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別紙3

 

Microsoft Word - 【溶け込み】【修正】第2章~第4章

2 職 員 の 平 均 給 与 月 額 初 任 給 等 の 状 況 (1) 職 員 の 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 及 び 平 均 給 与 月 額 の 状 況 ( 平 成 22 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 一 般 行 政 職 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 平 均 給 与

別 表 1 土 地 建 物 提 案 型 の 供 給 計 画 に 関 する 評 価 項 目 と 評 価 点 数 表 項 目 区 分 評 価 内 容 と 点 数 一 般 評 価 項 目 立 地 条 件 (1) 交 通 利 便 性 ( 徒 歩 =80m/1 分 ) 25 (2) 生 活 利 便

Taro-08国立大学法人宮崎大学授業

47 高 校 講 座 モ オ モ 圏 比 較 危 述 覚 普 第 章 : 活

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(3) 職 員 の 初 任 給 の 状 況 ( 平 成 5 年 月 日 現 在 ) 決 定 初 任 給 採 用 年 経 過 後 給 料 月 額 大 学 卒 7, 8, 一 般 行 政 職 短 大 卒 9,8 6, 高 校 卒, 8,5 () 職 員 の 経 験 年 数 別 学 歴 別 平 均 給 料

2 役 員 の 報 酬 等 の 支 給 状 況 平 成 27 年 度 年 間 報 酬 等 の 総 額 就 任 退 任 の 状 況 役 名 報 酬 ( 給 与 ) 賞 与 その 他 ( 内 容 ) 就 任 退 任 2,142 ( 地 域 手 当 ) 17,205 11,580 3,311 4 月 1

(5) 給 与 制 度 の 総 合 的 見 直 しの 実 施 状 況 概 要 国 の 給 与 制 度 の 総 合 的 見 直 しにおいては 俸 給 表 の 水 準 の 平 均 2の 引 下 げ 及 び 地 域 手 当 の 支 給 割 合 の 見 直 し 等 に 取 り 組 むとされている 総 合 的

公 営 企 業 職 員 の 状 況 1 水 道 事 業 1 職 員 給 与 費 の 状 況 ア 決 算 区 分 総 費 用 純 利 益 職 員 給 与 費 総 費 用 に 占 める ( 参 考 ) 職 員 給 与 費 比 率 22 年 度 の 総 費 用 に 占 A B B/A める 職 員 給 与

( 補 助 金 等 交 付 決 定 通 知 に 加 える 条 件 ) 第 7 条 市 長 は 交 付 規 則 第 11 条 に 規 定 するところにより 補 助 金 の 交 付 決 定 に 際 し 次 に 掲 げる 条 件 を 付 するものとする (1) 事 業 完 了 後 に 消 費 税 及 び

2 役 員 の 報 酬 等 の 支 給 状 況 役 名 法 人 の 長 理 事 理 事 ( 非 常 勤 ) 平 成 25 年 度 年 間 報 酬 等 の 総 額 就 任 退 任 の 状 況 報 酬 ( 給 与 ) 賞 与 その 他 ( 内 容 ) 就 任 退 任 16,936 10,654 4,36

(2) 職 員 の 初 任 給 の 状 況 ( 平 成 17 年 4 月 1 日 現 在 ) 初 任 給 2 年 後 の 給 料 初 任 給 2 年 後 の 給 料 一 般 行 政 職 技 能 労 務 職 大 学 卒 171,1 151,5 19,2 164,7 17,7 184,4 中 学 卒 1

スライド 1

根 本 確 根 本 確 民 主 率 運 民 主 率 運 確 施 保 障 確 施 保 障 自 治 本 旨 現 資 自 治 本 旨 現 資 挙 管 挙 管 代 表 監 査 教 育 代 表 監 査 教 育 警 視 総 監 道 府 県 警 察 本 部 市 町 村 警 視 総 監 道 府 県 警 察 本 部

退職手当とは

スライド 1

技 能 労 務 職 公 務 員 民 間 参 考 区 分 平 均 年 齢 職 員 数 平 均 給 与 月 額 平 均 給 与 月 額 平 均 給 料 月 額 (A) ( 国 ベース) 平 均 年 齢 平 均 給 与 月 額 対 応 する 民 間 の 類 似 職 種 東 庄 町 51.3 歳 18 77

m07 北見工業大学 様式①

入札公告 機動装備センター

(4) 運 転 する 学 校 職 員 が 交 通 事 故 を 起 こし 若 しくは 交 通 法 規 に 違 反 したことにより 刑 法 ( 明 治 40 年 法 律 第 45 号 ) 若 しくは 道 路 交 通 法 に 基 づく 刑 罰 を 科 せられてから1 年 を 経 過 していない 場 合 同

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(4) ラスパイレス 指 数 の 状 況 ( 各 年 4 月 1 日 現 在 ) ( 例 ) ( 例 ) 15 (H2) (H2) (H24) (H24) (H25.4.1) (H25.4.1) (H24) (H24)

平 成 34 年 4 月 1 日 から 平 成 37 年 3 月 31 日 まで 64 歳 第 2 章 労 働 契 約 ( 再 雇 用 希 望 の 申 出 ) 第 3 条 再 雇 用 職 員 として 継 続 して 雇 用 されることを 希 望 する 者 は 定 年 退 職 日 の3か 月 前 まで

公表表紙

平成25年度 独立行政法人日本学生支援機構の役職員の報酬・給与等について

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スライド 1

為 が 行 われるおそれがある 場 合 に 都 道 府 県 公 安 委 員 会 がその 指 定 暴 力 団 等 を 特 定 抗 争 指 定 暴 力 団 等 として 指 定 し その 所 属 する 指 定 暴 力 団 員 が 警 戒 区 域 内 において 暴 力 団 の 事 務 所 を 新 たに 設

2 一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 ( 平 成 23 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 号 給 の 給 料 月 額 最 高 号 給 の 給 料 月 額 1 級 2 級 3 級 4 級 5 級 ( 単 位 : ) 6 級 7 級 8 級 135, , ,900 2

●幼児教育振興法案

目 次 第 1. 土 区 画 整 理 事 業 の 名 称 等 1 (1) 土 区 画 整 理 事 業 の 名 称 1 (2) 施 行 者 の 名 称 1 第 2. 施 行 区 1 (1) 施 行 区 の 位 置 1 (2) 施 行 区 位 置 図 1 (3) 施 行 区 の 区 域 1 (4) 施

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(2) 広 島 国 際 学 院 大 学 ( 以 下 大 学 という ) (3) 広 島 国 際 学 院 大 学 自 動 車 短 期 大 学 部 ( 以 下 短 大 という ) (4) 広 島 国 際 学 院 高 等 学 校 ( 以 下 高 校 という ) ( 学 納 金 の 種 類 ) 第 3 条

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untitled

2 前 項 前 段 の 規 定 にかかわらず 年 俸 制 教 職 員 から 申 し 出 があった 場 合 においては 労 使 協 定 に 基 づき その 者 に 対 する 給 与 の 全 額 又 は 一 部 を 年 俸 制 教 職 員 が 希 望 する 金 融 機 関 等 の 本 人 名 義 の 口

2 職 員 の 初 任 給 等 の 状 況 (1) 職 員 の 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 及 び の 状 況 (26 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 一 般 行 政 職 平 均 年 齢 静 岡 県 国 類 似 団 体 2 技 能 労 務 職 区 41.8 歳 42.6 歳 43.5

2 一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 ( 平 成 22 年 4 月 1 日 現 在 ) ( 単 位 : ) 1 級 2 級 3 級 4 級 5 級 6 級 7 級 1 号 給 の 給 料 月 額 最 高 号 給 の 給 料 月 額 135,6 243,7 185,8 222,9 261,9

2 一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 ( 平 成 23 年 4 月 1 日 現 在 ) ( 単 位 : ) 1 級 2 級 3 級 4 級 5 級 6 級 7 級 8 級 1 号 給 の 給 料 月 額 135,6 161,7 222,9 261,9 289,2 32,6 366,2 41

(2) 特 別 障 害 給 付 金 国 民 年 金 に 任 意 加 入 していなかったことにより 障 害 基 礎 年 金 等 を 受 給 していない 障 がい 者 の 方 に 対 し 福 祉 的 措 置 として 給 付 金 の 支 給 を 行 う 制 度 です 支 給 対 象 者 平 成 3 年 3

全設健発第     号

七 の 二 自 然 公 園 法 ( 昭 和 三 十 二 年 法 律 第 百 六 十 一 号 ) 第 二 十 条 第 一 項 に 規 定 する 国 立 公 園 又 は 国 定 公 園 の 特 別 地 域 のうち 同 法 第 二 十 一 条 第 一 項 に 規 定 する 特 別 保 護 地 区 その 他

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J A K カ イ ロ プ ラ ク テ ィ ッ ク 協 同 組 合 規 約 ( 目 的 ) 第 1 条 組 合 員 の 権 利 義 務 等 は 定 款 に よ っ て 定 め ら れ て い る が 定 款 の 第 6 条 の 規 定 に よ り 定 款 に 記 載 さ れ な い 必 要 事 項

Microsoft Word - H24様式(那珂市版).doc

(2) 単 身 者 向 け 以 外 の 賃 貸 共 同 住 宅 等 当 該 建 物 に 対 して 新 たに 固 定 資 産 税 等 が 課 税 される 年 から 起 算 して5 年 間 とする ( 交 付 申 請 及 び 決 定 ) 第 5 条 補 助 金 の 交 付 を 受 けようとする 者 は

23年度版 総社市様式外.xls

3 職 員 の 平 均 給 与 月 額 初 任 給 等 の 状 況 (1) 職 員 の 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 及 び 平 均 給 与 月 額 の 状 況 (23 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 一 般 行 政 職 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 平 均 給 与 月 額

(5) 給 与 制 度 の 総 合 的 見 直 しの 実 施 状 況 について 概 要 の 給 与 制 度 の 総 合 的 見 直 しにおいては 俸 給 表 の 水 準 の 平 均 2の 引 き 下 げ 及 び 地 域 手 当 の 支 給 割 合 の 見 直 し 等 に 取 り 組 むとされている

2 一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 ( 平 成 22 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 号 給 の 給 料 月 額 ( 単 位 : ) 1 級 2 級 3 級 4 級 5 級 6 級 7 級 135, , , , , ,600

Microsoft PowerPoint - 経営事項審査.ppt

とする この 場 合 育 児 休 業 中 の 期 限 付 職 員 が 雇 用 契 約 を 更 新 するに 当 たり 引 き 続 き 育 児 休 業 を 希 望 する 場 合 には 更 新 された 雇 用 契 約 期 間 の 初 日 を 育 児 休 業 開 始 予 定 日 として 育 児 休 業 申

2 一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 (24 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 級 2 級 3 級 4 級 5 級 6 級 1 号 給 の 給 料 月 額 135,6 185,8 222,9 261,9 289,2 32,6 最 高 号 給 の 給 料 月 額 243,7 37,8 35

2. ど の 様 な 経 緯 で 発 覚 し た の か ま た 遡 っ た の を 昨 年 4 月 ま で と し た の は 何 故 か 明 ら か に す る こ と 回 答 3 月 17 日 に 実 施 し た ダ イ ヤ 改 正 で 静 岡 車 両 区 の 構 内 運 転 が 静 岡 運

後期高齢者医療制度

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2 一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 (24 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 号 級 の 給 料 月 額 最 高 号 級 の 給 料 月 額 1 級 ( 単 位 : ) 2 級 3 級 4 級 5 級 6 級 7 級 8 級 9 級 1 級 135,6 185,8 222,9 261,

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社会保険加入促進計画に盛込むべき内容

Taro-iryouhoken

定款  変更

3 職 員 の 初 任 給 等 の 状 況 (1) 職 員 の 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 及 び の 状 況 (24 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 一 般 行 政 職 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 ( ベース) 43.7 歳 32, , ,321

16 日本学生支援機構

災害時の賃貸住宅居住者の居住の安定確保について

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入 札 参 加 者 は 入 札 の 執 行 完 了 に 至 るまではいつでも 入 札 を 辞 退 することができ これを 理 由 として 以 降 の 指 名 等 において 不 利 益 な 取 扱 いを 受 けることはない 12 入 札 保 証 金 免 除 13 契 約 保 証 金 免 除 14 入

第 8 条 本 協 議 会 における 研 修 は 以 下 のとおりとする (1) 座 学 研 修 農 業 講 座 や 先 進 農 家 視 察 など 農 業 経 営 基 礎 講 座 やその 他 担 い 手 のための 研 修 会 等 への 参 加 など 年 24 回 程 度 とする (2) 実 務 研

平 成 2 1 年 度 か ら 新 留 萌 市 財 政 健 全 化 計 画 に 基 づ く 給 与 抑 制 措 置 を 実 施 し て い る が 平 成 2 4 年 度 及 び 平 成 2 6 年 度 に 見 直 し を 行 っ た こ と に よ り 平 成 2 6 年 4 月 1 日 の ラ

人事行政の運営状況の報告について

ていることから それに 先 行 する 形 で 下 請 業 者 についても 対 策 を 講 じることとしまし た 本 県 としましては それまでの 間 に 未 加 入 の 建 設 業 者 に 加 入 していただきますよう 28 年 4 月 から 実 施 することとしました 問 6 公 共 工 事 の

Taro-29職員退職手当支給規程

Microsoft Word 第1章 定款.doc

要 な 指 示 をさせることができる ( 検 査 ) 第 8 条 甲 は 乙 の 業 務 にかかる 契 約 履 行 状 況 について 作 業 完 了 後 10 日 以 内 に 検 査 を 行 うものとする ( 発 生 した 著 作 権 等 の 帰 属 ) 第 9 条 業 務 によって 甲 が 乙 に

- 1 - 総 控 負 傷 疾 病 療 養 産 産 女 性 責 帰 べ 由 試 ~ 8 契 約 契 約 完 了 ほ 契 約 超 締 結 専 門 的 知 識 技 術 験 専 門 的 知 識 高 大 臣 専 門 的 知 識 高 専 門 的 知 識 締 結 契 約 満 歳 締 結 契 約 契 約 係 始

Microsoft Word 役員選挙規程.doc

Microsoft Word - 目次.doc

平成17年度高知県県産材利用推進事業費補助金交付要綱

公 的 年 金 制 度 について 制 度 の 持 続 可 能 性 を 高 め 将 来 の 世 代 の 給 付 水 準 の 確 保 等 を 図 るため 持 続 可 能 な 社 会 保 障 制 度 の 確 立 を 図 るための 改 革 の 推 進 に 関 する 法 律 に 基 づく 社 会 経 済 情

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する ( 評 定 の 時 期 ) 第 条 成 績 評 定 の 時 期 は 第 3 次 評 定 者 にあっては 完 成 検 査 及 び 部 分 引 渡 しに 伴 う 検 査 の 時 とし 第 次 評 定 者 及 び 第 次 評 定 者 にあっては 工 事 の 完 成 の 時 とする ( 成 績 評 定

別 紙 第 号 高 知 県 立 学 校 授 業 料 等 徴 収 条 例 の 一 部 を 改 正 する 条 例 議 案 高 知 県 立 学 校 授 業 料 等 徴 収 条 例 の 一 部 を 改 正 する 条 例 を 次 のように 定 める 平 成 26 年 2 月 日 提 出 高 知 県 知 事 尾

職 員 の 初 任 給 等 の 状 況 () 職 員 の 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 及 び の 状 況 ( 年 4 月 日 現 在 ) 一 般 行 政 職 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 ( ベース) 44. 歳 6,4, 歳,44 4,7 7,6 4. 歳 7,

