紀 州 藩 松 坂 領 における 非 人 番 及 び 惣 廻 りについての 小 考 察 寺 木 伸 明 はじめに 紀 州 藩 松 坂 領 における 非 人 番 及 び 惣 廻 りにつ いての 先 行 研 究 は わずかに 和 田 勉 総 合 解 説 ( 松 阪 の 部 落 史 第 1 巻 史 料 編 前 近 代 松 阪 市 2008 年 3 月 964~965 頁 )があるのみである かつて 筆 者 も 和 歌 山 の 部 落 史 編 纂 会 近 世 部 会 で 2007 年 3 月 24 日 に 3 法 令 通 達 類 から 見 た 被 差 別 民 の 状 況 の (2) 非 人 番 惣 廻 り 非 人 番 の 人 々の 様 子 で 若 干 言 及 し 2010 年 4 月 11 日 の 同 部 会 でも 紀 州 藩 松 坂 領 非 人 番 及 び 惣 廻 りについて というテーマで 報 告 したことはあったが きわめて 不 十 分 な 内 容 に とどまっていた 紀 州 藩 田 辺 領 については 芝 英 一 の 近 世 田 辺 領 における 身 分 制 度 と 非 人 番 ( 番 太 ) ⑴ が ある また 芝 は 田 辺 同 和 史 第 1 巻 通 史 編 でも 非 人 番 惣 廻 り 非 人 番 について 論 述 している ⑵ 和 歌 山 城 下 の 吹 上 非 人 村 及 び 近 郷 の 非 人 番 に ついては 藤 本 清 二 郎 の 次 のような 一 連 の 業 績 がある 和 歌 山 城 下 吹 上 非 人 村 の 形 成 と 展 開 城 下 町 和 歌 山 におけるかわた 非 人 制 近 世 中 期 における 和 歌 山 近 郷 の 非 人 番 と 長 吏 支 配 和 歌 山 城 下 非 人 村 の 長 吏 非 人 改 役 と 肝 煎 ⑶ 紀 州 藩 本 藩 及 び 田 辺 領 における 非 人 村 非 人 番 及 び 惣 廻 りに 関 しては 藤 井 寿 一 紀 州 藩 非 人 身 分 の 諸 相 ⑷ で 詳 しい 分 析 がなされている なお 長 年 にわたって 三 重 県 域 の 前 近 代 部 落 史 研 究 をリードしてこられた 和 田 勉 先 生 が2009 年 9 月 26 日 未 明 に 享 年 77 歳 で 他 界 された 先 生 には 桑 名 の 部 落 史 四 日 市 の 部 落 史 そして 松 阪 の 部 落 史 の 編 纂 事 業 において 地 元 での 古 老 の 聞 き 取 りや 古 文 書 の 解 読 編 集 等 で 大 変 お 世 話 になった ここに 改 めてご 生 前 のご 厚 誼 とご 薫 陶 に 対 して 心 より 感 謝 申 し 上 げ 本 稿 を 先 生 のご 霊 前 に 捧 げる 次 第 である 本 論 に 入 る 前 に 松 坂 領 について 簡 単 に 説 明 し ておきたい ここでいう 松 坂 領 とは 近 世 紀 州 藩 領 のことである 元 和 5 年 (1619) 徳 川 家 よりのぶ 康 第 10 子 頼 宣 が 幕 命 により 紀 州 に 入 国 して そ れまで 統 治 していた 浅 野 氏 ( 同 年 芸 州 広 島 に 移 封 )の 所 領 紀 伊 国 37 万 石 余 と 新 たに 伊 勢 国 のう ち18 万 石 余 を 合 わせて55 万 5000 石 を 領 有 した しろ こ 伊 勢 国 には 田 丸 領 6 万 2900 石 余 白 子 領 4 万 7500 石 余 そして 松 坂 領 7 万 1900 石 余 の 紀 州 藩 領 があり これを 伊 勢 三 領 と 呼 んでいた また 幕 府 は 紀 州 藩 に 有 力 幕 臣 の 安 藤 水 野 両 氏 を つけ 付 か ろう 家 老 として 送 り 込 んだ 安 藤 氏 は 田 辺 領 32 部 落 解 放 研 究 No.1912011.3
(3 万 8000 石 余 ) 水 野 氏 は 新 宮 領 (3 万 5000 石 余 )を 統 治 した ⑸ が も う うじさと 松 坂 の 地 は 天 正 12 年 (1584) 蒲 生 氏 郷 の 所 領 となり 同 18 年 に 会 津 に 移 封 されたあと 翌 年 服 部 一 忠 が 入 り 文 禄 4 年 (1595)には 古 田 重 勝 に 代 わった その 後 古 田 氏 の 統 治 が 続 いたが 元 和 5 年 古 田 氏 は 石 見 国 浜 田 に 移 され て 前 述 のように 紀 州 藩 領 となったのである 紀 州 藩 領 の 初 期 には 代 官 が 駐 在 したが 寛 文 12 年 (1672)より 城 代 が 派 遣 され 伊 勢 三 領 を 統 括 した ⑹ 寛 文 12 年 以 降 における 松 坂 領 統 治 の 職 制 は 以 下 のとおりであった ⑺ 勢 州 奉 行 代 官 大 庄 屋 庄 屋 郡 奉 行 城 代 松 坂 町 奉 行 大 年 寄 町 年 寄 松 坂 御 船 奉 行 以 下 主 として 前 掲 の 松 阪 の 部 落 史 第 1 巻 史 料 編 前 近 代 ( 以 下 松 1と 略 す) 所 収 関 係 史 料 によりながら 論 述 していきたい 1 非 人 番 について 松 坂 領 では 天 明 5 年 (1785)11 月 従 来 在 々 非 人 番 のことを 番 太 小 番 小 番 太 とも 称 してきたが 今 後 は 非 人 番 と 唱 えるように 村 々に 申 し 付 けた( 1 以 下 下 線 は 筆 者 ) 1 在 々 非 人 番 之 儀 番 太 とも 申 小 番 之 者 と も 申 候 一 体 非 人 番 之 儀 ニ 付 自 今 一 等 ニ 非 人 番 と 唱 番 太 小 番 とハ 不 申 筈 ニ 付 村 々へ 申 付 候 儀 爰 元 郡 奉 行 中 へ 相 通 し 候 右 之 段 三 領 郡 奉 行 中 へ 御 通 し 可 被 成 候 依 之 申 遣 候 以 上 十 一 月 廿 三 日 一 郎 右 衛 門 様 幸 左 衛 門 様 文 左 衛 門 兵 九 郎 久 兵 衛 尚 々 本 文 非 人 番 之 義 小 番 太 とも 申 所 も 有 之 候 ハ 丶 是 又 番 太 とハ 不 申 非 人 番 と 唱 候 筈 付 此 段 も 御 通 し 可 被 成 候 以 上 ⑻ 右 之 通 大 庄 屋 衆 より 村 々へ 相 廻 し 候 なお 田 辺 領 では 享 和 2 年 (1802)に 非 人 番 に 名 称 を 統 一 している ⑼ 1 非 人 番 の 成 