Microsoft Word - 133-156加藤慶一郎.docx



Similar documents
<8E8E8CB18CA48B868B408AD688EA97972E786477>

                         庁議案件No


< F2D B E9197BF817A955C8E868145>

災害時の賃貸住宅居住者の居住の安定確保について

(1) 率 等 一 覧 ( 平 成 26 年 度 ) 目 課 客 体 及 び 納 義 務 者 課 標 準 及 び 率 法 内 に 住 所 を 有 する ( 均 等 割 所 得 割 ) 内 に 事 務 所 事 業 所 又 は 家 屋 敷 を 有 する で 内 に 住 所 を 有 し ないもの( 均 等

その 他 事 業 推 進 体 制 平 成 20 年 3 月 26 日 に 石 垣 島 国 営 土 地 改 良 事 業 推 進 協 議 会 を 設 立 し 事 業 を 推 進 ( 構 成 : 石 垣 市 石 垣 市 議 会 石 垣 島 土 地 改 良 区 石 垣 市 農 業 委 員 会 沖 縄 県 農

(2) 都 市 計 画 区 域 市 街 化 区 域 市 街 化 調 整 区 域 の 変 遷 1 都 市 計 画 区 域 の 変 遷 2 市 街 化 区 域 及 び 市 街 化 調 整 区 域 の 変 遷 旧 石 巻 市 ( 単 位 :ha) ( 単 位 :ha) 変 更 都 市 計 画 区 域 行


m07 北見工業大学 様式①

<4D F736F F D208E52979C8CA78E598BC68F5790CF91A390698F9590AC8BE08CF D6A2E646F6378>

1 平 成 27 年 度 土 地 評 価 の 概 要 について 1 固 定 資 産 税 の 評 価 替 えとは 地 価 等 の 変 動 に 伴 う 固 定 資 産 の 資 産 価 値 の 変 動 に 応 じ その 価 格 を 適 正 で 均 衡 のとれたものに 見 直 す 制 度 である 3 年 ご

●電力自由化推進法案

目 次 第 1. 土 区 画 整 理 事 業 の 名 称 等 1 (1) 土 区 画 整 理 事 業 の 名 称 1 (2) 施 行 者 の 名 称 1 第 2. 施 行 区 1 (1) 施 行 区 の 位 置 1 (2) 施 行 区 位 置 図 1 (3) 施 行 区 の 区 域 1 (4) 施

<4D F736F F D C8E DA8E9F E2E646F63>

などは 別 の 事 業 所 とせず その 高 等 学 校 に 含 めて 調 査 した 5 調 査 事 項 単 独 事 業 所 調 査 票 全 産 業 共 通 事 項 ( 単 独 事 業 所 ) ア 名 称 及 び 電 話 番 号 イ 所 在 地 ウ 経 営 組 織 ( 協 同 組 合 においては 協

平 成 24 年 4 月 1 日 から 平 成 25 年 3 月 31 日 まで 公 益 目 的 事 業 科 目 公 1 公 2 公 3 公 4 法 人 会 計 合 計 共 通 小 計 苦 情 相 談 解 決 研 修 情 報 提 供 保 証 宅 建 取 引 健 全 育 成 Ⅰ. 一 般 正 味 財

<4D F736F F D2093FA967B90BB95B28A948EAE89EF8ED082C982E682E993968ED CA8A948EAE82C991CE82B782E98CF68A4A AF82CC8C8B89CA82C98AD682B782E982A8926D82E782B95F E32315F2E646F63>


< CF6955C976C8EAE DE82C28E73816A2E786C73>

入 札 参 加 者 は 入 札 の 執 行 完 了 に 至 るまではいつでも 入 札 を 辞 退 することができ これを 理 由 として 以 降 の 指 名 等 において 不 利 益 な 取 扱 いを 受 けることはない 12 入 札 保 証 金 免 除 13 契 約 保 証 金 免 除 14 入

Microsoft Word - jigyoukeikakusho.docx

平成25年度 独立行政法人日本学生支援機構の役職員の報酬・給与等について

類 ( 番 号 を 記 載 ) 施 設 名 事 所 名 所 在 事 開 始 年 月 日 事 規 模 ( 定 員 ) 公 益 事 必 要 な 者 に 対 し 相 談 情 報 提 供 助 言 行 政 や 福 祉 保 健 医 療 サービス 事 者 等 との 連 絡 調 整 を 行 う 等 の 事 必 要

弁護士報酬規定(抜粋)

untitled

公 的 年 金 制 度 について 制 度 の 持 続 可 能 性 を 高 め 将 来 の 世 代 の 給 付 水 準 の 確 保 等 を 図 るため 持 続 可 能 な 社 会 保 障 制 度 の 確 立 を 図 るための 改 革 の 推 進 に 関 する 法 律 に 基 づく 社 会 経 済 情

2 役 員 の 報 酬 等 の 支 給 状 況 平 成 27 年 度 年 間 報 酬 等 の 総 額 就 任 退 任 の 状 況 役 名 報 酬 ( 給 与 ) 賞 与 その 他 ( 内 容 ) 就 任 退 任 2,142 ( 地 域 手 当 ) 17,205 11,580 3,311 4 月 1

(Microsoft Word - \220\340\226\276\217\221.doc)

<6D313588EF8FE991E58A778D9191E5834B C8EAE DC58F4992F18F6F816A F990B32E786C73>

1_2013BS(0414)

2 一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 (24 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 号 級 の 給 料 月 額 最 高 号 級 の 給 料 月 額 1 級 ( 単 位 : ) 2 級 3 級 4 級 5 級 6 級 7 級 8 級 9 級 1 級 135,6 185,8 222,9 261,

Microsoft Word - 結果・異動プレス_ _clean.doc

為 が 行 われるおそれがある 場 合 に 都 道 府 県 公 安 委 員 会 がその 指 定 暴 力 団 等 を 特 定 抗 争 指 定 暴 力 団 等 として 指 定 し その 所 属 する 指 定 暴 力 団 員 が 警 戒 区 域 内 において 暴 力 団 の 事 務 所 を 新 たに 設

事 業 概 要 利 用 時 間 休 館 日 使 用 方 法 使 用 料 施 設 を 取 り 巻 く 状 況 や 課 題 < 松 山 駅 前 駐 輪 場 > JR 松 山 駅 を 利 用 する 人 の 自 転 車 原 付 を 収 容 する 施 設 として 設 置 され 有 料 駐 輪 場 の 利 用

私立大学等研究設備整備費等補助金(私立大学等

Ⅰ 平成14年度の状況

公表表紙

<4D F736F F D2093FC8F6F8BE082CC8BE695AA82C68AA892E889C896DA82CC91CE899E955C E646F63>

Microsoft PowerPoint - 報告書(概要).ppt

Taro-08国立大学法人宮崎大学授業

2. 売 却 する 太 陽 光 発 電 所 用 地 の 概 要 売 却 する 土 地 所 有 権 所 在 地 番 地 目 地 積 (m2) 1 岩 手 県 一 ノ 関 市 舞 川 第 1 太 陽 光 発 電 所 岩 手 県 一 関 市 舞 川 字 小 塚 30 番 1 山 林 6,982 2 岩 手

<4D F736F F D E598BC68A8897CD82CC8DC490B68B7982D18E598BC68A8893AE82CC8A C98AD682B782E993C195CA915B C98AEE82C382AD936F985E96C68B9690C582CC93C197E1915B927582CC898492B75F8E96914F955D89BF8F915F2E646F6

2 一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 ( 平 成 23 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 号 給 の 給 料 月 額 最 高 号 給 の 給 料 月 額 1 級 2 級 3 級 4 級 5 級 ( 単 位 : ) 6 級 7 級 8 級 135, , ,900 2

2 一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 ( 平 成 24 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 級 2 級 3 級 4 級 5 級 ( 単 位 : ) 6 級 7 級 8 級 1 号 給 の 給 料 月 額 135,6 185,8 222,9 261,9 289,2 32,6 366,2 41

(4) ラスパイレス 指 数 の 状 況 ( 各 年 4 月 1 日 現 在 ) ( 例 ) ( 例 ) 15 (H2) (H2) (H24) (H24) (H25.4.1) (H25.4.1) (H24) (H24)

<4D F736F F D208ED089EF95DB8CAF89C193FC8FF38BB CC8EC091D492B28DB88C8B89CA82C982C282A282C42E646F63>


Microsoft Word - ★HP版平成27年度検査の結果

( の 復 旧 ) 3. 南 相 馬 市 エリアの 避 難 指 示 解 除 準 備 区 域 及 び 居 住 制 限 区 域 内 の 路 線 数 ( ) 10 路 線 うち 被 災 した 路 線 ( 工 区 ) 数 10 路 線 52 箇 所 うち 応 急 対 策 を 実 施 した 路 線 ( 工 区

<4D F736F F D208E9197BF ED089EF8EC08CB18A F F A89FC82512E646F63>

(15) 兵 庫 県 道 高 速 湾 岸 線 (16) 神 戸 市 道 高 速 道 路 2 号 線 (17) 兵 庫 県 道 高 速 北 神 戸 線 (18) 神 戸 市 道 高 速 道 路 北 神 戸 線 (19) 神 戸 市 道 高 速 道 路 湾 岸 線 のうち 上 り 線 については 神 戸

類 ( 番 号 を 記 載 ) 施 設 名 事 所 名 所 在 事 開 始 年 月 日 事 規 模 ( 定 員 ) 公 益 事 1 必 要 な 者 に 対 し 相 談 情 報 提 供 助 言 行 政 や 福 祉 保 健 医 療 サービス 事 者 等 との 連 絡 調 整 を 行 う 等 の 事 必

対 象 者 株 式 (1,287,000 株 ) 及 び 当 社 が 所 有 する 対 象 者 株 式 (1,412,000 株 )を 控 除 した 株 式 数 (3,851,673 株 )になります ( 注 3) 単 元 未 満 株 式 も 本 公 開 買 付 けの 対 象 としております なお

01.活性化計画(上大久保)

スライド 1

準 工 業 工 業 環 境 の 悪 化 をもたらすおそれのない 工 業 の 利 便 の 増 進 を 図 る 工 業 の 利 便 の 増 進 を 図 る 計 画 書 ( 平 成 19 年 11 月 13 日 第 583 号 ) 種 類 面 積 建 築 物 の 容 積 率 建 築 物 の 建 ぺい 率

Microsoft Word 第1章 定款.doc

は し が き

第 8 条 本 協 議 会 における 研 修 は 以 下 のとおりとする (1) 座 学 研 修 農 業 講 座 や 先 進 農 家 視 察 など 農 業 経 営 基 礎 講 座 やその 他 担 い 手 のための 研 修 会 等 への 参 加 など 年 24 回 程 度 とする (2) 実 務 研

2 職 員 の 平 均 給 与 月 額 初 任 給 等 の 状 況 (1) 職 員 の 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 及 び 平 均 給 与 月 額 の 状 況 ( 平 成 22 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 一 般 行 政 職 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 平 均 給 与

情 報 通 信 機 器 等 に 係 る 繰 越 税 額 控 除 限 度 超 過 額 の 計 算 上 控 除 される 金 額 に 関 する 明 細 書 ( 付 表 ) 政 党 等 寄 附 金 特 別 控 除 額 の 計 算 明 細 書 国 庫 補 助 金 等 の 総 収 入 金 額 不 算 入 に 関

市街化区域と市街化調整区域との区分

【労働保険事務組合事務処理規約】

個人住民税徴収対策会議

受 託 工 事 費 一 般 管 理 費 何 地 区 給 料 手 当 賞 与 引 当 金 繰 入 額 賃 金 報 酬 法 定 福 利 費 退 職 給 付 費 備 消 品 費 厚 生 福 利 費 報 償 費 旅 費 被 服 費 光 熱 水 費 燃 料 費 食 糧 費 印 刷 製 本 費 測 量 調 査

Microsoft Word - 佐野市生活排水処理構想(案).doc

スライド 1

32 農事組合法人法人用パンフ_24.2一部改正)

別 紙 第 号 高 知 県 立 学 校 授 業 料 等 徴 収 条 例 の 一 部 を 改 正 する 条 例 議 案 高 知 県 立 学 校 授 業 料 等 徴 収 条 例 の 一 部 を 改 正 する 条 例 を 次 のように 定 める 平 成 26 年 2 月 日 提 出 高 知 県 知 事 尾

(5) 給 与 改 定 の 状 況 事 委 員 会 の 設 置 なし 1 月 例 給 事 委 員 会 の 勧 告 民 間 給 与 公 務 員 給 与 較 差 勧 告 A B A-B ( 改 定 率 ) 給 与 改 定 率 ( 参 考 ) 国 の 改 定 率 24 年 度 円 円 円 円 ( ) 改

財団法人○○会における最初の評議員の選任方法(案)

(5) 給 与 制 度 の 総 合 的 見 直 しの 実 施 状 況 について 概 要 の 給 与 制 度 の 総 合 的 見 直 しにおいては 俸 給 表 の 水 準 の 平 均 2の 引 き 下 げ 及 び 地 域 手 当 の 支 給 割 合 の 見 直 し 等 に 取 り 組 むとされている

3 職 員 の 平 均 給 与 月 額 初 任 給 等 の 状 況 (1) 職 員 の 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 及 び 平 均 給 与 月 額 の 状 況 (23 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 一 般 行 政 職 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 平 均 給 与 月 額

Microsoft Word - H25年度の概要

3 独 占 禁 止 法 違 反 事 件 の 概 要 (1) 価 格 カルテル 山 形 県 の 庄 内 地 区 に 所 在 する5 農 協 が, 特 定 主 食 用 米 の 販 売 手 数 料 について, 平 成 23 年 1 月 13 日 に 山 形 県 酒 田 市 所 在 の 全 国 農 業 協

<4D F736F F D E95E CC816994A8926E82A982F182AA82A2816A2E646F63>

目 標 を 達 成 するための 指 標 第 4 章 計 画 における 環 境 施 策 世 界 遺 産 への 登 録 早 期 登 録 の 実 現 史 跡 の 公 有 地 化 平 成 27 年 度 (2015 年 度 )までに 235,022.30m 2 施 策 の 体 系 1 歴 史 的 遺 産 とこ

…−…t…„…b…V…–‰x›É

130117_『高齢社会をむかえた東京23区の将来 人口と建物の関係から見て

<8BB388F58F5A91EE82A082E895FB8AEE967B95FB906A>

(4) 給 与 制 度 の 総 合 的 見 直 しの 実 施 状 況 について 概 要 国 の 給 与 制 度 の 総 合 的 見 直 しにおいては 俸 給 表 の 水 準 の 平 均 2の 引 下 げ 及 び 地 域 手 当 の 支 給 割 合 の 見 直 し 等 に 取 り 組 むとされている.

