香月孝史「スターシステムと文化の『高級』性の根拠」

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[ 投稿論文 ] スターシステムと文化の 高級 性の根拠 歌舞伎の社会的地位を事例として * 香月孝史 スターシステムという性質は, 通俗的, 非芸術的な要素として認知されることが多い. 今日, 一般に高級文化としての社会的位置を確立している歌舞伎であるが, 一方でスターシステム的性質を内包しているとしばしば表象される. 本稿は, その 通俗 性と高級文化としての威信が歌舞伎においていかに共存しうるのかを明らかにする. これは, 大衆文化やポピュラー文化の側から問い直しが多く行われている, 文化の高級性 / 低級性というテーマに関し, すでに高級と認知されている文化の側から, その位置づけが何に根拠づけられているのかを問い直す試みともなる. かつては低俗として糾弾された歌舞伎のスターシステムは,1980 年代にはほとんど批判を受けなくなる. その風潮と前後して歌舞伎の高級文化としてのイメージは強固なものとなるが, そのイメージ形成を主導したのは歌舞伎とは馴染みの薄い若年層の眼差しであった. そうした層によって歌舞伎は, あらかじめ高尚な地位にある伝統芸能として認知され, その演劇的性質はあらためて価値判断を受けることがない. このとき歌舞伎の 高尚 性はその論拠が問われぬまま, きわめてイマジナリーな性質のものとしてある. 今日, その内容にスターシステム的性質が依然言及されながらも, それは歌舞伎が高級文化であるという ブランド が所与である前提のうえでしか看取されないため, スターシステムという語が一般に帯びる低級性に直結されることはない. キーワード : 歌舞伎, スターシステム, 文化の高級性 / 低級性 1 はじめに 1. 1 問題の所在今日の日本において歌舞伎は高級文化としての社会的地位を獲得し, 受容されている.SSM 調査の分析を基にした片岡栄美 (2000) の論考によれば, 歌舞伎や能や文楽を見に行く 行為は高い文化的威信を有するハイカルチャーとして認知されていることが示されている. これはいわゆる 伝統芸能 を鑑賞することが, 今日高級な文化活動と見なされていることを表すものである. 本稿は歌舞伎の高級文化としてのイメージが今日維持されるあり方, とりわけいわゆるスターシステムとい * 東京大学大学院学際情報学府学際情報学専攻博士課程 xt59w9@bma.biglobe.ne.jp 社会学評論 61(4) 489

う, 一般に芸術文化にあっては低級性と結び付けられやすい性質を内包しているとされながらも, 現代にあって高級な文化として認知されている点に注目し, その社会的イメージを支える今日的要件を考察するものである. 文化の高級性 / 低級性というテーマは, 古くから議論されてきたものである. ここでの 高級 とは, 当該文化へのアクセスの対価という意味ではなく, 美学, 芸術的判断による位置づけである. とくにその区分の問い直しを強く提起するのはいわゆるポピュラー文化など, 高級とはされない文化に添った立場からの発言であった. それは, 当該の文化が正統な美学的水準に達していることを主張し, 既存の高級文化との間に芸術的な高低の差がないことを申し立てるものであり (Shuster man 1992=1999), あるいはそうした正統性や高級 / 低級という区分法自体の有効性を疑うものである. 文化に対しいかにして高級や低級という診断を下しうるのかという問いはさまざまなジャンルに関して繰り返されている. とはいえ, 社会において特定の文化群が高級文化として認知され確固たる地位を築いている, という構図は今なお保たれ, 文化の序列性は現代の日本において共通認識となっている ( 片岡 2000). 本稿では歌舞伎という, 高級文化として認知されるジャンルに照準しつつ, この論点を捉え直してゆく研究の一環ともなるはずである. 歌舞伎を対象とするにあたって, まず近代における歌舞伎の社会的位置について らちがいに 確認せねばならない. 近世には風紀を乱すものとして枠づけられ, 身分制の埒外 置かれていた歌舞伎の地位の上昇は, 一般に明治期が契機とされる. 根拠として度々言及されるのは, 政府主導による地位向上のための 歌舞伎改良 運動である. 1872( 明治 5) 年に, 新政府が勧善懲悪を主として教化の一助となるべく申し渡した布達や,87( 明治 20) 年, 天皇の御前で演じられたいわゆる天覧歌舞伎の実現が, その象徴として位置づけられる. これらの動きが歌舞伎という芸能を社会制度の枠内に位置づけ, 公的地位付与の直接的要因となったことは間違いない. しかし, それをもって今日の歌舞伎の社会的イメージに接続するのは早計にすぎる. 公的地位が確保されたとはいえ, それはすぐさま高級な芸能としての社会的認知を意味しない. むしろ明治の近代化に伴う歌舞伎の公的地位整備は, 西洋演劇理念の 近代 性と比較された歌舞伎が, 芸術内容として低俗であると認知される契機でもあった ( 香月 2009). 現代の歌舞伎の社会的位置を捉えるためには, 明治期以降の扱われ方を 地位向上 とのみ一括することは控えねばならない. 歌舞伎を 改良 するという姿勢は, 従来の歌舞伎の性質そのままでは高級な内容とは認め難いとする発想を含んでいる. 井上馨, 末松謙澄らの主導で 1886( 明治 19) 年に発足した演劇改良会が趣意書で第一に掲げたのは従来の歌舞伎の 陋習 を改めることであり, 猥褻野鄙 な歌舞伎を 上等社会の観 に堪えうるものにすることであった ( 小櫃 1988: 360). 明治期における地位向上とは, 歌舞伎が古典芸能としてその根本性質を肯定されたということではなく, 西欧的 近代 理念に沿って歌舞伎を 上等 な演劇に編成し直そうとする政府の欧化志向に多く 61(4) 490