は 共 有 名 義 )で 所 有 権 保 存 登 記 又 は 所 有 権 移 転 登 記 を された も の で あ る こと (3) 居 室 便 所 台 所 及 び 風 呂 を 備 え 居 住 の ために 使 用 す る 部 分 の 延 べ 床 面 積 が 5 0 平 方 メ ー ト ル 以 上

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(5) 給 与 改 定 の 状 況 1 月 例 給 平 成 23 年 度 ( ).21 ( 注 ) 民 間 給 与 公 務 員 給 与 は 事 委 員 会 勧 告 において 公 民 の4 月 分 の 給 与 額 をラス パイレス 比 較 した 平 均 給 与 月 額 である は 事 委 員 会 を

( 新 ) 医 療 提 供 の 機 能 分 化 に 向 けたICT 医 療 連 携 導 入 支 援 事 業 費 事 業 の 目 的 医 療 政 策 課 予 算 額 58,011 千 円 医 療 分 野 において あじさいネットを 活 用 したICT したICT 導 入 により により 医 療 機 能

(4) ラスパイレス 指 数 の 状 況 (H20.4.1) 96.7 (H25.4.1) (H25.7.1) (H25.4.1), (H25.4.1) 参 考 値 98.3 (H25.7.1) (H20.4.1) (H25.4

― 目次 ―

定款

課 税 ベ ー ス の 拡 大 等 : - 租 税 特 別 措 置 の 見 直 し ( 後 掲 ) - 減 価 償 却 の 見 直 し ( 建 物 附 属 設 備 構 築 物 の 償 却 方 法 を 定 額 法 に 一 本 化 ) - 欠 損 金 繰 越 控 除 の 更 な る 見 直 し ( 大

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施 設 利 用 に 伴 う 設 営 物 物 販 の 確 認 業 務 災 害 時 の 対 応 急 病 等 への 対 応 遺 失 物 拾 得 物 の 対 応 事 件 事 故 への 対 応 ( 2 ) 公 園 の 使 用 料 の 徴 収 に 関 す る 業 務 一 般 利 用 者 予 約 等 対 応 業

該 介 護 休 業 が 終 了 する 日 までに, 当 該 介 護 休 業 に 係 る 対 象 家 族 が 死 亡 したとき 又 は 離 婚, 婚 姻 の 取 消, 離 縁 等 により 当 該 介 護 休 業 に 係 る 対 象 家 族 との 親 族 関 係 が 消 滅 した とき (3) 配 偶

2 一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 ( 平 成 24 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 級 2 級 3 級 4 級 5 級 ( 単 位 : ) 6 級 7 級 8 級 1 号 給 の 給 料 月 額 135,6 185,8 222,9 261,9 289,2 32,6 366,2 41

別記

空 き 家 を 売 却 した 場 合 の,000 万 円 控 除 特 例 の 創 設 被 相 続 人 が 住 んでいた 家 屋 及 びその 敷 地 を 相 続 があった 日 から 年 を 経 過 する 年 の 月 日 までに 耐 震 工 事 をしてから あるいは 家 を 除 却 し てから 売 却

目 次 市 民 税 の 減 免 に つ い て 1 減 免 の 一 般 的 な 留 意 事 項 2 減 免 の 範 囲 お よ び 減 免 割 合 3 1 生 活 保 護 法 の 規 定 に よ る 保 護 を 受 け る 者 3 2 当 該 年 に お い て 所 得 が 皆 無 と な っ た

Transcription:

寄 稿 ドイツにおける 物 乞 いの 習 慣 福 岡 女 子 大 学 Sven Holst ドイツの 街 には 物 乞 いをする 人 が 多 い 日 本 と 比 較 した 場 合 それが 目 立 つ 昔 に 比 べて 物 乞 い をする 人 が 多 くなったと ドイツ 人 も 感 じている その 中 には 社 会 福 祉 ネットの 目 から 落 ちこぼれた ホームレスや 束 縛 を 嫌 う 若 者 麻 薬 中 毒 患 者 もい る その 他 に 東 ヨーロッパからドイツの 街 に 送 り 込 まれた 物 乞 い 集 団 もいる ドイツにも 野 宿 す る 人 はいる(ミュンヘン:200 人 夏 600 人 )が 日 本 のような 青 いシートの 集 落 はない 国 によ って 貧 困 者 も 異 なっている 中 世 では 物 乞 いは 信 者 の 罪 を 軽 くする 布 施 の 対 象 として 歓 迎 された キリスト 教 会 は 布 施 をす ることを 強 く 勧 めた しかし 働 くことができる 健 康 な 人 は 物 乞 いをしてはならなかった 中 世 末 期 には 経 済 変 化 によって 貧 困 が 深 刻 化 したり 布 施 が 多 くなったりしたので 物 乞 いが 急 速 に 増 加 した その 中 には 病 気 や 障 害 を 偽 る 人 も 多 く 含 ま れた 都 市 当 局 はその 偽 物 乞 いと 他 所 から 来 た 物 乞 いを 体 罰 や 入 牢 で 都 市 から 追 い 払 うように 努 めた 宗 教 改 革 が 一 つの 分 岐 点 であった 新 教 は 信 仰 を 宗 教 活 動 の 中 心 に 置 いた そのため 布 施 の 価 値 が 下 がった 30 年 戦 争 で 荒 れ 果 てたドイツでは 物 乞 いをする 放 浪 者 が 多 くなり 経 済 が 低 迷 した その 結 果 布 施 が 少 なくなったので このような 放 浪 者 集 団 は 市 民 の 恐 怖 の 的 になり 治 安 の 問 題 になった 各 当 局 はその 問 題 に 厳 しい 措 置 で 対 応 することを 試 みた 市 民 意 識 が 芽 生 えた 結 果 仕 事 は 人 間 の 使 命 であり 仕 事 の 成 功 は 信 仰 深 い 生 活 への 神 様 の 恵 みと 見 なされた それが M.ウ ェーバーの 俗 世 におけるプロテスタントの 倫 理 で あった その 思 想 に 照 らして 考 えると 仕 事 を しない 物 乞 いの 生 活 は 人 間 の 使 命 に 反 するもの で 貧 困 はその 非 人 道 的 な 生 活 に 対 する 罰 とな る その 結 果 放 浪 者 は 強 制 労 働 収 容 所 に 入 れら れ 仕 事 をするように 教 育 された 啓 蒙 思 想 により 窮 地 に 追 い 込 まれた 親 戚 のない 人 々は 援 助 を 受 け る 権 利 を 得 た しかし 責 任 を 有 する 自 治 体 が 広 い 権 限 を 持 つ 後 見 人 を 決 めるのであるが この 後 見 人 によって 強 制 労 働 収 容 所 に 送 り 込 まれた 困 窮 者 が 仕 事 の 見 通 しがないかぎり 釈 放 されないと いう 場 合 もあった 19 世 紀 半 ばから 物 乞 いと 放 浪 はいうに 及 ばず 物 乞 いの 黙 認 さえも 刑 罰 の 対 象 となった 1970 年 代 の 初 めにはその 法 律 は 廃 止 された もちろん 福 祉 目 的 のための 募 金 の 扱 い は 別 であった 孤 児 の 保 護 孤 児 の 教 育 後 には 動 物 の 保 護 も 市 民 社 会 特 に 婦 人 たちの 重 要 な 役 割 になった 民 衆 の 慣 習 には 様 々な 物 乞 い 習 慣 があった 二 つの 例 を 紹 介 する カーニバルの 前 の 3 日 間 子 供 たちは 扮 装 して 町 の 家 々を 廻 り 歌 を 歌 いながら 施 し( 菓 子 )を ねだる この 慣 習 は 広 く 存 在 したが 物 乞 いに 対 する 偏 見 により その 慣 習 は 戦 後 大 幅 に 消 滅 した 親 は 自 分 の 子 供 が 物 乞 いをすることを 嫌 った 地 域 住 民 の 連 帯 感 がある 程 度 残 っているドイツ 西 南 部 の 田 舎 には その 習 慣 はいまだに 存 在 する 小 学 校 の 時 私 は Schwarzwald の 村 の 新 開 発 住 宅 街 に 住 んでいた カーニバルの 最 後 の 二 日 間 には 扮 装 をし 近 所 の 友 達 と 町 内 を 廻 って 家 々のチ ャイムを 鳴 らした 戸 が 開 かれたら 物 乞 い 歌 を 歌 って 菓 子 をもらった 英 米 のハロウィーンに 似

ているが Trick or treat (いたずらか 施 しか) のように 脅 すのではなく gizzig, gizzig (けち だ けちだ)と 叫 ぶ 中 学 校 入 学 の 頃 私 の 家 族 は 隣 のより 大 きな 町 に 引 っ 越 したが そこにはそ のような 習 慣 はなく 年 齢 的 にも 私 は 参 加 する 年 齢 を 越 えていた Schwaben のカーニバルが 盛 ん なある 村 の 研 究 報 告 によると その 村 では 今 でも 子 供 が 家 々を 廻 っており ある 時 町 内 の 道 路 を 走 っていた 車 を 止 めて 金 を 求 めたといわれている しかし 大 人 たちがこの 行 過 ぎた 行 動 をすぐに 阻 止 したそうである この 習 慣 はしかし 他 の 形 においても 残 っている カーニバルの 行 列 の 時 観 客 は 物 乞 い 歌 を 歌 って 行 列 の 参 加 者 から 少 々の 菓 子 をもらう 小 学 生 だ けではなく 青 少 年 までもがそれをするのである 行 列 の 参 加 者 と 観 客 の 一 つの 交 流 の 形 である 一 方 ライン 地 域 では カーニバル 行 列 は 大 掛 かりに なった 観 客 との 触 れ 合 いは 少 なくなったが そ の 代 りに 山 車 から 両 手 一 杯 の 菓 子 を 何 トンも 投 げるようになった 観 客 はただ Kamelle (キャ ンデー)と 叫 ぶだけである 勿 論 ライン 地 域 の 田 舎 町 のカーニバル 行 列 では 観 客 が 山 車 の 上 の 知 り 合 いの 名 前 を 叫 んで 自 分 の 方 向 に 投 げるよ うに 求 めることもある 投 げられる 菓 子 も 時 代 と ともに 高 級 化 した 今 安 物 の 菓 子 が 投 げられたら 子 供 でさえも 拾 わない 行 列 の 後 でごみとして 回 収 され 捨 てられてしまうだけである もう 一 つの 習 慣 は Dreikönigssingen ( 東 方 三 賢 者 廻 り)である 三 賢 者 民 間 伝 承 では 三 人 の 王 様 が 不 思 議 な 星 に 導 かれ イエスが 生 ま れた 牛 小 屋 を 訪 ねてきて 誕 生 祝 いの 品 を 献 上 し た 新 約 聖 書 にはほとんど 書 かれていない 存 在 であったが 民 間 伝 承 で 人 気 を 得 た 三 賢 者 は 青 中 老 年 の 代 表 当 時 知 られていた 三 大 陸 の 代 表 とみられた 名 前 は Caspar( 青 年 アフリカ) Melchior( 中 年 ヨーロッパ) Baltasar(アジア 老 年 )と 決 められた 旅 行 者 の 守 り 神 にもなった ドイツのバルバロッサ 帝 の 首 相 であったケルンの 大 司 教 が 彼 らの 遺 骨 をミラノからケルンに 持 ち 帰 った 多 くの 巡 礼 者 の 口 を 経 て その 名 はドイ ツ 中 に 響 き 渡 った 教 会 でその 話 が 演 じられ そ れが 徐 々に 拡 大 し 教 会 からはみ 出 し 華 やかな 行 列 にもなった その 中 で Kaspar は 道 化 役 にな った 今 でもドイツの 人 形 劇 は その 主 役 の 名 に より Kasperletheater と 呼 ばれている 宗 教 改 革 とともにその 習 慣 は 次 第 に 途 絶 えてきたが 地 域 ごとにはまだ 様 々な 習 慣 が 残 った 例 えばケーキ の 中 の 豆 一 粒 で 一 日 の 王 様 (Bohnenkönig) が 決 められたり 将 来 を 占 ったりする 三 賢 者 廻 り は 特 にアルプスの 地 域 に 残 った 16 世 紀 半 ばには それは 教 会 所 属 のラテン 語 学 校 の 生 徒 の 特 権 であ った 規 律 を 見 守 る 教 員 とともに 彼 らは 都 市 を 廻 って 教 育 費 を 集 めた それを 真 似 て マイスタ ーの 支 配 下 にあった 中 間 の 職 人 (Gesellen) が 無 許 可 で 各 家 の 前 で 歌 を 歌 った それを 免 れたい 人 は 金 などを 払 った 30 年 戦 争 後 の 17 世 紀 のドイツ やスカンディナビア イングランドでは 放 浪 者 ( 無 職 の 職 人 や 軍 人 )がこの 習 慣 を 利 用 し 布 施 を 拒 否 する 人 を 脅 した 物 乞 い 行 動 を 弾 劾 する 流 れに より 当 局 はこの 習 慣 を 阻 止 しようと 努 めた そ の 結 果 この 習 慣 は 小 規 模 に 南 ドイツやアルプス の 村 々だけに 残 った 転 機 が 第 二 次 世 界 戦 争 の 後 に 訪 れた 1947 年 に 戦 後 オーストリアでは 社 会 の 再 建 のため にカトリック 若 者 集 団 (Jungschar) が 設 立 され た(2005 年 に そ れ は 98 % の 聖 堂 区 に 存 在 し 130,000 人 の 子 供 が 参 加 している) 1955 年 に カトリックの 宣 教 促 進 組 織 が 宣 教 師 たちの 乗 り 物 調 達 のため 三 賢 者 廻 りの 習 慣 を 利 用 して 募 金 をしてくれないかと カトリック 若 者 集 団 に 問 い 合 わせた それは 新 しい 三 賢 者 廻 りのスタートで あった 1959 年 には その 運 動 はドイツに 及 び 100 聖 堂 区 で 発 展 途 上 国 のための 募 金 を 目 的 とし た 三 賢 者 廻 りが 始 まった 1961 年 にカトリック 信 者 連 合 がその 運 動 に 賛 同 し 共 催 でドイツの 90 %の 聖 堂 区 でこれを 開 催 し 50 万 人 の 子 供 が 三 賢 者 として 家 々を 廻 り 毎 年 3,000 万 DMを 発 展 途 上 国 の 子 供 のために 集 めた(1990 年 :15,000 万 2