<4D F736F F D F5A91EE8BC F368C8E3393FA8DC48D F C8E323893FA916493C B95AA8D CE3816A>

そ の 他 類 ( 番 号 を 記 載 ) 施 設 名 事 所 名 所 在 事 開 始 年 月 日 事 規 模 ( 定 員 ) 公 益 事 広 島 市 城 山 北 城 南 域 包 括 支 援 センター 広 島 市 安 佐 南 区 川 内 B0 平 成 8 年 4 月 日 必 要 な 者

目 次 第 1 土 地 区 画 整 理 事 業 の 名 称 等 1 1. 土 地 区 画 整 理 事 業 の 名 称 1 2. 施 行 者 の 名 称 1 第 2 施 行 地 区 1 1. 施 行 地 区 の 位 置 1 2. 施 行 地 区 位 置 図 1 3. 施 行 地 区 の 区 域 1 4

高砂熱_株式会社丸誠株式に対する公開買付けの結果及び子会社の異動に関するお知らせ_

Taro-給与公表(H25).jtd

職 員 の 平 均 給 与 月 額 初 任 給 等 の 状 況 (1) 職 員 の 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 及 び 平 均 給 与 月 額 の 状 況 ( 平 成 年 月 1 日 現 在 ) 1 一 般 行 政 職 福 岡 県 技 能 労 務 職 歳 1,19,98 9,9 歳 8,

別紙3

はファクシミリ 装 置 を 用 いて 送 信 し 又 は 訪 問 する 方 法 により 当 該 債 務 を 弁 済 す ることを 要 求 し これに 対 し 債 務 者 等 から 直 接 要 求 しないよう 求 められたにもかか わらず 更 にこれらの 方 法 で 当 該 債 務 を 弁 済 するこ

定款  変更

損 益 計 算 書 自. 平 成 26 年 4 月 1 日 至. 平 成 27 年 3 月 31 日 科 目 内 訳 金 額 千 円 千 円 営 業 収 益 6,167,402 委 託 者 報 酬 4,328,295 運 用 受 託 報 酬 1,839,106 営 業 費 用 3,911,389 一

18 国立高等専門学校機構

Taro-○離島特産品等マーケティング支援事業に係る企画提案募集要領

は 共 有 名 義 )で 所 有 権 保 存 登 記 又 は 所 有 権 移 転 登 記 を された も の で あ る こと (3) 居 室 便 所 台 所 及 び 風 呂 を 備 え 居 住 の ために 使 用 す る 部 分 の 延 べ 床 面 積 が 5 0 平 方 メ ー ト ル 以 上

七 の 二 自 然 公 園 法 ( 昭 和 三 十 二 年 法 律 第 百 六 十 一 号 ) 第 二 十 条 第 一 項 に 規 定 する 国 立 公 園 又 は 国 定 公 園 の 特 別 地 域 のうち 同 法 第 二 十 一 条 第 一 項 に 規 定 する 特 別 保 護 地 区 その 他


別 表 1 土 地 建 物 提 案 型 の 供 給 計 画 に 関 する 評 価 項 目 と 評 価 点 数 表 項 目 区 分 評 価 内 容 と 点 数 一 般 評 価 項 目 立 地 条 件 (1) 交 通 利 便 性 ( 徒 歩 =80m/1 分 ) 25 (2) 生 活 利 便

Microsoft Word - H24様式(那珂市版).doc

2. 建 築 基 準 法 に 基 づく 限 着 色 項 目 の 地 区 が 尾 張 旭 市 内 にはあります 関 係 課 で 確 認 してください 項 目 所 管 課 窓 口 市 役 所 内 電 話 備 考 がけに 関 する 限 (がけ 条 例 ) 都 市 計 画 課 建 築 住 宅 係 南 庁 舎

Transcription:

流 通 科 学 大 学 論 集 経 済 情 報 政 策 編 第 22 巻 第 1 号,133-156(2013) 20 世 紀 初 頭 における 神 戸 市 域 の 第 一 次 産 業 近 郊 農 業 と 遠 洋 漁 業 を 中 心 に Primary Industry of Kobe in the Early 20 th Century * 加 藤 慶 一 郎 Keiichiro Kato 今 日 の 神 戸 市 域 をその 範 囲 として 20 世 紀 初 頭 における 第 一 次 産 業 の 構 造 変 化 を 本 稿 では 検 討 し た 当 時 の 近 郊 農 業 においては 神 戸 の 都 市 化 の 進 展 とともに 米 麦 中 心 の 生 産 から 蔬 菜 栽 培 への 転 換 がはかられつつあった それと 同 時 に 果 樹 園 が 観 光 農 園 的 な 形 で 展 開 しつつあった 他 方 で 神 戸 は 遠 洋 漁 業 の 有 力 な 拠 点 として 発 展 しつつあった これは 明 治 中 期 以 降 停 滞 状 態 にあった 漁 獲 量 を 増 加 に 導 くものであった キーワード: 神 戸 近 郊 農 業 遠 洋 漁 業 トロール 汽 船 Ⅰ.はじめに 明 治 以 降 の 神 戸 市 の 第 一 次 産 業 については 新 修 神 戸 市 史 産 業 経 済 編 Ⅰ 第 一 次 産 業 ( 神 戸 市 1990 年 )において 全 編 にわたり 広 く 取 り 上 げられている 本 稿 では 20 世 紀 初 頭 を 対 象 に 余 り 触 れられていない 点 について 述 べたい 当 時 全 国 的 にも 神 戸 においても 都 市 化 工 業 化 が 大 きく 進 むなか 第 一 次 産 業 のあり 方 も 大 きく 変 化 した その 実 態 について 具 体 的 に 述 べてい くことにしたい Ⅱでは 市 域 周 縁 部 における 農 業 構 造 の 変 化 を 取 り 上 げる 周 縁 部 の 一 部 の 地 域 では 都 市 化 が 進 み 農 業 生 産 は 縮 小 しつつあったが 他 方 でより 付 加 価 値 の 高 い 商 品 作 物 特 に 蔬 菜 類 の 栽 培 が 増 加 する 傾 向 が 見 られた 本 節 ではこうした 点 を 個 別 の 村 を 検 討 するとともに 農 園 の 存 在 にも 着 目 することにしたい Ⅲでは 漁 業 を 取 り 上 げる 日 本 の 総 漁 獲 量 は 明 治 27 年 の 162 万 トンから 明 治 44 年 の 165 万 トンまで 横 ばいで 推 移 していた 大 正 期 以 降 技 術 の 進 歩 と 漁 場 の 拡 大 によってこうした 頭 打 ち 状 態 から 脱 することになる 1) 本 節 では 市 域 を 対 象 に 漁 業 の 構 造 変 化 に 検 討 を 加 える なお 神 戸 市 の 範 囲 は 周 辺 町 村 の 合 併 を 通 じて 拡 大 してきた したがっ て 時 期 によりその 範 囲 は 異 なるが 本 稿 では 原 則 として 現 在 の 市 域 を 念 頭 においている * 流 通 科 学 大 学 商 学 部 651-2188 神 戸 市 西 区 学 園 西 町 3-1 (2013 年 4 月 5 日 受 理 ) C 2013 UMDS Research Association

134 加 藤 慶 一 郎 Ⅱ. 近 郊 農 業 の 発 展 1. 都 市 化 の 進 展 と 農 業 蔬 菜 栽 培 の 増 加 明 治 後 期 から 大 正 期 にかけて 神 戸 市 の 人 口 は 増 加 し 続 けた 明 治 22 年 の 約 13 万 人 から 大 正 9 年 には 60 万 人 を 超 えるにいたった 世 帯 数 は 同 じ 時 期 に 3 万 4 千 世 帯 から 13 万 9 千 世 帯 へと 増 加 している 2) その 背 後 には 明 治 20 年 代 以 降 の 神 戸 における 貿 易 工 業 の 発 展 があった 3) 明 治 後 期 に 入 り 神 戸 港 の 日 本 の 貿 易 額 における 比 率 は 40% 前 後 をしめるようになった 同 じころ 明 治 前 期 から のマッチ 工 業 のほか ゴム 工 業 や 紡 績 業 造 船 業 鉄 鋼 業 などが 成 長 をとげた 食 料 の 供 給 状 況 を 見 ると 明 治 前 期 においては 当 時 の 市 域 住 民 が 消 費 する 米 は 市 域 で 自 給 がほ ぼ 可 能 であった 明 治 後 期 になると 神 戸 市 の 人 口 が 急 増 する 一 方 で 米 の 生 産 は 減 少 したため 米 は 大 幅 に 不 足 するようになった こうしたなかで 蔬 菜 などの 食 用 農 産 物 や 果 実 の 生 産 が 増 加 し 農 産 物 総 価 額 にしめる 比 率 も 上 昇 した 4) 蔬 菜 栽 培 の 展 開 当 時 の 神 戸 市 において 蔬 菜 などの 食 用 農 産 物 が 農 産 物 全 体 にしめる 割 合 は 明 治 40 年 には 約 15%だったが 大 正 5 年 になると 一 気 に 約 60%に 跳 ね 上 がった 果 実 も 1%が 9% に 上 昇 している 5) この 時 期 において 総 じてより 商 品 性 の 高 い 作 物 が 志 向 されつつあった こう した 全 体 的 な 傾 向 のなかで 後 年 市 域 に 合 併 される 周 辺 の 各 村 はそれぞれ 独 自 の 歴 史 立 地 気 候 などをもっており そのため 生 産 物 には 一 定 の 違 いが 生 まれることになった 2. 東 部 の 農 業 魚 崎 町 当 村 は 江 戸 時 代 から 江 戸 市 場 向 けの 清 酒 生 産 地 として 栄 えたが 第 一 次 産 業 では 農 業 と 並 んで 漁 業 が 盛 んだった 農 業 よりも 漁 業 が 優 勢 と 言 われた 時 期 もあり 大 正 期 を 過 ぎるころ には 漁 獲 物 漁 獲 物 製 造 品 が 当 地 の 特 産 物 である 清 酒 を 除 くと 唯 一 の 移 出 品 と 言 われるほどで あった 水 産 品 の 大 部 分 は 神 戸 市 大 阪 市 京 都 市 方 面 に 移 出 されており 昭 和 8 年 にはマイワ シの 生 産 額 が 兵 庫 県 で 第 1 位 を 占 めるほどであった 6) 他 方 で 村 内 では 牧 場 経 営 が 行 われており 明 治 33 年 ごろ 59 頭 の 牛 (うち 乳 牛 17 頭 )が 飼 育 にがわ されていた この 牧 場 は 昭 和 元 年 に 仁 川 ( 現 宝 塚 市 )へ 移 転 する 他 方 で 養 鶏 が 大 正 末 期 から 急 に 流 行 し 始 めた 飼 育 家 数 200 戸 飼 育 数 6000 羽 産 卵 数 年 間 30 万 個 にのぼった 蔬 菜 で 伸 長 が 目 覚 ましかったのはキュウリ 栽 培 だった その 中 心 は 横 屋 地 区 にあった 昭 和 3 年 に 当 村 本 庄 村 本 山 村 の 農 家 を 中 心 に 共 同 集 荷 販 売 のための 組 合 を 結 成 した 組 合 員 数 は 70 人 で 集 荷 はこれら 3 カ 村 だけでなく 周 辺 地 域 からもおこなった 販 売 先 は 神 戸 市 や 西 宮 市 におよんだ 兵 庫 県 の 仲 介 で 東 京 銀 座 へ 進 出 したこともあった 販 売 に 当 たっては 作 物 を 松 竹 梅 に 分 類 し 独 自 の 商 標 を 付 けた 地 元 のキュウリだけでなく 姫 路 のスイカや 淡 路 のタマ ネギを 扱 ったこともあった キュウリ 栽 培 農 家 のなかには 先 駆 的 なトンネル 栽 培 を 始 めるため