を負うものである. 政府主導により始まった 改良 については, 俳優よりも戯曲を優位に置くことを旨とする坪内逍遥の論など, 在野知識人からもさまざまに意見が寄せられる. また明治後期 昭和初期にかけいわゆる新劇運動の旗手となる小山内薫などからは, 近代的芸術観から歌舞伎を否定するような視点も繰り返し提示され, 大正期に至ってそうした 芸術 観は知識人層に定着してゆく ( 兵藤 2005). 加えて封建性や, 特定の俳優をメインに据え続けることとも深く関わる門閥制の温存といった点にも, 批判的な指摘がなされるようになる ( 佐々木 1930). 戦後に大きく取り上げられる時代感覚との齟齬 (3 節参照 ) は, すでにさまざまな観点において指摘がなされている. すでに江戸後期より官許の芝居小屋から廉価な座席が局限され, 歌舞伎は上層町人層以上の人々の享楽物となる傾向があらわれ ( 小笠原 1996), アクセスするための対価の意味では高価なものともなってゆく. しかし大正 昭和初期に至ってもなお歌舞伎は 芸術 的内容の点では広く高級と認知されてはいなかった. 明治期が高級化の足掛かりであったとしても, 現在のようなかたちで高級文化として広く認知される状況と直結できるものではなく, 今日の社会的イメージに関しては, 歴史はまだ浅いものであるといえる. このように, 一方で今日歌舞伎が高級文化として称揚されていることが自覚され, 他方, 西欧的演劇理念によって歌舞伎が低級な性質をもつものと受けとめられた 近代 の歴史も確認されている. しかしその二者の時期的, イメージ的な隔たりに関してはようやく議論が生じ始めたところであり, まだ蓄積はない. とくに, 明治以降批判を受けてきた 芸術 的性質に対する今日的な価値判断を主題とする研究はいまだ見られない. 原則として同一の上演形式, 演目を継承する古典芸能であるかぎりにおいて, 同一の芸術的性質は保持されてゆくと考えられる. それにもかかわらず時代変遷によって歌舞伎への眼差しに大きな違いが見られるということは, 社会の価値判断や通念などに大きな揺れを生じさせる変化が起きているのではないか. 現代の歌舞伎の社会的位置をテーマとする研究としては, 大久保康彦 (2000) の論考がある.1980 90 年代の若年層の歌舞伎への認識を探る稀有な論考であるが, 歌舞伎鑑賞教室 に対する高校 大学生層の認識をもって 若者 の歌舞伎観を決定している点, また若者の歌舞伎離れや知識のなさへの批判という当初のバイアスが論考全体に表れている点に改善の余地がある. また第 2 次世界大戦以後のイメージ変遷に関しては, 歌舞伎に馴染みのない若年層が, 過去の文脈を踏まえない価値づけによって歌舞伎を受容するようになる 70 80 年代に着目した香月 (2009) の論考がある. 大久保の言うように, 若者にとって歌舞伎が 遠い という指摘はもっともであるが, 本稿ではその 遠さ も含んだ社会的イメージの構成について考えてゆきたい. 社会学評論 61(4) 491

1. 2 方法と構成本稿は歌舞伎が内包するとされる, いわゆるスターシステムという性質に注目しつつ, 高級文化としての歌舞伎のイメージを支えるのがいかなる要素であるのかを探ってゆく. スターシステムに注目するのは, それが近代以降, 歌舞伎を低俗視する論拠として機能してきたため, また今日にあってもこの性質は一般に, 芸術的に高度ではないという評価が下されやすいためである (2 節参照 ). 本稿では第 2 次世界大戦以降から 1990 年代までの歌舞伎に関する雑誌記事を分析資料とし 1), 方法としては言説の歴史社会学を用いる 2). 歴史社会学を用いるのは, 当該の各時期に歌舞伎に関していかなる言葉が語られていたのかを分析することで, 各時期における歌舞伎の社会的イメージの把握に接近できると考えるためである. また, マスメディアのうち雑誌を資料とするのは, その言説が向けられた対象の年齢層や性別等の判定を容易にし, 言説の分布や受容層の歴史的変容を考察しやすくするためである. 以下, まず本稿で主題とするスターシステム的な性質が現代においてどのような社会的認知を受けるものであるのか確認 (2 節 ) したのち, 第 2 次世界大戦以降, 歌舞伎がそのスターシステム的性質を批判されてきた 1960 年代ごろまでについて, 批判のありようを考察する (3 節 ). つぎに, 今日のように歌舞伎に高い威信が付与されるようになる契機とその背景を整理する (4 節 ). そうした時代変化により歌舞伎が高級なものと表象される 80 年代以降, 歌舞伎のスターシステムはいかなるものとして受容されているのかについて分析を行い (5 節 ), 高級文化としての社会的認知とスターシステムとが共存しうるロジックについて考察をまとめる (6 節 ). 2 スターシステムと低俗性 舞台演劇, 映画等に関してスターシステム的な性質が指摘される際, それは何より高い人気や有名性をもつ演者の魅力を前提に, そのパフォーマンスが成立している状態として理解される. このとき, スターシステムと対置されるのは戯曲 脚本のテーマ, メッセージ性, あるいは演出者の手腕といった要素である.1 節でみた近代西洋演劇理念もそうした要素が重視されたものであるが, それらが 芸術 性を保証するとされるのに対し, 主要俳優の有名性が第 1のセールスポイントとして見なされる作品は, 芸術 とは対照的なものとして扱われる. スターシステムを 人間的疑似イベント とした D. ブーアスティンは, スターシステムによって作品や戯曲がスターという有名人に覆われてしまい, 表現形式が無関係なものになってしまうと指摘している (Boorstin 1962=1964). また E. モランは 20 世紀の映画が作り上げた有名人をスターとして捉え, スターシステムが後退することにより映画は 今後は, 芸術だけしか形成しないだろう と述べている. スターシステムの凋落によって映画が ますます美学的な現象となっている (Morin 1972=1976: 200 1) とする視点は, スターシステムと 芸術 とを対照的 61(4) 492