DM 2004 年 :34,300 万 DM) これは 地 域 的 にも 拡 大 し プロテスタント 教 の 地 域 にも 広 がっ ているところである 今 この 活 動 は 具 体 的 にどのように 行 われてい るであろうか 準 備 集 会 と 礼 拝 で 子 供 たちは 対 象 の 発 展 途 上 国 の 状 況 歴 史 文 化 を 学 んでい る 目 的 は 子 供 たちが 他 国 の 子 供 たちを 助 けるこ とだけではなく 子 供 たちの 異 文 化 理 解 をも 目 指 している 集 めた 金 の 使 い 道 援 助 企 画 ( 教 育 援 助 女 子 教 育 援 助 教 員 保 護 士 の 教 育 職 業 訓 練 障 害 児 の 施 設 孤 児 施 設 水 道 補 強 食 生 活 改 良 親 の 識 字 教 育 )についても 学 んでいる 三 賢 者 廻 りのために 王 冠 を 作 ったり 歌 を 練 習 した り 衣 装 を 決 める 時 間 もある ミサで 賢 者 を 演 じ る 子 供 チョーク 星 が 祝 福 された 後 三 賢 者 が 派 遣 される 廻 る 日 には 15 時 ぐらい ( 学 校 と 宿 題 の 後 ) に 司 祭 館 に 集 合 し 着 替 え 付 き 添 いの 大 人 と 一 緒 に 与 えられた 地 区 に 移 動 し カトリッ クの 家 族 や 訪 問 を 希 望 するプロテスタントの 家 を 廻 る チャイムを 鳴 らし ドアが 開 けられたら 歌 を 歌 い 詩 を 誦 して チョークで 祝 福 の 文 字 20+C+M+B+06 を 戸 の 枠 に 書 き 発 展 途 上 国 の ための 寄 付 と 三 賢 者 のための 菓 子 を 受 け 取 り 最 後 に 歌 を 歌 う 祝 福 の 文 字 は 当 年 と キリスト よ この 家 を 守 ってください という 意 味 であるが 民 間 では 三 賢 者 の 名 前 の 頭 文 字 であるとも 考 えら れている その 文 字 は 翌 年 まで 残 る 19 時 ぐらい 皆 は 司 祭 館 に 戻 り 母 親 たちが 作 った 晩 御 飯 を 一 緒 に 食 べる 三 賢 者 廻 りは 実 際 には 二 三 日 かかる 家 の 住 人 が 留 守 の 場 合 には 翌 日 もう 一 度 訪 れる か あるいは 祝 福 の 文 字 を 書 き 寄 付 のための 振 込 用 紙 をポストに 入 れておく 最 後 にこの 行 事 はミサで 終 わる 宗 教 的 な 意 義 と 福 祉 的 な 意 義 を 上 手 に 併 せた 行 事 である 民 衆 習 慣 は 途 絶 えたり わずかな 地 域 にしか 残 らなかったり 形 を 変 えたり 凄 まじい 復 活 を 成 し 遂 げたりする 後 者 の 例 が 三 賢 者 廻 りであり 今 なお 拡 大 し 続 けている 一 つの 行 事 である 近 代 化 は 民 衆 行 事 にとって 断 絶 の 危 機 となるだけでは なく 変 貌 による 復 活 のチャンスともなるのであ る 3

Bericht aus Tübingen Adelheid Iguchi Vielleicht erinnern sich einige Leser oder Leserinnen noch an mich. Bis 1996 war ich regelmäßiges Mitglied der Versammlungen der Japanisch-Deutschen Gesellschaft Westjapan, auch danach war ich manchmal auf den Versammlungen, wenn ich gerade zu Besuch bei meiner Familie in Fukuoka war. Seit 2006 bin ich Auslandsmitglied der Gesellschaft und ich freue mich, auch hier nach Tübingen den Jahresbericht zu bekommen. Nun möchte ich Ihnen ein wenig über meine Arbeit berichten. Im April 1996 war mein Erziehungsurlaub zu Ende, insgesamt 12 Jahre. Ich musste wieder an meine Arbeitsstelle an der Universitätsbibliothek Tübingen zurückkehren. Doch nun zuerst einige Informationen über Land und Leute. Tübingen ist eine kleine Universitätsstadt in Baden-Württemberg. Sie hat 85 000 Einwohner und 24 000 Studenten aus ganz Deutschland und vielen Ländern der ganzen Welt. Die Geschichte der Universität ist alt. Sie wurde 1477 von Graf Eberhard gegründet. Berühmtheiten, die dort studiert haben, sind unter anderem Johannes Kepler (Astronom), der Dichter Friedrich Hölderlin und die Philosophen Hegel und Schelling. In der Urkunden der Universität Tübingen wird schon 1522 eine Büchersammlung erwähnt, der Anfang der heutigen Bibliothek, in der ich arbeite. Die Universitätsbibliothek besteht heute aus 4 Gebäuden, dem unter Denkmalschutz stehenden Bonatzbau, erbaut 1912, dem Hauptgebäude von 1963 und dem Ammerbau von 2002, der seinen Namen von dem kleinen Fluss hat, über den eine Brücke führt, die dieses Gebäude mit dem Hauptgebäude verbindet. Die Alte Waschhalle, seit 2005 ein weiteres Gebäude der Bibliothek, war früher die Waschküche für die Universität und die Kliniken. Die Universitätsbibliothek besitzt zzt. 3,5 Millionen Medieneinheiten, das sind Handschriften, Inkunabeln, Bücher, Zeitschriften, Audiovisuelle Medien usw. Jeder Einwohner des Landes Baden- Württemberg kann einen Bibliotheksausweis bekommen. Was ist nun meine Arbeit? Als Leiterin des Allgemeinen Lesesaals und Zeitschriftenlesesaals trage ich für die Gebäude Ammerbau und Alte Waschhalle die Verantwortung. Ich betreue 18 Mitarbeiterinnen und Mitarbeiter und bin für die Dienstplanung und Arbeitsorganisation verantwortlich. In den beiden Gebäuden gibt es ca. 400 Arbeitsplätze für Studenten, 35 Einzel- und Gruppenarbeitskabinen, Internet-Pools mit 40 PCs. Die Besucher können dort auch mit ihrem eigenen Laptop (Notebook) mit Kabel oder WLAN ins Internet. Die Bibliothek ist zzt. von Montag bis Freitag von 9.00 bis 22.00 Uhr geöffnet, in diesem Jahr soll die Öffnungszeit bis 24 Uhr erweitert werden. In Ammerbau und Alter Waschhalle stehen insgesamt 700 000 Bände, von denen 650 000 nach Hause ausgeliehen werden können. Wir beraten 4

und helfen den Studenten und anderen Interessenten bei der Literatursuche für das Studium, die Doktorarbeit und andere Projekte. Die Arbeit ist sehr abwechslungsreich und interessant. Sollten Sie bei einer Reise durch Deutschland nach Tübingen kommen, würde ich mich freuen, Sie begrüßen zu dürfen. Ich bin per E-Mail unter den folgenden Adressen zu erreichen. adelheid.iguchi@ ub.uni-tuebingen.de oder allg-lesesaal@ ub.uni-tuebingen.de テュービンゲンからの 報 告 アーデルハイト 井 口 もしかしたら 読 者 の 皆 さまの 中 の 何 人 かは まだわ たしのことを 覚 えておられるかも 知 れません 1996 年 までわたしは 西 日 本 日 独 協 会 の 例 会 の 常 連 的 会 員 でした その 後 も 丁 度 それが 福 岡 の 家 族 のもとに 滞 在 しているときに 当 たれば 時 々は 例 会 に 出 席 してい ました 2006 年 からわたしは 日 独 協 会 の 在 外 会 員 に していただき ここテュービンゲンに 年 報 を 送 って いただいており 大 変 嬉 しく 思 っております さてここで 少 しばかりわたしの 仕 事 についてお 話 ししようと 思 います 1996 年 の4 月 通 算 して12 年 に 亘 るわたしの 研 修 休 暇 が 終 わり わたしはまたテュー ビンゲン 大 学 図 書 館 の 職 場 に 復 帰 しなければなりま せんでした しかし 先 ずは テュービンゲンの 土 地 と 人 々につい て 少 しばかりお 話 しします テュービンゲンはバーデ ン ヴュルテムベルク 州 にある 小 さな 大 学 都 市 です 8 万 5 千 人 の 住 民 と ドイツ 全 土 および 全 世 界 の 多 く の 国 々から 来 ている2 万 4 千 人 の 大 学 生 が 住 んでいま す 大 学 の 歴 史 は 古 く 1477 年 にエーバーハルト 伯 爵 によって 創 立 されました この 大 学 で 学 んだ 著 名 人 として 特 に 天 文 学 者 のヨハネス ケプラー 詩 人 フ リードリヒ ヘルダーリーン 哲 学 者 のヘーゲルおよ び シェリングの 名 前 を 挙 げることができます テュービンゲン 大 学 の 史 料 には 1522 年 にすでに ある 蔵 書 についての 言 及 があります これがわたしの 働 いている 今 日 の 図 書 館 の 始 まりです この 大 学 図 書 館 は 現 在 四 つの 建 物 から 成 っています 1912 年 に 建 てられ 文 化 財 としての 保 護 を 受 けている ボーナ ツ 館 ( 訳 注 : 建 築 家 パウル ボーナツの 名 に 因 む) 1963 年 に 建 てられた 本 館 本 館 と 建 物 を 繋 ぐ 橋 がその 上 に 架 かっている 小 さな 川 から 名 付 けられた 2002 年 建 設 の アマー 館 それに 以 前 は 大 学 お よび 付 属 病 院 のための 洗 濯 用 施 設 であったものが 2005 年 からは 第 4の 図 書 館 棟 となった 旧 洗 濯 棟 がそれです 本 大 学 図 書 館 が 所 蔵 するメディアの 数 は 現 在 350 万 単 位 で その 内 訳 は 写 本 揺 籃 期 本 ( 訳 注 :ヨー ロッパの1500 年 以 前 の 活 版 印 刷 物 ) 書 籍 雑 誌 視 聴 覚 メディア 等 々です バーデン ヴュルテムベルク 州 の 住 民 は 誰 でも ここの 図 書 館 の 利 用 証 を 貰 うこと ができます さて わたしの 仕 事 の 内 容 ですが 一 般 閲 覧 室 お よび 雑 誌 閲 覧 室 の 室 長 として わたしは アマー 館 と 旧 洗 濯 棟 の 責 任 者 です わたしのもとで18 名 の 男 女 館 員 が 働 いています わたしは 彼 らの 勤 務 計 画 と 仕 事 の 企 画 運 営 とに 責 任 を 負 っています 上 記 二 つの 建 物 には 学 生 のための 席 が 約 400 席 個 室 とグループ 学 習 用 小 部 屋 およびパソコン40 台 を 備 えたインターネットプールなどが35 室 あります 来 館 者 はこのインターネットプールに 自 分 のラップトップ コンピューター(ノートパソコン)を 持 ち 込 み ケー ブルまたは 無 線 ランでインターネットに 接 続 すること ができます 当 図 書 館 は 現 在 のところ 月 曜 から 金 曜 まで 朝 9 時 から 夜 の22 時 まで 開 いていますが 今 年 は 開 館 時 間 が 夜 の24 時 まで 延 長 される 予 定 です ア マー 館 と 旧 洗 濯 棟 には 総 計 70 万 部 の 本 があります 5

が その 中 の65 万 部 は 借 り 出 して 自 宅 に 持 ち 帰 ること ができます わたしたちは 大 学 生 やその 他 の 利 用 者 た ちが 研 究 や 博 士 論 文 執 筆 その 他 のプロジェクトの ための 資 料 探 しをするのを 助 言 したり 手 伝 ったりし ます この 仕 事 は 非 常 に 多 方 面 に 亘 り 興 味 深 いもの です 皆 さまがドイツ 旅 行 をされてテュービンゲンに 来 ら れる 折 には わたしに 声 を 掛 けてくだされば 嬉 しく 思 います わたしのメイルアドレスは 次 のとおりです adelheid.iguchi@ub.uni-tuebingen.de または allg-lesesaal@ub.uni-tuebingen.de ( 翻 訳 : 髙 田 ) 6

琉 球 のハレルヤコーラス 日 本 旅 行 作 家 協 会 会 員 斎 藤 裕 三 ヘンデルの 曲? 学 生 の 頃 メサイア を 歌 った ほかに 水 上 の 音 楽 王 宮 の 花 火 の 音 楽 ユダス マカベウス の 勇 者 は 帰 る を 知 ってる 付 け 加 えるなら Largo で 有 名 な 歌 劇 セルセ の Ombra mai fu( 樹 木 の 陰 で) と 数 年 前 映 画 カストラート の 主 題 歌 となった 歌 劇 リナルド の 中 のアリア Lascia ch io pianga ( 苛 酷 な 運 命 に 涙 を 流 し)の 2 つか 国 王 が ハレルヤ に 感 激 し 聴 衆 と 一 緒 に 起 立 したことも 英 国 の エンシェント 室 内 管 弦 楽 団 の 指 揮 者 で ヘンデル の 著 者 クリストファー ホグウッドも 日 本 語 版 への 序 文 にこう 記 している 北 九 州 公 演 の 慰 労 会 の 席 で 一 女 性 が 質 問 した 彼 はオラトリオ 以 外 にも 曲 を 作 ったのですか ホグウッドは 多 くの 人 々にとって ヘンデル は 相 変 わらず 一 作 だけの 作 曲 家 なのだ と 嘆 く ヘンデルが 作 曲 したオペラは 42 曲 オラトリオ も 31 曲 その 他 多 数 の 声 楽 曲 器 楽 曲 を 作 った HWV(ヘンデル 作 品 番 号 )も 600 を 超 える 往 年 の 大 指 揮 者 トマス ビーチャム 卿 も 音 楽 構 成 の 素 晴 らしさ 気 品 と 優 しさに 満 ちた 旋 律 優 れた 作 曲 技 法 と 無 限 の 多 様 性 に 富 む と ヘンデ ルを 絶 賛 する まさに 知 られざる 巨 匠 である さて 数 年 前 NHKテレビで ちゅらさん ( 題 名 )という 天 真 爛 漫 の 沖 縄 の 女 の 子 えりが 大 活 躍 する 番 組 が 放 映 され とても 好 評 だった 劇 の 中 で えりが 東 京 で 間 借 りした 一 風 荘 の 女 主 人 が 好 意 を 寄 せる 元 医 者 の 間 借 り 人 と 別 れ るシーンがあった この 悲 しい 場 面 に なんと 前 記 リナルド のアリアが 使 われた 再 会 の 時 もこの 曲 だった 騎 士 リナルドの 恋 人 アルミレーナが 彼 の 留 守 中 悪 魔 に 拐 かされ 幽 閉 された 身 の 上 を 嘆 く 悲 しいアリアである 気 品 があり とても 美 しい 旋 律 で ニューヨー クの 多 発 テロ 事 件 で 犠 牲 者 を 悼 むテレビのシー ンでも 使 われた また その 直 後 私 が 訪 れたヘ ンデルの 生 まれ 故 郷 ハレの 記 念 館 ヘンデルハウ ス でも このアリアが 静 かに 流 れていた ちゅらさん の 最 終 回 カチャーシー ( 沖 縄 の 賑 やかな 踊 り)の 場 面 でも このアリアが 使 われ た 陽 気 なカチャーシーと 悲 しみのアリア 本 来 相 反 する 感 性 と 感 性 の 不 思 議 な 出 会 い 目 頭 が 熱 くなった 音 楽 担 当 者 の 感 性 に 脱 帽! ヘンデルと 沖 縄 はとても 相 性 がいい 手 元 に 沖 縄 の 歌 決 定 版 というCDがある 1 曲 目 がアル ゼンチンでも 流 行 った 宮 沢 和 史 作 曲 の 島 唄 鷹 揚 さがヘンデルのメロディーを 思 わせる ゲオルク フリードリ ヒ ヘンデル(ドイツ 名 1685 ~ 1759)は ドイ ツのハレ( 塩 の 意 )に 生 ま れた 幼 少 の 頃 から 並 は ずれた 音 楽 の 天 分 を 持 つ ヘンデルは 父 が 仕 える ハレの 広 場 に 立 つヘンデル ア ド ル フ 一 世 の 薦 め で ハレの 聖 母 教 会 のオルガニスト ツァハウに 入 門 する しかし 時 代 の 流 れに 敏 感 なヘンデルは 宮 廷 や 教 会 の 音 楽 家 では 飽 きたりず オペラに 憧 れ 1703 年 ハンブルクに 出 て 2 年 後 には 初 のオペ ラ アルミーナ を 作 曲 する しかし ハンブルクで 知 り 合 ったメディチ 家 の フェルディナンドの 薦 めで 1706 年 にはイタリア 7

