系譜と武将 前編



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                         庁議案件No

2. ど の 様 な 経 緯 で 発 覚 し た の か ま た 遡 っ た の を 昨 年 4 月 ま で と し た の は 何 故 か 明 ら か に す る こ と 回 答 3 月 17 日 に 実 施 し た ダ イ ヤ 改 正 で 静 岡 車 両 区 の 構 内 運 転 が 静 岡 運

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1 平 成 27 年 度 土 地 評 価 の 概 要 について 1 固 定 資 産 税 の 評 価 替 えとは 地 価 等 の 変 動 に 伴 う 固 定 資 産 の 資 産 価 値 の 変 動 に 応 じ その 価 格 を 適 正 で 均 衡 のとれたものに 見 直 す 制 度 である 3 年 ご

第 3 章 会 員 ( 会 員 の 資 格 ) 第 5 条 協 会 の 会 員 は 協 会 の 目 的 に 賛 同 して 入 会 した 次 の 各 号 に 掲 げる 者 とする (1) 軽 種 馬 を 生 産 する 者 (2) 軽 種 馬 を 育 成 する 者 (3) 馬 主 (4) 調 教 師 (

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福 岡 厚 生 年 金 事 案 4486 第 1 委 員 会 の 結 論 申 立 人 の 申 立 期 間 については その 主 張 する 標 準 報 酬 月 額 に 基 づく 厚 生 年 金 保 険 料 を 事 業 主 により 給 与 から 控 除 されていたことが 認 められることから 申 立 期

 

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Ⅰ 平成14年度の状況

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m07 北見工業大学 様式①

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( 別 紙 ) 以 下 法 とあるのは 改 正 法 第 5 条 の 規 定 による 改 正 後 の 健 康 保 険 法 を 指 す ( 施 行 期 日 は 平 成 28 年 4 月 1 日 ) 1. 標 準 報 酬 月 額 の 等 級 区 分 の 追 加 について 問 1 法 改 正 により 追 加

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財団法人山梨社会保険協会寄付行為

第1章 総則


参 考 様 式 再 就 者 から 依 頼 等 を 受 けた 場 合 の 届 出 公 平 委 員 会 委 員 長 様 年 月 日 地 方 公 務 員 法 ( 昭 和 25 年 法 律 第 261 号 ) 第 38 条 の2 第 7 項 規 定 に 基 づき 下 記 のとおり 届 出 を します この

公表表紙

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日 雇 い 等 の 収 入 の 場 合 前 々 年 1 月 1 日 以 前 から 引 きつづき 前 々 年 分 所 得 額 証 勤 務 先 が 不 特 定 の 日 雇 いをしている 方 前 年 分 確 定 申 告 書 ( 控 ) 前 々 年 1 月 1 日 以 前 から 引 きつづき 前 々 年 分

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47 高 校 講 座 モ オ モ 圏 比 較 危 述 覚 普 第 章 : 活

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平成25年度 独立行政法人日本学生支援機構の役職員の報酬・給与等について

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2 真 田 丸 の 時 代 の 領 主 国 衆 から 徳 川 大 名 へ 箕 輪 城 内 藤 昌 月 直 矩 武 田 氏 織 田 氏 北 条 氏 (1575~90) 内 藤 氏 は 甲 斐 国 の 国 衆 武 田 信 虎 ( 信 玄 の 父 )に 滅 ぼされるが 昌 秀 の 時 に 晴 信 の 重

16 日本学生支援機構

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別紙3

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省 九 州 地 方 整 備 局 長 若 しくは 宮 崎 県 知 事 に 意 見 を 提 出 することができる ( 役 員 の 任 命 ) 第 8 条 理 事 長 及 び 監 事 は 宮 崎 県 知 事 が 任 命 する 2 理 事 は 理 事 長 が 任 命 する 3 副 理 事 長 は 理 事 長

手 形 1 玉 島 商 店 から 注 文 のあった 商 品 650,000 を 発 送 し 代 金 のうち 520,000 については 取 引 銀 行 で 荷 為 替 を 取 り 組 み 割 引 料 を 差 し 引 かれた 手 取 金 514,000 は とした なお 残 額 は 掛 けとした 手

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定款

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Ⅰ 平成14年度の状況

続 に 基 づく 一 般 競 争 ( 指 名 競 争 ) 参 加 資 格 の 再 認 定 を 受 けていること ) c) 会 社 更 生 法 に 基 づき 更 生 手 続 開 始 の 申 立 てがなされている 者 又 は 民 事 再 生 法 に 基 づき 再 生 手 続 開 始 の 申 立 てがなさ

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1 育 児 休 業 代 替 任 期 付 職 員 ( 一 般 事 務 職 )とは 育 児 休 業 代 替 任 期 付 職 員 とは 一 般 の 職 員 が 育 児 休 業 を 取 得 した 際 に 代 替 職 員 とし て 勤 務 する 職 員 です 一 般 事 務 職 については 候 補 者 として

資 料 1 衆 議 院 議 員 小 選 挙 区 選 出 議 員 の 選 挙 区 の 改 定 案 の 概 要 都 道 府 県 別 定 数 の 異 動 (1) 定 数 1 増 埼 玉 県 (14 15) 千 葉 県 (12 13) 神 奈 川 県 (17 18) 滋 賀 県 (3 4) 沖 縄 県 (3

土 購 入 土 借 用 土 所 有 権 移 転 登 記 確 約 書 農 転 用 許 可 書 ( 写 ) 農 転 用 届 出 受 理 書 ( 写 ) 土 不 動 産 価 格 評 価 書 土 見 積 書 ( 写 ) 又 は 売 買 確 約 書 ( 写 ) 土 売 主 印 鑑 登 録 証 明 書 売 主

都市農地の継承に向けた相続2014_本文_13.indd

ー ただお 課 長 を 表 示 するものとする ( 第 三 者 に 対 する 許 諾 ) 第 4 条 甲 は 第 三 者 に 対 して 本 契 約 において 乙 に 与 えた 許 諾 と 同 一 又 は 類 似 の 許 諾 を することができる この 場 合 において 乙 は 甲 に 対 して 当

3 職 員 の 平 均 給 与 月 額 初 任 給 等 の 状 況 (1) 職 員 の 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 及 び 平 均 給 与 月 額 の 状 況 (24 年 4 月 1 日 現 在 ) 1 一 般 行 政 職 平 均 年 齢 平 均 給 料 月 額 平 均 給 与 月 額

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Microsoft Word - 国民年金の加入納付状況H25

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平 成 24 年 4 月 1 日 から 平 成 25 年 3 月 31 日 まで 公 益 目 的 事 業 科 目 公 1 公 2 公 3 公 4 法 人 会 計 合 計 共 通 小 計 苦 情 相 談 解 決 研 修 情 報 提 供 保 証 宅 建 取 引 健 全 育 成 Ⅰ. 一 般 正 味 財

2 一 般 行 政 職 給 料 表 の 状 況 ( 平 成 22 年 4 月 1 日 現 在 ) ( 単 位 : ) 1 級 2 級 3 級 4 級 5 級 6 級 7 級 1 号 給 の 給 料 月 額 最 高 号 給 の 給 料 月 額 135,6 243,7 185,8 222,9 261,9

(Microsoft Word - \221\346\202P\202U\201@\214i\212\317.doc)

募集要項

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技 能 労 務 職 公 務 員 民 間 参 考 区 分 平 均 年 齢 職 員 数 平 均 給 与 月 額 平 均 給 与 月 額 平 均 給 料 月 額 (A) ( 国 ベース) 平 均 年 齢 平 均 給 与 月 額 対 応 する 民 間 の 類 似 職 種 東 庄 町 51.3 歳 18 77

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(5) 給 与 制 度 の 総 合 的 見 直 しの 実 施 状 況 概 要 国 の 給 与 制 度 の 総 合 的 見 直 しにおいては 俸 給 表 の 水 準 の 平 均 2の 引 下 げ 及 び 地 域 手 当 の 支 給 割 合 の 見 直 し 等 に 取 り 組 むとされている 総 合 的

Transcription:

小 柏 氏 系 譜 と 戦 国 武 将 前 篇 小 柏 正 弘 目 次 小 柏 氏 系 図 の 信 憑 性 69 小 柏 氏 系 図 と 平 氏 71 関 東 管 領 上 杉 氏 73 秩 父 平 氏 小 山 田 氏 75 小 柏 氏 系 図 と 小 幡 大 膳 亮 79 長 篠 設 楽 原 合 戦 80 家 康 の 闘 将 内 藤 家 長 82 長 篠 合 戦 の 小 幡 氏 86 上 野 国 小 幡 氏 の 研 究 89 彦 根 藩 の 小 幡 氏 90 ( 後 篇 ) 井 伊 年 譜 に 見 る 小 幡 大 膳 井 伊 家 の 出 世 頭 岡 本 半 介 小 幡 氏 の 四 天 王 熊 井 戸 氏 平 氏 城 和 泉 守 小 幡 大 膳 亮 の 確 証 発 見 二 つの 小 柏 氏 系 図 小 柏 氏 系 図 をめぐる 昭 和 の 調 査 天 引 小 柏 氏 の 歴 史 天 引 小 柏 氏 の 系 譜 68

小 柏 氏 系 図 の 信 憑 性 約 800 年 に 亘 る 小 柏 氏 の 系 図 は その 始 祖 を 平 重 盛 ( 清 盛 の 嫡 子 )の 子 の 惟 盛 としている この 長 大 な 系 図 について 藤 岡 市 史 などは 概 ね 肯 定 しているように 見 えるが 一 隅 にその 信 憑 性 について 疑 問 を 投 げかけて いる 論 評 の 類 もあったように 思 う 確 かに 戦 国 時 代 には その 混 乱 の 中 で 多 くの 古 文 書 や 系 図 類 が 消 失 した と 言 われ よほどの 名 家 旧 家 でなければ 家 系 を 戦 国 時 代 以 前 に 遡 れない とする 人 もいる また 元 禄 期 には 時 の 経 済 繁 栄 を 映 してか 系 図 を 作 成 し 売 る 商 売 がはやったらしい 系 図 作 成 は 静 かなブームになり 一 時 期 問 題 にもなった 自 費 出 版 と 形 態 が 似 ていようか 日 本 の 系 譜 研 究 の 第 一 人 者 とも 言 える 人 物 に 太 田 亮 氏 がいる 同 氏 は 新 撰 姓 氏 録 尊 卑 分 脈 古 事 類 苑 寛 政 重 修 家 譜 やその 他 多 数 の 系 譜 にまつわる 古 文 献 を 網 羅 せしめ その 集 大 成 としての 姓 氏 家 系 大 辞 典 新 編 姓 氏 家 系 辞 書 を 編 纂 している 同 氏 も 日 本 の 系 図 の 多 くは 偽 あるいは 借 り 系 譜 によって 作 られている と 述 べている 私 はこれまでに 国 宝 となっている 海 部 氏 系 図 や 和 気 氏 系 図 など 数 多 くの 古 系 図 を 見 てきたが 出 色 と 思 われるものに 井 伊 氏 系 図 が ある 井 伊 氏 の 系 図 は 天 御 中 主 尊 から 始 まっている 天 照 大 御 神 が 天 皇 家 の 始 祖 だとしても 今 に 連 綿 として 続 いている 井 伊 氏 の 系 譜 は 天 皇 家 より 古 いものということになる 小 柏 氏 系 図 も 平 氏 に 繋 がる 部 分 は 信 憑 性 が 薄 く 伝 説 のようなものであろうと 思 われる だがそれ 以 後 の 系 譜 を 深 く 読 んでいくと 真 実 性 が 漂 っていて 特 に 鎌 倉 時 代 以 降 からリアルなものになっているという 印 象 を 受 ける 当 時 北 条 氏 に 従 い 鎌 倉 に 住 んでいた 小 柏 惟 仲 は 北 条 時 村 が 六 波 羅 探 題 に 任 じられ 京 都 に 赴 く 時 に 同 行 している この 年 次 を 小 柏 氏 系 図 では 弘 安 元 戌 寅 年 十 二 月 二 十 三 日 (1278 年 ) 鎌 倉 出 立 と 記 載 している 藤 岡 市 史 では 実 際 に 北 條 時 村 が 六 波 羅 探 題 に 任 じられたのは1 279 年 であり この 公 的 記 録 の 前 年 に 京 都 へ 赴 いたと 系 図 に 記 されてい る 所 がミソである と 述 べている ( 建 治 説 あり)このことは 小 柏 氏 系 図 が 後 世 に 歴 史 を 遡 って 調 べて 作 った 物 ならば 京 都 出 発 を1279 年 と 記 載 したのではなかったか そうしていないところに 信 憑 性 が 感 じられる と 言 っているのだろう 69 小 柏 氏 系 譜 と 戦 国 武 将