立 時 期 からみると 宝 暦 2 年 (1752) 成 立 の 久 世 廉 由 著 松 坂 権 與 雑 集 に よれば 古 田 家 在 城 の 節 ( 文 禄 4 年 1595 ~ 元 和 5 年 1619 )に 善 久 という 非 人 番 と 配 下 の 非 人 が 極 楽 町 に 居 住 していたとある ⑽ しかし そのことを 裏 付 ける 史 料 はない 今 の ところ 番 人 ( 松 坂 領 では 非 人 番 のこと)の 初 見 は 宝 永 3 年 (1706)6 月 の 2( 下 線 部 )である 2 旅 人 病 気 幷 相 果 候 節 入 用 定 夫 金 蔵 哀 可 被 出 事 一 病 人 扶 持 幷 木 銭 雑 事 代 一 日 ニ 米 五 合 ツヽ 銀 壱 分 五 厘 但 米 直 段 ハ 年 々 切 米 直 段 を 以 代 金 渡 り 之 筈 一 病 人 ニ 連 有 之 附 居 申 入 用 右 同 断 一 薬 代 一 服 ニ 付 弐 分 宛 一 病 人 国 元 江 之 飛 脚 幷 送 遣 候 者 賃 銀 一 日 壱 人 ニ 三 匁 宛 一 相 果 候 節 番 人 幷 死 骸 取 置 候 人 足 賃 一 日 紀 州 藩 松 坂 領 における 非 人 番 及 び 惣 廻 りについての 小 考 察 33
壱 人 ニ 八 分 宛 一 死 人 取 置 桶 杭 竹 縄 莚 代 是 は 売 上 手 形 を 以 売 立 之 通 代 金 受 取 申 筈 右 は 三 領 往 還 筋 ニ 而 旅 人 相 煩 幷 相 果 候 節 諸 入 用 定 也 右 之 趣 を 請 夫 金 蔵 宛 之 手 形 を 以 当 分 御 代 官 所 より 請 取 可 申 者 也 ( 1 7 0 6 ) ⑾ 宝 永 三 戌 六 月 本 藩 では 貞 享 3 年 (1686)8 月 には 非 人 番 が 存 在 していて その 中 から 惣 廻 り が 任 じられた ⑿ 田 辺 領 では 元 禄 8 年 (1695) に 番 太 と 出 てくるのが 初 見 である ⒀ 尾 鷲 組 では 非 人 番 惣 廻 り 非 人 番 という 名 称 の 初 見 は 正 徳 元 年 (1711)10 月 である ⒁ 宝 暦 11 年 (1761)10 月 には 本 藩 よりの 次 の 通 達 を 松 坂 領 でも 通 知 しているので この 時 期 には 非 人 番 という 名 称 が 使 われていた 可 能 性 がある 3 段 々 風 立 候 時 節 ニも 成 候 事 ニ 候 へハ 別 而 火 之 元 之 義 無 油 断 弥 以 相 改 候 様 百 姓 共 へ 入 念 可 被 申 付 候 一 他 国 者 之 相 見 へ 候 胡 乱 成 もの 共 在 々 江 入 込 有 候 趣 相 聞 候 右 躰 うろん 者 在 々 江 暫 も 差 置 申 間 敷 候 うろん 躰 之 者 在 々 之 内 致 徘 徊 ヲ 見 及 聞 およひ 候 ハヽ 村 々 切 ニ 相 改 うろん 成 者 有 之 候 ハヽ 早 速 大 庄 屋 元 へ 可 申 出 旨 可 被 申 付 候 一 村 端 入 口 へ 番 小 屋 建 置 夜 中 ハ 立 番 致 さ せ 尤 村 役 人 頭 百 姓 共 之 内 代 ル 榎 円 打 廻 り 気 を 付 勿 論 非 人 番 之 者 とも 昼 夜 無 怠 相 廻 せ 入 念 候 様 可 被 申 付 候 右 之 趣 在 中 へ 入 念 早 々 可 被 申 候 ⒂ 十 月 三 日 3によれば 本 藩 より 村 端 入 口 に 番 小 屋 を 建 て 置 くことを 命 じられていることが 分 かる( 下 線 部 ) 配 置 の 仕 方 については 在 々 抱 非 人 番 ⒃ と あるように 村 々に 置 かれるとともに 町 方 非 人 番 ⒄ とあるように 松 坂 城 下 の 町 々にも 置 かれていた ところで 藤 井 論 文 によれば 寛 保 元 年 (1741) における 本 藩 の 紀 伊 国 名 草 郡 東 部 の 非 人 番 設 置 率 は 90.4% 海 士 郡 北 部 西 名 草 のそれは 84.0%で 1カ 村 にほぼ 一 人 の 非 人 番 が 存 在 す るという 状 態 だった ただし 嘉 永 元 年 (1848) における 伊 都 郡 丁 ノ 町 組 中 組 の 両 組 合 わせて の 設 置 率 は20.4%と 低 かった 田 辺 領 では 宝 暦 12 年 (1762)の 時 点 で27.4%であった ⒅ 松 坂 領 東 岸 江 組 では 明 治 4 年 (1871)6 月 の 時 点 で 組 内 17カ 村 すべてに 非 人 番 が 設 置 さ れていた ただし 1 人 の 非 人 番 で4カ 村 兼 帯 が2 例 1 人 の 非 人 番 で3カ 村 兼 帯 が1 例 1 人 の 非 人 番 で2か 村 兼 帯 が1 例 見 られた ⒆ 17 か 村 のうち 実 際 非 人 番 が 居 住 していたのは 7か 村 であった 2 松 坂 領 非 人 番 の 職 務 内 容 は 以 下 の 通 りであ る( 職 務 対 象 地 域 は 抱 えられている 村 内 が 基 本 ) 1 前 掲 2に 見 られるように 行 き 倒 れ 人 等 の 死 骸 の 取 り 片 づけは 非 人 番 の 大 事 な 職 務 で あった その 場 合 人 足 賃 が 支 給 されていた く る わ てい 天 明 5 年 (1785)5 月 御 曲 輪 内 で 百 姓 躰 の 男 性 が 行 き 倒 れているのが 見 つかり その 死 骸 を さんまい 非 人 番 が 引 き 取 り 矢 川 村 三 昧 ( 墓 所 )へ 運 ん でいる ⒇ 2 34 部 落 解 放 研 究 No.1912011.3