に 向 かう イタリアでは フィレンツェ ヴェネツィ ア ナポリ ローマなどに 滞 在 し オットボーニ 枢 機 卿 などの 後 援 者 や スカルラッティ 父 子 コ レッリなど 当 代 イタリアの 大 音 楽 家 と 交 流 だがヘンデルは 1710 年 ハノーファーに 帰 り 宮 廷 楽 長 となる 選 帝 候 が 後 の 英 国 のジョージ 一 世 その 子 がジョージ 二 世 である しかし 翌 年 には 私 暇 を 取 りロンドンに 渡 る その 後 数 回 の 旅 行 を 除 き 1714 年 からロンドンに 住 みついた ヘンデルは 英 国 王 室 と 緊 密 な 関 係 を 保 ち メ サイア など 幾 多 の 名 曲 を 作 った そして 結 局 ジョージ フリデリック ヘンデルとして 1727 年 42 歳 で 英 国 に 帰 化 し 最 後 は 希 望 どおりウェス トミンスター 寺 院 の 墓 地 に 葬 られた 英 国 人 になったヘンデルだが 音 楽 は 生 涯 イタ リアに 執 着 した 彼 の 作 曲 技 法 の 基 本 はイタリア 音 楽 オペラだった イタリア 語 のオペラから 英 語 のオラトリオに 移 ったが それは 試 行 錯 誤 の 結 果 だった ヘンデルは イタリアで 見 た 明 るい 太 陽 と 青 い 海 を 忘 れることはなかった ヘンデルと 沖 縄 は 相 性 がいい キーワードはきっと 明 るい 太 陽 と 青 い 海 そして 暖 かい 人 情 だろう 1994 年 に ラジオ 沖 縄 開 局 40 周 年 記 念 とし て 沖 縄 の 歌 100 が 選 ばれた 上 位 3 曲 は 1 安 里 屋 ゆんた 2 汗 水 節 3えんどうの 花 作 曲 者 は 3 曲 とも 宮 良 長 包 (みやらちょうほう) 宮 良 長 包 (1883 ~ 1939)は 沖 縄 石 垣 島 に 生 まれた 本 島 の 沖 縄 県 師 範 学 校 を1907 年 に 卒 業 生 涯 を 教 育 者 ( 音 楽 )として 送 った 長 包 が 在 職 し た 時 代 は 沖 縄 の 皇 民 化 教 育 のため 方 言 や 民 謡 が 蔑 まれ 学 校 で 生 徒 が 方 言 を 使 うと 罰 を 受 けた 長 包 は 本 土 の 方 針 に 従 いながらも 故 郷 の 文 化 の 基 層 にある 民 謡 を 大 切 にした 彼 が 作 った 声 楽 曲 器 楽 曲 約 110 が 戦 火 を 潜 り 残 った その 1 つが 琉 球 木 遣 歌 (1930 年 ) 作 詞 者 は 国 文 学 者 の 新 屋 敷 幸 繁 だが これには 北 部 の 国 頭 村 の 民 謡 くんじゃんさばくい ( 国 頭 捌 理 )と いう 元 唄 があった さばくい は 監 督 の 意 首 里 王 城 正 殿 は 昔 40 年 ~ 70 年 ごとに 改 築 され その 用 材 を 北 部 の 山 原 (ヤンバル)から 男 衆 が 首 里 までリレー 式 に 引 いてきた その 際 声 を 揃 えて 歌 ったのがこの 唄 で その 中 に ハイユエー ハー ラーラー というお 囃 子 があり ハイユエ 節 とも 呼 ばれた 幸 繁 は このお 囃 子 を 残 した お 囃 子 が ハーレールーヤー と 聞 こえる 長 包 作 の 新 曲 ( 合 唱 曲 ) 全 体 が ハレルヤコーラ ス のパロディーと 言 えるくらいそっくり そのことは 長 包 が 私 淑 した 山 田 耕 筰 も 指 摘 し ている そこでこの 曲 は 琉 球 のハレルヤコーラス と 呼 ばれた ヘンデルやバッハも 模 倣 借 用 再 使 用 などごくふつうのことだった それはともかく 長 包 はヘンデ ルの メサイア を 知 っていて 神 を 称 えよ (ハレルヤ)という 喜 び の 叫 びを めでたい 木 遣 歌 のお 囃 子 として 象 嵌 のようにはめ 込 んだ 宮 良 長 包 多 摩 市 に 住 むソプラノ 歌 手 宮 良 多 鶴 子 さんの 専 門 はイタリアオペラ 音 楽 家 になっ た 動 機 は 首 里 高 校 の 音 楽 の 授 業 で イタリアの 名 テノール マリオ デル モナコを 聴 き 全 身 の 血 流 が 逆 流 するほど 強 い 印 象 を 受 けたからだという でも 島 唄 も 大 好 き 多 鶴 子 さんは 宮 良 長 包 そ して 沖 縄 音 楽 の 普 及 にも 貢 献 している 師 事 す るルチアーノ ベルタニョリオ 氏 (イタリア 人 )も 多 鶴 子 さんに 沖 縄 の 歌 を 歌 うことを 薦 める 台 湾 で 生 まれ 台 北 帝 大 を 出 た 池 宮 英 才 氏 (1924 ~ 2003)は 戦 後 熊 本 で 九 州 学 院 の 仕 事 をした 英 才 氏 は 天 賦 の 美 声 の 持 ち 主 で 音 楽 への 志 絶 ちがたく その 後 上 京 して 日 本 大 学 芸 術 学 部 で 指 揮 法 を 学 ぶとともに 日 本 のパイプオルガン 演 奏 の 先 達 木 岡 英 三 郎 氏 に 師 事 した 英 才 氏 は 後 に 東 京 女 子 大 学 教 授 短 期 大 学 学 部 長 に 昇 進 した 1954 年 池 宮 氏 を 合 唱 長 として 東 京 女 子 大 学 クワイヤ が 誕 生 同 氏 が 亡 くなるまで 50 年 間 メ サイア の 公 演 を 続 け 東 京 の 年 末 の 名 物 行 事 と なった 同 氏 は 日 本 楽 譜 出 版 社 刊 の メサイア に 解 説 を 書 いた 故 池 宮 英 才 氏 も 長 包 同 様 ヘンデ ルが 大 好 きな 沖 縄 人 の 血 が 流 れる 天 才 だった 8

例 会 と 催 し 4 月 例 会 鷗 外 のドイツ 体 験 独 逸 日 記 を 読 む 九 州 大 学 名 誉 教 授 清 水 孝 純 鷗 外 は 明 治 17 年 8 月 24 日 横 浜 を 出 航 し 明 治 21 年 9 月 8 日 横 浜 に 帰 港 している ドイツ 留 学 の ためである ドイツ 滞 在 は 17 年 10 月 10 日 から 21 年 7 月 5 日 までおよそ 3 年 9 ヶ 月 にわたる こ の 23 歳 から 27 歳 という 溌 剌 たる 青 春 の 気 力 に 満 ちたドイツ 留 学 は 実 に 充 実 したものであった こ の 体 験 の 鷗 外 の 生 涯 に 持 つ 意 義 の 重 大 にして 決 定 的 なことは 言 うをまたない いかに 鷗 外 がかなり なこの 歳 月 を 文 明 開 化 の 日 なお 浅 い 日 本 人 とし て 送 ったか 無 限 の 興 味 をそそられるところだ 幸 いこのドイツ 留 学 については 綿 密 な 日 記 を 我 々 は 有 している 航 西 日 記 独 逸 日 記 隊 務 日 記 還 東 日 乗 であるが このうち 独 逸 日 記 だけ が 所 謂 雅 文 であり その 他 は 漢 文 である 航 西 日 記 は 往 路 の 還 東 日 乗 は 帰 路 の 航 海 日 誌 であ り 隊 務 日 記 は 滞 在 末 期 ドイツの 軍 隊 つきの 軍 医 として 勤 務 した 記 録 である なぜこれらが 漢 文 で 書 かれたかは 極 めて 興 味 ある 問 題 であろう こ の 中 核 部 分 の 独 逸 日 記 にドイツ 滞 在 の 様 子 を 伺 うことが 出 来 る これはじつに 面 白 い 森 於 菟 は 長 編 の 叙 事 詩 と 評 しているが 嘱 目 する 事 物 を 冷 静 かつ 的 確 に 簡 潔 な 漢 語 によって 叙 述 する 鷗 外 の 関 心 たるや 実 に 広 く ドイツ 社 会 のあらゆる 面 にわたるといっていいかと 思 う これだけの 記 録 を 大 学 の 研 究 室 に 通 いながら しかも 独 文 に よって 論 文 を 書 きながら 記 述 し 続 けることが 出 来 たということは 驚 きである 鷗 外 は 様 々な 人 間 と 付 き 合 う ドイツの 衛 生 学 の 大 家 に 教 えを 請 う 一 方 で ドイツの 軍 医 仲 間 と 付 き 合 う また 日 本 から 来 た 青 木 公 使 や 大 山 陸 軍 卿 や 乃 木 希 典 川 上 操 六 また 石 黒 忠 悳 などをはじめとして 様 々な 留 学 生 と 交 流 する それぞれの 都 会 の 兵 営 衛 生 施 設 病 院 工 場 監 獄 を 見 学 する サクソン 軍 団 の 演 習 に 参 加 する サクソン 王 の 王 宮 に 招 かれる 舞 踏 会 に 仮 面 をつけて 出 る プライベートの 生 活 では 昼 食 をとりに 通 う 下 宿 に 集 まる 人 たちと 交 際 する そこで 知 り 合 った 人 々に 招 かれる 多 く の 女 性 たちが 鷗 外 に 関 心 を 示 し どうやら 鷗 外 も また 強 い 関 心 を 示 している 劇 場 を 訪 れ また 展 覧 会 を 訪 れる 会 で 演 説 をする もっとも 有 名 な のはナウマンに 対 する 反 論 である 地 学 協 会 でナ ウマンが 日 本 について 語 ったのに 対 して 憤 激 や るかたなく 鷗 外 は テーブル スピーチの 機 会 を とらえて 早 速 ドイツ 語 で 反 発 した さらにアルゲ マイネ ツァイトゥング 紙 に 駁 ナウマン 論 を 寄 稿 する このように 鷗 外 の 行 動 は 実 に 多 岐 に 亘 るの だが 鷗 外 はそうした 外 の 世 界 との 付 き 合 いに 埋 没 しているだけではない この 時 期 じつに 多 くの 文 学 にも 親 しんでいる かれは 滞 在 一 年 にして 飯 島 の 去 りてより 余 は 其 旧 室 に 遷 れり 架 上 の 洋 書 は 己 に 百 七 十 余 巻 の 多 きに 至 る 鎖 校 以 来 暫 9

時 閑 暇 なり 手 に 随 いて 繙 閲 す 其 適 言 うべから ず ダンテ Dante の 神 曲 Comedia は 幽 昧 に して 恍 惚 ギョオテ Goethe の 全 集 は 宏 壮 にして 偉 大 なり 誰 か 来 りて 余 が 楽 を 分 つ 者 ぞ (18 8 13)と 記 している 哲 学 書 にも 親 しんだらしい シヴェーグラーの 哲 学 史 ボレリュウスの 哲 学 書 を 愛 読 した ベルリン 滞 在 の 終 わり 頃 にはクラウ ゼヴィッツの 戦 争 論 を 早 川 大 尉 に 週 二 回 講 じ 始 めている 鷗 外 の 観 察 眼 は 単 に 鋭 いというだけの ものではない そこには 衛 生 学 者 としての 目 が 光 っ ているといえる 衛 生 学 は 学 理 に 精 通 するという 基 本 的 条 件 の 上 に 政 策 的 な 広 い 展 望 と 実 際 的 現 実 的 判 断 力 を 必 要 とする このことは 鷗 外 の 視 力 をしてドイツ 社 会 をより 深 いレベルで 捉 えせしめ たと 思 う 開 化 のモデルとしてあるはずの 西 欧 社 会 も 必 ずしも 規 範 として 完 全 なものではない 学 問 の 面 でも 鷗 外 は 非 合 理 は 非 合 理 として 批 判 する 脚 気 を 細 菌 によるとする 学 者 の 説 を 退 ける 学 生 間 に 今 なお 決 闘 という 野 蛮 が 行 われているの に 立 ち 会 う 汽 車 の 中 で 悪 臭 に 悩 まされ その 原 因 を 指 摘 するが 改 善 しようとはしない 酒 場 に たむろする 売 笑 の 夥 しい 女 群 をみては その 表 情 の 悲 惨 なるを 知 る 同 時 にその 一 人 がツルゲーネ フを 読 んでいるのを 面 白 いと 思 う 観 光 の 湖 畔 に ドイツの 若 者 の 傍 若 無 人 なるを 見 る 時 に 冷 静 客 観 的 な 叙 述 のなかにも 鷗 外 の 人 間 的 な 心 情 がのぞ くのも 慕 わしい 演 習 の 帰 り 突 然 の 雷 雨 に 襲 わ れたときのこと 悲 鳴 が 聞 こえる 幼 い 子 供 が 難 渋 していたのだった 鷗 外 はその 子 を 家 まで 送 っ てやる あるいはトーマスというアメリカ 人 が 結 核 を 不 治 の 病 として 悩 み 愛 する 人 と 結 ばれるこ との 困 難 を 嘆 くのを コッホの 結 核 菌 発 見 という 科 学 的 説 明 で 慰 める 航 西 日 記 独 逸 日 記 隊 務 日 記 還 東 日 乗 をとおして 鷗 外 の 記 述 は 大 変 几 帳 面 なのだが 体 験 の 中 核 部 に 当 たる 独 逸 日 記 は 必 ずしもそこ に 記 述 の 上 での 濃 淡 がないわけではない 特 に 滞 在 の 後 半 のベルリン 時 代 においては 前 半 の 記 述 のすべてに 溌 剌 たる 好 奇 の 念 と 感 動 に 彩 られた 豊 かな 叙 述 が 満 ちているのに 対 して 叙 述 は 乾 いた ものになっている それはある 意 味 では 異 文 化 体 験 が 次 第 に 自 己 のうちに 取 り 込 まれて 日 常 化 し てゆくことによる 必 然 的 な 現 象 なのだろうが ベ ルリンにおいて 大 和 会 といった 日 本 人 との 付 き 合 いが 増 え 公 的 束 縛 が 身 に 逼 ってきたのを 感 じて いたためかもしれない 鷗 外 は 自 分 の 留 学 の 目 的 については 衛 生 学 と 陸 軍 医 事 の 二 つを 学 ぶ ことと 記 している この 陸 軍 医 事 が ベルリン 滞 在 の 末 期 に 鷗 外 を 軍 隊 医 としての 勤 務 に 引 き 込 むことになったのだ 航 西 日 記 に 比 して 還 東 日 乗 の 鷗 外 は 鬱 屈 した 心 情 を 示 しているとい うのもそのためであろうか 実 は 鷗 外 はこのとき 秘 かな 重 大 な 秘 密 を 抱 いていた 所 謂 エリス 問 題 である エリスが 日 本 に 来 ることは 鷗 外 は 知 っ ていた いわば 鷗 外 は 人 生 の 岐 路 に 立 っていたは ずだ ところで 独 逸 日 記 にはエリスの 名 は 見 え ない もっとも 重 大 なものが 秘 められているとい うのも 日 記 というものの 宿 命 でもあろうか 10

