8 第 49 回獣医疫学会学術集会 シンポジウム 小動物の疫学 エビデンスに基づく獣医療 (EBVM) の確立に向けて 小動物臨床現場で役立つ疫学の視点 保険データを中心に見えてきたこと 井上舞 * アニコムホールディングス株式会社経営企画部 東京大学大学院農学生命科学研究科農学国際専攻国際動物資源科学研究室 Epidemiology Studies of Insured Dog and Cats in Japan Mai INOUE* Grobal Animal Resource Science, Department of Global Agricultural Sciences, Graduate School of Agricultural and Life Science, The University of Tokyo Summary The domestic dog and cat have become integral to modern human family life. The Japanese dog and cat populations are estimated to be 10.35 and 9.96 million, with 15.1% and 10.1% of Japanese households being estimated to own at least one dog or cat respectively. With the integration of companion animals into human life, the number of owners who want to have their pets to receive proper veterinary medical care increased. Knowing the pattern of disease occurrence of a defined animal population and the risk factors that may affect it, is important to maintain the health and prevent diseases in companion animals. It provides useful information that can be utilized by veterinary practitioners to guide diagnostic decision making, by breeders when planning breeding programs and by owner when acquiring a new pet. Despite substantial medical advances at the clinical level on diagnosis and treatment of diseases in individual animals, there is a shortage of epidemiological information in companion animals at population level. In recent years, epidemiological analysis of dog diseases have been conducted using data from referral hospitals, and data from veterinary primary-care practices and veterinary practices. The data from referral hospitals are accurate in regard to diagnosis but they have no information about the total population at risk and the possible selection bias when only cases are referred to them. The data from primary-care practices and veterinary practices are more representative of the national dog population than those from referral hospitals, but they have a selection bias when a large proportion of dogs are not registered with practices or when the practices participating in the study are not representative of the overall veterinary practice structure. Pet insurance data have been used for research purposes since the 1970's with increasing frequency during the last 15 years. Researchers have shown interest in pet insurance data because, although diagnostic information on insured animals may be inaccurate, they contain sound information relating to breed, sex and age of both diseased and healthy animals in the background population with less selection bias compared with data from referral hospitals and veterinary primary-care practices, and the insured population can be followed from enrolment to termination of coverage. Recently, epidemiological analysis by breed sex, age, and habitat has been conducted using data of insured dogs on mortality; mammary tumors, atopic dermatitis, lymphoma and bone tumors. Anicom, the leading pet insurer in Japan started its operation 17 years