小 柏 惟 仲 の 子 の 重 胤 は やはり 六 波 羅 探 題 になった 北 条 基 時 に 従 い 京 都 に 住 んだ 基 時 はこの 後 鎌 倉 将 軍 執 権 となっている 小 柏 重 胤 の 子 時 實 は 京 都 に 住 んだのか 鎌 倉 に 帰 っていたのか 不 明 であ る 時 實 の 子 の 實 親 は 鎌 倉 に 居 て 執 権 北 条 高 時 に 属 していたが 新 田 義 貞 に 攻 められ 鎌 倉 が 陥 落 した 時 に 討 死 している 小 柏 實 親 の 子 の 重 親 は 幼 名 を 平 太 夫 と 言 い 宮 内 少 輔 で 従 五 位 に 任 じら れていた と 小 柏 系 図 に 記 載 されている 重 親 は 管 領 足 利 基 氏 の 執 政 副 将 軍 上 杉 憲 顕 に 属 し 鎌 倉 に 住 んでいた 小 柏 惟 仲 重 胤 の 親 子 二 代 が それぞれ 時 の 六 波 羅 探 題 に 従 って 京 都 に 詰 めていたこと 後 に 鎌 倉 で 奉 仕 していた 小 柏 時 實 實 季 の 兄 弟 が 共 に 討 死 したことなどの 記 録 は 真 に 迫 ってくるものがある 乱 世 とはいえ 兄 弟 が 同 じ 戦 いで 共 に 討 死 したという 事 例 は 多 くはない 一 方 が 負 傷 一 方 が 討 死 したのでもなく 共 に 討 死 したのである この 小 柏 氏 系 図 の 鎌 倉 時 代 の 記 録 には 理 に 叶 っていて 造 作 や 嵌 め 込 みなどの 矛 盾 は 見 当 たらないように 思 われる このように 素 直 に 考 察 してみると 小 柏 氏 系 図 の 四 代 目 の 惟 仲 以 降 は 実 在 性 が 高 いということになろうか 更 に 惟 仲 の 父 の 基 時 は 幼 名 を 太 郎 と 名 乗 ったと 系 図 に 記 載 があり 惟 仲 の 幼 名 一 太 郎 とよく 似 ていることから も 時 基 も 実 在 の 人 物 ではなかったかとの 推 測 が 成 り 立 つ ( 尤 も 往 古 は 嫡 男 に 太 郎 と 名 をつけることが 多 かった ) 誰 の 子 かも 分 からない 惟 仲 を いきなり 北 条 時 村 が 採 用 して 京 都 まで 従 者 として 連 れて 行 くとはとても 考 えられないことが 時 基 の 実 在 性 を 補 完 するであろう 西 上 野 国 の 名 族 高 山 氏 も 時 を 同 じくして 鎌 倉 北 条 氏 に 属 していた 高 山 時 重 は 新 田 義 貞 を 迎 えうち 武 蔵 国 関 戸 にて 討 死 している 高 山 氏 の 事 績 は 鎌 倉 幕 府 の 史 書 ともいえる 吾 妻 鑑 にもしばしば 現 れ ている 上 野 国 には 多 くの 武 士 団 が 存 在 していた これ 等 の 武 士 団 が 鎌 倉 北 条 氏 に 属 していたことが 窺 がえる これ 等 の 事 柄 を 踏 まえて 考 証 を 進 めると 小 柏 氏 系 図 の 三 代 目 以 降 はかなりの 確 度 で 信 憑 性 があると 言 えるようだ ではそれ 以 前 の 平 氏 に 繋 がる 二 代 の 系 譜 はどう 見 れば 良 いのだろう 70

小 柏 氏 系 図 と 平 氏 現 存 の 小 柏 氏 系 図 の 筆 跡 を 良 くみていくと 江 戸 時 代 天 保 3 年 (18 32 年 )の 所 で 途 切 れている ここで 筆 跡 が 変 わり 次 の 筆 跡 により 文 政 7 年 の 出 来 事 から 記 され 始 めている 文 政 は 天 保 の 前 の 年 号 である つまり 二 番 目 の 筆 跡 では 前 の 筆 跡 で 終 わっている 部 分 から 更 に 遡 って 重 複 して 系 図 を 書 き 始 めている 14 年 ほどが 重 なっていることになる この 二 番 目 の 筆 跡 では 天 保 8 年 のことも 語 られていることから 現 存 する 系 図 が 最 初 の 筆 跡 で 書 かれたのは 天 保 3 年 から8 年 の 間 とみることが 出 来 る 二 番 目 の 筆 跡 では 文 政 から 明 治 15 年 頃 まで 語 られている 従 って 現 存 している 小 柏 氏 正 系 図 は 天 保 年 間 に 作 られ( 或 いは 筆 写 さ れて)て 更 に 明 治 15 年 頃 に 文 政 年 間 までの 過 去 の 歴 史 系 譜 を 調 べて 系 図 に 書 き 加 えたものと 推 測 される しかし 明 治 に 書 き 加 えられた 系 図 の 最 初 の 方 に 位 置 している 小 柏 重 基 八 郎 右 衛 門 についての 事 績 は 何 ら 記 されてはいない 重 基 は 風 梅 年 代 記 により 名 主 に 就 任 した 他 嘉 永 3 年 には 秩 父 山 で 金 の 採 掘 を 試 み ている 等 の 事 績 が 知 られている このことから 明 治 15 年 頃 の 先 祖 調 査 は 浅 いままで 時 を 移 さず 系 図 に 書 き 継 いだことが 伝 わってくる 或 いは 金 の 採 掘 などは 細 かな 事 績 と 捉 えて 記 さなかったかのどちらかであろう 整 理 して 結 論 を 述 べるとすれば 現 存 する 系 図 は 天 保 年 間 に 書 かれ 明 治 に 書 き 継 がれた 物 である ( 詳 細 は 城 和 泉 守 昌 茂 と 小 柏 氏 に 記 述 ) だが 小 柏 氏 正 系 図 は 天 保 年 間 に 初 めて 作 られた 物 ではないことは 状 況 証 拠 的 なものから 明 らかであろう 明 治 の 頃 には 既 に 嘉 永 年 間 の 先 祖 の 事 績 が 調 べ 得 なかったことからも 分 るように 天 保 年 間 に 遠 い 鎌 倉 時 代 の 先 祖 の 名 前 や 事 績 までは 調 べようがなかったのではないか このことは 天 保 以 前 から 小 柏 家 に 系 図 や 伝 承 が 伝 わっていたことにな る これは 動 かしようのないことと 推 考 される 小 柏 氏 正 系 図 に 記 されて いるように 別 記 なる 古 記 録 が ある 時 期 までは 伝 世 されていたと 考 え ると 筋 の 通 る 話 となってくる 天 保 年 間 に 初 めて 系 図 を 作 ったと 考 えると 鎌 倉 時 代 までの 先 祖 の 名 前 や 事 績 を 歴 史 に 即 したものに 構 築 していくのは 並 大 抵 のことでは 出 来 な 71 小 柏 氏 系 譜 と 戦 国 武 将

いだろう 天 保 の 頃 には 既 に 系 図 があったが 保 存 状 態 が 悪 くなり 新 しく 巻 物 を 作 り 前 の 系 図 を 筆 写 したものであろうと 考 えられる それ 以 前 にも 何 度 かの 作 り 替 えが 行 われたであろうことは 想 像 に 難 く ない 和 紙 で 作 られた 系 図 は 紙 を 継 ぎ 足 して 書 き 継 いでいくものだろう が 湿 気 や 虫 食 いなどによって 破 損 し 読 めないものになってしまう 明 治 20 年 頃 の 比 較 的 新 しい 文 書 や 史 料 であっても 虫 食 いのひどい 状 態 の 物 を 公 文 書 館 で 見 たことがある 小 柏 氏 の 始 祖 とされる 小 柏 ( 平 ) 維 基 は 幼 名 を 平 太 郎 と 名 乗 っていた 平 清 盛 の 嫡 男 重 盛 の 子 で その 容 貌 の 美 しさから 光 源 氏 の 再 来 と 称 された 維 盛 の 長 男 という つまり 清 盛 の 孫 にあたり 六 代 丸 の 弟 になるわけである 小 柏 氏 系 図 によ れば 維 基 は 大 人 になっても 子 供 の 頃 の 着 物 を 着 ていたという ( 系 図 の 読 み 方 解 釈 によっては 異 なる 意 味 となる) 体 は 頑 健 で 一 人 で 山 や 川 に 行 って 日 がな 漁 などをしていたらしい 維 基 は 上 野 国 小 柏 村 に 移 り 住 み 土 地 の 名 を 取 って 小 柏 と 改 称 したとされてい る ちなみに 平 重 盛 の 一 族 は 京 都 の 小 松 谷 に 隠 れ 住 んでいた 時 には 小 松 姓 を 名 乗 っていた 藤 岡 市 史 には 小 松 維 盛 が 日 野 谷 に 落 ち 延 び 隠 れ 住 みついた 時 に 小 松 姓 を 小 柏 姓 に 変 えたといわれている と 記 されている 同 じく 藤 岡 市 編 纂 の ふるさと 人 ものがたり には 平 維 盛 が 武 蔵 国 司 在 任 中 に 生 まれたのが 維 基 であり 日 野 の 奥 に 隠 れ 住 み 後 に 鹿 島 神 宮 を 建 立 した と 出 ている 鹿 島 神 宮 建 立 のことは 江 戸 時 代 にその 棟 札 が 発 見 され 同 様 の 記 述 が あったことが 確 認 されている この 他 棟 札 には 維 基 が 所 蔵 していた 甲 冑 武 具 を 奉 納 した と 記 載 されていた しかし 維 盛 が 実 際 に 武 蔵 国 司 に 任 じられていたのか 公 家 補 任 等 の 幾 つかの 史 書 をチェックしてみた 漏 れているものもあるかもしれないが 今 までのところ 記 録 は 見 つからず 確 認 は 取 れていないままである 当 時 は 国 司 になっても 実 際 に 任 地 に 赴 かなかった 人 もあり 記 録 が 漏 れているのか 消 失 しているのかも 不 明 である 藤 岡 市 上 日 野 には 今 も 維 基 の 兄 六 代 丸 ( 六 代 午 前 )の 伝 説 や 地 名 が 残 っている 鮎 川 の 午 前 岩 や 御 前 岩 橋 などの 地 名 がそれであり 多 野 郡 誌 や 甘 楽 町 史 などにも 詳 しく 語 られている 同 所 は 六 代 丸 維 基 兄 弟 が 碑 を 建 てた 旧 跡 とされている しかし 維 基 の 名 前 は 史 書 中 に 見 つからず 状 況 証 72

