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根 本 確 根 本 確 民 主 率 運 民 主 率 運 確 施 保 障 確 施 保 障 自 治 本 旨 現 資 自 治 本 旨 現 資 挙 管 挙 管 代 表 監 査 教 育 代 表 監 査 教 育 警 視 総 監 道 府 県 警 察 本 部 市 町 村 警 視 総 監 道 府 県 警 察 本 部

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はファクシミリ 装 置 を 用 いて 送 信 し 又 は 訪 問 する 方 法 により 当 該 債 務 を 弁 済 す ることを 要 求 し これに 対 し 債 務 者 等 から 直 接 要 求 しないよう 求 められたにもかか わらず 更 にこれらの 方 法 で 当 該 債 務 を 弁 済 するこ

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Transcription:

Title 国 立 青 島 大 学 という 物 語 : 彼 女 が 李 雲 鶴 だった 頃 Author(s) 杉 村, 安 幾 子 Citation 言 語 文 化 論 叢 = Studies of Language and Cu Issue Date 2016-03-30 Type Departmental Bulletin Paper Text version publisher URL http://hdl.handle.net/2297/45121 Right *KURAに 登 録 されているコンテンツの 著 作 権 は, 執 筆 者, 出 版 社 ( 学 協 会 )などが 有 します *KURAに 登 録 されているコンテンツの 利 用 については, 著 作 権 法 に 規 定 されている 私 的 使 用 や 引 用 などの 範 囲 内 で 行 ってください * 著 作 権 法 に 規 定 されている 私 的 使 用 や 引 用 などの 範 囲 を 超 える 利 用 を 行 う 場 合 には, 著 作 権 者 の 許 諾 を 得 てください ただし, 著 作 権 者 から 著 作 権 等 管 理 事 業 者 ( 学 術 著 作 権 協 会, 日 本 著 作 出 版 権 管 理 システムなど)に 権 利 委 託 されているコンテンツの 利 用 手 続 については, 各 著 作 権 等 管 理 事 業 者 に 確 認 してください http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspac

179 国 立 青 島 大 学 という 物 語 彼 女 が 李 雲 鶴 だった 頃 杉 村 安 幾 子 1. 序 チンタオ 紅 い 瓦 に 緑 の 木 々 紺 碧 の 海 に 青 い 空 山 東 省 青 島 を 訪 れる 者 の 耳 目 に 必 ず 触 れる 青 島 を 形 容 するこの 一 文 は 康 有 為 (Kang Youwei 1857-1927) が 言 ったとされている 1 実 の 所 康 有 為 の 言 かどうかについては 出 典 が 明 ら かでなく 疑 義 もあるようだが 青 島 の 形 容 としては 簡 にして 要 を 得 たもの であるため 広 く 人 口 に 膾 炙 している 青 島 は 中 国 が 世 界 に 誇 るドメスティックブランドである 青 島 ビールと 異 国 情 緒 溢 れるビーチリゾートゆえに 知 名 度 の 高 い 都 市 であるが その 知 名 度 の 高 さとは 裏 腹 に 都 市 としての 歴 史 は 長 くない ドイツが 膠 州 湾 を 当 時 の 清 朝 政 府 から 租 借 した 1898 年 3 月 初 めて 青 島 の 名 が 中 国 史 に 浮 上 してき たのである 厳 密 に 言 えば 青 島 郊 外 の 嶗 山 の 風 光 が 唐 代 の 詩 や 明 代 の 随 筆 に 称 えられたり 2 明 代 には 膠 州 湾 の 倭 寇 対 策 として 青 島 に 浮 山 所 という 要 塞 が 設 置 されたりなど 3 青 島 に 関 する 記 載 を 史 書 に 見 出 せない 訳 ではないが ドイツの 発 見 まで 青 島 は 辺 鄙 な 海 浜 漁 村 に 過 ぎなかったと 言 って 良 い 4 1897 年 から 1914 年 までのドイツ 5 1914 年 から 1922 年 及 び 1937 年 から 1945 年 までの 日 本 による 租 借 という 名 の 植 民 地 支 配 を 経 て 当 初 は 湾 に 浮 か ぶ 小 島 の 名 であった 青 島 は 近 代 都 市 へと 貌 を 変 えていった 青 島 が 当 時 の 中 国 において インフラや 医 療 衛 生 面 の 整 備 商 工 業 施 設 や 初 中 等 学 校 の 設 立 メディア 状 況 などの 面 で 都 市 として 破 格 に 優 れていたことは 青 島 守 備 軍 民 政 署 編 青 嶋 要 覧 (1921)と 同 民 政 署 の 事 務 官 であった 泉 對 信 之 助

180 著 青 島 二 年 (1922)に 詳 しい 6 ドイツによる 青 島 の 割 譲 や 植 民 地 支 配 は 無 論 帝 国 主 義 の 謗 りを 免 れ 得 まいが ドイツの 都 市 建 設 は 現 代 の 都 市 計 画 の 見 地 からも 優 れたものであり 後 続 宗 主 国 であった 日 本 の 絶 賛 を 受 けるほ どであった しかし 都 市 としての 歴 史 の 短 さは 即 ち 端 的 に 文 学 的 にもほぼ 空 白 であっ たことを 意 味 する 青 島 が 中 国 文 学 史 上 一 気 に 名 を 挙 げ 且 つ 留 めることに なったのは 1930 年 の 国 立 青 島 大 学 の 創 立 が 契 機 であった 青 島 大 学 の 初 代 校 長 であった 楊 振 声 (Yang Zhensheng 1890-1956) 7 は 建 学 の 精 神 に 科 学 と 民 主 を 掲 げ 留 学 帰 りの 著 名 な 文 人 学 者 を 招 聘 して 教 授 陣 に 据 えた 1930 年 はそれまで 毫 も 注 目 されてこなかった 青 島 という 都 市 が 文 化 空 間 として 中 国 史 に 躍 り 出 た 瞬 間 であった 上 述 の 康 有 為 の 言 とされる 形 容 も 単 に 美 し い 風 景 としてではなく 文 化 空 間 でもあった 近 代 都 市 を 表 象 するものとして も 機 能 したに 違 いない 1931 年 春 1 人 の 17 歳 の 少 女 がこの 青 島 大 学 に 現 れる 山 東 省 諸 城 の 出 身 で 名 を 李 雲 鶴 という 長 身 で 眼 の 大 きい 美 しい 少 女 であった 彼 女 は 曾 ての 恩 師 であり 当 時 青 島 大 学 の 教 務 長 をしていた 趙 太 侔 (Zhao Taimou 1889-1968)を 頼 り 青 島 大 学 の 図 書 館 事 務 員 の 職 を 得 る 午 前 中 は 大 学 で 授 業 を 聴 講 し 午 後 は 図 書 館 で 働 くという 生 活 の 中 で 李 雲 鶴 は 多 くの 文 人 の 知 遇 を 得 エリート 青 年 との 恋 愛 も 経 験 する 彼 女 の 青 島 でのこうした 経 験 は 結 果 的 に 彼 女 自 身 と 国 家 としての 中 国 の 運 命 を 文 字 通 り 大 きく 変 えること になった この 少 女 こそ 後 に 文 化 大 革 命 を 主 導 し 呂 后 や 西 太 后 と 並 んで 中 国 史 上 突 出 した 悪 女 と 見 なされるようになった 毛 沢 東 第 四 夫 人 江 青 (Jiang Qing 1914-1991)である 本 稿 では 少 女 李 雲 鶴 を 通 して 文 化 都 市 青 島 と 国 立 青 島 大 学 における 文 学 状 況 を 概 観 する あくまで 結 果 論 に 過 ぎないにしても 江 青 が 文 革 以 前 にも 中 国 現 代 文 学 史 に 深 く 密 接 に 関 わっていたことが 明 らかになるはずである 青 島 での 様 々な 文 学 的 事 象 が 後 の 江 青 の 暴 虐 としか 呼 びようのない 一 連 の 所 業 につながっていく 過 程 は 憤 りを 通 り 越 して 何 故 そこまでという 純 粋 な 疑 問 を 呼 ぶが ひとまずそのことの 是 非 は 問 わない 江 青 が 藍 蘋 という 芸 名

