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国 際 仏 教 学 大 学 院 大 学 研 究 紀 要 第 17 号 平 成 25 年 3 月 1 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 定 源 ( 王 招 國 ) はじめに 中 日 兩 國 は 一 衣 帶 水 の 隣 國 で 長 い 友 好 的 な 交 流 の 歴 史 があるそ の 長 い 歴 史 において 友 好 の 使 者 として 兩 國 の 間 を 往 來 した 佛 教 徒 の 姿 に 注 目 すべきである 日 本 には 奈 良 時 代 から 多 くの 僧 侶 が 波 濤 を 乘 り 越 えて 中 國 に 渡 り 逆 に 中 國 からも 多 くの 渡 來 僧 を 迎 えてきた 鎌 倉 時 代 になる と 入 宋 僧 渡 來 僧 を 通 じて 兩 國 の 佛 教 交 流 は 次 第 に 盛 んになった 入 宋 僧 は 宋 での 滯 在 期 間 も 長 く 各 地 の 名 刹 を 遊 歴 し 當 時 の 高 僧 のもとで 教 學 の 理 解 に 努 めたことによって 宋 代 の 佛 教 々 團 において 高 い 評 價 を 得 る ものも 現 れた 宋 における 日 本 僧 の 活 躍 は 中 國 佛 教 史 のみならず 日 本 佛 教 史 上 においても 重 視 すべきである 三 百 十 餘 年 の 歴 史 をもつ 宋 代 は 北 宋 (960 1127)と 南 宋 (1127 1279) に 分 かれている 北 宋 期 は 日 本 平 安 朝 の 藤 原 氏 全 盛 期 にあたり 南 宋 期 は 武 士 の 興 隆 期 となった 鎌 倉 前 期 に 相 當 する 周 知 のように 北 宋 期 におい て 日 本 側 は 海 外 に 出 ることを 禁 じ 一 種 の 鎖 國 時 代 ともいえるので 兩 國 の 交 通 はほぼ 宋 の 商 船 に 限 られていた 當 時 中 國 に 渡 った 入 宋 僧 は 僅 かに 奝 然 (938 1016) 寂 照 ( 生 卒 年 未 詳 ) 成 尋 (1011 1081)などに 過 ぎなか ったしかしながら 南 宋 期 になって 特 に 南 宋 中 期 から 兩 國 の 間 に 積 極 的 な 友 好 政 策 が 展 開 し 入 宋 僧 の 數 は 前 期 に 比 べて 何 倍 も 増 えてきたの である 1 本 稿 で 取 り 上 げる 俊 芿 (1166 1227)は 南 宋 中 期 に 入 宋 した 日 本 僧 で 1 木 宮 泰 彦 日 華 文 化 交 流 史 ( 冨 山 房 1955 年 5 月 ) 北 宋 時 代 における 入 宋 僧 一 覧 表 (20 人 )と 南 宋 時 代 における 入 宋 僧 一 覧 表 (109 人 ) 參 照 この 數 は 木 宮 氏 が 言 われたように 寓 目 したもののみ であるから この 他 にもなお 多 數 あったことは 言 うまでもない 216

2 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) あり 歸 國 後 京 都 泉 涌 寺 を 開 山 し 新 しい 宋 代 佛 教 を 取 り 入 れ 特 に 律 學 の 宣 揚 に 力 を 注 ぎ 鎌 倉 佛 教 において 北 京 律 の 開 祖 として 高 く 評 價 され ている 俊 芿 は 三 十 四 歳 で 入 宋 し その 滯 在 はおよそ 十 二 年 に 及 んだその 期 間 はほぼ 同 時 期 に 入 宋 した 榮 西 ( 二 回 約 五 年 ) 道 元 ( 約 五 年 ) 圓 爾 ( 約 五 年 )と 比 べ 最 も 長 かったのである 俊 芿 の 六 十 一 年 の 生 涯 は 概 ね 入 宋 前 宋 地 滯 在 歸 國 後 の 三 期 に 大 別 することができる 三 期 のうち 四 十 六 歳 で 歸 國 してからの 活 躍 は 鎌 倉 佛 教 の 研 究 において 特 筆 すべきであるが 宋 地 滯 在 の 行 歴 も 無 視 することができないだろうただし 俊 芿 に 關 する 先 行 研 究 については 多 くの 論 考 は 彼 の 歸 國 後 の 活 動 に 着 目 しており 宋 地 滯 在 の 動 向 については 十 分 に 注 目 されていなかったようである 2 しか し 俊 芿 の 最 も 早 い 傳 記 資 料 とされている 信 瑞 撰 の 泉 涌 寺 不 可 棄 法 師 傳 ( 寛 元 二 年 (1244) 成 立 以 下 不 可 棄 傳 と 略 稱 )は 宋 地 滯 在 の 記 事 が 全 體 の 半 分 近 くを 占 めており 俊 芿 の 入 宋 とその 成 果 は 後 世 において 極 めて 重 要 視 されているまた 俊 芿 渡 宋 の 行 歴 に 關 して 南 宋 から 明 代 までに 成 立 した 中 國 文 獻 においても 幾 つかの 貴 重 な 記 述 が 散 見 される 3 本 稿 では 俊 芿 の 傳 歴 を 全 面 的 に 理 解 するため 中 日 兩 國 の 文 獻 を 取 り 上 げ 俊 芿 渡 宋 の 行 歴 に 絞 って 檢 討 を 試 みたい 一 俊 芿 入 宋 の 目 的 とその 時 代 背 景 俊 芿 入 宋 の 目 的 については 從 來 不 可 棄 傳 にいう 至 三 十 有 三 謂 二 三 子 曰 爲 傳 律 欲 渡 宋 朝 4 によって 戒 律 のため 入 宋 したと 言 われ 2 俊 芿 に 關 する 先 行 研 究 について 高 雄 義 堅 不 可 棄 法 師 俊 芿 の 入 宋 に 就 いて ( 支 那 佛 教 史 學 第 5 號 1942 年 )をはじめ 少 なくとも 40 餘 篇 の 論 文 を 擧 げる ことができるそのうち 石 田 充 之 編 鎌 倉 佛 教 成 立 の 研 究 衾 俊 芿 律 師 ( 法 藏 館 1972 年 )の 一 書 には 17 篇 の 論 考 が 收 められており 俊 芿 研 究 の 大 集 成 とも 言 える 3 俊 芿 に 關 する 記 述 は 中 國 の 資 料 にも 幾 つか 殘 されているこれらを 列 舉 して みると 次 の 如 くである1 宋 宗 鑑 釋 門 正 統 2 宋 志 磬 佛 祖 統 紀 3 宋 北 礀 居 簡 北 礀 集 4 宋 妙 蓮 蓬 折 箴 5 宋 了 然 等 俊 芿 律 宗 問 答 6 宋 守 一 終 南 家 業 7 宋 樓 鑰 攻 媿 集 8 宋 楊 簡 慈 湖 遺 書 9 元 盛 如 梓 老 學 叢 談 10 明 克 勤 書 215

南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 3 ている 問 題 は なぜ 戒 律 のために 入 宋 したのかであるこれに 關 して まず 俊 芿 入 宋 前 の 修 學 情 況 當 時 の 時 代 背 景 特 に 戒 律 の 状 況 をすこし 考 える 必 要 がある 俊 芿 は 仁 安 元 年 (1166) 八 月 十 日 肥 後 國 飽 田 郡 甘 木 莊 ( 現 在 の 熊 本 縣 上 益 城 益 城 町 甘 木 )に 生 まれ 父 の 名 は 不 明 母 は 藤 原 氏 の 出 であった 生 まれて 三 日 目 に 道 に 捨 てられたことから 不 可 棄 と 號 した 5 七 歳 か ら 佛 典 を 讀 み 始 め 十 歳 のとき 吾 平 山 の 學 頭 禪 坊 莊 嚴 から 法 華 經 を 授 けられた 十 四 歳 になって 飯 田 山 ( 現 在 の 益 城 町 ) 常 樂 寺 の 眞 俊 法 師 6 に 師 事 し 十 八 歳 で 正 式 に 得 度 した 翌 年 文 治 元 年 (1185) 四 月 八 日 十 九 歳 で 大 宰 府 觀 音 寺 において 具 足 戒 を 受 けた 十 四 歳 から 十 九 歳 にかけて 主 に 眞 俊 のもとで 天 台 密 教 の 教 理 を 刻 苦 勉 學 し 年 少 にもかかわらず 眞 俊 撰 の 秘 密 莊 嚴 記 百 卷 の 筆 録 を 任 せられたという 7 眞 俊 の 示 寂 後 その 法 弟 である 相 俊 に 師 事 して 引 き 續 き 天 台 密 教 を 學 び その 奥 義 を 傳 授 された 實 際 に 俊 芿 は 天 台 と 密 教 を 勉 學 しながら 律 の 教 學 にも 志 を 向 けたこ とになる 不 可 棄 傳 に 曁 二 十 七 歳 喟 然 歎 曰 生 死 難 斷 輪 轉 無 窮 若 不 戒 行 專 精 如 何 證 菩 提 8 4 大 日 佛 書 115 p. 521 5 不 可 棄 傳 師 曽 語 曰 十 八 部 主 中 有 大 不 可 棄 彼 生 已 即 棄 大 池 中 魚 鼈 戴 之 三 日 不 死 人 奇 收 養 我 被 棄 事 似 彼 相 故 自 號 不 可 棄 參 照 ( 大 日 佛 書 115 p. 519) 6 常 樂 寺 の 眞 俊 について 叡 山 西 塔 院 の 東 陽 座 主 で 天 台 密 教 者 である 谷 の 阿 闍 梨 皇 慶 四 代 の 法 孫 であった 忠 尋 (1065 1138)から 天 台 教 學 を 受 け 不 可 棄 傳 には 顯 密 兼 學 大 小 並 達 と 記 述 されている 田 中 恵 春 氏 天 台 座 主 東 陽 房 忠 尋 師 傳 考 參 照 ( 大 崎 學 報 87 1935 年 pp. 83-122) 7 不 可 棄 傳 撰 秘 密 莊 嚴 記 一 百 卷 法 師 雖 少 年 掌 執 筆 事 參 照 ( 大 日 佛 書 115 p. 519) 8 大 日 佛 書 115 p. 520 214

4 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) と 述 べられている 即 ち 二 十 七 歳 になって 戒 行 に 專 念 しなければ い かに 菩 提 を 證 し 得 るかと 歎 き 禁 戒 の 修 行 を 志 したことになるその 後 二 十 九 歳 までの 二 年 間 南 北 二 京 いわゆる 奈 良 と 京 都 を 往 復 して 大 小 乘 の 戒 律 を 尋 ねていた 凝 然 (1240 1321) 撰 の 東 大 寺 圓 照 上 人 行 状 の 卷 中 に 昔 俊 芿 法 師 來 至 南 都 値 勝 願 院 蓮 迎 上 人 聽 行 事 鈔 後 往 大 宋 値 如 庵 了 宏 律 師 大 傳 律 藏 9 とあるこれによって 入 宋 前 の 俊 芿 は 南 都 ( 奈 良 )において 勝 願 院 の 蓮 迎 上 人 から 唐 の 道 宣 (596 667) 四 分 律 行 事 鈔 を 學 んだことが 分 かる 俊 芿 が 南 都 において 中 國 の 律 學 を 研 修 したことは 後 に 入 宋 の 意 志 を 固 め た 契 機 の 一 つとなった 可 能 性 がある なお 俊 芿 は 南 北 二 京 を 往 來 して 戒 律 を 研 鑽 したが なかなか 滿 足 でき ず ついに 二 十 九 歳 で 故 郷 の 肥 後 に 歸 り 筒 嶽 ( 現 在 の 熊 本 縣 荒 尾 市 附 本 町 ) に 正 法 寺 を 建 て 坐 禪 勤 行 を 重 ねたほか 僧 徒 や 在 家 者 に 菩 薩 戒 を 授 け たのである 三 十 歳 の 時 密 教 作 法 を 行 い 不 動 明 王 を 祈 願 して 大 檀 那 で あった 秦 小 大 夫 の 娘 の 病 氣 を 治 したこともあった 10 要 するに 入 宋 前 の 俊 芿 は 律 學 を 勉 強 しながら 天 台 や 密 教 を 併 修 したことが 窺 い 知 られる 俊 芿 の 入 宋 前 は いわゆる 鎌 倉 前 期 にあたり 當 時 は 奈 良 と 京 都 におけ る 律 學 の 傳 統 は 必 ずしも 一 致 していなかったようである 周 知 のように 鑑 眞 (688 763)が 唐 の 天 寳 十 二 年 (753)に 日 本 に 渡 來 し 翌 年 道 宣 の 戒 壇 圖 經 によって 東 大 寺 に 戒 壇 を 設 け 具 足 戒 を 授 けたのであるのち に 唐 招 提 寺 を 建 立 して 主 に 道 宣 の 南 山 律 宗 という 律 學 を 宣 揚 したつまり 南 都 における 律 學 は 唐 僧 鑑 眞 の 影 響 によって 奈 良 の 東 大 寺 と 唐 招 提 寺 を 據 9 凝 然 撰 東 大 寺 圓 照 上 人 行 状 東 大 寺 教 學 部 編 1977 年 p. 7 10 二 十 九 歸 于 本 國 蟄 居 筒 嶽 伐 拂 松 杉 芟 夷 荊 棘 建 一 伽 藍 號 正 法 寺 二 時 坐 禪 三 時 勤 行 ( 中 略 ) 又 檀 那 當 國 在 廰 秦 小 大 夫 娘 生 年 十 九 腹 病 彌 留 ( 中 略 ) 法 師 獨 演 說 不 動 明 王 能 延 六 月 ( 中 略 ) 病 苦 遂 愈 身 心 爽 淑 父 母 愉 悅 將 歸 于 家 參 照 ( 大 日 佛 書 115 pp. 520-521) 213

南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 5 點 とし 主 に 四 分 律 による 道 宣 の 南 山 律 を 重 視 する 傳 統 を 持 ったこと になる 一 方 北 京 の 場 合 は 入 唐 の 經 驗 を 持 つ 最 澄 (767 822)によっ て 菩 薩 戒 本 の 梵 網 經 に 基 づいて 大 乘 圓 頓 戒 壇 の 獨 立 を 宣 言 した 最 澄 の 立 場 は 梵 網 經 に 説 く 戒 律 だけで 僧 の 資 格 が 十 分 備 わることを 主 張 し 戒 律 條 規 の 形 式 に 拘 らず 大 乘 の 精 神 を 重 視 した 更 に 四 分 律 を 中 心 とした 南 都 の 自 利 的 な 小 乘 律 を 痛 烈 に 批 判 したこともある 實 は 平 安 末 期 まで いちおう 大 小 戒 律 の 條 規 に 從 っていたが 戒 律 の 詳 細 的 な 實 踐 方 法 を 知 らず 戒 制 行 儀 に 對 する 解 説 の 見 解 にも 分 岐 を 生 じたのである 例 え ば 無 住 (1226 1312) 撰 の 沙 石 集 ( 弘 安 二 年 (1279) 成 立 ) 第 三 律 學 者 之 學 與 行 相 違 セリ 事 の 項 には 唐 龍 興 寺 ノ 鑑 眞 和 尚 聖 武 天 皇 御 宇 ( 本 ) 朝 來 テ 南 都 ノ 東 大 寺 鎮 西 ノ 觀 音 世 寺 下 野 ノ 藥 師 寺 三 ノ 戒 壇 ヲ 立 給 シ 毘 尼 ノ 正 法 ヲヒ ロメ 如 法 ノ 受 戒 ヲ 始 メ 行 セシカトモ 時 キウツリ 儀 スタレテ 中 古 ヨリ 只 受 戒 トイヒテ 諸 國 ヨリ 上 アツマリ 戒 壇 ハシリメクリタル 計 テ 大 小 ノ 戒 相 モシラス 化 制 ノ 行 儀 モ 辯 ス 11 と 指 摘 されているこのように 當 時 の 僧 團 において 僧 侶 らが 興 に 乘 じて 戒 律 を 守 らないという 事 態 が 生 じ 戒 律 の 條 規 は 次 第 に 形 式 化 して 衰 微 し ていった 同 集 第 三 は 次 のように 傳 えている 戒 行 ヲ 守 ルト 雖 モ 涅 槃 ヲ 期 セスシテ 渡 世 ヲ 意 トスル 故 也 此 ノ 人 供 養 ヲ 受 クヘカラスト 云 ヘリマシテ 破 戒 無 慚 ニシテ 出 家 ノ 形 トシ テ 解 脱 ヲ 期 セサリカ 空 ク 供 養 ヲウルヲハ 賊 分 齋 トテ 賊 分 ト 云 ヘ リ 或 禿 居 士 トモナツク 袈 裟 ヲキタル 獵 師 トモ 云 ヘリ 悲 シカルヘキ 末 代 也 12 11 土 屋 由 里 子 内 閣 文 庫 藏 沙 石 集 翻 刻 と 研 究 笠 間 書 院 2003 年 3 月 p. 127また 凝 然 撰 東 大 寺 圓 照 上 人 行 狀 に 然 震 旦 古 來 解 四 分 律 將 二 十 家 傳 日 域 者 智 首 法 礪 懷 素 三 家 現 行 于 世 定 賓 律 師 唯 釋 礪 疏 講 師 聽 衆 於 三 家 疏 各 隨 所 樂 料 簡 律 文 參 照 ( 東 大 寺 教 學 部 編 1977 年 p. 2) 212

6 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) こうした 状 況 を 受 けて 當 時 の 佛 教 界 では 實 に 戒 律 復 興 の 動 きが 見 られ たこともあった 例 えば 實 範 (? 1144)は 多 くの 戒 律 著 作 をなし 南 都 の 中 川 寺 と 興 福 寺 を 中 心 に 戒 法 を 復 興 した 13 實 範 の 戒 法 復 興 への 志 は 興 福 寺 の 藏 俊 そして 藏 俊 からその 弟 子 覺 憲 および 貞 慶 まで 受 け 繼 がれ ていった 14 このように 鎌 倉 時 代 における 戒 律 状 況 はようやく 復 興 の 兆 しが 見 えてきたようである 先 にも 触 れたように 俊 芿 は 二 十 七 歳 から 二 十 九 歳 までの 二 年 間 南 北 兩 京 を 往 復 し 特 に 南 京 における 勝 願 院 の 蓮 迎 上 人 のもとで 四 分 律 行 事 鈔 を 聽 講 したが 當 時 の 佛 教 々 團 における 僧 侶 生 活 は 物 質 的 享 樂 を 求 め 墮 落 の 一 途 をたどったのが 事 實 であるこれは 戒 行 に 專 念 した 俊 芿 にとっ て 戒 律 のための 入 宋 志 願 を 一 層 固 くさせる 要 因 となったこのように 俊 芿 入 宋 の 目 的 は ほぼ 同 時 期 に 入 宋 した 榮 西 道 元 など 禪 僧 らと 比 べて 見 ると 極 めて 異 なっており ある 意 味 で 當 時 の 實 情 の 一 面 を 反 映 したと いえよう また 俊 芿 入 宋 の 念 願 を 實 現 した 背 景 には 當 時 の 宋 日 兩 國 間 の 交 通 を 無 視 することができない 北 宋 の 初 め 太 宗 の 時 期 (977 996)から 杭 州 に 兩 浙 市 舶 司 を 設 置 して 海 外 貿 易 を 統 制 した 眞 宗 の 咸 平 二 年 (999) 九 月 杭 州 と 明 州 にそれぞ れ 市 舶 司 を 増 置 したが 神 宗 の 元 豊 三 年 (1080)になって 日 本 への 商 船 を 明 州 舶 司 の 管 轄 に 限 定 した 當 時 日 本 では 海 外 に 出 ることは 禁 じられ ていたが 二 年 ごとの 貿 易 通 航 が 許 可 されたようであるそのため 北 宋 期 の 入 宋 僧 は 大 體 商 船 を 通 じて 中 國 に 渡 り 五 臺 山 天 台 山 などの 聖 地 を 巡 禮 したのが 殆 どである 12 土 屋 由 里 子 内 閣 文 庫 藏 沙 石 集 翻 刻 と 研 究 ( 笠 間 書 院 2003 年 3 月 pp. 171-172) 13 凝 然 撰 東 大 寺 圓 照 上 人 行 狀 に 保 安 三 年 壬 寅 鑑 眞 和 尚 來 朝 已 後 惣 經 三 百 七 十 一 年 其 時 中 川 本 願 實 範 上 人 酬 興 福 寺 西 金 堂 衆 欣 西 大 德 之 請 廣 撿 律 藏 專 依 律 抄 造 戒 壇 式 一 卷 製 別 解 脫 一 軸 中 興 戒 法 參 照 ( 東 大 寺 教 學 部 編 1977 年 p. 2) 14 アジア 佛 教 史 日 本 編 V 鎌 倉 佛 教 3 第 三 章 南 都 佛 教 の 復 興 戒 律 の 廢 頽 參 照 ( 佼 成 出 版 社 1972 年 pp. 197-199) 211

南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 7 ところが 南 宋 期 になって 兩 國 の 間 に 積 極 的 な 友 好 政 策 を 展 開 してお り 宋 日 の 交 通 が 再 び 活 潑 になってきたしかし 日 本 との 直 接 貿 易 地 と しては 北 宋 と 同 じく 兩 浙 の 地 方 に 限 られていた 南 宋 の 高 宗 期 (1127 1161)には 兩 浙 の 市 舶 司 が 秀 州 華 亭 縣 に 置 かれ 杭 州 明 州 温 州 江 陰 軍 ( 現 在 の 江 蘇 常 州 市 江 陰 縣 )の 四 つの 市 舶 司 が 統 轄 されたことになる 光 宗 の 紹 熙 元 年 (1190)には 杭 州 の 市 舶 司 が さらに 寧 宗 の 慶 元 元 年 (1195)に 温 州 秀 州 江 陰 軍 の 市 舶 司 が 廢 され 殘 るのは 明 州 の 市 舶 司 だけとなった 宋 史 卷 四 百 九 十 一 の 記 事 によれば 淳 熙 三 年 (1176) に 日 本 船 が 明 州 に 漂 着 し 淳 熙 十 年 (1183)には 日 本 人 七 十 三 名 が 秀 州 に 着 き 紹 熙 四 年 (1193)には 同 じ 秀 州 また 泰 州 に 到 着 した 日 本 人 があっ たという 15 一 方 南 宋 期 にあたる 日 本 側 では ちょうど 平 氏 の 政 權 から 鎌 倉 時 代 に 移 り 民 間 の 自 由 貿 易 が 認 められ 貿 易 港 として 前 期 と 同 様 筑 前 の 博 多 津 が 主 要 な 役 割 を 担 ったのである 俊 芿 は 入 宋 の 際 弟 子 の 安 秀 長 賀 とと もに 商 人 莊 次 郎 の 商 船 に 乘 って 博 多 津 を 出 港 し およそ 半 月 かかって 常 州 の 江 陰 軍 に 着 いたのである 先 にも 触 れたように 慶 元 元 年 (1195) 以 降 兩 浙 の 市 舶 司 は 明 州 の 貿 易 港 のみとされたが 俊 芿 入 宋 の 場 合 をみ ると 實 際 に 例 外 もあったことが 認 められ この 事 實 は 注 意 すべきである 俊 芿 入 宋 の 時 期 は 宋 室 南 渡 (1127) 後 の 七 十 二 年 にあたり 南 宋 中 期 と 言 ってもよいこの 期 間 宋 日 の 通 商 が 更 に 盛 んとなり それに 伴 って 當 時 入 宋 した 日 本 僧 の 數 は 以 前 より 格 段 に 増 加 していったそれと 同 時 に 南 宋 から 日 本 に 渡 航 する いわゆる 中 國 の 渡 來 僧 も 現 れてきた 16 要 する に 宋 日 間 の 頻 繁 な 交 通 は 俊 芿 入 宋 の 悲 願 を 果 たす 有 利 な 條 件 となった わけである 15 ( 淳 熙 ) 三 年 風 泊 日 本 舟 至 明 州 ( 中 略 ) 十 年 日 本 七 十 三 人 復 飄 至 秀 州 華 亭 縣 給 常 平 義 倉 錢 米 以 振 之 紹 熙 四 年 泰 州 及 秀 州 華 亭 縣 復 有 倭 人 爲 風 所 泊 而 至 と 見 える( 二 十 五 史 36 宋 史 臺 灣 藝 文 印 書 館 1967 年 p. 5866) 16 木 宮 泰 彦 日 華 文 化 交 流 史 の 來 朝 宋 僧 一 覧 表 (14 人 ) 參 照 ( 冨 山 房 1955 年 5 月 pp. 388-389) 210