20 世 紀 初 頭 における 神 戸 市 域 の 第 一 次 産 業 135 西 宮 へ 移 転 したものもいた 7) キュウリ 栽 培 が 盛 行 するなか 組 合 委 員 長 の 竹 中 駒 富 は 胡 瓜 の 歌 を 作 っている その 歌 詞 には 横 屋 よいとこ 胡 瓜 の 本 場 昔 しや 山 田 のやせたんぼ 今 はゆるがぬあの 石 ずえに 月 の 名 所 は 須 磨 明 石 見 せてあげましょ 横 屋 胡 瓜 見 渡 す 限 り 野 も 畑 も 今 は 黄 金 の 花 ざかり 酒 は 灘 だよ 胡 瓜 も 灘 よ 同 じ 本 場 の 水 そだち 汽 車 や 自 動 車 あの 船 の 中 別 れ 別 れに 行 くけれど 共 に 他 国 で 名 をあげる とある キュウリ 栽 培 を 通 じて 農 家 が 潤 ったこと その 花 の 美 しさは 須 磨 の 月 に 販 売 力 の 強 さは 灘 の 酒 に 匹 敵 するほどだとの 自 負 心 がうかがえる 本 山 村 明 治 時 代 までは 純 粋 の 農 村 だった 明 治 10 年 の 統 計 によれば 全 戸 数 の 84%が 農 業 に 従 事 していた 村 内 には 米 のほか 菜 種 野 菜 木 綿 煙 草 などの 多 様 な 作 物 も 栽 培 されてい たが のちに 米 麦 の 二 毛 作 と 蔬 菜 栽 培 が 中 心 となった 大 正 時 代 に 入 ると 次 第 に 都 市 郊 外 の 住 宅 地 となり 大 正 末 期 から は 商 業 工 業 的 色 彩 が 強 くなった そう なると 村 内 のほか 近 接 する 都 市 への 蔬 菜 果 実 の 栽 培 が 中 心 となった こうし た 作 物 の 多 様 化 の 様 子 は 表 1 でも 確 認 できる 明 治 35 年 から 昭 和 5 年 にかけて は 多 様 化 が 進 むが 同 14 年 にかけては 品 目 数 に 減 少 が 見 られた 8) もともと 本 村 は 岡 本 梅 林 で 知 られ 梅 の 生 産 で 近 郊 に 知 られていたが 梅 林 が 住 宅 地 に 造 成 されるとともにその 生 産 高 が 減 少 し 自 家 用 が 主 となっていった 蔬 菜 栽 培 が 発 展 するなかで 昭 和 9 年 に 本 山 村 蔬 菜 出 荷 組 合 が 結 成 された 組 合 員 は 32 名 であった 出 荷 品 目 は キュウ リ ホーレンソウ すずな 類 ネギ サ トイモ ニンジン トマト ナス 三 ツ 葉 などであった 9) 当 村 の 畜 産 の 状 況 も 農 業 の 動 向 とよく 似 ている 家 畜 数 が 明 治 から 大 正 にかけ て 増 加 し 大 正 7 年 には 牛 は 200 頭 近 く におよんだ その 後 昭 和 に 入 り 減 少 に 表 1. 本 山 村 農 産 物 の 生 産 状 況 種 別 明 治 35 大 正 元 昭 和 5 昭 和 14 ダイズ サツマイモ ジャガイモ ダイコン ゴボウ タケノコ ナス ネギ サトイモ カボチャ ソラマメ フキ イチゴ キュウリ スイカ シロウリ ニンジン マクワウリ トマト 漬 菜 ホーレンソウ ミツバ キクナ パセリ エンドウ ウメ モモ カキ ビワ ブドウ イチジク マツタケ 合 計 10 15 27 19 資 料 ) 本 山 村 誌 385 388 頁

136 加 藤 慶 一 郎 転 じている 鶏 も 同 様 であり 羽 数 は 最 盛 期 に 9000 羽 以 上 産 卵 数 45 万 個 に 達 している( 表 2 ) 表 2. 本 山 村 の 家 畜 飼 育 状 況 年 代 牛 馬 鶏 ( 頭 ) ( 頭 ) 羽 数 卵 数 明 治 30 101 4 700 42,000 明 治 40 122 5 900 54,000 大 正 7 192 15 8570 400,000 昭 和 7 71 16 9270 451,000 昭 和 14 51 16 6438 73,940 昭 和 25 48 4 2274 155,780 資 料 ) 本 山 村 誌 389 頁 住 吉 村 当 村 の 産 業 は 明 治 末 期 から 大 正 期 にかけてその 最 盛 期 をむかえた しかし その 後 は 住 宅 地 としての 発 展 が 勝 り 地 域 産 業 は 次 第 に 衰 退 に 向 かった 10) 従 来 当 村 は 山 林 に 囲 まれ 耕 地 が 少 なく 農 業 には 適 しておらず 純 粋 の 農 家 は 三 分 の 一 程 度 だった 漁 業 も 伝 統 的 な 沿 岸 漁 業 の 域 にとどまっていた 村 民 の 職 業 は 日 雇 い 労 働 者 名 産 の 御 影 石 採 掘 を 主 とする 石 工 酒 造 関 係 労 働 者 住 吉 川 の 水 車 稼 ぎ 呉 田 浜 の 仲 士 稼 ぎなどが 中 心 だった 工 産 物 としては 種 油 油 粕 素 麺 酒 石 があった 明 治 末 期 からの 工 業 化 の 波 が 当 村 に 及 ぶと 工 産 物 も 変 容 を 遂 げることになり 大 正 期 には 清 酒 の 優 勢 であることは 変 わらなかっ たが 他 方 で 飴 靴 マッチ ゴム 製 品 ホウロウ 鉄 器 などが 生 産 されるようになった こうした 産 業 化 の 進 展 の 下 当 村 農 業 も 大 きな 変 化 を 経 験 した 表 3 にあるように 本 村 で は 小 作 農 が 戸 数 耕 地 面 積 で 多 数 を 占 めた 明 治 30 年 代 に 自 作 農 はその 耕 地 面 積 戸 数 を 数 分 の 一 にまで 減 らした 逆 に 小 作 農 は 同 時 期 に 増 加 傾 向 をしめしている これは 自 作 農 が 小 作 農 へ 転 換 したほか 村 内 外 での 就 業 や 農 外 就 業 機 会 の 増 加 によって 零 細 規 模 での 兼 営 農 業 が 可 能 に なったためかも 知 れない しかし これらの 作 用 も 長 続 きせず 大 正 期 には 減 少 に 転 じている 昭 和 期 にはいると 大 幅 に 数 を 減 らしており 特 に 田 地 の 減 少 幅 が 大 きかった 結 果 としては 小 作 農 による 畑 作 の 持 続 傾 向 が 比 較 的 強 く 当 村 の 農 業 部 門 の 中 心 となった 表 3. 住 吉 村 における 自 小 作 農 の 耕 作 地 戸 数 年 代 自 作 ( 反 戸 ) 小 作 ( 反 戸 ) 田 畑 戸 数 田 畑 戸 数 明 治 31 215 50 30 496 131 239 明 治 41 30 7 5 630 130 250 大 正 7 31 12 7 359 41 303 昭 和 4 6 7 5 22 38 44 昭 和 14 20 11 資 料 ) 住 吉 村 誌 434 436 頁

20 世 紀 初 頭 における 神 戸 市 域 の 第 一 次 産 業 137 大 正 期 には 大 規 模 な 土 地 改 良 事 業 が 行 われた その 背 景 には 大 阪 神 戸 両 都 市 における 工 業 化 と 都 市 化 の 進 展 により 当 村 が 郊 外 住 宅 地 としての 需 要 が 高 まり 転 入 者 が 増 加 したことがあ る 大 正 4 年 に 始 まる 改 良 事 業 に 先 立 ち すでに 本 村 の 地 主 たちは 住 宅 地 化 を 念 頭 に 相 互 に 工 場 貧 弱 な 住 居 の 建 設 を 自 粛 するよう 申 し 合 わせをおこなっていた 耕 地 を 住 宅 地 に 転 ずる 土 地 改 良 事 業 自 体 は 大 正 4 年 に 始 まり 大 正 12 年 に 工 事 が 終 了 した さほど 農 業 が 盛 んではなかった 当 村 でも 農 会 という 農 家 団 体 が 明 治 38 年 に 会 則 を 制 定 し 発 足 していた 会 の 活 動 を 通 じて 農 家 は 農 作 物 の 改 良 方 法 害 虫 駆 除 方 法 の 改 良 方 法 の 研 究 収 穫 増 加 の 奨 励 などをはかっていた しかし 大 正 11 年 になると 耕 地 激 減 を 理 由 に 農 会 事 業 は 中 止 されるにいたった このように 農 業 の 衰 退 は 明 らかだったが 完 全 に 消 滅 したわけではなかった より 商 品 性 の 高 い 作 物 に 転 換 することで 継 続 した 農 家 も 一 定 程 度 いたことは 先 に 確 認 したとおりである 昭 和 5 年 の 状 況 を 示 した 表 4 によれば さまざまな 蔬 菜 が 栽 培 されていたことが 分 かる たとえば 作 家 徳 田 秋 声 が 大 正 9 年 に 発 表 した 作 品 蒼 白 い 月 という 大 阪 と 神 戸 のあひだにある 美 しい 海 岸 の 別 荘 地 を 舞 台 にした 作 品 のなかで 地 元 で 静 養 する 甥 が 主 人 公 を 案 内 する 際 につぎのよ うな 会 話 が 交 わされている 11) 表 4. 住 吉 村 の 蔬 菜 栽 培 状 況 ( 昭 和 5 年 ) 種 別 反 別 収 穫 高 価 格 ネギ 11 6,200 貫 517 円 ジャガイモ 11 4,950 495 ナス 6 4,410 882 シロウリ 4 1,932 193 キュウリ 3 1,500 240 漬 菜 3 930 90 カボチャ 2 410 151 ミツバ 2 400 160 ニンジン 1 800 80 サトイモ 1 350 93 トマト 1 750 300 合 計 62 22,630 3,201 資 料 ) 住 吉 村 誌 441 442 頁 それあ 貴 方 道 路 はもう 町 を 形 づくるに 何 よりも 大 切 な 問 題 ですがな かれはちょっと 嵩 にかゝるやうな 調 子 で 応 へた もっともこの 砂 礫 ぢゃ 作 物 は 駄 目 だからね いゝえ 作 物 もよう 出 来 ますぜ これからあんた 先 へ 行 くと 畑 地 が 沢 山 ありますがな この 辺 の 土 地 はなかゝ 高 いだらう なかゝ 高 いです

138 加 藤 慶 一 郎 町 づくりのために 道 路 が 開 通 し 土 地 もなかなか 高 い のであるが 他 方 で 作 物 がたくさんで きる 畑 地 が 沢 山 まだこの 辺 りにはあったのである 畜 産 についても 趨 勢 は 耕 作 とほぼ 同 じで 昭 和 初 年 には 存 在 感 は 薄 れたものの 後 年 になるま で 根 強 く 残 存 している 当 村 にも 搾 乳 を 目 的 とした 牧 場 が 明 治 35 年 に 設 立 されている これは 大 正 7 年 に 閉 鎖 されたが 農 耕 運 搬 用 の 牛 馬 はひきつづき 相 当 数 が 飼 育 されていた 大 正 9 年 に は 148 頭 の 牛 が 飼 育 されていた 昭 和 5 年 には 牛 飼 育 戸 数 24 頭 数 46 馬 飼 育 戸 数 32 頭 数 34 をかぞえた 比 較 的 集 約 的 な 飼 育 が 可 能 な 鶏 は 明 治 末 期 から 昭 和 期 にかけて 増 勢 にあり 昭 和 10 年 には 3000 羽 以 上 が 飼 育 されていた ほかに 鉱 業 として 昭 和 期 にいたっても 炭 焼 きが 村 内 で 行 われていたようである また 本 村 内 の 荒 神 山 には 最 良 の 御 影 石 が 産 出 された その 販 路 は 近 畿 地 方 だけにとどまらず 東 京 北 陸 方 面 山 陰 山 陽 方 面 徳 島 四 国 方 面 鹿 児 島 北 海 道 など 広 範 囲 におよんだ その 用 途 は 建 築 用 資 材 だけでなく 石 碑 や 銅 像 台 石 にもちいられることがあった たとえば 松 方 正 義 山 県 有 朋 などの 碑 神 戸 三 宮 神 社 の 忠 魂 碑 などにも 用 いられている 西 灘 村 本 村 でも 米 や 麦 を 主 な 作 物 として 農 業 がながく 続 けられてきたが 明 治 後 半 に 入 り 商 工 業 の 発 展 住 宅 地 の 増 加 にともない 近 郊 農 業 的 な 色 彩 が 強 くなっていった 表 5 により 明 治 16 年 の 職 業 別 の 戸 数 を 見 ると 12) 農 業 専 業 の 家 計 が 過 半 をしめるものの 農 商 兼 業 や 手 工 業 輸 送 業 関 連 もそれぞれ 10%を 超 えており あるていど 町 場 化 していたことが わかる それは 本 村 が 清 酒 の 産 地 灘 五 郷 の 一 つである 西 郷 に 属 していたことと 強 く 関 係 して いたと 考 えられる 当 村 の 酒 造 りにおいては 酒 米 に 北 摂 や 播 磨 の 産 米 が 使 用 され 村 内 で 精 米 が 行 われ またその 製 品 は 東 京 をはじめとする 遠 方 の 市 場 に 向 けて 出 荷 されたからである ただ し より 細 かく 見 ると 村 内 の 地 区 ( 江 戸 時 代 の 村 落 に 由 来 する 10 地 区 )ごとに 違 いがある 漁 業 はほぼ 岩 屋 地 区 に 集 中 していた 工 作 力 役 は 河 原 地 区 が 中 心 であった これらは 一 時 さかん であった 素 麺 製 造 業 と 灘 酒 にもちいる 酒 樽 の 製 造 業 に 属 するものが 多 かった 13) 農 商 兼 業 は 村 内 に 比 較 的 広 く 分 布 していたが なかでも 原 田 地 区 が 多 く 全 体 の 4 割 がこの 地 区 にあった 店 売 は 岩 屋 地 区 に 多 く 全 体 の 6 割 をしめた 逆 に 農 業 専 業 の 比 率 が 高 かったのが 畑 原 稗 田 の 両 地 区 で 特 に 畑 原 地 区 は 22 戸 すべてが 農 業 専 業 であった 表 5. 西 灘 村 の 職 業 別 戸 数 ( 明 治 16 年 ) 職 業 戸 数 比 率 (%) 農 業 296 65 漁 業 11 2 工 作 力 役 44 10 農 商 兼 業 79 18 店 売 24 5 合 計 454 100 資 料 ) 西 灘 村 史 67 頁

