1898( 明 治 31) 年 韓 国 船 遭 難 事 件 についての 一 考 察 山 﨑 佳 子 はじめに 明 治 31(1898) 年 4 月 釜 山 から 鬱 陵 島 へ 向 かっていた 韓 国 船 が 日 本 海 で 遭 難 し 漂 流 していた 韓 国 人 46 人 が 通 りかかったロシア 船 に 救 助 され 翌 5 月 長 崎 を 経 由 して 釜 山 に 送 還 されるという 事 件 が 起 こった 遭 難 地 点 は 外 務 省 記 録 によれば 韓 国 松 島 沖 とされている これを 基 に 報 告 の 記 述 に 従 えば 竹 島 / 独 島 のことを 指 しているのが 明 らかである とし さらに したがってこの ときまでも 松 島 ( 竹 島 / 独 島 )は 日 本 の 版 図 外 であった 1 という 主 張 が 行 われる しかし 19 世 紀 末 の 明 治 政 府 が 松 島 を 主 に 鬱 陵 島 の 呼 称 として 公 的 に 使 用 していたことを 鑑 みると 遭 難 地 点 の 松 島 を 竹 島 / 独 島 と 断 定 することには 疑 問 がある そこで 本 稿 ではこれまであまり 研 究 の 対 象 とならなかったロシアの 資 料 を 含 め この 明 治 期 の 松 島 をどの 島 に 比 定 するかという 点 と 当 時 の 関 係 各 国 の 松 島 認 識 それに 付 随 する 竹 島 問 題 に 関 わるいくつかの 点 について 資 料 に 基 づいて 検 討 考 察 したい (1) 韓 国 船 遭 難 事 件 発 生 地 点 は 韓 国 松 島 日 本 맛주시마(マツシマ) 本 件 に 関 し 池 内 敏 は 外 務 省 外 交 史 料 館 に 残 された 漂 流 民 救 助 についての 日 本 外 務 省 史 料 2 を 紹 介 し 遭 難 現 場 である 韓 国 松 島 について 釜 山 ヨリ 平 海 欝 陵 島 へ 航 行 ノ 途 風 波 ノ 為 メ 韓 国 松 島 沖 ニ 漂 流 中 と 平 海 欝 陵 島 と 韓 国 松 島 の 二 島 が 存 在 するかのように 表 記 されていた ためであろうか 現 竹 島 であると 断 定 した 3 また 朴 炳 渉 ( 半 月 城 )も ここで 韓 国 松 島 沖 の 位 置 ですが 釜 山 と 欝 陵 島 とを 結 ぶ 航 路 において 遭 難 しそうな 松 島 沖 は 現 在 の 竹 島 = 独 島 以 外 には 考 えられません ( 中 略 )したがって 外 務 省 の 公 文 書 に 書 かれた 韓 国 松 島 は 現 在 の 竹 島 を = 独 島 をさすと 見 て 差 しつかえありません 池 内 教 授 もそのような 見 方 でした と 池 内 を 支 持 して いる 4 さらに 内 藤 正 中 もこの 韓 国 松 島 を 現 竹 島 とし 明 治 政 府 が 竹 島 を 韓 国 領 と 認 識 していた 証 拠 だとした 5 これに 対 し 舩 杉 力 修 は 旧 韓 国 外 交 文 書 に 収 録 された 本 件 遭 難 事 件 に 関 する 韓 露 間 の 外 交 文 書 6 を 紹 介 し 露 韓 両 国 の 外 交 文 書 で 記 された マツシマ は 現 在 の 竹 島 ではなく 鬱 陵 島 のこと だった と 反 論 した 7 このように 松 島 /マツシマ という 名 称 の 島 の 沖 で 救 助 されたことは 一 致 しているが その 島 を 鬱 陵 島 と 現 竹 島 のどちらに 比 定 するかが 問 題 である ここで 明 治 期 の 松 島 を 語 るうえで 注 意 を 払 うべき 点 は 鬱 陵 島 と 現 竹 島 に 関 する 島 名 の 変 遷 の 歴 史 と 実 際 の 地 理 的 認 識 である 慶 応 3 (1867) 年 製 の 勝 海 舟 大 日 本 国 沿 海 略 図 にみられるように 西 洋 地 図 を 参 照 し 始 めた 日 本 人 は 誤 記 載 された 本 来 存 在 しないアルゴノート 島 を 竹 島 江 戸 時 代 に 竹 島 と 呼 んでいた 鬱 陵 島 を 松 島 松 島 と 呼 んでいた 現 竹 島 を りゃんこ 島 などとそれぞれ 呼 び 始 めた この 島 名 の 混 乱 がしば 1 2 3 4 池 内 敏 近 世 日 本 の 西 北 境 界 史 林 90 巻 1 号 2007 年 146 頁 外 務 省 困 難 船 及 漂 民 救 助 雑 件 韓 国 之 部 第 八 巻 池 内 前 掲 論 文 ( 注 1) 146 頁 朴 炳 渉 韓 国 松 島 沖 での 漂 民 救 助 半 月 城 通 信 No.128 2007 年 8 月 5 2007 年 11 月 東 京 大 学 東 洋 文 化 研 究 所 主 催 のシンポジウムでの 見 解 6 高 麗 大 学 校 亜 細 亜 問 題 研 究 所 旧 韓 国 外 交 文 書 17 巻 ロシア 編 1969 年 7 舩 杉 力 修 旧 韓 国 外 交 文 書 にみる 松 島 Web 竹 島 問 題 研 究 所 2007 年 9 月 28 日 - 19 -