181 で 女 優 として 活 躍 する 以 前 ただの 李 雲 鶴 だった 頃 を 以 下 に 追 っていこう 2. 国 立 青 島 大 学 の 設 立 青 島 の 実 質 的 支 配 者 であったドイツ 総 督 府 は 1908 年 初 中 等 学 校 の 設 立 に 次 いで より 高 次 の 教 育 レベルを 求 めて 大 学 の 創 立 を 企 図 した 古 い 兵 営 を 利 用 して 寄 宿 舎 や 校 舎 とし 1909 年 10 月 青 島 特 別 高 等 専 門 学 堂 通 称 徳 華 大 学 が 開 校 する 経 営 は 清 国 ドイツ 両 政 府 の 共 同 により 中 国 初 の 中 外 合 資 大 学 であった 設 立 学 科 は 法 政 医 学 工 学 農 林 の 4 分 野 卒 業 生 は 中 国 の 他 大 学 卒 業 生 と 同 等 の 資 格 を 得 られた 授 業 科 目 には 実 用 的 なものが 多 く 設 置 され 実 験 室 や 実 習 場 など 教 学 設 備 も 整 い 卒 業 後 の 進 路 も 安 定 して いたため 徳 華 大 学 は 年 を 追 うごとに 入 学 希 望 者 が 増 加 していく 卒 業 生 は 西 洋 医 学 法 律 機 械 電 気 工 学 採 鉱 林 業 など それまでの 中 国 では 人 材 が 不 足 していた 方 面 で 即 戦 力 として 世 に 供 給 されていき 清 朝 政 府 もそれ を 歓 迎 していた 青 島 の 近 代 教 育 はこの 徳 華 大 学 を 以 て 開 創 とする しかし 1914 年 第 一 次 世 界 大 戦 が 勃 発 徳 華 大 学 は 学 生 教 職 員 教 学 設 備 もろとも 上 海 へ 移 転 し 上 海 同 済 大 学 に 吸 収 合 併 された 8 その 後 ドイツの 撤 退 によって 青 島 の 統 治 権 が 日 本 に 移 り 青 島 守 備 軍 民 政 署 は 青 島 商 科 大 学 の 設 立 を 計 画 する 元 ドイツ 陸 軍 庁 舎 を 校 舎 に 利 用 し 運 営 費 は 日 華 実 業 協 会 が 負 担 するなど 開 校 に 向 けた 具 体 的 な 動 きはあった ものの 1922 年 に 青 島 が 中 国 に 返 還 されたことで 青 島 商 科 大 学 の 設 立 は 実 現 されずに 終 わった 徳 華 大 学 の 上 海 移 転 や 青 島 商 科 大 学 の 企 画 倒 れによって 青 島 に 高 等 教 育 機 関 がないまま 10 年 近 くが 過 ぎた 1924 年 膠 澳 商 埠 総 督 に 就 任 した 高 恩 洪 (Gao Enhong 1875-1928)は 私 立 青 島 大 学 創 立 に 向 けて 私 立 青 島 大 学 理 事 会 を 組 織 する 理 事 会 には 梁 啓 超 蔡 元 培 黄 炎 培 が 名 誉 理 事 として 名 を 連 ね ていた 同 年 9 月 商 科 と 工 科 の 2 学 科 が 開 設 された 私 立 青 島 大 学 が 創 立 校 長 は 膠 澳 商 埠 総 督 との 兼 任 の 形 で 高 恩 洪 が 担 当 した 中 国 人 学 生 だけでな く 日 本 や 朝 鮮 マレーシアからの 学 生 もおり 教 員 にはアメリカや 日 本 へ

182 の 留 学 経 験 者 も 多 く 含 まれており 1926 年 には 鉄 道 管 理 科 も 増 設 されたが そのわずか 2 年 後 の 1928 年 に 廃 校 の 憂 き 目 を 見 る 実 は 24 年 の 第 二 次 直 奉 戦 争 における 直 隷 派 の 敗 走 を 受 け 自 身 も 直 隷 派 であった 高 恩 洪 が 政 界 を 引 退 大 学 経 営 からも 手 を 引 いていた 後 任 の 宋 伝 典 (Song Chuandian 1875-1930) が 奔 走 するも 国 内 の 政 治 的 混 乱 の 中 学 生 と 教 職 員 の 青 島 大 学 離 れを 食 い 止 めることは 出 来 ず 25 年 には 翌 年 の 学 生 募 集 を 停 止 していたのであった 1929 年 6 月 4 日 南 京 国 民 政 府 行 政 院 第 26 回 会 議 において 国 立 青 島 大 学 創 建 議 案 が 通 過 し 教 育 部 は 省 立 山 東 大 学 と 私 立 青 島 大 学 を 合 併 させ 国 立 青 島 大 学 とした 続 いて 6 月 12 日 国 立 青 島 大 学 創 立 準 備 委 員 会 が 組 織 さ れる メンバーは 以 下 の 9 人 であった 蔡 元 培 (Cai Yuanpei 1868-1940) 浙 江 省 出 身 ベルリン 大 学 ライプチヒ 大 学 留 学 元 北 京 大 学 校 長 国 立 中 央 研 究 院 院 長 国 民 党 中 央 監 察 院 院 長 王 近 信 (Wang Jinxin 生 没 年 不 詳 ) 山 東 省 出 身 (?) アメリカ 留 学 山 東 省 教 育 庁 秘 書 主 任 彭 百 川 (Peng Baichuan 1896-1954) 江 西 省 出 身 北 京 大 学 卒 スタンフォード 大 学 コロンビア 大 学 留 学 山 東 省 教 育 庁 科 長 趙 太 侔 山 東 省 出 身 北 京 大 学 卒 コロンビア 大 学 留 学 山 東 実 験 劇 院 院 長 何 思 源 (He Siyuan 1896-1982) 山 東 省 出 身 北 京 大 学 卒 シカゴ 大 学 セントルイス 大 学 ベルリ ン 大 学 パリ 大 学 留 学 国 民 党 山 東 省 政 府 委 員 兼 教 育 庁 庁 長 袁 家 普 (Yuan Jiapu 1873-1933) 湖 南 省 出 身 早 稲 田 大 学 留 学 山 東 省 財 政 庁 庁 長 傅 斯 年 (Fu Sinian 1896-1950) 山 東 省 出 身 北 京 大 学 卒 ロンドン 大 学 ベルリン 大 学 留 学 中 央 研 究 院 歴 史 語 言 研 究 所 所 長 北 京 大 学 教 授 楊 振 声

183 山 東 省 出 身 北 京 大 学 卒 コロンビア 大 学 ハーバード 大 学 留 学 清 華 大 学 文 学 院 院 長 杜 光 塤 (Du Guangxun 1901-1975) 山 東 省 出 身 北 京 大 学 予 科 卒 コロンビア 大 学 留 学 教 育 部 高 等 教 育 司 司 長 ( 不 詳 ) 上 記 の 一 覧 から 明 確 に 指 摘 できるのは 山 東 省 出 身 者 と 北 京 大 学 の 卒 業 生 留 学 先 が 米 国 コロンビア 大 学 であった 者 が 多 いという 3 点 である 中 国 人 は 外 国 では 同 郷 を 頼 って 生 活 することが 多 いため 同 郷 人 が 同 一 大 学 に 留 学 す るのは 珍 しいことではなく 寧 ろ 当 然 の 流 れでもある 出 身 地 閥 と 学 閥 が 重 層 的 に 絡 み 合 った 人 選 と 言 えるだろう この 創 立 準 備 委 員 会 で 校 舎 の 拡 充 教 職 員 の 組 織 予 算 や 経 費 院 系 ( 学 部 学 科 ) 設 置 などについて 話 し 合 われる 中 7 月 に 楊 振 声 が 校 長 に 内 定 した 9 月 16 日 国 立 青 島 大 学 が 開 学 当 時 北 京 の 清 華 大 学 文 学 院 院 長 でもあっ た 楊 振 声 は 授 業 や 会 議 と 平 行 して 青 島 大 学 開 学 の 準 備 に 携 わっており 多 忙 を 極 めていた 1930 年 4 月 28 日 南 京 国 民 政 府 により 正 式 に 楊 振 声 の 国 立 青 島 大 学 校 長 就 任 が 発 令 された 文 学 院 外 文 系 主 任 兼 図 書 館 長 であった 梁 実 秋 (Liang Shiqiu 1903-1987)は 次 のように 回 想 している 楊 金 甫 ( 振 声 ) は 北 京 大 学 出 身 で 当 時 教 育 部 には 知 り 合 いが 少 なからずいた 同 時 に 彼 は 山 東 出 身 でもあり 教 育 庁 の 人 とも 関 係 があった ゆえに 彼 が 校 長 になっ たのは 適 当 である しかも 彼 は 性 格 が 温 和 で 口 数 少 なく 度 量 が 広 い ゆえ に 教 育 部 とも 教 育 庁 ともうまくやれ 最 初 は 互 いにいざこざがなくいられた のだ 9 1930 年 7 月 青 島 済 南 北 平 の 3 箇 所 に 分 けて 学 生 募 集 がなされ 入 学 試 験 が 行 われた 入 学 資 格 は 1 年 次 入 学 希 望 者 が 日 本 の 中 学 相 当 の 高 級 中 学 の 卒 業 生 或 いは 大 学 予 科 卒 業 生 2 年 次 入 学 希 望 者 が 大 学 本 科 を 1 年 以 上 在 籍 した 者 とし 第 一 期 生 の 対 象 専 攻 は 文 学 院 ( 中 国 文 学 系 外 国 文 学 系 教 育 学 系 ) 理 学 院 ( 数 学 系 物 理 学 系 化 学 系 生 物 学 系 )の 2 学 院 7 系 で あった 教 育 学 系 は 翌 年 には 教 育 学 院 ( 教 育 行 政 系 郷 村 教 育 系 )に 拡 充 さ れ 3 学 院 8 系 となる