な要素として扱うものである. これに関連して P. D. マーシャル (Marshall 1997=2002) は, 有名人が間違った価値の中核を表現するものとして嫌悪の対象となっていることを指摘し, また石田佐恵子 (1998) は, しばしば有名性は 偽りの 能力により過剰に評価されているものと考えられ, 有名性に惹きつけられることは何か卑俗なこととしてみなされがちであることを示している. 本稿もこうした認識を踏まえて論を進める. しかしそもそも, ある表現形式のジャンルがスターシステムであるか否かという判定は容易に下せるものではない. 技術をより所に主要なパフォーマーとなった人物を中心に据えて興行が行われること, またそうしたパフォーマーが有名性を獲得しスターとして認知されるという現象は, 広範なジャンルにおいて見られる. スターシステムを本質的に定義し, あるジャンルがスターシステムであるのかという性質を峻別することは, 相当に困難なはずである 3). しかし, 後述するように特定のジャンルがスターシステムであるとされ, 芸術 の対極として表象される状況は近代以降, 継続している. 本稿の問いは, あるジャンルがとりたててスターシステムであると指摘され, そのことを論拠に非 芸術 的なものとして表象されるとき, その社会的認知を成立させる, あるいはさせない背景は何か, ということである. 稲増龍夫 (1989) は日本のいわゆるアイドルが, 高度な芸術性と相反する性質をもつものとして社会に認識されていることを指摘する. ここでアイドルとは, 本稿で扱うスターシステムと強い親和性をもつものとされる 4). 稲増はアイドルが芸術と相反するものとして表象されることに対し, こうした評価が成立する背景を西欧近代音楽至上主義的な高級低級図式に求め, その価値判断を批判的に分析している. また, 同じ 売れる 音楽でも, ロックは受け手側からの自然発生的な支持が 売れる 音楽を生んでいるのに対し, アイドルは送り手側の商業主義的仕掛けが 売れる 音楽を生んでいるという, 例の対比 ( 稲増 1989: 103) がなされるように, スターシステムへの評価は商業主義という, これもまた 芸術 の対極として見なされがちな言葉に接続されやすい. 佐藤郁哉 (1999) によれば商業主義という言葉はしばしば, 分析的な用語というよりは多分にイデオロギー的な意味合いの強い一種のダーティワードとして機能する. 佐藤は現代演劇に関する論考の中で, 芸術性と商業性を相容れない対立項として捉える通念的図式が広く社会に根づいている状況を俎上に上げ, そうした視点が論拠に乏しく, 具体的な検討のないまま 商業主義 批判が展開されていることを指摘する. 稲増や佐藤による批判からは次のことが浮かび上がる. すなわちスターシステム, あるいはそれに関連する商業主義といった言葉で表象されるジャンルを, 即座に 芸術 とは相反するもの, もしくは芸術的に見て低俗なものとして分類するという視線が, 現代にあって社会通念として根強いということである. このとき, 対極として芸術的に高度な正統らしき文化が想定されるはずであるが, その 芸術 性社会学評論 61(4) 493

の高い文化とスターシステム等との比較検討がなされぬまま, 低俗 文化が批判されているという点も, 両者の指摘に共通している. モラン, 稲増らが対象にする複製メディアのスターシステムと, 現代演劇や本稿で扱う歌舞伎のそれとは仕組みや伝播, 効果の点において同一のものではありえない. しかし, それが 芸術 性やメッセージ性の対極として捉えられる点では問題を共有している. 後述する歌舞伎への 俳優本位 という指摘も, その点では合致すると考えられる. 本稿が照準するのはこの点, つまり芸能のある要素を芸術として 高級 なものと受け取り, 他のあるものを 低俗 と見なすような社会意識の生成のされ方とそのより所である. 本節で述べた例はまた,P. ブルデューが示した文化的嗜好性の類型を想起させるものでもあるが, スターシステムやそれに付随する商業主義はまさに通俗的作品が批判されるときの論拠となる 安易な効果 (Bourdieu 1979=1990 Ⅱ:370) を狙ったものとして位置づけられる. ブルデューの論考を日本社会にそのまま適用することはできないが, 安易な効果 が芸術的に高級でないものとして軽んじられる傾向は現代日本においても同様である. 3 歌舞伎のスターシステムと低俗性批判 3. 1 歌舞伎の 俳優本位 ここから, 本稿の対象である歌舞伎に関して,1 節で述べた時代に続く第 2 次世界大戦後以降, スターシステムがどのように指摘されてきたのかを確認してゆく. 坪内が戯曲優先を説いたことは先に触れたが, これは元来の歌舞伎の俳優第一義主義への反発が前提となっており ( 小櫃 1988: 418), 明治期より歌舞伎が俳優重視の演劇として認識されていたことがうかがえる. 歌舞伎研究の代表的人物の1 人である郡司正勝は1954 年に次のように説明する. いったい新劇では戯曲がどこまでも第一の条件であるのに対して, かぶきではまず 役者 なのである. しかもそれは俳優術が第一義であるという意味でなく, 役者という人間の魅力が第一であるということである. かぶき史とともに歩んできたおびただしい 役者評判記 が, 劇評でも技術評でもなく, 役者の魅力の礼讃に尽きることによってもあきらかなごとく, かぶきは役者らしい役者を求め, すべてを集中したのである.( 郡司 2005: 25) 今日, 歌舞伎の入門的な書籍においても, 俳優の魅力を第一義に置くこの捉え方は基盤となっており, 近世に限定した説明ではなく現代にも続く普遍的な性質として掲げられている. 俳優第一義や俳優本位という表現は, スターシステムという言葉が定着する以前から歌舞伎についての常套的表現であるが, 意味としては今日のスターシステムと類似したものと考えられる. 61(4) 494