らく 続 く 様 子 は 外 務 省 の 北 澤 正 誠 竹 島 考 証 と 竹 島 版 図 所 属 考 ( 明 治 14 年 )に 収 録 された 文 書 等 に 見 てとれるが 北 澤 はその 中 で 明 治 13(1880) 年 の 天 城 艦 による 測 量 結 果 8 を 踏 まえ 当 時 開 墾 論 議 の 対 象 となっていた 松 島 を 欝 陵 島 と 結 論 づけた このように 松 島 の 呼 称 は 江 戸 期 の 現 竹 島 という 認 識 から 徐 々に 変 化 して 1898 年 当 時 の 日 本 では 主 に 鬱 陵 島 を 指 しており 明 治 以 降 の 史 料 に 見 る 松 島 を 論 ずる 場 合 には 当 然 そうした 歴 史 的 経 緯 に 十 分 留 意 したうえで 判 断 せねばならない では 一 方 の 韓 国 側 の 史 料 のロシア 語 文 書 には 実 際 どう 書 かれているのかを 次 に 検 討 する (2) 韓 国 人 が 救 助 されたのは ダジェレー= 鬱 陵 島 旧 韓 国 外 交 文 書 は ソウル 国 立 大 学 奎 章 閣 に 保 管 されている 大 韓 帝 国 時 代 の 外 交 文 書 の 綴 り を 1965 年 から 1973 年 にかけて 韓 国 高 麗 大 学 校 亜 細 亜 問 題 研 究 所 の 旧 韓 国 外 交 文 書 編 纂 委 員 会 が 編 さんし 高 麗 大 学 校 出 版 部 が 刊 行 したものである 全 22 巻 のうち 第 17 18 巻 が 俄 案 つまり ロシアとの 外 交 書 簡 集 となっており 第 17 巻 に 1882 年 5 月 から 1898 年 12 月 の 記 録 が 収 録 され 本 遭 難 事 件 についての 一 連 の 外 交 書 簡 が 含 まれている まず 1031. ロシア 商 船 鬱 陵 島 近 方 で 韓 国 人 46 名 の 救 助 事 実 通 告 ( 以 下 1031 号 文 書 等 とする この 番 号 と 表 題 は 原 文 書 の 番 号 ではなく 編 者 である 高 麗 大 学 校 亜 細 亜 問 題 研 究 所 旧 韓 国 外 交 文 書 編 纂 委 員 会 が 付 けたもの )と 題 された 文 書 を 検 討 する 9 この 中 で 4 月 29 日 在 韓 国 ロ シア 公 使 館 が 韓 国 外 部 ( 外 務 省 のこと) 宛 に ロシアの 商 船 が マツシマ 沖 で 沈 没 船 の 韓 国 人 を 救 助 した 事 実 を 通 告 したことが 記 されている このロシア 語 の 原 文 に 韓 国 外 部 が 漢 訳 したものを 記 載 しているが マツシマ 島 とのみ 書 かれた 島 名 を 漢 訳 では 日 本 맛주시마(マツシマ) 島 と 原 文 にない 日 本 を 島 名 に 冠 している 1031. 外 務 省 在 韓 国 ロシア 帝 国 公 使 館 25 ソウル 1898 年 4 月 17/29 日 大 韓 帝 国 外 務 大 臣 殿 旅 順 港 から 海 軍 将 官 ドゥバーソフの 次 のような 電 報 を 皇 帝 陛 下 にお 伝 えになる よう 閣 下 にお 願 いします ロシア 義 勇 艦 隊 の 汽 船 ペテルブルグ 号 はウラジオストクから 旅 順 港 へ 向 か う 途 中 マツシマ 島 の 近 くで 嵐 によって 沈 没 した 韓 国 のジャンク 船 に 出 会 い そ こから 男 性 31 人 女 性 3 人 子 供 8 人 を 救 助 しました また 積 荷 の 一 部 も 回 収 でき ました 彼 らは 長 崎 に 運 ばれてから プサンに 渡 るでしょう 公 使 代 理 : 8 水 路 雑 誌 第 41 号 (1883 年 )は 鬱 陵 島 ( 一 名 松 島 ) 該 島 は 我 隠 岐 を 距 る 北 西 四 分 の 三 西 約 一 百 四 十 里 朝 鮮 江 原 道 海 岸 を 距 る 約 八 十 里 洋 中 に 孤 立 し 全 島 嵯 峨 たる 円 錐 形 の 丘 陵 集 合 して 樹 木 之 を 蔽 う 而 して 其 中 心 北 緯 三 十 七 度 二 十 二 分 東 経 一 百 三 十 度 五 十 七 分 露 測 に 據 る と 報 告 している (34 頁 ) 9 高 麗 大 学 校 亜 細 亜 問 題 研 究 所 前 掲 書 ( 注 6) 547 頁 - 20 -
翌 4 月 30 日 韓 国 外 部 大 臣 がロシア 公 使 マチューニンへ 謝 礼 を 照 覆 し(1032 号 文 書 ) 5 月 2 日 韓 国 外 部 大 臣 はロシア 公 使 あてに 再 度 謝 礼 の 文 書 を 送 る(1033 号 文 書 ) 10 それに 対 して 5 月 5 日 ロシア 側 は 太 平 洋 艦 隊 司 令 長 官 ドゥバーソフへ 救 助 に 対 する 韓 国 政 府 の 謝 意 を 伝 達 した 事 を 伝 える (1048 号 文 書 ) 11 (なお 原 資 料 には 旧 暦 と 新 暦 が 併 記 されているが 新 暦 で 叙 述 する ) 1048. 外 務 省 在 韓 国 ロシア 帝 国 公 使 館 29 ソウル 1898 年 4 月 23/5 月 5 日 大 韓 帝 国 外 務 大 臣 殿 外 務 大 臣 殿 からの 旧 暦 5 月 2 日 付 け 通 牒 を 踏 まえて 閣 下 のお 願 いに 応 じて 海 軍 将 官 ドゥバーソフ 宛 てにしかるべき 電 報 を 送 信 したことをお 伝 えします 公 使 代 理 : 5 月 17 日 ロシアから 韓 国 側 へ 名 簿 が 伝 達 (1072 号 文 書 )され その 中 で 先 に マツシマ と なっていた 島 名 が 鬱 陵 島 の 西 洋 名 である ダジェレ と 書 き 改 められ 漢 訳 は 다셔롓다(タショ レッタ) としている 12 1072. 外 務 省 在 韓 国 ロシア 帝 国 公 使 館 100 ソウル 1898 年 5 月 5/17 日 大 韓 帝 国 外 務 大 臣 殿 私 からの 今 年 4 月 17/29 日 付 け 通 牒 第 25 号 を 補 足 する 形 で ダジェレー 付 近 で 溺 死 しそうであった ロシア 義 勇 艦 隊 の 汽 船 ペテルブルグ 号 によって 救 助 され た 韓 国 人 の 名 簿 を 当 通 牒 の 裏 面 に 載 せて 閣 下 に 送 付 します 公 使 代 理 : 裏 面 ダジェレー 付 近 で 救 助 された 韓 国 人 の 名 簿 ( 訳 注 : 以 下 男 性 30 人 妻 7 名 男 子 6 名 女 子 2 名 の 計 45 名 の 名 前 が 書 かれてい 10 同 上 547-548 頁 11 同 上 555-556 頁 12 同 上 573-575 頁 なお 遭 難 者 男 性 30 人 計 45 名 のロシア 語 リストがあるが 韓 国 外 部 による 漢 訳 では 男 性 31 人 計 46 名 となっている 日 本 側 の 史 料 では 名 簿 上 は 46 名 文 中 では 主 に 45 名 となっている - 21 -
