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初 代 梅 若 実 と 近 代 能 楽 時 代 を 越 えた 能 役 者 三 浦 裕 子 Zusammenfassung Miura Hiroko: Umewaka Minoru I. und das moderne Nô Ein Nô-Spieler von epochaler Bedeutung Umewaka Minoru I. (1828 1909) war zu einer Zeit aktiv, in der das Nô die Krisenjahre der Meiji-Restauration überwand und sich so sein Fortbestehen bis in die Gegenwart sichern konnte. Dieser Artikel stellt die Leistungen von Umewaka Minoru in den folgenden Bereichen vor: 1. Schriften zum Alltag des Nô, wie z. B. das Tagebuch (Umewaka Minoru nikki); 2. Ausbau des Einflusses der Umewaka-Familie; 3. Bau von Nô- Bühnen; 4. Erweiterung des Repertoires sowie 5. Sammlung von Nô-Masken und Kostümen. Von seinen Schriften soll vor allem die Bedeutung des Tagebuchs detailliert erörtert werden, das eine historische Quelle von größter Bedeutung darstellt. Es wurde in den 60 Jahren zwischen 1849 und 1908 nahezu täglich geführt, und zwar im Sinne einer Chronik der Umewaka-Familie und der Nô-Welt. Umewaka Minoru förderte wiederholt die Verbindung seiner Familie mit der Linie von Kanze Tetsunojô, einer Seitenlinie der Hauptfamilie der Kanze-Schule. So bildete er seinen Sohn Manzaburô (den späteren Rokurô) und seinen Schwiegersohn Kanze Tetsunojô VI. zu exzellenten und später renommierten Nô-Spielern aus. Desweiteren erbaute Umewaka Minoru 1865 eine Bühne zur Durchführung von Proben und 1871 die Nô-Bühne in Aoyama. Diese Bühne der Umewaka-Familie diente sowohl als Probebühne wie auch für öffentliche Aufführungen und wurde zu einem bedeutenden Stützpunkt des Nô. Umewaka Minoru war der erste, der die Nô-Spiele Torioibune, Ugetsu und Murogimi wieder in das Repertoire aufnahm. Die Nô-Masken und Kostüme seiner Sammlung erwarb er gezielt von berühmten Nô-Familien, Daimyô, Kaufleuten und Fachgeschäften aus ganz Japan. Diese werden heute nicht nur als wertvoller Schatz der Umewaka-Familie sondern der gesamten Nô- Welt betrachtet und bis heute für Aufführungen genutzt. (Übersetzt von Barbara Geilhorn) 197 205