8 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 二 南 宋 において 遊 學 した 寺 院 周 知 のように 京 都 泉 涌 寺 は 俊 芿 によって 創 建 された 伽 藍 であるその 創 建 にあたり 承 久 元 年 (1219) 十 月 俊 芿 の 手 による 造 泉 涌 寺 勸 進 疏 には 次 のように 記 されている 俊 芿 去 建 久 末 年 志 道 度 大 洋 在 唐 一 紀 遊 學 積 歳 歸 朝 九 春 守 (ママ) 拙 從 容 事 不 獲 已 將 遂 宿 懷 所 以 親 臨 中 華 之 寺 模 兼 尋 西 幹 之 古 風 建 立 伽 藍 之 依 規 17 建 久 末 年 ( 正 治 元 年 ) 南 宋 慶 元 五 年 (1199)に 俊 芿 は 佛 法 を 志 して 入 宋 し 一 紀 ( 十 二 年 )にわたって 遊 學 した 歸 國 の 九 年 後 渡 宋 の 宿 志 をは たすため 中 華 ( 宋 ) 寺 院 の 様 式 に 基 づき さらに 西 乾 18 の 古 風 を 探 り 泉 涌 寺 を 建 立 した 不 可 棄 傳 で 親 模 大 宋 儀 則 者 唯 此 一 寺 而 已 19 と 指 摘 されたように 泉 涌 寺 の 儀 則 はかなり 宋 代 寺 院 に 倣 ったものであった 20 それでは 俊 芿 は 宋 地 滯 在 の 間 にどのような 寺 院 を 遊 學 したのか 北 宋 期 の 入 宋 僧 と 違 い 南 宋 期 の 入 宋 僧 はほとんど 五 臺 山 などの 北 方 へ 赴 こうとしても 結 局 志 が 果 たされず 南 方 の 天 台 山 を 中 心 にして 兩 浙 17 泉 涌 寺 史 資 料 篇 ( 法 藏 館 1981 年 p. 6) 18 明 の 元 賢 撰 禪 林 疏 語 考 證 巻 一 に 事 苑 を 引 いて 西 乾 即 天 竺 國 五 印 土 或 云 西 天 と 見 える( 續 藏 經 112 p. 797) 19 大 日 佛 書 115 p. 529 20 その 中 宋 代 寺 院 の 十 六 觀 堂 が 泉 涌 寺 に 建 立 されたことについては 既 に 高 雄 義 堅 氏 と 小 川 貫 弌 氏 の 論 考 がある 高 雄 氏 不 可 棄 法 師 俊 芿 の 入 宋 に 就 いて ( 支 那 佛 教 史 學 5 3-4 1942 年 ) 參 照 小 川 氏 十 六 觀 堂 とその 實 踐 ( 小 笠 原 宮 崎 兩 博 士 華 甲 記 念 史 學 論 集 龍 谷 大 學 史 學 會 1966 年 ) 參 照 それ 以 外 に 宋 儀 則 の 泉 涌 寺 への 影 響 として 注 目 すべきなのは 泉 涌 寺 における 宋 代 寺 院 の 三 世 佛 制 轉 輪 寶 藏 建 立 である 三 世 佛 制 の 場 合 は 泉 涌 寺 殿 堂 房 寮 色 目 において 右 佛 殿 者 安 置 釋 迦 過 去 佛 丈 六 彌 陀 現 在 佛 丈 六 彌 勒 未 來 佛 丈 六 三 世 之 教 主 以 爲 一 寺 崇 仰 之 本 尊 也 大 唐 諸 寺 並 皆 如 此 寶 輪 法 藏 の 場 合 は 右 輪 藏 者 安 置 唐 本 一 切 經 於 八 角 輪 層 之 中 若 有 人 一 轉 此 藏 則 擬 轉 讀 一 切 經 一 藏 也 起 自 梁 傅 大 士 彌 勒 化 身 也 利 生 之 門 至 今 宋 朝 以 爲 盛 矣 とある 209

南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 9 路 の 境 内 で 參 學 した 理 由 は 宋 室 南 渡 の 後 北 方 が 戰 乱 の 地 となったこと によるだろう 南 宋 における 俊 芿 の 足 蹟 については 不 可 棄 傳 では 遊 兩 浙 名 境 と 述 べられているこの 兩 浙 名 境 は 元 亨 釋 書 では 兩 浙 名 藍 21 となっており 即 ち 兩 浙 22 の 名 刹 を 遍 遊 したことを 意 味 して いる 以 下 では 俊 芿 が 遊 學 した 寺 院 所 謂 兩 浙 の 名 藍 を 檢 討 してみたい ( 一 ) 天 台 山 の 寺 院 天 台 山 といえば 國 清 寺 を 始 め 多 くの 寺 院 があり 天 台 宗 の 本 據 地 とし て 知 られている 從 來 北 方 の 五 臺 山 とともに 唐 宋 時 代 において 空 海 最 澄 圓 仁 圓 珍 成 尋 重 源 など 日 本 僧 が 訪 れた 聖 なる 巡 禮 地 の 一 つで ある 天 台 山 の 寺 院 と 日 本 僧 の 關 係 は すでに 齋 藤 忠 氏 23 によって 詳 しく 論 考 されているここでは 齋 藤 氏 の 研 究 を 踏 まえ 不 可 棄 傳 の 記 録 に より 俊 芿 の 歴 訪 した 天 台 山 の 寺 院 を 紹 介 したい 南 宋 における 俊 芿 の 足 蹟 を 考 察 すると 少 なくとも 三 回 にわたって 天 台 山 を 訪 れたことがあり 計 一 年 ほど 天 台 山 に 滯 在 したことが 知 られる 慶 元 五 年 (1199) 五 月 俊 芿 が 商 船 で 常 州 の 江 陰 軍 に 着 いた 直 後 都 の 杭 州 を 經 由 して まず 天 台 山 に 參 詣 し 石 橋 の 五 百 羅 漢 に 茶 を 以 って 供 養 した 天 台 山 の 石 橋 は 石 が 橋 のように 斷 崖 にまたがっており 山 中 の 景 勝 地 の 一 つであるそこには 瀑 布 寺 ( 石 梁 寺 ) 24 という 寺 院 があり 從 來 五 百 21 大 日 佛 書 115 p. 521 22 兩 浙 とは 宋 史 卷 八 十 八 地 理 志 第 四 十 一 ( 二 十 五 史 31 宋 史 二 臺 灣 藝 文 印 書 館 1967 年 p. 1072)によれば 北 宋 の 神 宗 熙 寧 七 年 (1074)に 浙 東 路 と 浙 西 路 に 分 けられ その 後 合 わせて 一 路 とされた 南 宋 期 になって 浙 西 路 には 帝 都 臨 安 ( 杭 州 )をはじめ 平 江 鎮 江 嘉 興 の 四 府 安 吉 常 嚴 の 三 州 江 陰 の 一 軍 が 含 まれ 浙 東 路 には 紹 興 慶 元 瑞 安 の 三 府 婺 台 衢 處 の 四 州 が 含 まれたその 地 域 の 範 圍 は 現 在 浙 江 省 の 全 域 上 海 及 び 江 蘇 省 の 一 部 に 相 當 する 23 齋 藤 忠 中 國 天 台 山 諸 寺 院 の 研 究 ( 第 一 書 房 1999 年 pp. 143-145)の 第 四 章 には 天 台 山 と 俊 芿 の 一 節 がある 24 道 宣 撰 續 高 僧 傳 卷 二 十 九 に 隋 天 台 山 瀑 布 寺 慧 達 傳 と 見 える( 大 正 藏 208

10 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 羅 漢 の 應 身 地 としてよく 知 られている 天 台 山 における 五 百 羅 漢 は 唐 代 か ら 寒 山 拾 得 の 物 語 によって 中 國 社 會 において 根 強 く 信 仰 されている 俊 芿 以 前 に 入 宋 した 日 本 僧 の 成 尋 は 天 台 山 を 訪 れた 時 俊 芿 と 同 じく 茶 を 以 って 五 百 羅 漢 に 供 養 したと 傳 えられる 25 俊 芿 は 天 台 山 の 五 百 羅 漢 に 供 養 し 暫 くして 四 明 の 雪 竇 中 巖 に 移 ったこれは 初 回 目 の 登 山 である 二 回 目 の 天 台 山 の 歴 訪 について 不 可 棄 傳 では 次 のように 記 述 して いる 又 嘉 泰 二 年 十 月 初 五 日 離 四 明 去 到 天 台 山 道 猷 開 山 赤 城 寺 過 一 冬 同 三 年 春 到 佛 隴 智 者 塔 院 旦 歇 四 月 初 五 日 到 天 台 隱 居 銀 地 道 場 佛 隴 大 慈 寺 結 夏 安 居 26 俊 芿 が 再 び 天 台 山 に 登 った 時 は 初 回 から 二 年 五 ヵ 月 後 嘉 泰 二 年 (1202) 十 月 五 日 であった 今 回 俊 芿 が 遊 歴 したところは 赤 城 寺 智 者 塔 院 佛 隴 大 慈 寺 の 三 つの 寺 院 であることが 確 認 できた 赤 城 寺 は 道 猷 27 によって 開 山 され 山 名 に 因 んで 寺 名 とした 道 猷 以 降 章 安 灌 頂 (561 632) 荊 溪 湛 然 (711 782)が 歴 住 し 天 台 教 學 の 傳 統 をもつ 寺 院 として 有 名 である 嘉 泰 二 年 (1202) 十 月 俊 芿 は 四 明 を 離 れて 天 台 山 に 登 り 最 初 に 赤 城 寺 に 一 冬 ( 三 ヵ 月 )ほど 住 居 した 翌 年 嘉 泰 三 年 (1203)の 春 赤 城 寺 より 近 くの 智 者 塔 院 に 赴 き 暫 く 滯 在 して 同 年 四 月 五 日 に 銀 地 道 場 と 呼 ばれている 佛 隴 の 大 慈 寺 に 移 り 結 夏 安 居 に 參 加 した 智 者 塔 院 は 天 台 宗 の 開 祖 であった 智 顗 (538 597)の 眞 身 舎 利 を 安 置 したところであり 眞 覺 寺 とも 稱 する 智 顗 が 開 創 した 天 台 宗 は 50 pp. 694ab) 25 辰 時 參 石 橋 以 茶 供 羅 漢 とある 平 林 文 雄 參 天 台 五 臺 山 記 衾 校 本 並 に 研 究 衾 ( 風 間 書 房 1978 年 p. 32) 26 大 日 佛 書 115 p. 521 27 道 猷 の 傳 記 については 高 僧 傳 卷 十 一 法 苑 珠 林 卷 三 十 九 などの 資 料 が 見 出 せる 道 猷 の 生 卒 年 は 未 詳 であるが 西 晉 期 敦 煌 の 人 曇 猷 あるいは 法 猷 と もいい 幼 年 から 苦 行 して 禪 定 を 學 び 南 方 に 移 って 剡 州 ( 現 在 の 浙 江 嵊 州 市 )の 石 城 山 に 止 住 し のち 天 台 赤 城 山 に 赴 き 石 室 を 築 いて 坐 禪 したと 傳 えられている 207

南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 11 日 本 佛 教 へ 重 大 な 影 響 を 與 えたので 天 台 山 に 登 った 日 本 僧 の 殆 どが 智 者 塔 院 まで 訪 れている また 大 慈 寺 について 嘉 定 赤 城 志 卷 二 十 八 教 院 の 項 に 天 台 教 學 の 寺 院 として 著 録 されている 南 北 朝 の 齊 の 中 興 二 年 (502)に 建 て られ 隋 代 になって 修 禪 寺 と 謂 い 國 清 寺 の 創 建 後 寺 を 改 めて 道 場 28 と なった 唐 代 になって 禪 林 寺 を 改 め 白 色 の 土 地 に 因 んで 銀 地 道 場 と 稱 される 唐 末 の 會 昌 廢 佛 で 破 壊 され 咸 通 八 年 (867)に 再 建 された 29 宋 大 中 祥 符 元 年 (1008) 七 月 今 の 寺 額 を 下 賜 されたという 30 今 回 天 台 山 に 登 った 俊 芿 の 主 な 活 動 は やはり 大 慈 寺 で 行 われた 結 夏 安 居 に 參 加 したことである 結 夏 安 居 とは そもそもインドの 佛 教 徒 が 四 月 十 五 日 から 七 月 十 五 日 までの 三 ヵ 月 の 雨 季 の 間 洞 窟 や 寺 院 に 籠 もり 修 行 に 專 心 した 行 事 の 一 つである 中 國 佛 教 の 寺 院 ではそれを 繼 承 して 年 中 の 行 事 としてほぼ 毎 年 行 われている 明 の 田 汝 成 西 湖 遊 覧 志 餘 卷 十 四 に 宋 時 僧 家 以 四 月 十 五 日 結 制 安 居 刹 院 不 敢 起 單 雲 遊 ( 中 略 ) 至 七 月 十 五 日 設 齋 解 制 謂 之 法 歳 周 圓 31 といったように 宋 代 寺 院 の 結 夏 安 居 は 傳 統 と 同 じ 四 月 十 五 日 から 禁 足 し 28 寺 を 道 場 と 爲 したのは 恐 らく 唐 の 梁 肅 撰 台 州 隋 故 智 者 大 師 修 禪 道 場 碑 銘 の 陳 朝 崇 之 置 寺 曰 修 禪 及 隋 建 國 清 廢 修 禪 號 爲 道 場 によるものである 台 州 金 石 録 卷 一 石 刻 資 料 新 編 15 新 文 豊 出 版 p. 10982 29 大 慈 寺 の 歴 史 については 嘉 定 赤 城 志 卷 二 十 八 に 舊 經 云 齊 中 興 二 年 建 蓋 顗 思 修 初 地 及 定 光 授 記 銀 地 之 所 定 光 所 居 號 金 地 此 號 銀 地 皆 以 土 色 名 之 ( 中 略 ) 隋 剏 國 淸 乃 更 寺 爲 道 場 唐 會 昌 中 廢 咸 通 八 年 重 建 國 朝 大 祥 符 元 年 改 今 額 其 法 堂 曰 淨 名 以 顗 嘗 講 是 經 故 也 參 照 ( 宋 元 方 志 叢 刊 7 中 華 書 局 1990 年 p. 7498) 30 成 尋 參 天 台 五 臺 山 記 卷 一 に 大 宋 三 朝 大 中 祥 符 元 年 戊 申 七 月 初 三 日 辛 酉 敕 改 禪 林 寺 名 大 慈 寺 參 照 平 林 文 雄 參 天 台 五 臺 山 記 衾 校 本 並 に 研 究 衾 ( 風 間 書 房 1978 年 p. 28) 31 明 の 田 汝 成 西 湖 遊 覧 志 餘 上 海 古 籍 出 版 社 1980 年 10 月 p. 278 206

12 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 七 月 十 五 日 の 解 制 日 まで 外 出 することができないこれは 法 歳 周 圓 と 呼 ばれる 俊 芿 は 大 慈 寺 で 結 夏 安 居 に 參 加 したので 二 回 目 の 天 台 山 滯 在 時 期 は 少 なくとも 嘉 泰 二 年 の 冬 から 同 三 年 (1203)の 七 月 十 五 日 までに 限 定 することが 可 能 である 不 可 棄 傳 によれば 32 俊 芿 が 大 慈 寺 を 去 る 契 機 となったのは 安 居 の 期 間 中 天 台 學 の 最 高 權 威 とも 言 うべき 華 亭 超 果 寺 の 北 峰 宗 印 の 名 を 聞 き その 學 風 を 慕 って 超 果 寺 に 行 くことを 決 意 したことがあるという 大 慈 寺 を 辭 去 した 時 期 について 嘉 泰 三 年 (1203) 七 月 十 五 日 以 降 と 推 測 したが これは 華 亭 の 超 果 寺 に 到 着 した 日 から 逆 算 しても 分 かる 北 峰 宗 印 の 手 による 法 語 の 中 に 日 本 俊 芿 法 師 慶 元 之 末 來 遊 大 宋 ( 中 略 ) 嘉 泰 四 年 抵 華 亭 超 果 33 とあり 華 亭 の 超 果 寺 に 至 る 年 次 は 嘉 泰 四 年 (1204)と 明 記 している 天 台 山 から 浙 西 の 華 亭 まで 約 三 百 五 十 キロの 距 離 があり 嘉 泰 三 年 (1203) 七 月 十 五 日 以 降 に 天 台 山 から 退 去 しても 時 間 的 餘 裕 が 十 分 にあるので 經 由 地 であった 都 の 杭 州 寺 院 を 訪 問 しても 不 思 議 ではなかろう 三 回 目 の 天 台 山 の 訪 問 については 不 可 棄 傳 にある 次 の 記 録 から 推 測 できる 於 今 度 者 縱 雖 師 命 其 不 可 赴 逮 至 三 月 出 超 果 遊 台 州 34 不 可 棄 傳 は 開 禧 三 年 (1207) 三 月 華 亭 の 超 果 寺 に 住 居 した 俊 芿 は 北 峰 宗 印 の 師 命 により 三 年 間 臥 床 した 華 亭 章 氏 のため 密 教 の 不 動 法 を 32 結 夏 安 居 其 閒 毎 聞 浙 西 有 印 講 師 實 爲 法 門 之 棟 梁 世 閒 之 明 眼 於 是 法 師 深 慕 其 道 荷 笈 千 里 到 秀 州 超 果 教 院 北 峰 輪 下 禮 師 請 業 參 照 ( 大 日 佛 書 115 p. 521) 33 淸 衆 規 式 並 十 六 觀 堂 記 法 語 ( 俊 芿 研 究 p. 399) 34 大 日 佛 書 115 p. 523 205

南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 13 修 じたが 再 び 發 病 して 師 命 による 不 動 法 を 再 修 しても 治 らないので 超 果 寺 を 離 れ 台 州 に 赴 いたと 傳 えている 台 州 は 現 在 の 天 台 臨 海 黄 巖 を 含 む 廣 い 地 域 を 指 すが 當 時 天 台 山 を 中 心 とした 佛 教 の 状 況 を 考 慮 する ならば 台 州 とはやはり 俊 芿 がかつて 二 度 遊 學 した 天 台 山 を 指 すと 考 えて よかろう ( 二 ) 奉 化 の 雪 竇 中 巖 と 餘 杭 の 徑 山 寺 まず 雪 竇 中 巖 は 四 明 奉 化 縣 の 雪 竇 山 を 指 し その 山 は 四 明 山 の 支 脈 で 應 夢 山 乳 峰 山 ともいう 山 中 の 千 丈 巖 の 近 くに 彌 勒 道 場 と 言 われる 雪 竇 寺 がある 五 代 の 永 明 延 壽 (904 975)が 雪 竇 寺 に 住 した 時 孤 猿 叫 落 中 巖 月 夜 客 吟 殘 半 夜 燈 此 境 此 時 誰 會 意 白 雲 深 處 坐 禪 僧 35 という 有 名 な 偈 を 殘 したまたこの 寺 は 雪 竇 重 顯 (980 1052)の 住 居 地 としても よく 知 られている 前 にも 触 れたが 俊 芿 入 宋 の 慶 元 五 年 (1199) 五 月 天 台 山 に 參 詣 して 五 百 羅 漢 に 供 養 した 後 直 ちに 奉 化 雪 竇 中 巖 に 行 き 同 年 十 月 頃 までそこ に 滯 在 したその 時 思 岳 禪 師 ( 後 述 )に 師 事 して 禪 に 參 じたが 暫 くし て 餘 杭 の 徑 山 寺 に 移 り 雪 竇 中 巖 における 俊 芿 の 詳 細 な 行 動 は 不 明 である 次 に 餘 杭 の 徑 山 寺 について 杭 州 の 西 北 五 十 里 にあり 唐 玄 宗 の 天 寶 の 初 め(742 頃 )に 國 一 法 欽 (714 792) 禪 師 が 庵 を 結 んで 幽 居 し 大 暦 四 年 (769) 代 宗 の 勅 命 によって 建 立 された 宋 代 になって 臨 濟 僧 の 無 畏 維 琳 (? 1119) 圜 悟 克 勤 (1063 1135)が 歴 住 しており 特 に 大 慧 宗 杲 (1089 1163)がそこで 看 話 禪 を 提 唱 した 俊 芿 以 後 東 福 寺 の 開 山 である 圓 爾 辨 圓 が 徑 山 寺 で 無 準 師 範 (1177 1249)に 師 事 して 臨 濟 系 の 楊 岐 禪 を 日 本 に 傳 えてきたことは 最 も 注 目 するところである 俊 芿 は 慶 元 五 年 (1199) 十 月 十 四 日 徑 山 寺 に 到 着 し 翌 年 の 春 まで 約 三 ヵ 月 ほど 滯 在 した 當 時 徑 山 寺 の 住 持 は 蒙 庵 元 聰 であった 蒙 庵 元 聰 に 關 する 行 實 は 後 述 するが ここでは 俊 芿 が 徑 山 寺 に 在 住 していた 間 に 火 災 に 遭 遇 した 可 能 性 に 言 及 したい 即 ち 樓 鑰 (1137 1213)が 書 いた 35 大 正 藏 49 p. 857a 204

14 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 重 建 徑 山 興 聖 萬 壽 禪 寺 之 記 の 中 に 次 の 記 事 が 見 られる 蒙 庵 禪 師 元 聰 以 慶 元 三 年 自 福 州 之 雪 峰 被 旨 而 來 道 譽 隆 洽 不 媿 前 人 五 年 仲 冬 行 化 浙 西 而 回 祿 挺 災 烈 風 佐 之 延 燔 棟 宇 一 息 而 盡 36 上 記 の 引 文 によれば 慶 元 三 年 (1197)に 蒙 庵 元 聰 は 勅 命 により 福 州 の 雪 峰 から 徑 山 寺 に 移 住 した 同 五 年 (1199) 十 一 月 に 教 化 のため 浙 西 に 行 った 間 に 徑 山 寺 は 回 祿 ( 火 災 )にかかり 殿 宇 が 烏 有 に 歸 したこれと 同 様 の 記 述 は 呉 詠 撰 の 徑 山 禪 寺 重 建 記 にも 見 える 即 ち 先 是 慶 元 己 未 冬 龍 王 殿 災 精 盧 佛 宇 一 夕 而 盡 住 持 僧 元 聰 治 故 而 復 新 之 37 慶 元 己 未 は 慶 元 五 年 (1199)であるこの 内 容 は 樓 鑰 の 記 事 とほぼ 合 致 しているが 龍 王 殿 をも 燒 失 してしまったと 傳 えられている 火 災 が 起 きたのは 慶 元 五 年 の 冬 で これはちょうど 俊 芿 の 徑 山 寺 到 着 後 一 ヵ 月 未 滿 の 出 來 事 であった 前 掲 した 樓 鑰 の 重 建 徑 山 興 聖 萬 壽 禪 寺 之 記 によ れば 火 災 の 翌 年 (1200)の 春 38 住 持 僧 であった 蒙 庵 元 聰 が 再 建 を 始 め 36 清 の 阮 元 編 兩 浙 金 石 志 卷 十 石 刻 資 料 新 編 14 地 方 類 浙 江 臺 灣 新 文 豊 出 版 1977 年 p. 10444 37 徑 山 志 所 收 ( 中 國 佛 寺 史 志 彙 刊 第 一 輯 32 冊 臺 灣 明 文 書 局 1980 年 p. 634) 實 は 後 掲 する 後 樂 集 十 八 卷 收 載 の 徑 山 蒙 菴 佛 智 禪 師 塔 銘 の 冒 頭 にも 慶 元 丁 巳 夏 徑 山 寺 闕 住 持 有 旨 以 命 僧 元 聰 後 數 年 寺 燼 於 火 不 二 年 元 聰 新 之 と 見 える 慶 元 丁 巳 は 慶 元 三 年 (1197)で 數 年 後 の 火 災 は 慶 元 五 年 (1199)のことであろう 文 淵 閣 四 庫 全 書 1169 集 部 上 海 古 籍 出 版 社 1989 年 pp. 734-735 38 樓 鑰 の 重 建 徑 山 興 聖 萬 壽 禪 寺 之 記 に 蓋 其 百 工 兢 起 衆 志 孚 應 始 於 六 年 之 春 成 於 嘉 泰 改 元 之 夏 閲 月 才 十 餘 而 變 瓦 礫 之 區 爲 大 寳 坊 とみえる 阮 元 編 兩 浙 金 石 志 卷 十 石 刻 資 料 新 編 14 地 方 類 浙 江 臺 灣 新 文 豊 出 版 1977 年 p. 10444 203

