WASEDA RILAS JOURNAL NO. 3 (2015. 10) 国 際 シンポジウム 漱 石 の 現 代 性 を 語 る 漱 石 とロシアの 世 紀 末 文 学 それから の 周 辺 源 貴 志 Sōseki and Russian Fin-de-Siècle Literature: Around Sore Kara (And Then) Takashi MINAMOTO Abstract Sōseki, who did not know much about Russian language, was infrequently involved in Russian literature on his own initiative. Even so, Sore Kara (And Then) and Higansugimade (To the Spring Equinox and Beyond) blurred into the shadow of Russian literature likely because in reality, around them was established a reading public that was not preoccupied with the differences in language and country, and that tried voraciously to read European literature of the same age. Today, while the framework of national literature is losing its meaning in the world of literature research, we can once again ascertain the appearance of the receptacle of world literature around Sōseki from 100 years ago. それから とアンドレーエフの 赤 い 笑 昨 日 の 朝 日 新 聞 紙 上 では 代 助 と 平 岡 が 酒 を 酌 み 交 わしていて 平 岡 が 酔 っ 払 って 長 広 舌 を 振 るっていました こころ それから に 続 き 4 月 1 日 から 漱 石 の それから が 朝 日 新 聞 に 再 連 載 されています 今 日 はその それから に かかわる 話 題 になります いまからちょうど 30 年 前 1985 年 に 森 田 芳 光 監 督 による それから の 映 画 化 作 品 が 公 開 されてい ます それから の 原 作 には 主 人 公 代 助 の 移 動 の 手 段 としての 電 車 ( 路 面 電 車 )がたびたび 出 てき ますが 映 画 作 品 においても 主 人 公 が 電 車 に 乗 る 場 面 がたいへん 印 象 的 な 画 面 づくりをされて 繰 り 返 されています とくに 電 車 の 窓 一 杯 に 夕 やけの 赤 い 色 が 広 がっていくシーン( 青 山 練 兵 場 の 脇 を 通 る 電 車 に 乗 っている 箇 所 に 該 当 するように 思 われま す)は 森 田 芳 光 監 督 が それから にロシアの 作 家 アンドレーエフ(Леонид Николаевич Андреев) の 影 響 があるということを 勘 案 して 考 え 出 したもの ではないかと 思 われます 原 作 の それから のな かで このシーンからすぐに 思 い 浮 かぶのは 作 品 末 尾 の ちょっと 唐 突 に 感 じられる 表 現 です 忽 ち 赤 い 郵 便 筒 が 目 に 付 いた するとその 赤 い 色 が 忽 ち 代 助 の 頭 の 中 に 飛 び 込 んで くるくる と 回 転 し 始 めた 傘 屋 の 看 板 に 赤 い 蝙 蝠 傘 を 四 つ 重 ねて 高 く 釣 るしてあつた 傘 の 色 が 又 代 助 の 頭 に 飛 び 込 んで くるくると 渦 を 捲 い た 四 つ 角 に 大 きい 真 赤 な 風 船 玉 を 売 つてる ものがあつた 電 車 が 急 に 角 を 曲 るとき 風 船 玉 は 追 懸 けて 来 て 代 助 の 頭 に 飛 び 付 いた 小 包 郵 便 を 載 せた 赤 い 車 がはつと 電 車 と 摺 れ 違 ふ とき 又 代 助 の 頭 の 中 に 吸 ひ 込 まれた 烟 草 屋 の 暖 簾 が 赤 かつた 売 出 しの 旗 も 赤 かつた 電 柱 が 赤 かつた 赤 ペンキの 看 板 がそれから そ れへと 続 いた 仕 舞 には 世 の 中 が 真 赤 になつ た さうして 代 助 の 頭 を 中 心 としてくるりく るりと 燄 の 息 を 吹 いて 回 転 した 代 助 は 自 分 の 頭 が 焼 け 尽 きる 迄 電 車 に 乗 つて 行 かうと 決 心 し た 401