198 三 浦 裕 子 はじめに 能 楽 が 武 家 の 式 楽 であった 江 戸 時 代 において 能 楽 を 演 じる 役 者 は 武 士 として 幕 府 や 藩 に 抱 えられ 身 分 や 地 位 の 安 定 を 得 ていた しかし 明 治 維 新 による 武 家 政 権 の 崩 壊 で 能 楽 は 極 端 に 衰 微 する そののち 紆 余 曲 折 を 経 て 今 日 では 毎 日 どこかで 能 楽 の 公 演 が 催 されていると 言 っても 過 言 ではない 活 況 を 呈 している 明 治 維 新 という 動 乱 期 を 乗 り 越 えて 能 楽 が 現 代 まで 長 らえる 生 命 を 獲 得 した 背 景 には 初 代 梅 若 実 (1828 文 政 11 ~1909 明 治 42 以 下 初 代 実 とする)という 能 役 者 の 存 在 を 無 視 することはできない 能 楽 を 存 続 せしめた 初 代 実 の 戦 略 のひとつに 越 境 がある 何 をどのよ うに 越 境 したのか 答 えは ありとあらゆるもの と 言 える 本 論 考 は 幕 末 から 近 代 において 初 代 実 が 能 楽 とどう 向 き 合 ってきた のか 明 治 維 新 を 乗 り 越 えた 能 役 者 の 足 跡 の 一 部 をたどるものである I 梅 若 実 日 記 他 の 自 筆 資 料 初 代 梅 若 実 にとって 数 え 年 11 歳 1 の1838( 天 保 9) 年 に 演 じた 雲 雀 山 子 方 がおそらく 初 舞 台 であり 79 歳 の1906 年 7 月 に 演 じた 唐 船 が 最 後 のシテと 思 われる すなわち 初 代 実 は 生 涯 にわたって 能 を 演 じ 続 けた 能 役 者 であり これが 彼 の 輝 かしい 実 績 と 言 える しかし 没 後 約 100 年 が 経 過 した 現 代 における 初 代 実 のもうひとつの 業 績 は 非 常 に たくさんの 記 録 を 書 き 残 した 点 にある 初 代 実 の 手 になる 最 大 の 記 録 は1849( 嘉 永 2) 年 閏 5 月 から1808 年 末 日 まで つまり21 歳 から 亡 くなる20 日 前 までの60 年 間 ほぼ 毎 日 綴 っ た 日 記 で 49 冊 を 数 える これを 梅 若 実 日 記 ( 以 下 日 記 とす る)という 日 記 は 長 く 門 外 不 出 の 扱 いであったが 梅 若 家 先 代 当 主 である55 代 梅 若 六 郎 の 時 代 古 川 久 が 日 記 その 他 の 資 料 を 用 い19 68 年 から1973 年 にわたって 初 代 梅 若 実 年 譜 稿 全 30 回 を 雑 誌 梅 若 に 連 載 し 能 楽 界 に 周 知 されるようになった また 1979 年 に 武 蔵 野 女 子 大 学 ( 現 武 蔵 野 大 学 ) 能 楽 資 料 センターによる 日 記 の 複 写 が 許 され その 閲 覧 が 一 般 にも 可 能 となった 2 さらに 梅 若 家 現 当 主 の56 代 梅 若 六 郎 と 鳥 越 文 蔵 の 監 修 のもと 1991 年 から 翻 刻 作 業 が 進 められた 10 余 名 からなる 編 集 委 員 会 が 立 ち 上 がり 小 林 責 は 編 集 責 任 者 として 筆 者 も 編 集 委 員 として 作 業 に 携 わり 翻 刻 本 の 日 記 が2002 年 から2003 年 にかけて 出 版 された 3 これにより さらに 広 く 日 記 が 利 用 されることとなった 日 記 の 価 値 は 個 人 的 な 興 味 からだけではなく 梅 若 家 および 能 楽 を 軸 とする 公 的 な 記 録 の 意 識 をもって 書 かれているところにある こ 1 以 下 年 齢 に 関 して 本 論 考 では 数 え 年 を 原 則 とする 2 小 林 責 あとがき (56 代 梅 若 六 郎 鳥 越 文 蔵 監 修 梅 若 実 日 記 第 7 巻 八 木 書 店 2003 年 )による 3 八 木 書 店 刊 全 7 巻 総 ページ 数 3218ページ