拠 的 なものは 積 み 上 がっているにも 関 わらず その 実 在 性 は 確 認 が 取 れて いない 小 柏 氏 の 始 祖 維 基 の 子 で 二 代 目 に 当 たる 維 里 は 幼 名 を 太 郎 と 名 乗 り 上 野 国 に 住 んでいたとされる 小 柏 氏 系 図 には これ 以 外 に 維 里 の 事 績 は 語 られていない 維 盛 維 基 維 里 の 三 代 の 名 前 には 維 (これ)の 文 字 が 共 通 してい てさもありそうな 名 前 になっている そして 小 柏 氏 の 三 代 目 の 名 前 には 維 の 文 字 は 使 われず 時 基 となり 今 度 は 基 の 文 字 を 使 っている 四 代 目 になると 維 の 文 字 を 使 った 名 前 維 仲 と 維 の 字 が 復 活 している ジグザグと 交 錯 し やや 複 雑 な 経 過 といえようか これ 以 降 の 小 柏 家 当 主 の 名 前 には 重 や 高 の 文 字 が 多 く 現 れるようになる これ 等 のこと を 総 合 的 に 勘 案 してみると 事 績 が 殆 ど 語 られていない 小 柏 氏 の 二 代 目 と 三 代 目 の 間 に 隔 絶 した 空 間 があった 可 能 性 も 考 えられる すなわち 実 際 の 小 柏 氏 の 始 祖 は 三 代 目 の 時 基 であり 始 祖 ( 初 代 )の 維 基 は 伝 説 伝 承 上 の 人 物 であったと 考 えることも 出 来 る 二 代 目 の 維 里 は 伝 説 と 実 際 の 始 祖 との 間 を 繋 ぐミッシングリングとして ここに 嵌 め 込 ま れたと 見 ることも 可 能 となる この 場 合 でも 平 家 伝 承 は 日 野 谷 の 幾 つかの 旧 家 にみられることから 上 日 野 地 区 に 古 くから 平 家 の 伝 承 が 伝 わっていたのは 間 違 いないようだ 関 東 管 領 上 杉 氏 上 杉 氏 は 公 卿 の 出 身 であり 日 本 でも 指 折 りの 名 家 である この 機 会 に 従 属 関 係 の 名 前 の 検 証 を 試 みておこう 上 杉 氏 関 東 管 領 歴 代 小 柏 氏 歴 代 小 柏 氏 事 績 憲 顕 山 内 副 将 軍 管 領 1 重 親 7 鎌 倉 在 憲 方 山 内 関 東 管 領 5 重 家 8 武 功 有 宝 塔 建 立 憲 定 山 内 関 東 管 領 7 重 徳 9 憲 基 憲 実 山 内 関 東 管 領 910 高 家 10 軍 功 有 憲 実 山 内 関 東 管 領 10 重 行 11 房 顕 顕 定 山 内 関 東 管 領 1213 顕 重 12 顕 の 字 を 賜 る 平 井 城 詰 顕 定 憲 房 憲 寛 山 内 関 東 管 領 131516 顕 高 13 顕 の 字 を 賜 る 平 井 城 詰 憲 政 山 内 関 東 管 領 17 高 道 14 数 度 の 武 功 有 73 小 柏 氏 系 譜 と 戦 国 武 将

小 柏 氏 系 図 によると 属 した 武 将 は 上 のとおりである ( 山 内 = 山 内 上 杉 氏 ) 上 杉 氏 の 本 姓 は 藤 原 でその 系 譜 は 藤 原 鎌 足 にも 繋 がっている 小 柏 氏 は 鎌 倉 府 にあって 代 々 関 東 管 領 の 職 に 就 いていた 上 杉 氏 に 属 していた 関 東 管 領 を 務 めた 上 杉 氏 には 宗 家 といわれる 山 内 上 杉 氏 の 他 に 扇 谷 上 杉 氏 宅 間 上 杉 氏 犬 懸 上 杉 氏 の 三 家 があった このうち 小 柏 氏 が 属 し たのは 全 て 山 内 上 杉 氏 であった 関 東 管 領 には 山 内 上 杉 氏 が 多 く 就 任 したが 上 表 での 関 東 管 領 の 歴 代 の 欠 損 部 には 犬 懸 上 杉 氏 宅 間 上 杉 氏 が 就 任 していた 一 部 に 管 領 ( 執 事 ) 第 一 代 を 犬 懸 憲 藤 とする 説 もある 次 に 同 世 代 であったのか 又 は 世 代 間 のギャップがあったのかを 検 証 し てみる 上 杉 氏 小 柏 氏 1 世 代 憲 顕 重 親 2 世 代 憲 方 重 家 3 世 代 憲 定 重 徳 4 世 代 憲 基 憲 実 高 家 5 世 代 憲 実 重 行 6 世 代 房 顕 顕 定 顕 重 7 世 代 顕 定 憲 房 顕 高 8 世 代 憲 房 顕 高 9 世 代 憲 政 憲 寛 高 道 両 家 の 当 主 が 同 年 齢 で 死 亡 する 訳 ではないから 多 少 のズレはあるもの の 以 上 の 比 較 から 世 代 別 のギャップはなく 同 世 代 同 時 代 を 従 属 の 関 係 で 生 きていたとすることに 違 和 感 は 生 じてこない 74

上 杉 氏 系 図 憲 房 頼 成 ( 小 山 田 ) 重 顕 ( 扇 谷 ) 憲 藤 憲 顕 ( 山 内 ) 重 兼 重 能 憲 栄 憲 賢 憲 英 憲 方 憲 春 能 憲 憲 将 憲 重 憲 定 房 方 憲 孝 義 憲 憲 基 憲 実 周 泰 法 興 周 清 房 顕 顕 忠 顕 定 憲 房 顕 実 憲 政 憲 寛 秩 父 平 氏 小 山 田 氏 これより 先 執 権 北 条 高 時 に 属 していた 小 柏 實 親 の 母 は 小 山 田 左 衛 門 尉 行 範 の 娘 とされている 小 山 田 氏 は 扇 谷 上 杉 氏 の 分 家 と 言 われているが この 小 山 田 行 範 の 名 前 は 他 書 には 見 かけないものである 小 山 田 氏 の 祖 となったのは 扇 谷 上 杉 氏 の 祖 となった 上 杉 重 顕 のすぐ 下 の 弟 頼 成 である 頼 成 の 弟 たちはそれぞれ 宅 間 上 杉 氏 山 内 上 杉 氏 の 祖 と なっている 頼 成 の 子 は 藤 成 で 藤 成 の 子 は 頼 顕 と 顕 定 頼 顕 の 子 は 定 重 と 氏 定 定 重 の 子 は 定 頼 である 75 小 柏 氏 系 譜 と 戦 国 武 将

この 中 に 小 山 田 行 範 が 居 るのだろうか 小 柏 實 親 の 子 が 上 杉 憲 顕 に 仕 え た 重 親 であるから 實 親 の 世 代 は 当 然 の 如 く 憲 顕 の 父 の 世 代 となる そし て 憲 顕 の 父 は 憲 房 であるから 實 親 と 憲 房 と 頼 成 ( 憲 房 の 兄 )は 同 世 代 ( 時 代 )の 人 となる 小 山 田 上 杉 氏 の 祖 となった 頼 成 の 父 は 頼 重 で その 父 は 上 杉 氏 の 祖 重 房 である よって 實 親 の 母 は 頼 重 と 同 世 代 の 人 となること 必 定 であるが 頼 重 及 びその 父 が 小 山 田 姓 を 名 乗 ったということは 伝 わっていない 小 山 田 城 は 町 田 市 の 大 泉 寺 付 近 にあって 小 山 田 上 杉 氏 の 支 配 下 にあっ たとされている しかしながら 上 杉 頼 成 に 始 まる 小 山 田 氏 の 系 統 は 秩 父 平 氏 から 始 まる 小 山 田 氏 の 系 図 とは 合 致 せず 別 系 統 のようである 従 って 小 山 田 行 範 の 探 求 はここに 一 時 頓 挫 し 別 の 角 度 からの 研 究 が 求 められることとなる 小 山 田 氏 は 一 つではなく 幾 つかの 源 流 と 共 に 関 連 のない 別 派 が 存 在 している 小 山 田 行 範 と 似 た 名 前 の 人 物 には 小 山 田 行 貞 ( 重 成 ) 小 山 田 行 重 小 山 田 行 高 小 山 田 行 久 小 山 田 景 範 などが 居 る 行 貞 は 行 重 の 兄 であり その 世 代 が 古 すぎて 除 外 できる 行 重 は 平 姓 小 山 田 系 圖 写 解 説 によると 頼 朝 の 信 州 訪 問 に 随 行 し た 後 畠 山 重 忠 謀 殺 の 煽 りを 食 らって 甲 州 へ 逃 げ 武 田 信 光 の 館 に 身 を 寄 せ たという 行 重 は 石 田 小 山 田 氏 の 礎 を 築 き やがて 郡 内 ( 都 留 市 大 月 市 )の 盟 主 の 地 位 を 確 保 したと 推 量 している 幸 高 は 行 重 の 次 男 である 後 に 仕 えて いた 武 田 信 光 に 従 って 芸 州 へ 行 った 行 久 は 幸 高 の 子 であり 別 名 を 弾 正 といい 芸 州 に 住 んだ 景 範 は 鹿 児 島 に あって 薩 摩 藩 に 属 していた 模 様 左 衛 門 尉 は 官 位 名 のようであるが 小 山 田 氏 で 左 衛 門 尉 と 呼 ばれたのは 武 田 二 十 四 将 に 挙 げられている 信 茂 だが 時 代 がかなり 下 っている 武 家 家 伝 によると 小 山 田 氏 は 桓 武 平 氏 から 出 ており 良 文 流 秩 父 氏 であるという 秩 父 庄 司 重 弘 のニ 男 小 山 田 別 当 有 重 の 子 の 五 郎 行 重 を 祖 と している この 小 山 田 氏 は 1205 年 の 畠 山 氏 ( 重 忠 ) 滅 亡 事 件 に 連 座 して 没 落 した 1221 年 の 承 久 の 乱 には 小 山 田 太 郎 の 名 前 が 見 えるが 武 蔵 から 興 っ た 小 山 田 氏 は 甲 斐 に 移 ったともいわれ 定 かではない しかし 源 頼 朝 が 幕 府 を 開 いた 頃 には 既 に 郡 内 に 根 をおろしていたこと 76