WASEDA RILAS JOURNAL 次 に 見 るのは 二 葉 亭 四 迷 による 赤 い 笑 の 翻 訳 血 笑 記 の 一 部 分 です 志 願 兵 が 何 か 言 はうとして 口 元 を 動 かした 時 不 思 議 な 奇 怪 な 何 とも 合 点 の 行 かぬ 事 が 起 つた 右 の 頬 へふわりと 生 温 い 風 が 吹 付 けて 私 はガクッとなつた 唯 其 丈 だつたが 眼 前 には 今 迄 蒼 褪 めた 面 の 在 つた 処 に 何 だかプツ リと 丈 の 蹙 つた 真 紅 な 物 が 見 えて 其 処 から 鮮 血 が 栓 を 抜 いた 壜 の 口 からでも 出 るように ドクドクと 流 れてゐる 所 は 拙 い 絵 看 板 に 能 く 有 る 図 だ で そのプツリと 切 れた 真 紅 な 物 か ら 血 がドクドクと 流 れる 処 に 歯 の 無 い 顔 でニ タリと 笑 つて 赤 い 笑 の 名 残 が 見 える /これに は 見 覚 えがある 之 を 尋 ねて 漸 く 尋 ね 当 てたの だ 其 処 らの 手 が 捥 げ 足 が 千 切 れ 微 塵 にな つた 奇 怪 な 人 体 の 上 に 浮 いて 見 える 物 を 何 か と 思 つたら 是 だつた 赤 い 笑 だつた 空 にも 其 が 見 える 太 陽 にも 見 える 今 に 此 赤 い 笑 が 地 球 全 体 に 拡 がるだらう ( 筑 摩 書 房 版 二 葉 亭 四 迷 全 集 第 三 巻 P. 518) 諸 君! と 私 は 大 声 出 してドクトルの 話 を 奪 つて 助 けて 呉 れェ! また 赤 い 笑 声 が 聞 え る! 月 も 赤 くなる 日 も 赤 くなる 毛 物 の 毛 も 赤 い 愉 快 な 毛 となる 余 り 白 いと 余 り 白 い とな それ その 皮 を 引 剥 いでやらうといふも のだ 諸 君 は 血 を 飲 むだことがあるか? 血 は 少 し 黏 々する 物 だ 少 し 生 温 かな 物 だ 其 代 り 真 紅 な 物 だ 而 して 血 が 笑 ふと 真 紅 な 愉 快 な 笑 声 が 聞 る! ( 同 上 P. 543) 実 際 のところ それから の 作 品 中 ではアンド レーエフに 対 する 直 接 に 言 及 としては 赤 い 笑 とは 別 の 作 品 七 死 刑 囚 物 語 に 触 れている 箇 所 が あるのみです じつは それから とアンドレー エフの 関 係 については ちょうど 30 年 前 森 田 芳 光 監 督 の 映 画 公 開 とちょうど 同 時 期 の 1985 年 の 4 月 に 藤 井 省 三 さんの ロシアの 影 夏 目 漱 石 と 魯 迅 (1) という 著 書 が 出 ており また これと 配 布 しま したレジュメの 裏 面 のリストにある 小 平 武 さんの 論 文 にも 詳 しく 述 べられています (2) 今 日 のお 話 は それ 以 上 具 体 的 に また 深 いお 話 しはできません きわめて 雑 ぱくな 大 雑 把 なお 話 しで 失 礼 をさせて いただきます ここからは 少 し その 藤 井 さんの 著 書 を 引 用 さ せていただきながら 話 を 進 めます なお ちょう ど 30 年 前 この 藤 井 さんの 出 たのと 同 時 に わた くしは 早 稲 田 の 大 学 院 に 入 って 修 士 論 文 を 書 き 始 めたときにこの 本 を 読 ませていただきました この 本 は わたしの 研 究 生 活 の 出 発 点 のひとつであるこ とについて あらかじめ ひと 言 申 し 述 べておきま す まず 最 初 に 何 か 所 か 引 用 します レオニド アンドレーエフ その 存 在 は 今 日 ではほとんど 忘 れ 去 られているが 二 〇 世 紀 初 頭 においては 彼 の 母 国 ロシアはもとより 欧 米 日 本 中 国 で 競 って 読 まれ 論 じられた 世 界 的 文 学 者 であった 彼 が 描 き 出 した 不 安 と 恐 怖 の 心 理 とは 第 一 革 命 後 におけるロシア 知 識 人 の 精 神 的 混 迷 を 色 濃 く 反 映 したものである ( 藤 井 :P. 4 下 線 源 [ 註 1 の 文 献 以 下 頁 数 のみを 同 様 に 示 す]) 戦 前 アメリカにおいてロシア 文 学 を 研 究 してい た A S カウン( 一 八 八 九 ~ 一 九 四 四 )は その 大 著 レオニド アンドレーエフ その 批 評 と 研 究 ( 一 九 二 四 年 )の 冒 頭 において 新 思 想 を 掲 げていたわけでもなかったアンド レーエフが 世 界 文 学 に 対 して 強 い 影 響 力 を 有 していた 理 由 を つぎのように 述 べている[ 以 下 略 ]( 藤 井 :P. 25 下 線 源 ) 柳 富 子 氏 はというエッセイで [ 中 略 ] 早 稲 田 文 学 でしばしばアンドレーエフが 紹 介 された ことに 触 れて 次 のように 述 べている ( 藤 井 :P. 226) 藤 井 省 三 さんがここで 引 いている 柳 富 子 先 生 の 論 文 の 引 用 は 次 のとおりです すでに 本 国 でも 日 本 でも 顧 みられなくなって 久 しいアンドレーエフがなぜ 明 治 末 期 のわが 国 で これほど 問 題 にされたのか 奇 異 な 感 じを 覚 えず にいられない ( 柳 富 子 早 稲 田 文 学 とロ シア 文 学 比 較 文 学 年 誌 第 6 号 1970 年 ) 402
アンドレーエフ ブーム まずここで 触 れられているような 当 時 のアンド レーエフ ブームということに 簡 単 に 触 れておきま す 明 治 末 から 大 正 にかけて ロシア 文 学 を 中 心 とし た 言 わば 北 欧 文 学 紹 介 のブームがあって 当 時 日 本 の 文 学 者 の 多 くが 影 響 を 受 けているばかりでは なく かなり 多 彩 な 顔 ぶれの 文 学 者 たちが みずか らその 紹 介 の 仕 事 に 携 わっています これに さら に それから の 作 品 中 にも 出 てくるダヌンツィオ などのイタリア 文 学 や 中 欧 東 欧 文 学 の 作 家 も 注 目 された 時 代 ということができます もちろん 当 時 ロシア 語 やスカンジナヴィア 諸 語 等 を 習 得 して それらの 言 語 から 直 接 の 翻 訳 をな した 人 はごく 少 数 であり たいていはドイツ 語 