専門家の論考のみならず, 受容者側の鑑賞態度からもその性質は窺うことができる. 南博の調査によれば, オペラや新劇, 新国劇といった他ジャンルの演劇に比べ歌舞伎は 俳優を見に 来ることを観賞動機として挙げる観客が多く, 役者本位の見方が, 他のジャンルに比して著しく強い ( 南 1950: 265) とされる. 歌舞伎が俳優本位の演劇であるという明治期からの社会的認知は, 戦後に至っても保持されている. 3. 2 歌舞伎のスターシステムに対する非 芸術 性批判 1 節でみたように, 歌舞伎が低俗視される際, その背景にあるのは西欧的近代演劇理念であった. 大正 昭和初期にかけてその理念を基にした演劇活動は, おもにいわゆる新劇というジャンルにおいて模索されてゆく. そうした理念が志向するのは, 人間の普遍的な本質や 真理 を戯曲内容によって表象することであり, 俳優偏重などの外形的な美しさや快楽にとらわれる娯楽は一級のものではないという価値観であった ( 兵藤 2005). 西欧的戯曲と対比され, 俳優本位の演劇として表象されてきた歌舞伎はこのとき, いわば非 芸術 的な性格をもつ演劇の代表として想定される. 小山内が 歌舞伎を離れよ 伝統を無視せよ と叫ぶことで主張したのは, 近代的 芸術 演劇の創作であった ( 小山内 1941: 65 6). 第 2 次世界大戦後に至ってもそうした歌舞伎への批判的視線は引き継がれた. 戦後の新劇運動に主導的な役割を果たす千田是也は現代的芸術としての歌舞伎を否定し 歌舞伎という形が, 現代人に創造的なインスピレーションを与えるとは私はもはや信じない 歌舞伎はもはや, その形だけを, その形骸だけを残すよりしかたがない ( 千田 1951: 148 9) と述べる. 近代的 芸術 観との齟齬により, 歌舞伎というジャンルの存続自体に疑念が呈されている. 齟齬の具体的要素として, 戦後に入っても 俳優本位 は槍玉に挙げられてゆく. 同様の性質への批判を, スターシステムという言葉を用いて表す言説も 1950 年代にはすでに見られるが 5),61 年に演劇評論家の尾崎宏次はこの論点に関し次のように述べた. 私はまったく歌舞伎の子役というものを好まない. どんなに逆説的な意味でうんぬんしても, 勘九郎のような子供をからかっていられる歌舞伎は幼稚である.2 月の東宝劇場にでて踊った勘三郎親子の姿は, けっして純粋な 舞台 の 姿 ではない. まあ可愛いといって拍手されるのがうれしいのならば, 温習会の舞台で十分なのである. ここにも, 素のままのものを持ち込んで, ひやかし半分の喝采に陶酔させる要素があって, 舞台をまったく創造的な小宇宙にする厳しさとは, まったく無縁である. 世襲制度がナマに舞台へ顔をつきだしてきている. これらの封建社会から明治時代へ受けわたされたままのシッポをぶらさげている歌舞伎界への実態が, もともと戯曲中心でなく, 俳優中心の演劇だったことに遠い由因をはらんでいることはいうまでもない.( 尾崎 1961: 276 7) 社会学評論 61(4) 495

子役 ( 有名俳優の子息 ) が登場するだけで まあ可愛いと拍手 して喝采を送るようなものは演劇の 創造的な小宇宙 とは相容れないとして, 歌舞伎の芸術性を否定的に捉えている. 批判の枠組みとしてはブルデューのいう 安易な効果 と同質のものと言えよう. こうした認知は, 演劇を熟知する一部専門家層に限られたものではなかった. 先述の南による論考においても, 歌舞伎は新劇やオペラに比べ, 受容者の観賞動機に 研究的乃至思索的 傾向は少なく, また 歌舞伎の観賞態度の中には著しく慰安的傾向がいりこんでいる ( 南 1950: 264 5) という. 批判的論調に直接繫がる記述ではないが, 少なくとも芸術追求ではない慰安的役割に傾斜したジャンルとして歌舞伎が捉えられていることがわかる. また,1950 60 年代にその種類を増し発展してゆく大衆週刊誌等においても, 歌舞伎のスターシステムには否定的な目が向けられる. 執筆者無署名のものも多いそれら言説は, 専門家層による論考とは性質を異にするが, 俳優重視の性質を否定的に捉える点においては一致していた.60 年代に隆盛期を迎え, 保守批判的な論調で若年層から支持を得た 朝日ジャーナル は, 契約制度の問題から歌舞伎俳優が松竹傘下から東宝へと所属会社を移した際に, つぎのような疑念を投げかけた. 芸術上, 気にかかることは, 契約制が頭株の役者だけを動かすことになって, 歌舞伎のアンサンブルがくずれないかという心配である. この点を確保できないとすれば, 東宝の考えている歌舞伎は, 当然, スター システムとならざるを得ないだろう.( 朝日ジャーナル 1961 年 2 月 19 日 : 42) 問題視されているのは, 芸術上 の懸念としてのスターシステムへの傾斜である. 芸術を志向するにはスター本位であるべきではないという見方は繰り返され, 歌舞伎に向けられている. 俳優中心の通俗化コースをねらうと, 歌舞伎は今までと少しも変わらないことになる と 不用意な低俗化 ( 朝日ジャーナル 1961 年 3 月 12 日 : 26) が批判されるようにいまだ, 歌舞伎が芸術的正統性を有するような, 今日ある社会的イメージは確立していない. 1960 年代におけるこうしたイメージは, 明治期以来の近代演劇理念を基準とする価値判断が幾分かたちを変えながらも継続していることの表れである. スターシステムを旨とする歌舞伎を非 芸術 的と見なすという歴史的堆積が重ねられ, そうした捉え方がある種, 定式化している. スターシステムを低俗と捉えるこの価値判断は, 基本的には稲増がアイドルに関して描き出した構図と同方向のものである. つまり, 現代においても広く浸透している価値観と考えられる. では, そうした環境において歌舞伎はいかにして 芸術 的に高級なものとして捉えられ得るのか. 次節ではまず, 芸術的に低級と見なされていた時期を経て今日の社会的位置獲得へと向かう, 歌舞伎のイメージ転換の背景を先行研究からまとめ, 現在歌舞伎が高級であるというイメージがどのように 61(4) 496

