信州読書会 YouTubeLive& ツイキャス読書会 課題図書 三島由紀夫 金閣寺 信州読書会では 毎週 YouTubeLive とツイキャスをつかった視聴者参加型の読書会を開催しています 信州読書会のメルマガ登録者は 課題図書の読書感想文を 800 字で書いていただければ 放送中に紹介します ( 募集要項はメルマガでお伝えします ) また作品に関する質問 感想などは どなた様も 放送中ツイートいただければ とりあげます 信州読書会ツイキャス http://twitcasting.tv/skypebookclub YouTubeLive https://www.youtube.com/channel/ucajk5olmeeyi97obqigdcgw 信州読書会 メルマガ登録はこちらから http://bookclub.tokyo/?page_id=714 今後のツイキャス読書会の予定です https://note.com/sbookclub/n/ndcfa96fad284 ツイキャス読書会 音声のバックナンバーです https://www.youtube.com/playlist?list=plvj9jykvincsgp7jtfgzqxea6cgqd7mrf ( 各回の感想文は動画の下の説明欄に PDF へのリンクを張ってあります ) 第 216 回のツイキャス読書会の課題図書は 三島由紀夫の 金閣寺 です 読書感想文を提出して下さった皆さんありがとうございます
メルマガ読者千歳飴さん 三島由紀夫著 金閣寺 のあらすじ 主人公溝口は 京都府北東部舞鶴市の 小さなお寺の子として生まれた 吃音症があり強い劣等感を抱えていた 父に 幼い頃から 金閣ほど美しいものはない と聞いていた溝口には 写真の金閣より 幻想の金閣の美しさが勝っていた 中学生になり 叔父の家の近くに住む美少女有為子に 吃音症を揶揄される 有為子の死を強く望むようになる溝口 だったが 脱走兵と有為子が無理心中し 溝口は自分を拒絶した美への呪いが成就したと考えた 病で瀕死の父に付き添い 鹿苑寺の老師を訪問した溝口は現実の金閣を見る 想像の中の金閣より その美しさが 劣っていることに失望する そして金閣から離れて数日が経つと 幻想の金閣は美しさを表した 父が他界し 溝口は遺言どおり鹿苑寺の徒弟となった 相変わらず劣等感に悩んでいたが 東京近郊の裕福なお寺 の子の 吃音を少しも揶揄しなかった鶴川と親しくなる 日本の中枢都市の多くが空襲を受けていた 昭和 19 年の夏から 1 年間 溝口は美しい金閣と醜い自分が同じ火で焼 かれる幻想に陶酔する 金閣は燃やされぬまま敗戦を迎え 溝口はもう金閣と一緒になれないと絶望する 大谷大学に進学した溝口は 生まれつき脚に障害を持つ柏木と出会う 彼は奇形の脚を利用し美女を征服した過去 を語り 新たに溝口の前で別の美女を手懐けて見せた 柏木の御膳立てで性交渉を試る溝口だったが 金閣の幻影が見え不能になる その頃突然 鶴川の事故死の訃報が届く その後も 溝口は柏木の手配で別の女との性交渉の機会を得るが またも金閣の幻影により不能となる 金閣が 自 分が悪を為す事を止めようとしていると考えるようになり 金閣に いつかお前を支配してやると呪詛のように言い放つ 昭和 24 年正月 溝口は大学の成績が落ち 出席数も足りず ついには老師から見捨てられる 出奔を計画し 柏木から金を借り由良に来た溝口は 日本海を見てある行動に出る決意をする それは 金閣を燃やす だった 柏木から 死んだ鶴川の残した手紙を 3 年越しに渡されて読んだ溝口は 屈託の無い鶴川が 事故死ではなく 失恋 が原因で自殺したと知る 金閣を燃やす前に更に老師からの放逐を重ねようと 学費に当てられた金で遊郭へ行き 溝口は 女との性行為が初 めて可能になった 二度登楼した頃 朝鮮戦争が勃発し 溝口はすぐに金閣を燃やす計画を実行に移そうとする 数日後の霧雨の夜 遂に溝口は金閣に火を放つ 最上階で金閣と同じ火で焼かれようとするが 鍵がかかっていた 溝口は火の手から逃れ左大文字山に登り 燃える金閣の上空の火の粉を見ながら煙草を吸った