る) 5 月 23 日 大 韓 帝 国 外 部 大 臣 からロシア 公 使 マチューニンへ 遭 難 韓 国 人 の 名 簿 送 付 に 対 する 謝 礼 と 当 時 の 情 況 詳 示 要 望 が 出 され 遭 難 の 情 況 地 名 人 名 の 詳 細 を 教 示 するよう 求 める(1082 号 文 書 ) 13 5 月 28 日 遭 難 韓 国 人 の 当 時 の 情 況 詳 示 依 頼 に 対 する 照 覆 にて リストはロシア 語 のみ であり かつ 既 に 伝 達 している 旨 を 伝 える(1091 号 文 書 ) 14 1091. 122 外 務 省 在 韓 国 ロシア 帝 国 公 使 館 ソウル 1898 年 5 月 16/28 日 大 韓 帝 国 外 務 大 臣 殿 残 念 ながら 閣 下 の 通 牒 第 39 号 に 述 べられたご 希 望 を 満 たすことができません ロシアの 汽 船 ペテルブルグ 号 によって 救 助 された 韓 国 人 の 名 簿 は 船 長 によって ロシア 語 で 作 成 され 韓 国 語 への 翻 訳 はありません この 名 簿 の 正 確 な 写 しはすで に 今 年 5 月 5/17 日 付 け 通 牒 第 100 号 とともに 閣 下 にお 伝 えしてあります 公 使 代 理 : 以 上 韓 国 側 史 料 のうち 主 にロシア 語 文 書 をもとに 韓 国 船 遭 難 救 助 事 件 の 経 緯 を 検 討 した 問 題 の マツシマ については 1072 号 文 書 において 沈 没 し Дажелет(ダジェレ) 付 近 で 義 勇 艦 隊 の 汽 船 ペテルブルグ 号 によって 救 助 された 韓 国 人 とされ 翻 刻 した 高 麗 大 学 も 露 商 船 が 欝 陵 島 近 方 にて 韓 人 46 名 を 救 助 した 事 実 の 通 告 と 標 題 を 付 けている 事 から ロシア 船 が 難 破 し た 韓 国 人 一 行 を 救 助 した 場 所 は 現 竹 島 沖 ではなく 鬱 陵 島 /ダジュレー 島 沖 と 考 えるのが 妥 当 であ る (3) 鬱 陵 島 を Мацушима(マツシマ)/Matsushima としたロシア 帝 国 並 びに 西 洋 列 強 の 認 識 鬱 陵 島 を Matsushima( 松 島 ) とする 認 識 は シーボルトの 日 本 図 (1840 年 )が 実 在 し ないアルゴノート 島 ( 東 経 129 度 50 分 )を 竹 島 とし 東 経 130 度 56 分 の 鬱 陵 島 (ダジュレー 島 ) を 松 島 としたことに 由 来 する 1855 年 頃 から 鬱 陵 島 の 別 名 として Dagelet(ダジュレー) とと もに 西 洋 の 間 で 広 く 使 用 されており 救 助 した 側 のロシア 製 1882 年 版 の 海 図 朝 鮮 東 海 岸 図 にお いても 鬱 陵 島 は Matsu-shima と 明 記 されている 15 韓 国 人 を 救 助 したロシア 商 船 ペテルブル グ 号 が 本 国 並 びに 日 本 外 務 省 に 連 絡 する 際 に 参 照 すると 考 えられるのは 海 図 であり これら 当 時 の ロシア 製 の 海 図 で 鬱 陵 島 が Matsu-shima また 現 竹 島 は Оливуца(オリヴツァ) &Менелай(メ ネライ) と 表 記 されていたことから 本 件 におけるロシア 側 文 書 中 の Мацушима(マツシマ) 13 14 15 同 上 582 頁 同 上 588 頁 李 鎮 明 独 島 - 地 理 上 の 再 発 見 - ( 韓 国 語 )2005 年 268 頁 (ロシア(キリル) 文 字 表 記 の 可 能 性 もある ) - 22 -
が 鬱 陵 島 ではなく 現 竹 島 であった 可 能 性 はまず 無 い 海 図 以 外 でも ロシア 大 蔵 省 の 韓 国 誌 (1900 年 )に 鬱 陵 島 は Уль-нынъ-до (ウルルンド)/Мацушима(マツシマ)/Дажелетъ(ダジュレート) その 付 属 島 は Ос Вусоль (ブッソール 岩 島 ) ( 注 : 竹 嶼 ( 韓 国 名 竹 島 )のこと)として 地 理 の 項 に 16 加 えて 巻 末 の 付 属 図 韓 国 図 にも 明 記 されている (なお 本 書 の 朝 鮮 国 の 位 置 及 び 面 積 の 項 において ( 朝 鮮 国 の) 最 東 の 地 点 はダジェレット 島 で グリニッジ 子 午 線 を 基 準 とすれば 東 経 130 度 54 分 である とし 17 付 図 や 江 原 道 の 項 にも 竹 島 に 関 する 記 述 が 見 られないことから 1900 年 当 時 のロシア 帝 国 政 府 の 認 識 において 現 竹 島 は 明 らかに 韓 国 の 版 図 外 とされていたことが 分 か る ) さらに ロシアのみならずアメリカ イギリス ドイツなど 主 要 国 作 成 の 19 世 紀 後 半 の 海 図 や 水 路 誌 地 図 地 誌 等 においても 鬱 陵 島 という 韓 国 語 の 名 称 より Dagelet(ダジュレー 島 )/Matsushima( 松 島 ) と 記 載 されることが 多 い 例 を 挙 げると 先 に 述 べたシーボルトの 日 本 図 を 始 め ペリー 提 督 日 本 遠 征 記 の 折 り 込 み 地 図 (1855 年 )に Dagelet or Matsusima 1863 年 の 英 国 製 海 図 に Matu sima(dagelet I.) などと 表 記 され また 1894 年 の 英 国 海 軍 水 路 誌 China Sea Directory にも 日 本 海 (JAPAN SEA)に 浮 かぶ 島 嶼 のうち 注 意 を 必 要 とするものとして Liancourt rocks に 続 いて Matsu sima(dagelet island) を 挙 げ さらにその 付 属 図 に 鬱 陵 島 を Matsu sima と 記 載 している また ドイツのシュティーラー 地 図 18 では Matsu sima あるい は Matsu sima(dagelet I.) アンドレ Allgemeiner Handatlas (1893 年 )では Matsu sima と 表 記 された ただし 19 世 紀 後 半 開 国 前 の 朝 鮮 に 多 くの 宣 教 師 を 派 遣 して 朝 鮮 の 事 情 に 通 じてい たフランスは 例 外 で 1890 年 代 までその 朝 鮮 図 の 多 くが 鬱 陵 島 を Oul-rang to 東 岸 の 于 山 島 を Ou-san 等 とするが その 于 山 島 は 明 らかに 朝 鮮 の 古 地 図 にある 于 山 島 で その 位 置 を 見 ると 竹 嶼 ( 韓 国 名 竹 島 )であり 朝 鮮 図 以 外 でも 現 竹 島 を 韓 国 領 と 明 記 したものはない その 後 フランス 製 の 地 図 においても 鬱 陵 島 を Is. Dagelet (Matsou Sima) (Jap.) 現 竹 島 を Is. Liancourt ou Hornet (Jap.) としたシュレーダー(F. Schrader)の Atlas de géographie moderne の 挿 図 Chine Orientale- Corée- Japon (1894 年 )のように 1890 年 代 を 境 に 次 第 に 鬱 陵 島 の Matsushima 表 記 が 増 加 してくる なお 1880 年 から 1905 年 までに 作 成 された 民 間 を 含 む 西 洋 地 図 について 現 在 までに 筆 者 の 調 べたところでは その 過 半 数 はDagelet/Matsushima( 鬱 陵 島 )とLiancourt Rocks/Hornet Rocks( 現 竹 島 )を 日 本 領 としており 1/3 強 は 両 島 の 所 属 が 不 明 であった 残 りの 鬱 陵 島 を 韓 国 領 とするも のは 僅 かで 現 竹 島 を 韓 国 領 とするものは 管 見 の 限 り 皆 無 であった (なお 韓 国 側 が 現 竹 島 を I: Ouen-San つまり 于 山 島 と 表 記 して 韓 国 領 としたものと 主 張 するフランス 日 刊 紙 Le Petit Journal の 地 図 Carte de la Corée du Japon et de la Chine Oriental (1894 年 )については その 経 緯 度 16 ロシア 大 蔵 省 韓 国 誌 1900 年 142-143 頁 ( 本 書 は 国 訳 韓 国 誌 (1894)として 韓 国 精 神 文 化 研 究 院 か ら 韓 国 語 訳 が 出 版 されている ) 17 同 上 142-143 頁 18 "Ost-China, Korea und Japan"(1891) 等 A.Stieler が 1817 年 に 刊 行 を 開 始 し 改 訂 を 重 ねて 20 世 紀 中 頃 まで 出 版 された 当 時 のドイツを 代 表 する 世 界 地 図 帳 Hand-Atlas のうちの 東 アジア 図 第 5 版 (1868-1874) 以 降 韓 国 の 保 護 国 化 までに 出 版 されたこれらの 地 図 では 鬱 陵 島 を 主 に Matsu sima(dagelet I.)と 表 記 さ らに 鬱 陵 島 と 韓 国 の 間 に 国 境 線 が 引 かれ 鬱 陵 島 と 竹 島 が 日 本 と 同 じ 色 で 塗 られている 竹 島 資 料 室 の 調 査 で は 1870-1899 年 の 間 に 作 成 された 14 枚 で 竹 島 が 日 本 領 とされていた 1875 年 版 の 地 図 は 竹 島 考 証 第 十 二 号 松 島 之 議 二 の 中 で 外 務 省 記 録 局 長 の 渡 邊 洪 基 が 引 用 している なお 渡 邊 は 第 十 一 号 松 島 之 議 一 で 此 ホルネツトロツクス ノ 我 國 ニ 屬 スルハ 各 國 ノ 地 圖 皆 然 リ と Hornet Rocks ( 現 竹 島 の 別 名 )が 日 本 領 であるとの 見 解 を 述 べている - 23 -