明 和 元 年 (1764)3 月 近 年 胡 乱 者 が 徘 徊 し 押 し 込 み 強 盗 躰 の 風 聞 があるので 見 つけたな らば 非 人 番 に 連 絡 し 非 人 番 は 端 々までよく 巡 廻 するように 東 岸 江 組 大 庄 屋 から 組 内 各 村 庄 屋 まえのへ へ 通 達 されている ほぼ 同 文 の 通 達 が 駅 部 た 田 組 大 庄 屋 からも 組 内 庄 屋 に 出 されている 享 和 2 年 (1802)8 月 には 博 打 取 り 締 まりを 惣 廻 り( 後 述 ) 及 び 村 々 非 人 番 にさせるよう 大 庄 屋 等 から 通 達 されている なお この 通 達 は 末 尾 に 前 年 7 月 に 幕 府 勘 定 奉 行 から 出 され た 博 打 取 り 締 まりに 関 する 触 れを 掲 載 している ことから その 幕 令 を 踏 まえて 本 藩 から 松 坂 領 へこの 通 達 を 出 すよう 指 示 されたことがうかが える 寛 政 2 年 (1790)8 月 非 人 番 が 盗 賊 胡 乱 者 を 召 し 捕 ったら 非 人 番 から 庄 屋 へ 庄 屋 か ら 大 庄 屋 へすぐに 連 絡 するように 大 庄 屋 から 村 役 人 へ 通 達 している 3 明 和 4 年 (1767)10 月 火 の 元 盗 人 用 心 の せいどう ため 非 人 番 は 昼 夜 油 断 なく 制 道 を 行 うよ う 申 し 付 けられている また 年 末 の 夜 回 り 番 も 行 った 文 政 9 年 (1826)の 殿 村 小 入 用 帳 によると 同 年 12 月 1 日 より 大 晦 日 まで 夜 廻 り 番 をしていた 番 人 に 番 賃 を 払 っている お わ せ 新 松 ケ 嶋 組 大 足 村 でも 天 保 7 年 (1836)と 同 12 年 夜 廻 り 給 として 非 人 番 に 支 払 っている 4 寛 政 13 年 (1801)2 月 松 坂 領 では 西 黒 部 ばくろう 村 にいた 無 宿 者 の 牛 博 労 が 強 勢 で 不 埒 のことが あったので 松 坂 領 から 追 放 したが もし 立 ち 帰 ったならば 非 人 番 に 申 し 付 けて 追 い 払 うよ うにせよと 通 達 した 5 松 坂 代 官 小 浦 惣 内 は 大 庄 屋 中 に 宛 てて 嘉 永 4 年 (1851)8 月 近 年 年 貢 を 納 入 しない で 新 米 を 抜 け 売 りしたり こうした 不 正 米 を 買 い 集 める 者 がいるので 非 人 番 に 取 り 締 まら せ 召 し 捕 えさせるように 命 じた 6 天 保 2 年 (1831)3 月 その 前 年 から1 月 に な ぎり かけて 志 摩 国 で 起 こった 波 切 騒 動 で 捕 まった 囚 人 の 護 送 の 警 備 に 番 人 が 当 たった 7 うるう 勢 州 奉 行 は 文 政 13 年 (1830) 閏 3 月 伊 勢 かげまい 神 宮 へのお 蔭 参 りが 急 増 してきたとして 惣 廻 り 非 人 番 に 街 道 取 り 締 まりを 厳 重 にさせるよ う 大 庄 屋 に 指 示 した 同 月 大 庄 屋 中 から 船 江 み わたり 村 庄 屋 に 非 人 番 1 人 を 三 渡 あたりの 往 還 警 備 に 当 てるよう 要 請 している 8 安 政 7 年 (1860)6 月 紀 州 藩 家 老 で 新 宮 領 主 の 水 野 土 佐 守 忠 央 の 通 行 に 際 して その 先 払 いを 非 人 番 に 命 じている また 文 久 3 年 おおいのかみ (1863)1 月 土 井 大 炊 守 の 祖 母 の 松 坂 通 行 に 当 たってやはり 先 払 いを 非 人 番 に 命 じていた 9 天 保 13 年 (1842)11 月 近 年 犬 が 増 えて 鶴 の 飼 育 や 鷹 匠 が 鶴 を 捕 まえたり 飼 育 したりす るのに 妨 げになるとして この 冬 に 限 り 非 人 番 に 捕 獲 させることを 勢 州 奉 行 から 代 官 に 指 示 し た なお 和 歌 山 城 下 や 田 辺 領 では 皮 多 が 犬 狩 りを 行 った 以 上 のように 非 人 番 の 職 務 は 警 察 業 務 を 中 心 として 多 岐 にわたっていた 3 職 制 に 関 して 述 べると 平 の 非 人 番 の 上 に 非 人 頭 がいた 寛 政 10 年 (1798)12 月 大 黒 田 村 在 住 の 非 人 頭 が 町 方 の 非 人 番 を 勤 めていたが 不 都 合 があって 辞 めさせられている 文 久 2 年 (1862)12 月 非 人 頭 岩 平 が 頭 役 を 申 し 付 けられたとある 非 人 番 頭 ( 九 郎 助 文 紀 州 藩 松 坂 領 における 非 人 番 及 び 惣 廻 りについての 小 考 察 35
久 2 年 ) とも 番 非 人 頭 ( 松 坂 裏 町 在 住 久 也 五 郎 寛 政 10 年 ) とも 称 された その 下 に 小 頭 ( 寛 政 2 年 ) あるいは 非 人 番 小 頭 ( 駅 部 田 村 在 住 文 久 3 年 ) がいて さらにその 下 に 平 番 人 ( 寛 政 2 年 ) がいた 次 に 命 令 系 統 をみると 村 方 では 各 組 ごと の 大 庄 屋 胡 乱 者 改 ( 助 役 ) 庄 屋 / 非 人 頭 非 人 番 頭 小 頭 平 番 人 ( 村 方 非 人 番 ) 町 方 では 各 組 ごとの 大 年 寄 胡 乱 者 改 ( 助 役 ) 町 年 寄 / 非 人 頭 非 人 番 頭 小 頭 平 番 人 ( 町 方 非 人 番 )となっていたようである 胡 乱 者 改 ( 助 役 / 助 / 介 役 )の 初 見 は 安 永 3 年 (1774)2 月 付 史 料 である 金 谷 丹 二 が 就 任 していた 天 明 元 年 (1781)12 月 の 時 点 では 胡 乱 者 改 助 に 大 平 尾 村 地 士 の 金 谷 松 兵 衛 が 就 い ていた この 胡 乱 者 改 役 は 本 藩 では 郡 奉 行 配 下 として18 世 紀 中 期 に 設 置 されているが 松 坂 領 ではいつ 設 置 されたかの 究 明 も 今 後 の 課 題 である なお 田 辺 同 和 史 通 史 編 では 記 述 はなく 同 史 料 編 にも 関 係 記 事 は 見 当 た らない 前 掲 芝 英 一 近 世 身 分 制 と 被 差 別 の 民 田 辺 領 の 場 合 の[ 五 ] 近 世 田 辺 領 に おける 身 分 制 度 と 非 人 番 ( 番 太 )には 盗 賊 改 方 は 出 てくるものの 胡 乱 者 改 役 の 記 述 はみられない 4 1 松 坂 出 身 の 森 壺 仙 が 文 化 8 年 (1811)に 著 し ばな た 民 俗 誌 宝 暦 咄 し に 非 人 番 について 次 のよ うに 記 されている 4 一 瓦 町 五 人 之 非 人 番 雨 之 降 日 は 竹 の 子 笠 ニ 而 来 る 町 家 内 へ 入 る 時 ハはき 物 をぬぎてはいる 常 はより 棒 斗 脇 さし はさゝす 紺 のかんばんニ 紺 のもゝ 引 瓦 町 に 五 人 の 