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Transcription:

1. 植物育種の特異性と大学の役割 東京農業大学藤巻宏 ( 司会 ) それでは早速報告に入りたいと思います 第 1 報告は 植物育種の特異性と大学の役割 というテーマで 東京農業大学の藤巻宏先生にお願いいたします 藤巻先生 よろしくお願いいたします ( 藤巻 ) ただいまご紹介にあずかりました 東京農業大学の藤巻でございます このシンポジウムの目的には 作物育種の研究において 大学は どのような役割を担えるかという問題意識が強くあるということを事務局から伺いました もちろん 私の専門であるイネの育種の視点から話題提供しますが イネの育種だけに留まらず 作物育種について総論的にお話をしてみたいと思います 二つの観点から話題提供してみたいと思います 第一は 農業技術の中で作物育種は どのような特質をもつかという点です 第二は 作物育種に関して大学では どんなことができるかという点です 第一の点に重点をおいて話を進めたいと思います 作物育種の特質は次の 8 つに整理することができます 第一は 大澤学長のお話の中にありました通り 作物育種は農業の基幹技術であるという点です 地球生態系においては 光合成により有機物を合成できるのは 一部の細菌の仲間 ( 光合成細菌など ) を除くと 植物だけです そのため 生態系では植物は生産者という位置付けになっています 植物が作る光合成産物に依存する動物は消費者とされ 植物や動物の分解者として微生物が位置付けられています 人類は地球生態系の食物連鎖の頂点に立っており 食料など多くの生活物資を農業で賄っています さて 農業について様々な定義がありますが ここでは作物育種の立場から 農業とは農作物を栽培し 家畜を飼育したりして有機物質を生産し直接利用するとともに さらに 動物や微生物の働きにより 加工 利用する経済活動である と言えます したがって 趣味の園芸などは農業とは 言えまません 農業生産においては 遺伝的能力の高い品種を選んで栽培することにより その性能を十分に発揮させる必要があり 最大収量で最高品質の産物を効率的に生産しなければなりません このように考えますと 作物育種は農業に不可欠な非常に重要な基幹技術であることがわかります 第二は わが国の主要農作物に育種では 公的機関が農作物の育種を席巻してきたという事実であります どうしてこうした状況が生じたのか考えてみたいと思います 国策上重要なイネ コムギ ダイズというような主要農作物のみならず 大規模の育種が必要な果樹とか林木の育種も 国や地方自治体が主体的に行ってきたのが現状であります このように公的育種が盛んに行われてきたのには いくつかの理由が考えられます その一つ - 52 -

の理由は 日本農業の経営規模の零細性です 工業分野などでは ある程度以上の規模の企業は 自ら技術開発を行うことができます しかし 個々の農家が単独で技術開発を行うには無理があります 第二の理由は 作物の繁殖様式に特徴がみられます 多くの農作物は 自家受粉や栄養繁殖により増殖します たとえば イネ コムギ ダイズなどの主要農作物は いずれも自殖性ですし いも類や果樹類などは塊茎根や接木などの栄養繁殖 すなわちクローン増殖が行われます これらの自殖性や栄養繁殖性の作物は 繁殖が容易であり 育成者の権利が保護されにくい状況にありました 第三は 種苗の権利 ( 育成者の権利 ) は現在では種苗法で保護されていますが それ以前に育成された品種の権利は保護されておらず 世界中で自由に栽培されています たとえば イネのコシヒカリ リンゴのふじ等です これらの優良品種は 世界中で栽培され 生産物が日本に逆輸入され 日本の農家を脅かしています 現在の種苗法でも育種者の権利が十分に保護されているとは言えません 