から 該 島 は 鬱 陵 島 で 現 竹 島 は 無 記 載 である さらに 韓 国 領 の 範 囲 が 示 されない 以 上 日 本 の 沿 岸 に 沿 って 描 かれた 線 の 範 囲 外 だからと 言 って その 広 大 な 日 本 海 の 海 域 すべてを 韓 国 領 とみなす ことはできない 19 ) (4) Мацушима(マツシマ) を 日 本 맛주시마(マツシマ) と 翻 訳 した 大 韓 帝 国 の 認 識 問 題 の 松 島 が 鬱 陵 島 であることは 判 明 したものの 大 韓 帝 国 政 府 外 部 文 書 からは 鬱 陵 島 の 島 名 に 関 する 混 乱 が 窺 える もともと 朝 鮮 側 にも 日 本 の 松 島 ( 鬱 陵 島 )という 呼 称 は 伝 わっていた 1882 年 5 月 に 王 命 により 鬱 陵 島 を 調 査 した 李 奎 遠 の 報 告 には 現 在 の 道 洞 で 遭 遇 した 日 本 人 達 から 日 本 では 鬱 陵 島 を 松 島 と 呼 んで 地 図 に 記 しており また 大 日 本 國 松 島 という 標 識 があることを 知 らされ 李 が 実 際 現 場 へ 行 って 確 認 したことが 記 録 されている 20 また 戦 後 の 韓 国 政 府 も 松 島 の 呼 称 を 承 知 して おり 1950 年 代 の 外 務 部 の 冊 子 には ( 明 治 維 新 以 降 ) 日 本 人 は 再 び 鬱 陵 島 に 進 出 し 鬱 陵 島 を 松 島 と 変 称 し と 明 治 期 に 日 本 人 が 鬱 陵 島 を 松 島 と 呼 ぶようになったことを 記 している 21 例 えば1031 号 文 書 においてロシア 側 公 文 書 で Мацушима(マツシマ) 附 近 で 大 韓 人 船 を 救 助 とあるが 大 韓 帝 国 の 漢 訳 では 日 本 맛주시마 (マツシマ) 島 と マツシマ に 日 本 をつけ 加 えている 一 方 1072 号 文 書 の 漢 訳 では ロシア 文 字 の ダジェレー が そのままハング ルで다셔롓다(タショレッタ=ダジェレー)と 表 記 されている ところが 既 に Мацушима(マ ツシマ) や Дажелет(ダジェレ) の 名 で 公 文 書 を 交 換 しているにもかかわらず 韓 国 外 部 は 遭 難 救 助 当 時 の 情 況 詳 示 をロシア 側 に 要 望 遭 難 の 情 況 地 名 人 名 の 詳 細 を 教 示 するよう 求 める(1082 号 文 書 ) ここから 松 島 が 鬱 陵 島 であるという 情 報 を 得 ていたはずの 韓 国 外 部 が ダジェレート マ ツシマ が 鬱 陵 島 であることを 理 解 していない 可 能 性 が 指 摘 される ところが 本 件 に 遡 ること 約 1 年 半 の 1896 年 9 月 朝 鮮 政 府 は 豆 満 江 上 流 地 域 鴨 緑 江 上 流 地 域 鬱 陵 島 茂 山 の 森 林 伐 採 権 をロシアの 会 社 に 25 年 間 譲 渡 した そして 1897 年 の 伐 木 に 関 するロシ ア 側 外 交 文 書 で 鬱 陵 島 は о-вђ Дажелетъ (ダジェレート 島 )(808 号 文 書 ) островђ Дажелетъ (Уль-лен-до) (ダジェレート (ウルリェンド) 島 )(824 号 文 書 ) островђ Уль-лен - до (Дажелетъ ) (ウルリェンド(ダジェレート) 島 )(858 号 文 書 )と 表 記 された 大 韓 帝 国 外 部 はいずれも 欝 陵 島 と 漢 訳 しており 従 ってダジェレートが 鬱 陵 島 である ことは 1896 年 の 時 点 で 当 然 認 識 されていなければならない 22 しかも 遭 難 事 件 の 1 年 後 の 1899 年 ロシアはまた 鬱 陵 島 の 伐 木 を 巡 って 韓 国 側 と 外 交 文 書 を 交 わしている その 中 で 再 び 鬱 陵 島 は островђ Дажелетъ (ダジェレート 島 )(1429 号 文 書 ) 23 островђ Дажелетъ (ульленъ-до) (ダジェレート (ウルリェンド) 島 )(1460 号 文 書 ) 24 と 表 記 されたが 韓 国 外 部 は 再 びどちらも 欝 陵 島 と 漢 訳 した 以 上 のことから 伐 木 事 件 と 遭 難 事 件 どちらも 同 じ 島 ( 鬱 陵 島 )でありながら 3 つの 島 名 (ダ 19 朝 鮮 日 報 電 子 版 2004 年 1 月 15 日 付 記 事 独 島 は 韓 国 領 土 表 記 1894 年 のフランス 地 図 発 見 この 地 図 から フランス 人 が I: Ouen-San = 于 山 島 が 鬱 陵 島 の 別 名 であるとの 認 識 を 持 っていたことが 分 かる 20 李 奎 遠 啓 本 草 壬 午 (1882 年 )5 月 5 日 条 に 彼 曰 日 本 帝 國 地 圖 又 有 輿 地 全 圖 皆 稱 松 島 也 5 月 6 日 条 に 海 邊 石 徑 上 有 倭 標 木 長 六 尺 廣 一 尺 明 治 二 年 二 月 十 三 日 岩 崎 忠 助 建 之 又 於 右 邊 書 以 大 日 本 帝 國 松 島 槻 谷 果 若 倭 人 問 情 也 などと 記 録 されている 21 大 韓 民 国 外 務 部 政 務 局 獨 島 問 題 概 論 1955 年 11 頁 22 高 麗 大 学 校 亜 細 亜 問 題 研 究 所 前 掲 書 ( 注 6) 400-446 頁 23 高 麗 大 学 校 亜 細 亜 問 題 研 究 所 旧 韓 国 外 交 文 書 18 巻 ロシア 編 2 1969 年 151 頁 24 同 上 178-179 頁 - 24 -