非 人 番 がいて 紺 のかんばん( 看 はっ ぴ ももひき 板 法 被 のような 衣 類 )を 着 て 紺 の 股 引 をはき 雨 の 日 は 竹 の 子 笠 を 被 っていたという 弘 化 4 お わ せ 年 (1847) 大 足 村 では この 看 板 の 仕 替 え 代 も 村 から 払 っていた 4にあるように 町 の 家 に 入 る 時 は 履 物 を 脱 いだ 2 ほう だ 法 田 村 村 小 入 用 帳 の 明 治 3 年 (1870)8 月 17 日 の 項 で 一 三 拾 弐 匁 夜 番 太 鼓 張 か へ 弟 国 村 穢 多 浅 衛 門 払 とあって 夜 廻 りの たた ときに 常 時 叩 いたか 非 常 のときに 叩 いたかは 不 明 であるが 太 鼓 を 携 行 していたようである 4によれば 通 常 寄 棒 だけを 持 っていて わきざし 脇 差 は 差 さなかったとある しかし 明 治 4 年 2 月 に 伊 勢 路 村 非 人 番 権 八 が 犯 人 を 召 し 取 る じっ て みね う 際 まず 十 手 で 次 に 脇 差 で 峰 打 ちで 最 後 は 刃 の 方 を 向 けて 取 り 押 さえたとある 寛 政 2 年 (1790)9 月 松 坂 領 西 黒 部 村 非 人 番 新 八 一 家 が 捕 まったとき 衣 類 道 具 類 が 書 き 上 げられた そのなかに 六 尺 棒 1 本 半 棒 1 本 はや 縄 2 本 じってい ( 十 手 )1 本 古 脇 差 1 腰 ちょふちん ( 提 灯 )1つが 含 ま れていた 別 の 記 録 に 非 人 番 方 挑 灯 と あるので 夜 間 取 り 締 まりの 際 に 携 帯 したので あろう 3 非 人 番 小 屋 には 非 人 番 小 家 附 御 用 挑 灯 とあるように 非 人 番 の 家 の 軒 先 に 吊 るしたの ではないかと 思 われる 4 この 手 続 きについては 5で 判 明 する 5 一 其 組 内 村 々ニ 而 盗 賊 召 捕 候 ハヽ 村 方 非 人 番 其 組 惣 廻 リ 共 ニ 而 下 調 ニおよひ 36 部 落 解 放 研 究 No.1912011.3
口 書 を 以 拙 者 共 手 前 へ 達 出 指 図 請 大 黒 田 村 惣 廻 リ 頭 早 助 宅 へ 引 入 候 筈 尤 入 墨 有 之 候 者 ハ 其 段 口 書 江 認 入 達 出 候 筈 右 之 旨 惣 廻 リ 非 人 番 共 へ 入 念 可 被 申 付 候 仍 之 申 遣 候 以 上 八 月 廿 三 日 八 重 田 組 年 番 庄 屋 中 野 呂 万 平 金 谷 七 五 郎 石 1 斗 ) 下 村 年 間 銭 10 貫 文 ( 垣 鼻 村 より 兼 帯 ) 田 原 村 年 間 米 1 石 2 斗 ( 垣 鼻 村 より 兼 帯 ) 垣 鼻 村 年 間 米 2 石 3 斗 麦 9 斗 銭 64 貫 文 ( 下 村 田 原 村 と 兼 帯 ) 大 津 村 年 間 銭 10 貫 文 ( 東 岸 江 村 と 兼 帯 ) 東 岸 江 村 年 間 1 石 2 斗 程 ( 軒 別 月 集 め 西 岸 江 村 大 津 村 朝 田 村 と 兼 帯 ) この 史 料 は 嘉 永 5 年 (1852)のものである 差 出 人 の 野 呂 万 平 金 谷 七 五 郎 は 胡 乱 者 改 あ るいは 胡 乱 者 改 助 と 推 測 される なぜなら 金 谷 丹 二 が 安 永 3 年 (1774)2 月 に 胡 乱 者 改 助 として また 平 尾 村 地 士 金 谷 松 兵 衛 が 天 明 元 年 (1781)12 月 に 三 領 在 々 当 分 胡 乱 者 改 介 役 として 出 ているからである 下 線 部 によれば 非 人 番 は 犯 人 を 逮 捕 したあと その 組 に 置 か したしらべ くち れた 惣 廻 りとともに 下 調 をして 口 書 がき を もって 胡 乱 者 改 ( 助 )に 報 告 したうえ その 差 図 を 受 けて 被 逮 捕 者 を 大 黒 田 村 惣 廻 り 頭 早 助 宅 へ 引 き 入 れておくようにしていた 5 1 まず 町 村 から 非 人 番 給 を 受 領 していた たとえば 明 治 4 年 (1871)6 月 の 東 岸 江 組 明 細 帳 によると 次 のとおりである 飯 野 郡 西 黒 部 村 年 間 米 2 石 2 斗 麦 6 石 4 斗 2 升 4 合 古 井 村 年 間 米 5 斗 銭 2 貫 500 文 ( 佐 久 米 村 と 兼 帯 ) 西 野 々 村 年 間 1か 村 につき 玄 米 5 斗 銭 2 貫 500 文 ( 佐 久 米 村 と 兼 帯 ) 大 黒 田 村 年 間 5 斗 銭 2 貫 500 文 ( 佐 久 米 村 と 兼 帯 ) 佐 久 米 村 年 間 5 斗 銭 2 貫 500 文 ( 吉 井 村 西 野 々 村 大 黒 田 村 と 兼 帯 ) 朝 田 村 年 間 9 斗 金 1 歩 2 朱 銭 3 貫 750 文 ( 東 岸 江 村 惣 廻 飯 高 郡 矢 川 村 年 間 米 1 斗 5 升 西 岸 江 村 年 間 米 5 斗 ( 軒 別 月 集 め 東 岸 豊 原 村 り 八 助 が 兼 帯 ) 年 間 3 斗 5 升 ( 夏 秋 2 回 に 分 けて 支 給 津 藩 の 非 人 番 が 兼 帯 ) ごう づ 江 村 より 兼 帯 ) 郷 津 村 年 間 米 5 斗 ( 軒 別 月 集 め 高 町 屋 村 より 兼 帯 ) 高 町 屋 村 年 間 5 斗 ( 郷 津 村 と 兼 帯 ) 上 川 村 年 間 米 2 石 2 斗 (2 人 分 1 人 1 以 上 のように 米 麦 の 区 別 が 明 記 されてい ない 村 もあるが おそらく 米 であったと 思 われ る 支 給 の 仕 方 もさまざまであるし また 米 だけの 支 給 額 をみても 兼 帯 は 除 くとして 年 間 1 人 当 たり1 斗 5 升 から2 石 2 斗 まで だいぶ 紀 州 藩 松 坂 領 における 非 人 番 及 び 惣 廻 りについての 小 考 察 37
