の 要 請 である 俊 芿 は 作 法 によって 多 く の 靈 驗 を 感 得 しており ついに 在 家 者 の 病 氣 を 治 した 靈 驗 の 説 話 は 別 に して ただ 俊 芿 と 交 流 した 華 亭 の 在 家 者 を 列 舉 すれば 章 氏 官 人 周 大 孺 人 54 周 阿 兄 及 び 官 人 貢 士 の 周 冕 官 人 錢 家 55 などが 見 えているかれら の 詳 細 については 不 明 であるが 官 人 貢 士 の 肩 書 きなどからみると 一 般 の 在 家 者 といっても 一 定 の 地 位 をもつ 當 地 の 知 識 人 と 見 てよかろう ( 五 ) 杭 州 の 寺 院 宋 室 南 渡 以 降 杭 州 は 全 國 の 政 治 經 濟 文 化 の 中 心 地 となった 當 時 54 北 礀 居 簡 の 北 礀 詩 集 卷 一 に 化 周 大 孺 人 長 明 燈 の 詩 がある( 禪 門 逸 書 初 編 5 臺 灣 明 文 書 局 1980 年 p. 7) 北 礀 居 簡 の 文 集 には 華 亭 の 寺 院 にかかわ る 文 章 が 幾 つか 見 出 せるという 事 實 から 見 て 北 礀 居 簡 は 華 亭 佛 教 との 關 係 が 深 い ことが 豫 想 されるしたがって 北 礀 詩 集 卷 一 にいう 周 大 孺 人 とは 俊 芿 と 交 渉 した 周 大 孺 人 と 同 一 人 物 ではないかと 考 えられる 55 華 亭 での 官 人 錢 家 が 誰 かは 分 からないが 釋 門 正 統 卷 七 北 峰 宗 印 傳 に ( 前 略 ) 繼 領 超 果 易 門 南 向 講 閣 懺 院 肅 圓 通 香 火 朝 旨 優 之 縣 尹 錢 誾 苦 旱 師 曰 勉 釋 疑 誤 結 觀 音 期 七 日 必 得 雨 至 ( 續 藏 經 年 p. 0884)と 見 える 華 亭 縣 尹 の 錢 誾 は 苦 旱 のため 北 峰 宗 印 に 依 頼 して 祈 雨 を 行 ったことがあっ たので この 縣 尹 の 錢 誾 は 俊 芿 と 交 渉 した 官 人 錢 家 と 同 一 人 物 である 可 能 性 が 高 い 198
21 20 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) の 杭 州 における 佛 教 寺 院 は 明 の 田 汝 成 西 湖 遊 覧 志 餘 卷 十 四 の 方 外 玄 蹤 に 杭 州 内 外 及 湖 山 之 間 唐 已 前 爲 三 百 六 十 寺 錢 氏 立 國 及 宋 朝 南 渡 増 爲 四 百 八 十 寺 海 内 都 會 未 有 加 於 此 者 也 56 と 記 されている 當 時 杭 州 の 寺 院 數 は 四 百 八 十 寺 にのぼり 他 の 都 會 と 比 較 して 最 も 多 かった 杭 州 における 俊 芿 の 行 歴 について 不 可 棄 傳 では 嘉 定 初 去 超 果 遊 帝 都 住 下 天 竺 重 練 台 教 57 と 記 録 しているように 嘉 定 の 初 め 頃 超 果 寺 を 去 り 杭 州 に 遊 び 下 天 竺 に 住 居 して 天 台 學 を 勉 強 した 下 天 竺 寺 は 東 晉 の 慧 理 により 創 建 され 北 宋 の 天 聖 年 間 ( )に 天 台 僧 であった 慈 雲 遵 式 ( )の 住 持 で 有 名 な 天 台 學 の 寺 院 となった 大 中 祥 符 の 初 (1008 頃 ) 靈 山 寺 と 稱 し 天 禧 四 年 (1020)に 天 竺 寺 慶 元 三 年 (1197)に 天 竺 靈 隱 寺 としばしば 改 稱 されている 58 從 來 上 中 の 天 竺 寺 に 加 えて 三 天 竺 寺 ともいう 杭 州 での 俊 芿 の 活 動 といえば 律 學 などに 關 して 當 時 の 律 師 達 と 様 々な 論 議 を 行 ったことを 擧 げなくてはならない 即 ち 杭 州 の 不 空 教 院 の 了 然 芝 巖 蘭 若 の 淨 懷 淨 梵 院 59 の 妙 音 及 び 會 稽 姚 江 の 極 樂 院 の 智 瑞 律 師 との 問 答 を 行 ったことである 現 存 する 律 宗 問 答 は 當 時 の 問 答 内 容 を 纏 め たものであるなお 杭 州 に 遊 學 した 時 期 について 不 可 棄 傳 では 嘉 定 初 と 記 しているが 具 體 的 に 何 時 だったのであろうかこれに 關 連 して 律 宗 問 答 の 冒 頭 において 次 のように 記 されている 56 明 の 田 汝 成 撰 西 湖 遊 覧 志 餘 上 海 古 籍 出 版 社 1980 年 10 月 p 大 日 佛 書 115 p 下 天 竺 寺 名 の 變 遷 について 明 の 呉 之 鯨 撰 武 林 梵 刹 志 卷 五 に 記 述 がある 中 國 佛 寺 史 志 彙 刊 第 1 輯 第 7 冊 臺 灣 明 文 書 局 1980 年 1 月 pp 咸 淳 臨 安 志 卷 七 十 八 に 淨 梵 院 廣 運 中 ( ) 呉 越 王 建 舊 名 瑞 峰 大 中 祥 符 元 年 (1008) 改 今 額 とある( 宋 元 方 志 叢 刊 4 中 華 書 局 1990 年 p. 4063) 197
22 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 21 嘉 定 己 巳 仲 秋 忽 得 教 觀 五 十 問 乃 審 所 云 云 60 教 觀 五 十 問 については 後 述 するが(p. 37) 上 文 によれば 俊 芿 は 遅 くとも 嘉 定 二 年 (1209) 八 月 に 杭 州 に 遊 學 したのであろうここで 留 意 す べきなのは 俊 芿 は 杭 州 での 律 學 の 問 答 を 通 して 諸 律 師 から 大 いに 感 服 され 一 層 高 名 を 馳 せたことになるもし 誰 かが 俊 芿 の 質 問 に 回 答 できれ ば 寺 院 の 住 持 になる 資 格 を 得 られるほどに 至 ったのである 即 ち 不 可 棄 傳 には 次 のように 記 している 臨 安 府 菩 提 律 寺 住 持 亡 名 遷 化 之 後 未 有 其 人 諸 寺 律 師 集 會 公 定 欲 官 奏 時 衆 議 曰 不 可 揀 別 德 行 唯 以 能 答 日 本 芿 法 師 難 問 之 人 可 爲 其 仁 61 上 文 には 杭 州 菩 提 律 寺 の 住 持 が 遷 化 した 際 に 俊 芿 の 難 問 に 回 答 さえ できれば その 人 は 寺 院 の 住 持 に 適 任 であると 諸 の 律 師 によって 取 り 沙 汰 されている 菩 提 律 寺 の 名 は 咸 淳 臨 安 志 において 見 出 せないが 同 志 の 卷 七 十 九 に 菩 提 院 という 院 名 が 見 えるので もしこれが 菩 提 律 寺 のことである ならば その 沿 革 62 については 以 下 の 通 りである 宋 の 太 平 興 國 二 年 (977) 呉 越 王 錢 俶 の 次 子 であった 錢 惟 演 ( )によって 建 立 され 惠 巖 寺 と 名 づけられ 同 七 年 (982) 菩 提 院 と 改 稱 された 寺 中 には 孔 仁 謙 63 作 の 千 手 大 悲 觀 音 像 があり 觀 音 信 仰 の 寺 院 として 知 られている 60 續 藏 經 105 p 大 日 佛 書 115 p. 525c 62 菩 提 院 太 平 天 國 二 年 錢 惟 演 建 名 惠 巖 七 年 改 賜 今 額 建 炎 間 燬 先 是 寺 僧 募 良 工 孔 仁 謙 作 大 悲 像 千 手 錯 出 不 能 盡 布 參 照 ( 宋 元 方 志 叢 刊 4 中 華 書 局 1990 年 p. 4075) 63 孔 仁 謙 については 石 川 重 雄 宋 代 祭 祀 社 会 と 觀 音 信 仰 衾 迎 請 をめぐっ て の 中 にも 言 及 がある 柳 田 節 子 先 生 古 稀 記 念 中 國 の 傳 統 社 会 と 家 族 汲 古 書 院 1993 年 5 月 p. 277それ 以 外 では 資 料 として 七 修 類 稿 物 事 類 卷 四 十 七 の 天 竺 觀 音 項 武 林 高 僧 事 略 の 五 代 白 雲 翊 禪 師 傳 また 觀 音 慈 196
23 22 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) ちなみに 上 文 にいう 菩 提 律 寺 で 遷 化 した 亡 名 の 住 持 はいったい 誰 だったのかこれを 解 明 するため まず 北 礀 居 簡 ( ) 北 礀 集 卷 五 收 載 の 菩 提 簡 宗 師 傳 を 取 り 上 げて 檢 討 してみたい 菩 提 簡 宗 師 傳 によれば 簡 宗 師 ( )は 字 を 仲 廉 號 を 止 堂 と 言 い 嚴 州 建 德 ( 現 在 の 浙 江 省 建 德 市 ) 任 氏 の 子 であった 杭 州 法 顯 寺 の 景 瑫 法 師 について 具 足 戒 を 受 け のち 普 救 寺 の 首 座 元 印 に 師 事 して 資 持 會 正 派 の 律 學 を 研 修 したまた 智 曇 法 師 64 について 唯 識 百 法 華 嚴 天 台 の 諸 學 を 受 けたのちのことは 宗 師 傳 に 次 のように 述 べられてい る 取 舎 適 中 臨 壇 巋 然 有 南 山 家 法 晩 居 菩 提 九 年 而 寂 嘉 定 元 年 十 二 月 十 二 日 也 度 弟 子 紹 聞 行 依 孫 曰 文 秀 得 其 傳 而 潛 符 密 證 者 梵 威 首 選 垂 寂 之 頃 謂 行 依 曰 平 生 苦 心 以 律 自 嚴 不 空 了 然 師 之 深 知 之 舎 是 莫 可 囑 身 後 言 既 而 寂 端 莊 如 生 壽 七 十 一 臘 四 十 七 65 簡 宗 は 最 晩 年 の 時 凡 そ 九 年 ほど 菩 提 ( 寺 )に 住 持 し 嘉 定 元 年 (1208) 十 二 月 十 二 日 に 七 十 一 歳 で 示 寂 した 臨 終 の 前 弟 子 の 行 依 に 遺 囑 を 殘 し そのなかでの 次 の 後 繼 者 として 不 空 了 然 の 名 を 擧 げた 俊 芿 が 嘉 定 二 年 (1209) 八 月 に 杭 州 で 教 觀 などの 問 答 を 行 ったのは ちょうど 簡 宗 が 寂 し た 九 ヵ 月 後 のことであり まさに 不 可 棄 傳 にいう 遷 化 の 後 未 だ 其 の 人 ( 住 持 ) 有 らず という 菩 提 律 寺 の 住 持 空 席 の 時 期 にあたる また 簡 宗 の 遺 囑 で 菩 提 律 寺 の 後 繼 者 として 指 名 された 不 空 了 然 66 林 集 卷 下 の 釋 道 翊 傳 にもかかわる 記 事 が 見 える 64 智 曇 は 杭 州 六 和 塔 開 化 寺 の 住 持 で 紹 興 二 十 二 年 (1152) 勅 命 を 奉 じて 六 和 塔 を 重 建 した 慈 恩 教 僧 であった 兩 浙 金 石 志 卷 九 に 智 曇 撰 六 和 塔 碑 狀 があ るまた 智 曇 が 六 和 塔 を 建 てたことに 關 する 記 事 は 管 見 の 限 り 宋 の 曹 勛 松 隱 集 ( 四 庫 全 書 集 部 1129) 卷 三 十 收 載 の 六 和 塔 記 にもみられる 65 禪 門 逸 書 初 編 5 北 礀 集 臺 灣 明 文 書 局 1980 年 p 中 國 佛 教 において 同 時 同 名 の 僧 侶 が 散 見 するが 南 宋 期 には 了 然 という 僧 名 は 佛 祖 統 紀 卷 十 五 に 所 收 の 安 國 元 惠 の 法 嗣 であり 宗 圓 記 五 卷 釋 止 觀 195
24 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 23 は 俊 芿 と 問 答 した 杭 州 の 不 空 教 院 の 了 然 律 師 と 同 寺 同 名 かつ 同 時 期 で あるので 兩 者 は 同 一 人 物 であると 見 てよかろうつまり 亡 名 した 菩 提 律 寺 の 住 持 は 簡 宗 であったのではないかと 考 えられる 宋 代 寺 院 の 住 持 制 について 政 府 からの 任 命 にせよ 地 方 からの 推 選 に せよ いずれも 選 任 條 件 として 住 持 の 德 行 を 考 慮 する 必 要 がある 67 了 然 律 師 が 簡 宗 の 遺 囑 に 從 って 菩 提 寺 の 住 持 になったかどうかは 知 りえない が 俊 芿 の 難 問 に 答 えれば 菩 提 律 寺 の 住 持 の 最 適 者 として 推 選 されたこと から 南 宋 の 佛 教 々 團 において 俊 芿 がどれほど 高 名 を 馳 せたのかを 想 像 す ることができる 以 上 の 考 察 によって 俊 芿 が 遊 學 した 寺 院 とその 所 在 地 域 ( 以 下 南 宋 兩 浙 地 圖 に 參 照 ) 及 び 遊 歴 の 期 間 を 年 代 順 に 表 示 すれば 以 下 のように なる 樞 要 二 卷 虎 溪 集 八 卷 の 著 者 であった 智 涌 了 然 を 指 しているこの 智 涌 了 然 は 佛 祖 統 紀 によって 紹 興 十 一 年 (1141)に 示 寂 したことが 分 かる( 大 正 藏 49 pp ) 67 宋 正 直 院 碑 に 歴 代 祖 師 迭 興 未 嘗 不 以 經 律 論 學 爲 住 持 之 眉 宇 焉 と 見 える( 兩 浙 金 石 志 卷 七 石 刻 資 料 新 編 14 臺 灣 新 文 豊 出 版 1977 年 p ) 194
25 24 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 俊 芿 が 南 宋 中 期 の 入 宋 僧 として 遊 歴 した 寺 院 の 範 圍 は 確 かに 兩 浙 の 地 域 に 限 られていた 宋 地 滯 在 の 十 二 年 間 初 期 には 雪 竇 徑 山 の 禪 寺 中 期 には 景 福 律 寺 後 期 には 嘉 泰 四 年 (1204)から 華 亭 の 超 果 寺 杭 州 の 下 天 竺 寺 などの 教 寺 において 禪 律 教 學 を 研 鑽 したことが 推 察 される また 上 表 には 幾 つかの 補 足 説 明 が 必 要 であるまず 文 獻 上 の 制 約 で 南 宋 兩 浙 地 圖 193
26 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 25 慶 元 六 年 春 嘉 泰 三 年 春 のように 具 體 的 な 日 時 を 明 確 できない 場 合 が ある 次 に 後 述 するように 俊 芿 は 華 亭 の 超 果 寺 に 滯 在 した 時 湖 州 の 寶 雲 寺 に 赴 いたこと また 嘉 定 三 年 (1210)の 秋 頃 に 温 州 に 赴 き 德 廣 律 師 に 依 止 して 七 滅 諍 法 を 學 んだことがあった 温 州 に 住 居 した 寺 院 の 名 は 不 明 であるので 上 表 には 加 えなかった 要 するに 俊 芿 が 遊 學 した 寺 院 は 決 して 上 表 の 數 にとどまらず もっと 多 かったのである 三 南 宋 高 僧 との 交 流 俊 芿 は 兩 浙 の 禪 教 律 の 寺 院 を 遍 遊 したと 同 時 に 各 寺 院 の 住 持 者 など いわゆる 南 宋 の 高 僧 との 交 流 も 持 った 不 可 棄 傳 で 或 與 三 宗 禪 教 律 名 德 論 道 推 以 爲 至 68 というように 俊 芿 は 禪 教 律 三 宗 の 名 德 と 道 を 論 じて 名 德 から 高 い 稱 讃 を 得 た 周 知 のように 宋 代 佛 教 に おいては 純 粹 な 禪 僧 教 僧 律 僧 とは 言 えないが それぞれ 教 學 の 傾 向 か ら 禪 教 律 の 僧 にわけて 尊 稱 する 場 合 があるまた 各 住 持 者 の 教 學 に 從 って 寺 院 には 禪 寺 教 寺 律 寺 に 分 けて 呼 稱 する 場 合 もある さて 渡 宋 中 の 俊 芿 はいったいどのような 高 僧 に 師 事 し 交 流 を 行 った のか 以 下 便 宜 上 不 可 棄 傳 にいう 三 宗 の 概 念 によって 禪 僧 教 僧 律 僧 に 分 けて 紹 介 しつつ 渡 宋 中 の 俊 芿 の 動 きを 明 らかにしてみたい ( 一 ) 禪 僧 との 交 流 日 本 僧 と 南 宋 の 禪 僧 との 交 流 については 俊 芿 入 宋 の 前 後 に 榮 西 と 虚 庵 懷 敞 覺 阿 と 瞎 堂 慧 遠 圓 爾 と 無 準 師 範 など 數 多 くの 名 前 を 擧 げるこ とができるその 交 流 の 大 きな 成 果 が 南 宋 禪 學 の 日 本 傳 來 である それでは 禪 僧 を 輩 出 した 南 宋 の 禪 林 において 俊 芿 はどのような 禪 僧 と 交 流 したのかこれに 關 しては 俊 芿 入 宋 の 年 天 台 山 から 四 明 の 雪 竇 中 巖 に 移 住 した 時 に 大 日 本 佛 教 全 書 所 收 本 の 不 可 棄 傳 では 到 雪 竇 中 巖 咨 受 禪 法 禪 師 亡 名 69 と 記 しているが 同 傳 の 泉 涌 寺 藏 本 に 68 大 日 佛 書 115 p 大 日 佛 書 115 p