や 英 語 からの 重 訳 だったわけですが しかし その 仕 事 に 関 わった 人 びとの 多 くが 当 時 第 一 線 で 活 躍 する 文 学 者 であり それらの 人 びとの 手 になる 翻 訳 作 品 も オリジナルの 小 説 作 品 と 同 じように 出 版 界 の 話 題 となり 読 者 の 関 心 を 呼 んだものであってみれ ば ひろく 日 本 の 近 代 文 学 を 考 えるうえで この 時 代 の 翻 訳 作 品 とくに 重 訳 作 品 を オリジナルの 小 説 作 品 などより 劣 った 次 元 のものと 考 える 必 然 性 は ありません (3) なかでも 知 られているのは 上 田 敏 をはじめとし て 夏 目 漱 石 の 周 辺 の 人 びとによる アンドレーエ フ 作 品 の 研 究 と 紹 介 であって それらの 仕 事 は 漱 石 自 身 の 作 品 にも 深 い 影 を 落 としているわけです ア ンドレーエフの 作 品 は この 時 期 ヨーロッパで 大 変 なブームとなって それが 日 本 にも 波 及 し さら には 魯 迅 周 作 人 兄 弟 の 仕 事 にもつながって 20 世 紀 初 年 代 第 一 次 世 界 大 戦 までの 世 界 文 学 の 歴 史 のなかでは 逸 することのできない 作 家 となっていま す 激 しいブームの 対 象 となった 作 家 は 概 して 忘 れ 去 られることもまた 極 端 であるのが 通 例 です アン ドレーエフもまたその 例 に 漏 れないかの 観 がありま す 本 国 ロシアにおいては とくにソビエト 期 に 入 って その 後 半 生 の 反 革 命 主 義 的 な 行 動 の せいもあって 否 定 的 なあつかいを 免 れることがで きませんでした しかし それでもアンドレーエフは とくにその 活 動 の 初 期 においてチェーホフ ゴーリキイの 同 僚 として 活 動 したことから 一 応 ソビエトの 文 学 史 のなかでも 重 要 な 地 位 を 与 えられていましたし 19 世 紀 ロシアの 並 みいる 文 豪 たちにつづくかた ちで かならず 名 前 は 挙 げられていました 1959 年 には 1 冊 本 の 戯 曲 集 (4) が 1971 年 には 2 冊 本 の 作 品 集 (5) が 刊 行 され 研 究 書 科 学 アカデミーの 紀 要 への 専 門 家 による 研 究 論 文 の 発 表 など 基 本 的 な 作 家 研 究 作 品 研 究 のあゆみは 止 まることはあり ませんでした それはおもて 向 きには 初 期 の 文 学 作 品 が 革 命 主 義 的 な 傾 向 のものであり また 不 幸 なできご とに 見 舞 われた 哀 れな 人 物 を ヒューマニスティッ クな 視 点 で 描 く 一 方 当 時 のロシア 社 会 の 腐 敗 した 側 面 を 摘 出 して 批 判 して 見 せている 作 品 として 扱 わ れたからなのですが ただ ソビエト 時 代 に 細 々と ながらもアンドレーエフ 研 究 が 続 けられていたこと は そのように 政 治 的 イデオロギー 的 な 理 由 だけ からでは 説 明 のつくことではありません ソビエト 時 代 の 文 学 研 究 の 現 場 というものは 表 面 的 にはど う 見 えても 実 際 にはかなりしたたかに アンド レーエフのような 退 廃 的 な 作 家 の 研 究 も 根 気 よく 行 なわれていたことに 言 及 しておかなくてはな りません その 証 拠 に グラスノスチ 政 策 以 後 においては 早 々に 2 冊 本 の 戯 曲 集 (6) が 刊 行 され 1990 年 から 1996 年 にかけては 6 巻 本 の はじめて 全 集 と 呼 べ る 規 模 の 作 品 集 (7) が 刊 行 されました これは ソ 連 時 代 においても いずれそのときのあることを 期 していた 企 画 でなければならず そこにはやはり 世 界 文 学 のなかのアンドレーエフ という 認 識 が あったものと 思 われるのです したがって アンドレーエフは 必 ずしも 忘 れら れた 作 家 とは 呼 べないのですが のちほど 触 れま すが もう 一 人 アンドレーエフに 続 いて 大 変 な ブームをまきおこしながら やがては アンドレー エフの 亜 流 とされ ついにはほぼ 完 全 に 忘 れ 去 ら れてしまった 作 家 がおります ミハイル ペトロー ヴィチ アルツィバーシェフ(Михаил Петрович Арцыбашев)です じつは そのアルツィバーシェフも 日 本 ではじ つによく 読 まれ 研 究 され 翻 訳 された 作 家 であり 大 正 期 の 日 本 では あるいは 最 も 名 の 知 られた 外 国 作 家 の 範 疇 に 属 するかもしれません しかし ここでは 藤 井 さんの 著 書 に 指 摘 されて 403