は 間 違 いない 郡 内 小 山 田 氏 については 妙 法 寺 記 に 小 山 田 信 澄 が 所 領 を 寄 進 したことが 記 載 されている 尚 妙 法 寺 記 には 小 山 田 弥 太 郎 小 山 田 大 和 守 小 山 田 越 中 守 の 名 前 が 見 えていて 実 名 は 不 明 ながら 郡 内 小 山 田 氏 であったことは 間 違 いないと みている また 武 家 家 伝 に 掲 載 されている 系 図 には 有 重 の 子 には 重 成 重 朝 行 重 ( 小 山 田 ) 重 親 がいる Wikipedia によれば 小 山 田 氏 は 武 蔵 国 小 山 田 庄 ( 町 田 市 )を 本 領 としていて 鎌 倉 幕 府 の 創 立 に 功 を 立 てたが 後 に 甲 斐 国 へ 移 り 都 留 郡 を 本 拠 としていた としている また 有 重 の 系 統 の 他 に 秩 父 将 恒 ( 将 常 )の 三 男 小 山 田 太 夫 常 任 ( 常 時 ) が 小 山 田 氏 を 称 しており 前 九 年 の 役 で 討 死 している この 常 任 も 有 重 の 一 族 であると 書 いている 太 平 記 には 小 山 田 高 家 が 湊 川 の 戦 いで 新 田 義 貞 の 身 代 わりとして 討 死 したことが 見 えている 山 梨 県 姓 氏 歴 史 人 物 大 事 典 にも 類 似 の 記 事 がありやや 詳 細 なものとなっている 他 に 姓 氏 家 系 大 辞 典 には 小 山 田 氏 の 詳 細 な 記 事 が 載 せられている 小 山 田 氏 が 秩 父 氏 の 出 身 であるということは 通 説 になっているようだ ちなみに 西 上 野 の 名 家 高 山 氏 も 秩 父 平 氏 の 出 身 であり 上 州 八 家 ともい われている 同 家 の 系 図 には 同 じ 一 族 の 畠 山 重 忠 の 名 前 も 見 えている 高 山 氏 からは 上 野 一 揆 と 呼 ばれる 小 林 氏 が 派 生 し 中 世 において 小 林 氏 は 高 山 氏 と 共 に 多 くの 足 跡 を 残 している 小 山 田 有 重 は 小 山 田 氏 の 別 当 を 務 め 小 山 田 町 に 館 を 構 え 鎌 倉 幕 府 の 有 力 御 家 人 であったという 同 地 には 小 山 田 氏 に 縁 のある 小 山 田 神 社 がある 梶 原 景 時 や 北 条 政 子 とも 縁 戚 関 係 を 結 んでいた 畠 山 氏 滅 亡 の 時 に 同 族 として 小 山 田 重 成 重 朝 行 重 も 二 俣 川 で 殺 害 された この 後 相 模 の 小 山 田 領 は 扇 谷 上 杉 氏 の 統 治 下 に 入 ったようであ る 甲 斐 の 大 月 で 郡 内 小 山 田 氏 として 再 興 した 小 山 田 氏 は 1227 年 に 家 督 を 有 重 の 子 の 行 重 に 譲 ったという 1333 年 の 新 田 義 貞 の 挙 兵 の 際 には 小 山 田 高 家 ( 小 太 郎 )が 参 加 し て 小 山 田 領 を 取 り 戻 した だが1336 年 の 湊 川 の 合 戦 で 戦 死 し 再 び 領 地 を 失 った 以 上 は 相 模 原 の 歴 史 シリーズ から 引 用 させて 頂 いたが 出 典 は 不 明 77 小 柏 氏 系 譜 と 戦 国 武 将

である 掲 出 の 系 図 を 見 ると 小 山 田 有 重 の 子 の 中 に 行 重 がいる 上 述 の 記 事 からは 行 重 と 高 家 の 関 係 は 明 らかになってはいない 同 系 図 にも 高 家 の 名 前 は 記 されていない しかし 小 山 田 領 を 巡 っての 攻 防 が 展 開 されており 密 接 な 関 係 にあったことが 読 み 取 れる 年 代 が 近 いことから 行 重 と 高 家 は 兄 弟 或 いは 義 理 の 兄 弟 であったのではないか と 思 われる 小 山 田 行 重 が 二 俣 川 で 殺 害 されたのが 畠 山 重 忠 の 戦 死 の 時 とすると1 205 年 のこととなる そうすると1227 年 に 家 督 相 続 を 受 けられる 筈 はない 行 重 の 子 が 長 じて 父 の 名 前 を 継 いだとも 考 えられる だが 先 の 系 図 には 行 重 の 子 は 秀 重 と 記 載 されている 他 書 には 畠 山 重 忠 の 戦 死 の 際 に 殺 害 されたのは 稲 毛 ( 小 山 田 氏 ) 重 成 父 子 榛 谷 ( 小 山 田 氏 ) 重 朝 父 子 とされていて 行 重 の 名 前 は 記 されていない 重 成 の 子 は 重 政 で 重 朝 の 子 は 重 季 である 小 山 田 行 範 の 娘 で 小 柏 重 親 の 母 は 当 然 ながら 實 親 の 父 である 時 實 の 妻 ということになる 更 に 一 代 遡 り 時 實 の 父 重 胤 は 最 後 の 六 波 羅 探 題 と なった 北 条 基 時 に 仕 えて 京 都 にいたとある 基 時 が 探 題 北 方 の 職 にあったのは 1301 年 から1303 年 までの 僅 か 二 年 間 である この 時 期 1293 年 には 鎌 倉 大 地 震 が 発 生 し 鎌 倉 一 帯 は 大 混 乱 に 陥 っている 基 時 は1315 年 に 執 権 の 職 に 就 いたが 翌 年 には 高 時 に 執 権 職 を 譲 り 自 分 は 出 家 した 小 柏 時 實 は 誰 に 属 していたのか 記 録 がないが その 子 の 實 親 は 鎌 倉 にあって 時 の 執 権 北 条 高 時 に 仕 えていたとあるから 時 實 も 鎌 倉 に 居 て 北 条 に 仕 えていたと 推 考 される 實 親 は1333 年 の 新 田 義 貞 の 鎌 倉 攻 めの 際 に 討 死 している 小 柏 時 實 の 妻 の 父 の 世 代 は 重 胤 や 北 条 基 時 の 世 代 となること 必 定 である ( 勿 論 親 子 一 世 代 の 違 いは 生 じることがある) そして 彼 ら 二 人 とほぼ 同 世 代 の 人 物 に 重 胤 の 息 子 に 娘 を 嫁 がせた 小 山 田 行 範 がいることになる 年 代 を 整 理 すると 次 の 様 になる 北 条 基 時 の 生 没 年 は1286 年 1333 年 小 柏 重 胤 の 生 没 年 は 不 明 1301 年 京 都 在 番 ( 時 實 の 父 ) 小 山 田 行 重 1227 年 頃 家 督 相 続 小 山 田 行 範? 小 山 田 行 高 行 重 の 次 男 小 山 田 行 範? 小 山 田 行 久 行 高 の 子 小 山 田 行 範? 78

かくして 小 柏 氏 系 図 に 出 ている 小 山 田 行 範 なる 人 物 に 該 当 するかと 思 われるのは 上 記 の 三 人 となる その 理 由 は 名 前 が 似 ている 活 躍 していた 年 代 が 近 接 しているということである しかし 人 物 を 比 定 する 根 拠 として は 弱 いものとなってしまう 果 たして 行 範 は 行 重 と 同 人 物 であったのだろ うか 行 重 が 行 範 と 名 乗 ったことがあったのだろうか 上 記 三 人 の 中 で 時 代 が 最 も 近 接 しているのは 行 久 である 或 いは 小 柏 氏 系 図 に 誤 写 誤 謬 があったのであろうか 真 実 は 今 遥 かな 時 間 の 彼 方 へ と 埋 没 してしまったかのようだ 出 来 ることは 調 査 の 結 果 知 り 得 た 中 で の 可 能 性 を 挙 げておくことのみである 小 柏 氏 系 図 と 小 幡 大 膳 亮 小 柏 氏 系 図 の 中 で 一 つの サビ を 形 つくっている 部 分 に 伝 説 の お 菊 を 助 けた 小 柏 定 重 源 六 が 位 置 している 定 重 は 千 人 斬 りをした 高 政 の 嫡 男 である 高 政 は 小 幡 氏 の 娘 を 娶 り 同 氏 と 共 に 武 田 信 玄 に 属 していた 小 幡 氏 と 共 に 妙 義 神 社 や 菅 原 神 社 近 古 明 神 に 名 前 を 刻 んだ 鰐 口 を 寄 進 している 生 島 足 島 神 社 に 小 幡 氏 と 共 に 奉 納 した 起 請 文 にもその 名 前 が 記 されている また 武 田 信 玄 関 連 の 文 書 には 小 幡 高 政 の 名 前 で 現 れてい る 高 政 の 子 の 定 重 は 宝 積 寺 の 裏 山 でお 菊 を 助 けた 後 に 長 篠 合 戦 に 参 陣 し 討 死 している 長 篠 合 戦 では 実 に 多 くの 人 命 が 失 われ その 死 傷 者 の 数 の 多 さは 関 ヶ 原 の 合 戦 に 次 ぐものといわれる 小 柏 氏 系 図 に 定 重 は 長 篠 合 戦 の 時 に 小 幡 大 膳 亮 と 共 に 斥 候 に 出 て 敵 に 見 つかり 囲 まれて 斬 り 死 にしたとある この 小 幡 大 膳 亮 の 名 前 は 小 幡 関 連 の 史 書 や 文 献 の 中 には 見 当 たらない 数 多 い 小 幡 氏 の 諸 氏 の 中 にも 大 膳 亮 の 異 名 をとった 人 物 またはそれら しい 人 物 は 見 当 たらないのである 膨 大 な 武 田 信 玄 関 係 の 文 献 の 中 にも 登 場 していないので 全 く 知 られていない 謎 の 人 物 である この 大 膳 亮 のプロフィールを 明 らかにすることが 出 来 れば 小 柏 氏 系 図 を 別 の 方 向 から 検 討 することが 可 能 となる そこで 大 膳 亮 なる 人 物 につい て 長 年 に 亘 って 調 査 を 続 けていた 唯 一 その 名 前 が 載 っている 書 物 は 比 較 的 早 くに 見 つかった 名 和 弓 雄 氏 の 著 になる 長 篠 設 楽 原 合 戦 の 真 実 がそれである 79 小 柏 氏 系 譜 と 戦 国 武 将