特許料に当たる実施料が種苗の場合は非常に安いのです 第四は 種苗の価格が非常に低廉であることです その一番大きな原因は 日本の公的育種にあります たとえば わが国のイネ育種は 明治以来 国の試験研究機関が中心となり 大戦後の食料不足の時代には 都道府県を巻き込んで 官による公的育種が行われ 食糧管理法の価格統制により 食用米と同水準に種子籾の価格が設定されました このように種苗価格の低廉さが民間育種の発展を大きく妨げてきたと言っても過言ではありません 次に農作物の育種と栽培の関係について説明します 育種は一言でいえば作物のゲノムの構造の改良を目指します これに対して 栽培は 作物ゲノムの機能を十分に発揮させる環境条件を整える技術と言えます こうした意味では 作物の育種と栽培は車の両輪の関係にあり そのいずれが不十分でも満足のいく収量 品質を実現できません 図 1を見ますと 農作物のゲノムの構造を改変して 新品種が作られるわけです これが育種の仕事です 他方 栽培は ゲノムの働きを発現させ あるいは 制御する技術です 育種と栽培のバランスをうまく取らないと 高収量で高品質の農作物が生産できません ところで 大学で育種の講義をしていて 学生に興味を持ってもらうためには 農業技術の中での育種の特異性をよく説明する必要があることを痛感しました 農業技術のうち 農業生産に必要な資材を開発する技術をハードテクノロジーと呼ぶことにします この意味で 品種を開発する技術 つまり 作物育種は 機械 肥料 農薬などの生産資材を開発する技術と同類であると私は考えています 例えば 私たちがパソコンを操作するとき パソコンがどういう原理で動くかというハードのことを分からなくても パソコンを使うことができます 同様に 農作物の品種がどのように作られるかを詳しく知らなくても それを栽培して農業生産を行うことができます - 53 -

農業技術におけるソフトテクノロジーとして 作物栽培術 農作業技術 施肥 灌漑技術 有害生物防除技術 施設管理技術などをあげることができます 殆どの大学では ソフトテクノロジーを中心にカリキュラムが組まれています ハードテクノロジーの中で 唯一 作物育種だけがカリキュラムに組込まれています 農業機械の使い方は講じられても 製造方法は教えていません 肥料や農薬の開発も然りで 民間企業が中心となって開発が行われています 農作物育種はハードテクノロジーの 1 つです 講義をするとき 育種に関心のある学生たちにとっては 作物育種の講義は面白く聞くことができるでしょう しかし 作物育種に関心も興味もない学生たちにとっては 育種の講義は退屈に感ぜられがちです それでは 作物育種では 何をやるかのということですが 詰まるところ 作物育種では 表現形質の選抜によってゲノム構成を間接的に改変することになります 表現形質とは 目に見える形や性質のことです 実際の育種では 表面に表れた優れた形質を意識的に選択することにより 作物ゲノムの構成を人為的に改良することを目指しています 先端技術としてのバイオテクノロジーも例外でなく 作物育種の原理が通用します 栽培 = ゲノム機能の発現と制御 農作物ゲノム 農産物 育種=ゲノム構造の再編と改良高収量 + 高品質 = 育種 栽培 新品種 図 1 農業における育種と栽培の関係 - 54 -

表現形質には 色や形などの不連続的に区分される質的形質と 草丈や子実重などのように 連続的に変化する量的形質とがあります 質的形質の発現には 作用価の大きき1 ~ 少数個の主働遺伝子が働いています 言うまでもなく メンデルの遺伝の法則は 質的形質に関する発見です しかし 量的形質に関する遺伝の法則は 現在でも明らかでないばかりでなく 量的形質の発現についてはよくわかっていません 質的形質の改良は メンデル遺伝の法則や 最近では組換え DNA 技術の対象になっています ところが 量的形質は多数の微動遺伝子 ( 専門の言葉ではポリジーン ) が関係して発現すると考えられています 作物の収量とか 品質 病害虫抵抗性というようなストレスの耐性など 農業上の重要な形質の大部分は量的形質です しかし 量的形質の実態が分かっていないために その改良には 統計的な方法が用いられます 最近の分子生物学 とくにゲノム研究の発展により 量的形質に関する遺伝子座 すなわち QTL の解析が進んでいるように見えますが とくに難しいことをやっているわけではありません 量的形質を支配する遺伝的なアクティビティーがゲノムのどの辺にあるかを地図に書くだけの話でありまして 量的形質を支配しているポリジーンの実態が何ら分かってきているわけではありません そこで 実際の育種では 表現形質は遺伝的効果と環境効果により発現するという仮説を設けて 表現形質の分散を統計的に分析するわけです 私たちが観察できる表現形質の分散を遺伝的な分散と 環境による分散とに統計的方法により分割します ( 次式を参照 ) 表現形質 (P)= 遺伝効果 (G)+ 環境効果 (E) VP = VG + VE (G E の交互作用がない場合 ) 遺伝率 = VG/VP 表現型分散 (VP) のうち遺伝分散 (VG) の割合 ( 遺伝率 ) を遺伝率 (VG/VP) と言います 遺伝率が高いか低いかにより 人為選抜のやり方が違ってきます 遺伝率の高い形質 たとえば イネのもちうるち性とか 稃先色の有無などは メンデルの法則通りに遺伝して 効率よく選択できますので改良が早く進みます しかし 量的形質はそうはいきません 農業上重要な収量 品質 ストレス耐性などの量的形質は 環境による変動が大きいため遺伝率は高くなりません イネでいえば穂数や一穂着粒数などは遺伝率が低くなります 例えば 表現型分散の中の 10% が遺伝分散 ( 遺伝率が 0.1 程度 ) では 選抜効率が非常に悪いことになります そこで 遺伝率の高さによって選抜の方法を変えます 遺伝率の高い形質は 植物個体の表現形質で選抜することができます 例えば もちうるち性の分離している集団の中から もち性個体を選べば その子孫は全てもち性となります しかし 草丈や分げつ数については 土地がたまたま肥沃であって繁茂しているのか 元来遺伝的に草丈が高く分けつ数が多くなっているのか 表現形質だけからは判断できません そのため 統計的な方法を使って遺伝率を推定して選抜の方法を決めることになります 重要なことは 作物育種では 植物個体の形質を直接改良するのではなくて 植物集団の遺伝的構造を改良することを目指します すなわち 遺伝資源となる育種材料に遺伝変 - 55 -

異を起こすために 人工交配や人為突然変異誘発を行い 遺伝変異のある集団を作り その中から有望形質をもつ個体や系統を選抜します ( 図 2を参照 ) 選抜された集団は 他の植物と交配しないように隔離して栽培します なお イネやコムギなどの自殖性作物の場合 自家受粉率 ( 通常 95% 以上 ) が高いため 特別の隔離操作は必要なく 自殖系統の選抜の繰り返すことにより改良を進めることができます 自殖性作物の改良では 自家受粉を数世代繰り返すことにより遺伝的分離を少なくして 形質を安定させてから品種に仕上げます 素材集団 ( 遺伝資源 ) 変異集団 ( 基本集団 ) 改良集団 ( 選抜集団 ) 新品種 遺伝変異誘発 選抜と隔離 固定と増殖 ( 交配, 突然変異, ( 選抜単位 : 個体, 系 ( 近交 自殖, クローン組換え DNA 等 ) 統, 細胞等 ) 増殖, 葯培養等 ) 図 2 作物育種の流れ作物の繁殖様式により育種法が変わります わが国の主要作物であるイネ コムギ ダイズなどは いずれも自殖性作物です これらの自殖性作物は きわめて高率で自家受粉します 自家受粉を繰り返すと ゲノムの遺伝子座のホモ接合化が急速に進みます 高等生物は 両親から伝達される遺伝子をペアで持っています 