ベートーヴェンの交響曲の原典版 by Jurassic 今度の定期演奏会での指揮者 田中先生は 今回の演奏曲についての楽譜を指定されていました 運命 はベーレンライター版 新世界 はプラハ版 ( スプラフォン版 ) です ベートーヴェンの場合 先生は以前 エロイカ を演奏された時にも やはりベーレンライター版を指定されていましたね 今では ベートーヴェンの交響曲に関しては このベーレンライター版はプロのオーケストラの世界ではほとんど標準的な仕様になっているようです たとえば ヘルベルト ブロムシュテットという世界的な指揮者も このベーレンライター版の熱烈なファンのようです 去年の末に放送された NHK 交響楽団の 第 9 では そのブロムシュテットが指揮をしていました 彼は暗譜での指揮でしたが その時の指揮者の前の譜面台には そのアズキ色のスコアが閉じられたままおいてありましたね そして 番組の途中に挿入されたインタビューでは 1990 年代から新しい楽譜が出版されて 今までの楽譜は意味がなくなった みたいなことを語っていましたが その 新しい楽譜 がこのベーレンライター版を指していたのは明らかです そして 今年の1 月の末には やはり 2016 年にブロムシュテットと来日していたバンベルク交響楽団の演奏会も放送されていましたが そこでもベートーヴェンの 運命 と 田園 が取り上げられていて やはりブロムシュテットはベーレンライター版のスコアを譜面台に置いていましたし インタビューでも同じようなことを語っていました ベーレンライター版というのは イギリスの音楽学者ジョナサン デル マー ( 往年の名指揮者ノーマン デル マーの息子 ) が新たに校訂した楽譜のことで 1997 年から 2000 年という 非常に短い間にベートーヴェンのすべての交響曲がドイツの音楽出版社ベーレンライター社から出版されています ただ 出版社の情報によると デル マーが改訂の作業を始めたのはもっと前 1980 年代にまでさかのぼるのだそうです なによりもこの楽譜を作る際にユニークだったのは 単に自筆稿やパート譜 さらには初期の印刷譜といった資料を調べるだけではなく 当時はすでにそのようなアプローチを演奏に取り入れていたピリオド楽器の演奏家たちと実践的な共同作業を行いながら制作を進めていったことです ですから 出版前に すでにモダン楽器を含めたそのような原典志向の演奏家たち ( たとえばピリオド系ではグッドマン / ハノーヴァー バンドやガーディナー / オルケストル レヴォリュショネール エ ロマンティーク モダン系ではアバド / ベルリン フィルやラトル / バーミンガム市響 ) は校訂途中のこの楽譜を実際に使ってコンサートやレコーディングなども行っていたのです これらの録音では 特に楽譜についてのクレジットはありませんでしたが このベーレンライター版の出版と前後してリリースされたデヴィッド ジンマンとチューリヒ トーンハレ管弦楽団との CD(ARTE NOVA) のジャケットには 大々的に ベーレンライター版による世界初録音 という文字が躍っていました 正確には ジンマンは決してこの楽譜に忠実な演奏をしていたわけではなく かなり自由に改変していたのですが それが過大評価されて この CD はかなりのセールスを上げ 同時にベーレンライター版に対する認知度も上がったのです 次第に この楽譜はプロのオーケストラだけではなく アマチュアのオーケストラの間でも採用されるようになっていきます
実際 それまで普通に使われていたベートーヴェンの交響曲の楽譜は 150 年以上前にブライトコプフ & ヘルテル社 ( ブライトコプフ社 ) から出版されたものでした そこには 単なるミスプリントも多く含まれるだけでなく 当時の演奏様式に従って出版社が勝手に書き換えた部分などもありました さらに 近年になって別の新たな資料も見つかったりしています ですから このように自筆稿などの一次資料に立ち返って あくまでベートーヴェン自身が書いたはずの楽譜を再現するという作業 ( 批判校訂 と言われます ) の結果出来上がったものは 以前のブライトコプフ版とは多くの点で異なっている全く新しい楽譜となっていたのです その 最もセンセーショナルな違いは なんと言っても 交響曲第 9 番 の第 4 楽章のテノール ソロのマーチのあとのオーケストラだけの部分の最後 合唱がテーマを歌い出すまでのつなぎの部分で 532 小節目からホルン パートに新たに加えられたスラーでしょう 今までの楽譜では 同じリズムで3 回繰り返されていたものが そこでは3 