27 26 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) よれば 亡 名 の 禪 師 は 福 州 東 禪 思 岳 禪 師 江 州 人 妙 喜 老 師 嗣 70 とな っており 思 岳 禪 師 に 師 事 して 禪 法 を 受 けたことが 明 らかとなる 思 岳 禪 師 について 嘉 泰 普 燈 録 卷 十 八 聯 燈 會 要 卷 七 五 燈 會 元 卷 二 十 續 傳 燈 録 卷 三 十 二 などに 簡 單 な 記 録 が 見 られるが これ らの 禪 籍 は 彼 のいくつかの 禪 機 問 答 を 記 しただけで 行 歴 にかかわる 情 報 にはあまり 触 れていないただし 彼 は 俊 芿 が 入 宋 後 最 も 早 い 段 階 で 師 事 した 禪 僧 の 一 人 としてその 名 を 忘 れてはならないだろう 俊 芿 は 雪 竇 中 巖 にしばらく 滯 在 して 同 年 十 月 十 四 日 餘 杭 の 徑 山 寺 を 訪 れ 當 時 徑 山 寺 の 住 持 であった 蒙 庵 元 聰 に 師 事 して 續 いて 禪 を 學 んだよう である 蒙 庵 元 聰 ( )の 傳 記 資 料 については 枯 崖 和 尚 漫 録 卷 上 續 指 月 録 卷 二 増 集 續 燈 録 卷 一 71 に 散 見 するが 宋 の 衛 涇 撰 後 樂 集 卷 十 八 收 載 の 徑 山 蒙 庵 佛 智 禪 師 塔 銘 72 に 最 も 詳 しいこれによれ ば 元 聰 は 字 を 蒙 叟 號 を 蒙 庵 という 俗 姓 は 朱 福 州 長 樂 の 人 で 十 九 歳 からもっぱら 生 死 大 事 を 考 え 晦 庵 慧 光 の 嗣 法 で 臨 濟 楊 岐 派 に 屬 す 禪 僧 となった 73 その 後 同 じ 福 州 出 身 の 密 庵 咸 傑 ( )に 師 事 し 續 いて 長 蘆 の 且 庵 守 仁 靈 隱 の 瞎 堂 慧 遠 淨 慈 の 水 庵 宗 一 高 亭 の 誰 庵 宗 演 光 孝 の 佛 照 德 光 保 安 の 復 庵 可 宗 などに 歴 訪 し 嘉 定 二 年 (1209) 十 一 月 十 一 日 示 寂 年 は 七 十 四 であった 徑 山 蒙 庵 佛 智 禪 師 塔 銘 によれば 密 庵 咸 傑 が 勅 命 により 淳 熙 四 年 (1177) 徑 山 寺 に 遷 した 時 蒙 庵 元 聰 も 行 動 を 共 にし 徑 山 の 第 一 座 ( 首 座 )となったという 74 その 後 蒙 庵 元 聰 が 徑 山 寺 から 離 れ 江 西 福 建 などの 名 刹 を 歴 住 して 再 び 徑 山 寺 に 戻 った 年 次 について 前 掲 した 徑 70 泉 涌 寺 史 本 文 篇 參 照 ( 法 藏 館 1981 年 p. 12) 71 續 藏 經 83 p. 277b 72 文 淵 閣 四 庫 全 書 1169 集 部 上 海 古 籍 出 版 社 1989 年 pp 不 可 棄 傳 の 泉 涌 寺 本 割 註 に 聰 嗣 法 於 晦 庵 光 臨 濟 下 十 四 世 孫 參 照 ( 大 日 佛 書 115 p. 521) 74 密 庵 遷 徑 山 師 爲 第 一 座 由 是 聲 名 益 起 四 方 衲 子 皆 宗 之 參 照 ( 文 淵 閣 四 庫 全 書 1169 集 部 上 海 古 籍 出 版 社 1989 年 p. 736) 191
28 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 27 山 蒙 庵 佛 智 禪 師 塔 銘 では 次 のように 記 している 慶 元 丁 巳 夏 徑 山 寺 闕 住 持 有 旨 以 命 僧 元 聰 75 この 記 述 によって 慶 元 丁 巳 ( 慶 元 三 年 1197)の 夏 蒙 庵 元 聰 が 勅 命 に より 福 州 雪 峰 から 徑 山 寺 に 移 り 住 んだことがわかる 同 記 事 は 樓 鑰 撰 の 重 建 徑 山 興 聖 萬 壽 禪 寺 之 記 76 續 指 月 録 卷 二 77 にも 見 られるつまり 俊 芿 が 慶 元 五 年 (1199) 十 月 十 四 日 に 徑 山 寺 に 訪 問 したのは 蒙 庵 元 聰 が 徑 山 寺 に 再 住 した 約 二 年 後 のことである 先 述 したように 俊 芿 は 慶 元 五 年 (1199) 十 月 十 四 に 徑 山 寺 へ 赴 いた 後 一 ヵ 月 未 滿 の 間 に 起 きた 徑 山 寺 の 火 災 によるのであろうか 結 局 ただ 三 ヵ 月 ほど 滯 在 して 翌 年 の 春 蒙 庵 元 聰 のもとを 離 れ 四 明 景 福 寺 に 赴 いた ことになる また 俊 芿 が 交 流 した 禪 僧 の 中 に 佛 照 德 光 の 門 人 である 山 陰 義 銛 と 北 礀 居 簡 の 二 人 も 數 えられる まず 山 陰 義 銛 に 關 する 記 述 は 北 礀 居 簡 の 北 礀 集 叢 林 盛 事 卷 下 元 叟 端 禪 師 語 録 卷 八 了 菴 淸 欲 和 尚 語 録 卷 九 周 密 の 癸 辛 雜 識 玄 極 輯 續 傳 燈 録 卷 三 十 五 性 統 集 續 燈 正 統 卷 十 一 超 永 編 五 燈 全 書 卷 九 卷 四 十 七 などに 散 見 しているこれらの 文 獻 によると 山 陰 義 銛 は 山 陰 ( 現 在 の 浙 江 紹 興 市 )の 出 身 であり 樸 翁 と 號 し 北 礀 居 簡 とともに 佛 照 德 光 禪 師 の 法 嗣 78 として 天 資 奇 逸 辯 博 無 礙 79 と 絶 贊 75 文 淵 閣 四 庫 全 書 1169 集 部 上 海 古 籍 出 版 社 1989 年 p 蒙 庵 禪 師 元 聰 以 慶 元 三 年 自 福 州 之 雪 峰 被 旨 而 來 道 譽 隆 洽 不 媿 前 人 とある( 阮 元 編 兩 浙 金 石 志 卷 十 石 刻 資 料 新 編 14 地 方 類 浙 江 臺 灣 新 文 豊 出 版 1977 年 p ) 77 臨 濟 宗 慶 元 徑 山 蒙 庵 聰 禪 師 福 州 朱 氏 子 晦 庵 會 中 會 心 要 衆 推 爲 高 弟 慶 元 三 年 自 福 之 雪 峰 被 旨 遷 徑 山 參 照 ( 續 藏 經 84 p. 32) 78 山 陰 義 銛 は 佛 照 德 光 禪 師 の 法 嗣 として 叢 林 盛 事 卷 下 に 紹 興 末 塗 毒 既 沒 而 雙 徑 交 代 乃 育 王 佛 照 禪 師 入 院 之 初 首 詣 巖 主 塔 頭 置 祭 有 義 銛 書 記 者 爲 其 文 兄 弟 甚 推 其 公 因 筆 録 于 此 と 見 える( 續 藏 經 148 p. 90) 79 五 燈 全 書 卷 九 に 育 王 光 禪 師 法 嗣 參 照 ( 續 藏 經 81 p. 375)また 續 190
29 28 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) されたが 晩 年 に 還 俗 したようである 80 彼 の 禪 學 の 傳 承 は 大 慧 宗 杲 佛 照 德 光 山 陰 義 銛 となり 思 岳 禪 師 と 同 様 に 大 慧 派 を 代 表 する 禪 僧 であっ た 著 作 は 後 述 する 不 可 刹 那 無 此 君 のほか 西 丘 和 尚 樸 翁 禪 師 吟 稿 81 の 詩 文 集 もあったが 現 存 していない 俊 芿 と 山 陰 義 銛 との 交 流 については 不 可 棄 傳 や 元 亨 釋 書 卷 十 三 にその 記 述 が 見 える 元 亨 釋 書 にはやや 詳 しいので それを 引 用 し よう 又 山 陰 義 銛 述 不 可 刹 那 無 此 君 贈 芿 銛 號 樸 翁 内 外 兼 明 禪 教 竝 通 所 謂 會 稽 名 士 葛 天 民 無 懷 者 也 銛 又 寫 南 山 靈 芝 二 師 像 (ママ) 倩 四 明 樓 鑰 述 贊 其 上 以 送 82 上 文 では 山 陰 義 銛 は 自 ら 撰 述 した 不 可 刹 那 無 此 君 83 南 山 道 宣 傳 燈 録 卷 三 十 五 に 上 方 樸 翁 銛 禪 師 天 資 奇 逸 辯 博 無 礙 とある( 大 正 藏 51 p. 707b) 80 山 陰 義 銛 の 生 卒 年 については 未 詳 であるが 北 礀 居 簡 が 書 いた 祭 葛 無 懷 樸 翁 葛 無 懷 訃 至 銛 樸 翁 の 文 章 からみると 遅 くとも 北 礀 居 簡 の 示 寂 年 (1246) 以 前 に 歿 したことが 判 明 する 北 礀 集 卷 十 に 師 謹 槖 卿 詩 藳 來 謁 銘 乃 亡 友 上 方 樸 翁 義 銛 編 次 と 見 えるまた 同 集 卷 六 明 無 礙 銘 において 明 無 礙 吾 孤 雲 權 之 子 以 諸 父 事 餘 與 樸 翁 兄 銛 樸 翁 稱 之 曰 無 礙 とあり この 樸 翁 兄 の 措 辭 か ら 北 礀 居 簡 より 年 長 であると 推 測 される 81 了 菴 淸 欲 和 尚 語 録 卷 九 の 西 丘 和 尚 樸 翁 禪 師 吟 稿 に 佛 照 禪 師 居 鄮 峰 時 道 福 相 勝 學 者 景 從 天 目 老 祖 上 方 樸 翁 尤 嶄 嶄 出 頭 角 者 ( 中 略 ) 樸 翁 晩 年 亦 爲 葛 天 氏 之 民 參 照 ( 續 藏 經 71 p. 393) 西 丘 和 尚 樸 翁 禪 師 吟 稿 は 現 在 散 佚 したようであるが 卍 新 纂 藏 經 57 所 收 山 陰 義 銛 の 不 可 刹 那 無 此 君 の 末 尾 に 樸 翁 詩 七 首 が 收 められているさらに 禪 宗 頌 古 聯 珠 通 集 宗 鑑 法 林 の 中 に 十 五 首 の 樸 翁 詩 が 散 見 する 淸 厲 鶚 編 宋 詩 紀 事 卷 五 十 九 に 十 三 首 の 樸 翁 詩 が 載 せられている 北 礀 詩 集 の 中 に 北 礀 居 簡 と 樸 翁 との 酬 唱 の 詩 がいくつあり また 北 礀 集 卷 七 に 跋 樸 翁 詩 がある ので 注 意 を 必 要 する 82 大 日 佛 書 101 pp 續 藏 經 57 p. 121また 當 該 文 獻 は 俊 芿 研 究 に 收 載 されるが 兩 本 を 對 照 してみると 後 者 の 場 合 は 最 後 の 部 分 で 四 句 の 偈 が 遺 漏 していることが 分 かる 189
30 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 29 靈 芝 元 照 の 兩 律 師 の 像 また 樓 鑰 に 書 いた 贊 文 を 渡 宋 の 俊 芿 に 贈 ったと 記 している 樓 鑰 による 題 贊 が 加 えられた 南 山 道 宣 靈 芝 元 照 の 畫 像 原 本 は 京 都 の 涌 泉 寺 に 現 存 しており すでに 重 要 文 化 財 に 指 定 されている 兩 律 師 の 畫 像 容 姿 をみると ともに 法 被 をかけ 曲 彔 上 に 結 跏 して 道 宣 律 師 は 兩 手 を 膝 に 置 き 右 手 に 拂 子 元 照 律 師 は 右 手 に 筆 左 手 に 卷 子 を 持 ち まさに 南 宋 の 基 本 的 形 態 をもつ 禪 師 の 頂 相 と 見 える 不 可 刹 那 無 此 君 は 一 句 七 字 三 十 六 句 の 偈 頌 からなり 天 台 の 一 心 三 觀 一 境 三 諦 一 念 三 千 の 義 を 述 べ 摩 訶 止 觀 の 綱 要 を 提 示 する 短 篇 の 書 物 である 同 書 の 跋 84 には 次 のように 記 されている 大 唐 宋 天 台 宗 達 磨 山 陰 沙 門 義 銛 開 禧 丁 卯 暮 春 述 天 台 宗 大 旨 嘉 定 二 年 己 巳 仲 春 四 日 録 贈 日 本 國 芿 法 師 85 上 文 の 天 台 宗 大 旨 とは 不 可 刹 那 無 此 君 を 指 すのであろう 山 陰 義 銛 は 即 ち 開 禧 三 年 (1207) 三 月 に 不 可 刹 那 無 此 君 を 著 していたが 二 年 後 の 嘉 定 二 年 (1209) 二 月 四 日 に 再 び 録 文 して 俊 芿 に 贈 った 不 可 刹 那 無 此 君 の 書 名 は 東 晉 王 羲 之 の 子 であった 王 徽 之 の 言 葉 に 由 來 す る 即 ち 晉 書 卷 八 十 に 嘗 寄 居 空 宅 中 便 令 種 竹 或 問 其 故 徽 之 但 嘯 詠 指 竹 曰 何 可 一 日 無 此 君 邪 86 とあるように 王 徽 之 は 自 家 に 竹 を 植 え ある 人 がその 理 由 を 尋 ねたとこ ろ 一 日 もその 竹 なしではすごせん と 答 えたこの 物 語 によってわか るように 山 陰 義 銛 は 一 日 を 刹 那 にして 自 分 の 書 名 にしたわけで あるただし 問 題 は 王 徽 之 の 場 合 此 君 とは 竹 のことを 意 味 するが 山 陰 義 銛 は 何 を 指 したのであろうか 不 可 刹 那 無 此 君 にある 三 周 正 84 續 藏 經 57 p. 121その 書 題 に 宋 達 磨 山 沙 門 義 銛 述 と 見 える 85 淸 衆 規 式 並 十 六 觀 堂 記 不 可 刹 那 無 此 君 ( 俊 芿 研 究 pp ) 86 百 衲 本 二 十 四 史 10 晉 書 下 臺 灣 商 務 印 書 館 1988 年 1 月 p
31 30 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 體 不 出 此 只 在 平 常 一 念 中 87 の 文 意 から 見 ると 此 君 は 天 台 教 學 の 一 心 三 觀 の 一 心 と 理 解 すればよいが 贈 る 書 物 として 題 名 にいう 此 の 君 は 著 者 自 身 が 親 交 した 俊 芿 のことを 指 す 可 能 性 が 高 いだろう ちなみに 不 可 刹 那 無 此 君 は 俊 芿 を 通 じて 日 本 に 傳 來 してから 寶 永 三 年 (1706)に 叡 山 の 沙 門 秀 雲 孤 巖 が 纂 註 を 施 しており 後 世 において もその 影 響 を 與 えたことは 留 意 すべきである 次 に 北 礀 居 簡 ( )について その 傳 歴 資 料 は 枯 崖 和 尚 漫 録 卷 中 續 傳 燈 録 卷 三 十 五 増 續 傳 燈 録 卷 一 續 燈 存 稾 卷 一 五 燈 嚴 統 卷 二 十 などが 擧 げられるが 彼 の 門 人 と 言 うべき 物 初 大 觀 に よって 淳 祐 十 一 年 (1251)に 書 かれた 居 簡 の 行 状 88 に 最 も 詳 しい 著 作 には 北 礀 集 十 卷 北 礀 詩 集 四 卷 北 礀 居 簡 禪 師 語 録 一 卷 89 など がある 特 に 彼 の 詩 文 は 日 本 五 山 文 學 に 大 きな 影 響 を 與 えたことは 周 知 の 通 りである 北 礀 居 簡 は 字 は 敬 叟 潼 川 ( 現 在 の 四 川 綿 陽 市 )の 人 であり 南 宋 期 の 文 僧 として 有 名 であった 山 陰 義 銛 と 同 じ 佛 照 德 光 の 門 人 であり 十 年 ほ ど 杭 州 靈 隱 寺 の 飛 來 峰 の 北 側 に 止 住 したので 北 礀 と 稱 する 俊 芿 との 間 に 一 體 どのような 交 渉 があったのかまず 元 亨 釋 書 卷 十 三 收 載 の 俊 芿 傳 から 次 の 文 を 擧 げてみよう (ママ) 獨 其 釋 門 正 統 者 繫 芿 而 列 古 雲 之 上 也 豈 有 抑 而 不 得 已 者 與 簡 北 礀 又 稱 芿 者 屢 見 其 集 焉 今 考 其 事 迹 誠 一 代 之 魁 才 也 續 藏 經 57 p. 121b 88 北 礀 居 簡 の 行 狀 は 物 初 大 觀 撰 北 礀 續 集 卷 末 及 び 物 初 賸 語 卷 二 十 四 に 收 録 されているしかし その 兩 書 は 入 手 し 難 いので 本 稿 では 道 津 綾 乃 氏 北 礀 居 簡 の 文 化 的 素 地 について 中 の 引 用 文 に 據 った( 駒 澤 大 學 禪 研 究 所 年 報 年 pp ) 89 北 礀 居 簡 の 著 作 については 椎 名 宏 雄 宋 元 版 禪 籍 研 究 ( 七 ) 衾 北 礀 語 録 外 集 文 集 詩 集 全 集 衾 參 照 ( 印 佛 研 年 pp )また 同 氏 北 礀 と 物 初 の 著 作 に 關 する 書 誌 的 考 察 參 照 駒 澤 大 學 佛 教 學 部 研 究 紀 要 年 p 大 日 佛 書 101 p