特定の遺伝子座に同種の対立遺伝子が入った状態をホモ接合性 ( 略してホモ ) といいます 自殖性作物は 自殖を繰り返えすと やがて全遺伝子座がホモ化して純系 ( インブレッド ) となります 純系になると遺伝的分離がなくなり形質が安定します イネなどの自殖性作物の品種は 純系とみることができます 純系になった品種では 1 粒の種子からでも 親とほぼ同じ形質をもつ品種を再現することができます ところで トウモロコシや多くの野菜類は 他殖性作物であり 主として他家受粉により繁殖します 他殖性作物は いささか厄介でして自殖性作物とは異なる方法で品種を作ります 他殖性作物の品種には 二つのタイプがあります その一つは 開放受粉品種です 十分に大きな他殖性植物集団の中で自由に交配をさると ハーディ ワインバーグの法則により集団の遺伝的構造 ( 遺伝子頻度や遺伝子型頻度 ) が平衡に達し変化しないことが知られています したがって 他殖性植物集団では 集団規模を十分に大きくしておいて 集団内に自由 ( 正確にはランダム ) に交配させると 集団の遺伝的構造を維持することができます したがって 他殖性作物の開放受粉品種の特性を維持するためには 集団サイズを十分に大きくして 集団内でできるかぎり自由に交配させることが重要になります - 56 -

他殖性作物品種のもう一つのタイプは ハイブリッド ( 一代雑種 ) 品種です ハイブリッド品種では雑種強勢を利用しています 他殖性植物では 自殖などの近親交配を繰り返すと 近交弱勢現象により 弱々しい植物ばかりになってしまします しかし 一旦弱勢化した植物同士を交配すると きわめて旺盛な生育をする一代雑種 (F 1 ) が現れることがあります これが雑種強勢現象です この雑種強勢を活かして開発されるのが ハイブリッド ( 一代雑種 ) 品種です 現在では トウモロコシをはじめ 多くの種類の野菜や花卉においてバイブリッド品種が実用化されています ハイブリッド品種の最大の特徴は 両親となる純系を持ってさえいれば それらを独占的に保持して 毎年ハイブリッド種子を販売することができます アメリカ合衆国では トウモロコシが最も重要な農作物の一つになっており 民間種苗会社によるバイブリッド品種の改良が進んでいます 農作物の中には 栄養繁殖 つまりクローン増殖する種類が沢山あります 例えば いも類や花卉類には球塊茎根 果樹類や花木類には挿木や接木でクローン増殖されます こうした栄養繁殖性作物の増殖は簡単であり 品種の権利保護が困難です 好例がリンゴ品種ふじです ふじの原木は 東北農業研究センターの果樹研究ユニットに保存栽培されています 現在世界中に広まっているリンゴ品種ふじは この原木のクローンです 外国産のリンゴふじが逆輸入されて 日本のリンゴ農家を悩ましています 作物育種は組織的連携 協力なしでは実現できない事業であるという点を強調したいと思います 図 3 に示しましたように 作物育種事業の本体を支えるために 選抜技術とか特性検定技術とか 基盤技術の開発が必要です それから 選抜された有望系統の特性評価や適応性検定が不可欠です 基盤技術 育種事業 特性評価 適応性検定 図 3 作物育種における協力 連携 そもそも農作物の品種は 交配 突然変異 組換えDNAなど いずれの技術で作るにしても ゲノムの多くの遺伝子を組換えて その中から有望な遺伝子型を選抜する このため 新たに選抜された有望系統は 特性や適応性を全部調べ直す必要があります たとえば 新たに選抜されたイネの系統では 栽培地域の主要な病害虫に対する抵抗性 冷害 - 57 -