20 世 紀 初 頭 における 神 戸 市 域 の 第 一 次 産 業 139 それから 約 30 年 後 の 大 正 期 の 状 況 は 次 のようであった 表 6 は 大 正 3 年 と 同 13 年 の 職 業 別 戸 数 をしめしたものである 戸 数 が 約 1300 から 9000 近 くへと 大 幅 に 増 加 している 第 一 次 大 戦 の 好 景 気 のなか 家 族 持 ちよりも 単 身 者 の 転 入 が 多 かった 面 もあろうが 人 口 が 急 速 に 増 加 した ことがうかがえる 各 職 業 の 戸 数 の 変 化 を 見 ると 農 業 牧 畜 と 山 土 採 取 鉱 業 は 戸 数 が 減 少 しており 特 に 前 者 は 292 戸 から 56 戸 へと 激 減 している この 2 種 以 外 はいずれも 戸 数 が 増 加 している 増 加 率 が 高 かったのは ゴム 製 造 業 被 服 染 色 洗 濯 湯 熨 斗 業 その 他 工 業 物 品 賃 貸 売 買 周 旋 業 その 他 商 業 自 由 業 船 舶 によらざる 交 通 業 技 芸 娯 楽 に 関 する 職 業 であった 製 造 業 発 展 は 菓 子 パン 類 の 伸 び 大 正 12 年 に 設 立 された 灘 割 箸 会 社 日 本 輪 業 会 社 (タイヤ 製 造 ) 東 洋 螺 旋 鋲 株 式 会 社 ( 真 鍮 木 捻 子 製 造 )の 創 立 にあった 14) このように 西 灘 村 では 大 正 期 に 都 市 化 が 急 速 に 進 み 第 二 次 産 業 第 三 次 産 業 の 比 重 が 高 まった 表 6. 西 灘 村 の 職 業 別 戸 数 職 業 種 別 大 正 3 同 13 職 業 種 別 大 正 3 同 13 農 業 牧 畜 292 56 物 品 賃 貸 売 買 周 旋 業 2 30 漁 業 4 5 旅 宿 飲 食 店 遊 戯 場 営 業 15 138 山 土 採 取 鉱 業 7 5 その 他 商 業 564 土 木 請 負 業 30 84 自 由 業 32 1,080 ゴム 製 造 業 1 5 船 舶 によらざる 交 通 業 33 被 服 染 色 洗 濯 湯 熨 斗 業 4 61 技 芸 娯 楽 に 関 する 職 業 25 木 竹 類 に 関 する 製 造 業 1 76 土 地 家 屋 収 入 で 生 活 する 者 217 353 飲 食 料 品 嗜 好 品 製 造 業 24 40 日 雇 労 働 者 307 2,953 その 他 工 業 4 267 無 職 職 業 を 申 告 せざる 者 269 1,755 物 品 販 売 業 308 1,335 合 計 1,321 8,880 金 融 保 険 業 15 資 料 ) 西 灘 村 史 68 69 頁 次 に 農 業 について 見 る 表 7 によると 明 治 末 から 大 正 期 を 通 じて 全 体 に 減 少 傾 向 がつづい た 特 に 大 正 8 年 から 同 13 年 にかけての 時 期 が 著 しかった この 間 に 同 村 の 農 業 はほぼ 消 滅 する にいたった しかし それ 以 前 において 田 地 は 自 作 小 作 ともにある 程 度 維 持 された 他 方 で 畑 地 は 小 作 においてはかえって 増 加 している これは 恐 らく 農 業 から 撤 退 した 自 作 農 の 畑 地 の 一 部 が 小 作 農 の 経 営 地 へと 転 じたためとも 考 えられる もしそうならば 意 欲 の 高 い 農 家 の 手 に 耕 地 が 集 まり その 時 の 状 況 に 適 した 農 業 をおこなうことで 土 地 の 有 効 利 用 につながるため 生 産 性 の 向 上 を 意 味 する こうしたことから あるていど 当 村 農 業 の 衰 退 傾 向 に 歯 止 めがかかっていた のかもしれない なお 園 芸 農 業 にふさわしい 新 しい 作 物 を 導 入 するには 試 験 研 究 が 必 要 である が 当 村 の 河 原 地 区 においては 明 治 45 年 に 武 庫 郡 農 会 試 植 場 が 設 置 され 洋 種 蔬 菜 の 栽 培 など がおこなわれた 15)

140 加 藤 慶 一 郎 自 作 小 作 表 7. 西 灘 村 の 自 小 作 別 田 畑 面 積 ( 単 位 : 反 ) 年 代 明 治 42 大 正 3 同 8 同 13 田 350 273 200 7 畑 139 96 42 15 田 833 804 722 6 畑 211 331 320 25 合 計 1,533 1,504 1,284 53 資 料 ) 西 灘 村 史 88 頁 当 村 の 栽 培 作 物 の 耕 地 面 積 を 示 した 表 8 によ ると ダイズやアズキなどはほとんど 耕 作 地 がな かった 他 の 作 物 については 一 定 の 変 化 が 生 じてお り 大 正 8 年 から 同 10 年 の 動 きが 興 味 深 い 総 面 積 が 若 干 増 えている 一 方 で 作 物 の 種 類 は 減 少 してい る あるていど 選 択 と 集 中 がおこなわれていること がうかがえる じっさい この 間 にジャガイモとキュ ウリはいずれも 約 3 倍 に 増 加 しているが ダイコン やネギは 耕 地 面 積 が 減 少 している 大 正 10 年 から 同 13 年 にかけて 耕 地 自 体 が 激 減 した いったんふえた ジャガイモが 大 幅 に 減 少 しているのをはじめ ほぼ すべての 作 物 がその 耕 作 地 を 減 らしている そのな かでダイコンが 依 然 としてかなりの 面 積 を 維 持 して いるのが 目 を 引 く 明 治 32 年 生 まれで 関 西 学 院 中 学 部 に 通 学 経 験 を もつ 作 家 今 東 光 の 自 伝 的 小 説 悪 太 郎 に 西 灘 村 周 表 8. 農 産 物 雑 類 耕 地 面 積 ( 単 位 : 反 ) 種 類 大 正 8 同 10 同 13 ダイズ 6 7 アズキ 2 エンドウ 7 3 4 ソラマメ 6 4 2 サツマイモ 3 ジャガイモ 33 95 10 タマネギ 2 サトイモ 12 7 6 漬 菜 8 18 3 キャベツ 4 2 ダイコン 95 80 72 カブラ 15 8 3 ニンジン 14 15 5 ネギ 73 35 8 ゴボウ 21 20 10 キュウリ 23 65 6 ナス 39 19 10 ミツバ 23 15 7 合 計 386 393 146 資 料 ) 西 灘 村 史 92 93 頁 辺 を 描 いた 一 節 がある 16) 時 期 は 大 正 初 年 と 考 えられる 当 時 の 関 西 学 院 は 西 灘 村 の 西 端 にあっ た 昭 和 4 年 に 現 在 の 西 宮 市 へ 移 転 することになる 上 筒 井 の 終 点 でおりると 懐 しい 関 西 学 院 への 道 をすたすたと 急 いだ もうまったく 暗 くなっ ているので 摺 れ 違 う 人 の 顔 さえ 碌 にわからない 大 根 畑 が 左 右 に 展 開 し 摩 耶 颪 が 冷 たく 頬 を 撫 でた 阪 急 電 鉄 が 三 宮 へ 乗 り 入 れるのは 昭 和 11 年 であり このころはまだ 上 筒 井 が 終 点 であった 上 筒 井 駅 から 関 西 学 院 へ 行 く 途 中 には 大 根 畑 が 両 側 に 広 がっていたのであった さいごに 畜 産 について 見 ておく 大 正 13 には 村 内 に 牧 場 が 5 カ 所 あり 合 計 で 80 頭 の 乳 牛 が 飼 育 されていた その 大 半 はホルスタインだった これら 乳 牛 の 産 地 は 淡 路 大 阪 府 西 灘 村 神 戸 市 香 川 県 が 多 かったが 千 葉 県 産 や 石 川 県 産 も 見 られた 豚 の 飼 育 頭 数 にはめまぐるしい

20 世 紀 初 頭 における 神 戸 市 域 の 第 一 次 産 業 141 増 減 があり 大 正 7 年 の 160 頭 が 翌 年 には 85 頭 とほぼ 半 減 し 大 正 13 年 には 皆 無 になった 養 鶏 業 は 従 来 農 家 の 副 業 として 小 規 模 におこなこわれる 場 合 が 多 かったが この 時 代 において 専 業 化 が 進 んだ 村 内 で 飼 育 される 家 禽 は 明 治 42 年 の 1590 羽 から 大 正 13 年 の 1 万 5383 羽 へと わずか 十 数 年 のあいだに 10 倍 近 く 増 加 している 17) 産 卵 個 数 は 約 5 万 個 から 100 万 個 へと 増 加 した 1 羽 あたりの 産 卵 個 数 が 2 倍 になっている 点 が 目 を 引 く 3. 北 部 の 農 業 有 野 村 当 村 ( 現 北 区 内 )では 酒 米 が 栽 培 されていた これは 全 国 的 な 清 酒 の 産 地 である 灘 地 方 へ 酒 米 として 販 売 されていた 18) 明 治 42 年 (1909)からエダマメの 栽 培 が 始 められていた その 栽 培 法 は 稲 田 の 畦 に 種 子 を 植 え 焼 土 または 灰 および 過 リン 酸 石 灰 をまぜた 土 で 覆 うとい うものであった 発 芽 後 は 一 切 手 入 れは 不 要 とされていた 販 路 はもっぱら 神 戸 であった 将 来 性 としては 同 様 に 畦 を 利 用 して 栽 培 する 実 ダイズよりも 収 益 性 が 高 く そのため 年 々 栽 培 者 が 増 加 していた 近 隣 では 明 石 郡 の 押 部 谷 平 野 玉 津 などでさかんに 栽 培 されていた 19) にろう 大 正 2 3 年 ごろから 農 会 の 指 導 を 受 けて 村 内 の 地 区 である 二 郎 部 落 の 篤 農 家 であった 古 家 石 松 勝 浦 宇 之 助 らがトマト キュウリ スイカなどの 栽 培 を 開 始 した その 後 全 村 に 普 及 する とともに 生 産 額 が 増 加 し その 際 には 二 郎 蔬 菜 の 名 で 阪 神 地 方 へ 向 けて 生 産 がおこなわれた 昭 和 初 年 以 降 は 二 郎 苺 が 栽 培 され 毎 年 4 5 月 ごろにはイチゴ 狩 りに 数 千 名 がおとずれ た 他 にも ダリア チューリップ グラジオラス 百 合 菊 などが 栽 培 された これらも 後 に 全 村 に 広 がり 有 馬 農 場 上 田 岡 田 前 切 福 井 の 諸 農 園 では 温 室 を 設 けるなどして 高 い 専 門 性 をもって 取 り 組 まれた それと 並 行 して 各 種 の 球 根 種 子 の 販 売 なども 行 っている なお これらの 事 業 をおこなう 際 には 有 野 園 芸 組 合 が 組 織 された また 当 村 は 松 茸 類 の 産 地 として も 著 名 であった 毎 年 10 月 ごろになると 神 戸 阪 神 地 方 より 観 光 客 が 訪 れ にぎわいを 見 せた 4. 西 部 の 農 業 垂 水 村 当 村 は 東 を 摂 津 国 と 播 磨 国 の 国 境 で 神 戸 市 と 接 しており 西 は 明 石 市 に 隣 接 している その 地 勢 はおおむね 平 坦 で さらに 地 味 が 肥 沃 なため 農 産 物 も 豊 かである 河 川 に 大 きなものは ないが 福 田 川 谷 川 山 田 川 が 難 流 して 海 にそそいでいる 20) 神 戸 と 明 石 の 中 間 に 位 置 する 当 村 は 住 宅 地 として 発 展 し 耕 地 は 減 少 傾 向 にあった 大 正 12 年 現 在 で 総 戸 数 1800 戸 余 り うち 農 家 は 530 ていどである しかし 沿 海 部 のいくつかの 地 区 を 除 けば 依 然 として 純 農 村 がしめており 農 業 が 中 心 であった 主 要 農 産 物 は 米 麦 だが 他 方 で 蔬 菜 栽 培 など 園 芸 農 業 が 展 開 しつつあった 果 樹 栽 培 では 農 家 の 副 業 として 有 望 視 されるようになり いたるところに 果 樹 園 が 設 けられるようになった 特 に 塩 屋 の 果 樹 栽 培 は 急 速 の 進 歩 をとげた 栽 培 果 樹 としてはビワ カキ モモ ナシなどがあり

142 加 藤 慶 一 郎 そのうちでビワの 作 付 面 積 が 多 かった 21) 蔬 菜 栽 培 ではもともと 神 戸 向 けの 主 要 産 地 の 西 代 西 灘 などが 住 宅 地 に 転 じるにしたがい 当 村 の 発 展 可 能 性 が 高 まった 主 要 作 物 はダイコン スイカ ナスなどで ほかにイチゴなどの 西 洋 蔬 菜 の 栽 培 がめざされるようになった このうちスイカは 明 石 郡 農 会 の 振 興 策 により 大 いに 増 加 した 大 正 12 年 に 阪 神 地 方 において 圧 倒 的 勢 力 をもつ 奈 良 県 の 栽 培 状 況 の 調 査 当 郡 農 家 にたいする 講 話 会 講 習 会 栽 培 の 奨 励 など をおこなった その 結 果 翌 年 において 当 村 や 押 部 谷 村 などを 中 心 に 30 町 歩 ほどの 栽 培 を 見 るに いたった 郡 農 会 では 西 瓜 出 荷 組 合 を 組 織 し 明 石 西 瓜 の 商 標 を 作 成 し 出 荷 に 際 して 貼 付 する ようにした さらに 集 荷 組 合 間 の 連 携 を 強 めるため 各 組 合 代 表 者 の 会 同 を 開 催 し 満 場 一 致 で 明 石 郡 西 瓜 出 荷 組 合 連 合 会 の 創 立 が 可 決 された もっとも 重 要 な 販 路 は 神 戸 市 と 明 石 市 であった が 昭 和 3 年 に 東 京 市 場 に 出 荷 したところ 予 想 外 に 好 評 だったため 問 屋 販 売 店 向 けの 試 食 会 や ポスターの 配 布 など 宣 伝 活 動 をおこなった 加 入 組 合 は 昭 和 5 年 において 36 におよんで いる 22) イチゴの 栽 培 は 大 正 9 年 に 米 国 より 垂 水 村 に 移 住 した 井 芹 梶 次 郎 がはじめたものである 11 年 に 楳 渓 清 之 助 が 30 アールの 耕 地 から 六 千 円 の 収 益 を 上 げたことでその 有 利 性 が 認 められた 後 に 急 激 に 増 加 した 昭 和 6 年 には 耕 地 面 積 30 ヘクタール 栽 培 戸 数 90 となった 大 正 14 年 には 西 垂 水 と 山 田 地 区 で 組 合 が 結 成 され 肥 料 の 共 同 購 入 栽 培 法 の 改 善 販 売 広 告 に 関 する 協 定 締 結 などを 実 施 した 昭 和 5 年 から 油 障 子 応 用 フレーム 栽 培 がはじまり 促 成 栽 培 がひろまった 7 ~9 年 が 最 盛 期 で 9 年 の 室 戸 台 風 による 風 水 害 後 に 住 宅 が 増 え 耕 地 が 減 少 した 23) このイチゴ 果 樹 園 は 山 陽 電 鉄 垂 水 五 色 山 歌 敷 山 の 各 駅 や 山 陽 線 の 垂 水 舞 子 両 駅 に 近 かっ たこともあり 収 穫 時 期 になるとイチゴ 狩 りの 訪 問 客 に 娯 楽 的 に 収 穫 する 機 会 を 提 供 した 5. 農 園 蔬 菜 園 明 治 後 期 に 園 芸 への 関 心 が 高 まるなかで 果 樹 園 も 登 場 するようになった 表 9 には 明 治 38 年 に 現 在 は 神 戸 市 域 であるが 当 時 は 神 戸 市 周 辺 にあった 果 樹 園 をあげている 24) 表 9. 主 要 な 蔬 菜 果 樹 園 ( 単 位 : 反 ) 園 名 所 在 地 開 園 創 立 者 百 果 園 須 磨 村 明 治 26 岩 井 繁 太 郎 桃 楽 園 須 磨 村 明 治 34 宮 本 五 良 兵 衛 相 庭 園 本 庄 村 清 友 園 須 磨 村 兼 吉 文 三 郎 静 香 園 住 吉 村 明 治 18 高 木 潔 上 田 園 本 庄 村 明 治 37 今 仲 蔬 菜 園 西 灘 村 明 治 29 英 国 人 A.H.グルーム 華 実 園 西 灘 村 吉 坂 国 蔵 資 料 ) 兵 庫 県 武 庫 郡 の 園 芸 1912 年 13 14 18 22 30 34 35 頁