ジュレー 島 鬱 陵 島 松 島 )が 混 在 し 大 韓 帝 国 政 府 が マツシマ を 当 初 日 本 の 島 と 誤 認 し 後 に 鬱 陵 島 のことであると 認 識 してゆく 様 子 が 看 取 される なお 現 在 韓 国 政 府 が 現 竹 島 の 別 名 であると 主 張 する 于 山 島 は 官 製 地 図 鬱 陵 島 図 形 (1711 年 ) 同 方 眼 入 り 欝 陵 島 図 朝 鮮 地 図 (1770 年 頃 ) 大 韓 帝 国 政 府 学 部 編 輯 局 発 行 の 経 緯 度 線 入 り 大 韓 全 図 (1899 年 ) 大 韓 輿 地 図 (1900 年 頃 ) 等 における 記 載 から 鬱 陵 島 東 岸 2~4kmに ある 竹 嶼 ( 韓 国 名 竹 島 )であることが 明 確 である さらに 明 治 期 しばしば 韓 国 側 から 抗 議 のあった 日 本 人 の 鬱 陵 島 渡 航 と 退 去 要 請 には 現 竹 島 についての 言 及 は 皆 無 で さらに 伐 木 事 件 をきっかけに なされた 鬱 陵 島 の 郡 への 昇 格 (1900 年 )のための 調 査 25 や 請 議 書 26 にも 鬱 陵 島 の 範 囲 に 竹 島 を 含 ん でいないなど 日 本 が 竹 島 を 公 式 に 領 土 編 入 した 1905 年 以 前 の 韓 国 の 史 料 に 現 竹 島 の 領 有 を 明 確 に 証 明 するものが 全 く 存 在 しないことから 当 時 の 大 韓 帝 国 政 府 が 朝 鮮 時 代 を 通 して 竹 島 を 韓 国 領 として 認 識 していなかったことは 明 確 である さらに 本 件 と 直 接 関 わりはないが 1033 号 文 書 において 大 韓 帝 国 政 府 外 部 が 我 国 人 在 日 本 海 中 遭 風 船 傾 と 書 いた 内 容 の 公 文 書 簡 をロシア 公 使 に 送 っていることに 注 目 したい 27 当 時 の 大 韓 帝 国 が 日 本 の 統 治 以 前 に しかもロシアとの 外 交 書 簡 の 中 で 自 ら 東 海 ではなく 日 本 海 という 名 称 を 使 っていたという 事 実 は 現 在 の 韓 国 政 府 の 日 本 海 の 名 称 が 支 配 的 になったのは 20 世 紀 前 半 の 日 本 の 帝 国 主 義 植 民 地 主 義 の 結 果 である という 主 張 28 が 成 り 立 たないことを 実 証 している (5) Мацушима(マツシマ) を 韓 国 松 島 と 翻 訳 した 明 治 政 府 の 認 識 最 後 に 明 治 政 府 が 遭 難 地 点 の 島 名 を 韓 国 松 島 としたことについて 考 察 したい 日 本 側 の 史 料 は 外 務 省 記 録 明 治 自 三 十 年 至 明 治 三 十 一 年 困 難 船 及 漂 民 救 助 雑 件 韓 国 之 部 第 八 巻 にある 長 崎 県 知 事 より 報 告 のあった 漂 流 韓 国 民 の 送 還 費 用 に 関 する 外 務 省 とのやり 取 りを 収 めた 文 書 であ る そのうち 甲 房 第 八 〇 五 號 韓 国 漂 民 送 還 報 告 において 本 事 件 の 経 緯 が 報 告 されている そこには 韓 暦 三 月 十 五 日 釜 山 ヨリ 平 海 欝 陵 島 へ 航 行 ノ 途 風 波 ノ 為 メ 韓 国 松 島 沖 ニ 漂 流 中 四 月 十 四 日 同 所 ヲ 通 過 シタル 露 国 汽 船 ピータスボルグ 號 ニ 救 助 セラレ 候 由 ニテ 当 港 駐 箚 露 国 領 事 ヨリ 右 漂 民 韓 国 へ 引 渡 方 依 頼 シ 来 リ 候 ニ 付 29 とあり 長 崎 駐 在 のロシア 領 事 から 連 絡 があったこと が 分 かるが 韓 国 人 遭 難 者 の 出 発 地 が 釜 山 で 鬱 陵 島 へ 向 かっていたことが 記 載 されており 韓 国 側 のロシア 語 資 料 に 比 べより 詳 細 である この 日 本 側 史 料 にはロシアの 文 書 が 添 付 されておらず 実 際 の 記 載 内 容 は 不 明 であるが 韓 国 側 史 料 (1031 号 文 書 )から 推 察 するに 遭 難 船 救 助 地 点 は 原 文 には Мацушима(マツシマ) として 記 載 されていた 可 能 性 が 高 い 韓 国 宛 ロシア 文 書 には 鬱 陵 島 という 名 称 は 使 用 されていないことから 韓 暦 三 月 十 五 日 釜 山 ヨリ 平 海 欝 陵 島 へ 航 行 ノ 途 25 1900 年 5 月 から 鬱 陵 島 で 日 本 人 の 活 動 を 調 査 した 禹 用 鼎 の 鬱 島 記 (1900 年 )では 鬱 陵 島 の 範 囲 を 全 島 長 可 為 七 十 里 広 可 為 四 十 里 周 迴 亦 可 為 一 百 四 五 十 里 としており 現 竹 島 が 大 韓 帝 国 政 府 の 意 識 になかっ たことが 明 確 である 26 1900 年 10 月 22 日 議 政 府 内 部 大 臣 の 李 乾 夏 は 前 期 の 禹 用 鼎 の 調 査 をもとに 鬱 陵 島 を 鬱 島 と 改 称 し 島 監 を 郡 守 と 改 正 することに 関 する 請 議 書 を 建 議 し 3 日 後 の 25 日 大 韓 帝 国 は 勅 令 41 号 をもって 鬱 陵 島 を 郡 へ と 昇 格 させた 現 在 韓 国 政 府 は 勅 令 中 の 石 島 が 現 竹 島 であると 主 張 するが 本 請 議 書 では 鬱 島 郡 の 範 囲 が 縦 が 八 十 里 橫 は 五 十 里 となっており 現 竹 島 が 含 まれないことは 明 確 である 27 高 麗 大 学 校 亜 細 亜 問 題 研 究 所 前 掲 書 ( 注 6) 548 頁 28 "Legitimacy for Restoring the Name East Sea". Republic of Korea Ministry of Foreign Affairs and Trade. 2009, p. 2 29 ピータスボルグ 号 はロシア 文 書 にある ペテルブルグ 号 と 思 われる - 25 -