184 9 月 19 日 国 立 青 島 大 学 が 正 式 に 成 立 翌 日 の 9 月 20 日 午 前 9 時 大 学 内 の 大 礼 堂 で 開 学 の 式 典 が 催 され 第 一 期 入 学 生 と 2 年 次 編 入 生 計 170 余 人 及 び 校 長 楊 振 声 中 央 研 究 院 院 長 蔡 元 培 教 務 長 張 道 藩 (Zhang Daofan 1897-1968) 山 東 省 党 部 代 表 何 思 源 らが 出 席 した また 第 一 期 入 学 生 には 後 に 詩 人 として 名 を 馳 せる 臧 克 家 (Zang Kejia 1905-2004)がいた 翌 年 の 国 立 青 島 大 学 週 刊 創 刊 号 には 楊 振 声 による 開 学 の 挨 拶 校 長 報 告 が 掲 載 された 楊 振 声 は 経 費 不 足 を 示 しつつも 図 書 館 や 化 学 設 備 及 び 実 験 室 体 育 施 設 の 充 実 を 掲 げ 海 洋 学 の 創 設 を 目 指 し このようにすれ ば 青 島 大 学 は 海 洋 生 物 学 研 究 の 中 心 となるであろう と 予 言 した 10 青 島 が 膠 州 湾 に 面 しているという 地 の 利 を 活 かした 海 洋 学 への 着 眼 は 現 在 の 国 立 中 国 海 洋 大 学 へとつながっていく 楊 振 声 は 教 育 の 重 要 性 を 諄 々と 説 いて 校 長 報 告 を 締 め 括 っている また 楊 振 声 は 自 らの 出 身 大 学 である 北 京 大 学 を 標 榜 し 兼 容 并 包 ( 多 く の 事 柄 を 包 括 包 容 する) 学 術 自 由 と 科 学 民 主 を 大 学 運 営 の 中 心 に 据 え 当 時 の 著 名 な 文 人 学 者 を 教 授 陣 として 招 聘 した 例 えば シカゴ 美 術 学 院 やコロラド 大 学 で 学 び 詩 集 紅 燭 (1923)で 詩 人 として 注 目 を 集 め ていた 聞 一 多 (Wen Yiduo 1899-1946)は 文 学 院 院 長 兼 中 文 系 主 任 ハーバー ド 大 学 で 学 んだ 梁 実 秋 は 文 学 院 外 文 系 主 任 兼 図 書 館 長 趙 太 侔 は 教 務 長 兼 中 文 系 教 授 新 進 作 家 として 活 躍 中 であった 沈 従 文 (Shen Congwen 1902-1988) とウィスコンシン 大 学 で 学 んだ 方 令 孺 (Fang Lingru 1897-1976)は 文 学 院 中 文 系 講 師 若 き 詩 人 陳 夢 家 (Chen Mengjia 1911-1966)は 文 学 院 中 文 系 助 教 コロンビア 大 学 で 教 育 学 の 博 士 号 を 取 得 した 教 育 学 者 黄 敬 思 (Huang Jingsi 1897-1982)は 教 育 学 院 院 長 兼 教 育 行 政 系 主 任 シカゴ 大 学 で 学 んだ 数 学 者 黄 際 遇 (Huang Jiyu 1885-1945)は 理 学 院 院 長 兼 数 学 系 主 任 ベルリン 大 学 で 学 んだインドネシア 華 僑 湯 騰 漢 (Tang Tenghan 1900-1988)は 化 学 系 主 任 フランスとスイスで 学 んだ 農 業 昆 虫 学 者 曾 省 (Zeng Sheng 1899-1968)は 生 物 学 系 主 任 であった その 他 既 述 の 蔡 元 培 や 哲 学 者 馮 友 蘭 (Feng Youlan 1895-1990) 歴 史 学 者 でもあり 民 俗 学 者 でもあった 顧 頡 剛 (Gu Jiegang 1893-1980)らが 講 演 に 招 かれた こうした 綺 羅 星 の 如 き 教 員 の 布 陣 は 設 立

185 したばかりの 青 島 大 学 の 教 育 研 究 水 準 を 一 気 に 全 国 レベルへと 引 き 上 げた のみならず 青 島 を 文 学 文 化 的 一 大 陣 地 に 押 し 上 げたのであった 11 3. 青 島 大 学 の 日 々 江 青 は 1914 年 3 月 山 東 省 諸 城 の 貧 しい 工 人 の 家 庭 に 生 まれた 生 まれ 月 が 3 月 であるのは 確 かなようだが 出 生 日 については 本 人 が 語 っておらず 或 いは 本 人 も 把 握 していなかったかもしれない 実 は そもそも 生 年 につい ても 諸 説 あり 出 身 地 も 諸 城 ではなく 同 じ 山 東 省 の 益 都 であるとの 説 もあ る 幼 名 は 李 進 或 いは 欒 淑 蒙 であったと 言 われているが 少 女 時 代 には 母 親 の 姓 であった 李 を 名 乗 るようになる このように 江 青 のプロフィールに 関 しては 不 明 な 点 が 多 く また 数 種 あ る 江 青 評 伝 も 江 青 に 対 する 著 者 の 評 価 や 好 悪 の 感 が 反 映 され 過 ぎており 史 実 と 主 観 の 違 いを 見 分 けるのが 困 難 でもある 今 後 の 研 究 の 成 果 に 俟 ちたい が とりあえず 本 稿 においては 自 伝 に 拠 り 他 史 料 で 確 認 しつつ 彼 女 の 青 島 での 日 々を 見 ていくことにする 12 自 伝 こそ 最 も 根 拠 には 出 来 ない 資 料 で はないかとの 指 摘 もあるだろうが 少 女 李 雲 鶴 の 眼 に 青 島 大 学 がどのように 映 っていたかの 参 考 にはなるだろう なお 毛 沢 東 夫 人 江 青 の 誕 生 以 前 の 時 期 であるため 以 下 青 島 大 学 での 江 青 については 李 雲 鶴 の 名 を 用 い 後 の 江 青 とは 区 別 する 李 雲 鶴 は 幼 い 時 貧 しい 生 活 の 中 で 暴 力 を 振 るう 父 親 の 許 から 母 親 と 共 に 逃 げ 出 している 母 親 が 没 落 地 主 の 家 で 職 を 得 たため 李 雲 鶴 も 小 学 校 に 通 うことが 出 来 た 1927 年 母 と 共 に 天 津 にいる 姉 の 許 に 身 を 寄 せ 学 業 を 続 けることを 希 望 したが 天 津 の 学 校 の 学 費 が 高 かったために 叶 わずに 終 わる 李 雲 鶴 の 正 規 の 学 業 は 結 局 小 学 校 が 最 後 となる 1929 年 母 姉 夫 婦 と 山 東 の 省 都 である 済 南 へ 移 り 叔 父 の 家 に 寄 寓 する そこで 李 雲 鶴 は 山 東 省 立 実 験 劇 院 に 入 学 した 正 規 の 入 学 資 格 はなかったが 女 子 学 生 が 少 なかったために 入 学 することが 出 来 たのである 1928 年 に 創 立 したばかりの 実 験 劇 院 は 教 育 庁 直 属 であったため 寄 宿 制 で 学 費 生 活 費 が

186 免 除 されており 李 雲 鶴 はそこで 新 劇 古 典 劇 古 典 音 楽 を 学 んだ この 頃 一 回 目 の 結 婚 をしたが すぐに 離 婚 西 北 軍 閥 の 韓 復 榘 (Han Fuju 1890-1930) が 山 東 省 政 府 主 席 になったことにより 実 験 劇 院 はわずか 1 年 で 閉 鎖 に 追 い 込 まれた 実 験 劇 院 の 教 員 と 学 生 は 劇 団 を 組 織 し 北 京 へ 向 かい 李 雲 鶴 もそ れに 参 加 するが 北 京 での 生 活 は 相 当 苦 しかったようである 李 雲 鶴 は 北 京 での 生 活 に 見 切 りをつけ 青 島 を 訪 れた 私 は 多 分 1931 年 の 初 春 に 青 島 に 行 ったと 思 う 青 島 は 寒 く 湿 っぽかった 冷 たい 霧 といかにも 港 らしい 潮 の 香 りのする 海 風 を 大 変 珍 しく 感 じた 以 前 師 事 していた 趙 という 先 生 が 紹 介 してくれて 青 島 へ 行 ったのだ 彼 は 私 の 隣 人 でも あった 彼 は 曾 て 済 南 実 験 劇 院 で 監 督 をしていたのだ 今 は 青 島 大 学 のある 学 院 の 院 長 で 同 時 に 又 文 学 系 の 教 授 でもあった そういった 関 係 もあったので 彼 は 私 のために 青 島 大 学 の 聴 講 生 の 手 続 きをし てくれた 彼 は 将 来 青 島 大 学 に 演 劇 系 を 設 立 するのだと 語 っており 私 に 路 銀 を 貸 してもくれた 私 は 元 々 青 島 へ 行 きたくはなく 家 に 戻 って 女 工 になりたい と 簡 単 に 考 えていた 後 に 同 級 生 や 友 人 が 私 に 行 くように 勧 めたので 行 ったのだ 私 は 海 辺 の 町 で 生 まれ 育 ったのだが 青 島 で 初 めて 海 を 見 て 跳 び 上 がらんばかり に 嬉 しかった 13 済 南 実 験 劇 院 で 監 督 をしていた 趙 という 先 生 が 趙 太 侔 である 趙 太 侔 は 山 東 省 立 実 験 劇 院 院 長 であったが 2で 見 たように 1929 年 から 青 島 大 学 創 立 準 備 委 員 会 の 委 員 でもあり 大 学 創 立 後 は 教 務 長 兼 中 文 系 教 授 を 務 めて いた 江 青 は 趙 という 先 生 が 紹 介 してくれて と 述 べているが 別 の 見 方 もある 校 長 楊 振 声 の 息 子 楊 起 は 趙 先 生 が 青 島 大 学 に 来 ると 李 雲 鶴 が 済 南 から 青 島 まで 趙 先 生 を 頼 って 来 た 父 は 当 時 趙 先 生 と 一 緒 に 暮 らしてい たのだが 李 雲 鶴 もしょっちゅう 我 が 家 を 訪 問 していた 14 と 回 想 している 李 雲 鶴 は 趙 太 侔 の 紹 介 で 青 島 大 学 の 図 書 館 員 になった 私 は 大 学 の 教 職 員 の 隊 伍 に 加 わり 図 書 館 の 職 員 になった 仕 事 は 図 書 カード