WASEDA RILAS JOURNAL いる 日 本 におけるアンドレーエフ 受 容 の 諸 段 階 と いうものを 見 ておきます 引 用 が 中 心 となります が ご 了 承 下 さい 日 本 のアンドレーエフ 受 容 の 諸 段 階 ( 藤 井 省 三 氏 による) 1. アンドレーエフ 受 容 の 初 期 段 階 日 本 にアンドレーエフがはじめて 紹 介 されたの は 日 露 戦 争 直 後 の 一 九 〇 六 年 であろう この 年 には 上 田 敏 が 短 篇 旅 行 を 訳 している ( 藤 井 :P. 30) その 後 数 年 のあいだに 血 笑 記 をはじめと して 嘘 心 深 淵 歯 痛 七 死 刑 囚 物 語 など 多 数 の 作 品 が 二 葉 亭 四 迷 森 鷗 外 昇 曙 夢 相 馬 御 風 らによってつぎつぎと 翻 訳 され た これらはいずれも 当 時 文 壇 内 外 の 話 題 を さらい 広 範 な 読 者 に 読 まれていた [ ] 文 芸 評 論 家 たちは 一 様 にアンドレーエフの 描 く 恐 怖 の 感 覚 に 驚 き その 斬 新 なる 手 法 に 魅 せられ ていたようである ( 藤 井 :P. 31) 2. 小 宮 豊 隆 のアンドレーエフ 受 容 小 宮 はアンドレーエフ 文 学 の 本 質 を 感 触 しえて はいたものの それをロシア 的 状 況 に 一 度 還 元 するだけの 世 界 認 識 は 持 ち 合 わせていなかっ た ( 藤 井 :P. 34) 3. 大 逆 事 件 とアンドレーエフの 政 治 的 観 点 か らの 受 容 藤 井 氏 は 荒 畑 寒 村 相 馬 御 風 平 出 修 といった 人 たちはアンドレーエフの 七 死 刑 囚 物 語 を 単 に 死 刑 というものの 悲 惨 と 無 意 義 を 説 明 するための 作 品 ではないと 考 え アンドレーエフ 文 学 を ロシ ア 的 状 況 における 苦 悩 する 魂 の 告 発 と 読 んでいたと 指 摘 し アンドレーエフ 文 学 は 単 なる 欧 米 渡 来 の 最 新 手 法 ではなく 第 一 革 命 期 のロシア 知 識 人 の 苦 悩 を 代 弁 するものであり 大 逆 事 件 に 見 るような 冬 の 時 代 を 生 きる 日 本 の 知 識 人 の 影 であったと 述 べています そして そこにこそ それから へ のアンドレーエフの 影 響 があると 主 張 しています 4. 大 正 期 のアンドレーエフ 受 容 (アンドレーエフ 文 学 の 矮 小 化 ) 日 本 では 大 正 期 に 入 ってもアンドレーエフは 多 数 の 読 者 を 持 ち 続 けた [ ]しかしかつて 大 逆 事 件 後 に 相 馬 御 風 平 出 修 らがアンドレーエ フ 作 品 のなかに 専 制 化 しつつあった 日 本 の 状 況 を 読 みこもうとしたような 時 代 状 況 への 関 心 は ここでは 全 く 失 われている [ ] 彼 ら 若 い 世 代 は もはや 感 性 ばかりを 便 りとしながら 一 種 のエキゾティシズムとしてロシア 文 学 を 読 み 始 めていたのである ( 藤 井 :P. 211 212) かくしてアンドレーエフの 政 治 的 メッセージは 全 く 見 失 われたのである (P. 213) 漱 石 によるアンドレーエフの 読 み 方 このように 日 本 におけるアンドレーエフ 受 容 の 流 れの 概 観 を 背 景 に 藤 井 さんは 漱 石 によるアンド レーエフの 読 み 方 について 次 のように 述 べていま す 数 年 来 アンドレーエフを 邦 訳 で 読 み 続 けていた と 思 われる 漱 石 が ついに 未 訳 の 作 品 にも 手 を 出 すべく 門 下 生 の 小 宮 豊 隆 とともにドイツ 語 訳 によりアンドレーエフを 集 中 的 に 読 みはじめ るのは 一 九 〇 九 年 三 月 のことである 当 時 の 小 宮 宛 書 信 ( 三 月 一 三 日 )で 日 数 をふやすよ うに 頼 むほど この 訳 読 会 は 漱 石 の 関 心 を 誘 ったらしい ( 藤 井 :P. 51) 藤 井 氏 は 漱 石 がアンドレーエフを 思 想 構 築 の 糧 として 読 み それから においてアンドレーエフ の 手 法 を 意 識 し それを 自 家 薬 籠 中 のものとして さらに 日 本 の 社 会 的 状 況 を 取 入 れて 独 自 の 文 学 世 界 を 構 築 したと 述 べています それから において は アンドレーエフは 決 定 的 な 影 響 を 持 つものであ るのに 小 宮 豊 隆 以 来 のアンドレーエフの 矮 小 化 に よって 漱 石 作 品 そのものの 意 義 も 則 天 去 私 に 矮 小 化 されて 理 解 されるに 到 ったというのが 藤 井 氏 の 見 解 です 404
しかし ここでは 藤 井 氏 にここで 敢 えて 反 旗 を 翻 すというつもりであるわけではないのですが それから に 対 するアンドレーエフの 影 響 という ものを 考 えるとき もう 少 し 視 野 を 広 くとって 敢 えて 影 響 ということを 広 く 浅 く 考 えてみたいと 思 います 今 回 配 布 している 要 旨 には それでも それから や 彼 岸 過 迄 にロシア 文 学 の 影 がに じむ という 表 現 をいたしました ロシア 文 学 の 影 というのは 藤 井 さんの 著 書 のタイトル ロシアの 影 にリスペクトの 思 いを 込 めたものなのですが アンドレーエフの 影 響 を 影 響 の 影 の 字 すなわち 影 といったイメージで 捉 えてみたいのです そ れは 冒 頭 に 見 ていただいた 森 田 芳 光 監 督 の 映 画 の あのシーンが 映 画 で 象 徴 的 に 使 われていて 映 画 全 体 の 雰 囲 気 を 作 り 上 げているのと 平 行 した そう いうイメージとしてのことなのです 二 葉 亭 の 帰 朝 後 の 文 学 活 動 と ロシア 世 紀 末 文 学 さきほど その 映 画 のシーンにかかわって 二 葉 亭 訳 のアンドレーエフ 作 品 血 笑 記 の 一 節 を 紹 介 しました この 作 品 は 作 品 全 体 が さきほど 紹 介 したような 雰 囲 気 の 描 写 に 満 ちており とくに 特 徴 的 なのは できごとがすべて 身 体 感 覚 視 覚 聴 覚 嗅 覚 触 覚 によって 表 