の 部 分 の 情 報 は 漂 流 民 から 直 接 得 た 情 報 であると 推 察 される 漢 字 で 書 かれた 漂 流 民 の 名 簿 にあ る 韓 国 江 原 道 平 海 欝 陵 島 人 という 情 報 漢 名 表 記 が ロシア 韓 国 どちらの 史 料 にもないこと からも そのことが 裏 付 けられる つまり 二 島 あるかのように 記 載 された 理 由 は 韓 国 人 漂 流 民 からの 鬱 陵 島 ロシアからの 松 島 という 異 なる 名 称 での 情 報 を 各 々 記 載 したことによると 推 察 される ところで 1881 年 に 外 務 省 が 松 島 を 鬱 陵 島 とする 結 論 を 出 したことは 上 述 したが 日 本 製 の 海 図 日 本 本 州 九 州 及 四 国 附 朝 鮮 (1891 年 )や 朝 鮮 東 岸 (1893 年 )に 鬱 陵 島 ( 松 島 ) と 記 載 されていることから 1890 年 代 当 時 の 日 本 政 府 も 松 島 は 鬱 陵 島 であるとの 認 識 であったこと は 疑 いがない さらに 1894 年 の 英 国 海 軍 の 水 路 誌 に 依 る と 序 に 書 かれている 水 路 部 作 成 の 朝 鮮 水 路 誌 (1894 年 ) においても 欝 陵 島 ( 一 名 松 島 ) としている 30 (なお 本 書 の 朝 鮮 東 岸 の 項 で 欝 陵 島 ( 一 名 松 島 ) の 前 に 竹 島 が リアンコールト 列 岩 として 記 載 されていることを 以 て 韓 国 側 は 日 本 政 府 が 竹 島 を 朝 鮮 領 と 認 識 していたと 主 張 するが 朝 鮮 領 土 外 の 位 置 に 存 在 するとさ れていた ワイオダ 岩 31 に 加 えて 朝 鮮 海 峡 の 項 に 対 馬 と 壱 岐 の 間 の 東 水 道 さえ 記 載 されてい る 32 ことからも 明 らかなように 海 図 のみならず 水 路 誌 もそもそも 領 有 権 とは 無 関 係 であり 実 際 そ の 総 記 において 朝 鮮 国 の 東 限 が 東 経 130 度 35 分 と 竹 島 を 除 外 している 33 ) この 松 島 の 名 称 に 関 し 日 本 政 府 が 竹 島 外 一 島 を 版 図 外 であるとした 太 政 官 の 指 令 ( 明 治 10(1877) 年 4 月 )をもって 日 本 が 松 島 ( 現 竹 島 )を 韓 国 領 とした と 韓 国 側 は 主 張 する 34 し かし 明 治 14(1881) 年 から 15 年 における 島 根 県 内 務 省 そして 外 務 省 の 間 の 鬱 陵 島 での 伐 木 事 件 に 関 してこの 指 令 を 議 論 する 交 換 文 書 と 通 達 を 含 む 関 連 史 料 35 -それは 松 島 開 墾 之 儀 を 伺 うもので 問 題 の 十 年 四 月 御 指 令 つまり 四 年 前 の 太 政 官 指 令 の 内 容 に 変 更 がない( 松 島 の 義 は 最 前 指 令 の 通 本 邦 関 係 無 36 )ことを 確 認 するものであった - により 明 治 14 年 の 時 点 で 明 治 政 府 は 明 治 10 年 の 太 政 官 指 令 が 版 図 外 としたのは 当 時 竹 島 とも 松 島 とも 呼 ばれていた 鬱 陵 島 一 島 と 考 えていたことは 明 らかである 37 さらに 1882 年 の 李 奎 遠 の 検 察 の 後 朝 鮮 国 政 府 が 外 務 卿 井 上 馨 に 再 び 抗 議 したため 井 上 は 北 澤 の 竹 島 版 図 考 を 添 え 太 政 大 臣 三 條 實 美 に 蔚 陵 島 ( 我 邦 人 竹 島 又 は 松 島 と 唱 ふ) への 渡 航 を 禁 じることを 具 申 する それを 受 けて 明 治 16 年 3 月 31 日 内 務 省 は 全 国 の 各 府 県 長 官 宛 てに 北 緯 三 十 七 度 三 十 分 西 経 八 度 五 十 七 分 ( 東 京 本 丸 天 守 臺 ヨリ 起 算 )ニ 位 スル 日 本 称 松 島 一 名 竹 島 への 渡 航 を 禁 ずるとの 訓 令 を 出 した 38 これらのことからも 明 ら かなように 江 戸 時 代 に 現 竹 島 の 名 称 であった 松 島 は 明 治 政 府 内 では 鬱 陵 島 の 名 称 として 主 に 使 われていた 松 島 とあれば 現 竹 島 に 置 き 換 えて 論 じようとする 姿 勢 は 史 実 に 忠 実 とは 言 え ない 以 上 のように 1898 年 における 日 本 海 の 松 島 は 鬱 陵 島 で 韓 国 の 帰 属 である ということが 当 時 の 外 務 省 を 始 めとする 明 治 政 府 の 認 識 であり それは 史 実 とも 現 在 の 日 本 政 府 の 主 張 ともなんら 齟 齬 30 水 路 部 朝 鮮 水 路 誌 1894 年 257 頁 31 同 上 257-258 頁 32 同 上 250-251 頁 33 同 上 1 頁 34 大 韓 民 国 政 府 獨 島 は 韓 国 の 領 土 2010 年 4 頁 35 外 務 省 朝 鮮 國 蔚 陵 島 へ 犯 禁 渡 航 ノ 日 本 人 ヲ 引 戻 之 儀 ニ 付 伺 自 明 治 十 四 年 七 月 至 明 治 十 六 年 四 月 36 島 根 県 明 治 十 四 年 明 治 十 五 年 県 治 要 領 明 治 15 年 1 月 条 37 杉 原 隆 竹 島 外 一 島 之 儀 本 邦 関 係 無 之 について 再 考 明 治 十 四 年 大 屋 兼 助 外 一 名 の 松 島 開 拓 願 を 中 心 に Web 竹 島 問 題 研 究 所 2009 年 11 月 6 日 38 公 文 録 第 十 三 巻 明 治 十 六 年 三 月 四 月 公 第 二 七 二 号 - 26 -