ago, and currently holds almost 600,000 pet insurance 連絡先 : 井上舞 * 東京大学大学院農学生命科学研究科農学国際専攻国際動物資源科学研究室 113 8657 東京都文京区弥生 1 1 1 Tel : 03 5841 5383 E-mail : inoue.mai@mail.u-tokyo.ac.jp policies in force. I tried to investigate the prevalence of disease and longevity with analysis of the above data. We calculated the annual prevalence of diseases of 18 diagnostic categories in the insured dog population in Japan, using data from 299,555 dogs insured between April 2010 and March 2011. The prevalence
小動物臨床現場で役立つ疫学の視点保険データを中心に見えてきたこと 9 was highest for dermatological disorders (22.9% for all, 22.6% for females and 23.3% for males), followed by otic diseases (16.8% for all, 16.4% for females and 17.2% for males) and digestive system disorders (16.1% for all, 15.7% for females and 16.4% for males). The prevalence of cardiovascular, urinary, neoplasia and endocrine disorders, increased with age; infectious diseases and injuries showed a high prevalence at young ages, and the prevalence of musculoskeletal and respiratory disorders showed a bimodal peak at young and old ages. A large variation in prevalence was observed between breeds for dermatological, otic, digestive, ophthalmological and cardiovascular disorders. The life expectancies and causes of death were evaluated with above data, of which 4169 dogs died during this period. The overall life expectancy of dogs was 13.7 years. Neoplasia resulted in the highest probability of death, especially in the large and giant breed groups. Cardiovascular system disorders were the second major cause of death. The accumulated animal health insurance claim data for dogs seem to be useful for development of veterinary prophylactic medicine and improvement of quality of life for family animals. はじめに疫学とは, 動物の集団を対象にして疾患のリスクや影響度を評価し, 集団全体の健康維持を目的とする学問である 臨床現場で意識することは少ないかもしれないが, 実際には日々の診療に大きく役立っている学問である 疫学研究の手法は大きく 3 つのステップに分けられる まずは現状把握としての 記述疫学 である どういう病気がどの程度発生しているかを認識することで対策の優先順位をつけたり, 発生傾向に差があるかもしれないという仮説を立てる基礎データとしても役立つ 2 つめは病気の原因探索を目的とした 分析疫学 である 疾患群と非疾患群間の特徴を捉えることで疾患に関連する因子を特定することができる 最後に疾患に関連があると判明した因子の除去を行い, 病気の発生がどのように変化するかを調べる 介入研究 である これにより因果関係が決定づけられる このような手法による研究結果は臨床現場でもすでに活用されており, 記述疫学の疾患頻度により鑑別診断リストの優先順位を変化させたり, 分析疫学的な研究成果は予後関連因子として目にすることなどがあるだろう これまで, 家庭動物分野においては, 健康動物の集団データがなかったため, 研究が進んでいなかった分野であるが, 近年の IT の発達や保険の普及などにより, 様々な研究がされつつある 世界的には, 大規模疫学研究のデータ元としては大きく 3 種類に大別される 一つ目は 2 次診療施設の診療データであり, 北米の大学間のデータを統合した the Veterinary Medical databases がある 利点としては診断が正確であるという事だが, 欠点は非常に限定された集団データであり, 疾患も限られているという事である 研究例としては, 不妊手術による寿命や心の影響を調査した報告で, 不妊手術をした動物は未処置群に比べて 19% 寿命が延び, 死因となる疾患にも違いが見られた (Hoffman et. al. 2013) 不妊処置により感染症, 外傷, 血管性の疾患などが減り, 腫瘍疾患が増える結果となった 2 つめはプラ イマリケアの診療施設のデータで UK の Vetcompass, 米国の Banfield などがある 大学などのデータと比較すると一般的なポピュレーションをもち, 大規模データを得やすいが, 一度動物病院に訪問した母集団であるというバイアスがかかることと, 診断の精度が不明確であるという限界がある 研究の例としては歯周病が心臓病の発生に関連しているかという調査で, 心内膜炎や心筋症などの心臓疾患と歯科疾患の重症度は相関がみられたが, 他の疾患 ( 前十字靭帯損傷, 股関節形成不全, 攻撃性, 肥満細胞腫など ) については相関は見られなかった (Glickman et. al. 2009) 3 つ目に, ペット保険データの研究である スウェーデンの Agria 社のデータを用いた研究論文は 30 