回とも異なるリズムになっていたのです もちろん それは単に自筆稿に忠実に校訂を行っただけのことなのです これが 校訂報告に掲載されたその部分の自筆稿です 532 538 ただ 実際にこのような 原典版 を出版しているのは このベーレンライター社だけではありません ピアノの楽譜の原典版では有名なヘンレ社では かなり以前からボンのベートーヴェン ハウスとの共同作業で多くのジャンルの原典版を刊行しています ただ 交響曲に関してはあまり進捗が見られないようで しばらくは 1 番 と 2 番 が出ているだけでした 2015 年になってやっと 3 番 が出たようですが これらはスタディ スコアだけで フル スコアやパート譜はブライトコプフ社から発売されています
交響曲で最初に全曲の原典版を出版したのは 旧東ドイツのペータース社でした 1977 年がベートーヴェンの没後 150 年となることから それに向けて 国家威信 をかけて校訂作業が開始されたのです 実際に完成したのは 1980 年代になってからですが 現在は 東ドイツ という国家がなくなったことで この楽譜は絶版になっています ただ これを使って録音されたベートーヴェンの交響曲全集は存在します この マズアとライプツィヒ ゲヴァントハウス管弦楽団との録音では ペータースの新校訂版による初録音 とのクレジットが見られます ここにも記されている通り この改訂作業はペーター ハウシルトとペーター ギュルケという2 人によって行われました 当初は 東ドイツのアーティストによる録音が散発的に行われ それがリリースされることになるのですが その 交響曲第 5 番 ( 運命 ) を聴いた人は一様に驚きの声を上げました そこでは 第 3 楽章が繰り返されていたのです 今まではトリオが終わればそのまま長い経過部を経てそのまま第 4 楽章になだれ込んでいたのですが その前にもう1 回楽章の頭から演奏していたのです もちろんこれは ペーター ギュルケが校訂した楽譜がそのようになっていたからです ただ ここを繰り返した人はペータース版の楽譜が出る前にもいなかったわけではありません ピエール ブーレーズが 1968 年にニュー フィルハーモニア管弦楽団と録音したレコード (COLUMBIA) では 同じところが繰り返されていました 楽譜にそのような指示がなくても 繰り返した方が良いだろうと感じる人はいたのですね 先ほどのブロムシュテットも ベーレンライター版が出る前におそらくこのペータース版を使ったか あるいは参考にしていたことがうかがえます 1997 年に 彼が当時音楽監督を務めていた北ドイツ放送交響楽団と来日した時に たまたま仙台でのコンサートで 運命 が演奏されていたのですが その時にはしっかりこの第 3 楽章の繰り返しを行っていました しかし ベーレンライター版ではここを繰り返すという指示は デル マーによれば 確証がない ということで 採用されることはありませんでした ですから ブロムシュテットは 2016 年のバンベルク交響楽団とのコンサートでは 当然繰り返しは行っていません ペータース社の原典版は今では入手できませんが その校訂に携わったペーター ハウシルトらの手によって 今までずっと使われていた楽譜の版元 ブライトコプフ社でも 実はベーレンライター版の刊行が始まる前 1994 年から 原典版 の出版を始めていました 昔の楽譜との差別化を図るために それは ブライトコプフ新版 と呼ばれています( 昔の楽譜は すべてこの 新版 に置き換わっています ) 全曲が揃ったのは 2005 年なので ベーレンライター版には後れを取った形ですが こちらも現在ではオーケストラの現場でその存在を主張し始めています
ベーレンライター版 ブライトコプフ新版 ここでハウシルトが校訂を担当したのは 3 番 4 番 6 番 ( 田園 ) 7 番 8 番 9 番 の6 曲 残りの 1 番 2 番 5 番 ( 運命 ) はクライヴ ブラウンという人が校訂を行っています ペータース版の現物を見たことはないのではっきりしたことは分かりませんが ここでのハウシルトの仕事はペータース版をそのままブライトコプフ新版に置き換えただけのことなのではないでしょうか たとえば ペータース版の校訂の中で 決して 他社製品 には見られない個性的な部分が 田園 の第 2 楽章の 84 小節目です そこが ブライトコプフ新版でも そのまま反映されているのです ( 上の楽譜 ) 後半のベーレンライター版では E ( 実音 ) の音が ブライトコプフ新版では E ナチュラル になっていますね ( クラリネット ホルン ヴィオラ ) これは