初 代 梅 若 実 と 近 代 能 楽 199 Abb. 1: 初 代 梅 若 実 (1829 文 政 11 ~1909 明 治 42 ) Umewaka Minoru I (1829 1909)

200 三 浦 裕 子 かけての 能 楽 の 演 能 記 録 慣 習 事 件 などの 解 明 が 進 み 従 来 の 近 代 能 楽 史 が 次 々と 塗 り 替 えられていくことは 必 至 である その 他 初 代 実 は 芸 事 上 数 々 其 他 秘 事 当 座 扣 并 ニ 略 見 出 シノ 事 4 ( 以 下 当 座 扣 とする)という 1865( 慶 応 元 ) 年 から1907 年 まで の 能 楽 に 関 する 秘 事 心 覚 などの 雑 記 履 歴 略 書 5 という 自 身 の 履 歴 などを 書 き 残 しており これらの 資 料 は 前 掲 の 古 川 久 初 代 梅 若 実 年 譜 稿 でも 紹 介 され 活 用 されている また 装 束 類 買 入 帳 6 ( 以 下 買 入 帳 とする)という1870 年 から1897 年 までの 能 装 束 などの 購 入 記 録 門 入 性 名 年 月 扣 7 ( 以 下 門 入 扣 とする)という 素 人 弟 子 の1848 年 からの 入 門 記 録 など 初 代 実 の 自 筆 資 料 の 内 容 は 多 岐 にわた り いずれもが 当 時 を 知 る 第 一 級 の 史 料 と 言 えるのである II 梅 若 家 の 拡 大 梅 若 家 は 丹 波 猿 楽 出 身 の 家 柄 で 1416( 応 永 23) 年 に 仙 洞 御 所 に 出 勤 し た 記 録 が 伝 わる 旧 家 である 江 戸 時 代 に 観 世 座 に 組 み 込 まれ ツレ 家 と いう 地 位 を 与 えられた 初 代 実 はその 梅 若 家 第 52 代 当 主 である 初 代 実 はもともと 鯨 井 家 という 金 融 業 を 営 む 家 柄 の 出 身 であったが 51 代 梅 若 六 郎 の 後 継 ぎに 望 まれて 持 参 金 500 両 で 梅 若 家 に 養 子 に 入 り 商 人 から 武 士 に 転 じた 家 督 相 続 した1839 年 は12 歳 本 人 の 自 覚 のな いままに 身 分 の 越 境 をなし 遂 げたと 言 えよう 以 後 能 に 精 進 するかた わら 放 蕩 の 限 りを 尽 くす 養 父 六 郎 の 世 話 をし 異 母 兄 の 実 家 乗 っ 取 り に 立 ち 向 かい 知 行 所 のトラブルを 処 理 するなど さまざまな 困 難 を 克 服 する 明 治 維 新 以 降 初 代 実 は 抜 群 の 政 治 力 と 金 銭 感 覚 とを 発 揮 して 梅 若 家 を 繁 栄 に 導 くが それには 出 自 の 家 業 が 大 きく 関 与 したのではな いかといわれている 前 述 したように 梅 若 家 は 古 い 由 緒 を 持 つ 名 門 だが 観 世 座 には 観 世 大 夫 家 およびその 分 家 の 観 世 銕 之 丞 家 という 名 家 がある 初 代 実 は18 65 年 8 月 5 代 観 世 銕 之 丞 の 弟 清 之 ( 当 時 源 次 郎 )を 養 子 に 迎 え 実 の 長 女 つるとの 婚 約 を 実 現 させる この 時 点 で 男 子 の 授 からなかった 初 代 実 は 不 運 であったが 銕 之 丞 家 との 縁 組 によって 梅 若 家 にはどのよ うな 利 益 がもたらされたのだろうか もちろん 観 世 座 における 有 利 な 立 場 を 確 保 する 意 図 が 初 代 実 には あったに 違 いない しかし それだけではない 効 果 が 養 子 縁 組 3 年 後 か ら 明 らかになる 1868 年 8 月 江 戸 幕 府 が 崩 壊 し 新 たに 樹 立 した 明 治 政 4 梅 若 家 所 蔵 複 写 を 武 蔵 野 大 学 能 楽 資 料 センターが 所 蔵 する 5 梅 若 家 所 蔵 武 蔵 野 大 学 能 楽 資 料 センター 紀 要 第 13 号 (2002 年 )に 翻 刻 を 掲 載 する 6 梅 若 家 所 蔵 古 川 久 が 能 楽 研 究 第 2 号 ( 法 政 大 学 能 楽 研 究 所 1976 年 )に 資 料 紹 介 として 翻 刻 と 解 説 を 行 っている 7 梅 若 家 所 蔵 複 写 を 武 蔵 野 大 学 能 楽 資 料 センターが 所 蔵 する また 初 代 梅 若 実 資 料 研 究 会 が 武 蔵 野 大 学 能 楽 資 料 センター 紀 要 第 15 号 (2004 年 )より 翻 刻 解 説 を 連 載 中 である