20 世 紀 初 頭 における 神 戸 市 域 の 第 一 次 産 業 143 なかでも 注 目 されるのは 今 仲 蔬 菜 園 である 当 園 は 当 時 の 西 灘 村 に 所 在 した 所 有 者 は 英 国 人 A H グルームで 明 治 29 年 に 設 立 された 監 督 は 今 仲 芳 松 という 日 本 人 で 6 人 の 常 人 夫 が おり 屎 尿 を 肥 料 としていた 作 物 はグルームが 神 戸 で 社 長 として 経 営 していたオリエンタルホ テルに 食 材 として 納 付 された その 残 滓 は 豚 の 飼 育 に 再 利 用 していた グルームのこのような 自 給 自 足 の 背 景 には 当 時 のオリエンタルホテルにとって 国 産 の 作 物 では 十 分 な 食 材 が 得 られず 輸 入 した 缶 詰 に 頼 らざるを 得 ないという 事 情 があった そこでか れは 自 らの 土 地 を 蔬 菜 園 にして アスパラガス ジャガイモ タマネギ カブ ニンジン レタ ス セロリ カリフラワーを 栽 培 したのである その 際 には そのころの 日 本 人 でこうした 作 物 を 栽 培 した 経 験 者 は 少 なかったため 原 書 を 翻 訳 して 日 本 人 園 丁 に 教 えた 同 時 に 経 験 のある 在 留 外 国 人 も 手 伝 った 25) 果 樹 園 表 9 のうち 須 磨 村 の 百 果 園 は 梨 天 津 水 蜜 桃 甘 露 上 海 水 密 桃 などを 神 戸 地 方 へ 出 荷 しており 同 じ 須 磨 村 の 清 友 園 は 毎 年 数 百 名 の 入 園 者 が 神 戸 やその 他 の 地 域 から 訪 れていた 西 灘 村 の 華 実 園 はかなり 企 業 的 で 2 名 の 園 丁 を 雇 用 し 苗 株 は 横 浜 市 の 植 木 会 社 から 取 り 寄 せ 園 内 の 温 室 は 蒸 気 仕 掛 けだった 表 10 は 大 正 元 年 の 神 戸 市 の 主 要 な 農 園 をあげている 26) 須 磨 町 の 百 々 園 は 都 市 近 傍 における 果 樹 園 芸 を 企 だつるものゝ 好 参 考 と 評 価 されている 27) 創 立 者 の 名 倉 周 蔵 が 山 陽 線 鷹 取 駅 近 くの 2 町 余 りの 田 地 を 賃 借 して 開 いた ここに 上 海 水 蜜 桃 などを 栽 培 した 同 園 は 毎 年 開 花 期 と 成 熟 期 に 園 を 開 放 し 園 内 各 所 に 茶 店 店 舗 を 開 き 集 客 をはかった 開 花 成 熟 期 には 車 馬 相 継 ぎ 園 内 雑 踏 を 見 る 状 態 だったという また 須 磨 兵 庫 神 戸 市 の 顧 客 に 対 して 毎 朝 果 実 を 配 達 した 問 屋 に 販 売 する 場 合 は 園 名 百 々 園 をしるした 包 み 紙 を 使 って 搬 入 した 表 10. 神 戸 市 域 における 主 な 農 園 園 名 所 在 地 開 園 創 立 者 百 々 園 須 磨 町 明 治 35 名 倉 周 蔵 甘 芳 園 伊 川 谷 村 明 治 35 小 笠 原 静 三 浦 果 樹 園 伊 川 谷 村 明 治 36 三 浦 伊 三 吉 一 々 園 垂 水 村 明 治 38 池 本 大 作 神 戸 市 奥 平 野 村 明 治 4 村 田 平 左 衛 門 資 料 ) 兵 庫 県 農 会 編 発 行 兵 庫 の 園 芸 1912 年 244 252 274 頁 甘 芳 園 の 小 笠 原 静 は 門 閥 の 出 身 であった 明 治 35 年 に 居 を 明 石 町 大 蔵 谷 裏 に 移 すと 同 時 に 開 園 した 邸 宅 から 果 樹 園 まで 1 里 の 距 離 を 通 勤 した 三 浦 伊 三 吉 の 三 浦 果 樹 園 は 明 治 36 年 に 主 作 物 の 麦 が 非 常 に 不 作 であったため 対 応 策 として 果 樹 栽 培 を 採 用 した 一 々 園 は 塩 屋 地 区 の 高 台 で 湿 気 が 少 なく 眺 望 が 良 い 地 にあり 来 訪 者 に 果 樹 を 採 取 させる 方 法 により 多 数 が 訪 れた さいごの 村 田 平 左 衛 門 の 園 は 現 在 の 兵 庫 区 の 北 部 の 奥 平 野 に 所 在 した その 点 で 他 の 園 と 異 なる

144 加 藤 慶 一 郎 その 設 立 に 際 しては 明 治 4 年 当 時 の 兵 庫 県 令 神 田 孝 平 がアメリカ 在 住 の 親 友 から 得 た 馬 鈴 薯 を 村 田 に 与 えたのがきっかけになった 江 戸 時 代 に 救 荒 作 物 として 甘 藷 を 広 めた 青 木 昆 陽 という 学 者 がいたが 明 治 時 代 に 馬 鈴 薯 を 広 めた 村 田 は 古 今 其 対 比 を 一 にする と 評 されている 28) さ いごの 2 人 池 本 と 村 田 は 農 家 経 営 や 食 料 供 給 の 安 定 を 目 指 した 点 で 名 望 家 的 要 素 が 強 く その 点 で 他 の 園 主 とは 異 なる 表 11 には 他 の 5 反 以 上 の 面 積 を 持 つ 果 樹 園 を 一 覧 表 にした 有 馬 郡 明 石 郡 といった 現 在 の 北 区 西 区 垂 水 区 に 所 在 する 村 々の 果 樹 園 がほとんどを 占 めている 個 別 の 村 では 伊 川 谷 村 の 多 さが 目 を 引 く また 園 主 に 外 国 人 が 含 まれている この 点 は 西 灘 村 の 西 仲 蔬 菜 園 のA H グルームと 合 わせて 神 戸 市 の 特 徴 といえる 作 物 はモモ ナシ カキが 多 い それ 以 外 では イチジク リンゴ ブドウ ミカンが 見 られる なお このうちの 神 戸 市 の 能 勢 七 郎 は 園 芸 農 産 物 並 に 其 加 工 品 取 扱 商 人 として 明 治 42 年 の 農 商 務 省 の 調 査 記 録 に 果 実 塊 根 を 取 り 扱 うものとして 名 前 があげられている 29) その 住 所 は 神 戸 市 海 岸 通 り 六 丁 目 で ほかに 名 前 が あがっているものに 果 実 蔬 菜 及 其 他 加 工 品 取 り 扱 いの 明 治 屋 支 店 ( 神 戸 市 元 町 1 丁 目 ) があった 表 11. 神 戸 市 域 において 5 反 歩 以 上 を 栽 培 する 果 樹 園 栽 培 種 類 反 別 郡 村 名 氏 名 ブドウ イチジク 14 神 戸 市 能 勢 七 郎 モモ ナシ リンゴ 17 有 馬 郡 中 野 村 平 野 農 業 部 モモ ナシ リンゴ 10 有 馬 郡 道 場 村 岸 田 藤 太 郎 モモ リンゴ ナシ 8 有 馬 郡 三 輪 村 勝 部 竹 松 ナシ リンゴ 20 明 石 郡 伊 川 谷 村 平 田 秀 隆 リンゴ ナシ モモ 7 明 石 郡 伊 川 谷 村 三 浦 竹 四 郎 ナシ 9 明 石 郡 伊 川 谷 村 村 上 竹 松 ミカン ナシ リンゴ 15 明 石 郡 伊 川 谷 村 下 松 三 代 吉 ナシ モモ 9 明 石 郡 神 出 村 藤 本 猪 太 郎 ナシ モモ 15 明 石 郡 玉 津 村 和 田 保 農 園 モモ ナシ 7 明 石 郡 垂 水 村 エチエーリネル モモ 8 明 石 郡 垂 水 村 岡 田 康 之 助 カキ 5 明 石 郡 櫨 谷 村 藤 井 作 蔵 ナシ カキ 5 明 石 郡 垂 水 村 北 野 儉 三 郎 資 料 ) 兵 庫 県 農 会 編 発 行 兵 庫 県 の 園 芸 275 279 頁 注 ) 1 反 未 満 切 り 捨 て Ⅲ. 神 戸 の 漁 業 の 発 展 遠 洋 漁 業 1. 神 戸 市 の 漁 業 神 戸 市 域 の 漁 村 表 12 は 明 治 27 年 に 発 表 された 調 査 結 果 にもとづく 神 戸 市 域 で 見 ると 漁 業 戸 数 約 700 漁 業 者 約 1900 名 製 造 戸 数 約 100 製 造 人 数 が 400 人 ほどであった 東 部 では 深 江 青 木 地 区 が 多 く 中 央 では 兵 庫 葺 合 西 部 では 駒 ヶ 林 東 須 磨 西 須 磨 東 垂 水 が 多 い

20 世 紀 初 頭 における 神 戸 市 域 の 第 一 次 産 業 145 なかでも 当 時 すでに 神 戸 市 域 であった 兵 庫 葺 合 地 区 が 戸 数 で 全 体 の 五 分 の 一 人 数 で 三 分 の 一 ほどをしめており その 比 率 の 高 さが 目 を 引 く 兵 庫 葺 合 地 区 表 12. 神 戸 市 域 の 漁 村 漁 業 者 製 造 重 要 水 産 物 戸 数 人 数 戸 数 人 数 生 鮮 製 造 134 659 20 74 ハモ タコ コノシロ ザコ カレイ コチ 駒 ヶ 林 121 199 14 42 イワシ イカナゴ イワシ イカナゴ 深 江 42 144 7 32 エビ 乾 イワシ 青 木 28 84 西 青 木 8 24 魚 崎 3 3 7 14 イワシ 乾 イワシ 横 屋 1 2 乾 イワシ 住 吉 11 66 1 5 イワシ 御 影 1 1 1 1 イワシ 乾 イワシ 八 幡 1 1 1 1 イワシ 乾 イワシ 新 在 家 6 6 4 9 大 石 1 1 7 13 岩 屋 2 10 5 15 東 須 磨 75 112 1 3 タコ カレイ タイ イワシ 西 須 磨 134 234 8 33 イワシ イカナゴ イカナゴ 塩 屋 28 46 5 30 クロダイ タイ ワカメ 東 垂 水 49 191 6 36 タコ ハモ イワシ 西 垂 水 31 31 4 26 ハゼ メバル 山 田 29 77 7 41 ザコ 資 料 ) 新 修 神 戸 市 史 産 業 経 済 編 Ⅰ 第 一 次 産 業 ( 神 戸 市 1990 年 )297 頁 ( 原 資 料 は 農 商 務 省 農 務 局 編 水 産 事 項 特 別 調 査 (1894 年 ) 明 治 中 期 以 降 になると 従 来 の 地 先 沿 岸 漁 業 による 漁 獲 量 が 伸 び 悩 むことになった これには 綿 網 の 普 及 などの 技 術 進 歩 が 一 定 の 成 果 を 収 めた しかし 沿 岸 漁 業 は 沿 岸 に 回 遊 してくる 魚 群 を 対 象 に 漁 をおこなう 点 で 消 極 的 であり 根 本 的 な 解 決 にはいたらなかった 30) これにたいして より 積 極 的 な 沖 合 遠 洋 漁 業 による 対 応 が 明 治 末 期 からはかられるようになった 明 治 30 年 には 遠 洋 漁 業 奨 励 法 が 公 布 された また 同 年 には 神 戸 で 第 2 回 水 産 博 覧 会 が 開 催 された 陳 列 館 で は 各 府 県 から 出 品 された 漁 具 漁 船 水 産 製 品 などが 陳 列 漁 業 関 係 の 図 書 の 展 示 などがおこな われた これは 特 殊 博 覧 会 としては 空 前 の 規 模 といわれ 水 産 知 識 の 普 及 に 大 きな 成 果 をおさめ た 31) 明 治 38 年 には 遠 洋 漁 業 奨 励 法 が 全 面 的 に 改 正 された 従 来 の 同 法 が 対 象 漁 船 の 規 模 から みて 当 時 の 一 般 遠 洋 漁 業 には 効 果 がほとんどなく ラッコ オットセイ 猟 捕 鯨 業 に 対 応 して いた 点 を 改 善 したものである その 前 年 にはわが 国 初 のトロール 漁 船 海 光 丸 が 試 運 転 をおこなっ ている これは 鳥 取 県 の 奥 田 亀 造 が 建 造 したもので 大 阪 堺 沖 でその 試 運 転 がおこなわれた 漁 獲 価 額 の 推 移 神 戸 における 漁 業 のあり 方 が 変 わってきたのは 明 治 末 のことであった