187 を 書 くことであった 同 時 に 大 学 で 授 業 の 聴 講 を 続 けていた 毎 月 私 は 30 元 稼 いだが 母 親 に 10 元 仕 送 りをしていた 青 島 での 生 活 費 はひどく 高 く 手 元 に 残 っ た 20 元 では 出 費 に 追 いつかなかった 中 華 民 国 二 十 年 度 国 立 青 島 大 学 一 覧 を 繰 ると 学 生 姓 名 録 の 旁 聴 生 ( 聴 講 生 ) 欄 の 筆 頭 に 李 雲 鶴 の 名 を 見 出 すことができる 学 籍 番 号 姓 名 性 別 本 籍 連 絡 先 の 順 で A 一 李 雲 鶴 女 山 東 諸 城 済 南 按 擦 司 街 七 十 五 号 とある 名 簿 で 隣 に 名 を 連 ねている A 二 沈 岳 萌 女 湖 南 鳳 凰 湖 南 鳳 凰 県 西 門 上 とは 沈 従 文 の 妹 であった 校 長 楊 振 声 の 要 請 を 受 けて 1931 年 8 月 に 青 島 大 学 に 着 任 した 沈 従 文 は 妹 を 伴 っていたのである 月 給 30 元 に 関 しては 江 青 の 記 憶 は 正 しい 国 立 青 島 大 学 中 華 民 国 二 十 一 年 度 教 職 員 録 に 拠 ると 当 時 の 校 長 趙 太 侔 が 520 元 教 務 長 であった 杜 光 塤 や 図 書 館 長 であった 梁 実 秋 は 400 元 講 師 であった 沈 従 文 は 150 元 そして 職 務 書 記 で 年 齢 二 十 五 の 李 雲 鶴 は 30 元 であった この 書 記 に 関 しては 詳 しい 記 述 はないが 他 に 図 書 館 事 務 員 図 書 館 助 理 員 とい う 職 名 があり それらの 職 にあった 者 達 の 月 給 がそれぞれ 60 元 50 元 であっ たことに 鑑 みると 李 雲 鶴 はアルバイトかパートタイマーであったのではな いかと 推 察 される また 李 雲 鶴 の 生 年 が 不 詳 とは 言 え 二 十 五 という 年 齢 は 明 らかに 間 違 っている 単 純 な 誤 記 でなければ 虚 偽 申 告 されていたと いうことであろう 李 雲 鶴 の 青 島 大 学 での 授 業 の 聴 講 は 以 下 のようであった 青 島 大 学 における 私 の 文 学 の 先 生 の 第 一 は 聞 一 多 である 唐 詩 小 説 戯 劇 それに 中 国 文 学 史 を 教 えてくれた もう 一 人 は 楊 振 声 で 当 時 青 島 大 学 の 校 長 だった 小 説 玉 君 の 作 者 である それから 方 令 孺 という 女 性 講 師 彼 らは 皆 アメリカ 留 学 組 だった 楊 振 声 は 主 にどうやって 創 作 するかを 教 えてくれた 彼 の 授 業 で 私 は 初 めて 短 篇 小 説 を 書 いた 先 生 は 私 のその 小 説 を 非 常 に 気 に 入 り 褒 めてくれ まるで 謝 冰 心 のようで クラスで 1 番 だと 言 った 彼 の 賞 賛 を 聞 いて 私 は 恥 ずかしく

188 感 じた しかし 先 生 は 李 さん 君 の 描 いた 強 盗 は 礼 儀 正 し 過 ぎるよ 強 盗 が 罵 る 時 には コン 畜 生 しか 言 わないだろうと 批 判 もした これは 今 でも 使 う 無 駄 のない 簡 潔 な 言 葉 で 強 盗 にとっては 荒 っぽさが 足 りない 彼 のこうした 批 評 を 受 けて 私 はそれっきり 彼 の 授 業 には 行 かなかった その 時 期 私 が 主 にしていたのは 戯 曲 を 書 くことだった 多 分 1931 年 の 後 半 だったと 思 うが タイトルは 誰 の 罪 か だった 若 い 革 命 者 と 彼 の 病 気 がち の 母 親 が 互 いに 助 け 合 って 生 きている 様 を 描 いたものだ 正 規 の 学 生 ではない 聴 講 生 とはいえ 授 業 の 聴 講 にはかなり 熱 心 であった ことがわかる 上 記 の 引 用 にある 聞 一 多 楊 振 声 は 当 時 相 当 高 名 であった また 沈 従 文 については 次 のように 回 想 している 私 は 沈 従 文 の 授 業 にも 出 ていた 当 時 彼 は 青 島 大 学 で 小 説 について 講 義 をし ていたのだ 沈 従 文 は 私 を 気 に 入 っており 彼 の 妹 沈 舟 舟 を 通 じて 私 に 毎 週 1 篇 短 篇 小 説 を 書 くように 言 い 彼 はそれを 添 削 してくれた 彼 の 妹 は 私 と 一 緒 に 住 んでいたので しょっちゅう 私 に 彼 らの 家 に 来 るように 言 った 明 らかに 私 の 文 学 的 才 能 は 沈 従 文 に 強 い 印 象 を 与 えたのだろう 彼 が 私 を 招 待 してくれるのは 真 面 目 なものだった それでも 私 は 1 回 も 行 かなかった 私 は 貧 しく 沈 家 は 裕 福 だったからだ 彼 の 妹 は 私 の 家 が 貧 しいと 知 っており 私 に 沈 従 文 のセー ターを 編 ませ 彼 らが 私 に 高 いお 駄 賃 をくれるように 考 えたのだが 私 は 拒 否 し た 沈 従 文 は 当 時 まだ 若 手 作 家 に 過 ぎなかったが 江 青 が 青 島 時 代 を 回 想 した 1970 年 代 には 既 に 中 国 現 代 文 学 史 上 欠 くべからざる 存 在 の 作 家 であった 15 当 時 沈 従 文 は 政 治 面 での 紆 余 曲 折 ゆえに 創 作 活 動 から 離 れていたが 毛 沢 東 周 恩 来 に 小 説 の 執 筆 を 強 く 勧 められていたという 背 景 を 知 ると 16 江 青 が 沈 従 文 に 関 する 回 想 を 殊 更 披 歴 した 理 由 も 想 像 に 難 くない 沈 従 文 の 幽 僻 的 陳 荘 題 記 (1935)には 21 年 私 はある 大 学 で 小 説 習 作 を 教 えていた 最 初 は 25 人 ほどが 熱 心 に 受 講 に 来 ていたが 後 にだんだ