南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 15 ていた 不 可 棄 傳 の 記 録 を 照 らしてみれば その 時 俊 芿 は 徑 山 寺 を 離 れ 復 び 四 明 に 往 き 景 福 寺 の 如 庵 律 師 に 依 止 39 したという 徑 山 寺 は 當 時 南 宋 の 五 山 第 一 となっていなかったが 有 名 な 禪 刹 に 間 違 いない にもかかわらず 俊 芿 はなぜ 徑 山 寺 に 三 ヵ 月 しか 滯 在 しなかったのかこ れはやはり 慶 元 五 年 十 一 月 の 火 災 の 影 響 が 大 きかったのではないかと 考 え られる 徑 山 寺 と 雪 竇 中 巖 とはいずれも 當 時 の 有 名 な 禪 刹 である 俊 芿 が 宋 地 滯 在 の 初 期 にこの 二 つの 禪 寺 に 訪 問 したことは 宋 禪 への 關 心 を 持 っていた ことを 示 唆 しているちなみに 俊 芿 は 恐 らく 徑 山 寺 を 訪 れた 最 初 の 日 本 僧 である ( 三 ) 四 明 の 景 福 寺 四 明 ( 現 在 の 浙 江 省 寧 波 市 )は 明 州 ともいい 宋 代 において 對 外 の 貿 易 港 として 日 本 との 交 流 が 盛 んであった 俊 芿 入 宋 の 直 前 日 本 僧 の 榮 西 が 四 明 天 童 寺 の 住 持 である 虚 庵 懷 敞 のもとで 禪 を 學 び 同 寺 の 千 佛 閣 を 修 建 したこともあったと 傳 えられている 40 慶 元 六 年 (1200)の 春 俊 芿 は 徑 山 寺 を 去 り 四 明 に 赴 き 景 福 寺 の 如 庵 了 宏 律 師 に 師 事 し 律 學 の 研 鑽 に 努 めていた 寶 慶 四 明 志 卷 十 一 によれば 41 景 福 寺 は 子 城 ( 現 在 の 寧 波 市 内 )から 南 二 里 半 に 位 置 し もと 水 陸 蓮 花 院 といい 宋 の 太 祖 建 隆 二 年 (961)に 再 建 され 大 中 祥 符 三 年 (1010)に 宋 眞 宗 の 勅 により 景 福 寺 の 名 が 下 賜 さ れたという 俊 芿 の 景 福 寺 での 動 向 について 日 山 守 一 述 の 終 南 家 業 39 大 日 佛 書 115 p. 521 40 樓 鑰 の 天 童 山 千 佛 閣 記 に 日 本 國 僧 千 光 法 師 榮 西 者 奮 發 願 心 欲 往 西 域 求 教 外 別 傳 之 宗 若 有 告 以 天 台 萬 年 爲 可 依 者 航 海 而 來 以 師 爲 及 遷 天 童 ( 中 略 ) 它 日 歸 國 當 致 良 材 以 爲 助 師 曰 未 幾 遂 歸 越 二 年 果 致 百 圍 之 木 とみえる 攻 媿 集 卷 五 十 七 四 部 叢 刊 初 編 集 部 臺 灣 商 務 印 書 館 1975 年 pp. 529 41 寶 慶 四 明 志 卷 十 一 に 景 福 寺 子 城 南 二 里 半 舊 號 水 陸 蓮 花 院 皇 朝 建 隆 二 年 建 大 中 祥 符 三 年 改 賜 今 額 とある( 宋 元 方 志 叢 刊 5 中 華 書 局 1990 年 p. 5132) 202

16 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) の 卷 二 に 日 本 芿 師 爲 法 之 切 於 慶 元 間 泛 舶 東 來 彼 時 先 師 如 庵 開 法 景 福 芿 即 依 學 十 有 餘 年 42 と 記 されている 修 學 の 期 間 は 上 文 末 に 十 有 餘 年 と 言 われているが 不 可 棄 傳 では 僅 跨 三 年 と 記 しており 實 際 には 慶 元 六 年 (1200) の 春 から 嘉 泰 二 年 (1202) 十 月 五 日 にかけて ただ 三 年 のみだと 考 えら れる また 不 可 棄 傳 によれば 嘉 定 四 年 (1211)の 春 歸 國 直 前 の 俊 芿 は 約 八 年 半 ぶりに 景 福 寺 を 再 訪 したという 43 當 時 如 庵 了 宏 がすでに 示 寂 しており 俊 芿 を 迎 えてくれた 人 は 景 福 寺 の 道 常 であった 俊 芿 以 降 理 宗 端 平 二 年 (1235)に 入 宋 した 圓 爾 は 宋 地 に 到 着 した 直 後 景 福 寺 にも 行 ったようであるこれは 東 福 開 山 聖 一 國 師 年 譜 の 嘉 禎 元 年 (1235) の 項 に 次 のように 記 されている 四 月 船 出 平 戸 津 經 十 寅 夕 到 宋 明 州 即 理 宗 端 平 二 年 寓 城 景 福 律 院 聽 月 公 開 遮 之 説 44 圓 爾 は 景 福 寺 に 寓 居 した 時 月 公 ( 未 詳 )から 律 學 の 開 遮 の 説 ( 開 は 行 爲 の 許 可 遮 は 禁 止 をいう)を 聽 いたこれは 俊 芿 が 遊 學 した 三 十 四 年 後 のことであるこれによって 景 福 寺 が 依 然 として 律 の 教 學 を 維 持 し し かも 入 宋 僧 との 關 係 を 持 ち 續 けていたことがわかるただし 殘 念 なこと に 宋 代 以 降 景 福 寺 に 關 する 記 録 が 乏 しく 日 本 僧 との 關 係 は 不 明 であ る 現 在 寧 波 の 城 隍 廟 となり 昔 日 の 寺 院 の 面 影 はまったく 失 われてし まった 42 續 藏 經 105 p. 722 43 大 日 佛 書 115 p. 526 44 大 日 佛 書 95 p. 132 201

南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 17 ( 四 ) 華 亭 の 超 果 寺 華 亭 は 現 在 の 上 海 市 松 江 縣 に 位 置 する 唐 の 天 寶 元 年 (742)に 華 亭 縣 が 置 かれた 慶 元 元 年 (1195) 兩 浙 の 浙 西 路 の 秀 州 に 屬 し 雲 間 ともい う 南 宋 期 における 華 亭 の 佛 教 状 況 について 宋 の 楊 潛 撰 紹 熙 雲 間 志 卷 中 寺 觀 の 項 には 次 のように 記 述 されている 浙 右 喜 奉 佛 而 華 亭 爲 甚 一 邑 之 間 爲 佛 祠 凡 四 十 六 緇 徒 又 能 張 大 事 亦 可 謂 盛 矣 45 この 記 録 は 紹 熙 年 間 (1190 1194) 頃 の 浙 右 ( 浙 西 ) 華 亭 佛 教 の 盛 況 を 述 べているものである 俊 芿 が 華 亭 超 果 寺 に 至 った 年 は 嘉 泰 四 年 (1204)で あったので ちょうど 紹 熙 年 間 の 直 後 にあたる 超 果 寺 は 紹 熙 雲 間 志 卷 中 寺 觀 の 項 にも 收 められているこれによ れば 46 唐 の 咸 通 十 五 年 47 に 心 鏡 ( 鑑 ) 禪 師 48 によって 開 山 され 初 めに 長 壽 寺 といい 宋 の 治 平 元 年 (1064)に 超 果 寺 と 改 稱 された 有 名 な 天 台 僧 であった 惟 湛 (1009 1073) 49 が 居 住 し 積 極 的 な 教 化 活 動 を 行 い 熙 寧 五 年 (1072)に 天 台 教 院 50 が 設 置 され まさに 天 台 教 學 の 傳 承 を 有 した 寺 院 である 45 宋 元 方 志 叢 刊 1 中 華 書 局 1990 年 p. 22 46 超 果 寺 在 縣 西 三 里 本 名 長 壽 寺 唐 咸 通 十 五 年 心 鏡 禪 師 造 ( 中 略 ) 治 平 元 年 改 今 額 有 觀 音 大 士 像 參 照 宋 元 方 志 叢 刊 1 中 華 書 局 1990 年 p. 24 47 咸 通 の 年 號 は 十 四 年 のみで 紹 熙 雲 閒 志 の 記 録 は 誤 りである 48 心 鑑 禪 師 ( 釋 藏 奐 )は 贊 寧 宋 高 僧 傳 卷 十 二 の 立 傳 ( 大 藏 經 50 pp. 778-779)があり これによれば 釋 藏 奐 は 華 亭 の 人 早 年 に 道 曠 禪 師 につき 出 家 し 長 壽 寺 を 建 て 住 居 した 七 十 七 歳 で 示 寂 奉 勅 して 心 鑑 と 名 づけられた 從 來 鏡 と 鑑 の 二 字 ( 廣 雅 釋 器 鑑 謂 之 鏡 )は 通 用 なので 心 鏡 禪 師 は 心 鑑 禪 師 では ないかと 考 えられる 49 秀 州 超 果 惟 湛 法 師 行 業 記 參 照 元 照 芝 園 集 卷 上 に 所 收 ( 續 藏 經 105 pp. 583-584) 50 天 台 教 院 について 宋 の 陳 舜 兪 撰 超 果 寺 天 台 教 院 に 院 既 大 成 嚴 像 且 畢 ( 中 略 ) 熙 寧 五 年 正 月 辛 巳 記 と 見 える 至 元 嘉 禾 志 卷 十 九 所 收 ( 宋 元 方 志 叢 刊 5 中 華 書 局 1990 年 pp. 4556-4557) 200

18 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 俊 芿 の 超 果 寺 の 滯 在 期 間 について 從 來 の 研 究 では 言 及 しておらず た だ 不 可 棄 傳 に 八 年 ほど 北 峰 宗 印 に 師 事 したとの 記 録 があるのみである 北 峰 宗 印 の 傳 歴 については 後 述 するが 釋 門 正 統 卷 七 の 記 録 によれば 北 峰 宗 印 は 杭 州 の 上 天 竺 寺 華 亭 の 超 果 寺 平 江 の 北 禪 寺 を 歴 住 したが 超 果 寺 の 住 持 年 次 は 不 明 である 51 不 可 棄 傳 の 記 録 からみると 俊 芿 が 北 峰 宗 印 に 出 會 った 時 と 別 れを 告 げた 時 いずれも 超 果 寺 に 止 住 してい た 時 期 の 出 來 事 なので 北 峰 宗 印 に 師 事 した 八 年 とは 超 果 寺 の 滯 在 期 間 と 見 なすことができるかもしれない ただし 北 峰 宗 印 に 八 年 ほど 師 事 したことに 些 か 疑 問 があるというの は 北 峰 宗 印 の 手 になる 資 料 の 内 容 と 八 年 師 事 したこととは 齟 齬 をきた すからである 前 掲 した 北 峰 宗 印 の 法 語 で 示 したように 俊 芿 が 始 め に 超 果 寺 に 至 った 年 は 嘉 泰 四 年 52 (1204)であって 少 なくともこの 年 か ら 北 峰 宗 印 に 師 事 したと 見 なければならない 問 題 は 俊 芿 がいつ 北 峰 宗 印 のもとを 離 れたのかこれについては 北 峰 宗 印 の 唯 心 淨 土 説 に 次 の ように 記 載 されている 今 告 別 歸 本 國 水 陸 千 萬 里 吾 年 逾 耳 順 忍 土 難 期 再 會 ( 中 略 ) 旹 大 宋 嘉 定 三 年 大 歳 庚 午 解 制 日 住 嘉 興 府 嘉 亭 縣 超 果 天 台 教 院 北 峰 沙 門 宗 印 書 53 上 文 は 嘉 定 三 年 (1210)の 解 制 日 ( 七 月 十 五 日 )に 北 峰 宗 印 によって 華 亭 の 超 果 寺 で 書 かれたものであるここで 六 十 歳 を 過 ぎた 北 峰 宗 印 は 俊 芿 の 歸 國 にあたって もはや 再 會 の 時 はあるまいと 述 懷 しているこの 記 事 によって 分 かるように 俊 芿 の 北 峰 宗 印 に 師 事 した 期 間 は 嘉 泰 四 年 51 續 藏 經 130 pp. 883-885 52 俊 芿 が 嘉 泰 四 年 超 華 寺 に 到 着 したという 別 の 傍 證 として 不 可 棄 傳 に 俊 芿 が 初 めて 華 亭 超 果 寺 に 到 着 したとき 北 峰 宗 印 が 語 った 法 師 自 二 十 七 歳 斷 蚕 衣 十 有 餘 年 内 外 著 布 の 語 がある 嘉 泰 四 年 (1204) 俊 芿 は 三 十 八 歳 で 二 十 七 歳 の 頃 から 蚕 衣 をつけないことから 數 えて 十 有 餘 年 と 一 致 する 53 唯 心 淨 土 說 ( 俊 芿 研 究 p. 400) 199

南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 19 (1204)から 嘉 定 三 年 (1210)までおよそ 七 年 のみである 實 は 俊 芿 が 華 亭 超 果 寺 に 滯 在 した 期 間 に 少 なくとも 三 回 周 邊 の 地 域 へ 足 を 延 ばしたことが 知 られている 初 回 目 は 既 述 したように 開 禧 三 年 (1207)の 春 台 州 に 行 ったこと 二 回 目 は 北 峰 宗 印 南 翔 寺 の 遠 法 師 とともに 湖 州 の 寶 雲 寺 に 行 ったこと( 後 述 )そして 三 回 目 は 嘉 定 元 年 (1208) 超 果 寺 を 去 り 杭 州 に 赴 き 律 學 に 關 する 五 十 問 などの 活 動 を 行 っ たことであるこれによって 嘉 定 三 年 (1210)に 書 かれた 唯 心 淨 土 説 は 俊 芿 が 杭 州 から 再 び 超 果 寺 に 戻 った 時 北 峰 宗 印 から 授 けられたも のではないかと 考 えられる 華 亭 の 超 果 寺 における 俊 芿 の 活 躍 について 北 峰 宗 印 に 師 事 して 天 台 學 に 努 めていた 一 方 更 に 注 目 すべきなのは 超 果 寺 において 密 教 の 不 動 法 七 佛 藥 師 法 を 修 じたことである 密 教 の 作 法 を 修 じた 契 機 となったのは 何 かの 病 氣 にかかった 華 亭 在 家 者 の 要 請 である 俊 芿 は 作 法 によって 多 く の 靈 驗 を 感 得 しており ついに 在 家 者 の 病 氣 を 治 した 靈 驗 の 説 話 は 別 に して ただ 俊 芿 と 交 流 した 華 亭 の 在 家 者 を 列 舉 すれば 章 氏 官 人 周 大 孺 人 54 周 阿 兄 及 び 官 人 貢 士 の 周 冕 官 人 錢 家 55 などが 見 えているかれら の 詳 細 については 不 明 であるが 官 人 貢 士 の 肩 書 きなどからみると 一 般 の 在 家 者 といっても 一 定 の 地 位 をもつ 當 地 の 知 識 人 と 見 てよかろう ( 五 ) 杭 州 の 寺 院 宋 室 南 渡 以 降 杭 州 は 全 國 の 政 治 經 濟 文 化 の 中 心 地 となった 當 時 54 北 礀 居 簡 の 北 礀 詩 集 卷 一 に 化 周 大 孺 人 長 明 燈 の 詩 がある( 禪 門 逸 書 初 編 5 臺 灣 明 文 書 局 1980 年 p. 7) 北 礀 居 簡 の 文 集 には 華 亭 の 寺 院 にかかわ る 文 章 が 幾 つか 見 出 せるという 事 實 から 見 て 北 礀 居 簡 は 華 亭 佛 教 との 關 係 が 深 い ことが 豫 想 されるしたがって 北 礀 詩 集 卷 一 にいう 周 大 孺 人 とは 俊 芿 と 交 渉 した 周 大 孺 人 と 同 一 人 物 ではないかと 考 えられる 55 華 亭 での 官 人 錢 家 が 誰 かは 分 からないが 釋 門 正 統 卷 七 北 峰 宗 印 傳 に ( 前 略 ) 繼 領 超 果 易 門 南 向 講 閣 懺 院 肅 圓 通 香 火 朝 旨 優 之 縣 尹 錢 誾 苦 旱 師 曰 勉 釋 疑 誤 結 觀 音 期 七 日 必 得 雨 至 ( 續 藏 經 130 1977 年 p. 0884)と 見 える 華 亭 縣 尹 の 錢 誾 は 苦 旱 のため 北 峰 宗 印 に 依 頼 して 祈 雨 を 行 ったことがあっ たので この 縣 尹 の 錢 誾 は 俊 芿 と 交 渉 した 官 人 錢 家 と 同 一 人 物 である 可 能 性 が 高 い 198

20 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) の 杭 州 における 佛 教 寺 院 は 明 の 田 汝 成 西 湖 遊 覧 志 餘 卷 十 四 の 方 外 玄 蹤 に 杭 州 内 外 及 湖 山 之 間 唐 已 前 爲 三 百 六 十 寺 錢 氏 立 國 及 宋 朝 南 渡 増 爲 四 百 八 十 寺 海 内 都 會 未 有 加 於 此 者 也 56 と 記 されている 當 時 杭 州 の 寺 院 數 は 四 百 八 十 寺 にのぼり 他 の 都 會 と 比 較 して 最 も 多 かった 杭 州 における 俊 芿 の 行 歴 について 不 可 棄 傳 では 嘉 定 初 去 超 果 遊 帝 都 住 下 天 竺 重 練 台 教 57 と 記 録 しているように 嘉 定 の 初 め 頃 超 果 寺 を 去 り 杭 州 に 遊 び 下 天 竺 に 住 居 して 天 台 學 を 勉 強 した 下 天 竺 寺 は 東 晉 の 慧 理 により 創 建 され 北 宋 の 天 聖 年 間 (1023 1031)に 天 台 僧 であった 慈 雲 遵 式 (964 1032)の 住 持 で 有 名 な 天 台 學 の 寺 院 となった 大 中 祥 符 の 初 (1008 頃 ) 靈 山 寺 と 稱 し 天 禧 四 年 (1020)に 天 竺 寺 慶 元 三 年 (1197)に 天 竺 靈 隱 寺 としばしば 改 稱 されている 58 從 來 上 中 の 天 竺 寺 に 加 えて 三 天 竺 寺 ともいう 杭 州 での 俊 芿 の 活 動 といえば 律 學 などに 關 して 當 時 の 律 師 達 と 様 々な 論 議 を 行 ったことを 擧 げなくてはならない 即 ち 杭 州 の 不 空 教 院 の 了 然 芝 巖 蘭 若 の 淨 懷 淨 梵 院 59 の 妙 音 及 び 會 稽 姚 江 の 極 樂 院 の 智 瑞 律 師 との 問 答 を 行 ったことである 現 存 する 律 宗 問 答 は 當 時 の 問 答 内 容 を 纏 め たものであるなお 杭 州 に 遊 學 した 時 期 について 不 可 棄 傳 では 嘉 定 初 と 記 しているが 具 體 的 に 何 時 だったのであろうかこれに 關 連 して 律 宗 問 答 の 冒 頭 において 次 のように 記 されている 56 明 の 田 汝 成 撰 西 湖 遊 覧 志 餘 上 海 古 籍 出 版 社 1980 年 10 月 p. 260 57 大 日 佛 書 115 p. 524 58 下 天 竺 寺 名 の 變 遷 について 明 の 呉 之 鯨 撰 武 林 梵 刹 志 卷 五 に 記 述 がある 中 國 佛 寺 史 志 彙 刊 第 1 輯 第 7 冊 臺 灣 明 文 書 局 1980 年 1 月 pp. 450-451 59 咸 淳 臨 安 志 卷 七 十 八 に 淨 梵 院 廣 運 中 (974-979) 呉 越 王 建 舊 名 瑞 峰 大 中 祥 符 元 年 (1008) 改 今 額 とある( 宋 元 方 志 叢 刊 4 中 華 書 局 1990 年 p. 4063) 197

南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 21 嘉 定 己 巳 仲 秋 忽 得 教 觀 五 十 問 乃 審 所 云 云 60 教 觀 五 十 問 については 後 述 するが(p. 37) 上 文 によれば 俊 芿 は 遅 くとも 嘉 定 二 年 (1209) 八 月 に 杭 州 に 遊 學 したのであろうここで 留 意 す べきなのは 俊 芿 は 杭 州 での 律 學 の 問 答 を 通 して 諸 律 師 から 大 いに 感 服 され 一 層 高 名 を 馳 せたことになるもし 誰 かが 俊 芿 の 質 問 に 回 答 できれ ば 寺 院 の 住 持 になる 資 格 を 得 られるほどに 至 ったのである 即 ち 不 可 棄 傳 には 次 のように 記 している 臨 安 府 菩 提 律 寺 住 持 亡 名 遷 化 之 後 未 有 其 人 諸 寺 律 師 集 會 公 定 欲 官 奏 時 衆 議 曰 不 可 揀 別 德 行 唯 以 能 答 日 本 芿 法 師 難 問 之 人 可 爲 其 仁 61 上 文 には 杭 州 菩 提 律 寺 の 住 持 が 遷 化 した 際 に 俊 芿 の 難 問 に 回 答 さえ できれば その 人 は 寺 院 の 住 持 に 適 任 であると 諸 の 律 師 によって 取 り 沙 汰 されている 菩 提 律 寺 の 名 は 咸 淳 臨 安 志 において 見 出 せないが 同 志 の 卷 七 十 九 に 菩 提 院 という 院 名 が 見 えるので もしこれが 菩 提 律 寺 のことである ならば その 沿 革 62 については 以 下 の 通 りである 宋 の 太 平 興 國 二 年 (977) 呉 越 王 錢 俶 の 次 子 であった 錢 惟 演 (962 1034)によって 建 立 され 惠 巖 寺 と 名 づけられ 同 七 年 (982) 菩 提 院 と 改 稱 された 寺 中 には 孔 仁 謙 63 作 の 千 手 大 悲 觀 音 像 があり 觀 音 信 仰 の 寺 院 として 知 られている 60 續 藏 經 105 p. 684 61 大 日 佛 書 115 p. 525c 62 菩 提 院 太 平 天 國 二 年 錢 惟 演 建 名 惠 巖 七 年 改 賜 今 額 建 炎 間 燬 先 是 寺 僧 募 良 工 孔 仁 謙 作 大 悲 像 千 手 錯 出 不 能 盡 布 參 照 ( 宋 元 方 志 叢 刊 4 中 華 書 局 1990 年 p. 4075) 63 孔 仁 謙 については 石 川 重 雄 宋 代 祭 祀 社 会 と 觀 音 信 仰 衾 迎 請 をめぐっ て の 中 にも 言 及 がある 柳 田 節 子 先 生 古 稀 記 念 中 國 の 傳 統 社 会 と 家 族 汲 古 書 院 1993 年 5 月 p. 277それ 以 外 では 資 料 として 七 修 類 稿 物 事 類 卷 四 十 七 の 天 竺 觀 音 項 武 林 高 僧 事 略 の 五 代 白 雲 翊 禪 師 傳 また 觀 音 慈 196