んばらつきがみられる 2 村 が 提 供 する 村 端 入 口 に 建 てられた 番 小 屋 ( 非 人 番 小 屋 )に 住 み 屋 敷 地 の 年 貢 は 村 負 担 であった ふ か 屋 根 の 葺 き 替 え 壁 塗 り 家 直 し 造 作 障 子 の 張 り 替 え 代 などすべて 村 負 担 であった 村 から 非 人 番 給 が 支 給 されていたこと 住 居 が 村 から 提 供 され 修 理 費 などすべて 村 の 負 担 で 行 われていたことに 加 えて 職 務 遂 行 上 の 必 要 経 費 である 油 銭 提 灯 張 り 替 え 代 太 鼓 張 り 替 え 代 看 板 ( 前 述 の 法 被 のような 衣 類 ) の 仕 替 え 代 なども 村 から 払 っていたことか ら 非 人 番 が 村 抱 えであったことは 明 白 である また 非 人 番 が 百 姓 町 人 に 比 べて 一 等 低 く 見 られて 差 別 されていたことは 前 述 のよ うに 町 家 内 に 入 るときは 履 物 を 脱 がされてい たことからもうかがえる ただし 紀 州 藩 では 穢 多 非 人 身 分 の 人 々が 物 貰 いに 出 るとき は 雨 落 より 内 江 入 申 間 鋪 事 あるいは 買 い 物 に 出 かけるときは 敷 居 内 へ 立 入 申 間 鋪 と されていたこと に 比 べると 差 別 の 度 合 いが ゆる 相 対 的 に 緩 かったといえよう 2 惣 廻 りについて 1 成 立 時 期 についてみると 前 述 のように 本 藩 では 貞 享 3 年 (1686)8 月 に 非 人 番 かから 惣 廻 りが 任 じられたという 田 辺 領 では 宝 暦 11 年 (1761)より 設 置 された 尾 鷲 (おわせ) 組 では 惣 廻 り という 名 称 の 初 見 は 正 徳 元 年 (1711)10 月 の 史 料 であった 松 坂 領 では 惣 廻 り の 初 見 は 寛 政 11 年 (1799)4 月 付 の 6である 6 大 黒 田 村 領 罷 在 候 非 人 番 当 町 ニ 而 非 人 番 為 相 勤 候 処 去 暮 ヲ 以 相 止 メ 前 段 ニ 町 方 へ 三 人 抱 置 藤 兵 衛 四 郎 兵 衛 下 ノ 手 へ 申 付 置 候 者 共 自 今 町 惣 廻 リと 申 筈 尤 西 町 東 分 船 江 田 之 内 致 小 屋 懸 候 而 指 置 候 筈 候 右 之 趣 町 方 へ 相 通 し 可 申 候 也 ( 寛 政 11 年 ) 未 四 月 町 会 所 寛 政 10 年 暮 れまで 大 黒 田 村 非 人 番 が 町 方 非 人 番 を 勤 めていたが それを 辞 めさせ 代 わって 藤 兵 衛 四 郎 兵 衛 の 下 ノ 手 3 人 に 申 し 付 け た 自 今 彼 らを 町 惣 廻 り と 呼 ぶとした 配 置 については 本 藩 では 各 組 ごとに 配 置 さ れたようであるが 田 辺 領 の 在 方 では 各 組 ご とに 置 かれたのではなく 領 内 を 東 西 に 分 けて 1 人 ずつ 置 かれた 松 阪 領 の 村 方 では 本 藩 同 様 大 庄 屋 組 ごとに 設 置 されたと 推 定 される たとえば 寛 政 13 年 (1801)1 月 の 7には 次 のように 記 されている 7 当 組 非 人 番 惣 廻 リ 松 崎 浦 非 人 番 早 助 相 勤 罷 在 候 所 及 老 年 難 相 勤 旨 願 出 候 由 右 浦 役 人 中 被 申 出 候 間 願 之 通 指 免 し 右 跡 惣 廻 リ 曲 むら 非 人 番 丈 八 と 申 者 へ 申 付 候 間 其 段 村 々 非 人 番 共 へ 可 被 申 聞 候 仍 之 申 越 候 以 上 正 月 廿 九 日 右 村 々 庄 屋 中 中 村 雄 二 郎 差 出 人 の 中 村 雄 二 郎 は 新 松 ケ 嶋 組 大 庄 屋 であ る 冒 頭 の 当 組 は 新 松 ケ 嶋 組 をさし 組 に 惣 廻 りが 置 かれていたことを 示 している ま 38 部 落 解 放 研 究 No.1912011.3
た 天 保 5 年 1 月 の 史 料 にも 八 重 田 組 惣 廻 リ 之 儀 黒 野 村 非 人 番 伴 六 江 申 付 とあること から 松 阪 領 では 本 藩 同 様 各 組 ごとに 惣 廻 り が 設 置 された 可 能 性 が 高 いと 考 えられる ところで 紀 州 藩 における 大 庄 屋 組 は およ そ20~30か 村 石 高 では9000 石 程 度 を 単 位 とし て 編 成 され 延 宝 期 (1673~81)にその 原 型 が できていたものとされる 松 坂 領 には 大 庄 屋 組 が8 組 あった 1 組 5~24か 村 で 平 均 16 ~17か 村 である 松 坂 町 には 大 年 寄 組 が7 組 あった 大 年 寄 は 元 文 元 年 (1738) 本 町 組 三 井 則 右 ヱ 衛 門 が 任 命 されたのが 始 まりという 町 方 にも 惣 廻 りは いたが どのように 配 置 されていたのかは 今 の ところ 不 明 である 蔭 参 りが 急 増 してきたとして 非 人 番 とともに 惣 廻 りにも 街 道 取 り 締 まりを 厳 重 にさせるよう 大 庄 屋 に 指 示 した 3 惣 廻 りの 職 制 としては 惣 廻 り 頭 がいて その 下 に 各 組 の 惣 廻 りがいたようである その 配 下 に 小 頭 及 び 在 方 非 人 番 がいた 命 令 系 統 は 諸 種 の 史 料 から 以 下 のようで あったと 考 えられる 勢 州 奉 行 ( 兼 松 坂 町 奉 行 御 船 奉 行 ) 松 坂 代 官 各 組 ごとの 大 庄 屋 大 年 寄 胡 乱 者 改 ( 助 役 ) 惣 廻 り 頭 各 組 の 惣 廻 り 2 惣 廻 りの 対 象 地 域 は 各 組 内 が 基 本 と 考 えら れる 1 文 政 元 年 (1818)7 月 無 宿 盗 賊 召 捕 候 節 惣 廻 リ 共 手 前 ニ 而 下 調 べ 仕 らせ とあって 盗 賊 の 逮 捕 に 当 たっていた 伊 勢 三 領 では 金 1 両 以 下 の 盗 みであれば 代 官 に 連 絡 させたう え 惣 廻 りに 犯 人 を 追 い 払 わせ 盗 品 の 捌 (さ ば)き 口 が 分 かれば 惣 廻 りより 盗 まれた 者 へ 引 き 渡 していた 2 前 掲 5に 其 組 内 村 々ニ 而 盗 賊 召 捕 候 ハヽ 村 方 非 人 番 其 組 惣 廻 リ 共 ニ 而 下 調 ニおよ ひ 申 口 書 を 以 拙 者 共 手 前 へ 達 出 指 図 請 とあるように 逮 捕 した 盗 賊 の 下 調 を 非 人 番 とともに 行 った そのことは 前 掲 文 政 元 年 7 月 の 史 料 でも 裏 付 けられる 3 文 政 13 