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Transcription:

方面委員及学校職員並二青年団幹部 各字団体は言うに及ばず学校現場においても否応なしに 教育ニ関スル戦時非常措置方策 が施行され 学校唱歌にかわり軍歌が歌われ 竹槍訓練や防空訓 練が強制的に行われ 軍事教育の悲壮な教場となった 献殻粟御播種式乙女 昭和14年沖縄県代表として字波平の農家が選ばれ天皇陛下の粟を献納した その時の播種式には波平の女子青年12名が選ばれた 字事務所前での記念写真 8

祝出征兵士後援会在ダバオ字喜名同志会 当時読谷村から長浜 楚辺をはじめ喜名からも多く の移民者 出稼ぎ者 をフィリピンミンダナオ島に送りだしていたが そこでも現地召集があり フィリピンでの戦闘に服役した 昭和15年9月3日 応召軍人並に現役軍人武運長久祈願祭 同遺族慰安会が字古堅公民館前広 場において催された 同集会に参集した遺族及び関係者と後方舞台で舞踊を披露した女子青年 10

嘉手納沖の輸送船団から揚陸された戦車隊 読谷海岸のリーフ内を進軍する海兵隊員 比謝矼に中村1個中隊を残し 主力部隊はすでに南 下しており 無血上陸となった 4月1日 15

攻撃第1波が上陸指定海岸に着いたのが午前8時30分 その後どの隊も遅れず上陸した 水陸 両用戦車で読谷海岸に上陸した海兵第22連隊 爆撃をうけた渡具知部落及び比謝川河口の様子 部落の家々を始め 嘉手納製糖工場へ通じる トロッコ用回転橋が破壊されているのが見える 上陸地周辺に撃ち込まれた砲弾の数は44,825発 を数え ロケット弾33,000発 臼砲弾22,500発も同時に打ち込まれ 激しい集中砲撃であった 16

米軍上陸作戦でイエロービーチと呼ばれたトゥグチバーマ 前線への補給物資も次々上陸舟艇 から陸揚げされた 今はこのトゥグチバーマは無い 渡具知海岸に補給物資 資材を降ろす作業兵士 17

2. 占領下の読谷 上陸地周辺部落は明らかに廃墟と化し ひとっ子一人いない 米兵はこの不思議な静寂と牧歌 的な風景にしばらく心を奪われたと言う 上陸初日 無人の楚辺部落 上陸後 日本兵及び住民を求めて部落内を散策する米兵 どこの部落か不明 4月1日 18

渡慶次国民学校と思われる 窓は吹き飛ばされたが校舎は残った 家々はほとんど吹き飛ばされ 屋敷囲いだけが残った波平部落 上陸時以前から 住民の多くは チビチリガマやシムクガマに避難していた 19

通信隊の基地になった民家 場所不明 現在読谷村にはトリイ通信施設 楚辺通信所 象のオ リ FBIS瀬名波通信施設があるがそのはしりか 上陸後 前線の後方になった読谷村では電話線架設が開始された 作業にあたる万能改造軍 場所不明 21

古堅の部落を通過する米海兵隊戦車 4月 大湾部落か 場所不明 22

読谷村で戦前最も栄えた比謝矼 中央の水陸両用戦車の向こうに 戦災をまぬがれた二階建て瓦 葺住宅が比嘉憲四郎宅 屋号ヒジャ である 4月4日 比謝矼部落からウフグシク脇を長田川沿いに北に進軍する米兵 比嘉憲四郎宅左側後方にメーダ グシクの松林が見える 4月5日 23

比謝橋に設けられた米海軍設営隊キャンプ 嘉手納 現名嘉病院高台 から望む 4月8月 前線部隊と交替するために 比謝橋を通過する米兵 4月8日 24

ここ比謝橋では 比謝橋破壊の任務をおった中村1個中隊と米軍との間で 読谷村で唯一戦闘 らしい戦闘が行われた 以後 旧来の石橋は修復され さらに4月には屋良よりに鉄橋を架設し 前線への物資補給に供した 6月 25

米国上陸部隊の目標は嘉手納中飛行場と読谷飛行場の占拠にあったが 1日午前11時30分までに 第6海兵師団第4海兵連隊は簡単に読谷飛行場を占拠した 同飛行場には破壊された日本製飛行機 の残骸や補給物資が散乱していた 北飛行場の破壊された日本軍飛行機と格納庫 27

読谷飛行場のオトリ機を米軍は茶番劇と笑ったが これは 物量で大きく後退した日本軍にとっ ては敵弾の浪費と空襲時の時間稼ぎを目的としたものであった 4月3日 読谷飛行場の北側座喜味よりに現在でもこの掩体壕 格納庫 が4基残っており 農機具置き場 等に利用されている 28

米軍の飛行場占拠後の5月後半から日本軍の空襲は最高潮に達した 第7回目の夜10時半の空 襲では 義烈空挺隊 の双発爆撃機5機が低空で飛んできたが対空砲で撃ち落とされた その中 の1機が胴体着陸に成功 8人の完全武装の航空兵が飛び出し米軍機26機を撃破し ドラム缶600 本 7万ガロンを爆破炎上させた 胴体着陸によって降り立った義烈空挺隊兵士は 滑走路沿いに並んでいた機を中心にコルセア 24機 CI54型輸送機4機 プライベティアー1機 リバレーター爆撃機1機 ヘルキャット1機 の33機を爆破した 何とも悲壮な作戦であった 29

最後の調査で日本軍は10人が戦死 他に対空砲火にやられた13人の戦死体が飛行機の中で発見 された また撃墜された他の 義烈空挺隊 14人乗り爆撃機4機からは69の遺体が発見された こうして読谷飛行場は滑走路に飛行機の残骸が散乱し 5月25日午後8時までに使用不能とな ったが これを最後に日本軍はふたたび空挺隊を着陸させることはなかった 彼らの遺骨は 戦 後喜名の 梯梧之塔 に納骨され 遺族等関係者が時折訪れている また 義烈空挺隊員の霊を 祭る碑 義烈空挺隊玉砕の地 が平和の森球場の南に建立されている 30