下支えされているのかを探る. 4 歌舞伎正統化の契機 4. 1 言説の担い手 のシフト歌舞伎が糾弾の対象ではなく, 現在のように高級文化として広い認知を得る契機としては, 歌舞伎のイメージを主導する言説の担い手のシフトが挙げられる ( 香月 2009). 歌舞伎や演劇に精通する専門家の言説が歌舞伎の社会的イメージを主導していた時期を経て, 大衆週刊誌等の興隆期を迎える 1960 年代以降, 歌舞伎の知識をもたないいわば門外漢がマスメディア上で歌舞伎を語る機会が急増することにより, 歌舞伎のイメージ形成をになう層が, 専門家 知識人層から非専門家層へと移行していった. 前節でみた 60 年代の 朝日ジャーナル では, その論旨自体はまだ専門家層のスターシステムへの見方に同調するものではあった. しかしこの種のメディアの普及により, 門外漢による歌舞伎への評価が提示されやすい環境が整っていったことはたしかである. これら, 歌舞伎の芸術的性質について具体的な評価軸をもたない人々の語りが増大したのち, 社会的イメージの変化の兆候は 70 年代にあらわれ,80 年代に明確なものになる. 女性向け情報誌等に先導され, 高級で洗練された消費スタイルとして紹介, 受容されることにより, 歌舞伎が高尚な趣味として広く認知される土壌が整備された ( 香月 2009). ここにおける称揚は, 今日の高級文化としての歌舞伎のイメージに通じるものである. このイメージ形成について, 次項で詳述する. 4. 2 伝統 による正統化女性情報誌による先導は, 歌舞伎評論の立場から 1990 年代初頭を総括する児玉竜一 (1997) も指摘している. 歌舞伎ブーム と呼ばれたこの時期について, 児玉が注目したのは週刊情報誌 Hanako ( マガジンハウス刊 ) に代表される歌舞伎へのアプローチである. 歌舞伎に限らず,80 年代末 90 年代初頭の消費スタイル案出に, この Hanako は大きな役割を果たしたとされる( 原 2006). 児玉が言及するように Hanako は 90 年から4 年にわたり歌舞伎に特化したコラムを毎週連載するなど, 消費スタイルとしての歌舞伎観劇をたびたび提案していた. 歌舞伎が高級文化として専門外のメディアから広く称揚されるこの時期, そうした視線を象徴する媒体のひとつとして Hanako は存在した. 同誌のアプローチは, 受け手側が歌舞伎に馴染みがないことを前提に, 積極的に 遠きもの である歌舞伎に近づいてゆこうと誘うものであった ( 香月 2009: 132). 重要なのは, 歌舞伎を肯定的に称揚するメディアの送り手にとっても受け手にとっても, 歌舞伎が遠いものとして想定されていることである. 歌舞伎は難解で料金も高い って食わず嫌いしている人多いみたい. もち 社会学評論 61(4) 497

ろん格調高い芸能だけれど, その歴史を育んだのは 庶民の夢. 核にあるのはあくまで人間味 れる世界です.4 時間余楽しめることを考えたら料金だって格安. 本物志向の時代の今こそ, 再注目です.( Hanako 1989 年 7 月 6 日 :34) ここで歌舞伎は格調高く, 本物志向 に見合う芸能として語られる. この捉え方に, 芸術性が低いとして批判された過去の歌舞伎についての記憶はない. 歌舞伎の高級性はここでは所与となっている. 歌舞伎のイメージを先導する言説の担い手が非専門家層, 門外漢にシフトしたことによって, それ以前の時代にあった歌舞伎批判の論拠は顧みられなくなった. このような非専門家層にとって歌舞伎は格別に負の価値を付与されたものではなくなるが, これをさらに高級なイメージへと転化させたのは, 歌舞伎の 古さ を 伝統 として受けとるという読み替えである. 近世から継承されている歌舞伎の歴史性が, 芸術的洗練を想起させる 伝統 として捉えられ, 高級文化としてのイメージを形成する ( 香月 2009: 133). 演劇評論家の大笹吉雄は, 非専門家層による歌舞伎称揚を ブランド の受容として捉える. ブランドは新しく発見されたものではない. いわば老舗と等しく, 昔からいいとされてきたものである. そこに個人の判断はない ( 大笹 1993: 375) として, 非専門家層の 伝統 ブランドに対する無批判な肯定を指摘する. 昔からいいとされてきた か否かは,1 節でみたような経緯を踏まえての検討が必要であるが, 本稿とは議論の焦点を異にするため, この点はこれ以上論じない. 本節で先行研究を参照しながら述べてきたように, 現代において歌舞伎の高級文化としてのイメージは, 非専門家層による多分にイマジナリーな 伝統 への眼差しにより担われている. ではこのとき, 歌舞伎が有しているとされてきたスターシステムにはいかなる視線が向けられるのか. 5 低俗視されないスターシステム 5. 1 明示されるスターシステム 2 節でみたように, 現代日本においてスターシステムという性質は, いわゆる商業主義とも接続されながら, 芸術 性の対極とされることが多い. Hanako 等をひとつの象徴とする非専門家層が歌舞伎を格調高い芸能と認識する際, では近代以降糾弾の対象として機能し続けてきた歌舞伎のスターシステムはいかに解釈されるのであろうか. Hanako で毎週歌舞伎に特化したコラムを連載していた演劇ジャーナリストの伊達なつめは, 同コラム内で歌舞伎のスターシステムを次のように説明する. 歌舞伎は役者本位のパフォーマンスだといわれる. それはストーリーの起承 61(4) 498

転結や登場人物の一貫した性格描写などよりも, とにかく見た目が美しく, 主役がかっこよく舞台映えすることに, 他の役者や裏方の総力が結集されるようにできているからだ.( Hanako 1990 年 9 月 27 日 : 124) 伊達は歌舞伎の, 役者が気持ちよくて, 観客が楽しめることが究極の目標である という性格を あっけらかんとしたポリシー と表現する. 見ようによっては, オーバーアクションの単なる女形の自己陶酔の世界だ. しかしそれが見ていてしらけることなく, なにかウキウキと心躍るような思いにさせていく と俳優本位の演出の中に周到さを見ている. 低級性の象徴とされていたスターシステムが, 歌舞伎の本質的特徴としてここでは肯定的に明言されている. しかしこの肯定的眼差しは, 稲増の行ったようないわば被差別対象の擁護ではない. Hanako は 格調高い という歌舞伎のイメージを所与として提示する代表的メディアであった. すなわち, 歌舞伎はスターシステムという性質を内包していることが認知されながら, 同時に高級文化としての位置づけも獲得しているのだ. 歌舞伎を 敷居の高 い, 馴染みの薄いものと捉え, 学んでゆこうとする姿勢は Hanako のみならず,1980 年代後半から 90 年代にかけて, 情報誌が歌舞伎をナビゲートするさいの代表的なアプローチとなった ( 香月 2009). こうした入門的なアプローチにおいては, 歌舞伎の内包する俳優本位を直接的に示すため, 稲増が研究対象としたような今日のアイドルになぞらえた説明がなされることもある. 歌舞伎に関する論考の多い作家の橋本治は歌舞伎初心者に向けて, マッチがとかトシちゃんがっていうのと同じなんだよ ( MORE 1985 年 5 月 : 355) と同時代のアイドルとの同質性を述べ, スター性に重きを置いた視点を提示している. こうした説明は, 歌舞伎実践者自身の語りにも表れる. 歌舞伎俳優の中村勘九郎 ( 現 勘三郎 ) は, 入門的なアプローチをとるメディアに対して次のように述べる. 歌舞伎の観方, 楽しみ方, だなんて, そういう企画自体が昔はなかったと思うんで, 寂しい話だね. だって, 知らざあ言って聞かせやしょう, なんだからね, 今の時代は. 知らざあ言って の下にカッコ 白浪五人男 浜松屋, 弁天小僧の台詞, って書く?( 笑 ) それがお祖父さん ( 名優 6 代目菊五郎 ) の時代は, 歌舞伎は今よりずっと身近だったわけだし, もっと江戸時代に行けば SMAP は歌舞伎役者だったわけだものね.( ミセス 1998 年 3 月 :92) 現代のアイドルに歌舞伎をなぞらえたうえで彼はこの後歌舞伎俳優の名を列挙し, 俳優への興味を手がかりに歌舞伎を観ることを勧めている. このような, マスメディアでポピュラーとなっている, かつ通俗的な文化として表象されることの多いアイドルと歌舞伎俳優との類似性をあえて説明, 強調してみせる発言からは重要な点が読み取れる. すなわち, スターシステムを基にした歌舞伎とアイドルとの同質性社会学評論 61(4) 499