6 月 例 会 ドイツ 研 修 旅 行 報 告 1.ヨーロッパ 統 合 とドイツの 多 文 化 主 義 移 民 問 題 を 中 心 に 九 州 大 学 経 済 学 部 4 年 生 稲 田 光 朗 ドイツ 私 がかねてからこの 国 に 興 味 を 持 って いたのは 専 門 的 に EU の 中 心 国 としてのドイツ の 経 済 を 勉 強 していたことだけでなく 経 済 学 で も 環 境 の 問 題 にしても 思 想 的 な 斬 新 さ 新 しさが ドイツから 生 まれている この 新 しいものを 生 み 出 す 源 は 何 なのだろうかという 疑 問 からだった そしてその 疑 問 に 対 する 答 えをドイツで 考 えてみ たいというのが 今 回 ドイツ 研 修 旅 行 に 参 加 させ ていただいた 大 きな 理 由 だった そうした 疑 問 を 根 本 に 持 ちつつ 今 回 私 がドイ ツで 調 べたのは 以 下 の 2 つ すなわち ドイツの 多 文 化 主 義 ( 特 に 教 育 を 中 心 に)と その 多 文 化 主 義 の 亀 裂 としての 移 民 問 題 である まずドイツの 多 文 化 主 義 について 調 べたところ を 考 えていきたい まずヨーロッパ 統 合 というも のをこの 研 修 の 中 では 多 くの 場 面 を 通 じて 身 近 に 感 じた たとえばミュンヘンのユースホステルに 滞 在 している 時 何 度 か 若 者 達 と 話 す 機 会 を 得 た が ある 若 者 達 は 車 に 相 乗 りして これからロシ アまで 行 くと 述 べていた これには 大 変 驚 いた そうした 状 況 でドイツは ヨーロッパとともに 生 きるという 多 文 化 主 義 政 策 を 推 進 してきた 特 に 実 際 の 教 育 現 場 では ヨーロッパ 教 育 として 以 下 の 3 点 を 中 心 に 進 められた 先 ずヨーロッパ 市 民 としてのアイデンティティを 形 成 し そしてヨー ロッパ 社 会 への 参 加 の 意 思 を 育 み 最 後 に EU と その 加 盟 国 に 対 する 理 解 を 深 めることだった そ うした 方 針 の 下 で 私 が 具 体 的 に 興 味 を 持 ったの は ヨーロッパ 規 模 の 視 点 からの 教 育 だ たと えば 授 業 において 環 境 問 題 というものを 切 り 口 に 砂 漠 化 熱 帯 雨 林 の 伐 採 といった 途 上 国 の 環 境 問 題 がヨーロッパとの 関 わりで 生 じてきているとい うことを 学 習 し 環 境 問 題 におけるヨーロッパの 責 任 の 大 きさを 認 識 させていた 実 は 私 は 今 EU の 経 験 を 鏡 にアジアの 経 済 統 合 というものを 勉 強 している これは 現 在 地 域 規 模 で 黄 砂 や 酸 性 雨 海 洋 汚 染 の 問 題 をはらんでいる 東 アジアでは 非 常 に 重 要 なことだと 考 える こうしたドイツの 教 育 から 学 ぶものは 多 いと 感 じた 左 から 尾 下 田 中 稲 田 の 各 氏 次 に 移 民 問 題 について 述 べたい 現 在 のドイツ の 直 面 する 経 済 問 題 は 少 子 高 齢 化 の 進 展 高 い 失 業 率 移 民 の 受 け 入 れをどうするかというように まさに 日 本 の 映 し 鏡 となっている 政 府 は 現 在 高 い 失 業 率 がある 中 で さらに 移 民 を 受 け 入 れる 政 策 をとっており 更 なる 失 業 の 増 加 や 職 を 求 める ドイツ 人 の 他 国 への 移 住 職 のない 若 者 世 代 の 極 11

右 的 運 動 への 傾 倒 という 問 題 を 生 じている こう した 問 題 がある 中 で どういうふうに 移 民 の 問 題 を 捉 えればよいのか 私 が 研 修 期 間 中 ホームステ イをしたアメラング 村 の 村 長 フォイトさんは 以 下 のように 述 べられた 移 民 達 とドイツ 人 がただ 隣 り 合 っているだけ あるいはそれぞれ 別 個 にま とまっているというだけではだめで お 互 いの 利 点 を 共 有 し 共 通 の 利 益 を 達 成 するために 協 力 し ていくというような 形 へ 持 っていくことが 賢 い 方 法 なのではないか これは 少 子 高 齢 化 時 代 を 迎 え ている 日 本 人 にとっても 有 益 な 言 葉 ではなかろう か 私 は 今 回 のドイツ 研 修 旅 行 を 通 じてやっとドイ ツとつながったという 気 持 ちがある そして 実 は 最 初 に 述 べた なぜドイツは 新 しいもの を 生 み 出 してきたのかという 疑 問 に 対 する 答 えをまだ 得 ていない このつながりを 大 事 にし これからじっ くりとその 疑 問 に 取 り 組 んでみたい 2.ドイツ 人 の 環 境 とのつき 合 い 方 九 州 大 学 21 世 紀 プログラム 学 生 尾 下 優 子 私 は 21 世 紀 プログラムという 学 部 で 環 境 保 護 を 主 題 として 様 々な 学 問 を 学 んでいる ド イツは 現 在 環 境 大 国 と 呼 ばれるまで 環 境 保 護 の 面 で 成 長 した 日 本 とドイツは 歴 史 的 にも 人 格 的 にも 共 通 点 が 多 いにもかかわらず 日 本 での 環 境 政 策 は 上 手 くいっていないのが 現 状 である その 違 いの 理 由 を 肌 で 感 じてみたかった 私 はそのために 二 つの 都 市 を 訪 れた 一 つは 日 本 人 観 光 客 に 人 気 な Heidelberg もう 一 つは 環 境 都 市 として 名 高 い Freiburg である Freiburg では 期 待 通 りの 先 進 的 なエコロジー を 見 ることができた 車 の 契 約 レンタル 施 設 や Recyclinghof という 市 民 が 自 主 的 にゴミを 持 ち 込 んで 分 別 する 施 設 エコ 型 ホテルなど 多 くの 環 境 配 慮 型 施 設 が 点 在 する 特 に Vauban という 地 区 には 多 くのエコハウス が 立 ち 並 び 80%の CO2 削 減 に 成 功 しているとい う 集 合 住 宅 もあった Vauban は 大 戦 後 の 焼 野 が 原 に 市 民 の 手 で 築 かれたエコ 型 都 市 である こ の 街 では 人 間 環 境 への 取 り 組 みも 積 極 的 である ベランダや 庭 の 間 には 壁 や 仕 切 りがなく 子 供 達 が 遊 ぶ 公 園 は 大 人 の 目 と 声 が 届 く 場 所 にある 建 物 はとてもカラフルで すぐ 横 に 自 然 の 小 川 や 森 もある 休 日 には 公 園 の 大 きな 竈 でパンを 焼 いて 近 所 の 人 と 団 欒 するそうだ 街 の 皆 がほぼ 顔 見 知 りで 家 族 のように 助 け 合 って 暮 らしていた 単 にシステムを 導 入 するだけでなく 人 々の 生 活 や 心 の 面 からの 変 革 も 同 時 に 図 るところがドイツ 流 である 自 然 を 慈 しめる 心 を 育 てるのもエコロジー の 重 要 な 要 素 である Heidelberg はエコ 対 策 への 期 待 より Freiburg との 比 較 にと 思 っていた しかし 私 はここで 大 事 なことを 学 んだ Heidelberg は 新 しい 街 と 古 い 街 が 分 けられていて 古 い 街 並 みが 綺 麗 に 残 ってい る これはMünchenや 他 の 街 でも 感 じたことだが ドイツは 本 当 に 多 くの 古 い 建 物 が 公 共 施 設 や 店 舗 住 居 として 今 でも 使 われている ドイツ 人 にして みると まだ 使 えるのだから それは 当 たり 前 ら しい あるドイツ 人 は 古 い 建 物 は 近 代 的 なシス テムは 持 っていない 代 わりに それに 匹 敵 する 人 間 の 知 恵 が 詰 まっている と 語 ってくれた 私 は 新 しい 技 術 での 環 境 保 護 にばかり 気 を 取 られていたが 古 いものとその 歴 史 を 大 切 に 受 け 継 ぎ 残 すのも エコの 根 本 的 概 念 である 私 は それを 改 めて 肌 で 感 じた ドイツ 人 はとても 暖 かで 自 然 で 他 人 に 対 し て 寛 容 だ その 心 の 余 裕 を 生 み 出 しているのは 彼 らの 文 化 とそれを 大 切 にする 心 ではないかと 思 う 彼 らに 文 化 や 国 のことについて 聞 くと 彼 ら は 本 当 に 熱 心 に 話 してくれる 彼 らは 自 分 たちの 12

文 化 に 誇 りを 持 っている 私 は 日 本 もすばらしい 文 化 技 術 を 持 っている と 思 う 日 本 には 思 い 切 った 政 策 の 変 換 と 多 方 向 的 な 政 策 はもちろん それを 支 える 意 識 の 変 革 も 必 要 だと 思 う そのためには 自 国 の 文 化 の 見 直 し 自 然 やものを 慈 しめる 心 のゆとりの 育 成 も 必 要 ではないだろうか そして 日 本 が 独 自 の 道 を 見 つけ ドイツに 負 けない 環 境 大 国 になるために 私 は 尽 力 していきたいと 思 う 3.ドイツ 国 際 平 和 村 を 訪 問 して 学 んだこと 九 州 大 学 法 学 部 2 年 田 中 香 織 私 は 3 月 のドイツ 研 修 旅 行 で ドイツ 北 西 のオー バーハウゼンという 街 にあるドイツ 国 際 平 和 村 と いう 組 織 を 訪 れた これは 1967 年 に オ-バー ハウゼン 市 民 の 手 によって 作 られた NPO NGO である ドイツ 国 際 平 和 村 では 紛 争 などで 傷 つ き 母 国 で 治 療 することが 困 難 な 病 気 やケガを 負 っ た 子 どもたちを 連 れてきて ヨーロッパの 進 んだ 医 療 を 提 供 している 子 どもたちを 母 国 の 家 族 か ら 離 して 治 療 をすることになるので ヨーロッパ へ 連 れて 来 るには 厳 しい 基 準 が 設 けられている その 基 準 とは 母 国 では 十 分 な 治 療 が 受 けられな いこと 親 が 生 きていること そしてドイツに 連 れて 行 っても 生 きられそうなことだ 平 和 村 の 施 設 の 収 容 人 数 は 限 られているので スタッフは 子 どもたちを 選 ばなければならない 連 れてこられ た 子 ども 達 は 多 くのヨーロッパの 病 院 で 無 償 で 治 療 をうけることができる 手 術 が 終 わると 子 どもたちはドイツ 国 際 平 和 村 の 施 設 へとやって くる この 施 設 で 他 の 子 どもたちと 共 同 生 活 をし リハビリを 繰 り 返 しながら 帰 国 の 日 を 待 つのだ 帰 国 までの 間 子 どもたちは 年 齢 や 国 籍 の 違 う 様 々 な 仲 間 と 一 緒 に 遊 んだり スポーツをしたりして 過 ごし 全 ての 治 療 を 終 え 母 国 の 家 族 の 元 へ 戻 るまでに 短 い 子 どもで 半 年 長 い 子 どもでは 2 3 年 かかる 子 どもたちはその 日 を 待 ちながら ドイツでの 日 々を 送 るのである しかし もし 手 術 により 体 の 傷 が 治 っても 心 にはとても 深 い 傷 を 負 ったままである 平 和 村 は 職 員 とボランティ アで 成 り 立 っていて 全 ては 寄 付 金 に 頼 っている ため 子 どもの 心 のケアまで 行 う 事 は 難 しい また 家 族 との 再 会 を 心 待 ちにして 帰 国 しても 紛 争 に より 家 族 が 亡 くなってしまっていることもあるし 母 国 の 未 熟 な 医 療 では ドイツと 同 じような 治 療 を 継 続 して 行 う 事 が 困 難 なため また 平 和 村 に 戻 っ てくる 子 どもたちもいる 実 際 に 国 際 平 和 村 を 訪 問 してみると そこは 子 ども 達 が 元 気 いっぱいに 走 りまわり 笑 顔 で 私 に 話 し 掛 けてくれる 明 るい 雰 囲 気 の 場 所 だった し かし 子 ども 達 のほとんどは 義 足 や 松 葉 杖 を 使 用 しており 体 中 を 火 傷 している 子 どももいた 平 和 な 日 本 で 生 きている 私 には 普 段 感 じる 事 の 出 来 ない 現 実 の 戦 争 が そこには 確 かに 存 在 してい たのだ 私 は 今 までどこかの 国 で 戦 争 が 起 こって いると 知 っても なんとなく 実 感 できないでいた し やはり 他 人 事 のように 考 えていたと 思 う 事 実 を 現 実 として 受 け 止 められたことは 本 当 によ かったし 貴 重 な 体 験 だった また 国 際 平 和 村 にはたくさんのボランティアス タッフがいたが 半 分 以 上 が 日 本 人 だったのにも 驚 いた その 他 にもたくさんのスタッフがいたが 地 元 の 方 々が 子 どもに 勉 強 を 教 えたり 建 物 の 修 理 を 行 ったり おやつを 作 って 差 し 入 れしたりと みんなそれぞれが 自 分 にできることを 自 分 に 無 理 のない 範 囲 で 行 っているのが 印 象 的 だった 日 本 人 はボランティアというと 意 気 込 んでしまいがち だが ドイツ 人 のような 自 然 に 助 け 合 う 姿 勢 は 見 習 う 必 要 があると 思 う 国 際 平 和 村 への 訪 問 を 通 して 平 和 な 日 本 で 暮 13

らしている 私 は ニュースで 放 送 される 戦 争 しか 知 らなかったが 今 この 時 にも 世 界 中 で 紛 争 は 起 こっていて 苦 しんでいる 人 がたくさんいるとい う 現 実 を 目 の 当 たりにした ただ 偶 然 平 和 な 日 本 に 生 まれた 私 は 毎 日 おいしいご 飯 を 食 べ 家 族 みんなで 健 康 に 暮 らしているのに 偶 然 紛 争 が 起 こっている 国 に 生 まれた 子 どもたちは 傷 つき 苦 しんでいる この 違 いは ただの 運 命 だといっ てほったらかしにされていいものではない 生 ま れた 場 所 によって 初 めからこんなに 違 いがある 世 界 は 間 違 っているのだ 平 和 で 豊 かな 国 に 生 まれ た 私 は そうでない 国 に 生 まれた 人 々に 何 かでき ることがあるのではないだろうか しかし 何 を していいのか 私 にはよく 分 からない 平 和 村 の 活 動 も 一 時 的 なものであり 世 界 中 の 紛 争 で 傷 つい た 全 ての 子 どもたちを 救 う 事 は 不 可 能 だし また 母 国 に 戻 った 子 どもが 紛 争 や 病 気 で 死 んでしまう かもしれない しかし 戦 争 が 起 きているという 事 を 忘 れないで 子 どもたちに 平 和 な 暮 らしを 体 験 させていく 事 はとても 意 味 があることだと 思 う 戦 争 を 終 わらせ 平 和 な 世 界 を 作 り 出 していくの は 子 どもたちだからだ 戦 争 をなくし 平 和 な 世 界 を 作 り 上 げていくために 私 は 日 本 人 として 何 ができるのか 何 をしたらいいのかということを これからもっと 勉 強 し 考 えていきたい 14