初 代 梅 若 実 と 近 代 能 楽 201 府 の 機 構 が 整 えられるなか 武 士 たちは 朝 臣 として 新 政 府 に 出 仕 するか 今 までどおり 徳 川 家 に 従 うか あるいは 農 工 商 の 身 分 になるか 3つの 選 択 を 迫 られる 初 代 実 は 最 終 的 には 朝 臣 を 希 望 するが 日 記 1868 年 8 月 9 日 には 以 下 のような 記 事 が 見 受 けられる( 原 文 を 一 部 書 き 下 し 私 に 句 読 点 および 送 り 仮 名 等 を 付 した) 芸 事 甚 だ 未 熟 には 御 座 候 得 共 何 卒 御 慈 悲 を 以 って 是 迄 之 業 通 り に 而 相 応 之 御 奉 公 仰 付 下 し 置 かれ 候 よう 偏 に 願 上 奉 候 以 上 文 意 は 自 分 の 芸 事 は 大 変 に 未 熟 であるが 慈 悲 の 心 をもってこれまで のように 能 楽 に 携 わる 業 務 を 命 じくださることを 切 に 願 う というもの である 13 日 5 代 銕 之 丞 らとともに 初 代 実 は 朝 臣 願 いを 提 出 する 10 月 10 日 に 新 政 府 より 朝 臣 の 許 可 が 下 りた 際 能 役 者 ハ 銕 之 丞 筆 頭 トシテ 順 ニ 呼 出 シニ 相 成 と 5 代 銕 之 丞 が 能 役 者 の 筆 頭 に 位 置 付 けられていた ただし 新 政 府 が 彼 らを 能 役 者 として 採 用 することはなく 初 代 実 に 与 えられた 仕 事 は 一 種 の 警 備 役 であった ところで 初 代 実 の 師 匠 であ った 観 世 大 夫 清 孝 は 朝 臣 を 願 わず 農 業 に 従 事 し 1869 年 に 徳 川 家 を 追 っ て 静 岡 に 下 る 一 見 銕 之 丞 家 との 縁 談 の 背 景 には 観 世 宗 家 から 銕 之 丞 家 に 鞍 替 えするための 目 論 見 が 働 いたようにも 見 える たしかに 1864 年 12 月 に 梅 若 家 と 銕 之 丞 家 との 縁 組 に 関 して 観 世 清 孝 は 承 諾 したものの 仲 人 の 梅 若 近 右 衛 門 が 示 した 難 色 に 追 従 する 態 度 を 示 している 予 定 されていた 結 納 は 延 期 され 翌 1865 年 6 月 に 仲 人 を 大 倉 六 蔵 に 替 えたの ち 8 月 に 結 納 が 執 り 行 われる このように 銕 之 丞 家 との 縁 組 はすんな りとことが 運 んだわけではなかった これに 辛 抱 強 く 取 り 組 んだ 初 代 実 からは 銕 之 丞 家 との 提 携 を 望 む 強 い 意 志 が 感 じられる だが 彼 も 明 治 維 新 の 到 来 という 時 代 の 流 れを 予 見 することはなく 新 政 府 につくか 旧 幕 府 に 忠 誠 を 尽 くすかの 判 断 を 尋 ねられたときには 直 前 まで 迷 って 占 師 に 頼 る 言 動 も 見 せている 初 代 実 は 維 新 後 にも 銕 之 丞 家 との 縁 組 を 進 める 1875 年 5 代 銕 之 丞 と 初 代 実 の 姪 ゆき 1902 年 には5 代 銕 之 丞 の 長 男 である6 代 銕 之 丞 ( 当 時 織 雄 )と 初 代 実 の 次 女 はなとを 結 婚 させ 大 閨 閥 を 形 成 してい く それは 梅 若 家 の 勢 力 を 拡 大 するという 政 治 的 目 的 のほかに 地 謡 および 後 見 を 梅 若 家 だけで 揃 えたいという 芸 術 上 の 欲 求 に 基 づいたもの と 思 われる 8 皮 肉 なことに 清 之 を 養 子 に 迎 えたのちに 初 代 実 は 実 子 の 男 子 に 恵 まれる 1868 年 に 誕 生 した 長 男 の 万 三 郎 と 1878 年 に 誕 生 した 次 男 の 六 郎 (5 4 代 幼 名 竹 世 以 下 六 郎 とする)である 初 代 実 没 後 の1921( 大 正 10) 年 に 実 子 の 万 三 郎 と 六 郎 そして 娘 婿 の 6 代 銕 之 丞 の3 人 は 観 世 流 から 独 立 して 梅 若 流 を 樹 立 する 彼 らは 万 六 銕 と 称 され 能 楽 界 の3 名 人 として 華 々しい 活 躍 を 遂 げた これ 8 初 代 実 の 家 長 としての 活 動 は 三 浦 裕 子 氣 多 恵 子 梅 若 実 日 記 に 見 る 家 長 としての 初 代 梅 若 実 平 野 家 とのかかわりを 中 心 に ( 楽 劇 学 第 11 号 2004 年 )を 参 照 されたい