146 加 藤 慶 一 郎 表 13 には 神 戸 市 統 計 書 で 遠 洋 漁 業 の 漁 獲 高 の 掲 載 がはじまった 明 治 39 年 以 降 の 沿 岸 漁 業 と 遠 洋 漁 業 の 漁 獲 高 をしめしている 当 初 こそ 両 者 が 拮 抗 する 年 もあったが 遠 洋 漁 業 の 伸 びは 大 きく 1920 年 代 に 入 ると 沿 岸 漁 業 の 10 倍 以 上 にたっしている 表 13. 神 戸 市 の 漁 獲 高 ( 万 円 ) 年 沿 岸 漁 業 遠 洋 漁 業 神 戸 港 輸 入 遠 洋 漁 獲 採 集 物 水 産 製 造 物 明 治 39 7.4 0.3 2.7 40 10.8 1.0 9.2 41 10.7 21.1 11.2 42 12.6 17.7 4.2 3.6 43 17.1 20.1 6.2 4.8 44 17.0 47.9 8.0 11.4 大 正 元 16.9 11.9 13.5 4.4 2 13.0 61.9 17.1 2.1 3 11.7 41.6 1.8 1.0 4 8.3 32.7 28.5 0.1 5 8.6 24.7 59.8 0.9 6 12.1 0.0 88.3 0.4 7 13.3 0.0 65.3 61.2 8 17.1 36.6 46.8 8.4 9 27.7 320.3 59.1 9.3 10 28.8 475.3 56.9 102.6 11 22.7 473.5 9.2 49.3 12 36.2 562.9 0.9 75.4 13 34.9 500.1 2.1 83.3 14 40.5 562.9 2.2 86.7 昭 和 元 35.7 473.5 1.1 9.3 2 47.4 474.0 5.2 3 37.3 564.5 4.8 4 49.0 522.2 4.7 5 38.9 577.4 13.0 6 31.8 514.4 11.9 資 料 ) 神 戸 市 統 計 書 明 治 41 年 に 遠 洋 漁 業 が 急 増 しているのは 神 戸 に 本 社 をおく 帝 国 水 産 株 式 会 社 が 捕 鯨 業 で 19 万 821 円 の 漁 獲 高 をあげたためである しかし 翌 年 に 発 布 された 鯨 猟 取 締 規 則 は 捕 鯨 船 数 を 30 隻 に 制 限 するものだったため 同 社 の 捕 鯨 部 は 明 治 水 産 株 式 会 社 に 合 併 された 32) そのため 翌 年 以 降 の 実 績 はない 翌 42 年 以 降 もさほど 減 少 していないのは 西 洋 形 帆 船 による 沿 海 州 におけ るサケ マス 漁 と 汽 船 による 漁 獲 があったためである その 後 大 正 2 年 になると 遠 洋 漁 業 は 日 本 形 船 12 隻 汽 船 18 隻 をにない 手 としてさらに 大 規 模 におこなわれるようになった おもに 日 本 形 船 はカムチャッカで 定 置 網 漁 業 に 従 事 し 汽 船 は 黄 海 東 海 でトロール 漁 業 に 従 事 した しかし 第 一 次 大 戦 中 に 船 舶 が 不 足 し 漁 船 の 価 格 が 暴 騰 した 際 漁 船 は 売 却 されてしまった

20 世 紀 初 頭 における 神 戸 市 域 の 第 一 次 産 業 147 大 正 6 7 年 の 漁 獲 高 が 皆 無 だったのはこうした 理 由 による その 後 大 正 8 年 以 降 ふたたびト ロール 漁 業 が 復 興 し それ 以 前 とはけた 違 いの 漁 獲 高 をしめすようになった 翌 年 には 一 気 に 30 隻 のトロール 漁 船 が 稼 働 するようになった こうしたトロール 漁 船 の 全 国 的 動 向 は 表 14 にあ るとおりである トロール 漁 業 がはじまって 間 もない 明 治 42 年 に 早 くも 禁 漁 区 域 を 設 けられるな ど 規 制 がかけられた さらに 大 正 6 年 のトロール 漁 船 の 激 減 をとらえて 水 産 資 源 の 保 護 とトロー ル 漁 業 の 経 営 的 安 定 のため 汽 船 数 70 隻 新 造 船 は 200 トン 以 上 有 事 の 際 に 海 軍 予 備 艦 艇 とし て 使 用 可 能 な 補 強 構 造 などが 規 定 されている 33) 表 14. 全 国 トロール 汽 船 数 年 次 船 数 年 次 船 数 明 治 41 2 昭 和 1 69 42 9 2 70 43 17 3 67 44 67 4 69 大 正 1 139 5 72 2 139 6 71 3 131 7 69 4 129 8 71 5 56 9 74 6 7 10 77 7 6 11 76 8 10 12 74 9 48 13 47 10 57 14 59 11 67 15 58 12 70 16 26 13 70 17 16 14 70 資 料 ) 現 代 日 本 産 業 発 達 史 XIX 173 281 頁 漁 業 の 相 対 的 な 動 向 は 表 15 にしめしたとおりである 沿 岸 漁 業 が 最 多 であることは 大 正 5 年 から 昭 和 15 年 まで 一 貫 して 変 わらない しかし 大 正 期 以 降 漁 業 が 漁 場 魚 種 漁 法 などの 点 で 多 様 化 している そのことは 同 時 に 以 前 からの 生 業 的 な 漁 業 にくわえて より 企 業 的 な 漁 業 の 重 要 性 が 高 まってきていたことを 意 味 する 神 戸 市 では 先 に 見 たように 市 内 にも 大 規 模 な 漁 業 地 区 が 所 在 していたにもかかわらず 早 くから 遠 洋 漁 業 が 沿 岸 漁 業 を 大 きく 超 えている そ の 意 味 で 神 戸 の 漁 業 はより 時 代 を 先 取 りする 形 で 発 展 していたのかもしれない そして それは 近 代 的 な 漁 業 企 業 によって 牽 引 されたものであった 以 下 ではそのいくつかを 紹 介 することにし たい

148 加 藤 慶 一 郎 表 15. 種 別 漁 獲 高 ( 単 位 :100 万 円 ) 内 地 沖 合 遠 洋 汽 船 ト ロール 汽 船 捕 鯨 母 船 式 漁 業 年 次 沿 岸 カニ サケ マス クジラ 養 殖 大 正 5 96 6 3 1 5 6 116 15 1 1 6 7 162 26 0 1 8 8 235 27 1 1 11 9 257 38 4 1 13 10 240 48 8 1 19 11 240 58 10 1 14 12 247 65 10 1 15 13 251 65 9 1 17 14 254 72 9 1 4 18 昭 和 元 225 85 9 1 9 17 2 229 75 9 1 13 22 3 209 80 10 1 12 23 4 204 89 9 1 14 0 22 5 162 66 7 1 13 0 18 6 147 57 6 0 7 1 19 7 145 54 5 0 5 2 18 8 170 65 6 1 7 5 19 9 173 69 6 1 7 10 0 22 10 181 74 7 2 8 10 2 25 11 212 87 6 9 9 8 25 12 219 89 7 11 14 14 28 13 248 110 7 13 14 21 30 14 378 142 9 10 21 43 15 488 194 10 6 16 46 出 所 ) 山 口 和 雄 編 現 代 日 本 産 業 発 達 史 XIX 水 産 交 詢 社 出 版 局 1965 年 巻 末 統 計 表 44 52 頁 ( 原 資 料 は 農 商 務 統 計 表 農 林 省 統 計 表 ) 注 ) 母 船 式 漁 業 はいずれも 製 造 高 2. 神 戸 の 漁 業 企 業 共 同 漁 業 共 同 漁 業 は 今 日 の 日 本 水 産 の 母 体 となった 企 業 であり 昭 和 戦 前 期 において 日 産 コ ンツェルンの 水 産 部 門 をになう 企 業 に 発 展 した 創 業 者 は 田 村 市 郎 という 山 口 県 出 身 で 神 戸 に 居 住 した 企 業 家 である 幾 太 ( 斎 藤 神 戸 の 大 地 主 ) 久 原 庄 三 郎 市 郎 ( 田 村 共 同 漁 業 ( 日 本 水 産 )) 房 之 助 ( 久 原 日 産 コンツェルン) 久 原 鹿 太 郎 ( 明 治 28 年 没 ) 藤 田 伝 三 郎 叔 父 の 伝 三 郎 は 大 阪 の 藤 田 組 の 創 業 者 で 鉱 山 業 や 農 林 魚 児 島 湾 の 干 拓 などに 取 り 組 み 関 西 の 財 界 人 となった 兄 の 幾 太 は 山 口 県 令 などを 歴 任 した 中 野 梧 一 の 実 家 斎 藤 家 を 再 興 するため

20 世 紀 初 頭 における 神 戸 市 域 の 第 一 次 産 業 149 養 子 となり 神 戸 の 大 地 主 になった 弟 の 房 之 助 は 藤 田 組 に 勤 務 したのち 日 立 鉱 山 を 経 営 し そ れを 発 展 に 導 き 大 正 元 年 には 久 原 工 業 株 式 会 社 を 設 立 した 市 郎 は 母 フミの 実 家 田 村 家 の 養 子 となった 田 村 家 は 萩 の 商 家 で 屈 指 の 家 柄 であった 市 郎 は 父 親 から 分 与 された 資 金 を 元 手 に 事 業 を 開 始 した それは 3 分 野 にわたっており 朝 鮮 の 水 産 物 売 買 北 洋 漁 業 トロール 漁 業 で あった 34) 日 本 のトロール 漁 業 は 先 述 のとおり 明 治 38 年 にはじまるが 本 格 化 するのは 同 41 年 に 長 崎 の 倉 場 富 三 郎 がイギリスより 鋼 鉄 トロール 汽 船 を 購 入 しイギリス 人 を 雇 い 入 れて 操 業 を 実 施 して からである 同 年 に 田 村 市 郎 は 大 阪 鉄 工 所 において 鋼 製 トロール 汽 船 を 建 造 した これが 日 本 で 初 めて 新 造 したトロール 漁 船 だったが その 成 績 は 倉 場 富 三 郎 がイギリスから 購 入 したトロール 船 に 劣 っていた その 原 因 が 設 計 と 漁 法 の 未 熟 さにあると 判 断 されたため イギリスでトロール 船 を 建 造 することにした その 完 成 と 日 本 への 回 航 とともに 田 村 汽 船 漁 業 部 が 下 関 市 に 設 立 された 35) 他 方 で 共 同 漁 業 にたいして その 設 立 時 から 田 村 市 郎 が 関 与 していたわけではない 同 社 は 大 正 3 年 に 設 立 された それはトロール 漁 船 の 急 増 により 大 正 元 年 に 139 隻 におよび 過 当 競 争 におちいったことが 背 景 にあった 不 景 気 も 影 響 して 魚 価 が 低 下 したため トロール 漁 業 の 経 営 は 悪 化 した こうしたなかで 苦 境 にあったトロール 船 主 たちが 合 同 して 設 立 したのが 共 同 漁 業 だった 設 立 時 の 資 本 金 は 200 万 円 所 有 船 数 は 25 におよんだ 当 時 本 社 は 東 京 におかれ 支 店 は 大 阪 下 関 長 崎 にあった その 後 の 第 一 次 大 戦 期 の 船 舶 需 要 の 急 増 にともない 共 同 汽 船 も トロール 漁 船 一 隻 を 残 して 全 て 売 却 し 大 正 6 年 には 14 割 の 配 当 をするほどの 利 益 をあげた 同 年 の 7 月 に 本 社 をいったん 神 戸 にうつし 下 関 と 長 崎 の 支 店 を 廃 止 した 翌 年 には 資 本 金 を 30 万 円 に 減 じ 本 社 を 東 京 にもどした 田 村 はこのような 状 況 にあった 共 同 漁 業 の 大 半 の 株 式 を 手 中 に 収 め 大 正 8 年 田 村 汽 船 漁 業 部 から 改 組 改 称 された 日 本 トロール 株 式 会 社 を 共 同 漁 業 に 合 併 させた その 際 に 資 本 金 を 500 万 円 とし 本 社 を 神 戸 に 移 転 した 36) 表 16 を 見 ると トロー ル 漁 船 数 が3 隻 しかなかった 初 年 度 をのぞけば 払 込 済 資 本 金 にたいする 利 益 率 は 大 正 9 年 以 降 10~20% 台 で 推 移 しており 経 営 的 に 好 調 だったことがわかる また 先 の 表 14 のトロール 漁 船 総 数 と 共 同 漁 業 の 所 有 隻 数 をくらべると 同 社 の 勢 力 の 大 きさは 明 らかである ただし 大 正 12 年 12 月 期 以 降 は 冷 蔵 船 が 1 隻 追 加 されている くにし の み 同 社 のトロール 漁 業 の 責 任 者 は 国 司 浩 助 がつとめた 同 人 は 明 治 20 年 に 山 口 県 士 族 の 乃 美 平 太 の 三 男 として 神 戸 市 に 生 まれた 同 26 年 に 同 じ 山 口 県 士 族 で 母 方 の 親 族 である 国 司 家 の 養 嗣 子 となった 当 時 養 父 助 十 は 京 都 で 郵 便 局 長 の 職 にあったが その 後 に 福 岡 丸 亀 などへ 転 勤 し そのつど 国 司 は 転 校 を 余 儀 なくされた 37) 養 父 と 鮎 川 義 介 は 従 弟 の 関 係 にあった その 養 父 が 早 世 したため 国 司 一 家 は 鮎 川 家 に 身 を 寄 せた 国 司 は 農 商 務 省 水 産 講 習 所 に 学 んだが 入 学 に 際 しては 鮎 川 義 介 のほか いずれも 親 戚 筋 にあった 初 代 外 務 大 臣 井 上 馨 伯 爵 と 三 菱 財 閥 の 木 村 久 寿