現 される 断 篇 の 積 み 重 ねという 形 式 を 取 っていることです じつはこの 作 品 は 作 者 アンドレーエフによって 日 露 戦 争 が 舞 台 として 想 定 されているものです 戦 場 が 舞 台 と なっている 文 学 作 品 ではありますが 戦 況 や 戦 術 と いったものとはまったく 縁 のない 戦 場 での 人 間 の 不 条 理 な 死 の 立 ち 現 われ 方 の 実 際 のところを 暴 露 している 全 篇 がそういうトーンによって 成 り 立 っている 作 品 です じつは 二 葉 亭 は まさにそれと 同 じような ア ンドレーエフのような 極 彩 色 ではないのですが 同 じトーンを 持 つロシア 文 学 作 品 を 翻 訳 して 発 表 し ています それは 日 露 戦 争 の 開 戦 後 半 年 1904 年 7 月 に 発 表 された 軍 事 小 説 つゝを 枕 というもので 原 作 はトルストイ もとのタイトルは 伐 採 («Рубка леса») というものです これはトルストイが 露 土 戦 争 を 舞 台 として 書 いた 初 期 の 小 説 (1855 年 発 表 )で 軍 事 小 説 という 角 書 にはふさわしくない 巻 頭 言 に 謳 われている 英 爽 豪 邁 なる 勇 気 の 発 露 どころか むしろ 戦 争 での 死 の 立 ち 現 われ 方 の 実 際 のところを 暴 露 し ているため 読 む 者 ( 国 民 )の 士 気 を 鼓 舞 するより は その 逆 の 効 果 を 生 むかも 知 れない あきらかに 厭 戦 的 な 気 分 を 誘 うしかない 内 容 のもので そんな 小 説 を いよいよロシアとの 戦 争 が 激 しくなり 好 戦 的 な 世 論 が 最 高 潮 となっている 時 期 に それも 敵 国 のロシアの 小 説 なのですが それを 二 葉 亭 は 翻 訳 して 発 表 しています これは 二 葉 亭 が 日 露 戦 争 開 戦 の 半 年 前 に 北 京 から 引 き 上 げてきて 以 降 日 露 戦 争 の 開 戦 とほぼ 同 時 に 開 始 されたかたちになる 二 葉 亭 の 第 3 期 ( 後 期 / 帰 朝 後 )の 文 学 活 動 のなかで 2 番 目 に 当 たる 翻 訳 作 品 です 19 世 紀 ロシア 文 学 全 体 を 視 野 に 入 れているはず の 二 葉 亭 のロシア 文 学 翻 訳 活 動 の 実 際 を とくにこ の 第 3 期 の 活 動 内 容 を 見 ますと 決 して 啓 蒙 的 なも のではなく 有 名 作 家 の 代 表 作 の 翻 訳 がほとんど 無 いことに 気 がつきます するとそこでは 翻 訳 作 品 の 選 択 どんな 作 品 を 選 んで 訳 したのか という ことが 問 題 となります 文 学 は 男 子 一 生 の 事 業 にあらず としていた 二 葉 亭 は 大 陸 での 事 業 のほか つねに 哲 学 心 理 学 研 究 を 心 がけていましたが 昨 年 ミネルヴァ 書 房 か ら 出 版 されたヨコタ 村 上 孝 之 さんによる 評 伝 (8) で は 二 葉 亭 が ジェームズ サリー アレクサン ダー ベイン ヘンリー モーヅレーなどの 当 時 の 心 理 学 者 の 著 書 を どの 程 度 読 みこなしていたのか について それら 文 献 と 二 葉 亭 の 著 述 や 書 き 残 した メモと 具 体 的 に 比 較 して 検 討 が 行 なわれています ここで 指 摘 したいのは そうした 心 理 学 的 な 研 究 と 連 動 して 人 間 の 存 立 の 究 極 の 基 盤 としての 意 識 ということが 二 葉 亭 の 最 大 の 関 心 事 となり それを 脅 かす 死 狂 気 に 対 する 不 安 恐 怖 の 描 写 ということが 文 学 上 の 問 題 として 厖 大 な 19 世 紀 ロシア 文 学 の 作 品 のなかから 翻 訳 対 象 とす る 作 品 の 選 択 に 働 いているということが 言 えます そこで 選 ばれているのは ゴーゴリであり ガルシ ンであり そしてゴーリキイの 初 期 の 短 篇 群 なの です すなわち これらの 作 品 は 死 あるいは 狂 気 に 対 する 恐 怖 からくる 不 安 神 経 の 実 感 の 描 写 を 共 通 のテーマとしており 二 葉 亭 はとくに 翻 訳 にたずさ 405
WASEDA RILAS JOURNAL わるにあたって 死 や 狂 気 を 概 念 的 分 析 的 にではなく 風 景 の 視 覚 的 聴 覚 的 な 変 化 ととも に 死 狂 気 の 恐 怖 がひとりの 人 間 の 意 識 に 実 感 として 入 り 込 んでくる 様 子 を あくまで 即 物 的 感 覚 的 に 描 こうと 日 本 語 の 読 みの 流 れを 意 識 の 流 れ に 近 づけるべく 努 力 している そしてそ の 結 果 二 葉 亭 が 遺 した 文 学 作 品 には 19 世 紀 ロ シア 文 学 全 体 を 守 備 範 囲 としたうえでの きわめて 特 異 な 作 品 の 選 択 の 基 準 が 働 いていると 思 われ ます この 二 葉 亭 が 後 期 の 翻 訳 作 品 を 通 して 行 なった 追 究 は 個 々の 作 品 としてというよりは 全 体 とし て 当 時 の 日 本 の 作 家 たちに 大 きな 影 響 を 与 え な いしは 共 鳴 をひきおこしています それは あひび き めぐりあひ から 自 然 主 義 へという 影 響 より は 深 く 広 いものであり 得 るのです あたかも 時 期 においては 先 に 述 べたロシア 