22 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) ちなみに 上 文 にいう 菩 提 律 寺 で 遷 化 した 亡 名 の 住 持 はいったい 誰 だったのかこれを 解 明 するため まず 北 礀 居 簡 (1164 1246) 北 礀 集 卷 五 收 載 の 菩 提 簡 宗 師 傳 を 取 り 上 げて 檢 討 してみたい 菩 提 簡 宗 師 傳 によれば 簡 宗 師 (1138 1208)は 字 を 仲 廉 號 を 止 堂 と 言 い 嚴 州 建 德 ( 現 在 の 浙 江 省 建 德 市 ) 任 氏 の 子 であった 杭 州 法 顯 寺 の 景 瑫 法 師 について 具 足 戒 を 受 け のち 普 救 寺 の 首 座 元 印 に 師 事 して 資 持 會 正 派 の 律 學 を 研 修 したまた 智 曇 法 師 64 について 唯 識 百 法 華 嚴 天 台 の 諸 學 を 受 けたのちのことは 宗 師 傳 に 次 のように 述 べられてい る 取 舎 適 中 臨 壇 巋 然 有 南 山 家 法 晩 居 菩 提 九 年 而 寂 嘉 定 元 年 十 二 月 十 二 日 也 度 弟 子 紹 聞 行 依 孫 曰 文 秀 得 其 傳 而 潛 符 密 證 者 梵 威 首 選 垂 寂 之 頃 謂 行 依 曰 平 生 苦 心 以 律 自 嚴 不 空 了 然 師 之 深 知 之 舎 是 莫 可 囑 身 後 言 既 而 寂 端 莊 如 生 壽 七 十 一 臘 四 十 七 65 簡 宗 は 最 晩 年 の 時 凡 そ 九 年 ほど 菩 提 ( 寺 )に 住 持 し 嘉 定 元 年 (1208) 十 二 月 十 二 日 に 七 十 一 歳 で 示 寂 した 臨 終 の 前 弟 子 の 行 依 に 遺 囑 を 殘 し そのなかでの 次 の 後 繼 者 として 不 空 了 然 の 名 を 擧 げた 俊 芿 が 嘉 定 二 年 (1209) 八 月 に 杭 州 で 教 觀 などの 問 答 を 行 ったのは ちょうど 簡 宗 が 寂 し た 九 ヵ 月 後 のことであり まさに 不 可 棄 傳 にいう 遷 化 の 後 未 だ 其 の 人 ( 住 持 ) 有 らず という 菩 提 律 寺 の 住 持 空 席 の 時 期 にあたる また 簡 宗 の 遺 囑 で 菩 提 律 寺 の 後 繼 者 として 指 名 された 不 空 了 然 66 林 集 卷 下 の 釋 道 翊 傳 にもかかわる 記 事 が 見 える 64 智 曇 は 杭 州 六 和 塔 開 化 寺 の 住 持 で 紹 興 二 十 二 年 (1152) 勅 命 を 奉 じて 六 和 塔 を 重 建 した 慈 恩 教 僧 であった 兩 浙 金 石 志 卷 九 に 智 曇 撰 六 和 塔 碑 狀 があ るまた 智 曇 が 六 和 塔 を 建 てたことに 關 する 記 事 は 管 見 の 限 り 宋 の 曹 勛 松 隱 集 ( 四 庫 全 書 集 部 1129) 卷 三 十 收 載 の 六 和 塔 記 にもみられる 65 禪 門 逸 書 初 編 5 北 礀 集 臺 灣 明 文 書 局 1980 年 p. 58 66 中 國 佛 教 において 同 時 同 名 の 僧 侶 が 散 見 するが 南 宋 期 には 了 然 という 僧 名 は 佛 祖 統 紀 卷 十 五 に 所 收 の 安 國 元 惠 の 法 嗣 であり 宗 圓 記 五 卷 釋 止 觀 195

南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 23 は 俊 芿 と 問 答 した 杭 州 の 不 空 教 院 の 了 然 律 師 と 同 寺 同 名 かつ 同 時 期 で あるので 兩 者 は 同 一 人 物 であると 見 てよかろうつまり 亡 名 した 菩 提 律 寺 の 住 持 は 簡 宗 であったのではないかと 考 えられる 宋 代 寺 院 の 住 持 制 について 政 府 からの 任 命 にせよ 地 方 からの 推 選 に せよ いずれも 選 任 條 件 として 住 持 の 德 行 を 考 慮 する 必 要 がある 67 了 然 律 師 が 簡 宗 の 遺 囑 に 從 って 菩 提 寺 の 住 持 になったかどうかは 知 りえない が 俊 芿 の 難 問 に 答 えれば 菩 提 律 寺 の 住 持 の 最 適 者 として 推 選 されたこと から 南 宋 の 佛 教 々 團 において 俊 芿 がどれほど 高 名 を 馳 せたのかを 想 像 す ることができる 以 上 の 考 察 によって 俊 芿 が 遊 學 した 寺 院 とその 所 在 地 域 ( 以 下 南 宋 兩 浙 地 圖 に 參 照 ) 及 び 遊 歴 の 期 間 を 年 代 順 に 表 示 すれば 以 下 のように なる 樞 要 二 卷 虎 溪 集 八 卷 の 著 者 であった 智 涌 了 然 を 指 しているこの 智 涌 了 然 は 佛 祖 統 紀 によって 紹 興 十 一 年 (1141)に 示 寂 したことが 分 かる( 大 正 藏 49 pp. 226-227) 67 宋 正 直 院 碑 に 歴 代 祖 師 迭 興 未 嘗 不 以 經 律 論 學 爲 住 持 之 眉 宇 焉 と 見 える( 兩 浙 金 石 志 卷 七 石 刻 資 料 新 編 14 臺 灣 新 文 豊 出 版 1977 年 p. 10348 ) 194

24 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 俊 芿 が 南 宋 中 期 の 入 宋 僧 として 遊 歴 した 寺 院 の 範 圍 は 確 かに 兩 浙 の 地 域 に 限 られていた 宋 地 滯 在 の 十 二 年 間 初 期 には 雪 竇 徑 山 の 禪 寺 中 期 には 景 福 律 寺 後 期 には 嘉 泰 四 年 (1204)から 華 亭 の 超 果 寺 杭 州 の 下 天 竺 寺 などの 教 寺 において 禪 律 教 學 を 研 鑽 したことが 推 察 される また 上 表 には 幾 つかの 補 足 説 明 が 必 要 であるまず 文 獻 上 の 制 約 で 南 宋 兩 浙 地 圖 193

南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 25 慶 元 六 年 春 嘉 泰 三 年 春 のように 具 體 的 な 日 時 を 明 確 できない 場 合 が ある 次 に 後 述 するように 俊 芿 は 華 亭 の 超 果 寺 に 滯 在 した 時 湖 州 の 寶 雲 寺 に 赴 いたこと また 嘉 定 三 年 (1210)の 秋 頃 に 温 州 に 赴 き 德 廣 律 師 に 依 止 して 七 滅 諍 法 を 學 んだことがあった 温 州 に 住 居 した 寺 院 の 名 は 不 明 であるので 上 表 には 加 えなかった 要 するに 俊 芿 が 遊 學 した 寺 院 は 決 して 上 表 の 數 にとどまらず もっと 多 かったのである 三 南 宋 高 僧 との 交 流 俊 芿 は 兩 浙 の 禪 教 律 の 寺 院 を 遍 遊 したと 同 時 に 各 寺 院 の 住 持 者 など いわゆる 南 宋 の 高 僧 との 交 流 も 持 った 不 可 棄 傳 で 或 與 三 宗 禪 教 律 名 德 論 道 推 以 爲 至 68 というように 俊 芿 は 禪 教 律 三 宗 の 名 德 と 道 を 論 じて 名 德 から 高 い 稱 讃 を 得 た 周 知 のように 宋 代 佛 教 に おいては 純 粹 な 禪 僧 教 僧 律 僧 とは 言 えないが それぞれ 教 學 の 傾 向 か ら 禪 教 律 の 僧 にわけて 尊 稱 する 場 合 があるまた 各 住 持 者 の 教 學 に 從 って 寺 院 には 禪 寺 教 寺 律 寺 に 分 けて 呼 稱 する 場 合 もある さて 渡 宋 中 の 俊 芿 はいったいどのような 高 僧 に 師 事 し 交 流 を 行 った のか 以 下 便 宜 上 不 可 棄 傳 にいう 三 宗 の 概 念 によって 禪 僧 教 僧 律 僧 に 分 けて 紹 介 しつつ 渡 宋 中 の 俊 芿 の 動 きを 明 らかにしてみたい ( 一 ) 禪 僧 との 交 流 日 本 僧 と 南 宋 の 禪 僧 との 交 流 については 俊 芿 入 宋 の 前 後 に 榮 西 と 虚 庵 懷 敞 覺 阿 と 瞎 堂 慧 遠 圓 爾 と 無 準 師 範 など 數 多 くの 名 前 を 擧 げるこ とができるその 交 流 の 大 きな 成 果 が 南 宋 禪 學 の 日 本 傳 來 である それでは 禪 僧 を 輩 出 した 南 宋 の 禪 林 において 俊 芿 はどのような 禪 僧 と 交 流 したのかこれに 關 しては 俊 芿 入 宋 の 年 天 台 山 から 四 明 の 雪 竇 中 巖 に 移 住 した 時 に 大 日 本 佛 教 全 書 所 收 本 の 不 可 棄 傳 では 到 雪 竇 中 巖 咨 受 禪 法 禪 師 亡 名 69 と 記 しているが 同 傳 の 泉 涌 寺 藏 本 に 68 大 日 佛 書 115 p. 526 69 大 日 佛 書 115 p. 521 192

26 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) よれば 亡 名 の 禪 師 は 福 州 東 禪 思 岳 禪 師 江 州 人 妙 喜 老 師 嗣 70 とな っており 思 岳 禪 師 に 師 事 して 禪 法 を 受 けたことが 明 らかとなる 思 岳 禪 師 について 嘉 泰 普 燈 録 卷 十 八 聯 燈 會 要 卷 七 五 燈 會 元 卷 二 十 續 傳 燈 録 卷 三 十 二 などに 簡 單 な 記 録 が 見 られるが これ らの 禪 籍 は 彼 のいくつかの 禪 機 問 答 を 記 しただけで 行 歴 にかかわる 情 報 にはあまり 触 れていないただし 彼 は 俊 芿 が 入 宋 後 最 も 早 い 段 階 で 師 事 した 禪 僧 の 一 人 としてその 名 を 忘 れてはならないだろう 俊 芿 は 雪 竇 中 巖 にしばらく 滯 在 して 同 年 十 月 十 四 日 餘 杭 の 徑 山 寺 を 訪 れ 當 時 徑 山 寺 の 住 持 であった 蒙 庵 元 聰 に 師 事 して 續 いて 禪 を 學 んだよう である 蒙 庵 元 聰 (1136 1209)の 傳 記 資 料 については 枯 崖 和 尚 漫 録 卷 上 續 指 月 録 卷 二 増 集 續 燈 録 卷 一 71 に 散 見 するが 宋 の 衛 涇 撰 後 樂 集 卷 十 八 收 載 の 徑 山 蒙 庵 佛 智 禪 師 塔 銘 72 に 最 も 詳 しいこれによれ ば 元 聰 は 字 を 蒙 叟 號 を 蒙 庵 という 俗 姓 は 朱 福 州 長 樂 の 人 で 十 九 歳 からもっぱら 生 死 大 事 を 考 え 晦 庵 慧 光 の 嗣 法 で 臨 濟 楊 岐 派 に 屬 す 禪 僧 となった 73 その 後 同 じ 福 州 出 身 の 密 庵 咸 傑 (1118 1186)に 師 事 し 續 いて 長 蘆 の 且 庵 守 仁 靈 隱 の 瞎 堂 慧 遠 淨 慈 の 水 庵 宗 一 高 亭 の 誰 庵 宗 演 光 孝 の 佛 照 德 光 保 安 の 復 庵 可 宗 などに 歴 訪 し 嘉 定 二 年 (1209) 十 一 月 十 一 日 示 寂 年 は 七 十 四 であった 徑 山 蒙 庵 佛 智 禪 師 塔 銘 によれば 密 庵 咸 傑 が 勅 命 により 淳 熙 四 年 (1177) 徑 山 寺 に 遷 した 時 蒙 庵 元 聰 も 行 動 を 共 にし 徑 山 の 第 一 座 ( 首 座 )となったという 74 その 後 蒙 庵 元 聰 が 徑 山 寺 から 離 れ 江 西 福 建 などの 名 刹 を 歴 住 して 再 び 徑 山 寺 に 戻 った 年 次 について 前 掲 した 徑 70 泉 涌 寺 史 本 文 篇 參 照 ( 法 藏 館 1981 年 p. 12) 71 續 藏 經 83 p. 277b 72 文 淵 閣 四 庫 全 書 1169 集 部 上 海 古 籍 出 版 社 1989 年 pp. 734-737 73 不 可 棄 傳 の 泉 涌 寺 本 割 註 に 聰 嗣 法 於 晦 庵 光 臨 濟 下 十 四 世 孫 參 照 ( 大 日 佛 書 115 p. 521) 74 密 庵 遷 徑 山 師 爲 第 一 座 由 是 聲 名 益 起 四 方 衲 子 皆 宗 之 參 照 ( 文 淵 閣 四 庫 全 書 1169 集 部 上 海 古 籍 出 版 社 1989 年 p. 736) 191

南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 27 山 蒙 庵 佛 智 禪 師 塔 銘 では 次 のように 記 している 慶 元 丁 巳 夏 徑 山 寺 闕 住 持 有 旨 以 命 僧 元 聰 75 この 記 述 によって 慶 元 丁 巳 ( 慶 元 三 年 1197)の 夏 蒙 庵 元 聰 が 勅 命 に より 福 州 雪 峰 から 徑 山 寺 に 移 り 住 んだことがわかる 同 記 事 は 樓 鑰 撰 の 重 建 徑 山 興 聖 萬 壽 禪 寺 之 記 76 續 指 月 録 卷 二 77 にも 見 られるつまり 俊 芿 が 慶 元 五 年 (1199) 十 月 十 四 日 に 徑 山 寺 に 訪 問 したのは 蒙 庵 元 聰 が 徑 山 寺 に 再 住 した 約 二 年 後 のことである 先 述 したように 俊 芿 は 慶 元 五 年 (1199) 十 月 十 四 に 徑 山 寺 へ 赴 いた 後 一 ヵ 月 未 滿 の 間 に 起 きた 徑 山 寺 の 火 災 によるのであろうか 結 局 ただ 三 ヵ 月 ほど 滯 在 して 翌 年 の 春 蒙 庵 元 聰 のもとを 離 れ 四 明 景 福 寺 に 赴 いた ことになる また 俊 芿 が 交 流 した 禪 僧 の 中 に 佛 照 德 光 の 門 人 である 山 陰 義 銛 と 北 礀 居 簡 の 二 人 も 數 えられる まず 山 陰 義 銛 に 關 する 記 述 は 北 礀 居 簡 の 北 礀 集 叢 林 盛 事 卷 下 元 叟 端 禪 師 語 録 卷 八 了 菴 淸 欲 和 尚 語 録 卷 九 周 密 の 癸 辛 雜 識 玄 極 輯 續 傳 燈 録 卷 三 十 五 性 統 集 續 燈 正 統 卷 十 一 超 永 編 五 燈 全 書 卷 九 卷 四 十 七 などに 散 見 しているこれらの 文 獻 によると 山 陰 義 銛 は 山 陰 ( 現 在 の 浙 江 紹 興 市 )の 出 身 であり 樸 翁 と 號 し 北 礀 居 簡 とともに 佛 照 德 光 禪 師 の 法 嗣 78 として 天 資 奇 逸 辯 博 無 礙 79 と 絶 贊 75 文 淵 閣 四 庫 全 書 1169 集 部 上 海 古 籍 出 版 社 1989 年 p. 734 76 蒙 庵 禪 師 元 聰 以 慶 元 三 年 自 福 州 之 雪 峰 被 旨 而 來 道 譽 隆 洽 不 媿 前 人 とある( 阮 元 編 兩 浙 金 石 志 卷 十 石 刻 資 料 新 編 14 地 方 類 浙 江 臺 灣 新 文 豊 出 版 1977 年 p. 10444) 77 臨 濟 宗 慶 元 徑 山 蒙 庵 聰 禪 師 福 州 朱 氏 子 晦 庵 會 中 會 心 要 衆 推 爲 高 弟 慶 元 三 年 自 福 之 雪 峰 被 旨 遷 徑 山 參 照 ( 續 藏 經 84 p. 32) 78 山 陰 義 銛 は 佛 照 德 光 禪 師 の 法 嗣 として 叢 林 盛 事 卷 下 に 紹 興 末 塗 毒 既 沒 而 雙 徑 交 代 乃 育 王 佛 照 禪 師 入 院 之 初 首 詣 巖 主 塔 頭 置 祭 有 義 銛 書 記 者 爲 其 文 兄 弟 甚 推 其 公 因 筆 録 于 此 と 見 える( 續 藏 經 148 p. 90) 79 五 燈 全 書 卷 九 に 育 王 光 禪 師 法 嗣 參 照 ( 續 藏 經 81 p. 375)また 續 190

28 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) されたが 晩 年 に 還 俗 したようである 80 彼 の 禪 學 の 傳 承 は 大 慧 宗 杲 佛 照 德 光 山 陰 義 銛 となり 思 岳 禪 師 と 同 様 に 大 慧 派 を 代 表 する 禪 僧 であっ た 著 作 は 後 述 する 不 可 刹 那 無 此 君 のほか 西 丘 和 尚 樸 翁 禪 師 吟 稿 81 の 詩 文 集 もあったが 現 存 していない 俊 芿 と 山 陰 義 銛 との 交 流 については 不 可 棄 傳 や 元 亨 釋 書 卷 十 三 にその 記 述 が 見 える 元 亨 釋 書 にはやや 詳 しいので それを 引 用 し よう 又 山 陰 義 銛 述 不 可 刹 那 無 此 君 贈 芿 銛 號 樸 翁 内 外 兼 明 禪 教 竝 通 所 謂 會 稽 名 士 葛 天 民 無 懷 者 也 銛 又 寫 南 山 靈 芝 二 師 像 (ママ) 倩 四 明 樓 鑰 述 贊 其 上 以 送 82 上 文 では 山 陰 義 銛 は 自 ら 撰 述 した 不 可 刹 那 無 此 君 83 南 山 道 宣 傳 燈 録 卷 三 十 五 に 上 方 樸 翁 銛 禪 師 天 資 奇 逸 辯 博 無 礙 とある( 大 正 藏 51 p. 707b) 80 山 陰 義 銛 の 生 卒 年 については 未 詳 であるが 北 礀 居 簡 が 書 いた 祭 葛 無 懷 樸 翁 葛 無 懷 訃 至 銛 樸 翁 の 文 章 からみると 遅 くとも 北 礀 居 簡 の 示 寂 年 (1246) 以 前 に 歿 したことが 判 明 する 北 礀 集 卷 十 に 師 謹 槖 卿 詩 藳 來 謁 銘 乃 亡 友 上 方 樸 翁 義 銛 編 次 と 見 えるまた 同 集 卷 六 明 無 礙 銘 において 明 無 礙 吾 孤 雲 權 之 子 以 諸 父 事 餘 與 樸 翁 兄 銛 樸 翁 稱 之 曰 無 礙 とあり この 樸 翁 兄 の 措 辭 か ら 北 礀 居 簡 より 年 長 であると 推 測 される 81 了 菴 淸 欲 和 尚 語 録 卷 九 の 西 丘 和 尚 樸 翁 禪 師 吟 稿 に 佛 照 禪 師 居 鄮 峰 時 道 福 相 勝 學 者 景 從 天 目 老 祖 上 方 樸 翁 尤 嶄 嶄 出 頭 角 者 ( 中 略 ) 樸 翁 晩 年 亦 爲 葛 天 氏 之 民 參 照 ( 續 藏 經 71 p. 393) 西 丘 和 尚 樸 翁 禪 師 吟 稿 は 現 在 散 佚 したようであるが 卍 新 纂 藏 經 57 所 收 山 陰 義 銛 の 不 可 刹 那 無 此 君 の 末 尾 に 樸 翁 詩 七 首 が 收 められているさらに 禪 宗 頌 古 聯 珠 通 集 宗 鑑 法 林 の 中 に 十 五 首 の 樸 翁 詩 が 散 見 する 淸 厲 鶚 編 宋 詩 紀 事 卷 五 十 九 に 十 三 首 の 樸 翁 詩 が 載 せられている 北 礀 詩 集 の 中 に 北 礀 居 簡 と 樸 翁 との 酬 唱 の 詩 がいくつあり また 北 礀 集 卷 七 に 跋 樸 翁 詩 がある ので 注 意 を 必 要 する 82 大 日 佛 書 101 pp. 163-164 83 續 藏 經 57 p. 121また 當 該 文 獻 は 俊 芿 研 究 に 收 載 されるが 兩 本 を 對 照 してみると 後 者 の 場 合 は 最 後 の 部 分 で 四 句 の 偈 が 遺 漏 していることが 分 かる 189

南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 29 靈 芝 元 照 の 兩 律 師 の 像 また 樓 鑰 に 書 いた 贊 文 を 渡 宋 の 俊 芿 に 贈 ったと 記 している 樓 鑰 による 題 贊 が 加 えられた 南 山 道 宣 靈 芝 元 照 の 畫 像 原 本 は 京 都 の 涌 泉 寺 に 現 存 しており すでに 重 要 文 化 財 に 指 定 されている 兩 律 師 の 畫 像 容 姿 をみると ともに 法 被 をかけ 曲 彔 上 に 結 跏 して 道 宣 律 師 は 兩 手 を 膝 に 置 き 右 手 に 拂 子 元 照 律 師 は 右 手 に 筆 左 手 に 卷 子 を 持 ち まさに 南 宋 の 基 本 的 形 態 をもつ 禪 師 の 頂 相 と 見 える 不 可 刹 那 無 此 君 は 一 句 七 字 三 十 六 句 の 偈 頌 からなり 天 台 の 一 心 三 觀 一 境 三 諦 一 念 三 千 の 義 を 述 べ 摩 訶 止 觀 の 綱 要 を 提 示 する 短 篇 の 書 物 である 同 書 の 跋 84 には 次 のように 記 されている 大 唐 宋 天 台 宗 達 磨 山 陰 沙 門 義 銛 開 禧 丁 卯 暮 春 述 天 台 宗 大 旨 嘉 定 二 年 己 巳 仲 春 四 日 録 贈 日 本 國 芿 法 師 85 上 文 の 天 台 宗 大 旨 とは 不 可 刹 那 無 此 君 を 指 すのであろう 山 陰 義 銛 は 即 ち 開 禧 三 年 (1207) 三 月 に 不 可 刹 那 無 此 君 を 著 していたが 二 年 後 の 嘉 定 二 年 (1209) 二 月 四 日 に 再 び 録 文 して 俊 芿 に 贈 った 不 可 刹 那 無 此 君 の 書 名 は 東 晉 王 羲 之 の 子 であった 王 徽 之 の 言 葉 に 由 來 す る 即 ち 晉 書 卷 八 十 に 嘗 寄 居 空 宅 中 便 令 種 竹 或 問 其 故 徽 之 但 嘯 詠 指 竹 曰 何 可 一 日 無 此 君 邪 86 とあるように 王 徽 之 は 自 家 に 竹 を 植 え ある 人 がその 理 由 を 尋 ねたとこ ろ 一 日 もその 竹 なしではすごせん と 答 えたこの 物 語 によってわか るように 山 陰 義 銛 は 一 日 を 刹 那 にして 自 分 の 書 名 にしたわけで あるただし 問 題 は 王 徽 之 の 場 合 此 君 とは 竹 のことを 意 味 するが 山 陰 義 銛 は 何 を 指 したのであろうか 不 可 刹 那 無 此 君 にある 三 周 正 84 續 藏 經 57 p. 121その 書 題 に 宋 達 磨 山 沙 門 義 銛 述 と 見 える 85 淸 衆 規 式 並 十 六 觀 堂 記 不 可 刹 那 無 此 君 ( 俊 芿 研 究 pp. 400-401) 86 百 衲 本 二 十 四 史 10 晉 書 下 臺 灣 商 務 印 書 館 1988 年 1 月 p. 567 188