150 加 藤 慶 一 郎 弥 太 に 相 談 した 水 産 講 習 所 卒 業 後 は 農 商 務 省 からヨーロッパに 派 遣 され 汽 船 トロール 漁 業 の 実 地 研 修 をおこなった 38) 帰 国 後 田 村 市 郎 の 経 営 していたブリ 大 敷 網 漁 業 に 従 事 したのち イ ギリスに 発 注 していたトロール 船 の 造 船 監 督 と 回 航 のために 渡 英 した 国 司 は 酒 も 飲 まず 宴 席 にも 出 ることはなく 鉄 筋 コンクリート といわれたほど 几 帳 面 で 研 究 熱 心 な 地 味 な 企 業 家 で あった 39) 国 司 が 考 える 新 しい 時 代 の 水 産 業 とは 未 開 拓 の 漁 場 を 広 く 世 界 に 求 め 之 が 生 産 物 を 世 界 に 供 給 する その 為 には 水 産 業 をして 工 業 的 に 発 展 せしむること であった 40) 決 算 期 表 16. 共 同 漁 業 株 式 会 社 の 経 営 状 況 払 込 資 本 金 利 益 金 利 益 率 隻 数 大 正 8 12 200 158,959 7.9 3 9 6 300 726,153 24.2 21 12 340 861,177 25.3 28 10 6 340 912,003 26.8 28 12 340 981,850 28.9 28 11 6 340 997,991 29.4 28 12 340 796,171 23.4 28 12 6 340 837,448 24.6 28 12 340 736,198 21.7 29 13 6 340 661,747 19.5 29 12 340 625,117 18.4 29 14 6 340 573,308 16.9 29 12 340 582,391 17.1 29 昭 和 元 6 340 594,987 17.5 28 12 494 682,212 13.8 32 2 6 574 901,604 15.7 33 12 574 1,051,199 18.3 34 3 6 806 1,081,373 13.4 39 12 806 1,102,265 13.7 39 資 料 ) 共 同 漁 業 株 式 会 社 の 事 業 86 87 頁 注 ) 単 位 は100 万 円 万 円 %である 共 同 漁 業 は 大 正 15 年 北 洋 漁 業 に 従 事 する 北 洋 水 産 株 式 会 社 と 水 産 会 社 を 対 象 とする 日 本 水 産 株 式 会 社 を 合 併 した これにより 同 社 はトロール 部 北 洋 部 投 資 部 の 各 部 門 に 分 かれること になった その 結 果 昭 和 4 年 の 時 点 で 共 同 漁 業 は 14 の 子 会 社 を 所 有 していた そのなかの 豊 洋 漁 業 株 式 会 社 もその 本 社 を 神 戸 においていた 同 社 は 大 正 14 年 に 創 立 され 2 隻 の 発 動 機 船 で 底 引 網 をひいて 底 魚 類 をとる 機 船 底 引 網 漁 業 を 営 んでいる この 機 船 の 大 きさは 50 トンを 越 えない よう 制 限 されていた 機 船 2 隻 の 建 造 費 はトロール 漁 船 の 約 半 分 ですみ 漁 獲 も 確 実 なためその ころ 大 きく 発 展 した 漁 法 だった 同 社 は 当 時 20 隻 の 機 船 を 2 隻 ずつ 10 組 にわけて 操 業 してい た なお 漁 獲 物 の 販 売 は 共 同 漁 業 株 式 会 社 に 一 任 していた 41) 田 村 市 郎 の 弟 久 原 房 之 助 の 経 営 する 久 原 鉱 業 は 第 一 次 大 戦 後 の 不 況 のなかで 業 績 が 悪 化 した

20 世 紀 初 頭 における 神 戸 市 域 の 第 一 次 産 業 151 そのため 久 原 房 之 助 は 経 営 から 手 を 引 くことになり その 再 建 を 託 されたのが 義 兄 の 鮎 川 義 介 で あった 鮎 川 は 田 村 家 や 斎 藤 家 の 力 を 借 りて 同 社 の 債 務 整 理 にあたり そのごは 企 業 名 を 日 本 産 業 とあらため 持 株 会 社 を 中 心 に 多 角 化 を 推 進 した そのなかで 共 同 漁 業 が 鉱 業 部 門 とならぶ 日 産 の 支 柱 として 考 えられた 持 株 会 社 の 日 本 産 業 は 水 産 関 係 事 業 の 拡 充 と 統 廃 合 をおこなった 最 終 的 に 共 同 漁 業 は 漁 業 部 門 加 工 部 門 販 売 部 門 投 資 部 門 からなる 総 合 水 産 会 社 となるが その 過 程 で 同 社 は 日 本 水 産 に 改 称 されるとともに 昭 和 9 年 に 約 10 年 間 本 社 がおかれた 神 戸 市 を 去 り 東 京 へ 移 転 した 帝 国 水 産 帝 国 水 産 株 式 会 社 は 明 治 40 年 に 資 本 金 200 万 円 (うち 50 万 円 払 込 み 済 み)をもっ て 設 立 された 本 社 は 神 戸 市 下 山 手 通 六 丁 目 におかれ 取 締 役 に 小 曽 根 喜 一 郎 ( 大 地 主 日 本 羽 二 重 社 長 ) 伊 丹 弥 太 郎 ( 九 州 鉄 道 株 式 会 社 重 役 ) 42) 弘 世 助 三 郎 ( 日 本 生 命 保 険 会 社 創 業 者 ) 瀧 川 辨 三 (マッチ 製 造 業 ) 曽 根 忠 兵 衛 ( 曽 根 忠 兵 衛 商 店 店 主 ) 監 査 役 は 岸 本 豊 太 郎 ( 岸 本 銀 行 神 戸 商 業 会 議 所 会 頭 ) 山 本 亀 太 郎 ( 再 生 茶 輸 出 商 ) 43) 木 津 太 郎 平 ( 高 岡 商 業 会 議 所 会 頭 )から なっていた 44) これら 役 員 の 顔 ぶれから 当 社 を 設 立 したのは 漁 業 関 係 者 ではなく 神 戸 の 企 業 経 営 者 などであったといえよう 創 業 当 初 は 捕 鯨 業 が 中 心 であった 45) 明 治 40 年 度 の 収 入 は 捕 鯨 業 が 10 万 円 北 洋 漁 業 が 5 万 円 日 本 沖 合 漁 業 が 7 万 円 であった 46) 捕 鯨 はノルウェーで 建 造 した 捕 鯨 汽 船 2 隻 と 国 産 の 捕 鯨 船 2 隻 を 使 用 した(アヴァロン 号 諏 訪 丸 ) 国 産 捕 鯨 船 のうち 1 隻 は 船 体 を 大 阪 鉄 工 所 で 購 入 し それに 大 阪 の 原 田 造 船 所 に 注 文 した 補 助 機 関 を 搭 載 した 補 助 機 関 付 遠 洋 捕 鯨 帆 船 であっ た( 旭 丸 ) またもう 一 隻 は 大 阪 鉄 工 所 で 建 造 した 鋼 製 捕 鯨 汽 船 であった( 六 甲 丸 ) これらに より 紀 州 沖 房 総 沖 などでナガスクジラ 55 頭 など 合 計 96 頭 を 捕 獲 した 事 業 場 は 宮 城 県 牡 鹿 郡 萩 浜 村 和 歌 山 県 東 牟 婁 郡 太 地 村 同 県 西 牟 婁 郡 富 士 橋 村 におかれていた 北 洋 漁 業 はロシア 領 沿 海 州 の 漁 場 で 行 われた 漁 船 は 借 り 入 れた 鉄 製 汽 船 で これに 食 料 品 な どを 積 み 込 み 神 戸 和 田 岬 を 出 発 した カムチャッカ 半 島 未 曽 有 の 不 漁 だったこの 年 の 漁 獲 物 は 塩 サケ 12 万 1341 尾 塩 マス 21 万 3408 尾 だった 日 本 沖 合 漁 業 はブリを 定 置 網 で 捕 獲 する 漁 法 で 行 われた 漁 場 は 石 川 県 珠 洲 郡 高 倉 村 に 賃 貸 借 契 約 にもとづき 設 けられた 近 年 稀 有 の 急 潮 流 来 襲 に 悩 まされ 漁 獲 高 は 5 万 8019 尾 であった 日 本 において 洋 式 の 捕 鯨 が 導 入 されたのは 明 治 30 年 代 であった 47) 日 露 戦 争 後 に 企 業 熱 のも と 洋 式 捕 鯨 法 を 採 用 した 東 洋 漁 業 株 式 会 社 の 成 功 を 機 に 続 々と 捕 鯨 会 社 が 設 立 された 明 治 41 年 現 在 でその 数 は 12 社 にのぼった これらの 多 くは 旧 来 の 捕 鯨 業 者 ではなく 政 治 家 や 企 業 家 な 地 方 有 力 者 によって 設 立 された 点 が 特 色 であった こうした 捕 鯨 企 業 が 急 増 するなか クジラの 保 護 と 企 業 経 営 の 安 定 が 不 安 視 されるようになっ たため 各 捕 鯨 会 社 の 合 同 を 明 治 末 と 大 正 期 の 2 度 にわたり 実 施 した このうち 明 治 末 の 合 同 に おいて 帝 国 水 産 はその 捕 鯨 部 門 を 継 承 会 社 である 東 洋 捕 鯨 に 譲 渡 した

152 加 藤 慶 一 郎 そのため 明 治 42 年 度 をもって 帝 国 水 産 は 最 大 の 事 業 部 門 を 失 うことになったが 翌 43 年 度 に おいてトロール 事 業 を 捕 鯨 業 ニ 代 フベキ 相 当 ノ 事 業 ト 認 メ 大 阪 鉄 工 所 に 発 注 したトロール 汽 船 2 隻 をもって 当 時 事 業 に 参 入 した 以 後 北 洋 漁 業 日 本 沖 合 漁 業 に 匹 敵 する 収 入 をあげる 事 業 部 門 に 発 展 し 大 正 2 年 度 においては 他 の 2 部 門 を 凌 駕 し 最 大 の 収 入 をあげている 表 17. 帝 国 水 産 株 式 会 社 の 事 務 所 ( 大 正 4 年 7 月 ) 名 称 設 置 期 要 務 所 在 本 社 常 設 全 般 神 戸 市 下 山 手 通 六 丁 目 カムチャッカ 事 業 場 夏 漁 期 間 サケ マス ロシア 領 カムチャッカ 州 西 海 岸 小 木 事 業 場 冬 漁 期 間 ブリ 石 川 県 珠 洲 郡 小 木 村 志 和 事 業 場 春 漁 期 間 ブリ 高 知 県 高 岡 郡 東 又 村 窪 津 事 業 場 春 夏 漁 期 間 ブリ 高 知 県 幡 多 郡 上 灘 村 下 関 事 業 場 常 設 トロール 下 関 市 西 細 江 町 資 料 ) 第 十 期 営 業 報 告 書 なお 表 17 は 大 正 7 年 7 月 現 在 の 事 務 所 の 一 覧 である 本 社 は 神 戸 市 におきつつ 事 業 の 拠 点 はロシア 領 内 石 川 県 高 知 県 下 関 市 に 展 開 していたことがわかる また 表 18 にはそ の 経 営 状 況 をしめしている 明 治 42 年 度 と 43 年 度 については 捕 鯨 部 門 の 分 離 にともなう 減 収 と 捕 鯨 部 門 の 見 返 りに 保 有 した 東 洋 捕 鯨 株 式 の 配 当 金 収 入 の 時 期 のずれによるものであった 明 治 44 年 度 は 北 洋 漁 業 の 好 調 によるもので 大 正 元 2 年 度 は 北 洋 漁 業 の 未 曽 有 ノ 不 漁 とト ロール 船 急 増 にともなう トロール 界 ノ 悲 境 によるものだったようである 表 18. 帝 国 水 産 株 式 会 社 の 経 営 状 況 年 度 払 込 資 本 金 当 期 純 利 益 利 益 率 明 治 40 50 38,581 7.7 41 50 37,645 7.5 42 60 9,579 1.6 43 60 70,264 11.7 44 30 37,682 12.6 大 正 元 40 2,609 0.7 2 50 326 0.1 3 50 32,984 6.6 資 料 ) 各 年 度 営 業 報 告 書 注 ) 1. 明 治 43 年 度 は4 月 1 日 ~44 年 6 注 ) 月 30 日 で 計 算 注 ) 2. 単 位 は 万 円 円 %である 第 一 水 産 当 社 は 大 正 9 年 7 月 に 設 立 された 本 社 は 当 初 は 神 戸 市 熊 内 町 に 支 店 は 下 関 市 に おかれていた 専 務 取 締 役 は 寺 井 忍 ( 神 戸 市 熊 内 町 ) 取 締 役 は 佐 藤 正 孝 ( 東 京 府 南 葛 飾 郡 亀 戸 町 ) と 伊 藤 健 輔 ( 若 松 市 本 町 2) 監 査 役 は 川 島 税 ( 神 戸 市 下 山 手 5) 下 関 支 店 監 督 兼 務 が 佐 藤 正 孝