7 月 例 会 浜 辺 のビアフェスト 小 林 正 毅 今 年 の 梅 雨 は 昨 年 に 続 き 長 い 豪 雨 の 連 続 で 各 地 に 河 川 の 氾 濫 と 土 石 流 の 被 害 をもたらしまし た 梅 雨 の 終 わりを 告 げるはずの 追 い 山 笠 の 10 日 後 7 月 25 日 にいきなり 明 けました 昨 年 より 9 日 遅 く 明 け 雨 量 は 平 年 より 6 割 も 多 かったそ うです ビアフェストの 29 日 には 太 陽 を 待 ち 望 んでいた 若 者 と 夏 休 み 中 の 子 供 達 で 百 道 浜 は 大 賑 わいでした 付 近 の 道 路 は 大 渋 滞 となり 通 りかかったマイカーも 渋 滞 に 巻 き 込 まれ ビアフェ スト 会 場 への 到 着 は 一 時 間 もの 遅 刻 となりました どうなることかと 心 配 しつつたどり 着 いたとこ ろ 事 務 局 の 村 上 さんと 学 生 さんが 西 日 の 中 汗 を 流 しつつ 受 付 を 維 持 しておられました そし て お 二 人 の 親 切 な 案 内 を 頂 き 感 謝 感 謝 です しかし 会 場 は 一 巡 の 雰 囲 気 出 遅 れの 感 否 めず どう 溶 け 込 むか 連 れ 合 いと 心 細 くなりましたが 前 事 務 局 の 荒 木 さんにガイドして 頂 き ビールと 焼 肉 を 手 に 無 事 空 席 に 納 まることができました 本 当 に 心 優 しい 人 たちの 日 独 協 会 です ビアフェスト 参 加 は 2 回 目 です 前 回 は 三 瀬 のイブスキでの 森 のビアフェスト でした 本 場 仕 込 みのソーセージに 舌 鼓 を 打 ち 打 ち 解 けた 雰 囲 気 に 酔 い 来 年 も 参 加 しようと 思 いつつ その 後 なかなか 機 会 がありませんでした 今 回 は 浜 辺 の 芝 庭 でドイツの 歌 に 包 まれて ビール 片 手 に バーベキュー に 魅 かれ 参 加 しました 千 鳥 屋 さんの 別 荘 は 景 観 絶 佳 の 立 地 で 浜 辺 に 接 した 芝 庭 から 望 む 背 振 山 地 のスカイラインは 青 空 にくっきりとした 線 を 描 き 時 間 と 共 に 変 化 する 暮 色 の 中 で 西 の 空 には 新 月 が 傾 き ビアフェ ストの 雰 囲 気 としては なかなかのものでした 根 本 事 務 局 長 のテキパキとした 運 営 で フェス トは 淀 みなく 進 行 し その 中 で 学 生 が 軽 やかにサー ビスする 様 子 は 気 持 ち 良 いものでした 協 会 の 日 常 活 動 においても 若 者 がもっと 活 躍 できる 場 が あれば 協 会 の 活 性 化 にもつながると 感 じました 池 田 会 長 も 大 変 なご 活 躍 でした 声 楽 家 の 山 崎 さんと 会 場 を 回 られ 乾 杯 の 歌 (Ein Prosit!)の 楽 しい 歌 唱 指 導 で 参 加 者 全 員 を 一 つにまとめられ ました 歌 が 苦 手 の 私 も 一 寸 だけ 口 ずさみました 海 を 背 景 に 大 活 躍 の 池 田 会 長 Ein Prosit, ein Prosit, der Gemütlichkeit. 乾 杯 乾 杯 この 愉 快 な 気 分 に ドイツ 人 とビールで 親 交 を 深 める 時 に 唱 和 する と 効 果 的 だそうで 後 半 の ゲミュートリヒカ イト がポイントです 機 会 があったら 試 して みます 高 田 先 生 は 今 回 も 会 場 から 参 加 のご 婦 人 と 民 族 衣 装 姿 で 留 学 生 のための 活 動 募 金 を 集 められま した 私 も 連 合 いと 少 々 協 力 させてもらいました 15

最 後 に 各 方 面 から 提 供 された 品 々の 抽 選 会 が ありました 籤 が 引 かれる 度 に 歓 声 があがり ビー ルの 量 も 進 みました 連 れ 合 いが 籤 に 当 たりまし たが 私 は 次 回 に 期 待 します 嬉 しい 出 会 いがありました 連 れ 合 いは 栃 木 県 の 出 身 で 博 多 では 少 々 寂 しい 思 いをしています が 帰 りに 最 寄 りの 駅 までお 送 りした 方 からの ご 出 身 は という 問 いかけで その 方 が 連 れ 合 いと 同 郷 であることが 判 りました 連 れ 合 いとの 話 に 花 が 咲 きましたが 短 い 時 間 でしたので 話 が 尽 きなかったようです 外 に 出 かけると 思 いがけ ない 出 会 いがあるものです 記 憶 に 残 る 楽 しい 会 合 でした ビアフェストを お 世 話 頂 いた 方 々 並 びに 会 場 をご 提 供 くださっ た 原 田 副 会 長 へ 心 より 感 謝 申 し 上 げます 16

9 月 例 会 西 ドイツに 派 遣 された 日 本 人 炭 鉱 マンの 体 験 談 元 三 井 鉱 山 職 員 村 谷 泰 一 私 は 1958 年 3 月 に 西 ドイツのルール 地 区 炭 鉱 に 三 井 鉱 山 より 派 遣 された 1955 年 労 働 省 は 西 ドイツの 炭 鉱 技 術 を 習 得 し 西 欧 民 主 主 義 国 の 労 働 事 情 を 体 験 すると 共 に 西 ドイツの 炭 鉱 労 働 力 不 足 緩 和 に 寄 与 し 併 せて 日 独 の 親 善 を 深 める ことを 目 的 として 我 が 国 の 炭 鉱 労 働 者 500 人 を 3 年 間 西 ドイツのルール 地 区 に 派 遣 する 計 画 を 立 案 西 ドイツに 提 案 し 翌 1956 年 両 国 によ りこの 派 遣 事 業 の 実 施 が 決 定 された 私 の 派 遣 は この 事 業 の 第 2 陣 であった 日 本 側 には 若 い 炭 鉱 マンに 西 ドイツの 優 秀 な 技 術 を 学 ばせて 将 来 のリーダーを 育 成 し 更 には 当 時 絶 大 な 勢 力 を 誇 っていた 炭 労 の 政 治 闘 争 に 対 し ヨーロッ パ 式 経 済 闘 争 を 学 ばせたいとの 意 図 があった 旧 満 州 からの 引 揚 者 であった 私 は 大 変 苦 しい 小 中 学 校 時 代 を 余 儀 なくされ 学 資 を 必 要 とせず 就 職 先 も 保 証 されていた 三 井 三 池 鉱 業 学 校 に 進 み 卒 業 後 は 三 川 鉱 で 働 き 定 時 制 高 校 機 械 科 三 年 に 通 っていた その 時 会 社 の 掲 示 板 で 西 ドイツ 炭 鉱 労 働 者 募 集 を 知 った 種 々の 応 募 資 格 をクリアー して 東 京 タワーも 新 幹 線 もまだ 無 く 日 本 の 飛 行 機 が 外 国 に 飛 ぶことも 出 来 なかった 時 代 に 21 歳 の 私 は 西 ドイツで 三 年 間 を 過 ごすために 出 発 し た 以 下 はその 体 験 談 である 会 社 組 合 関 係 者 家 族 友 人 に 見 送 られて 大 牟 田 駅 を 夜 行 で 発 ち 東 京 着 全 国 から 選 抜 され た 他 の 炭 鉱 労 働 者 と 共 に 十 日 間 の 渡 航 前 講 習 を 受 け 3 月 25 日 スカンジナビア 航 空 で 羽 田 を 発 っ た プロペラ 機 で 南 回 り 途 中 給 油 のための 着 陸 が 二 度 目 的 地 のデュッセルドルフに 着 陸 したの は 48 時 間 後 であった 出 迎 え 陣 の 歓 迎 を 受 け 直 ちにバスで 寮 に 送 り 込 まれた 私 たちのベイフォ フェン 寮 には 三 池 13 人 常 磐 10 人 杵 島 2 人 連 絡 員 1 人 合 計 26 人 がお 世 話 になった 一 ヶ 月 の 食 費 150 マルク 洗 濯 代 20 マルク 靴 下 の 繕 いまでしてくれたのには 驚 いた 到 着 第 一 夜 のこと 誰 が 誘 うともなく ビヤホー ルに 繰 り 出 した 高 度 成 長 期 の 当 時 の 西 ドイツで は 外 国 人 労 働 者 は 珍 しくはなかったが 日 本 人 と なると 話 は 違 った ルールの 炭 坑 町 に 初 めて 登 場 した 日 本 の 若 き 炭 鉱 マンの 私 たちを 彼 らは 心 か ら 歓 迎 してくれた 年 配 の 男 たちは 俺 のおごり だ 飲 め 俺 は 日 本 人 が 好 きだ 飲 め 日 本 の 息 子 た ちよ 飲 め と 私 たちのテーブルの 上 はビールの 山 となった 次 は 第 三 夜 のこと おい ヤパーナー! 日 本 には 自 動 車 はあるか 日 本 は 人 力 車 だろう 相 当 酔 っているので 相 手 にしなければよかった のだが 自 動 車 なんか 日 本 にもあるさ 俺 運 転 できるよ そんなら 俺 の 自 動 車 を 運 転 してみろ よ ということで 行 掛 り 上 私 はドイツ 人 1 人 と 同 僚 の 日 本 人 3 人 を 乗 せ 電 車 通 りを 猛 スピード で 飛 ばすことになった 助 手 席 のドイツ 人 が ゆっ くり 走 れと 言 っていたのだが 当 時 はまだ 誰 もそ の 言 葉 が 理 解 できなかった 結 局 パトカーのお 世 話 になることになった 同 乗 していたドイツ 人 が その 場 は 切 り 抜 けてくれたものの 大 変 なことを した 強 制 送 還 されるのではないかと 眠 れない 夜 が 続 いた 仕 事 の 間 はまだ 忘 れられたが ドイ ツ 語 の 勉 強 の 時 間 は 事 件 のことで 頭 は 一 杯 ドイ ツ 語 が 頭 に 入 らない 遂 にケルンの 裁 判 所 に 出 頭 することになり 法 廷 ではボン 大 学 の 日 本 語 の 先 生 が 通 訳 として 付 いてくれた 私 の 免 許 証 を 出 し 17

通 訳 の 先 生 が 自 動 車 運 転 免 許 証 と 日 本 語 で 読 み 上 げてから ドイツ 語 に 訳 し これで 一 件 落 着 無 罪 となった 通 約 料 70 マルクは 日 本 人 4 人 で 割 勘 にした ドイツの 鉱 山 保 安 規 則 では 労 働 者 は 上 司 や 同 僚 の 口 頭 による 指 示 を 正 しく 理 解 し 応 答 できるだ けの 十 分 なドイツ 語 が 出 来 る 場 合 にのみ 坑 内 作 業 に 従 事 することが 許 される ので 私 たちは 6 週 間 午 前 中 は 坑 外 作 業 午 後 はドイツ 語 の 勉 強 をした 炭 鉱 用 語 や 工 具 の 名 前 などを 習 うのであ る 鉱 山 独 特 の 用 語 が 少 なくないが 鉱 山 の 挨 拶 Glück auf!(ご 安 全 に!)は 素 晴 らしい 挨 拶 で ある その 語 源 は 遠 くハルツ 鉱 山 の 歴 史 の 中 にあ る 銀 鉱 を 開 発 するために 坑 道 をあけるのだが 数 メートルの 厚 さと 巾 の 鉱 脈 でも 時 としてたち まち 消 えて 無 くなることがある そこで 鉱 山 関 係 者 は glückhaft a u f t u n (どうぞ 大 直 りをしま すように)と 願 った その 後 この 言 葉 が 鉱 山 で 一 般 に 使 われるようになったのである この 素 晴 ら しい 挨 拶 Glück auf! は いまや 西 ドイツ 炭 鉱 派 遣 団 でルール 炭 田 へ 渡 った 436 名 と 現 地 で 連 絡 員 として 世 話 役 をされた 方 およびその 家 族 によって 形 成 される 親 睦 会 の 名 称 になっている 同 年 6 月 12 日 坑 内 入 坑 試 験 に 合 格 坑 内 労 働 の 開 始 である 午 前 4 時 守 衛 が 起 こしに 来 る 朝 食 を 済 ませ 自 分 で 作 ったドッペルと 呼 ばれる 簡 単 なハムサンドと 水 筒 を 持 って 5 キロの 道 を 会 社 まで 自 転 車 を 走 らせる 会 社 の 入 り 口 の 到 着 場 で 自 分 の 身 分 証 明 票 番 号 を 口 頭 で 告 げて 番 号 札 を 受 け 取 る シャワー 室 前 で 天 井 高 く 吊 り 上 げ られた 籠 を 降 ろし 作 業 服 に 着 替 え 保 安 用 具 を 取 り 出 し 籠 を 再 び 天 井 に 吊 り 上 げて 施 錠 する 安 全 灯 室 で 自 分 のランプを 受 け 取 り CO フィル ターを 首 に 掛 け 立 坑 ゲージ 前 で 搭 乗 順 番 を 待 つ 一 回 の 搭 乗 人 員 は 20 人 地 下 900 メートルまで 1 分 30 秒 で 降 下 する 採 炭 現 場 までは 人 車 で 行 く 石 炭 採 掘 にはホーベル 採 炭 機 を 使 う ホーベルと はドイツ 語 でカンナのことで このカンナの 刃 を 炭 壁 に 当 てて 削 り 取 り パンツァコンベアーで 運 搬 する その 後 空 洞 化 した 跡 を 鉄 柱 で 保 坑 し 鉄 柱 を 回 収 し 再 使 用 する 削 り 保 坑 する これを 繰 り 返 して 延 びたメーターで 賃 金 が 決 まる カッ ペ 延 長 も 立 柱 も 一 人 でしないと ノルマは 達 成 し ない 落 盤 事 故 を 起 こさないように 必 死 だ 8 時 間 労 働 で 休 憩 時 間 は 無 い 炭 塵 で 真 っ 黒 歯 だ けが 白 く 光 る どこの 国 の 人 だか 判 らない 忘 れもしない 1985 年 9 月 6 日 ( 土 曜 日 ) 私 は 一 番 方 で 現 場 はホーベル 払 いの 終 端 機 械 座 人 力 で 炭 壁 を 除 去 してエンジンを 前 進 させる 作 業 だった いつものように 炭 壁 を 切 付 けていたが 11 時 30 分 頃 突 然 風 圧 で 身 体 を 炭 壁 に 叩 き 付 け られる 落 盤 だ 7 人 が 生 き 埋 め 3 人 は 死 亡 4 人 は 6 時 間 後 に 救 出 される 私 の 足 元 では 若 いユー ゴ 人 が 自 国 語 で 助 けを 求 めているが ポンプの 故 障 で 増 水 して 口 まで 来 たのか 言 葉 にならない 私 の 足 元 も 水 死 んでたまるか! 最 後 に 救 出 さ れた 私 は クンペル( 仲 間 )の 遺 体 の 一 部 と 一 緒 にゲージに 乗 って 昇 坑 した 誰 もいない 時 間 外 の シャワーは 水 だけしか 出 ない ドイツの 9 月 は もう 寒 い 冷 たい 水 で 身 体 を 洗 いながら 手 もある 足 もあると 思 うと 涙 が 流 れて 顔 だけが 温 かかっ た まだ 8 時 頃 なのに 誰 とも 出 会 わず ベイフォ ヘンの 寮 までの 自 転 車 は 重 く 外 国 に 居 ることを 実 感 した 月 曜 日 は 三 番 方 なので 葬 儀 に 出 席 した 一 人 ずつ 前 に 進 んでお 祈 りをする 順 番 を 待 ってい ると ドイツ 人 から 行 くなと 止 められた なぜ 駄 目 なのか 理 解 できなかったが 宗 教 の 違 いと 判 断 して 寮 に 帰 り その 後 出 勤 した 立 坑 ヤグラの 上 には 半 旗 が 掲 げられていた 到 着 場 の 横 には 葬 儀 に 使 用 した 黒 いリボンが 付 いたままのカンテラ が 12 個 置 いてあった 大 崩 落 の 現 場 はまるで 幽 霊 屋 敷 だったが エンジンの 音 は 物 凄 く 何 事 も なかったかのように 生 産 は 始 まっていた ドイツ に 来 て 半 年 の 出 来 事 だった 当 時 の 新 聞 には 19 歳 のユーゴ 人 の 遺 体 無 言 の 帰 郷 と 報 じられて いた 半 年 過 ぎるとドイツ 語 も 少 しできるようになり 買 い 物 が 楽 しくなるが 失 敗 も 多 い 肉 屋 さんで 18