189 ん 少 なくなり 1 年 後 にはわずか 5 人 しか 残 らなかった 5 人 のうち 2 人 は 聴 講 生 である 17 とある 21 年 とは 民 国 21 年 即 ち 1932 年 を 指 し ある 大 学 とは 国 立 青 島 大 学 を 指 す そして 彼 の 2 人 の 聴 講 生 のうちの 1 人 が 李 雲 鶴 であった 江 青 自 身 が 語 るように 彼 女 の 文 学 的 才 能 が 沈 従 文 の 関 心 を 惹 いたかどうかは 不 明 だが 前 掲 の 引 用 と 併 せても 李 雲 鶴 が 文 学 創 作 に 熱 心 であったことは 間 違 いなく 青 島 大 学 での 2 年 間 私 は 小 説 と 詩 歌 が 大 好 きになり また 翻 訳 された 外 国 の 詩 歌 も 好 きだった 広 く 外 国 の 古 代 詩 歌 を たくさん 読 んだものだ 当 時 私 は 若 く 詩 詞 を 書 いたこともあるし 出 版 を 考 えもした 散 文 も 書 いて 発 表 したものもある という 江 青 の 回 想 はあな がち 誇 張 でもない 実 際 李 雲 鶴 は 1934 年 から 張 淑 貞 もしくは 淑 貞 の 筆 名 で 短 篇 小 説 を 何 編 か 発 表 してもいる 18 向 上 心 に 満 ち 溢 れた 李 雲 鶴 の 前 に 兪 啓 威 (Yu Qiwei 1912-1958 後 に 黄 敬 と 改 名 )という 青 年 が 現 れたのも 1931 年 である 兪 の 名 は 江 青 の 回 想 に は 直 接 言 及 されることはない 青 島 大 学 物 理 学 系 で 学 ぶ 品 行 方 正 且 つ 優 秀 な 青 年 であった 兪 啓 威 は 清 末 の 官 僚 を 祖 父 に 持 ち 曽 国 藩 の 孫 娘 を 祖 母 に 持 つ 名 家 の 出 身 で 共 産 党 の 地 下 組 織 でも 活 動 し 大 学 では 愛 国 青 年 団 を 組 織 する 学 生 リーダーでもあった 兪 啓 威 の 姉 兪 珊 (Yu Shan 1908-1968)は 青 島 大 学 教 務 長 趙 太 侔 の 妻 であり 南 京 の 金 陵 大 学 卒 業 後 上 海 の 演 劇 界 で 活 躍 していたスター 女 優 である そもそも 趙 太 侔 を 頼 って 青 島 に 来 た 李 雲 鶴 は 趙 の 家 をたびたび 訪 れており 女 優 になりたいという 夢 があったために 兪 珊 に 憧 れ 兪 珊 も 彼 女 を 可 愛 がっていた 李 雲 鶴 と 兪 啓 威 が 知 り 合 う 素 地 はあったのである 李 雲 鶴 は 育 ちが 良 く 弁 も 立 つインテリ 青 年 に 急 速 に 惹 か れていき 出 自 の 良 さを 一 種 のコンプレックスに 感 じていたであろう 兪 啓 威 は 労 働 者 階 級 出 身 の 向 学 心 旺 盛 な 美 少 女 に 魅 力 を 感 じ 2 人 はすぐに 恋 愛 関 係 になった 1931 年 9 月 18 日 日 本 の 関 東 軍 が 満 洲 の 奉 天 で 南 満 州 鉄 道 の 線 路 を 爆 破 満 州 事 変 の 口 火 を 切 る この 柳 条 湖 事 件 以 降 中 国 全 土 で 抗 日 の 嵐 が 吹 き 荒 れ 始 め 青 島 大 学 の 左 翼 学 生 達 も 共 産 党 地 下 組 織 の 指 導 の 下 で 愛 国 抗 日 活 動 を 展 開 した その 先 頭 に 立 ったのが 兪 啓 威 であった 熱 心 に 抗 日 活 動 をする

190 兪 啓 威 は 1932 年 初 頭 中 国 共 産 党 に 入 党 する 李 雲 鶴 も 兪 啓 威 の 多 大 な 影 響 を 受 け 兪 を 紹 介 者 として 入 党 申 請 したが 兪 と 恋 愛 関 係 にあることで 正 式 入 党 は 認 められなかった その 頃 上 海 で 左 翼 戯 劇 家 連 盟 が 誕 生 しており それに 呼 応 する 形 で 兪 啓 威 を 責 任 者 として 青 島 に 劇 連 の 青 島 小 組 が 組 織 され 青 島 大 学 内 に 海 浜 劇 社 が 出 来 た 海 浜 劇 社 には 李 雲 鶴 も 参 加 し 抗 日 劇 を 巡 回 公 演 した 同 年 夏 兪 啓 威 と 李 雲 鶴 は 親 しい 友 人 達 に 同 棲 を 公 表 した 4. 国 立 山 東 大 学 へ 国 立 青 島 大 学 は 開 学 してわずか 2 年 の 間 に 学 生 による 全 学 的 な 大 規 模 ス トライキが 3 回 行 われている 一 つ 目 は 開 学 の 際 虚 偽 の 学 歴 で 入 学 した 学 生 が 多 数 発 見 され 彼 らに 対 する 除 籍 処 分 が 契 機 となったものである 二 つ 目 が 上 述 の 柳 条 湖 事 件 を 発 端 とした 抗 日 学 生 運 動 である そして 三 つ 目 は 1932 年 春 大 学 上 層 部 が 示 した 新 学 則 への 反 発 であった この 新 学 則 の 発 令 には 抗 日 学 生 運 動 を 封 じ 込 めようという 国 民 政 府 教 育 部 の 思 惑 が 働 いてい た 学 生 達 は 6 月 学 生 自 治 会 を 開 き 国 立 青 大 の 全 学 生 は 楊 振 声 校 長 なら びに 趙 太 侔 梁 実 秋 を 認 めず 駆 逐 する 宣 言 を 出 す 楊 振 声 は 校 長 を 辞 任 し 校 長 業 務 は 教 務 長 趙 太 侔 が 代 行 した 楊 振 声 が 青 島 を 離 れると 前 後 して 聞 一 多 沈 従 文 梁 実 秋 ら 文 学 者 達 も 青 島 大 学 を 辞 職 して 青 島 を 後 にする この 年 青 島 大 学 は 教 育 学 院 を 停 止 し 在 学 生 ごと 国 立 中 央 大 学 教 育 学 院 へと 移 管 している 同 時 に 工 学 院 ( 土 木 工 学 系 機 械 工 程 学 系 )と 農 学 院 を 済 南 に 増 設 又 ほどなくして 文 学 院 と 理 学 院 を 合 併 して 文 理 学 院 とした 7 月 教 育 部 は 国 立 青 島 大 学 の 解 散 を 命 令 し 国 立 山 東 大 学 へと 改 称 すること を 決 定 9 月 30 日 教 務 長 兼 校 長 代 理 であった 趙 太 侔 が 正 式 に 国 立 山 東 大 学 校 長 に 任 命 された 趙 太 侔 は 楊 振 声 の 掲 げた 青 島 大 学 の 建 学 理 念 を 引 き 継 ぎ 教 育 研 究 面 で 成 果 を 上 げ 国 立 山 東 大 学 は 国 内 有 数 の 一 流 大 学 へと 成 長 し ていった 聞 一 多 らが 去 り 一 旦 は 寂 しくなった 文 学 院 にも 1934 年 には 劇 作 家 洪 深 (Hong Shen 1894-1955)が 外 文 系 主 任 小 説 家 老 舎 (Laoshe 1899-1966)

191 が 中 文 系 講 師 1936 年 には 小 説 家 台 静 農 (Tai Jingnong 1902-1990)が 中 文 系 講 師 更 にその 10 年 後 の 1946 年 には 小 説 家 王 統 照 (Wang Tongzhao 1897-1957)が 中 文 系 主 任 として 着 任 するなど 著 名 な 文 学 者 が 教 壇 に 立 ち 続 けた 一 方 李 雲 鶴 は 1933 年 兪 啓 威 の 紹 介 の 下 に 中 国 共 産 党 に 入 党 江 青 はそ の 頃 のことを 次 のように 回 想 している 1933 年 私 は 中 国 共 産 党 に 加 入 した これは 私 の 人 生 の 中 の 重 要 事 である 私 はどうやって 共 産 党 に 加 入 したのか 1932 年 の 後 期 人 の 紹 介 で 党 の 責 任 者 当 時 は 青 島 党 組 織 の 書 記 だった 人 の 知 遇 を 得 たのだ ここで 名 を 挙 げられていない 兪 啓 威 は 当 時 青 島 地 下 組 織 党 支 部 の 宣 伝 委 員 を 任 命 されていた 李 雲 鶴 は 兪 啓 威 の 補 佐 的 な 仕 事 をし 充 実 感 を 味 わっ ていたが 任 務 に 忙 殺 される 兪 との 関 係 はだんだん 悪 化 していく 4 月 兪 啓 威 は 国 民 党 によって 逮 捕 投 獄 された 元 々 名 家 の 出 身 であるため 姉 兪 珊 および 国 民 党 高 官 であった 叔 父 の 奔 走 によって 兪 はほどなくして 出 獄 する が その 間 李 雲 鶴 は 上 海 へ 移 っていた 回 想 では 入 党 後 しばらくして 私 は 上 海 へ 行 った としか 語 られていないが 兪 啓 威 が 死 刑 になるかもしれ ないという 知 らせがあったため 自 らにも 累 が 及 ぶことを 恐 れ また 生 活 面 での 支 柱 を 失 ったゆえの 逃 亡 であった それによって 結 果 として 李 雲 鶴 と 兪 啓 威 の 関 係 も 終 わりを 告 げる 李 雲 鶴 の 上 海 行 きをお 膳 立 てしてくれたのは 趙 太 侔 兪 珊 夫 妻 である 夫 妻 の 友 人 であり 上 海 で 映 画 監 督 をしていた 史 東 山 (Shi Dongshan 1902-1955)を 映 画 界 に 憧 れていた 李 雲 鶴 に 紹 介 したのである それは 夫 妻 にしてみれば 厄 介 払 いのようなものだったかもしれない 兪 啓 威 と 李 雲 鶴 の 関 係 は 兪 一 族 から 大 反 対 されており 姉 である 兪 珊 自 身 も 好 意 的 には 見 て いなかったし 兪 啓 威 の 逮 捕 投 獄 は 大 学 の 教 務 長 としての 趙 太 侔 にとっては 頭 痛 の 種 でもあった 2 人 の 関 係 を 裂 くことで 事 態 の 収 束 を 図 ったとも 言 えるだろう

192 李 雲 鶴 は 上 海 で 夜 学 の 教 師 を 務 めるなどし 一 旦 北 京 にも 行 くが 再 び 上 海 に 戻 り 著 名 な 劇 作 家 田 漢 (Tian Han 1898-1968)の 知 遇 を 得 藍 蘋 の 芸 名 で 次 第 に 舞 台 や 映 画 に 出 演 するようになる 本 人 が 望 んだような 大 ス ターとまではいかなかったが 1935 年 から 37 年 までの 3 年 間 プロの 女 優 としての 経 験 を 積 んだ イプセンの 人 形 の 家 でノラを オストロフスキー の 大 雷 雨 でカテリーナを 映 画 王 老 五 でも 王 老 五 の 妻 を 演 じるなど 主 役 準 主 役 級 の 役 もあった 19 1937 年 7 月 7 日 の 盧 溝 橋 事 件 勃 発 を 受 け 上 海 の 舞 台 映 画 関 係 者 が 救 国 活 動 の 一 環 として 次 々に 延 安 へ 向 かい 出 した 李 雲 鶴 もその 流 れに 乗 り 7 月 下 旬 に 延 安 入 りする 顧 みるに 1930 年 9 月 に 国 立 青 島 大 学 が 開 学 し 1932 年 7 月 には 国 立 山 東 大 学 へと 改 称 中 国 史 上 国 立 青 島 大 学 が 存 在 するのは わずか 2 年 弱 に 過 ぎなかったことになる この 短 い 期 間 に 青 島 大 学 は 前 述 のように 全 国 的 な 知 名 度 を 得 中 国 現 代 高 等 学 校 史 において 北 京 大 学 や 清 華 大 学 西 南 聯 合 大 学 などに 次 いで 重 要 な 高 等 教 育 研 究 機 関 となった そしてその 2 年 のう ちの 多 くは 李 雲 鶴 が 有 名 教 授 の 下 で 文 学 に 触 れ 兪 啓 威 と 恋 愛 をし 演 劇 活 動 をし 中 国 共 産 党 の 影 響 を 受 けた 期 間 でもあった 江 青 の 語 る 自 分 史 それは 野 心 的 な 少 女 李 雲 鶴 の 物 語 であるが その 中 で 国 立 青 島 大 学 は 正 規 の 中 高 等 教 育 を 受 けられなかった 彼 女 が 学 問 的 にも 思 想 的 にも 成 長 し 更 に は 上 海 映 画 界 へ 踏 み 出 す 切 っ 掛 けともなった 場 所 として 外 すことの 出 来 な い 重 要 な 位 置 を 占 めていると 言 える 5. 結 び 紅 都 女 皇 江 青 と 国 立 青 島 大 学 李 雲 鶴 は 1937 年 の 延 安 入 りの 後 江 青 と 改 名 し ほどなくして 毛 沢 東 と 出 逢 い 結 婚 する 本 稿 ではその 時 代 に 関 してはこれ 以 上 踏 み 込 むことはし ないが 江 青 のその 後 については 周 知 の 通 りである 文 化 大 革 命 期 江 青 は 国 家 主 席 毛 沢 東 の 夫 人 として 都 合 の 悪 い 過 去 を 覆 い 隠 さんと 自 らの 過 去 を 知 る 者 を 次 々に 抹 殺 する とりわけ 映 画 演 劇 関

193 係 者 には 犠 牲 者 が 多 い 代 表 的 な 犠 牲 者 としては 文 革 期 に 猛 烈 に 批 判 され 投 獄 の 憂 き 目 を 見 た 中 国 を 代 表 する 映 画 スター 趙 丹 (Zhao dan 1915-1980) が 挙 げられる 既 述 の 人 形 の 家 と 大 雷 雨 で 藍 蘋 と 共 演 経 験 のある 趙 丹 は 1936 年 4 月 に 女 優 葉 露 茜 (Ye Luqian 1917-1992)と 結 婚 しており そ の 際 藍 蘋 と 映 画 評 論 家 唐 納 (Tang Na 1914-1988) 俳 優 顧 而 已 (Gu Eryi 1915-1979)と 杜 小 鵑 もともに 式 を 挙 げ 彼 らはその 結 婚 式 を 映 画 スター3 組 の 合 同 結 婚 式 としてマスコミに 大 々 的 に 宣 伝 したという 過 去 がある こ の 時 の 合 同 結 婚 式 の 参 加 者 のうち 顧 而 已 は 文 革 中 に 自 殺 に 追 い 込 まれ 結 婚 式 の 介 添 人 をした 鄭 君 里 (Zheng Junli 1911-1969)は 文 革 初 期 に 獄 死 した 唐 納 との 結 婚 は 毛 沢 東 夫 人 としては 公 にされては 困 る 事 実 なのである 20 また スター 女 優 であった 上 官 雲 珠 (Shangguan Yunzhu 1920-1968)は 自 殺 既 述 の 劇 作 家 田 漢 は 獄 死 するなど 文 革 中 に 迫 害 され 死 に 追 いやられた 映 画 演 劇 関 係 者 には 枚 挙 に 暇 がない 江 青 にとって 彼 らを 葬 ることは 自 分 の 不 都 合 な 過 去 を 知 る 者 を 消 すというだけでなく 憧 れていた 映 画 スターと しては 認 めてもらえなかったという 復 讐 の 意 味 もあったであろう 文 化 大 革 命 について 江 青 を 始 めとする 四 人 組 に 全 責 任 を 負 わせるというやり 方 は 強 引 かつ 乱 暴 ではあるが それでも 江 青 が 彼 女 の 過 去 を 知 る 者 や 彼 女 にとって 都 合 の 悪 い 者 を 次 々と 抹 殺 した 所 業 は 醜 状 暴 虐 以 外 の 何 物 でもない まさ に 紅 都 女 皇 である では 青 島 大 学 関 係 者 はどうであったか まず 李 雲 鶴 がたびたび 家 を 訪 問 していたという 校 長 楊 振 声 については 息 子 楊 起 が 元 々 我 が 家 には 写 真 もあった 父 と 姉 と 李 雲 鶴 が 一 緒 に 写 っているものだ 李 雲 鶴 は 父 の 背 後 に 立 っている 文 革 中 父 はその 写 真 をそれ 以 上 保 管 できず 破 り 捨 ててし まった 21 と 回 想 している 実 際 の 所 楊 振 声 が 亡 くなったのは 文 革 よりも 10 年 早 い 1956 年 であるため 楊 起 の 回 想 における 文 革 云 々は 正 しくは ない しかし 毛 沢 東 路 線 を 忠 実 になぞった 反 右 派 闘 争 (1956)などの 極 左 キャンペーンが 中 国 全 土 を 覆 っていたことを 受 ければ 楊 振 声 が 不 穏 な 空 気 を 察 して 写 真 を 処 分 したことを 想 像 するのはたやすい 楊 起 は 1952 年 に 高 等 教 育 機 関 の 整 理 統 合 が 始 まった 頃 江 青 の 権 力 はまだそれほど 大 きくはな

194 かった としながらも 父 が 受 けた 迫 害 も 凄 まじいというほどではなく た だ 60 歳 を 過 ぎて 病 を 抱 えた 身 であるにも 関 わらず 長 春 の 東 北 人 民 大 学 に 異 動 させられただけであった と 楊 振 声 の 1952 年 の 異 動 の 裏 にも 江 青 がいた ような 述 べ 方 をしている 確 かに 楊 振 声 の 経 歴 や 教 育 史 上 の 功 績 に 鑑 みれば 東 北 人 民 大 学 への 異 動 は 歴 然 とした 左 遷 であるとも 言 える 楊 振 声 の 辞 任 後 国 立 山 東 大 学 初 代 校 長 になった 趙 太 侔 は 文 革 中 の 1968 年 迫 害 に 耐 えかねて 青 島 の 海 に 投 身 自 殺 をした 尤 も これは 自 殺 と されているに 過 ぎず 趙 太 侔 は 突 き 落 とされて 死 んだと 遺 族 は 語 っている 22 山 東 実 験 劇 院 での 師 弟 関 係 青 島 大 学 における 仕 事 や 授 業 聴 講 の 世 話 妻 の 兪 珊 とその 弟 兪 啓 威 など 趙 太 侔 と 李 雲 鶴 の 関 係 は 浅 からぬものがあった 江 青 の 前 身 を 知 っているという ただそれだけのことが 死 に 値 する 罪 と されたという 事 実 に 文 化 大 革 命 期 がどれほど 尋 常 ならざる 時 代 であったか がわかるだろう 趙 の 妻 兪 珊 は 建 国 後 趙 とは 別 れていたが やはり 1968 年 に 迫 害 を 受 け 亡 くなっている 李 雲 鶴 にとっては 重 要 な 存 在 であった 兪 啓 威 は 1949 年 に 天 津 市 長 に 任 命 されるなど 要 職 を 歴 任 し 1958 年 に 病 死 して いるが 文 革 期 に 生 きていれば 同 様 の 目 に 遭 っただろうことは 疑 いを 容 れな い 沈 従 文 は 1940 年 代 後 半 に 研 究 職 に 転 じていたが 文 革 中 激 しく 批 判 され 蔵 書 を 全 て 失 い 病 身 にも 関 わらず 家 族 から 離 され 湖 北 省 の 幹 部 学 校 に 2 年 間 下 放 させられた 沈 従 文 は 江 青 の 回 想 では 悪 い 扱 いを 受 けてはいないが 本 来 であればより 多 くの 創 作 活 動 が 可 能 であり 優 れた 作 品 が 誕 生 していた であろうことを 考 えれば 沈 もやはり 中 国 の 政 治 キャンペーンによって 社 会 的 に 殺 された 作 家 の 1 人 であった 1 人 無 事 であったのは 梁 実 秋 である 青 島 大 学 図 書 館 で 李 雲 鶴 の 上 司 で あった 梁 は 1949 年 に 台 湾 に 渡 る 台 湾 師 範 大 学 で 英 語 系 教 授 系 主 任 文 学 院 長 などを 務 め 1966 年 に 退 職 した 後 はシェイクスピア 作 品 の 翻 訳 に 専 心 した 1981 年 1 月 13 日 台 湾 の 中 央 日 報 に 梁 の 数 え 年 80 歳 の 誕 生 日 を 祝 う 記 事 が 載 り その 中 に 次 のような 件 があった