年 (1830) 閏 4 月 非 人 番 の 職 務 の 項 でも 述 べたように 勢 州 奉 行 は 伊 勢 神 宮 へのお ところで 惣 廻 りの 任 命 権 は 村 方 では 大 庄 屋 がもっていた たとえば 寛 政 13 年 (1801)1 月 新 松 ケ 嶋 組 大 庄 屋 が 惣 廻 り 早 助 ( 松 崎 浦 非 人 番 )の 後 任 に 曲 村 非 人 番 丈 八 を 任 命 していた また 天 保 5 年 (1834)3 月 八 重 田 組 惣 廻 り を 大 庄 屋 が 決 めた やはり 非 人 番 ( 小 頭 )から 選 んでいた 寛 政 4 年 (1792) 東 岸 江 組 では かさ 番 賃 が 嵩 み 難 儀 なので 相 談 の 上 惣 廻 り 団 六 の 後 任 を 取 らず 各 村 の 非 人 番 を 交 代 で 昼 1 人 夜 1 人 巡 廻 させることにした なお 田 辺 領 では 総 触 頭 在 方 惣 廻 り 小 頭 平 番 太 という 機 構 が 整 えられたと されている 4 前 に 触 れた 嘉 永 5 年 (1852)8 月 23 日 付 史 料 によれば 盗 賊 召 し 捕 り 後 の 手 続 きについては 非 人 番 とともに 下 調 をして 口 書 をもっ て 胡 乱 者 改 / 同 介 助 に 報 告 したうえ その 差 図 を 受 けて 被 逮 捕 者 を 大 黒 田 村 惣 廻 り 頭 早 助 宅 へ 引 き 入 れておくことになっていた 紀 州 藩 松 坂 領 における 非 人 番 及 び 惣 廻 りについての 小 考 察 39
5 惣 廻 り 給 の 支 給 について 東 岸 江 組 東 岸 江 村 では 明 治 4 年 (1871)6 月 非 人 番 給 とは 別 に 惣 廻 り 給 として 村 から 出 していた 秋 米 三 斗 程 夏 麦 三 斗 程 但 一 組 壱 〆 とある 住 居 については 非 人 番 同 様 村 提 供 と 推 測 される 天 保 5 年 (1834)3 月 八 重 田 組 惣 廻 りを 大 庄 屋 が 黒 野 村 非 人 番 伴 六 に 申 し 付 けた 際 伴 六 が 塚 本 村 に 引 っ 越 しすることになって いる 旨 組 内 各 庄 屋 に 通 知 している もとも と 伴 六 は 黒 野 村 の 番 小 屋 に 住 んでいたわけだ から 引 っ 越 し 後 は 塚 本 村 が 住 居 を 提 供 したも のと 思 われる 終 わりに 解 放 令 発 布 までの 非 人 番 惣 廻 りの 推 移 明 治 維 新 後 の 非 人 番 について 簡 単 にみておく と 松 1 収 録 史 料 では 明 治 4 年 (1871)6 月 まで 一 貫 して 非 人 番 として 表 れている また 非 人 番 給 が 村 方 から 支 給 され 続 けて いる ただし 明 治 3 年 9 月 松 坂 非 人 番 之 業 勤 候 者 共 向 後 松 坂 下 牢 番 之 心 得 ニ 而 惣 廻 り 之 業 相 勤 候 様 可 心 得 事 と 命 じられてい る 従 来 勤 めていなかった 牢 番 ( 皮 多 が 勤 め ていた)および 惣 廻 りを 非 人 番 に 課 せられた 惣 廻 りについては 明 治 4 年 6 月 まで 一 貫 し て 惣 廻 り として 表 れている また 惣 廻 り 給 が 組 内 の 村 から 支 給 されていた ただ し 明 治 2 年 8 月 召 し 捕 り 役 人 雑 用 費 用 は 官 費 から 支 出 されることとなり 刑 人 引 纏 越 の 際 惣 廻 り 非 人 番 賃 米 も 官 費 で 支 給 される ことになった にもかかわらず 村 方 からも 惣 廻 り 給 が 支 給 されていたのは 官 費 だけ では 生 活 が 難 しかったからであろうか なお 明 治 3 年 7 月 ~ 翌 年 2 月 の 時 点 で 惣 廻 りも 牢 番 に 関 わっていた なお 本 稿 は 紀 州 藩 松 坂 領 における 非 人 番 及 び 惣 廻 りについて というテーマで 社 団 法 人 和 歌 山 人 権 研 究 所 の 和 歌 山 研 究 所 通 信 第 37 号 (2010 年 7 月 4~5 頁 )に 掲 載 されたも のに 紙 幅 の 制 約 により 収 録 できなかった 史 料 を 補 い かつ 大 幅 に 書 き 足 したものであること をお 断 りしておきたい ⑴ 芝 英 一 近 世 田 辺 領 における 身 分 制 度 と 非 人 番 ( 番 太 ) 近 世 身 分 制 と 被 差 別 の 民 田 辺 領 の 場 合 南 部 郷 部 落 問 題 研 究 会 1989 年 8 月 98~130 頁 ⑵ 田 辺 同 和 史 第 1 巻 通 史 編 田 辺 市 2000 年 3 月 75~76 頁 123~128 頁 177~179 頁 338~342 頁 ⑶ 藤 本 清 二 郎 和 歌 山 城 下 吹 上 非 人 村 の 形 成 と 展 開 和 歌 山 地 方 史 研 究 第 8 号 1985 年 1 月 城 下 町 和 歌 山 におけるかわた 非 人 制 部 落 問 題 研 究 第 83 輯 1985 年 4 月 近 世 中 期 における 和 歌 山 近 郷 の 非 人 番 と 長 吏 支 配 安 藤 精 一 先 生 退 官 記 念 会 編 刊 和 歌 山 地 方 史 の 研 究 所 収 1987 年 和 歌 山 城 下 非 人 村 の 長 吏 非 人 改 役 と 肝 煎 和 歌 山 地 方 史 研 究 第 55 号 2008 年 7 月 ⑷ 藤 井 寿 一 紀 州 藩 非 人 身 分 の 諸 相 しこく 部 落 史 第 12 号 2010 年 2 月 紀 州 藩 領 以 外 の 地 域 における 非 人 番 研 究 には 一 定 の 蓄 積 があるが 畿 内 を 中 心 とした 研 究 で それまでの 研 究 史 を 整 理 したうえで その 実 態 や 変 化 変 化 の 社 会 的 政 治 的 背 景 などを 総 合 的 に 分 析 した 業 績 として のびしょうじの 二 つの 論 稿 がある 村 方 非 人 番 の 成 立 地 域 史 研 究 16 巻 3 号 1987 年 3 月 広 域 非 人 番 制 の 展 開 と 村 々の 抵 抗 ( 一 )( 二 ) 地 域 史 研 究 17 巻 2 号 3 号 1988 年 1 月 3 月 その 後 筆 者 も 改 訂 箕 面 市 史 部 落 史 本 文 編 ( 箕 面 市 1999 年 3 月 )で 大 阪 府 箕 面 市 域 における 非 人 番 の 存 在 状 況 支 配 系 統 役 目 収 入 住 居 信 仰 など やや 詳 しく 論 述 した(62~75 頁 ) その 後 の 主 な 業 績 として 次 の 論 稿 がある 山 本 薫 研 究 ノート 泉 州 の 堺 四 ケ 所 長 吏 と 郡 中 非 人 番 部 落 問 題 研 究 第 159 輯 2002 年 2 月 坂 口 由 紀 和 泉 国 在 方 非 人 番 について 部 落 問 題 研 究 第 165 輯 2003 年 7 月 のびしょうじ 第 9 話 村 方 非 人 番 の 成 立 被 差 別 民 たちの 大 阪 近 世 前 期 編 解 放 出 版 社 2007 年 40 部 落 解 放 研 究 No.1912011.3