32 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 31 上 文 にいう 列 古 雲 之 上 と 一 代 之 魁 才 とは いずれも 虎 關 師 錬 の 俊 芿 への 敬 意 を 現 わした 言 葉 である 古 雲 とは 北 峰 宗 印 の 門 人 であっ た 古 雲 元 粹 を 指 すのであろう 實 際 に 釋 門 正 統 において 俊 芿 の 名 は 古 雲 元 粹 の 前 に 列 擧 されていたのであるなお 上 文 では 北 礀 居 簡 の 文 集 からしばしば 俊 芿 の 事 蹟 が 見 出 せると 提 示 したが 北 礀 集 と 北 礀 詩 集 を 調 べてみると 前 者 卷 二 收 載 の 湖 州 寶 雲 彬 文 仲 淨 業 記 では 次 の ように 記 している 公 名 了 彬 字 文 仲 湖 州 烏 程 縣 計 氏 子 寶 雲 寺 淸 湛 則 受 業 師 也 十 五 能 誦 妙 法 蓮 花 經 二 十 七 則 發 古 方 書 之 秘 ( 中 略 ) 五 十 而 修 淨 業 即 寶 雲 舊 環 堵 建 繫 念 之 所 結 構 象 設 體 製 大 備 十 友 會 盟 一 志 無 移 日 課 有 常 風 雨 不 渝 剋 期 薰 修 則 北 峰 印 爲 之 主 南 翔 遠 日 本 芿 爲 之 伴 綴 輯 藏 乘 則 諸 子 稽 其 費 諸 孫 相 其 役 凡 根 椽 片 瓦 皆 公 爲 之 倡 七 十 八 而 績 用 成 居 無 何 厭 世 之 念 作 夢 三 僧 雲 間 來 覺 而 笑 曰 此 其 兆 矣 使 速 印 印 至 則 爲 著 解 疑 一 章 91 了 彬 文 仲 ( )は 湖 州 烏 程 縣 の 人 計 氏 の 子 である 十 五 歳 で 妙 法 蓮 華 經 を 誦 じ 五 十 歳 で 淨 業 を 修 したため 寶 雲 寺 を 念 佛 の 道 場 に 建 て 直 し 同 志 者 の 十 人 を 集 め 一 定 の 期 間 中 に 修 行 した 興 味 深 いの は 修 業 に 參 加 した 人 の 中 には 北 峰 宗 印 を 中 心 に 南 翔 ( 寺 )の 遠 や 俊 芿 が 含 まれていたことである 南 翔 遠 とは 南 翔 寺 の 遠 法 師 であったが 詳 細 な 傳 歴 は 不 明 である 前 掲 した 文 中 の 作 夢 三 僧 雲 間 來 とその 後 にある 使 速 印 印 至 という 言 葉 から 見 て 三 僧 とは 恐 らく 北 峰 宗 印 南 翔 遠 俊 芿 の 三 人 を 指 すのであ ろう 雲 間 とは 華 亭 の 別 名 であるつまり 了 彬 文 仲 の 要 請 に 應 じてこの 三 人 は 華 亭 から 湖 州 の 寶 雲 寺 に 赴 いたわけであるこの 記 事 によって 俊 芿 が 華 亭 超 果 寺 に 滯 在 した 時 北 峰 宗 印 南 翔 遠 とともに 湖 州 まで 足 を 運 び 了 彬 文 仲 の 念 佛 修 業 に 參 加 したことが 確 認 できる 91 禪 門 逸 書 初 編 5 北 礀 集 臺 灣 明 文 書 局 1980 年 p
33 32 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) この 文 は 北 礀 居 簡 の 手 になるので 當 然 ながら 俊 芿 の 動 きを 知 りえた 上 で 書 かれたものであるしかし 二 人 の 間 の 具 體 的 な 交 渉 については 明 確 な 記 録 が 見 えないただし 俊 芿 と 交 流 のあった 山 陰 義 銛 92 や 南 翔 遠 93 そして 後 述 する 樓 鑰 楊 簡 らはすべて 北 礀 居 簡 と 親 しく 往 來 したことがあ り 北 礀 居 簡 の 交 流 した 人 間 關 係 からみると 俊 芿 との 間 には 何 かの 交 流 があっても 不 思 議 ではない 實 際 には 俊 芿 以 降 に 入 宋 した 圓 爾 94 や 天 祐 思 順 95 はいずれも 北 礀 居 簡 について 禪 法 を 學 んだことが 知 られている ( 二 ) 律 僧 との 交 流 宋 代 の 律 學 を 宣 揚 した 人 物 といえば 允 堪 ( )と 元 照 ( )との 名 がよく 知 られている 二 人 ともに 唐 の 道 宣 の 南 山 律 宗 を 復 興 することに 力 を 入 れ 杭 州 を 據 點 として 教 化 に 力 を 入 れたただし 南 山 律 宗 の 作 法 などに 對 して 兩 者 の 見 解 が 異 なり それぞれ 四 分 律 行 事 鈔 會 正 記 と 四 分 律 資 持 記 を 著 し 自 分 の 論 説 を 主 張 し ついに 會 正 派 と 資 持 派 に 分 かれた 96 そのうち 允 堪 の 會 正 派 より 元 照 の 資 持 派 のほ うが 後 繼 者 を 輩 出 し 南 宋 の 佛 教 に 多 大 な 影 響 を 及 ぼしていた 俊 芿 が 依 止 した 律 師 はほとんど 資 持 派 の 系 統 に 屬 した 人 物 である 以 下 俊 芿 が 師 事 した 如 庵 了 宏 を 始 め 南 宋 の 律 僧 との 交 流 を 檢 討 してみたい 如 庵 了 宏 に 關 する 資 料 は 意 外 に 少 ない 元 禄 二 年 (1689)に 成 立 した 慧 92 北 礀 詩 集 卷 二 に 酬 銛 樸 翁 梅 花 四 首 劉 改 之 題 王 揔 幹 虜 中 懷 親 帖 拉 樸 翁 與 余 同 賦 樸 翁 加 冠 巾 蘇 召 叟 訝 予 不 嘲 同 書 卷 三 に 樸 翁 約 効 誠 齋 分 題 得 月 色 參 照 ( 禪 門 逸 書 初 編 5 臺 灣 明 文 書 局 1980 年 p ) 93 北 礀 集 には 南 翔 遠 老 幹 麥 豆 莊 疏 一 文 も 見 出 せる( 禪 門 逸 書 初 編 5 北 礀 集 臺 灣 明 文 書 局 1980 年 p. 138) 94 東 福 開 山 聖 一 國 師 年 譜 の 仁 治 元 年 庚 子 ( 嘉 熙 四 年 1240)の 項 に 師 三 十 九 歳 敬 叟 簡 棲 飛 來 峰 北 礀 望 尊 一 時 師 往 求 法 語 簡 曰 徑 山 執 不 立 文 字 之 柄 拂 儞 知 解 之 塵 吾 豈 說 葛 藤 禪 參 照 ( 大 日 佛 書 95 p. 133) 95 高 橋 秀 榮 入 宋 僧 天 祐 思 順 について 參 照 ( 印 佛 研 年 pp ) 96 會 正 派 と 資 持 派 に 關 する 研 究 は 岡 平 本 一 北 宋 代 の 律 宗 における 會 正 家 と 資 持 家 について 參 照 ( 駒 澤 大 學 禪 研 究 所 年 報 年 3 月 pp ) 185
34 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 33 堅 撰 律 苑 僧 寶 傳 卷 九 の 宋 四 明 景 福 寺 如 庵 宏 律 師 傳 に 以 下 の 記 述 が 見 られる 律 師 諱 了 宏 字 如 庵 未 詳 其 族 里 受 業 於 法 政 律 師 諸 部 毘 尼 無 不 穿 穴 而 名 声 炳 燿 出 住 四 明 景 福 寺 開 闡 律 教 訓 導 學 子 而 從 之 遊 者 偃 然 若 風 之 於 草 沛 然 若 水 之 於 壑 也 有 嗣 法 上 首 兩 人 日 山 守 一 律 師 本 邦 俊 芿 律 師 97 如 庵 は 諱 を 了 宏 字 を 如 庵 という 出 身 は 未 詳 法 政 律 師 について 修 行 を 受 け 諸 部 の 毘 尼 に 通 じ 四 明 景 福 寺 に 住 して 律 教 を 弘 め 名 声 を 馳 せ た 嗣 法 者 には 日 山 守 一 や 俊 芿 などがあった 如 庵 了 宏 は 法 政 律 師 の 門 人 であったので その 律 學 傳 承 について 少 なく とも 北 宋 の 元 照 まで 遡 ることができる 即 ち 元 照 律 師 道 標 律 師 惟 一 律 師 法 政 律 師 了 宏 律 師 實 は 法 政 律 師 の 門 下 に また 上 翁 妙 蓮 ( ) 98 がおり さらに 上 翁 妙 蓮 の 門 下 から 石 林 行 居 や 日 本 の 眞 照 律 師 99 などが 輩 出 した 一 方 如 庵 了 宏 の 門 下 から 日 山 守 一 や 俊 芿 が 出 ており また 日 山 守 一 の 門 下 に 日 本 僧 の 曇 照 律 師 100 もいた 要 するに 法 政 律 師 から 日 山 守 一 までの 門 下 周 邊 において 入 宋 僧 も 活 躍 したことに 注 目 すべきである 日 山 守 一 は 鐵 翁 守 一 101 ともいうその 傳 歴 について 不 明 であるが 97 大 日 佛 書 105 p この 生 卒 年 は 大 野 法 道 の 指 摘 による( 佛 書 解 說 大 辭 典 10 大 東 出 版 社 1965 年 11 月 p. 135) 99 律 苑 僧 寶 傳 卷 十 三 律 師 眞 照 俗 姓 未 詳 ( 中 略 ) 遂 以 正 元 初 航 海 入 宋 當 理 宗 開 慶 元 年 依 妙 蓮 律 師 於 廣 福 行 居 律 師 于 竹 林 參 照 ( 大 日 佛 書 105 p. 277) 100 律 苑 僧 寶 傳 卷 十 一 律 師 諱 淨 業 字 法 忍 其 號 曰 曇 照 ( 中 略 ) 値 寧 宗 嘉 定 七 年 事 鐵 翁 一 律 師 踞 巾 峰 名 高 當 代 師 登 其 門 重 受 具 戒 參 照 ( 大 日 佛 書 105 p. 252) 184
35 34 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 終 南 家 業 と 律 宗 會 元 の 著 作 が 現 存 している 俊 芿 と 日 山 守 一 との 交 流 について 終 南 家 業 卷 二 收 載 の 答 日 本 芿 法 師 教 觀 諸 問 から 確 認 することができるなお 答 日 本 芿 法 師 教 觀 諸 問 を 一 見 して 南 宋 滯 在 中 の 俊 芿 に 送 ったものと 思 われるかもしれないが 實 は 俊 芿 歸 國 後 に 書 かれたものと 見 なすべきである 102 何 故 なら 文 の 冒 頭 に 以 下 の 記 載 が 見 えるからである 日 本 芿 師 爲 法 之 切 於 慶 元 間 泛 舶 東 來 彼 時 先 師 如 庵 開 法 景 福 芿 即 依 學 十 有 餘 年 縁 異 音 不 解 毎 別 席 指 教 芿 乃 討 論 分 陰 不 廢 大 小 部 文 一 宗 教 觀 無 不 通 達 後 遊 參 諸 方 彼 有 不 入 其 門 者 妄 測 堂 奧 之 淺 深 於 是 作 疑 而 激 學 者 余 嘗 會 語 扣 知 彼 懷 而 非 實 疑 也 彼 文 一 出 餘 二 十 年 將 謂 公 心 義 士 能 洞 也 ( 中 略 ) 庚 寅 中 制 日 山 述 103 文 末 に 庚 寅 中 制 と 記 されているように 紹 定 三 年 (1230)に 書 かれ たものである 主 に 俊 芿 入 宋 後 景 福 寺 如 庵 了 宏 のもとで 律 學 や 天 台 など を 孜 孜 として 研 學 したことを 述 べている 紹 定 三 年 は 俊 芿 が 示 寂 した 三 年 後 のことである 日 山 守 一 が 俊 芿 の 示 寂 を 知 っていたかどうか 不 明 であ るが 文 を 書 いた 紹 定 三 年 から 逆 算 してみると 文 中 にいう 彼 文 一 出 餘 二 十 年 云 々とは やはり 嘉 定 二 年 (1209)に 杭 州 において 律 宗 問 答 を 行 った 際 に 俊 芿 から 投 じられた 質 問 の 内 容 を 振 り 返 って 述 べたものであ ろう 即 ち 俊 芿 が 打 ち 出 した 彼 文 とは 律 宗 問 答 所 收 の 三 十 問 と 答 日 本 芿 法 師 教 觀 諸 問 104 にみられる 彼 云 五 義 分 通 疑 彼 云 増 受 101 鐵 翁 守 一 の 別 稱 については 西 巖 了 慧 禪 師 語 録 卷 下 に 福 源 鐵 翁 律 師 像 吉 祥 嗣 法 大 宗 師 請 の 著 律 宗 會 元 眞 破 律 之 宗 主 集 祖 師 家 業 乃 謗 祖 之 師 門 によって 鐵 翁 守 一 は 福 源 鐵 翁 ともいうことが 知 られるこの 福 源 は 未 詳 であるが 寺 名 あるいは 地 名 であろう( 續 藏 經 122 p. 367) 102 この 記 事 について 律 宗 問 答 卷 上 の 割 註 に 俊 芿 皈 國 後 守 一 作 答 釋 遥 寄 於 日 本 國 其 答 釋 戴 在 終 南 家 業 卷 上 末 とある( 續 藏 經 105 p. 684) 103 續 藏 經 105 pp 續 藏 經 105 pp
36 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 35 菩 薩 戒 疑 などの 二 十 問 を 合 わせた 五 十 問 の 内 容 を 指 すのである 答 日 本 芿 法 師 教 觀 諸 問 に 取 り 上 げた 律 學 とくに 菩 薩 戒 の 重 受 か 不 重 受 かな どの 議 論 に 對 して 日 山 守 一 は 不 重 受 の 立 場 を 主 張 したのである 105 俊 芿 は 日 山 守 一 と 教 學 的 な 交 流 を 行 った 一 方 上 翁 妙 蓮 との 交 流 もあっ たようであるこれについて 上 翁 妙 蓮 著 の 蓬 折 箴 では 次 のように 述 べている 噫 一 百 二 十 州 之 大 訓 兩 浙 僅 在 其 名 可 謂 中 間 笑 法 笑 法 矣 妙 蓮 下 壇 時 日 本 芿 法 師 來 略 得 識 面 惜 乎 不 曾 與 言 後 見 其 所 出 問 答 知 彼 解 行 可 歸 ( 中 略 ) 乙 卯 十 月 旦 滄 洲 祖 關 上 翁 妙 蓮 云 爾 106 上 文 の 内 容 は 文 末 の 乙 卯 十 月 から 分 かるように 寶 祐 三 年 (1255) に 書 かれ 俊 芿 歸 國 後 の 四 十 四 年 ほどにあたる 記 録 である 上 翁 妙 蓮 の 傳 記 は 未 詳 であるが 彼 の 生 卒 年 からみると 俊 芿 より 十 六 歳 下 の 後 輩 で 俊 芿 が 宋 地 にいた 當 時 二 十 五 歳 前 後 であったと 推 測 される 上 掲 の 文 意 を 見 る 限 り 上 翁 妙 蓮 と 俊 芿 とは 面 識 を 交 わすのみで 言 葉 の 遣 り 取 りが なかったようである 實 は 上 翁 妙 蓮 と 日 本 僧 との 交 渉 については 上 文 の 中 略 のところに (ママ) 嘉 定 至 於 淳 祐 果 有 學 律 者 來 唯 忍 敬 二 法 師 相 聚 連 年 與 之 義 論 頗 得 稠 密 一 別 再 化 各 處 天 一 涯 不 知 其 回 國 之 道 況 何 如 107 と 記 されているこれによって 上 翁 妙 蓮 は 嘉 定 ( )から 淳 祐 ( )までの 間 に 日 本 僧 の 忍 敬 二 法 師 と 長 年 にわたって 律 學 などを 議 論 したことが 分 かるここで 忍 は 前 掲 した 曇 照 法 忍 の 可 能 性 が 高 いが 敬 は 俊 芿 弟 子 の 思 敬 であるかもしれない 105 重 受 という 問 題 は 土 橋 秀 高 俊 芿 律 師 の 提 起 せる 菩 薩 戒 重 受 の 問 題 に 詳 しい( 俊 芿 研 究 pp ) 106 續 藏 經 60 p 續 藏 經 60 p
37 36 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) ちょっと 話 は 戻 るが 如 庵 了 宏 に 師 事 した 期 間 については 各 文 獻 によ って 異 なっている 前 掲 した 答 日 本 芿 法 師 教 觀 諸 問 の 冒 頭 にいう 十 有 餘 年 を 含 め 北 峰 宗 印 の 法 語 にいう 一 坐 五 年 108 本 朝 高 僧 傳 の 隨 事 六 載 109 そして 不 可 棄 傳 にいう 僅 跨 三 年 110 などの 四 説 が 見 出 せる 四 説 のうち 俊 芿 の 行 歴 を 全 體 的 に 考 えてみると 如 庵 了 宏 に 師 事 した 期 間 はやはり 不 可 棄 傳 にいう 僅 跨 三 年 が 一 番 事 實 に 近 く 即 ち 慶 元 六 年 (1200)の 春 から 嘉 泰 二 年 (1202) 十 月 五 日 にかけて の 三 年 間 であると 思 われる 如 庵 了 宏 の 生 卒 年 については 資 料 が 乏 しく 不 明 であるが 俊 芿 將 來 品 の 中 に 如 庵 舎 利 三 粒 111 があるので 歸 國 の 前 にすでに 示 寂 したのではな いかと 考 えられるこれに 關 連 して 前 にも 述 べたように 嘉 定 四 年 (1211)の 春 歸 國 直 前 の 俊 芿 が 景 福 寺 に 再 訪 した 際 に 住 持 者 の 道 常 が 出 迎 えたということからも 推 測 可 能 である また 嘉 定 二 年 (1209)に 杭 州 において 律 學 の 論 議 を 行 った 際 に 日 山 守 一 だけではなく ほかの 律 師 とも 交 渉 したことは 注 目 に 値 する 當 時 の 論 議 にどれほどの 人 が 參 加 したかは 不 明 であるが 律 宗 問 答 によれば 俊 芿 の 質 問 に 對 して 回 答 を 出 した 人 は 少 なくとも 杭 州 不 空 教 院 住 持 の 了 然 律 師 會 稽 郡 姚 江 ( 現 在 の 浙 江 省 餘 姚 市 ) 極 樂 院 の 智 瑞 律 師 杭 州 無 相 芝 巖 蘭 若 の 淨 懷 そして 杭 州 淨 梵 院 の 妙 音 などの 四 人 であったという この 四 人 の 傳 歴 について 淨 懷 を 除 き ほかの 三 人 は 律 苑 高 僧 傳 卷 108 日 本 俊 芿 法 師 慶 元 之 末 來 遊 大 宋 掛 錫 明 州 景 福 院 有 宏 律 師 坐 下 一 坐 五 年 精 通 律 學 遂 遍 入 諸 山 禪 講 之 室 嘉 泰 四 年 抵 華 亭 超 果 參 照 淸 衆 規 式 並 十 六 觀 堂 記 法 語 ( 俊 芿 研 究 所 收 p. 399) 109 本 朝 高 僧 傳 卷 五 十 八 淨 律 五 之 二 京 兆 泉 涌 寺 沙 門 俊 芿 傳 に 六 年 春 往 四 明 依 景 福 寺 如 庵 了 宏 律 師 肄 習 毘 尼 随 事 六 載 開 遮 持 犯 渙 然 氷 釋 嘉 泰 二 年 冬 又 登 台 山 とみえるこの 文 の 冒 頭 にある 六 年 春 は 慶 元 六 年 (1200)の 春 こ とで 嘉 泰 二 年 (1202)までは 三 年 未 滿 の 期 間 しかないしたがって 該 書 の 記 事 には 矛 盾 があるので 六 載 というのは 誤 寫 の 可 能 性 がある( 大 日 佛 書 103 p. 763) 110 大 日 佛 書 115 p 同 上 p