が社会の中で認識されてはいないということである. 門外漢から見てあらかじめ 格調高 い芸能として受容されるため, 歌舞伎の性質として説明される俳優本位という要素は, 通俗的とされがちないわゆるスターシステムと直結されることがない. 今日のアイドルという, より通俗的とされる芸能ジャンルと対比させ両者の類似性を説明する試みは, 歌舞伎の高尚なイメージからくる堅苦しさを解消しようとするものである. そうした試みは, 高級文化であるという歌舞伎の社会的位置づけが揺らがないかぎりにおいて成立しうる. 大笹はスターシステムに関連して, 昨今の歌舞伎ブームの火つけ役が, って 名家 の若手である ことに注目する. 中村勘九郎, 坂東八十助, 中村時蔵, 中村児太郎, 中村橋之助, 市川染五郎といった人たちがそれで, いうまでもなくこういうスターは, 何代もつづく家を背負って生きている. いわば存在自体がブランドである. おそらくこのことも見逃すことができないポイントで, この裏返しとして, 歌舞伎ブームが前進座のそれにはおよんでいないということがある.( 東京人 1992 年 3 月 : 130) 6) 観客が見つめるスターたちの背景にはつねに 名家 や伝統といったブランドが付随することになる. つまりこの場合, スターシステムを享受する前提として, そのスターの存在自体に既に芸術的な洗練や正統らしさが付与されていることになる. 5. 2 専門家層の眼差しの変化と影響力の後退 3 節で確認したように, かつて歌舞伎がその演劇的性質をもって通俗的, 非 芸術 的と表象された時期, そうした位置づけは専門家層の見解と連動したものであった.1960 年代に非専門家層によるマスメディアでの批評機会が増加した際にもそれらの言説は, 専門家層の指摘や批判と価値判断を同じくしていた. では非専門家層の視線が歌舞伎の高級文化としての社会的位置づけを形成する 80 年代後半以降, そこにかつてのような専門家層の先導や影響力は働いているのだろうか. 専門家層による歌舞伎の社会的位置についての言及は, 女性情報誌等で歌舞伎が肯定的に表象される 1980 年代以降にもしばしば見られる. しかし, 歌舞伎の通俗的性質に批判が向けられた時期と比べると, その語りの焦点には大きな変化が見られる. 端的にいえば, かつては歌舞伎の演劇的性質を近代的 芸術 観から批評したのに対し,80 年代以降は歌舞伎をとりまく観客など環境についての批評に論点が集中しているのだ. 1990 年代前半, 盛況を続ける歌舞伎座について歌舞伎評論家の津田類は 猿之助の固定ファン 玉三郎を待ち望んでいた潜在ファン テレビや雑誌で勘九郎を知った若いファン が詰めかけていると指摘し, 受容層の興味がスター中心であることを示唆する ( 週刊新潮 1993 年 10 月 21 日 :32). 津田はその状況に正負の 61(4) 500

価値判断は与えていない. しかし, 専門家層による歌舞伎をとりまく観客層についての言及には, 批判的なスタンスも見受けられる. 演劇評論家の衛紀生は, いまの 歌舞伎ブーム を見ると, それは勘九郎を筆頭とする役者人気に支えられた 歌舞伎役者ブーム でしかない ( 週刊時事 1991 年 8 月 31 日 : 102) として, ほんものの 歌舞伎ブーム ではないと捉える.3 節で俳優本位論を引用した郡司正勝もまた, 今の見物が役者の何を見てるか その感じている魅力の質が違うような気がする. 芸ではなく, 素材だけを見てるんじゃないかとね ( DIME 1991 年 8 月 15 日 : 151) と, スター人気に収斂する状況を批判的に捉える. こうした見方に関連して歌舞伎評論家の渡辺保は, 歌舞伎ブーム の中心は市川猿之助や坂東玉三郎であったという前提のもと, そうした俳優の特質は 視覚的 であることだと述べ, これを 目に見えるものしか信じようとしない現代の人間の特質 とし, 新興観客層の表層性を指摘している ( 渡辺 1994: 132). このように, 専門家層が歌舞伎と社会との関わりに言及する際, 歌舞伎そのものよりも新興客層に論点が集中し, そうした層の見方の表層性を批判することが多くなる. 一見すれば, スターシステムに対して批判的な価値判断が継続しているとも受け取れそうである. しかしその語りの内に, 歌舞伎に内在するスターシステムそのものを批判し, 歌舞伎自体の芸術性を疑うという発想はない. また, 歌舞伎への肯定的な見方に対してシニカルな視線を投げかけるというこれら専門家層の姿勢は, 歌舞伎の社会的なイメージ形成を主導するものにはなり得ていない. 専門家層の言説は, 歌舞伎に縁のなかった層の人々が, 高級で洗練された消費スタイルとして歌舞伎を受容, 表象するようになり, ブーム が生じたとされる状況に対する, いわば事後的な反応である. 彼らが 1980 年代後半以降の歌舞伎のイメージ形成の先頭に立っていないことは次のような例からも示される. 1991 年に出版された入門ガイド ぴあ歌舞伎ワンダーランド はその年のうちに発行部数が 20 万部を超え, Hanako と並び 90 年代の歌舞伎の見方をリードする書となった. 編者の石井伊都子が 今の言葉だけで解説しようというのがねらいです ( DIME 1991 年 8 月 15 日 : 150) と説明するように, この書は専門的な符丁など古典芸能特有の約束事を排している. 石井は, 専門家層との関係について次のように述べる. 教条主義的な視点や言語で取り組む限り 歌舞伎の正しい見方 的発想に縛られるし, いわゆる専門家の人たちと同じ土俵で勝負することになって, 色いろお叱りを受ける羽目になる ( 笑 ). でも自分たちの生活実感に引きつけて, 現代の平明な言葉で, 私たちにはこう読み取れるんだ, こういう見方だってできるんだ, と書いてしまえば, 文句は言えないでしょう.( Switch 1992 年 1 月 : 126) 新たに消費スタイルとして歌舞伎を受容しようとした層にとって, 歌舞伎はあら 社会学評論 61(4) 501