北 崎 豊 二 非 人 番 制 度 の 解 体 摂 河 両 国 を 中 心 に 同 編 著 明 治 維 新 と 被 差 別 民 解 放 出 版 社 2007 年 ⑸ 笠 原 正 夫 紀 州 藩 の 政 治 と 社 会 清 文 堂 2002 年 11 頁 24 頁 39 頁 ⑹ 松 阪 市 史 第 10 巻 史 料 編 近 世 (1) 蒼 人 社 1982 年 521~522 頁 ⑺ 松 阪 の 部 落 史 第 1 巻 史 料 編 前 近 代 松 阪 市 2008 年 3 月 962 頁 以 下 松 1と 略 す ⑻ 天 明 五 年 御 用 留 巳 六 月 廿 一 日 より 松 127 頁 ⑼ 前 掲 田 辺 同 和 史 第 3 巻 史 料 編 133 頁 同 第 1 巻 通 史 編 75 頁 ⑽ 松 坂 権 與 雑 集 ( 抄 ) 松 1735 頁 ⑾ 旅 人 病 気 幷 相 果 候 節 入 用 定 夫 金 蔵 哀 可 被 出 事 松 15 頁 ⑿ 吹 上 非 人 村 成 立 申 上 候 願 書 写 紀 州 藩 牢 番 頭 家 文 書 編 纂 会 編 城 下 町 牢 番 頭 仲 間 の 生 活 発 行 著 者 和 歌 山 人 権 研 究 所 発 行 所 清 文 堂 出 版 2009 年 440~ 441 頁 ちなみに 和 泉 国 では 在 方 の 史 料 における 非 人 番 の 初 見 は 貞 享 4 年 である( 大 阪 の 部 落 史 第 1 巻 史 料 編 考 古 古 代 中 世 近 世 1 部 落 解 放 人 権 研 究 所 2005 年 515 頁 ) 河 内 国 では 初 見 が 同 5 年 ( 前 掲 のび 村 方 非 人 番 の 成 立 6 頁 ) 紀 州 藩 同 様 大 阪 府 域 でも 貞 享 年 間 ごろから 非 人 番 が 村 々 に 置 かれ 始 めたといえよう ただし 摂 津 国 では 初 見 は 享 保 6 年 (1721)とだいぶん 時 代 が 下 る( 前 掲 のび 論 文 8 頁 前 掲 改 訂 箕 面 市 史 部 落 史 本 文 編 65 頁 ) ⒀ 前 掲 田 辺 同 和 史 通 史 編 75 頁 ⒁ 宝 永 五 子 年 より 享 保 十 三 申 年 まで 御 用 筋 抜 書 その 二 松 17 頁 ⒂ 宝 暦 十 一 年 巳 八 月 より 萬 留 帳 西 黒 部 村 松 113~14 頁 ⒃ 村 々 非 人 番 増 筋 之 事 松 155 頁 ⒄ 松 本 家 雑 記 松 131 頁 ⒅ 藤 井 前 掲 論 文 39 頁 箕 面 市 域 においては 22か 村 のうち19か 村 に 非 人 番 が 置 かれていた(2~4か 村 兼 帯 を 含 む 前 掲 改 訂 箕 面 市 史 63~64 頁 ) ⒆ 明 治 四 年 明 細 帳 東 岸 江 組 ( 抄 ) 松 1299~ 312 頁 ⒇ 古 帳 書 抜 ( 抄 ) 松 1747~748 頁 明 和 四 年 亥 極 月 より 萬 留 帳 西 黒 部 松 114 頁 ( 明 和 三 年 戌 五 月 萬 留 帳 松 115 頁 享 和 二 年 戌 正 月 御 用 留 控 西 川 氏 松 133~ 36 頁 同 様 の 通 達 は 天 保 2 年 (1831)9 月 にも 出 されている( 松 164~65 頁 ) 寛 政 二 戌 二 月 御 用 留 松 128 頁 明 和 三 年 戌 五 月 萬 留 帳 松 116 頁 文 政 九 年 十 一 月 戌 常 式 不 時 小 入 用 帳 殿 村 松 1615 頁 天 保 七 申 常 式 不 時 小 入 用 帳 新 松 ケ 嶋 組 大 足 村 ( 抄 ) 松 1623 頁 625 頁 寛 政 拾 三 年 酉 正 月 吉 日 御 用 廻 文 扣 帳 松 133 頁 嘉 永 四 年 亥 正 月 御 用 留 三 渡 り 松 1104 頁 天 保 二 年 辛 御 用 留 三 渡 松 163 頁 文 政 十 三 寅 正 月 御 用 留 上 之 庄 村 庄 屋 中 西 善 三 郎 中 西 六 次 郎 松 1 59~60 頁 安 政 七 年 申 正 月 御 用 留 市 場 庄 村 松 1111 頁 文 久 三 年 亥 正 月 御 用 留 駅 部 田 組 松 1115 頁 天 保 十 三 年 壬 寅 正 月 御 用 留 市 場 之 庄 村 松 188 頁 前 掲 城 下 町 牢 番 頭 仲 間 の 生 活 362~363 頁 前 掲 田 辺 同 和 史 第 3 巻 史 料 編 46~48 頁 108~109 頁 松 本 家 雑 記 松 131 頁 文 久 二 戌 正 月 大 年 寄 留 控 雑 帳 ( 抄 ) 松 1 792 頁 同 上 松 1801 頁 御 仕 置 例 類 集 松 132 頁 寛 政 弐 年 戌 三 月 吉 日 廻 文 扣 之 帳 石 田 治 部 留 備 大 足 村 松 128~29 頁 文 久 三 年 十 二 月 亥 組 割 帳 駅 部 田 組 松 1 657 頁 寛 政 弐 年 戌 三 月 吉 日 廻 文 扣 之 帳 石 田 治 部 留 備 大 足 村 松 128~29 頁 文 化 八 年 未 六 月 公 儀 御 触 書 幷 願 書 定 書 写 松 118 頁 (ママ) 天 明 元 癸 午 五 徒 御 用 御 通 シ 控 帳 松 坂 領 駅 部 田 組 村 田 又 吉 但 久 保 村 庄 屋 松 126 頁 前 掲 藤 井 論 文 で 和 歌 山 県 警 察 史 第 1 巻 (37 頁 ) に 基 づいて 記 述 されている(40 頁 ) 宝 暦 咄 し 松 1753 頁 天 保 十 五 年 辰 常 式 不 時 小 入 用 帳 新 松 ケ 嶋 組 大 足 村 ( 抄 ) 松 1643 頁 文 政 十 二 年 己 丑 歳 極 月 地 下 方 諸 入 用 帳 ( 抄 ) 松 1621 頁 明 治 四 年 未 正 月 一 番 御 用 留 三 渡 里 松 1 812 頁 寛 政 二 戌 二 月 御 用 留 寛 政 三 亥 十 一 月 迄 松 1749 頁 紀 州 藩 松 坂 領 における 非 人 番 及 び 惣 廻 りについての 小 考 察 41