38 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 37 九 に 宋 了 然 智 瑞 妙 音 三 律 師 傳 112 と 題 する 簡 略 な 記 述 が 見 える 先 にも 言 及 したように 了 然 は 杭 州 菩 提 律 寺 の 住 持 後 繼 者 とされる 人 物 であ り 著 作 に 授 菩 薩 戒 儀 一 卷 釋 門 歸 敬 儀 通 眞 記 113 三 卷 があるが 現 存 するのは 後 者 のみである 智 瑞 は 洞 微 集 十 卷 を 著 したが 現 存 して いないようである 律 宗 問 答 の 冒 頭 には 智 瑞 によって 書 かれた 次 の 一 文 がある 智 瑞 久 聞 名 字 之 香 未 瞻 庭 角 之 秀 嘉 定 己 巳 仲 秋 忽 得 教 觀 五 十 問 乃 審 所 云 云 異 科 欲 兩 國 學 宗 徹 見 律 海 ( 中 略 ) 是 月 望 日 會 稽 郡 姚 江 極 樂 座 主 智 瑞 頓 首 拜 上 114 久 聞 名 字 之 香 未 瞻 庭 角 之 秀 の 二 句 は 俊 芿 に 對 する 智 瑞 の 贊 辭 と 見 てよかろうただし 上 文 の 書 式 と 言 葉 からみると この 書 はただ 俊 芿 に 呈 出 したものであり 智 瑞 と 俊 芿 とは 實 際 には 面 會 していなかったようで あるまた 不 可 棄 傳 では 智 瑞 は 俊 芿 の 智 德 を 仰 ぎ 畫 工 に 命 じて 俊 芿 の 像 を 描 かせ それに 像 贊 を 付 して 祖 堂 に 掛 けて 供 養 したと 傳 えられて いる 115 教 觀 五 十 問 というのは 俊 芿 の 質 問 に 對 して 日 山 守 一 や 了 然 などの 律 僧 から 得 た 回 答 内 容 を 纏 めたものであるこれらの 論 題 はまさに 當 時 の 佛 教 々 學 の 中 心 問 題 であり こうした 質 問 を 通 じて 宋 代 の 佛 教 教 學 に 大 きな 波 紋 をなげかけたに 違 いないし 俊 芿 自 身 が 關 心 を 持 った 教 學 がどの へんにあったのかを 多 少 とも 推 し 量 ることができるだろうなお これに 關 する 詳 細 な 論 考 は 別 稿 に 譲 りたい 112 大 日 佛 書 105 p 具 體 的 な 名 稱 は 釋 門 歸 敬 儀 通 眞 記 と 言 うべきである 該 書 は 續 藏 經 105 所 收 本 の 題 名 下 に 大 宋 蕭 山 沙 門 了 然 述 と 見 える 114 續 藏 經 105 p 大 日 佛 書 115 p
39 38 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) ( 三 ) 教 僧 との 交 流 俊 芿 が 交 流 した 教 僧 といえば まず 北 峰 宗 印 ( )の 名 を 擧 げ るべきである 周 知 のように 中 國 の 天 台 學 史 において 隋 の 天 台 智 顗 ( ) 唐 の 荊 溪 湛 然 ( ) 宋 の 四 明 知 禮 ( )などが 重 要 な 人 物 である また 知 禮 以 降 の 宋 代 において 四 明 三 家 と 呼 ば れる 神 照 本 如 ( ) 廣 智 尚 賢 ( 生 卒 年 未 詳 ) 南 屛 梵 臻 (? 1103)がよく 知 られて いる 俊 芿 の 宋 地 滯 在 中 に 神 照 系 の 天 台 學 はすでに 衰 退 しており ただ 廣 智 系 と 南 屛 系 の 二 家 が 存 續 していたようである 北 峰 宗 印 は 竹 庵 可 觀 の 門 下 から 出 た 天 台 僧 であり 南 屛 系 に 屬 していた 天 台 學 の 相 承 系 譜 は 次 の 通 りである 四 明 知 禮 南 屛 梵 臻 慈 辯 從 諫 車 溪 擇 卿 竹 庵 可 觀 北 峰 宗 印 北 峰 宗 印 の 傳 記 については 釋 門 正 統 卷 七 佛 祖 統 紀 卷 十 六 佛 祖 歴 代 通 載 卷 二 十 一 補 續 高 僧 傳 卷 三 などに 見 えるこれまで 大 松 博 典 による 北 峰 宗 印 の 傳 記 とその 思 想 について 幾 つかの 論 考 があり 116 參 照 すべきであるここでは 本 題 に 關 連 して 北 峰 宗 印 と 俊 芿 との 交 渉 を 中 心 に 檢 討 してみたい 宗 印 は 字 を 元 實 號 を 北 峰 といい 塩 官 ( 現 在 の 浙 江 海 寧 市 )の 出 身 であ った 十 五 歳 で 具 足 戒 を 受 け 初 めに 四 明 知 禮 山 家 派 の 南 屛 系 の 竹 庵 可 觀 ( )に 師 事 して 天 台 教 觀 を 研 鑽 したが しばらくして 象 田 寺 の 圓 悟 演 117 に 參 じて 圓 悟 演 から 西 來 意 を 問 われ 禪 も 修 學 したのち 通 守 蘇 116 その 三 つの 論 文 は 1 北 峰 宗 印 の 教 學 とその 背 景 ( 印 佛 研 年 pp ) 2 南 宋 天 台 研 究 序 說 宗 印 法 照 の 場 合 ( 駒 澤 大 學 佛 教 學 部 論 集 年 pp ) 3 北 峰 宗 印 の 研 究 ( 駒 澤 大 學 大 學 院 佛 教 學 研 究 年 報 年 pp ) 117 象 田 寺 の 圓 悟 演 は いったい 誰 であろうか 大 松 博 典 は 北 峰 宗 印 の 研 究 において 安 藤 俊 雄 の 臨 濟 宗 の 五 祖 法 演 であるという 説 に 對 して 五 祖 法 演 の 卒 年 が 1104 年 であることから 圓 悟 演 ではないといえようと 指 摘 している( 駒 澤 大 學 大 學 院 佛 教 學 研 究 年 報 年 p. 35) 179
40 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 39 玭 ( ) 118 の 要 請 によって 正 覺 寺 に 住 したさらに 杭 州 上 天 竺 寺 で 止 觀 を 講 じ 戒 律 を 輕 視 する 當 時 の 弊 風 を 警 めていたのである 119 その 後 超 果 北 禪 の 名 刹 に 歴 住 し 嘉 定 六 年 (1213) 十 二 月 八 日 に 示 寂 した 120 北 峰 宗 印 の 著 作 について 釋 門 正 統 卷 七 北 峰 宗 印 傳 の 末 尾 に 所 著 金 剛 新 解 及 釋 迦 彌 勒 偈 簡 示 親 什 同 異 有 功 教 義 百 章 121 と 記 されているここで 金 剛 新 解 釋 迦 彌 勒 偈 および 教 義 百 章 122 が 擧 げられいるが 前 の 二 者 は 現 存 しておらず 教 義 百 章 は 恐 ら く 現 存 の 北 峰 教 義 123 そのものであろうそのほか 前 にも 言 及 したが 淨 土 關 係 の 書 物 と 見 られる 解 疑 一 章 もあったまた 俊 芿 は 歸 國 の 際 に 北 峰 宗 印 からその 自 筆 となる 法 語 と 唯 心 淨 土 説 を 頂 いたこと があるこれらはいずれも 短 編 であるが その 内 容 からみると ともに 宋 代 天 台 淨 土 教 の 思 想 を 反 映 する 貴 重 な 資 料 であるさらに 宋 北 峰 沙 門 宗 印 述 北 峰 四 世 孫 本 無 略 録 とされる 大 佛 頂 首 楞 嚴 經 釋 題 124 があ り これは 天 台 智 顗 の 五 重 玄 義 によって 解 釋 されたものであり 天 台 關 係 の 書 物 と 言 える 現 存 の 著 作 から 北 峰 宗 印 の 教 學 思 想 は 天 台 だけではなく 淨 土 禪 を 118 蘇 玭 は 泉 州 同 安 の 人 字 を 訓 直 といい 陸 游 渭 南 文 集 卷 三 十 九 に 吏 部 郎 中 蘇 君 墓 誌 銘 がある 119 釋 門 正 統 卷 七 に 上 竺 講 止 觀 叢 脞 之 弊 熾 于 澤 國 支 離 名 相 輕 毀 戒 律 因 痛 加 砭 參 照 ( 續 藏 經 130 p. 884) 120 嘉 定 六 年 以 觀 室 縁 行 化 松 江 十 二 月 初 八 示 寂 參 照 ( 續 藏 經 130 p. 884) 121 續 藏 經 130 p. 884 宋 志 磬 佛 祖 統 紀 卷 六 北 峰 宗 印 傳 には 所 著 金 剛 新 解 釋 彌 勒 簡 示 天 親 羅 什 同 異 之 意 考 正 之 經 諸 本 即 則 之 文 最 爲 有 據 述 教 義 百 餘 章 尤 爲 學 者 傳 録 とみえる( 大 正 藏 49 p. 233b) 122 謙 順 の 諸 宗 章 疏 録 卷 二 に 金 剛 新 解 釋 金 剛 彌 勒 論 教 義 一 卷 とある ( 大 日 佛 書 1 p. 137) 123 續 藏 經 101 pp 續 藏 經 17 p. 5 同 資 料 は 大 松 博 典 宋 天 台 研 究 序 說 - 宗 印 法 照 の 場 合 衾 にも 指 摘 される( 駒 澤 大 學 佛 教 學 部 論 集 年 p. 261) 178
41 40 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 含 め 諸 宗 を 重 視 して 兼 學 した 一 面 が 窺 える 俊 芿 は 嘉 泰 四 年 (1204)に 超 果 寺 に 至 り 北 峰 宗 印 に 師 事 して 研 學 した 日 本 に 將 來 した 北 峰 宗 印 の 法 語 には 次 のように 記 録 されている 日 本 俊 芿 法 師 慶 元 之 末 來 遊 大 宋 ( 中 略 ) 嘉 泰 四 年 抵 華 亭 超 果 雖 値 鄙 僧 重 建 教 刹 講 課 不 專 而 孜 孜 聽 習 不 捨 晝 夜 毎 告 之 以 天 台 圓 頓 妙 道 125 これによれば 俊 芿 が 超 果 寺 に 至 った 時 北 峰 宗 印 はちょうど 寺 院 の 復 興 に 追 われ 講 義 に 集 中 することができなかったにもかかわらず 俊 芿 の 孜 々とした 研 鑽 の 様 子 を 見 て 天 台 圓 頓 の 妙 道 ( 妙 觀 )を 教 授 したので ある また 不 可 棄 傳 の 記 録 によれば 超 果 寺 に 住 居 する 間 に 北 峰 宗 印 が 十 餘 人 を 集 めて 四 明 知 禮 の 兩 重 能 所 126 の 出 典 について 提 示 するよう 求 めた 時 俊 芿 は 即 座 に 唐 の 湛 然 撰 止 觀 輔 行 傳 弘 決 127 によって 知 陰 即 是 而 能 成 觀 128 を 述 べて 回 答 したというこれを 通 じて 俊 芿 の 天 台 學 に 對 する 造 詣 の 深 さを 察 知 することができるこれは 渡 宋 後 の 修 學 の 成 果 であるばかりでなく 入 宋 前 からの 長 い 年 月 にわかる 學 問 蓄 積 があった からに 違 いない 俊 芿 の 著 作 に 三 千 義 備 檢 という 書 物 があるその 奥 書 129 からみて 分 かるように 書 の 内 容 はただ 北 峰 教 義 を 節 録 して 類 集 したものであるこれは 俊 芿 が 北 峰 宗 印 のもとで 天 台 教 學 に 努 めていた 成 125 淸 衆 規 式 並 十 六 觀 堂 記 法 語 ( 俊 芿 研 究 所 收 p. 399) 126 兩 重 能 所 の 文 は 四 明 知 禮 の 十 不 二 門 指 要 鈔 卷 上 に 今 更 自 立 一 譬 雙 明 兩 重 能 所 如 器 諸 淳 樸 豈 單 用 槌 而 無 砧 邪 故 知 槌 砧 自 分 能 所 若 望 淳 樸 皆 屬 能 也 參 照 ( 大 正 藏 46 p. 706c) 127 唐 の 湛 然 撰 止 觀 輔 行 傳 弘 決 卷 五 之 二 無 始 色 心 本 是 理 性 妙 境 妙 智 而 隨 妄 轉 不 覺 不 知 今 既 聞 名 知 陰 即 是 即 四 陰 心 而 能 成 觀 參 照 ( 大 正 藏 46 p. 288a) 128 大 日 佛 書 115 p 此 一 書 是 俊 芿 備 撿 於 北 峰 教 義 中 略 所 引 文 也 惜 哉 教 義 失 本 唯 存 一 卷 此 書 亦 失 一 得 一 ( 俊 芿 研 究 p. 357) 177
42 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 41 果 の 一 つとして 評 價 できるが その 内 容 から 北 峰 宗 印 の 天 台 教 學 をどのよ うにして 理 解 したのか 窺 うこともできよう 俊 芿 は 北 峰 宗 印 のもとで 少 なくとも 七 年 にわたって 天 台 教 學 を 中 心 にし て 研 鑽 したことがわかるここに 一 つの 注 目 すべき 點 がある 即 ち 俊 芿 は 本 來 戒 律 のために 入 宋 したと 見 られていたが 宋 地 に 着 いた 後 單 に 戒 律 を 學 ぶだけではなく 當 時 盛 んであった 佛 教 々 學 とりわけ 天 台 學 にも 強 い 關 心 を 抱 いたということである 宗 鑑 輯 の 釋 門 正 統 卷 七 には 次 の ように 述 べられている 嗣 法 俊 芿 先 傳 密 教 於 日 本 慕 台 道 航 海 來 學 130 この 記 事 は 俊 芿 は 日 本 で 密 教 を 修 め のち 中 國 の 天 台 教 觀 を 慕 い 宋 に 渡 ったと 指 摘 している 天 台 系 の 文 獻 というべき 佛 祖 統 紀 卷 十 六 に は 俊 芿 は 古 雲 元 粹 とともに 北 峰 宗 印 の 法 嗣 として 認 められており ま た 同 書 卷 十 七 には 簡 略 な 俊 芿 の 傳 記 が 收 載 されている 131 要 するに 俊 芿 は 宋 代 天 台 の 傳 承 においても 重 要 視 されたことがわかる 俊 芿 歸 國 の 二 年 後 にあたる 嘉 定 六 年 (1213) 北 峰 宗 印 は 示 寂 した 翌 年 下 天 竺 寺 に 住 持 した 古 雲 元 粹 は 北 峰 宗 印 の 眞 影 を 當 時 の 入 宋 僧 であっ た 良 佑 に 托 して 俊 芿 に 贈 ったと 傳 えられている 132 古 雲 元 粹 は 俊 芿 と 同 門 130 續 藏 經 130 p 釋 門 正 統 卷 七 に 嗣 法 俊 芿 先 傳 密 教 於 日 本 慕 臺 道 航 海 來 學 開 禧 逆 虜 犯 順 芿 欲 結 壇 誦 呪 如 不 空 解 安 西 圍 者 時 論 骪 靡 扣 閽 無 路 師 陴 使 芿 遣 徒 於 日 本 取 五 部 法 而 徒 死 于 海 吁 聖 教 行 否 亦 有 時 耶 とある 佛 祖 統 紀 卷 十 七 に 法 師 俊 芿 日 本 國 人 先 傳 瑜 伽 密 教 ( 唐 元 和 間 國 人 空 海 入 中 國 受 密 教 於 不 空 弟 子 慧 果 ) 久 之 杭 ( 航 ) 海 來 中 國 登 靈 山 謁 北 峰 學 天 台 一 宗 執 經 受 教 盡 通 其 旨 開 禧 初 北 虜 犯 邊 芿 啟 北 峯 欲 結 壇 誦 呪 如 不 空 解 安 西 圍 時 論 委 靡 竟 不 克 行 北 峯 乃 令 遣 徒 歸 國 取 中 華 先 所 傳 五 部 之 法 而 其 徒 淪 於 海 ( 此 是 北 峰 印 法 師 法 嗣 有 十 六 人 前 失 十 一 人 後 失 三 人 唯 存 此 法 師 與 趙 彥 肅 二 人 而 已 ) と ある 132 不 可 棄 傳 建 保 二 年 夏 比 大 宋 下 竺 古 雲 粹 講 師 付 僧 良 佑 歸 朝 贈 北 峰 和 尚 眞 影 參 照 ( 大 日 佛 書 115 p. 525) 176
43 42 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) であったので 相 互 の 交 渉 があっても 不 思 議 ではない 俊 芿 の 歸 國 後 泉 涌 寺 の 首 座 となった 湛 海 は 俊 芿 の 命 によって 二 度 にわたって 入 宋 したと いう 入 宋 初 回 目 の 間 に 杭 州 の 上 天 竺 寺 で 北 峰 宗 印 の 弟 子 にあたる 晦 嚴 法 照 133 ( )を 訪 問 したまた 白 蓮 寺 で 佛 牙 を 手 に 入 れ 更 に 古 雲 元 粹 に 依 頼 して 佛 牙 舎 利 贊 134 を 書 いてもらい 將 來 したことがあっ たつまり 俊 芿 を 始 めとする 日 本 僧 と 天 台 僧 との 交 流 成 果 は 後 世 の 泉 涌 寺 教 團 へ 多 大 な 影 響 を 與 えたのである ( 四 )ほかの 僧 侶 南 宋 における 俊 芿 の 交 遊 した 僧 侶 は 具 體 的 どれほどあったのかを 確 定 す ることができない 上 掲 のほか さらに 判 明 した 僧 名 だけを 擧 げれば 次 のようになる 嘉 定 四 年 (1211) 俊 芿 は 歸 國 にあたり 多 くの 僧 侶 から 書 牒 や 詩 頌 など が 贈 られたこれらの 僧 侶 は 杭 州 靈 芝 崇 福 寺 の 志 隱 正 倫 杭 州 雷 峰 顯 嚴 塔 院 135 の 志 照 杭 州 褒 親 ( 寺 )の 顯 聰 永 雲 法 祚 明 州 開 元 律 寺 の 道 源 法 久 景 福 律 院 の 道 常 守 眞 慧 雲 行 先 了 性 會 稽 郡 の 師 慧 曇 133 晦 嚴 法 照 に 關 する 先 行 研 究 は 大 松 博 典 晦 嚴 法 照 の 研 究 ( 駒 澤 大 學 大 學 院 佛 教 學 年 報 年 7 月 )と 晦 嚴 法 照 の 行 狀 と 宗 教 ( 宗 教 研 究 年 2 月 )の 兩 文 がある 法 照 と 日 本 僧 との 關 係 については 續 佛 祖 統 紀 や 上 天 竺 寺 志 に 收 載 され る 法 照 傳 記 には 丞 相 史 公 擧 住 四 明 延 慶 海 順 二 師 自 日 本 來 聽 講 請 所 撰 ( 作 ) 讀 教 記 繪 師 像 歸 國 と 見 えるここで 順 という 人 物 はいまだ 不 明 であるが 海 は 泉 涌 寺 の 湛 海 であろう 134 古 雲 元 粹 の 贊 は 佛 牙 舎 利 傳 來 記 に 氣 衝 斗 牛 豊 城 劍 光 透 波 心 合 浦 珠 爭 似 聖 人 眞 舎 利 亙 微 塵 劫 照 昬 衢 と 見 えるまた この 奥 書 に 泉 涌 寺 首 座 比 丘 湛 海 從 白 蓮 寺 堅 長 老 得 佛 牙 舎 利 於 下 天 竺 靈 山 教 寺 右 ( 古 ) 雲 元 釋 ( 粹 ) 拜 贊 とある( 泉 涌 寺 史 資 料 篇 法 藏 館 1984 年 9 月 p. 125) 135 咸 淳 臨 安 志 卷 七 十 八 に 顯 嚴 院 在 雷 峰 塔 開 寶 中 ( ) 呉 越 王 創 皇 妃 塔 遂 建 院 後 有 雷 峰 菴 郡 人 雷 氏 故 居 治 平 二 年 (1065) 賜 顯 嚴 額 宣 和 間 ( ) 兵 燬 唯 塔 存 乾 道 七 年 (1171) 重 建 慶 元 元 年 (1195) 塔 院 與 顯 嚴 始 合 爲 一 五 年 (1199) 重 修 咸 淳 二 年 (1266) 於 峰 頂 創 通 元 亭 望 湖 樓 とある ( 宋 元 方 志 叢 刊 4 中 華 書 局 1990 年 p. 4061) 175