同 書 は 市 販 されていた 為 時 間 もかからずに 入 手 することが 出 来 た 同 書 には 設 楽 原 決 戦 の 前 夜 五 月 二 十 日 深 更 から 日 の 出 前 まで 武 田 勝 頼 は 小 幡 大 膳 亮 に 命 じて 八 剣 山 ( 弾 正 山 )の 敵 陣 地 を 偵 察 せしめた と 記 載 されている 長 篠 設 楽 原 合 戦 長 篠 設 楽 原 合 戦 の 真 実 は 続 いて 次 のように 大 膳 亮 の 行 動 を 記 し ている 大 膳 亮 は 命 を 奉 じて 天 王 山 をくだって 敵 陣 を 窺 ったが 暗 くて 偵 察 でき ないので 傍 らにあった 大 きな 家 屋 ( 住 人 は 避 難 して 人 気 はない)に 放 火 させその 火 光 で 敵 陣 を 望 見 しようとした この 時 監 視 中 の 徳 川 軍 内 藤 金 一 郎 家 長 らが 大 膳 亮 を 発 見 して 銃 撃 を 加 えた 弾 丸 は 命 中 せず 大 膳 亮 は 危 ないところを 逃 れ 帰 り 警 戒 が 厳 重 で 偵 察 の 不 可 能 を 報 告 した 勝 頼 は 怒 って 再 び 偵 察 を 命 じたので 大 膳 亮 はやむなく 再 び 敵 陣 に 近 づ いたところ 銃 撃 されて 二 弾 受 けて 傷 つき 従 者 に 助 けられてやっと 夜 明 け 近 く 本 陣 に 帰 投 した 小 幡 大 膳 亮 は 勝 頼 に 攻 撃 の 中 止 と 敵 から 撃 って 出 るのを 待 ち 受 けて 戦 うよう 諫 言 した もしこの 時 武 田 軍 が 馬 防 柵 に 突 入 することをやめ 織 田 徳 川 軍 出 撃 を 待 って 戦 端 を 開 いていたと 仮 定 すれば 勝 敗 はどう なっていたかわからない 以 上 の 記 事 の 真 実 性 を 検 証 する 術 は 今 の 時 点 ではないのだが 以 下 の 点 が 小 柏 氏 系 図 と 符 合 し 一 致 している 1. 小 幡 大 膳 亮 なる 人 物 は 実 在 していて ある 時 期 武 田 氏 に 属 していた 2. 大 膳 亮 は 長 篠 合 戦 に 従 軍 していた 3. 大 膳 亮 はこの 合 戦 の 際 に 従 者 と 共 に 斥 候 に 出 ている ( 同 行 者 がい た) 4. 大 膳 亮 はこの 斥 候 に 出 た 時 に 敵 に 見 つかり 危 ない 目 にあった 小 柏 氏 系 図 では この 件 を 概 略 次 のように 記 している 小 柏 定 重 は 天 正 三 年 五 月 二 十 一 日 黎 明 の 時 武 田 勝 頼 の 命 により 小 幡 大 80

膳 亮 と 共 に 小 斥 候 に 出 て 敵 陣 に 忍 び 寄 った 時 に 敵 に 発 見 された 敵 は 足 元 から 湧 くように 現 れたちまち 囲 まれた 定 重 は 逃 れ 難 いことを 知 ったが 武 勇 無 双 の 者 ゆえ 闘 志 は 下 がることな く 比 類 なき 働 きをして 討 死 した 斥 候 に 出 た 日 時 は 長 篠 設 楽 原 合 戦 の 真 実 に 五 月 二 十 日 深 更 か ら 日 の 出 前 まで とあり 小 柏 氏 系 図 と 同 じである 敵 に 囲 まれた 後 に 大 膳 亮 がどうしたのかの 記 載 まではない この 系 図 の 記 事 を 一 見 すると 斥 候 隊 は 全 滅 したかの 如 くである だが 全 員 が 討 死 し たと 仮 定 すると 定 重 の 討 死 した 様 子 を 味 方 陣 営 に 伝 える 者 がいなくなっ てしまう また この 斥 候 隊 の 危 難 は 味 方 陣 営 やその 子 孫 には 伝 わらないものにな ってしまう 敵 方 が 逐 一 の 局 地 戦 の 伝 承 を 残 していくことはないだろう 名 和 氏 の 著 書 にある 通 り 何 人 かは 活 路 を 開 き 逃 走 して 大 膳 亮 は 従 者 に 助 けられて 帰 陣 したのであろう もしかしたら 討 死 した 定 重 が 殿 を 務 め 他 の 者 を 逃 がすべく 働 いたので はなかったか 小 柏 氏 系 図 と 名 和 氏 の 著 書 の 相 違 点 は 同 系 図 には 囲 まれ たとあり 氏 の 著 書 では 銃 撃 を 受 けたとしている 点 である 同 系 図 は 小 柏 定 重 の 事 績 を 語 ることを 主 眼 としているのであるから 大 膳 亮 が 銃 撃 を 受 けたことまでは 記 載 しなかった 可 能 性 がある また 銃 撃 を 受 け 逃 走 する 途 中 で 敵 に 囲 まれたとも 考 えられる 或 いは200 年 以 上 に 亘 り 伝 承 されていく 間 に 少 しずつ 真 実 が 忘 れられ 脇 にそれていったのか もしれない 長 篠 設 楽 原 合 戦 の 真 実 の 出 版 は1998 年 である 小 柏 氏 系 図 と 内 容 が 一 致 しているからといって 同 系 図 の 作 成 者 が 同 書 を 参 考 にして 系 図 の 記 事 を 書 ける 筈 もない またその 逆 の 可 能 性 もないよううだ 名 和 氏 は 同 書 の 執 筆 に 際 し 参 考 にした 文 献 を 挙 げておられるが 大 膳 亮 の 記 事 はどの 文 献 を 参 考 にしたの か はっきりした 言 及 はなく 判 然 としない 名 和 氏 は 同 書 の 執 筆 の 前 に 設 楽 原 に 馬 防 柵 を 当 時 のままに 再 現 して 信 長 の 鉄 砲 の 三 段 撃 ちを 検 証 している 長 篠 合 戦 では 武 田 軍 は 鳶 ヶ 巣 山 にも 砦 を 築 いて 名 和 無 理 之 介 ( 宗 安 )などを 布 陣 させていた 81 小 柏 氏 系 譜 と 戦 国 武 将

この 時 無 理 之 介 は 徳 川 軍 の 奇 襲 により 討 死 している 名 和 氏 は 熊 本 に 拠 点 を 持 った 他 上 野 国 の 名 族 ともいわれる ただの 推 測 にすぎないが 名 和 弓 雄 氏 はこの 名 和 無 理 之 介 の 一 族 子 孫 に 当 るのではなかろうか 同 氏 は 歴 史 考 証 家 で 武 道 家 でもあり 幾 つもの 著 書 を 持 っている 同 氏 に 大 膳 亮 の 記 事 が 載 っていた 原 史 料 について 是 非 とも 聞 いてみ たかったが1912 年 のお 生 まれ とご 高 齢 なのでお 尋 ねすることも 憚 ら れた 後 に 同 書 の 出 版 社 雄 山 閣 に 問 い 合 せをしてみたところ 名 和 氏 は20 05 年 頃 に 亡 くなられたとのことだった 執 筆 に 使 われた 原 典 史 料 などについては 今 は 分 からないとのお 答 え だった またこの 時 に 同 氏 は 美 濃 大 垣 藩 戸 田 家 の 家 臣 の 子 孫 だったとい うことも 教 えて 頂 いた 徳 川 家 康 の 闘 将 内 藤 家 長 長 篠 設 楽 原 合 戦 の 真 実 では 小 幡 大 膳 亮 が 偵 察 している 時 に 徳 川 家 の 内 藤 家 長 に 銃 撃 されたと 記 述 している これと 同 様 に 内 藤 家 長 の 記 事 は 三 州 長 篠 合 戦 記 にも 見 られる 以 下 に 引 用 しておこう 少 し 前 敵 の 斥 候 の 三 騎 が 馳 せてきて 味 方 の 陣 営 を 窺 い 見 ようとした ので 徳 川 勢 御 家 人 で 名 のある 内 藤 弥 次 右 衛 門 家 長 同 甚 五 左 衛 門 善 教 は 隠 れない 弓 の 達 人 だから 一 矢 を 射 てかの 武 者 を 驚 かそうと 大 弓 に 矢 を つがえしばし 狙 いを 固 めて ひょうと 切 って 放 つと 矢 は 遠 鳴 りして 飛 ん で 行 き 遠 矢 であるから 敵 には 当 たらなかったが この 弓 勢 に 恐 れて 斥 候 は 逃 げ 去 りました このくだりは 内 容 が 同 じであるから 長 篠 設 楽 原 合 戦 の 真 実 が 記 述 している 大 膳 亮 の 第 一 回 めの 偵 察 のことだろう あまり 知 られていないこの 内 藤 家 長 なる 人 物 について 調 べてみたとこ ろ 内 閣 文 庫 影 印 叢 刊 譜 牒 余 録 中 に 連 綿 と 続 く 長 文 の 記 事 があるの を 見 つけた 以 下 同 書 に 収 載 されている 内 藤 家 伝 を 詳 しく 見 ていくこ とにする 内 藤 家 伝 は 譜 牒 余 録 の 四 十 四 巻 に 載 せられているが 幾 つかの 編 に 82

分 かれている 内 藤 家 伝 庶 流 之 伝 内 藤 家 伝 上 内 藤 家 伝 中 内 藤 家 伝 下 の 五 編 がそれである 内 藤 家 は 平 安 時 代 から 始 まるらしくかなり 古 い 家 柄 であ る 大 織 冠 九 代 の 孫 俵 ( 藤 原 ) 藤 太 郎 の 子 孫 であるとしている 記 述 記 録 は 延 宝 二 年 (1674 年 )まで 以 下 の 記 事 が 書 き 継 がれて いる 藤 氏 の 内 舎 人 の 家 柄 であり この 故 に 内 藤 と 称 するようになった 代 々 朝 廷 に 奉 仕 していたが 元 祖 の 内 藤 検 校 幸 行 俊 が 近 江 国 の 検 校 に 任 じ られた 後 に 鎌 倉 幕 府 に 奉 仕 し 更 に 足 利 幕 府 に 属 したが 浪 々の 身 となり 応 仁 の 末 頃 に 三 河 へ 行 き 徳 川 家 に 属 した 内 藤 家 の 中 興 の 祖 甚 太 郎 義 清 は 西 三 河 の 地 を 掠 め 取 り 上 野 城 に 居 を 移 した 義 清 の 嫡 子 清 長 は 上 野 城 主 を 引 継 ぎ 遠 州 二 俣 の 城 代 に 任 じられ た 内 藤 家 には 弓 の 名 手 が 多 くて 幾 つもの 武 功 を 挙 げたという 内 藤 義 清 は 岡 崎 五 人 衆 と 呼 ばれていた 二 代 目 清 長 は 二 俣 にて 病 死 した が 三 代 目 の 家 長 は 三 州 吉 良 郷 亀 戸 の 本 領 の 他 に 上 総 佐 貫 庄 をも 貰 い 大 身 となったが 伏 見 城 にて 討 死 した 四 代 政 長 は 十 六 歳 の 小 幡 城 攻 めの 時 に 初 めて 首 級 を 挙 げた 朝 鮮 渡 海 の 役 では 大 番 頭 を 務 め 後 に 二 十 四 歳 で 三 万 石 取 りとなり また 家 康 から 岩 城 城 主 に 任 じられた 五 代 目 の 忠 興 は 大 坂 の 陣 の 時 は 家 康 に 従 って 出 陣 し 一 万 石 の 加 増 を 得 て 後 には 九 万 石 取 りの 身 となった 六 代 目 は 義 概 といった 三 代 目 家 長 の 事 績 は 家 長 並 びに 正 成 伝 に 詳 しい 記 述 がある 家 長 は 幼 名 を 金 一 郎 といい 後 に 弥 次 右 衛 門 家 長 と 名 乗 った 石 川 数 正 の 手 に 属 した 家 長 は 騎 射 を 得 意 としていて 家 康 にも 賞 賛 されていた 今 川 氏 真 攻 め( 掛 川 )の 合 戦 では 鉄 砲 に 撃 たれた 内 藤 信 成 の 首 を 取 り に 来 た 敵 を 射 殺 した 天 正 三 年 四 月 の 長 篠 合 戦 の 時 は 勝 頼 が 物 見 を 出 して きて 味 方 を 窺 っていた 家 長 は 叔 父 の 甚 五 左 衛 門 と 二 人 で 出 て 弓 を 射 た 信 長 が 使 いを 送 ってきて この 武 勇 を 褒 めた これは 長 篠 設 楽 原 合 戦 の 真 実 の 記 事 中 の 小 幡 大 膳 亮 が 斥 候 に 出 た ことに 符 合 する 記 述 である ここでは 射 殺 す との 表 現 にはなっ 83 小 柏 氏 系 譜 と 戦 国 武 将