本を超え, 死亡率や疾患傾向などが犬種や疾患ごとに明らかになっている 本講演では, ペット保険データをもとに家庭動物の疾患発生の傾向をつかむ記述疫学, および一部分析疫学的な手法を用いた, 疫学研究の一部をご紹介する 本講演により, 小動物分野の臨床現場に役立つ疫学を感じていただければと思う 全体的な傾向をつかむ各疾患の頻度を知ることは, 診療する症例の頻度を知ることでもあり, 初学者の学習の優先順位として, また各獣医師の専門性の選択にあたっても有用な情報となる 保険金の請求書に請求理由として記載する 18 の疾患群ごとに年間有病率を求めたところ, 最も有病率が高い疾患は皮膚疾患で 22.9% であった 続いて高い値を示したのは耳の疾患 (16.8%), 消化器疾患 (16.1%) であった ( 図 1) 年齢別の比較では加齢とともに有病率が増加する疾患 ( 腫瘍や循環器疾患 ), 年齢にかかわらず高い疾患 ( 皮膚疾患, 耳の疾患 ), 若齢と高齢の 2 峰性を示す疾患 ( 呼吸器疾患や消化器疾患 ), 若齢のみで高値を示す疾患 ( 感染症や外傷等 ) と,4 つのパターンが見られた ( 図 2,3) 診断学において, 鑑別診断リスト作成時のポイントとして疾患頻度, 緊急度, 重大性と言われるように, 疾患頻度の把握は,
10 J. Vet. Epidemiol. 21 (1)8 15.2017 図 1 図 2 臨床上非常に重要な意味を持つ 品種別の比較では, 交絡因子としての年齢の影響を排除するために母集団の年齢構成を標準集団として各年齢の契約頭数の標準化を行ったうえで品種間の有病率の比較を行った その結果, 皮膚疾患におけるフレンチブルドッグが 53.8%( 犬全体は 22.9%), 眼科疾患におけるシーズー が 24.7%(9.3%), 循環器疾患におけるキャバリア キング チャールズ スパニエル 10.9%(2.1%), 腫瘍疾患におけるゴールデン レトリーバーが 9.2%(4.3%) と顕著に高い値を示した ( 図 4) ペットフード協会によれば日本で飼育される犬のうち 86.8% が純血種であるが, 我が国においては犬種の流行が数年ごとに移ろう傾向にある 犬種
小動物臨床現場で役立つ疫学の視点保険データを中心に見えてきたこと 11 図 3 図 4
12 J. Vet. Epidemiol. 21 (1)8 15.2017 図 5 図 6 によって好発疾患も異なってくるため, 犬種の流行により, 今後増加する疾患をある程度予測し備えておくことができるであろう 病気をなくす : 幼齢期対策 0 歳の若齢個体は身体の防御機能や認知機能がまだ十分 発達していないことから, 感染症や事故などの外的要因による疾患が多く発生する 犬の異物誤飲事故や骨折は 0 歳時点で多く, 成犬では発生が低下する ( 図 5) 犬が幼弱であるとともに, 飼育者も不慣れであることが考えられるため, 特にこの時期の子犬の飼育者への啓発が重要となる
小動物臨床現場で役立つ疫学の視点保険データを中心に見えてきたこと 13 図 7 図 8 また, 感染症や, 寄生虫およびそれらの症状での請求が多く見られることから, 飼育者や繁殖 販売業者に対しての衛生状態の指導など, より高める必要があることがわかる さらに, 異物誤飲事故は 12 1 月に, チョコレート中毒は 2 月に発生が多く見られる クリスマスやお正月, バレンタインなど家族のイベントが多くなる時期には犬猫の事故も増えるという事に注意する必要がある ( 図 6) 病気を減らす : シニア対策犬や猫も人間同様に高齢化が進んでいると言われている 2016 年ペットフード協会の調査によると,13 歳以降の割合は 18%,10 歳以上では 28% の割合を占めている シニア期にリスクが高まる病気としては腫瘍, 心臓病, 泌尿器である 近年では人医療で歯科疾患と, 全身性の生活習慣病との関連があるという研究が進んでおり, 糖尿病患者の口腔内治療が血糖コントロール補助的な役割をするとして注目されている 犬では歯科疾患との関連は心疾患と泌尿器疾患が報告されているのみであるが, 今後より研究が進むことが期待される また, 各疾患における犬種と年齢の 2 軸で傾向を見てみると, 例えば循環器疾患は犬全体では 5 歳以降に増加し始めるのに対して, キャバリアでは 3 歳を超えたころから早期に増加し始める ( 図 7) しかし, フレンチブルドッグの皮膚疾患では,0 歳から 50% を超
14 J. Vet. Epidemiol. 21 (1)8 15.2017 図 9 図 10 える有病率を示すなど全年齢にわたり犬全体よりも顕著に 高い ( 図 8) こういう情報をもとに, フレンチブルドッ クであれば全年齢にてまめに皮膚の全身的なチェックや目 のチェック, キャバリアであれば 3 歳を過ぎたころから心 臓病の検診を勧めるなど, 犬種の好発疾患と年齢ごとにカ スタマイズした健診メニューをデザインできるであろう
小動物臨床現場で役立つ疫学の視点保険データを中心に見えてきたこと 15 犬猫の健康寿命延伸にむけてペット保険加入犬の生命表を作成したところ,2014 年度に契約した犬の平均寿命は 13.7 歳であった 2008 年度にアニコム損保が開業して以降, 徐々に寿命が延びる傾向にあることがわかった ( 図 9) 1981 82 年の動物霊園のデータを基にした平均寿命が8.3 歳であったという事から, 約 30 年間で 5 年近く,1.7 倍, 寿命が延伸したことになる 人間で考えるとすると,20 歳近くは寿命が延びている計算である また, 保険データから推定した死亡原因として最も多かったのは腫瘍であり全体の 12%, 続いて循環器, 泌尿器疾患の順であった また, 原因別の死亡年齢の中央値では, 感染症が 0 歳, 寄生虫が 3 歳, 損傷や中毒が 7 歳, 腫瘍が 10 歳と年齢ごとに死因も異なっていることがわかる ( 図 10) 幼齢期は感染性の死亡が多いことから, 飼育環境中の衛生状態やワクチンを含む免疫向上についても, ま だまだ改善の余地があることがわかる 近年, ひとのエイジング研究のモデル動物として犬に注目が集まっている 老化に伴う自然発症の疾患や同一種内の品種の多様性, 飼主と同様の生活環境を持っていることなどの理由から, 研究結果をひとに外挿しやすいと考えられている 老化を遅延させる薬剤の研究やカロリー摂取と寿命の関係, 老化による筋肉量低下と寿命の関係などの報告がある 犬の寿命の研究は飼主の QOL 向上につながるとともに, 飼主の寿命延伸にもつながっていく可能性もある まとめ小動物における疫学というのはまだ新しい概念であるが,IT を活用してデータを収集し, 傾向を把握し, 対策を立てるという効率的な医療の可能性を秘めている 多くの臨床現場の獣医師にその概念が普及することで, より精度の高いデータ収集につながり, 日本の犬猫の健康増進に寄与できることを期待したい