44 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 43 秀 常 照 文 寶 湖 州 覺 悟 教 院 の 行 彬 136 等 であったこのうち 顯 聰 が 俊 芿 の 書 道 に 對 して 梵 字 唐 書 宛 如 眞 墨 縱 横 筆 走 龍 蛇 という 贊 を 與 え た それ 以 外 にも 兩 浙 の 各 地 で 出 會 った 僧 侶 は 少 なくない 例 えば 超 果 寺 の 善 明 比 丘 杭 州 開 化 寺 の 比 丘 尼 正 大 姉 ( 亡 名 ) 四 明 翠 巖 ( 亡 名 ) そ して 西 川 僧 ( 亡 名 )がいった 超 果 寺 の 善 明 比 丘 は 俊 芿 に 對 して 戒 行 道 德 花 ( 華 ) 亭 士 庶 尊 敬 如 佛 137 との 贊 辭 を 寄 せたので 恐 らく 俊 芿 が 超 果 寺 に 止 住 した 時 に ともに 修 學 した 僧 侶 の 一 人 であろう また 僧 侶 の 所 屬 寺 院 や 各 寺 院 の 所 在 地 から 見 て 俊 芿 は 南 宋 の 各 地 で 數 多 くの 僧 侶 に 出 會 い 幅 廣 く 交 流 を 行 ったことが 想 像 される 四 南 宋 文 人 士 大 夫 との 交 遊 俊 芿 が 交 遊 した 南 宋 文 人 士 大 夫 について 不 可 棄 傳 には 次 のように 記 している 或 公 卿 大 夫 聞 名 皆 欽 仰 所 謂 錢 相 公 史 丞 相 樓 參 政 楊 中 郎 等 是 也 此 衆 賢 者 宋 代 俊 頴 博 古 儒 士 ( 中 略 ) 然 而 深 歸 釋 教 大 愛 佛 乘 問 法 師 律 問 法 法 師 朝 復 暮 矣 138 上 文 には 錢 相 公 ( 象 祖 ) 史 丞 相 ( 彌 遠 ) 樓 參 政 ( 昉 ) 楊 中 郎 ( 簡 ) はそれぞれ 丞 相 參 知 政 事 中 郎 の 官 を 拜 したが 當 時 の 有 名 な 學 者 でも あった 彼 らは 深 く 佛 教 に 歸 依 して 俊 芿 を 尊 敬 した 特 に 問 法 師 律 あるいは 問 法 法 師 からみて 分 かるように 彼 らと 俊 芿 との 間 には 單 に 儀 禮 上 の 面 會 だけではなく 佛 教 の 教 理 學 において 密 接 な 學 問 的 交 流 があ ったのである 136 北 礀 集 卷 五 所 收 の 仁 王 護 國 般 若 疏 後 序 に 嘉 禾 古 石 蘭 若 傳 教 行 彬 重 刊 以 永 其 壽 爲 書 之 と 見 える 同 じ 天 台 僧 として 同 人 物 ではないかと 考 える 禪 門 逸 書 初 編 5 臺 灣 明 文 書 局 1980 年 p 大 日 佛 書 115 p 同 上 pp
45 44 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 以 上 の 四 人 はすべて 南 宋 期 の 要 人 で 彼 らの 活 躍 の 場 の 中 心 はほぼ 都 の 杭 州 である 既 述 したように 俊 芿 が 宋 地 滯 在 での 後 半 期 少 なくとも 嘉 定 二 年 (1208) 八 月 に 杭 州 に 滯 在 していたのである 錢 象 祖 ( )は 字 を 伯 同 號 を 止 庵 といい 台 州 臨 海 の 人 であ る 太 府 寺 主 薄 丞 刑 部 郎 官 樞 密 院 檢 詳 工 部 侍 郎 などを 經 て 開 禧 元 年 (1205) 參 知 政 事 に 任 じられ 翌 年 の 三 月 に 資 政 殿 學 士 を 拜 した 九 月 信 州 ( 現 在 の 江 西 省 上 饒 市 )へ 貶 謫 され 開 禧 三 年 (1208) 四 月 杭 州 に 戻 り 再 び 參 知 政 事 となった 錢 象 祖 と 佛 教 との 關 連 については 佛 祖 統 紀 卷 四 十 八 に 次 のように 述 べられている 嘉 定 四 年 閏 二 月 丞 相 錢 象 祖 薨 於 天 台 里 第 象 祖 之 守 金 陵 嘗 問 道 於 保 寧 全 無 用 後 於 郷 州 建 接 待 十 處 皆 以 淨 土 極 樂 名 之 創 止 庵 高 僧 寮 爲 談 道 之 所 自 左 相 辭 歸 益 進 淨 業 是 月 得 微 疾 ( 中 略 ) 惟 求 生 淨 土 耳 言 訖 跏 趺 而 逝 139 上 文 によれば 錢 象 祖 はすでに 金 陵 ( 南 京 )の 郡 守 を 勤 めた 時 南 京 の 保 寧 寺 に 住 持 した 淨 全 無 用 140 に 道 を 問 い のちに 地 元 の 台 州 に 十 個 の 接 待 ( 庵 ) 141 を 建 て すべてに 淨 土 極 樂 の 名 をつけたことから 深 く 淨 土 法 門 を 信 仰 した 實 踐 者 としても 知 られている 彼 は 俊 芿 歸 國 の 年 即 ち 嘉 定 四 年 139 大 正 藏 49 p. 431bこれとほぼ 同 じ 内 容 は 明 の 袾 宏 輯 往 生 集 卷 二 ( 大 正 藏 51 p. 140b)の 錢 象 祖 郡 守 の 項 に 解 說 されている 140 淨 全 無 用 との 交 流 は 錢 象 祖 撰 無 用 全 禪 師 塔 銘 で 言 及 されているここに 建 業 保 寧 師 之 住 保 寧 也 余 時 守 籥 病 在 焉 閒 得 請 將 歸 師 退 院 事 許 以 相 從 爲 天 台 遊 とある( 天 童 寺 志 卷 七 ) 中 國 佛 寺 史 志 彙 刊 第 1 輯 第 14 冊 臺 灣 明 文 書 局 1980 年 1 月 p 錢 象 祖 が 台 州 で 接 待 庵 を 建 てる 記 事 に 關 する 參 考 資 料 として 宋 の 洪 邁 撰 夷 堅 志 支 癸 卷 四 祖 圓 接 待 庵 に 二 浙 僧 俗 多 建 接 待 庵 以 供 往 來 緇 徒 投 宿 大 扺 若 禪 刹 然 ( 中 略 ) 是 時 錢 參 政 曹 太 尉 皆 居 台 州 各 有 庵 舎 適 相 附 近 參 照 夷 堅 志 中 文 出 版 社 1975 年 6 月 p. 515 接 待 庵 についは 石 川 重 雄 氏 宋 元 時 代 の 接 待 施 水 庵 について ( 史 正 年 10 月 ) 同 氏 宋 元 時 代 における 接 待 施 水 庵 の 展 開 衾 僧 侶 の 游 行 と 民 衆 教 化 活 動 ( 宋 代 の 知 識 人 汲 古 書 院 1993 年 1 月 ) 參 照 173
46 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 45 (1211) 閏 二 月 に 出 身 地 の 天 台 で 亡 くなった 史 彌 遠 ( )は 字 を 同 叔 といい 慶 元 府 の 鄞 縣 ( 現 在 の 浙 江 省 寧 波 市 鄞 縣 )の 人 淳 熙 六 年 (1179) 進 士 慶 元 二 年 (1196) 大 理 司 直 となり 開 禧 元 年 (1205) 司 封 郎 官 兼 國 史 編 修 同 三 年 (1208) 禮 部 兼 修 國 史 とな った 142 嘉 定 元 年 (1208)から 歿 年 の 紹 定 六 年 (1233)まで 寧 宗 理 宗 二 朝 で 二 十 五 年 にわたって 錢 象 祖 とともに 左 右 丞 相 を 勤 めたのである 在 位 の 間 に 兩 浙 の 禪 寺 を 代 表 する 五 山 十 刹 の 制 度 を 奏 立 143 したことは 周 知 の 通 りである 錢 象 祖 と 史 彌 遠 に 比 べ 樓 昉 と 楊 簡 の 二 人 はむしろ 宋 學 の 思 想 家 として の 名 が 高 い 樓 昉 は 宋 史 に 本 傳 がなく 寧 波 府 志 卷 二 十 六 文 苑 144 によれば 字 を 暘 叔 鄞 縣 の 人 紹 熙 四 年 (1193)に 進 士 となり 弟 の 樓 昞 とともに 文 をもって 聞 こえた 東 莱 先 生 と 呼 ばれる 呂 祖 謙 の 門 人 にあたり 理 宗 朝 の 時 に 龍 圖 閣 大 學 士 を 拜 し 朱 仲 晦 と 親 交 があり 近 思 録 の 共 編 者 と しても 知 られ 主 著 には 崇 古 文 決 三 十 五 卷 がある 楊 簡 ( )は 宋 史 卷 百 六 十 六 に 本 傳 145 があるが 慈 湖 遺 書 附 録 に 收 載 される 楊 簡 の 門 人 であった 錢 時 撰 の 寶 謨 閣 學 士 正 奉 大 夫 慈 湖 先 生 行 状 146 に 詳 しいこれによれば 字 を 敬 仲 といい 四 明 慈 溪 ( 現 在 の 浙 江 寧 波 慈 溪 市 )の 人 乾 道 五 年 (1169)に 進 士 となり 宋 學 の 思 想 家 を 代 表 する 陸 九 淵 の 弟 子 となった 紹 熙 五 年 (1194) 國 子 博 士 となり 嘉 定 元 年 (1208)に 祕 書 郎 そして 祕 書 省 著 作 佐 郎 兼 權 兵 部 郎 官 を 歴 任 したすでに 慈 邑 にある 德 潤 湖 に 止 住 したので 慈 湖 先 生 147 と 稱 する 142 二 十 五 史 35 宋 史 6 臺 灣 藝 文 印 書 館 pp 明 の 宋 濂 撰 宋 文 憲 公 護 法 録 卷 二 之 下 に 所 收 の 淨 慈 孤 峰 德 禪 師 塔 銘 に 逮 乎 宋 季 史 衛 王 奏 立 五 山 十 刹 如 世 之 所 謂 官 署 と 見 える( 和 刻 影 印 漢 籍 叢 刊 4 中 文 出 版 社 p. 3107) 同 じ 塔 銘 は 淸 の 際 祥 撰 淨 慈 寺 志 卷 十 九 にも 所 收 ( 中 國 佛 寺 史 志 彙 刊 第 1 輯 19 冊 臺 灣 明 文 書 局 1980 年 pp ) 144 中 國 方 志 叢 書 華 中 地 方 (189) 寧 波 府 志 6 成 文 出 版 社 p 二 十 五 史 35 宋 史 6 臺 灣 藝 文 印 書 館 pp 文 淵 閣 四 庫 全 書 1156 集 部 上 海 古 籍 出 版 社 1989 年 pp 簡 居 德 潤 湖 瀕 以 湖 在 慈 邑 易 名 慈 湖 宗 其 學 者 不 稱 其 官 皆 稱 曰 慈 湖 先 172
47 46 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 上 掲 四 人 のうち 俊 芿 と 錢 象 祖 史 彌 遠 樓 昉 との 間 に 具 體 的 な 交 流 が どうなったかは 分 からない 楊 簡 との 交 遊 について 不 可 棄 傳 では 次 の ように 記 している 又 著 作 郎 楊 先 生 事 筆 硯 述 聖 人 道 以 贈 法 師 及 從 政 郎 孫 起 予 一 見 斯 文 感 歎 之 餘 續 跋 其 末 其 文 在 別 148 これによって 楊 簡 が 聖 人 の 道 を 述 べて 俊 芿 に 贈 り しかも 政 郎 の 孫 起 予 ( 豫 )がその 文 を 見 て 感 歎 のあまり 跋 文 を 書 いたことが 分 かる 孫 起 予 は 字 を 商 友 といい 四 明 の 人 父 の 孫 枝 とともに 嘉 定 七 年 (1214) に 進 士 となった 淳 祐 四 年 (1244)に 監 察 御 史 の 官 を 拜 した 149 孫 起 予 の 跋 文 は 現 存 するかどうか 確 定 できないが 楊 簡 の 聖 人 の 道 と 呼 ばれ る 文 は 恐 らく 慈 湖 遺 書 卷 三 所 載 の 日 本 國 僧 俊 芿 求 書 そのもので あろう 即 ち 日 本 俊 芿 律 師 請 言 于 宋 朝 著 庭 楊 子 楊 子 舉 聖 人 之 言 而 告 之 曰 心 之 精 神 是 謂 聖 此 心 虚 明 無 體 象 廣 大 無 際 量 日 用 云 爲 虚 靈 變 化 實 不 曽 動 不 曽 靜 不 曽 生 不 曽 死 而 人 謂 之 動 謂 之 靜 謂 之 生 謂 之 死 晝 夜 常 光 明 起 意 則 昏 則 非 150 聖 人 の 道 とは 上 文 にある 聖 人 之 言 と 同 じ 意 味 であろう 心 之 精 神 是 謂 聖 から 即 非 までの 内 容 は 聖 人 の 道 と 言 えるが 心 之 精 神 是 謂 聖 の 一 句 はもともと 孔 子 の 言 葉 である 151 なお この 心 をめ 生 參 照 宋 元 方 志 叢 刊 5 寶 慶 四 明 志 卷 九 中 華 書 局 1990 年 p 大 日 佛 書 115 p 宋 史 列 傳 卷 百 七 十 八 の 劉 伯 正 傳 において 淳 祐 四 年 拜 端 明 殿 學 士 簽 書 樞 密 院 事 兼 權 參 知 政 事 眞 拜 參 知 事 以 監 察 御 史 孫 起 予 言 罷 參 照 ( 二 十 五 史 35 宋 史 6 臺 灣 藝 文 印 書 館 p. 5120) 150 文 淵 閣 四 庫 全 書 1156 集 部 上 海 古 籍 出 版 社 1989 年 p 孔 叢 子 記 問 に 子 思 問 於 夫 子 曰 物 有 形 類 事 有 眞 僞 必 審 之 奚 由 子 曰 由 乎 心 心 之 精 神 是 謂 聖 と 見 える 慈 湖 遺 書 卷 三 贈 錢 誠 甫 孔 子 曰 171
48 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 47 ぐる 上 文 の 解 釋 を 見 ると 佛 教 の 禪 の 思 想 と 極 めて 共 通 しているようであ るこれに 關 連 して 慈 湖 遺 書 卷 十 八 炳 講 師 求 訓 に 孔 子 曰 心 之 精 神 是 謂 聖 即 達 磨 謂 從 上 諸 佛 惟 以 心 傳 心 即 心 是 佛 除 此 外 更 無 別 佛 152 と 述 べられているここで 心 之 精 神 是 謂 聖 の 心 は 禪 宗 の 以 心 傳 心 の 心 であり 聖 は 佛 教 にいう 佛 であると 理 解 することができ る 楊 簡 の 心 學 は 佛 學 を 包 括 しており ある 意 味 で 宋 代 儒 學 を 代 表 する 一 種 の 儒 佛 融 合 論 と 言 ってもよかろう 楊 簡 から 贈 られた 聖 人 之 言 の 内 容 を 通 じて 俊 芿 がいかなる 宋 學 に 強 く 關 心 を 寄 せていたのかを 垣 間 見 る ことができる 俊 芿 が 宋 學 へ 關 心 を 寄 せたことについては 元 の 盛 如 梓 撰 老 學 叢 談 卷 上 においても 次 の 記 述 が 見 出 せる 書 之 百 篇 倭 國 猶 有 本 ( 中 略 ) 湯 東 澗 跋 曰 日 本 僧 芿 書 朱 文 公 言 聞 外 國 書 逸 篇 皆 全 其 釋 孟 子 盡 心 一 條 亦 托 外 國 本 以 備 考 今 北 峰 之 弟 子 行 果 爲 予 言 芿 來 中 國 見 六 經 之 本 不 同 既 歸 模 其 國 中 本 遣 高 弟 僧 護 行 以 送 呉 越 知 舊 中 流 失 舟 芿 以 喪 其 弟 子 誤 謂 此 書 不 當 入 中 國 以 致 於 此 153 この 資 料 はすでに 福 井 康 順 の 俊 芿 律 師 の 宋 學 初 傳 について のなかで 取 り 上 げ 檢 討 されたものである 154 ここでは 福 井 の 研 究 を 踏 まえ ほか 心 之 精 神 是 謂 聖 參 照 文 淵 閣 四 庫 全 書 1156 集 部 上 海 古 籍 出 版 社 1989 年 p. 639また 明 の 雲 棲 袾 宏 撰 竹 窗 隨 筆 の 心 之 精 神 是 謂 聖 の 項 に 孔 叢 子 云 心 之 精 神 是 謂 聖 楊 慈 湖 平 生 學 問 以 此 爲 宗 とある( 和 刻 影 印 漢 籍 叢 刊 7 中 文 出 版 社 p. 5305) 152 文 淵 閣 四 庫 全 書 1156 集 部 上 海 古 籍 出 版 社 1989 年 p 文 淵 閣 四 庫 全 書 866 子 部 上 海 古 籍 出 版 社 1989 年 pp 俊 芿 研 究 p