195 現 在 北 平 で 裁 判 中 の 江 青 について 話 題 が 移 った 江 青 はかつて 梁 氏 の 部 下 だったの だ 時 は 50 年 前 梁 氏 は 青 島 大 学 図 書 館 長 であり 当 時 は 李 雲 鶴 という 名 だった 江 青 は 図 書 館 の 事 務 員 であった 青 島 大 学 の 職 員 名 簿 によれば 館 長 の 月 給 は 400 元 江 青 の 月 給 は 30 元 である ( 中 略 ) 梁 実 秋 はこう 語 る あの 頃 江 青 はしょっちゅう 我 が 家 に 食 事 に 来 ていました ある 時 などは 私 に 2 角 貸 してほしいと 言 うので す ぐに 貸 してあげましたよ 彼 女 はお 金 を 借 りてチョコレートを 買 いたかったのです 通 りを 歩 きながらチョコを 食 べたかったのですね その 2 角 は 後 になっても 返 し てもらっていません お 客 達 はこう 述 べた あなたは 江 青 の 山 ほどの 秘 密 を 知 り 過 ぎています もし 大 陸 にいたら 間 違 いなく 家 宅 捜 査 を 受 けていましたよ 23 文 中 の お 客 達 は 梁 実 秋 の 誕 生 祝 いに 集 った 人 々を 指 す チョコレート 代 の 2 角 を 返 してもらっていない 云 々は 梁 実 秋 の 軽 い 冗 談 にしても もし 彼 が 大 陸 に 残 っていたら 家 宅 捜 査 どころか 他 の 作 家 達 同 様 確 実 に 迫 害 を 免 れ 得 なかったであろう 梁 自 身 曾 ての 仲 間 達 が 江 青 から 被 った 害 を 知 り 自 らの 幸 運 を 噛 みしめたに 違 いない 酸 鼻 を 極 めた 文 化 大 革 命 と 江 青 につい て 話 題 になった 時 江 青 にチョコレート 代 を 貸 したという 微 笑 ましいエピ ソードを 挙 げて 場 を 和 ませる 以 外 なかったのかもしれない 李 雲 鶴 が 李 雲 鶴 のままであったら 梁 実 秋 が 台 湾 に 渡 った 後 に 彼 女 に 言 及 し それが 新 聞 紙 上 で 文 字 化 されることもなかっただろう 李 雲 鶴 変 じて 江 青 が 中 国 全 土 及 び 中 国 史 上 に 及 ぼした 影 響 は 計 り 知 れ ない 本 稿 では 少 女 李 雲 鶴 と 国 立 青 島 大 学 及 びその 教 授 陣 との 関 係 や 影 響 のみを 見 た では 国 立 青 島 大 学 は 歴 史 上 から 完 全 に 姿 を 消 してしまっ たのだろうか 国 立 青 島 大 学 の 初 代 校 長 にして 結 果 としては 最 後 の 校 長 ともなった 楊 振 声 は 前 述 の 通 り 青 島 大 学 開 学 の 際 に 青 島 大 学 を 海 洋 生 物 学 研 究 の 中 心 となる であろう と 予 言 した 国 立 青 島 大 学 から 国 立 山 東 大 学 へと 改 称 した 後 1946 年 に 農 学 院 に 新 たに 水 産 学 系 が 設 置 される 翌 年 には 水 産 学 系 は 農 学 院 から 理 学 院 に 改 設 されるが 1959 年 に 独 立 して 山 東 海 洋 学 院 となる 翌 60 年 山 東 海 洋 学 院 は 国 家 教 育 部 が 指 定 した 13 校 の 全 国 重 点 総 合 大 学 に 選 ばれ 24 1980

196 年 には 青 島 海 洋 大 学 へと 改 称 し 更 には 2002 年 に 中 国 海 洋 大 学 へと 改 称 する 現 在 中 国 海 洋 大 学 は 海 洋 学 の 国 内 最 大 の 研 究 拠 点 になっている 25 国 立 青 島 大 学 は 早 々に 歴 史 上 からその 名 を 消 したが 楊 振 声 が 開 学 の 際 に 掲 げた 理 念 は 今 尚 受 け 継 がれていると 言 って 良 いだろう 1 2 王 統 照 青 島 素 描 (1934 年 3 月 19 日 執 筆 初 出 は 青 紗 帳 生 活 書 店 1936 年 10 月 楊 洪 承 主 編 王 統 照 全 集 中 国 工 人 出 版 社 2009 年 4 月 )に 青 い 山 紺 碧 の 海 紅 い 瓦 緑 の 木 々 康 有 為 が 青 島 の 色 彩 を 評 したこの 八 句 は 一 般 の 旅 行 者 の 記 憶 に 留 まって 既 に 久 しい とある 康 有 為 が 初 めて 青 島 を 訪 れた のは 1917 年 冬 のことであり( 南 海 康 先 生 年 譜 続 編 ( 楼 宇 烈 整 理 康 南 海 自 編 年 譜 康 有 為 学 術 著 作 選 中 華 書 局 1992 年 9 月 ) それからわずか 17 年 ほど で 青 い 山 の 八 句 が 人 口 に 膾 炙 したことは 康 有 為 の 言 であるかどうかと 無 関 係 に 簡 にして 見 事 な 表 現 が 受 け 入 れられていたからに 他 ならない また 紅 瓦 緑 樹 碧 海 藍 天 のバージョンもある 李 白 寄 王 屋 山 人 孟 大 融 (754) 藍 田 嶗 山 巨 峰 白 雲 洞 記 など 3 明 史 第 四 冊 明 史 巻 四 十 一 志 第 十 七 地 理 二 ( 清 張 廷 玉 等 撰 中 華 書 局 1974 年 4 月 )の 即 墨 に 又 東 北 に 雄 崖 守 禦 千 戸 所 有 り 南 に 浮 山 守 禦 千 戸 所 有 り 倶 に 洪 武 中 に 置 く とある 即 墨 は 現 在 の 青 島 市 一 帯 を 指 す 4 王 桂 雲 魯 海 主 編 山 東 地 方 史 志 縦 横 談 ( 吉 林 省 地 方 志 編 纂 委 員 会 吉 林 省 図 書 館 学 会 出 版 1985 年 3 月 )は 明 の 万 暦 6(1578) 年 に 即 墨 知 県 に 任 ぜられた 許 鋌 が 地 方 事 宜 議 海 防 の 中 で 青 島 という 語 を 用 いたのが 書 籍 中 に 初 めて 見 出 せる 青 島 の 例 であると 指 摘 している 5 ドイツが 清 国 から 青 島 を 租 借 したのは 1898 年 3 月 であるが 前 年 11 月 1 日 の 山 東 省 巨 野 県 におけるドイツ 人 宣 教 師 殺 害 事 件 を 口 実 に 11 月 14 日 にはドイツ 軍 が 膠 州 湾 に 上 陸 し 清 国 軍 を 撤 退 させていたために ドイツによる 青 島 支 配 は 1897 年 からとする 記 述 が 多 い 6 青 島 守 備 軍 民 政 署 編 新 刊 青 嶋 要 覧 新 極 東 社 出 版 部 大 正 10 年 11 月 泉 對 信 之 助 著 青 島 二 年 東 海 堂 書 店 大 正 11 年 6 月