ソーセージ Wurst のつもりで 胸 Brust を 注 文 してしまった 店 の 奥 さん 曰 く 生 憎 ですが 自 家 用 しかありません 小 さな 落 石 事 故 で 左 脚 大 腿 部 を 浅 く 切 り 一 日 入 院 した 朝 看 護 婦 さん が 枕 元 で どうぞキスを と 言 ったので 大 いに 驚 いたが Kissen 枕 と Küsse キスの 聞 き 違 いで あった その 他 発 音 が 悪 いため 誤 解 されたこと など 数 え 切 れない 寮 の 近 くにビヤホールがあり 入 り 口 に 青 ラン プが 点 灯 していたので 私 たちは 青 ランプ と 呼 んでいた 土 曜 と 日 曜 にはバンドが 来 て マー チやワルツを 演 奏 し ダンスが 踊 れた 私 はこの ビヤホールでポーランド 系 の 18 歳 の 女 性 と 出 会 う クリステルは 1 マルクを 持 って 20 時 頃 に 現 れ 50 ペニッヒのコカコーラ1 本 で 終 日 ねばる 残 り の 50 ペニッヒで 1 曲 50 ペニッヒのジュークボッ クスの 曲 を 掛 ける ボナセラ セノリラ ボナセ ラ 始 めはスロウ スロウ クイックから 曲 が 徐 々 に 速 くなり ジルバに 変 わる 当 時 はプレスリー やポール アンカが 全 盛 で ジルバを 踊 る 人 は 少 なく 私 たちが 踊 るときは 皆 が 見 とれて 拍 手 喝 采 だった 寮 の 前 で 近 所 の 子 供 たちに 囲 まれた 若 き 日 の 筆 者 1959 年 の 4 月 に 私 は 自 動 車 運 転 免 許 を 取 り 11 月 にはハワー 国 家 試 験 の 講 習 を 受 け 始 めた 日 曜 を 除 く 毎 日 1 日 3 時 間 の 講 習 を 5 ヶ 月 間 受 け 1961 年 3 月 無 事 に 試 験 に 合 格 した クリステ ルの 家 は 私 の 寮 の 前 で 彼 女 はハワー 講 習 の 予 習 復 習 ドイツ 語 ( 特 に 発 音 )の 勉 強 の 際 の 厳 しい 先 生 だった 時 々 夜 勤 の 折 などに 当 時 高 価 だった 果 物 を 持 って 来 てくれた 厳 しい 坑 内 労 働 の 私 に とって アップルジーネは 心 まで 癒 してくれた 1961 年 3 月 の 帰 国 の 直 前 クリステルのお 姉 さん 宅 で 私 の 送 別 会 をして 頂 いた 初 めての 訪 問 なのにお 土 産 も 持 たず クリステルの 言 うままに 行 動 した 部 屋 に 入 ると すでにご 馳 走 が 並 べら れていた お 姉 さんのご 主 人 と 4 人 会 話 は 弾 ま ず 時 間 だけが 過 ぎた お 姉 さんが 明 日 から 村 谷 はいないのネ と 言 ったとき クリステルは 大 声 で 泣 いた どう 慰 めてよいか 今 まで 習 ったド イツ 語 はどこに 行 ったやら 一 言 も 出 て 来 なかっ た 彼 女 をオートバイで 送 るとき 後 部 席 に 乗 っ た 彼 女 が 私 の 部 屋 の 窓 辺 に 花 を 置 いて と 言 った 明 日 の 朝 窓 を 開 けて 花 があったら 私 たち 又 会 うことができるの とも 言 った 家 の 前 に 着 くと クリステルは 走 り 去 り ドアを 閉 めた 鍵 の 音 だ けが 大 きく 響 いた 2 年 6 ヶ 月 の Schöne Zeit は 終 わった 1961 年 3 月 20 日 パリからエアーフランス と 日 本 航 空 共 同 の 旅 客 機 で 帰 国 東 京 のデパート のドイツ 製 カメラに 21 万 5 千 円 の 値 札 が 付 い ていた ドイツまでの 片 道 飛 行 運 賃 の 額 であり 日 本 の 炭 鉱 の 坑 内 で 1 年 間 飲 まず 食 わずで 働 い ても 無 理 な 金 額 だった 窓 辺 に 一 輪 の 花 を 置 か なかったのはよかったのか? 今 の 若 者 が 嫌 う 3K --- きつい 汚 い 危 険 な 労 働 を 先 進 国 で 経 験 し たことは 個 人 的 には 計 り 知 れない 意 義 があった 炭 鉱 の 坑 内 での 重 労 働 を 思 えば どんな 仕 事 も 苦 にならない 帰 国 後 三 川 鉱 でも 炭 塵 爆 発 から 逃 れた その 後 はドイツから 三 川 鉱 への 技 術 移 転 に 際 して ド イツ 人 技 師 の 通 訳 とその 後 の 現 場 管 理 指 導 を 行 っ たり また インドネシアやカリマンタンで 炭 鉱 技 術 指 導 に 当 たるなどの 機 会 に 恵 まれた 平 成 3 年 には 坑 内 災 害 防 止 に 努 めたことにより 黄 綬 褒 章 を 頂 くことができた ドイツに 行 けてよかった と 心 から 思 っている 19

10 月 例 会 欧 州 連 合 とは 何 か? それは 何 を 意 図 し 何 ができるか? フェヒタ 大 学 社 会 学 講 師 ヘルムート グロース 欧 州 連 合 は 1958 年 より 続 く ヨーロッパ 諸 国 の 自 主 的 な 連 合 であり その 目 的 は 加 盟 国 の 平 和 と 自 由 幸 福 を 守 ることにある 民 主 主 義 的 国 家 秩 序 と 多 様 性 を 認 める 社 会 秩 序 を 持 つ 全 ての 国 家 が 加 入 することができる 加 盟 国 は 人 間 の 自 由 の 権 利 行 政 の 遵 法 性 国 家 権 力 から 独 立 した 司 法 宗 教 と 良 心 の 自 由 そして 少 数 派 の 保 護 という 考 えを 共 有 する また 加 盟 国 は 共 通 の 市 場 におけ る 商 品 サービス 力 労 働 力 の 自 由 な 流 通 といっ た 競 争 圧 力 に 十 分 対 応 できるほどに 発 達 した 市 場 経 済 を 持 つ 義 務 を 負 う この 国 家 連 合 は 1958 年 に 経 済 関 税 上 の 連 合 体 である 欧 州 経 済 共 同 体 EWG としてスター トし 1972 年 には 政 治 的 連 合 という 目 標 が 加 わっ て 欧 州 共 同 体 EG という 名 称 になった 1992 年 のマーストリヒト 条 約 以 降 は 欧 州 連 合 EU という 名 称 になっている EU の 主 たる 組 織 はヨーロッパの 三 つの 主 要 都 市 にある 議 会 総 会 の 所 在 地 であるストラスブー ル 議 会 の 行 政 機 構 欧 州 司 法 裁 判 所 欧 州 投 資 銀 行 の 所 在 地 であるルクセンブルク 議 会 の 委 員 会 会 議 所 欧 州 委 員 会 欧 州 理 事 会 閣 僚 理 事 会 の 所 在 地 としてのブリュッセルである 委 員 会 で EU の 政 策 が 作 成 され 欧 州 理 事 会 閣 僚 理 事 会 で 各 加 盟 国 の 国 家 利 益 に 関 する 議 論 が 行 われる 1950 年 代 に ヨーロッパの 中 核 6 ヶ 国 オラ ンダ ベルギー ルクセンブルグ フランス イ タリアそして 西 ドイツの 政 治 家 たちが 計 画 をまと めた それが 目 指 したものは 重 要 な 領 域 におい て 共 通 の 経 済 政 策 を 実 現 し 相 互 の 緊 密 な 結 び 付 きによって 国 家 間 の 戦 争 を 不 可 能 にすることで あった この 目 的 は 達 成 され 当 時 は 核 となる 分 野 である 経 済 が より 一 層 の 政 治 的 共 同 化 のため の 第 一 歩 となると 期 待 された これに 対 抗 して 他 の 西 ヨーロッパ 諸 国 は 1960 年 に 欧 州 自 由 貿 易 連 合 EFTA を 設 立 した 加 盟 国 は ポルトガル デンマーク 中 立 諸 国 家 スウェーデン スイス オーストリア そして 非 植 民 地 化 に 取 り 組 んでい たイギリスである しかし EWG が EFTA よりも 経 済 的 に 成 功 を 収 めるのを 見 て イギリスとデン マークは 方 向 転 換 し 1973 年 にアイルランドと ともに EWG の 新 たな 組 織 EG に 加 盟 した オー ストリア スウェーデン スイスも 加 盟 を 申 請 した グロース 先 生 と 御 子 息 のフィリップさんを 囲 んで 拡 大 した EG は 成 功 の 道 を 歩 みつづけ 1981 年 にギリシア 1985 年 にスペインとポルトガルを 受 け 入 れた 東 ヨーロッパにおける 社 会 主 義 崩 壊 の 後 東 ドイツは 1990 年 のドイツ 統 一 をもって 自 動 的 に EU の 一 部 となり 同 様 に NATO にも 加 わっ た 冷 戦 時 代 に 西 と 東 の 間 で 中 立 を 維 持 していた 20

スウェーデン フィンランドとオーストリアも 1995 年 に EU に 加 盟 した 社 会 主 義 の 崩 壊 によっ て 東 ヨーロッパ 中 央 部 の 諸 国 は 中 央 ヨーロッパ 国 家 とその 文 化 社 会 に 復 帰 できた EU は 民 主 主 義 法 治 国 家 市 場 経 済 への 転 換 に 成 功 したす べての 国 に EU への 加 盟 を 約 束 することによっ てこの 経 過 を 支 援 した そのようにしてバルト3 国 エストニア ラトヴィア リトアニア ならび にポーランド チェコ スロヴァキアとハンガリー 加 えて 解 体 したユーゴスラヴィアの 一 部 であった スロヴェニアの 国 々が 2004 年 に EU 加 盟 を 果 たし さらにマルタとキプロスが 加 わった EU は ブリュッセルからの 資 金 援 助 による 地 域 開 発 国 境 の 共 同 防 衛 共 同 の 外 交 政 策 などの 共 同 政 策 を 取 ってきた とはいえ 加 盟 国 はあ くまで 主 権 独 立 国 家 であるということを 忘 れては ならない 共 同 作 業 にどの 程 度 関 わるかは 加 盟 国 自 身 の 判 断 によるのである 拡 大 EU のために 2004 年 に 再 編 された 憲 法 条 約 は オランダとフ ランスの 国 民 投 票 で 過 半 数 によって 否 決 された EU はそれを 受 け 他 の 未 決 定 の 加 盟 国 における 批 准 のプロセスを 停 止 し それ 以 来 まず 熟 考 か EU のさらなる 拡 大 か というテーマで 論 議 が 続 いている 憲 法 草 案 の 推 進 に 関 して 2007 年 前 半 に 順 番 が 回 ってくるドイツの EU 委 員 会 委 員 長 に 大 きな 期 待 がかかっている それはドイツが 人 口 8200 万 という 最 大 の 住 民 数 を 誇 る 参 加 国 であるからで ある フランスとドイツの 二 人 乗 り 自 転 車 は 40 年 にわたってヨーロッパの 統 一 過 程 の 主 力 エンジ ンであった 他 方 最 も 懐 疑 的 な 加 盟 国 はイギリ スであったし 現 在 もそうである ルーマニアと ブルガリアの 加 盟 (2007 年 )はすでに 決 定 済 み であり グルジアとウクライナは その 不 透 明 な 政 治 的 体 制 のため 目 下 交 渉 は 中 断 されている メ ディアにおいて 最 も 報 じられているのは トルコ との 加 盟 交 渉 である トルコの 人 口 は 約 7500 万 で 住 民 数 では 二 番 目 に 大 きな 加 盟 国 ということ になる しかしながら 国 土 面 積 のうちヨーロッ パに 属 しているのは 僅 かな 部 分 にすぎないし 国 内 にはイスラム 原 理 主 義 内 部 の 激 しい 対 立 がある 欧 州 議 会 でも 賛 成 と 反 対 の 対 立 は 厳 しい 今 後 も この 問 題 をめぐって 長 期 に 亘 る 論 議 がなされるで あろう EU は 合 計 4 億 5000 万 人 の 経 済 圏 を 持 ってい る(アメリカ 2 億 9700 万 人 ロシア 1 億 4200 万 人 日 本 1 億 2700 万 人 ) 経 済 上 の 問 題 地 方 政 治 上 の 問 題 内 政 と 安 全 保 障 政 策 上 の 問 題 で EU は 統 一 過 程 の 途 上 にある しかしまた(1958 年 以 来 常 にそうであるように) 内 部 に 問 題 も 抱 え ており これが 今 日 主 要 な 課 題 となっている 現 状 の 課 題 としては 憲 法 の 条 約 を 受 諾 するこ とによって EU の 機 関 の 数 を 今 の 加 盟 国 数 に 合 わ せること 閣 議 では 全 会 一 致 の 代 わりに 多 数 決 を もって 決 定 すること 限 られた 数 の EU 委 員 ( 今 は 25 加 盟 国 につき 1 名 )で 行 うこと ヨーロッ パ 外 相 を 選 定 することなどが 挙 げられる また 言 語 政 策 の 改 革 も 必 要 で 個 々の 委 員 会 の 文 書 を 22 もの EU 言 語 全 てに 翻 訳 する 作 業 は 限 界 に 達 して いる あらゆる 政 策 分 野 の 閣 議 と 政 府 議 会 において 加 盟 国 の 国 家 的 利 害 がしばしば 対 立 衝 突 する これまでは 大 抵 粘 り 強 い 交 渉 によって 妥 協 点 を 見 出 してきた ただ 外 交 と 保 障 政 策 においては 挫 折 の 連 続 であった この 不 一 致 が4 年 前 ついに 顕 在 化 した アメリカがイラクの 独 裁 者 転 覆 のた め ヨーロッパに 同 盟 国 を 探 したとき この 問 題 は EU の 共 同 決 定 ではなく 加 盟 国 によって 国 ご とに 決 定 された リスクが 高 く 重 大 な 結 果 を 招 くジョージ W ブッシュの 戦 略 と 政 策 にイギリ ス スペイン イタリア ポーランドなど 10 ヶ 国 が 従 った 残 りの 加 盟 国 はブッシュを 拒 否 した が とりわけ 激 しかったのはフランスとドイツで しかもロシアと 合 意 の 上 であった EU の 共 同 外 交 政 策 は 私 の 考 えでは 共 同 の 保 障 政 策 につい て NATO と 協 調 した 上 で 進 められるべきである EU の 政 治 的 司 令 部 は NATO と 同 じくブリュッセ ルにあり またほとんどの 重 要 な EU 諸 国 は 同 時 21