202 三 浦 裕 子 は 初 代 実 の 後 継 者 育 成 が 成 功 した 証 しと 言 えよう しかし 初 代 実 は 梅 若 流 樹 立 を 遠 い 将 来 の 希 望 としていたのだろうか 明 治 初 年 にはやく も 梅 若 流 樹 立 が 囁 かれたようだが 初 代 実 は 日 記 1901 年 7 月 9 日 に 一 度 先 祖 観 世 流 へ 随 身 致 シタル 事 故 ( 略 ) 観 世 流 と 違 フナゾ 心 外 ノ 至 リト 云 事 とある 文 意 は 一 度 先 祖 が 観 世 流 に 従 ったのであるから 観 世 流 を 離 れるなど 心 外 であるということで 観 世 流 からの 独 立 を 否 定 し ている 銕 之 丞 家 との 提 携 は 初 代 実 が 梅 若 家 のために 打 った 布 石 であっ たのに 息 子 たちは 初 代 実 の 意 図 とは 別 の 方 向 に 走 ってしまったと 考 え ることもできよう 1954 年 梅 若 流 は 観 世 流 に 復 帰 する 残 念 ながら 清 之 とつるとの 結 婚 は1895 年 12 月 に 破 局 を 迎 える 初 代 実 が2 人 の 実 子 に 恵 まれたための 悲 劇 と 思 われる 観 世 家 に 復 帰 した 清 之 は 改 めて 一 家 を 建 てるが これがのちの 観 世 喜 之 家 で 現 在 で4 代 を 数 える 清 之 と 梅 若 家 およびつるにとって 離 縁 は 不 幸 な 出 来 事 であった だろうが これが 端 緒 となって 観 世 喜 之 家 という 演 能 団 体 が 確 立 された ことは 能 楽 界 にとって 新 たな 財 産 を 獲 得 したことでもあった III 能 舞 台 の 建 設 1865 年 4 月 清 之 を 養 子 に 迎 える 直 前 に 初 代 実 は 自 宅 に 稽 古 用 舞 台 であ る 敷 舞 台 を 建 てている この 敷 舞 台 のうち 本 舞 台 の 部 分 は2 間 四 方 9 と 定 寸 の3 間 よりかなり 狭 いものであった 正 式 の 能 楽 を 上 演 することは 難 しく 初 代 実 はのちに 村 芝 居 にも 劣 るような 始 末 10 と 安 普 請 を 振 り 返 っている 梅 若 家 の 舞 台 は1871 年 に 篠 山 藩 旧 藩 主 の 青 山 家 の 能 舞 台 の 譲 渡 を 受 け この 敷 舞 台 に 取 って 替 わる 敷 舞 台 設 営 は 初 代 実 自 身 が 稽 古 場 を 確 保 するために 行 ったもので あったが はからずも 維 新 後 の 拠 点 の 準 備 ともなっていった 能 舞 台 を 確 保 した 初 代 実 はどのような 活 動 を 展 開 していくのであろうか 敷 舞 台 設 営 以 前 から 初 代 実 は 自 宅 で 稽 古 能 などを 遂 行 していた 明 治 維 新 の 動 乱 で 一 時 中 断 するものの 1868 年 11 月 に 早 くもアシライ 袴 能 という 略 式 の 能 の 上 演 を 再 開 している また1885 年 に 始 まる 一 六 の 稽 古 会 11 は 梅 若 家 一 族 および 玄 人 弟 子 養 成 の 場 となり 1908 年 末 までに 759 回 を 数 え201 番 の 能 を 繰 り 返 し 繰 り 返 し 稽 古 している ところで 江 戸 時 代 各 宗 家 は 自 宅 にしつらえた 能 舞 台 で 稽 古 能 と いう 建 前 のもと 能 楽 を 演 じていた しかしシテ 方 5 流 のうち 金 剛 流 を 除 けば 明 治 維 新 直 後 に 各 宗 家 は 自 宅 における 活 動 を 休 止 している た とえば 観 世 清 孝 は 前 述 したように1869 年 に 静 岡 へ 下 り 1875 年 に 東 京 9 幅 2 間 奥 行 きは 後 座 をあわせて2 間 半 面 積 は10 畳 それに1 間 半 の 橋 掛 リが ついた 敷 舞 台 であった 10 初 代 梅 若 実 聞 き 書 き その4 ( 梅 若 1973 年 3 月 号 ) 11 1と6の 付 く 日 に 催 していた 稽 古 会 のこと これに 関 しては 拙 稿 初 代 梅 若 実 と 一 六 の 稽 古 ( 能 と 狂 言 第 3 号 能 楽 学 会 2005 年 )を 参 照 されたい