を 生 じない 韓 国 漂 民 送 還 報 告 において 外 務 省 が 松 島 を 韓 国 松 島 としたのは 鬱 陵 島 を 指 して のことであり この 記 述 により 松 島 ( 竹 島 / 独 島 )は 日 本 の 版 図 外 であった などと 言 うことはで きない おわりに 以 上 明 治 31(1898) 年 4 月 に 発 生 した 韓 国 船 の 遭 難 事 件 を 巡 る 日 韓 両 国 の 関 係 資 料 を 再 検 討 し これまであまり 研 究 されなかったロシア 語 の 資 料 の 検 討 を 含 め 遭 難 発 生 場 所 である 松 島 の 比 定 を 試 みた また ロシアをはじめとする 西 洋 と 日 韓 両 国 の 松 島 に 関 する 当 時 の 認 識 についてそ れぞれ 考 察 を 試 み 竹 島 に 関 する 認 識 も 検 討 した その 結 果 事 件 発 生 地 点 の 松 島 は 鬱 陵 島 であって 現 竹 島 ではないこと 当 時 のロシア 帝 国 の いう Мацушима(マツシマ) は 鬱 陵 島 を 指 していたこと 大 韓 帝 国 政 府 はロシアと 公 簡 をかわ していくうちに 日 本 松 島 が 鬱 陵 島 であるとの 認 識 に 至 る 様 子 がみられること 日 本 の 明 治 政 府 が 韓 国 松 島 としたことは 当 時 の 認 識 朝 鮮 国 蔚 陵 島 即 竹 島 松 島 と 一 致 しており 鬱 陵 島 を 松 島 としていた 西 洋 各 国 の 認 識 とも 一 致 すること をそれぞれ 確 認 した 結 論 として 救 助 地 点 は 鬱 陵 島 であり 韓 国 松 島 という 表 現 をもって 明 治 政 府 が 現 竹 島 を 日 本 の 版 図 外 とし 韓 国 領 と 認 識 していたという 主 張 は 成 り 立 たないことが 立 証 された なお 今 後 の 課 題 として 漂 流 民 の 名 前 や 人 数 が 三 国 の 史 料 間 で 多 少 異 なることから より 正 確 な 事 件 の 理 解 には 高 麗 大 学 の 翻 刻 ではなく 原 資 料 を 検 討 する 必 要 があること また 韓 国 政 府 に 請 求 するために 長 崎 県 知 事 が 計 算 した 費 用 についてどのような 処 理 がなされたか 日 韓 政 府 の 間 でど のようなやり 取 りがあったか 調 べること 等 を 挙 げておく (ただし 明 治 34(1901) 年 2 月 13 日 付 で 公 使 林 権 助 から 外 部 大 臣 朴 齊 純 へ 1898 年 以 来 の 漂 流 民 償 還 費 用 の 支 払 いを 督 促 する 書 簡 があ る 39 )さらに 竹 島 問 題 を 論 じるうえでロシアやフランスなどの 関 係 諸 外 国 の 認 識 を 示 す 史 料 は 重 要 であるにもかかわらず 一 部 を 除 き 関 連 の 研 究 は 多 くはない 今 後 さらに 西 洋 諸 国 史 料 の 検 討 が 進 むことを 期 待 したい 39 高 麗 大 学 校 亜 細 亜 問 題 研 究 所 旧 韓 国 外 交 文 書 5 巻 日 本 編 1968 年 288 頁 - 27 -
表 1898( 明 治 31) 年 韓 国 船 遭 難 事 件 の 経 緯 月 日 ( 新 暦 ) 資 料 番 号 4 月 5 日 韓 暦 3 月 15 日 江 原 道 鬱 陵 島 人 46 名 が 釜 山 を 出 発 甲 房 805 4 月 14 日 マツシマ 沖 に 難 破 漂 流 中 露 国 汽 船 ピータルスボルグ 号 により 救 助 4 月 29 日 ロシアから 大 韓 帝 国 へ 難 破 船 救 助 を 通 知 ( 露 公 使 マチューニン 韓 国 外 部 大 臣 趙 秉 稷 ) 1031 4 月 30 日 韓 国 外 部 大 臣 趙 秉 稷 がロシア 公 使 マチューニンへ 謝 礼 を 照 覆 1032 5 月 2 日 韓 国 から 再 び 謝 礼 ( 趙 マチューニン) 1033 5 月 5 日 韓 国 政 府 の 謝 意 をドゥバーソフへ 伝 達 した 事 を 伝 える(マチューニン 趙 ) 1048 5 月 6 日 ピータルスボルグ 号 より 長 崎 県 庁 に 引 渡 し 甲 房 805 5 月 7 日 露 国 汽 船 バイカル 号 により 釜 山 へ 出 発 5 月 16 日 長 崎 県 庁 から 東 京 の 外 務 大 臣 に 報 告 ( 長 崎 県 知 事 小 松 原 英 太 郎 外 務 大 臣 西 徳 二 郎 ) 5 月 17 日 ロシアから 韓 国 側 へ 名 簿 伝 達 (マチューニン 趙 ) 1072 5 月 23 日 遭 難 韓 国 人 の 名 簿 送 付 に 対 する 謝 礼 と 当 時 の 情 況 詳 示 要 望 ( 趙 マチューニ ン) 1082 5 月 28 日 遭 難 韓 国 人 の 当 時 の 情 況 詳 示 依 頼 に 対 する 照 覆 (マチューニン 趙 ) 1091 注 甲 房 805: 困 難 船 及 漂 民 救 助 雑 件 韓 国 之 部 第 八 巻 他 : 旧 韓 国 外 交 文 書 17 巻 ロシア 編 - 28 -