北 欧 文 学 紹 介 のブームに 連 結 していくのですが その とき 残 念 ながら 二 葉 亭 は 漱 石 と 交 互 に 連 載 小 説 を 書 くという 地 位 を 捨 てて 遠 くロシアへ 二 度 と 戻 らぬ 旅 路 に 就 いてしまうのです 二 葉 亭 と 漱 石 および 魯 迅 のあいだを 結 ぶのは アンドレーエフの 血 笑 記 です また たとえば 谷 崎 潤 一 郎 は アンドレーエフの 血 笑 記 に 限 ら ず 二 葉 亭 の 訳 したゴーリキイの 短 篇 や 当 時 やは りブームの 渦 中 にあったストリンドベリ 等 の 強 い 影 響 を 蒙 っています また 志 賀 直 哉 にも アンドレー エフとアルツィバーシェフの 影 響 が 考 えられます そして 二 葉 亭 のあとを 継 ぐかたちで アンドレー エフやアルツィバーシェフ そのほかバリモント (Константин Бальмонт) ザイツェフ(Борис Зайцев) ソログープ(Фёдор Сологуб)といったロシアの 世 紀 末 的 な 作 家 の 作 品 を 紹 介 したのが ロシア 文 学 者 の 昇 曙 夢 であり 鷗 外 であるという 流 れになります 昇 曙 夢 の 六 人 集 毒 の 園 といった 翻 訳 集 や 鷗 外 の 諸 国 物 語 などに 収 められた 作 品 が 当 時 の 読 書 青 年 たち のちの 大 正 昭 和 期 の 作 家 たちに とって 青 春 の 書 であったことは 例 えば 谷 崎 の 青 春 物 語 のなかに 具 体 的 な 作 家 名 作 品 名 ととも に 語 られています それら 世 紀 末 的 な 作 品 に あるいはそれらに 影 響 された 日 本 の 作 家 の 作 品 に 共 通 して 見 られるのは いわゆるヒポコンデリー 神 経 衰 弱 それから には アンニュイ という 言 葉 が 使 われています といったもので 実 際 は 健 康 であるにもかかわ らず 刺 激 に 敏 感 で, 自 分 の 身 体 の 健 康 状 態 につい て 過 剰 な 心 配 をする 傾 向 があり, 一 般 に 異 常 体 感, 強 迫 観 念, 妄 想 などを 呈 するというのが ヒポコン デリーというものの 症 状 だとすれば それから の 冒 頭 をすぐに 思 い 起 こされる 方 も 多 いと 思 います このような 世 紀 末 的 な 作 品 群 の 影 響 は ときとし て 作 家 の 創 作 にはマイナスの 影 響 を 持 つようです さきほど 言 及 した 谷 崎 潤 一 郎 の 青 春 物 語 を 見 ま すと 刺 青 秘 密 などの 鮮 烈 な 作 品 によるデ ビューのあと 恐 怖 饒 太 郎 など 恐 怖 病 への 恐 怖 というものを 背 景 に 作 品 の 描 く 世 界 に も 作 品 そのもののスタイルにも アパシー( 倦 怠 感 勤 勉 さへの 軽 蔑 )が 拡 がっています (9) 大 正 型 の 世 界 文 学 読 書 青 春 物 語 などを 読 むと 谷 崎 の 若 い 頃 すな わち 日 露 戦 争 後 から 明 治 末 頃 にかけての 翻 訳 文 学 あるいは 外 国 文 学 の 読 書 というものが 当 時 の 読 書 人 の 共 通 の 精 神 状 況 を 構 成 し ときとして ある 種 の 共 通 の 気 分 を 創 り 出 していたことが 伺 えます そこでは 日 露 戦 争 あたりを 境 として 圧 倒 的 に 増 大 した 日 本 の 知 識 人 読 書 人 たち そこには 魯 迅 のような 留 学 生 も 含 まれるわけですが そうい う 読 書 人 たちの 欧 米 文 学 の 読 書 現 象 というべきも の その 特 徴 を 考 えると イギリス フランス ド イツの 作 品 ばかりではなく この 頃 になると ロシ アや 北 欧 南 欧 中 欧 や 東 欧 といった 地 域 の 作 家 作 品 もよく 読 まれるようになります その 際 原 作 の 言 語 にこだわらない 読 書 原 語 で 読 まなくても 翻 訳 で 読 めばよい 英 語 訳 やドイツ 語 訳 でどんどん 読 む また 日 本 語 訳 も 原 典 からの 翻 訳 でなくても よい 重 訳 でかまわない といった 読 書 のありかた が 顕 著 であるように 思 われます 原 語 で 読 むという 言 わば 迂 遠 なことを 敢 えてせ ずに ヨーロッパで 話 題 になれば さっそく 注 目 す る ヨーロッパでブームになれば 遅 れじとばかり に とにかく 手 に 入 る 言 語 の 英 語 やドイツ 語 の 翻 訳 で 読 む また この 頃 のヨーロッパでは ロシアをはじめ とした さまざまな 地 域 の 文 学 作 品 の 翻 訳 が かな り 早 いタイミングで 出 るようになっているという もちろん 今 日 とは 比 べものになりませんが 406