30 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 體 不 出 此 只 在 平 常 一 念 中 87 の 文 意 から 見 ると 此 君 は 天 台 教 學 の 一 心 三 觀 の 一 心 と 理 解 すればよいが 贈 る 書 物 として 題 名 にいう 此 の 君 は 著 者 自 身 が 親 交 した 俊 芿 のことを 指 す 可 能 性 が 高 いだろう ちなみに 不 可 刹 那 無 此 君 は 俊 芿 を 通 じて 日 本 に 傳 來 してから 寶 永 三 年 (1706)に 叡 山 の 沙 門 秀 雲 孤 巖 が 纂 註 を 施 しており 後 世 において もその 影 響 を 與 えたことは 留 意 すべきである 次 に 北 礀 居 簡 (1164 1246)について その 傳 歴 資 料 は 枯 崖 和 尚 漫 録 卷 中 續 傳 燈 録 卷 三 十 五 増 續 傳 燈 録 卷 一 續 燈 存 稾 卷 一 五 燈 嚴 統 卷 二 十 などが 擧 げられるが 彼 の 門 人 と 言 うべき 物 初 大 觀 に よって 淳 祐 十 一 年 (1251)に 書 かれた 居 簡 の 行 状 88 に 最 も 詳 しい 著 作 には 北 礀 集 十 卷 北 礀 詩 集 四 卷 北 礀 居 簡 禪 師 語 録 一 卷 89 など がある 特 に 彼 の 詩 文 は 日 本 五 山 文 學 に 大 きな 影 響 を 與 えたことは 周 知 の 通 りである 北 礀 居 簡 は 字 は 敬 叟 潼 川 ( 現 在 の 四 川 綿 陽 市 )の 人 であり 南 宋 期 の 文 僧 として 有 名 であった 山 陰 義 銛 と 同 じ 佛 照 德 光 の 門 人 であり 十 年 ほ ど 杭 州 靈 隱 寺 の 飛 來 峰 の 北 側 に 止 住 したので 北 礀 と 稱 する 俊 芿 との 間 に 一 體 どのような 交 渉 があったのかまず 元 亨 釋 書 卷 十 三 收 載 の 俊 芿 傳 から 次 の 文 を 擧 げてみよう (ママ) 獨 其 釋 門 正 統 者 繫 芿 而 列 古 雲 之 上 也 豈 有 抑 而 不 得 已 者 與 簡 北 礀 又 稱 芿 者 屢 見 其 集 焉 今 考 其 事 迹 誠 一 代 之 魁 才 也 90 87 續 藏 經 57 p. 121b 88 北 礀 居 簡 の 行 狀 は 物 初 大 觀 撰 北 礀 續 集 卷 末 及 び 物 初 賸 語 卷 二 十 四 に 收 録 されているしかし その 兩 書 は 入 手 し 難 いので 本 稿 では 道 津 綾 乃 氏 北 礀 居 簡 の 文 化 的 素 地 について 中 の 引 用 文 に 據 った( 駒 澤 大 學 禪 研 究 所 年 報 9 1998 年 pp. 235-237) 89 北 礀 居 簡 の 著 作 については 椎 名 宏 雄 宋 元 版 禪 籍 研 究 ( 七 ) 衾 北 礀 語 録 外 集 文 集 詩 集 全 集 衾 參 照 ( 印 佛 研 33-1 1981 年 pp. 179-183)また 同 氏 北 礀 と 物 初 の 著 作 に 關 する 書 誌 的 考 察 參 照 駒 澤 大 學 佛 教 學 部 研 究 紀 要 46 1985 年 p. 196-230 90 大 日 佛 書 101 p. 165 187

南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 31 上 文 にいう 列 古 雲 之 上 と 一 代 之 魁 才 とは いずれも 虎 關 師 錬 の 俊 芿 への 敬 意 を 現 わした 言 葉 である 古 雲 とは 北 峰 宗 印 の 門 人 であっ た 古 雲 元 粹 を 指 すのであろう 實 際 に 釋 門 正 統 において 俊 芿 の 名 は 古 雲 元 粹 の 前 に 列 擧 されていたのであるなお 上 文 では 北 礀 居 簡 の 文 集 からしばしば 俊 芿 の 事 蹟 が 見 出 せると 提 示 したが 北 礀 集 と 北 礀 詩 集 を 調 べてみると 前 者 卷 二 收 載 の 湖 州 寶 雲 彬 文 仲 淨 業 記 では 次 の ように 記 している 公 名 了 彬 字 文 仲 湖 州 烏 程 縣 計 氏 子 寶 雲 寺 淸 湛 則 受 業 師 也 十 五 能 誦 妙 法 蓮 花 經 二 十 七 則 發 古 方 書 之 秘 ( 中 略 ) 五 十 而 修 淨 業 即 寶 雲 舊 環 堵 建 繫 念 之 所 結 構 象 設 體 製 大 備 十 友 會 盟 一 志 無 移 日 課 有 常 風 雨 不 渝 剋 期 薰 修 則 北 峰 印 爲 之 主 南 翔 遠 日 本 芿 爲 之 伴 綴 輯 藏 乘 則 諸 子 稽 其 費 諸 孫 相 其 役 凡 根 椽 片 瓦 皆 公 爲 之 倡 七 十 八 而 績 用 成 居 無 何 厭 世 之 念 作 夢 三 僧 雲 間 來 覺 而 笑 曰 此 其 兆 矣 使 速 印 印 至 則 爲 著 解 疑 一 章 91 了 彬 文 仲 (1136 1213)は 湖 州 烏 程 縣 の 人 計 氏 の 子 である 十 五 歳 で 妙 法 蓮 華 經 を 誦 じ 五 十 歳 で 淨 業 を 修 したため 寶 雲 寺 を 念 佛 の 道 場 に 建 て 直 し 同 志 者 の 十 人 を 集 め 一 定 の 期 間 中 に 修 行 した 興 味 深 いの は 修 業 に 參 加 した 人 の 中 には 北 峰 宗 印 を 中 心 に 南 翔 ( 寺 )の 遠 や 俊 芿 が 含 まれていたことである 南 翔 遠 とは 南 翔 寺 の 遠 法 師 であったが 詳 細 な 傳 歴 は 不 明 である 前 掲 した 文 中 の 作 夢 三 僧 雲 間 來 とその 後 にある 使 速 印 印 至 という 言 葉 から 見 て 三 僧 とは 恐 らく 北 峰 宗 印 南 翔 遠 俊 芿 の 三 人 を 指 すのであ ろう 雲 間 とは 華 亭 の 別 名 であるつまり 了 彬 文 仲 の 要 請 に 應 じてこの 三 人 は 華 亭 から 湖 州 の 寶 雲 寺 に 赴 いたわけであるこの 記 事 によって 俊 芿 が 華 亭 超 果 寺 に 滯 在 した 時 北 峰 宗 印 南 翔 遠 とともに 湖 州 まで 足 を 運 び 了 彬 文 仲 の 念 佛 修 業 に 參 加 したことが 確 認 できる 91 禪 門 逸 書 初 編 5 北 礀 集 臺 灣 明 文 書 局 1980 年 p. 21 186

32 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) この 文 は 北 礀 居 簡 の 手 になるので 當 然 ながら 俊 芿 の 動 きを 知 りえた 上 で 書 かれたものであるしかし 二 人 の 間 の 具 體 的 な 交 渉 については 明 確 な 記 録 が 見 えないただし 俊 芿 と 交 流 のあった 山 陰 義 銛 92 や 南 翔 遠 93 そして 後 述 する 樓 鑰 楊 簡 らはすべて 北 礀 居 簡 と 親 しく 往 來 したことがあ り 北 礀 居 簡 の 交 流 した 人 間 關 係 からみると 俊 芿 との 間 には 何 かの 交 流 があっても 不 思 議 ではない 實 際 には 俊 芿 以 降 に 入 宋 した 圓 爾 94 や 天 祐 思 順 95 はいずれも 北 礀 居 簡 について 禪 法 を 學 んだことが 知 られている ( 二 ) 律 僧 との 交 流 宋 代 の 律 學 を 宣 揚 した 人 物 といえば 允 堪 (1005 1061)と 元 照 (1048 1116)との 名 がよく 知 られている 二 人 ともに 唐 の 道 宣 の 南 山 律 宗 を 復 興 することに 力 を 入 れ 杭 州 を 據 點 として 教 化 に 力 を 入 れたただし 南 山 律 宗 の 作 法 などに 對 して 兩 者 の 見 解 が 異 なり それぞれ 四 分 律 行 事 鈔 會 正 記 と 四 分 律 資 持 記 を 著 し 自 分 の 論 説 を 主 張 し ついに 會 正 派 と 資 持 派 に 分 かれた 96 そのうち 允 堪 の 會 正 派 より 元 照 の 資 持 派 のほ うが 後 繼 者 を 輩 出 し 南 宋 の 佛 教 に 多 大 な 影 響 を 及 ぼしていた 俊 芿 が 依 止 した 律 師 はほとんど 資 持 派 の 系 統 に 屬 した 人 物 である 以 下 俊 芿 が 師 事 した 如 庵 了 宏 を 始 め 南 宋 の 律 僧 との 交 流 を 檢 討 してみたい 如 庵 了 宏 に 關 する 資 料 は 意 外 に 少 ない 元 禄 二 年 (1689)に 成 立 した 慧 92 北 礀 詩 集 卷 二 に 酬 銛 樸 翁 梅 花 四 首 劉 改 之 題 王 揔 幹 虜 中 懷 親 帖 拉 樸 翁 與 余 同 賦 樸 翁 加 冠 巾 蘇 召 叟 訝 予 不 嘲 同 書 卷 三 に 樸 翁 約 効 誠 齋 分 題 得 月 色 參 照 ( 禪 門 逸 書 初 編 5 臺 灣 明 文 書 局 1980 年 p. 17 20 22 28) 93 北 礀 集 には 南 翔 遠 老 幹 麥 豆 莊 疏 一 文 も 見 出 せる( 禪 門 逸 書 初 編 5 北 礀 集 臺 灣 明 文 書 局 1980 年 p. 138) 94 東 福 開 山 聖 一 國 師 年 譜 の 仁 治 元 年 庚 子 ( 嘉 熙 四 年 1240)の 項 に 師 三 十 九 歳 敬 叟 簡 棲 飛 來 峰 北 礀 望 尊 一 時 師 往 求 法 語 簡 曰 徑 山 執 不 立 文 字 之 柄 拂 儞 知 解 之 塵 吾 豈 說 葛 藤 禪 參 照 ( 大 日 佛 書 95 p. 133) 95 高 橋 秀 榮 入 宋 僧 天 祐 思 順 について 參 照 ( 印 佛 研 49-1 2000 年 pp. 226-230) 96 會 正 派 と 資 持 派 に 關 する 研 究 は 岡 平 本 一 北 宋 代 の 律 宗 における 會 正 家 と 資 持 家 について 參 照 ( 駒 澤 大 學 禪 研 究 所 年 報 10 1999 年 3 月 pp. 63-77) 185

南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 33 堅 撰 律 苑 僧 寶 傳 卷 九 の 宋 四 明 景 福 寺 如 庵 宏 律 師 傳 に 以 下 の 記 述 が 見 られる 律 師 諱 了 宏 字 如 庵 未 詳 其 族 里 受 業 於 法 政 律 師 諸 部 毘 尼 無 不 穿 穴 而 名 声 炳 燿 出 住 四 明 景 福 寺 開 闡 律 教 訓 導 學 子 而 從 之 遊 者 偃 然 若 風 之 於 草 沛 然 若 水 之 於 壑 也 有 嗣 法 上 首 兩 人 日 山 守 一 律 師 本 邦 俊 芿 律 師 97 如 庵 は 諱 を 了 宏 字 を 如 庵 という 出 身 は 未 詳 法 政 律 師 について 修 行 を 受 け 諸 部 の 毘 尼 に 通 じ 四 明 景 福 寺 に 住 して 律 教 を 弘 め 名 声 を 馳 せ た 嗣 法 者 には 日 山 守 一 や 俊 芿 などがあった 如 庵 了 宏 は 法 政 律 師 の 門 人 であったので その 律 學 傳 承 について 少 なく とも 北 宋 の 元 照 まで 遡 ることができる 即 ち 元 照 律 師 道 標 律 師 惟 一 律 師 法 政 律 師 了 宏 律 師 實 は 法 政 律 師 の 門 下 に また 上 翁 妙 蓮 (1182-1262) 98 がおり さらに 上 翁 妙 蓮 の 門 下 から 石 林 行 居 や 日 本 の 眞 照 律 師 99 などが 輩 出 した 一 方 如 庵 了 宏 の 門 下 から 日 山 守 一 や 俊 芿 が 出 ており また 日 山 守 一 の 門 下 に 日 本 僧 の 曇 照 律 師 100 もいた 要 するに 法 政 律 師 から 日 山 守 一 までの 門 下 周 邊 において 入 宋 僧 も 活 躍 したことに 注 目 すべきである 日 山 守 一 は 鐵 翁 守 一 101 ともいうその 傳 歴 について 不 明 であるが 97 大 日 佛 書 105 p. 110 98 この 生 卒 年 は 大 野 法 道 の 指 摘 による( 佛 書 解 說 大 辭 典 10 大 東 出 版 社 1965 年 11 月 p. 135) 99 律 苑 僧 寶 傳 卷 十 三 律 師 眞 照 俗 姓 未 詳 ( 中 略 ) 遂 以 正 元 初 航 海 入 宋 當 理 宗 開 慶 元 年 依 妙 蓮 律 師 於 廣 福 行 居 律 師 于 竹 林 參 照 ( 大 日 佛 書 105 p. 277) 100 律 苑 僧 寶 傳 卷 十 一 律 師 諱 淨 業 字 法 忍 其 號 曰 曇 照 ( 中 略 ) 値 寧 宗 嘉 定 七 年 事 鐵 翁 一 律 師 踞 巾 峰 名 高 當 代 師 登 其 門 重 受 具 戒 參 照 ( 大 日 佛 書 105 p. 252) 184

34 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 終 南 家 業 と 律 宗 會 元 の 著 作 が 現 存 している 俊 芿 と 日 山 守 一 との 交 流 について 終 南 家 業 卷 二 收 載 の 答 日 本 芿 法 師 教 觀 諸 問 から 確 認 することができるなお 答 日 本 芿 法 師 教 觀 諸 問 を 一 見 して 南 宋 滯 在 中 の 俊 芿 に 送 ったものと 思 われるかもしれないが 實 は 俊 芿 歸 國 後 に 書 かれたものと 見 なすべきである 102 何 故 なら 文 の 冒 頭 に 以 下 の 記 載 が 見 えるからである 日 本 芿 師 爲 法 之 切 於 慶 元 間 泛 舶 東 來 彼 時 先 師 如 庵 開 法 景 福 芿 即 依 學 十 有 餘 年 縁 異 音 不 解 毎 別 席 指 教 芿 乃 討 論 分 陰 不 廢 大 小 部 文 一 宗 教 觀 無 不 通 達 後 遊 參 諸 方 彼 有 不 入 其 門 者 妄 測 堂 奧 之 淺 深 於 是 作 疑 而 激 學 者 余 嘗 會 語 扣 知 彼 懷 而 非 實 疑 也 彼 文 一 出 餘 二 十 年 將 謂 公 心 義 士 能 洞 也 ( 中 略 ) 庚 寅 中 制 日 山 述 103 文 末 に 庚 寅 中 制 と 記 されているように 紹 定 三 年 (1230)に 書 かれ たものである 主 に 俊 芿 入 宋 後 景 福 寺 如 庵 了 宏 のもとで 律 學 や 天 台 など を 孜 孜 として 研 學 したことを 述 べている 紹 定 三 年 は 俊 芿 が 示 寂 した 三 年 後 のことである 日 山 守 一 が 俊 芿 の 示 寂 を 知 っていたかどうか 不 明 であ るが 文 を 書 いた 紹 定 三 年 から 逆 算 してみると 文 中 にいう 彼 文 一 出 餘 二 十 年 云 々とは やはり 嘉 定 二 年 (1209)に 杭 州 において 律 宗 問 答 を 行 った 際 に 俊 芿 から 投 じられた 質 問 の 内 容 を 振 り 返 って 述 べたものであ ろう 即 ち 俊 芿 が 打 ち 出 した 彼 文 とは 律 宗 問 答 所 收 の 三 十 問 と 答 日 本 芿 法 師 教 觀 諸 問 104 にみられる 彼 云 五 義 分 通 疑 彼 云 増 受 101 鐵 翁 守 一 の 別 稱 については 西 巖 了 慧 禪 師 語 録 卷 下 に 福 源 鐵 翁 律 師 像 吉 祥 嗣 法 大 宗 師 請 の 著 律 宗 會 元 眞 破 律 之 宗 主 集 祖 師 家 業 乃 謗 祖 之 師 門 によって 鐵 翁 守 一 は 福 源 鐵 翁 ともいうことが 知 られるこの 福 源 は 未 詳 であるが 寺 名 あるいは 地 名 であろう( 續 藏 經 122 p. 367) 102 この 記 事 について 律 宗 問 答 卷 上 の 割 註 に 俊 芿 皈 國 後 守 一 作 答 釋 遥 寄 於 日 本 國 其 答 釋 戴 在 終 南 家 業 卷 上 末 とある( 續 藏 經 105 p. 684) 103 續 藏 經 105 pp. 722-723 104 續 藏 經 105 pp. 723-0739 183

南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 35 菩 薩 戒 疑 などの 二 十 問 を 合 わせた 五 十 問 の 内 容 を 指 すのである 答 日 本 芿 法 師 教 觀 諸 問 に 取 り 上 げた 律 學 とくに 菩 薩 戒 の 重 受 か 不 重 受 かな どの 議 論 に 對 して 日 山 守 一 は 不 重 受 の 立 場 を 主 張 したのである 105 俊 芿 は 日 山 守 一 と 教 學 的 な 交 流 を 行 った 一 方 上 翁 妙 蓮 との 交 流 もあっ たようであるこれについて 上 翁 妙 蓮 著 の 蓬 折 箴 では 次 のように 述 べている 噫 一 百 二 十 州 之 大 訓 兩 浙 僅 在 其 名 可 謂 中 間 笑 法 笑 法 矣 妙 蓮 下 壇 時 日 本 芿 法 師 來 略 得 識 面 惜 乎 不 曾 與 言 後 見 其 所 出 問 答 知 彼 解 行 可 歸 ( 中 略 ) 乙 卯 十 月 旦 滄 洲 祖 關 上 翁 妙 蓮 云 爾 106 上 文 の 内 容 は 文 末 の 乙 卯 十 月 から 分 かるように 寶 祐 三 年 (1255) に 書 かれ 俊 芿 歸 國 後 の 四 十 四 年 ほどにあたる 記 録 である 上 翁 妙 蓮 の 傳 記 は 未 詳 であるが 彼 の 生 卒 年 からみると 俊 芿 より 十 六 歳 下 の 後 輩 で 俊 芿 が 宋 地 にいた 當 時 二 十 五 歳 前 後 であったと 推 測 される 上 掲 の 文 意 を 見 る 限 り 上 翁 妙 蓮 と 俊 芿 とは 面 識 を 交 わすのみで 言 葉 の 遣 り 取 りが なかったようである 實 は 上 翁 妙 蓮 と 日 本 僧 との 交 渉 については 上 文 の 中 略 のところに (ママ) 嘉 定 至 於 淳 祐 果 有 學 律 者 來 唯 忍 敬 二 法 師 相 聚 連 年 與 之 義 論 頗 得 稠 密 一 別 再 化 各 處 天 一 涯 不 知 其 回 國 之 道 況 何 如 107 と 記 されているこれによって 上 翁 妙 蓮 は 嘉 定 (1208 1224)から 淳 祐 (1241 1252)までの 間 に 日 本 僧 の 忍 敬 二 法 師 と 長 年 にわたって 律 學 などを 議 論 したことが 分 かるここで 忍 は 前 掲 した 曇 照 法 忍 の 可 能 性 が 高 いが 敬 は 俊 芿 弟 子 の 思 敬 であるかもしれない 105 重 受 という 問 題 は 土 橋 秀 高 俊 芿 律 師 の 提 起 せる 菩 薩 戒 重 受 の 問 題 に 詳 しい( 俊 芿 研 究 pp. 83-101) 106 續 藏 經 60 p. 91 107 續 藏 經 60 p. 91 182

36 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) ちょっと 話 は 戻 るが 如 庵 了 宏 に 師 事 した 期 間 については 各 文 獻 によ って 異 なっている 前 掲 した 答 日 本 芿 法 師 教 觀 諸 問 の 冒 頭 にいう 十 有 餘 年 を 含 め 北 峰 宗 印 の 法 語 にいう 一 坐 五 年 108 本 朝 高 僧 傳 の 隨 事 六 載 109 そして 不 可 棄 傳 にいう 僅 跨 三 年 110 などの 四 説 が 見 出 せる 四 説 のうち 俊 芿 の 行 歴 を 全 體 的 に 考 えてみると 如 庵 了 宏 に 師 事 した 期 間 はやはり 不 可 棄 傳 にいう 僅 跨 三 年 が 一 番 事 實 に 近 く 即 ち 慶 元 六 年 (1200)の 春 から 嘉 泰 二 年 (1202) 十 月 五 日 にかけて の 三 年 間 であると 思 われる 如 庵 了 宏 の 生 卒 年 については 資 料 が 乏 しく 不 明 であるが 俊 芿 將 來 品 の 中 に 如 庵 舎 利 三 粒 111 があるので 歸 國 の 前 にすでに 示 寂 したのではな いかと 考 えられるこれに 關 連 して 前 にも 述 べたように 嘉 定 四 年 (1211)の 春 歸 國 直 前 の 俊 芿 が 景 福 寺 に 再 訪 した 際 に 住 持 者 の 道 常 が 出 迎 えたということからも 推 測 可 能 である また 嘉 定 二 年 (1209)に 杭 州 において 律 學 の 論 議 を 行 った 際 に 日 山 守 一 だけではなく ほかの 律 師 とも 交 渉 したことは 注 目 に 値 する 當 時 の 論 議 にどれほどの 人 が 參 加 したかは 不 明 であるが 律 宗 問 答 によれば 俊 芿 の 質 問 に 對 して 回 答 を 出 した 人 は 少 なくとも 杭 州 不 空 教 院 住 持 の 了 然 律 師 會 稽 郡 姚 江 ( 現 在 の 浙 江 省 餘 姚 市 ) 極 樂 院 の 智 瑞 律 師 杭 州 無 相 芝 巖 蘭 若 の 淨 懷 そして 杭 州 淨 梵 院 の 妙 音 などの 四 人 であったという この 四 人 の 傳 歴 について 淨 懷 を 除 き ほかの 三 人 は 律 苑 高 僧 傳 卷 108 日 本 俊 芿 法 師 慶 元 之 末 來 遊 大 宋 掛 錫 明 州 景 福 院 有 宏 律 師 坐 下 一 坐 五 年 精 通 律 學 遂 遍 入 諸 山 禪 講 之 室 嘉 泰 四 年 抵 華 亭 超 果 參 照 淸 衆 規 式 並 十 六 觀 堂 記 法 語 ( 俊 芿 研 究 所 收 p. 399) 109 本 朝 高 僧 傳 卷 五 十 八 淨 律 五 之 二 京 兆 泉 涌 寺 沙 門 俊 芿 傳 に 六 年 春 往 四 明 依 景 福 寺 如 庵 了 宏 律 師 肄 習 毘 尼 随 事 六 載 開 遮 持 犯 渙 然 氷 釋 嘉 泰 二 年 冬 又 登 台 山 とみえるこの 文 の 冒 頭 にある 六 年 春 は 慶 元 六 年 (1200)の 春 こ とで 嘉 泰 二 年 (1202)までは 三 年 未 滿 の 期 間 しかないしたがって 該 書 の 記 事 には 矛 盾 があるので 六 載 というのは 誤 寫 の 可 能 性 がある( 大 日 佛 書 103 p. 763) 110 大 日 佛 書 115 p. 521 111 同 上 p. 527 181

南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 37 九 に 宋 了 然 智 瑞 妙 音 三 律 師 傳 112 と 題 する 簡 略 な 記 述 が 見 える 先 にも 言 及 したように 了 然 は 杭 州 菩 提 律 寺 の 住 持 後 繼 者 とされる 人 物 であ り 著 作 に 授 菩 薩 戒 儀 一 卷 釋 門 歸 敬 儀 通 眞 記 113 三 卷 があるが 現 存 するのは 後 者 のみである 智 瑞 は 洞 微 集 十 卷 を 著 したが 現 存 して いないようである 律 宗 問 答 の 冒 頭 には 智 瑞 によって 書 かれた 次 の 一 文 がある 智 瑞 久 聞 名 字 之 香 未 瞻 庭 角 之 秀 嘉 定 己 巳 仲 秋 忽 得 教 觀 五 十 問 乃 審 所 云 云 異 科 欲 兩 國 學 宗 徹 見 律 海 ( 中 略 ) 是 月 望 日 會 稽 郡 姚 江 極 樂 座 主 智 瑞 頓 首 拜 上 114 久 聞 名 字 之 香 未 瞻 庭 角 之 秀 の 二 句 は 俊 芿 に 對 する 智 瑞 の 贊 辭 と 見 てよかろうただし 上 文 の 書 式 と 言 葉 からみると この 書 はただ 俊 芿 に 呈 出 したものであり 智 瑞 と 俊 芿 とは 實 際 には 面 會 していなかったようで あるまた 不 可 棄 傳 では 智 瑞 は 俊 芿 の 智 德 を 仰 ぎ 畫 工 に 命 じて 俊 芿 の 像 を 描 かせ それに 像 贊 を 付 して 祖 堂 に 掛 けて 供 養 したと 傳 えられて いる 115 教 觀 五 十 問 というのは 俊 芿 の 質 問 に 對 して 日 山 守 一 や 了 然 などの 律 僧 から 得 た 回 答 内 容 を 纏 めたものであるこれらの 論 題 はまさに 當 時 の 佛 教 々 學 の 中 心 問 題 であり こうした 質 問 を 通 じて 宋 代 の 佛 教 教 學 に 大 きな 波 紋 をなげかけたに 違 いないし 俊 芿 自 身 が 關 心 を 持 った 教 學 がどの へんにあったのかを 多 少 とも 推 し 量 ることができるだろうなお これに 關 する 詳 細 な 論 考 は 別 稿 に 譲 りたい 112 大 日 佛 書 105 p. 234 113 具 體 的 な 名 稱 は 釋 門 歸 敬 儀 通 眞 記 と 言 うべきである 該 書 は 續 藏 經 105 所 收 本 の 題 名 下 に 大 宋 蕭 山 沙 門 了 然 述 と 見 える 114 續 藏 經 105 p. 684 115 大 日 佛 書 115 p. 53 180

