国際地域学研究 第12号 2009 年 3 月 85 平和国家の政軍システム 旧軍用兵思想にみる問題点 西 川 太平洋戦争の末期 日本軍は特攻という人類 吉 光 上類例を見出し難い非情な作戦を実施した 終戦 まで 1 年近くにわたり 特攻作戦は際限なく組織的に続けられた わが国はなぜこうした外道の作 戦を実施するに至ったのか その原因は大きく けて (1) 作戦としての 特攻 に踏み切った日 本 軍 の特質や抱える問題点 (2) 特攻隊員を送り出した日本の 社会と文化 そして(3) 勝機 を完全に失したにも拘らず戦争を止めることができなかった 戦争指導体制 政軍関係 の 3 点か ら探ることができる (3) は既に取り上げたので 本稿では(1) の観点からこの問題を 1 察したい 成期日本の軍事ドクトリン 戦略守勢と戦術攻勢主義 明治 軍以来 日清 日露の勝利を経て さらに時代が昭和へと下るにつれて 日本軍には そ の戦術 戦法において極端なまでに攻撃を重視する思 と姿勢が支配的になっていった それに伴 い 物量 技術面の不足は兵士の精神力をもって補うべしとする極端な精神主義も強まっていく この過度の攻撃重視と精神主義の風潮が合理的な作戦思 を妨げ 人命軽視が武勇の証との錯覚を 招き やがては軍を挙げての特攻の組織的実施へ走らせる大きな素地となった 幕末 維新にかけて 西欧列強の脅威の中で近代国家の途を歩み出した日本の対外戦略は守勢を 旨とするものであった 1871年12月 兵部大輔山縣有朋は 兵部少輔河村純義及び西郷従道との連 名で 海陸兵備ノ件 と題する上申書を提出した これは後年の国防方針に該たるもので (1) ロ シアを想定敵国とし これに対する軍備を諸政一般に優先すべきこと⑵軍の重点を漸次対内的より 対外的に移すべきこと等が指摘されたが その本旨は 海防禦に重点を置く守勢軍備論であった 当時の日本の国力や国際関係から えて 安全保障あるいは国防戦略が守勢の方針を採ったことは 当然の判断と言えるが その一方で 近代日本軍は陸 海軍ともにその 設時から攻撃重視の戦術 戦法を採用した 明治新政府はその発足と同時に陸海軍を 設 1870年の兵部省布告を以て 陸軍はフランス 海 軍は英国を範とした その関係で 軍事ドクトリンも翻訳という形で両国の教模類をそのまま取り 入れる傾向にあった 陸軍は1881年に フランス歩兵操典 を翻訳し 日本初の 歩兵操典 を制 東洋大学国際地域学部 Faculty of Regional Development Studies, Toyo University