初 代 梅 若 実 と 近 代 能 楽 203 に 戻 る そして 1876 年 末 から 断 続 的 に 自 宅 で 月 並 能 を 催 すようになる 宝 生 が 一 応 の 能 舞 台 を 確 保 するのが1885 年 喜 多 が1893 年 である 12 初 代 実 は 敷 舞 台 時 代 の1870 年 1 月 から 能 楽 公 演 を 意 図 的 に 公 開 する ようになる つまり 自 宅 の 催 しに 公 的 な 性 格 を 持 たせたのである そ のうえ 青 山 家 の 能 舞 台 を 譲 り 受 けたのちは 本 格 的 な 能 楽 公 演 を 催 すこ とが 可 能 となり 外 国 の 賓 客 を 自 宅 に 招 くこともあった 13 明 治 初 年 にシテ 方 5 流 の 宗 家 ではない 梅 若 家 が 最 もはやく そして 最 も 活 発 に 自 宅 で 能 楽 公 演 を 催 していたのである また 1881 年 に 能 楽 社 という 組 織 が 芝 能 楽 堂 を 建 設 する これ 以 前 の 梅 若 家 の 能 舞 台 は 梅 若 家 が 利 用 するだけでなく 能 楽 そのものの 拠 点 であり 能 楽 史 において 重 要 な 意 味 を 持 っていたと 言 える IV レパートリーの 拡 大 式 楽 としてではなく 娯 楽 として 新 しい 観 客 層 に 向 けて 積 極 的 に 能 楽 を 提 供 していった 初 代 実 は これに 付 随 するようなふたつの 事 象 に 対 して 意 欲 を 見 せる ひとつは 江 戸 時 代 には 固 定 化 されていた 上 演 演 目 を 増 加 させることであった 初 代 実 が 開 拓 した 演 目 には 別 能 といわれる 作 品 群 がある 1840( 天 保 11) 年 に6 冊 の 謡 本 が 山 本 長 兵 衛 より 出 版 されるが これに 収 められ た28 番 のことをのちに 別 能 と 称 するようになる 別 能 は 江 戸 時 代 を 通 じ て 観 世 座 の 正 式 なレパートリーに 入 ることはなかったが このように 謡 本 が 整 備 されており しかも 部 分 奏 演 が 伝 わっている 演 目 もあったので 能 のレパートリーを 拡 大 する 際 に 格 好 の 対 象 となったわけである 初 代 実 が 別 能 を 初 演 する 場 合 日 記 に 再 興 と 書 かれることがほと んどで 上 演 されなくなった 演 目 を 復 活 させたという 気 持 ちが 表 れたも のであろう 初 代 実 がシテを 初 演 した 別 能 に 1874 年 の 鳥 追 舟 1876 年 の 雨 月 1886 年 の 室 君 がある シテを 演 じたのではないが 梅 若 家 で 上 演 したことから 初 代 実 が 何 らかの 関 与 をしたと 思 われる 別 能 として 1874 年 の 水 無 月 祓 1875 年 の 枕 慈 童 歌 占 1886 年 の 胡 蝶 189 0 年 の 現 在 七 面 三 笑 がある なお 碇 潜 は1899 年 11 月 および190 7 年 11 月 1908 年 11 月 の 一 六 の 稽 古 会 で 上 演 されているが 特 に 再 興 とは 記 されていない そして 1908 年 11 月 15 日 の 月 並 能 で 再 発 碇 潜 となっている この 記 述 の 意 味 はよくわからないが 初 代 実 は 一 六 の 稽 古 会 で 練 り 上 げた 演 目 を 月 並 能 で 初 めて 公 開 したと 意 識 していたので はないだろうか この 月 並 能 から2ヶ 月 後 に 初 代 実 は 病 死 するので 最 晩 年 までレパートリーの 拡 充 に 努 めていたことがわかる 12 詳 しくは 本 誌 にある 小 林 責 明 治 能 楽 小 史 主 として 東 京 の 役 者 および 能 楽 社 の 流 れについて を 参 照 されたい 13 詳 しくは 本 誌 にあるShinko Kagaya The First Umewaka Minoru and Performances for Guests from Overseas を 参 照 されたい