38 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) ( 三 ) 教 僧 との 交 流 俊 芿 が 交 流 した 教 僧 といえば まず 北 峰 宗 印 (1148 1213)の 名 を 擧 げ るべきである 周 知 のように 中 國 の 天 台 學 史 において 隋 の 天 台 智 顗 (538 597) 唐 の 荊 溪 湛 然 (711 782) 宋 の 四 明 知 禮 (960 1028)などが 重 要 な 人 物 である また 知 禮 以 降 の 宋 代 において 四 明 三 家 と 呼 ば れる 神 照 本 如 (982 1052) 廣 智 尚 賢 ( 生 卒 年 未 詳 ) 南 屛 梵 臻 (? 1103)がよく 知 られて いる 俊 芿 の 宋 地 滯 在 中 に 神 照 系 の 天 台 學 はすでに 衰 退 しており ただ 廣 智 系 と 南 屛 系 の 二 家 が 存 續 していたようである 北 峰 宗 印 は 竹 庵 可 觀 の 門 下 から 出 た 天 台 僧 であり 南 屛 系 に 屬 していた 天 台 學 の 相 承 系 譜 は 次 の 通 りである 四 明 知 禮 南 屛 梵 臻 慈 辯 從 諫 車 溪 擇 卿 竹 庵 可 觀 北 峰 宗 印 北 峰 宗 印 の 傳 記 については 釋 門 正 統 卷 七 佛 祖 統 紀 卷 十 六 佛 祖 歴 代 通 載 卷 二 十 一 補 續 高 僧 傳 卷 三 などに 見 えるこれまで 大 松 博 典 による 北 峰 宗 印 の 傳 記 とその 思 想 について 幾 つかの 論 考 があり 116 參 照 すべきであるここでは 本 題 に 關 連 して 北 峰 宗 印 と 俊 芿 との 交 渉 を 中 心 に 檢 討 してみたい 宗 印 は 字 を 元 實 號 を 北 峰 といい 塩 官 ( 現 在 の 浙 江 海 寧 市 )の 出 身 であ った 十 五 歳 で 具 足 戒 を 受 け 初 めに 四 明 知 禮 山 家 派 の 南 屛 系 の 竹 庵 可 觀 (1092 1182)に 師 事 して 天 台 教 觀 を 研 鑽 したが しばらくして 象 田 寺 の 圓 悟 演 117 に 參 じて 圓 悟 演 から 西 來 意 を 問 われ 禪 も 修 學 したのち 通 守 蘇 116 その 三 つの 論 文 は 1 北 峰 宗 印 の 教 學 とその 背 景 ( 印 佛 研 55 1979 年 pp. 382-384) 2 南 宋 天 台 研 究 序 說 宗 印 法 照 の 場 合 ( 駒 澤 大 學 佛 教 學 部 論 集 11 1980 年 pp. 258-273) 3 北 峰 宗 印 の 研 究 ( 駒 澤 大 學 大 學 院 佛 教 學 研 究 年 報 14 1980 年 pp. 33-40) 117 象 田 寺 の 圓 悟 演 は いったい 誰 であろうか 大 松 博 典 は 北 峰 宗 印 の 研 究 において 安 藤 俊 雄 の 臨 濟 宗 の 五 祖 法 演 であるという 説 に 對 して 五 祖 法 演 の 卒 年 が 1104 年 であることから 圓 悟 演 ではないといえようと 指 摘 している( 駒 澤 大 學 大 學 院 佛 教 學 研 究 年 報 14 1980 年 p. 35) 179

南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 39 玭 (1129 1192) 118 の 要 請 によって 正 覺 寺 に 住 したさらに 杭 州 上 天 竺 寺 で 止 觀 を 講 じ 戒 律 を 輕 視 する 當 時 の 弊 風 を 警 めていたのである 119 その 後 超 果 北 禪 の 名 刹 に 歴 住 し 嘉 定 六 年 (1213) 十 二 月 八 日 に 示 寂 した 120 北 峰 宗 印 の 著 作 について 釋 門 正 統 卷 七 北 峰 宗 印 傳 の 末 尾 に 所 著 金 剛 新 解 及 釋 迦 彌 勒 偈 簡 示 親 什 同 異 有 功 教 義 百 章 121 と 記 されているここで 金 剛 新 解 釋 迦 彌 勒 偈 および 教 義 百 章 122 が 擧 げられいるが 前 の 二 者 は 現 存 しておらず 教 義 百 章 は 恐 ら く 現 存 の 北 峰 教 義 123 そのものであろうそのほか 前 にも 言 及 したが 淨 土 關 係 の 書 物 と 見 られる 解 疑 一 章 もあったまた 俊 芿 は 歸 國 の 際 に 北 峰 宗 印 からその 自 筆 となる 法 語 と 唯 心 淨 土 説 を 頂 いたこと があるこれらはいずれも 短 編 であるが その 内 容 からみると ともに 宋 代 天 台 淨 土 教 の 思 想 を 反 映 する 貴 重 な 資 料 であるさらに 宋 北 峰 沙 門 宗 印 述 北 峰 四 世 孫 本 無 略 録 とされる 大 佛 頂 首 楞 嚴 經 釋 題 124 があ り これは 天 台 智 顗 の 五 重 玄 義 によって 解 釋 されたものであり 天 台 關 係 の 書 物 と 言 える 現 存 の 著 作 から 北 峰 宗 印 の 教 學 思 想 は 天 台 だけではなく 淨 土 禪 を 118 蘇 玭 は 泉 州 同 安 の 人 字 を 訓 直 といい 陸 游 渭 南 文 集 卷 三 十 九 に 吏 部 郎 中 蘇 君 墓 誌 銘 がある 119 釋 門 正 統 卷 七 に 上 竺 講 止 觀 叢 脞 之 弊 熾 于 澤 國 支 離 名 相 輕 毀 戒 律 因 痛 加 砭 參 照 ( 續 藏 經 130 p. 884) 120 嘉 定 六 年 以 觀 室 縁 行 化 松 江 十 二 月 初 八 示 寂 參 照 ( 續 藏 經 130 p. 884) 121 續 藏 經 130 p. 884 宋 志 磬 佛 祖 統 紀 卷 六 北 峰 宗 印 傳 には 所 著 金 剛 新 解 釋 彌 勒 簡 示 天 親 羅 什 同 異 之 意 考 正 之 經 諸 本 即 則 之 文 最 爲 有 據 述 教 義 百 餘 章 尤 爲 學 者 傳 録 とみえる( 大 正 藏 49 p. 233b) 122 謙 順 の 諸 宗 章 疏 録 卷 二 に 金 剛 新 解 釋 金 剛 彌 勒 論 教 義 一 卷 とある ( 大 日 佛 書 1 p. 137) 123 續 藏 經 101 pp. 457-472 124 續 藏 經 17 p. 5 同 資 料 は 大 松 博 典 宋 天 台 研 究 序 說 - 宗 印 法 照 の 場 合 衾 にも 指 摘 される( 駒 澤 大 學 佛 教 學 部 論 集 11 1980 年 p. 261) 178

40 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 含 め 諸 宗 を 重 視 して 兼 學 した 一 面 が 窺 える 俊 芿 は 嘉 泰 四 年 (1204)に 超 果 寺 に 至 り 北 峰 宗 印 に 師 事 して 研 學 した 日 本 に 將 來 した 北 峰 宗 印 の 法 語 には 次 のように 記 録 されている 日 本 俊 芿 法 師 慶 元 之 末 來 遊 大 宋 ( 中 略 ) 嘉 泰 四 年 抵 華 亭 超 果 雖 値 鄙 僧 重 建 教 刹 講 課 不 專 而 孜 孜 聽 習 不 捨 晝 夜 毎 告 之 以 天 台 圓 頓 妙 道 125 これによれば 俊 芿 が 超 果 寺 に 至 った 時 北 峰 宗 印 はちょうど 寺 院 の 復 興 に 追 われ 講 義 に 集 中 することができなかったにもかかわらず 俊 芿 の 孜 々とした 研 鑽 の 様 子 を 見 て 天 台 圓 頓 の 妙 道 ( 妙 觀 )を 教 授 したので ある また 不 可 棄 傳 の 記 録 によれば 超 果 寺 に 住 居 する 間 に 北 峰 宗 印 が 十 餘 人 を 集 めて 四 明 知 禮 の 兩 重 能 所 126 の 出 典 について 提 示 するよう 求 めた 時 俊 芿 は 即 座 に 唐 の 湛 然 撰 止 觀 輔 行 傳 弘 決 127 によって 知 陰 即 是 而 能 成 觀 128 を 述 べて 回 答 したというこれを 通 じて 俊 芿 の 天 台 學 に 對 する 造 詣 の 深 さを 察 知 することができるこれは 渡 宋 後 の 修 學 の 成 果 であるばかりでなく 入 宋 前 からの 長 い 年 月 にわかる 學 問 蓄 積 があった からに 違 いない 俊 芿 の 著 作 に 三 千 義 備 檢 という 書 物 があるその 奥 書 129 からみて 分 かるように 書 の 内 容 はただ 北 峰 教 義 を 節 録 して 類 集 したものであるこれは 俊 芿 が 北 峰 宗 印 のもとで 天 台 教 學 に 努 めていた 成 125 淸 衆 規 式 並 十 六 觀 堂 記 法 語 ( 俊 芿 研 究 所 收 p. 399) 126 兩 重 能 所 の 文 は 四 明 知 禮 の 十 不 二 門 指 要 鈔 卷 上 に 今 更 自 立 一 譬 雙 明 兩 重 能 所 如 器 諸 淳 樸 豈 單 用 槌 而 無 砧 邪 故 知 槌 砧 自 分 能 所 若 望 淳 樸 皆 屬 能 也 參 照 ( 大 正 藏 46 p. 706c) 127 唐 の 湛 然 撰 止 觀 輔 行 傳 弘 決 卷 五 之 二 無 始 色 心 本 是 理 性 妙 境 妙 智 而 隨 妄 轉 不 覺 不 知 今 既 聞 名 知 陰 即 是 即 四 陰 心 而 能 成 觀 參 照 ( 大 正 藏 46 p. 288a) 128 大 日 佛 書 115 p. 522 129 此 一 書 是 俊 芿 備 撿 於 北 峰 教 義 中 略 所 引 文 也 惜 哉 教 義 失 本 唯 存 一 卷 此 書 亦 失 一 得 一 ( 俊 芿 研 究 p. 357) 177

南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 41 果 の 一 つとして 評 價 できるが その 内 容 から 北 峰 宗 印 の 天 台 教 學 をどのよ うにして 理 解 したのか 窺 うこともできよう 俊 芿 は 北 峰 宗 印 のもとで 少 なくとも 七 年 にわたって 天 台 教 學 を 中 心 にし て 研 鑽 したことがわかるここに 一 つの 注 目 すべき 點 がある 即 ち 俊 芿 は 本 來 戒 律 のために 入 宋 したと 見 られていたが 宋 地 に 着 いた 後 單 に 戒 律 を 學 ぶだけではなく 當 時 盛 んであった 佛 教 々 學 とりわけ 天 台 學 にも 強 い 關 心 を 抱 いたということである 宗 鑑 輯 の 釋 門 正 統 卷 七 には 次 の ように 述 べられている 嗣 法 俊 芿 先 傳 密 教 於 日 本 慕 台 道 航 海 來 學 130 この 記 事 は 俊 芿 は 日 本 で 密 教 を 修 め のち 中 國 の 天 台 教 觀 を 慕 い 宋 に 渡 ったと 指 摘 している 天 台 系 の 文 獻 というべき 佛 祖 統 紀 卷 十 六 に は 俊 芿 は 古 雲 元 粹 とともに 北 峰 宗 印 の 法 嗣 として 認 められており ま た 同 書 卷 十 七 には 簡 略 な 俊 芿 の 傳 記 が 收 載 されている 131 要 するに 俊 芿 は 宋 代 天 台 の 傳 承 においても 重 要 視 されたことがわかる 俊 芿 歸 國 の 二 年 後 にあたる 嘉 定 六 年 (1213) 北 峰 宗 印 は 示 寂 した 翌 年 下 天 竺 寺 に 住 持 した 古 雲 元 粹 は 北 峰 宗 印 の 眞 影 を 當 時 の 入 宋 僧 であっ た 良 佑 に 托 して 俊 芿 に 贈 ったと 傳 えられている 132 古 雲 元 粹 は 俊 芿 と 同 門 130 續 藏 經 130 p. 884 131 釋 門 正 統 卷 七 に 嗣 法 俊 芿 先 傳 密 教 於 日 本 慕 臺 道 航 海 來 學 開 禧 逆 虜 犯 順 芿 欲 結 壇 誦 呪 如 不 空 解 安 西 圍 者 時 論 骪 靡 扣 閽 無 路 師 陴 使 芿 遣 徒 於 日 本 取 五 部 法 而 徒 死 于 海 吁 聖 教 行 否 亦 有 時 耶 とある 佛 祖 統 紀 卷 十 七 に 法 師 俊 芿 日 本 國 人 先 傳 瑜 伽 密 教 ( 唐 元 和 間 國 人 空 海 入 中 國 受 密 教 於 不 空 弟 子 慧 果 ) 久 之 杭 ( 航 ) 海 來 中 國 登 靈 山 謁 北 峰 學 天 台 一 宗 執 經 受 教 盡 通 其 旨 開 禧 初 北 虜 犯 邊 芿 啟 北 峯 欲 結 壇 誦 呪 如 不 空 解 安 西 圍 時 論 委 靡 竟 不 克 行 北 峯 乃 令 遣 徒 歸 國 取 中 華 先 所 傳 五 部 之 法 而 其 徒 淪 於 海 ( 此 是 北 峰 印 法 師 法 嗣 有 十 六 人 前 失 十 一 人 後 失 三 人 唯 存 此 法 師 與 趙 彥 肅 二 人 而 已 ) と ある 132 不 可 棄 傳 建 保 二 年 夏 比 大 宋 下 竺 古 雲 粹 講 師 付 僧 良 佑 歸 朝 贈 北 峰 和 尚 眞 影 參 照 ( 大 日 佛 書 115 p. 525) 176

42 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) であったので 相 互 の 交 渉 があっても 不 思 議 ではない 俊 芿 の 歸 國 後 泉 涌 寺 の 首 座 となった 湛 海 は 俊 芿 の 命 によって 二 度 にわたって 入 宋 したと いう 入 宋 初 回 目 の 間 に 杭 州 の 上 天 竺 寺 で 北 峰 宗 印 の 弟 子 にあたる 晦 嚴 法 照 133 (1185 1273)を 訪 問 したまた 白 蓮 寺 で 佛 牙 を 手 に 入 れ 更 に 古 雲 元 粹 に 依 頼 して 佛 牙 舎 利 贊 134 を 書 いてもらい 將 來 したことがあっ たつまり 俊 芿 を 始 めとする 日 本 僧 と 天 台 僧 との 交 流 成 果 は 後 世 の 泉 涌 寺 教 團 へ 多 大 な 影 響 を 與 えたのである ( 四 )ほかの 僧 侶 南 宋 における 俊 芿 の 交 遊 した 僧 侶 は 具 體 的 どれほどあったのかを 確 定 す ることができない 上 掲 のほか さらに 判 明 した 僧 名 だけを 擧 げれば 次 のようになる 嘉 定 四 年 (1211) 俊 芿 は 歸 國 にあたり 多 くの 僧 侶 から 書 牒 や 詩 頌 など が 贈 られたこれらの 僧 侶 は 杭 州 靈 芝 崇 福 寺 の 志 隱 正 倫 杭 州 雷 峰 顯 嚴 塔 院 135 の 志 照 杭 州 褒 親 ( 寺 )の 顯 聰 永 雲 法 祚 明 州 開 元 律 寺 の 道 源 法 久 景 福 律 院 の 道 常 守 眞 慧 雲 行 先 了 性 會 稽 郡 の 師 慧 曇 133 晦 嚴 法 照 に 關 する 先 行 研 究 は 大 松 博 典 晦 嚴 法 照 の 研 究 ( 駒 澤 大 學 大 學 院 佛 教 學 年 報 13 1979 年 7 月 )と 晦 嚴 法 照 の 行 狀 と 宗 教 ( 宗 教 研 究 52-3 1979 年 2 月 )の 兩 文 がある 法 照 と 日 本 僧 との 關 係 については 續 佛 祖 統 紀 や 上 天 竺 寺 志 に 收 載 され る 法 照 傳 記 には 丞 相 史 公 擧 住 四 明 延 慶 海 順 二 師 自 日 本 來 聽 講 請 所 撰 ( 作 ) 讀 教 記 繪 師 像 歸 國 と 見 えるここで 順 という 人 物 はいまだ 不 明 であるが 海 は 泉 涌 寺 の 湛 海 であろう 134 古 雲 元 粹 の 贊 は 佛 牙 舎 利 傳 來 記 に 氣 衝 斗 牛 豊 城 劍 光 透 波 心 合 浦 珠 爭 似 聖 人 眞 舎 利 亙 微 塵 劫 照 昬 衢 と 見 えるまた この 奥 書 に 泉 涌 寺 首 座 比 丘 湛 海 從 白 蓮 寺 堅 長 老 得 佛 牙 舎 利 於 下 天 竺 靈 山 教 寺 右 ( 古 ) 雲 元 釋 ( 粹 ) 拜 贊 とある( 泉 涌 寺 史 資 料 篇 法 藏 館 1984 年 9 月 p. 125) 135 咸 淳 臨 安 志 卷 七 十 八 に 顯 嚴 院 在 雷 峰 塔 開 寶 中 (968-972) 呉 越 王 創 皇 妃 塔 遂 建 院 後 有 雷 峰 菴 郡 人 雷 氏 故 居 治 平 二 年 (1065) 賜 顯 嚴 額 宣 和 間 (1119-1125) 兵 燬 唯 塔 存 乾 道 七 年 (1171) 重 建 慶 元 元 年 (1195) 塔 院 與 顯 嚴 始 合 爲 一 五 年 (1199) 重 修 咸 淳 二 年 (1266) 於 峰 頂 創 通 元 亭 望 湖 樓 とある ( 宋 元 方 志 叢 刊 4 中 華 書 局 1990 年 p. 4061) 175

南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 43 秀 常 照 文 寶 湖 州 覺 悟 教 院 の 行 彬 136 等 であったこのうち 顯 聰 が 俊 芿 の 書 道 に 對 して 梵 字 唐 書 宛 如 眞 墨 縱 横 筆 走 龍 蛇 という 贊 を 與 え た それ 以 外 にも 兩 浙 の 各 地 で 出 會 った 僧 侶 は 少 なくない 例 えば 超 果 寺 の 善 明 比 丘 杭 州 開 化 寺 の 比 丘 尼 正 大 姉 ( 亡 名 ) 四 明 翠 巖 ( 亡 名 ) そ して 西 川 僧 ( 亡 名 )がいった 超 果 寺 の 善 明 比 丘 は 俊 芿 に 對 して 戒 行 道 德 花 ( 華 ) 亭 士 庶 尊 敬 如 佛 137 との 贊 辭 を 寄 せたので 恐 らく 俊 芿 が 超 果 寺 に 止 住 した 時 に ともに 修 學 した 僧 侶 の 一 人 であろう また 僧 侶 の 所 屬 寺 院 や 各 寺 院 の 所 在 地 から 見 て 俊 芿 は 南 宋 の 各 地 で 數 多 くの 僧 侶 に 出 會 い 幅 廣 く 交 流 を 行 ったことが 想 像 される 四 南 宋 文 人 士 大 夫 との 交 遊 俊 芿 が 交 遊 した 南 宋 文 人 士 大 夫 について 不 可 棄 傳 には 次 のように 記 している 或 公 卿 大 夫 聞 名 皆 欽 仰 所 謂 錢 相 公 史 丞 相 樓 參 政 楊 中 郎 等 是 也 此 衆 賢 者 宋 代 俊 頴 博 古 儒 士 ( 中 略 ) 然 而 深 歸 釋 教 大 愛 佛 乘 問 法 師 律 問 法 法 師 朝 復 暮 矣 138 上 文 には 錢 相 公 ( 象 祖 ) 史 丞 相 ( 彌 遠 ) 樓 參 政 ( 昉 ) 楊 中 郎 ( 簡 ) はそれぞれ 丞 相 參 知 政 事 中 郎 の 官 を 拜 したが 當 時 の 有 名 な 學 者 でも あった 彼 らは 深 く 佛 教 に 歸 依 して 俊 芿 を 尊 敬 した 特 に 問 法 師 律 あるいは 問 法 法 師 からみて 分 かるように 彼 らと 俊 芿 との 間 には 單 に 儀 禮 上 の 面 會 だけではなく 佛 教 の 教 理 學 において 密 接 な 學 問 的 交 流 があ ったのである 136 北 礀 集 卷 五 所 收 の 仁 王 護 國 般 若 疏 後 序 に 嘉 禾 古 石 蘭 若 傳 教 行 彬 重 刊 以 永 其 壽 爲 書 之 と 見 える 同 じ 天 台 僧 として 同 人 物 ではないかと 考 える 禪 門 逸 書 初 編 5 臺 灣 明 文 書 局 1980 年 p. 60 137 大 日 佛 書 115 p. 524 138 同 上 pp. 524-525 174

44 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 以 上 の 四 人 はすべて 南 宋 期 の 要 人 で 彼 らの 活 躍 の 場 の 中 心 はほぼ 都 の 杭 州 である 既 述 したように 俊 芿 が 宋 地 滯 在 での 後 半 期 少 なくとも 嘉 定 二 年 (1208) 八 月 に 杭 州 に 滯 在 していたのである 錢 象 祖 (1145 1211)は 字 を 伯 同 號 を 止 庵 といい 台 州 臨 海 の 人 であ る 太 府 寺 主 薄 丞 刑 部 郎 官 樞 密 院 檢 詳 工 部 侍 郎 などを 經 て 開 禧 元 年 (1205) 參 知 政 事 に 任 じられ 翌 年 の 三 月 に 資 政 殿 學 士 を 拜 した 九 月 信 州 ( 現 在 の 江 西 省 上 饒 市 )へ 貶 謫 され 開 禧 三 年 (1208) 四 月 杭 州 に 戻 り 再 び 參 知 政 事 となった 錢 象 祖 と 佛 教 との 關 連 については 佛 祖 統 紀 卷 四 十 八 に 次 のように 述 べられている 嘉 定 四 年 閏 二 月 丞 相 錢 象 祖 薨 於 天 台 里 第 象 祖 之 守 金 陵 嘗 問 道 於 保 寧 全 無 用 後 於 郷 州 建 接 待 十 處 皆 以 淨 土 極 樂 名 之 創 止 庵 高 僧 寮 爲 談 道 之 所 自 左 相 辭 歸 益 進 淨 業 是 月 得 微 疾 ( 中 略 ) 惟 求 生 淨 土 耳 言 訖 跏 趺 而 逝 139 上 文 によれば 錢 象 祖 はすでに 金 陵 ( 南 京 )の 郡 守 を 勤 めた 時 南 京 の 保 寧 寺 に 住 持 した 淨 全 無 用 140 に 道 を 問 い のちに 地 元 の 台 州 に 十 個 の 接 待 ( 庵 ) 141 を 建 て すべてに 淨 土 極 樂 の 名 をつけたことから 深 く 淨 土 法 門 を 信 仰 した 實 踐 者 としても 知 られている 彼 は 俊 芿 歸 國 の 年 即 ち 嘉 定 四 年 139 大 正 藏 49 p. 431bこれとほぼ 同 じ 内 容 は 明 の 袾 宏 輯 往 生 集 卷 二 ( 大 正 藏 51 p. 140b)の 錢 象 祖 郡 守 の 項 に 解 說 されている 140 淨 全 無 用 との 交 流 は 錢 象 祖 撰 無 用 全 禪 師 塔 銘 で 言 及 されているここに 建 業 保 寧 師 之 住 保 寧 也 余 時 守 籥 病 在 焉 閒 得 請 將 歸 師 退 院 事 許 以 相 從 爲 天 台 遊 とある( 天 童 寺 志 卷 七 ) 中 國 佛 寺 史 志 彙 刊 第 1 輯 第 14 冊 臺 灣 明 文 書 局 1980 年 1 月 p. 491 141 錢 象 祖 が 台 州 で 接 待 庵 を 建 てる 記 事 に 關 する 參 考 資 料 として 宋 の 洪 邁 撰 夷 堅 志 支 癸 卷 四 祖 圓 接 待 庵 に 二 浙 僧 俗 多 建 接 待 庵 以 供 往 來 緇 徒 投 宿 大 扺 若 禪 刹 然 ( 中 略 ) 是 時 錢 參 政 曹 太 尉 皆 居 台 州 各 有 庵 舎 適 相 附 近 參 照 夷 堅 志 中 文 出 版 社 1975 年 6 月 p. 515 接 待 庵 についは 石 川 重 雄 氏 宋 元 時 代 の 接 待 施 水 庵 について ( 史 正 17 1988 年 10 月 ) 同 氏 宋 元 時 代 における 接 待 施 水 庵 の 展 開 衾 僧 侶 の 游 行 と 民 衆 教 化 活 動 ( 宋 代 の 知 識 人 汲 古 書 院 1993 年 1 月 ) 參 照 173