ていないので 物 見 との 小 競 り 合 いの 詳 細 は 不 明 のままである 長 篠 設 楽 原 合 戦 の 真 実 では 大 膳 亮 は 内 藤 金 一 郎 家 長 に 銃 撃 され 被 弾 したことになっている 内 藤 家 伝 では 一 門 には 弓 の 名 手 が 多 かった ( 是 又 射 芸 の 達 人 也 )とあり 家 長 も 騎 射 の 名 手 とある 三 州 長 篠 合 戦 記 にも 敵 の 斥 候 に 矢 を 射 た と 記 されている 三 つ の 文 献 に 大 膳 亮 の 斥 候 の 記 事 が 見 えている 訳 だが この 内 の 二 書 が 矢 を 射 たとあり 一 書 が 銃 撃 と 記 している ( 後 述 する 他 の 一 書 は 銃 撃 と 記 してい る) 名 和 弓 雄 氏 の 引 用 した 原 典 が 明 らかではなく 内 藤 家 伝 にも 銃 のことは 記 されていないことから 銃 ではなく 弓 で 射 たという 方 がより 真 実 に 近 い ように 推 察 される ( 或 いは 二 回 目 の 偵 察 の 時 に 銃 撃 されたのであろうか) 銃 と 弓 の 違 いはあるものの 内 藤 家 長 と 武 田 勝 頼 の 斥 候 隊 との 間 で 小 競 り 合 いがあったことが 徳 川 方 の 資 料 によっても 裏 付 けられることになっ た 後 に 家 康 が 武 田 方 の 遠 州 二 俣 城 を 攻 めた 時 勝 頼 が 後 詰 めに 出 てきた この 合 戦 で 松 平 彦 九 郎 を 射 殺 した 敵 兵 朝 比 奈 弥 兵 衛 を 家 長 は 射 た その まえわ 矢 は 弥 兵 衛 の 鞍 の 後 部 より 弥 兵 衛 と 共 に 前 輪 へと 貫 き 矢 の 先 端 が 白 く 見 えた 弥 兵 衛 の 弟 弥 蔵 が 彦 九 郎 の 首 を 取 りに 来 ると 家 長 は 二 の 矢 をつがえ て 弥 蔵 の 小 腕 を 射 た 二 俣 城 の 城 主 芦 田 下 野 守 はその 二 本 の 矢 を 抜 いて 羽 の 際 より 折 って 書 を 添 えて 石 川 家 成 に 送 った 家 長 は 松 平 姓 を 授 けられたが これを 固 辞 して 名 乗 ることはなかった 家 康 は 後 に 諏 訪 ノ 原 田 中 の 城 を 攻 めたが この 時 家 康 は 自 身 で 物 見 に 出 た 五 ~ 六 騎 を 連 れただけであった 為 敵 がこれを 見 て 襲 ってきた 家 康 は 誰 かあれを 撃 ちとめよと 命 じたが 請 ける 者 はいなかった この 時 に 家 長 が 家 康 の 命 に 応 じて 只 一 騎 馬 を 返 して 矢 束 を 解 いて 散 々 に 敵 を 射 た これに 恐 れをなしたのか 敵 は 引 き 退 いた 朝 比 奈 駿 河 守 が 出 てきて 石 川 伯 耆 守 と 戦 った 際 には 家 長 は 槍 で 朝 比 奈 方 の 二 騎 を 突 き 伏 せて 板 倉 源 十 郎 石 川 三 郎 左 衛 門 に 首 を 与 えたという 尾 州 蟹 江 の 城 に 入 った 滝 川 一 益 を 攻 めた 時 には 内 藤 家 長 酒 井 忠 利 な どが 先 を 務 めた 家 長 は 大 手 口 へ 向 かい 槍 を 脇 に 立 てて 弓 で 敵 数 人 を 射 84

殺 した これに 狼 狽 した 城 兵 は 出 てくることが 出 来 なかった 家 長 は 火 矢 を 放 って 大 手 門 を 焼 き 崩 し 一 番 で 乗 り 込 んで 外 廓 を 乗 っ 取 った この 時 家 長 の 郎 党 は 城 兵 と 数 刻 も 戦 い 多 くが 討 死 した 天 正 十 三 年 には 驚 くべき 事 件 が 起 こった 徳 川 譜 代 の 家 臣 石 川 伯 耆 守 が 家 康 に 背 い て 岡 崎 を 出 奔 し 大 阪 に 行 き 秀 吉 に 従 ったのである この 為 石 川 の 同 心 八 十 騎 が 家 長 に 預 けられた 秀 吉 が 北 条 相 模 守 氏 政 を 攻 めた 時 家 康 は 数 万 騎 を 率 いて 箱 根 山 に 登 っ た 家 長 は 五 十 騎 と 雑 兵 数 百 人 を 前 後 に 立 てて 従 軍 した これを 見 た 秀 吉 は 使 者 をよこしてその 将 名 を 聞 いてきた 家 長 は 弓 を 伏 せて 家 康 の 郎 党 三 河 の 住 人 内 藤 弥 次 衛 門 家 長 と 申 す 者 にて 候 と 答 えた 秀 吉 はその 器 量 骨 柄 あっぱれと 良 将 にあたるといっ て 鉄 砲 三 十 丁 を 家 長 に 授 けた 慶 長 五 年 上 杉 攻 めの 隙 を 狙 い 石 田 三 成 が 西 国 四 国 の 将 を 語 らって 兵 を 起 こした この 時 家 康 は 伏 見 の 城 代 として 鳥 居 元 忠 と 家 長 を 両 大 将 と して 兵 千 人 と 共 に 守 らせた 敵 は 四 万 余 騎 にて 城 を 二 重 三 重 に 取 り 巻 いた 鳥 居 家 長 は 命 を 塵 芥 よ りも 軽 くせしめ 必 死 に 防 戦 に 努 めたため 敵 も 攻 めあぐねた 伏 見 城 の 攻 防 戦 は 七 月 十 九 日 に 始 まり 晦 日 まで 続 いた 外 廓 を 破 られ 火 矢 を 射 かけられた 家 長 は 神 谷 甚 四 郎 に 命 じて 火 矢 を 消 して 回 ったため 門 は 一 つも 焼 けなかった ここに 小 早 川 秀 秋 が 我 儘 な 三 成 の 下 手 につくのも 無 念 と 城 中 に 内 通 した 鳥 井 家 長 は 相 談 して 家 康 の 下 野 小 山 の 本 陣 に 誓 紙 を 送 ったところ 家 康 は 秀 秋 を 許 して 味 方 に 加 えた 小 勢 で 守 っている 伏 見 城 はすぐに 落 ちて も 良 いはずだったが 鳥 居 内 藤 家 長 の 奮 戦 により 持 ちこたえていた その 時 家 康 に 召 し 出 された 深 尾 清 十 郎 という 者 がいた 深 尾 は 甲 賀 の 足 軽 を 預 かっていたが 欲 深 い 男 で 従 僕 に 恨 みをかっていた 城 中 は 飢 餓 に 苦 しんでいたので 深 尾 の 守 り 口 の 塀 柱 の 根 を 切 って 合 図 の 火 を 挙 げて 敵 を 引 き 入 れた 敵 兵 四 万 人 が 一 度 に 攻 め 入 ってきたが 鳥 居 は 真 っ 先 に 進 み 斬 って 出 た 家 長 はもとより 弓 の 達 者 なれば 散 々に 射 て 二 男 の 小 一 郎 は 若 年 なれども 士 卒 に 先 んじて 攻 め 戦 った 松 の 丸 を 焼 かれ 四 方 から 鉄 砲 を 撃 ちかけられ た 家 長 は 矢 玉 も 尽 きて 子 の 小 一 郎 と 一 緒 に 猛 火 の 中 に 飛 び 込 み 灰 燼 と 消 えた 敵 に 首 を 取 られないためである 85 小 柏 氏 系 譜 と 戦 国 武 将

ここに 家 長 は 五 十 五 歳 の 生 涯 を 閉 じた 自 死 すといえども 名 は 後 世 に 残 るのである 鳥 居 衆 四 十 八 騎 家 長 の 従 兵 三 十 六 騎 は 思 う 存 分 働 いて 討 死 した 家 長 父 子 の 遺 骸 は 家 人 と 共 に 猛 火 の 中 より 取 り 出 され 三 井 寺 にて 火 葬 に 付 された 家 長 の 子 孫 は 五 万 石 を 賜 り 江 州 長 浜 城 に 住 み 後 に 奥 州 棚 倉 城 の 城 主 と なった 更 に 武 功 を 奏 して 九 万 石 を 貰 うことになった 上 述 の 内 藤 家 伝 は 延 宝 二 年 の 記 事 を 最 後 に 筆 をおいている 長 篠 合 戦 の 小 幡 氏 小 幡 大 膳 亮 の 名 前 が 現 れているもう 一 つの 文 献 に 東 海 乾 坤 記 がある 同 書 はインターネットに 公 開 されている 著 者 の 天 陽 様 にも 問 合 せをさせ て 頂 いた そこで 分 かったことはやはりというか ある 程 度 予 想 されたこ とだったが 名 和 氏 の 長 篠 設 楽 原 合 戦 の 真 実 を 参 考 文 献 として 執 筆 したとのお 答 えを 下 さった 天 陽 様 は 東 海 乾 坤 記 執 筆 後 に 坂 上 天 陽 のペンネームで 多 くの 時 代 物 小 説 を 書 かれている ここで 小 幡 大 膳 亮 の 名 前 の 追 跡 は 壁 にぶつかり 長 い 低 迷 期 を 挟 むことになった その 後 小 幡 氏 関 連 の 資 料 を 始 めとして 諸 文 献 の 収 集 に 長 い 時 間 を 費 やしたが 杳 として 大 膳 亮 の 影 を 掴 むことは 出 来 なかった ちなみにこの 間 に 渉 猟 しチェックした 文 献 は 次 の 通 り 甲 陽 軍 鑑 信 長 公 記 長 篠 日 記 三 州 長 篠 合 戦 武 田 三 代 軍 記 口 語 文 全 訳 三 州 長 篠 合 戦 記 大 日 本 戦 史 ( 長 篠 戦 争 ) 譜 牒 余 録 上 中 日 本 の 戦 史 三 方 原 長 篠 の 役 三 ( 参 ) 州 長 篠 軍 記 近 世 四 戦 記 録 四 戦 紀 聞 参 州 長 篠 戦 記 関 東 古 戦 録 大 日 本 史 料 (11 24) 理 慶 尼 記 日 本 戦 史 長 篠 役 原 本 信 長 記 の 世 界 三 河 物 語 ( 甫 庵 ) 信 長 記 ( 古 典 文 学 全 集 ) 甲 乱 記 長 篠 の 戦 い( 二 木 謙 一 ) 長 篠 之 戦 武 田 勝 頼 新 三 河 物 語 改 正 三 河 後 風 土 記 増 補 家 忠 日 記 武 徳 編 年 集 成 の 史 的 考 察 武 家 事 記 上 中 ( 長 篠 軍 ) 史 籍 雑 纂 ( 当 代 記 ) 徳 川 実 記 長 篠 合 戦 余 話 甲 斐 国 志 4 5 巻 松 平 記 徳 川 合 戦 史 料 大 成 三 方 原 の 戦 と 小 幡 赤 武 者 隊 上 野 国 小 幡 氏 の 研 究 熊 谷 家 伝 記 4~6 上 野 国 小 幡 氏 の 研 究 ノート1.2.3.4 甲 州 武 田 氏 家 臣 団 86