197 7 楊 振 声 については 宮 尾 正 樹 楊 振 声 と 玉 君 ( お 茶 の 水 女 子 大 学 中 国 文 学 会 8 報 第 7 号 1988 年 4 月 ) 拙 論 楊 振 声 抛 錨 石 華 父 海 葬 柯 霊 海 誓 をめぐって 恋 愛 と 復 讐 の 変 奏 ( お 茶 の 水 女 子 大 学 中 国 文 学 会 報 第 32 号 2013 年 4 月 ) 楊 振 声 搶 親 報 復 と 民 国 期 中 国 の 強 奪 婚 少 女 は 語 ら ない ( 言 語 文 化 論 叢 ( 金 沢 大 学 外 国 語 教 育 研 究 センター 紀 要 ) 第 18 号 2014 年 3 月 ) 楊 振 声 と 五 四 楊 振 声 の 五 四 ( 野 草 ( 中 国 文 芸 研 究 会 機 関 誌 ) 第 94 号 2014 年 8 月 )に 詳 しい 王 桂 雲 著 青 島 近 代 名 人 逸 事 新 華 出 版 社 2007 年 10 月 欒 玉 璽 青 島 の 工 業 化 と 近 代 教 育 ( 関 西 学 院 大 学 経 済 学 研 究 第 32 号 2001 年 )などを 参 照 なお 上 海 同 済 大 学 は 元 ドイツ 海 軍 軍 医 で 医 学 博 士 エーリッヒ パウルン(Erich Hermann Paulun 1862-1909)が 1907 年 に 創 立 した 同 済 医 学 堂 を 前 身 とした 私 立 大 学 1927 年 には 国 立 大 学 となった 9 梁 実 秋 著 談 聞 一 多 伝 記 文 学 雑 誌 社 中 華 民 国 56(1967) 年 10 国 立 青 島 大 学 週 刊 1931 年 5 月 4 日 この 5 月 4 日 という 日 付 は 1919 年 5 月 4 日 の 五 四 運 動 を 受 けていると 見 て 間 違 いないだろう 楊 振 声 は 五 四 運 動 の 精 神 を 重 視 していた 注 7 前 掲 拙 論 楊 振 声 と 五 四 楊 振 声 の 五 四 に 詳 しい 11 青 島 における 高 等 教 育 機 関 設 立 の 歴 史 及 び 国 立 青 島 大 学 の 設 立 に 関 しては 国 立 青 島 大 学 編 中 華 民 国 二 十 年 度 国 立 青 島 大 学 一 覧 1931 年 ( 大 阪 教 育 大 学 准 教 授 中 野 知 洋 先 生 のご 提 供 による) 劉 増 人 王 煥 良 主 編 青 島 高 等 教 育 史 ( 現 代 巻 ) 人 民 出 版 社 2008 年 注 8 欒 玉 璽 論 文 金 以 林 著 近 代 中 国 大 学 研 究 中 央 文 献 出 版 社 2000 年 2 月 季 培 剛 編 著 楊 振 声 編 年 事 輯 初 稿 黄 河 出 版 社 2007 年 を 参 考 にした 12 江 青 についての 記 述 は 主 として 江 青 口 述 常 笑 石 整 理 江 青 自 伝 北 運 河 出 版 社 2012 年 2 月 R. 特 里 爾 著 劉 路 新 訳 江 青 全 伝 河 北 人 民 出 版 社 2003 年 11 月 葉 永 烈 著 江 青 伝 作 家 出 版 社 1993 年 12 月 伊 原 吉 之 助 江 青 の 最 初 の 人 生 ( 帝 塚 山 大 学 論 集 第 11 号 1976 年 3 月 ) 上 海 時 代 の 江 青 ( 帝 塚 山 大 学 論 集 第 12 号 1976 年 5 月 ) 江 青 : 上 海 から 延 安 へ 江 青 評 伝 稿 ( 三 )

198 ( 帝 塚 山 大 学 論 集 第 14 号 1977 年 4 月 )に 基 づいた また ロクサーヌ ウィトケ 著 中 嶋 嶺 雄 宇 佐 美 滋 訳 江 青 上 下 パシフィカ 1977 年 8 月 も 参 考 にした 13 14 15 注 12 前 掲 江 青 自 伝 以 下 江 青 の 談 話 は 全 て 本 書 に 拠 り 拙 訳 を 付 す 楊 起 口 述 陳 遠 筆 録 楊 振 声 : 湮 没 無 聞 許 多 年 ( 陳 遠 著 在 不 美 的 年 代 裡 陳 遠 口 述 史 系 列 重 慶 出 版 社 2011 年 初 出 は 新 京 報 2004 年 8 月 21 日 ) 沈 従 文 写 在 紅 都 女 皇 摘 録 文 字 下 の 注 釈 に 沈 従 文 の 甥 である 田 紀 倫 が 沈 従 文 に 江 青 は 伯 父 さんが 国 内 外 で 声 望 が 高 いことを 知 っていて だからウ ィトケに 対 してわざわざ 自 己 宣 伝 に 努 め 伯 父 さんに 文 学 を 指 導 してもらった なんて 言 ってるんですよ という 書 信 を 送 った 旨 の 記 述 がある 沈 従 文 全 集 第 14 巻 雑 文 北 岳 文 芸 出 版 社 2002 年 参 照 16 1953 年 9 月 23 日 から 10 月 6 日 第 二 次 全 国 文 学 芸 術 工 作 者 会 議 が 開 催 され た 工 芸 美 術 界 の 代 表 として 出 席 していた 沈 従 文 に 毛 沢 東 周 恩 来 の 二 人 が 小 説 執 筆 を 励 行 したという 小 島 久 代 沈 従 文 と 作 品 についての 解 説 ( 沈 従 文 著 小 島 久 代 訳 辺 境 から 訪 れる 愛 の 物 語 沈 従 文 小 説 選 勉 誠 出 版 2013 年 ) 参 照 17 沈 従 文 幽 僻 的 陳 荘 題 記 ( 沈 従 文 文 集 第 11 巻 文 論 生 活 読 書 新 知 三 聯 書 店 香 港 分 店 花 城 出 版 社 1985 年 ) 文 中 の 聴 講 生 のもう 1 人 は 幽 僻 的 陳 荘 の 作 者 であり 学 生 ストライキを 発 動 したことで 青 島 大 学 を 除 籍 処 分 となった 王 林 (Wang Lin 1909-1984)である 18 宝 宝 的 爸 爸 ( 新 社 会 半 月 刊 第 7 巻 第 3 期 1934 年 8 月 ) 王 秘 書 的 病 ( 新 社 会 半 月 刊 第 7 巻 第 4 期 1934 年 8 月 ) 催 命 符 ( 新 社 会 半 月 刊 第 7 巻 第 6 期 1934 年 9 月 )など これらの 作 品 は 張 淑 貞 という 筆 名 で 発 表 された 19 人 形 の 家 は 上 海 業 余 劇 人 協 会 第 1 回 公 演 1935 年 6 月 27 日 から 上 海 の 金 城 大 劇 院 にて 2 か 月 上 演 演 出 は 章 泯 大 雷 雨 は 上 海 業 余 劇 人 協 会 第 3 回 公 演 1936 年 11 月 より 上 海 卡 爾 登 大 戯 院 にて 上 演 演 出 は 章 泯 映 画 王 老 五 は 1938 年 4 月 から 上 海 の 新 光 大 戯 院 にて 公 開 脚 本 監 督 は 蔡 楚 生

199 20 江 青 の 結 婚 は 2 で 述 べたように 唐 納 とのものが 初 めてではない 済 南 での 最 初 の 結 婚 相 手 は 裴 明 倫 また 兪 啓 威 との 同 棲 も 周 囲 からは 結 婚 同 然 に 目 され ていたし 上 海 時 代 人 形 の 家 と 大 雷 雨 の 演 出 家 であった 章 泯 との 愛 人 関 係 は 有 名 であった 21 同 注 14 22 同 注 14 前 掲 文 に 拠 る 23 壽 比 梅 花 健 春 從 臘 鼓 來 梁 實 秋 先 生 今 度 八 秩 華 誕 ( 中 央 日 報 中 華 民 国 70(1981) 年 1 月 13 日 第 4 版 ) 24 この 時 国 家 教 育 部 が 公 布 した 全 国 重 点 総 合 大 学 13 校 とは 中 国 人 民 大 学 北 京 大 学 復 旦 大 学 中 国 科 学 技 術 大 学 南 開 大 学 南 京 大 学 武 漢 大 学 中 山 大 学 四 川 大 学 山 東 大 学 山 東 海 洋 学 院 蘭 州 大 学 である 25 山 東 大 学 水 産 系 的 創 建 山 東 大 学 新 聞 網 HP 中 の 校 史 一 頁 参 照 http://www.view.sdu.edu.cn/new/2013/0411/50195.html 2015 年 11 月 12 日 閲 覧 附 記 本 稿 は 学 術 研 究 助 成 基 金 助 成 金 の 交 付 を 受 けた 基 盤 研 究 (C) 文 化 都 市 青 島 における 知 識 人 ネットワークと 都 市 表 象 の 研 究 ( 課 題 番 号 :15K02431 研 究 代 表 者 : 富 山 大 学 齊 藤 大 紀 )による 研 究 成 果 の 一 部 である