南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 45 (1211) 閏 二 月 に 出 身 地 の 天 台 で 亡 くなった 史 彌 遠 (1164 1233)は 字 を 同 叔 といい 慶 元 府 の 鄞 縣 ( 現 在 の 浙 江 省 寧 波 市 鄞 縣 )の 人 淳 熙 六 年 (1179) 進 士 慶 元 二 年 (1196) 大 理 司 直 となり 開 禧 元 年 (1205) 司 封 郎 官 兼 國 史 編 修 同 三 年 (1208) 禮 部 兼 修 國 史 とな った 142 嘉 定 元 年 (1208)から 歿 年 の 紹 定 六 年 (1233)まで 寧 宗 理 宗 二 朝 で 二 十 五 年 にわたって 錢 象 祖 とともに 左 右 丞 相 を 勤 めたのである 在 位 の 間 に 兩 浙 の 禪 寺 を 代 表 する 五 山 十 刹 の 制 度 を 奏 立 143 したことは 周 知 の 通 りである 錢 象 祖 と 史 彌 遠 に 比 べ 樓 昉 と 楊 簡 の 二 人 はむしろ 宋 學 の 思 想 家 として の 名 が 高 い 樓 昉 は 宋 史 に 本 傳 がなく 寧 波 府 志 卷 二 十 六 文 苑 144 によれば 字 を 暘 叔 鄞 縣 の 人 紹 熙 四 年 (1193)に 進 士 となり 弟 の 樓 昞 とともに 文 をもって 聞 こえた 東 莱 先 生 と 呼 ばれる 呂 祖 謙 の 門 人 にあたり 理 宗 朝 の 時 に 龍 圖 閣 大 學 士 を 拜 し 朱 仲 晦 と 親 交 があり 近 思 録 の 共 編 者 と しても 知 られ 主 著 には 崇 古 文 決 三 十 五 卷 がある 楊 簡 (1141 1226)は 宋 史 卷 百 六 十 六 に 本 傳 145 があるが 慈 湖 遺 書 附 録 に 收 載 される 楊 簡 の 門 人 であった 錢 時 撰 の 寶 謨 閣 學 士 正 奉 大 夫 慈 湖 先 生 行 状 146 に 詳 しいこれによれば 字 を 敬 仲 といい 四 明 慈 溪 ( 現 在 の 浙 江 寧 波 慈 溪 市 )の 人 乾 道 五 年 (1169)に 進 士 となり 宋 學 の 思 想 家 を 代 表 する 陸 九 淵 の 弟 子 となった 紹 熙 五 年 (1194) 國 子 博 士 となり 嘉 定 元 年 (1208)に 祕 書 郎 そして 祕 書 省 著 作 佐 郎 兼 權 兵 部 郎 官 を 歴 任 したすでに 慈 邑 にある 德 潤 湖 に 止 住 したので 慈 湖 先 生 147 と 稱 する 142 二 十 五 史 35 宋 史 6 臺 灣 藝 文 印 書 館 pp. 5050-5052 143 明 の 宋 濂 撰 宋 文 憲 公 護 法 録 卷 二 之 下 に 所 收 の 淨 慈 孤 峰 德 禪 師 塔 銘 に 逮 乎 宋 季 史 衛 王 奏 立 五 山 十 刹 如 世 之 所 謂 官 署 と 見 える( 和 刻 影 印 漢 籍 叢 刊 4 中 文 出 版 社 p. 3107) 同 じ 塔 銘 は 淸 の 際 祥 撰 淨 慈 寺 志 卷 十 九 にも 所 收 ( 中 國 佛 寺 史 志 彙 刊 第 1 輯 19 冊 臺 灣 明 文 書 局 1980 年 pp. 1269-1277) 144 中 國 方 志 叢 書 華 中 地 方 (189) 寧 波 府 志 6 成 文 出 版 社 p. 2045 145 二 十 五 史 35 宋 史 6 臺 灣 藝 文 印 書 館 pp. 4984-4986 146 文 淵 閣 四 庫 全 書 1156 集 部 上 海 古 籍 出 版 社 1989 年 pp. 927-942 147 簡 居 德 潤 湖 瀕 以 湖 在 慈 邑 易 名 慈 湖 宗 其 學 者 不 稱 其 官 皆 稱 曰 慈 湖 先 172

46 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 上 掲 四 人 のうち 俊 芿 と 錢 象 祖 史 彌 遠 樓 昉 との 間 に 具 體 的 な 交 流 が どうなったかは 分 からない 楊 簡 との 交 遊 について 不 可 棄 傳 では 次 の ように 記 している 又 著 作 郎 楊 先 生 事 筆 硯 述 聖 人 道 以 贈 法 師 及 從 政 郎 孫 起 予 一 見 斯 文 感 歎 之 餘 續 跋 其 末 其 文 在 別 148 これによって 楊 簡 が 聖 人 の 道 を 述 べて 俊 芿 に 贈 り しかも 政 郎 の 孫 起 予 ( 豫 )がその 文 を 見 て 感 歎 のあまり 跋 文 を 書 いたことが 分 かる 孫 起 予 は 字 を 商 友 といい 四 明 の 人 父 の 孫 枝 とともに 嘉 定 七 年 (1214) に 進 士 となった 淳 祐 四 年 (1244)に 監 察 御 史 の 官 を 拜 した 149 孫 起 予 の 跋 文 は 現 存 するかどうか 確 定 できないが 楊 簡 の 聖 人 の 道 と 呼 ばれ る 文 は 恐 らく 慈 湖 遺 書 卷 三 所 載 の 日 本 國 僧 俊 芿 求 書 そのもので あろう 即 ち 日 本 俊 芿 律 師 請 言 于 宋 朝 著 庭 楊 子 楊 子 舉 聖 人 之 言 而 告 之 曰 心 之 精 神 是 謂 聖 此 心 虚 明 無 體 象 廣 大 無 際 量 日 用 云 爲 虚 靈 變 化 實 不 曽 動 不 曽 靜 不 曽 生 不 曽 死 而 人 謂 之 動 謂 之 靜 謂 之 生 謂 之 死 晝 夜 常 光 明 起 意 則 昏 則 非 150 聖 人 の 道 とは 上 文 にある 聖 人 之 言 と 同 じ 意 味 であろう 心 之 精 神 是 謂 聖 から 即 非 までの 内 容 は 聖 人 の 道 と 言 えるが 心 之 精 神 是 謂 聖 の 一 句 はもともと 孔 子 の 言 葉 である 151 なお この 心 をめ 生 參 照 宋 元 方 志 叢 刊 5 寶 慶 四 明 志 卷 九 中 華 書 局 1990 年 p. 5105 148 大 日 佛 書 115 p. 525 149 宋 史 列 傳 卷 百 七 十 八 の 劉 伯 正 傳 において 淳 祐 四 年 拜 端 明 殿 學 士 簽 書 樞 密 院 事 兼 權 參 知 政 事 眞 拜 參 知 事 以 監 察 御 史 孫 起 予 言 罷 參 照 ( 二 十 五 史 35 宋 史 6 臺 灣 藝 文 印 書 館 p. 5120) 150 文 淵 閣 四 庫 全 書 1156 集 部 上 海 古 籍 出 版 社 1989 年 p. 638 151 孔 叢 子 記 問 に 子 思 問 於 夫 子 曰 物 有 形 類 事 有 眞 僞 必 審 之 奚 由 子 曰 由 乎 心 心 之 精 神 是 謂 聖 と 見 える 慈 湖 遺 書 卷 三 贈 錢 誠 甫 孔 子 曰 171

南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 47 ぐる 上 文 の 解 釋 を 見 ると 佛 教 の 禪 の 思 想 と 極 めて 共 通 しているようであ るこれに 關 連 して 慈 湖 遺 書 卷 十 八 炳 講 師 求 訓 に 孔 子 曰 心 之 精 神 是 謂 聖 即 達 磨 謂 從 上 諸 佛 惟 以 心 傳 心 即 心 是 佛 除 此 外 更 無 別 佛 152 と 述 べられているここで 心 之 精 神 是 謂 聖 の 心 は 禪 宗 の 以 心 傳 心 の 心 であり 聖 は 佛 教 にいう 佛 であると 理 解 することができ る 楊 簡 の 心 學 は 佛 學 を 包 括 しており ある 意 味 で 宋 代 儒 學 を 代 表 する 一 種 の 儒 佛 融 合 論 と 言 ってもよかろう 楊 簡 から 贈 られた 聖 人 之 言 の 内 容 を 通 じて 俊 芿 がいかなる 宋 學 に 強 く 關 心 を 寄 せていたのかを 垣 間 見 る ことができる 俊 芿 が 宋 學 へ 關 心 を 寄 せたことについては 元 の 盛 如 梓 撰 老 學 叢 談 卷 上 においても 次 の 記 述 が 見 出 せる 書 之 百 篇 倭 國 猶 有 本 ( 中 略 ) 湯 東 澗 跋 曰 日 本 僧 芿 書 朱 文 公 言 聞 外 國 書 逸 篇 皆 全 其 釋 孟 子 盡 心 一 條 亦 托 外 國 本 以 備 考 今 北 峰 之 弟 子 行 果 爲 予 言 芿 來 中 國 見 六 經 之 本 不 同 既 歸 模 其 國 中 本 遣 高 弟 僧 護 行 以 送 呉 越 知 舊 中 流 失 舟 芿 以 喪 其 弟 子 誤 謂 此 書 不 當 入 中 國 以 致 於 此 153 この 資 料 はすでに 福 井 康 順 の 俊 芿 律 師 の 宋 學 初 傳 について のなかで 取 り 上 げ 檢 討 されたものである 154 ここでは 福 井 の 研 究 を 踏 まえ ほか 心 之 精 神 是 謂 聖 參 照 文 淵 閣 四 庫 全 書 1156 集 部 上 海 古 籍 出 版 社 1989 年 p. 639また 明 の 雲 棲 袾 宏 撰 竹 窗 隨 筆 の 心 之 精 神 是 謂 聖 の 項 に 孔 叢 子 云 心 之 精 神 是 謂 聖 楊 慈 湖 平 生 學 問 以 此 爲 宗 とある( 和 刻 影 印 漢 籍 叢 刊 7 中 文 出 版 社 p. 5305) 152 文 淵 閣 四 庫 全 書 1156 集 部 上 海 古 籍 出 版 社 1989 年 p. 898 153 文 淵 閣 四 庫 全 書 866 子 部 上 海 古 籍 出 版 社 1989 年 pp. 520-521 154 俊 芿 研 究 p. 267 170

48 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) の 資 料 を 加 え 次 のように 述 べておきたい 老 學 叢 談 の 撰 者 盛 如 梓 について 詳 しい 經 歴 は 分 からない 清 紀 昀 四 庫 全 書 提 要 155 によれば 衢 州 ( 現 在 の 浙 江 省 衢 州 市 )の 人 自 ら 庶 齋 と 號 す 彼 は 湯 東 澗 の 六 經 の 跋 を 引 用 して 上 文 のように 俊 芿 に 關 す る 記 録 を 殘 している 湯 東 澗 は 即 ち 湯 漢 であり 字 を 伯 紀 といい 饒 州 安 仁 ( 現 在 の 江 西 省 餘 江 市 )の 人 宋 史 卷 百 九 十 七 に 本 傳 156 がある 饒 縣 の 主 薄 淳 祐 十 二 年 (1252)に 國 史 實 録 校 勘 そして 秘 書 省 校 書 郎 を 歴 任 して 太 常 博 士 に 至 ったのである 本 傳 には 七 十 一 歳 で 亡 くなったとされたが 出 生 の 年 が 記 されていない 宋 史 卷 四 十 六 本 紀 の 咸 淳 八 年 (1272) 春 正 月 の 項 には 己 丑 湯 漢 卒 賜 諡 文 淸 157 の 記 事 が 見 えるので 逆 算 すると 嘉 泰 元 年 (1202)に 生 まれたことが 分 かるその 生 卒 年 から 考 慮 すれば 俊 芿 との 直 接 的 交 渉 はなかっただろう 湯 東 澗 の 跋 によれば 南 宋 滯 在 中 の 俊 芿 は 六 經 の 版 本 異 同 に 關 心 を もっていたこともわかるそのため 歸 國 後 六 經 の 版 本 を 探 して 自 分 の 弟 子 を 遣 して 呉 越 の 知 舊 に 贈 ったのであるこの 知 舊 とは 俊 芿 が 南 宋 滯 在 中 に 交 流 した 知 友 のだれかであろうただし 殘 念 なことに そ の 派 遣 した 弟 子 は 中 流 失 舟 して 命 を 海 におとしてしまった 中 流 失 舟 にかかわる 記 事 は 湯 東 澗 の 跋 より 早 く 成 立 した 釋 門 正 統 卷 七 の 北 峰 宗 印 傳 や 不 可 棄 傳 にも 言 及 されているそれぞれの 内 容 を 舉 げてみると 次 の 通 りである 芿 遣 徒 於 日 本 取 五 部 法 158 而 徒 死 于 海 吁 聖 教 行 否 亦 有 時 耶 159 155 庶 齋 老 學 叢 談 三 卷 元 盛 如 梓 撰 如 梓 衢 州 人 庶 齋 其 自 號 也 嘗 官 崇 明 縣 判 官 と 見 える( 文 淵 閣 四 庫 全 書 866 子 部 上 海 古 籍 出 版 社 1989 年 p. 513) 156 二 十 五 史 36 宋 史 7 臺 灣 藝 文 印 書 館 pp. 5323-5325 157 二 十 五 史 30 宋 史 1 臺 灣 藝 文 印 書 館 p. 489 158 佛 部 蓮 華 部 金 剛 部 寶 部 羯 磨 部 の 五 部 建 立 の 法 と 謂 う 兩 部 大 法 相 承 師 資 付 法 記 卷 上 に 金 剛 智 三 藏 於 玄 宗 朝 同 爲 國 師 知 三 藏 金 藏 智 解 金 剛 界 法 遂 於 金 剛 智 三 藏 請 傳 金 剛 界 五 部 法 と 見 える( 大 正 藏 51 p. 784a) 159 續 藏 經 130 pp. 884-885 169

南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 49 ( 北 峰 宗 印 傳 ) 同 五 年 春 差 思 齊 幸 命 兩 徒 爲 使 贈 四 分 律 疏 法 礪 律 師 撰 並 財 貨 數 十 物 於 宋 朝 二 僧 管 領 出 博 多 津 以 後 人 物 共 失 不 知 存 沒 白 浪 覆 船 以 入 龍 淵 歟 160 ( 不 可 棄 傳 ) 以 上 の 兩 資 料 を 湯 東 澗 の 跋 と 照 合 してみると 中 流 失 舟 の 記 事 は 一 致 しているが 南 宋 に 贈 る 書 物 は それぞれ 密 教 の 五 部 法 法 礪 律 師 撰 の 四 分 律 疏 および 儒 學 の 六 經 と 異 なっている 俊 芿 が 歸 國 後 に 南 宋 へ 弟 子 を 派 遣 した 回 數 を 知 ることはできないが 泉 涌 寺 教 團 において 俊 芿 の 後 を 繼 いで 入 宋 した 僧 侶 には 曇 照 淨 業 月 翁 智 鏡 理 性 道 玄 聞 陽 湛 海 の 四 人 161 があり すべて 無 事 に 入 宋 して 歸 國 し たことが 確 認 できる 千 里 の 波 浪 をわたり 中 流 失 舟 の 危 險 を 免 れな いとはいえ 別 々の 書 物 を 持 ち 三 回 にわたって 南 宋 にまで 贈 り すべて 海 難 にあったとはとうてい 想 像 し 難 い 上 掲 した 不 可 棄 傳 の 記 録 を 注 目 すると 南 宋 に 贈 るとした 書 物 には 法 礪 律 師 撰 の 四 分 律 疏 のほか 財 貨 數 十 物 もあったので その 中 に 儒 學 の 六 經 や 密 教 の 五 部 法 も 含 まれていたではないかと 考 えられるつまり 三 回 の 海 難 ではなく 一 回 の 派 遣 において 途 中 遭 難 したと 見 るべきであろう 即 ち 俊 芿 の 歸 國 後 七 年 目 の 建 保 五 年 (1217)の 春 に 弟 子 であった 思 齊 幸 命 を 遣 わしたことは 事 實 として 認 められるのである このように 儒 學 の 六 經 密 教 の 五 部 法 及 び 法 礪 律 師 撰 の 四 分 律 疏 などの 逆 輸 入 の 動 きは 唐 末 の 會 昌 廢 佛 やそれ 以 降 の 社 會 動 亂 の ため 多 くの 佛 教 典 籍 が 失 われていた 現 實 を 物 語 っているまた このこ とは 俊 芿 が 南 宋 において 當 時 の 佛 教 々 學 及 び 宋 學 に 關 心 を 拂 いながら 僧 侶 文 人 士 大 夫 との 間 に 深 く 交 流 を 持 ったことを 示 唆 している また 湯 東 澗 の 跋 に 見 られる 俊 芿 渡 宋 の 動 きは 實 は 北 峰 宗 印 の 弟 子 で 160 大 日 佛 書 115 p. 528 161 律 苑 僧 寶 傳 卷 十 一 所 收 の 戒 光 寺 開 山 曇 照 業 律 師 傳 來 迎 院 月 翁 鏡 律 師 傳 我 圓 理 性 二 律 師 傳 聞 陽 海 律 師 傳 參 照 ( 大 日 佛 書 105 pp. 253-254) 168

50 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) あった 行 果 という 人 から 聞 いた 話 である 行 果 については 佛 祖 統 紀 卷 十 七 收 載 の 北 峰 宗 印 法 嗣 162 の 内 に 南 澗 行 果 という 名 が 見 えるやは り 俊 芿 と 同 門 の 出 身 であったまた 續 佛 祖 統 紀 卷 一 收 載 の 北 峰 宗 印 法 嗣 の 下 に 法 師 行 果 號 南 澗 住 天 竺 靈 鷲 與 湯 文 淸 公 漢 爲 莫 逆 交 有 唱 和 詩 文 163 とあって 南 澗 行 果 は 杭 州 の 天 竺 靈 鷲 ( 下 天 竺 寺 )に 住 止 し 湯 文 淸 即 ち 湯 漢 との 交 流 を 行 い 二 人 の 間 に 往 來 した 詩 文 もあった 南 澗 とい う 號 は 靈 隱 飛 來 峰 の 南 澗 に 止 住 したことによって 名 づけられ 湯 漢 の 東 澗 という 號 は 何 かの 關 連 があるらしいともあれ 俊 芿 と 湯 東 澗 との 間 に 直 接 的 交 流 はなかろうと 思 われるが 同 じ 北 峰 宗 印 の 門 人 であった 南 澗 行 果 とは 何 らかの 交 流 があっただろう 實 は 北 峰 宗 印 の 法 嗣 の 中 では 南 澗 行 果 だけではなく 士 大 夫 である 趙 彦 肅 と 呉 克 己 (1140 1214)も 俊 芿 と 交 流 があったようである 趙 彦 肅 は 生 卒 年 未 詳 字 は 子 敬 ( 欽 ) 嚴 陵 ( 現 在 の 浙 江 省 杭 州 市 桐 廬 縣 )の 人 慶 元 (1195 1200)に 進 士 となり 若 くから 北 峰 宗 印 にまみえ 佛 法 の 大 意 を 論 じており 洛 學 之 翹 楚 と 評 されている 著 作 に 復 齋 易 説 六 卷 が 現 存 している 呉 克 己 (1140 1214)の 傳 歴 については 釋 門 正 統 卷 七 の 記 事 によれ ば 字 は 復 之 鎧 庵 居 士 と 號 し 目 疾 のため 圓 通 大 士 に 祈 念 して 治 癒 し たというのち 深 く 佛 教 を 信 奉 し 宗 鏡 止 觀 寶 積 などを 修 學 した 嘉 162 十 六 人 の 名 前 は 古 雲 元 粹 佛 光 法 照 梅 峯 梵 奎 石 溪 思 壽 石 鏡 清 杲 慈 感 文 圭 蒙 泉 了 源 剡 源 覺 先 桐 洲 懷 坦 南 峯 思 誠 日 本 俊 芿 雲 巢 如 寶 南 礀 行 果 嚴 陵 趙 彥 肅 鎧 菴 吳 克 己 とある( 大 正 藏 49 p. 235a) 163 續 佛 祖 統 紀 卷 一 の 行 果 傳 ( 續 藏 經 131 pp. 0712-0713)は 極 めて 簡 略 であり その 末 尾 には 無 文 道 璨 (1211-1265)の 手 になる 祭 文 が 收 められて いるこの 祭 文 は 道 璨 の 柳 塘 外 集 卷 四 ( 禪 門 逸 書 初 編 5 臺 灣 明 文 書 局 p. 65)にも 收 載 されている 祭 靈 鷲 果 南 礀 講 師 と 對 照 してみると 何 箇 所 かの 出 入 があるので 注 意 を 必 要 する 167

南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 51 定 七 年 (1214) 十 一 月 十 五 日 に 七 十 五 歳 で 亡 くなった 儒 學 の 著 作 に 儒 語 讀 史 精 騎 二 卷 雜 著 歴 代 綱 領 各 一 卷 習 易 遺 藁 集 封 建 井 田 各 三 卷 語 孟 集 註 五 卷 があり 佛 教 關 係 では 科 四 教 儀 楞 嚴 綱 目 止 觀 大 科 法 華 樞 鍵 楞 嚴 集 解 を 著 したが すべて 散 佚 してしまったようであるただし それらの 書 の 題 名 から 見 て 儒 佛 に 精 通 した 學 者 だったことに 相 違 ない 呉 克 己 の 名 を 冠 する 佛 教 關 係 の 現 存 文 獻 は 佛 祖 統 紀 卷 五 十 所 收 の 重 刊 刪 定 止 觀 序 與 喩 貢 元 書 の 兩 文 及 び 樂 邦 文 類 卷 二 所 載 の 刊 往 生 行 願 略 傳 序 164 のみである なお 呉 克 己 の 著 作 に 關 連 して 釋 門 正 統 卷 七 にある 次 の 記 事 に 留 意 すべきである 晩 編 釋 門 正 統 曰 紀 運 曰 列 傳 曰 總 論 未 就 倫 理 今 茲 所 集 資 彼 爲 多 宗 鑑 不 沒 其 實 於 其 高 議 必 標 鎧 菴 曰 字 以 冠 之 165 周 知 のように 釋 門 正 統 は 司 馬 遷 の 史 記 の 本 紀 世 家 志 内 傳 外 傳 という 構 成 に 準 じて 編 纂 したものである 上 文 によって 宗 鑑 の 編 集 とされる 八 卷 の 釋 門 正 統 は 實 は 呉 克 己 ( 鎧 庵 )の 手 になる 内 容 紀 運 列 傳 總 論 を 參 照 して 増 修 されたものがあるただし 八 卷 のうち どの 部 分 が 呉 克 己 によって 編 輯 されたのかそれを 解 明 するための 手 掛 か りとなるのは 上 文 で 指 摘 しているように 宗 鑑 が 呉 克 己 の 先 輯 の 功 績 を 埋 沒 させないため 必 ず 鎧 菴 曰 の 字 を 冠 したという 事 實 である 興 味 深 いことに 釋 門 正 統 卷 三 卷 七 卷 八 にそれぞれ 一 箇 所 ずつ 俊 芿 に 關 する 記 録 が 見 出 せる 三 箇 所 の 内 容 は 卷 七 の 一 箇 所 には 嘉 定 十 七 年 嗣 子 元 粹 紹 其 席 云 166 という 記 述 があるので 嘉 定 七 年 (1214) に 亡 くなった 呉 克 己 によって 書 かれたものではないが ほかの 二 箇 所 は 呉 克 己 の 手 になる 可 能 性 があるこれは 俊 芿 と 呉 克 己 との 間 に 交 流 があった かどうかを 考 える 上 で 極 めて 貴 重 な 記 録 であるので 以 下 に 若 干 の 檢 討 を 164 大 正 藏 47 p. 175c 165 續 藏 經 130 p. 893 166 同 上 p. 885 166