デル マー自身も どちらなのかはっきりしない と言っていますが 結果的には従来通りの を取ったのでしょう しかし ハウシルトは果敢に ナチュラル を取り入れました それによって ここの和声が大幅に変わってしまいます 従来は G/G/Cm/Cm7 だったものが ハウシルトの楽譜では G/G/C/C7 という 非常に分かりやすいコード進行に変わります もう1ヵ所 聴いてはっきり分かるのが 9 番 の第 4 楽章 マーチが始まる前の vor Gott のフェルマータのダイナミックスです( ) ブライトコプフ新版では合唱以外のすべてのパートがピアノに向かってディミヌエンドをかけるようになっています その結果 最後にはア カペラの合唱だけが残る という効果的なことが起こります そして これはペータース版を使って演奏していた先ほどのマズアの CD ではっきり聴き取ることが出来るのです
運命 では 校訂者はギュルケからブラウンに代わっていますから ペータースと同じものかどうかは分かりません しかし 先ほどの第 3 楽章の繰り返しが ここでは ad libitum という但し書きはありますが しっかり譜面に指示されているのですよ ですから やはりこのブラウンの仕事も ペータース版をかなり参考にしているのではないか という気がします ( 右ページ上 ) そこで 今回の演奏会の 運命 で使うベーレンライター版と このブライトコプフ新版とでは どのぐらい違っているのか 調べてみました その結果 思っていた以上に違いはありましたね そのほとんどは 校訂者の裁量でカッコつき あるいは破線でダイナミックスの記号やスラーを付け加えた部分で 大勢には影響のないものなのですが スラーに関してはブライトコプフ新版では付いているものがベーレンライター版では除かれている というケースがかなり目立ちました そして 先ほどの第 3 楽章のトリオの繰り返しのような決定的な違いも見つかりました さらに 一番驚いたのが第 4 楽章の 319 小節目と 336 小節目の最後の音 右ページの下が 336 小節目の実物です こういう原典版でたまにお目にかかるのが このように資料によって音が違っている箇所を両方載せてしまって どちらを使うかは演奏者に任せる というやり方です ここは 似たようなフレーズを繰り返すという場面で 通常は始まりの音が違っているのですが (1 回目のコントラファゴットと弦楽器は G で2 回目のピッコロ オーボエ ホルンは E ) または として小さく書いてある楽譜ではその2 回目の最初の音は G ですから 全く同じメロディを繰り返すことになります ただ ここはそれぞれソロまたはソリが裸になるところですからとてもよく分かりますが 今まではどんな演奏を聴いてみてもまず下の楽譜の通りに演奏していますから それはもうすっかり耳に焼き付いています 万が一上のように吹いていれば もう すぐに分かってしまいます ですから よもやそんなことをさせる指揮者はいないだろう と思っていたのですが 実はいたんですね それは あのニコラウス アーノンクール 彼の生涯最後の録音となった 2015 年 5 月のウィーン コンツェントゥス ムジクスとのライブ録音 (SONY) です これを聴いた時には心臓が止まるかと思うほど驚きました しかし 実際はちゃんとした根拠があったのですね このように 同じ 原典版 と言われるものでも 校訂者がどの資料に重きを置くかとか どこまでが作曲家の意志だったのかという判断の違いによって 出来上がった楽譜にはかなりの違いが出てきます 考えてみれば 当のベートーヴェンから直接話を聞くことはもはやできないのですから どんなに正当性を主張してもそれは推測の域を出ないのは当然のことなのです もしかしたら 先ほどの 交響曲第 9 番 のスラーにしても ベートーヴェン本人に見せたら 俺 こんなこと書いたっけ? と言われてしまうかもしれませんからね あ ここではさんざん 運命 という曲名を使ってしまいましたが ニューフィルの曲目表示には あくまで学術的に正当性のあるものを使う という暗黙の認識があります 矜持 と言っても構わないかもしれません 前回のマーラーの 交響曲第 1 番 で 巨人 というタイトルは使わなかったのも そのような意味がありました ですから 現在では全く根拠のないものとされているこの 運命 という愛称も このポリシーには背くことになってしまいます しかし 今回の定期演奏会ではあえて フィガロ 運命 新世界 という名曲を揃えて集客を図ろうという思惑が存在していますから その辺は大目に見てくださいね
第3楽章 弦楽器 第4楽章