メルマガ読者香川さん 金閣寺 読書感想文 金閣寺を燃やす という使命に取り憑かれた男の自意識が三島由紀夫という作家によって 過剰な程美的に かつ技 巧的に描かれている その格調高い美意識によって 金閣寺を燃やすという愚行が まるで高尚な芸術的行為に昇華さ れた様に錯覚されるが 彼が語る哲学も美学も 私には眩しすぎる程に若々しい戯言にしか思えなかった 確かに若い頃はその自意識に酔っ払い 振り回され 自分とは程遠い存在に憧れ それに同化する思いに耽る そして自分が抱く理想とかけ離れた現実にもがき 苦しむ 人からの理解を拒み ただひたすらに自意識を募らせる 要は拗らせているのだが 溝口は " 拗らせている " だけには留まらず 徐々にその姿には狂気を帯び始め不気味な存在となる だがそんな不気味な存在も三島由紀夫の手にかかれば 文学的な美に変貌するのだから恐ろしい 若い頃に読むと一発喰らいかねない危険な魅力を持った作品だ 当の私も昔この金閣寺に一発喰らったクチだが 幸い溝口に影響されて金閣寺を燃やすことはなかった 作中では日本仏教の 坊主の堕落が描かれている 精力が頭に詰まり 菓子の様な坊主を私自身よく目に耳にする 夜の街で女を買い 徒弟に脅しを受けるそんな老師を 本当は心底軽蔑していたが故に 彼は老師に忌み嫌われることに快感を覚えていたのではないだろうか 彼は彼自身にも絶望しているが 自分の思い焦がれた金閣寺の美がそんな輩に支配されていることにも絶望していたのかもしれない 結局彼は金閣寺を燃やす という行為によって世界を変貌させることに成功したのだろうか? 美という怨敵を破壊した彼は 何者かになることができたのだろうか? 否 わざわざ買った小刀とカルモチンの瓶を谷底へ投げ捨て 煙草を飲みながら 生きよう と思う彼は相も変わらず拗らせているだけだった
メルマガ読者エヴァタさん be( 美 ) なんとか 1980 年代はじめに生まれた私が 戦争と名のつくものでテレビ画面で見たのは湾岸戦争とイラク戦争 自衛隊をカン ボジアに派遣したり イラク戦争の後方支援や 安全な地域 で自衛隊が活動しても 一応金閣寺も私の家も 首都東京 も火の海にはなっていない 国内や海外の情勢が刻々と変わる中 オウム真理教のテロ事件はあったけれど 金閣寺を燃やさねばならぬ とか 国会を破壊しなくてはならない と暴挙に出た個人や団体は 私が物心ついてから 2021 年 1 月時点であっただろうか? 思い浮かんだのは相模原の重症心身障害児 者施設の事件 障害者は不幸しか生まないから 殺さなくてはならない こんなことを言った独善野郎みたいな人間がまだ私の周り 空間にいたとしたら けれどそんな思想の持ち主が社会に 世間に拒まれていると実感したことがきっかけで人やものを傷つけてしまったとしたら 私にも責任の一端があると感じてしまうかもしれない 私には何ができるだろう 少なくとも 障害は個性だ 明るく仲良く繋がっていこうぜ! と軽はずみには言えません 以上
メルマガ読者 TOTO さん 金閣寺 三島由紀夫感想文 日頃テレビや映画で見る 素顔 の美しい女優には嫉妬というより羨望の眼差しを向けることがある その美しさが素顔であれば 完全に近いと想像するからだ 完璧な美などどこにもないと思うのだが 360 度どこから写されても美しい人はいる そう思い込んでしまう自分がいる 完璧な絶対の美 きっと存在しないに違いないが想像の中でつくりあげることはで出来る それが溝口の金閣寺であると思った 溝口のコンプレックスの歪みが分かりづらくて 読んでいて前に進めなかった 蚊帳のエピソードからその歪みの原因がだんだんわかる 吃音だけではこのような憎しみや深いコンプレックスが起こりえないと思った 幼い頃の母は聖母であって当たり前である このシーンの母を 幼くして感じ取った溝口は精神的に病気になってもおかしくないくらいの傷を抱えたのだと思った 溝口がもっとも深く闇に入って行く部分だなと思った