に NATO 加 盟 国 でもあるからだ 安 全 保 障 上 の 問 題 は( 軍 事 上 の 問 題 は 外 交 問 題 の 一 部 であるので) 複 雑 な 外 交 政 策 の 問 題 を 解 決 するよりも 簡 単 であ るはずだ ( 翻 訳 要 約 : 田 野 武 夫 氏 ) 注 :この 間 2007 年 1 月 1 日 からルーマニア とブルガリアが 正 式 に 加 盟 し 加 盟 国 は 27 ヵ 国 総 人 口 は 4 億 9300 万 人 となった なお 本 例 会 には 現 在 EU ブリュッセル 本 部 の 外 交 部 に 勤 務 されているグロース 氏 の 御 子 息 フィリップ オリ ヴァー グロース 氏 も 同 席 され 会 場 の 質 問 に 答 えられた 講 演 原 文 2007 年 3 月 29 日 時 点 で 若 干 の 補 足 修 正 が 施 されている Was ist die Europäische Union, was will sie und was kann sie? Dr. Helmut Gross Lehrbeauftragter für Sozialwissenschaft an der Hochschule Vechta 1. Was ist die EU? Die EU ist, kurz gesagt, ein freiwilliger Zusammenschluss europäischer Staaten seit 1958 zur Sicherung von Frieden, Freiheit und Wohlstand mit offener Mitgliederzahl. Aufgenommen werden können alle die Staaten Europas, die eine demokratische Staatsordnung und eine pluralistische Gesellschaftsordnung haben, mit Freiheitsrechten der Person, Gesetzmäßigkeit der Verwaltung, Rechtstaatlichkeit unabhängiger Justiz, Religions- und Gewissensfreiheit sowie Minderheitenschutz. Die Mitglieder verpflichten sich auf die Lösung von Interessengegensätzen und politischen Konflikten durch Verhandlungen, nicht durch Gewalt. Sie müssen ein marktwirtschaftliches ökonomisches System haben und eine gemeinsame Agrarpolitik. Um Mitglied werden zu können, muss man sich auf demokratische Werte und Strukturen verpflichten. Man muss eine Marktwirtschaft haben, die so weit entwickelt ist, dass sie dem Konkurrenzdruck des freien Austauschs von Waren, Dienstleistungen und Arbeitskräften im gemeinsamen Binnenmarkt gewachsen ist. Dieser Staatenbund startete 1958 als Europäische Wirtschaftsgemeinschaft (EWG) mit einer Wirtschafts- und Zollunion und heißt seit 1972 Europäische Gemeinschaft (EG), weil das erstrebte Ziel einer politischen Union hinzukam. Seit dem Vertrag von Maastricht 1992, in dem u. a. eine europäische Regional- und Strukturpolitik und das sogenannte Subsidiaritätsprinzips verankert wurden, heißt die Gemeinschaft Europäische Union (EU). Subsidiarität bedeutet, dass alles, was durch niederere Instanzen vor Ort oder in der Nähe politisch und administrativ besser gelöst werden kann als durch höhere Instanzen weiter weg, auch dort angesiedelt werden soll. Der kleine Kontinent Europa ist eine Kultur- und Wertegemeinschaft, bestehend aus einer geschichtlich entstandenen Vielfalt von Stämmen, Völkern und Sprachen sowie einer Mehrzahl christlicher Konfessionen (römisch-katholisch, protestantisch, orthodox) und auf dem Balkan als Folge des Osmanischen Reiches dem Islam. Durch Einwanderung von Arbeitskräften und Flüchtlingen aus Balkanländern, der Türkei und den arabischen Anrainerstaaten des Mittelmeers gibt es Muslime inzwischen als starke Minderheit auch in vielen anderen europäischen Ländern Europa ist aber auch ein Kontinent, in dem Völker und Staaten jahrhundertelang gegeneinander regionale Kriege führten (um Erbfolgen, die richtige Religion und um Territorien), zuletzt im 20. Jahrhundert zwei verheerende Kriege, die die ganze Welt in Mitleidenschaft zogen, sowie in den 90er Jahren einen regional ebenso verheerenden Bürgerkrieg zwischen den Volksund Religionsgruppen im zerfallenden Jugoslawien. Die Europäische Union will die Vielfalt der Kulturgemeinschaft des Kontinents einerseits garantieren, andererseits wirtschaftlich und politisch einigen nicht durch eine Bundesstaat nach US-amerikanischem Vorbild (also nicht durch Vereinigte Staaten von Europa ), sondern durch einen Staatenbund, bei dem die Mitgliedsstaaten nur einzelne Souveränitätsrechte an die EU-Zentrale abtreten. Diese Zentrale wird meist Brüssel genannt, obwohl es drei europäische 22

Hauptstädte gibt: Straßburg als Sitz der Plenarsitzungen des Parlaments, Luxemburg als Sitz der Verwaltung des Parlaments, des Europäischen Gerichtshofs sowie der Europäischen Investitionsbank, Brüssel als Sitz der Ausschussberatungen des Parlaments, der Europäischen Kommission sowie des Europäischen Rats oder Ministerrats. In der Kommission wird EU-Politik gemacht, im Europäischen Rat kommen die nationalen Interessen der Mitgliedsländer zur Geltung. 2. Wie entwickelte sich die EU? In den 50er Jahren des 20. Jahrhunderts fassten weitsichtige Politiker der sechs kerneuropäischen Staaten Niederlande, Belgien, Luxemburg, Frankreich, Italien und Westdeutschland den Plan, durch eine gemeinsame Wirtschafts- und Zollpolitik in wichtigen Bereichen (damals: Kohle und Stahl, Agrarwirtschaft und zivile Nutzung der Atomkraft) sich freiwillig so eng zusammenzuschließen, dass es zwischen ihnen wegen politischer Konkurrenzen oder ethnischen oder wirtschaftlichen Interessenkonflikten keine Kriege mehr geben konnte. Dieses Ziel wurde erreicht. Der Kernbereich Wirtschaft sollte damals Anstoß und Beginn für eine Vergemeinschaftung weiterer Politikbereiche in der Zukunft werden und soll es noch immer sein. Andere westeuropäische Staaten entwickelten 1960 eine Konkurrenzgründung dazu, die European Free Trade Association (EFTA): Portugal, Dänemark, die neutralen Länder Schweden, die Schweiz und Österreich und das mit seiner Entkolonialisierung in vielen Teilen der übrigen Welt beschäftigte Großbritannien. Diesem Bündnis ging es nur um eine wirtschaftliche Freihandelszone, ohne jede darüber hinausgehende Vergemeinschaftung anderer Bereiche von Staat und Gesellschaft. Die EFTA gibt es noch immer, inzwischen nur bestehend aus vier Klein- und Kleinstländern Westeuropas, nämlich Island, Norwegen, der Schweiz und Liechtenstein. Letzteres ist ein Zwergstaat am Hochrhein, der sich sonst außenpolitisch von der Schweiz vertreten lässt. Nachdem sich die EWG schnell als wirtschaftlich erfolgreicheres Modell erwies als die EFTA, schwenkten Großbritannien und Dänemark um und traten zusammen mit Irland 1973 der EG bei; Österreich, Schweden und die Schweiz beantragten die Assoziierung an sie. Diese erstmals erweiterte EG blieb auf Erfolgskurs und nahm 1981 Griechenland auf, 1985 Spanien und Portugal. Nach dem Zusammenbruch des Sozialismus in Osteuropa trat die DDR 1990 der BRD bei und wurde damit automatisch Teilgebiet der EU (genau wie auch der NATO). Und nachdem die Systemkonkurrenz politischer und wirtschaftlicher Liberalismus versus Sozialismus beendet war, traten auch Schweden, Finnland und Österreich, die im Kalten Krieg zwischen den Westmächten und dem Ostblock neutral geblieben waren, 1995 der EU bei. Durch den Zusammenbruch des Sozialismus konnten die Staaten im mittleren Osteuropa sich vom sowjetischen bzw. wieder russischen Einfluss frei machen und in die mitteleuropäische Staaten- und Kulturgemeinschaft zurückkehren. Die EU unterstützte diesen Prozess, indem sie all jenen von ihnen, die die Umkehr zu Demokratie, Rechtstaatlichkeit und Marktwirtschaft erfolgreich angingen, die Beitrittsmöglichkeit in Aussicht stellte. Das bewältigten bisher erfolgreich die drei baltischen Staaten Estland, Lettland und Litauen (die als Folge des Hitler-Stalin Paktes von 1939 sowjetisch geworden waren) sowie Polen, Tschechien, die Slowakei und Ungarn, zudem eine kleine Teilrepublik des zerfallenen Jugoslawiens, nämlich Slowenien. Sie konnten 2004 der EU beitreten, außerdem (nach einem vorangegangenen Regierungswechsel) Malta sowie Zypern. Letzteres trat bei das ist ein Schönheitsfehler, ohne die 1974 erfolgte Teilung der Insel in einen Südteil aus griechischen und einen Nordteil aus türkischen Zyprioten überwunden zu haben. Der türkische Nordteil gehört nun zwar nominell zur EU, steht aber weiterhin unter türkischer Militärverwaltung. Zum 1.1.07 wurden Bulgarien und Rumänien Mitglieder der EU. Jetzt soll vorerst niemand neu aufgenommen werden, sondern es muss eine Konsolidierungsphase folgen, in der der Verfassungsvertrag von allen 27 Mitgliedsstaaten ratifiziert werden und die notwendigen organisatorischen Reformen durchgeführt werden sollen. Das trifft vor allem Kroatien hart, das wirtschaftlich und politisch fast so weit reformiert ist wie Slowenien. Der Grund für seine Nichtaufnahme liegt darin, dass es bisher nicht genügend mit dem Internationalen Tribunal zur Aufklärung der Kriegsverbrechen im ehemaligen Jugoslawien zusammenarbeitet. 23

3. Was will die EU? Die EU geht den historisch einmaligen Weg, nicht durch Heiratspolitik, Gewaltandrohung, Eroberung oder Annektion als Instrumente der Vergangenheit, sondern durch freiwilligen Zusammenschluss über eine erfolgreiche Wirtschaftsunion zu einer politischen Union von möglichst vielen der europäischen Länder zu kommen. Ein Schwerpunkt ist seit ihrer Gründung der gemeinsame Agrarmarkt. Er verschlingt durch Subventionen (in der Art, wie Sie es von den Reissubventionen in Japan kennen) rund die Hälfte des Gesamtetats. Spätestens seit das Agrarland Polen mit seinen 38 Millionen Menschen 2004 beigetreten ist, besteht hier Reformbedarf. Den Bedarf möchte vor allem Großbritannien verwirklicht sehen, während Frankreich und Spanien bremsen, weil sie eine starke Landwirtschaft haben und hohe Subventionszahlungen bekommen. Diese planwirtschaftlich angelegte Agrarpolitik entstand in den 50er Jahren, weil man noch dem traditionellen Gedanken anhing, dass jedes Land für Notzeiten, wenn ihm die internationalen Handelswege abgeschnitten sind, eine intakte Landwirtschaft haben müsse. Deswegen wird sie durch dirigistische Maßnahmen erhalten und kostet die Steuerzahler viel Geld. Seither hat die EU sich aber längst andere gemeinsame Politikbereiche erschlossen: die Entwicklung strukturschwacher Regionen durch Finanzhilfen aus Brüssel, den gemeinsamen Schutz der Außengrenzen, eine gemeinsame Währung sowie den Versuch einer unter den Mitgliedsländern abgestimmten Außenpolitik durch einen außenpolitischen Beauftragten, den Spanier Javier Solana (zuvor Generalsekretär der NATO). Aber, um daran zu erinnern: Die Mitgliedsstaaten bleiben souveräne Einzelstaaten. Sie entscheiden also selber, wie weit sie bei der Gemeinsamkeit in den erwähnten Bereichen mitmachen. Von den 15 Altmitgliedern beteiligen sich z. B. Irland und Großbritannien nicht am Schengener Abkommen zum Schutz der Außengrenzen, weil sie als Inseln keine gemeinsamen Grenzen zu Lande mit anderen Staaten haben. Griechenland beteiligt sich mit Einschränkungen daran, weil es bisher Grenzen zu Lande nur mit den Nicht-EU-Ländern Albanien, Mazedonien und Türkei hat. Großbritannien, Dänemark und Schweden beteiligen sich bisher nicht an der gemeinsamen Währung, dem Euro. Dafür gehört das wirtschaftlich erfolgreiche Slowenien als erstes der zehn Beitrittsländer von 2004 ab 01.01.07 zur Eurozone. Durch Assoziation gehört auch der Kirchenstaat (Vatikan) dazu. Seine Euro-Münzen erlebt man praktisch nicht im Umlauf, sie sind begehrte Sammlerstücke. Ein Kuriosum am Rande: Frankreich hat noch immer einige Kolonien im nordöstlichen Südamerika und im indischen Ozean. Auch sie gehören zur Eurozone. 4. Wo steht die EU? Der von einem Konvent unter Leitung des früheren französischen Staatspräsidenten Giscard d Estaing ausgearbeitete Verfassungsvertrag für die erweiterte EU von 2004 wurde 2005 durch Volksabstimmungen von einer Mehrheit der Bevölkerung in den Niederlanden und in Frankreich abgelehnt. Die EU setzte daraufhin den Ratifizierungsprozess in all denjenigen Mitgliedsländern aus, in denen Parlamente nicht bereits zugestimmt hatten. Seither gibt es Überlegungen und Diskussionen zum Thema zuerst Vertiefung oder weiterhin Erweiterung der EU. Große Hoffnungen in der Frage der Durchsetzung des Verfassungsentwurfes werden auf die EU-Ratspräsidentschaft Deutschlands im ersten Halbjahr 2007 gesetzt. Dies deshalb, weil Deutschland mit seinen 82 Millionen Einwohnern das bevölkerungsstärkste Mitglied ist und entsprechendes politisches Gewicht hat und weil unsere Kanzlerin Angela Merkel eine überzeugende Rolle auf der europäischen Bühne spielt. Zuvor war das Tandem Frankreich und Deutschland 40 Jahre lang der hauptsächliche Motor des europäischen Einigungsprozesses, während das am meisten euroskeptische Mitgliedsland Großbritannien war und ist. Von Frankreich und England werden neue Initiativen erst kommen, wenn in diesem Jahr dort ein neuer Staatspräsident bzw. Ministerpräsident gewählt ist, also Nachfolger für Jacques Chirac und Tony Blair gefunden sind. Am meisten wird in den Medien über die Beitrittsverhandlungen mit der Türkei berichtet. Sie würde mit knapp 75 Millionen Menschen zweitstärkstes Mitglied sein. Ihr Staatsgebiet gehört aber nur zu einem geringen Teil zu Europa. Der 24