49 48 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) の 資 料 を 加 え 次 のように 述 べておきたい 老 學 叢 談 の 撰 者 盛 如 梓 について 詳 しい 經 歴 は 分 からない 清 紀 昀 四 庫 全 書 提 要 155 によれば 衢 州 ( 現 在 の 浙 江 省 衢 州 市 )の 人 自 ら 庶 齋 と 號 す 彼 は 湯 東 澗 の 六 經 の 跋 を 引 用 して 上 文 のように 俊 芿 に 關 す る 記 録 を 殘 している 湯 東 澗 は 即 ち 湯 漢 であり 字 を 伯 紀 といい 饒 州 安 仁 ( 現 在 の 江 西 省 餘 江 市 )の 人 宋 史 卷 百 九 十 七 に 本 傳 156 がある 饒 縣 の 主 薄 淳 祐 十 二 年 (1252)に 國 史 實 録 校 勘 そして 秘 書 省 校 書 郎 を 歴 任 して 太 常 博 士 に 至 ったのである 本 傳 には 七 十 一 歳 で 亡 くなったとされたが 出 生 の 年 が 記 されていない 宋 史 卷 四 十 六 本 紀 の 咸 淳 八 年 (1272) 春 正 月 の 項 には 己 丑 湯 漢 卒 賜 諡 文 淸 157 の 記 事 が 見 えるので 逆 算 すると 嘉 泰 元 年 (1202)に 生 まれたことが 分 かるその 生 卒 年 から 考 慮 すれば 俊 芿 との 直 接 的 交 渉 はなかっただろう 湯 東 澗 の 跋 によれば 南 宋 滯 在 中 の 俊 芿 は 六 經 の 版 本 異 同 に 關 心 を もっていたこともわかるそのため 歸 國 後 六 經 の 版 本 を 探 して 自 分 の 弟 子 を 遣 して 呉 越 の 知 舊 に 贈 ったのであるこの 知 舊 とは 俊 芿 が 南 宋 滯 在 中 に 交 流 した 知 友 のだれかであろうただし 殘 念 なことに そ の 派 遣 した 弟 子 は 中 流 失 舟 して 命 を 海 におとしてしまった 中 流 失 舟 にかかわる 記 事 は 湯 東 澗 の 跋 より 早 く 成 立 した 釋 門 正 統 卷 七 の 北 峰 宗 印 傳 や 不 可 棄 傳 にも 言 及 されているそれぞれの 内 容 を 舉 げてみると 次 の 通 りである 芿 遣 徒 於 日 本 取 五 部 法 158 而 徒 死 于 海 吁 聖 教 行 否 亦 有 時 耶 庶 齋 老 學 叢 談 三 卷 元 盛 如 梓 撰 如 梓 衢 州 人 庶 齋 其 自 號 也 嘗 官 崇 明 縣 判 官 と 見 える( 文 淵 閣 四 庫 全 書 866 子 部 上 海 古 籍 出 版 社 1989 年 p. 513) 156 二 十 五 史 36 宋 史 7 臺 灣 藝 文 印 書 館 pp 二 十 五 史 30 宋 史 1 臺 灣 藝 文 印 書 館 p 佛 部 蓮 華 部 金 剛 部 寶 部 羯 磨 部 の 五 部 建 立 の 法 と 謂 う 兩 部 大 法 相 承 師 資 付 法 記 卷 上 に 金 剛 智 三 藏 於 玄 宗 朝 同 爲 國 師 知 三 藏 金 藏 智 解 金 剛 界 法 遂 於 金 剛 智 三 藏 請 傳 金 剛 界 五 部 法 と 見 える( 大 正 藏 51 p. 784a) 159 續 藏 經 130 pp
50 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 49 ( 北 峰 宗 印 傳 ) 同 五 年 春 差 思 齊 幸 命 兩 徒 爲 使 贈 四 分 律 疏 法 礪 律 師 撰 並 財 貨 數 十 物 於 宋 朝 二 僧 管 領 出 博 多 津 以 後 人 物 共 失 不 知 存 沒 白 浪 覆 船 以 入 龍 淵 歟 160 ( 不 可 棄 傳 ) 以 上 の 兩 資 料 を 湯 東 澗 の 跋 と 照 合 してみると 中 流 失 舟 の 記 事 は 一 致 しているが 南 宋 に 贈 る 書 物 は それぞれ 密 教 の 五 部 法 法 礪 律 師 撰 の 四 分 律 疏 および 儒 學 の 六 經 と 異 なっている 俊 芿 が 歸 國 後 に 南 宋 へ 弟 子 を 派 遣 した 回 數 を 知 ることはできないが 泉 涌 寺 教 團 において 俊 芿 の 後 を 繼 いで 入 宋 した 僧 侶 には 曇 照 淨 業 月 翁 智 鏡 理 性 道 玄 聞 陽 湛 海 の 四 人 161 があり すべて 無 事 に 入 宋 して 歸 國 し たことが 確 認 できる 千 里 の 波 浪 をわたり 中 流 失 舟 の 危 險 を 免 れな いとはいえ 別 々の 書 物 を 持 ち 三 回 にわたって 南 宋 にまで 贈 り すべて 海 難 にあったとはとうてい 想 像 し 難 い 上 掲 した 不 可 棄 傳 の 記 録 を 注 目 すると 南 宋 に 贈 るとした 書 物 には 法 礪 律 師 撰 の 四 分 律 疏 のほか 財 貨 數 十 物 もあったので その 中 に 儒 學 の 六 經 や 密 教 の 五 部 法 も 含 まれていたではないかと 考 えられるつまり 三 回 の 海 難 ではなく 一 回 の 派 遣 において 途 中 遭 難 したと 見 るべきであろう 即 ち 俊 芿 の 歸 國 後 七 年 目 の 建 保 五 年 (1217)の 春 に 弟 子 であった 思 齊 幸 命 を 遣 わしたことは 事 實 として 認 められるのである このように 儒 學 の 六 經 密 教 の 五 部 法 及 び 法 礪 律 師 撰 の 四 分 律 疏 などの 逆 輸 入 の 動 きは 唐 末 の 會 昌 廢 佛 やそれ 以 降 の 社 會 動 亂 の ため 多 くの 佛 教 典 籍 が 失 われていた 現 實 を 物 語 っているまた このこ とは 俊 芿 が 南 宋 において 當 時 の 佛 教 々 學 及 び 宋 學 に 關 心 を 拂 いながら 僧 侶 文 人 士 大 夫 との 間 に 深 く 交 流 を 持 ったことを 示 唆 している また 湯 東 澗 の 跋 に 見 られる 俊 芿 渡 宋 の 動 きは 實 は 北 峰 宗 印 の 弟 子 で 160 大 日 佛 書 115 p 律 苑 僧 寶 傳 卷 十 一 所 收 の 戒 光 寺 開 山 曇 照 業 律 師 傳 來 迎 院 月 翁 鏡 律 師 傳 我 圓 理 性 二 律 師 傳 聞 陽 海 律 師 傳 參 照 ( 大 日 佛 書 105 pp ) 168
51 50 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) あった 行 果 という 人 から 聞 いた 話 である 行 果 については 佛 祖 統 紀 卷 十 七 收 載 の 北 峰 宗 印 法 嗣 162 の 内 に 南 澗 行 果 という 名 が 見 えるやは り 俊 芿 と 同 門 の 出 身 であったまた 續 佛 祖 統 紀 卷 一 收 載 の 北 峰 宗 印 法 嗣 の 下 に 法 師 行 果 號 南 澗 住 天 竺 靈 鷲 與 湯 文 淸 公 漢 爲 莫 逆 交 有 唱 和 詩 文 163 とあって 南 澗 行 果 は 杭 州 の 天 竺 靈 鷲 ( 下 天 竺 寺 )に 住 止 し 湯 文 淸 即 ち 湯 漢 との 交 流 を 行 い 二 人 の 間 に 往 來 した 詩 文 もあった 南 澗 とい う 號 は 靈 隱 飛 來 峰 の 南 澗 に 止 住 したことによって 名 づけられ 湯 漢 の 東 澗 という 號 は 何 かの 關 連 があるらしいともあれ 俊 芿 と 湯 東 澗 との 間 に 直 接 的 交 流 はなかろうと 思 われるが 同 じ 北 峰 宗 印 の 門 人 であった 南 澗 行 果 とは 何 らかの 交 流 があっただろう 實 は 北 峰 宗 印 の 法 嗣 の 中 では 南 澗 行 果 だけではなく 士 大 夫 である 趙 彦 肅 と 呉 克 己 ( )も 俊 芿 と 交 流 があったようである 趙 彦 肅 は 生 卒 年 未 詳 字 は 子 敬 ( 欽 ) 嚴 陵 ( 現 在 の 浙 江 省 杭 州 市 桐 廬 縣 )の 人 慶 元 ( )に 進 士 となり 若 くから 北 峰 宗 印 にまみえ 佛 法 の 大 意 を 論 じており 洛 學 之 翹 楚 と 評 されている 著 作 に 復 齋 易 説 六 卷 が 現 存 している 呉 克 己 ( )の 傳 歴 については 釋 門 正 統 卷 七 の 記 事 によれ ば 字 は 復 之 鎧 庵 居 士 と 號 し 目 疾 のため 圓 通 大 士 に 祈 念 して 治 癒 し たというのち 深 く 佛 教 を 信 奉 し 宗 鏡 止 觀 寶 積 などを 修 學 した 嘉 162 十 六 人 の 名 前 は 古 雲 元 粹 佛 光 法 照 梅 峯 梵 奎 石 溪 思 壽 石 鏡 清 杲 慈 感 文 圭 蒙 泉 了 源 剡 源 覺 先 桐 洲 懷 坦 南 峯 思 誠 日 本 俊 芿 雲 巢 如 寶 南 礀 行 果 嚴 陵 趙 彥 肅 鎧 菴 吳 克 己 とある( 大 正 藏 49 p. 235a) 163 續 佛 祖 統 紀 卷 一 の 行 果 傳 ( 續 藏 經 131 pp )は 極 めて 簡 略 であり その 末 尾 には 無 文 道 璨 ( )の 手 になる 祭 文 が 收 められて いるこの 祭 文 は 道 璨 の 柳 塘 外 集 卷 四 ( 禪 門 逸 書 初 編 5 臺 灣 明 文 書 局 p. 65)にも 收 載 されている 祭 靈 鷲 果 南 礀 講 師 と 對 照 してみると 何 箇 所 かの 出 入 があるので 注 意 を 必 要 する 167
52 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 51 定 七 年 (1214) 十 一 月 十 五 日 に 七 十 五 歳 で 亡 くなった 儒 學 の 著 作 に 儒 語 讀 史 精 騎 二 卷 雜 著 歴 代 綱 領 各 一 卷 習 易 遺 藁 集 封 建 井 田 各 三 卷 語 孟 集 註 五 卷 があり 佛 教 關 係 では 科 四 教 儀 楞 嚴 綱 目 止 觀 大 科 法 華 樞 鍵 楞 嚴 集 解 を 著 したが すべて 散 佚 してしまったようであるただし それらの 書 の 題 名 から 見 て 儒 佛 に 精 通 した 學 者 だったことに 相 違 ない 呉 克 己 の 名 を 冠 する 佛 教 關 係 の 現 存 文 獻 は 佛 祖 統 紀 卷 五 十 所 收 の 重 刊 刪 定 止 觀 序 與 喩 貢 元 書 の 兩 文 及 び 樂 邦 文 類 卷 二 所 載 の 刊 往 生 行 願 略 傳 序 164 のみである なお 呉 克 己 の 著 作 に 關 連 して 釋 門 正 統 卷 七 にある 次 の 記 事 に 留 意 すべきである 晩 編 釋 門 正 統 曰 紀 運 曰 列 傳 曰 總 論 未 就 倫 理 今 茲 所 集 資 彼 爲 多 宗 鑑 不 沒 其 實 於 其 高 議 必 標 鎧 菴 曰 字 以 冠 之 165 周 知 のように 釋 門 正 統 は 司 馬 遷 の 史 記 の 本 紀 世 家 志 内 傳 外 傳 という 構 成 に 準 じて 編 纂 したものである 上 文 によって 宗 鑑 の 編 集 とされる 八 卷 の 釋 門 正 統 は 實 は 呉 克 己 ( 鎧 庵 )の 手 になる 内 容 紀 運 列 傳 總 論 を 參 照 して 増 修 されたものがあるただし 八 卷 のうち どの 部 分 が 呉 克 己 によって 編 輯 されたのかそれを 解 明 するための 手 掛 か りとなるのは 上 文 で 指 摘 しているように 宗 鑑 が 呉 克 己 の 先 輯 の 功 績 を 埋 沒 させないため 必 ず 鎧 菴 曰 の 字 を 冠 したという 事 實 である 興 味 深 いことに 釋 門 正 統 卷 三 卷 七 卷 八 にそれぞれ 一 箇 所 ずつ 俊 芿 に 關 する 記 録 が 見 出 せる 三 箇 所 の 内 容 は 卷 七 の 一 箇 所 には 嘉 定 十 七 年 嗣 子 元 粹 紹 其 席 云 166 という 記 述 があるので 嘉 定 七 年 (1214) に 亡 くなった 呉 克 己 によって 書 かれたものではないが ほかの 二 箇 所 は 呉 克 己 の 手 になる 可 能 性 があるこれは 俊 芿 と 呉 克 己 との 間 に 交 流 があった かどうかを 考 える 上 で 極 めて 貴 重 な 記 録 であるので 以 下 に 若 干 の 檢 討 を 164 大 正 藏 47 p. 175c 165 續 藏 經 130 p 同 上 p
53 52 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 加 えたい まず 釋 門 正 統 卷 三 弟 子 志 において 密 教 の 傳 承 を 記 述 した 上 で 次 のような 一 文 がある 先 是 不 空 弟 子 慧 果 授 與 日 本 空 海 傳 授 不 絶 近 俊 芿 來 雲 間 從 北 峰 印 學 者 即 遺 派 學 術 行 業 眞 東 海 翹 楚 也 167 弟 子 志 の 主 な 内 容 は 各 宗 派 の 傳 承 を 記 述 したものである 上 文 では 中 國 の 密 教 が 不 空 から 惠 果 へ また 惠 果 から 入 唐 僧 の 空 海 へ 授 與 され それ が 絶 えずに 引 き 續 き 俊 芿 まで 傳 わっていたと 言 われる ここで 留 意 すべきなのは 上 文 の 後 で 鎧 菴 贊 また 鎧 菴 疏 位 居 己 辨 168 という 記 述 が 見 出 せることである 先 にも 触 れたように 呉 克 己 の 書 いたものであれば 必 ず 宗 鑑 が 鎧 菴 曰 と 示 したので 如 上 の 内 容 は 實 際 に 呉 克 己 の 撰 述 ではないかと 考 えられる こうした 推 論 を 證 左 するため まずこの 文 を 書 いた 背 景 を 探 ってみたい 上 文 において 俊 芿 は 不 空 の 遺 派 として 認 められ しかも 俊 芿 の 學 術 と 行 業 は 眞 に 東 海 の 翹 楚 なり と 高 く 評 價 されているなぜ 俊 芿 に 對 して これほどの 評 價 がなされたのかこれは 俊 芿 の 南 宋 における 密 教 に 關 する 活 動 と 密 接 な 關 連 があったのであろう 不 可 棄 傳 の 記 録 によれば 開 禧 三 年 (1207)の 春 俊 芿 は 超 果 寺 に 滯 在 した 間 に 北 峰 宗 印 の 命 により 當 地 の 章 氏 周 大 孺 人 のために 密 教 の 不 動 法 七 佛 藥 師 法 を 修 し 様 々な 靈 驗 を 感 得 したのであったこのため 華 亭 の 信 者 が 彌 陀 三 尊 の 像 金 剛 經 の 板 木 を 俊 芿 に 獻 上 し 超 果 寺 の 善 明 比 丘 は 戒 行 道 德 花 ( 華 ) 亭 士 庶 尊 敬 如 佛 169 という 贊 辭 を 呈 した 上 文 の 内 容 は 恐 らく 俊 芿 渡 宋 の 密 教 活 動 を 知 った 上 で 執 筆 されたもので はないかと 思 われる 次 に 上 文 の 措 辭 を 見 てみよう 近 俊 芿 來 雲 間 の 近 ( 最 近 )と 167 同 上 p 同 上 p 大 日 佛 書 115 p
54 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 53 來 ( 來 る)の 表 現 によって 執 筆 者 が 當 時 華 亭 ( 雲 間 )に 滯 在 したので はないかと 推 測 される 呉 克 己 は 北 峰 宗 印 の 在 家 弟 子 として 華 亭 や 超 果 寺 に 滯 在 しても 不 思 議 ではない 實 際 に 呉 克 己 撰 の 梁 肅 傳 において 曾 (ママ) 於 北 蜂 處 覩 寫 本 170 と 明 記 されており 即 ちかつて 北 峰 宗 印 のところで (ママ) 梁 肅 文 集 という 寫 本 を 見 たことがあったと 自 述 している 北 蜂 處 と は 恐 らく 北 峰 宗 印 が 長 年 止 住 した 超 果 寺 を 指 すのであろうもしそうであ るならば 上 文 の 書 寫 期 間 については 俊 芿 が 密 教 作 法 を 修 した 開 禧 三 年 (1207)の 春 以 降 呉 克 己 の 歿 年 嘉 定 七 年 (1214)までの 間 いわゆる 呉 克 己 の 晩 年 に 執 筆 したものと 考 えられる さらに 釋 門 正 統 卷 八 にある 次 の 一 文 を 擧 げて 見 てみたい 鎧 菴 曰 南 山 一 宗 始 優 婆 離 給 集 毘 藏 ( 中 略 ) 古 來 弘 成 論 論 師 之 義 謂 空 宗 五 義 分 通 大 乘 遂 立 圓 宗 戒 體 令 被 日 本 法 師 立 問 終 莫 能 答 171 上 文 の 冒 頭 には 鎧 菴 曰 と 見 えるので この 文 は 呉 克 己 が 書 いたもの であるのは 確 實 できるこの 内 容 は 不 可 棄 傳 の 割 注 に 釋 門 正 統 第 四 云 圓 宗 戒 體 註 曰 今 被 日 本 法 師 立 問 終 莫 能 答 172 と 引 用 されている また 圓 宗 戒 體 に 關 する 議 論 について 律 宗 問 答 の 彼 云 増 受 菩 薩 戒 疑 173 でも 見 出 せるので 上 文 にいう 日 本 法 師 とは 俊 芿 を 指 すに 違 い ない このように 呉 克 己 は 俊 芿 の 超 果 寺 における 密 教 修 法 を 見 聞 したのみな らず 嘉 定 二 年 (1209)に 杭 州 で 律 學 に 關 する 俊 芿 の 問 答 を 承 知 していた 170 續 藏 經 130 p 同 上 p 大 日 佛 書 115 p. 525 不 可 棄 傳 の 場 合 に 第 四 とは 卷 八 と 訂 正 すべきである 釋 門 正 統 の 令 被 は 不 可 棄 傳 が 訂 正 したように 今 被 であろう 173 例 えば 二 師 縁 相 違 難 曰 圓 宗 戒 體 元 依 現 前 一 人 而 發 豈 可 壇 上 十 師 所 發 耶 參 照 ( 續 藏 經 105 p. 730) 164