20 世 紀 初 頭 における 神 戸 市 域 の 第 一 次 産 業 153 主 任 が 加 藤 平 吉 となっていた 48) 有 力 株 主 のうち 上 位 3 名 をあげると( 大 正 14 年 下 半 期 ) 寺 井 忍 (2200 株 ) 寺 井 モト(1110 株 ) 寺 井 辰 (1050 株 )となっており 基 本 的 には 全 1 万 株 の 4 割 近 くをこれら 寺 井 姓 株 主 がしめていた のちに 青 島 出 張 所 も 設 けられ 49) 本 社 も 神 戸 市 栄 町 通 6 丁 目 に 移 転 した 50) その 経 営 状 況 の 概 略 は 表 19 に 示 したとおりである 表 19. 第 一 水 産 株 式 会 社 の 経 営 状 況 決 算 期 払 込 資 本 金 当 期 純 益 金 利 益 率 隻 数 大 正 14 12 31.25 31,985 10.2 5 15 6 31.25 21,507 6.9 5 12 31.25 21,515 6.9 6 昭 和 2 6 31.25 15,979 5.1 6 12 31.25 21,715 6.9 6 3 6 31.25 23,027 7.4 6 12 31.25 22,776 7.3 5 4 6 31.25 23,064 7.4 5 12 31.25 27,475 8.8 5 5 6 31.25 24,077 7.7 5 12 31.25 15,190 4.9 5 6 6 31.25 13,541 4.3 8 12 31.25 308 0.1 8 7 6 12 8 6 12 31.25-7,387-2.4 4 資 料 ) 各 期 営 業 報 告 書 注 ) 単 位 は 万 円 円 %である 残 念 ながら 大 正 14 年 上 半 期 以 前 については 明 らかではない しかし 昭 和 8 年 にいたるまで 払 込 資 本 金 額 は 31 万 円 で 変 わらず 先 の 共 同 漁 業 の 数 百 万 円 とくらべるとかなり 小 規 模 である ま た 利 益 率 は 先 の 共 同 漁 業 かなり 低 い 水 準 で 推 移 している 所 有 船 隻 はその 最 盛 期 においても 8 隻 にとどまっている( 表 20 ) 表 20. 第 一 水 産 株 式 会 社 の 所 有 船 ( 昭 和 6 年 ) 船 種 船 名 船 質 総 トン 数 公 称 馬 力 冷 蔵 汽 船 江 浦 丸 鋼 656 400 同 上 海 龍 丸 鋼 587 620 トロール 汽 船 第 一 丸 鋼 281 510 同 上 海 福 丸 鋼 234 490 同 上 長 福 丸 鋼 220 520 同 上 大 福 丸 鋼 220 530 機 船 底 曳 網 第 一 富 士 丸 木 造 36 56 同 上 第 二 富 士 丸 木 造 36 56 資 料 ) 第 二 十 二 期 営 業 報 告 書 注 ) 総 トン 数 公 称 馬 力 は 小 数 点 以 下 切 り 捨 て

154 加 藤 慶 一 郎 諸 事 業 のなかでトロール 漁 業 がもっとも 重 要 であったように 思 われる それぞれのトロール 船 は 年 に 11 12 回 の 航 海 を 実 施 していた その 状 況 について 各 営 業 報 告 書 には 簡 単 な 説 明 しかない が たとえば 昭 和 4 年 下 半 期 の 昭 和 恐 慌 の 際 にも 現 内 閣 ノ 緊 縮 政 策 ニ 諸 物 価 暴 落 セシガ 魚 価 モ 其 影 響 ヲ 蒙 リ 前 期 ニ 引 続 キ 低 落 ヲ 来 セシモ 従 業 員 一 同 ノ 努 力 ニヨリテ 漁 獲 高 ヲ 増 加 シタル 為 メ 相 当 ノ 成 績 ヲ 収 メ 得 タリ と 記 している しかし 長 引 く 不 況 のなかで 減 収 が 続 いていった もう 一 つの 柱 は 冷 蔵 汽 船 の 運 用 であったようである 冷 蔵 汽 船 は 昭 和 5 年 までは 海 龍 丸 だけで これで 青 島 から 牛 肉 を 輸 送 するなどしていた 昭 和 6 年 上 半 期 までは 基 本 的 に 共 同 計 算 の 協 定 を 結 んだ 日 本 郵 船 大 阪 商 船 原 田 汽 船 の 三 社 へ 傭 船 していた 同 年 下 半 期 には 北 洋 漁 業 に 進 出 す るが 不 振 のため 係 船 を 余 儀 なくされていたようである 当 社 は 最 終 的 には 昭 和 9 年 に 日 之 出 漁 業 へ 合 併 されることになる 51) 昭 和 8 年 下 半 期 において 前 期 来 ノ 神 戸 海 上 運 送 火 災 保 険 株 式 会 社 トノ 紛 争 を 機 に 所 有 船 1 隻 が 差 し 押 さえられる 事 態 となっている 神 戸 海 上 運 送 火 災 保 険 への 債 務 があったようで これを 福 岡 県 大 牟 田 市 におけ る 船 具 商 であり また 中 国 大 陸 では 山 東 興 業 山 東 水 産 山 東 運 輸 株 式 会 社 の 取 締 役 を 務 めたこ とがある 坂 梨 哲 なる 人 物 が 肩 代 わりした 52) 同 人 は それとともに 第 一 水 産 の 全 株 式 の 8 割 近 く を 所 有 し 同 時 に 取 締 役 に 就 任 した 53) その 際 に 本 社 が 神 戸 から 下 関 市 に 移 転 し 別 途 坂 梨 ら が 昭 和 9 年 に 設 立 した 日 之 出 漁 業 により 第 一 水 産 は 合 併 されるにいたった Ⅳ.おわりに さいごに 本 稿 の 内 容 をまとめた 後 に 今 後 の 課 題 を 提 示 することにしよう Ⅱでは 農 業 構 造 の 変 化 を 検 討 した 市 域 東 部 では 江 戸 時 代 にかなり 町 場 化 がすすんだ 地 域 もあったが そこでも 20 世 紀 にはいっても 牧 場 経 営 や 蔬 菜 栽 培 が 行 なわれ 場 合 によっては 特 産 物 生 産 が 見 られる 場 合 も あった 一 部 では 観 光 事 業 的 な 要 素 をふくんだ 農 園 経 営 も 行 われた いわば 農 業 先 進 地 域 だった わけであるが このような 地 域 における 農 家 は 都 市 化 の 進 展 がもたらす 商 機 の 増 加 と 農 業 収 入 の 地 盤 沈 下 という 矛 盾 に 直 面 せざるを 得 なかったのである Ⅲでは 漁 業 の 産 業 構 造 の 変 化 を 追 究 した 20 世 紀 初 頭 における 漁 業 技 術 の 進 歩 にともない 漁 船 漁 場 が 大 規 模 化 した そのなかで 神 戸 市 が 漁 業 経 営 と 漁 獲 物 流 通 の 拠 点 となった 従 来 の 神 戸 経 済 史 研 究 では 主 として 海 運 業 や 製 造 業 に 関 心 が 向 けられてきたため こうした 側 面 は 見 落 と されてきたように 思 われる 本 稿 は 神 戸 経 済 史 のごく 一 部 の 素 描 にとどまった 農 業 に 関 していは 今 後 はそれぞれの 論 点 すなわち 神 戸 市 域 農 民 の 存 在 形 態 を 屎 尿 の 肥 料 から 廃 棄 物 への 転 換 過 程 を 通 して 漁 港 神 戸 の 存 立 構 造 について 港 湾 政 策 の 変 遷 やその 策 定 過 程 などを 通 して 追 究 していきたい

20 世 紀 初 頭 における 神 戸 市 域 の 第 一 次 産 業 155 注 1) 二 野 瓶 徳 夫 明 治 漁 業 開 拓 史 ( 平 凡 社 1981 年 )16 頁 2) 新 修 神 戸 市 史 経 済 産 業 編 Ⅰ 第 一 次 産 業 ( 神 戸 市 1990 年 )169 頁 なお 新 修 神 戸 市 史 歴 史 編 Ⅳ 近 代 現 代 ( 神 戸 市 1994 年 )507 頁 の 数 字 とは 若 干 の 異 同 がある 3) 神 戸 市 史 経 済 産 業 編 Ⅰ 第 一 次 産 業 167 168 頁 4) 神 戸 市 史 経 済 産 業 編 Ⅰ 第 一 次 産 業 184 185 頁 5) 神 戸 市 史 経 済 産 業 編 Ⅰ 第 一 次 産 業 185 頁 6) 魚 崎 町 誌 ( 魚 崎 町 誌 編 纂 委 員 会 委 員 長 山 路 久 治 郎 昭 和 32 年 )322 頁 7) 京 啓 一 阪 神 の 野 菜 その 歴 史 と 技 術 ( 私 家 版 1998 年 )147 頁 8) 本 山 村 誌 ( 本 山 村 誌 編 纂 委 員 会 1953 年 )383 384 頁 9) 本 山 村 誌 389 頁 10) 住 吉 村 誌 武 庫 郡 住 吉 村 1946 年 )414 頁 などを 参 照 した 11) 徳 田 秋 声 蒼 白 い 月 ( 徳 田 秋 声 全 集 第 13 巻 八 木 書 店 1998 年 )6 頁 12) 西 灘 村 史 ( 西 岡 安 左 衛 門 編 纂 発 行 1926 年 復 刻 版 1975 年 )67 頁 13) 西 灘 村 史 73 頁 14) 西 灘 村 史 77 78 頁 15) 西 灘 村 史 90 頁 16) 今 東 光 悪 太 郎 ( 新 潮 社 1961 年 )450 頁 17) 西 灘 村 史 101 頁 18) 有 野 村 誌 ( 有 野 解 村 処 理 委 員 会 1946 年 )65 頁 など 19) 兵 庫 県 内 務 部 副 業 ニ 関 スル 調 査 第 一 輯 ( 松 島 与 三 郎 1919 年 )253 255 頁 20) 垂 水 村 役 場 垂 水 誌 1923 年 1973 年 垂 水 区 役 所 広 報 相 談 課 復 刻 )8 頁 21) 垂 水 誌 57 59 頁 22) 兵 庫 県 明 石 郡 農 会 編 明 石 郡 農 会 三 十 年 誌 ( 同 会 1931 年 )45 46 頁 23) 江 口 庸 雄 蔬 菜 園 芸 の 発 達 ( 日 本 園 芸 発 達 史 262 頁 浜 田 国 彦 垂 水 のいちご ( 針 路 第 114 号 1985 年 )96 頁 24) 兵 庫 県 武 庫 郡 ノ 園 芸 武 庫 郡 園 芸 同 好 会 1905 年 25) 神 戸 新 聞 昭 和 6 年 3 月 27 日 26) 兵 庫 県 の 園 芸 ( 兵 庫 県 農 会 1912 年 ) 27) 兵 庫 県 の 園 芸 245 頁 28) 兵 庫 の 園 芸 274 頁 29) 農 商 務 省 農 務 局 農 務 彙 纂 第 八 園 芸 業 ニ 関 スル 調 査 書 ( 明 治 後 期 産 業 発 達 史 資 料 第 205 巻 龍 渓 書 舎 1994 年 復 刻 )340 頁 30) 山 口 和 雄 編 著 現 代 日 本 産 業 発 達 史 X1X 水 産 ( 交 詢 社 出 版 局 1965 年 )155 頁 31) 松 本 巌 編 著 解 説 近 代 漁 業 年 表 ( 戦 前 編 ) ( 水 産 社 1977 年 )14 18 60 頁 神 戸 市 史 経 済 産 業 編 Ⅰ 第 一 次 産 業 296 頁 32) 漁 業 年 表 23 頁 神 戸 市 統 計 書 明 治 43 年 397 頁 33) 現 代 日 本 産 業 発 達 史 153 154 頁 ある 一 定 地 域 以 上 遠 方 では 制 限 を 超 えてのトロール 汽 船 の 所 有 が 可 能 であった

156 加 藤 慶 一 郎 34) 日 本 水 産 百 年 史 ( 日 本 水 産 株 式 会 社 2011 年 )43 頁 35) 現 代 日 本 産 業 発 達 史 173 頁 日 本 水 産 百 年 史 47 頁 36) 共 同 漁 業 株 式 会 社 編 共 同 漁 業 株 式 会 社 の 事 業 ( 安 原 輝 彦 1929 年 )15 頁 37) 国 司 義 彦 理 想 熟 慮 断 行 国 司 浩 助 伝 ( 牧 歌 舎 2011 年 )65 頁 38) 日 本 水 産 百 年 史 45 46 頁 39) 日 本 水 産 百 年 史 55 56 頁 40) 日 本 水 産 百 年 史 71 頁 41) 共 同 漁 業 株 式 会 社 の 事 業 59 61 頁 42) 海 老 沼 直 次 郎 実 業 家 人 名 辞 典 ( 東 京 実 業 通 信 社 1911 年 )イの 74 頁 43) 畑 専 一 郎 兵 庫 県 人 物 事 典 上 中 下 のじぎく 文 庫 1966~8 年 44) 富 山 大 百 科 事 典 電 子 版 木 津 太 郎 平 の 項 45) 各 事 業 の 内 容 については 第 二 回 営 業 報 告 によった 46) 神 戸 市 史 経 済 産 業 編 Ⅰ 第 一 次 産 業 302 頁 47) 近 代 漁 業 発 達 史 140 151 頁 48) 商 業 興 信 所 編 日 本 全 国 諸 会 社 役 員 録 第 20 回 商 業 興 信 所 1921 年 上 編 639 頁 なお 加 藤 平 吉 は 昭 和 3 年 に 北 方 水 産 業 確 立 をめざして 官 民 協 力 のもと 設 立 された 北 方 水 産 研 究 会 の 会 員 であった( 時 事 新 報 昭 和 3 年 1 月 7 日 ) また 太 平 洋 戦 争 後 の 大 洋 漁 業 の 役 員 の 一 人 にその 名 がみえる( 近 代 漁 業 発 達 史 557 頁 ) 49) 日 本 全 国 諸 会 社 役 員 録 第 32 回 1924 年 兵 庫 県 40 頁 50) 日 本 全 国 諸 会 社 役 員 録 第 35 回 1927 年 上 編 602 頁 51) 近 代 漁 業 発 達 史 175 頁 52) 泉 昌 彦 大 牟 田 鳥 瞰 録 : 地 方 評 論 ( 泉 昌 彦 1919 年 )80 83 頁 53) 第 二 十 七 期 営 業 報 告 書