などの気象災害に対する耐性 倒伏抵抗性 品質のほか地域適応性など あらゆる特性や適応性を点検する必要があるわけです 育種事業自体のほかに それを支える基盤技術や特性評価 あるいは適応性検定は異なる機関で協力 分担して行います 例えばイネの場合 地域適応性にすぐれた実用品種の育成は地方自治体 飼料イネや低アレルゲンイネのような全国規模で必要となる先導的な品種や基盤技術の開発は国 ( 独法 ) が主体的に実施しています これらの育種事業を支援する特性検定は それに適した環境をもつ国や地方自治体の試験研究機関 さらに 適応性検定は 国と地方自治体の試験研究機関が分担 協力してネットワークを組んで実施しています 最後になりましたが 作物育種はバイオテクノロジーの最も有力な出口になると思われます バイオテクノロジーは植物だけではなくて 動物や微生物でも行われています 微生物では昔からかなり進んでいますが 動物ではいろいろな理由で遅れています 植物ではバイオテクノロジーは進んでいます その理由は様々ありますが 植物の場合には組織培養ができること 培養細胞から植物の再生ができること クローンの増殖が容易であることなどが特徴的です バイオテクノロジーは育種の有力な出口となると考えられますが バイオテクノロジーだけでは作物育種はできません 育種の一つの部分技術であると考えるべきです バイオテクノロジーが進んだから 従来からの育種技術が不要になるという 第三次遺伝子プール 遠縁野生種 ( 交配が困難で稀に雑種形成するが遺伝子移行が困難, 胚救済等の活用 ) 第一次遺伝子プール栽培品種自然自生種第二次遺伝子プール 農作物としての植物種 ( 交配可能で稔性あり, 雑種形成可能 ) 近縁野生種 ( 交配可能で雑種形成, 遺伝子移行がやや困難, 戻し交雑等を活用 ) 図 4 遺伝子プール概念による植物遺伝資源の類型化 - 58 -

ことは考えられません 近年 話題になっている組換えDNA 技術は あらゆる生物種の遺伝子を利用可能にしたという点では確かに画期的です しかし あえて極端な言い方をすれば これまでにない新たな遺伝変異誘発技術に過ぎません 従来の作物育種でできなかったことをバイオテクノロジーが可能としたことは事実です バイオテクノロジーの最大のメリットは 遺伝子プールの飛躍的拡大にあるとも言えます ( 図 4を参照 ) 従来の作物育種では 第 1 次遺伝子プール すなわち栽培品種間での交配により遺伝変異を作っていました その外側にある第 2 次遺伝子プールには近縁野生種などが含まれ 近縁野生種と栽培種と交配により品種間交配では得られない新たな遺伝変異を作り出すことができます この場合 近縁野生種のもつ不利な遺伝子が雑種植物に入り込んでしまうため 栽培種に何回か交配して野生種から一部の遺伝子だけを入れる戻し交配育種の方法を使います 第 3 次遺伝子プールには 縁の遠い野生植物などが含まれます 遠縁な野生植物は 栽培植物と交配できない場合が多く 交配できたとしても雑種植物が育たないこともあり 従来の育種技術では遺伝子の移行がきわめて困難です このため 胚培養などのバイオテクノロジーが活かされます 胚培養は 死滅してしまう雑種胚を救えることから胚救済とも呼ばれ キャベツとハクサイの交配による ハクラン やアジアイネとアフリカイネの交配で作られた ネリカ (NERICA) などの例がよく知られています バイオテクノロジーは育種の道具 あるいは育種はバイオテクノロジーの出口にはなり得ますが バイオテクノロジーで育種は完結しないということを強調しておきたいと思います 育種組織や特性 適応性検定をやるネットワークが育種には大事ですので 大学で作物育種をトータルに行には困難が多いと思われます そこで 作物の種類を特定して その作物育種に関連する実験や基盤技術の開発を行うことができると思います 実施可能な試験例を整理しておきましたので 討論の材料にしていただく方がいいと思います どうもご清聴ありがとうございました ( 司会 ) 藤巻先生 どうもありがとうございました ここで藤巻先生に質問したい方はおりませんか 詳しいことはまた全体討議で検討します よろしいでしょうか 藤巻先生 どうもありがとうございました - 59 -