204 三 浦 裕 子 別 能 以 外 にも 初 代 実 は1872 年 に 仲 光 を 初 演 し 1891 年 に 菊 慈 童 を 六 郎 に 初 演 させている 14 V 能 面 能 装 束 の 収 集 初 代 実 が 見 せたもうひとつの 意 欲 は 能 面 能 装 束 の 収 集 であった これ らは 能 を 演 ずるための 道 具 であるが それ 以 上 の 意 味 を 持 つものである ところで 現 在 の 梅 若 家 当 主 56 代 梅 若 六 郎 は 華 麗 な 芸 風 で 高 い 人 気 を 誇 る 優 れた 解 釈 で 古 典 の 能 を 演 じるだけでなく 新 作 能 や 古 い 台 本 を 復 活 することにも 挑 戦 し 続 けている 最 も 多 忙 な 能 役 者 の1 人 である 56 代 六 郎 の 幅 広 い 活 躍 は 曽 祖 父 の 初 代 実 が 築 き 上 げた 有 形 無 形 の 財 産 に 負 うところが 大 きい 無 形 の 財 産 とは 梅 若 家 の 権 威 である 有 形 の 財 産 のひとつには 実 が 収 集 した 能 面 と 能 装 束 があげられるのである 養 父 の51 代 六 郎 は 大 変 な 浪 費 家 で 初 代 実 が 譲 り 受 けるものはなかっ たと 履 歴 略 書 に 記 されている 買 入 帳 によると 初 代 実 は1870 年 から1897 年 にかけて 数 多 くの 能 装 束 を 購 入 しており 履 歴 略 書 には 面 装 束 小 道 具 悉 皆 調 明 治 廿 年 迄 ニ 当 時 宅 計 リ 也 と 1887 年 までに 面 装 束 小 道 具 をすべて 調 えたのは 梅 若 家 だけであった と 初 代 実 の 自 負 が 書 かれている 能 はコスチューム プレイではない が 能 面 能 装 束 の 選 択 によって1 曲 の 成 否 が 決 まる 場 合 がある 特 に 能 面 は 演 出 家 にも 似 た 絶 対 的 な 存 在 である 優 れた 能 面 能 装 束 は 所 蔵 する 家 の 権 威 を 高 めることにもなるのである 梅 若 家 は1945( 昭 和 20) 年 の 東 京 大 空 襲 で 能 面 約 150 面 装 束 500 領 以 上 を 焼 失 してしまったという 15 しかし 今 日 でも 素 晴 らしい 能 面 能 装 束 をたくさん 所 有 している 初 代 実 没 後 に 入 手 したものもあるだろう が 名 品 の 多 くが 初 代 実 による 収 集 と 考 えられる また 梅 若 家 のコレ クションは 大 変 にバラエティーに 富 んでいる これは 初 代 実 が 能 楽 の 名 家 および 大 名 家 商 人 装 束 屋 など 各 方 面 から 輩 出 された 逸 品 を 精 力 的 に 集 めた 結 果 と 思 われる たとえば 買 入 帳 および 現 在 の 名 称 16 でもある 赤 地 火 焔 太 鼓 金 霞 唐 織 は 大 給 藩 旧 藩 主 の 松 平 家 から1878 年 に 購 入 している( 価 格 は 不 明 ) 現 在 紺 地 段 入 子 菱 雪 持 笹 厚 板 と 称 されているものは 買 入 帳 に 花 色 紅 茶 段 雪 笹 厚 板 とあるものであろう これは1879 年 に 日 本 橋 佐 内 丁 の 森 田 喜 兵 衛 という おそらく 商 人 から 金 24 円 で 購 入 して いる また 現 在 赤 地 花 鳥 長 絹 といわれるものは 買 入 帳 に 赤 地 金 花 鳥 長 絹 とあるもので 1884 年 に 装 束 屋 の 関 岡 長 右 衛 門 から 金 20 円 で 購 入 したものであろう 14 日 記 1891 年 10 月 4 日 に 六 郎 ( 当 時 竹 世 )の 順 養 子 願 済 祝 能 における 菊 慈 童 について 本 日 再 興 初 テ 勤 ル とあるが 日 記 1886 年 12 月 12 日 に 観 世 清 孝 が 菊 慈 童 を 演 じた 記 録 があるので 再 興 の 意 味 を 検 討 する 必 要 がある 15 華 の 能 梅 若 500 年 ( 講 談 社 1981 年 )による 16 現 在 の 名 称 はすべて 展 覧 会 図 録 能 の 華 ( 朝 日 新 聞 社 1988 年 )によった