言 わば 情 報 化 の 進 展 というものがあります トル ストイは 1899 年 ごろ 復 活 を 執 筆 しながら その 収 入 をドゥホボール 教 徒 の 支 援 に 充 てるため に 原 稿 をロンドンの 出 版 社 に 送 ってロシアとイギ リスで 同 時 出 版 を 行 なうということをしています また 英 語 フランス 語 ドイツ 語 への 翻 訳 を 同 時 に 進 めさせる といったこともしていて 国 際 的 な 文 学 の 同 時 性 同 時 代 性 といったことが 生 じて います そして そういったコンテキストのなかではじめ て ヨーロッパにおけるアンドレーエフ ブームと いったものも また 数 年 遅 れではあっても その ブームが 日 本 にも 伝 わるという 現 象 もおぼろげなが ら 理 解 できるはずです それは 国 の 違 いを 越 えた 世 界 文 学 の 読 書 と も 言 うべきもので 魯 迅 が 周 作 人 と 帰 国 直 後 に 出 し た 域 外 小 説 集 の アンドレーエフ ポー ワ イルド モーパッサン チェーホフ シェンキェヴィ チといったバラエティーに 富 んだ 悪 く 言 えば 雑 多 なラインナップも 当 時 の 日 本 のそういう 読 書 世 界 というものの 産 物 の 一 つと 言 えるでしょう さきほど 名 前 を 挙 げた アルツィバーシェフの 代 表 作 サーニン には 武 林 無 想 庵 による 重 訳 があ りますが 例 えば 植 竹 文 庫 の 1 冊 として 刊 行 されたその 本 の 広 告 には 植 竹 文 庫 の 続 刊 とし て 生 田 長 江 生 田 春 月 共 訳 の 罪 と 罰 が 挙 げられ ているほか 同 じ 出 版 社 の 文 明 叢 書 の 広 告 のな かには チヱヱホフ 作 小 山 内 薫 訳 の 決 闘 ブランデス 作 中 沢 臨 川 訳 の 露 西 亜 印 象 記 チヱヱホフ 作 広 津 和 郎 訳 の キッス トル ストイ 作 林 鷗 南 訳 の 闇 の 力 ツルゲーネフ 作 馬 場 哲 哉 訳 の 初 恋 といったロシア 関 係 の 書 目 が 出 ています さらに 植 竹 文 庫 で 罪 と 罰 を 出 す 生 田 長 江 は 文 明 叢 書 のほうではワイルド の サロメ やゲーテの 若 きウェルテルの 悩 み を 訳 しており 広 津 和 郎 はワイルドの 獄 中 記 を 訳 している 大 変 賑 やかですが その 大 半 を 重 訳 が 占 めています そしてそれらの 翻 訳 に 交 じるかたち で ドストエフスキイの 悪 霊 の 重 訳 をやってい る 森 田 草 平 の 煤 煙 縮 刷 版 の 広 告 が 出 ていて そ のほか 文 明 叢 書 のなかで 小 説 作 品 を 出 してい るのは 鈴 木 三 重 吉 谷 崎 潤 一 郎 正 宗 白 鳥 岩 野 泡 鳴 相 馬 御 風 田 山 花 袋 徳 田 秋 声 といった 面 々 であり これを 見 るだけでも 大 正 初 年 当 時 当 時 日 本 の 第 一 線 の 作 家 たちが むしろヨーロッパの 著 名 作 家 たちのあいだに 混 沌 として 立 ちまじって 読 ま れていたのが 現 実 であることが 知 られるのです 重 訳 の 持 つ 意 義 2 年 ほど 前 加 藤 百 合 さんの 明 治 期 露 西 亜 文 学 翻 訳 論 攷 という 大 著 (10) が 出 版 されましたが そ こでは 職 業 翻 訳 家 がまだ 存 在 しない 時 代 翻 訳 の 動 機 はただひたすら この 作 品 を 日 本 語 にしてみ たい という 衝 動 しかない ロシア 語 ができると かできないとか だから 正 しく 訳 せるとか 訳 せない とか 今 では 翻 訳 にとって 最 も 基 本 となる 事 実 の 前 で 足 踏 みする 遑 はそこにはない 日 本 の 文 学 の 発 展 と 自 分 自 身 の 成 長 の 可 能 性 に 貪 欲 な 若 い 時 代 であっ た ( 序 ) したがって 原 典 からの 直 接 訳 に 限 る といった 条 件 を 一 切 はずし 本 人 が 翻 訳 だと 言 って いればまずそれを 翻 訳 と 考 え 従 来 軽 視 どころか 疎 外 されてきた 重 訳 も 含 めて 論 攷 の 対 象 とする (あとがき)と 述 べられています 重 訳 が 当 時 の 読 書 界 に 持 った 意 味 を 的 確 に 表 わす 言 葉 だと 思 います その 当 時 としては そういう 新 しいかたちの 読 書 ならびに 読 書 界 というものが 漱 石 のまわ りに 成 立 していたということができると 思 います そして 漱 石 のこの 頃 の 読 書 というものは 少 なくともその 一 部 は 作 家 としての 抜 き 差 しなら ぬ 個 人 的 主 体 的 な 研 究 とは 性 質 の 違 うものなの ではないでしょうか もともと 漱 石 にとって 英 語 で 英 文 学 を 読 むこと は 作 家 として また 広 く 文 学 者 としての 背 骨 をな しています それは 英 文 学 の 影 響 などというような レベルのものではありません そして 同 様 のことは 鷗 外 にとってはドイツ 語 でドイツ 文 学 を 読 むことで あり 二 葉 亭 にとってはロシア 語 でロシア 文 学 を 読 むことであったわけです しかし それから の 時 代 には それとは 異 な るレベルの ある 意 味 それは 低 いレベルかもし れませんが しかし かなり 濃 密 な 空 気 を 個 人 的 にではなく 共 同 で 醸 し 出 すような 読 書 という 共 同 行 為 が 行 なわれていたように 思 われます 漱 石 の 場 合 小 宮 豊 隆 をはじめとする 門 下 生 たち の 役 割 が 大 きなものでした 漱 石 自 身 が 訳 読 の 輪 に 加 わるというのはむしろ 例 外 であっても 門 下 生 た ちが やはり 言 語 にこだわらない 研 究 的 ではなく 407