角 川 日 本 姓 氏 歴 史 人 物 大 辞 典 19 山 梨 県 大 日 本 地 誌 大 系 48 戦 国 遺 文 武 田 氏 編 第 六 巻 新 編 武 田 信 玄 のすべての 家 臣 団 事 典 項 目 武 田 勝 頼 のすべての 家 臣 団 事 典 武 田 勝 頼 と 長 篠 の 合 戦 妙 法 寺 記 高 白 斎 記 勝 頼 夫 人 祈 願 書 王 代 記 豆 相 記 以 上 の 諸 資 料 を 閲 覧 してみたが これだけ 多 くの 文 献 を 調 べても 小 幡 大 膳 亮 の 名 前 を 発 見 することは 出 来 なかった 以 上 の 文 献 のうち 甲 斐 国 志 武 田 勝 頼 のすべての 家 臣 団 などの 幾 つかの 文 献 は 山 梨 県 立 図 書 館 に 協 力 して 頂 いた また 図 書 館 の 佐 藤 さんからは 長 篠 合 戦 に 参 加 した 小 幡 氏 は 信 定 と 信 秀 の 二 人 だけだから このどちらかが 大 膳 亮 ではないかとご 指 摘 を 頂 いた 端 的 に 言 えばそうかもしれないが 信 真 信 秀 兄 弟 は 五 百 騎 を 指 揮 する 侍 大 将 の 地 位 にあり 斥 候 に 出 される 身 分 とは 考 えられない また 大 膳 亮 は 大 膳 亮 共 に 職 名 であり 本 名 ではない とも 親 切 に 言 って 頂 いたが 武 田 信 玄 及 び 勝 頼 の 職 制 の 中 に その 職 名 や 痕 跡 は 見 出 すことができない 武 田 晴 信 ( 信 玄 )も 一 時 期 大 膳 太 夫 晴 信 と 名 乗 っていたがこれは 朝 廷 の 官 位 である 武 田 氏 関 連 の 文 献 ( 甲 斐 国 志 )には 甲 州 小 幡 氏 も 含 まれると 思 われる が 小 幡 姓 の 侍 は 以 下 のように 沢 山 出 ている 甲 州 小 幡 氏 は 勝 間 田 氏 の 出 身 で 信 玄 の 命 令 で 小 幡 姓 に 改 姓 したものである 小 幡 上 総 介 左 衛 門 太 夫 信 実 左 馬 助 高 政 ( 小 柏 ) 信 竜 斎 全 賢 惣 七 郎 弾 正 左 衛 門 尉 信 高 藤 五 郎 昌 忠 藤 十 郎 昌 重 日 意 縫 殿 助 能 登 守 行 実 彦 太 郎 具 隆 三 河 守 信 尚 ( 下 仁 田 鷹 の 巣 城 主 ) 87 小 柏 氏 系 譜 と 戦 国 武 将

弥 三 右 衛 門 弥 左 衛 門 勘 兵 衛 景 憲 ( 甲 州 小 幡 氏 ) 豊 後 守 昌 盛 ( 景 憲 の 父 ) 又 右 兵 衛 ( 又 兵 衛? 景 憲 の 父 ) 勘 兵 衛 尚 縄 ( 甲 州?) 弥 次 郎 在 直 ( 甲 州 ) 小 畑 山 城 守 虎 盛 ( 甲 州 ) 小 畑 山 城 守 虎 繋 ( 甲 州 ) 当 時 の 武 将 は 何 度 か 名 前 を 変 えたものであるが ここにも 小 幡 大 膳 之 亮 らしき 名 前 は 見 当 たらない 考 証 の 参 考 までに 当 時 存 命 していた 主 な 小 幡 氏 の 名 前 異 名 を 表 にし てみた 小 幡 別 名 備 考 重 定 尾 張 守 憲 重 新 龍 斎 信 龍 斎 全 賢 信 真 信 貞 信 実 上 総 守 上 総 介 忠 甫 斎 長 篠 で 負 傷 ( 右 ) 兵 衛 尉 右 衛 門 尉 信 重 弾 正 忠 ( 高 ) 弾 正 左 衛 門 信 高 駿 河 で 討 死 昌 高 民 部 助 民 部 少 輔 信 昌 播 磨 守 長 篠 で 負 傷 上 杉 家 後 最 上 家 に 属 す 昌 定 又 八 郎 三 方 が 原 で 討 死 信 秀 左 衛 門 尉 国 峰 城 落 城 信 氏 弁 丸 彦 三 郎 信 貞 信 定 平 三 駿 河 守 上 総 介 右 兵 衛 右 衛 門 尉 弾 正 忠 ( 七 郎 加 賀 藩 前 田 家 に 属 す 兵 衛 ) 信 久 ( 七 郎 衛 ) 加 賀 藩 前 田 家 囚 獄 加 賀 藩 前 田 家 民 部 直 之 孫 市 孫 一 郎 安 中 野 殿 徳 川 家 上 段 の5 人 は 共 に 重 貞 ( 憲 重 )の 子 で 兄 弟 である 同 様 に 前 田 家 に 属 し 88

た3 人 も 兄 弟 である 小 幡 氏 の 名 前 や 経 歴 は 文 献 により 幾 つかの 異 説 が 唱 えられている 小 幡 氏 次 を 信 真 の 弟 としている 文 献 も 幾 つかある 後 述 する 設 楽 原 戦 史 考 では 諸 文 献 が 氏 秀 と 書 くのは 誤 りで 氏 次 を 信 真 の 弟 として 天 正 17 年 上 野 国 で 戦 死 法 名 宗 三 としている 新 城 市 図 書 館 を 通 じて 設 楽 原 歴 史 史 料 館 長 篠 史 跡 保 存 館 館 長 にも 尋 ねて 頂 いたが 小 幡 大 膳 亮 の 名 前 が 記 載 されている 資 料 には 心 当 たりがない とお 答 えを 頂 いた 上 野 国 小 幡 氏 の 研 究 小 幡 大 膳 亮 のプロフィールを 追 跡 する 旅 は 迷 路 のような 深 い 森 の 中 を さまよっているような 状 態 のままであった そこでつらつら 考 えてみたこ とは 小 幡 氏 の 研 究 者 にお 尋 ねするというものだった 大 氏 族 ともいえる 小 幡 氏 は 記 録 も 少 なく 謎 や 異 説 が 多 い この 小 幡 氏 の 研 究 に 先 鞭 をつけたのが 群 馬 県 古 城 塁 址 の 研 究 などの 著 書 を 持 つ 山 崎 一 氏 であろうか 他 に 白 石 元 昭 氏 の 関 東 武 士 上 野 国 小 幡 氏 の 研 究 があるが 今 小 幡 氏 の 歴 史 系 譜 の 研 究 をしている 代 表 的 なグループは 国 峰 小 幡 会 である 同 会 は 全 国 に 足 跡 を 残 し 膨 大 な 資 料 文 書 の 収 集 を 行 ってその 成 果 を 発 表 している 最 近 では 平 成 18 年 に 上 野 国 小 幡 氏 研 究 ノートⅣ を 発 行 した 大 変 熱 心 な 研 究 会 である 上 野 国 小 幡 氏 の 研 究 ノートⅡ~Ⅲ の 続 編 となるもので 読 者 は 最 新 の 研 究 成 果 をここで 知 ることが 出 来 る 後 世 に 残 る 貴 重 な 文 献 といえる ただ 残 念 なことは 史 料 の 提 示 が 多 く 一 読 しただけでは 意 味 を 取 り 難 い 嫌 いがあり いま 少 し 解 説 を 載 せて 頂 けたら 更 に 良 かったと 思 うのは 私 一 人 だけであろうか ともあれ 微 かな 手 掛 かりを 求 めて 国 峰 小 幡 会 にお 尋 ねさせて 頂 いた やはり 餅 は 餅 屋 ということになろうか 先 の 研 究 ノート に 詳 しい 研 究 成 果 を 発 表 された 斉 藤 氏 にお 尋 ねし たところ 同 氏 から 連 絡 を 受 けた 同 会 の 今 井 氏 から 長 文 の 手 紙 を 頂 くこと が 出 来 た お 尋 ねした 主 な 内 容 は 信 真 或 いは 信 秀 が 大 膳 亮 と 呼 ばれたことがあっ 89 小 柏 氏 系 譜 と 戦 国 武 将