55 54 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 可 能 性 もあるしたがって 俊 芿 が 北 峰 宗 印 の 在 家 弟 子 であった 趙 彦 肅 と の 交 渉 を 行 ったかどうかは 斷 定 できないが 少 なくとも 呉 克 己 と 直 接 的 な 交 渉 があったことが 認 められよう 最 後 に 俊 芿 が 交 遊 した 文 人 士 大 夫 において 樓 鑰 の 名 を 見 落 とすことは できない 樓 鑰 ( )は 字 を 大 防 といい 明 州 鄞 縣 の 人 である 宋 史 卷 百 五 十 四 174 にその 傳 記 が 收 載 されているが 宋 の 袁 燮 175 ( ) 撰 絜 齋 集 卷 十 一 資 政 殿 大 學 士 贈 少 師 樓 公 行 状 176 に 最 も 詳 しいこ の 行 状 によれば 樓 鑰 は 隆 興 元 年 (1163)に 進 士 となり 考 官 の 胡 銓 ( )から 翰 林 の 才 と 評 され 文 才 に 秀 いで 勅 令 により 淳 熙 法 議 を 刪 修 した 紹 熙 初 年 (1190 頃 )から 考 功 郎 兼 禮 部 中 書 舎 人 兼 直 學 士 院 を 歴 任 し 嘉 定 元 年 (1208) 十 月 左 丞 相 の 錢 象 祖 の 下 にあって 知 樞 密 院 事 となった 晩 年 自 ら 攻 媿 主 人 と 號 し 攻 媿 集 百 二 十 卷 が 現 存 している 前 にも 触 れたように 山 陰 義 銛 が 南 山 靈 芝 の 二 律 師 の 像 を 描 き 樓 鑰 に 依 頼 して 贊 を 作 ったことがあった 贊 の 内 容 は 俊 芿 研 究 の 俊 芿 律 師 遺 文 に 收 載 されているが 判 讀 できない 文 字 が 何 箇 所 かある 實 は この 贊 は 攻 媿 集 卷 八 十 一 に 收 録 され 贊 文 の 次 に 跋 文 も 付 いてい る 即 ち 南 山 律 師 贊 曰 禪 曰 教 無 非 爲 人 惟 茲 律 儀 尤 切 于 身 仰 止 南 山 與 佛 無 間 人 天 師 尊 不 容 贊 歎 174 二 十 五 史 35 宋 史 6 臺 灣 藝 文 印 書 館 pp 袁 燮 は 字 を 和 叔 といい 明 州 鄞 縣 の 人 であるその 傳 記 資 料 は 龍 圖 閣 學 士 袁 公 墓 志 銘 ( 楊 簡 慈 湖 遺 書 補 篇 ) 顯 謨 閣 學 士 開 府 袁 公 行 狀 ( 眞 德 秀 西 山 先 生 眞 文 忠 公 文 集 卷 47) 顯 謨 閣 學 士 開 府 袁 公 行 狀 ( 袁 燮 絜 齋 集 拾 遺 ) 絜 齋 袁 先 生 傳 ( 王 應 麟 四 明 文 獻 集 卷 6)がある 176 文 淵 閣 四 庫 全 書 1157 集 部 96 上 海 古 籍 出 版 社 1989 年 p
56 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 55 靈 芝 律 師 贊 南 山 既 遠 教 道 中 微 化 身 再 來 是 爲 靈 芝 持 律 益 嚴 護 法 甚 勞 靈 芝 之 風 南 山 相 髙 佛 法 自 天 竺 流 入 震 旦 久 矣 而 四 海 之 外 奉 之 尤 謹 今 有 日 本 國 僧 俊 芿 慕 南 山 靈 芝 之 法 航 海 求 師 首 畫 二 師 之 像 求 余 爲 贊 芿 公 恪 守 律 嚴 究 觀 諸 書 既 得 其 説 欲 歸 以 淑 諸 人 余 非 學 佛 者 吾 儒 曲 禮 三 千 散 亡 多 矣 然 見 於 日 用 者 如 入 公 門 而 鞠 躬 上 東 階 而 右 足 雖 造 次 不 可 廢 也 詩 曰 我 心 匪 石 不 可 轉 也 我 心 匪 席 不 可 卷 也 威 儀 棣 棣 不 可 選 也 此 非 律 之 説 乎 歸 矣 使 律 之 一 宗 盛 行 於 東 海 之 東 于 以 補 教 化 之 所 不 及 其 爲 利 益 豈 有 窮 哉 177 ( 下 線 は 筆 者 の 施 したものである) 最 初 に 贊 の 文 意 を 見 ると 南 山 道 宣 律 師 に 對 しては 佛 と 同 じく 人 天 の 師 尊 と 贊 歎 し 靈 芝 元 照 律 師 に 對 しては 南 山 道 宣 の 化 身 であるつまり 南 山 と 靈 芝 との 律 學 は 一 脈 相 承 ということになる 次 に 跋 文 の 大 意 をま とめてみると 佛 法 は 天 竺 から 中 國 に 傳 來 して 久 しく 四 海 の 外 において もっとも 信 じられ 現 在 日 本 僧 の 俊 芿 が 南 山 道 宣 靈 芝 元 照 の 律 學 を 慕 い 海 を 越 えて 入 宋 し 戒 律 を 嚴 守 し 諸 書 を 究 明 したのである 二 律 師 像 の 贊 文 は 俊 芿 の 請 によって 書 かれたものである 上 文 の 下 線 部 分 は 詩 經 邶 風 柏 舟 から 引 用 したもので これを 用 いて 樓 鑰 が 儒 者 の 威 儀 と 佛 門 の 律 儀 を 贊 歎 して 歸 國 後 の 俊 芿 に 律 學 を 宣 揚 するよう 期 待 を 寄 せた 如 上 の 贊 文 がいつ 書 かれたのかを 攻 媿 集 は 明 記 していない 京 都 の 泉 涌 寺 に 現 存 する 二 律 師 の 像 には 贊 文 の 末 にそれぞれ 嘉 定 三 秊 中 元 四 明 樓 鑰 作 贊 とあり これは 俊 芿 が 歸 國 する 半 年 ほど 前 の 嘉 定 三 年 (1210) 七 月 に 書 かれたものであるこの 贊 文 と 跋 文 を 通 じて 俊 芿 と 樓 鑰 との 間 に 直 接 的 交 流 があったことが 確 定 できる 177 四 部 叢 刊 初 編 集 部 攻 媿 集 4 臺 灣 商 務 印 書 館 1975 年 p. 746 また 南 宋 における 榮 西 の 活 動 記 録 については 攻 媿 集 卷 五 十 七 の 天 童 山 千 佛 閣 記 にも 見 られる 162
57 56 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) おわりに 以 上 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 をめぐって 若 干 の 考 察 を 試 みたその 結 果 俊 芿 は 都 の 杭 州 をはじめ 台 州 明 州 秀 州 湖 州 温 州 に 至 るまで ほぼ 兩 浙 の 全 域 にわたって 遊 學 したことがわかったその 遊 學 した 寺 院 か ら ほぼ 三 期 に 分 けることができる 初 期 は 餘 杭 徑 山 禪 寺 雪 竇 禪 寺 中 期 は 四 明 景 福 律 寺 後 期 は 華 亭 の 超 果 教 寺 杭 州 の 下 天 竺 教 寺 となり そ れぞれ 禪 律 及 び 天 台 の 教 學 に 研 鑽 した 經 歴 が 捉 えられるそのうち 日 本 僧 と 關 連 の 深 い 天 台 山 には 俊 芿 は 三 回 にわたって 訪 れ 彼 にとってもっ とも 聖 なる 存 在 であったことが 窺 えるまた 徑 山 寺 と 景 福 寺 は 日 本 僧 と して 恐 らく 俊 芿 が 初 遊 であり それ 以 降 日 本 僧 の 多 くが 訪 れ 格 別 の 意 義 を 持 つ 寺 院 となった 更 に 南 宋 滯 在 期 間 の 半 分 以 上 というもっとも 長 く 止 住 した 超 果 寺 は 現 在 何 の 遺 蹟 も 殘 されていないが 日 本 僧 であっ た 俊 芿 と 密 接 な 關 連 があったので 中 日 佛 教 交 流 史 上 においてその 寺 院 の 名 は 決 して 忘 れられないものである 俊 芿 は 禪 律 教 の 寺 院 に 遊 學 するとともに 多 くの 禪 律 教 の 僧 侶 に 師 事 して 積 極 的 に 南 宋 佛 教 の 教 理 を 研 修 したのである 注 目 すべきなの は 師 事 した 思 岳 元 聰 義 銛 居 簡 などがすべて 大 慧 派 に 屬 した 禪 僧 で あったことであるそれは 南 宋 佛 教 において 禪 學 隆 盛 という 背 景 があり 臨 濟 禪 が 絶 大 な 勢 力 をもったことを 示 している 禪 僧 以 外 に 律 僧 との 交 流 において 少 なくとも 三 年 にわたって 如 庵 了 宏 に 師 事 し またその 門 人 であった 日 山 守 一 法 弟 の 上 翁 妙 蓮 と 交 流 し さらに 杭 州 において 教 觀 と 律 學 をめぐって 了 然 智 瑞 淨 懷 および 妙 音 などの 律 師 とともに 論 議 を 行 ったこともある 更 に 教 僧 との 交 流 についてみると 北 峰 宗 印 のもとで 七 年 前 後 修 學 し 同 じ 宗 印 の 門 人 であった 古 雲 元 粹 南 澗 行 果 との 交 流 も あった 南 宋 期 の 入 宋 僧 は 殆 ど 五 山 の 禪 寺 に 遊 學 したが 俊 芿 の 場 合 は 超 果 寺 や 下 天 竺 寺 などの 天 台 系 の 寺 院 を 中 心 に 歴 訪 し 長 年 にわたり 天 台 學 を 修 學 したということは 注 目 に 値 する 俊 芿 は 戒 律 のため 入 宋 したが 遊 學 した 寺 院 や 師 事 した 高 僧 を 見 ると 戒 律 はもちろん 當 時 隆 盛 であった 佛 161
58 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 57 教 々 學 衽 衲 禪 のほか 天 台 の 教 學 に 關 心 を 持 っていたことが 窺 えるこう してみると 宋 代 佛 教 において 禪 の 教 學 が 盛 んになっていた 一 方 で 天 台 學 も 緩 やかながら 教 學 の 振 興 を 維 持 していたことが 察 せられる 一 方 俊 芿 は 僧 侶 のみならず 文 人 士 大 夫 との 交 遊 も 持 ったそれらの 中 には 丞 相 の 錢 象 祖 史 彌 遠 文 人 として 名 の 高 い 楊 簡 樓 鑰 および 北 峰 宗 印 の 弟 子 であった 呉 克 己 などが 擧 げられるかれらとの 交 遊 から 俊 芿 の 幅 廣 い 關 心 が 窺 える 特 に 楊 簡 の 聖 人 之 言 樓 鑰 の 贊 また 盛 如 梓 撰 老 學 叢 談 に 收 載 される 湯 東 澗 の 跋 文 から 見 て 俊 芿 は 佛 學 以 外 に も 宋 代 文 化 を 積 極 的 に 攝 取 したことが 知 られる 俊 芿 が 交 遊 した 文 人 士 大 夫 はすべて 佛 教 の 篤 信 者 とは 言 えないが 佛 教 への 關 心 をもち 互 いに 文 化 的 に 影 響 を 與 え 合 ったのは 確 かであるしたがって 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 は 佛 教 だけではなく 中 日 文 化 交 流 史 上 において 多 大 な 役 割 を 果 たしたに 違 いない 俊 芿 の 活 躍 は 宋 代 の 佛 教 々 團 において 高 い 評 價 を 得 た 例 えば 超 果 寺 の 善 明 比 丘 の 戒 行 道 德 花 ( 華 ) 亭 士 庶 尊 敬 如 佛 呉 克 己 の 學 術 行 業 眞 東 海 翹 楚 などの 贊 辭 が 現 われたのであるこのような 高 評 は 宋 代 だけではなく 明 代 にまで 及 んでいる 明 の 金 陵 ( 現 在 の 江 蘇 省 南 京 市 ) 瓦 官 寺 の 僧 であった 無 逸 克 勤 の 書 に (ママ) 南 宋 寧 宗 之 朝 俊 芿 法 師 先 於 日 本 傳 瑜 伽 密 教 入 中 國 謁 北 峰 于 抗 靈 山 178 亦 盡 通 其 旨 是 皆 一 代 偉 人 也 179 とあり 一 代 偉 人 と 高 く 評 價 しているこのように 俊 芿 入 宋 の 成 果 は 後 世 の 中 國 佛 教 においても 多 大 な 影 響 を 與 えたことが 推 察 される 安 貞 元 年 (1227)に 俊 芿 は 示 寂 したその 後 も 俊 芿 によって 開 創 され た 泉 涌 寺 の 教 團 において 中 國 佛 教 との 交 流 が 途 切 れることはなく 俊 芿 の 178 杭 靈 山 は 杭 州 の 下 天 竺 寺 を 指 すのであろう 下 天 竺 寺 は 宋 の 大 中 祥 符 初 (1008 頃 )に 靈 山 寺 とも 稱 したからであるここで 克 勤 は 俊 芿 が 杭 州 の 下 天 竺 寺 で 北 峰 宗 印 に 謁 したと 傳 えている 179 續 藏 經 101 p
59 58 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 後 を 繼 いで 入 宋 した 律 僧 が 何 人 もあった 彼 らは 南 宋 においてどのように 活 動 を 行 っていたのかについては 今 後 の 課 題 にしたい 註 記 の 略 號 大 正 藏 = 大 正 新 脩 大 藏 經 ( 大 正 新 脩 大 藏 經 刊 行 會 1979) 續 藏 經 = 卍 新 纂 大 日 本 續 藏 經 ( 國 書 刊 行 會 1989) 大 日 佛 書 = 大 日 本 佛 教 全 書 ( 佛 書 刊 行 會 1984) 印 佛 研 = 印 度 學 佛 教 學 研 究 俊 芿 研 究 =( 石 田 充 之 編 俊 芿 律 師 衾 鎌 倉 佛 教 成 立 の 研 究 法 藏 館 1972) 付 記 本 稿 は 2007 年 12 月 花 園 大 學 に 提 出 した 修 士 論 文 俊 芿 在 宋 の 行 歴 を 基 に 一 部 修 正 して 成 ったものである 第 二 節 の 南 宋 において 遊 學 した 寺 院 は 2008 年 11 月 29 日 花 園 大 學 第 79 回 禪 學 研 究 會 學 術 大 會 で 俊 芿 在 宋 の 行 歴 に ついて 衾 遊 學 した 寺 院 を 中 心 にして と 題 して 口 頭 發 表 した 第 四 節 の 南 宋 文 人 士 大 夫 との 交 遊 は 筆 者 自 身 によって 中 國 語 に 翻 譯 し 日 僧 俊 芿 與 南 宋 文 人 士 大 夫 的 交 往 との 題 目 で 國 立 臺 灣 大 學 の 臺 大 佛 學 研 究 第 22 期 (2011 年 12 月 )に 掲 載 したまた この 論 文 とほぼ 同 じ 内 容 で 2008 年 9 月 俊 芿 開 山 の 京 都 泉 涌 寺 で 講 演 したこともあったなお 修 士 論 文 を 提 出 してから 今 までの 五 年 間 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 を 含 め 様 々な 研 究 が 進 んでおり 特 に 京 都 泉 涌 寺 心 照 殿 學 藝 員 の 西 谷 功 氏 により 我 禪 房 俊 芿 泉 涌 寺 僧 及 南 宋 佛 教 ( 第 九 届 呉 越 佛 教 唯 識 學 研 討 會 論 文 杭 州 :2010 年 )などの 論 考 が 發 表 された 最 後 に 俊 芿 在 宋 の 行 歴 を 執 筆 するにあたり 當 時 の 指 導 教 官 である 沖 本 克 己 先 生 を はじめ 花 園 大 學 の 諸 先 生 方 から 大 變 お 世 話 になったここに 記 して あわせて 厚 くお 禮 を 申 し 上 げたい 159
60 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 59 Summary Shunjoʼs 俊 芿 Journey and Studies in Southern Song China Dingyuan Two countries separated only by ʻa narrow strip of waterʼ, China and Japan have a long history of friendly exchanges. Throughout this history, Buddhist monks played a major role in bridging the cultural and religious flow between the two nations. Already in the Nara 奈 良 Period, many Japanese Buddhist monks braved the dangers of the sea and traveled to Tang China to seek the Dharma. In the Kamakura 鎌 倉 Period, as envoys between these two nations became more frequent, an increasing number of monkstraveled to Song China. We find among these Dharma-seekers such famous names as Eisai 榮 西, Dogen 道 元, Enni 圓 爾,etc. Their journeys and studies in China have been subject toconsiderable academic investigation, but little is known of Shunjo 俊 芿 ( ), another important figure in this period. Shunjo arrived in China in the fifth year oftheqingyuan Period (1199) staying there for about twelve years. This is much longer than the periods spent by Eisai, Dogen, or Enni. So far, however, Shunjoʼs life in China has been little studied in spite of the large number of relevant materials. This paper hopes to redress this lacuna and examine Shunjo journey, studies with eminent Chinese monks, and exchanges with contemporary literati. This will help us gain abetter understanding of his activities in China as well as the history of the culturalexchanges between the two countries. 158