52 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 加 えたい まず 釋 門 正 統 卷 三 弟 子 志 において 密 教 の 傳 承 を 記 述 した 上 で 次 のような 一 文 がある 先 是 不 空 弟 子 慧 果 授 與 日 本 空 海 傳 授 不 絶 近 俊 芿 來 雲 間 從 北 峰 印 學 者 即 遺 派 學 術 行 業 眞 東 海 翹 楚 也 167 弟 子 志 の 主 な 内 容 は 各 宗 派 の 傳 承 を 記 述 したものである 上 文 では 中 國 の 密 教 が 不 空 から 惠 果 へ また 惠 果 から 入 唐 僧 の 空 海 へ 授 與 され それ が 絶 えずに 引 き 續 き 俊 芿 まで 傳 わっていたと 言 われる ここで 留 意 すべきなのは 上 文 の 後 で 鎧 菴 贊 また 鎧 菴 疏 位 居 己 辨 168 という 記 述 が 見 出 せることである 先 にも 触 れたように 呉 克 己 の 書 いたものであれば 必 ず 宗 鑑 が 鎧 菴 曰 と 示 したので 如 上 の 内 容 は 實 際 に 呉 克 己 の 撰 述 ではないかと 考 えられる こうした 推 論 を 證 左 するため まずこの 文 を 書 いた 背 景 を 探 ってみたい 上 文 において 俊 芿 は 不 空 の 遺 派 として 認 められ しかも 俊 芿 の 學 術 と 行 業 は 眞 に 東 海 の 翹 楚 なり と 高 く 評 價 されているなぜ 俊 芿 に 對 して これほどの 評 價 がなされたのかこれは 俊 芿 の 南 宋 における 密 教 に 關 する 活 動 と 密 接 な 關 連 があったのであろう 不 可 棄 傳 の 記 録 によれば 開 禧 三 年 (1207)の 春 俊 芿 は 超 果 寺 に 滯 在 した 間 に 北 峰 宗 印 の 命 により 當 地 の 章 氏 周 大 孺 人 のために 密 教 の 不 動 法 七 佛 藥 師 法 を 修 し 様 々な 靈 驗 を 感 得 したのであったこのため 華 亭 の 信 者 が 彌 陀 三 尊 の 像 金 剛 經 の 板 木 を 俊 芿 に 獻 上 し 超 果 寺 の 善 明 比 丘 は 戒 行 道 德 花 ( 華 ) 亭 士 庶 尊 敬 如 佛 169 という 贊 辭 を 呈 した 上 文 の 内 容 は 恐 らく 俊 芿 渡 宋 の 密 教 活 動 を 知 った 上 で 執 筆 されたもので はないかと 思 われる 次 に 上 文 の 措 辭 を 見 てみよう 近 俊 芿 來 雲 間 の 近 ( 最 近 )と 167 同 上 p. 780 168 同 上 p. 781 169 大 日 佛 書 115 p. 524 165

南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 53 來 ( 來 る)の 表 現 によって 執 筆 者 が 當 時 華 亭 ( 雲 間 )に 滯 在 したので はないかと 推 測 される 呉 克 己 は 北 峰 宗 印 の 在 家 弟 子 として 華 亭 や 超 果 寺 に 滯 在 しても 不 思 議 ではない 實 際 に 呉 克 己 撰 の 梁 肅 傳 において 曾 (ママ) 於 北 蜂 處 覩 寫 本 170 と 明 記 されており 即 ちかつて 北 峰 宗 印 のところで (ママ) 梁 肅 文 集 という 寫 本 を 見 たことがあったと 自 述 している 北 蜂 處 と は 恐 らく 北 峰 宗 印 が 長 年 止 住 した 超 果 寺 を 指 すのであろうもしそうであ るならば 上 文 の 書 寫 期 間 については 俊 芿 が 密 教 作 法 を 修 した 開 禧 三 年 (1207)の 春 以 降 呉 克 己 の 歿 年 嘉 定 七 年 (1214)までの 間 いわゆる 呉 克 己 の 晩 年 に 執 筆 したものと 考 えられる さらに 釋 門 正 統 卷 八 にある 次 の 一 文 を 擧 げて 見 てみたい 鎧 菴 曰 南 山 一 宗 始 優 婆 離 給 集 毘 藏 ( 中 略 ) 古 來 弘 成 論 論 師 之 義 謂 空 宗 五 義 分 通 大 乘 遂 立 圓 宗 戒 體 令 被 日 本 法 師 立 問 終 莫 能 答 171 上 文 の 冒 頭 には 鎧 菴 曰 と 見 えるので この 文 は 呉 克 己 が 書 いたもの であるのは 確 實 できるこの 内 容 は 不 可 棄 傳 の 割 注 に 釋 門 正 統 第 四 云 圓 宗 戒 體 註 曰 今 被 日 本 法 師 立 問 終 莫 能 答 172 と 引 用 されている また 圓 宗 戒 體 に 關 する 議 論 について 律 宗 問 答 の 彼 云 増 受 菩 薩 戒 疑 173 でも 見 出 せるので 上 文 にいう 日 本 法 師 とは 俊 芿 を 指 すに 違 い ない このように 呉 克 己 は 俊 芿 の 超 果 寺 における 密 教 修 法 を 見 聞 したのみな らず 嘉 定 二 年 (1209)に 杭 州 で 律 學 に 關 する 俊 芿 の 問 答 を 承 知 していた 170 續 藏 經 130 p. 758 171 同 上 p. 918 172 大 日 佛 書 115 p. 525 不 可 棄 傳 の 場 合 に 第 四 とは 卷 八 と 訂 正 すべきである 釋 門 正 統 の 令 被 は 不 可 棄 傳 が 訂 正 したように 今 被 であろう 173 例 えば 二 師 縁 相 違 難 曰 圓 宗 戒 體 元 依 現 前 一 人 而 發 豈 可 壇 上 十 師 所 發 耶 參 照 ( 續 藏 經 105 p. 730) 164

54 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 可 能 性 もあるしたがって 俊 芿 が 北 峰 宗 印 の 在 家 弟 子 であった 趙 彦 肅 と の 交 渉 を 行 ったかどうかは 斷 定 できないが 少 なくとも 呉 克 己 と 直 接 的 な 交 渉 があったことが 認 められよう 最 後 に 俊 芿 が 交 遊 した 文 人 士 大 夫 において 樓 鑰 の 名 を 見 落 とすことは できない 樓 鑰 (1137 1213)は 字 を 大 防 といい 明 州 鄞 縣 の 人 である 宋 史 卷 百 五 十 四 174 にその 傳 記 が 收 載 されているが 宋 の 袁 燮 175 (1144 1224) 撰 絜 齋 集 卷 十 一 資 政 殿 大 學 士 贈 少 師 樓 公 行 状 176 に 最 も 詳 しいこ の 行 状 によれば 樓 鑰 は 隆 興 元 年 (1163)に 進 士 となり 考 官 の 胡 銓 (1102 1180)から 翰 林 の 才 と 評 され 文 才 に 秀 いで 勅 令 により 淳 熙 法 議 を 刪 修 した 紹 熙 初 年 (1190 頃 )から 考 功 郎 兼 禮 部 中 書 舎 人 兼 直 學 士 院 を 歴 任 し 嘉 定 元 年 (1208) 十 月 左 丞 相 の 錢 象 祖 の 下 にあって 知 樞 密 院 事 となった 晩 年 自 ら 攻 媿 主 人 と 號 し 攻 媿 集 百 二 十 卷 が 現 存 している 前 にも 触 れたように 山 陰 義 銛 が 南 山 靈 芝 の 二 律 師 の 像 を 描 き 樓 鑰 に 依 頼 して 贊 を 作 ったことがあった 贊 の 内 容 は 俊 芿 研 究 の 俊 芿 律 師 遺 文 に 收 載 されているが 判 讀 できない 文 字 が 何 箇 所 かある 實 は この 贊 は 攻 媿 集 卷 八 十 一 に 收 録 され 贊 文 の 次 に 跋 文 も 付 いてい る 即 ち 南 山 律 師 贊 曰 禪 曰 教 無 非 爲 人 惟 茲 律 儀 尤 切 于 身 仰 止 南 山 與 佛 無 間 人 天 師 尊 不 容 贊 歎 174 二 十 五 史 35 宋 史 6 臺 灣 藝 文 印 書 館 pp. 4867-4868 175 袁 燮 は 字 を 和 叔 といい 明 州 鄞 縣 の 人 であるその 傳 記 資 料 は 龍 圖 閣 學 士 袁 公 墓 志 銘 ( 楊 簡 慈 湖 遺 書 補 篇 ) 顯 謨 閣 學 士 開 府 袁 公 行 狀 ( 眞 德 秀 西 山 先 生 眞 文 忠 公 文 集 卷 47) 顯 謨 閣 學 士 開 府 袁 公 行 狀 ( 袁 燮 絜 齋 集 拾 遺 ) 絜 齋 袁 先 生 傳 ( 王 應 麟 四 明 文 獻 集 卷 6)がある 176 文 淵 閣 四 庫 全 書 1157 集 部 96 上 海 古 籍 出 版 社 1989 年 p. 638 163

南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 55 靈 芝 律 師 贊 南 山 既 遠 教 道 中 微 化 身 再 來 是 爲 靈 芝 持 律 益 嚴 護 法 甚 勞 靈 芝 之 風 南 山 相 髙 佛 法 自 天 竺 流 入 震 旦 久 矣 而 四 海 之 外 奉 之 尤 謹 今 有 日 本 國 僧 俊 芿 慕 南 山 靈 芝 之 法 航 海 求 師 首 畫 二 師 之 像 求 余 爲 贊 芿 公 恪 守 律 嚴 究 觀 諸 書 既 得 其 説 欲 歸 以 淑 諸 人 余 非 學 佛 者 吾 儒 曲 禮 三 千 散 亡 多 矣 然 見 於 日 用 者 如 入 公 門 而 鞠 躬 上 東 階 而 右 足 雖 造 次 不 可 廢 也 詩 曰 我 心 匪 石 不 可 轉 也 我 心 匪 席 不 可 卷 也 威 儀 棣 棣 不 可 選 也 此 非 律 之 説 乎 歸 矣 使 律 之 一 宗 盛 行 於 東 海 之 東 于 以 補 教 化 之 所 不 及 其 爲 利 益 豈 有 窮 哉 177 ( 下 線 は 筆 者 の 施 したものである) 最 初 に 贊 の 文 意 を 見 ると 南 山 道 宣 律 師 に 對 しては 佛 と 同 じく 人 天 の 師 尊 と 贊 歎 し 靈 芝 元 照 律 師 に 對 しては 南 山 道 宣 の 化 身 であるつまり 南 山 と 靈 芝 との 律 學 は 一 脈 相 承 ということになる 次 に 跋 文 の 大 意 をま とめてみると 佛 法 は 天 竺 から 中 國 に 傳 來 して 久 しく 四 海 の 外 において もっとも 信 じられ 現 在 日 本 僧 の 俊 芿 が 南 山 道 宣 靈 芝 元 照 の 律 學 を 慕 い 海 を 越 えて 入 宋 し 戒 律 を 嚴 守 し 諸 書 を 究 明 したのである 二 律 師 像 の 贊 文 は 俊 芿 の 請 によって 書 かれたものである 上 文 の 下 線 部 分 は 詩 經 邶 風 柏 舟 から 引 用 したもので これを 用 いて 樓 鑰 が 儒 者 の 威 儀 と 佛 門 の 律 儀 を 贊 歎 して 歸 國 後 の 俊 芿 に 律 學 を 宣 揚 するよう 期 待 を 寄 せた 如 上 の 贊 文 がいつ 書 かれたのかを 攻 媿 集 は 明 記 していない 京 都 の 泉 涌 寺 に 現 存 する 二 律 師 の 像 には 贊 文 の 末 にそれぞれ 嘉 定 三 秊 中 元 四 明 樓 鑰 作 贊 とあり これは 俊 芿 が 歸 國 する 半 年 ほど 前 の 嘉 定 三 年 (1210) 七 月 に 書 かれたものであるこの 贊 文 と 跋 文 を 通 じて 俊 芿 と 樓 鑰 との 間 に 直 接 的 交 流 があったことが 確 定 できる 177 四 部 叢 刊 初 編 集 部 攻 媿 集 4 臺 灣 商 務 印 書 館 1975 年 p. 746 また 南 宋 における 榮 西 の 活 動 記 録 については 攻 媿 集 卷 五 十 七 の 天 童 山 千 佛 閣 記 にも 見 られる 162

56 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) おわりに 以 上 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 をめぐって 若 干 の 考 察 を 試 みたその 結 果 俊 芿 は 都 の 杭 州 をはじめ 台 州 明 州 秀 州 湖 州 温 州 に 至 るまで ほぼ 兩 浙 の 全 域 にわたって 遊 學 したことがわかったその 遊 學 した 寺 院 か ら ほぼ 三 期 に 分 けることができる 初 期 は 餘 杭 徑 山 禪 寺 雪 竇 禪 寺 中 期 は 四 明 景 福 律 寺 後 期 は 華 亭 の 超 果 教 寺 杭 州 の 下 天 竺 教 寺 となり そ れぞれ 禪 律 及 び 天 台 の 教 學 に 研 鑽 した 經 歴 が 捉 えられるそのうち 日 本 僧 と 關 連 の 深 い 天 台 山 には 俊 芿 は 三 回 にわたって 訪 れ 彼 にとってもっ とも 聖 なる 存 在 であったことが 窺 えるまた 徑 山 寺 と 景 福 寺 は 日 本 僧 と して 恐 らく 俊 芿 が 初 遊 であり それ 以 降 日 本 僧 の 多 くが 訪 れ 格 別 の 意 義 を 持 つ 寺 院 となった 更 に 南 宋 滯 在 期 間 の 半 分 以 上 というもっとも 長 く 止 住 した 超 果 寺 は 現 在 何 の 遺 蹟 も 殘 されていないが 日 本 僧 であっ た 俊 芿 と 密 接 な 關 連 があったので 中 日 佛 教 交 流 史 上 においてその 寺 院 の 名 は 決 して 忘 れられないものである 俊 芿 は 禪 律 教 の 寺 院 に 遊 學 するとともに 多 くの 禪 律 教 の 僧 侶 に 師 事 して 積 極 的 に 南 宋 佛 教 の 教 理 を 研 修 したのである 注 目 すべきなの は 師 事 した 思 岳 元 聰 義 銛 居 簡 などがすべて 大 慧 派 に 屬 した 禪 僧 で あったことであるそれは 南 宋 佛 教 において 禪 學 隆 盛 という 背 景 があり 臨 濟 禪 が 絶 大 な 勢 力 をもったことを 示 している 禪 僧 以 外 に 律 僧 との 交 流 において 少 なくとも 三 年 にわたって 如 庵 了 宏 に 師 事 し またその 門 人 であった 日 山 守 一 法 弟 の 上 翁 妙 蓮 と 交 流 し さらに 杭 州 において 教 觀 と 律 學 をめぐって 了 然 智 瑞 淨 懷 および 妙 音 などの 律 師 とともに 論 議 を 行 ったこともある 更 に 教 僧 との 交 流 についてみると 北 峰 宗 印 のもとで 七 年 前 後 修 學 し 同 じ 宗 印 の 門 人 であった 古 雲 元 粹 南 澗 行 果 との 交 流 も あった 南 宋 期 の 入 宋 僧 は 殆 ど 五 山 の 禪 寺 に 遊 學 したが 俊 芿 の 場 合 は 超 果 寺 や 下 天 竺 寺 などの 天 台 系 の 寺 院 を 中 心 に 歴 訪 し 長 年 にわたり 天 台 學 を 修 學 したということは 注 目 に 値 する 俊 芿 は 戒 律 のため 入 宋 したが 遊 學 した 寺 院 や 師 事 した 高 僧 を 見 ると 戒 律 はもちろん 當 時 隆 盛 であった 佛 161

南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 57 教 々 學 衽 衲 禪 のほか 天 台 の 教 學 に 關 心 を 持 っていたことが 窺 えるこう してみると 宋 代 佛 教 において 禪 の 教 學 が 盛 んになっていた 一 方 で 天 台 學 も 緩 やかながら 教 學 の 振 興 を 維 持 していたことが 察 せられる 一 方 俊 芿 は 僧 侶 のみならず 文 人 士 大 夫 との 交 遊 も 持 ったそれらの 中 には 丞 相 の 錢 象 祖 史 彌 遠 文 人 として 名 の 高 い 楊 簡 樓 鑰 および 北 峰 宗 印 の 弟 子 であった 呉 克 己 などが 擧 げられるかれらとの 交 遊 から 俊 芿 の 幅 廣 い 關 心 が 窺 える 特 に 楊 簡 の 聖 人 之 言 樓 鑰 の 贊 また 盛 如 梓 撰 老 學 叢 談 に 收 載 される 湯 東 澗 の 跋 文 から 見 て 俊 芿 は 佛 學 以 外 に も 宋 代 文 化 を 積 極 的 に 攝 取 したことが 知 られる 俊 芿 が 交 遊 した 文 人 士 大 夫 はすべて 佛 教 の 篤 信 者 とは 言 えないが 佛 教 への 關 心 をもち 互 いに 文 化 的 に 影 響 を 與 え 合 ったのは 確 かであるしたがって 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 は 佛 教 だけではなく 中 日 文 化 交 流 史 上 において 多 大 な 役 割 を 果 たしたに 違 いない 俊 芿 の 活 躍 は 宋 代 の 佛 教 々 團 において 高 い 評 價 を 得 た 例 えば 超 果 寺 の 善 明 比 丘 の 戒 行 道 德 花 ( 華 ) 亭 士 庶 尊 敬 如 佛 呉 克 己 の 學 術 行 業 眞 東 海 翹 楚 などの 贊 辭 が 現 われたのであるこのような 高 評 は 宋 代 だけではなく 明 代 にまで 及 んでいる 明 の 金 陵 ( 現 在 の 江 蘇 省 南 京 市 ) 瓦 官 寺 の 僧 であった 無 逸 克 勤 の 書 に (ママ) 南 宋 寧 宗 之 朝 俊 芿 法 師 先 於 日 本 傳 瑜 伽 密 教 入 中 國 謁 北 峰 于 抗 靈 山 178 亦 盡 通 其 旨 是 皆 一 代 偉 人 也 179 とあり 一 代 偉 人 と 高 く 評 價 しているこのように 俊 芿 入 宋 の 成 果 は 後 世 の 中 國 佛 教 においても 多 大 な 影 響 を 與 えたことが 推 察 される 安 貞 元 年 (1227)に 俊 芿 は 示 寂 したその 後 も 俊 芿 によって 開 創 され た 泉 涌 寺 の 教 團 において 中 國 佛 教 との 交 流 が 途 切 れることはなく 俊 芿 の 178 杭 靈 山 は 杭 州 の 下 天 竺 寺 を 指 すのであろう 下 天 竺 寺 は 宋 の 大 中 祥 符 初 (1008 頃 )に 靈 山 寺 とも 稱 したからであるここで 克 勤 は 俊 芿 が 杭 州 の 下 天 竺 寺 で 北 峰 宗 印 に 謁 したと 傳 えている 179 續 藏 經 101 p. 951 160

58 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 後 を 繼 いで 入 宋 した 律 僧 が 何 人 もあった 彼 らは 南 宋 においてどのように 活 動 を 行 っていたのかについては 今 後 の 課 題 にしたい 註 記 の 略 號 大 正 藏 = 大 正 新 脩 大 藏 經 ( 大 正 新 脩 大 藏 經 刊 行 會 1979) 續 藏 經 = 卍 新 纂 大 日 本 續 藏 經 ( 國 書 刊 行 會 1989) 大 日 佛 書 = 大 日 本 佛 教 全 書 ( 佛 書 刊 行 會 1984) 印 佛 研 = 印 度 學 佛 教 學 研 究 俊 芿 研 究 =( 石 田 充 之 編 俊 芿 律 師 衾 鎌 倉 佛 教 成 立 の 研 究 法 藏 館 1972) 付 記 本 稿 は 2007 年 12 月 花 園 大 學 に 提 出 した 修 士 論 文 俊 芿 在 宋 の 行 歴 を 基 に 一 部 修 正 して 成 ったものである 第 二 節 の 南 宋 において 遊 學 した 寺 院 は 2008 年 11 月 29 日 花 園 大 學 第 79 回 禪 學 研 究 會 學 術 大 會 で 俊 芿 在 宋 の 行 歴 に ついて 衾 遊 學 した 寺 院 を 中 心 にして と 題 して 口 頭 發 表 した 第 四 節 の 南 宋 文 人 士 大 夫 との 交 遊 は 筆 者 自 身 によって 中 國 語 に 翻 譯 し 日 僧 俊 芿 與 南 宋 文 人 士 大 夫 的 交 往 との 題 目 で 國 立 臺 灣 大 學 の 臺 大 佛 學 研 究 第 22 期 (2011 年 12 月 )に 掲 載 したまた この 論 文 とほぼ 同 じ 内 容 で 2008 年 9 月 俊 芿 開 山 の 京 都 泉 涌 寺 で 講 演 したこともあったなお 修 士 論 文 を 提 出 してから 今 までの 五 年 間 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 を 含 め 様 々な 研 究 が 進 んでおり 特 に 京 都 泉 涌 寺 心 照 殿 學 藝 員 の 西 谷 功 氏 により 我 禪 房 俊 芿 泉 涌 寺 僧 及 南 宋 佛 教 ( 第 九 届 呉 越 佛 教 唯 識 學 研 討 會 論 文 杭 州 :2010 年 )などの 論 考 が 發 表 された 最 後 に 俊 芿 在 宋 の 行 歴 を 執 筆 するにあたり 當 時 の 指 導 教 官 である 沖 本 克 己 先 生 を はじめ 花 園 大 學 の 諸 先 生 方 から 大 變 お 世 話 になったここに 記 して あわせて 厚 くお 禮 を 申 し 上 げたい 159

南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) 59 Summary Shunjoʼs 俊 芿 Journey and Studies in Southern Song China Dingyuan Two countries separated only by ʻa narrow strip of waterʼ, China and Japan have a long history of friendly exchanges. Throughout this history, Buddhist monks played a major role in bridging the cultural and religious flow between the two nations. Already in the Nara 奈 良 Period, many Japanese Buddhist monks braved the dangers of the sea and traveled to Tang China to seek the Dharma. In the Kamakura 鎌 倉 Period, as envoys between these two nations became more frequent, an increasing number of monkstraveled to Song China. We find among these Dharma-seekers such famous names as Eisai 榮 西, Dogen 道 元, Enni 圓 爾,etc. Their journeys and studies in China have been subject toconsiderable academic investigation, but little is known of Shunjo 俊 芿 (1166-1227), another important figure in this period. Shunjo arrived in China in the fifth year oftheqingyuan Period (1199) staying there for about twelve years. This is much longer than the periods spent by Eisai, Dogen, or Enni. So far, however, Shunjoʼs life in China has been little studied in spite of the large number of relevant materials. This paper hopes to redress this lacuna and examine Shunjo journey, studies with eminent Chinese monks, and exchanges with contemporary literati. This will help us gain abetter understanding of his activities in China as well as the history of the culturalexchanges between the two countries. 158

60 南 宋 における 俊 芿 の 行 歴 ( 定 源 ) Research Fellow, Strategic Research Project for Private Universities Granted by the Ministry of Education of Japan Establishment of the Research Centre for East Asian Buddhist Manuscripts International College for Postgraduate Buddhist Studies 157