たか 他 に 小 幡 氏 に 大 膳 亮 なる 人 物 がいたかということであった これに 対 し 今 井 氏 は 小 柏 氏 正 系 図 にある 小 幡 大 膳 亮 は 彦 根 藩 史 料 の 侍 中 由 緒 帳 にある 小 幡 大 膳 と 思 われる と 教 えて 下 さった 更 に 井 伊 年 譜 に 出 ている 小 幡 善 左 衛 門 が 小 幡 大 膳 亮 と 同 一 人 か 或 いは 親 子 ではないか と 丁 寧 なご 教 唆 を 頂 いた 井 伊 年 譜 には 井 伊 直 政 附 属 諸 士 上 州 衆 小 幡 善 右 衛 門 ( 本 名 土 肥 )とある 彦 根 藩 の 小 幡 氏 早 速 所 蔵 館 を 調 べ 資 料 を 取 り 寄 せて 紐 解 いてみた 侍 中 由 緒 帳 は 彦 根 藩 史 料 叢 書 の 中 に 収 載 されており 小 幡 大 膳 に 関 する 記 事 は 由 緒 帳 の 第 18 号 の 先 頭 に 記 載 されていた 第 18 号 には 小 幡 氏 を 筆 頭 に 三 百 石 の 将 士 の 名 前 が 九 人 掲 載 されてい る 第 18 号 の 冒 頭 には 三 百 石 小 幡 二 郎 八 と 記 されている この 人 物 が 父 祖 の 来 歴 を 書 いて 彦 根 藩 に 提 出 した 書 類 といえようか その 記 述 から 二 郎 八 は 自 家 の 事 績 を 書 く 際 に 父 の 与 五 兵 衛 が 書 き 記 しておいたものを 資 料 としたようだ 侍 中 由 緒 帳 を 基 に 小 幡 大 膳 家 の 来 歴 事 績 の 概 要 を 以 下 に 示 していこう 小 幡 大 膳 ( 初 代 ) 同 家 の 初 代 は 二 郎 八 の 祖 父 の 小 幡 大 膳 で 別 名 を 実 吉 といった 生 国 は 相 州 土 肥 であり そこに 代 々 居 住 していた 土 肥 は 今 の 神 奈 川 県 湯 河 原 であるという 地 図 で 確 認 すると 今 も 確 か に 湯 河 原 の 駅 前 南 側 に 土 肥 の 地 名 が 見 えている 大 膳 は 武 田 信 玄 に 仕 えていた 後 に 勝 頼 に 仕 え 勝 頼 が 死 去 の 際 に 浪 人 となり 箕 輪 ( 上 野 国 )に 居 住 した その 後 関 ヶ 原 の 合 戦 の 前 に 彦 根 藩 初 代 藩 主 の 井 伊 直 政 に 召 出 され 仕 えることになった 関 ヶ 原 の 陣 の 後 に 助 勢 した 実 績 により 百 石 と 御 蔵 米 五 十 俵 を 貰 った その 後 井 伊 直 継 ( 兵 部 )の 代 になって 地 方 の 百 五 十 石 へと 振 替 になった ( 地 方 の 領 地 を 貰 ったか) この 頃 に 名 前 を 小 幡 大 膳 から 善 右 衛 門 と 変 えた 大 坂 城 攻 めの 際 には 留 守 居 役 を 仰 せつかった 城 方 は 籠 城 し 城 攻 めをすることになり 十 月 末 に 呼 び 出 され 俄 かに 大 坂 ( 阪 )へ 行 った 90

そこで 城 攻 めの 方 法 などを 尋 ねられ 思 うところを 残 らず 進 言 した 大 坂 冬 の 陣 にはお 供 に 加 えられ 夏 の 陣 にも 参 加 して 働 いた 大 坂 から 帰 っ てからは 門 番 頭 を 命 じられたが 暫 くして 病 を 得 て 死 去 した 小 幡 与 五 兵 衛 ( 二 代 目 ) 二 郎 八 の 実 父 与 五 兵 衛 は 別 名 を 実 利 といった 大 坂 冬 の 陣 の 際 には1 7 歳 であったが 無 足 ( 無 給 )でお 供 をした 大 坂 夏 の 陣 を 過 ぎて 切 符 ( 給 金?)を 貰 い 城 中 の 御 番 を 務 めることになった 実 父 の 善 右 衛 門 が 死 去 する 頃 には その 跡 目 を 貰 うということはなく 与 五 兵 衛 独 自 に 新 知 行 として 百 石 を 貰 った この 年 から 郷 中 役 を 三 年 間 務 め た 寛 永 十 一 年 の 上 洛 の 春 から 破 損 奉 行 となり 十 三 年 間 (?) 務 めた 寛 永 十 六 年 八 月 に 江 戸 城 本 丸 が 焼 失 したことにより 二 代 藩 主 直 孝 に 普 請 を 命 じられて 江 戸 へ 行 き 材 木 奉 行 普 請 方 として 働 いた この 頃 は 千 駄 ヶ 谷 の 屋 敷 に 住 み 御 成 御 殿 の 普 請 方 を 務 めた 寛 永 十 七 年 には 将 軍 家 光 が 千 駄 ヶ 谷 の 井 伊 直 孝 邸 を 訪 れた 江 戸 詰 めは 約 三 年 間 に 亘 った 後 に 作 事 奉 行 を 命 じられ 四 年 の 間 その 職 にあった 正 保 元 年 には 普 請 奉 行 となり 二 百 石 の 加 増 を 得 た 三 代 藩 主 直 澄 入 部 の 九 月 には 母 衣 役 とし 陣 場 割 役 を 命 じられた 寛 文 二 年 には 大 地 震 があり 城 内 外 の 石 垣 が 破 損 したため 大 変 苦 労 して 働 い た この 為 褒 美 として 加 増 五 十 石 を 貰 うことになった 寛 文 十 二 年 の 冬 には 普 請 奉 行 の 職 を 解 かれ 足 軽 頭 を 命 じられた その 後 隠 居 を 申 し 出 て 許 された 十 七 歳 で 召 し 出 され 三 十 の 年 より 七 十 五 歳 まで 隙 間 もなくお 役 に 付 き 働 いた 頑 健 な 為 か 病 気 にもならず 一 日 も 欠 かさず 奉 公 が 出 来 た 小 幡 二 郎 八 ( 三 代 目 ) 二 郎 八 ( 由 緒 書 提 出 者 )は 父 与 五 兵 衛 が 書 いて 置 いたものに 自 家 の 来 歴 を 書 き 加 えて 侍 由 緒 帳 を 提 出 した 二 郎 八 は 別 名 を 実 和 といって 寛 文 元 年 四 月 頃 より 子 供 並 奉 公 として 召 し 出 された 延 宝 六 年 に 当 代 の 直 興 の 中 小 姓 を 命 じられ 貞 享 二 年 に 新 知 行 を 百 五 十 石 を 貰 うことになった 勤 めにより 江 戸 との 間 を 往 復 すること 五 度 に 及 ん だ 元 禄 元 年 二 月 に 実 父 与 五 兵 衛 の 跡 目 三 百 五 十 石 の 継 承 を 許 された 三 代 目 二 郎 八 も 与 五 兵 衛 を 名 乗 っていたようだが 元 禄 十 六 年 七 月 二 十 日 に 病 死 した 91 小 柏 氏 系 譜 と 戦 国 武 将

実 和 は 家 族 五 人 で 彦 根 に 居 住 していて 他 に 若 党 二 人 草 履 取 二 人 中 間 四 人 召 使 女 六 人 が 居 たと 言 う かなりの 家 格 格 式 を 有 していたよ うだ 系 譜 の 説 明 は 延 々と 続 くため 四 代 目 よりは 概 要 を 示 していこう 四 代 目 も 与 五 兵 衛 を 名 乗 り 別 名 を 知 虎 という 父 の 知 行 のうち 三 百 石 を 貰 うことになった 宝 暦 十 年 に 居 宅 から 出 火 した ( 四 代 目 からは 当 主 が 自 分 の 系 譜 を 書 き 継 いでいる ) 五 代 目 は 与 茂 八 で 別 名 は 実 忠 という 知 虎 の 弟 だったが 養 子 になり 中 小 姓 となった 知 行 は 七 十 俵 六 人 扶 持 後 に 跡 目 相 続 した 六 代 目 は 富 八 で 別 名 は 実 梢 である 安 永 四 年 に 与 五 兵 衛 と 名 を 改 めた 安 永 五 年 に 日 光 参 拝 の 際 には 騎 馬 でお 供 に 加 わった 天 明 四 年 に 弓 足 軽 二 十 人 を 預 けられた 七 代 目 は 二 郎 八 で 別 名 は 実 昌 というが 養 子 であった 後 に 与 五 兵 衛 を 名 乗 った 更 に 与 茂 八 と 名 を 変 えた 八 代 目 は 肇 で 別 名 が 実 豊 で 養 子 である 後 に 昇 と 名 を 改 めた 九 代 目 は 膳 太 で 別 名 は 実 美 である 後 に 名 を 二 郎 と 改 め 更 に 与 五 兵 衛 と 改 めた また 肇 と 名 を 改 めた 十 代 目 は 二 郎 八 で 別 名 は 実 之 といい 養 子 である 明 治 元 年 十 一 月 二 十 九 日 お 役 御 免 となる 同 日 に 軍 務 局 三 等 執 事 銃 手 組 頭 となる 侍 由 緒 帳 は 彦 根 藩 の 第 五 代 目 の 藩 主 井 伊 直 興 が1961 年 頃 に 編 纂 を 始 めたとされている 由 緒 帳 には 小 幡 大 膳 は 上 野 国 箕 輪 ( 以 前 は 長 野 業 正 の 居 城 )で 井 伊 直 政 に 召 出 されたとある だが 直 興 は 由 緒 帳 の 編 纂 を 始 める5 年 ほど 前 に 貞 享 異 譜 を 編 纂 したといわれている 同 書 によると 大 膳 は 箕 輪 ではなく 高 崎 で 召 し 出 さ れたと 記 されているという この 貞 享 異 譜 は 現 在 のところ 所 在 不 明 となっていて 閲 覧 すること が 出 来 ない しかしながら 侍 由 緒 帳 は 江 戸 時 代 を 貫 いて 書 き 継 がれてお り それも 武 家 の 当 主 がそれぞれ 書 き 継 いでいることから こちらの 文 書 の 方 がより 大 きな 文 献 資 料 を 形 作 っている 箕 輪 城 がある 箕 輪 には 武 田 の 遺 臣 が 戻 って 来 ていたと 考 えられる 上 に 史 料 的 にも 信 頼 性 が 高 い 思 われる 由 緒 帳 の 方 が 正 しい 記 録 であろうと 推 92

量 される ともあれ 侍 由 緒 帳 に 小 幡 大 膳 は 武 田 信 玄 に 仕 え 後 に 勝 頼 に 仕 えた と 記 録 があることからこの 人 物 が 小 柏 系 図 にある 小 幡 大 膳 亮 と 推 考 される 定 説 では 武 田 家 滅 亡 後 属 していた 将 士 の 悉 くは 徳 川 家 に 属 したといわ れる 井 伊 直 政 は 関 ヶ 原 合 戦 の 前 に 家 康 によって 滝 川 一 益 が 去 った 後 の 箕 輪 城 十 二 万 石 の 城 主 に 任 じられている 後 に 箕 輪 城 下 の 住 民 と 共 に 高 崎 に 移 ったとされている このことから 高 崎 召 し 出 し 説 も 生 まれたのであろう 当 初 侍 由 緒 帳 を 見 た 時 は 小 幡 大 膳 は 相 州 土 肥 に 代 々 居 住 とあり 上 野 国 小 幡 氏 との 乖 離 があるように 思 われ 違 和 感 が 否 めなかった しかしその 後 調 査 を 続 け 武 蔵 国 にも 幾 つかの 小 幡 氏 の 足 跡 があること が 分 った 新 編 武 蔵 国 風 土 記 を 見 ると 八 王 子 に 小 幡 泰 久 川 崎 小 田 に 小 幡 源 太 郎 川 崎 蟹 ヶ 谷 に 小 幡 正 俊 の 足 跡 が 記 されている 上 野 国 小 幡 氏 の 支 族 が 相 州 にあっても 何 の 不 思 議 もないということに なろうか 続 く 93 小 柏 氏 系 譜 と 戦 国 武 将