弘 化 三 年 午 常 式 不 時 小 入 用 帳 新 松 ケ 嶋 組 大 足 村 ( 抄 ) 松 1651 頁 非 人 番 挑 ちん ともあ る(645 頁 ) 天 保 十 五 年 辰 常 式 不 時 小 入 用 帳 新 松 ケ 嶋 組 大 足 村 ( 抄 ) 松 1640 頁 嘉 永 五 年 御 用 留 三 渡 り 松 1108 頁 文 化 八 年 未 六 月 公 儀 御 触 書 幷 願 書 定 書 写 松 118 頁 (ママ) 天 明 元 癸 午 五 徒 御 用 御 通 シ 控 帳 組 村 田 又 吉 但 久 保 村 庄 屋 松 126 頁 松 坂 領 駅 部 田 明 治 四 年 明 細 帳 東 岸 江 組 抄 松 1299~ 312 頁 摂 津 国 豊 島 郡 西 小 路 村 では 天 保 14 年 (1843)の 非 人 番 給 は 年 間 米 麦 合 わせて3 石 7 斗 2 升 であった 同 郡 上 止 々 呂 美 村 では 嘉 永 3 年 (1850) 銀 161 匁 米 に 換 算 して 約 2 石 1 斗 であった( 前 掲 改 訂 箕 面 市 史 73 頁 ) 宝 暦 十 一 年 巳 八 月 より 萬 留 帳 西 黒 部 村 松 114 頁 町 方 の 場 合 も 町 の 端 道 路 が 交 差 する 角 に 番 人 小 屋 が 置 かれていたことは 森 壺 仙 筆 宝 暦 時 代 西 町 之 図 之 通 の 絵 図 で 確 認 できる 同 絵 図 に 西 町 2 丁 目 の 角 の 所 に 番 人 の 屋 敷 地 が 描 かれ ている( 松 阪 市 史 別 巻 1 松 阪 地 図 集 成 蒼 人 社 1983 年 19-3) 弘 化 4 年 (1847) 大 足 村 松 1641 頁 文 政 12 年 (1829) 法 田 村 松 1618 頁 弘 化 3 年 (1846) 大 足 村 松 1650 頁 天 保 7 年 (1836) 大 足 村 松 1625 頁 文 政 10 年 (1827) 殿 村 松 1617 頁 文 政 12 年 (1829) 法 田 村 松 1618 頁 天 保 15 年 (1844) 大 足 村 松 1640 頁 弘 化 3 年 (1846) 同 村 松 1651 頁 明 治 元 年 (1868) 法 田 村 松 1621 頁 文 久 2 年 (1862) 大 足 村 松 1643 頁 天 保 13 年 (1842)3 月 に 出 された 紀 州 藩 の 穢 多 非 人 取 締 令 松 坂 領 新 松 ケ 嶋 村 御 用 留 文 政 八 年 より 天 保 十 四 年 松 85 頁 同 様 の 触 れは 元 治 2 年 (1865)7 月 明 治 3 年 (1870)12 月 にも 出 さ れている 松 1120 頁 137~138 頁 前 掲 田 辺 同 和 史 通 史 編 123 頁 松 本 家 雑 記 松 131 頁 前 掲 藤 井 論 文 37 頁 前 掲 田 辺 同 和 史 通 史 編 123 頁 寛 政 拾 三 年 酉 正 月 吉 日 御 用 廻 文 扣 帳 松 132 ~33 頁 天 保 五 年 午 正 月 御 用 留 上 之 庄 村 庄 屋 中 西 善 三 郎 中 西 六 次 郎 松 168 頁 和 歌 山 県 史 近 世 197 頁 紀 州 勢 州 三 領 之 事 松 阪 市 史 第 13 巻 史 料 篇 御 用 留 松 阪 市 1981 年 515~517 頁 松 1803 頁 の 解 説 諸 事 御 用 筋 附 込 幷 心 覚 ひかへ 松 142 頁 同 上 文 政 十 三 年 寅 正 月 御 用 留 上 之 庄 村 庄 屋 中 西 善 三 郎 中 西 六 次 郎 松 159~60 頁 たとえば 天 保 3 年 (1832)2 月 大 黒 田 村 惣 廻 り 頭 早 助 が 退 役 し その 後 任 に 息 子 の 武 蔵 が 任 じられて いる( 天 保 三 年 辰 御 用 留 三 渡 村 松 1761~ 762 頁 ) また 同 4 年 7 月 の 史 料 に 大 黒 田 村 惣 廻 リ 頭 市 助 とある( 覚 松 1622 頁 ) 寛 政 拾 三 年 酉 正 月 吉 日 御 用 廻 文 扣 帳 松 132 ~33 頁 天 保 五 年 午 正 月 御 用 留 上 之 庄 村 庄 屋 中 西 善 三 郎 中 西 六 次 郎 松 168 頁 寛 政 三 亥 霜 月 諸 御 用 留 帳 西 黒 部 村 松 1750 頁 前 掲 田 辺 同 和 史 通 史 編 124 頁 嘉 永 五 年 御 用 留 三 渡 り 松 1108 頁 明 治 四 年 明 細 帳 東 岸 江 組 ( 抄 ) 松 1310 頁 天 保 五 年 午 正 月 御 用 留 上 之 庄 村 庄 屋 中 西 善 三 郎 中 西 六 次 郎 松 168 頁 たとえば 明 治 3 年 では 松 1132 頁 134 頁 270 頁 などに 明 治 4 年 では138 頁 145 頁 299 813 頁 などに 非 人 番 と 出 ている 明 治 維 新 後 の 摂 津 国 河 内 国 における 非 人 番 の 様 子 については 注 (4) であげた 北 崎 豊 二 論 文 に 詳 しい たとえば 明 治 4 年 6 月 の 史 料 によって 東 岸 江 組 の 村 々では 非 人 番 代 非 人 番 給 が 支 給 されてい たことが 分 かる( 明 治 四 年 明 細 帳 東 岸 江 組 ( 抄 ) 松 1299~312 頁 ) 明 治 三 年 午 九 月 四 番 御 用 留 三 渡 村 松 1 133~134 頁 明 治 四 年 明 細 帳 東 岸 江 組 ( 抄 ) 松 1310 頁 明 治 二 年 巳 六 月 三 番 御 用 留 三 渡 り 松 1 126~127 頁 明 治 三 年 午 七 月 ヨリ 有 宿 者 牢 中 扶 持 方 雑 用 銀 取 立 帳 駅 部 田 組 松 1674~684 頁 42 部 落 解 放 研 究 No.1912011.3