かじめ 教条主義的 な印象の付随するものであり, 教条主義 と彼ら彼女らが目する専門家の見方を重要視しないアプローチが採用されている. 専門家層の言説に追従するでも積極的に反駁するでもなく, 難解な 教条 として回避し, 歌舞伎に精通しない自分たちの生活実感をより所とする. これが行われるのは歌舞伎の 敷居の高 さが所与だからこそである. それまで歌舞伎に縁がなく, 低俗性が批判されてきた文脈に居合わせなかったこれら新興受容層にとって高尚なイメージは所与であるため, その根拠も顧みることはない. 歌舞伎評論家の上村以和於 (1996) は, このような人々にとっては, 今日歌舞伎が演劇である前にまず教養として立ちあらわれることを指摘している. この前提のもとでは, 歌舞伎のスターシステムはポピュラー文化のジャンルにおけるそれと同質のものとは認知されていない. 専門家層の視線にも根本的な変化が見られる. 西欧的 芸術 観から, 歌舞伎の 内容 を低俗なものとして批判していたのが 1960 年代ころまでの流れであった. 80 年代以降の専門家層は, 歌舞伎が浮遊的な人々によって表層的に受け取られているとして批判的な論評は行うものの, その姿勢は, 歌舞伎自体の芸術性を問題にするものではなくなっている. 郡司や渡辺は若年層に関して, 歌舞伎の表層しか看取せず, 歌舞伎の 芸 を鑑賞できていないことを批判的に述べている. 表面のスター性に終始せず, 歌舞伎の芸能としての美点, 優秀な点を洞察せよとするこうした主張は, 歌舞伎の芸術的ないし文化的価値の大きさを暗黙の前提とするものである. その意味で, 今日専門家層にとっても, 歌舞伎が社会において一定の文化的威信を有することは了解事項となっている. もっともこれを即座に, 非専門家層主導によるイメージ形成に専門家層が取り込まれたと解釈することはできない. 非専門家層によるイメージ形成が歌舞伎の社会的位置に大きく影響したことは確かである. しかし, 演劇学や演劇評論と密接に関わる専門家層の見解の変遷には, たとえば歌舞伎を批判し大衆の啓蒙や教育を志した新劇の盛衰, そしてその新劇の欺瞞性が糾弾され, いわゆるアングラ演劇が歌舞伎を擁護しつつ勃興してきたような, 演劇史的変容等との関連も大きいはずである. その流れについては別稿で主題にする必要があるが, ともあれここで重要なのは, 専門家層による言説が歌舞伎の社会的イメージ形成の先導役とはならず事後的な傍観にとどまっていること, また専門家層にとっても歌舞伎というジャンルの芸術性如何はもはや問われないことである 7). 6 スターシステムを覆うブランドイメージ スターシステムという, 通俗的 性質を有していると表象されながら, 歌舞伎はいかにして高い文化的威信をもつものとして存在し得ているのか, 本稿で行った考察を以下にまとめていく. 女性層を中心に 新たな 消費スタイルとして歌舞伎が享受される 1980 年代後 61(4) 502

半以降には, かつての 芸術 的に見て低俗とされた歌舞伎のイメージはもはやない. この時期に歌舞伎の社会的イメージを先導する非専門家層の視線においては, 俳優の魅力本位に楽しむ演劇であることが明示されながらも, そのことが低俗性を指示するワードとしてのスターシステムには接続されない. 鍵となるのは, 歌舞伎が予め高尚な社会的位置を獲得しているということである. 非専門家層により, 格調高い 本物志向 の伝統芸能として表象され, あるいはその教養的で難解なイメージに対して, その 教条 性を 回した解釈が行われる. いずれにしても, ハイカルチャー的で気軽に手を出し難い文化と見なされている. 彼らの歌舞伎称揚は, 名家 としてのブランドを無批判に肯定する姿勢としても捉えられる. そのブランドの正統性に関してあらためて内容の精査はなされず, 所与のものとされやすくなる. 現代においてスターシステムは依然, 通俗性や芸術的志向の低さに接続され, 商業主義をねらったものとして軽視, 批判される傾向にある. 稲増や佐藤の指摘は, そのような批判の論拠の希薄さを問題にしていた. 芸術性 とはいかなる要素のものであるのか, 何をもってアイドルや商業主義とされる演劇が低級であるのかという点について検討のないまま批判がなされることに対して再考を要請していた. 本考察からは, 具体的検討なしに芸術的評価が所与となる状況が, 高級文化とされるジャンルに関しても生じているということが明らかになる. 歌舞伎とは疎遠であった人々によって, 歌舞伎が威信を有する高級文化として受容される際, その根拠について顧みられることはなく, その威信はイマジナリーな性質の強いものになる. つまりこのとき, 歌舞伎の文化的威信はいわば門外漢による幻想に負うところが大きい. とはいえ, 形成されたその社会的イメージはもろいものではない. 一般に低俗であるとされる性質が歌舞伎のうちに見出されても, 前提として高尚である, 教養であるというフィルター越しに看取されるのであれば, その性質は芸術的評価に地殻変動を与えるほどのものにはなりえないのである. 2 節で述べたように, ある文化ジャンルがスターシステムであるか否かという截然とした判断は本来, 相当に困難なはずである. スターシステム的であると見なされ難いジャンルがあるとすれば, それはいかなる要因や文脈によるものであるのか. 文化に対する価値付与というこの論点の包括的な整理に向けて, そうした他ジャンル 8) との比較対照も今後不可欠である. 加えて, 本稿が新たな言説の担い手の象徴として扱ったメディア, それもとりわけ担い手のシフトが生じる 1980 年代ころのメディアに関しては, 女性向け情報誌の役割が大きい. すなわち歌舞伎のイメージ形成は, 消費スタイルによる差異化ゲーム等とも関連した,80 年代以降の女性向けメディアを中心とした消費喚起という観点からも捉えられなければならない. 本稿では歌舞伎とスターシステムに収斂したために扱うことのできなかった, これらの各論点についても今後の課題としてゆきたい. 社会学評論 61(4) 503