WASEDA RILAS JOURNAL て 自 由 でスピード 感 のある 雑 多 でにぎやかな 読 書 空 間 を 作 っている 明 暗 の 時 代 になると 漱 石 は ドストエフスキイに 興 味 を 覚 え でもそれは もちろんロシア 語 で 読 む なんてことではなくて 森 田 草 平 にドイツ 語 訳 を 借 りて 読 んでいます こういった 個 人 を 超 え 言 語 国 の 違 いを 超 え た 読 書 のなかに アンドレーエフの 読 書 もあっ て またそれらは 作 品 の 背 骨 にはならなくとも 濃 密 な 空 気 として 作 品 に 焚 き 込 められていて 言 わ ば ロシアその 他 の 世 紀 末 的 作 品 の 空 気 によって 作 品 が 燻 蒸 され それが 作 品 にある 種 の 匂 いをつけ その 匂 いを 嗅 ぎあてた 映 画 監 督 森 田 芳 光 が その 匂 いを 映 像 化 したのが 冒 頭 に 述 べました 電 車 の 場 面 ではないか そのように 思 います 漱 石 世 界 文 学 さて その 後 大 正 期 には 研 究 分 野 としての 外 国 文 学 各 国 別 の 文 学 研 究 というものが 成 立 し 専 門 化 専 門 分 化 の 方 向 に 進 み 研 究 上 は 英 語 で 英 文 学 を 読 む ドイツ 語 でドイツ 文 学 を 読 む ロシア 語 でロシア 文 学 を 読 む ドイツ 文 学 作 品 はドイツ 語 か ら 翻 訳 する ロシア 文 学 はロシア 語 から 翻 訳 する イプセンはやはりノルウェー 語 から 訳 すという 方 向 に 世 の 中 は 進 みます わが 早 稲 田 大 学 の 露 文 科 ロ シア 文 学 科 は 大 正 9 年 に 設 立 されます それは 19 世 紀 以 降 のヨーロッパの 民 族 言 語 別 の 国 民 文 学 の 成 立 という 流 れを 追 いかけるかたち で わが 国 の 高 等 教 育 や 出 版 読 書 の 世 界 で 定 着 し 大 正 期 から 昭 和 の 戦 後 期 に 至 って 自 明 のこととなり ます しかし 19 世 紀 ヨーロッパ 発 の 国 民 別 の 文 化 文 学 の 概 念 を 前 提 とした 研 究 には 限 界 が 見 えている 21 世 紀 の 今 日 もちろん 研 究 者 のレベルでは ロシア 語 ならロシア 語 で 作 品 を 読 解 できる 力 を 持 っ ていないことには 話 にならないことは 変 わらないは ずですが さきほど 述 べたような 100 年 ほど 前 の 情 報 化 の 進 展 とは 比 べものにならない 桁 外 れの 地 球 規 模 の 情 報 化 の 進 展 のなかで 漱 石 の 作 品 は 日 本 人 が あるいは 外 国 人 でもせめて 日 本 語 を 学 んだ 者 が 日 本 語 で 読 まなければ ともに 語 るに 足 りな い というような 時 代 は もちろんとっくに 過 ぎて いて ロシア 語 訳 で Сосэки の «Затем» を 読 んだ 人 と 韓 国 語 訳 で それから を 読 んだ 人 が 共 通 で 話 せる 英 語 で それから を 論 じている というよ うな 場 面 に 日 本 人 としては 無 関 心 ではいられな い むしろ そういうまったく 異 なった 文 化 的 背 景 を 持 つ 読 み 手 による 読 みが 交 錯 するような 場 以 外 に 100 年 前 の 漱 石 作 品 の 新 しい 意 義 は もしかす ると 見 出 し 得 ないだろうということではないでしょ うか 奇 しくも このシンポジウムの 案 内 が 今 週 火 曜 日 (2015 年 5 月 12 日 )の 朝 日 新 聞 夕 刊 に 載 った 際 同 じ 文 芸 批 評 欄 のトップに 翻 訳 小 説 につい ての 記 事 が 載 っていましたが その 記 事 にはつぎの ような 見 出 しが 付 けられていました 何 語 かにか かわらず 文 学 は 世 界 文 学 である ( 記 事 中 の 西 成 彦 氏 の 発 言 から 取 られたもの) 当 たり 前 と 言 えば 当 たり 前 のこの 言 葉 を 100 年 前 の 漱 石 の 周 辺 に 思 いを 巡 らせつつ あらためて 噛 みしめてみようでは ありませんか ということを 申 し 上 げたところで このシンポジウムの 午 前 の 部 は 漱 石 へのアプロー チ ということですので その 役 割 の 一 部 を 果 たし たということにさせていただければ 幸 いです 注 (1) 藤 井 省 三 ロシアの 影 夏 目 漱 石 と 魯 迅 平 凡 社 ( 平 凡 社 選 書 )1985 年 (2) 小 平 武 漱 石 とアンドレーエフ それから の 不 安 の 描 法 ( えうゐ 10 号 1982 年 ) (3) この 点 に 関 しては 拙 論 アルツィバーシェフ 紹 介 の 一 側 面 鷗 外 と 二 葉 亭 をつなぐもの ( 比 較 文 学 年 誌 第 37 号 2001 年 )を 参 照 (4) Андреев Л.Н. Пьесы. М., 1959. (5) Андреев Л.Н. Повести и рассказы: В 2 т. М., 1971. (6) Андреев Л.Н. Драматические произведения: В 2 т. Л., 1989. (7) Андреев Л.Н. Собрание сочинений: В 6 т. М., 1990 1996. (8) ヨコタ 村 上 孝 之 二 葉 亭 四 迷 くたばってしまえ ミネルヴァ 書 房 2014 年 (ミネルヴァ 日 本 評 伝 選 ) (9) 拙 論 神 経 衰 弱 の 文 学 谷 崎 潤 一 郎 とロシア 文 学 ( 早 稲 田 大 学 大 学 院 文 学 研 究 科 紀 要 第 43 輯 第 2 分 冊 1998 年 )を 参 照 (10) 加 藤 百 合 明 治 期 露 西 亜 文 学 翻 訳 論 攷 東 洋 書 店 2012 年 408