初 代 梅 若 実 と 近 代 能 楽 205 能 面 の 方 に 目 を 転 じてみよう 黒 式 尉 は 狂 言 方 が 用 いる 面 だが 現 在 梅 若 家 所 蔵 のものは 重 要 文 化 財 に 指 定 されている 明 治 維 新 前 後 の 喜 多 流 宗 家 13 代 勝 吉 は 伝 来 の 面 の 多 くを 手 放 してしまったことがい われており この 面 は12 代 宗 家 能 静 の 手 許 にあったことが 確 実 で 勝 吉 時 代 のころに 初 代 実 が 入 手 したものと 推 定 できる 能 面 老 女 小 町 も 能 静 の 手 許 にあったことが 確 実 な 面 で やはり 勝 吉 時 代 あたりに 初 代 実 が 入 手 したのであろう この 老 女 小 町 は2002( 平 成 14) 年 に 横 浜 能 楽 堂 で 催 された 秀 吉 が 見 た 卒 都 婆 小 町 という 16 世 紀 末 の 能 楽 の 実 態 を 探 る 公 演 で シテを 演 じた 山 本 順 之 が 用 いた 山 本 は 観 世 流 の 鉄 仙 会 に 所 属 しており 梅 若 家 の 役 者 ではない この 能 面 を 使 用 したこ とで 実 験 的 な 試 みに 芸 術 的 な 奥 行 きが 広 がったと 思 われる 珍 しいと ころでは 落 語 家 の 三 遊 亭 円 朝 が 初 代 実 に 贈 った 喝 食 も 高 い 評 価 を 得 ている 能 面 である このように 梅 若 実 の 収 集 した 能 面 能 装 束 は 現 代 の 能 楽 界 に 多 大 な 貢 献 をしている 本 来 は 梅 若 家 のためのコレクションが 時 を 越 え 家 を 越 えて 活 用 されているわけである しかし 残 念 ながら 彼 がこれ らの 能 面 能 装 束 を 用 いてどのような 能 を 舞 っていたのか 現 在 ではそ れを 知 る 手 掛 かりは 残 されていない まとめ 初 代 実 は 明 治 元 年 に41 歳 であり 82 歳 で 亡 くなるちょうど 折 り 返 し 地 点 に 立 ったときに 明 治 維 新 を 迎 えた 以 後 初 代 実 は 能 楽 の 新 たな 秩 序 を 模 索 し 確 立 しながら 能 楽 界 の 中 心 人 物 となっていく それは これ 以 前 の41 年 間 近 代 という 新 たな 時 代 の 到 来 を 全 く 予 想 しないところで 後 半 生 の 活 躍 のための 長 い 準 備 期 間 を 生 きてきたからこそ 可 能 になった ことである 限 られた 誌 面 で 初 代 実 の 波 乱 に 満 ちた 生 涯 を 言 い 尽 くすことは 無 理 であるが 今 述 べた 点 は 強 調 してもしすぎることはないと 思 われる 今 後 はさらに 時 間 をかけて 日 記 を 熟 読 し 初 代 実 の 真 の 姿 を 明 らかに したいと 思 っている 本 稿 は2005 年 8 月 31 日 から9 月 2 日 までウィーンで 開 催 されたEAJSに おける5 名 のパネル Exploring, Expanding,and Crossing Borders Into and Through the Meiji Period: Noh Performer, the First Umewaka Minoru (1828 1909) の 冒 頭 に 行 った 筆 者 の 発 表 初 代 梅 若 実 という 能 役 者 梅 若 実 日 記 をめ ぐって The First Umewaka Minoru;Approaching a Noh Performer Through His Diary をもとにしたものである 加 筆 訂 正 に 当 たって さまざまなご 教 示 をくださった 小 林 責 スタンカ ショルツ 両 氏 に 深 く 感 謝 する なお 文 中 は 敬 称 略 とした