[ 注 ] 1) 大宅壮文庫雑誌記事索引総目録のうち 1945 年 90 年代までの 歌舞伎 項目全件を非専門家向けの媒体と位置づけて考察対象とする. 専門家 評論家層に向けた媒体としては当該時期の 演劇学 日本演劇学会紀要 歌舞伎研究と批評 に掲載された文章のうち, 歌舞伎の社会的位置づけをテーマとしたものを対象とした. 対象資料総数 311 件. 2) ある事象についての言説の分布のありようと残存の様態を分析し, その歴史的変容, 社会関係を解明する, 歴史社会学的アプローチとしての営みとなる. 言説の歴史社会学 については赤川学 (2006) の取り組みがある. 3) R. セネット (Sennett 1977 1991) は, クラシックのピアニストを例に, スターシステムを もっとも望んでいない人たち のジャンルにおいてさえ, スターシステムの経済学と無関係ではいられない状況を示している. 4) 稲増はモランのいうスターシステムと日本のアイドルとを対比させ, モランが スターシステム を商品システム化された擬似宗教現象ととらえた構図は, おおむね アイドルシステム においても保持されている ( 稲増 1989: 215) としている. 5) 1952 年 9 月の 人物往来 では日本映画のスター偏重主義による質の低下を指摘したうえで, これよりもっとヒドいスター偏重主義を, それも長年にわたって固く守り続けている社会が歌舞伎の世界である とし, スターシステムに関しては依然として独特の根強さを持って (36-7) いることに言及している. 6) 前進座は 1931 年, 門閥制等に反発した歌舞伎俳優らが独立して立ち上げた歌舞伎劇団. 松竹株式会社により興行される東京 歌舞伎座等の公演に比して活動は小規模であり, マスメディアが歌舞伎を取り上げる際, こうした非松竹系の歌舞伎劇団, 俳優は対象外になることが多い. 7) 歌舞伎の芸術性の要素として貫して挙げられるのはその 様式美 であるが, 西欧演劇流入により, 哲学的テーマや近代劇の演技法こそが 芸術 とされた文脈では, 歌舞伎はその古典様式を残していくほか道がない, という消極的な見方も多かった. 本稿で論じた変遷は 様式美 を中心とする歌舞伎の芸術性から, 消極的な留保がなくなるという変化でもある. 8) 同じく伝統芸能とされる能楽は, 近世までの来歴が大きく違うことから, 明治 戦後期に至るまで, 歌舞伎とは明確に異なる評価を受けており, スターシステム的とは見なされ難いジャンルである. 伝統芸能という単語の扱われ方を考えるうえでも, 能楽などとの比較対照は多くの示唆をもたらすはずである. [ 文献 ] 赤川学,2006, 構築主義を再構築する 勁草書房. Boorstin, Daniel J., 1962, The Image; or, What Happened to the American Dream,New York: Atheneum.( 創元社.) イメジ 1964, 星野郁美 後藤和彦訳 幻影の時代 マスコミが製造する事実 東京 Bourdieu, Pierre, 1979, La Distinction: critique sociale du judgement, Paris: Minuit.( 二郎訳 ディスタンクシオン Ⅰ,Ⅱ 藤原書店.) 郡司正勝,2005, かぶき 筑摩書房. 原宏之,2006, バブル文化論 ポスト戦後 としての 1980 年代 慶応義塾出版会. 兵藤裕己,2005, 演じられた近代 国民 の身体とパフォーマンス 岩波書店. 稲増龍夫,1989, アイドル工学 筑摩書房. 1990, 石井洋 61(4) 504

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The Star System andgrounds for a Highbrow Image: Focusing on the Social Status of Kabuki KATSUKI, Takashi The University of Tokyo xt59w9@bma.biglobe.ne.jp The term star system frequently connotes vulgarity and a sense of the non artistic. Although kabuki is generally considered as a form of highbrow culture in contemporary Japan, it involves the star system. This paper examines how the highbrow image of kabukiismaintained in spite of negativeassociations of the star system. Many studies have examined the classification of highbrow/lowbrow culture from the viewpoints of the cultures that have been considered lowbrow or popular. Thus, another function of this paper is to reexamine this classification from the perspective of highbrow culture. The star system of kabuki had been criticized as a non artistic element since the Meiji era. This tendency almost disappeared in the 1980s. At the same time, the image of kabuki as a highbrow culture gradually became established. Thishighbrow image of kabuki is mainly constructed by the people who usually do not come in contact with kabuki. They perceive kabuki as an absolute highbrow culture with a long established traditional image, and they do not investigate the dramatic properties of kabuki. It means that they do not examine why kabukiis considered highbrow; therefore, the highbrow image of kabuki, which people firmly believe, is actually constructed on imaginary and uncertain grounds shaped by laypersons. In this condition, the star system that kabuki involves is not labeled as lowbrow, even though the starsystem itself isstill generally considered vulgar. Because people affirm the dignity of kabuki as a highbrow culture, without examining the grounds for the highbrow image, they believe that kabuki is a highbrow culture regardless of its dramatic properties. The lowbrow and vulgar image of the star system becomes obscured by the highbrow image of kabuki, which is not adequately justified. Key words: kabuki, star system, highbrow/lowbrow culture (Received October 11, 2009 / Accepted September 7, 2010) 61(4) 506