そうなると ありえないこのシーンが この小説のプロットに必要な部分にになってくるのだと感じた 金閣寺を焼く という心の向きがポツンポツンと見え始めたところで 読む速さが増してきたのだが 鶴川は私の陽画 (P.106) 柏木は陰画 その鶴川は事故で亡くなる 陽画が消えてしまう深い悲しみも やがて柏木の生き方にとらえられていく溝口 どのエピソードもこの小説には必要なのかもしれない 美しい女性がお茶をたてるシーンも 後の溝口の関わった女性の口から 女性が身ごもっていて その相手の男性と の最後の時であったこと その美しい女性がその後ずっと貞節を守っていたことなどがうかがい知れると 小説の展開も わかってくる しかし鶴川の死後 柏木の陰画の方の完璧な処世術などが溝口に染み込ん行く頃から私はなんとなく受け入れられ なくて 肌に合わず 200 ページ辺りで読むのをやめた 私には難解すぎた 以前 朝日新聞に第 47 回大佛 ( おさらぎ ) 次郎賞 金閣を焼かなければならぬ林養賢と三島由紀夫 ( 河出書房新 社 ) で受賞された著者の精神科医の内海健 ( うつみたけし ) 氏の記事があった 内海氏は 初めて 金閣寺 を読んだ時 この僧は放火時に未発の精神分裂病 今でいう統合失調症だったと直感した 後に調べてみれば 林養賢は確かに事件後に発症していた 精神科医となった内海氏が いかに分裂病の人と関われるか 養賢さんに少しでも迫れたらと書かれた作品であるとの事
三島は自分のナルシシズムを言語空間のなかでは克服できず 肉体改造による筋肉の存在感覚も 大きな喜びでは あっても自分という実感を与えることはなかった その実感は肉体に痛苦を与えることでもたらされると気づく それが最 終的な解決手段になってしまったのは私から見れば不幸なことでした 朝日新聞の記事の内海氏の言葉 上記の文章から三島自身のこの作品に投影する自らの部分が少しずつ理解出来そうで 三島と溝口の重なる部分が 理解出来たら更に深く読み込めると思うが 続きを読んで行くかどうかはまだ決めていない 私には大変難しく やや苦手な作品だった
メルマガ読者さくらさん 金閣寺 感想文 私はあまりこの作品はどちらかというと好きではありませんでした それはきっと難しいし 自分の事と置き換えて考えるにもよく分からないからだとおもいます 宮澤さんもお話されていましたが 哲学的なところがあって何もしらないで読むには難しく思うのだと思いました ちょっとインテリ風な学生の溝口 アメリカ兵が寺に訪れた時などには通訳をしていたぐらいだからきっと頭も良いのだと思う でも 金閣寺の後継ぎになることを両親から期待される重圧もあるし 相談できる人や頼れる人が居ないのはすごく可哀相だと思いました 友達にもあんまり恵まれていなくて気の毒だと思いました どんなに環境が悪くても自分で自分の道を切り開いていくしかないのだと思うけど 周りの環境が良くないと どうしても良くない方向に進んでいってしまうのかもしれない 最後のほうで父親とも知り合いだった和尚さんに会った時 もしかしたらこの人が金閣寺の和尚さんだったら 溝口ももう少し別の道があったかもしれないなと思いました 金閣寺を焼くことは本当に悪い罪だと思うけど 今回読んでみて溝口が最後に 生きようと私は思った (P.330 新潮文庫 ) と 自殺するのを止めた事は良かったと思いました 金閣寺を焼いてしまう事を心に決めてから 今までの重荷に感じていた事から解放された感じもあるし 期限があるこ とであと少しだと思うことで気持が楽になっていた気がしたけど 死んで全部終わりにしようとならなかった所が今回は良 かったなと思いました