61 60 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) Research Fellow, Strategic Research Project for Private Universities Granted by the Ministry of Education of Japan Establishment of the Research Centre for East Asian Buddhist Manuscripts International College for Postgraduate Buddhist Studies 157
( ( - ) ) ( ( ) ) 25 東 山 法 門 五 慧 能 人 々 傳 記 に つ い て ( ) 成 立 年 未 詳 ) ( 成 立 年 未 詳 ) ( 代 傳 記 慧 能 傳 記 に 言 及 す 文 獻 は 多 い が 時 代 が 降 ほ ど 後 世 創 作 を 多 く 含 み 史 實
( ( - ) ) ( ( ) ) 25 東 山 法 門 五 慧 能 人 々 傳 記 に つ い て ( ) 成 立 年 未 詳 ) ( 成 立 年 未 詳 ) ( 代 傳 記 慧 能 傳 記 に 言 及 す 文 獻 は 多 い が 時 代 が 降 ほ ど 後 世 創 作 を 多 く 含 み 史 實 か ら ほ ど 遠 い も と な っ て - ) ) 禪 師 碑 銘 し ま っ て い 從 っ
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独 立 行 政 法 人 駐 留 軍 等 労 働 者 労 務 管 理 機 構 の 役 職 員 の 報 酬 給 与 等 について Ⅰ 役 員 報 酬 等 について 1 役 員 報 酬 についての 基 本 方 針 に 関 する 事 項 1 平 成 25 年 度 における 役 員 報 酬 についての 業 績 反 映 のさせ 方 検 証 結 果 理 事 長 は 今 中 期 計 画 に 掲 げた 新 たな 要
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静 情 審 第 6 3 号 平 成 26 年 3 月 24 日 静 岡 県 知 事 様 静 岡 県 情 報 公 開 審 査 会 会 長 興 津 哲 雄 静 岡 県 情 報 公 開 条 例 第 19 条 の 規 定 に 基 づく 諮 問 について( 答 申 ) 平 成 25 年 11 月 7 日 付 け 静 空 総 第 141 号 による 下 記 の 諮 問 について 別 紙 のとおり 答 申 し ます
Title 在 台 湾 日 系 企 業 の 社 内 コミュニケーションに 対 する 駐 在 員 の 認 識 Author(s) 唐 澤, 麻 里 ; 野 々 口, ちとせ; 陳, 明 涓 ; 孫, 愛 維 ; 河 先, 岡 崎, 眸 Citation お 茶 の 水 女 子 大 学 人 文 科 学 研 究 Issue Date 2011-03-30 URL http://hdl.handle.net/10083/50695
続 に 基 づく 一 般 競 争 ( 指 名 競 争 ) 参 加 資 格 の 再 認 定 を 受 けていること ) c) 会 社 更 生 法 に 基 づき 更 生 手 続 開 始 の 申 立 てがなされている 者 又 は 民 事 再 生 法 に 基 づき 再 生 手 続 開 始 の 申 立 てがなさ
簡 易 公 募 型 競 争 入 札 方 式 ( 総 合 評 価 落 札 方 式 )に 係 る 手 続 開 始 の 公 示 次 のとおり 指 名 競 争 入 札 参 加 者 の 選 定 の 手 続 を 開 始 します 平 成 28 年 9 月 20 日 分 任 支 出 負 担 行 為 担 当 官 東 北 地 方 整 備 局 秋 田 河 川 国 道 事 務 所 長 渡 邊 政 義 1. 業 務 概 要
千葉県高校受験 私立高校学費一覧
千 葉 / 近 県 私 立 高 校 学 費 一 覧 (2014 年 度 参,ただし 判 明 分 ) 就 学 支 援 金 と 県 の 学 費 軽 減 制 度 年 4 月 より 公 立 高 等 学 校 の 無 償 化 がスタートしました 同 時 に 設 けられた 高 等 学 校 就 学 支 援 金 制 度 は, 国 私 立 の 高 校 や 中 等 教 育 学 校 後 期 課 程, 高 等 専 門 学 校
1 育 児 休 業 代 替 任 期 付 職 員 ( 一 般 事 務 職 )とは 育 児 休 業 代 替 任 期 付 職 員 とは 一 般 の 職 員 が 育 児 休 業 を 取 得 した 際 に 代 替 職 員 とし て 勤 務 する 職 員 です 一 般 事 務 職 については 候 補 者 として
川 崎 市 育 児 休 業 代 替 任 期 付 職 員 一 般 事 務 職 の 候 補 者 登 録 案 内 川 崎 市 総 務 企 画 局 人 事 部 人 事 課 概 要 登 録 選 考 ( 教 養 考 査 及 び 作 文 考 査 )を 実 施 し ます 登 録 選 考 実 施 日 平 成 2 8 年 7 月 31 日 ( 日 ) 受 付 期 間 平 成 28 年 6 月 1 日 ( 水 ) ~ 平
Taro-29職員退職手当支給規程
国 立 研 究 開 発 法 人 水 産 研 究 教 育 機 構 職 員 退 職 手 当 支 給 規 程 平 成 1 8 年 4 月 1 日 付 け 1 7 水 研 本 第 2 0 5 8 号 改 正 平 成 1 8 年 1 0 月 1 日 付 け 1 8 水 研 本 第 1 0 7 7 号 改 正 平 成 1 9 年 4 月 1 日 付 け 1 8 水 研 本 第 1 7 8 0 号 改 正 平 成
入 札 参 加 者 は 入 札 の 執 行 完 了 に 至 るまではいつでも 入 札 を 辞 退 することができ これを 理 由 として 以 降 の 指 名 等 において 不 利 益 な 取 扱 いを 受 けることはない 12 入 札 保 証 金 免 除 13 契 約 保 証 金 免 除 14 入
入 札 公 告 次 のとおり 一 般 競 争 入 札 に 付 します なお 本 業 務 の 契 約 締 結 は 当 該 業 務 に 係 る 平 成 27 年 度 予 算 の 執 行 が 可 能 となってい ることを 条 件 とします 平 成 27 年 2 月 17 日 独 立 行 政 法 人 鉄 道 建 設 運 輸 施 設 整 備 支 援 機 構 契 約 担 当 役 鉄 道 建 設 本 部 九 州
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事 務 連 絡 平 成 27 年 11 月 5 日 各 都 道 府 県 障 害 福 祉 主 管 部 ( 局 ) 長 殿 厚 生 労 働 省 社 会 援 護 局 障 害 保 健 福 祉 部 企 画 課 長 期 入 所 者 等 がマイナンバー 通 知 カードを 入 所 等 先 で 受 け 取 るに 当 たっての 居 所 情 報 の 登 録 申 請 が 間 に 合 わなかった 場 合 の 取 扱 いについて(
庁議案件No
庁 議 案 件 No.1 平 成 24 年 4 月 24 日 所 管 市 長 公 室 企 画 部 件 名 関 西 広 域 連 合 への 加 入 について 経 過 現 状 政 策 課 題 対 応 方 針 今 後 の 取 組 ( 案 ) 関 係 局 と の 政 策 連 携 関 西 広 域 連 合 の 概 要 複 数 府 県 により 設 立 される 全 国 初 の 広 域 連 合 として 平 成 22 年
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諮 問 庁 : 防 衛 大 臣 諮 問 日 : 平 成 19 年 4 月 18 日 ( 平 成 19 年 ( 行 情 ) 諮 問 第 182 号 ) 答 申 日 : 平 成 19 年 6 月 1 日 ( 平 成 19 年 度 ( 行 情 ) 答 申 第 81 号 ) 事 件 名 : 海 上 における 警 備 行 動 ( 領 水 内 潜 没 航 行 潜 水 艦 ) 等 の 経 過 概 要 及 び 所
有 料 老 ホーム ( ) ( 主 として 要 介 護 状 態 にある を 入 居 させるも のに 限 る ) 第 29 条 ( 届 出 等 ) 第 二 十 九 条 有 料 老 ホーム( 老 を 入 居 させ 入 浴 排 せつ 若 しくは 食 事 の 介 護 食 事 の 提 供 又 はその 他 の
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根 本 確 根 本 確 民 主 率 運 民 主 率 運 確 施 保 障 確 施 保 障 自 治 本 旨 現 資 自 治 本 旨 現 資 挙 管 挙 管 代 表 監 査 教 育 代 表 監 査 教 育 警 視 総 監 道 府 県 警 察 本 部 市 町 村 警 視 総 監 道 府 県 警 察 本 部
1 部 改 案 旧 照 文 昭 和 百 傍 線 部 改 部 改 案 現 服 服 管 研 修 研 修 罰 罰 附 附 総 総 休 懲 戒 服 管 研 休 懲 戒 服 研 修 修 福 祉 益 保 護 福 祉 益 保 護 根 本 確 根 本 確 民 主 率 運 民 主 率 運 確 施 保 障 確 施 保 障 自 治 本 旨 現 資 自 治 本 旨 現 資 挙 管 挙 管 代 表 監 査 教 育 代 表 監
2 出 願 資 格 審 査 前 記 1の 出 願 資 格 (5) 又 は(6) により 出 願 を 希 望 する 者 には, 出 願 に 先 立 ち 出 願 資 格 審 査 を 行 いますので, 次 の 書 類 を 以 下 の 期 間 に 岡 山 大 学 大 学 院 自 然 科 学 研 究 科 等
Ⅱ 入 学 者 選 抜 試 験 学 生 募 集 要 項 ( 自 然 科 学 研 究 科 環 境 学 研 究 科 共 通 ) ( 入 学 時 期 : 平 成 18 年 10 月 又 は 平 成 19 年 4 月 ) 1 出 願 資 格 次 の 各 号 のいずれかに 該 当 する 者 です (1) 修 士 の 学 位 若 しくは 専 門 職 学 位 を 有 する 者 又 は 平 成 19 年 3 月 (
18 国立高等専門学校機構
様 式 1 公 表 されるべき 事 項 独 立 行 政 法 人 国 立 高 等 専 門 学 校 機 構 の 役 職 員 の 報 酬 給 与 等 について Ⅰ 役 員 報 酬 等 について 1 役 員 報 酬 についての 基 本 方 針 に 関 する 事 項 1 平 成 25 年 度 における 役 員 報 酬 についての 業 績 反 映 のさせ 方 当 機 構 役 員 給 与 規 則 で 文 部 科
代表取締役等の異動に関するお知らせ
各 位 代 表 取 締 役 等 の 異 動 に 関 するお 知 らせ 平 成 28 年 5 月 17 日 会 社 名 東 日 本 旅 客 鉄 道 株 式 会 社 代 表 者 名 代 表 取 締 役 社 長 冨 田 哲 郎 (コード 番 号 9020 東 証 第 一 部 ) 問 合 せ 先 広 報 部 長 薬 師 晃 (TEL.03-5334-1300) 当 社 は 平 成 28 年 5 月 17 日
佐渡市都市計画区域の見直し
都 市 計 画 区 域 の 拡 大 について 佐 渡 市 建 設 課 都 市 計 画 とは 土 地 の 使 い 方 や 建 物 の 建 て 方 についての ルールをはじめ まちづくりに 必 要 なことがら について 総 合 的 一 体 的 に 定 め まちづく り 全 体 を 秩 序 だてて 進 めていくことを 目 的 と した 都 市 計 画 法 という 法 律 で 定 められた 計 画 です 住
せ ず 素 稿 以 外 訓 み を す べ て カ ラ 見 出 シ と し た 一 二 頚 印 を 必 ず 連 用 す る 場 合 不 期 身 後 京 山 蔵 よ う に し て 掲 出 し 三 思 山 蔵 を も 別 に 立 て カ ラ 見 出 シ と し た 一 所 蔵 者 名 は 通 称 雅
近 時 蔵 書 印 譜 類 重 刊 復 刻 が 続 い た 蔵 書 印 は 伝 来 を 証 す る い わ ば 書 籍 履 歴 書 で あ る 印 譜 類 が 座 右 に 備 わ る こ と に よ っ て 書 物 来 歴 解 明 に 便 宜 が 与 え ら れ た こ と 言 う ま で も な い し か し 凡 蔵 書 印 譜 に は 印 影 収 集 印 文 解 読 所 蔵 ( 使 用 ) 者
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平 成 24 年 2 月 1 日 現 在 ( 単 純 集 ) ( 大 槌 町 復 興 局 復 興 推 進 室 ) 1/26 住 宅 再 建 に 関 する 意 向 調 査 について 1. 調 査 目 的 被 災 者 住 宅 再 建 について 見 通 しや 考 え 方 を 明 らかにすることにより 大 槌 町 東 日 本 大 震 災 津 波 復 興 画 ( 実 施 画 ) 策 定 に 係 る 基 礎 資
平成16年年金制度改正 ~年金の昔・今・未来を考える~
第 2 回 社 会 保 険 料 労 働 保 険 料 の 賦 課 対 象 となる 報 酬 等 の 範 囲 に 関 する 検 討 会 平 成 24 年 9 月 20 日 資 料 1 通 勤 手 当 について 1 これまでの 通 勤 に 要 する 費 用 に 関 する 考 え 方 では 通 勤 手 当 の 金 額 が 実 費 弁 償 的 に 算 定 される 場 合 でも それは 通 常 使 用 者 が 負
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1 人 事 異 動 表 発 令 年 月 日 平 成 17 年 4 月 1 日 部 長 級 区 長 発 令 発 令 権 者 中 野 区 長 田 中 大 輔 発 令 氏 名 旧 備 考 区 長 室 長 寺 部 守 芳 区 民 生 活 部 ごみ 減 量 清 掃 事 業 担 当 参 事 総 務 部 未 収 金 対 策 担 当 参 事 ( 総 務 部 長 石 神 正 義 兼 務 ) 区 民 生 活
●幼児教育振興法案
第 一 九 〇 回 衆 第 五 〇 号 幼 児 教 育 振 興 法 案 目 次 前 文 第 一 章 総 則 ( 第 一 条 - 第 八 条 ) 第 二 章 幼 児 教 育 振 興 基 本 方 針 等 ( 第 九 条 第 十 条 ) 第 三 章 基 本 的 施 策 ( 第 十 一 条 - 第 十 七 条 ) 附 則 幼 児 期 において 人 は その 保 護 者 や 周 囲 の 大 人 との 愛 情
第 8 条 本 協 議 会 における 研 修 は 以 下 のとおりとする (1) 座 学 研 修 農 業 講 座 や 先 進 農 家 視 察 など 農 業 経 営 基 礎 講 座 やその 他 担 い 手 のための 研 修 会 等 への 参 加 など 年 24 回 程 度 とする (2) 実 務 研
南 阿 蘇 村 農 業 研 修 生 受 入 協 議 会 青 年 就 農 給 付 金 ( 準 備 型 ) 農 業 研 修 生 受 入 要 項 平 成 24 年 4 月 27 日 制 定 平 成 24 年 6 月 13 日 一 部 改 正 平 成 24 年 10 月 31 日 一 部 改 正 ( 目 的 ) 第 1 条 本 要 項 は 新 規 就 農 総 合 支 援 事 業 実 施 要 綱 ( 農 林
03genjyo_快適環境.xls
< 下 野 市 ホームページ 市 の 概 況 より> < 下 野 市 文 化 財 マップ しもつけシティーガイド 下 野 市 都 市 計 画 マスタープランより> 指 定 文 化 財 下 野 文 化 財 件 数 内 訳 ( 平 成 21 年 3 月 31 日 現 在 ) 有 形 文 化 財 無 形 文 化 財 民 俗 文 化 財 記 念 物 建 造 物 絵 画 彫 刻 工 芸 品 書 跡 古 文 書