メルマガ読者 hoyo さん 父の面影 溝口が金閣寺の中に見出した美 その中には父のやさしさがあったのではないか? ( 引用はじめ ) 父が目をさましているのに気づいたのは 咳を押し殺している呼吸の不規則な躍り上がるような調子が 私の背に触れ たからである そのとき 突如として 十三歳の私のみひらいた目は 大きな暖かいものにふさがれて 盲 ( めく ) らになっ た すぐにわかった 父のふたつの掌が 背後から伸びて来て 目隠しをしたのである (P.70) ( 引用おわり ) 溝口が女性に 特に肉欲を伴うそれに向かい合うとき 必ず金閣寺の美しさが立ちはだかってくる それは父の目隠し の手ではないだろうか? 溝口の中に 父との別れを消化できない部分があって 父の好きだった金閣がずっとしこりとして残っているんじゃない だろうか? 溝口にとって 父の代わりとなるハズであった老師は 政治家のような人物であり 溝口と正面から向き合ってくれるこ とは無かった だから 父の面影を金閣寺の中に見出そうと必死になっていたんだと思う だが 金閣は何も答えることは無かった 吃音や友人の自死など そのほかの理由もあいまって 彼は金閣を焼いてしまった その告白が終始ダイナミックに描かれていて これを三十一で書ききった三島の才能には脱帽させられた 色々なことを考えさせられるいい小説だった 私も ともすれば世に反駁して孤立無援となってしまう いや そう自分自身思い込んでしまうきらいがあると思う 世の人々に敵なんていない いや 敵も味方も無いんだと思った その曖昧の中でうまくやっていくことが必要だと感じ た
メルマガ読者玉井さん マツガエの母乳談 本書 金閣寺 には 抹茶に母乳を注ぐという異様な場面がある これが何を意図したものなのか 私の頭脳では全く歯が立たなかった で 知り合いのマツガエ君に相談した所 母乳抹茶のくだりは金閣炎上の伏線である と即答した その根拠を問うと彼は次の様に語り始めた そうさな 母乳抹茶に至ったのは 母親としてのお前の乳を飲みたい という将校の要望に応じての事だが ただこれは表面上の経緯に過ぎない なのでこれを基点としたアプローチは無意味なので扱わない で 母乳抹茶の説明におけるキーワードは 永遠 疎外 認識 行為 の四点を軸にすると まず 溝口にとって美的な存在だった有為子 彼女が死ぬことで溝口における女性の象徴は確定した 一方 金閣は燃やされるまで絶対の美だった 溝口はこの永遠とか絶対的なものをドモリの反動からか崇拝してるだろう 後半まで が しかし この有為子と金閣の両者が溝口を疎外し続ける これも後半まで で その後半で 認識 が世界を変えると柏木は言うが 溝口は認識ではなく 行為 だと主張する 有為子は主体的に死んだ その行為を果たした点に溝口が影響を受けての主張と思われるが それだけではない 認識という非常に厄介な存在に起因している というのも例えば 南禅寺の女について溝口は当初 有為子に印象を重ねただけであった 有為子の甦りではないのかと 境遇も近いから健全かなと思う が その後 南禅寺の女と再会した際 彼女の胸が << 無意味な断片 >> から金閣に変貌し << 無力な幸福感 >> に酔わされ 絶対的な美を前に疎外感を自覚した挙句 金閣は << 丹念に構築され造形された虚無 >> と結論付けたりと 過剰ともいえる想像力を働かせて憎悪 復讐の念から金閣を燃やすことを決意する というか南禅寺の女だけでなく下宿の女 五番町の女を前にして金閣が出現 彼を疎外する 彼はいつも金閣がもたらす 認識 の歪みのせいで疎外されてきた 自意識過剰の感もあるにせよ まあいずれにしても歪んだ認識から反発を覚えている で この 認識 への執着を捨てて 行為 こそが世界を変える事を証明しようとして溝口は " 金閣を燃やすのは徒爾だからこそ燃やす云々 " とか言ってるがこれ 確かにその通りで行為の先にある目的などどうでもよく 彼には 行為 そのものが重要だからそう言ったのだろう 一旦 ここまでの話を整理すると " 永遠 を夢想しながらも歪んだ 認識 により 疎外 を覚え反発に変化して 行為 に走る溝口 " という訳だ とりわけこの 認識 が重要な要素だと俺は思う 前置きは終わった で 本題の母乳抹茶の意図についてだがまず 金閣は抹茶 放火は母乳 と置き換えることができる 完全に なぜって抹茶に母乳を入れると抹茶はたちまち 抹茶オーレ あるいは 抹茶ラテ に変わり 純粋な抹茶は存在しなくなる これ即ち 絶対的な金閣が放火で焼失したことでこの世に絶対など無く 永遠の美なぞハナから無い 虚無だということを示しているではないか 認識の歪みの産物といえる さらに 放火という 行為 は溝口に言わせれば << 徒爾 >>( とじ ) であり 南禅寺の女は死産したのだから母乳も同様に徒爾だろう 乳をあげる子すらいないのに抹茶にあげてどうする 徒爾だ まあ認識のおかげで金閣は姿形を変えてこの世に再び現れてもおかしくないかもしらんが いずれにしても 絶対的な金閣も無ければ抹茶も無い あるようで無い よって 母乳抹茶のくだりは金閣炎上の伏線描写なり
といったことを考えながら マツガエは最後に 今 夢を見ていた 又 会うぜ きっと会う 瀧の下で と言って私の前か ら消えた 補足 感想文最後の 今 夢を見ていた 又 会うぜ きっと会う 瀧の下で とは ご存知かと思いますが 豊饒の海 ( 春の雪 ) における松枝清顕のセリフとなります
信州読書会主宰宮澤さん キャッチャー イン ザ 金閣寺 妊娠した有為子が海軍の脱走兵をかくまって 憲兵隊に包囲された挙句 その脱走兵に拳銃で撃たれ無理心中させられた挿話は その後の溝口と金閣寺との関係の伏線になっている 吃音症ゆえに世間と自分との間に壁を作っている溝口 彼が その壁を痛切に意識させられた出来事のはじめは 初恋の相手だった近所の美少女 有為子に拒絶されたことだった この拒絶が のちに金閣寺からの拒絶につながっていく 暗い時代の権力者が庇護してきた金閣寺 金箔塗りで 建築様式も折衷で 俗世の中でも俗にゆえに 今日まで存在感を示したきた 溝口と金閣寺は ともに俗世に馴染めない存在感でありながら その核心部分で 極めて俗っぽいという矛盾を抱えている そして 戦争による金閣寺の消失の危難は 金閣寺の美と溝口に運命的一体感を与えていた しかし 敗戦してなお 金閣寺は焼けもせず 俗世に残った ここに 溝口と金閣寺の美の関係は絶たれた 南泉斬猫 の公案は 皆がちやほやする仔猫の首を切る話である 金閣寺を燃やすことが 仔猫を首を切ることに対 応するのだろう 履 ( くつ ) を頭に載せて立ち去った趙州は 金閣寺に放火したのに 結局おめおめ逃げて生き延びた溝 口を指し 溝口に履を頭に載せて立ち去るように 老師は 暗示を与えたのだろう 私は 溝口は結局 最後まで 老師の手のひらで踊らされていたように思う すなわち 仏の御手を逃れえなかった 溝口は 有為子のように脱走兵と無理心中させられることもなく 金閣寺からも無理心中を拒まれている この小説のプロットの中で 溝口は 終始 無理心中を拒まれている存在として描かれている 何か と一体化して 精神的に安定したいのだが その 何か から 常に拒まれている 放火による心中という決死の行動も やはり 失敗する 金閣寺を真ん中に据えての溝口の自意識の堂々巡りがプロットになっている い 溝口がシテであり 柏木や老師がワキである 能舞台を見ているような話で この小説は 近代小説でもなんでもな バルザックの ゴリオ爺さん のラスティニャックが パリの街並みを見下ろして 今度は俺が相手だ! と叫んだよう に 俗世に向かって青年が宣戦布告する作品なら 近代的である 金閣寺を焼かねばならぬ ( 第 7 章の終わり ) では 俗世の問題はどっかに行ってしまっている 有為子や柏木や 鶴 川は 溝口の頭の中の友だちにしか感じられず 彼らの苦悩も存在も 現実感に 乏しい 金貸しの老婆を殺した青年の話である 罪と罰 のように 金閣寺を燃やした後の話を描かないと と三島由紀夫は小 林秀雄との対談で ツッコまれていた 小林のツッコミは 三島の 金閣寺 がロマン派のポエムであると批判していると思う 三島の才能が 西欧近代小説 のように俗世の様々な人生を延々と描写するよりも 青年の詩情を描くのに適しているのがよくわかった
アニメ映画のワンシーンの お湯を注いだカップヌードルの上にこそ ふさわしい作品である と思った